賛美と苦言
その弐 生活編

1 はじめに
 大曲中通病院は、業務的には先(大曲中通病院医局報第2号)に述べた数点以外、大きな不満はない。しかし、大曲中通病院の科長のローテーションが話題になる度、私は心穏やかでなくなる。大曲での不便な生活、同じ顔ぶれの科長のローテーションに問題を感じるからである。
 今回は主にこの2点から私見、苦言を述べる。なお、本拙文は大曲中通病院の業務を忌避するために書いたのではないことを断っておく。(*)の数値は伏せても意は伝わると思い省略した。
2 短期赴任と大曲での生活状況
(1)住宅のこと一何とかして欲しい最大の問題
 大曲赴任の度に住む住宅の条件として、
 ● 静寂な場所の一戸建で、隣家とは近接していない(理由:音、その他を介して隣人の存在を感じるのは絶対に嫌)、
 ● 機密性がある(極めて寒がり。夜中でも下手な楽器を長時間弾く)、
 ● 部屋は1-2つ程度で良いが機能性が良い(重度のものぐさなので)、
と希望を挙げいつもかなり前から探してもらっている。しかし、満足な結果にはならない。
 私の大曲赴任は5回を数える。ほぼ毎年、秋または冬期間であり、なかなか厳しい。何故何時もこの季節かと言うと、研修医の都合が優先され、私が選択する余地はないからである。赴任の時期と住宅の様子は以下の如くであった。
 初回の赴任時(1985.12.2-1986.3.2)は病院から400-500mの距離の、道路に面したブティックの2階で、壁で隔てられた2所帯用住居であった。大型トラックの騒音、積雪期にはAM4:OO-5:OO時頃から始まる除雪車の音に耐え、自らは音も立てずに息を潜めて暮らした。隣人の音に悩まなかったが、やはり隣り合わせに他人が居る緊張感に耐えられず、後半は当直室に泊まった。寝る部屋にネコ一匹居ても嫌な私も、遂に根負けして当直室の作り付けのベットに安息を求めた。当直医には迷惑をおかけした。
 2回目の赴任時(1987.11.2-1988.2.8)には、引越の10日ほど前に住宅の鍵が送られて来た。今度は希望通りの住宅が見つかったのだろうと思ったが、古く、汚なく、機能も悪く、隣家と近接し、隙間風のみが良好であった。前任の科長も耐えられずに数日で引っ越したという。やむを得ず独身寮に入った。6畳一間で、備品と言えば、ろくに映らないTV、蒲団、電気ストーブ、内線電話のみで、机、家具類、風呂、トイレも無く、じつに殺伐とした部屋であった。数日後、何故か、運がよく、突然に、貸家の情報があったと言う。田町のブティックから100mほど奥まった所で、通勤には便利であったが、二階建で単身者には不要に大きかった。隣家が近いことが難点であったが、慌てて探してくれた担当者に感謝して引越した。
 3回目の赴任(1989.2.2-3.5)は、外来中心の業務だったので秋田からJRで通勤した。支給の交通費はJR定期券代として約(*)万円、かかった実費は特急券、時折のタクシー代を含め約16万円であった。
 4回目の赴任./1989.11.24-1990.2.4)時には、2軒の住宅に案内されたが2度目の赴任時に見せられた住宅と大差なく、断った。結局、一戸建の小さな新築住宅が見付かった。6、6、4.5畳の3部屋のみだけに機能性は良かった。病院から1.5kmほどで真冬の夜半に歩いて帰るには不便であったが、それだけ静寂な場所で、前回、前々回の住宅よりは満足出来た。
 5回目の赴任(1990.10.1-12.3)は2ヶ月間で、前々回と同様、外来中心の業務でバイクで通勤した。最短距離でも往復120kmと、近くないだけに11月以降の骨髄まで凍らんばかりの寒さ、冷たい雨は実に辛かった。
 大曲での住宅環境は耐え難かったが、なかなか理解されない。この住宅にまつわるエピソードはローテーション医を受け入れる側の感覚がズレているからだ、と私は思っているが、現場では私が無理難題を押しつけた、ととらえていたらしい
 今は"兼行法師"が名文を書いた時代とは違うのだから、短期間と云えど雨露を凌げれば良いというものではない。
大曲は住宅事情がとても悪いし、他の医師達はもっと質の悪い環境で我慢していた、と赴任の度に替わっている事務長や庶務の担当者は説明する。私も実情はその通りだろうと思う。しかし、そうワンパターンに強調されると、私のために特に探してくれてはいなかったのだろう、と勘繰りたくなる。現に2、4回目の赴任時にはすぐに代わりが見つかった。研修医のローテーション赴任は10数年間も続いてきたし、科長の赴任も数年以上にもなる。住宅事情がとても悪いなどと、今更何を言うのか、というのが私の偽らざる感想である。責任者の短期での交代は我々にとっては実に困る。
2)備品、風呂、暖房器具など。重宝したへアドライヤーなど
 私の場合、単身赴任となる。日当直でない週末は自宅で過ごす。従って、使い慣れた家具、道具などは動かせない。従って、赴任期間中は気侭に暮らすというよりは、最小限の身周り品で不便な生活になる。中でも慣れ親しんだ道具でレコードなど楽しみつつ仕事、作業、工作など出来ないのは辛い.結局、病院に居たほうがマシである。夜半に帰り、冷え切った部屋に照明、暖房などを入れ、風呂を沸かすわびしさは、若くもない私にとって相当なものである。せめて暖房具などの備品の数や機能が充分であって欲しかった。例えば
最初の住宅では部屋数が3つなのにストーブは時代物のFFヒーターが一つだけ。作動し始める迄10分以上もかかった上、一部屋の暖房にさえ能力不足であった。更に、排気管を窓に間に合わせにつけていたので、窓も締まらず、部屋が暖まるのに最低30-60分はかかった。
 部屋がある程度暖まるまではヘアドライヤーの温風を上着の衿元から吹き込んで暖をとったが、瞬時に温風が出るのでとても重宝した。冷えた蒲団に入るときにも役立ったが、ドライヤーを蒲団の中に持ち込むと時々吸気孔がシーツで塞がれて、中の温度ヒューズが2回ほど切れた。その後は古い掃除器のホースにドライヤーを繋ぎ、蒲団の外から温風を送ったのてその様なこともなくなった。電気炬燵の補助ヒーターとしても有用であった。厳寒期の補助暖房としてヘアドライヤーを使用したのは良いアイデアであった、と自賛している。
 風呂は3ヶ所の住宅とも火力が弱く、沸くのに2時間ほどもかかった。夜半に風呂が沸くのを待つもどかしさは何とも言いようがない.途中で諦めて寝たことも再々である。次回赴任時には風呂、暖房、軽食、茶の用意などに電話回線を利用するコントロールシステムをつけて欲しい。病院にいる間に点火し暖まったころに帰宅出来れば単身赴任のストレスはかなり減る。何時に帰宅できるかわからない我々にはタイマーによる作動は便利さ以上に危険だからである。蛇足ながら、自宅では家事の殆どは電話1本でコントロール可能である。便利であるが、月々かなりの出費になること、古くなってきたので時々誤作動すること、機嫌が悪いときもあること、いつまで稼動するか解らない、のが悩みの種である。
(3)アルコールのことなど.
 私は酒と酒宴は好きでなく、極端に弱しので、職場の行事で年数回飲む程度である。しかし、大曲赴任中は夜半についウイスキーに手が延びラッパ飲みする。時々深酔いするが、こんな時でも、うかうかと寝込むわけにはいかないのが辛い.温くなり始めた風呂の火を止め、水道栓、ガスなどを点検しないと水道管を凍結させるからである。朝もゆっくり過ごす気にもならないので6:OO-7:OOには出勤したが、若干の酔いが残っていることも稀でなかった。好きでもないアルコールで時間を無駄にするなど、これまた空しい.帰宅時は、今晩こそ止めるぞ、と思っていても何ともならなかった。アルコール症の患者で環境が酒の原因になっている例は多い。環境に手をつけずにいくら診察室で医師が説得しても禁酒効果が出ないのは当然である。深酒が身体に良くないことなど医者に言われなくとも稚だって解っている。
(4)雪かき、雪害せ
 自宅は道路状況がよくないので除雪にはかなり気を遣う.初回赴任時、私の労力代りにやむなく除雪機を購入した。週末毎にやり残しの除雪をまとめてやったが重宝した。大曲赴任がもたらした副産物である。大曲はさすがに雪が多い.激しく降る日には夕食後に一度帰って除雪した。夜半の帰宅時にも除雪が必要なことも時々あった。早朝には除雪車が寄せた雪を処理しなければならないが、この作業は大変である。初回、2回目の住宅の場合、車で通勤する必要はなかったが、一度でも手を抜くと車を出すとき大変な作業になった。秋田で土日を過ごして帰宅した際には車を入れるのに1時間以上もかかった。特に2回目赴任時の住宅では雪を寄せるスペースが狭かったために雪を背の高さほどに積み上げるか、スノーダンプで道路反対側に捨てなければならなかった。この家では、屋根からの落雪が玄関とガレージ脇にたまるので頭に来た。4回目には庶務に深雪の時には適宜除雪をしてくれるようお願いした。実際どなたがやってくれたのか解らないが、お陰で前ほど苦労しないですんだ。
2 生活費のことなど一もう少し何とかならないだろうか
 大曲に単身で在住した場合、家族の分と生活が二重になり、経費も余分にかかる。私の主たる出費は秋田との往復に費やす交通費で、タクシー、特急券を含め平均月額8万円程度であった。そのほか、外食、光熱費、日曜雑貨品の購入などを入れるとかなりの額となる。
 赴任すると月額(?)万円の特別勤務手当を頂くが、この額では到底間に合わない。この手当は1975年に若干改訂された以後は一切改訂されていない。当時は十分だったろうか、今では最低限倍額は必要である。ほぼ
定期的に赴任する数人の医師は、生活上で不便・苦痛を味わっている他に、医師としての業務上の責任をまとう出来難くなると云う二重三重の苦痛も味わう。さらに、赴任に伴って必然的に増える費用を自腹を切ることになる。こんなバカげた話はない。
 1990年以降、単身赴任者には月額(?)万円の手当と大曲における水光熱費用の法人負担が新設された。方向性としては喜ぷべきと思うが、我々当事者に実情調査もなく、何を基準に弾き出した額なのか解らない.担当者がこの程度なら文句は出まい、と適当に設定した額、と私は考えている。これも2倍は必要である。現場の諸問題が、現場に直接タッチしていない部署で決定されるが、現場の意見が反映されていることは少なく、結果を見てガックリ乗ることもたびたびで意欲がそがれる。

3. 最近の大曲への医師派遣の趨勢と問題点ー特に科長派遣について一
 大曲中通病院の科長のローテーションが話題になる度に、心穏やかならざる状態になるもう一つの理由は不公平感である。重複する点もあるが私の目から見た問題点を整理する。
★ 大曲中通病院開設当初以降現在までローテーション医の果たしている役割は大きい。応援無しでは有床診療所程度に縮小しかねない。なのに診療応援の意義が十分には評価されていない
★ 大曲にローテーションする医師の構成は大きく変化した。当時は20代の研修医が中心であったが、現在は30代科長、40代後半の部長クラスも入る。しかし応援医への待遇は開設当初のままの発想で終始している。
★ 科長は増えたが、大曲にローテーションする科長は減っている。そのルーツは高度医療ではなく高額医療を行う部署の事情を優先させてきたことにある様に見える。一方、実行力を骨抜きにされながら.そのことを問題視しない県連の指導性の欠除も問題である。
★ 一部の科長のみが赴任ローテーションに入るので、不公平である。複数科長の診療科はローテーションに入り得る。極論を言えばヒトであるかぎり突然死することもある.3-4ヶ月間、斜長の]人が死んだと仮想し、全病院的視点で対応すれば不可能ではない。
★ 頻回に派遣される科長は中通病院での仕事の継続性を断たれ、医師として責任を負えず、意欲の減退に結びつく。医師確保にかなりエネルギーを割いているが、実績のある現職員を失わないようにする方か遥かに重要だと思う。
★ 赴任者は中途半端な二重生活を強いられる。その苦痛は何物によってもまかないきれない部分と、設備、工夫、などの充足で軽減できる部分もある。
★ 科長は殆ど単身赴任となり、家族、本人にとって不都合このうえない上、生活が二重になることに由来する経費は手当の額を越え、特に冬期間は経費が増す。この経費超過分は個人負担なので、言葉を替えればわれわれが法人から給与の一部を搾取されている状況とも言い得る。
★ 年齢と共に各人が抱える問題は増えていくし、超個性的になるので一律的対応では解決できないが、全く評価されないならば、個人的に事情があるので、とローテーション入りを拒否するのが一番賢明なやりかたである

4. 大曲への医師派遣の今後。特に科長の派遣について
 大曲の医師政策には医師集団がかかえる諸問題が色濃く反映されているが、ここでは述べない。現在、大曲中通病院の医療コーソー、県連の医療コーソーを作成中という。当然医師政策も示されると思う。作文として終わるのか否かを含めて、その結果を楽しみに待ちたい.
 以下に思い付<程度の私見を述べる。
● 大曲中通病院に医師が充足する時期は必ず来る。しかし、それまでは天変地異でもあって大曲中通病院に複数の赴任者が出ない限り応援医無しにはやっていけないだろう.
● 住宅事情が悪いと書い統けるなら、建築するよう働き掛けるべきである。是非実行してもらいたい.
● 短期間といえども頻回の単身赴任は、不自然な勤務形態である。希望者が居れば別だが、可能な限り避ける様にしたい。秋田一大曲間60kmは通勤可能圏であり、特急列車は1時間毎にあり、僅か40分、さらに高速道路も開通した。単身赴任をせずに業務の遂行が出来るような発想を導入し易い時代になった。
● 単身でない赴任が可能な年代は、若手料長と熟年科長の世代と思われるので協力を要請する必要があろう。
● 一度は赴任したものの二度と行きたくないと表明している斜長もいる。その背景になっている要因の分折が必要である。
5 おわりに
 今年も科長ローテーションが話題になっている。また私にも6回目の赴任の話が回ってくるだろう。私が何故何度も赴任するのか?・・・と時に問われる。理由を簡単に述べるのは困難であるが、
大曲中通病院の内科系現スタッフの赴任に大なり小なり前向きの方向に係わった立場上、避け難い責任を感じているから、と答えておく。しかし、潜む問題点を明らかにせず、安易に赴任することが矛盾点を寧ろ覆い隠す、という二面的作用も果たすことを思うと割り切れなさが残る。大曲中通病院の診療維持は法人にとっては重要であろうが、私に責任はそれほどあるわけではなく他の斜長となんら変わるところはない.本来ならばより責任を負うべき立場にある方々が対策を考え実行するか、自ら担うか、すべき問題である。
 なお、これは2、4、5回目の赴任時に大曲中通病院医局日誌に記述した内容に加筆したものである。
(1992/6/1記)