徒然日記
2006年6月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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6/30(金)曇→雨 舌を噛む 医療安全管理部と打ち合わせ ドック結果説明+診察 オーダリング病棟リハーサル
2:00起床,ドック判定・総括x1、徒然日記など.4:45頃舌を噛む。5:10病院着、6:15回診他、9:00人間ドック説明、以後は書類と格闘、県内医療事情検討。13:30人間ドック診察x5、16:00-17:00対策委員会、17:30-19:00法人理事会。20:50帰宅、21:30就眠.

また、強烈に舌を噛んだ。終日痛みで憂うつ
 今朝、4:45am頃、いつもの如くネコと焼き海苔を分かち合って食べている最中に舌を噛んだ.強烈な痛みと共に口の中に血液特有の味がサッと広がった。直ぐにティッシュペーパーを押し当ててみたが相当の出血である。舌を噛むなんてそうあることでは無い。出血するほど噛んだのは今まで3回目で、記録を見ると前回は2002年7月、この時も強烈であったが、それ以来である。 

 見ると、舌の先から1cmほどの裏側に5mmほどの裂傷が生じており血が噴き出ていた.暫くティッシュペーパーを噛んで圧迫止血を試みたが、なかなか止まらない。出勤予定時間も迫ってくるために大量のティッシュペーパーをあてがい上下の歯で挟んで圧迫しつつ出勤した。車の中でも2度ほど取り替えた。徐々に出血は少なくなってきたが、結局病院に着いてもまだ出血が続いている。うがいの時には薄まった鮮血で洗面台が綺麗にピンクとなった。結局今回も止血するまでに30分ほど要した.

 咀嚼筋は身体の中でも最も力が強いとの事であるが、そのパワーを痛いほど味わった.それも、不思議なことに殆ど噛む必要がない焼き海苔の小片を食べている最中である.前回は杏仁豆腐であった。別に噛まなくても良い状況に近い食べ物である。足下で海苔を食べているネコに、いつもの如く「どうだ、美味いかい?」と声を掛けた瞬間であったから、舌の動きに乱れが出たのかもしれない。それにしてもこの強烈な噛みようは何なのだ??咀嚼筋は常にパワー全開に近い状態で働いているのであろうか.

 早朝、医局で煎れるコーヒーは私の小さな楽しみの一つであるが、今朝は十分に冷めるのを待って飲んだ。舌も先端が腫れ上がって粘膜下には1cm程の血腫も出来ている。言葉もクリアに出ない感じである。また、話す度に舌に痛みが走る。本日は外来こそ無かったが、対話しなければならないスケジュールが数件あったほか、本日付で退職する職員も数人挨拶に訪れてきた。本日までの労苦をねぎらい、将来を祝し、にこやかに送り出したが、実に大変であった。

 2-3日は熱いコーヒーは楽しめそうもない。それに、私はアフタ性口内炎が出やすい。傷の跡にアフタなど出なければいいが、と思っている。それにしても体調というのは微妙なものである。舌尖の痛みのために今ひとつ乗りが悪く、終日欝欝、だらだらと非能率に仕事をこなしてしまった。


6/29(木)晴れ ドック診察 外来 秋田市医師会総会 医療評価機構保留判定記念日
2:10起床,ドック判定・総括、退院総括・紹介状途中まで作成で時間切れ.家内不在にて4:50病院着。6:15回診他。9:00-14:20外来。新入院患者その他の病棟患者対応。18:30からの秋田市医師会総会には1時間遅れで出席、何時にもなく活発な意見が交わされた。執行部の若返りの効果だろう。 21:15帰宅、夕食、22:00就寝。

新臨床研修制度雑感(3)卒前の臨床実習、秋大包括医療実習(2)
 包括臨床実習は正式には「地域包括保険・医療・福祉実習」と呼び、実習に回ってくるのは来春卒業予定の専門課程4年次の学生である。
 大学で選んだ県内の20病院は、3週間の実習カリキュラムを作成し提示する。学生達はそれや立地条件等を参考に病院を選ぶ、という。

 これまでは地域で第一線の診療に従事する医師は卒後研修の指導は別にして、ほとんど医学教育に携わる機会を持つことはなかった。これは、学生にとっても、地域医療に従事する医師にとっても不幸なことであった。そうは言えども、実際には、学生に対して単なる見学から一歩踏み込んだ意義ある体験実習をして貰うのは大変なことである。
 3週間の「地域包括保険・医療・福祉実習」に対して私どもの病院は法人が持てる施設、機能の多くを提示し、その中でもいろいろ体験できるような計画を立てて学生を迎え入れている。
 施設としては、当院の他、「中通リハビリテーション」、介護老人保健施設「遊心苑」、福祉複合施設「ウエルビューいずみ」、「訪問看護ステーション」5カ所を予定し、何れもその中で実習も企画している。

 体験実習としては「病棟実習」「ケースワーカー病棟カンファレンス」「緩和医療チームカンファレンス」「夜間救急実習」「研修医一日体験」、その他に各所でミニ講義も組んでいる。実際には、「診療所実習」「出張診療」「往診・在宅医療実習」にもっと時間を割きたいところで、担当者はいろいろ工夫していたようであるが、スケジュールの関係でやむを得なかった様である。

 私どもカリキュラムは他にないほど多彩だと思う。地域医療は、幅広い技能を有する医師によって担われている。「患者中心の医療」の理念は言うのは簡単だが、患者の生活の場に密着した医療以外では実践はなし得ない。地域での第一線での医療は、大学病院等の高次医療機関における医療とは全く様相を異にする。
 このように、地域の医療に従事する医師が医学教育へ参画することは医学生、医師の双方にとって大きなメリットがある。


6/28(水) 快晴 外来 秋大皮膚科訪問  県身体障害者福祉審査(欠) 安全対策検討委員会 療養病棟診療部会議 日本膵臓学会
2:20起床,ドック判定・総括x1等、退院患者総括・紹介状、他いつもの如く.5:10病院着、6:10回診他、9:00-13:40外来、14:00-14:40秋大皮膚科教授訪問、懇談。15:00からの身体障害者福祉審査部会は物理的にも無理で欠席とした。16:00-17:00安全対策会議、17:00-18:00療養病棟診療部会、20:50帰宅、夕食、21:30就寝。家内は昼のこまちにて日本膵臓学会(横浜)へ。

新臨床研修制度雑感(3)卒前の臨床実習、秋大包括医療実習(1)
 今週の月曜日から秋大医学部の4年生、8名の学生が3週間の予定で当院に包括臨床実習に来ている。廊下などまとまって歩いていると壮観である。若々しくて動作もきびきびしている。高齢化と若い臨床研修医で二極化した病院がここ3週間ばかりドッと若い方にシフトする。医局周辺に良い雰囲気が漂う。

 この様な、学外における体験型臨床実習はかつての医学教育には全く無かったが、今では、66/88大学の医学部で取り入れられている。実習の内容は全国的にも千差万別であり、まだまだ検討を要するとされながらも、医学教育の方向性としては前向きに評価されている。

 住民に良質な医療を提供するのが医療の原点であるが、そのためには、大規模病院、中小病院、診療所がそれぞれの特性を生かした役割を持ち、連携することが重要である。
 ところが、今までの我が国の医学教育は大学病院のみで行われてきたので、アカデミックであるだろうが、一方で視野の狭い専門医的思考の下に、疾患分析型志向で医学教育がなされてきた。しかも、大学病院で診療している患者は、時には頻度的に極めてまれな疾患であり、診断・治療に特段の困難を伴う様な患者が多い。大学病院での診療は地域医療と比べて医療の対象疾患も異なるのみならず、そこの診療の中には保健、福祉、介護などの医療上に欠くことの出来ない重要な連携も見えてこない。また、教授を始めとする今の教育スタッフの多くはもともとそのような環境の中で純粋培養の如くに育成されてきた方々であり、医学教育のプロになるための教育を受けてきたわけでもないし、ましてや地域医療の現実を理解されている方は少ない。
 だから、こういう環境の中でのみ卒前・卒後教育がなされるならば医療の本質からかけ離れた、あたかも部分の総和が全体であるような認識を頑なに身につけた、専門指向の医師を育成することになる。
 現にそうであった。専門医と雖も医師は、置かれた立場で臨床医としての変容が期待されるが、今の専門医と言われる大部分の医師は、病態や診療領域の不明確な、一般的な患者への医療に意義も興味を示さないし、頑なに自分の領域に固執し、診療をことわる医師も少なくない。残念な現状であるが、今の病院の中で、患者の、特に高齢患者の、いわゆるたらい回しが生じている。これは日本の卒前・卒後教育システムにも問題があるからである。

 大学の中から生まれてきた発想ではない、とのことであるが、このよう教育上の問題点を埋めるために学外臨床実習が取り入れられてきたが、当初は秋田大学医学部でもなかなかその意義は認められなかったらしい。


6/27(火)曇→雨 病棟定期処方日 外来 法人常務会 医療安全管理部担当者と打ち合わせ 医局カンファ 
2:30起床,ドック判定・総括x1、他.5:15病院着、回診他。定期処方25枚発行。9:00-13:50外来。14:30-16:00法人常務会,17:00医療安全管理部担当者と打ち合わせ。17:30-18:30医局カンファ「救急関連症例検討」。21:00帰宅、21:30就寝。

私の体調、今日までの所は・・(2)「まだ、大丈夫?でも時間の問題でしょう」
 今回、高熱を発したがまず体調は改善した。メールで何人かの方から見舞いの言葉をいただいた。感謝、である。このレベルの発熱や体調不良、単純ヘルペス感染などは年に何度もあるので「またか」の程度でそう深刻に考えては居ない。じっと耐えていれば自然と過ぎ去っていく。

 健康問題は、しかし、甘いことは言っていられない。バイクの事故などと同じで一歩先のことは分からない。かすかな予兆など、時折あるが、先のことは分からないので、私は健康を話題にする際には、「今日までの所では」、と枕詞をいつも付ける。

 還暦をすぎれば身体のあちこちに問題が出てくる。マア、生きると言うことはこんなものか、といろいろ出てくる現象を前向きに味わっている。祖父母や両親が話していたことが実感を持って思い出すことが出来るようになった。やっと、両親や祖父母の気持ちが理解できる様な年齢に近づいてきた、と言うことである。

 ある病院の院長と外の会合で時々会うが、いつも決まって「まだ、大丈夫?でも時間の問題でしょうね・・」と言う。私の身に何かが起こるのを楽しみにしているようにも聞こえないわけではないが、私の生活パターンにあきれて、心配しての有り難い発言である。その度に「今までのところ、何とか・・」とワンパターンで答える。自分のところの職員からはこのような発言は一切聞かれない。

 今、自身で一番心配しているのは数年前からの不整脈である。週単位で表現すれば2-3日分に相当する、かなりの長時間乱れている。脈の乱れ方もいろいろナパターンがあり時にはかなりひどく、心房細動になっていると思われる時もある。不快感もいろいろ、若干息苦しいかな?ちょっとまずいかな?何か起きるかな?と感じることもある。でも、不整脈が頻発している時も特に生活のペースを変えていない。テニスもフツウにやっている、幸い、今までは何事も起こっていない。
 何かが起こるとすれば、心臓の急速な機能低下か、身体の何処かに血栓が飛ぶことで、急死の可能性も少なくないだろう。そんなの起こしている暇なんて無いから大丈夫だろう、と気楽に考えている。精査もしていない。マア、起こったらそれまでだね。
 
 自分の健康のことすら真剣に考えていない私が、心配で受診してくる患者を診療していることは一種の冒涜であるのかもしれない。睡眠をしっかりとって、食事はこうこう・・、と自分の生活と大きくかけ離れた内容で生活指導するのも考え等によっては一種の偽善だし、自分よりずっと健康そうな患者に「お大事に」と言っている私は一体何なんだろうか?


6/26(月)快晴  秋大包括実習初日  管理会議  外来  血液浄化部長と面談  長副会議    液晶TV購入
2:40起床,まだ発熱続くが身体の違和感はかなり改善。本日退院患者紹介状、総括など。5:20病院着。回診,書類処理。8:00-8:45管理会議, 8:50秋大包括実習学生8名迎える。簡単に挨拶。9:00-14:00外来。16:30-17:00血液浄化部部長と面談。17:00-20:50長副会議、長丁場。21:30帰宅,大型の液晶TVが届いていた。居間の雰囲気がかなり変わった。夕食、22:20就眠。21:00頃救急外来から電話。

私の体調、今日までの所、何と都合良くできているのか?
 昨夕から私は高熱,38.7℃、を発した。夕方の回診中に急に身体の違和感と腰痛、四肢関節痛が生じ始めた。まもなく体熱感と共に倦怠感も出てきたために早めにと、バイクで帰宅した。こんな状況でのバイク、300Kgもあるハーレーはは取り回しがいつもより重く感じたし、不安定な運転になったが、襟元からの風がとても心地よい。ゆっくり走って無事到着。

 私はこんな時は徹底して寝ることにしている。薬品も不要で食事も摂らない。約束していた来客もあったが、懇意な中なので事情を話し、布団の中から対応し懸案事項は片付けた。若干の悪寒あり、発熱も更に増したようである。後は夕食もとらずに、ひたすら眠った。3:00am頃の起床時には若干解熱し、何とか机に向かう気力が回復していた。月曜の仕事は結構ハードだが何とかやれそうで、いつもの通り出勤した。外来に出る頃には微熱程度まで回復していたが、雲の上を歩いているような違和感がまだ残り、何となくボーッとする。

 私よりも体調が良さそうで、上機嫌、無症状、元気な患者に診察後「お大事に・・」と声をかけるのももどかしい。一方、体調不良と宣言しているにもかかわらず、外来の主任看護師は目の前にどっさりカルテを置いていく。私が体調不良であることなど全然考慮してくれない。私も負けては居られんと頑張るしかなかったが、お陰で外来が終わる頃にはかなり元気になった。

 私は今日までの間、決定的な病気には罹患していないが、発熱や原因不明の体調不良等は頻回に生じている。不思議なことにこの様な体調不良はほぼ週末に集中している。今回もまたか、という感じである。医師として35年働いているが、早退して寝込んだことは何度かはあるが、体調不良で外来を休んだのは一度だけである。昨年のヘルニア悪化による腰痛の時も土曜日発症で、あまりの激痛に入院治療、手術療法も覚悟したが、月曜朝にはかなり改善、通常に仕事が出来た。ホント、不思議であり、運が良いとしか言えない。

 身体のことは明日のことは分からんと思うので「今日までの所は・・」と限定付きで言わねばならないだろうが、かなり恵まれていることは確かである。感謝、感謝である。


6/25(日)曇→晴 FF-tennis 夕方から高熱を発する
2:30起床.ドック判定・総括x1、ほか.退院患者総括。書類処理。久々ヴァイオリン取り出し若干練習。13:00-16:30 FF tennis。4-6、6-4,8-6と良い結果であった。17:00-19:00病院にて回診その他重症患者対応。この間に悪寒あり,19:30バイク帰宅。夕食は殆どとらず、21:15就眠。夜間ずっと38℃以上の発熱あり。割り切ってひたすら寝ることに集中


6/24(土)晴れ 石井様不在 病棟拘束 ドック説明 患者面談 友の会総会 中通総合病院臨床研修ワークショップ 第130回県医師会臨時代議員+情報交換会 武田病診連携講演会(欠)
2:30起床,ドック判定・総括x1、院内業務等。5:20バイク病院着、回診他。9:00ドック説明x1。10:00-10:45患者家族と面談。書類処理。12:30友の会総会、中座。14:00中通総合病院臨床研修ワークショップ+挨拶、中座。15:30臨時代議員+情報交換会、会務報告担当。20:15帰宅、21:00就眠.

新臨床研修制度雑感(2)インターン闘争の教訓は忘れ去られている
 我が国の初期臨床教育における諸問題が、身分や報酬、教育内容の不備などの面から次第に明らかになり、昭和30年後半から40年初頭にかけてインターン制度廃止運動が急速に高まってきた。医学部に入学した私はその影響をもろに受けた。そのころは運動のレベルを超えてインターン廃止、医局講座制廃止闘争にまでエスカレートしていた。
 私も専門過程1年の時はストや授業ボイコットに参加したが、一時クラスの闘争実行委員長を引き受けたこともある。この頃の経験が如何にストレスであったかは、放校になって医学部を再受験し、不合格になった夢を、最近まで時折見ていた事に現れている。

 昭和43年、インターン制度は廃止となり、臨床研修制度創設は2年間の努力義務となった。しかし、医局講座制の改革までは届かなかった。しばらくは非入局、博士号取得反対運動として続いていたが、卒業後どういう状況になっていたか知らない。私は秋田大学で勉強するようになったが、新設の医学部と言うことで新潟大学とは雰囲気がずっと異なっていたものの旧態依然とした講座制が敷かれ、卒後に秋田に残る学生は数の上ではもともと少なかったが、その大部分は卒業後に直ぐに大学医局に入局し、しばらく大学で過ごした後、一般病院に派遣される形で研修していた。

 新臨床研修制度は勿論、問題はないわけではないが、私はとても良い制度と考えている。身分がしっかりしていることと、すべての医師が曲がりなりにもプライマリーケアを2年間経験でき、その間じっくりと将来の道を考えることが出来るという事は大きい。
 本来は国の制度であることから、県が主導して秋田における臨床研修制度を確立すべきであったが、何故か秋大が主導する形となった。秋大の研修プログラムを見て感じたのは、研修医にとってはインパクトが乏しく、魅力を感じないのではないか??これでは秋大で初期研修を受けようとする卒業生はそれほど居ないのではないか??と言う疑問と心配であった。プログラムを作成した教授方は時代の流れ、学生の気質、研修に対する考え方を理解していない??インターン闘争の教訓は忘れ去られている??と感じたものである。しかし、考えてみれば現在の教授の大部分はインターンやその闘争を経験していない世代だから、その点ではやむを得ないのかもしれない。
 この3年間、秋田県内で研修しているのは各卒年ごとに60-70名であり、50名以上は大学以外の研修病院で研修している。


6/24(金)曇→快晴  オーダリング研修終了日  院内対策委員会  人間ドック診察  法人理事会
2:00起床,ドック判定・総括x1、徒然日記など.5:10病院着、6:30ICU、回診他、書類と格闘、県内医療事情検討。13:30人間ドック診察x5、16:00-17:00対策委員会、17:30-19:00法人理事会。20:50帰宅、21:30就眠.

新臨床研修制度雑感(1)医局制度が忍耐強く、物言わない医師を創った
 漢方医学の頃の医師養成はどうなっていたのであろうか? 私は興味があるが殆ど知らない。何れは勉強してみたい分野である。
 近代の、日本の医師養成は明治2年に時の明治政府がドイツ医学を採用した時から一気に変わってしまった、とされる。以後、ドイツ風の厳格な師弟関係を基本にした徒弟制度と言って良いスタイルを踏襲しつつ、少しずつわが国独特の医局制度として確立してきた。制度と言っても公的なもの、成文化されたものでなく、医学会独自の半ば風習と言って良いものであった。

 終戦後にアメリカ医学が導入されたが、大学の医局制度や学位施行の風潮はそのまま残ってしまった。GHQもいろいろ検討した様で、その足跡の記録は残っているが、GHQといえども医療界の古い慣習、既得権までを放棄させることが出来なかったらしい。戦前の日本の医師養成制度がきちんと成文化され、制度化さていればGHQは変革を命令し得ただろうと思うが、慣習として行われてきたことに関しては力を発揮できなかったのではないだろうか。

 それでも、昭和22年にGHQは強権を発揮して官制・日本医師会を解体し、翌年からはインターン制度を新設した。当時の環境から見れば画期的なものであったのであろうが、インターン生の身分の保障はなく、報酬も一切保障されていなかった。このような状況が戦後20年も野放しになっていたことは今振り返ってみても不思議な事である。その最大の原因は、若い医師達が何も発言しなかったこと、発言できなかったことにあった、と考えられる。
 当時は殆どの卒業生は出身大学の医局に入局し、学位を取得するまではとにかく忍従の生活を強いられてきた。その様な生活を維持するモチベーションは、学位取得後に教授が相応しい社会的地位を提供してくれるからである。このコース以外には陽のあたるような社会的地位を獲得することなどほぼあり得ないことであったから、それまでじっと耐えるしか方法はなかったといえる。この環境の中、多くの医師は、ものも言わず、長いものに巻かれてじっと耐える、他力本願的な、視野の狭い、・・人種となっていった。このような人種を評論家の故草柳大蔵氏は「在日日本人」を称していたが、当を得ていて面白い。


6/22(木)晴れ ドック診察 外来 総合内科診療部会
2:10起床,ドック判定・総括x1、退院総括・紹介状途中まで作成.5:20病院着。6:15回診他。8:10からのドック診察を失念し30分以上も待たせてしまった。連絡方法を考慮する必要がある。9:00-14:20外来、混雑.診療部会出席は不可。 20:45帰宅、夕食、21:30就寝。

「割」と「%」(2) 患者窓口負担「1割」→「2割」→「3割」のマジック
 割合、比率を表す単位として我が国では古くから「割」が用いられてきたが今は大部分の表示が「%」となっている。私など「○%」ならばすぐに理解できるが、もう、「○分○厘」と表示されても直ぐには理解できない。そのレベルまで使用頻度は減っている。

 しかし、商業等中心に「○割」はまだ値引き率とかの表示に頻用されている。多くは「1割」「3割」「5割」などと数値は整数のことが多いから何となく潔いイメージを伴う。「○割引き」と言う表示には売り手側の思い切った、無理して決断して付けた値段、のような雰囲気が漂う。だから、同じ値引き率でも「20%引き」と「2割引」では後者の方が目を引きつける。後者の方は、もしかしたらあまり儲けは出ていないのでは?と買う側が売り手の立場を心配してしまう、共感の雰囲気がある。段ボールなどの切れ端にマジックとかで「3割引」などとなぐり書きしたようなお知らせが付いていれば尚更である。だから何となく買い手の方も得したような満足感を伴う。一方、綺麗にワープロ書きされた「20%引き」ならば、やり方によってはもう2-3%安くできるのではないか?と、つい勘ぐってしまう。

 医療の分野でもまだ「○割」は用いられている。
 患者の窓口負担は何故か「○割」表示である。今までにクリアカットに「1割」→「2割」→「3割」と増やされて来たが、私はこれをいつも「何故なんだ??」と思って来た。何故、表示が「10%」、「20%」、「30%」ではないのだろうか。政府、厚労省から提示されてくる患者窓口負担の表示は全て「○割」で、負担増の是非についてはやり取りされるが、負担増が決まれば「1割」→「2割」→「3割」と整然と増額されてきた。この間、「1割5分」とか「2割7分5厘」にしましょう、と言う議論になったと聞いたことが無い。
 私は今後は「○割」表示を止めるよう働きかけるつもりである。「○%」表示ならば必ず細かな調整の話題が出るはずである。今の時代、窓口負担が「12.5%」になったとしても計算上、誰も困りはしない。また、医療費など大まかに整数で区切って丼勘定で値上げされたら患者達は大変である。

 「○割」表示は日本人が備えている節目を大事にする心理・心情を刺激するのだと思う。だから、何故か国民は素直に受け入れる。政府は今後も「○割」表示を使ってくるだろう。まず、これを止めさせよう。


6/21(水)快晴 外来 東北ブロック・エイズ拠点病院等関連会議(盛岡) 県医師会常任理事会(欠)
2:20起床,ドック判定・総括x1等、退院患者総括・紹介状、他いつもの如く.5:10病院着、6:10回診他、8:30-10:40外来、10:56こまちにて盛岡に。13:00-16:20東北ブロック・エイズ拠点病院等関連会議、盛岡マリオスにて。17:24こまちにて帰秋、19:15病院、20:50帰宅、夕食、21:30就寝。

「割」と「%」(1)  患者窓口負担などは何故「割」で表現するのか
 割合、比率を表す単位として我が国では古くから「割」が用いられてきたが今は「%」の方が主流である。同じ比率を表現するのに、例えば、「三割八分五厘」ならば、後者では「38.5%」と極めて簡素である。さらに細かい表現になると前者の方では知識不足もあって表現できないが、後者ならば「38.525%・・・」といくらでも簡単に表現できる。だから、前者の「割」は限定された所だけで使われているが、その領域は徐々に狭まりつつある。 ところが、医療面で考えてみると両者が上手に使い分けられており、人の心理効果まで含めた作為を感じてしまう。

 「割」が使われている身近なところとして代表的なのは野球の打率、出塁率等に用いられている。イチローの打率すら「三割八分五厘」と表現される。何故「%」表示で38.5%は駄目なのかな、と思う。割は基本的には10分割を基本とした大まかな表現に向いている。三割打者、四割打者等は称号としても用いられる。

 もう一方の代表は、医療の分野での使用である。患者負担比率等を表現する際には「割」が用いられ、細やかな数値を扱う場合には「%」で表示されている。即ち、患者窓口負担は「社会保険本人2割」とか「国保3割」と表現され、診療報酬などは「マイナス3.16%」等と表現される。何故このような差があるのだろうか?と思う。
 世論形成などにうまく利用されている様に思えてならない。


6/20(火)曇ー晴れ 病棟定期処方日 外来 法人常務会 医局カンファ(小児科) 
2:30起床,ドック判定・総括x1、秋田医報用原稿用意等いつもの如く.5:15病院着、回診他。定期処方25枚ほど発行。処方に関してはオーダリングの便利さが分かりつつある、様な気がする。9:00-13:50外来。法人常務会,17:30-18:30医局カンファ「救急で遭遇する小児疾患」。21:00帰宅、21:30就寝。

中谷先生(5)偲ぶ会、献杯(2) 
 中谷先生は脳卒中の診療に精力的に取り組まれたとの事で、その診療のお姿は「だるまの会」の会員の方々が今でも熱く語ってくださいます。その診療を通じて、医学、医療による診断や治療には限界があることを悟られ、残った機能を伸ばすことの方がより患者のQOL維持に重要と考えられてリハビリテーション医療の方に徐々に傾倒されて行ったのだと思います。

 私自身は血液免疫学の領域の勉強をしてきましたが、医師として果たしてどんなことを患者のためにしてあげる事が出来たのか、自問自答した時期がありました。結果的に何もしてあげていない、単に患者の持つ力に便乗してきたに等しい事しか出来ていない、との心境に至っておりますが、そう考えるようになってきてからは私の患者に対する視線が、気持ちが、すごく和らいだ、と自覚しております。そして私の医療観の第一は、「医師として患者の求めに医療の面から許される範囲で対応し、患者のQOL、人生の満足感、充足感を維持する手伝いをすること」、と言うことに落ち着いたような気がいたします。今、私は病院の療養病棟を中心に仕事をしておりますが、人生の最終コースにあるご高齢の方々をお世話している毎日はとても充足しております。

 中谷先生の代表作と言っていいと思いますが、「長生きの本」には先生が患者を診る際の気持ちがしみじみと記されておりますが、この本から私も多くのことを学びました。先生から時折戴きました、特徴ある直筆の紹介状にすら先生の臨床医としての視点のみならず人間としての慈しみの気持ちがにじみ出るものでありました。このようなことを感じ取れる私も些かは先生と価値観を共有出来ていたのではないかと思います。その面でも、じっくりと時間をとってお話しできなかったことをとても残念に思っております。

 さて、長々とお話申し上げました。そろそろ献杯を致したいと思いますので、どうかご起立下さい。

 私は中谷先生の人生を端から垣間見ていただけに過ぎませんが、私の目で見た範囲では一つの完成しきった人生のように思いますし、先日、神のもとに旅立たれましたことにも意味があると感じております。しみじみと先生を思い、そして、心静かに、中谷先生をお送り申し上げたいと思います。先生、大変ごくろうさまでした。ごゆっくりお休み下さい。
 献杯!!   皆様方、どうも有り難う御座いました。


6/19(月)曇り→晴れ 患者家族面談x2 管理会議  院内巡視 療養病棟判定会議 長副会議 
2:00起床。ドック総括x1,退院総括x1.5:10病院着。6:10回診他。7:10入院患者家族面談、8:00-8:40管理会議。9:00-10;30院内巡視。総括・紹介状・訪問看護指示書など。13:10入院患者家族面談、16:00-16:30療養病棟判定会議、16:30-19:20長副会議、懸案多数。20:30帰宅。夕食、21:20就眠。

中谷先生(4)偲ぶ会、献杯
 私は本日
偲ぶ会実効委員会より献杯の発声を、と命じられておりますが、献杯の前に中谷先生について若干お話しさせていただきたいので、今一度ご着席下さい。

 私は昨年秋から中通総合病院院長を仰せつかっております福田です。本日は法人のOB/OGを含む大勢の方々のご出席を戴きました。懐かしい顔ぶれの方々がテーブルに座っておられます。多くの皆様方には院長としては初めてのご挨拶になると思います。

 さて、私は本日ご列席の皆様方の表情を見て、あまり悲しんでいる様に見えないのでとても安堵しております。多分、お聞きすれば言葉としては悲しみの言葉が語られとは思いますが、先生の旅立ちは、まだご活躍いただけるお年であったがために惜しむ気持ちを持つのは当然としても、実はこれで良かったのだ、先生は十分に生きられたのだ、お送りする立場の皆様方は、恐らくそう思われているのではないでしょうか。私自身は心からそう思っております。

 中谷先生は昨年秋に急性の呼吸不全を発症されまして集中治療室に入院されました。私も見舞いに駆けつけたのですが、その時、私の院長としての初仕事がもしかしたら先生をお見送りすることになるかもしれない、と覚悟を致しました。しかし、先生はその危機的状況を乗り切られて退院なさいました。私は驚くと共に、早晩、来るべき時は来るのだ、と心を決めておりました。それが、遂に現実のものになってしまいました。

 実は、私は中谷先生とこの20数年間の間に交わした会話と言えば全部合わせても小一時間にも満たないと思います。私が明和会に就職して間もなくの頃、「先生は血液の臨床を学ばれたそうですね。私には悔やんでも悔やみきれない経験があります・・。」と、類白血病反応例を慢性骨髄性白血病と誤った判断をしたと言う経験を語られました。医学的な判断とは別に、私はこの時の先生の表情から患者の事を何よりも大切にしている、臨床医として尊敬できる方である、との強烈な印象を受けました。

 その後は直接会話を交わす機会は殆どありませんでしたが、私は目に触れる中谷先生の文章から先生の人となりを学ばせていただき、広範な社会活動に尽力なさってきた姿に感銘を受けました。最近は体調を崩されていたと聞いておりましたが、病院の図書室を訪れて文献を探しておられる姿を垣間見て、変わらぬ探求心を持続されている姿にも感心しておりました。
 被爆者の健康管理もその地道なお仕事の一つでしたが、ある時、二次検診を私に担当して欲しいと考えておられることを伝え知り、私は喜んで担当させていただいております。この仕事が唯一、先生との接点としてつい先日まで続いておりました。中谷先生が逝かれた後この分野がどの様になるのか分かりませんが、お役に立つことがあれば私も継続していきたいと考えております。


6/18(日)曇天→晴れ 父の日  病棟拘束  FF tennis 
2:30起床。人間ドック総括x1、新聞チェック。退院患者紹介状等、院内業務、秋田県の医療事情のスライド作成、子供達、賄いの石井さんから父の日として花束が届く。医局の花が更に増えそう。13:00-17:00梅林園FF tennis。5-7、6-3,3-6、6-2と敗退、私も腰痛を抱えて十二分には動けず、相変わらず不調。17:30病院。20:00帰宅、夕食、総括x1。21:30就眠。ワールドカップでマスコミ大騒ぎ、世の中煩い雰囲気である。

自伝 骨髄移植を実施する(2)大変であった事前の準備
 この難治性重症再生不良性貧血患者の治療方針は紆余曲折したが、最終的に骨髄移植と決まった。
 その後しばらくは、骨髄供給者である患者の姉に対する安全性の確保対としての自己血採取と保存、輸血確保のための秋田赤十字血液センターとの交渉、全身麻酔下採取に伴う中央手術部との交渉、患者への全照射療法のための放射線科との交渉、無菌食提供のための給食との交渉、患者の消化管内無菌化、体表の無菌化で薬剤部との交渉、生活物資の無菌化、無菌室内での自立生活のための指導、スタッフによる無菌的治療や検査、生活援助のためのガウンの用意やガウンテクニックのシミュレーション、移植骨髄中の造血幹細胞の測定、第三内科医局員による移植前後の担当割り当てなどため、私は院内各部署を奔走した。

 恐らく、今では骨随移植自体が簡素化し、ルーティン化しているものと考えられるが、当時の、かつ初めての例での施行に関しては治療計画上の問題からの不手際など一切許されないことから、落ちがないように経時的な行動計画を綿密に立てた。この間の準備は思い出すだけで息苦しくなるほど大変なものであった。
 移植当日にはアドバイザーとして新潟大学第一内科からS医師、彼は基第三内科員でその後新潟に移り骨髄移植を含む血液の臨床も担当していた、を招聘し全体的な流を監修していただき、私は統括的監督で各部門を回って歩くこととした。

  骨髄移植は実施日の数日前から前処置を開始し、移植当日は供血者からの骨髄血採取と患者への全身照射等の処置とが同時進行で、各々異なった部署で行われたが、担当部門毎に全てがほぼ順調に進行し、全体的に見ても特記するような問題点を生じること無く終了した。
 採取した骨髄血の量、有核細胞数共に十分で、2週間後に判明した骨髄幹細胞の数も先ず十分であった。骨髄提供の姉も無事退院した。あとは移植された細胞が拒絶されないこと、患者の骨髄が無事再生してくること、それまでの間の約3週間、患者が大きな合併症を生じないよう最新の注意をしつつ見守るだけである。


6/17(土)晴れ  病棟拘束  ドック結果説明x2   遊心苑往診処置  オーダリング研修受講 中谷名誉院長を偲ぶ会  
2:30起床、若干寝過ぎた。ドック総括x1他若干のみ。5;20バイクにて病院着.6;20回診その他、書類と格闘。9:00-9;40ドック結果説明。10:30-11;45遊心苑で外傷あり、往診し縫合。14:00-15;30オーダリング研修会,検体検査、画像診断、看護指示、データ参照等の領域。初老の医師には大変である。17:30-20;30弥高会館にて中通リハビリテーション病院、中谷名誉院長を偲ぶ会。献杯の挨拶担当。終了後病院で若干業務。21:45家内迎えあり帰宅。来客あり、20:30就眠。

中谷敏太郎先生(3) 偲ぶ会 献杯の挨拶
 中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長は、病気療養中のところ、5月25日に中通総合病院で永眠された。ご葬儀は5月30日明和会体育館において中谷家と明和会の合同葬として営まれたが、私は業務を優先させ葬儀には欠席とさせていただいた。私は5月27日、斎場にてお別れをした。

 本日、6月17日17:30より弥高会館において「偲ぶ会」が開催された。
 実行委員会より私に献杯の発声を、という役割が与えられた。先生のご活躍の足跡の大きさから見て、私以上に適任の方が居られるはずだとは思ったが、哀悼の意を表するせっかくの機会であり、謹んでお引き受けすることとした。中谷先生についての思い出とかについては献杯の前に、先生と親しい友人であるK先生にお願いしてあるとのことで、私は簡単に発声のみ行うつもりで、挨拶など何も用意はしていなかったし、物理的にも出来なかった。

 偲ぶ会は約100名の出席があり、実に盛会であった。実行委員の話では先生が深く関与された団体毎に「偲ぶ会」が計画されているとのこと、本日の会は病院関連、特にOBの方々を中心に声をかけたとのことであった。確かに、懐かしい顔ぶれが方々に座っていた。

 小さなハプニングがあった。
 私の前に登壇されたK先生は「彼を・・、中谷先生を想うとき、感無量で声も出ません、何も語れません。別の機会に、いずれは・・・」と少ない言葉と表情で十二分に哀悼の意を示され、降壇された。私は、これまで「数少ない」故人を見送ったが、このような気持ちになったことは一度もないし、多分、今後もないだろう。ホットな人間関係を維持できないのが私の問題点の一つであると自認しているから、この様な気持ちになりうるのは別世界の方々なのだとも思えるし、一方では羨望の気持ちが全く無いかと思えば、決してそうではない。複雑な気持ちを味わった。

  続いて献杯である。私は何としようかと考えつつ、杯を片手にマイクの前に立った。献杯の発声の前にやはり一言は必要だろう、そうでなければ私は単に中通総合病院院長という役職で献杯の発声する役割を引き受けたことになりかねない、それでは中谷先生にも、本日出席された方々に対しても大変失礼なこととなる、と決心し、先にホームページに記載した内容を思い出しつつ、どのようにまとめ上げられるかも分からない状態で、マア、最後は形式に則ってしめればいいさ、と割り切って話すこととした。


6/16(金)終日小雨、ドック診察 診療部長・統括科長会議
2:30起床。ドック総括x1、etc。本日夕方の会議準備。5:20病院着、回診など。総括,書類・文献整理。会議資料一応完成、推敲の間無し。14:00-14:30ドック診察x5,病棟患者処置数件、病態検討。17:30-19:20平成18年度第一回診療部長・統括科長会議、他。21:30帰宅、夕食、22:00就眠。

堀江、村上氏の功罪(2) 子供達に与えた影響も小さくない
 堀江、村上氏の派手な登場と、時代の寵児としての話題性は大きかった。群がるマスコミを介して「利益を求めて積極的に行動することは、決して悪いことではない」という持論を明確に主張し展開した。彼らは社会に、特に若い人達、子供達には時代柄大きなインパクトを持って迎えられたであろう事は想像に難くない。ただ、この様な考え方は団塊の世代以降の人達には到底受け入れられないだろう。私など、彼らの考えは面白いと思うが、受け入れるには、まず自分の過去をばっさり捨て去らなければならない。そんなことは不可能だ。

 最後の会見で村上氏が「たくさん儲けたから、悪く見られた」と嘆いていたが、ルール違反を犯したからである。ルールを守って正しく取引する限りは、いくら儲けても文句など出るハズもないのが、市場の良いところである。一定のルールのもとでは超大型金庫に例えられる金融市場への出入りは原則自由だからである。

 日本銀行に事務局を置いている金融広報中央委員会が発表した「子供の暮らしたお金に関する調査」で、「お金が一番大切」と考えている中学生は26%、高校生で30%に達していることが明らかになった。また、「マネーグームで稼ぐことを肯定する」は中学生30%、高校生40%で、「賭け事で稼ぐのは悪くない」と管えたのは中学生34%、高校生45%にも達し、お金を稼ぐ方法は問わないとの見方が多くなっている。これこそ堀江、村上氏の功罪の一つだろう。そういえばライブドア株価が低落したとき決して少なくない数の子供達が「ふくみ損」のため嘆いていると言うニュースが何処かの新聞に載っていたし、数日前のライブドアの株主総会の写真を見て出席者の顔ぶれが総じて若い事に驚いた。

 その一方で、先の調査の中で「お金はコツコツ働いてためるもの」と答えたのは中学生74%、高校生66%に達しており、実社会の体験が無い中学及び高校生のお金に対する意識がまだ揺れていることを感じ取れる。

 ここ数日、日銀の福井総裁が村上ファンドへ投資し、年間、多いときで数100万円の利益を得ていたことが問題になって総裁の辞任話にまで発展している。また、経済産業省に村上氏と同期入省した官僚らが何人かで村上ファンドに約1000万円を投資し、3年間で100-200万円ほどの運用益を上げていたことも判明し、これも話題になっている。

 金融詐欺事件が話題になるとき殆どの被害者は高齢者であったが、コト、堀江、村上氏関連で話題になるのは若年層であり、有名人である事は対比して見て面白い。
 卓越したこの二人の指導者は恐らく組織の中である意味でワンマンリーダーだったのだと思う。このようなリーダーが率いる組織はリーダーが一旦足を踏み外したとき、破綻し消滅する危機に遭遇することになる。


6/15(木)快晴→雨  外来  新型インフルエンザシミュレーション  院内サービス改善委員会   倫理委員会
2:00起床。ドック総括x1、etcいつもの如し。5:20病院、6:00回診など。9:00-13:00外来, 13:00-16:00新型インフルエンザシミュレーション、16:00-16:50院内サービス委員会、18:00-19:30院内倫理委員会、書類数件と格闘。20:50帰宅、21:30就眠.

堀江、村上氏問題 突出したリーダーの先進性と危険性(1)
 村上ファンドの代表村上氏が逮捕された。堀江氏に次ぐ若手起業家の相次ぐ逮捕で、この日本の経済の閉塞感が打破されるかもしれないという淡い希望はもろくも、短期間で崩壊した。やはりそうだったのか!!という感じである。

  彼らが金融市場でどのような手法を用いて利益を上げたのかという点では私は全く知識が無く何も言えない。が、例え卓越した手腕があるにせよ、一部の人たちが異常なほど儲けることが出来たと言うこと自体、不自然である。単に資本の多寡だけではない、ルールの隙間を突いて善悪すれすれのところで何か操作しているような、妙なイメージはつきまとってはいた。
 株式に限らず、為替でも、金融市場においては、一定の手続きさえすれば誰でも自由にお金のやり取りが出来る、らしい。しかしそれだけにルールと倫理観が必要で、それを逸脱し法に触れた場合には重い罪に問われることになる。

 彼らはまともな方法で儲けたと言っているが、市場で儲けていると言うことは何処かで誰かがソンをしていると言うことになる。善良な??一般の投資家達から、ということであろう。それにしてもすごい額を集めるものだ。
 以前に、みずほ銀行の入力ミスによる誤発注で儲けたある証券会社が利益を返上したが、パソコン上の一瞬の指先操作で数100億もの利益を上げた会社が、それが相手側の誤操作によるものと分かった時点で利益を返還したのは、金融関連企業が当然持っているべき倫理観だったと評価できる。
 その意味では、村上氏も堀江氏も思い上がりがあった様に思える。村上氏は、自分は市場取引のプロで、市場取引のことはすべて分かっている、などと豪語していた。この発言自体、マスコミを通じた社会に対する演技でなく、本心だとすれば思い上がりである。結果が物語っている。

 彼らの犯したルール違反は今後明らかにされ、それなりに裁かれて行くだろう。
 ただ、堀江氏、村上氏共に、自らマスコミに登場して各方面に対して自論を展開する、あの姿勢、実力、知識、決断力は素晴らしいと思った。側近の助言等一切不要で、すごいと思う。大企業の失策の時に開かれる記者会見の席で展開される上層部の歯切れの悪い、しどろもどろ発言内容とは大違いで、正直なところ、私は彼らの実力に感嘆させられ、小気味良さすら感じていた。


6/14(水)晴 外来  県感染症評価会議  院内感染症対策委員会(欠) 薬事審議会医薬分業部会(欠) 秋田県教育長・県医師会懇談会  
2:00起床。人間ドック総括x1、カルテ総括など処理。5:20バイク病院、回診など。6:00オーダリングシステム不調。9:30復帰、サーバーの電源の問題。9:00-13:30外来、14:00-15:00県感染症評価会議(県衛生検査研究所)、病院にて検診等検討。16:30-18:10秋田県教育長・県医師会懇談会(県医師会)。ほぼ同時間に開催の院内感染症対策委員会と県薬事審議会医薬分業部会はやむなく欠席。回診他再度、その他。20:50帰宅.夕食、21:20就眠。

国民、医療関係者不在の医療政策(2)「無い袖を振る」厚労省
小泉首相が就任早々に言った「三方一両損」、本音は「二方一両損」、を私は忘れていない。小泉政権の医療行政はその通りの展開になった。

 政府、厚労省は国民と医療機関に無理難題を押しつけ、病院を潰し、医療・福祉への関与を軽減しようとしている。打ち出してくる施策は現場の我々から見れば殆ど不可能な要求である。例えば、私どもの病院が看護師の労務改善を図り、良い医療を展開しようとして看護基準をワンランク上げようとすれば約100名もの看護師の雇用が必要である。しかも、さみだれ式に雇用しては人件費が増えるだけだから一気に100名増やさざるを得ない。これは天文学的・・と言っても良いほどの非現実的な数値である。基盤のしっかりした中規模ないし大規模病院なら不可能ではない、現実的数値に近い。要するに、医療機関の差別化である。その目的は見え透いている。病院つぶし策である。

 私も政府や厚労省がやるように、現場の実情を無視した施策をどんどん発案して実施してみたいものである。どんなに気分が良いだろうか。

 厚労省の、あるいは政府のやる事は「無い袖を自由に振っている」状態である。今回の看護師配置基準にしろ、厚労相自身が我が国の看護師の需給状況はまだまだ不足状態だという事を認識しているのに、病院に対して看護師が少ないなら集めなさい、それが出来ないなら低い診療報酬に甘んじなさい、そして病院をたたみなさい、というものである。

 厚労省は定期的に看護師の需給調査を行っている。各都道府県の需給見通しの調査結果を積み上げたものが、昨年12月に第六次看護職員需給見通しとし公表された。それによると、平成18年には4万1600人不足、平成22年には1万5900 人の不足を見込んでいる。意外と不足数は少ない。ただ、これはあくまでも国の調査結果である。医療現場の看護師不足の現状はこんな甘いものではない。国や行政の調査に対して各医療機関は看護師の不足状況を素直に申告しがたい現状にある。そのことを解ってこのデータを読まなければならない。
 医療現場では少なくともこの2倍、それ以上不足していると考えている。厚労省の試算は常に再就業者数を過大に見積もっているし、都市部への集中という偏在の因子が考慮されていないから現実に即していない。

 要するに、厚労省は「看護師という少ないパイを医療機関の競争原理で奪い合って、出来るところは高い診療報酬を獲得しなさい」といっているのである。実際に経営基盤の弱い医療機関の一部は看護師を引き抜かれ、病院機能の維持が困難になり、病院を診療所にし、病床は有料老人ホームやグループホームに換え始めた所もあるというニュースが入ってくる。これは病床を減らそうと言う厚労省の思惑そのものである。

 こんな事を医療現場の我々が黙っていて良いものか? 医療現場からの直接の情報発信の意義は一つ一つは小さいが、まとまれば力になろう。


6/13(火)雨→快晴 療養病棟定期処方日 外来 法人常務会 公開カンファレンス
2:00起床。人間ドック総括x1、病院業務他etc。5:20病院着、回診など。定期処方日。紹介状他、9:00-14:00外来。15:00-16:00法人常務会。18:30-20:15中通総合病院公開カンファ、睡眠時無呼吸症、当院の血液浄化の現状、ほか。終了の挨拶。21:50帰宅.22:30就眠。

 国民、医療関係者不在の政府、厚労省の医療政策(1)
 マイナス3.16%という未曾有の大幅な引き下げが実施された診療報酬改定の影響は計り知れない。すでに、各所に悪しき影響が出始めている。
 今回の改訂では看護師の配置数によっても診療報酬に大きな差が付けられた。そのために、看護師の少ない病院は存亡の危機に追い込まれる。
 今、病院間では看護師の引き抜きが横行し、医療現場は大変な状況に陥っている。

 病院は病床数に対する看護師の人数配置によって「入院基本料」という診療報酬がランク分けされており、同じ医療行為を行っても健康保険から病院に支払われる「入院基本料」は患者一人当たり9540-15550円と大きな差が付けられている。この差によって病院の運営状況には大きな差が生じてくる。「入院基本料」10000円以下では実際的に運営も困難である。

 患者15人に一人の看護師が配置されている15:1看護では入院基本料は9540円、患者13人に一人の看護師が配置されている13:1看護では10920円、以下、10:1看護で12690円、7:1看護で15550円である。

 中小病院は13:1と10:1の間程度に相当する看護師配置の病院が多い。実際に看護基準のランクを上げたいと考えていても、人件費の問題から簡単には実施困難であるほか、看護師を募集しても集まらないためやむを得ず少なめの配置で我慢している。これが低医療費政策をとる日本の医療の現実である。反面、日常話題性も乏しいからマスコミに取り上げられることも少なく目立たないが、日本の医療の底辺をしっかりと支えてくれているのがこれらの中小病院である。だから、これらの病院が今回の診療報酬改定のあおりで経営困難からこけるようなことがあれば、地域医療の現場は崩壊していく。

 この入院基本料には、さらに「看護師1人当たりの一ヶ月間の平均夜勤時間が72時間以下」と言う基準が条件として新たに組み込まれた。看護師の労務改善のためと言う方向性が主であれば容認せざるをえないが、「今すぐ実施せよ」というのはあまりにも厳しい条件設定である。これによって病棟閉鎖等が強いられた病院も少なくない。看護師が不足でカバーできないなら夜勤の現場を縮小するしかないからである。やむなく救急医療を止めざるを得なかった病院もある。

 厚労省は、政府は、日本の医療を今後どのようにしようとしているのか?少なくとも国民や医療機関、医療従事者に視点が向いていないことは明らかである。極論すれば、医療機関をつぶそうとしている、医療・福祉を身軽にしたい、そういう姿勢にしか見えない。医療関係者はもはや黙っているべきではない。


6/12(月)曇→晴 管理会議 外来 遊心苑スタッフ来訪  療養病棟判定会議 長副会議 
2:00起床。ドック総括x1、総括、etcいつもの如し。5:20病院へ、6:30回診など。8:00管理会議、9:00-13:45外来、14:00遊心苑師長来訪、来秋からの応援の打ち合わせ。16:00-16:30療養病棟判定会議。17:00-19:30長副会議。20:50帰宅.夕食、21:30就眠。

ガチャピン・ムックショー(2) もう一つの収穫
 ガチャピン・ムックショーなる催しがあった事について、娘の弁ではガチャピンは「緑色のすごいヤツ」で、あの格好のまま、宇宙に行ったり、スキューバや、スキー、スカイダイビングなんかするんだ、とのこと。生で見ることが出来てよかったね!と感想が来た。私の知らないところで観ていたのであろう。そういえば家内も同じことを言っていた。しかし、わが家ではこの30数年間、私が居るときに一度も話題になったことがない。私が極端なTV嫌いで、TV番組のことを話題にすることも好まなかったため、意識的に控えていたからなのかもしれない。

 本日、病棟や外来でいろんな年代の看護師に聞いてもみんな知っていた。知らなかったのは私ばかりか、と思うほどで大変な知名度である。
 そういえば「佐藤みどり」サンと称する、跳んだり跳ねたり歌ったりと大活躍のお姉さんとショーの前に挨拶を交わしたが、私の表情を見て「何で?ここの院長は私を知らないの??」と、ちょっと不思議というような、不満気な表情が見てとれた。気の毒なことした。予めTVを一回は見ておくべきであった。しかし、前日までTVのキャラクターであることすら知らなかったからやむを得ない。

 今回のショウーは私にとって驚きが別の面であった。患者を始め、多くの職員、特に若い職員の業務外の良い表情に触れたことである。
 当日は入院中の小児科の患者ばかりでなく、療養病棟の高齢の患者さん達も見に来た。みんな笑顔に溢れ、楽しげであった。ショーの最中、高齢のおばあさん方の表情も幼児達と同じに楽しげであった。還暦をすぎて長生きしたから、逆コースでちょうどガチャピン・ムックに相応しい年代に戻っているからであろう。あるいは孫を育てたときのコトを思いだしていたのだろうか。

 当院の看護師さんや事務職員なども幼児を連れて見に来てくれた。その中では、てっきり独身だろうと私が100%思っていた、一見若い事務員が二人の子持ちで、職場では見せない、やわらかな母親の雰囲気、笑顔を見せていて驚いた。
 また、なんと、この看護師とこの職員が夫婦?? だったのか!! と、その組み合わせについても驚いたり、いろんな事を知ることが出来た。私は職員のプライベートな面について殆ど知識はないし、職場での表情しか知らないが、この日の職員の表情、特に若い両親が子供を見つめる目はとてもやさしく、リラックスしていてとても良いものであった。 こっちの方も大きな収穫だった、と思っている。


6/12(日)曇り→晴れ 病棟拘束   FF tennis  黒猫到着記念日
2:30起床.ドック判定・総括x1、病院関連業務,退院患者総括。10:00-13:00梅林園FF tennis、9-7,6-2,5-3と負け。14:00-15:30午睡。16:00-19:30病院、回診、オーダーだしなど。昨年の今日、横浜から黒猫到着。20:00帰宅、夕食、21:00就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) 骨髄移植を実施する(1)
 2年間の期間を自分に課して準備をしてきた骨髄移植は、第三内科のスタッフ、新潟大学の移植グループ等の協力を得て着実に実用化の方向に進んでいた。

 私が骨髄移植を準備し始めた切掛けは急性白血病の予後改善のためであったが、ちょうどこの時期、20代男性の重症かつ難治性再生不良性貧血の方を主治医として受け持っていた。一年以上に及ぶ内科的治療のほぼすべてを行ったが徐々に状態は悪化し、万策も尽きており、貧血の進行は早く、白血球数、血小板数もずっと危険域であり、近々感染症とか出血で厳しい事態を迎えることが危惧されていた。

 骨髄移植は重症再生不良性貧血にも適応になるが、その場合の実施時期の理想は診断直後である。この方の様に輸血を含む種々の治療を長期に行った方への骨髄移植は一般的には適応からはずれる。しかし、米国の文献にはこの様なケースでの骨髄移植成功例も何例か記載されている。もし、免疫学的に兄弟間で合致すれば治療の一つとしての可能性は残るので、ご家族の合意の基で妹さんとの間での適合性の検討を開始した。結果的には免疫学的に型の上で適合し、リンパ球混合培養も低反応であったために治療法の一つとしての可能性が急上昇した。

 この時点で、本人、ご家族と何度も面談し、第三内科では初のケースになること、再生不良性貧血への骨髄移植としては一般的適応からは外れていること、場合によっては移植された幹細胞が生着しない可能性があること、その際は現状以上に危険な状況に陥る可能性があること、移植後一ヶ月間は無菌室ないでの自活が基本であること等を説明した.
 患者本人は自分の病気の状態、おかれている状況を良く理解し、その説明に納得し。ご家族も同意された。第三内科としても種々検討を行い、最終的に教授の同意も得られ、骨髄移植の実施が決定した。


6/10(土)朝小雨→晴れ 病棟拘束   ガチャピン・ムックショー  全日病講演会「今後の医療経営」
2:00起床.総括x2、他.5:20病院着.6:10回診、入院患者書類処理他。13:30ガチャピン・ムックショー(当院外来 2Fロビー)  、16:00-18:00秋田ビューホテルにて全日病主催の講演会「今後の医療経営」.情報交換会はお断りして病院で業務若干。20:00バイク帰宅、組合病院看護師3名来訪歓談+夕食、21:00就眠。

ガチャピン・ムックショー(1)  なんだ、これは??
 
本日午後、テレビで有名だというガチャピン・ムックなる縫いぐるみとその一団の方々が来訪し、当院のロビーでガチャピン・ムックショーなる催しが開かれた。小児ガンを支援する何とかという財団がバックアップして全国の小児医療機関を訪問しているとのことで、今回、当院が選ばれたのだという。当院の小児血液疾患を中心とする医療活動が評価されたと言うことで、マア、何であれ有り難いことである。

 総勢20名ほどのクルーに支援団体の方々、ボランティアの方々、院内の担当の方々が暫時集合し、医局会議室を中心に10:00am頃から元気な笑い声が聞こえだした。

 私は今週の月曜の予定表を見て初めてこの会が開催されるのを知ったが、初めて聞く名前で、ガチャピン・ムックって何だ??と言うレベルであった。調べてみるとフジTVの幼児番組として『ひらけ!ポンキッキ』というのが1973年にスタートして、30年以上たつ今でも続いており、その番組の中に登場する代表的人気キャラクターなのだそうだ。
 いま子育て中の若い両親も幼児の頃これを見て育ち、今は子供達と一緒に見ているのかもしれない。幼児教育の中で果たしている役割は小さくないのだろう。しかし、私もこの頃に子育てをしたわけだが、こんな番組があることなど、今朝まで全く知らなかった。

 ガチャピンとムックと言う得体の知れない縫いぐるみと「佐藤みどり」と言う元気溢れるお姉さんの登場である。
 ガチャピンは身体が緑で背びれ??があるから恐竜のイメージで、丸い体で眠たげな目、そして二本出ている歯に愛嬌がある。ムックは雰囲気から見て白熊ならぬ赤茶熊のイメージで、暑そうな体の構造である。ムックは目が飛び出ているし、何故かプロペラが頭にささっているが、ついにこれは一度も回転しなかった。この合理性を欠く構造が幼児にとって良いのだろう。

 ショーの内容は歌謡ショーと漫才のようなものであった。私も楽しく小1時間、リズムを取って、拍手して、たまに一緒に歌い、楽しんだ。


6/9(金)雨  ドック結果説明・診察  法人理事会   
2:10起床.ドック判定・総括x1、ほか書類処理、退院患者総括。5;10病院着。6:10病棟回診、机上の書類処理。9:00ドック説明x1、13:00遊心苑関連打ち合わせ。13:45ドック診察x5、再度回診他。遊心苑スタッフ来訪、打ち合わせ。17:30-18:30法人理事会。21:00帰宅,21:30就寝。

「頭寒足熱」状態は辛い(2) だから、素足にスリッパ
学生の頃からつい最近まで、フォーマルな時以外は素足にスリッパというのが私の標準的なスタイルであった。それに爪楊枝である。背広に素足、スリッパの組み合わせは極めて陳腐な格好になる。だから、背広を着る機会は少ない。通年、ほとんど半袖Yシャツで過ごすから、私はまだ背広は2着しか所持していない。昭和46年に購入した一着目もまだ、何とか現役である。靴も2足だけで間に合っている所以である。

 50代になってからなるべく靴下を履くこととした。同僚医師から「おまえの格好を見ていると寒そうで背筋が寒くなるし、第一、貧乏くさい」というものであった。確か、秋も深まってかなり朝晩はかなり冷えるようになったある朝の管理会議後の提言であった。言われてみれば確かにそうだろう、よそからはそう見えるのか、ならば迷惑だろう、と自認しその後は人前では出来るだけ靴下は着用している。結構これが私にとっては辛いが、やむを得ない。

 近年、医師会や病院の代表として外の会合、会議に出て行く機会も増えた。会議場でも足が見えない状況だと、さりげなく脱いで素足になっていることもある。

 靴下履きでの外来は春から秋にかけては辛い。耐え難くなると靴下を脱ぐ。次はズボンの裾を膝下まで巻き上げる。マア、殆どがおなじみの患者だから理解してもらえるだろう、と思っている。それでも駄目になるとスリッパを脱いでひんやりした床の感触を足底で確かめながら外来をすすめる。
 ここまで来ると患者もさすがに驚き、呆れるようで、メールでそれに関する感想をいただいたこともある。「先生、そんな格好で診察なさっていては患者の血圧が上がります!!」とあった。


6/8(木)晴れ→曇り 外来  
2:00起床.院内書類処理用資料準備、5:10病院着、6:10回診、紹介状x2など、関連書類処理。9;00-14;30外来。患者関連書類対応。退院時総括x1など処理.22;30帰宅、夕食、21:15就寝。

昨日は「私一人だけ」の母の命日
 今週の月曜日、長丁場の会議と患者不調とで23:00頃と遅く帰ったが、家内の姉妹が二人来ていて三人揃って何かを相談していた。家内が遅く帰ったからだろうが、わが家ではこのような時間帯に来客があるのは珍しいことではない。何の相談かと聞いたら義母の3回忌の法要の相談であった。長男から委託されたとのことらしい。7月上旬の日曜日に予定し、墓参、会食その他のことを詰めていた。

 このような話題が出る度に、また自分の親不孝を自認してしまう。折しも2日後の6/7は母ハナの命日である。昭和53年の死去だから今年は仏事で何回忌かにあたっているのだろうか、など私は知らない。それを知るのは8月の墓参の時に寺の表示を見る時である。それ迄は全く意識すらしない。

 私は次男であるが、一応家を継いでいる事になっているから、親戚の慶弔事には時折呼ばれていた。しかし、最近はとんと呼ばれなくなった。私自身がわが家の弔事に関して一切何もしていないし、親戚の家でももう大部分が代替わりして、郷里にいない私など自然と対象外になったのだろう。それはそれで良い。もう私は郷里では親戚間でもほぼ忘れ去られている、と思う。

 私は両親、両祖父母の仏事は一切何もしていない。両親の場合には喪主として常識的範囲で葬儀だけは行ったが、その日だけで、49日とか、一、三周忌とかを始めとする仏事行事は一切やっていない。祖父母のも三十三回忌とかもあったがそれも一切やっていない。それで良いと思っている。仏事の何かにあたっているか寺の掲示を見て、そのときはお寺への「こころざし」に一回り、二回りの色を付け、それなりの読経をいただくだけである。

 秋田では家内の家族達の間ではいろいろな慶弔事が常識的に営まれている。私や家内の還暦等も祝っていただいた。有り難いことである。秋田の慶弔事にはいつも直に参加しているが、コト弔事に関連しては、私はちょっとだけ親不孝を自認するときでもある。イヤ、これは「心の問題なのだ」、これが自分を納得させるキーワードである。
 6月7日の母の命日、私は一人で母を偲んだ。それで十分である。


6/7(水)雨→晴れ 母ハナ命日  外来   県医師会理事会
 
2:00起床。ドック判定総括x1ほか。各種作文等いつもの如し。5:20病院着。6:20回診。9:00-14:00外来。入院患者死亡あり対応。16:00県医師会打ち合わせ、16:30-18:30県医師会理事会。代議員会前で長時間にわたる。19:00病院に。回診その他。21:20帰宅、夕食、21:50就眠。

夏は好きだが、いわゆる「頭寒足熱」状態は辛い(1)  
 あの、驚くべき程の豪雪があった1月初旬からはや5ヶ月も経過した。早いものである。不順な天候もやや安定し、山々を始め、街路樹、各家の庭先の木々も緑が一気に萌えてきた。気温も寒暖の差は結構大きいが、概して過ごしやすくなってきた。良い季節であるが、まもなく梅雨の季節を迎える。一昨年はもう秋田地方も梅雨入り宣言がされていたが、今年はまだ梅雨前線は大陸からの高気圧に押されたまま九州地方で低迷している。もうしばらく梅雨入り宣言は出ないだろう。

 この季節から炎天の真夏にかけて私の好きな季節になるが、一方ではやや辛い季節でもある。人それぞれ、と言うことなのであろうが、私の場合は一般的には快適とされている「頭寒足熱」状態は不快で明らかに作業能率が落ちる。「頭寒」である必要はないが「足寒あるいは足冷」でなければ耐え難い。しかも私は冷房は嫌いで、出来るだけ自然体での「足冷」でなければならない。

 従って、対策は下半身の薄着と言う事になる。家にいる場合は可能なだけ薄着で過ごすが、病院や出先ではそうも行かない。今日の県医師会の理事会でもテーブルの下では靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ズボンをまくり上げての2時間であった。病院では回診までの1時間ほど、夕方は外部からの訪問者等が居なくなる19時以降はテニスウエアで過ごしている。通勤も当然、同様の格好である。

 本当に,快適に感じる温度は人それぞれで、室温対策をはじめ、対応が困難である。
 私の担当する外来には、いつも、厳冬でも扇子を片手に汗だくで受診する方、逆にあたかも北極圏から受診したのではと思えるような超厚着で、なおかつリュックの中には調節用の防寒着を持参して、「寒い寒い」と連発する方、など様々な患者がいる。これらの方々は本人は辛くて必死に対策を求めてくるが、特別の病気を持っているわけではないから、治療法も確立して居らず、対策はむしろ厄介である。
 こんなタイプの患者は、まともに取り合ってくれる医師も少ないから、私のところに集まる傾向がある。主として悩みを聴いてあげ、若干のアドバイスをする程度の対応であるが、人知れず温度調節に苦労している私にとっても大変な負荷になっていて、お相手していると私の身体がほてってくる。


6/6(火)晴れ 定期処方箋発行 外来 常務会 患者家族面談 医局会
2:50起床,さすがに眠い。ドック判定総括x1、ほかいつもの如く淡々.5:10病院着。6:30回診+定期処方箋発行、紹介状作成他。9:00-14:00外来。14:00-16:20常務会。17:30ー18:50医局会。残務消化、21:00帰宅。21;20就眠.

 何でこんな作品、作者が通用してきたのか? 洋画家・和田氏問題
 芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した洋画家の和田義彦氏の作品がイタリア人画家、アルベルト・スギ氏の作品と酷似している問題で、文部科学省は授賞取り消しを正式決定したと言う。当然であろう。

 何でこんな事が起こるのか?私にはとても理解できない。大体、選考委員会のメンバー達はどんな眼で選考しているのか疑ってしまうが、現実的には看破は困難なのだろうか。新聞に提示されたサンプルは私の目で見ても盗作以前の、コピーではないかと思う。中にはスギ氏が世に問うていない作品に酷似しているのもあると言うが、和田氏はスギ氏のアトリエを訪れた際に、写真にとって持ち帰っていたらしい。

 和田氏はスギ氏とは友人で一緒にデッサンしたこともあり、構図が似た可能性があるが、作品は100%自分のオリジナルである、と弁明し、さらに盗作の指摘に対しては、憤りを感じている、とコメントしている。

 芸術家にとって、ある時期コピー作品を作ることも修行の一つとされているが、基になった作品を提示して、その旨を表示しておけば許されると思う。音楽の世界では「○○の主題による変奏曲」という題名の作品を挙げるのに事欠かないし、オリジナル以上の素晴らしい作品も多いし、素材として用いられたことで歴史に名を残している作品もある。
 プロの芸術家はどんなジャンルであれ、自身のオリジナリティを確立し世に問うことにすべてをかけている。だから、作品はオリジナルでなければまったく価値がないし、そこまで到達できなければ並の絵描きに過ぎない。「オリジナル」と偽装して発表することはアーティストにとって芸術と社会への背信行為だ、と思う。他人が気付かなければ良い、そんな問題ではない。自身の倫理観の問題だ。

 これだけの誰も疑えない事実を前にして、その価値を強弁する和田氏はどんな人なのだろうか?私は、この事件まで画家の和田義彦氏を知らなかったし、あまり深い関心はない。彼は文化庁に呼ばれて疑惑を否定、さらに文書で回答するというが、指摘された彼の作品を弁明は誰一人としても信じだろう。これほどの陳腐な事件に深く関わってきた文化庁はどう責任をとるのだろうか。
 ただ、最近、堀江氏、村上氏、秋田の殺人事件の容疑者、今回の和田氏・・と強硬な弁明をする人が目立っている。そんな部分だけを興味本位に強調する報道姿勢、それについても私は問題を感じている。


6/6(月)晴れ 管理会議 院内巡視 療養病棟判定会議 長副会議 
2:00起床、ドック判定・総括x1,紹介状送付ほか。5:10病院着。6:15回診、他。8:00管理会議.9:00-10:30院内巡視。机上処理、16:00-16:30療養病棟判定会議。17:00-21:15長副会議、先週無かった分、懸案事項多数。入院患者不調、急遽大腸内視鏡依頼。23:00帰宅。夕食、23:40就眠。一昨年は梅雨入り宣言。 

 藤里の事件、水死女児の母が逮捕された
被害者の2軒隣の33歳の女が死体遺棄容疑で逮捕された。当然、殺人容疑も準備されているのだろう。この容疑者は4月に自宅近くで水死体で見つかった9歳の女の子の母親である。
 この娘は警察によって事故死と判断されてたが、その母親は捜査結果に反発し、再三捜査の徹底を申し出ており、それが受け入れられないため自分でもパンフレットを作って近隣に配布するなどしていたという。私にはただそれだけの情報しかなかったが、娘の死を軽く処理した警察への反発、警察との間で生じた感情的もつれ等に抗議するための行動では?と言う印象を持っていた。だからといって近所の子供を殺害するのか、あまりにも常軌を逸脱しているのでは?とも思われないことではなかったが、娘を失って精神的不安定となった母親の場合にはあり得ないことではない、と感じただけで、それ以上の根拠はなかった。

 警察でも当初からこの母を疑ったと思う。その割には捜査には随分時間をかけたように思うが、警察にも女の子の事件の処理に関して改めて問題を突きつけられ、再認識したからではないのだろうか。
 逮捕されたときやはりそうだったのか、と単純に考えたが、何で逮捕理由が殺人ではなく遺棄容疑なのかについては疑問に思った。今日の新聞を見る限り、既に町中であるいはマスコミも取り上げ、いろいろな憶測が飛び交っているのだという。その具体的なことは分からないが、そのような素地があるとすれば、この母親一人の犯行でなく、今後人間関係を背景とした意外な方向に展開していくかもしれない。

 大人社会、人間関係の歪み、が二人の子供のいたいけ命を奪ったとすれば、あまりにも哀しく、発すべき言葉も見つからない。
 不謹慎だがあえて吐露すると、私はこの事件を考えるときモーツアルトの歌劇「魔笛」の中で、子供をさらわれて狂った母親が唱う「夜の女王のアリア」のソプラノのハイトーンがいつも脅迫的に耳元で鳴りだしてしまう。今も、同様である。


6/4(日)快晴  病棟拘束 FF tennis 
2:30起床、ドック判定・総括,新聞処理。6:30家内病棟に呼ばれ出勤。6:30-7:30坐位のまま若干、微睡む。文書校正作業進める。藤里の事件、容疑者が絞られ、家宅捜索中とのこと。11:30家内帰宅、受け持ち患者2名死亡したと言う。13:00-17:00梅林園FF tennis、6-2、7-5、6-4、6-4で久々良い感じで終了。17:30-19:30病院で残務、20:00バイク帰宅、夕食、21:00就眠.

 自伝 秋田大学時代(1973-1985) (20)  
昭和58年ころ、大学での勉強に終止符を打つ決心をする(3)
 12月の末、年末年始休暇に入らんとする頃、ある病院に12月初旬から短期赴任していた医局員の一人が、その病院の内科の責任者である科長と意見が合わず、戻って来るという予想外の出来事が生じた。人選そのほかについてやりくりしたが、何とも解決できなかった。その過程ではその病院の内科にはこれを最後に医局員を赴任させるべきではない、関係を絶ち切るべきであるとのとの強硬な意見もあったが、当時医局長であった私は新年早々から急遽2ヶ月間、この医局員に代わってその病院に赴任することとした。医局員が途中で戻ってきたことに対する責任を負わねばならないという立場上の意識と、その病院と第三内科との関係、関連については県内の地域医療の充足のためにも決して軽視すべきでなく、将来を見据えた調整の必要性があると考えたからである。

 その年、秋田県地方は降雪量も多く、厳寒の最中の赴任は大変であった。この季節、宿舎に一人で寝泊まりするのも決して楽ではなかった。
 赴任後、数日間は診療終了後この科長といろいろの件について夜が更けるまで話し合い、時には激しく対立もした。かなり個性の強い科長であり、医局員が戻るに至った件についての説明もその論旨には必ずしも納得できなかったが、何とか今後のことも調整することが出来た。その際、その科長は内科の基礎作りがうまくいく方向性が確認された場合には、自分としては身を引く積もりである、との意向も提示した。勿論、それを私は額面通りに受け取ったわけではない。

 この科長との討論を通じて納得できなかったこともないわけではなかったが、患者を大切にする臨床医としての考え方には共感できたし、言葉の中からだけではなくその診療に関する真摯な姿勢からも学ぶことも少なくなかった。この2ヶ月の赴任の間に、私は40歳を迎える前には大学を辞め一般病院で一臨床医として診療にあたること、イヤ、そうするべきなのだと決心した。

 骨髄移植に関する仕事を自分で2年間だけと限定して進めた理由は上記に示したとおりである。なお、私が影響を受けた、かの科長は予想通りその後も身を引くことはなく、第三内科医局出身のスタッフ共それなりに協調し、内科部門を大きく発展させたようである。彼は数年前からはその病院の院長の重責を担っている。


6/3(土)晴  病棟拘束  法人管理職会議+懇親会
2:30起床。ドック総括x1。紹介状ほか。5:20病院着、6;30回診他。この後はずっと残務処理他、14:00-16:30法人管理職会議、昨年までとは異なり、発言者も時間を大体守って整然とした進行であった。16:30-18:30懇親会、乾杯の挨拶担当。19:00-21:00病院残務、21;20Taxi帰宅、22:00就眠.

楽しめた、県立新屋高校吹奏楽部第21回定期演奏会(2)
 私は第一曲目が始まった途端に耳を疑い、目までトリコになった。見事なサウンドである。フルオーケストラ並みの広い音域、歯切れの良いリズム、強弱のダイナミックさ、などなど。ハーモニーも良い、ピシッと合っている。4本のコントラバスもよく鳴っている。10名ほどのパーカッションの響きも時に刺激的に心地よく響く。ピアノあり、ウッドベースあり、シンセサイザーありで音色も多彩である。

 OBと思われる男女二人の軽妙な司会、白い上下のスーツがよく似あって後ろ姿が様になっている指揮者のもと、演奏をバックに適宜、ドタバタ劇、寸劇、踊り、歌もあり、様々な演出で観客を楽しませてくれる。サービス精神豊かで飽きさせない。ミラーボールも動員、工夫を凝らした照明、スポットライトも雰囲気を醸し出す。どちらかというと演奏会というよりはショー的な構成とも言いうる。しかし、ショー的と言っても主役は常に見事な演奏であった。

 演奏中もメンバーはただ黙って吹いているわけではない。各パート毎に時折サッと立ち上がってはメインテーマを誇らしげに吹く。その動作もきびきびして目を楽しませてくれる。さらに各パートのメンバーに適宜ソロを吹かせる。ソロ担当者は舞台前面に出てマイクの前で短時間であるが見事な演奏を聴かせる。全部で10数人も出てきたのであろうが、誰も大きく音を外したりはしない。驚くほどの技術である。これが高校生のクラブ員かと思わせる。

 第2部だけで10数曲、アンコール曲も長大な作品であった。このレパートリーの広さにも驚嘆した。これほどの曲数、演出だと出来不出来があるものだが、そんなことを一切感じさせない、完成度の高い演奏であった。
 学生達のコスチュームは白黒の上下でとても地味であった。この2部ではもう少し工夫があればもっと好かったかもしれない。ソロ担当者は舞台前面まで出てくるが、概して歩く姿勢が良くない。猫背でトボトボと出てくる。もっと胸を張って出て来ればいい。

  私は基本的に弦楽器を好む。だから、管楽器だけのアンサンブルはレコードとかでも殆ど聴かない。有名なウインドオーケストラ、プロの管楽器アンサンブルを聴く機会がなかったわけではないが、実際聴いたのは今回だけで、40数年ぶりと言うことになる。たまたま、気軽な気持ちで行ってみたのだが、思いがけなく感動し、楽しめた90分であった。吹奏楽への認識も新たにした。


6/2(金)晴れ 麻酔科医師面談 秋田企業活性化センター担当者来訪臨時長副会議 人間ドック診察  県立新屋高校吹奏楽部第21回定期演奏会
2:30起床。ドック総括x1他。5:20病院着、院内業務。6:30回診他。身体障害診断書他、9:30麻酔科医師面談3名、11:00-11:45秋田企業活性化センター担当者2名来訪、県内企業の活性化についての依頼。13:30人間ドック診察5名、19:00-20:40県立新屋高校吹奏楽部第21回定期演奏会(県民会館)、外食、22:00帰宅、22:30就眠.

十二分に楽しめた、県立新屋高校吹奏楽部第21回定期演奏会(1)
 2週間ほど前、家内が同僚の看護師から、娘のクラブの演奏会なんだけど・・と高校のブラバン部の切符を2枚頼まれたて購入してきた。この看護師は元当院の看護師で、私も一緒に働いたことがある。そのご亭主は当法人の職員で、その兄は秋田のフォルクローレバンド「VelleVientos」の主催者でもある。当の高校生の娘がまだ中学生の時に、わが家に母娘で遊びに来たときに私のヴァイオリンのピアノ伴奏をしてくれたことがある、等々私にとってもそう遠い存在ではない。

 当初は、「高校のブラバン??、フーン、まあ、時間もないが、気が向けば行くよ」と言う程度の気持ちと、行けば外食になるだろうが、たまには家内と外食も悪くはない、と言う別口の気持ちもあって一枚貰っておいた。
 今日は終日比較的多くの来訪者があり、結構難しい検案の処理もあって若干疲れていたので夕方思い立ってちょっと出かけようかという気になった。長すぎる演奏会は苦痛なので、いつもの如く、あえて1時間遅らせて19:00過ぎに入場した。面白くなかったらすぐに病院に戻って仕事の続きをしよう、と思ってパソコンも落とさずにでかけた。

 ちょうど折りも良く、第2部前の休憩時間であった。
 先ず入ってみて驚いた。県民会館に何と7-8割の入りである。どうせガラガラだろうと思っていた私の予想は見事に外れた。次いで舞台上の椅子や楽器の多さに驚いた。三管編成のフルオーケストラ並である。貰ったパンフレットにあるメンバー表の部員数を数えたら86名である。たいしたものである。感心した。秋田市周辺の中学、高校は結構吹奏楽が盛んでありレベルも高いとされているが、当の新屋高校はその先鋒にあるのだという。当の娘さんは副部長で、パーカッションを担当している。

  第一部はクラッシックとあり、ドヴォルザーク「スラブ舞曲No8」、ジョン・ウイリアムズ「オリンピックファンファーレ」、ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」ほかが演奏されたとある。何だ、もう終わったのも同然だね・・と言うのが私の最初の印象である。
 第二部はポップスとあり「映画俳優になろう」「ザ・エンカ・メドレェ」「チアリーズ・エンジェル」「Give us Remocon」と言う副題が付いている。その中で各々数曲が演奏された。私は第一曲目が始まった途端に耳を疑い、目までトリコになってしまった。私の予想を遙かに超えた、高度のレベルの演奏が展開されたからである。


6/1(木)晴 外来  療養病棟診療部会議  来訪者数件
2:10起床。ドック総括x1、ほか淡々と処理.5:20病院着、徒然送付。6:00回診、他。9:00-13:30外来。私が担当している外来は基本的に慢性疾患中心で4週毎の受診なので連休4週目にあたる今週は比較的余裕がある。15:00以降来訪者数件あり対応。17:00-18:00療養病棟診療部会議。県の医療情勢の資料収集。20:30帰宅。夕食。21:00就眠。

 靴ずれ予防と治療に何が一番か(2)実はガムテープなのだ
 私にとって靴ずれ、スリッパずれの際に手放すことの出来ない宝物がある。

 これに関して周りに聞いてみると、何人かの看護師はカットバンだといい、家内も同様であった。娘は、ちょっと値は張るが、と前置きしてバンドエイド・パワーパッドとかを勧めてくれた。これは、靴ずれを予防するだけでなく、浸出液等を吸収して治りを促進する作用もある優れもので、一度貼ると何日間かはそのままでいいらしい。何か良いもののように感じるが、私のお宝には敵わないだろう、と思う。

  私の秘蔵の宝物というのは実は、ガムテープである。
 靴ずれは靴による局所的な圧迫と、歩くときの皮膚との摩擦によって生じる。圧迫は足と靴の形の違いから生じるが、革が軟化し靴が徐々に変形して来ると軽減してくる。それまでの間は歩く度にかかと辺りに不自然に摩擦を生じることになる。靴下はこれを若干和らげてくれるが、不十分どころか、実際には靴下と皮膚の間の摩擦が靴ずれの原因である。
 予防は、だから、何とかして靴下と皮膚間の摩擦を和らげればいい。摩擦を減じるには滑らせればいい。油性の軟膏とかでも良さそうであるが、非実用的である。厚手の靴下とか、ガーゼをあてるのは靴がきつくなって逆効果である。カットバンは小さすぎるし粘着力も弱くすぐに駄目になる。 

 薄くて表面がなめらかでかつ問題の箇所に密着するもので、大きなものであればいい。この条件をクリアするのは、ガムテープである。
 私は新しいスリッパにしたときなど、ガムテープを20cmほど小さくたたんで持ってあるく。少し痛い箇所が出たらそこに貼り、靴下で覆う。これで一件落着である。靴の時には10cm程のを足底からアキレス腱のあたり迄貼る。これで先ず大丈夫、靴ずれは進行しない。対策が手遅れになって水泡や表皮剥離状態になったら適当なカットバンを貼ってその上からガムテープを貼ればいい。

 問題は、大きく貼るだけに剥がすのが一苦労、結構痛いものだ。しかし、感謝の気持ちで剥がせば耐えられる。
 何人かに勧めたが実行して良かった、という評価をまだ聞いたことはない。ガムテープを身体に貼り付けるなんて、との悪しきイメージが先行して実行する気にならないらしい。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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