徒然日記
2006年5月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


5/31(水)快晴   外来 人間ドック診察  県医師会常任理事会+委員会
 2:00起床。ドック判定x1.紹介状他。5:20病院着。6:20回診。 9:00-14:00外来+人間ドック結果説明。17:00県医師会打ち合わせ、17:30-19:30県医師会常任理事会、19:30-21:00委員会、2件対応。21:15-22:30病院、22:45帰宅、23:00就眠。

靴ずれ予防と対策に何が一番重宝か(1)
 私は履き物と言えば四六時中ほぼスリッパである。子供の頃はわら草履やゴム製の草履であった。初めてスリッパを見たとき、初めて買ったときの感激、驚きは今でも覚えている。だから私の主たる履き物はそれ以降ずっとスリッパである。ホテルやレストランで入るのを断られたこともあり、学会の演題にスリッパで上がり顰蹙を買ったこともある。
 何時かスリッパ談義をやりたいがお相手が見つからない。誰かいませんか??

 スリッパなら数え切れない程買ったし、若干のこだわりもある。だから靴を履く機会は滅多にない。だから、今まで、自分で購入した革靴は2足しかない。60年でたったの2足である。2足目の靴は3年ほど前に購入したが、ほぼ同時期に長男が捨てそうにしていた古い靴を荷物の中に見つけ、奪い取って、新品はしまい込み、それを先週まで履いていた。
 しかし、履いているだけなら大部分ズボンで隠れるからまだ立派に通用するが、時には靴を脱いで上がらねばならない和式の会合もある。脱いだ私の靴は色は褪せ、形も無惨に崩れ、革も裂けて見事にボロである。下足番の方から出して貰う度にあまりのひどさを自覚し続けていた。私のポリシーだけで言えば未だまだ履けるが、泣く泣く、遂にゴミ箱行きとした。

 と言うことで、先週、3年前の靴を出して履いてみた。今までのに比較するとやや小さめで形は良いが皮は硬い。早速月末の仙台出張時に履いて行ったが、僅か30分も経たないうちに両方のかかが歩く度に痛くなった。新幹線の中で確認したら発赤と水泡が見事に出来つつある。
 これ以上悪化すると歩行も難渋する。そうなれば1日中が拷問である。こんな事もあろうと予想して治療用の道具を持ってきている。早速それを用い、仙台の会議と往復の旅程を難なく、痛みもなく過ごすことが出来た。
 私にとって靴ずれ、スリッパずれの予防と対策の際に手放すことの出来ない宝物があり、新しい履き物を下ろす度に持ち運んでいる。


5/30(火)快晴   定期処方箋発行 東北ブロック感染症危機管理会議 中谷先生葬儀(欠) 医局会・MC(欠)
2:00起床。ドック判定x1.書類2,3処理。紹介状他、いつもの如く淡々と処理。5:20Taxi病院着。6:00回診、定期処方30数枚送付、やっとスムーズに送れるようにな
た。 9:40駅に、10:04こまち。13:00-17:00東北ブロック感染症危機管理会議(仙台国際センター)、17:38こまち、20:15病院、22:00帰宅、22:30就眠。14:00からの中谷先生葬儀は残念ながら欠席。常務会は中止。医局会・MCも欠。

中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長を悼んで(2)
 
中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長のご葬儀は本日14:00より明和会体育館において中谷家と明和会の合同葬として営まれたが、私は新型インフルエンザ・パンデミック時の危機管理が主題である東北ブロック感染症危機管理会議への出席を優先させた。尊敬出来る数少ない臨床医のお一人として個人的にも、また、法人内の立場の上からも葬儀に列席できず実に残念であったが、私は今回は別の立場の方を優先させた。とても残念であるがやむを得ない。

 中谷先生の業績は法人や病院の発展に貢献されたことに留まらない。兵器廃絶、被爆者援護法生態などの平和運動、労働者の健康問題、各種の社会保障制度改善運動などの方面での活動も挙げなければならない。常に社会をクールに見つめ、弱者に温かい目を注ぎ、社会運動に参加されていた。
 先生は広島県出身で、自らも被爆体験がおありになったと聞いたこともあるが、秋田市近隣の被爆者の検診や健康管理も一手に引き受けられていた。その二次検診の役割は私がずっと担当している。数少ない先生と私との間の接点である。

 私が中通病院に赴任してきて2年目のこと、秋田県民医連学術集談会を主催する機会があったが、その時特別講演を依頼した。その時に初めて直接お会いして対話したのであるが、その時、私が血液の臨床を学んでいたことを知っておられ、「自分が若い頃、急性虫垂炎から敗血症を起こした患者さんを慢性骨髄性白血病と誤診しましてね・・」と切り出された。その時の先生の謙虚な表情、表現から臨床医としての優れた姿勢が直感でき、互いの距離が急速に縮まったことを自覚し、その後は先生のかかれた多くの文献を親しみを持って読ませていただいた。病院の図書室にこもり文献を収集されいた先生のお姿にも数多く接した。
 心に残った著書として前後二冊の「長生きの本」がある。高齢の方々に対する先生の暖かな慈しみの気持ちがあふれ出ている名著である。私の講演の資料としても何度も何度も使わせていただいた。

 私の問題点の一つとして人と交わることが少ないこと、を挙げねばならない。この病院に勤務してからもう20年にもなるが、医師をはじめ、共に働いている職員達との対話は少なく、プライベートな事に関しては興味も知識も殆どない。中谷先生に関しても、臨床医として、社会運動家の一人として注目はしていたし尊敬も気持ちもあったが、私が中谷先生に関し記述できることは余りにも少ない。

 後に、医師会雑誌他に先生をしのぶ追悼文が掲載されると思う。私はそれを読むのを楽しみにしている。恐らく私の知らない先生の面影が語られると思う。さらに、先生の遺稿集がまとめられないのであろうか、とも思うし願っている。

 中谷先生、心からご冥福をお祈りします。


5/29(月)快晴  管理会議    外来 療養判定会議 法人第一回評議員会 
2:00起床、ドック判定総括他。淡々と業務処理、5:00出勤。6:00回診、紹介状作成。8:00-8:45管理会議、9:00-13:30外来、16:00-16:30療養判定会議、長副会議なし。17:30-19:45法人第一回評議員会、懇親会で挨拶。20:00帰宅。20:30就眠。

中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長を悼んで(1)
 中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長は、病気療養中のところ、5月25日午前に中通総合病院で永眠された。心から哀悼の意を表したい。先生は昭和5年広島県生まれで、享年75歳。今の時勢から見ればまだまだお若く、先生の死は先生を知る多くの方々から惜しまれている。

 中谷先生は、中通診療所の創始者である瀬戸泰士現中通総合病院名誉院長とともに、種々の困難の中、日夜を問わず精力的に診療にあたられ、明和会の礎作り、中通病院、中通リハピリテーション病院の発展に大きく貢献された。当時の医療活動については、それを知る秋田市市民、秋田県民からは今も半ば伝説的と言っていい様相で語られている。
 先生は昭和29年に東北大学医学部を卒業され、青森県の健生病院勤務を経て、昭和31年中通診療所に入社、翌年副院長に就任された。当時、秋田県では脳卒中が多発し、県民病と迄言われていた時代である。先生はその診療に誠意あたられていたとのことであるが、一生懸命になればなるほど治療の限界を体感されたのであろう、当時脚光を浴びつつあったリハビリテーション医学に注目され、独学でリハビリテーション医学を学ばれたのだという。
 昭和44年6月には139床の中通リハピリテーション病院を発足させ、翌45年院長に就任した。昭和50年4月には新病院を建設し、以降、都市型のリハビリテーション施設として全国的にも注目をされる存在にまで発展させた。平成2年6月に院長職を辞し、名誉院長に就任されたが、その後も往診や外来診療を担われていた。

 上記は私の手元にある資料・文献を参考に中谷名誉院長の足跡を私の目でまとめたものである。
 私は昭和60年に中通病院に赴任したが、中通リハピリテーション病院は僅か2-300mしか離れていないものの、私にとっては遠い存在で、残念なことに先生とはそれほど接点を持つことはなく、直接お話しする機会も実に乏しかった。会話を直接交わした時間は全部合わせても1時間に満たないかもしれない。先生と私の接点は患者の紹介を介してと、先生が書かれた数々の文献、文章を通じて、が主たるものである。ここ数年体調がすぐれなかった、とは聞いていたが、最近まで外来診療にあたられていた、とも聞いていた。先週、私どもの病院に再入院されたとは連絡を受けていたが、予想していたよりも経過が早く、直接お見舞いする機会は得られなかった。残念である。

 先生のご葬儀は明日5月30日(火)2:00pmより明和会体育館において中谷家と明和会の合同葬として営まれる。


5/28(日)曇り→雨 病棟拘束 FF tennis(中止)で不要品廃棄
2:00起床、ドック判定総括x1他。退院総括、紹介状、主治医意見書、新聞一週間分チェックほか。午前から降雨ありFF tennis中止となる。10:00-15:00頃まで古いパソコン周辺機器、コンパクトカセット200本、フロッピーディスク100枚ほど、古い本など燃えるゴミ収集し廃棄の準備。趣味の木工用木材も大量に廃棄。身軽になった。まだまだ廃棄物大量にある。この間数ヶ月振りにレコードを聴く。15:30-16:30午睡。17:00-20:00病院にて残務。来客あり歓談、20:30夕食、21:30就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (1
7)  
昭和58年ころ、大学での勉強に終止符を打つ決心をする(2)
 大学に移って5年ほど後に岩手県立宮古病院の院長、副院長が秋田に来られ、そろそろ宮古病院に赴任を、と希望された。私自身が恩師のうちのお二人と思っている方々が私を認めて戴き、内科を託すということで誘っていただき、本当に有り難い話であった。しかし、この頃はちょうど教室にとっても、私の勉学や研究にとっても重要な時期であったために丁重にお断りせざるを得なかった。岩手に帰る漫然とした方向性はその後も持ち続けていたが、具体的な機会はこのときが一つの大きな機会であった。
 その後も約5年間秋田大学第三内科で仕事をさせていただいた。
    この間、1-3ヶ月間と短期間であるが県内の二つの大規模病院に赴任する機会があった。この赴任を通じて私の心の中には何れ大学を離れ臨床医として生きる方向が少しづつ形作られていった。

 初回はある病院の内科を将来的に第三内科がそっくりお手伝いする予定となりその準備役の一人として約2ヶ月間赴任した。その後、そこの病院はずっと秋大第三内科が担当して現在に至っている。その2ヶ月の間に当時の副院長が担当する患者を診療させていただくことがあったが、緻密な考察と綺麗な字で整然と書かれたカルテを見て感嘆した。また、副院長が淡々と語った臨床医としての医療観からも多くを学ばせて戴いた。この時、私自身が医師になる時に抱いていた臨床医としての姿。初心を忘れかけていたことに気付かされた時でもあった。

 次の赴任の機会は全く思いがけなく訪れた。


5/27(土)秋田・仙台快晴 病棟拘束 中谷名誉院長火葬 東北医連理事代表者会議 石川代議員議長祝賀会
2:30起床。ドック判定総括x1,院内・医師会関連文書作成。5:20病院着.回診とか。9:45-10:30中谷名誉院長火葬、秋田市斎場に。紹介状書類処理。14:05こまちにて仙台に。16:30-17:25東北医連理事代表者会議、17:30石川日本医師会代議員会議長就任祝賀会、中座して駅に、新書数冊購入、18:38こまち、21:00秋田着、21:20帰宅、22:00就眠。

「人を信じてはいけない」、と言う教育
異常性
 子どもと老人が被害に遭う事件が後を絶たない。いやな時代になってしまったものだ。世の中が確実に、かつ、急速に変わりつつある。
 老人の場合は金銭問題が主であり、何とかすることが出来るが、子供の場合には誘拐事件とか殺害事件になる。かつては誘拐事件が多かったように思える。この場合、必ずしも命を奪われずに助かる場合もあった。最近は行方不明事件が生じると暗い結末が予想されて嫌な気分になるが、結果は殆ど予想の通の展開である。「命を奪う」という行為に抵抗も感じないような人間が増えている。
 欧米では夜道の一人歩きすることなど考え難いこと、危険で非常識なこと、であることは聞いていたし、訪れた時には実感もしたが、子供の登下校時には親が付き添うのが一般的なのだ、という事は最近初めて読んで驚いた。子どもだけで登下校できていた日本は先進国の中ではまれな存在だったとのことである。安全な社会に住んでいる常識人の一人である私にとっては、こんな話題を聞いても俄には信じがたい。

 藤里町の男児殺害事件はまだ犯人は見つかっていない。その2ヶ月前には女児が川で死亡している。両者に共通の接点を持つ人の犯行かもしれない。一日も早い解決が望まれるが、犯人逮捕によって新たな、解決困難な社会的問題となりうる可能性がある。

 この事件の後、県内の小学校では人を信じるより、疑うように、知らない人とは接点を持たないように、と教えているのだという。子供が犯罪の被害に遭わないためには知らない人に声を掛けられても応じない様に教育するのが一番だとされる。しかし、今は一歩進めて顔見知りの人に対してさえ心を開かないように教えると言う。その結果、「おはよう」と挨拶の声をかけた大人におぴえる子もいると言う。

 大人として、人を信じること、人とのふれあいの素晴らしさを子供達に伝えることが出来ないのはとても辛いことである。我が家にも子供連れの若い夫婦が遊びに来ることもあるが、かわいい笑顔そのその子達に、教訓めいたことは軽はずみに言えなくなっている。

 子供に対する人間的教育は二極化にせざるを得ないだろう。子供達に家族・親族、隣近所を中心に、心を開ける大人達と十分にコミュニケーションを取らせ、それを通じて人とのふれ合いの心、暖かいを育む事である。一方、知らない人への対応の仕方をきちんと分けて教えることなのだろうと思う。前者を欠いたままで後者を強調した教育をすると人間関係に漠然とした恐怖心を持つ子供、大人が育ってしまう。そんな人間たちが作る社会は考えるだけで恐ろしくなる。

 良い医療は患者・医療職間の人間的ふれ合いが無ければ成り立たない。局限すれば、暖かな医療そのものが成り立たなくなるのではないか、とさえ思う。


5/26(金)晴天  外科系統括科長面談 人間ドック診察 医師連盟執行委員会(欠) 法人理事会 秋大井樋整形外科教授壮行送別会
2:30起床。ドック判定総括x1,総括、紹介状、医師会関連業務。5:15バイク病院着。回診とか。8:00外科系統括科長面談、10:00患者家族面談、患者対応。13:30人間ドック診察、17:00医師連盟執行委員会は物理的に不可で欠。17:30法人理事会、中座して19:00井樋教授壮行送別会(View)に出席。盛会であった。21:45帰宅、22:00就眠。

病院地下設備探索 エネルギー関連巨大システムに驚き、感心した
 私が長い間担当してきた月曜午前の内科外来を4月から隔週に担当することにした。管理者としての時間が欲しいからである。それによって確保出来た時間の一部を用いて当院の専任の医療安全管理者である師長と共に安全管理の視点から院内の巡視をしている。今までは望まれていても時間的理由から不可能であった分野である。

 今まで2回、病棟や検査課、医事課など見て歩いた。病棟は日常の私の仕事場であり、安全管理上でも大体満足すべき状況にあったが、午前のこの時間帯に訪れると医師・看護師が入り乱れて業務を行っており、さすがに狭い。特に検査課・医事課では圧倒的スペースを占拠する各種測定機器、資料・書類の量にスタッフの居住空間が圧迫され、前者では騒音もひどい。解決にはスペースの確保が絶対的に必要であるが、これはおいそれと解決出来る問題ではない。ただ、いま進行中のオーダリングシステムへの切り替えによって多少の変化がもたらされる可能性はある。

 3回目巡視の今週の月曜日はかねてから興味を持っていた階下設備等の巡視である。当院では私は未だ一度も足を踏み入れたことのない領域である。給水湯、冷暖房等の空調、電気・ガス等のエネルギー関連設備、補助発電装置、医療ガス供給関連施設、加圧・減圧配管設備、消火設備、電話・IT関連の通信設備等の諸施設で施設課長の案内をで見て回った。要するに、病院の機能、ライフラインを維持する中枢的設備である。これらの施設・設備をまだ直接この目で見ていない、と言うことは病院管理者として私の大きな負担になっていた
 エネルギー、空調の多くはこの地下の設備から配管、配線が病院の隅々まで張り巡らされ、機能が維持されている。心臓と血管の関係であるが、その全てのルート、設備の現状の問題点を把握している施設課長の知識・見識もさることながら、24時間体制で切れ目無く、病院の医療活動の表に全く出ることもなく、裏方に徹して保守点検を行っている職員の働く姿に感じ入った。病院のスタッフとして通常挙げられる職種の中でも最も目立たない存在であるが、その働き、技能は大きく評価しなければなるまい。

 巨大な台風や地震等の自然災害時等の際、あるいは火災、あるいは等施設内設備の故障等の際、診療維持や患者の安全確保がすぐに語られるが、それとは別にこれらの巨大なパワーを有する各施設の安全確保も優先事項である。これらの機器、施設、設備がシャットダウン、あるいは暴走した際に生じる二次的・三次的被害はただならぬ規模にもなりうるものと推察する。病院の安全管理の責にあるものは定期的にこれらの施設に関する情報も頭の中に入れておかねばならない。
 また、目から鱗が数枚落ちてしまった。


5/25(木)快晴 中谷中通リハ病院名誉院長死去 外来  新型インフルエンザシミュレーション(出席不可)   
2:00起床。ドック判定総括x1。紹介状返事その他。5:20バイク病院着.6:10回診・紹介状関連書類他.当院創業期の医師のお一人である中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長が7:43死去された。9:00-14:00外来、混雑.新型インフルエンザシミュレーションは参加不能。机上処理中心。21:00帰宅、夕食、21:45就眠.

新品のズボンが同じ場所が擦り切れた(2) 貧乏揺すりの定量化
 先日の月曜日22日は外来がなく院内巡視と机上の執務が多い日である。実際に私がどれだけ貧乏揺すりをしているものか、を定量的に測ってみた。方法として万歩計を使用した。
 ちょうど機会良く、2週間ほど前にある患者から2ヶの万歩計を戴いた。今、ウイスキーの「12年ものジョニ黒」には特別限定品として万歩計が付録?に付いているらしい。「先生は酒は駄目らしいが、重りをつけて歩いているくらいだからこれを使え」と言ってその万歩計を持ってきてくれた。ジョニーウオーカーのラベルには紳士が歩く絵が付いているからそれにちなんだ付録なのだろう。確かに運動を一切しない彼には役立たなさそうな代物である。
 体脂肪計、時計、タイマー、消費カロリー計算など機能盛りだくさんである。これを両側の下肢に付ければいいのだが、付けようによっては私の意識が集中し貧乏揺すりが増えるだろう。アンクルウエイトに取り付けてみたところ装着感はゼロ、しかもきちんと機能する。

 会議の前後の9:00-14:00の5時間装着したが、左足は6800歩、右足は3200歩、腰に付けたアナログ式の旧式万歩計は1500歩を示している。要するに5時間の間に左足で5000回、右足が1700回ほど揺すられている、と言うことである。この間、左足は机の木製の脚に軽く押しつけられている。机の脚はふれた範囲では特に凹凸もなく、表面はスムーズである。そうは言ってもこれほど擦りつけられたら、布製のズボンが擦り切れるのも当然だろう、と納得できた。

 それにしても随分貧乏揺すりをしているものだ、と感心した。そんなに苛ついているわけではないが、机上仕事は常に時間に追われているし、考え込むことも少なくない。こんな時に無意識に貧乏揺すりをしているのだろう。やはり役職が関係しているのだろう。院長の必要経費として「ズボンの擦り切れ費用」を計上したいものである。

 擦り切れると言えば、私のYシャツが着れなくなる理由は殆どが襟の左右の擦り切れであった。他の部分が未だ大丈夫なのに何故なんだ?、とこれも暫く理由が分からなかったが、聴診器の金具によるものと分かった。この20年間月曜から土曜まで毎日外来に出ていて、その間ずっと聴診器を頸に掛けているから当然であろう。半年前から外来が週3-4回に減ったからYシャツが駄目になるのは少なくハズである。
 ズボンが代わりに犠牲になっている、と言うことですな。


5/24(水)快晴   外来 大学病院訪問 県医師会理事会 県医師会地域医療検討会
2:00起床。ドック判定総括x1,他処理。5:10病院着.6:15回診、書類他。 9:00-14:00外来、15:50-16:20大学病院訪問、16:30-18:20県医師会理事会、18:30-20:10県医師会地域医療検討会、20:30病院、患者死去。22:00帰宅、22:30就眠。

新品のズボンが2本共4ヶ月で同じ場所に穴(1)。原因がやっと分かった
 昨秋から連日着用していた厚手の冬用のズボンの左膝外側部分が、何となく摺り切れた状態になっていたのに気付いていたが、新年早々2cm程の穴が開いた。別に転倒したりしていないのに摺り切れた状況になった理由は思いつかなかった。摺り切れつつある状態は私にとっては別に大したことではなかったが、穴が開けばさすがに外来や来客の前ではまずい。早速、夜も開いている洋品店をさがして新たにズボンを購入した。この時、買いに行くのも結構面倒なので同じものを2本購入した。

 気に入って履いていたが、新しいズボンも何となく同じ場所が弱ってきている、何故なんだ?と感じていたが、ゴールデンウイーク前にこれも穴が開いてしまった。今度は一気に5cmほどの摺り切れ穴である。結構厚手の生地で出来ているのを選んだのに、弱いもんだ、と驚いた。幸い予備のを購入しておいたのですぐに履き替える事が出来た。

 何故二本も同じところが摺り切れるのか?いろいろ考えたが、思い当たらない。
 ある日突然ハッと気がついたのは、病院で在室時間のほとんどはパソコンのディスプレイを見つめて仕事をしているが、そのディスプレイを正面でなく机の左側に置いている。だから、私は大部分の時間を左を向いて仕事をしていることになる。そのとき私の膝が机の脚に接している。これが原因であった。
 膝が机の脚にこすりつけられている程度では通常はズボンが擦り切れたり、穴まではあかないだろう。
 しかし、私にはこの状態ならば穴があくだろうと思われる原因がしっかりあった。それは激しい貧乏揺すりである。それともう一つ、私はスチール机を嫌い、古い木製の机を探し出して用いていることである。この2点が原因である。
 先日の月曜日22日は外来がなく机上の執務が多い日である。実際に私がどれだけ貧乏揺すりをしているものか、を検討してみた。
 暇だね、と思われるかもしれませんが決してそんなことはありません。貧乏揺すりの実態を知りたい、ただそれだけです。


5/23(火)雨   7A定期処方箋発行    外来    法人常務会      医局MC
1:30起床,ドック判定総括x1,医師会・病院書類、ほか.5;10病院着.6;10回診、定期処方箋発行。臨時と合わせ30枚以上で2時間弱かかった。従来なら30分程度で済んでいたがまだオーダリング不慣れのため。9:00-14:00外来。14:30-16:30常務会(本部5F)。17:30-18:00医局会・MC-糖尿病性舞踏病(神経内科)。病院業務。21:00帰宅、21;30就眠.

ボロ自転車盗難(2)私は病院では2台目
 先日病院の駐輪場に置いたままにしたボロ・マウンテンバイクが、僅か二日間で見事に盗まれた。毎日駐輪場に行ってみているが未だ戻ってきていない。

 私は当駐輪場で自転車盗難にあったのはこれで2台目である。一台目はオールアルミ製のスポーツタイプのものでわが家の隣の息子の持ち物であったが、車か何かと接触した事故でフレームが曲がるなどして、2-3年物置の外に放置されていたが、僅かな金額で引き取りこれも時間をかけて調整、ほぼ通常並に治して数年間使っていた。
 どの程度ひどい外見であったかというと連日使っているにもかかわらず、当院の放置自転車処分の時に2度ばかり駐輪場の隅に積み上げられたことがある。奥から引き出して貰ったが、担当者が恐縮していた。

 これほどの自転車であるが、3年ほど前の夏、遂に盗難にあった。古いチェーン式のロックをかけて柵に固定していたがペンチか何かで切られたらしい。ところが、盗難に遭ってから約一週間後に奇麗になって駐輪場に置かれていた。しかも真新しいチェーンロックが掛けられた状態で、注油などもされていた。で、私は使用者が誰であるかを特定するほど時間的な余裕がなかったからハンドルに、「どなたか知りませんが、これは私の大事な自転車で、未だ現役で使っていますのでお返し下さい。今晩はロックを外しておいてください。・・・内科医師、福田」と書いたメモを封筒に入れて付けて置いた。しかし、期待に反して自転車はなかった。時々注意してみているが、その後は病院の駐輪場ではこの自転車を見つけることは出来ない。多分、あの様子からみて自宅の周辺か何処かで大切に利用されているのだろうと思う。それが一抹の救いである。

 自転車はかなり盗難にあっているらしい。私の周囲の方々からも時々被害にあったという話を聞く。持って行く方もそんな深い考えで盗むのではなく,ホンのチョイ乗りのつもりで持って行くらしい。これは困った風潮である。私はまた時間をみて再生自転車を作るとしよう。

 警察庁のデータによると本屋やコンビニ、スーパーなどでの14歳以下の子供達の万引きは1998年に14,700人を記録したが、以後は減少しつつあるという。しかし逆に小学生の万引きは増えつつあるらしい。その際、かつては店主達は親を呼び、一緒に注意していたが、最近では直に警察に連れて行くという。親を呼んでも「この程度のことで親を呼ぶのか・・」「要するに金を払えば良いんだろう・・」等と罵られ、むしろ店の方の対応に問題があるような対応をするらしい。親がこういう態度だと、もう家庭での教育は地に落ちたも同然である。

 子供の小さな非行や万引きはその芽をその時に摘まないと更なる非行の入り口になっていく。子供の時に善悪の区別と倫理観をしっかり教え込まなければならないが、その立場にいるはずの親たちに問題があるとすれば、これからますます社会は悪くなっていく。
 最近、凶悪事件が増えているが、何れも理解できないほどちょっとした理由から生じている。


5/22(月)雨    管理会議 院内巡視 秋田県医療審議会 療養判定会議(欠) 長副会議
1:30早めに起床。ドック総括、本日退院患者の紹介状、返事の準備に追われる。5:15病院に。6:10回診、8:00管理会議。9:00-
10;40院内巡視。机上業務、秋田銀行来訪。15:00-16:45秋田県医療審議会、中座して帰院。17:00-20:15長副会議、21:00帰宅、夕食、21:30就眠。

ボロ・マウンテンバイク、見事に持ち去られました
(1)
 5月17日自転車で出勤、行事とかがあったために駐輪場に置いたままにしたが、僅か二日間で盗まれた。

 この自転車は長男の友人が引っ越しの際に捨てる積もりで寄せておいたもので、私なら再生して用いるだろうともらい受け、遠路運ばれてきたもので、昨年春、そのままでは到底乗れない状況で届いた。かなりの年代物である。ボディの主たる部分はアルミ製であるがハンドル、リム等の金属部分は茶色にさび付き、マア、通常の価値観の持ち主なら捨てても仕方がないレベルである。
 ハンドルは水牛の角の如くに前に飛び出している形で、前フォークはスプリングとオイルダンパー付きである。変速機は前部が3段、後部が7段の計21段であったがこれもうまく機能していなかった。昨年夏、今春と時間の隙間を見つけては少しずつ整備し、やっと乗れる状況までにし、前日に夜の帰りのために、とライトも取り付け、初めて通勤に乗って行った。鍵を付けることと車体に名前を書くことは時間が無く、ちょっと後回しにしたが、これがすっかり裏目に出た。
 駐輪場の他の自転車と比べても外見は見るからにひどく、目立たないし、盗まれる可能性は乏しいだろう、週末にでも良かろう、と考えたが甘かったようである。それにしても持って行く方の、選択眼は大したものである。私と共通したところがあるかもしれない。

 ガックリ来たが、私は未だ戻ってくるという可能性をまだ捨てていない。前にボロ・スポーツタイプの自転車をとられたときは一度戻ってきた、と言う経験があるからである。毎日一回、駐輪場をぐるっと見回している。チョイと気軽に借りていったと言うこともあり得る、そうであれば戻ってきているかもしれない、と言う淡い期待である。残念だが昨夜まではまだ戻っていなかった。
 駄目なものを再生するのは実に楽しい。愛着も湧いた。盗難届を出すにも車体番号とか解らないから出せないし、ウーン、実に残念である。

 まさか持って行った方が私のこの小文を読むとは思っていないが、もし読んでいたら是非返して欲しい。もし、本気で持って行ったのなら捨てないでしっかり利用して欲しい。捨てるなら中通総合病院駐輪場に持ってきて捨てて欲しい。


5/21(日)快晴  病棟拘束  FF tennis 
2:00寝不足感あるも起床、ドック判定総括x1。退院総括、主治医意見書など処理。新聞1週間分チェック。早朝からずっと不整脈で不快。昼まえ睡眠若干。13:00-16:40 FF tennis ハ4-6、6-3 、3-6、4-6と負け。快晴の中、怪我もせず楽しめたことを是としよう。17:00-19:45病院。20:00帰宅、夕食、22:30就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (16) 
昭和58年ころ、大学での勉強に終止符を打つ決心をする(1)
 私は、昭和48年に秋田大学に入局したが、当時の心境、目標は数年間程度、秋田大学内科教室で血液疾患の臨床を学ぶ事であり、その後は出身地である岩手県の、出来れば郷里にそれほど遠くないどこかの医療機関にて医師として働くことであった。それが年老いた両親の望みであったし、私自身も私を育ててくれた地域の人たちと共に過ごす事に、それなりの意義を感じていたからである。

 当時の秋田大学は創生期、発展過程であった。1975 年(昭和50年)4月には医学部に内科学第三講座の開設が認可され、第一内科S助教授は第三内科の教授に就任した。私ども血液班メンバー10名は第一内科を離れ、第三内科員として独立し、新しい教室の基礎作りに精を出した。
 翌1976年( 昭和51年)3月には医学科第1期生が75名卒業し、第三内科には6名が入局した。同年 8月には新病院(鉄筋コンクリート8階建,地下1階)が竣工し、9月には新病院移転し、広面地区にて診療が開始された。 10月に附属病院の診療科として第三内科(16床)が認可される等、徐々に第三内科教室としての陣容が整っていった。

 血液学の基礎や臨床を学ぶ喜びは大きかったほかに、この時期は私にとっても業務が溢れるほど多く、身辺は結構多忙であり、実に充実した良い時間を持つことが出来た。常に郷里との関係、年老いた両親のことは念頭にあったが、この様な身辺の状況の中、当初の、数年間秋田大学で学ぶ、という期間の設定は次第に薄れていった。一方で、時間の経過と共に、家族も増えていくと秋田の地で徐々にいろいろな人的な交流が増えていき、しがらみが増えていく。

 決定的に考えが変わったのはやはり両親の死去の後である。これによって私の心の中で、何れは岩手に戻る、戻らねばならぬと言ったある種の義務感はほぼ消失、私は自由な身となった。
 その代わりに、秋田の地で医師としてどのように過ごすべきかを考えなければならなくなった。


5/20(土)晴れ 病棟拘束 秋田県臨床内科医会伝達講習会講演
2:00起床。ドック判定総括x1。本日の講演準備、データ集め、他、5:20Taxi病院着、6:30回診ほか。主治医意見書x1。病棟対応.講演準備.15:30-18:30秋田県臨床内科医会伝達講習会、県医師会長挨拶の代読と講演「わかりやすい免疫学」3名の演者の一人として「膠原病-慢性関節リューマチを中心に」を担当した。19:10-20:30情報交換会にて歓談、Taxi帰宅、21:00就眠。

八重桜の花びらで白のプリウスがピンクに
  桜の季節から約2週間ほどたち、我が家の八重桜が数日前に満開を迎え、一昨日頃から散り始めている。桜の木は中程度のサイズのが一本だけであるが、濃いピンク色の花がたわわに枝を覆いつくす。見事である。
 八重桜の花びらは染井吉野とかに比較して10倍ほどはあるのではなかろうか、その量もただごとではない。散り始めるとそこらの地面一体がピンク色に染まり、風があると風に舞い、庭の隅々に花びらの溜まり場が出来る。最初のうちは良い色と匂いでもあるが次第に変色し匂いも変わってくる。

 私は毎年この季節になると車を車庫に入れず桜の木の下に駐車し、散水ホースにてルーフを若干濡らしておく。一晩明けると車のボンネット、前面ガラス、ルーフは桜の花びらで見事にピンク色に変わっている。昨年までの車は黒、その前はワインカラーであったが、プリウスは白であり、今年はピンクボディカラーとの対比が見事で、美しい。
 前面ガラスの花びらを必要なだけ寄せて視界を確保し、そのまま走らせる。徐々にスピードが上がってくるとボンネット、前面ガラスに付着した花びらが一枚一枚はがれて後ろに飛んでいく。徐々に飛び散る量が増えていく。いつもよりゆっくり走るから、病院に着いても水を吸ってぴったりと密着している一部の花びらは離れない。この少しだけ残った状態もなかなか良い。これらはボディーが乾いてくると風で少しずつ離れていく。
 夜、帰る頃には車には殆どついていないが付近には乾燥して変色しつつある花びらがぱらぱらと落ちている。なかなか優雅でいい感じである。
 今年は今晩が最後の機会になるだろう。今晩も桜の下に駐車することとした。明日が楽しみである。


5/19(金)晴→曇→雨  ドック結果説明・診察  講演準備日  
1:30起床。講演準備、その他。5:10家内に送られ病院着。牡丹の鉢2ヶ運搬。6:20回診他、 外来無し、ずっと机上仕事 。9:00ドック結果説明。13:40ドック診察。明日の講演準備大幅に遅れており、午後から集中。19:00友人である医師と歓談、情報交換。21:20帰宅、22:00就寝。

日本医師会代議員会の帰路、秋田行きMD-90、「機長は板山・・・」
 去る4月2日、日本医師会代議員会の帰路、東京国際空港発17:55のJALに搭乗した。出発直前の乗務員の紹介で「機長は板山、副操縦士・・」と放送があった。
 昨年5月、私の中学時代の友人から、自分の健康状態や近況など、いろいろな思いを吐露した長い手紙を戴いたが、その中に自分の次兄の子供が数年前からJALの機長として秋田にも飛んでいる、と言う話題にも言及していた。子供の頃からパイロットになりたいと思い続け、努力し、実現したのだという。

 手紙の1-2週間前、彼はその甥と一緒にゴルフをしたとのことであるが、その時の歓談の中で、機長になると毎年2回、技能訓練検査、身体検査、合計4回の運輸省の検査をパスしていなければ直ちに降格される厳しい世界であること、等を語り、最近、医療界は事故とか紛争とかの不祥事が多いが如何なものか??と話していたという。話題の具体的内容は知ることも出来ないが、各界のエキスパートから医療界、特に病院や医師の危機管理については著しく不十分、と言う目で見られている。このことは先の内科学会の総会の医療事故に関するパネルディスカッションでパネラーの一人の全日空の機長も話していた。

 秋田や花巻空港は山風の影響を受けやすくとても緊張する。機長として危機管理を怠らず、安全に、快適に、シルキーランディングを心がけて月間51時間空を飛んでいる、と紹介があり、もし、彼の操縦する機に乗ったなら何らかのメッセージを伝えて欲しい、と結んであった。

 姓は「板山」と解ったが名前が紹介されなかったため本当に手紙の如くの友人の甥であるか否かの確証はない。しばらく迷ったが、JALの大勢のパイロットの中でMD-81、87、90型機の機長として秋田便を担当する方はそうは居ないはずだ。多分、話題の彼なのだろう、名刺に簡単にメッセージを書いてキャビンクルーに託した。着陸後に必ずお渡しします、とのことで、記念に、と767-300型と思われるミニテュアをいただいた。自宅のマックの前に飾り、毎日眺めている。

 私は整備関連に知人はいるがパイロットには全くいない。そのような中、ほんのちょっとした切っ掛けで名前とプロフィルを知ることが出来た機長、多分そうだったのだと思っているが、の操縦する機に搭乗出来て、遠い別世界の巨大企業というJALに対するイメージが、それ以降、あたたかい、より身近に感じられる様になってしまった。実際、人の感覚なんてそんなものだ、と思う。 確かに、その夜の秋田空港への着陸もシルキーであった。


5/18(木)晴れ 外来 
2:00起床。主治医意見書等書類整備。5:10Taxi病院着。6:10回診他病棟関連業務。9:00-14:15外来。明後日の講演準備中心。20:40バイク帰宅.夕食、21:20就寝.

地域の防犯システムが必要  先ず町内に繋がる緊急ベルを設置を
 物騒な世の中になったものである。
 17日午後、秋田県藤里町で7歳の男子小学生が行方不明となったが、昨日近くの川で死体で見つかった。頸を絞められた痕があり、殺人事件として捜査が開始された。同地区では先月9日、4年生女児が行方不明となり、同じく川で遺体で発見され、こちらは事故として処理された。今回の男児と女児の自宅は2軒隣だという。両者の関連性は当然疑われている。
 いたいけな子供が犠牲になる事件が各地で頻発している。これの予防は地域で防犯体制を確立するしかないだろう。

 一方、2週間ほど前には山形県の田園地帯?で、夜間に老夫婦及びその息子が襲われ、父と息子が死亡、母が重症を負うという事件が発生した。悲惨な事件である。同居していない息子が帰ってきていた状況下での発生であることから、息子に関連した事件らしい事は推察できた。犯人は間もなく逮捕され一件落着とはなった。犯人と殺された息子との間の子供の頃からの怨念の結果と報じられているが、それだけではないだろう。

 最近、家族数が減少し、隣近所と乗る気合いも疎遠になってきている。田舎で代々ホットなつきあいがあった家庭同志も世代が代わって次第に疎遠になりつつある。
 高齢者夫婦だけの所帯、一人暮らしの所帯も増えてきている。
 そのような家庭と民生委員や福祉との間のホットラインはそれなりに整備されつつあるようであるが、それだけでは足りない。私は、隣近所数件との間で緊急呼び出しベルを付ける必要があると思う。何か緊急事態が生じた際には第一に必要なのは人手である。家族の誰かが、あるいは一人暮らしの方が急病になることもあるだろうし、火災になることもあろう、今回の如くの事件もあり得る。今回はベルが設置してあってもどれだけの役に立ったかは分からないが、地域の防犯体制の一環としての意義は決して少なくないだろし、犯罪に対してもある程度の抑止力にもなるのではなかろうか。
 
 子供や高齢者、障害者の安全、子供の健全な育成のために地域のコミュニティが果たす役割は時代が変わってきたからと言って決して過小評価すべきでない。これらを再構築しなければならないのだ、と言うことを教えてくれている事件の教訓を生かされなければならない。


5/17(水)  晴れ 外来  友の会理事会  市医師会看護学院記念式典・祝賀会  
1:00起床。退院時総括、講演関係データ集め、他。5:20バイク病院着。6:20 病棟回診、関連書類。9:00-13:45外来 。14:00-16:00友の会理事会+情報交換会,18:30-20:00秋田市医師会准看学院廃校・市医師会立秋田看護学校開講記念式典・祝賀会。中座し20:20帰宅、21:00就眠。

早朝の出勤の気遣い(2) プリウス vs  ボロハーレー
 早朝の車の騒音はトヨタのハイブリッド車のプリウスを購入して100%解決した。ドアもソフトに閉まるから迷惑なほどの音を立てない。自宅を出るときには電池だけで走るようセットすると車のメカは殆ど無音のまま走り出す。僅かにタイヤ音がするだけである。これで町内は抜けられる。心理的不可は全くない。早朝もさることながら帰宅の際や、時間外に患者急変とかで呼ばれて再出勤する際にもとても気が楽になった。

 現代社会は実に騒さい。なのにこのことはあんまり話題にならない。騒音が当たり前の如くに受け入れられている。だから、私が一人で気遣うほどには町内では誰も気にしてはいないかもしれない。もし、そうだとしてもプリウスによって音ノイローゼの自分が満足出来ただけでも価値は高い。20年ほど前にマツダのロータリー車を購入した。第一の魅力はエンジン音が極めて静かだった事であった。それでもプリウスの無音状態には到底かなわない。良い車であったが、他方、ガソリン大食いで大変な車であった。プリウスはこれの1/5のガソリンで走る。この点でも満足である。

 未解決、解決不可のもう一つの騒音源は大型バイクのハーレーである。1992製、磨かないからもうクロームメッキ部分は無惨にさびてボロボロである。しかし、機能的にはほぼ購入時と変わらない。私はわざわざツーリングなどはしないし、そんなことに興味もない。通勤や何かの用事で出かける際の足代わりとして使うだけである。
 これを早朝出勤時に引っ張り出して乗るにはエンジン音が高いだけに心理的にはかなりのストレスである。1440cc、2気筒のエンジンは始動直後はデリケートで直ぐには走れない。ちょっとした判断ミスでプラグを濡らしてしまう。こうなるとマフラーから火を噴くし、対応は面倒である。
 エンジンを安定させるには始動時に微妙なチョーク加減が必要で、音と回転の状況を耳で確認しながら少しずつ戻していく。この間若干回転数を上げなければ調整できない。だから、相当な音だし、心が痛くなる。これに要する時間は夏場は1分程度で済むが春秋には3-4分必要である。安定したらすぐさま一気に町内を抜ける。抜けてしまえばこっちのもの。エンジンの回転数を抑えてゆっくり走る。エンジンの音はバフ・バフ・・と力強い。早朝の冷たい風が心地よい。大きな開放感が訪れる。
 理屈抜きに騒音源である。そんなことを考えながらも止めもせず、15年以上も騒音をまき散らしている私の深刻な悩みである。


5/16(火)晴れ    定期処方箋発行      外来       常務会      医局会・MC    病院協会総会/情報交換会
2:00起床、 紹介状返事、総括x1。5:20自転車で病院着。6:15回診+療養病棟定期処方箋発行。9:00-14:00外来、14:30常務会、定期処方箋の間違い、問題点多数あり訂正が大変であった。17:30医局カンファ「望ましい研修指導」、残念ながら中座。18:00-20:00病院協会総会/懇親会に初出席(View)。中座し病院に。21:30帰宅。22:00就眠。

早朝の出勤の気遣い(1) 除雪とボロ車の騒音
 私はいわゆる「9時5時人間」の一人である。
 私は朝型人間の典型で、年間を通して3:00am以降に起床する日は皆無だろう、と思う。日祭日を除くと5:00am頃に家を出る。
 出勤時間は、大学医局で勉強中は6:30-7:00am頃、現病院に移ってからの20年ほどは6:00-6:30amが平均的であった。内科スタッフが減った数年前にはしばらく4:00am出勤のこともあり、その後から5:00amが固定的な習慣となった。

 早朝から活動し始めることのメリットは挙げるのに事欠かない。静かだし、ヒトも少なく、マイペースで何でも快適に出来るから、が理由の一つである。デメリットは一つ、夜早く寝なければならないことだけである。だから夜9時には何とか帰宅する様に一日の予定を作る。だから私も立派な「9時5時人間」の仲間の一人というわけ。

 ただし、私には早朝出勤で気遣わなければならない2,3の問題点がある。音ノイローゼを自認している私がたてる早朝の騒音である。

 一つは、冬、新雪が積もった日の除雪器の音である。未だ寝静まっている時間帯に申し訳なくて若干出勤時間を多少遅らせる事もある。4:30過ぎ頃から除雪機で30-40分ほどかけて近所の分まで含めて道路を除雪する。非常識な時間に相当に騒さいはずだがクレームが一度も来たことがない。それが救いでとなっていて現地に引っ越してきてから約25年ずっと続けている。

 もう一つは、昨年まで乗っていた15年超のレガシーワゴンのエンジン音である。運転する私自身も騒音に耐え難くてBOSE製のノイズキャンセラー機能付きのヘッドフォンをかけて運転していたほどである。この車は始動時には一発でエンジンがかからなかったから何度かセルをまわすことになる。これも大きな、しかもかなり耳障りな音である。うまくかかっても始動時はエンジンの回転数はあがっており、かつ回転もスムーズでないからボディに共振しとりわけ大きな音を立てる。扉もうまく閉まらないことがあるから乗車時にやや強めに閉めなければならなかった。これも早朝の住宅地の静けさの中ではかなりの音のハズである。
 車がボロであるのは個人的には気にも留めないがあまりの騒ささに閉口し、買い換えを計画した。


5/15(月)晴れ 管理会議 外来 療養判定会議 長副会議 療養病棟歓送迎会  
1:30やや早め起床。紹介状などいつもの処理。発熱・けん怠にてやはり体調不良、3:30-4:30再度入眠する。これでかなり改善した。いつもの如く5:20病院着。6:20回診他,紹介状など。8:00管理会議.9:00-14:00外来。混雑。16:00-16:30療養病棟判定会議。17:00-18:45長副会議。病棟回診、19:30療養病棟歓迎会(カントリーにて)、後半には私の61回目の誕生日の祝いも兼ねたコーナーも企画してくれ美味しいケーキも戴いた。感謝である。21:10中座、帰宅,21:40就寝。

春になると積極的に検査を申し出る 季節と心因の関連
 本州は桜の季節、桜の話題も去って一段落である。連休後と言うこともあり病院外来は患者で溢れている。待ち時間も長いが、概して患者の表情も明るくなってきた。農家の方々は次々と仕事の追われ始め、活気がついてきた。
 今年は天候が不順でなかなか春らしさは来なかったが、やっと、気温も安定して春だなという感じである。今年は雪が多かったから特に感慨深い。遅まきながら「春一番」の雰囲気である。春一番というと私にとってはキャンディーズの歌「春一番」が耳に響く。もう今の若い人たちには殆ど知られていない歌である。黄色い声が小うるさいが、季節感を表すいい曲である。

 外来では高血圧症とかで通院している方々にも、病状に不安要素が少なくても年に一度ほどの一般的な検査を勧めている。「血圧を測って、聴診器を胸にあてて私と話をしていても、肺癌や胃癌は分からないんだよ」というのが勧める根拠であるが、2-3月頃までは患者の反応は今ひとつである。時間もとられるし、血も採られる、最後にお金まで取られるのだから患者にとっては相当の負担になる。だからウジウジと判断に迷っている患者にはそう強くは勧めない。ただ、言葉の終わりに「自分のための検査だからね。考えておきなさい」と言っておく。

 ところが、桜の季節の頃にはそのような方々も自分の方から「そろそろ検査を」と申し出てくるし、新たに検査を勧めた方々も大概同意する。返事も良く明快である。同じ患者でも雪の季節とは反応はかなり異なる。これは、春の到来が患者達の心理にも大きく作用している結果なのだと思う。
 日照時間が短くなる秋から冬にかけて気が滅入ってきたり、うつ的状態になることは一般的に感じることが出来る。これが嵩じると「季節性感情障害」という状況となり、過食や過眠とかを特徴とする病的状態に陥るのだという。特に英国とかで問題になっているようで、まばゆいほどの光を浴びさせる治療法も検討されているらしい。そう詳しいことは私は分からないが確かに、この季節「食っては寝て・・」で数Kgも肥る患者もいる。単に怠惰と責められない、何らかの心理的準備状態が予めヒトにはインプットされているのかもしれない。

 まず、何はともあれ、秋田にもやっと良い季節が到来した。素直に喜びたい。


5/14(日)雨→晴れ 誕生日 FF tennis 病棟拘束  
1:30起床、新聞一週間分チェックほか種々、講演準備ほか。10:00-12:30病院、13:00-16:00梅林園にてFF tennis。9-7,2-6と引き分け。16:30-18:30病院。19:00帰宅。悪寒と発熱あり、風邪か??  19:30-22:00就寝、22:00-22:45夕食、再度就寝。私の61歳のスタートは身体の不調と共に始まった。

建前は良い演奏のために---厳しい東京都交響楽団の雇用契約(2)
 東京都交響楽団では、コンサートマスターを除く約90人の団員は、契約雇用か終身雇用を選択する事になった。契約雇用の場合には3年ごとに契約が更新される。終身雇用を選んだ場合、契約雇用団員より給与が年に70万-100万円ほど低く抑えられる。どちらを選んでも退職金は無い、と言う厳しい内容である。
 結果的に、約8割の楽団員が契約制を選んだ、と言う。
 評価は、演奏能力、業績、態度などを総合してA-Dの4ランクに3年ごとに評価し、3回連続してD評価を受けたら雇用契約が消滅する。評価は事務局が行うが、コンサートマスターや他の楽団員の意見も参考にすることで合意された、とのことである。

 この制度の導入の主たる背景は2000年ごろから本格化した都の財政再建政策、合理化である。東京都交響楽団への東京都からの補助金は、年間約14億円であったが、最近は9億円ほどに減額されたが、更に厳しい要求が都から求められたということである。
 楽団の事務局長は「契約制度の目的は第一には演奏内容の充実にある。評価制度の内容については、楽団員側と納得のいくよう何度も協議を重ねてきた。しかし、その一方、東京都交響楽団の解散も含めての条件提示であり、選択肢の狭い中での合意だった」と苦しいコメントをしている。

 各パートの序列を変える時もベテラン演奏家は既得権を主張してなかなかポストを譲らず、音楽監督はは忍酎強い対応が迫られる、といわれている。オーケストラでは演奏能力によって序列が決められていると私は思っていたが決してそうではないようだ。今回は外から無理矢理実力主義を押しつけられた形で、その面では「演奏内容の充実のために」ということには確かになるだろう。
 「オーケストラ・アンサンブル金沢」の場合は1988年の設立時には1年ごとの契約制を導入したが、今は実質的には終身庸用制になっているとのことである。この様に、なかなか日本の土壌に実力主義、契約制は馴染まないようである。
 一般企業も徐々に実力評価式に変わろうとする中で、東京都交響楽団の動きは他のオーケストラからも、企業からも注目されている。


5/13(土)曇り→雨 病棟拘束 、講演準備
2:00起床、紹介状、退院総括書。5:20バイクで病院着。6:30回診,書類処理。本日は対外的行事無し、患者も安定。終日,1週後の秋田市臨床医会の伝達講習会の準備中心に過ごす。19;30帰宅、夕食。新聞チェック等、21:00就眠。

建前は良い演奏のために---厳しい東京都交響楽団の契約雇用制(1)
 私は30年以上も月刊の音楽雑誌「音楽の友」を定期購読しているが、ここ数年間は殆ど読めずに積ん読状態である。見るのは購入したときの表紙と棚の上に積まれた雑誌の背表紙だけである。とても残念であるがやむを得ない。先日、連休を利用してその数年分を廃棄したが、関心ある特集のページのいくつかは切り取っておいた。

 最近、NHK交響楽団の常任にアシュケナージを迎えるなど、東京のオーケストラの活動は目覚ましいものがあるようである。時折新聞の音楽欄にも取り上げられている事からも推定は出来ていた。一方、厳しい記事にも目がとまった。

 私が最も音楽を聴き、演奏会に出かけていたのは東京出張時の往復が主として夜行であった時代で、出張の度に夕方から夜には東京文化会館の大・小ホールで時間を過ごしてから22:00発の寝台特急「あけぼの」で帰ったものである。その際、特に演奏団体などは選ばず、何でも聴いたし、結構楽しめた。だから、当時の在京のオーケストラは全部、何度も聴いている。著明なオーケストラ、オペラ座の来日公演は出張時とは限らない。だから、業務をすませて午後空路で出かけ「あけぼの」で戻った。カラヤン、バーンスタイン、シノポリ、アバド、クライバーはそのようにして聴いた。もうこれらの指揮者のうち生存中なのはアバドだけである。その後は、出張は往復空路または新幹線となったので聴く機会が無くなってしまった。

 で、音楽の友のある号に東京都交響楽団の話題が掲載されていた。今、東京にはどれだけの数のオーケストラがあるのだろうか。8つほど挙げることが出来るが、正確なことは解らない。かねてからどのオーケストラも台所事情は厳しいとされ、人件費が随分低く抑えられているとは聞いていた。月10数万円程度の団員もいる世界だと言われていたが、まさか今ではそのレベルではあるまい。

 その中では東京にあるオーケストラのうち東京都交響楽団、NHK交響楽団、読売日本交響楽団は設立母体がしっかりしており、運営上では最も安定している、と思ってきたが、東京都交響楽団が今年、雇用に契約制を導入したと言う。契約制を敷くには能力の評価制度が必要であり、具体的な評価は来春から実施され始めるとのことであるが、「オーケストラプレーヤー」の能力を、誰が、どんな基準で評価するのか、困難な問題だけに評価の方法や内容に各界から関心が集まつている。


5/12(金)秋田快晴  ドック診察  米内沢病院副院長来訪  法人理事会 
2:00起床、若干眠い。紹介状返事そのほか講演準備。5:20バイクで病院着。6:30回診他。対外的行事無し、終日机上処理。13:30-14:00ドック診察。15:00公立米内沢病院副院長来訪、面談。地域医療、研修システム等について歓談。15:30-16:30病棟対応。連日オーダリングに呻吟している。17:30-19:30法人理事会、21:00帰宅,21:30就眠。

医療事故、医事紛争と我が国の医療土壌(3) 我が国の医療の問題点
 西洋医学を導入する際に、時の明治政府が大きな忘れ物をしてきたために、日本の医療は大きな欠陥を抱えつつ歩むことになった。その忘れ物は西洋医療の根底にある文化、倫理観、医療スピリットである。
 西洋医療には「身体への攻撃性」という、それまでの日本の医療にはない大きな特徴があった。「大きなリスク回避のために小さなリスクを与える」のが西洋医療であり、有効性と安全性・危険性の微妙なバランスの上で成り立つ医療であり、常に危険性を内包している。更に、その発展過程で身体への侵襲も危険度も次第に大きくなっていった。

 攻撃的で、侵襲の激しい治療を患者に適応する際には、それに先だち患者に対する説明と納得を得ることが重要であることと、医療者側に十分な倫理観が備わっていること、技術的研鑽は欠かすことはできない条件である。しかも、それらは情報として公開されなければならない。要するに、西洋医療を育んできた国では情報公開、インフォームド・コンセントを欠いてはあり得なかったと言うことである。

 しかるに、明治政府は医療の大変換を行うにあたって、知識や技術に重点を置き、医療の根底にある文化、倫理観、医療スピリットは軽視してしまった。西洋医療の光の部分、知識や技術、その成果だけをアピールするほうがよかったからであるが、当時の医療関係者達は西洋医療の背景となっている文化や歴史までは理解できなかったと言うべきであろう。
 この際、科学的、分析的視点をより重視し、より権威主義的なドイツ式医療を導入し、医師は国家資格と権力を与えられたが、これによって日本の医療の性格がほぼ決定してしまったことになる。権威主義、密室性、徒弟制度等の言葉を次々と挙げるに事欠かない。
 結果として、日本の医療現場には医事紛争が起きやすい土壌が育まれて行くこととなった。

 今は国際的情報社会であり、英文の医療情報に溢れている。その中に日本の医療が規範としてきたドイツ圏からの医療情報はそれほど多くはない。医療情報を通じて各国の医療文化を知ることが出来るが、知識としては得られても我が国の医療文化が様変わりしていくほどの力は発揮できていない。欧米に留学し、欧米の医療・文化にふれて来た医師達も帰国後は我が国の医療文化の中に埋没してしまっている。

 日本の医療者はいまだに医療者としての倫理規定の意義、患者の権利宣言や医療現場における十分な説明の重要性を理解しきれていない。
 近年、我が国でも情報公開やインフォームド・コンセントの重要性が叫ばれ始めたが、これら医療の改善要求は医療事故や医事紛争を通じて医療界以外からの要求、叫びに渋々呼応し始めたものである。医療界の中から生まれてきた自発的変化でないために、医療現場になぜインフォームド・コンセントが重要なのかという視点、患者を前に医療人が如何にあるべきか等の根本的な議論が少ない。


5/11(木)曇り    中央診・外科系会議 外来 療養病棟診療部会 整形外科との話し合い
2:00起床、退院総括、膠原病関連。5:20バイク病院。6:20回診その他   8:00-8:40中央診・外科系会議,  9:00-14:30外来,15:00QP-KK担当者来訪、病棟対応数名。16:30-17:20療養病棟診療部会(院長室)、17:30-18:30整形外科と打ち合わせ(院長室)、書類等懸案処理。20:45帰宅、夕食、21:30就眠。

医療事故、医事紛争と我が国の医療土壌(2) 西洋型医療の光と陰
 医療事故の発生には技術的未熟が原因になっていたり、医療人としての倫理観の欠如によるもの、の場合も無いとは言えないが、如何に真摯に業務を行っていても医療事故に遭遇することがある。
 事故発生の切っ掛けは特定の個人の医療行為に起因する事になるが、真の原因は問題の医療行為の元となった医療レベル、医療環境にある。個々の医療人の価値判断や医療行為は個人のものの様に思われるが、決して個人のものではない。

 医療トラブルについては、もともと我が国はトラブルの発生が生じやすい環境にある、と言わざるをえない。その環境とは根本的に医療行政、医学教育にも内在していると考える。だから、我が国における医事紛争の背景は半ば構造的な問題点に起因していると考えなければならない。
 この視点がないと医療事故や医事紛争は、すべて関与した個人が責任を問われる事になり、処分され、排除され、一件落着と処理されて終わる事になる。
 
 医療の歴史を見ると、わが国では江戸時代までは漢方医学であった。漢方医学は病の苦痛を薬で和らげ、手当するという症状対応型の医療であり、漢方医は患者に寄り添い、癒す術を持っていた。江戸の末期にはオランダ医学も入ってきて若干の様変わりはしつつあったが、明治維新の後、近代化を急いでいた時の明治政府は、医療の大方向転換をはかった。すなわち、伝統的な漢方医療をばっさりと切り捨て、西洋医学を導入し、医師に国家免許を与えて保護した。これは西洋医療のほうが、伝染病蔓延を防いで社会不安を軽減したり、戦時の負傷兵の救命などの面で問題解決の技術に優れており、国益が大きいことなどから国策として導入したものである。この際、オランダやアメリカの医学も検討されたが、より科学的、分析的視点を重視し、より権威主義的なドイツ式医療を導入した。これ以降、日本の医師は国家から資格と権力を与えられて医療を担う事となった。

 この過程の中で漢方医達がどのような行動を取ったのか? 私はまだ理解できていないが、日本の医療は短期間に患者に寄り添う暖かみのある医療から、患者に距離を置き疾患・臓器単位に分析的視点を重視するクールな医療になった、と言いうる。
 更に、西洋医学を導入する際に、時の政府は大きな忘れ物をしてきたために、日本の医療は大きな欠陥を抱えつつ歩むことになる。


5/10(水)晴れ→雨  外来+人間ドック診察  院内感染対策委員会(欠) 県医師会常任理事会+郡市医師会長協議会+情報交換会   2:30起床。紹介状・退院時総括等。5:10病院着、6:20回診、書類処理多数記載。8:00麻酔科統括科長面談、9:00-14:10外来+人間ドック結果説明。16:00県医師会常任理事会+郡市医師会長協議会+情報交換会(View)。20:15帰宅,20:45就寝。

医療事故、医事紛争は何故減らないか? 我が国の医療土壌に原因(1)
 1999年は横浜市立大学の患者取り違え事件以来、消毒薬を誤って患者に注射し死亡させた事故など、大病院、地域中核病院の医療事故が相次ぎ、医療の安全に関して医療界のみならず社会的にも関心が高まった。遅まきながら、この年以降、事故防止、紛争防止の対策が急進展した。

 医療安全は医療の質の基本をなす。医療の質の主要な要素は医師・医療関係者の知識・技術や経験による熟練度等に大きく負っているのは当然であり、安全確保の観点から教育・研修と高度技術を含めた熟達・訓練は重要である。それだけではない。技術的側面や判断の妥当性、組織運用の視点、医療者と患者の相互の関係、医療提供の場の環境条件などの観点から総合的に検討される必要がある。
 特に、大規模病院は先進的、かつ、高度の医療を提供する組織体であり、組織の理念・方針と管理者・幹部の指導力、要員の確保や円滑な組織連携等の合理的な組織管理の適否が安全確保に大きく影響する。その際、誰でも医療ミスやエラーを起こし得る可能性があるという視点が必要で、エラーをフォローしたり、ニアミスがエラーに成長する前につみ取ったりする機能を組織内に育てる仕組みが必要である。

 医療者と受療者間の情報共有と信頼関係の確立は、医療の質のもう一つの基本であり、信頼関係を欠いては医療は成り立たない。医療事故後の問題の解決に重要な意味を持つ。信頼関係の欠如が原因となって、患者の不満や不信感が大きなトラブル、医事紛争にまで発展していく。「医師は在日日本人だ」と評されたり「医師の常識は社会の非常識である」という言葉が存在する限り、些細なことから患者-医師間の溝は広がっていく。この面での問題提起、指摘のためには医療事故、医事紛争の解決の過程で第三者による評価や判断を求めることが絶対的に必要である。
 医療界に大きく期待されている自浄作用は、医療者だけが集まって検討を重ねても解決の糸口はつかめない。


5/9(火)快晴・温暖    外来 常務会 医局カンファ 外来患者対応検討会  
2:00起床、秋田の医療の現状と問題点、メディカルリスクマネージメント関連記述.5:15バイクにて病院に、6:30回診、オーダリングにて定期処方箋発行20数枚送る。特にトラブル無し。9:00-14:00午前外来混雑。14:30-16:30常務会。17:30-18:30医局カンファ、眼科:内因性眼球炎。18:45-19:30外来患者対応検討会。20:40帰宅、21;30就眠.

きびしい秋田県の医師不足 県民の受療権は著しく不平等
 本県は総面積で全国で6番目と広い。人口あたりの病床数は全国平均より多いが、医数は少ない。その上、医療機関も医師も秋田市周辺に集中している。
 このことが秋田県の医療供給体制の問題の源である。県北・県南における医療供給体制は不十分で、病院の診療機能維持も困難になりつつある。

 県内には813の診療所と78の病院があり、病院の設立母体は国立大学1、独立行政法人2、県市町立15、赤十字1、厚生連9、民間病院が50である。総病床数は約1万7000床であるが医療施設は秋田市周辺に集中している。
 秋田市周辺以外の地区の医療は、市町村立、厚生連、民間の病院および診療所が担っている。

 医師数は2,100人で、人ロ10万人あたり180人で全国平均200人に比べて少なく都道府県順位で34位である。病院勤務医は約70%、診療所医が30%で、医師の約半数が秋田市周辺に集中している。秋田市周辺の医師数は人ロ10万人あたりの250人と多いが、秋田大を除けば173人と少ない。特に医師が少ないのは湯沢雄勝地区の104人、次いで鷹巣阿仁地区、大曲仙北の約120人となっている。

 医師の充足率を見ると、県全体では112%と数字上は足りているが、秋田市周辺を除く地域では慢性的な医師不足である。特に鷹巣・阿仁医療圏は76.2%と低く、地域的偏在が著しい。診療科別では小児科、精神科、麻酔科、産婦人科医が不足し、診療を縮小または閉鎖している病院もある。

 地域の中核病院は24時間救急対応を行っているが、医師は日常業務も多忙な上、マンパワー不足から日当直回数も多く、長時間勤務で疲弊状態にある。心身の限界のため開業医に転向する医師が増え、病院医師は減少する一方である。診療所医師は平成4年から13年間連続で増加している。

 この様に、秋田県民への医療供給体制には地域格差が大きく、県民も医師も医療機関も大変な状況にある。解決には困難は多いが、医師個人や医療機関レベルの対策では限界を迎えており、行政の関与も必要である。秋田県は県民に格差のない医療を提供する環境を整える義務がある。県は秋田大学、医師会、病院協会等の関係機関と協議の上、実現可能な対策から早急に実行に移す必要がある。


5/8(月)曇-快晴   オーダリング正式スタート日  院内巡視  ドック説明  療養病棟判定会議  長副会議
2:00起床、退院総括書、講演準備、5:30病院着、6:30回診その他病棟業務。オーダリングスタートした。処方箋発行、入退院情報初入力、何とか送れた。管理会議ないため朝は比較的ゆったり。9:00-10:30院内巡回、13:30-14:00ドック説明、16:00-16:30療養病棟判定会議、17:00-18:00長副会議、私になってから最短時間で終了。長男離秋、20:30帰宅、夕食, 21:00就眠。

わが家のゴールデンウイーク2006 
 我が家は連休だからと言って特別何かを計画するわけではない。
 2日から関東在住の長男長女が帰省、大曲勤務の次男も時折顔を見せ、一家が揃う時間も持てた。昨年は夫婦二人共、重症患者をかかえ、殆ど通常勤務の如く病院で過ごしたが、今年は夕食時には揃ったから若干の余裕はあったと言える。

 私はこの連休をあてにして寄せて置いたり、ため込んでいた仕事を家と病院とで淡々とこなした。起きていた時間は殆どパソコン画面を見て過ごした。県医師会で発行予定の小冊子「医療の安全、医事紛争防止」の原稿、「すこやかさん in Akita」の原稿、秋田医報「放射線・ワクチンと10日間ルール」の解説文と校正、院内用の原稿など処理。そのほか紹介状、総括など、机上の書類を一掃した。
 連日の病棟拘束は処理事項は多くなかったが、一人の患者が重症化し対応した。オーダリングの準備入力とか、マアよう働いた。私の余裕度を測るバロメーターの一つは楽器の練習であるが、この連休中はケースから出したのは一回、30分程度だけであった。そういえば、新年以降まだ数回しか出していない。The Yamamoto Bandの会合もあるが、今回はちょっと厳しいようだ。

 昨日の日曜は半日ほど机から離れ、古い書籍・書類の整理、ガレージの2階にしまい込んだ自転車等を出して整備し、不要品を大量に整理出来た。これでバイク通勤、自転車通勤も可能になった。天候によって使い分けよう。

 外来、病棟の看護師さん,患者さんからもゴールデンウイークはどうでしたか??と聞かれた。これも例年繰り返される対話。内容を話すと怪訝な表情をされる。これも例年と同じ。

 一部とは言え、懸案事項が処理出来て身辺がかなり身軽になった。総合的には今年もゴールデンでなく、ランクを下げてシルバーウイークと評価しよう。 明日からの外来は予約患者が予約マスを越えて溢れている。私も患者も地獄の外来になるだろう。



5/7(日)雨→曇→晴れ  病棟拘束  FF tennis中止  不要品廃棄準備 
 2:00起床、退院総括、医事紛争関連の原稿、「分かり易い免疫学」伝達講習準備など。FF tennisは先方所用で中止に。病棟は安定していたので本日は出勤せず、午前から旧パソコン周辺機器、旧オーディオ関連パーツ、コンパクトカセット類、熱帯魚飼育装置等大量処分の準備、不要家具の破砕など施行。バイク・マウンテンバイクも整備。長女離秋。20:00夕食、21:00就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (14)    
骨髄移植の準備を始める(4)白血病化学療法の限界の打破のために
 最近では骨髄移植と言うより造血幹細胞移植と名称も変わりつつあり、移植細胞も、臍帯血細胞移植、末梢血幹細胞移植、自家末梢血幹細胞移植と広くなり、骨髄移植も骨髄バンクのドナーを提供者とする非血縁者間同種骨髄移植などに発展し、造血幹細胞移植は目覚ましい成果を上げている。

 私が骨髄移植を準備し始めた当時は、一卵性双生児間骨髄移植、HLA合致兄弟間骨髄移植、それに凍結保存して置いた自分の骨髄細胞を用いる自家骨髄移植が主流であった。私もこれの実用化に取り組んだ。既に米国の先進的な研究グループからは移植の前の対策、移植の方法論、移植後の免疫反応の抑制等に関して、頻回に文献が報告されていたし、国内でも骨髄移植研究会が発足しているなど、私が行った準備は創造的というよりは先人が開発した方法を秋田大学の施設やマンパワーに即した方法に作り替えて実践するかの工夫のレベルが主であった。

 そうは言っても骨髄移植の準備は多岐にわたる。骨髄移植の適応に向けての対象疾患の設定と評価、骨髄提供者の有無の確認から免疫学的適合性の検査の提出先の検討、リンパ球混合培養による適合性の検討、骨髄血の大量採取方法とその後の処理方法、骨髄細胞凍結保存の検討、移植を受ける患者への各種の薬物の投与計画、全身照射療法の依頼と工夫、無菌室の準備、無菌食の準備、無菌室内の患者の生活の援助方法、移植後の免疫反応の抑制方法、移植チームの結成、無菌操作のマニュアル作り、・・・と、今思い出しても大変な準備を進めたものだと思う。
 この間、秋大医学部の基礎系・臨床系の多くのスタッフのお世話になった。また、新潟大学第一内科には実際の移植や、無菌室の運用など見学させていただいた。

 私は、骨髄移植を始めるにあたって自分に残された期間は2年間のみ、これが大学での最後の仕事、と決めていたのでこの間に実用化できるよう計画を練った。当初の一年半ほどの間は殆ど一人で準備を進め、ある程度目途がつき始めた2年目後半頃からは幹細胞研究グループの後輩医師を中心に6-7人で骨髄移植チームを作り、文献の読み合わせなどを通じて共通の認識を持つようにしつつ、実施の準備を進めて行った。


5/6(土)雨→曇り→雨 バイクを出す 病棟拘束  
2:00起床。退院総括。5:10病院着、6:30回診,病棟関連種々処理。オーダリング入力内容変更。病棟業務など、13:00帰宅、家族でたこ焼きパーティ。14:30ハーレーで再出勤、今年初。外見はボロボロだが調子は悪くなさそう。20:00帰宅、軽夕食、21:00就眠。

足におもりを付けて歩く(5) 人力発電センターを作ってはどうか
 米国では一握りの豊かな人々は高級な食事を摂り、スポーツジム等で高額のお金と時間をかけて脂肪を消費し、何とか健康維持している。これは実に無駄な事である。世界的食糧事情を考えれば冒涜でもある。せめて体脂肪を電気に換えて利用できないのだろうか?。豊かでない人たちはより安い、脂ぎった食事を摂り、スポーツジム等は到底利用できないから肥りに肥り、生活習慣病に悩む事になる。しかも、健康保険がないために医療は受けられず、ドラッグストアに走り無駄に散財している。

 今、日本も肥満で生活習慣病が増加してきている。保険で診察を受けられるが、過食・運動不足は医療では何ともならない。体重1Kgの増加は7000Calもの蓄積に相当するから、生活自体を大幅に変えなければ解決はしない。何とかしなければなるまい。されど、美食に慣れ、かつ生活に余裕があるヒトに粗食を勧めても無駄だ。食餌療法は基本だが常識的ヒトには実行困難である。
 ならばどうする??健康維持のためには過食した分、過多体重の分を燃焼させなければならないのは自明の理である。だから、身の丈に応じた運動が最低限必要だ。ジョギングも散歩もランニングも良い。だけどエネルギーが無駄でないだろうか。だから、住民が気軽に自転車で行ける距離に、各小学校区に一カ所ぐらいで良いと思うが、公共のスポーツジムを作って各種の運動器具を設置し、ここで無料で運動してもらうのが良いだろう。
 ただし、ここは「人力発電センター」も兼ねて、ヒトの運動はすべて電気に換えられる仕組みとする。電気はいろいろな利用法があるだろう。自治体は各人の発電量を計算して将来の介護保険での優待券を配布すれば良い。優待券は老いた両親にあげても良い。一石二鳥で親孝行にもなる。住民の健康度がこれで改善すれば、自治体としても医療保険、介護保険等で経費の節約になるはずだ。一石三鳥にもなる。

 重いアンクルウエイトを着けているとなんか無駄な事をしているようで矛盾を感じてしまう。何とかこの運動量を有効に用いることが出来ないか?と考えてみた。


5/5(金)子供の日 雨 病棟拘束
2:30リハビリ病院当直室で起床、ドック結果等.転院患者の紹介状。そのほか種々処理。7:10検食、8:30病院に移動。回診他病棟業務、拘束としての対応。13:30帰宅。自宅で事務処理中心。19:30夕食、20:30就眠。私の金週間は本日で終了した。明日は夕方まで通常勤務となっている。

足におもりを付けて歩く(4) 体脂を電気に変えて利用できないか?
 アンクルウエイトを着けていること自体は運動不足を若干でも補うから健康維持の面でも理にかなっている。実際に効果もあるようだ。しかし、どうせこれほどの重りを着けて動くなら、何かもっと自分の動きを有効に利用する方法はないのだろうかと思ってしまう。
 アンクル発電機なるものはどうだろうか。片足2Kg程度までなら余裕を持って製品化できるだろう。人の動きの中で最も力強く、かつメリハリのある動きは歩行時の下肢の動きである。発電には最も向いている。発電機と充電池をアンクルウエイト風に組み込むと携帯電話とかi-Pod、MDプレーヤー等の充電、なら十分賄えそうである。あまり歩かない人は貧乏揺すりをすれば良い。

 私はとてもケチな性格でエネルギーの浪費については特に敏感である。身辺で廃棄しなければならないものが出ると何かに有効に転用できないか真面目に考える。無人の部屋にに電灯が点いていないか? 車に乗っているときには大事な燃料を燃やして到達したスピードをブレーキをかけて減速し、摩擦熱として大気に放散させる事など実に勿体ないことだ・・・等と真面目に考えていた。
 ハイブリッド車は私にとってある程度満足すべきもので、発売されたときにすぐにでも乗り換えたいと思ったが、それも無駄である、使用中の15年ものの古いレガシーが更に十二分に駄目になるのを待って、満を期して昨秋トヨタのプリウスを購入した。今は心静かにプレーキを踏めている。
 私の枕元のラジオは発電式であり、効く前にハンドルを回して充電して用いる構造である。停電時に備えて机脇に置いてある電灯も発電式である。こういうのを使ってみると乾電池とかはすごい量のエネルギーを保持しているものだと感心してしまう。

 日本も含めて先進国は運動不足と過食で人々は生活習慣病に苛まれている。わが国では6人に一人が糖尿病またはその予備軍といわれている。文化そのものが病んでいる。米国などでは豊かな人々はスポーツジム等でお金をかけて体脂肪を消費している。これも実に無駄だと思うが、対岸の火事と笑ってはいられない。日本でも黙っていては生活習慣病がますます増加する。何とかしなければなるまい。


5/4(木)国民の祝日 晴れ  病棟拘束 ハーレー整備 リハビリ当直
0:00起床,ドック総括x1。秋田医報関連記事校正に呻吟。講演準備。若干微睡む。午前ハーレーを出し充電他。更に錆びついて風格が一層増した。午後まで病院と医師会関連の業務。。14:00-17:00病院、リハビリに移動当直に就く。呼び出しは一件のみ。20:30就眠。

足におもりを付けて歩く(3) 2.2Kg x2へアップ 無駄なことではと疑問に
 昨秋から当院の変わった医師の勧めでアンクルウエイトを着けている。最初は片方500gで開始、2月頃からは1Kgにアップした。これにも間もなく慣れたので余っていた500gも一緒にして1.5Kgにし、次いで長男が着けていた1Kgのを先日横浜で会ったときに譲り受け、その日から2ヶづつ着けて片方2Kgとした。ここまで来ればさすがに重いが、私にとっても決して無理というわけではない。

 ただ、1Kgを4ヶ装着する手間は結構大変だし、第一不格好である。それに走ったりすると外れてしまうことも希ではない。次男も興味を示して私のために2.2Kgのを購入してきてくれ、代わりに1Kgのを持って行った。やはり2ヶ付けるのに比較すれば便利だし、装着感はかなり良くなる。
 これ以上重い製品はないようだからまずしばらくこれで行こうと思う。

 朝出がけに装着し、寝るときに外す。歩行時は勿論、階段の昇降時にも、小走りの時にも付けたままである。うまくズボンの裾で隠れて目立たないから外の会議の際にもそのまま着けていく。机に向かっているときは足踏みしたり足を屈伸したりするから日常かなりの負荷となっている。結果として足の形が若干ながら筋肉っぽくなって来ているような気がする。かなりの運動量にはなっているのだろう。ただ、腹の不格好なふくらみは全然へっこまない。これは別な因子なのだろう。

 アンクルウエイトを付けていること自体は運動にもなるし、とても良いだろうと思うが、最近なんかとても無駄なことをしているのではないか?と疑問に思えてきた。


5/3(水)憲法記念日 快晴  病棟拘束 プリウスタイヤ交換
2:30起床。ドック総括x1他。書類2,3処理。講演準備開始。11:00-15:00病院。紹介状,レセプト関連書類処理.症状経過報告作成。この間にプリウスタイヤ交換依頼。帰宅後、秋田医報校正作業他、一時午睡、19:30久々家族5人そろいジンギスカン夕食、20:30就眠。

ホテルでの葉っぱとコーヒーの朝食をたのしむ
 私は一日一食主義で通常は夕食だけである。朝の5:00前になると飼い猫が決まって焼き海苔を所望してすり寄って来るので2-3枚与え、余った分を口に入れてそそくさと出勤する。それだけである。昼は昼食つきの対外的な行事がない限りは摂らない。だから昼食を摂る機会は年にせいぜい数回位いだろう。

ただし、コーヒーは濃いめに炒れて数回、数杯飲む。空き腹に飲むと吐き気がしたり、不整脈が出るが、好きだけに止められない。昼食を摂った日は午後何となく働く気が乏しくなるので本当は嫌であるが、立場もあるし、諦めている。夕食は常識+?程度の食事を摂る。こういう生活にしてからもう10年近くになるのだろうか。その前の10年は朝食と夕食の二食にしていた。

 この一食主義は私の勝手な理論に基づいている健康法なのだが、家内は理解してくれず健康に悪いと決めつけている。週に1度ほどであるが、仕事や趣味などで興に乗って徹夜したときとか、逆に早寝したときなどに、家内はこの時間帯に朝食を用意る。ホントは主義と生活のペースが乱れて迷惑なのだが、とても断れる雰囲気ではなく、食べる方がしこりも残らず平和なので有り難くいただく。

 私が例外的に、かつ積極的に朝食を求めるのはホテルに一泊した際である。医師会関連の東京出張は結構頻回にあるが大抵は日帰りである。そうしょっちゅうあるわけでないが二日間にわたる会議とか、学会などの場合には宿泊となる。
 最近はどこのホテルも朝食つきであり、バイキングスタイルだから遠慮無く、かつ甚だしく偏食が出来るから楽しみである。出張の時もいつもの如く2:00am前後から起きているから、時間を見計らってレストランに行く。大抵一番乗りである。

 お目当ては大好きな生野菜とコーヒーで、他に若干の卵料理を取るだけ。私は異常に生野菜を好む。バケツに一つ食う、と自分で言っているほどである。十分な量があるときには始めから大きめの皿2枚に山盛りにする。少ないときには我慢して一皿にするが、頃合いを見計らってまた取りに行く。ドレッシングもかけず、野菜自体の味を楽しみながらポリポリとかじる。まるでかつて飼っていたウサギの朝食風景と同じである。それにコーヒーを数杯楽しむ。
 生野菜の命は鮮度であるがレストランによって結構差がある。組み合わせや切り方にもそれぞれ工夫があるし、新鮮そうに見せるためか直前まで水に漬けていたと思われるのもある。
 感じることもいろいろあるが、食品に対して文句は言いたくない。恐れ多いことだし、私にとっては久々に味わう至福の時間だからである。

 写真は先月の内科学会総会で宿泊した横浜ロイヤルパークホテルでの一皿目で、同じくらいの量をお代わりした。鮮度も良く満足したので撮ってみた。


5/2(火)晴れ  外来  常務会  医局会・MC
2:20起床、ドック総括x1。事務処理。医療事故関連他。5:10病院着、6:15回診、オーダリング入力など。8:00-8:45管理会議。9:00-14:15外来、予約外患者の受診も多く超混雑。疲弊した。14:30-16:15常務会、16:30-17:15病棟患者対応。17:30-19:15医局会、オーダリング、出張旅費等討論。21:30帰宅、22:00就眠。

何故、少女が医療少年院に?  少年法では女子も少年と呼ぶ
 48歳の母親に劇物のタリウムを飲ませたとして昨年、静岡県立高校の17歳少女が殺人未遂容疑で逮捕された事件があった.
 静岡家裁沼津支部は昨日、少女を医療少年院に送る保護処分を決定した。裁判長は「幼児期からの成長過程に問題もあり、人格のゆがみも認められるので、長期間の矯正教育が必要」とする処遇勧告を付けた。少女を医療少年院へ送致する決定した理由は、当初は身勝手でかたくなな否認の態度であったが、次第に内省をし始め、非行事実を認めるようになった事などを挙げている。
 少女は祖父母、両親、兄二人の七人家族とのことであるが家庭的に何かがあったのだろうか。動機はインターネットを通じて??入手したタリウムを、一度母親に飲ませたところ予想以上に重い症状が出たため、事の発覚を強く恐れ、殺意を持って更に数回投与した、と言うことらしい。

 タリウムは身近なものとしては、殺鼠剤に含まれる。かつてねずみ取りを食べたらしいという患者が救急を受診したことがあり、当時いろいろ調べた事がある。
 タリウムは重金属類の中では一番毒性が強く、成人の致死量は約1gとされる。中毒の症状は少量の場合、吐き気・嘔吐・食欲不振など、中等度で視力障害・知覚異常等。大量では痙攣・昏睡・呼吸麻痺を来す。産業分野では特殊ガラス、合金、ハイテク分野で使用されるほか、医療分野でも放射線診断で使用されている。タリウムは薬局などで購入できるが、毒劇物法で18歳未満には販売が禁止されている。
 
 ところで、何で少女が医療少年院なのか?と思う。男女平等参画時代にそぐわないのではないか? 少年は「普通、7-16歳ぐらいまでの若い男子を指す」と辞書にはある。ただし「少年法では20歳未満、児童福祉法では小学校就学から満18歳までの男子と女子を指す」とのこと事である。
 少年院は4種類ほどあり、一般的には男女別に設けられている。医療少年院は心身に著しい故障のある14-26歳の者を収容するが、男女を分ける構造になっている医療少年院については同じ施設に収容される、とのことである。要するに女子のみを収容する少年院があると言うことになる。

 私は女生徒、若い女性患者等について話すときなど「彼女は・・」と言うべきところを、癖でつい「彼は・・」と言って注意されるが、少年法上でみればあながち間違いでないと言うことになる。


5/1(月)晴れ メーデー 管理会議 療養病棟判定会議 長副会議
 2:00起床、若干眠い。自宅のマックがZipを認識しなくなった。とりあえずはフラッシュメモリーで代行する。ドック判定総括x1。「すこやかさん in Akita」原稿に呻吟す。5;20病院着。6:10回診、オーダー入力他、8:00-8:45管理会議。9:00-13:45外来、午後回診ほか。16:00-16:30療養病棟判定x2。17:00-19:45長副会議、20:30帰宅、夕食、21:00就眠。

「働けるだけ喰わせろ」、からすっかり様変わりしたメーデー ハ
 本日はメーデーである。全労連系の中央メーデーは本日、全国47都道府県で行われた。東京・代々木公園の会場には主催者発表で410,00人が参加したと報じられているが、この数字はいつも警察とかの発表と大きく異なるから実態は解らない。50%位かなと私は思っている。熊谷議長は在日米軍再編を批判し、改憲の手続きを定める国民投票法の成立阻止や、教育基本法の改正反対を訴えたと言う。

 秋田では本日は県労連メーデーがアゴラ広場で予定されていたが、その様子は報じられていないため解らない。当院からも30人近くが参加したと思う。勤務中での参加である、参加者達はそれなりの意識を持って最近の高齢者軽視の医療情勢の問題点、医療従事者の厳しい就労環境等を訴えてくれた、ハズである。後で確認してみたいものである。

 連合秋田の第77回メーデーは、秋田魁新聞によれば、4月29日に県内8カ所で開かれ賃金、労働条件の改善、増税反対等の姿勢をアピールしたとある。陸上競技場で開催された県中央メーデーには5000人ほどが参加、県知事、市長も祝辞を述べたという。今年のスローガンは「働く者の連帯で、平和・人権・労働・環境・共生に取り組み、労働を中心とする福祉型社会と自由で平和な世界を作ろう」と、実に壮大なものであった。
 ちょっと欲張りすぎていないだろうか?
 
 メーデーの歴史は、1886(明治19)年5月1日の米国の労組が8時間労働を要求したゼネストを嚆矢とする。日本では、1920年5月2日に上野公園に1万人ほどの労働者が集まり、その後も治安維持法や数々の弾圧の下で闘うメーデーは続けらたが、1937年以降は日中戦争のため禁止になっている。戦後の第1回のメーデーは1946年で、「働けるだけ喰わせろ」がスローガンだったという。生きることが苦しかった時代、要求は直接的で切実であった。その後も年々盛り上がりを見せていたが、1952年の第23回メーデーはデモ隊の一部が皇居前の広場に入り、警官隊のピストル撃たれで多数の死傷者を出し、「血のメーデー」として記憶される様な忌まわしい歴史もあった。

 盛大な労働者の祭典として定着してきたメーデーであるが、近年、昨今は連休中に労組が動員を要請するのはおかしい、といった意見が出されるようになり、すっかり様変わりしてきている。そのために連合秋田の如く4月29日に開催しているところも少なくない。

 「働けるだけ喰わせろ」と言った切実な環境とは今は明らかに異なるが、わが国の労働者にとってその労務環境は相変わらず厳しい。医療関係者の労務環境は医師を含めてとても苦しい。なのにみんな温和しい。なんでだ?? 中流意識のなせる技か?
 私はメーデーが実質的に衰退傾向にあるのを残念に思っている中の一人である。 
 


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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