徒然日記
2006年4月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


4/30(日) 雨→晴→雨 病棟拘束 FF tennis中止 
 2:30起床、ドック総括x1、退院総括・紹介状、県医師会広報誌「すこやかさん」原稿に着手。紹介状返事等、持参の事務数件処理。9:00茶漬けにて朝食。Vn等若干。13;00予定のFF tennis中止となる。15:00-20:00病院、オーダー入力他、20;30帰宅、夕食、21:15就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (13) 
骨髄移植の準備を始める(3)白血病化学療法の限界の打破のために
 当時の細胞学的知見は当然今ほど解明されていたわけではないが、個々の患者の体内においてすら白血病細胞は細胞の性格も、機能も、増殖過程もかなり多様性があることが解ってきた。従って単純に考えても投与量に制限のある抗腫瘍剤によって白血病細胞を根こそぎ消滅させることはまず不可能であることは明らかである。
 従って、完全寛解に至った後に長期に寛解を維持できた患者は、化学療法への感受性は高かったとしても何か別の因子が働いて再発が抑制されているのだろうと考えられていた。その機序としておそらく免疫能が働いているのだろうと推論されていた。しかし、客観的に免疫学的に再発抑制機序が証明されていたわけではない。

 当時米国においては既に難治性血液疾患に骨髄移植療法が発達しており、日本では金沢大学の血液内科が先鋒となって、兵庫医科大学、名古屋大学などを中心に研究を進め、骨髄移植療法の優位性が徐々に認められ、国内でも研究を開始する気運が高まって来ていた。関東以北では新潟大学で行われていただけであった。

 骨髄移植療法は、完全寛解に至った白血病例に更にほぼ致死量に相当するだけのレントゲンの全身照射と化学療法剤を追加投与して骨髄を空にした後、健常人から採取した骨髄細胞中の造血幹細胞で患者の骨髄を再構築するという全く新しい考え方に立脚した、激しい治療法であり、危険な治療でもあった。このような治療が考えられるほど白血病の治療
をサポートする周辺の治療法が急速に発達してきた、と言うことでもあった。
 当時は骨髄移植の治療対象は30歳代までの急性骨髄性白血病患者で、骨髄細胞供給者としては一卵性双生児または免疫学的に近似した兄弟間での移植のみであった。従って、少子化が進む中で、全ての白血病患者には適応できるものではなかったが、私自身も白血病の再発頻度を低下させるためには骨髄移植の導入以外にはないと考えるに至り、教授の許可を得て検討と実用化に向けて準備を開始した。
 


4/29(土)みどりの日 晴天 病棟拘束 オーダリング入力  夜桜見物
2:00起床、ドック総括x1, 紹介状返事等.その他。家内は
ICU日直。私も8:00病院へ。事務処理、回診その他。医局文献整理、大量に廃棄。13:30-16:00受け持ち患者定期処方入力開始。19:00-20:00千秋公園にて夜桜見物。車やで夕食、22:00帰宅、22:30就眠.

約10年振り? 千秋公園で夜桜を観る(見る)
 今年は秋田市内の桜がちょうど満開を迎えた。折しも大型連休とされるゴールデンウイークの初日でもある。何となく開放感と連休中の若干の余裕に対する期待感と満開の桜で心理的にもハイである。本日は家内が日直で私も終日病院で過ごしたが、夜に打ち合わせて夜桜見物に出かけてた。

 桜と言えば、私にとっては何と言っても岩手県庁前の石割桜が第一である。これは通常の桜とは比較には出来ない絶大な存在感がある。千秋公園の桜は本数もあまり多くなく、枝ごとの花もまばらでちょっと寂しい、というのが私の抱いている印象である。
 千秋公園に足を踏み入れるのも数年ぶり、花見としては10年ぶりくらいかな?、と思う。昨日の新聞では若干寒いためか千秋公園もいつもより人手が少ないと記載されていたが、全くそんなことはない、公園の入り口、とそれに続く広場では歩くのも大変なほどの人手であった。

 20歳代と思われる若者が中心で、高齢者は少ない。若い人たちは殆ど桜など興味がないようで、花見の雰囲気、人だかりを楽しみに来ているようである。広場周囲には数々の出店が並び盛況であった。出店も徐々に高級化しているようで「ステーキ屋」、「肉ジャガ屋」などもあり行列が出来ていた。伝統的お面屋、金魚すくいも健在である。裸電球、プロバンガスの熱気、煙と魚や焼きそば、焼き鳥、焼き肉等の良い匂い、焼けこげる音などが花見の雰囲気を盛り上げる。リュックほど大きい、背負うような超大型ペットボトルが結構売れている。私は初めて見たが、これを買って一体何に使うんだ?
 この広場では花見なんかそっちのけ、「花より団子」、私には「鼻見」となった。桜は見物するんでなく、本当はじっくりと見るものなのだ。だから、桜見物のほかに観桜という言葉があるのだ。何人かの病院のスタッフ、同業の方とも会った。みんな開放感で十分、楽しげであった。
 
 広場から更に上の方に歩く。この道路は突然人影がまばらになる。出店は広場とそれに続く路上のみに制限されているから一つもない。明かりも少なく落ち着いた雰囲気である。途中に何軒かの料亭、おやすみ処があるが、意外と繁盛していない。寂しげな雰囲気が漂う。
 更に上がっていくとまた広場があるが、ここは一層桜が疎らである。ここでは大学生、職場のグループ等と思われる人たちが円座を作って酒盛りである。学生達は一気飲みもやっていた。ここは街灯も桜祭り用のつり提灯も少なく、飲み食いするのにはちょっと暗すぎる。

 ここ数年の桜の開花日は私の徒然日記によると2003年以降4月18日、16日、20日であった。今年は4月27日といつもより開花が遅い。蕾が膨らむ頃に雪が降ったり、冷え込んだりしたためとのことであるが、そのために秋田ではちょうど良い時期に満開を迎えた。おかげで私も久しぶりに桜を楽しむことが出来た。


4/28(金)秋田だるまの会総会  法人理事会 オーダリングセット登録  映画「椿姫」
2:00起床。ドック総括処理x1等処理。5:15出勤。6:30回診、病棟業務、10:30-12:30秋田だるまの会総会と懇親会(千秋会館)に来賓として出席、挨拶す。病棟患者対応、17:30-19:00法人理事会。19:00からの映画上演会「椿姫」(県民会館)は失念した。残念。20:50帰宅。就眠。外は快晴、桜満開、夜の街は人手が多く、何となく活気づいている。

 アイフルだけが悪者か? 実は、病院未収金回収も大変なのです
 大手金融業のアイフルが融資と回収で法令順守が徹底していないと金融庁から大目玉を食らった。次いで日本経団連は26日、アイフルに対し3ヶ月間会員活動を自粛させる処分を決めた。経団連が活動自粛処分を決めたのは2月のライブドア以来である。

 先日、記者会見の様子が新聞報道されていたが、アイフルの上層部はいつものパターンで記者、TVカメラの前でひたすら頭を下げたようである。たしかに行き過ぎた取立てなどは良くない。返済義務のない関係者にまで返済を迫ったり、悪し様に罵ったりしたらしい。これでは処罰の対象になる。
 しかし、行き過ぎた取立てをせざるを得なかった理由には言及しなかった様である。言えば更なるバッシングを受ける可能性があるからだろう。記事の中にも借金を返していない人も悪い、という声が殆ど出ていない。マスコミは厳しい督促を受けた客を被害者に仕立て上げ、アイフルバッシングを展開した。いつの間にか、債務者が善良な弱者になり、アイフルが悪者になっている。督促を受ける側の問題点を取り上げない報道の姿勢には大きな問題があり、とても信頼できる報道とは言えまい。

  私は決してアイフル側に立つ者ではないが、ほんの少しだけ同情する。

 病院でも未収金というのがあってその回収は病院の運営上重要である。お金を持たないで診療を受ける患者、退院時に支払わない患者や家族も少なくはない。そのうちの一部であるが約束通りの期日迄に支払いに来ない。電話しても連絡が付かないこともある。そのような場合に事務員が未収金の回収に回るが門前払いを食らうこともあり、いろいろ理由を挙げて支払わない人もいる。逆に診療内容が不満だから払わないのだ、とか、家まで取りに来るのがおかしい、と罵詈雑言を浴びせられることもある。主客転倒も甚だしく、担当者は大変である。アメリカの病院はこのような事例が多いために未収金回収業者と契約を結んで回収にあたっているとされる。
 医療機関の場合、取り立ての姿勢はソフトだが、それが逆手にとられる。経済的に支払いが可能と思われる方々ですら払ってくれない。それが現実である。
 借金にしろ、診療費にしろ契約通り、約束通に義務を果たすことは社会人としての基本的である。他者に責任転嫁するようでは社会人失格である。


4/27(木)曇 
2:20起床。ドック等業務ほか,5:25病院着,6:30回診。9:00-14:00午前外来、連休前で超超混雑。患者・医療関係者双方にとって最悪日。待ちくたびれて不機嫌な患者を、疲弊した看護師・医師が取りなす診療風景でドッと疲れが出る。16:00来客数名。対外的スケジュール無くカルテ整理、書類整理中心に過ごす。20:50帰宅、夕食、21:40就眠。

メールの怪(4)女子中学生殺害にも関与?
 つい一週間ほど前には中学3年の女子生徒が男子高校生に殺害された。空き家になっているパチンコ店で会い、それほどの間をおかず鈍器で頭部を殴り、更に頸を絞めて殺害したらしい。あらかじめ二人の間には携帯電話とかメールとかの交換を通じて感情のすれ違いが生じていたのではないかと思う。
 15-6歳ほどの男女が抱く愛憎とはなんだろうか?小6女生徒の場合と同じように私が理解できるはずもないが、根が深いものだとは思えない。現代の時代の特徴の一つと私がいつも挙げる、顔の見えない情報交換による愛憎感情の一人歩き・自己増殖、リセット感覚での殺害なのかもしれない。

 もう一つのメール投書である。

 
妹から病院にとんでもなく無礼千万な人間がいると聞いて連絡しました。
 患者を誹謗中傷する愚劣な発言を担当医は言ったそうです。赤の他人が自己中心的見解で決め付ける、ただの愚者では済まされません。
 仮にも医療に携わる人間ならば、病気で苦しむ沢山の患者さんを心で以って支え、慈しみ、そして患者の家族も励ますのが、当たり前だと私は思います。その方の言葉で母や叔母たちはとても傷付き、ショックのあまり言葉も出なかった、とその場に居た叔母が言っていました。あまりにも残酷で、憤りを覚えない家族は誰もいません。本当に許せません!そんな人として人の道を外れた人間が病院で働けるなんて信じられません! 本当に信じられない事実です。
 人を傷付けていると気付かない人間に謝られても、怒りが増すばかりだと思いますが、多分、土下座されても許すことは出来ないと思います。そんな言葉を平気で吐ける人間は、私達家族にはいません。周りにもいません。居たとしても先ず関わろうとは誰も思わないでしょう。なのに、何でそんな馬鹿な人がよりにもよって病院に存在するんですか。酷過ぎます。

 
 これも実に厳しい内容である。勿論、ここに記載された内容については私どもは謙虚に受け止め、対応してきた。しかし、何度読見返しても苦しい記述・表現である。

 今回、3例のメールによる投書の一部分を引用させていただいた。共通しているのは、3例とも自分以外の家族とか友人の体験を情報源にして論旨を次々と展開し、次々と言葉を重ねていることと、一方ではいろいろ提言を含んでいることである。このことの意味はまた後に論じたいと思う。

 最後に、私はメールによるやりとりは単純な内容にとどめ、難しい内容の論争はメールでやり取りすべきでないと考えている。その理由は、一言で言えば危険だからである。言葉尻をとらえる様な内容になりやすいし、誤解が誤解を呼ぶ様な結果になりかねないからである。だから、複雑な内容のメールに対しても、基本的に私の返事は相手の方に失礼かと思うほど、短く、単純である。
 メールはとても便利である。利点も大きいが欠点も大きい。それをしっかりとわきまえて利用したいものである。


4/26(水)曇  外来 県医師会理事会 オーダリングセット登録
2:00起床。ドック等業務、ほか、療養病棟について。5:20病院着,6:30回診、病棟業務。紹介状+総括他 。9:00-14:00外来。16:00県医師会、16:30-19:30理事会、病院へ。21:20帰宅、22:00就眠。

「役不足」→「力不足」へ訂正させていただきます 
 昨日の徒然の中で小沢氏の登場に関連して、「自民党ではポスト小泉をめぐる争いが活発になっていく。今、安部官房長官が有望視されているが、小沢氏の登場で些か状況が変わってきた。それでもやはり、次期は多分安部氏だろうが、私のイメージでは安部氏では些か役不足のような気がしてならない・・・・」と記載した。

 午前中にアドバイスのメールが届いていた。有り難いものである。読んだ瞬間に自分の間違いに直ぐに気づいたのだが、書いているときには完全に言葉の使用法を誤っている事に全く気付かないでいた。
 要するに、安部官房長官は首相の器として「役不足」なのではなくて「力不足」と書くべきであった、ということである。
 改めて「役不足」を辞書で引いてみた。
1 俳優などが割り当てられた役に不満を抱くこと。
2 力量に比べて、役目が不相応に軽いこと。また、そのさま。とある。

 私が使った「役不足」という言葉は完全に誤用であった。
 アドバイスの文面にはさらに、「よく間違えてるヒトが多いのです」とあり、依頼等をを断わるとき、また、やってはみたけれども出来なかったとき、 時に「私は役不足でした。申し訳ありませんでした」と言って頭を下げる人がいるけれど、実はこれは決して遜っているのではなく、依頼主に対して大変失礼なことを言っているのです、とあった。
 「私が力不足でした」と言うべきで、「役不足」とは逆に依頼側のほうが「あなたには役不足で申し訳ありませんが、何とかお引き受け願えませんか」と遜って使う言葉だという事になる。
 全くその通りである。おかげでこの言葉を通じて今後大きな失敗をしないで済みそうである。アドバイスしていただいた方に感謝いたします。
 


4/25(火)曇 定期処方日 外来 常務会 医局MC  オーダリングセット登録開始
2:30起床、ドック総括処理x1、紹介状、校正、その他。5:20病院.6:15回診+7A定期処方箋発行他。9:00-13:45外来、14:30-15:45常務会、17:30-16:45医局MC(呼吸器内科、ガイドラインによる肺炎の治療)。20:50帰宅、夕食、21:30就眠。

小沢代表の「笑顔」効果(2) 安部氏も役不足?
 衆院千葉7区補欠選挙は接戦の末、民主党候補が当選した。
 民主党は、昨年9月の総選挙で記録的大敗を喫し、更に偽メール問題で危篤状態に陥っていた。今回の勝利は党にとって大きな意義がある。これで民主党は次期も小沢氏で行くだろう。
 この選挙は候補者は一体誰?どんな人?と思わせるような候補者不在の選挙で小泉自民党vs小沢民主党であった。私は昨日の新聞を見て初めて当選者は太田和美氏という26歳の女性候補であることを知った。

 若い前原代表の決断不足の采配で存在感が薄れ、半ば沈みかけていた民主党の存在感が急に変わったのは小沢が代表になったからだと感じる。この変化は実績のある鳩山氏でも管氏でももたらす事の出来ない独特な変化なのだ。この際、小沢氏の実績不足はどうでも良い、今回はのイメージチェンジはやはり小沢だからなしえたこと、だと思う。

 小沢氏の登場でこれからは民主党のイメージは大きく変わっていく。しっかりと地に足のついた政党、野党になっていく。この影響を最も大きく受けるのは自民党である。自民党は民主党の弱体化を尻目に甘い政治をやってきていた。これからはそうはいかないだろう。政治は引き締まっていきそうだ。

 自民党ではポスト小泉をめぐる争いが活発になっていく。今、安部官房長官が有望視されているが、小沢氏の登場で些か状況が変わってきた。それでもやはり、次期は多分安部氏だろうが、私のイメージでは安部氏では些か役不足のような気がしてならない。彼は次期首相の候補として、自民党のスターとして周囲から大切にされ過ぎているように思う。誰も厳しいことを言わない、言えない状況にあるようだ。彼が壁に突き当たったとき、追いつめられたとき、どの様なアクションを示すのか興味が持たれる。
 老練な小沢氏、若手の安部氏、一対一での国会でのやりとりが楽しみである。

 歴代3位の長期政権となった小泉政権、三方一両損と言う言葉から始まった医療界軽視、高齢者・弱者軽視の流は首相在任中には遂に替えることが出来なかった。私は次期政権に対峙していく小沢氏のビジョンと行動力に大いに期待している。


4/24(月)晴れ 管理会議 院内巡回 療養病棟判定会議 長副会議 
0:10起床。ドック総括x1、退院総括、紹介状等。5:20病院.天徳寺ガードの桜、若干蕾が膨らんできた。毎日通が楽しみ。6:00回診等病棟業務。8:00-8:55管理会議,9:00-10:20リスクマネージャーと院内巡回。16:00-16:50療養病棟判定会議、対象者5名。17:00-19:20長副会議。21:00帰宅、夕食、21:30就眠。

 急に笑い始めた小沢代表の「笑顔」効果(1) 衆院補選で勝利
ここ2週間ほど、はっきり言って気持ちの悪い、作り笑顔が新聞やTVで放送されて来た。例の小沢氏である。私の小沢氏のイメージは「ぶす面小沢」であったが、彼は「ニュー小沢」を掲げて「民主党は変わります。私も変わります」とブチ挙げ、半ば作り笑いとしか思えない笑顔を方々に振り向いて歩いた。ホント彼は一体どうなったのか?と思わせる、気持ちの悪い様な、大変身振りであった。
 最初は??、と思ったが、2週間もそんな表情だけ見せられ続けると、本来の自然の顔のような印象になるのも情けないが、笑顔もだんだん板に付いてきたという感じである。

 先代の小沢氏が衆議院議員として大活躍していた頃、ちょうど私は高校、大学生であった。政界ではそれほど目立たないまでも、郷土岩手の住民にとっては、特に県南地区の住民にとっては大人物であったと思う。少なくとも私はそう思いつつ育った。先代小沢氏は老齢になったのを理由に引退され、その地盤は息子の一郎氏が引き継ぐことになったが、父親以上の切れ者との評価であった。小沢氏は自民党の議員としても多くのビジョンを掲げていたが、先進的というか、その殆どはビジョンのレベルで終わっている。

 自民党から飛び出し新党を結成した以降も小沢氏は常に陰の存在として「ぶす面」で存在感をアピールしていた。多分、岩手県出身者の多くは小沢氏の動向に注目していたと思う一方、いつも裏にいる小沢氏にこのままで終わるのか?と言う、苛つきというか何とも言えない気持ちも持っていたのだと推定する。私はその一人で同郷のよしみか、あの「ブス面」に親しみを覚える。最近の彼に戸惑いすら覚える。私にとって「小沢」は岩手の水沢出身の「小沢」であり、第二が「小澤」である。「イチロー」もすごいが「一郎」よりは若干距離感がある。

 メール問題でズタズタになった党を立て直すために彼はついに表舞台に名乗りを上げた。遂に来るべき時が来たのだが、私の唯一の心配はあの「ブス面」であった。 その「ブス面」も日曜日の深夜から、本物の「笑顔」に変わってしまった。これで一安心である。


4/23(日)快晴 温暖  市内桜開花進む  FF tennis  病棟拘束   
2:00起床。ドック総括処理x2等。9:00-12:00病院。13;00-16:20今季初のFF tennis。4-6、2-6と敗退。昨年は9月下旬で終了としていたから7ヶ月振り。家内は足がもつれて転倒、若干後頭部を打つが大事には至らず。私を含めて全体的に体力低下状態。帰宅後17:30-19:00午睡、20;15夕食、21:00再度就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (12) 
 骨髄移植の準備を始める(3)黎明期の白血病の臨床をんだ幸せ
 昭和48年(1973)以降、秋田大学で血液の臨床を学ぶ機会が得られた。ちょうどこの時期は白血病治療薬の新薬が次々と登場した。しかし、この時期はまだ単剤投与か、せいぜい2剤程度の併用でしかなかった。その後、白血病の治療は多剤併用療法に発展したが、その背景には白血病細胞の増殖過程についての知見、抗白血病剤の作用機序の解明、輸血療法の発展、強力な抗生剤、抗真菌剤等の発展があったからである。

 特に49年からは秋田県赤十字血液センターでも成分輸血の製造が始まったが、とても白血病の臨床にとって大きな出来事であった。これによって血液製剤の供給体制は大幅に改善され、輸血の臨床的効果も著しく改善した。特に血小板輸血はそれまで出血傾向との戦いであった急性白血病の治療の様相を一変させたと言っていい。要するに患者は出血の恐怖感から解放され、心理的にもより落ち着いて治療を受けることが出来るようになった。主治医も時には1日数回鼻出血の処置に病棟に呼ばれることから開放された。

  多剤併用療法の発展と共にそれまで急性白血棒の完全寛解到達率が20%程度から徐々に改善し続け、60-70%に迄なってきた。要するに10人の内6-7人は病状が改善し退院できるようになったと言うことである。私が卒業した頃には1-2ヶ月しか生存させられなかった急性白血病は、数年後には大部分の白血病の患者が外来通院できる状況にまで改善したと言うことで、大きな発展であった。私は白血病の治療の本当の黎明期に恵まれた環境の中で指導を受け、白血病の臨床を学べたことを幸せに思っている。

 しかし、まもなく次のジレンマが生じてくることになった。即ち、せっかく患者も担当医も共に苦労して血液学的に完全寛解状態に持ち込んだとしても、一部の患者は数ヶ月以内に、大部分の患者は1-2年以内に再発し、その後の治療には難渋し、早晩死の転帰を取ると言うことであった。これは治療を担当する医師団としてもとても残念なことであり、再発を防ぐ治療法をいろいろ取り入れたが目に見える効果はなかなか得られなかった。


4/22(土)曇天、寒い日  病棟拘束  消化器病学会最終日 オーダリング研修  県重症身障児(者)支援総会 
2:15起床。看護指示書x1。3;00病院着、事務処理、10:00-11:30オーダリング研修。13:30-16:30県重症身障児(者)支援総会(労働福祉センター)。病院にて業務。18:25家内迎えに空港へ。19:45帰宅。夕食、21:00就眠。

ロイヤルコンセルトヘボウのメンバーによるピアノ四重奏
 日本内科学会二日目4月15日(土)、19:00から横浜みなとみらいホール(小ホール)にて上記の演奏会があることを知り家族4人で聴きに行った。プログラムは
(1)モーツアルト:ピアノ四重奏曲第一番 ト短調 K478
(2)ドホナーニ:弦楽三重奏曲「セレナーデ」op10
(3)ヘンデル-ハンヴォルセン編曲:パッサカリア(弦楽二重奏版)
(4)シューマン:ピアノ四重奏曲第一番 変ホ長調 op47
(5)ドヴォルザーク:スラブ舞曲より(アンコール)

 演奏者はロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団員で、Vnはエミ・オオイ・レズニック、Violaは金丸洋子、Vcはヨハン・ファン・イーセル、Pはヨルン・バルという、いずれも20代後半か30代後半と思われる若い方々である。Vn、Vc奏者の使用楽器は1692、1687年製のフランチェスコ・ルジェーリ、とのことである。Vn奏者は名前からして日系人の印象であるが、アンコールの時に曲名を言おうとしたが、日本語では無理でViola奏者の助けを借りた。

 当日は大ホールの方ではモーツアルトのレクイエム等が演奏されていたが、私どもがこちらの室内楽演奏会を選んだのは曲目からである。3年ほど前まで我が家ではFl、Vn、Vc、Pのメンバーが集まってアンサンブルを楽しんでいたが、そのメインの曲がこのモーツアルトのピアノ四重奏曲第一番だったからである。私はViolaパートをVnで担当した。私にとっては超難曲で楽しんだどころかアンサンブルを乱す役目も担当し、心的トラウマにもなっていた。ところが、配布されたパンフレットには「曲は当時ピアノと三本の弦楽器の組み合わせが珍しかった上に、この時代のアマテュアの演奏家には難しすぎて弾けないとの理由から出版されませんでした」、とあったから「さもありなん」と溜飲をちょっとだけ下げて良い気分になった。

 5曲とも演奏自体は高度で、特にモーツアルトは曲を隅々まで解っているだけに演奏は十二分に楽しめた。ドホナーニとシュ-マン、特に後者の曲は聴き慣れていない曲であったが、演奏者達の掛け合いの姿があると十分楽しめる。VnとViolaで奏されたパッサカリアではViolaの太く、力強い音色は十分に低域までカバーし、Violaの中低域での存在感を再認識した。弦楽二重奏の中でVnとVcの組み合わせはあまりない事の意味が分かったような気がした。

 小ホールはアトリオンの1/3程度のサイズでほぼ満席であった。チケット販売からホール内の案内などを担当する、清楚ななりをした若い女性が7-8人いて座席まで案内してくれるなど、サービスも満点であった。


http://www.st-sunmedia.jp/concert_vol4.html


4/21(金)雨  日本消化器病学会2日目 患者家族面談 人間ドック診察 病棟処置 病棟オーダリング・リハーサル 
 2:30起床、入浴、家内学会で不在のため昨日同様に早めに出勤、3:15病院着.総括・紹介状など。6:15回診、病棟業務。7:00患者家族面談、13:30人間ドック診察、病棟患者処置。14:30-16:00病棟オーダリング・リハーサル。16:30-17:30オーダリング・リハーサル反省会。20:30帰宅、夕食、21:00就眠。

カペラ・イストロポリターナ公演 「ふたつの四季」
 去る3月18日(土)18:00より秋田市のアトリオン音楽ホールにて上記の演奏会があった。何か面白そうな気がして急に思い立って聴きに行ってた。プログラムは
(1)ヴィヴァルディ:弦楽のための協奏曲「コンチェルト・アラ・ルスティカ」 op.51-4
(2)ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」
(3)ピアソラ:「ブエノスアイレスの四季」
(4)ピアソラ:「リベルタンゴ」、他

  入場するまで全く聞いたことのなかった名称のこの合奏団は、配布されたパンフレットによると、1983年にスロヴァキア・フィルのメンバー15人により結成され、必要に応じてソリストを招聘するという体制をとっている。創設された頃から並外れた演奏能力を発揮し、国内外で高い評価を得て、ほぼ全世界ヘの演奏旅行を行っている、と言う。私は事前に何も調べていなかったから、てっきりラテン地域のバンドだと思っていた。赤面の至りである。
 レパートリーはドイツやイタリアのバロック作品、古典派、ロマン派、20世紀の作品まで幅広く、録音もNAXOSに70枚以上のCDを録音している、と言う。私も終了後、演奏会の記念に、と思いモーツアルトとバロック集の2枚のCDを購入した。

 今回の公演はヴァイオリン独奏者にスイスの女流イザベル・マイヤーを迎えての演奏。彼女とは今までも何度も協演しているという。使用楽器はかつてパガニーニが愛用したとされる1698年製のストラディバリウスなのだそうだ。

 ふたつの四季を各々別々にまとめて演奏するかと思ったが、実際にはヴィヴァルディとピアソラの季節毎の4曲を交互に演奏する方法をとった。この方法で北半球と南半球の四季のイメージを対比させるアイデアなのだと思う。確かに2世紀近くの時代の差、北と南半球の季節感が対比できてとても面白かった。しかし、ヴァイオリン独奏者にとっては一曲ごとに休憩が入ることになり、むしろきついのではないかと思った。

 華やかな独奏者の演奏の姿も雰囲気も良く、上質の演奏であった。聴き慣れたヴィヴァルディの「四季」であるが演奏会で聴く度に新しい発見がある。今回は特にViola,
Vcに存在感があった。Violaと独奏者との絶妙な掛け合わせ、Vcの美しい音色で奏でられたロングトーン。実に素晴らしく、今でも耳に残っている。

 「ブエノスアイレスの四季」は初めて聴いたが面白い曲であった。「リベルタンゴ」と共通した曲想で貫かれている。CDを購入して何度か聴いてみたいと思ったが、当日販売されたCDの中には入っていなかった。
 私は最近滅多にレコード店等からCD等の音楽ソフトを購入しなくなった。ただ、演奏会場で販売されている演奏者達のCDがあれば記念に購入している。
 演奏に満足しただけに、今回はこの演奏者達の「ブエノスアイレスの四季」が手に入らなかったことは残念であった。


4/20(木)降雨、寒い、  日本消化器病学会初日  外来  SRL来訪
2:20起床。家内小倉出張で不在、入浴後出勤。3:00病院着。新聞チェック。事務処理、6:15回診、病棟関連書類、9:00-14:00外来+ドック結果説明x2。15:00SRL会社担当者来訪。20:40帰宅、夕食、21:15就眠。

豪雪の話(11) 今日、雪で東北自動車道が混乱 今冬の雪によるわが家の被害 
 秋田でも桜の開花が話題になっているが本日は寒い1日であった。詳細は不明だが、今夕、降雪のために東北自動車道が混乱したとラジオのニュースで報じていた。私は早朝や深夜に走ることが多いので未だ冬タイヤのままであるが、いくら何でもそろそろ替えねばなるまい。

 今冬の豪雪は県内にいろいろの被害をもたらしたが、雪関連の死者数は24人になったと県雪害警戒部が発表した。昨冬は9人で昭和41年以降では最多とのことである。一方、死傷者数は251人で、昨冬は129人だったという(魁新聞による)。

 今冬の雪が如何に大変であったか上記の人的被害のデータから解るというものであるが、これは私にとっても他人事ではなかった。
 わが家は総二階建てであるが、居間にやや大きめに総ガラス張りの風除室を増築している。ちょっとでも日が照ると暖かいので洗濯物乾し場、花の栽培、猫たちの日向ぼっこなどに重宝している。ところがこの風除室の真上の屋根に1m以上の雪が積もり、何時落ちてくるか解らない状況となった。屋根には雪が落ちないように滑り止めを付けているが、今年はそれが裏目に出た。落ちることなく大量の雪が屋根に積もってしまい、固まってしまったからである。これが落ちると風除室は一瞬にして破壊され、住宅の一部も被害を受ける可能性があった。
 屋根は高すぎて素人では対策は不可能である。対策は諦め、被害を最小限にするために1月中は風除室は出入り禁とし、猫も入れず、洗濯物も干さず、ひたすら天の恵みを期待した。願いが通じてか、1月下旬から二月にかけて奇跡的に温暖で雨が降り、この間に大部分の雪が融けて危険は去った。もし中に人や猫がいれば一瞬にして圧死するかガラスで大けがをする可能性があっただけでなく、住宅の修復に数100万円はかかるだろうと覚悟していた。毎日心配しつつ屋根を眺め、空を眺め、天気予報を注目して過ごしていたが、わが家からけが人や死者を出さずに済んで心から安堵した。

 わが家にはもう一つの小さな住居があって、ここには賄いの石井さんが住んでいる。こちらの方は2階の屋根から落ちた雪で一階の屋根のひさしが広範囲に破壊され唖然とした。既に修繕は終了した。20万円ほどの修理費で済んだのは不幸中の幸いであった。

 今、秋田市等ではリフォーム、板金業者には住宅の修理注文が殺到し、注文が多過ぎて1-2ヶ月待ちのケースもあるという。カーポートも随分売れているらしい。「風と桶屋」の関係の冬版であるが、被害を受けた立場からは深刻な事態である。


4/19(水)晴れ   外来 石綿関連患者家族面談 オーダリング説明会
2:00起床。ドック判定総括、紹介状、徒然。5:15Taxi病院着.事務処理・回診等。
9:00-14:00外来、混雑。15:00肺癌で死去した患者家族と面談、アスベストと疾患との関連などについて。18:00-19:20オーダリング説明会。21:30帰宅、夕食、22:30就寝。家内は日本海にて小倉での消化器病学会へ出席のため出発した。

メールの怪(4)情感表現は苦手だが厳しい追求は得意
 メールは実に便利なものである。贅肉をそぎ落とした内容で連絡し合うには最高に便利である。
 私はワープロ文でも、自筆の場合でも同じであるが、書簡として送る際には、季節の話題や挨拶など、何らかの序文を添える。実はこの部分が一番困難で、かなり時間を費やす事もある。
 書簡だと相手に失礼にならない表現になっているのか、と配慮するし、文章と共に私自身も読まれているのだ、と考えるから自然と緊張するからである。
 一方、メールの場合には序文は一切書かない。せいぜい「前略」だけである。あとは要件だけを進めていく。そこに心はあまり伴っていない。大部分が単純な手作業である。

 メールの苦手とするところは人間的な、ファジーで、やさしい、ふんわりとした、あたたかい心や感情の表現であろう。だから、メールでは恋文は書けないと私は思うのだが、今の若い方々は恋を語るとき、プロポーズをするときにメールを使っているんだろうか?この部分は、もはや私の知識や考えの及ばない世界である。
 無理して例文を作ってみると、私なら「私と付き合うと貴方は将来、資料1の如くに多方面で得すると思われる。また、結婚すれば得するであろう内容を添付ファイルとして送ったので明日までに検討し、返信を・・・」こんな風に書くような気がする。こんなプロポーズの文章なんてクリック一つで一瞬に消されてしまうだろう。

 ところが、メールは逆が得意なのだ。即ち、分析的で白黒のはっきりした論旨の展開にとても長けている、ということである。メールの世界にはグレイゾーンは存在しない。特に「分析的で、冷徹な、刃の如くの鋭い言葉、単語をしつこく並べる」ことはことのほか得意である。そこで展開される文章は、画面上の画像と化し、ヴァーチャルの世界のことになり、画像を操作するのと同じ感覚で、手作業で、湧き出てくる類似した言葉をいくらでも重ねられる。
 メールを用いない学者は極めて希であるが、文筆家、作家の多くは今でも原稿用紙に万年筆や鉛筆で書くのだという。画面上で名文を書くのは難しいことは私もいくらかは理解できる。

 以下のメールも実に厳しい内容でありました。
  
 
先日、夜間診療を受診しました。看護師さんから「なんで日中受診できないんですか?」と言われました。 誰もが皆、日中にだけ体調不良を訴えると思っているのでしょうか。そちらの病院ではいつもこのような対応ですね。
 私としては夜間にそちらにかかりたくないのですが、秋田では夜間診療できる病院が少ないので仕方なく受診しています。新患の受付が午前中しかやっていない病院でこのような対応をされたのは不快です。
 追伸。先日友人が夜間で受診した時、診てもくれず逆に怒られたと言ってました。そして病院の診察に不審を感じ別の病院へ行ったらまったく違う診断でした。噂のとおり「信用できない病院」ですね。

 


4/18(火)快晴   定期処方日 外来 常務会 医師面談 オーダリング説明会 医局歓送迎会
 2:15起床,退院総括x1、etc.5:15病院、回診他、定期処方箋発行。6:15回診+定期処方箋発行。9:00-14:00外来,14:30-15:30常務会,16:00-17:10麻酔科医と面談18:00-19:00オーダリング説明会(6F会議室)19:10-21:10医局歓送迎会(Castles) 。21:30帰宅、22:00就眠。

メールの怪(3)メールと書簡の違い
 14件のメールの内、特に長文で内容的に厳しかったのは5件であった。この内、4件は医療関係者からであった。以下はそのうちの一例である。
 これでもか、これでもかと厳しい言葉が次々と折り重なっている。
 読んでいて圧倒され、管理者として暗くなる文章である。心が痛む文章である。
 心が痛む理由はメールの内容に対してではない。言いたい内容については出来るだけ何を言いたいのか、真意は何かをくみ取り、実情を調査をして状況を確かめたのは当然である。
 心が痛むのは、画面上で文章を綴って、次々と言葉を加え、文章を重ねているその方の姿、心境についてである。

 
最初は一人の看護師の虐めから始まり、翌日には複数が寄ってたかって虐め始めたそうです。集団で虐めるとはもってのほかです。子供の虐めと同じです。狂っているとしか言い様がありません。呆れてものが言えません。
 彼女等は病棟の何なのですか?病棟あるいは病院の全員がそういう人たちなのですか?それとも一部の悪質なボスを中心として、周りが逆らえない何かがあるのですか?
 管理者の神経を疑います。徹底的に調査して改善して下さい。被害者をこれ以上増やすべきではありません。全く許せません。医療従事者として恥を知るべきです。同業者として信じられません。入院して不安に思っている患者の気持ちも解らない様なら、医療者として失格です。早く辞めてしまった方が良いです。研修・教育病院の名も返上したらどうでしょうか。


 この文章は、一部であって実際にはこの数倍の長さである。お書きになった方は現場に立ち会っていない。知人から又聞きした内容に、家族として居たたまれなくなって抗議したくなったとのことである。多分、書き始めた文章はこれほど激しくなかったと思うが、読み返しては単語を追記し、また読んでは文章を追記する、という形を取ったものと推定する。

 この文章は私はメール文の特徴の一つだと思う。
 紙による手紙の場合であったら例えワープロで書いた文面であっても恐らくはこのような表現にはならないと思う。手紙は単に言いたいことを伝えるだけではなく、書く人本人をも表現する素晴らしいツールでもあるからである。
 プリントされた場合には、読み返しながら文章としてのバランスを調整し、修正するだろうし、その過程で、選ぶ言葉も表現法も変わってくるはずである。私など自分で作った文章をプリントして見直す段階で、呆れたり赤面する事も少なくない。何しろ、文章を読んで貰うと言うことは、自分自身を読んで貰うことと同義でもあるから、手を抜けないのである。

 ところが、画面上で作られる文章は、実は文章ではなく、文章の形をした画面であり。画像なのだ、と私は思う。だから書簡とは異なる怖い一面を持つのだ、とも思っている。
 私は毎日のミニ随想は時間的な問題から画面上だけで作るので、過剰な表現をとらないようにと言うことだけには留意している。それでもお前の文章は過激だと指摘されることも少なくない。


4/17(月)快晴  管理会議 外来 長副会議
1:00起床、退院総括x2その他。4:30慢性腎不全の高齢患者死亡にて出勤、 6:15回診。 7:00見送り、8:00管理会議、9:00-14:00外来、16:00療養判定会議は対象患者無し。17:00-20:00長副会議、話題豊富。20:50帰宅、夕食、21:30就眠。

日本内科学会総会二日目  黒川節健在  医療安全も良かった  
 No103日本内科学会総会は二日目は10:00-18:30、以下の講演を聴講した。要するにメイン会場二日目の講演全部である。
(◎はプレリミナリーセッションの演題)
●シンポジウム:レニン・アンギオテンシン系の病態と治療
●肺高血圧症の分子病態解明と治療の最前線
●NASHの診断と治療
◎糞便中のCOX-2とMMP-7を標的としたRNA-based stool assayによる大腸癌診断の有用性について
◎生存退院した心筋梗塞例メタボリックシンドローム合併が心血管イベントに及ぼす影響
◎アディポネクチン受容体の病態整理解明と生活習慣病診断治療への応用
◎非血縁者間同種骨髄移植後のタクロリムスと短期MTXによるGVHD予防
◎B型インフルエンザに対するオセルタミビルの有効性--A型と比較して--
◎東京医療センター総合内科外来プロブレムからみた他科外来研修の意義
●MCTDの病態と治療
●最近のインスリン治療
●ボツリヌス毒素治療の今後の展開
●糖尿病性腎症の診断と治療
●慢性過敏性肺炎と特発性間質性肺炎群の対比
●不整脈の非薬物療法の現状と展望
●多発性骨髄腫の診断と治療
●パネルディスカッション「医療の安全を考える」

 レニン・アンギオテンシン系の病態と治療についてのシンポジウムには遅れて入場したので後半しか聴けなかったが、それでも聴き応え十分であった。この系統薬の局所、全身への優れた作用、利点を全て信じて並べれば、人の老化現象の進み方も遅くなり、より健康になり、人間社会のあり方すら変化を遂げるが如くの印象である。しかし、現実にはそうはいかないだろう。またこの系統薬は全て高額である。医療経済に及ぼす影響も考慮しなければならない。米国ではもっと安い類似系統の薬物の価値が再認識されている。
 それ以上に、みんな健康になって何するのか?今ですら死ねない人生を呪っている高齢者が少なくないのに、そちらの方も同時に考えなければなるまい。

 黒川清氏は元東海大学教授で現在日本学術会議会長である。氏は1962年東大卒、80年UCLA内科教授.89年東大教授.96年東海大学医学部長として日本の医学・医療・教育についてのビジョンを語り続けている.東大定年前に東海大学に移ったのは東大にいては何も改革できないという限界を感じ、改革の息吹がある東海大学からスカウトがあったからだという。東海大学ではどのような改革が出来たのか知りたいものである。日本学術会議は、我が国の人文・社会科学、自然科学全分野の科学者の意見をまとめ、国内外に発信する日本の代表機関であるから、氏にはより相応しいポストだと考えられる。
 氏の講演はここ10数年にわたってもう何度か聴いている。内科学会総会でも数回は登場していると思う。早口で歯に衣着せぬ氏の口調は黒川節とでも形容するのが相応しい。今回は人間の歴史、地球の歴史、自然に立脚した講演で、いろいろ面白い発想・提言を聴かせてくれた。氏の講演は聴いていて元気が出る。学会長が今学会の目玉としての企画したと形容したが、それに相応しい内容であった。

 パネルディスカッション「医療の安全を考える」も良い内容であった。


4/16(日)秋田降雨 帰秋 病棟拘束 FF tennis中止
2:30横浜ロイヤルパークホテルにて起床。講演会記録校正、退院時総括他進める。徒然など、7:00葉っぱとコーヒー朝食。8:00YCATにて横浜から羽田に。9:15ANA 767-300型、操縦席外壁の傷からみて往路の便と同じ機体と思われる、搭乗率は40%ほど、若干の揺れはあったが快適。10:20秋田着、11:00帰宅。FF tennis中止となり午睡若干、その後ずっと業務処理に費やす、100mほど離れた町内で住宅火災あり。文章校正作業一件終了送付した。講演は楽しいが、事後処理の記録作成は大変である。20:00夕食、20:45就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (11) 
骨髄移植の準備を始める(2)悲惨だった卒業当時の白血病の臨床

 私が医師になった昭和46年(1971)頃は一般病院では急性白血病はせいぜい1-2ヶ月程しか生存させれられなかった。卒後2年間、私は岩手県立宮古病院に勤務し、この間7-8名の白血病患者を担当したが、急性例は全員数日から1-2ヶ月で死去された、と記憶している。
 患者は全身の皮下出血、眼球結膜下出血はもとより、鼻、口腔、消化管出血、性器等出血などあらゆる箇所から出血し、脳出血が生じ死亡するか、敗血症や肺炎等の感染を生じて高熱のなかで死亡する等、悲惨であった。特に出血は患者の目に見えるだけに心的ショックは大きく、不安に苛まれ、精神的サポートと共に、効果は乏しいと分かっていても止血剤投与等の対症療法しか方法はなかった。患者、主治医共に特に鼻出血の治療には難渋した。大量の消化管出血が止まらず、輸血用血液も枯渇した状況のなか、為す術もなく患者が死に至る過程を見つめていただけのこともあった。今思い出しても心が痛む。

 当時、実用になりそうな抗白血病剤も2-3剤と限られており、効果と副作用発現の幅が狭く、効果も乏しかった。
 急性白血病患者のうち3人は診断後数日のうちに脳出血、大量消化管出血で死亡した。一方、経過が少しでも長引くと感染は必発で患者は敗血症状態で高熱を発した。当時の抗生剤は大部分は静菌作用の製剤で選択肢も十分ではなかった。殺菌作用のものはペニシリン系の2-3剤、セファロスポリン系は第一世代の一部だけしか実用化されていなかった。高熱の最中に急に様態が変わり亡くなられた患者も少なくない。

 白血病の支持療法として欠くことの出来ない輸血用血液も、成分輸血の考え方などなく、血液センターからの供給は保存血のみで、しかも、供給は十分でなく、緊急に必要な血液は親戚縁者・友人達を呼んで採血し、最小限の検査、交叉試験採血のみで輸血しているような状況であった。この頃、やっとわが国でB型肝炎ウイルス抗原のチェックが赤十字血液センターに導入された。
 従って白血病の治療においては医療関係者はもとより、患者自身、親族友人会社関係者が大勢参加して行われたが、家族や友人達は供血者を得るために随分苦労したものであった。
 こんな時代であった。今は急性白血病は治癒する可能性も出てきている。あの当時の状況を思うと隔世の感がある。


4/15(土)横浜晴れ・やや寒い 日本内科学会総会二日目 ピアノ四重奏演奏会 横浜泊
2:00横浜ロイヤルパークホテルにて起床。退院時総括x1、紹介状、講演会記録校正。徒然など、通常と同じようにこなす。8:20葉っぱとコーヒーで朝食。10:00学会場に。以降、18:00迄メインホールの演題全部聴講、今日は終日意識は保たれた。家族4人合流、19:00-21:00横浜みなとみらいホールでロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団員による「ピアノ四重奏」を聴く。夕食。21:50ホテル着。22:15就眠。

日本内科学会総会初日の印象  学会が若返り、機能的に変身した  
  今回のNo103日本内科学会総会は慶応大学池田康夫教授を会頭に4月14日から3日間パシフィコ横浜で開催された。外来日ではなかったので初日から二日間参加した。

 初日は10:20-17:30、以下の講演を聴講した。要するにメイン会場の講演全部である。
 ●シンポジウム:メタボリックシンドローム
 ●リポ蛋白糸球体症の臨床
 ●エイズ治療の進歩と今後の課題
 ●再生不良性貧血の病態と治療
 ◎日本人におけるQT延長症候群とイオンチャネル遺伝子異常
 ◎日本人2型糖尿病の心血管疾患発生予測におけるメタボリックシンドローム診断の臨床的有用性
 ◎新規腎不全診断薬、治療薬としてのNeitrophile gelatinase-associated lipocalinの臨床
 ◎COPDの気流制限に及ぼす気道病変の意義-3次元CT解析を用いて-
 ◎血栓溶解療法の適応決定におけるearly CT signの功罪
 ◎関節リューマチの早期診断と予後予測の試み
 ●通常総会
 ●幹細胞による肝再生
 ●医療の変革をリードする内科学
 ●動脈硬化のハイリスク病態と分子基盤
 ●臨床におけるKL-6
 ●家族性アミロイドージスの肝移植治療
 ●炎症と酸化ストレス。

 日本内科学会総会は年一回、4月に開催される。私はこの学会は幅広い講演を聴講できるので万難を排して参加している。だから、ほぼ皆勤である。認定医更新の単位など意識したことも、不足して困ったことはない。朝から晩まで3日間、ただ座っているだけで内科学の多方面の進歩に触れると言う、至福の時間がもてる。しかも,この学会は重箱の隅をつつくようなものでなく、より総論的、臨床的で、内容をより平易に話してくれるから私にも比較的理解しやすい。今回は業務の関連で二日間だけの参加であるが、目から鱗が何枚も落ちた。

 今回の学会で変わった点は、発表演者も司会者も若返ったと言うことで、昨年までみられた高齢の元教授が座長席で、アー、ウーとやって進行が滞ることは一切無かった。大きな進歩である。もう一つは、演者の略歴紹介が省略されていたこと、昼食休憩を無しにし、この時間帯にプレリミナリーセッションとして若い研究者の発表の場にしたことがあげられる。このセッションは◎で示したが、狭い領域の研究途上の成果が話された。登壇した若手研究者は評議員とかの推薦で選ばれたとのことで、何れも高水準にあると思われた。

 今回の学会で最も多く聴かれたキーワードはメタボリックシンドロームである。初日のパネルシスカッションから始まり、演題の多くに何度も登場した。私自身は生活習慣病の原因である過食・肥満以上の意義をあまり感じていなかったが、ちょっと考えを変えなければなるまい、と自覚した。


4/14(金)秋田雨、横浜晴れ・強風  第113回日本内科学会総会初日 横浜泊
2:00起床、出張前準備のために病院に。書類や病棟の対応。人間ドック総括。5:10帰宅
6:00自宅発空港へ。7:15発ANA 767-300型で90%ほどか混雑。羽田で葉っぱとコーヒーで朝食。9:30羽田横浜間の高速バスYCATにて横浜に。10:20学会場パシフィコ横浜着。午前午後と休みもない密なスケジュール。時々意識遠のいたが、メインホールの講演は全部聴講。腰痛感じる。17:30初日の日程終了、横浜ロイヤルパークホテルへ、次男除き家族4人集合、19:00-21:00夕食。21:10就眠。

メールの怪(2)投書箱、葉書、手紙等とは一線を画すメールの内容
 患者さん及びその家族から当院へ投書や手紙、メールにていろいろの意見や提言、クレームが寄せられる。これに関して私はすべてに目を通し、どんな意見であっても天の声と考え前向きに対処している。内容的にみて、広く患者さん方に知っていただきたい内容の場合、院長からの返事を併せて玄関ホールに掲示している。また、住所や記名のある投書や手紙に対しては可能な範囲でご返事を差し上げている。

 投書箱への投書は年齢的には20歳代から各年齢層に分布しているが、中年の方々が中心で、メモ程度で、字数は少なく、書き殴り調で、内容もより直接的である。多くは匿名である。手紙によるものは圧倒的に中高年の方が多い。手紙はクレームも少なくないが、どちらかというと礼状が多い。礼状のなかにソフトにクレーム的内容を含むが、一般的に好意的なものが多い。丁寧に記されているものが多く、見事な筆跡、文体に感心させられるものも少なくない。せっかくの内容の豊かな手紙を戴きながら、匿名でご返事を差し上げられないのもある。

 一方、メールによるものは、数は少ないが、圧倒的に若い年代に集中し、内容的にはクレームが多く、かつ、徹底的に厳しい内容のものが多い。ここ半年ばかりの間に県医師会の相談メール、私個人のメール、当院ホームページを通じて届いた当院の診療に関連するメールは私が知る範囲で14件ある。メールの場合には差出人が誰であるか分からなくとも返事を出せる仕組みであり、相手側も返事が迅速にあって当然と言うつもりで書いているから、直ぐに対応しなければ2-3日後には追加のメールが来る。その際には更に内容が一層エスカレートしているのが常である。
 
 最近の14件をザッと見直してみたがその中の9件は手紙などよりは厳しいが、文章も短く、比較的表現もソフトであった。当方からの返事メールに対し、直ぐに対応してくれた事へ礼を述べた返事が来て、それで対応は終了している。
 残りの5件は長文であり、内容は時間が経った今見直してみてもメール特有の、ここは怨念の自己増殖部分だな、と思われる様な表現が随所にみられ、考えさせられる内容である。


4/12(水)快晴 外来 人間ドック診察 感染症評価会議 院内感染対策委員会 県医師会常任理事会
2:00起床。ドック総括、紹介状の返事・対応に手間取る。主治医意見書記載。5:10病院着、6:15回診他  9:00-13:30外来+人間ドック診察。14:00-14:45感染症評価会議(秋田衛研)、16:00-16:55院内感染対策委員会(医局会議室)、17:00-20:45県医師会No1常任理事会。21:30帰宅、22:00就眠。

メールの怪(1)憎悪に憎悪を重ねるツールでもある
 2004年5月、小学6年生が同級生の頸をカッターナイフで切り死亡させるという、信じがたい事件が生じた。もうあれから2年も経つ。詳細はよく解らないが、誰もいない教室に呼び出し、後ろ側から斬りつけたらしく、傷の深さは10cmもあったという。計画性と、かなり深い憎しみ感情があったことを推定させる。
 11歳ほどの少女が抱く愛憎とはなんだろうか?私はそんなに根が深いものだとは思っていない。ただし、加害者、被害者共にパソコンを自由に駆使し、ホームページさえ持っていて、通常からメールを頻繁に交換する仲であったらしいが、このことが深く関連していると思う。私はメールは便利ではあるものの、怪作用の一つとして、憎悪に憎悪を重ねていく、即ち「憎悪育成器」と言っても良いような道具にもなりうるツールだとも思っている。

 私は、この事件はパソコンゲーム上で不利・不都合になったときに気軽にリセットする感覚とほぼ同じ感覚で、被害者の少女はリセットされた、即ち、消されてしまったのだと思う。リセットとは完全消滅させる行為である。だから、そこには手加減なんてあり得ない。100%消滅する結果だけ、即ち、目の前で即死することこそが重要なのだ。だから最大の力をふるったのだろう。陰惨、悲惨な事件であった。

 何でこの様になってきたのか。合理主義の近代科学文明は人間に備わっているべき感性、情念を奪ってしまった事に起因するだろう。本来、子ども達はすべて生まれたときは「この世の王様」として生まれて来る。例外は生まれたときに数歩歩き、「天上・・・唯我独尊」と言ったとされるお釈迦様位だ。子どもは成長過程で、自分に備わった五感全てを用いて周辺からあらゆる情報を吸収し、生きる術を学んでいく。その過程で同時に、悲喜こもごも、愛憎、挫折などを体験し、徐々に自分は王様どころか、実は「大勢の中のたった一人の存在」に過ぎない、と言う自覚が育って行く。それには10数年、いや、それ以上かかるものだと思う。時には、一生涯かかる場合もある。この感覚は、しかしながら、人間としての成長と同義でもある。

 そのような、人としての成長の基礎も作られないうちに合理的、ヴァーチャルな、視覚だけの世界に接していくと感性等は育たない。「百聞は一見にしかず」ではなく、実は「百聞は一見に勝る」のだ。感性を備えるには時間がかかる。だから、いわゆる、ゆっくり学習「スローラーン」が必要なのだ。そういえば、数日前に小学校低学年から英語も教科に入れるようなことが報道されていた。遊び感覚で学ぶ語学なら私は賛成なんだが・・。


4/11(火)曇り→風雨   定期処方日 患者家族面談 外来 常務会 医局カンファ 
2:00起床,紹介状その他、医報原稿。5:10病院着。6:15回診+7A定期処方箋発行、7:00-8:00患者家族面談3件、9:00-14:00外来、14:30-16:20常務会、17:30-18:30医局MC:睡眠時無呼吸症候群。田中睡眠クリニック院長。21:00帰宅。21:30就寝。

足におもりを付けて歩く(2) 片足0.5Kgから1.5Kgへ
 片足0.5Kgでも最初は違和感があったがそのうち殆ど自分の身体の一部と化してしまった。腰痛で悩んだ2週間はさすがに疼痛悪化の原因になっていたから外したが、それ以外は半年以上1日も欠かさずずっと装着している。1月初旬の大雪の日2時間ほど歩いて出勤した。膝までの深い雪の中を歩くのだから一歩一歩進むのが大変であったが、病院に着くまで重りがついていることをすっかり忘れていたほどである。

 例の変わった医師はそんな話を聞きつけてまもなく片足1Kgのウエイトを購入して来てくれた。今回は2700円の請求書付きであった。約1か月装着したが1Kgでも足りなくなって、2月以降は先の0.5Kgのと合わせて1.5Kgとして用いている。これくらいが私にとって良いような期がするが、2Kg位のにも興味を感じている。

 このウエイトの効果は下肢の格好に現れている。同じ距離、同じ階段を同じように歩いているだけであるが、贅肉が取れてかなり筋肉っぽくなった印象である。ところが問題点は下腹の脂肪が取れないことで、全身的にはむしろ不格好になった。マア、このことは無視しよう。気分的にもとても良い。ところで、腹部脂肪取り用に重し付きの腹巻きなんか無いものかな?

 このウエイトで困ることは空港で金属チェッカーに引っかかることで、はっと気がついて慌てて外して小物入れの箱に入れて通すのだが、まとめて重ねると駄目らしく片側分ずつ別の箱に分けるよう指示される。更に重しの材料として何が入っているのか?等いろいろ問われる。南部鉄器の原料と同じ砂鉄だそうです、と堂々とうそぶく事にしている。東京は歩く距離が長いからウエイトを着けて歩くととても気分が良い。

 逆効果もある。たまたま外して歩くと何か足が軽すぎてめまい感のごとくの違和を感じる事、階段、特に下り階段は足の着地場所が定まらずずっこけそうになること、平地でも躓きやすくなることで、むしろ危ない感じがする。これは不思議な感覚である。

 2Kg以上の製品も見たがボリュームが増して不格好である。確かに通常の金属では比重の点から小さくは出来ないだろう。だからといって金とか銀では作れないだろうし、そんなの着けていたら暴漢に襲われてしまう。
 あるお節介やきの変わった同僚医師のお陰で、楽しく歩いているこの頃である。わざわざ運動の時間を取らなくても若干は運動不足解消に役立っていると認識している。


4/10(月)晴れ 管理会議  療養病棟判定会議 長副会議
2:00起床、軽い脱力感で全身ボーとする。風邪か?医報巻頭言呻吟。ドック1名総括。5:20病院着。6:15回診。8:00管理会議、新メンバーで初。外来隔週化で本日なし。2名のみ診察。臨床書類処理。患者家族面談。16:00-16:40療養判定会議。17:00-19:30長副会議。22:40帰宅、夕食、21:30就眠。

足におもりを付けて歩く(1) まず片足0.5Kgから
 昨夏、当院の同年代の同僚医師から下肢に装着する500gの重りを2ヶ戴いた。彼は、私がヘルニアに罹患し、増悪し、耐え難くてMRIを撮った時に出口にニコニコしながら待ちかまえていて、ウムを言わさずに針を打ってくれた医師で、かなりの漢方医だと自称している。彼の針治療は残念なことに効果は全く見られなかった。普段から周囲の職員達にも種々の健康法を勧めている様で、やや「変わった医師」である。名前は敢えて伏せておく。

 私も彼から何度か下肢におもりを付けるよう勧められてはいた。なかなか実行しない私に我慢が出来なかったのであろう、買いに行く暇もないだろうから、と購入して来てくれた。代金は要らないというので有り難く戴いた。実際にはこのくらい押しつけがましくないと自分の思いはなかなか通用するものでないのだろう。私も学ばねばならないところである。

 私は主たる職場が7階であるがエレベーターなど年に何度も利用しない。たいていは歩く、あるいは走る。一応運動不足を意識してそうしているのだ、と職員や患者には説明しているのだが、もっと大きな理由はエレベーターが来るのを無為に待っていられない性格だからである。エレベーターの前で待っている職員を忍耐強いな、と感心している。それ以上に、せっかく日常の中で運動出来る良い機会を前向きに利用しないのだ?とも思う。今、思い出しても2003年10月のアキレス腱切断した際、手術、ギプス固定後の約1ヶ月半、そのとき何が辛かったかというと、その代表がエレベーターを待つことであった。
 
 せっかくの心遣いである。私も運動不足だし、と常々思っているから、その日から片足500gの砂嚢を装着して生活を始めた。寝るときに外すだけで終日装着のままである。最初の2-3日こそ違和感があって思うように歩けない感じがしたが、そのうち殆ど自分の身体の一部と化してしまったようで、装着していることをまったく意識しなくなった。


4/9(日)快晴 病棟拘束 FFテニス(中止)  
2:30起床、徒然。研修関連病院紹介文、医報巻頭言に集中。8:30-11:00病院で継続。家内高熱にてFFテニスは中止とした。午後も同様事務処理。紹介状、総括など。17:30-19:30再度病院へ、書類処理など。20:00夕食、20:45就眠。 移動時間以外9割以上文章書き他で
ディスプレイを見て過ごす。腰痛若干。

骨髄移植の準備を始める(1)学生の頃、同年代の白血病患者から学ぶ
 私が学生の頃、血液内科の実習で受け持ったのは私とほぼ同年代の男女3名の急性白血病患者であった。1日おきほどに9:00頃病棟に行き耳朶に傷を付け流れる血液を採取、末梢血検査をするのであるが、学生実習にも協力的でうち解けていろいろな話をしたものである。病名は告げられていなかったが、発熱が頻回に生じ、鼻出血等も頻回であること、患者同士の情報交換などから、自分が白血病であることはうすうす知っており、予後が悪いことも納得していた。
 一人でベットで休んでいるときの表情は何か寂しげではあったが、私ども実習生が行けば明るく対応してくれた。私は若い人がまもなく死を迎えるかもしれない状態でも比較的さわやかな表情をしているのを不思議に思ったもので、何時か患者に聴いてみたいと思っていたが遂にその機会はなかった。

 その内の一人は実習期間中に脳内出血で急死した。夕方から夜間にかけての急変で剖検も済んでいた。もう一人の女性患者も実習終了2週間ほど後にレポートを書くためにカルテを見に行ったら既にお亡くなりになっていて、ショックを受けた。敗血症、DICとかカルテに記載があった。もう一人の患者は未だ入院していたが、重症個室に入っており顔を見る機会もなかった。

 新潟大学の他の3つの内科、当時は神経内科、腎臓内科、肝臓内科であったが、実習の間に受け持った患者の病状の推移は総じて緩徐であり、こんなに劇的に病状が変化し、若い患者が死の転帰を取る病状をみて、私は将来、出来ることであれば血液内科を専攻したいと思ったものである。


4/9(土)曇り・雨   オーダリング研修   ドック結果説明 散髪  セミナー:脳卒中(欠) コーヒーパーティ
2:30起床、ドック総括x1。医報巻頭言準備他、5:20病院、6:15回診他。紹介状x2。10:00-11:30オーダリングシステム入力研修。厳しい、これは苦労しそうだ。12:00-12:40人間ドック結果説明x1、じっくりと生活指導をした。13:30-14:20散髪。業務継続。17:50帰宅。18:40-21:45病院スタッフ4人来訪。夕食とケーキ、コーヒーで歓談。迷いつつ腹一杯食べて、ダイエット談義に花が咲くこの矛盾がとても楽しい。22:30就眠。

日本医師会会長選挙(4)結局、政治力が問題だったのか
 今回の選挙戦は一般会員、代議員にとっても全く唐突だったと思う。それ以上に植松会長、キャビネットにとっては青天の霹靂であっただろう。当初の対応には現職側としての自信を覗かせながらも、かなりのとまどいも狼狽も感じられた。
 唐澤陣営は「執行部の無策で国民皆保険制度が崩壊の危機にある。座して死を待つわけにはいかない。一刻の猶予も許されない」「政治力欠如」「自民党との関係が悪い」「執行部が政権政党を敵に回した結果、何が起きたかは誰の目にも明らか」等を論点に積極的に選挙運動を展開した。

 診療報酬改訂マイナス3.16%は医療界にとって驚愕の数値である。医療の安全と良い医療の確保のためにはプラス3%の改訂が必要と日医は主張していたから、その立場では6%もの開きである。こんなに大きな格差で決着したのに日医の反応は小さかった。会内広報誌の中では不当な数値であるとは強調していたが、現場の医療を担っている側の代表としての立場からは社会に対してのアクションは確かに小さかった。また、唐澤氏の主張に対する反応、説明にも歯切れは今ひとつであった。今となってみれば、植松氏はもっとやるべき事はあった様に感じられる。

 現執行部が医系議員である武見敬三、西島英利両参院議員に対して一定の距離を置いたことはマスコミでも報道された。私は事の真相をつぶさに知ることは出来なかったが、結果的に両議員は唐澤候補を支持する意向まで表明した。私的団体である日本医師会の会長選挙に議員が介入してくることの不自然さが漂ったのは確かであるが、今回の診療報酬の改訂に日医の政治力の減退を感じた会員、代議員が多かったと言うことだろう。

 ともあれ、日医に唐澤新会長が誕生した。代議員会終了後にロビーで記者会見が開かれた。唐澤氏の言葉はどれも聞き心地の良いものだったが、その言葉、雰囲気は、誠実さ、清楚さが感じ取れたが、組織のトップとしてのある種の存在感はまだ希薄なように思えてならなかった。
 「唐澤氏の人柄」を評価する声は高い、東京都医師会長としての手腕は評価されているが、日医のトップとしての資質については未知数である。組織のトップを形容する表現として「豪腕型」、「創造型」とか「調整型」とかいろいろあるが、唐澤氏は前二者ではないような気がする。さりとて単なる調整役であれば今後の日医を背負ってはいけない。
 選挙は厳しい。明暗あり、悲喜こもごもあり、一抹の寂しさも感じる。ともあれ唐澤新日医会長、唐澤キャビネットの今後の働きに、大きく期待している。結果がクリアに出た以上、私は日医の再建のために会員として唐澤体制に協力は惜しまないつもりである。


4/8(金)晴天   人間ドック診察 中通リハビリテーション病院スタッフと懇談・協議  5B病棟歓送迎会 
2:00起床。医報巻頭言,院内書類関連,徒然など。 6:15病院着、 6:15回診、午前中は紹介状、総括。秋田医報用原稿「妊娠とワクチン」脱稿。13:30人間ドック診察、16:30 リハとの話し合い(リハ2F会議室)。診療報酬改定対策が主たる議題。19:00 5B病棟歓送迎会(寿限無)、21:30帰宅、22:15就寝。 

病棟歓送迎会 30分ポツンと待つ 結局1時間遅れで開始
 私はつきあいの良い方ではなく、式とか、行事とか、余り出席したことはなかった。院内の会合では医局とか、自分が濃厚に関連している病棟の歓送迎会だけは出席するようにしてきたが、幸いにも院内外の会議その他の予定のために、残念なことに出席できないという矛盾した状況にあった。院長になってからは万難を排して、と言う程までではないが可能な予定は変更しても出席する様心がけている。立場が私をまともな方向に多少変えてくれた、と言うことだろう。職員との対話は楽しいし、得るものも大きい。

 本日は特に予定が入っていなかったので総合内科病棟の歓送迎会に出席した。ここでは私は「その他の医師」扱いであるが、結構難しい患者を看て貰っている。出席の意思表示は私が最初だったはず。こんな事の決断だけは何故か早い。ウジウジ型の人間だからウジウジ考えているのが嫌だからである。

 始まりは19:00とのこと、遅れるのは私の信義に反する。10分ほど前に慌てて部屋を出て急ぎ会場に向かう。3Kgの重りを足につけたままで、汗だくになって到着したらお店の方から伝言が一言、「業務が終わらないので30分遅らせます」とのことであった。ホント、誰も来ていない。ポツンと待つのも能がない、この間人間ドック判定総括下書きを済まし、若干の文献を読む。
 30分待ったらポツリ、ポツリと集まりはじめ、予定の人数が揃ったのは20:00過ぎであった。緊急入院、死亡退院等で業務が終わらなかったとのことである。4年目程の看護師一人が退職、新卒新人2名の配属での歓送迎会であった。

 大体、勤務時間が17:00迄だというのに開始時間が19:00に設定されていることから異常である。これが総合内科病棟の最近の実態と言うことであろう。集まったメンバーは師長を含めてみんな若い。疲れた表情も見せず楽しげである。私が主に担当している療養病棟は患者も大部分高齢者であるが、看護師も経験豊かなメンバーが多く、腰が痛い、頭が痛いと言っているが、これとは良い対比である。
 若い看護師達が明るく談笑しているのを見ていても楽しい。話題にはとても入り込めないが、私の真ん前に最年長ではあるが未だ若い病棟師長が座ってくれたので助かった。

 この看護師の多忙さは何とかしなければなるまい。オーダリングシステムが軌道に乗れば・・と期待しているが、それには多少時間がかかるかもしれない。21:30会も盛り上がったところであったが、私は充電のために中座した。


4/6(木)曇り・寒い一日    外来  倫理委員会
2:00起床。ドック判定総括x1。秋田医報用「ワクチンと妊娠」関連記述、徒然。5;15病院着,6;00回診,病棟業務。  9:00-14:00外来、混雑。18:00-19:30倫理委員会議(ルピナス)。申請5件を認定した。回診、患者対応若干。20:40帰宅、21:30就眠.

日本医師会会長選挙(3)見えなかった会務
 私はこの2年間、ずっと植松体制の変化を期待しつつ見てきた。新しい試みもいろいろ認められた。実際、常任理事の一部の方々は随分頑張ってきた様に見える。しかし、常任理事、副会長、会長は全員関東以南であり、実務者の大部分は大阪近郊の出身である。これら近隣地域の医師会報とかには日本医師会の動向、執行部の動き、常任理事の活動などは頻繁に掲載された。これら地域には執行部もいろいろ気遣いした様子もうかがわれた。
 しかし、関東以北については虚という感じである。確かに、都道府県の設立記念大会、医連総会とか、学校医大会、共同利用施設などの各種の行事の際には担当常任理事、会長副会長の方々にも来ていただき、挨拶や講演等をしていただいたが、それだけでは単なる通過と同じで不足であった。
 特に、関東以北については各県医師会、各地区の医連のメンバーとかと定期的な対話の場が必要でなかったのか? という感じがする。この点を一言で言えば「日医の会務が見えなかった」ということ。
 更に言及すれば、執行部の会務処理、対応に時代に相応しい「スピード感、メリハリに欠けていた」、事も挙げておきたい。

 私は、日医発行の新聞「日医ニュース」を見て唖然としたことがある。この中に各界有識者からの提言を掲載するコーナーがある。この企画自体は素晴らしいが、2006年1月5日号にあるジャーナリストの厳しい提言が掲載されたが、翌1月20日号のコラムに執行部の誰かが書いたと思われる前号の記事への批判が掲載された。これは実に奇妙な事である。有り難い提言を「何も分かっていないのに言い過ぎだ」と批判するその精神、これは許し難い姿勢である。「日本医師会は何様だ!!!と思っているんだ」、と言いたくなる姿勢である。

 もう一つ。主治医意見書のソフト「医見書ver2.5」についてであるが、コンピューターの立場から見れば行き方は正しいとしても、私の目から見れば会員軽視の施策にしか見えない。技術者は執行部の承諾の元に進めた結果です、と説明してくれたが、そうだとすれば会員軽視であろう。会員軽視の姿勢は後に大きな反動の源となる。

 診療報酬マイナス3.16%はショックではあるが、私は植松体制の力不足の結果だとは思っていない。
 私は、いろいろ感じながらではあるが、この一期の活動は植松体制の助走期間として納得の範囲であった。医政にも、中医協の中でもよく主張してくれたと思っている。だから、次期には一期目の経験を生かしてもっと良い働きをしてくれるものと期待していた。このことが私の投票の判断のルーツである。


4/5(水)雨・曇り 外来 人間ドック診察  医師面接  調剤薬局員来訪
1:30起床、ドックx1。紹介状、退院総括ほか。5:30病院着、6:40回診、療養病棟発熱者数人。9:00-14:00外来+人間ドック診察、14:00医師面接、15:00調剤薬局員来訪。抗ガン剤情報提供のあり方について。病棟患者急変で対応。秋田医報関連原稿進める。20:50帰宅、夕食、21:30就眠。

日本医師会会長選挙(2) 植松前会長の印象
 私は今回の選挙では熟慮の上で植松候補に投票した。前回の2年前の選挙では直前まで植松候補に投票する積もりであったが、最終的には対立候補に投票した。直前に信じがたいことであったが、3候補が談合し植松候補に一本化したためである。このような手段を用いられればそれまで優勢であった対立候補は無力と化してしまう。比較的クリーンな印象の選挙戦であったが、最後は汚い結末を迎えた。

 結果的に植松会長が誕生し、談合した2人の候補はそれぞれ植松キャビネットの副会長の任に着いた。その意味では植松会長はその誕生の時からアンフェアな印象と共にスタートしたと言える。
 何故、私が前回も、今回も植松候補を支持したかというと、大阪府医師会長としての植松氏の活躍、日本医師会代議員会における発言、日本医師会雑誌等で知ることの出来る都道府県医師会長協議会での発言などから、坪井氏の次に日本医師会の舵取りをするのは恐らくこの人であろうと数年も前から思っていたからである。ただし、その情報の源の多くは「大阪府医ニュース」と言う府医師会の広報誌からである。
 前回の選挙では東北医連としては対立候補の方を支持表明しておりいわゆるブロック選挙であったが、私は敢えてそれに反してまで植松候補に投票しようとしていた。それだけ高く評価していたが、談合のため投票しなかったが、残念なことであった。
  
 実際に私が植松候補と身近に接し直接会話を交わしたのは、彼が選挙運動のために秋田県医師会を訪れたときが最初であった。その時は随行された方々の方が一生懸命植松氏のすばらしさを力説していたが、植松氏は最初の挨拶をした後はもっぱら聞き役に回り、時に挟む言葉や意見も実に控えめであった。その会で私は意外と寡黙の人なんだ、あまり明晰に話をされない方なんだ、と私が印刷物を通じていいだいていたイメージと随分異なる印象であったことは確かである。

 実際、これは日本医師会長としての植松氏にずっと抱き続けていたイメージである。植松会長の講演や挨拶を聴く機会はこの2年間で10数回あるいはそれ以上あったと思うが、いつも若干の準備不足を感じ取ることが出来た。また、若干言い訳が多いかなとも感じた。この点はいつか解消し積極的に前に出る姿勢が現れるだろうと期待していたが、遂に訪れることなく選挙戦を迎えてしまった。


4/4(火)晴れ   定期処方日 外来 常務会 中央診部長面談 医局会・研修修了証授与
 1:30起床、ドックx1。紹介状、メール対応ほか。5:30病院着、6:15回診+7A定期処方箋発行、 9:00-14:00外来、14:30-14:00常務会、17:00-18:10中央診部長面談、18:10医局会・研修修了証授与。20:40帰宅、21:00就眠。

日本医師会会長選挙(1) 植松体制は一期で終焉 若い唐澤陣容誕生
 4月1日は日本医師会の代議員会初日、選挙日であった。選挙結果は代議員議長は石川岩手県医師会長で無競争で当選。日本の医療を左右する大事な日本医師会長選挙は唐澤候補が当選し、植松体制は一期のみで終焉した。これは私にとって予想外の展開であった。

 得票数は唐澤氏(東京都医師会長)198票、植松氏(日本医師会長)152票、金丸氏(京都府医師会)0票であった。無効票0、白票0、立候補の所信すら表明しなかった金丸氏が0票であったことは代議員の見識の表れである。
 引き続いて行われた副会長選挙は3名の定員を4名で争い、竹嶋氏(福岡県医師会長)、宝住氏(栃木県医師会長)、岩砂氏(岐阜県医師会長)が選出された。常任理事は定員10名を11名で争い、唐澤キャビネット以外からの立候補者は当選できなかった。
 日本医師会の選挙は慣習的にキャビネット制で行われてきており、会長が決まった段階で落選した会長のキャビネット予定者である副会長、常任理事候補者は立候補を辞退する慣習があり、選挙が現実に行われたのは数10年ぶりだったとのことである。

 会長、副会長、常任理事の唐澤キャビネットに坪井時代の常任理事が一名入っているが、実務能力は未知数である。しかし、キャビネットの構成年齢を見ると、会長が63歳、最年長者の宝住氏が69歳、最年少の常任理事は54歳が2名で、平均年齢が61.2歳と従来のキャビネットから見て極めて若い陣容であり、新しい時代感覚を持った新執行部としての活動が期待される。

 今回の選挙は植松会長が秋早々に出馬を宣言し、一見このまま次期も担うと予想されていたが、東京都医師会長である唐澤氏が1月中旬、電撃的に立候補を表明し選挙戦に突入した。唐澤候補はこの2年間植松体制の中で重要な立場である理事として業務を担ってきた立場であり、理事として唐澤氏はこの間植松氏の方針に反対を唱えたことは殆どなかったという。その面では植松氏にしてみれば唐澤氏の立候補は青天の霹靂そのものであったのであろう、そのような発言も時折されていた。私も立候補を知った時耳を疑った。半信半疑であった。


4/3(月)雨、管理会議 外来 ドック説明 初期研修医導入研修講義 療養判定会議 長副会議
2:00起床、ドック判定総括x1,紹介状1。徒然。5:15病院着、6:15回診ほか、 8:00管理会議、9:00-11:00外来、13:30ドック結果説明、13:45-15:45新臨床研修医に導入研修、16:00療養判定会議(医局会議室)、17:00-20:15長副会議(院長室)、病棟回診。21:20帰宅。22:00就眠。

第12回MM(Medical Management)研究会(2)
基調講演:「医療人の育成を目指して」(慈恵会医科大学学長・理事長 栗原 敏氏)
 基調講演を担当された学長の栗原氏は恐らく基礎系の教授と思われる。臨床系教授とは異なったクリアカットな表現で論旨を展開した。慈恵会医科大学は古くから「病気を診ずして患者を診よ」という有名な言葉を教育の理念にしている事でも有名で、看護師教育にも歴史が長い。「医学の研究よりも今そこにいる患者を治すのだ」と言う方針を掲げている。多くの大学が三本柱として掲げる「研究」「教育」「臨床」ではなく、あくまでも「臨床中心であり、良き臨床医を育てる医育機関の姿」である。これは当時日本の医療がドイツ式の格式の高い、厳格な教育システム一辺倒であった時代に、米英国式のリベラルな教育方針をとった数少ない医育機関のだからなし得たことである。
 
 慈恵医大では学生の評価を「総合試験システム」を導入している。一般の大学では教授が「私が教え、私が試験問題を作り、採点し、私が卒業させた」と表現するような各教授毎に密室的な教育と評価がなされて来たが、慈恵医大では教育者=評価者ではなく、「医学教育研究室」で複数のスタッフが他職種員と共に、6年間一貫した責任の元に教育を管理している。慈恵医大では、あの教授の評価が悪くて留年したというような。個別の判定などはあり得ないようである。

 学生の評価をすると言うことは、即ち、学生へメッセージを戻すことことでもあるという。厳格な客観的試験の後には、社会に貢献する専門職業識者になるために、学生一人一人の態度・立ち振る舞い、技能、問題解決能力を評価し、それを学生一人一人にフィードバックしていくという。その際、かつては医師を医師のみで育てていたが、今では多くの異職種員が評価に参加しているという。現代の医療は他職種との共同作業でなくては成り立たないからと言う視点である。各職場を通じて簡単に言語化できない、その仕事への気持ちも含めて学ばせる。
 また、栗原教授は「専門的知識」と「チームワーキング」は全く異なった能力であり、「チームワーキング」とは「人としての成長をあらわす指標である」、と述べていたのが印象的であった。

 基調講演としての結語は、学生が「今、国民から求められる医療」を学ぶのではもう遅すぎるのです。「医療へのニーズが将来如何様に変化しても。その変化に対応し、生涯にわたって医療人として働き続ける」力を養成していかなければならないのです、それが慈恵医大の教育なのです、であった。脱帽である。


4/2(日)東京快晴→曇り雨 秋田雨   日本医師会代議員会二日目
1:45浅草ビューホテルで起床。本読みの他、昨朝と同様、医師会文章とNPO文章校正。研修医オリエンテーション準備、徒然など。7:00葉っぱとコーヒー。9:00チェックアウト。9:30会長所信表明。議事、代表質問。午前は11:45に終了。午後は13:00から再開、個人質問、18年度予算承認で15:50終了。いつもなら終了前に帰路につくのだが、こんなに早い終了は初めて。羽田のパソコンデスク1時間超占拠。17:55JALは機材繰りの関係で30分ほど遅れて出発。機長は板山氏という、恐らく友人の甥だろう 。20:45帰宅。21:30就寝。

自伝 秋田大学時代(1973-1985)(9)博士号をとることになる(3)
 博士号の提出には論文を提出しなければならない。私は1981年10月の「第2回新潟シンポジウム--造血幹細胞とその異常」でそのころの仕事をまとめて発表していたから、この論文で提出することとした。既に医歯薬出版社から単行本として出版もされているからそれのコピーをつけて手続きをした。

 締め切り1ヶ月後頃、学長から商業誌掲載の論文では提出は認められない、として戻されてきた。ガックリ来たがその際、秋大が出版している「秋田医学」に投稿し直すならば次号に掲載可能で、論文審査に間に合わせることが出来る、との付箋が付いていた。ありがたい配慮を戴いた。時間的余裕は1週間ほどしかなかったが、こんなことで先延ばしにしてはいられないので急ぎ「秋田医学」の投稿規定に合わせてまとめ直して投稿し、何とか間に合わせた。
 論文審査は小児科教授、第一病理教授のお二人が担当された、と聞いているが特に問題は指摘されず、公開の発表でも特に教官から困難な質疑も問題点の指摘もなく終了した。

 3月の大学院卒業者とともに博士号授与式が行われたが欠席した。数日後、筒に入った博士号の証書が自宅に送られてきた。医師免許のようなものだった様に記憶しているが、一瞥した後は一度も見ていない。まさか捨てたはずは無いがどこに行ったのであろう。私は自分のキャリア、履歴の中にこの称号を用いたことは一度もない。
 査読を担当されたお二人の教授、教室の教授には、簡単に礼を述べただけとしたが、今から考えると大幅に礼を欠いていたのかもしれない。

 この間の一連のプロセスはやはり学生の時の運動にも関連していると思う。当時大学院一期生が卒業論文をまとめつつあったが自分には全く関係のないことと関心もなく距離を置いていた。教授から教室の方針として博士論文提出を告げられたときには二者択一の岐路を迎えたが、当時、白血病の臨床の上で骨髄移植の実用化は必須と考えていたので、そのために必要であれば、と割り切って実を取って論文提出する選択をした。そのため何か身の入らない準備となった。結果として授与されたが、多くの方々のお世話になり、かつご迷惑をかけた、と今は反省している。

 何時までも過去の自分の発言や行動などに縛られている自分が馬鹿に見えることもある。私の過去の言動のことなど誰も覚えているはずもなく、関心も持つはずもない。本当に自分だけの問題にすぎないが、だからこそ大事にしていきたい変な性格である


4/1(土)東京快晴 日本医師会代議員会初日 植松会長→唐澤新会長に
2:45浅草ビューホテルで起床、医師会文章、NPO文章校正。研修医オリエンテーション準備、徒然など。7:00葉っぱとコーヒーで朝食。9:00ホテル発、9:30日本医師会館着。9:30-11:15選挙開始。代議員会議長に石川岩手県医師会長が無投票で選出された。会長選挙は唐澤氏が当選。植松キャビネットは一期にして退陣することとなった。やはりマイナス3.16%が大きかったと言うことだろう。12:45から副会長、理事、常任理事選挙が行われた。意外と早くに終了。新会長挨拶他があり16:45に初日としての全日程が終了。17:00浅草ビューホテルへ、本読み、文章校正など。夕食は外で軽く済ます。20:00就寝。

第12回MM(Medical Management)研究会(1)「医療人の育成」
 第12回MM研究会は2/11(土)東京国際フォーラムで開催され、聴講した。このセミナーは武田薬品主催の会で、今回は12回目と言うが私は3回目の出席かと思う。私はこのシリーズの研究会はとても勉強になる事からお誘いがある限り万難を排して参加したいと思っている。

 今回のテーマは「医療人の育成」で、以下の如くのプログラムであった。
1)武田薬品学術員による糖尿病関連、メタボリックシンドローム関連のミニ講演。
2)基調講演:「医療人の育成を目指して」(慈恵会医科大学学長・理事長 栗原 敏氏)
3)講演1:「当院における医療人の育成を目指して(VTR講演)」(武蔵野赤十字病院院長 三宅祥三氏)
 追加講演:「当院における医療人の育成を目指して」(京都赤十字病院院長 依田健吾氏)
4)講演2:「これからの病院経営を考える-事務系職員の役割とその育成」(済生会熊本病院 副院長・事務長 正木義博氏)
5)講演3:「これからの看護職の役割の変化と教育・育成」(NTT東日本関東病院 看護部長 坂本すが氏)
6)パネルディスカッション 「これからの医療人の育成」

 各演者の講演内容は聞き応え充分、いつもの如く録音を何度も聞き直して参考にしている。以下が印象。

 ●司会はいつもの如く笹川記念保健協力財団理事長で東京女子医科大学客員教授でもある紀伊國献三氏。かなりのご高齢であるが、この3年間で見る範囲で特にお変わりない様子で今回も的確な進行、まとめ役を果たした。
 司会者の挨拶で以下のごとく述べた。
 新年度から介護保険は4%、医療では3.16%と史上最大の診療報酬の引き下げが行われる。医療界はとても大変な状態に陥る事は間違いないが、これに対しては的確な処方箋があるわけではない。このような厳しい状況であればこそ、従事する医療人の質が高いことが強く求められるのではないでしょうか。そのように考え、今回は「医療人の育成」というテーマを取り上げた。

 ●基調講演に先立ちいつも武田薬品の学術員によって自社の糖尿病治療薬を紹介するのであるが、今回は糖尿病関連、メタボリックシンドローム関連のミニ講演で、薬品の宣伝的内容は殆どなく、今回は特に後者を中心に疫学的意義を総論的に述べた。
 私は従来から生活習慣病について、特に内臓脂肪蓄積型肥満、糖尿病の持つ意義を強調しつつ医療や講演をやっているが、メタボリックシンドロームについては代謝系の他の因子も含めて統合的にまとめたもので、それなりの意義はあるが、特に目新しいものではない、名前を口に出すのも気恥ずかしい、と文献もそれほど読まず、クールにとらえていた。
 この講演を聴いて十分に意義のあるものであることを理解した。その後、文献を読む機会も増えた。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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