徒然日記
2007年4月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


4/30(月)振り替え休日  快晴  病棟拘束   
2:30起床、ドック判定総括、新聞チェック、雑誌など読む。5:20病院着、未読の医学雑誌、音楽関係雑誌、文藝春秋等開封、ほぼ半年分。8:30救急カンファ。書類、画像など廃棄、整理。古いパソコン2台、Colour Classic?、Perfoma5220と周辺機器処分。机上周辺がやっと足の踏み場が出てきた。12:00帰宅、長男帰秋。持参の書類処理、ハーレーを陽のもとに引っ張り出し車検受けの準備、更に錆びて一層ぼろぼろになっていた。徒然など。17:30午睡、19:00夕食、20:00就寝。

ロストロポービチ氏が死去(2) 私はチェロに関して氏の隠れ弟子なのだ 
 ロシアのチェリスト、指揮者のM・ロストロポービチ氏が死去された。
 私はあまりにも恐れ多くて他言はしていないが、チェロに関して氏の隠れ弟子なのだ、と思って来た。だから氏の死は一入残念に思うが、80歳でもあり悪性疾患を患っていたとのことだから納得せざるを得ないだろう。

 氏は私が音楽好きになった頃から既に世界的チェリストとしての評価を得ていたように思う。レコードの発売量も少なく、演奏家についての情報が少なかった当時、チェリストはカザルスと氏の他にはフルニエ等、せいぜい10名ほどしか知らなかったが、氏の音楽性、演奏技術は当時から別格とされ、私もレコードを好んで購入したし、FMエアチェックもした。

 私は30代後半に念願であったチェロを初めて購入したが、その際、楽器を買っては見たものの教則本だけでは何ともならず直ぐに壁に突き当たった。折しも、当時まだ一般に普及していなかったレーザーディスクで氏の弾くドヴォルザークのチェロ協奏曲が発売になった事を雑誌で知り、これで何とかなるかも、と即購入した。レーザーディスクの再生装置を手に入れたのはその後1ヶ月ほどしてからであったが、連日参考になる場所をスロー再生、リピート再生させながら穴が開くほど画面を見つめ、真似したものである。その後、オペラなど種々のディスクを購入したが、集中的に観たのは氏の版だけであった。

 実際には氏の画像から学ぶ事はあまり多くなかった。氏の演奏スタイルは氏独自のものであり、教則本とは大幅に異なっていたからである。それでもそんな風にして練習したので私は勝手に氏の隠れ弟子と称している。

 私は一度も氏の実演を聴いたことはない。聴けるハズであった唯一の機会は飛行機の運休で流れてしまった。小澤、新日本フィルとの協演で協奏曲3曲の演奏会で、チケットを購入し、午後の便で発ち、夜行で帰秋する予定にしていたが、旧秋田空港に飛んで来るべきハズのYS-11が関東地方の天候不順のために運休し実現しなかった。これもしっかり思い出となっている。

 波瀾万丈であった氏の人生を想い、心からご冥福を祈りたい。


4/29(日)昭和の日  曇り→晴れ  病棟拘束  FF tennis 
 2:30起床、ドック総括x1、新聞チェック。紹介状返事等、持参の事務数件処理。5:10病院。回診。文献整理。8:30-9:30救急カンファ。10:00帰宅。新聞チェック。13;00-16:30 FF tennis、6-3、7-5,4-6と何とか白星。17:00-19:30病院、、20;00帰宅、夕食、20:40就眠。

自伝・中通病院(14) 私は歓迎されていなかったらしい(3)
 私が歓迎されなかったらしいことの理由は、一つは私の赴任が大学第三内科の関連病院の拡張方針に添ったものであるかのごとくの誤解があったこと、もう一つは私自身の性格的問題点が理由としてあげられたらしい。前者に関しては院長に「私の赴任は個人的なもので医局は無関係で、第三内科から人的援助は全くありません」とはっきり伝えて了承を得ていたが、うまく伝わっていなかったらしい。

 第二の私自身の問題点について言えば、私はいろいろ、例えば気が小さく言いたいことも上手く表現できないとか、一見当たりが良いように見えるが真から協調性があるとは言えず孤立を求める性格だとか、若干主張はするが論争を嫌って本心を隠して直ぐ相手に同調するとか、問題は無いわけではないが、集団の中で責任を果たすという意味では常識的な範囲に何とか収まると思っている。しかし、同僚達には必ずしもそう見えていなかったかもしれない。大学の医局会である同僚が「福田先生の意見も聞きたい・・・」と発言したのに対して別の同僚から「福田先生の意見なんて常識的でないから聞くだけ無駄・・・」と発言を遮られたことがある。このとき私は一種の評価をもらった、と嬉しくなったものである。

  マア、いろいろ凸凹のある個性の頂点だけを並べてつなげれば変な人間像が出来上がるが、そんなことで大きく(?)誤解されて伝わっていたのかな、と思っている。
 赴任後しばらく経ってからの病院の医局会では、私を民医連的でない、と批判めいた評価を受けたこともあった。その時は、全員が民医連的であったらこの病院はダメになるんじゃないですか、と居直った返答をした事を覚えている。

 そんなこともあって、私は仕事を進める上で気に入って長く居着いてしまったが、つい最近まで外様的感覚でしっくりしないものを感じていた事は確かである。


4/28(土)晴天 病棟拘束 ドック診察  歯科受診治療
2:30起床、ドック総括x1, 病院委員会原稿提出終了し、ホッと開放感味わう。新聞チェック等.その他。5:00病院へ。事務処理、6:30回診その他。8:00ドック診察・面談。8:30医師来訪面談。以降は患者関連書類の整理。医局文献整理、廃棄。15:30-16:30歯科医院にて治療。20:00帰宅、夕食、21:00就眠。

チェリストで指揮者のM.ロストロポービチ氏が死去(1) 「巨星墜つ」 
 現代を代表するロシアのチェリストで指揮者でもあるM・ロストロポービチ氏が27日死去された。享年80歳。卓越した技量と強烈な個性を備え持つことから氏の死は「巨匠の時代の閉幕」、「巨星墜つ」と表現するのが相応しいと思う。

 氏は現アゼルバイジャンの首都バクーに生まれ、モスクワ音楽院でチェロと作曲を学び、40年代後半に各地の国際音楽コンクールで優勝、カザルスを継ぐチェロの巨匠としての地位を確立した。60年代後半から指揮でも活躍し、小澤征爾氏と親しく、親日家で来日も数多い。チェロに興味がある方で氏の存在を知らない方は恐らく居ないだろう。 

 彼は単に音楽的に優れているだけでなく、政治的運動にも積極的であった。これもすごいことと思う。70年代に人権や芸術表現への締め付けを批判して当局と対立して家族と出国、ノーベル賞作家ソルジェニーツィン氏を自宅にかくまったことで78年にソ連市民権を奪われたが、ペレストロイカと共に90年に回復したと言う経歴を持つ。91年8月の旧ソ連クーデター未遂事件では、エリツィン大統領らとクレムリンに立てこもった。その盟友エリツィン氏が逝って4日後に波乱の生涯を閉じた。 

 氏は昨年9月にショスタコービチ生誕100年記念演奏会を指揮した後、体調を崩され、今年2月にモスクワのがん関係の病院で手術を受け、3月に退院、4月12日に再入院していたとのことである。

 ヒトはどんな人生を過ごしたかにかかわらず、必ず死ぬ。そうと分かっていても偉大な才能を持つ方々が亡くなる度に、私は心から惜しいと思う。じゃあ、才能が無ければ死んでも惜しくないのか?と言うことになるから、惜しくとも等しく容認せざるを得ない。その才能は後継者に綿々と継がれていくことで生き続けるし、活躍は記録としても残っているし、・・・と納得せざるを得まい。

 私は、あまりにも恐れ多くて他言はしていないのであるが、チェロに関して氏の隠れ弟子なのだ、と言う妄想を持っている。だから、一入惜しいのだ。


4/27(金)秋田・東京晴れ   日医病院委員会  法人理事会(欠) 
2:00起床。本日の病院委員会原稿と格闘。5:15出勤。6:30回診、病棟業務+出張準備。8:00病院委員会原稿送付。8:50医師会公用車にて空港へ、9:55JAL  A300-600後席付近は30%ほど。浜松町でJAL帰路の件購入出来た。13:30-16:00日医病院委員会。報告文比較的好意的に受け止められた。18:00JAL、MD-90残2席のみでその2座席占拠、快適。19:00秋田着,リムジン→Taxi 20:30帰宅、夕食、21:30就眠。

医師不足(2)絶対的不足と偏在のダブルパンチ  日医に方向転換を望む
 医師不足を論じる際の客観的指標としてOECD加盟諸国間の医師数の比較は有用である。OECD加盟国の医師数の平均は310人/10万人で、日本は200/10万人である。この医師数の違いは各国毎の独特の医療事情を勘案してもわが国の医師数は明らかに少ない、と判断出来る。

 目を国内に転じた場合、平成9年に閣議で医師数が将来過剰になると言う予測をもとに、引き続き医学部定員の削減に取り組む、との決定がなされた。この場合、何をもって医師過剰になるとの予測をしたのかが問題であり、その後医師問題が次第に明らかになりつつあったのに、10年以上も再検討されてこなかったことは重大である。

 医師が決定的に不足していた昭和45年頃には、わが国に必要な医師数を150人/10万人と設定し、いわゆる「一県一医科大学」構想を推進し医師の充足につとめた。医師の数的充足が喫緊の目標であった当時は、徐々に医師数が充足して来たという実感はあったが、ここ10年近くは人口10万人あたりの医師数が170人、180人と増えつつあったのに、医療の現場では医師不足感が払拭しきれなかった。最近、医師数が200人/10万人にも達したが医師不足問題は一層顕著になってきた。
 これは、時代と共に、医療の質が変わり、医師・患者関係も変わり、医療制度が変わっただけでなく、女性医師の増加、医師の個人的なライフスタイルが多様化していく時代を迎えた事の関連している。その変化を評価分析することなく単純に医師数だけで医療供給のレベルを論じようとした、時代錯誤的な判断基準がもたらした結果である。机に向かって、図表を見ている連中に真の医療の姿が分かるはずはない。

 問題になっている医師不足、地域偏在、特定診療科医師の偏在・不足といっても各都道府県によって事情は大きく異なっており、さらに各都道府県内においては二次医療圏毎に大きなバラつきの問題を抱えている。即ち、多くの道県では道庁・県庁所在地では、医師は数の上では足りているものの、勤務医不足、特定診療科医師の偏在・不足が深刻となっており、郡市では医師の絶対的不足が相変わらず未解決である。

  我が国の医師不足を解決するには、何はさておき医師の絶対数の増加が必要である。日医は過去を精算し、早急に方向転換すべきなのだ。


4/26(木)曇・雨 桜満開  地獄の外来
 
2:20起床。ドック等業務ほか,徒然。5:10病院着,6:30回診。8:00救急カンファ。8:45-15:00午前外来、連休前で超超混雑。患者・医療関係者双方にとって最悪日。待ちくたびれて不機嫌な患者を、疲弊した看護師・医師が取りなす診療風景。ドッと疲れが出る。外来後は幸い対外的スケジュール無く、明日の病院委員会の分担文章作成に集中した。21:30帰宅、夕食、22:20就眠。

医師不足(1) 
日本医師会『グランドデザイン2007--総論』の医師対策部分は疑問

 最近、日本医師会の動きがあわただしい。市民公開講座、日医総研セミナー、シンポジウム・・など次々に開かれている。来月も数件の企画が予定され、県医師会に動員要請がきている。

  今月、日医は日本のあるべき医療の姿を記述した『グランドデザイン2007---国民が安心できる最善の医療を目指して---総論』を公表した。その中で多くの視点からあるべき姿が論じられている。おおむね納得できる内容であるが、医師不足対策の部分の扱いは小さく、更に論旨に納得できないものがある。

  今、社会問題になっている、多くの地域の医師不足と、特定の診療科における医師の不足の原因は、医療費抑制の立場のみから医師養成を抑制してきた結果であることは、地域の医療をあずかる医師の立場から見て明確である。しかし、一般的には医師の絶対的不足ではなく、偏在が問題なのだ、と捉えられている。日医も従来からそのような見解を採ってきた。
  
日医はその前に、昨年10月、「医師確保に関する見解」を公表した。その中で、医師偏在・不足の原因を、「国による永年にわたる医療費抑制政策の結果」と断じたことは当然のことで評価できる。しかしその中で医師が絶対的に不足しているから養成数を増やすべき、とは述べていない。

 一方、日医は『グランドデザイン2007- ---総論』の中で一項目として国際的視野から見たわが国の医師確保の問題についても論じている。まず、我が国の医師数をOECD加盟国のそれと比較し、OECD加盟国の医師数の平均は310人/10万人で、日本は200/10万人であり、日本の医師数は経済力に比してかなり少ないと評価している。ここまでは良い。
 問題は、そう言いつつも、医療費を据え置いたまま医師数を増やす施策は、医療の質を確保するという観点からも行うべきではなく、総医療費支出の増加が前提である、と論じている。この部分には矛盾がある。

 医師数をOECD諸国と比較し、不足しているという判断は十分納得できる見解であるが、医師養成の増加策は総医療費の増加を見てからという見解は、医療現場の医師不足の深刻さをくみとった考え方とは言えないばかりでなく、医療の質を確保する観点から行うべきでないと美しい言葉を並べてはいるが、裏を返せば、既得権、特に医師の収入確保に固執している、とも取られかねない。私にはそう感じられる。

 だから、日医の医師対策は私にはにわかには賛同出来がたい考え方である。
 大体、医療費抑制策を前面に出しているわが国が、簡単に方向転換するとは考え難いし、例え変換したとしてもレベルの問題がある。10%近くも総医療費を増やす状況を得てから医師増加策の実行を迫ると言うのだろうか。医師の養成には最低10年は必要である。医療現場はもう待てない、そんな余裕はない、のだ。『グランドデザイン2007---国民が安心できる最善の医療を目指して-』の副題にある「最善の医療を確保する」には医師の絶対数の増加が必要である。まず、日医が方向転換すべきである。その際、既得権の擁護に固執するようでは、社会の誰も支持しない。ますます孤立するだけである。


4/25(水)小雨  外来 県医師会理事会 
2:00起床。ドック等業務、ほか。5:10病院着,6:30回診、病棟業務。8:10救急カンファ、8:45-14:30外来。16:30-19:30理事会、新入院あり1時間遅れて出席。再度回診他。21:20帰宅、夕食、22:00就眠。

外来カルテB5→A4への私の転換作業が受け入れられない 
 当院の外来カルテはB5版であったが、昨秋から時代の趨勢に合わせてA4版に移行しつつある。

 当院の外来カルテは一患者一カルテ方式で全診療科、全医師が使用する。原則的に途中で更新することはなく、長期間用いるタイプであるが、頻回受診で厚くなった場合、劣化した場合などは適宜更新しNo2カルテ、No3カルテとリニューアルしている。その作業は煩雑で結構大変であるが、新しいのに更新するとカルテが薄くなり、外来診察の能率も上がる。

 私は製本等の作業が好きなので、診療途中で気になったカルテは借用しておき、仕事の合間などに気分転換を兼ねてせっせと更新してきた。だから、私が担当する外来のカルテは大部分、薄くて軽い。
 中には私の目から見て驚くほど厚く、かつ劣化したカルテも流通しているが、私が診療していない患者の場合には手を付けたくとも我慢している。ホントは喉から手が出かかるのだが、我慢である。一方、見直すこともないであろう古い部分が厚く付いたままのカルテでよく診療できるものだと、その包容力に感心する。

 昨秋から始まったA4版化の作業は作業結果が目に見えるし、診療時の記載も楽になるから私は喜々として作業してきた。もう200冊以上更新した。B5版のカルテをA4版の台紙へ合本するのだからサイズ差による段差が出るのは当然である。私は殆ど問題にしないが、この段差が他の医師や医事課職員にかなり評判が悪いらしく、カルテ伝票委員会で話題となり、先週作業差し止めとなった。

 病院の方針ではA4カルテの後ろのポケットにB5カルテを挟むことにするとのことであるが、これだと一日に50-60人も診察する私の外来では非能率で耐え難い。私がやっている更新方法が最善と信じているから実に残念至極である。
 段差が少なければいいのであれば、作業は若干複雑になるが、そのようにも対応できる。再度、委員会に提起して更新許可を受けようと思っているが、今までの雰囲気では私の希望は通りそうもない。
 仕事の合間のストレス解消のための、ちょっとした私の楽しみが一つ減りそうである。


4/24(火)晴れ  外来 常務会 医局MC 医局歓迎会
2:00起床、ドック総括処理x1、紹介状、校正、その他。5:10病院.6:15回診他。8:00救急カンファ、8:45-14:20外来、14:30-16:15常務会、17:30-16:45医局カンファは菅原美砂医師の「国境の無い医師団」活動報告。19:00-19:45医局歓迎会、多忙で中座し病院に、業務進める。21:50帰宅、22:30就眠。

「赤ちゃんポスト」はいい。国は「ジジ・ババポスト」的発想も持て
 国も、自治体も、子どもを抱えて悩んでいる人たち、特に不幸な妊娠・出産を経た女性達に冷ややかである。どうしても育てられない人達は現実にいる。生まれたばかりの赤ちゃんが、道ばたで死んでいく悲惨な現実がある。
 熊本市の慈恵病院は新生児を匿名で預かる国内初の「赤ちゃんポスト」を準備している。慈恵病院は病院創立100年、100床前後の中小病院であるが、創立時からキリストの愛と献身の精神を信条としているとのことである。赤ちゃんが置かれるとカメラとブザーが作動し、スタッフが駆け付ける仕組みなのだそうだ。赤ちゃんのその後について、人権の確保等について、病院は一層艱難をかかえることになるだろう。その詳細は知らないが、私はとても良い試み・決断だと思う。脱帽である。

 赤ちゃんポストは2000年にドイツで始まったが、捨て子を助長する、と根強い反対があった。日本でも、同じような心配をする人が少なくない。しかし、気楽に捨てる親は居ない、と私は思う。
 厚労省は「法的に見て反対するものではない」と言い、首相も、「匿名で子どもを置いていけるものをつくるのがいいのかどうか」と相変わらず何を言いたいか分からないコメントを出した。赤ちゃんを捨てる以外の選択肢は無い、そう考えなければ生きていけない、死なねばならない様な運命の赤ちゃんが生まれてくる様な、格差社会を作っておきながら、恵まれた人達は、みんな無責任な評論家で、勝手なことを言う。

 日本の政府・厚労省がずっと採ってきた高齢者軽視の政策は、何とも悲惨である。国は高齢者に対して「赤ちゃんポスト」的発想すらも欠如した冷ややかな姿勢をとり続けている。
 病弱で不自由で、独居や老老介護で、到底自活できない様な高齢者を病院から追い出せ、施設に回せ、自宅に帰せ、リハビリは終わりだよ、と言う。何らそれに見合う環境を整えず、国は政策を次々と提起し、高齢者の生活をどんどん締め上げて来る。

 とても帰せない、そんな患者を抱えて全国の心ある医療機関は四苦八苦している。
 「赤ちゃんポスト」に私は暖かさを感じる。高齢者対策には冷ややかさを感じる。国は暖かい「ジジ・ババポスト」的発想を持って欲しい。国は自らの使命を放棄している。


4/23(月)晴れ  管理会議  安全管理者と打ち合わせ  療養病棟判定会議 長副会議 
2:10起床。ドック総括x1、紹介状等。5:10病院.天徳寺ガードの桜、五分咲きで毎朝が楽しみ。6:00回診等病棟業務。7:45-8:35管理会議,10:00-11:00医療安全管理者と打ち合わせ。16:00-16:50療養病棟判定会議、対象者5名。17:00-20:00長副会議。この間新入院2名あり対応。21:30帰宅、夕食、22:10就眠。

ノロウイルス対策(8)  いつも迷う、水洗トイレのノブ  
 ノロウイルス感染症は昨年暮れから新年にかけて猛威を振るった。自然界に排出され、感染力を持ちながら残っているウイルス量はかなり増えたと思われ、これから恐らく通年型の感染症の位置を占めるものと思われる。激しい症状を出したか否かは別に感染者は2週間以上、時には一ヶ月以上も便にウイルスを排出し続けるとされる。

 昨日の救急外来にはこのウイルスによる食中毒と思われるそれらしき胃腸炎の患者が10数人受診した。これからもこの様な形で時々発症し続けるだろう。食材自体にウイルスが含まれることは貝類が有名であるが、最近の食中毒はそれよりも調理の過程等でウイルスが手指を介して付着したと推定されるのが大部分である。

 激しい症状を出したか否かは別に、感染者は2週間以上、時には一ヶ月以上も便にウイルスを排出し続ける。不顕性感染者もかなりの数が居ると推定されるがそれを示すデータは無いようである。
 だから、不特定多数の人が出入りする場所のトイレは感染伝播の場になっていると推定される。恐らく、トイレに入ってから出てくるまでの間の各人の行動は幼少の頃からの習慣でバラバラであろう。しかし事が事だけに確かめようもない。

 私がいつも、心配しているのは水洗のノブの扱いである。いろいろなタイプのノブがあるが、タンク式の小さなノブはまず心配はない。問題なのは水道パイプに直結型の水洗トイレの、横に出ている10cmほどのノブである。高さから言って、サイズから言って微妙な場所にある。足で操作するのも不可能ではないからである。親しい男性の知人数名に聞いてみたら、足で押す人が二人いた。約半々であった。これではトイレ全体の清潔度は全く信用できないと言うことになる。この辺のところを大がかりに実態調査してはどうだろうか。とにかく、トイレで何かを触ったら手洗い、手洗いである。

 私は、トイレットペーパーを介して手で押しているが、正直言って足で押したい誘惑にも駆られる。清潔維持という面からは足で押すのが正しいように思えるからである。あのタイプはノブの場所、形を変えるべきだと思う。
 女性は、まさか足で押すことはなかろう、と私は思っているのでまだ誰にも確かめて居ない。私にとっては全く未知の世界であり、知りようもない。知るのも怖い気がする。だから、コメントできない。


4/22(日)降雨  病棟拘束 FF tennis中止  花見
5:00起床。徒然。ドック総括処理、紹介状、簡易保険診断書x2。11;00-12:20午睡、FF tennisは雨で中止に。秋田産業保健推進センター機関誌巻頭言最終チェック、投稿等、16:00-19:00病院、書類処理。19:30千秋公園にて花見。20;15車やにて夕食、21:00帰宅、就眠。

自伝・中通病院(14) 私は歓迎されていなかったらしい(2)
 就職した年の冬に大曲に赴任したが、ここでは職員数は少なく、殆ど顔の見える距離にいるから、比較的早くうち解けることも出来た。中通病院で同じ部屋でありながら、それまで殆ど言葉を交わしたことのなかった中堅医師とも短期間大曲中通病院で一緒に仕事したが、そこで初めて会話らしい会話をすることも出来た。この間、多くのスタッフから病院や法人の歴史、職場内の人脈や人間関係などに関するいろいろな情報を知ることが出来た。必ずしも興味を惹くものではなかったが、自分の位置づけをさぐるためにはいろいろ参考になった。

 その中で知ったことは、私の赴任は院長が一人で勝手に決めたことになっていて、医局や病院の一部から中通病院で採用するよりは、中通リハビリテーション病院とか大曲の病院の内科医として採用してはどうかという意見が出たらしい。どの程度の話題になったのか今となっては知るよしもないし、興味もないが私の赴任は中通病院ではあまり歓迎されていなかったらしい事が分かった。そう考えれば何となく赴任後しばらく感じた違和感は理解できるような気がした。この話を聞いた時はさすがにちょっとガックリ来たが、自分の立場がより明らかになったようで、それ以降、私はむしろ居心地は良くなった。

 私が歓迎されなかったらしいことの理由は、一つは私の赴任が大学第三内科の関連病院の拡張方針に添ったものであるかのごとくの誤解があったこと、もう一つは私自身の性格的問題点が理由としてあげられたらしい。前者に関しては、大学の教授、医局自体にそんな考えや方針がなかったこと、私は正真正銘個人的な赴任であること、私を雇っていただいても大学からの人事的応援は全く期待できないこと、を院長にはハッキリと申し上げていた。もとより私は前から、一定の経験を重ねた医師は大学の医局の人事からは離れて行動すべきと考えており、それを実践したに過ぎなかった。しかし、院内ではそのようにはとらえられなかったらしい。


4/21(土)降雨  病棟拘束  活き活き健康フェア  夜半患者死去 
2:15起床。ドック判定総括、紹介状返事。5;10病院着、事務処理、6:30回診、8:30救急カンファ。10:00-14:30市民市場にて活き活き健康フェア。病院にて業務。19:45帰宅。夕食、21:00就眠。23:30病院より連絡、再出勤、0:15重症患者死去、3:00お見送りし帰宅。3:30就眠。

「活き活き健康フェア」  私も各種測定を試みた
 本日は秋田市民市場のイベント広場での当院の「活き活き健康フェア」が行われ、医療相談を担当した。この「健康フェア」は当院が一昨年創立50周年記念を迎えたことを機会に「市民に身近な、ひらかれた病院」を目指し、市民とのふれ合いの場を継続的に持つことを目的に第三土曜日、10:00-14:00に開催されている。今回は5回目ほどにあたる。場所は市民市場側のご厚意で提供受けている。

 秋田市民市場は長い間秋田市の台所として市民から慕われていたが、建物の老朽化、市民の嗜好の変化等で客足が減ってきた。そのため、全面改築を行い、平成14年12月に一部がオープン、平成15年6月にグランドオープンした。駐車場も388台となり、リニューアルを機に日曜営業や即日宅配業務及び電話注文宅配などで一層利便性を高めた。営業は市場らしく5:00-18:00で日曜だけ8:00からとなっている。

 私は通勤時に時折市場の前を通過しているが、再オープン後入ってみるのは初めてである。改装前より売り場面積が増えたのか、出店数が減ったのか分からないが、通路も広く全体にゆったりとなった。通常のスーパーなどとは雰囲気が異なり活気がある。だから、高齢者はより好むだろうし、若者は嫌うのかもしれない。やはり、客は高齢者が圧倒的に多い。

 本日は雨と言うことで人手は少ないと言うが、結構な人出で相変わらず市民に親しまれている様である。これほど食品がリッチに並べられ、店の脇を通る度に声がかかるが、これじゃ市民がぶくぶくと肥るのも無理がない、と思った。健康自己管理には、如何に財布の紐を締め、食欲の誘惑に勝つかが問題となる。ただ、食品は結構高価なものなのだと自覚した。

「活き活き健康フェア」コーナーへ立ち寄った方々もいつもの半分くらいとのことで、前半は私は持参のマックで結構文章書きが出来た。後半は切れ目なく相談者が訪れた。今日の相談者は20名もいなかったと思うが、大学生の男子一人を除き、全員が肥満体であった。

 測定コーナーが空いた時を見計らって私も受けてみた。
 身長175.5cm、体重62.0Kg、体脂肪18.5%、骨粗鬆症指標83であった。これは客観的値であるから4月末の体重の申告に参考値として用いることとした。共済会主催の「2ヶ月間での3Kgスリム作戦」は余裕を持ってクリアした事になる。これで2000円分の図書券は確実に私のものである。図書券の額の問題ではなく、体重コントロールは長期間の意志力の反映だから、私は気力は未だ現役なのだと再確認出来たことが満足なのだ。


4/20(金)晴れ 「秋田だるまの会」総会 ドック診察 患者家族面談 
 2:30起床、ドック総括、紹介状など。5:15病院着.総括など。6:15回診、病棟業務。7:00患者家族面談、10:30-12:30「秋田だるまの会」76回総会+昼食会。人間ドック診察、病棟患者処置。21:15帰宅、夕食、22:00就眠。

ホワイトアウト 
ホワイトアウトは吹雪や霧のために真っ白で,何も見えない様な状態を示す登山用語である。このような状態では立っていても身体がグラグラ揺れているような、バランス感覚が麻痺する感じがする、と山岳関係の本に書かれている。

 これに近い状態は、高校生の頃、初秋にクラブの企画で盛岡近郊の、僅か数100m程の小さな山に登ったときに経験した。急に天候が変わり、冷たい雨と共に周囲に一気に濃霧が立ちこめて視界が殆ど遮られた。持参の雨具を被って早々に下山したが、数10m程、樹木が見えてくるまでの間、自分がどの様な姿勢なのかよく分かず、足下だけを頼りに下山した。蔵王スキー場の樹氷の近くでも似たようなことがあったが、この時は足下も白一色、風もないのに立っていることも困難で、座って霧が晴れるのをひたすら待った。

 先週金曜日の東京出張は早朝のANAで帰秋した。福島上空までは雲一つ無い快晴であったが、秋田・青森にかけて低気圧が通過中とのことで、山形上空あたりから機の下には厚く雲が立ちこめていた。
 通常であれば既に高度を下げているハズであるが、この日はずっと高い高度を維持したままで雲上を飛行していた。機種は767-300で後方はガラガラ。私は主翼、エンジンなどが良く見える座席であった。秋田上空近くになって着陸時にエアブレーキの役目をするスポイラーを斜めに立て、いつもより急と感じられるような降下を始めた。雲中の通過時間を少なくするための飛行法かと思われた。スポイラーによって主翼に乱気流が発生するためか、機は小刻みに震動した。雲の中の約5分間、僅か3-4m先にある翼、エンジンなど何一つ見えない、白一色の状況の中を経過した。この間、機は時折尻が浮き上がるほど大揺れした。これほどの長い時間、全く何も見えなかったのは初めてである。 

 雲の下はかなりの雨であった。
 30年ほどで前、南極ツアーのニュージーランド航空機が南極の山に激突した事があったが、濃霧で何も見えない白一色の中、ホワイトアウトで操縦士が機体の姿勢バランスを見失ったためと言われているが、もっともっと凄い状況下で生じたのだろう。そんなことを考えながら、自然のスケールの大きさと航空機の丈夫さの双方に感心した。


4/19(木)快晴  外来   66.6→64.0Kg(目標63.6Kg)
2:45起床、体調は若干改善、何とかマックに向かう。人間ドック判定総括、徒然他。5:00Taxi病院へ。雲一つない快晴の早朝、ひんやりとして爽快。6:15回診、病棟関連書類、8:00救急カンファ、8:45-14:30外来+ドック結果説明x1。患者関連書類、外来カルテA4版化。地域産業保健センター依頼原稿着手。20:40帰宅、夕食、21:15就眠。

政治の場に医師議員、医系議員を送り出す意義(2)
 私は政治に関しては疎い方であるが、それでも政治の場に医師議員、医系議員を送り出す意義はとても大きいと感じている。

  医療・福祉は生物である人間社会にとって欠くことの出来ない。その意義は如何様に強調しても仕切れない。
 かつての医療や福祉的対応は関係者の倫理観とか使命感で行われていた。それが、昭和30年代に国民皆保険制度が敷かれてから社会的になり、普遍的になった。これは国民にとっても医療関係者にとっても大きな変化であった。悪しき面もあったことは否めないが、国民はより医療を受けやすくなった。患者数が増えて医療機関も医師も収入が増えてより安定した。総じて良い方向になったと誰しも評価するだろう。

 しかし、これ以降、医療は社会・経済の影響をモロに、かつ濃厚に受けるようになった。医療供給体制が不十分で量的充足が第一であった時代には庇護的政策も行われたが、国の経済の状況が変化するにつれ、医療・福祉の分野は厳しい経済的抑制策の対象になった。いま、医療・福祉の概要は政府、厚労省及び政治家が決めて制度として施行される。次々と施行されてくる医療政策の内容はわれわれ医療関係者にとっては自由度の乏しい,雁字搦めの抑制的状態である。医師として、納得できる様な検査や治療をしてあげたくても制約が厳しくて出来ない。そればかりか、国が繰り出してくる政策に同調していかなければ医療機関としての存続すら危ぶまれる状況になってきている。
 
 医療政策の決定の場に医療現場をあずかる医療関係者の声は届きがたい。どんなに医師会が頑張っても、問題点を指摘し、主張しても、それだけでは届かない。

 このような状況を打破して行くには医療従事者の自覚と政治力が必要である。 

 しかし、医療従事者の多く、特に医師はその自覚に乏しい。国民皆保険制度がもたらした医療界の経済的安定は物言わぬ医師を、現状に甘んじる医師を、より一層奪われていく裁量権や医師としての自由度に対してさえも物言わずに容認し黙って従う医師を、作り出してしまったようである。現状に満足しきっているのか、今の医療行政の在り方、将来の進む方向に何も問題を感じていないらしい。患者の行く末を考えただけでも怒りが湧いてこないのだろうか。自分さえよければそれで良いのだろうか。

 医療環境を良くして行くには医療政策の決定の場に現場の医療の実態を伝えられる政治家、即ち、医師、あるいは医系と言われる議員を送り出していかなければ何ともならない。それが出来なければ今後日本の医療は止まるところ無く縮小され、制限されていく。
 その意味で大里氏が県議会議員として返り咲いた意義はとても大きい。


4/18(水)晴れ   医師・看護師打ち合わせ  外来 事務系職員と面談 県健康推進課員来訪 大里代議員会議長県議当選祝賀会 
 
2:20起床。ドック判定総括、紹介状、徒然。5:15病院着.事務処理,6:30回診等。7:30緩和医療について担当者との打ち合わせ。8:45-14:30外来、混雑。15:30事務系職員訪室歓談。16:30県健康推進課員4名来訪、第1種感染症対応施設について意見交換。18:00-19:20大里代議員会議長県議当選祝賀会。病院にもどり退院患者総括。21:30帰宅、22:00就寝。この頃から急に体調不良となる。風邪か?

政治の場に医師議員、医系議員を送り出す意義(1)
 本日夕は大里県医師会代議員会議長の県議会議員当選祝賀会であった。大里氏は70歳で鹿角市の大里病院長で県病院協会の会長、県医師会代議員を務められる秋田の医界のオピニオンリーダーのお一人である。平成3年以降3期連続県議会議員を務められたが、前回の選挙では僅か48票差で当選を果たせずにおられた。

 今回は10800票を獲得し当選された。ちなみに、2位当選のK氏は8339票、落選のS氏は8312票と僅か27票差で当落が分かれた。このような2回連続して僅差で当落が決まると言うことは恐らく珍しい現象の様に思われる。この中、今回氏は2位以下を2000票も離して堂々とトップ当選された。

 大里先生は「大里病院だより」という小分を月に1回程度発行され、身近な方に送っておられる。私も県医師会の仕事をするようになってから戴いている。私の徒然日記とはレベルが異なってA4版一枚、ほぼ一定の字数にまとめられた、自然描写にも優れた、格調の高い随想で、届くのを毎回楽しみにしている。

 この「たより」4月8日発行のNo287号に今回の選挙戦についての経過を記述している。それによると、昨年9月から夫人と共に9千件近く家庭訪問され、告示前には当選を確信されていたたのだという。

 末尾に近く以下のような記述がある。「ご多分にもれず、秋田県も低迷しています。県民の不満もその極に達してきました。何とかして欲しい、なんとかしなければいけない、皆で秋田県を良くしようという思いが結集した、この選挙であったのではないでしょうか。私は、その皆の使い手として選ばれただけのことです。当選できたことは決して名誉でではなく、その役割を存分に果たせという鹿角の有権者の声に応えなければなりません。・・・」と綴っておられる。県民のために自ら艱難を背負って立つ、と言う姿勢にはただただ脱帽である。

 昨日の会では、今回の当選は大里氏のがんばりは勿論ながら、実は奥様の業績である、との評価が大きかった。自らもそう語られていたが、出席者から奥様について語られる度に、普段は寡黙で厳しい表情で周囲に緊張感をもたらしておられるが、今晩ほど饒舌で、こぼれるような笑顔で満たされた表情の氏を見たことはなかった。

 私は心から大里氏の当選をお祝いしたいし、秋田県の医療をよくするためにご尽力いただきたいと願っている。
 私は政治に関しては疎い方であるが、それでも政治の場に医師議員、医系議員を送り出す意義はとてつもなく大きい、と感じているからである。


4/17(火)快晴   定期処方日 外来 常務会 医局カンファ(CPC)
2:15起床,ドック判定総括x1、患者関連書類数種etc.5:05病院、6:35回診他。7:45医師面談。8:45-14:10外来、14:30-16:00常務会。重症患者対応。17:30-18:30医局カンファ、臨床・病理検討会。病棟対応+定期処方箋発行。21:30帰宅、22:00就眠。

米大学銃乱射事件、長崎市の伊藤市長狙撃事件
 この2日間、日米で銃を用いた悲惨な事件が2件生じた。何とも言いようがない不快な気分である。

 4月16日、名門・州立バージニア工科大学で30数人が死亡した米史上最悪の銃乱射事件は、自殺したとされる韓国人の人間像,動機等はまだ明らかになっていない様であるが、大学の危機管理対応や米社会の銃規制についても論議がわき上がっている。
 事件は、7:15頃と9:00過ぎの2度に渡って起きたが、大学は最初の事件の約2時間後にメールなどで学生に警告したが間に合わず実行はなかったらしい。警察も動いていたと言うが第二の事件を防げなかった。米メディアは最初の事件の発生でなぜ直ちに大学閉鎖の措置をとらなかったのか、と大学側の責任も追及しているらしい。結果として分かった内容から見れば対応の仕方があったようにも感じられるが、リアルタイムに的確な判断を下して実行することは困難だったとおもわれる。
 私はよく解らないが、米では銃は合法的に所持できるとされているが、使用目的とかの規制はどの様になっているのだろうか?多分、購入時にはそれなりの手続きが必要であり、使用は正当防衛に限定されているのだろう。しかし、それは所持者がまともな判断力を持つ時にのみ通用することであろうし、非合法的に流通経路もあるだろう。銃に対する自己防衛は銃でしかできないと個々人が考えて行くのか、社会的な銃規制に行くのか、私どもから見れば勿論後者であるが、背景には米国の歴史、文化があるのだから実現は困難なのかも知れない。今まで事件の度に繰り返された論議であるが、実際、どの様な方向に進んでいたのだろうか。

  本日、17日20:00過ぎ頃、伊藤長崎市長が狙撃された。TVニュースによると救急車の中で既に救急隊が救急蘇生をしていたから、厳しい結果になると予想されたが、早朝死去されたと言う。悲惨な事件である。暴力団幹部の男がその場で取り押さえられ、逮捕された。長崎では17年前に当時の本島市長が銃撃されて重症を負った事件があったが、その時は世界平和に対する市長の姿勢を是としない者の犯行であったと記憶する。今回は自らの交通事故を巡り、道路管理者の市とトラブルになり、市長を恨んでいたという事が背景らしい。どの様な背景であれ絶対に許されることではない。

 私も職務上で患者や家族から罵詈雑言を浴びせられることもある。時に殴りかかられそうな身の危険を感じたこともある。その範囲ならまだ何とかなる、どうやって逃げようか、と考えながらじっと耐える。言葉の暴力なら許されるのか、殴るのは良いのか、刃物はどうか・・どれだって良くはない。が、一瞬の抵抗すら出来ない銃による狙撃は絶対に許せない。銃の存在自体許せない。突然狙撃され、何も知ることなく死去された市長は実にお気の毒である。


4/16(月)快晴  管理会議 外来 療養病棟判定会議  長副会議
2:00起床、ドック判定総括、紹介状、意見書、その他。5:050出勤、 6:15回診、7:45管理会議、8:45-14:00外来、16:00-16:35療養判定会議。17:00-20:20長副会議、話題豊富。21:15帰宅、夕食、22:30就眠。

モンブラン万年筆の修理(2)ドイツで修理するので半年、は間違いだったが・・
 私は筆記用具には結構こだわる。値段とかではなくフィーリングで気に入ったか否かで、気に入ったものは徹底的に大事に使う。失くすと数日探し回る。今までボールペンは製薬会社等のサービス品を用いてきてそれなりに満足していたが、この度、比較的高価な品を戴いた。世界的逸品と称されるだけに何とも言えない手触りと良い書き味である。
 途端に、修理を諦めて道具箱の奥深く仕舞ったモンブランの万年筆への愛着がまた湧いてきた。もう一度だけ修理してみようかと決心し小売店に持ち込んだが、翌々日届いた見積もりの内容に驚いた。

 『モンブランは体制が変わり、従来国内で修理していた品も全てドイツに送って修理するようになったので、●修理可能か否かの返事と見積もりに2-3ヶ月●修理依頼するとそれから3ヶ月ほど●修理しない場合は返品となるが、往復の送料と見積もりの費用2万円ほど…』、とのことであった。
 折しも、10日ほど前にキャノンのプリンターが故障した。4月9日朝にサービスセンターに修理を申し込んだら、当日の昼に宅急便の業者が取りに来て、11日夕方には茨城県のサポートセンターから修理完了として戻ってきた。あまりの対応の早さに驚いたばかりであったから、このモンブランの報告には呆れてしまった。勿論、この時点では即座に修理しない、と返事し、また奥に仕舞い込んだ。

 これでは、サービスの逆行であり、インターナショナルに販売力を高める戦略をとっているはずの企業として考えがたい。たしか、2-3年前にモンブランは代理店制度から日本支社を設立し販売に更に力を入れるようにした、と何かで読んでいたから不思議な気がした。何かの間違いでないのか?
 小売店で連絡場所を教えて貰い自分で確かめた。それによると限定品とかの特殊なものでない「通常のマイスタースティックなら国内で修理可能」とのことであった。小売店では私の万年筆を特殊なバージョンと誤解して修理依頼したらしい。
上記のやり取りを経て数日前修理に送ったが、届いた返事は「現在、マイスタースティックの部品が品切れで取り寄せていますので、2-3ヶ月かかるかも知れません」というものであった。何だ、大差ないじゃないか、と思ったが、もう面倒なのでそのままお願いすることにした。

 紆余曲折しただけに、戻ってくるのが楽しみである。
 


4/15(日)秋田雨→晴れ  病棟拘束 FF tennis
2:30起床。挨拶分校正。徒然、新聞チェック、その他。10:30微睡、13:00-16:10FF tennis、3-6、3-6、7-5と敗退。17:00-19:30病院で回診他残務。20:00帰宅、夕食、21:00就眠。

自伝・中通病院(14) 私は歓迎されていなかったらしい
 私が中通病院に就職するにあたり病院長と一度だけの面談で決められた。具体的には就職の日時が決められただけである。私はその日時に併せて大学の立場を整理するなど準備を進めていたが、私には履歴書を送るよう連絡が一度あったきりであった。。
 実際に病院に来てみる迄果たして手続きは進んでいたのか、と若干心配していたが、ロッカーとか机とかが決まっていて安心したが、就職にあたって手続きなどこんなものなのか??と直前まで疑問を抱いていたことは確かである。大学在職中に2ヶ月間ほど由利組合病院に赴任したことがあったが、この際には病院の人事課とかと何度かのやり取りがあったが、これとは対称的であった。


4/14(土)東京快晴・秋田降雨   第4回卯月の会
2:00浅草Viewホテルにて起床。今晩の挨拶文、病院の現状報告の発表資料作成。6:50ホテル発、京急線にて羽田へ。9:10ANA 767-300後部座席は20-30%程度と快適。山形上空あたりから厚い雨雲の中を飛行、揺れは若干。11:00病院着、16:30挨拶文、病院の現状報告の発表資料完成。殆ど綱渡り的完成。何とか完成はしたが推敲時間なし。18:00-21:30Viewホテルにて第4回卯月の会。21:50帰宅。22:15就眠

第4回中通総合病院 病診連携「卯月の会」挨拶----医政と護送船団方式(2007.4.14)


4/13(金)秋田曇り・東京晴れ  日医総研10周年記念市民医学講座
2:00起床、ドック判定総括ほか。5:00病院に。書類や病棟の対応。6:30回診他、8:00院内対策委員会最終検討会。10:00人間ドック診察。14:00病院発空港へ。ETCゲートに誤侵入した。15:00発ANA 767-300型で90%ほどと混雑。17:30日医会館着、残務若干。18:30-20:30日医総研創立10周年記念市民医学講座「世界からみた日本の医療」。21:00浅草Viewホテルへ、21:00唐紅にて夕食。21:50就眠。

ETCのゲートに誤侵入し、係員、後続車に迷惑をかけた
 本日は日本医師会総合政策研究機構、要するに日医総研の創立10周年記念の公開市民講座「世界からみた日本の医療」が日本医師会大講堂で開催された。各医師会に要請があり私も出席することとした。15:00発のANAに乗るために14:00に病院を出て秋田道経由で秋田空港に急いだが、秋田中央インターで、大型観光バスの後を漫然と付いていってそのまま誤ってETCのゲートに新入した。いつもの如く、眠くてボーッとしていたのだろう。

 チケットの発券機がない、一瞬、何故なんだ??と思ったが、ETCのゲートに誤侵入したことに気付いた。運悪いことに後続車が一台いる。私は車を降りて後続車の運転手に謝ったが、不用意に停車させられたにもかかわらず運転していた若い男性は「待ちます」と、にこやかに応対してくれて、私は救われた気がした。
1- 2分後、係員が手動でゲートを開き、私はその先で停車して会計を済ませたが、その際の係員の対応も丁寧で、「・・どういたしまして。また、ご利用下さい。」と後続の運転者同様にこやかに対応してくれた。私はこの二人の対応に感謝すると共にとても心温まった。

 私は平均月に2-3回程度しか高速を利用しない。しかも、殆ど秋田空港往復だけである。こんな程度の利用であるが、わが家の子ども達は何故か話題になる度にETC装着を勧めてくれる。私にとっては費用的にもトクになることもないだろうし、何故勧めるのか未だに理解できていない。今日理解したことはETCゲートに誤侵入してしまうとにっちもさっちも出来ず、後続車とゲートの職員に多大な迷惑をかけることである。

 これからETCをどうするか?装着するか?いや、今日の貴重な経験があるからもう私は二度と誤侵入はすることはないだろう。であればやはり私にとってはETCは不要だ、と思う。


4/12(木)晴れ  外来  新人オリエンテーション  
2:30起床、ドック総括。5:15病院に。6:20回診。8:00救急カンファ。8:45-14:10外来。15:00-16:40研修医オリエンテーション、病院の沿革+医師の心得。17:00医師面談。21:30帰宅、22:00就眠。

モンブラン万年筆の修理(1)
 私は筆記用具には結構こだわる。別に高価なものとかではなく気に入ったか否かである。
   万年筆はモンブランマイスターシュティック149を25年ほど使い続けてきた。亡くなったある患者さんにいただいた品である。決して書き味は良いとは言えないが、その患者さんの気持ちを大事に、感謝しつつ最近まで使い続けて来た。

 この間、いろいろ不都合なことがあって修理を何度かしてきた。18年間使用したところ、キャップのクリップが金属疲労によって折れた。毎日、時には10数回もポケットから出し入れしたので当然かもしれない。大阪の代理店の返事では、一本一本が手工芸品でありクリップだけの交換は出来ない、とケチで合理的な私には驚くような妙な対応であったが、結局先方の言う如く軸全体を交換した。次は数年後にボディが割れてインクが漏れて再度軸全体を交換した。2回の修理で購入価格の半分以上の費用がかかった。

 昨年夏ころ、インクが途切れ字がかすれるようになった。更に、秋になって再びペン軸に微少な亀裂が入ってインクで手が汚れる様になった。また修理か!! と思ったが、折しも家内がパイロットスペアインクを大量に買い込んだこともあって、この万年筆は机の奥に仕舞い込み、万年筆は30年以上も前から使っているパイロット万年筆を数本出して再度使い始めた。パイロット製のは筆記用具としての機能は十分であるが、細く、軽く、使い心地はモンブランとは全く別である。

 約一週間前、賄いの石井さんがヨーロッパ土産として私にFaber Castel製のボールペンを購入してきた。これも世界的な逸品である。それが私の手元に来るとは!! 木製の太めの軸と金属の部品と作られ、適当な重さもあり、作りは実に精緻である。数日使ってみているが書き味もかなり快適である。
 このずっしりと重い太めのボールペンを使う毎に、似たようなフィーリングのモンブランの万年筆への愛着がまた湧いてきた。もう一度修理をしようと決心し一昨日出入りの小売店に持ち込んだ。

 昨日、修理に関して連絡があったが、その内容に驚いた。


4/11(水)快晴 外来 人間ドック診察 感染症評価会議 院内感染対策委員会(欠) 県医師会常任理事会
2:30起床。ドック総括に手間取る。紹介状記載。5:10病院着、6:15回診他  8:00救急カンファ。8:40-13:50外来+人間ドック診察。14:00-15:30感染症評価会議(秋田衛研環境センター)+県健康推進課員と打ち合わせ。16:00院内感染対策委員会は時間が得られず欠席。17:30-19:00県医師会No1常任理事会。21:30帰宅、22:00就眠。

オーダリング導入余波(4)看護師を後ろ姿で識別  フォーカスって何だ? 
 昨年5月のオーダリングシステムが導入された時はパソコンに向かったこともない、という熟練の看護師も少なくなく、かなり戸惑いもあったようであるが、今は全員がディスプレイに向かって業務を進めている。その姿は実に真剣である、と言うか、余裕が無い姿に映る。

 病棟看護師がチェックすべき項目も多岐にわたるが、加えて患者の観察や評価の部分などは文章で入力しなければならず、かなりの時間が取られているようである。特に勤務交代直前の時間帯は入力が大変そうである。

 私は早朝に4-5箇所の病棟を回診するが、深夜勤務の看護師と朝の挨拶の他はあまり会話が進まなくなった。無表情で、必死に入力している姿を見ると声もかけ難い。書類や物品の置き場所を聞きたくとも気が引ける事も少なくない。

 日勤対に病棟を回ることは滅多にないが、時間帯によってはナースセンターにいる看護師のほぼ全員が壁際のコンピューターに向かっていることもある。必死で私など見向きもされない。私が見ることが出来るのは看護師の後ろ姿だけである。餌をついばむブロイラーを後ろの通路から見た時の印象に近い。顔が見えないだけに目当ての担当看護師をさがす事になるが、それぞれの後ろ姿に特徴が有る。最近、私の識別眼がグッと高まった様に思う。

 小児病棟のカルテに伝言があった。
「先生、最近のフォーカスを読んでいただけたでしょうか??」とある。フォーカスって何だ?? 私にとって同名の週刊誌位しか思いつかない。何でこの場でフォーカスなのだ?? そう言えば最近見ることもないな、何か医療に関係したスキャンダルでも載っているのか?? と思いながら周辺をさがしたがそんな雑誌は置いていない。私は「フォーカスの何号でしょうか? 私は普段から週刊誌を読みませんので持っていません。病棟にあったらカルテにはさんでおいてください」とメモを残しておいた。このメモは当日病棟の笑いの種になった様である。後で知ったのであるが、フォーカスというのは患者の観察上での「焦点」と言うことで、重要なポイントを示す言葉らしく、オーダリングの中に記述しておく場所がある、とのこと。それまで全く知らなかった。更に、「週刊誌のフォーカスは5年以上も前に廃刊になってますよ!!先生」・・と年配の看護師にダメを押された。
 その後、私は毎日、看護師が苦労して書いているフォーカスを読んで患者の状態、問題点を理解するよう努めている。コメントを書き込めないのが残念である。


4/10(火)曇り   乙部火災記念日 来訪者面談  外来  常務会 医局カンファ(病理) 
2:30起床,ドック、週刊アキタ用原稿最終チェック。5:10病院着。6:00来訪者と歓談、6:35回診+病棟業務。8:00救急カンファ、8:40-14:20外来、14:30-15:45常務会、17:30-18:30医局カンファレンス、病理統括科長最終担当。21:10帰宅、22:00就寝。

オーダリング導入余波(4)病棟への導入1年、外来への導入半年経過 
 当院では昨年5月以降コンピューターによるオーダリングシステムを導入して来た。病棟へ導入後約1年、外来へ導入後約半年経過した。システムとしてはほぼ完成に近いが、機能的にはまだ拡げる余地は随分ある。
 導入当初は職員に戸惑い、反発、中止して元に戻せという乱暴な意見まで、いろいろな反応もあったが、今はさすがにそのような声は聞こえてこない。入力の煩雑さなど、自分慣れ親しんでいるパソコンと比較して不備や不便を問題視していた職員もいたが、今はそんな話も聞こえてこない。相手を変える、即ち、システムを変えるより自分が適応する方が早いし、機能的だからであろう。「泣く子と地頭には勝てん」、あの心境である。

 今では、ほぼ全職員が粛々とディスプレイを介した仕事を進めている。病棟の看護師はまだ入力に時間が取られているようで超過勤務時間の軽減には結びついていない。後は如何に機能を有機的に結びつけていくか、各人が如何に利用法を工夫するかのレベルに到達している。

 総合的に見れば病院としての機能は向上した。
 残っている問題点はやはりいろいろあるが、病院機能の全てをオーダリング化出来得ないことである。例えば、患者の状態に応じて頻回に治療内容や医師の指示内容が変わる様な環境下では基本的にオーダリングだけでしのぐのは困難で、どうしても紙ベースの機能を残さざるを得ない。このことはオーダリング化の目的の一つである省力化を阻んでいるが、根本的に無理な領域の様である。
 また、画像とか詳細な記述の返事を伴うような検査など、例えば、消化器系の検査、レントゲンとかの画像診断、病理・細菌検査等はまだシステムの中に含める事はまだ出来ていない。しかし、この分野に関してはいずれシステムの中に含まれていくようになるだろう。


4/9(月)晴れ 管理会議  院内巡視 療養病棟判定会議 長副会議
2:00起床、軽い脱力感で全身ボーとする。FFテニスのためか?ドック1名総括、紹介状2部。5:20病院着。6:15回診。7:45管理会議、10:00院内巡視。来訪者2名、歓談。臨床書類処理。16:00-16:40療養判定会議。17:00-20:10長副会議。21:10帰宅、夕食、22:00就眠。

看護師の内診問題で混乱 厚労省の再通知の曖昧な文章が原因
 多数の分娩を扱っていた横浜市の堀病院で実際には助産師が不足し、無資格助産師が内診していたと言う事件は有資格者不測という面は軽んじられ、興味本位に大々的に報道され、元院長らは提訴されたが先般起訴猶予になった。妥当な判断だと思う。

 4月1日に日本医師会の代議員会の会場で看護師の内診問題に関する通達が厚労省からが2日に出るらしいと言う噂が流れた。その時は看護師にも内診が許されるという形で解決することになるだろうと、関係者はとても喜んでいた。2002年、2004年出された厚労省看護課長通知の後、現場はさぞや困窮していただろうと気にしていただけに私もホッとし、一件落着かと思った。
 ところが、4月2日に発表された厚労省医政局長名で出た通知には「内診を容認する」という言葉はなく、その解釈をめぐり医療現場は混乱を来した。3日の新聞報道の見出しは総じて「看護師による内診は認められない」というもので、私は代議員会で知ったことと全く正反対のことで驚いた。医政局長名の通知で出産時の看護師の業務について「自らの判断で分娩の進行管理は行うことができない」とし、看護師による内診は認められないとする従来の見解を追認した、とある。

 日本産婦人科医会はこの通知を条件付きの内診の容認と受け止めて2日に全会員に通達したが、厚労省は「看護師の内診はあくまでも禁止」と強調、産婦人科医会の通知は了解できないとしている。

 看護師等の業務について厚労省通達は「医師または助産師の指示監督の下、診療または助産の補助を担い、産婦の看護を担う」と説明、具体的には内診以外の妊産婦の体調管理、各種モニターの数値チェックなどが想定されるとの見解だという。

 厚労省の文章を改めて読み返してみたが、実に曖昧である。官僚はこんな文章しか書けないのか、と思うし、上司のチェックも通った事を考えれば厚労省の文化そのものであろう。

 数ヶ月前に病院周辺道路を歩行喫煙禁止区域に指定して欲しいと申請したがその返事をめぐってわれわれは一喜一憂した。これについては2月24日の徒然に記載したが、両者に共通しているのは「結論が明記されていない」、前文がグチャグチャ長い文章である。公文書を記載する立場の人は一から作文を学び直して欲しい。赤ペン片手に呻吟しながらどう解釈したらいいのか迷うような拙い文章は書かないで欲しい。


4/9(日)快晴 病棟拘束 FFテニス 県議会議員選挙
2:30起床、徒然。週刊アキタ依頼原稿対応。医報巻頭言校正。新聞チェック。13:00-16:00FFテニス、今季初、6-4,3-6,4-6と黒星スタート。16:30-19:30病院、回診、書類処理など。19:45帰宅、選挙投票、20:30夕食、21:15就眠。

自伝・中通病院(13) 初回大曲赴任後に個人的に外来応援を開始
 大曲中通病院の内科診療は広範な領域に一定以上の水準にあると考えられたが、画像診断や臨床検査成績に特徴が表われ難い疾患群に関しては若干ながら弱さを感じることもあった。その分野では私の経験がいささか役に立つ様であった。

 当時の大曲中通病院の内科科長の勧めもあって初回の大曲赴任終了後に、週1回外来の診療応援をすることになった。ところが、この診療応援の扱いは何故か病院としてとか、内科としてではなく、全く個人的な希望による診療応援としての妙な扱いとなった。本来であれば、診療応援は公的な立場でなされるはずで、不在時の診療のカバーとか、行けない様な事態には病院とか診療科で対応すべきであるが、基本的にそのようなバックアップは出来ないとの事であった。別に、私にとってはそう大きな問題でない。どうしても都合が付かない場合には代理はないこと旨の了解を得て開始した。

 病棟の10数人の患者を診ないまま大曲に出かけることは出来ない。毎週金曜日は5:00am頃に出勤して必要な対応をし、その後の対応は電話連絡を受けて行っていた。通常はこの対応で問題なく出かけられたが、時には重症患者の対応のために行くことが出来なくなることもあり、そのようなときには大曲中通病院の内科医には迷惑をかけることとなった。

 この様な対応の中、細かいことは分からなかったが、赴任後約一年を経ても院内の自分の立場に何となく居心地の悪さを感じていたことは確かである。
 この頃だったと思うが、私の赴任は必ずしも中通病院に歓迎されていたわけではない、いろいろなディスカッションがあったらしい、と言うことを同僚医師の一人から聞く機会があり、何となく私の置かれている立場が理解できた。


4/9(土)晴れ  病棟拘束  患者・家族面談2件 石井さんヨーロッパから帰国
2:30起床、ドック総括x1。医報巻頭言校正他、5:10病院、6:15回診他病棟業務。紹介状x2。10:00-11:30患者・家族面談2件。午後は事務処理に集中。19:50帰宅。賄いの石井さんヨーロッパから帰秋していた。Faber Castellのボールペンを戴く。しばらく旅行談義を聞かされそう。夕食。21:00就眠。昨年オーダリングシステムの初講習受け、厳しい印象で使えるようになるか自信がなかったが、今は何とか使いこなしている。何でも外圧は大きな変容を及ぼすものだと思う。

遅ればせながら(2) ポータブルCDの良さを再発見 
 私は新しいものをなかなか受け入れない。古いのをそのまま使い続け、それで満足していた。
 世の中の趨勢がiPodに移りつつ2003年6月、遅ればせながら私はポータブルMD録再機を購入した。更に使いこなすまでに一年を要した。3人の子供達ははるか前からMDを使いこなしていたが、それまで私は相変わらずカセットを持ち運びそれなりに満足していた。今は、私もカセットとほぼ100%決別し、MDを使いこなしているが、子供達は主にiPodである。

 次男と長女から使わなくなったポータブルMDのハードとソフト、長女からはポータブルCDプレーヤーも貰った。それぞれ私のところで有効に使われている。ポータブルMD、CDプレーヤー共ソニー製であるが、これ以上小さくできないと思われるほど小さく、軽く、驚かされた。

 ポータブルCDプレーヤーは私も初期の製品を用いたことがあるが、持ち運ぶ際には水平にして振動を与えないようにソフトに扱わなければ音飛びした。電池は9Vで単3が6本必要で、それでもせいぜい2時間程度しか持たず、結局、あまり実用的でなくサブの据え置き型として用いていた。

 今回貰ったポータブルCDプレーヤーは恐らく数年前のものであろう。しかし、ガム型内部電池を外して、外付けの単3電池1本1.5Vで5時間ほども使えている。消費電力の低減化は驚かされた。それに、ディバッグの中に入れて歩くときも使っているが、縦横、逆さになろうと一切音飛びはない。これならわざわざMDにダビングする必要もない。だから、その後音楽はこのポータブルCDプレーヤーにBOSEのヘッドフォンクワイエットコンフォート2をつないで直接聴いている。

 最小限のセットであるが、ダビングされたMDよりは音が良い。これは当然である。聴き慣れた音楽、CDでも聴く度に新しい発見があるのが嬉しい。今晩は帰路モーツアルトのクラリネット五重奏曲のヴィオラパートに聴き慣れない旋律が隠れていることを発見し、家に帰ってから改めてじっくり聴きかえし、堪能した。


4/6(金)曇り  新患外来  人間ドック診察
2:00起床。医報用委員会報告記述,院内書類関連,徒然など。 5:15病院着、 6:15回診、8:00救急カンファ。
8:45-14:00久々新患担当+ドック診察。移行は患者関連書類処理に集中す。21:00帰宅、夕食、21:45就寝。 

遅ればせながら素晴らしさに気付く(1) メガネ拭きクロス 
 私は新しいものをなかなか受け入れられない。判断の基準は狭く、保守的である。特に物品に関してはなかなか受け入れられない。古いのをそのまま使い続け、それで満足してきた。
 最近、メガネ拭きクロスの威力、機能を初めて経験して感心した。メガネ拭きクロスはちょっとした布きれであるが、こんなに凄いのか、私は数10年間何と無駄なことをしていたのか、と反省した。

 私のメガネ歴は中学2年の頃からだからもう45年以上になる。正確には分からないが、今まで10数回メガネを交換した。
 フレームも時代と共にプラスチックから金縁の金属フレームに変わった。一時、光線反応式着色レンズを用いていたこともある。これは強烈な光の下ではレンズが黒く変色しサングラスとなり、室内では通常の眼鏡に変わるという優れものであったが、特に脱色の際10数分の時間を要するために、面談の際など相手に不快感を与えたことも少なくなかったらしい。

 老眼年齢となり、遠近両用にしてからさえもう4個目を着用している。約2ヶ月前にまたリニューアルした。前々回からCarl Zeiss製のレンズを用いている。決して安くはないが従来品に比較してレンズが50%程も薄いから軽い。前回のは特に不便していなかったが、購入直後の平成3年10月に長岡駅で転倒しレンズに端から見ても分かる程のキズを付けた。最近、何度か指摘を受けたので取り替えることとした。

 今度は大切に使おう、と考え、附属してきたレンズ拭きクロスを初めて用いてみた。驚いた。拭く度毎にレンズが実に綺麗になる。こんなに綺麗になるのは驚きであった。今までは、時にはティッシュペーパーで、通常は着ているもの、例えばシャツやTシャツ、ネクタイ、スーツの裏、時にはカーテンなどで拭いていた。それなりに綺麗になったから特別不便していなかったが、レンズ用クロスで拭くと全く次元が異なる程、嬉しくなるほど綺麗になった。

 仕事場と家の机の引き出しの中に20枚ほどの、未使用のレンズ拭き用クロスがそのまま残っていた。 
 これからは積極的に使うぞ!!  拭くぞ!!、と思ったが、考えてみるとこれらを使い切るほど私にはもう時間は残っていない。


4/5(木)大阪快晴 秋田曇り   日本内科学会総会3日目
2:30ホテルグランヴィア大阪で起床本日締め切りの秋田医報巻頭言「新型インフルエンザ大流行時の医療体制について」を記述、呻吟、徒然記載。8:30葉っぱとコーヒーで朝食。9:30医報原稿最終稿送付、10:00-12:30大阪国際会議場にてメインホールの演題聴講。同姓の外科医師にお願いした外来は大丈夫だったのか?若干心配したが、特に連絡なし。午後はデパートのギャラリーで画家の個展、陶器の個展など。空港のデスクで持参の新聞、書類をチェック。19:10IBEX、CRJ機にて帰秋、風邪に押されたのか往路より15分も早く65分で到着した。19:20秋田着、秋田道経由で20:30帰宅、21:30就眠。

日本内科学会総会3日目  街中で大阪の活力を感じ取った
 日本内科学会総会の三日目は正午過ぎに終了する予定となっていた。秋田医報巻頭言の執筆に手間取り、最初のシンポジウムの途中から参加した。聴講したのは以下の3演題である。本日も所々で意識を失ったがとても良い勉強になった。
● シンポジウム:細胞療法の可能性と限界
● 招請講演:脳虚血に対して内科医は何が出来るか
● 教育講演:冠動脈インターベンション治療の進歩

 帰路は関空発の14:00のJALには移動の関係でちょっと間に合いそうないために、19:10伊丹発のIBEXとした。そのために6時間ほど時間が出来た。久々の空白時間である。

 新聞にて大丸デパート、高島屋双方とも美術品の個展を行っている事を知ったのでそれを観る事とした。前者では日本の代表的童話を集めた展示会と陶芸作家の個展が開かれていた。童話は即売もあって欲しかったが、自宅には子育ての家庭で購入した童話集とか、未読のものが多数あるのでまず家のを優先して読まねばならぬと諦めた。個展の陶芸家の名は知らないが、近代的なデザインの壺、花器など見事な作品が展示され、心が洗われた。後者の会場ではやはり名も知らぬ日本画家の個展があり、十分堪能できた。

 外来、入院とも私の代診を担ってくれている同姓の若手外科医からは土産を所望されている。双方のデパートで売り場も見たが、木曜日の午後というのに溢れんばかりの人混みであった。高齢者も多かったが結構若い女性も多い。秋田のデパートのではウイークデイの午後など売り場のスタッフよりも客が少ない事もあるのと段違いである。売り場のスタッフのも決して黙っていない。隣の売り場に負けられん、とばかり黄色い声を張り上げていて、実に喧噪であった。売り場を担当している間中、こんなに声を張り上げていたらさぞや疲れるだろう、と思ったが、スタッフの表情は活き活きしている。大阪ではこれが当たり前の姿なのかもしれない。どんどん声がかかる。下手すると売りつけられる、という感じである。

 私はこんな煩い環境は好まない。自由に歩ける秋田の静かな売り場の方が好みである。大阪は学会その他で20回程度は訪れたが、いつも最短時間のとんぼ返りであった。デパートや街中を歩いたのはほぼ初めてであるが、一昨日上空から見た夜景に感じたと同じく、大都会の、大阪の活力をまざまざと見せつけられ圧倒された、と言うのが感想である。しかし、デパートですっかり疲れてしまった。


4/4(水)大阪曇りのち晴れ 日本内科学会総会2日目
2:30ホテルグランヴィア大阪で起床、持参のドックx1。紹介状、徒然ほか。秋田医報巻頭言を書く。8:30葉っぱとコーヒー朝食。9:30-17:00大阪国際会議場にてメインホールの全演題聴講。18:00ホテル着。新聞一週間分チェック他、19:30夕食、20:30就眠。

日本内科学会総会2日目
 私は日本内科学会総会が好きで昭和48年以降、ほぼ皆勤と言っていい。メインホールに一日座っているだけで広い領域の学問的趨勢を知ることが出来る。この学会の講演はその分野の専門医でなくても分かるようにかみ砕いた内容の講演が多い事も魅力の一つである。

 ただ、この数年は何かと業務が混んでスッキリと気分良く出かけられない事が多い。日本医師会の代議員会が4月1日に開かれ、その数日後に本学会が開かれることで時期的に近接しているし、医師の入れ替わりの時期に一致し、病院のマンパワーが若干弱体化するからである。
 今年も3月中旬に出張申請は出したものの、私が担当している内科外来の代診医がなかなか見つからず、一時は辞退も考えた。何とか外科の若手医師が代診を了承してくれたので、二日目から参加できる事になった。

 本日聴講したのは以下の21演題である。所々で意識を失ったがとても良い勉強になった。

● シンポジウム:心房細動のup to date
● 招請講演:糖尿病発症におけるインスリン情報伝達障害
● 招請講演:慢性関節リューマチの関連遺伝子研究と臨床応用
● 教育講演:鳥インフルエンザ感染症の現状と今後 
● 教育講演:深在性真菌症の診断と治療  
●教育講演:鳥インフルエンザ感染症の現状と今後
●教育講演:水・電解質疾患の新しい展開  
● 教育講演:高齢者高血圧の診断と治療  
● 教育講演:白血病の分子病態と分子標的療法  
● 教育講演:非侵襲的脳機能画像法による脳機能診断  
● 教育講演:下垂体後葉疾患の病態と治療  
● 教育講演:アスベスト肺の診断 
● 教育講演:ループス腎炎新分類に基づく治療戦略  
●教育講演:神経疾患に対する免疫グロブリン療法
● プレリミナリーセッション:自己免疫性膵炎とその周辺疾患に関する臨床的検討
● プレリミナリーセッション:遺伝子多型による心筋梗塞二次予防治療の個別化の試み
● プレリミナリーセッション:アディポカインネットワーク破綻の分子機構解明とメタボリックシンドローム治療への応用
● プレリミナリーセッション:β2アドレナリン受容体遺伝子の多型がCOPD患者における気流制限の可逆性に及ぼす影響
● プレリミナリーセッション:末梢血におけるPNH型血球増加の臨床的意義

 会場の大阪の国際会議場は実に立派であるが、残念なことに座席の前後幅が短く、8時間も座り続けているのがとても苦痛であった。膝を右に組んだり左に組んだり、通路に足を投げ出したりして工夫しながら何とか過ごしたが大変であった。国際会議場だから、外国からの参加者も多いだろう、その際、私ですら不便するくらいだから体格の良い方々にとってはこの座席は拷問に近いのではなかろうか、と思った。
 明日のセッションの聴講も楽しみであるが、この座席の狭さのことを考えると若干気が引けてしまう。


4/3(火)晴れ 外来 常務会 さきがけ新聞記者来訪 日本内科学会総会初日   
 1:30起床、ドックx1。紹介状、メール対応ほか。5:10病院着、6:15回診+定期処方箋発行、8:00救急カンファ。8:40-14:20外来、14:30-15:30常務会、16:00-16:45さきがけ新聞記者来訪、がん対策基本法案について。17:10病院発空港に。日本内科学会2日目から出席のために18:20JAL
MD-87型機にて伊丹に。揺れもなく快適。上空から見た大阪の夜景に大都会の活力を感じた。21:10ホテルグランヴィア大阪着、夕食、22:30就眠。

オールド・ボロ・ハーレー  春だ 車検をどうしようか  
 私のオールド・ボロ・ハーレーは1991年製のエボリューションエンジン1340ccを積んだファットボーイと言われる、今となってはオールドモデルである。15年以上も乗っているが大きな故障はない。実に丈夫である。これはエンジンを始めとして構造が単純だからだと思われる。

 最近、路上で見るハーレーの台数が随分増えて来た様に感じていたが、日本で2001年には750cc超の大型車シェアで首位を獲得したらしい。若い頃に二輪車に乗っていた、あるいは憧れていた世代が中年・初老年代となり、時間も経済的にも余裕が出来てきたことで改めて愛好者が増えてきているためとされる。当時、自動二輪の運転免許を取っていれば自動的に大型二輪免許に移行したからわざわざ教習所に通わずに乗れる、という事情もある。大型二輪免許は取得が困難で大型二輪の普及を妨げているから、意外とこれは大きい因子の一つである。大型二輪に再度挑戦するなら若い世代のころに憧れ、今でもその当時の雰囲気を維持しているハーレーを選びたくなるのは当然であろう。中年ライダーが欲しくなる様な国産の大型二輪車は意外と少ない。ハーレーはバイクとしての走りそのものよりも、音と振動を楽しむ乗り物と言うべきである。走りだけならハーレーを凌ぐ車種はいくらでもある。しかし、環境保護の観点から、ハーレーの音や鼓動は改良される毎に抑えられてきている、と言う。確かに私のハーレーは早朝に出かけるときには気が引けるほどうるさい。だから、毎日の出勤には使いがたい。

 保守的雰囲気を持ち続けているハーレーもメカは随分進化している様だ。1999年からツインカム1450ccへ移行が始まり、2001年からマフラーに触媒技術が導入され、今年のモデルから排気量が1584ccになり、さらに燃料噴射装置に変わった。トランスミッションは6速に、クラッチの操作が軽くなったと言う。

 私のハーレー、今車検切れ状態で車庫の中にある。車検をとっても乗る機会は殆どないからどうしようか、ちょっと迷っている。しかし、何時までも乗れるわけではないし、今回だけは取っておこうかな、と思い始めている。この鉄の塊は秋田では乗れる時期が限られており、クールに考えると実に無駄なしろものであるが、そう割り切れない魅力もあるから厄介なのだ。


4/2(月)小雨、管理会議 外来 法人入社式 療養判定会議 長副会議
2:00起床、ドック判定総括x1,紹介状1。徒然。5:15病院着、6:15回診ほか、7:45管理会議、8:45-13:45外来、14:00法人入社式。新入社員は81名、16:00療養判定会議、17:00-19:30長副会議、病棟回診。21:20帰宅。夕食、22:00就眠。

私達の病院という表現(2) 私自身の言葉でもある
 例年であれば定年退職者は数名であったが今年は15名と多い。この傾向は当法人でもしばらく続く。これは急速な産業経済の成長期に一気に就労した時代の反映で、この方々はいわゆる団塊の世代とわれている。その時代から約40年経過し、同世代の方々が多数定年退職の時期を迎え、日本の経済活動にもいろいろ影響を与えると予想されている。この機会に若者達に就労の機会が増えることが期待されるが、そう事は簡単ではない。企業がマンパワーをそれほど必要としなくなってきていることも一因である。

 今回定年退職される方々は、広く昭和40年から50年代に就職している。入社の時期が結構バラバラだという事は、恐らく、他の病院や企業から移ってからも多いからであろう。この頃、当法人は幾多の艱難がありながらも、中通病院の増床を重ね、規模が急速に拡大され、多数の人材を採用した時期でもある。

 定年退職される15名の内13名が出席された。感謝状の授与式も終了し、軽食を摂りながら、緊張も解けた段階で一人一人から短いスピーチがあった。若い頃の病院の話や人脈の話など懐かしいエピソードも含めいろいろ語られたが、その中で共通の言葉として用いられたのは「私たちの病院・・」という言葉、あるいは表現であった。

 この、「私たちの病院・・」はとても良い言葉、大きな意味のある言葉だといつも思う。私は一人一人のお話を聞きながらとても心が暖かくなった。これは私自身の気持ちと同じだからである。
 私は昭和60年に、最低3年は・・と思いつつ就職した。最初の頃は「得体の知れない」存在であった組織が、いつぞや「働く全職員の病院」へ、更に「私たちの病院へ」、と感じ方、考え方が変わって来た。このことが私がこの病院で今日まで働き続けてきた拠り所、ルーツでもあるからである。

 定年退職される一定の条件下にある方々なので、「私たちの病院」と言う言葉は、「鶏と卵とどちらが先か」と言うことにもなるかもしれない。30-40年も勤務し続けた結果として到達した気持ちであっても良い。どちらであっても素晴らしいと思う。

 企業は誰のものか、愛社精神とは何かなど、いろいろな論議があったが、最近職員の帰属意識も薄れ、形骸化しつつ言葉でもある。私自身も今まで外に向かってはあまり表現してこなかったように思う。立場上いろいろスピーチをする機会があるが、これを機会にこれからは頻用しようと思う。

 私どもの病院は「安全かつ良質な医療の提供を通じて県民・市民の健康をまもる事で社会に貢献し、同時に職員を大切にし、職員とその家族の生活を守るためにある
、と思う。

 大きな法人組織だから、常務会、理事会等が高次の最終判断を行うが、そこは話し合いによる決定の場であり、強制・支配はない。搾取もない。病院で各部署の運営に求めているのは服従・管理ではなく、自律・互助の精神である。この背景は「患者、職員に対する感謝」の気持ちであり、「誰のものではない、私たちの病院」なのだ、と言う気持ちだからである。

 定年退職者の方々のスピーチを聞きつつ、いろいろ考えてしまった。


4/1(日)東京快晴、秋田曇り雨 桜満開 日本医師会代議員会
2:45浅草ビューで起床。本読他持参の業務若干。7:00葉っぱとコーヒーで朝食。8:30駒込に。9:30日医代議員会。会長所信表明。議事、代表質問。午前は12:45終了。13:30から再開、個人質問、14:15-15:15予算委員会で19年度事業計画と予算承認。予算委員なるものを初体験した。その後も進行は質問も多く大幅に遅れた。16:10中座し帰路に。何年か振りに留守を頼んだ若手医師に土産購入。18:00JALは機材繰りの関係で30分ほど遅れて出発。前日と一変、全く揺れず。19:25秋田空港着、小雨。20:10帰宅、夕食。21:10就寝。

自伝・中通病院(12) 数回の大曲赴任の感想のまとめ
 大曲中通病院への赴任は毎年の如く冬場に回ってきた。医師体制が不十分であったため止むを得なかったし、消化器系の科長を常勤スタッフとして赴任する際、私も積極的に動いたと言うこともあって、その彼が窮地に陥るような状況は責任上作れなかったと言う事情もあった。しかし、そうは言っても大曲への赴任は私的にも辛いものがあって、不公平感はどうしてもぬぐいきれなかった。大曲の5回の赴任を通じて考え、蓄積したことは「大曲中通病院雑感 その壱 仕事編」「大曲中通病院雑感 その弐 生活編」として、当時発行されていた大曲中通病院医報に書かせてもらった。
 かなり辛らつな言葉を並べているが、実際にはそう言う言葉を書きたくなる心境であった。一方では、そうは言っても今自分が何をなさなければならないのかと考えた場合、ジレンマがあっても断ることは出来なかったという事情もある。

 私が一番重視したのは子育てのことであった。当時、私は3人の子育ての最中であり、日常から多忙であることをでほぼ100%人頼みの子育てをしていたから、父親として普段から可能な限り一緒にいる時間を意識的に作り、ふれ合い、対話していた。それが物理的に出来なくなると言うことは、子育てに負い目のあった私にとって小さくない問題であった。恐らく子ども達も同じ気持ちでいたハズである、だから、単身赴任というのは実に不自然な勤務形態なのだ、すべきでないし、させるべきでない、とつい先日まで思っていた。

  ところが、これには後日談がある。
 成人した子ども達が集まってきたときに、多分、一昨年の秋頃だったと思うが、私の大曲の赴任とかが話題になった。この時とばかり、父親としての義務を果たせないことが悩みの一つだった、とその時の心境をしみじみと語ったところ、子ども達は白々とした表情で、実は父親の大曲の単身赴任は自分たちにとっては最高にリラックスできる期間でとても良かったし、次はいつ出張するのか家族一同心待ちにしていた、と、全く予期していない事を言われ、私は些かショックを受けた。

 私は自分ではそれほど思っていなかったのだが、厳格で、小うるさい、うっとうしい父親として忌避されていたのだ・・・と、初めて知った。当時からそれが分かっていればあれほど迄書かずに済んだものを、と思う。しかし、子供達も今だからこそ笑い話として話せた事なのだろう。子育てに関しては反省すべきことはいくらでも挙げられるが、そのうちの一つである。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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