徒然日記
2005年10月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


10/31(月)秋田曇東京雨 管理会議 日本医師会病院委員会
1:30起床、入浴他、2:20病院着。ドック判定、総括x1. 退院総括、出張準備。6:00回診他、8:00管理会議、9:00-10:00外来. 10:10病院発、11:15ANA A321 型機、50%ほど 。浜松町書店で新書数冊購入。14:00日医会館着。14:30ー16:30日医病院問題検討委員会。20:00ANA 767-300、40%ほど。21:30帰宅。夕食若干、22:15就寝.

久々ANAで往復 来年は航空運賃は値上げ、診療報酬は値下げに!!
 私が出席する日本医師会の会議等は通常東京駒込の日医会館で行われる。
 空路の場合、ちょっと時間的にせわしないが秋田発10:00前後と羽田発18:00前後の便が時間の無駄が無く便利である。かつてはこの時間帯は双方とも全日空ANAであったが、数年前から秋田羽田間は日本エアシステムJASが参入して増便され、便利になったが、この時間帯はJASの運行になり、機種は往路が767型からA300型機に、復路がMD-81またはMD-90となった。今は合併によってJALとなった。復路がANAであったときは280席の676だったから比較的ゆったりと帰れたが、MD-81、MD-90は166席だから殆ど空席が無く、狭く窮屈である。急に出張になったときには座席をとれないこともしばしばである。
 本日は往復ともANA。久々である。往路は福島上空を過ぎた頃から急に雲が多くなり激しく揺れ始めた。先ほどまで見えた主翼すら見えない。羽田に向かって高度を下げて行くほどに雲が濃くなり、揺れが激しくなった?雲の切れ目に出るとほっとするが、すぐ先方に巨大な雲があり、機はそれに向かって突っ込んでいく。その途端激しく揺れる。最後尾に座っていたから特にひどいのだろうが、機体がガタピシと歪む音が頻回に聞こえてくるのは不安というわけではないが、決して良い気分ではない。風が強く、滑走路直前で機が大きく傾き、大きく上下し、斜めのまま着地し、数秒間不安定な状態にあった。本当に機体は丈夫に出来ているものだと思うし、パイロットも大変だね、といつも感心する。乗客は100%お任せするしかないからあとは信用するだけ、気楽なものだ。
 復路は一転揺れ一つ無い安定した飛行。
 今朝のニュースによれば、ANAの今期の収入は社にとっての最高額だったと言うが、燃料の高騰で利益はむしろ減で、来年は国内便の各路線で1000円程度値上げを見当しているとのこと。
 来年は診療報酬が何%か下がる可能性が高い。
 病院の運営・経営は更に厳しさが増すと予想される。ガタピシどころでない大揺れになると予想される。医療機関にとって診療以外からの収入は望めないから打撃は大きい。運賃の値上げ等に転嫁出来る企業がうらやましい。これは本音。


10/30(日)雨→曇 病棟拘束     
2:30起床、入浴などさっと済まして3:30病院へ。ドック判定総括x1. 退院総括、紹介状処理。徒然など。10:00帰宅、準備不足のThe YAMAMOTO Bandのパート練習2時間ほど。その後猫と戯れてそのまま若干午睡。15:00以降、明日の出張準備含めてゆったりと業務こなす。机上の懸案事項かなり消化。長女は夕方離秋。20:00帰宅、夕食、21:00就寝。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (2)
札幌での学会の帰路、機内で膀胱尿管逆流現象を体験
 毎年秋には日本臨床血液学会総会が開催される。多分、昭和53年だったと思うが、札幌で開催されいつもの如く参加した。学会そのものには一般演題を出して発表したことは覚えているがあまりはっきりした記憶ではない。その時は、何らかの所用があって3日目の最終日は学会に参加しないで午前の便で帰路についたように記憶している。
 往路は夜間飛行であったが揺れも少なく順調に飛行し快適に札幌に着いたが、帰路は天候が不良で当時のYS-11機は大揺れに揺れた。コーヒー等を飲んでから登場したことと、揺れによる過緊張もあったのだろうが、津軽海峡上で尿意が生じてきた。しかし、揺れのために終始ベルト着用で洗面所の使用は禁止されていた。時間と共に尿意はますますひどくなって来たが、この状態ではどうすることも出来ない。手の指先まで含めて全身が膀胱人間になったような気分でひたすら耐えていた。

 YS-11は双発のターボプロップでジェットエンジンではあるが推進力はプロペラで得るタイプ。そのために5-6千mの高度で、時速470Kmほどで、最近のジェット機よりずっと低い高度で約半分の速度で飛ぶ。この高度は気流の影響を受けやすい高度だという。
 ガタガタと小刻みに、時には大きく揺れながらゆっくりと飛行を続け、弘前上空あたりから徐々に高度を下げ始めたが、機は遅々として進まない。何でこんなに鈍いのだと私はYS-11を呪ってしまった。
 ところがまもなくしてそれまで強烈であった尿意がスーッと楽になり、同時に強烈な腰痛が襲ってきた。これは膀胱尿管逆流現象の症状である。しばらくすると今度はかなりの全身倦怠感が生じてきた。


10/29(土)曇り-雨 病棟拘束 日医生涯教育協力講座(欠
 
2:30起床、長女今週も見舞いと世話に帰省。3:20病院。ドック判定総括x1. 再検査結果報告.医師会関連文章校正。6:00家内を見舞い回診。8:10ドック診察x5。9:00-9:30ドック結果説明x1。9:30-10:10患者家族と面談。11:00来客、院内業務、回診、その他。14:30-15:15散髪。来客あり日医生涯教育協力講座は欠、淡々と業務。19:30帰宅。Vnなど若干、20:00夕食、20:30就寝。

大きく読み上げつつカルテに記載の看護師  これは良いことだ
 最近業務が混んで私の回診開始時間も早まっている。
 先週の話、6:00頃内科病棟でカルテを点検していると、傍らの20代後半?と思われるある看護師が聴き取りにくいが比較的大きな声でブツブツ言って時にボールペンでメモとカルテを突いている。他に誰もいない病棟のナースセンター、何よりも静寂を好む私から見ると煩い。

 確認してみると、声に出しているのは患者の名前と呼吸、脈拍、血圧、体温、尿量等の数値である。一人分転記が終わるとボールペンでメモ用紙とカルテを突いて患者の名前、記載内容を再確認しているのだ。
 私は興味を持ってしばらく注意を向けていたが、立ち去る前に、その看護師に「いつもそんなに声を出して仕事をしているのか?」と聴いてみた。曰わく、「日勤とか周囲に大勢居るときには出来ませんが一人の時はいつもこうします。仕事にけじめがつくので好きなんです。煩いでしょう」とのこと。私は感心した。「けじめがつくので・・」と彼女は言ったが、これは立派な事故防止の再確認プロセスである。

 最近では医療事故防止のために重要な項目に関して複数、時には三人での確認がマニュアル化されている。それ以上に重要なのは、一人一人の確認方法で、この場合「言葉で確認」「指さし確認」の重要性が言われている。この操作によって一人でも複数にでの確認作業に匹敵する効果があるとのこと。

 鉄道関係者はかねてから誰からも見えるような仕草で確認作業をしているが、これは単に事故防止のためと言うことだけでなく、対社会的責任を果たす事にもなる重要な行為である。福知山線の脱線事故の後一層アクションが大きくなったように感じられる。

 私も出来るだけ実行している。外来でも一人毎に指先で処方箋等を再確認してカルテを医事課にまわすのだが、混雑してくるとどうしても確認作業がおざなりになるのだろう、記載不備で戻ってくるカルテが増えてくる。
 緊張感の弛緩は怖い。だからこそ、「口に出しつつ指先で確認」は医療関係者にとって重要なと基本動作の一つなのだ。


10/28(金)晴 秋田県試験研究開発評価会議  法人理事会        
2:40医局ソファで仮眠から起床、頸が痛い。ドック判定総括x1.紹介状、総括。6:10回診ほか。午前は病棟書類処理業務。14:00-15:.30秋田県試験研究開発評価会議(秋田衛生検査研究所)。17:30-19:30法人理事会。20:50帰宅。21:15就寝 。

犬山方面への私用旅行(終) 中部国際空港セントレア
 翌日の予定が詰まっていたために、せっかく名古屋まで来ているというのに早めに秋田にもどらなければならない。予約しているANA便は中部国際空港から14:00頃発である。宿泊した名鉄犬山ホテルからは一時間程度は移動に必要なようである。初めてなのでさらに余裕をとって11:00に犬山を発った。全席指定の特急列車が出ていて極めて快適に移動出来た。

 中部国際空港は、愛知県の伊勢湾海上に造られた第一種空港で、2005年2月17日に開港。愛称のセントレア(Centrair)は中部空港の英訳を一つの単語に組み合わせた造語だという。開業初日の2月17日には96,000人もの利用客や見学客が押し寄せ、商業施設が大変混雑し、飛行機利用者の中から不満の声も挙がった事は当時ニュースで大々的に報じられた。混雑の理由は空港以外の機能も充実していることが挙げられていた。

 特急列車が空港に近づくと次々と目新しい設備が目に入ってくる。空港好きの私はどんなところだろうかと心騒ぐものがあった。1-3Fは空港施設なのだろう、新しいからきれいで雰囲気はいいし、ゆったりした空間に各設備が余裕を持って配列されている。
 セントレア4Fの商業施設スカイタウンはこれまた別世界で「ちょうちん横丁」と呼ばれるエリアは狭い通路に所狭しと商業施設が並ぶレトロ調の雰囲気。連休だからか大変混雑し、私は歩くのにも難渋した。パーラー、喫茶店、ラーメン屋、レストランは空席待ちの数10人ほどの行列が出来ている。私は人混みの中にいるのが辛いから買い物に集中している母娘らとは別行動とし、早々に滑走路が見渡せるデッキに移動、発着する航空機を眺めて時間を堪能した。降りてくる航空機はいつ見ても美しい、と思う。
 デッキも人で一杯である。恐らく航空機を利用する客の何十倍かの客がこのセントレアに遊びにきているのであろう。とにかく人で溢れており、羽田や成田とは全く別の雰囲気がある。

 どうしても対比してしまうのは関西空港の雰囲気。関空も中部国際も似たような人工の海上施設ではあるが、関空は何時行っても・・とは言ってもまだ数回しか利用していないが、大きな施設の割に利用客は少なく閑散としていて単に通過する場所という感じだが、中部国際空港は商業街としての機能で満ちている活気のある場所であった。それにしても都会の方々のエネルギーはすごい、と感じてしまった。
 ボーイング737-300型機で70分、静かなたたずまいの秋田空港に着いたが、やはり私にとっては、こっちの雰囲気の方が向いている。


10/27(木)快晴 総合内科病棟(欠)療養病棟診療部会   
2:00起床、入浴等.3:00病院着。6:30回診など。9:00-15:30外来、混雑。総合内科病棟診療部会は出席不可。16:00-17:00病棟処置、回診。17:00-18:00療養病棟診療部会。書類処理、21:00帰宅、夕食、21:30就寝。23:00病棟より連絡、病院へ。患者死去。1:30見送り、医局ソファで就眠。

犬山方面への私用旅行(6) 犬山市の有楽苑と国宝茶室「如庵」
 宿泊した名鉄犬山ホテルの真ん前に国宝茶室の一つである「如庵」がある事は現地に行ってから知った。これは一見の価値があると、モンキーパークのあと見学した。
 「如庵」は最初は京都の建仁寺にあった茶室で、これを建立した織田有楽は信長の弟、淀君の伯父にもあたる武将で波瀾に富んだ生涯であったとされる。如庵は、二代将軍の秀忠の下で徳川体制が定着し、社会や価値観が大きく変動していく最中で、彼は建仁寺に隠蔽し、元和4年(1618)頃「如庵」を建立したが、この茶室の中で何を思い、どんな晩年を過ごしたのであろうか。
 明治以降、何故か各地を転々としたと言うが、昭和47年に犬山城の近くに安住の 地を得て、有楽苑として親しまれることになったとのこと。犬山は有楽の生まれ故郷だという。国宝級の文化遺産が各地を転々としたことなど、信じがたいことであった。

 苑内は広く実に静寂なたたずまいであった。見事な竹林があり、地には点々と踏み石がしかれ、その石のすみずみには苔が生え、その雰囲気は幽玄の言葉が相応しい見事な落ち着きである。敷石の傍らには水琴窟がさりげなく置かれ、滴が落ちるたびに小音量で優雅な音を立てていた。
 この苑内に国宝「如庵」、重要文化財「旧正伝院書院」、茶室「元庵」、および、昭和61年に茶会のために新築された「弘庵」がある。

 茶室「如庵」は小ささ、狭さを強調しているようだ。実にこじんまりしている。壁は渋い土の仕上で実に地味である。窓が小さくその代わりに採光用と思われる天窓がついている。
 「元庵」の縁側に座し、茶を一服いただいたが、静寂のなか、織田有楽の心境の何万分の一かは味わえたような気分になり、満足しきって苑を後にした。
 苑の外に一歩踏み出すとそこには騒然とした現実があり、私どもは「如庵」で得た雰囲気を大事にしようと急ぎホテルに戻った。そこには「如庵」とは異質の、人工的な静寂があった。


10/26(水)秋田快晴 東京雨  日医医療政策シンポ「医療の安全を考える」 県医師会理事会(欠)
 2:00起床。2:40病院着、入浴他、出張前準備各種。見舞い、6:10回診、処置種々他。9:00病院→秋田道→空港。10:05JAL  A300-600修学旅行でほぼ満席で前方9F。13:00-16:10日医会館にて日医医療政策シンポ「医療の安全を考える」、最前席で記憶の方はMDにお願いし微睡みつつ聴講。18:10羽田発JAL MD-90ほぼ満席、前列4B。リアエンジンだから前席はとても静か。20:3病院着、家内見舞う、21:20帰宅、夕食、22:00就寝。

犬山方面への私用旅行(5) 新潟大学46年卒同級会(3) 疾病体験記
 同級会のスピーチで内容的にスケールが大きく、医療関係者としても身につまされ、圧巻だったのは新潟中越地震の体験話であった。次いで語られたのはやはり還暦を迎えた連中の集まりだから健康面に話題。これも医師の立場での闘病、体験だから内容的には迫力があった。脳梗塞、心筋梗塞、鬱、大腸癌、腰痛、坐骨神経痛、胃癌・・と病名を並べるのに事欠かない。やはり人間60歳以上は疾病との共存が当たり前と再確認した。

 その中で圧巻だったのは山登りを趣味とする外科医の心筋梗塞体験。私は彼とは卒後初めて、すなわち34年振りの再会である。勿論年齢の影響はそれなりにはあるが、体型もさほど変わらず表情も昔の面影そのものである。
 彼はある日富士山に登り始めてしばらくして急に激しい前胸部痛に襲われ、治療開始までの3時間以上も殆ど軽減することのない激痛に苛まれたという。自ら心筋梗塞と判断したと言うもどうしようもない状況でその場での死を覚悟したと言う。
 どういう方法で連絡されたかは忘れたが、救急隊がその場まで登ってきてくれ、担架にて救急車が待機する場所までソロソロと下ろされ、静岡か山梨か忘れたが循環器科的治療にて狭窄・閉塞した血管が再開通し、一命を取り留めたというもの。その間の激しい胸痛はこの世のものでは無かったという。そのあたり、淡々と話す彼の表情は何か大きな人生の憑き物が落ちたが如く、高僧の如くの爽やかさを感じ取ることが出来た。そういえば彼の生家は寺であったように記憶する。それにしても登山道まで登ってきて搬送する救急隊も大変なものだと感心し、そのプロ根性には感心し感謝しなければ成るまい。
 彼は最近、あのオウムで有名になった上九一色村に第二の居を構えたと言う。死に場所を見つけました、機会がありましたらお寄り下さいと結んだ。

 別のメンバーの一人はこの同級会から帰った翌日入院、手術を受ける予定になっています。今回は感慨深い気持ちで参加しています、とこれまた笑顔で淡々と語ったのが印象的であった。私の椎間板ヘルニアなんて、自分にとって決して軽くはなく結構辛いが、話題性はゼロであった。


10/25(火)晴れ 法人常務会 中央診拡大診療部会議 医療連携カンファレンス
2:00起床,2:20病院着、6:20回診+定期処方35枚。書類。9:00-13:20外来.14:30-17:00法人常務会.17:30-18:45中央診拡大診療部会議。18:45-19:50医療連携カンファレンス「64列CTの画像診断」に参加。鮮明な画像に改めて驚く。21:50帰宅。軽食、22:25布団にもぐる。

We must change to remain the same(2)調整型と創造型がいる
 元大統領クリントンが早稲田大学で述べた言葉を引用し、私どもは留まることなく変容していかなければならないことを述べた。
 私たちの法人、病院も同様であって、今後発展していくためには変容、変革は絶対に避けられない。

 変容、変革と言うはやさしいが、これを進めようとする場合、必ず激しい抵抗に遭う。特に、相当の経験のある古い人間ほど抵抗するのが通常である。それは、古いタイプの人間の特性の一つであって、個人の責任ではないと思う。
 古い人間の多くは、特に安定した環境の中で安穏と過ごした人間であればあるほど、心理的にも頭の中も最早変容など出来がたい状況に陥っている。それをよく感じるのは県や市の職員、教育関係者、警察、司法・・・の関係者、その中のとりわけ年配者等である。退職後でもこの状況はずっと続くと思う。当院ではどうか?   私が永年勤続者の前でこんな話をしたのはやはりこの傾向を感じることが少なくないからである。勿論?私自身が反省しなければならないことも少なくない。

 各分野で一定の成果を上げたリーダーと呼ばれる人達を無理矢理に二つに分類すると創造型と調整型リーダーに分けられる。一長一短があるがその関係はクリアカットであり相反する部分が多い。私は前者でありたいと願望しつつも成り切れない後者なのだと思う。子どもの頃からあらゆる発想が、何はともあれ、争い、抗争を忌避しようとするところに発想のルーツがある典型的な調整型であったように思う。もう、これは変えようもない事実で、とても残念である。

 私が憧れてきた創造型人間は、その気持ちなど解り得ないが、恐らくかなり抵抗に遭遇しながらそれに負けない強靱な精神力で事を進めているのであろう。厳しい状況下においては調整だけでは乗り切る事は困難で、組織、企業が発展して行くには変革は絶対に必要である。「新しい時代を創造する」くらいの強い創造型リーダーの登場が求められることは論を待たないが、創造型リーダーの選定を誤ると一気に取り返しのつかない方向に走る危険もあるから、事は簡単でない。
 何はともあれ、「ディスカッション」が必要であることも論を待たない。


10/24(月)晴 管理会議  21世紀の医療打合会  秋田市救急医療協議会 療養病棟判定会議(欠)  長副会議  副総師長との話し合い  
 1:30起床、入浴と猫のお相手若干のみにて2:30病院。ドック判定総括x1、退院総括、主治医意見書その他処理。6:20回診他業務.8:00管理会議.9:00-12:40 外来、13:00-14:10 21世紀の医療打合、14:30-16:30秋田市救急医療協議会、17:00-20:10長副会議+副総師長との話し合い。懸案事項多数。回診。21:30帰宅、夕食、22:00就寝。超多忙の一日であった。

We must change to remain the same(1)
 
先日、法人の永年勤続の表彰があった。私自身も勤続20年の被表彰の対象者であった。あれからもう20年もたったのか、としみじみ思う。懇親会の席では主催者の一人として乾杯の発声を担ったが、院長に就任以来同法人内の他の職場の職員と懇談するのは初めてだったので若干の時間をもらい、簡単に就任の挨拶を述べた。

 その際、抱負というか、私の考え方を示すのに、上記の言葉を引用した。これは、米国の元大統領クリントンが現役時代に来日した際、早稲田大学で行った講義の中で述べたとされる言葉である。言いたかったことは、「私たち明和会は、今までと同じように良い仕事をしていくためには自ら変容しなければならない」、と言うことであった。うまく伝わっただろうか。
 何で永年勤続の表彰の場でこんな話を持ち出したかというと、自分自身の考え方の古さを自覚しているから、まず、自らに語りかけるつもりで話してみたのだが、同時に「みなさん、勤続20年、30年は素晴らしいことだけど、いささか頭が古くなってませんか?」と言いたかったからである。

 人の多くは、世の中が変わっていくからそれに合わせて自分も変わらなければならない、と考える。これは当たり前のことだと思うし、個人のレベルではそれで良いだろう。第一、個人が突出して時代を先取りして変容していたら、確かにそれらしいすごい人もいるが、変人か?はたまた本領を発揮出来ないでいる天才か?、と訝われてしまう。ただし、このようなヒトが世の中を変えていくのも事実である。世の天才の多くは異端者だった事は歴史が教えてくれている。

 しかし、組織、企業の場合は個人の場合とは違う。組織が発展して行くためには世の中に合わせて変わっていくだけではもはや不足で先取りしなければならない。そうでなければ必ず衰退していく。


10/23(日)雨、曇り 病棟拘束  昨年中越地震 震度6+
2:30起床、ドック判定総括x1、総括その他書類処理。10:00病院、見舞い、回診、書類処理他。10:30長男離秋,17:50長女離秋。19:30 帰宅、夕食。20:30就眠。終日自室で書類と格闘。

母と自分を語る(9) 母は私の中で生きている
 私は母の死去当初、これで本当に母は楽になったのだ、と大きな開放感、満足感、安堵の気持ちを味わった。病理解剖の結果からもその死の意味も実感できた。
 実際に大きな悲しみに襲われたのは死後1-2ヶ月も経って、身辺の整理もかなり進んだころからであった。彼女の人生は一体何だったのか?、私や長男は彼女の人生にとって一体何だったのか?、私が最終的にとった治療方針は果たして正しかったのか?他の選択肢はなかったのか?・・等々、しばらくの間私はこれらの問題で苛まれることになるが、過ぎゆく時が徐々に私を癒してくれた。

 彼女が生活上で時折示した理解し難い態度、物事の判断、死を目前としての姿勢、これらに私は少しばかりでない異常性を感じてならない。
 彼女の同胞の一人はかなり優秀な男性で将来を嘱望されていたと言うが、若くして自ら命を絶ったと聞いているが、そんなことも彼女の資質を考える上で多少の参考になるのではないかと思うし、その異常性の一部は私にも立派に備わっていると感じることもある。私はそれを自覚できているだけ良いのだと思うし、一部ながら、母と共有できている異常性?にいたく満足している。
 
 彼女が64歳で、比較的若くして死を迎えたことにも大きな意味はあるのだ。今は心からそう感じている。
 亡き母は今でも私の心の中で比較的大きな存在感と共に生き続けており、母の生き様は、今ある私にも、今後の私も、私が死を迎える際にも、陰となり表となり、おそらく私に影響し続けるだろう。母を思うとき今でも自省することは少なくない。そんな私であるが、いや、そんな私だからこそ、母はいつも私にとって大きな存在であり続けるのだ、と思う。


10/22(土)曇り 北海道東北ブロック医師会共同利用施設連絡協議会(本荘市) 新潟学士会秋田支部総会 
2:30起床。3:00病院着.6:20回診ほか書類処理。8:35病院発、いなほ20分遅れ。10:00-15:40北海道東北ブロック医師会共同利用施設連絡協議会、ホテルアイリスに参加。病院にて各種書類処理。18:30-22:00新潟学士会秋田支部総会+ミニレクチャー+懇親会。帰宅、22:30就寝。

逆説:未来は変えられない、過去は変えられる だから、どんどん変えよう
 一般的には「過去は変えることが出来ないが未来は変えられる」と言われている。私は逆だと思う。過去は変えられるのだ。ただし、カルテの改竄とか、そんな過去の事実をねじ曲げる様な、あるいはこれに類したことを言っているのではない。
 過去を変えることは、事実を変えるのではなく、その評価を変える事を指す。だから、私どもの勉強とか過去の研究とかは全て過去を変えるためにやっていることである。
 
 私は、人からいろいろな相談を受けた場合に常套的に、「例え、何であっても、無かったよりは良かったじゃないですか」と言う。このルーツ、本音は、今回のこの経験は現時点では如何に辛く悲惨であっても、何とか現状を乗り切ることができれば、必ず活かすことが出来るし、そうするべきなのだ、と言う考え方である。

 未来は変えられない。例え選択を変えたとしても変えたことにはならない。未来は過去からの連続性で必然的に決まってくるのだ。例え、多くの選択肢のある中でどれを選択したとしても、その選択によって生きる道が大幅に変わったとしても、未来を変えたことにはならない。

 不安神経症という病気では、まだ 先のことで何も解らないことをいろいろ考えて朧気な概念を作り上げ、それを否定的に解釈し不安になり落ち込み、時にパニック状態にも陥る。まともなヒトから見れば、取り越し苦労をしてもしょうがないと割り切ることはある程度出来るのだが、正常とそうでない領域がはっきりしていないから誰でもそんな状態になる得る可能性はある。その様なときに私は「未来は変えられない、過去は変えられる」と割り切ることにしている。


10/21(金)晴れ  秋田県個人情報保護検討委員会  法人永年勤続者表彰式・懇談会 
2:30起床、風呂その他のみにて3:10病院へ.介護保険主治医意見書、徒然、その他。家内を見舞う。6:20回診その他病棟業務。以降はずっと午後までたまった書類等、意見書、紹介状、総括等処理。16:00秋田県個人情報保護検討委員会、途中中座で病院へ。17:30法人永年勤続者表彰式・懇談会。私も20年の被表彰者。乾杯の発声を機会に簡単に挨拶。18:30病棟より担当患者心肺停止の連絡。病院へ。21:30港交通呼び帰宅、就寝。

犬山方面への私用旅行(4)  日本モンキーパーク(愛知県犬山市)終

最も知能が高く最も危険な霊長類 「ヒト」

 日本モンキーパークの設立に尽力しされた京都大学霊長類研究所河合雅雄教授は、数年前に犬山を去り郷里の兵庫に戻られ、そこでヒトと自然の博物館名誉館長、丹波の森公園長、丹波の森大学長とかを務めながら、90歳ほどになられた今でもなおかくしゃくと仕事をされている、と言う。その話を聞きながら、その時も私は人間に備わっている「望郷の念」とはいかに強いものかと感心してしまった。

 河合氏がかつてNHKのラジオ番組に登場した時に、「サル学を学ぶことは人間を学ぶことである」と述べていたことが記憶に残っている。学問途中で戦争に招集され厳しい前線での戦争体験、殺しあいを経験し、無事帰国した動物学者達の一部は何故かサル学の研究の方に興味、視点を移した、と言う。 戦争の最中、彼らの脳裏には何故ヒトは戦争するのか?  と言う疑問が激しく沸いてきたのだ、と言う。死の恐怖におびえながら何故自分はここで銃を構えていなければならないのかと考え,感じるのは当然のことなのだと思う。
 
動物たちの世界には、チンパンジーの一部を除けば殆ど同類集団同士の勢力争い、すなわち戦争に類似した行為は見られないことから「人間とは何か?」「何故殺しあいをするのか?」と言うことの追求の対象としてサルを選ぶのだ、と言っていた。

 私も興味を持ってサルたちを観察してきた。毎日毎日病める人間を相手に仕事をしてきていると本当に「人間とは何なのか?」「人間は何故こんなに不安が強いのか?」「人間は何故健康や命にこんなにこだわるのか?」という疑問を持つ。何か得られるものはないかと思って園内を回っていた。不安や健康についての疑問は解けることはなかったが、 見ると園内の一角に檻があってその看板に「これがヒトです」と書いてある。周囲に何人かが居て多少気後れはしたが、そこで記念のスナップを一枚撮った。いい年をしていい気なモンであるが、この檻はたぶん河合教授の発想そのもの?、と感じたからである。私のバカさ加減を見ていた人たちの何人かが次々といろんなポーズで写真を撮っていた。なんだか解らないが、これが人間というものなのだ、と素直に認めよう。時間を得てもっともっと勉強したい分野である。


10/20(木)晴れ 県退職準備型ライフプランセミナー講演
  
1:30起床。ドック判定・総括x1、3:00病院、見舞い、6:20回診ほか病棟業務。9:00-13:20外来。15:00-16:10秋田県総務企画部人事課主催の退職準備型ライフプランセミナーで講演、みずほ苑。20:50帰宅、夕食、21:30就寝。

犬山方面への私用旅行(5)新潟大学46年卒同級会(2)新潟中越地震
 長岡在住のお二人から中越地震のことが報告という形でじっくりと述べられ、これは圧巻であった。

 新潟県中越地震は言うまでもなく平成16年(2004年)10月23日17時56分に、新潟県中部深さ約13kmを震源とする大地震で、ブリタニカ年鑑のデータで見ると、マグニチュード6.8、最大震度7、避難者約10万人、住宅損壊約9万棟、被害額約3兆円超えで、地域社会への深刻な打撃は「阪神・淡路大震災」にも匹敵するとされる。
 私は迂闊にもこの地震についてはあまり深く知らなかった。地域の被災状況、新幹線の脱線、幼児救出のニュース等は新聞等で見てはいたが、多忙な業務の中深い関心を持っていたとは言えない。比較的多額(?)の義捐金は病院の募金を通じて送ったものの、どちらかというと対岸の火事的感覚でいた。

 お二人のうち一人は長岡日赤の副院長であり、一人は耳鼻咽喉科医院院長である。住民としての立場からと組織の管理者として、医療従事者としての立場から実態を述べてくれたが、それを聞きながらあまり関心を向けていなかった自身を深く恥じ入った。
 特にライフラインが立たれた状態での医療の維持の問題、自らの生活の不便さ、悲惨さは約一年を経過した今だからこそ静かに語ることが出来たのかもしれない。
 本震による被害はさることながら頻発する大型の余震は心底から恐怖であり、住宅の中で休息・睡眠を取ることも不安で出来ず、車の中で眠ってみたがそれも耐え難く、最終的には住宅の中に眠るための場所だけは何とか確保したとのことである。
  救援物資、ボランティアなどによるマンパワーは比較的短時間に供給されたが、電気、ガス、水道の復旧までの不便さは大変なもので、特に排泄物の処理の問題、入浴出来ない不便さは何ともし難いものであったという。

 お二人の話の中でよく出てきた言葉は「TVでご覧になったでしょうが・・・」であったが、実は私は殆ど見ていない。これも拙いことで情報として仕入れておくべきだった。
 今回、私は一人の生活者としてだけでなく、病院管理者として無関心でいてはならない重大ごとだと認識をあらたにしつつ聞いていた。秋田で同様のことが生じたら、特に厳冬期間中であったら私どもは当面何をすべきなのか??
 
 長岡日赤だけでなく被災された周辺の医療機関でも今回の地震の総括などまとめるであろうから是非とも手に入れて勉強したいものだと思う。また、新潟県中越地震に関する資料集等も購入しようと思っている。


10/19(水)快晴  医師会打ち合わせ 県総務企画部職員来訪打ち合わせ 
 0:30起床にて病院からの連絡待つ。1:30自家発無事起動と報告、これでこの件は一段落。2:30病院着、淡々と業務。6:20回診、8:10本日治療受ける家内見舞う、9:00-14:10外来+ドック説明+ドック診察。15:00明日の県定年退職者準備講座講演打ち合わせ。主治医意見書、総括等作成。何度か家内を見舞う。20:30帰宅。夕食、21:30就寝。

犬山方面への私用旅行(5)新潟大学46年卒同級会(1)
 昨年、開催の前日まで順調に企画が進み、私共も準備万端の状態まで行きながら台風の急接近で中止になった新潟大学46年卒同級会が、去る10月9日名鉄犬山ホテルで開催された。私は新潟、長岡の会に次いで3回目の出席である。家内は私より数回多く出席している。

 日中にはゴルフ大会が催され、夕方からの同級会である。ゴルフは私共夫婦にとっては全く知識もない世界だが、聞くところ殆どがやるらしい。
 ゴルフの実際の出席者は不明であるが、夜の交歓会は出席者19人と少なかった。しかし、丁度良い規模と思われる会で、誰かがスピーチしていてもみんなが集中して聞いて居れるし、気軽に質問したり、笑えたり、しみじみと共感も出来た。卒後34年振りに会うメンバーも数人居て、懐かしく、楽しい時間が過ごせた。

 私どもの同級生は4年ほど前に一名だけ胃ガン?で欠けたが、ほぼ全員生きているらしい、珍しいクラスである。だから、香典用の積み立て金も遣い道がなくて○百万円もたまっているとのこと。次にこの積み立ての恩恵を授かるのは誰かな、もしかしたら私かな?、と思ってしまう。今回は中越地震の見舞い金としても役だったらしい。

 出席者全員が一言ずつコメントを述べたが、内容的に大別すると4群に分けられた。まずは長岡在住のメンバーから中越地震のことが報告という形でじっくりと述べられ、これは住民として聴いても病院管理者の立場からも圧巻であった。次はやはり全員年だから健康面のことなど、聞いていてとても他人事と思えない内容である。さらに人生観の変遷など。もう一つは聞いていて全く分からないゴルフの腕自慢の話であった。


10/18(火)晴 外科系科長緊急会議 法人常務会 医局会 自家発電装置電源負荷試験
1:30起床。ドックx1、2:30病棟より電話、出勤。3:00重症患者死去。主治医意見書、徒然、紹介状など。5:20回診、定期処方発行。8:00外科系科長緊急会議、バックアップ電源関連。9:00-13:40外来、14:30-16:15法人常務会。17:30-18:30医局カンファレンス「喫煙と肺ガンの予後」電源関連、麻酔科医師労務関連検討、20:30帰宅、本日長女長男急遽帰省。深夜自家発電装置負荷試験施行予定、果報は寝て待つべしと21:00就寝。

ある患者の弁「先生、これでも診察代を払うんですか??」
 本日夜半、長女・長男が家内の見舞いがてら急遽帰省した。長女の弁「数日前から口内炎が7つも出て痛いのよ」と。
「へー、気の毒にね。いろいろストレスがあるためなのだろうからね。」と私の返事。
しばし無言の後「私はね、別に優しい言葉をかけて欲しくて言ったのではないのよ」と言う。

 3週間ほど前、まかないの石井さんが転倒して腰を強打しかなり辛そうだった。帰宅直後の私に「これこれ・・・で腰が痛くて大変・・大変」と訴える。彼女の話は一般的に長くて結論がなかなか出ない。私は言葉を遮って「足でもしびれるのかい?そうでなかったら早く帰って寝たら?」と答えた。しばし無言の後「受診しなくて良いかしら」と言う。「早く帰って寝たら?」と同じく答えた。これで会話はつながらず終了となったが彼女は、その後私に内緒で内科医院、整形外科医院を受診しているらしい。

 家族からの不調の訴えに関しては私の返事はいつも素っ気ない。言った方はガックリくるらしい。時間が解決する程度の場合には放置が一番と思っているからだが、言う方は何らかの対策を求めての発言である。だから互いに思惑にズレがあるのだ。

 これが家庭内、家族内の対話だから良いのだが、診察室ではトラブルの原因になる。
 
 ある救急時間帯での診療の時、高齢の男性患者が隣の外科系診察室を訪れた。診察医は整形以外の若手のある外科医師。患者「腰が急にいたくなって辛くて来ました」。外科医師「湿布あげますから家で安静にして明日整形外科を受診してください。お大事に」。患者「そうですか。湿布は家に行けばありますから要りません。出がけに家内がまったく同じことを言ってました。先生、こんな程度でも診察代金を支払うんでしょうか??」

 高齢の方はガッカリしたような口調で、静かに述べた。当然である。むしろ怒らないで淡々と述べたところに患者としての本音があるのだ。医療機関にわざわざタクシーで遠方から来たのに何も治療をしてくれないのか、この若い医師には患者の気持ちが分からないのか?と言う抗議である。
 医師と患者は他人同士であり短時間では互いに理解など出来ないと割り切るべき。互いに思惑は異なって当然。だからこそ医師は診察の際、「何かご希望はありますか?」と言うような言葉を掛けてズレを調整する必要があるのだ。一方的に自分の判断を述べるだけではどんな正しいことを言っても相手は満足しない。


10/17(月)快晴 アキレス腱断裂2周年 管理会議 療養病棟判定会議 緊急外科系科長会議 長副会議 バックアップ電源関連対策会議   
1:30起床。ドック判定・総括x1。紹介状。5:00病院 .業務種々。6:30回診、病棟業務、8:00管理会議、バックアップ電源問題他で重大事項提起され検討に入る。9:00-14;30外来。院内懸案事項多数の日に超混雑外来で私自身混乱した。その後種々対策他対応、16:00-16:20療養病棟判定会議。17:00-18:00緊急外科系科長会議。18:00-19:00長副会議。麻酔科医他と対策検討。22:00帰宅。夕食、22:30就寝。

犬山方面への私用旅行(4)  日本モンキーパーク(愛知県犬山市)続
 

家内と記念撮影・・・ ではなくゴリラの銅像と記念撮影

日本モンキーパークは今朝のNHKラジオによると本日が会館記念日な様である。私はこのパークはモンキーだけの施設かと思っていたが、全施設の2/3はサルと直接関連のない、大型の、よくある遊園地であった。
 会場に近づくと丘の上に大阪万博の「太陽の塔」か?と思われるモニュメントが聳えているが、これは「若い太陽の塔」といって、同じ岡本太郎の作品で、大阪万博の「太陽の塔」の1年前の1969年に、このパークのシンボルとして設置されたものと言う。

 日本モンキーパークの公式HPによると『世界で唯一のサルだけの動物園で、サル類に関する総合的な調査研究、野生ニホンザルの適正な保護繁殖を目的に設立され国内・外とも高い評価を博しているとのこと。日本国内、アジア、アフリカ、中南米等から集められた73種類、600頭ほどが飼育されている。最大のはローランドゴリラで体重は200Kgほどにもなると言うし、最小のは上着のポケットに入れて帰れそうな、どちらかと言えばネズミやリスに似たサルもいる。
 サルは、不思議と、見ていて飽きないのはやっぱり人間に似てい手同じような仕草や行動をするからであろう。興味深かったのはサルの骨格の標本。各種のサルの骨格が陳列されているが種類によってずいぶん異なる。夜行性のサルは目が大きく発達しているが、頭蓋骨で見ると眼窩が異様に巨大であり、片方の眼窩のサイズが脳のサイズより遙かに大きく、驚く。

 当日は連休と言うこともあって子供連れの若いカップルで混雑していた。モンキーを十分見たことも一つの成果であったが、これだけの若者達、大勢のはしゃぎ回る子供達の間に混じっての数時間は、何年も経験したことのない懐かしい時間でもあった。
 みんなサルを見に来ているのだろうが、サルの方からも結構人に近づき「今日はいろいろなサルが来ているワイ」といった感じで興味深そうにじっと目を合わせて見続けるサルもいる。どっちが主役なのか分からない。
 パークを訪れた翌日は急ぎ秋田に帰ってまたヒトを相手にする現実に戻ったが、何となく気が楽になった。片意地を張るなんて無駄なことだね。今回猿から十分教わりましたよ。


10/16(日)雨のち晴れ 療養病棟なべっこ遠足(欠) 
2:00起床、ドック判定・総括x1、紹介状返事2通等、8:30病院より下痢患者についての連絡、9:30出勤、夕方まで対策対応。この間大曲友の会挨拶文作成送付。19:20帰宅、20:20夕食。21:00就眠。

自伝 母と自分を語る(8) 母は自ら
の意思で衰弱死した
 その後の母は治療行為を一切受け付けなくなった。説得はしても同意は得られない。それでも組合総合病院のスタッフ達はいろいろ治療を試みてくれた。介護のレベルは受け入れてくれたが治療行為は困難であった。
 主治医である家内もいろいろ機会を作っては全身状態の維持のための方策を考えたが、服薬も拒否、摂食も拒否、点滴も拒否であった。ある夜私が持参した寿司の一部を美味しげに口にしたことがあったが、栄養補給にはほど遠い量で、それ以降は一切口を開かなかった。私が入れた中心静脈栄養葉のカテーテルも数時間後には抜かれてしまった。

 私は迷いに迷ったが、母の好きなようにさせる方針をとった。治療行為などは全て本人の受け入れる範囲のみとした。実際には殆ど何も出来なかった。やがて肝不全の進行と共に黄疸は一層強くなり、意識状態も全身状態も悪化した。排泄のためのトイレ移動はもとより、ベットサイドに置いたポータブルへの移動すらハタから見ていて辛そうであったが本人は何としてでも移動しようと強い意志を見せた。見かねて尿道カテーテルを留置したが、これも短時間に自己抜去した。やがて意識状態の悪化と共に母の精神活動は乏しくなり、治療行為も可能な状態となったが、私はあえて方針を変えさせず、最小限の補液のみとした。数日後母は静かに息を引き取った。

 死後、家内の執刀で病理解剖を行った。実質臓器のほぼ全てに多数の嚢胞が見られ、特に肝臓は大部分が嚢胞で置き換わっていたような状況であった。
(続く)



10/15(土)
雨、秋田県病院大会   県医師会いじめ・薬物乱用問題研究会(欠)
2:00起床。入浴他3:00病院着。電気設備の点検に問題ありと。ドック、各種作文、他。6:40回診他、病棟関連事務処理。10:00外科担当医から病状全体像の説明受く。事務長と電気設備の懸案対応など。14:00-17:30秋田県病院大会。懇親会はメンバーでなかったが賛助会員の代理として参加。不思議な団体だね。県医師会いじめ・薬物乱用問題研究会もあり、興味あるも欠席。18:50病院。紹介状返事残務処理ほか、20:00帰宅、20:30就眠。

2005年秋田県・メイヨークリニック国際医療シンポジウム(3)私の質問内容
 川嶋先生、貴重なお話ありがとうございました。私は米国の医療事情を聴いたり読んだりしても、どうして理解出来ないのが医療制度、保険制度のことです。
  先進的医療を担う臨床医、一般大衆、米国医師会の方々は自国の医療制度に関してどう考えているのか、お教え下さい。

 ●米国は、高度の最新の医療の分野などで世界をリードし発展させてきたこと、同様にメイヨークリニックも高水準の医療、教育、研究を行っていることはよく解りましたが、そのような先進的医療の恩恵は国民は普く享受出来ない医療保険制度のように感じられます。その実態はいかがでしょうか。また、この点について特に大規模病院の臨床医は、医療倫理の面からどのようにとらえているものでしょうか。
 ●米国では健康保険未加入者が都市部では
30%にも達するいるといわれ、いろいろな悲劇も生んでいます。米国は個々人の人権が主張され、また、尊重される国と感じておりますが、一般大衆はこの差別が大きい医療保険制度についてどのように考えているのでしょうか。クリントンが皆保険制度を叫んだときに、大衆は国の統制を受ける事を嫌い、現状の方を選択したのでしょうか。
 ●米国の医療は我々から見れば著しく不平等に見えますが、この不平等こそが米国では平等なのかもしれません。その場合、誰しもが持っている命の大切さ、そのことに最も敏感であるべきと思われる医師集団である米国医師会は医療を受けたくとも受けられない現状をどう考えているのでしょうか。

 時間の関係で残念ながら充分討論できず、明快なお答えは得られなかった。懇親会への出席を勧められたが、1時間も進行が遅れていたために私は充電が必要な状態で、急ぎ帰宅した。しかし、出席すべきであった、と反省した。


10/14(金)晴れ→雨 患者家族と面談  秋田大学学長・病院長訪問 法人理事会
2:30起床、昨夜は何も仕事も持たずに直接帰宅したので若干の業務、入浴等だけで3:30出勤。ドック判定総括x1。紹介状2部.本日の会議の下調べ、資料検討。6:10回診、紹介状+主治医意見書、その他。外来なしで若干余裕。14:00家内冠動脈撮影。所見無し。負荷心電図の所見は何か?秋田大学医学部長・病院長を訪問、50周年記念行事への招待状手渡す。出席は望み薄。回診等、18:30-19:00法人理事会、21:20帰宅、21:40就眠。

2005年秋田県・メイヨークリニック国際医療シンポジウム(2)非常識な地元の演者達
 「病める人に必要なのは、真に思いやりのある心遣いなのです」The best interest of the patient is the only interest to be considered(William J.Mayo,MD 1861-1939)。実に素晴らしい言葉である。この精神がクリニックでは脈々と生きていると言うが、3000人の医師、4万人に及ぶ職員に対する院内の教育はどうなっているのか、知りたいものである。私どもの病院は500人ほどの職員数であるが、創業の精神は徐々に薄れつつある様に思われ、医療従事者としての倫理観の向上・維持教育のあ
り様は病院運営上、懸案の一つである。

10月13日のシンポジウムではメイヨークリニックから招聘したお二人の教授の講演の前に8人の演者による視察報告・部会報告がなされた。彼ら全体に与えら得た時間は40分、すなわち一人5分である。しかし、何処で展開された報告は内容は別にして時間的には非常識きわまるものであり、各人の立派な報告書は予め配布されているにもかかわらず10-15分も時間を占拠した。私は呆れかえり聴く意欲を喪失、微睡むこととなった。

 お二人の教授の講演は素晴らしいものであった。
 ●Robert L.Fryeメイヨークリニック内科学教授は「メイヨークリニックにおける患者中心の医療」と題して創業から現在に至るまでのクリニックの足跡、医療倫理等の院内教育の話し、等について講演した。最後の言葉は「患者が求めるものこそ、最も大切なことなのです」と結んだ。同時通訳付きで私にもかなりの部分理解できた。
 ●川嶋 明メイヨークリニック放射線科学教授は「米国に於ける医学医療の現状と課題」と題して米国の医療の光と影について講演した。

 何れも大幅な時間の遅れを意識しての講演となり、わざわざお出でになったのに、実にお気の毒であった。私は川嶋教授の講演に対してフロアから意見を述べ、質問する機会を与えられていたが、時間の関係で用意した質問の一部しかできなかった。
 あまり非常識な演者に対しては、司会者は警告を発するとか、マイクの電源を切るなどの強権が必要である。


10/13(木)快晴  土崎公民館講演    医療評価受審検討委員会    秋田県国際交流事業メイヨークリニックとのシンポジウム
1:30起床、ドック判定x1。紹介状・総括等、徒然。5:10病院着、6:30回診他病棟業務。9:00-12:45外来。13:30-15:00土崎公民館しおかぜ大学講演、16:00-17:00医療評価会議受審委員会。18:00-21:45秋田県国際交流事業メイヨークリニックとのシンポジウム。フロアから発言の機会が与えられたが視察団各演者の非常識な長話で折角の講演も討論も時間不足に。懇親会は眠くて欠席。ちょっと自覚を欠いたかな?? 22:00帰宅、夕食。22:40就眠.

2005年秋田県・アメリカのメイヨークリニック国際医療シンポジウムを聴いて(1)
 秋田県では昨年から5年間の予定で、メイヨークリニックとの医療提携事業を開始している。何でメイヨークリニックと?? その詳細ないきさつは私には分からない。われわれ秋田の医療関係者が参考にするには相手はあまりにも巨大過ぎる様な気がしてならないが、一つの理想の姿を学ぶ事は、似たような相手から学ぶという中途半端な試みよりは遙かに、遙かに価値があると思う。

 メイヨークリニックは約140年の歴史をもつ世界的に名だたる医療センター。年間50万人の患者が訪れ、約3000人の医師と4万人もの従業員を擁し、その年間の予算は秋田県の歳費よりも多い7千億円超という。全米の医師の5%は同クリニックで研修を受けているとのことである。
   クリニックのあるロチェスターはミネソタ州の農耕地帯の人口10万人ほどの小都市。140年ほど前?メイヨー医師が診療所を開設し、二人の息子や優れた協力者を得て、礎がつくられた。
 同クリニックの発展の源泉は、患者中心の医療すなわち患者支援を実践し、基礎科学の研究と従業員への教育を怠らず、その成果を臨床現場に反映させるという努力を今日まで営々と続けてきたからだとのことである。

 何か、私どもの病院の歩みと似ているように思う。スケールは勿論ゾウとアリほどの違いであるが医療の原点はそこにあるのだと言うこと、共通の医療理念を再確認出来たことで、私は同クリニックに対し親近感を抱きつつ招聘教授の講演を聴いていた。

 今年の事業は、本日開催の「招聰医師による臨床セミナー・公開シンポジウム」、県内の医療関係者を同クリニックに派遣して看護、薬剤、放射線検査、理学療法の現場視察が企画された。後者である視察団の一行は去る9月19日から3日間、大変多忙な日程をこなして帰国したと言うが、一行の出発時は羽田までは私も同じ飛行機であった。その時はなぜ県医師会に誘いがなかったのか、疑問を抱いたが、今回は医師は視察団員としては対象外となっていたのだという。
 (この項のクリニックに関する記述部分は、この事業の政策顧問である加藤秋大名誉教授の「はしがき」を参考にさせて頂きました)


10/12(水)晴れ  医師会常任理事会
2:10起床。遅れつつあったドック判定総括を4人分一気に処理、時間に追われ地獄のような早朝.徒然。5:20病院着.6:30回診他病棟業務、9:00-14:00外来超混雑。15:00病棟処置。16:30医師会打合せ。17:30-20:20県医師会常任理事会、長丁場の会となる。病院に。22:00帰宅、22:30就寝。

犬山方面への私用旅行(3)  日本モンキーパーク(愛知県犬山市)
 日本モンキーパークは、「世界サル類動物園:組織名(財)日本モンキーセンター」と「遊園地」からなる複合施設の全体を表す名称とのこと。名鉄(名古屋鉄道)が経営するアミューズメントパークであるが、設立当初から日本の霊長類研究の最先端の施設として発足し、その後も京都大学霊長類研究所と深い関係を持ちながら今日に至っている、というアカデミックな施設。

 パークの開業は昭和31年(1956年)で昭和44年に京都大学霊長類研究所が隣接地に設立された。「霊長類学」の創始者の一人といわれ霊長類研究所の助教授、教授を歴任した京都大学の河合雅雄先生が、この日本モンキーセンターの設立に尽力した関係から、この地に霊長類研究所が作られたとのこと。サルの研究といえば、京都大学霊長類研究所が世界をリードしていると言う評価は良く聞く。

 遊園地と動物園はよくある組み合わせで、秋田市の大森山動物園もこれに類するが、ここは名が示す如くサル専門の動物園で世界的規模で見ても屈指のサル類専門動物園。 公式HPによると「世界で唯一のサルだけの動物園」で、サルに関する総合的な調査研究、野生ニホンザルの適正な保護繁殖を目的に設立され国内外から高い評価を博していると言う。

 私はかねてから機会があれば一度は訪れたいと考えていた。そのルーツはここの創立者の一人である河合雅雄先生の著作の一部を読んだときからで、もう30年にもなるのだろうか。その当時、名古屋で臨床血液学会が催されたとき、犬山の地を訪れ国宝犬山城、明治村に行ったが、そのときは数人連れで来たために日本モンキーパークには行けなかった。
 毎日毎日人間に囲まれ、対人間に疲れ果てているせいか、無性にサルに会いたくなった。人間に一番近い「サル」の表情や生活を通し、社会とは?、人間とは?をもう一度考えてみたいと思っていたからである。


10/11(火)曇り 管理会議 常務会 療養病棟判定会議(欠) 長副会議 医局カンファ(欠)
 1:30起床,ドック判定総括x1. 書類処理、徒然、5:20病院着.6:30回診他、定期処方箋発行。8:00管理会議。9:00-13:50外来、家内運転免許更新後入院。15:30-16:10法人常務会,16:00からの療養病棟判定会議は欠席した。17:00-19:30長副会議。医局カンファは「小児の痙攣」(欠).市医師会理事来訪、ペンリレー原稿について不遜との抗議。入院患者処置、重症者回診、21:15帰宅、 夕食、22;00就寝。

犬山方面への私用旅行(2)   寂れた名古屋小牧空港に驚く
 CRJ機は徐々に高度を下げながら名古屋市街上空を低空で通過し名古屋空港に向かう。名古屋空港ははかつては国際空港として中部地方の玄関口で多数の発着便があったから、これだと大阪伊丹と同様、住民への騒音公害もさぞやひどいものだったろう、だから大阪が関空に、名古屋が中部国際に移転したのも当然か、と思ってしまった。

 着陸後周辺を見回すと確かに広い空港だ。
滑走路の反対側は従来からの自衛隊小牧基地になっており、C130などが何機か駐機していた。折しもその近くでは航空ショウのようなエベントの日らしく滑走路のスミには中・小型機、自衛隊機が10数機置かれ、その周辺に千人ほどの人影が見えた。残念、予め知っていたなら・・と思った。
 駐機場に向かうが、見わたしてみても殆ど飛行機がいない。秋田から到着のを含め、僅かに3機のCRJ型機がいたのみ。ビルのそばまで機が行き、そのまま歩いて入り口に。

 ターミナルビルも寂しい。路線図を調べたら何と、今は大部分が2月に開港した中部国際空港発着となり、
小牧空港を使っているのは、JALだけで秋田、帯広、山形、新潟、松山、高知、熊本間の便しかないようだ。しかも殆どすべてCRJ機である。名古屋空港はほぼCRJ機専用の空港になっていた。
空港ビルも土産物屋、食堂は殆ど閉鎖になっておりJALのカウンターと土産物屋と軽食コーナーだけで実に閑散としている。

 空港から名古屋、犬山に向かうアクセスも良くなく家族4人が移動するには便利なものがない。タクシーで犬山に向かうが運転手さんが「名古屋空港はかつてはあふれんばかりの乗降客がいたのですが、今や50人乗りの小型機のみになったので、からきし商売になりません」と寂しげであった。


10/10(月)体育の日 名古屋地方雨 秋田晴れ、曇り   
2:30名鉄犬山ホテルにて起床、李 啓充著「市場原理が医療を滅ぼす--アメリカの失敗」を集中して読む。5:00-7:00入浴+微睡など、8:30葉っぱとコーヒー中心に朝食,9:45ホテル発、特急にて中部国際空港セントレアに。13:20ANAにて秋田に、737型機。15:00病院、回診他、18:00帰宅、夕食、20;30就寝。

犬山方面への私用旅行(1)  CRJ(カナディアン リージョナル ジェット)に初めて乗る
 10/9-10/10は久々の私的旅行。昨年は台風22号の急接近のために中止・延期になった新潟大学の同級会出席がメインである。出席は春に決めていたが、時間的余裕が無く10月に入ってから慌てて動き始めた。
 空路を極端に嫌がる家内が、何故か、今回は簡単に同意し、確保し難い秋田-名古屋便が運良く往復とも確保出来た。これで坐骨神経痛で悩む私もかなり気が楽になった。今年は我が家にとって特別の旅行になるだろう、と言うことで、関東在住の長女・長男も合流する計画となった。次男は私の不在中の患者の対応を引き受けるという形で参加した。

 8:50秋田空港からCRJ-200型と言う小型ジェット機に初めて乗り名古屋小牧空港に向かう。
 CRJはカナダBONBARDIER社が開発した短距離向け双発ジェット旅客機。胴体尾部にターボファンエンジンを2基設け、初飛行は1991年、1992年から量産されていると言う。50席という小振りなキャパシティによってボーイング737などでも採算が合わない地方路線でも採算に乗せられる高い経済性を基本に、最新の航空技術、操縦システム、安全配備など装備し、低騒音、高い安全性、居住性などが注目され、世界の航空会社で多くの実績を積み重ねている航空機という。
 日本では、100型と200型がIBEXエアラインズとJ-airで運航されている。

 私にとって初めての搭乗で、今まで経験した中では最も少ない客席数の小型の機体。フランクフルトからワルシャワに移動した際の小型機は結局機種名を知ることは出来なかったが、それでもこれよりは大きかった。CRJに乗ってみて驚いたのは全席「革張りシート」であったこと。ただ、シート自体の厚みはややうすめ。客室はさすがに狭いが座席は通路を挟んで左右とも2座席。横幅は丁度新幹線こまち並。こまちと異なり筒型だからかなり狭い感じを与える。シートの前後間隔は中・大型並が確保され短時間なら十分耐えられる。滑走、離陸はさすがに軽快、揺れも振動も小型機らしく小刻みである。
 客室乗務員は一人と助手一人のみ、飲み物等のサービスは一切無し。着陸・離陸時の乗客の世話だけと、考えようによっては単純明快だが、客室前方に客側を向いて座っている乗務員は終始表情を崩すことなく緊張した面持ち。これじゃ顔が疲れるだろうな、と思いながら、機能的な移動の70分を比較的良い気分で過ごし、10:10小牧空港に到着した。


10/9(日)晴れ 犬山市へ 日本モンキーパーク+国宝茶室「如庵」訪問  新潟46同級会参加   
2;00起床.ドック判定総括x1他。講演原稿書き若干。4:00-7:00病院で回診等不在前の業務、主に留守中に予測される業務の対応。7:20帰宅、7:45自宅発、北インター→空港へ。8:55JAL名古屋に、50人乗りCRJ機。10:10小牧空港着。長男長女と合流。Taxiにて犬山に。軽食後11:30-16:30日本モンキーパーク+国宝茶室「如庵」を訪問。名鉄犬山ホテルチェックイン。若干まどろむ。18:30-22:45新潟46同級会。23:00就眠。

母と自分を語る(7) 母の最後の失意は右手首の骨折で生きる意欲を失う
 ある日は母は全身倦怠感、食欲不振等の体調不良を訴えたために秋田に呼び寄せた。父は秋田駅迄母を送ってきながら駅を出ることなくそのまま盛岡に帰っていった。母は全身的にも疲弊した感じ、いかにも怠そうなイメージで球結膜は深く黄染、全身的にも黄疸が認められた。かねてから肝嚢胞症を中心とする全身臓器の嚢胞性疾患であることは把握していたが、来秋時は殆ど肝不全を思わせる様な病状であった。
 翌日秋田組合総合病院に入院、主治医の家内の下で療養となった。一進一退であったが自覚症状も改善しそれなりに良好な状況で維持されていた。
 ある朝、トイレでめまいがしたのか詳細はわからないが倒れたらしい。それほどひどく倒れたとは思われず、右手で身をかばったと思われる倒れ方だったのだそうだ。それほどの外傷もなかったが右手首付近に疼痛を訴え、整形外科で骨折と診断され、ギプス固定された。
 母の様子が変化したのは手首に骨折があったと伝えたときから始まった。それまでの通常のごとくに見られた闘病意欲を完全に喪失、あるいは放棄してしまったらしく、表情も乏しくなり、殆ど発語もなく、笑顔を見せることもなくなった。また、食事摂取を全くしなくなった。こちらの言うことには正確に答えていたが、食事摂取、点滴維持、中心静脈栄養の説明に関しても頑として同意することはなかった。
 私はその時点で母は軽い外傷で骨折を来したことを契機に生きる意欲を失ってしまったと理解した。


10/8(土)雨 
 2:00起床、ドック判定総括x 1、自治医科大学問題、院外処方、その他についての論説を読む。家内も眠らず。5:30病院着、事務処理、6:30病棟回診他、業務種々。14:00病棟新入院患者家族と面談。18:30帰宅、夕食、20:30就寝。

太閤記の7病
 太閤記には悪しき政治家として次の7項目をあげている。
(1)才能あるが、物事を突然思い立ち、一方で自分に都合悪いことは引き延ばし、欲深くえこひいきである。
(2)勇敢でまじめだが、才能を誇るあまり自らの過ちを隠さざるを得なくなる。
(3)政治がわかるふりして他人の意見を聞かない。
(4)辛口の意見を聞かず、取り巻きの都合の良い意見のみを取り上げる。
(5)外見のみを重んじ、公私混同する。
(6)尊敬されたくてこまめに立ち振る舞うが裏では偽りが多い、
(7)お金の出し惜しみをして逆に大きな損失を被ることがある。

 足軽から頂点を極めた秀吉は周囲からの軋轢がかなりだったと思われるし、苦汁をなめたことも多かっただろう。だからこそ人を見る目も人一倍養われたのだろうと推察されるが、その立場の人があげた項目にしてはあまりにも単純、不変すぎるような気がしてならない。こんな程度のことは誰でも挙げられるのではないのだろうか。また多くの人たちが記述しているのではないかと思う。

 これは秀吉の問題ではない。要するに、何時の世でも基本的には人間の心理の深層は同じなのだと思う。だから、誰が挙げても似たようなものになるのだ。歴史は人間がその置かれた環境によってどう行動するのか、その普遍的姿を教えてくれるからとても面白いし、役に立つ。
 文明が発達し、生活が豊かになって、より近代化したとしても人間そのものはちっとも変わっていない。だから、秀吉が挙げた上記の項目は現代でも十分通用する。むしろ最近の問題点は不変である人間にとって生活環境があまりめまぐるしく変化していくため、順応していけずに小児、少年少女、青少年のいろいろな問題点が生じて来ているのだと思う。

 私は長年の夢の一つであった犬山のモンキーパークに今日行ってみるつもりである。京大霊長類研究所にも出来ることなら訪問してみたい。人間と文明・文化とかの関連、人間の在りようについて、何か掴めるかもしれない。


10/7(金)曇り→雨  上部消化管内視鏡  患者家族面談
1:00起床、寝不足感あり。ドック判定総括x1.徒然。家内もほぼ徹夜。5:10病院着、6:30回診他、病棟業務。8:30上部消化管内視鏡を当院で受ける。9:00ドック説明x1他。10:30-12:00体調不良で坐位のまま仮眠とる。グルカゴンのせいか。13:30ドック診察x5.カルテ記載数冊まとめて行う。15:00入院患者家族と面談、10月9日の不在時の対応、申し送り準備、その他。20:50帰宅、夕食、22:00就寝。

MRI、 上部消化管内視鏡検査
 今朝は私にとっての2回目の上部消化管内視鏡検査であった。間接撮影と言えども胃透視で隆起性病変の疑いであったので厳しい判断がでてもしようがない、と覚悟の上で受ける。
 初回は約2年前、家内にやって貰ったがこの時は咽頭部に若干違和を感じただけであったが、今回は若干胸部に強い異物感を感じたが苦痛というほどのものでは無かった。前処置が前回に比して簡素であったためと思われるが、それでも咽頭反射、吐き気等は一切無く特別苦痛とも感じないまま短時間で終了した。私はこのあたりは鈍感なのかも知れない。結果は医学的な表現は一切なく、「管理職の胃とは思えないような綺麗な、若々しい胃です」という検査医のコメントであった。と言うことは所見無しと言うことだろう。短時間で終了したことからもまず異常なしで一件落着。

 MRIの放射線科医の読影による所見用紙が届いていた。予想通り変形性脊椎症とL4-L5間のヘルニアとのこと。その他に随伴的所見としてL2椎体の血管腫の指摘があった。症状は相変わらずであるが画像上はそう重症な所見では無さそうで若干安堵。後は症状の消長を経過見ながら整形外科医に相談することとする。
 
 この際、ここまで諸検査を受けたからついでに24時間心電図もやってみるか・・と思い始めた。検診の心電図では今まで不整脈の指摘は一度もないが、数年前からの不整脈が最近は単なる期外収縮のレベルを超えて発作性心房細動になっているような気がする。だとすると立場上、治療も考慮すべきだろうか、と考え始めた。最近の我が家は夫婦揃って健康面では悲喜交々である。


10/6(木)快晴  市保健所立ち入り検査  中通看護学院戴帽式
1:30起床。ドック判定総括x1。紹介状への返事。徒然。最近、ここ一週間ほど家内は私の出勤時間まで付き合ってくれる。5:15病院着、6:30回診他病棟関連。9:00-12:50外来。13:00-16:50秋田市保健所立ち入り検査。医療安全の部分で調査を受け、その後は待機、講評にて終了。挨拶を求められていた中通高等看護学院戴帽式は欠席。病棟重症患者対応他。20:30帰宅.21:00就寝。

医局会:宮城県民医連への医師支援 院長コメント
 10月4日夕方の医局会のメインテーマは宮城民医連への医師支援関連。
 泉病院院長の今田隆一先生が来訪され、医局会で医師支援要請に関して医局員に他では聞くことの出来ない状況を直接説明された。支援を求めてる医療機関にはそれなりの深い理由が存在する。だから、病院の管理を担っている立場からの本心を言えば私自身が問題点の勉強を兼ねて支援に行きたいほどである。しかし、今となっては叶わない希望である。

 説明を受け、2-3の討論の後、医局長より院長としてのコメントを求められた。
<院長コメント>
 今田先生、本日は大変ご苦労さまでした。通常では聞くことの出来ない貴重なお話を伺い、院長の立場で改めて大変勉強になりました。
 私自身、過去に東葛病院、岩手の川久保病院の支援に2-3週間ずつの短期間ではありましたが行きました。経営困難に陥った医療機関に実際に滞在し、診療を支援しながら内部を見渡しますと、様々な実情が見えてきます。
 いずれも病院運営上では悲惨と言っても良い状態で、経済的破綻の目前にして展望を失った職員が次々を去ることでさらに経営状態が悪化すると言う悪循環に陥っていました。しかし、残って医療活動を展開していた職員達の表情は決して暗いものではなく、再建の熱意がみなぎっていたことが大きな印象として残っております。患者からの支持も十分に感じられました。垣間見た職員間の討論からは私も多くのことを学ばせて頂きましたが、支援の経験はその後の私の医師としての過ごし方にも大きな影響をもたらしたと思っております。
 マンパワーが不足して運営が困難になった状況は、病気に例えますと薬物に反応しない貧血、血小板不足の状況に似ています。そこでは輸血以外の方法で危機を回避することは出来ません。今、宮城民医連はそのような状況に陥っていまから、マンパワーの支援以外では方法はない状況と考えられます。
 既に沖縄、九州方面からも支援が行われている状況で、同じ東北北海道ブロックの医療機関の一つとして、また日頃からACLS研修とかでいろいろお世話頂いている宮城民医連の苦境に対して決して無関心ではいられません。
 支援には多大な犠牲もあります。決して秋田民医連でもマンパワーに余裕があるわけでもありません。その中から何とするか。私自身の考えはおわかり頂いたと思いますが、支援に関する基本的な判断は医局の諸先生方の討論にゆだねたいと思います。今後討論を深めて担当である副院長に意見を集約して頂きたいと思います。
 改めて今田先生にお礼を申し上げ、院長の立場でのコメントと致します。


10/5(水)小雨 医師会打ち合わせ 患者家族面談    腰椎MRI 針治療
1:30起床。ドック判定総括x1、他。医事法制勉強若干。5:20病院着.6:20回診等病棟関連業務。9:00-14:00外来、15:00入院患者面談、17:00腰椎MRI、19:40針治療。20:40帰宅、21:20就寝。

腰椎MRIと針治療初体験  MRIの最中熟睡 
 本日夕方、腰椎MRIを初めて経験した。騒音が嫌いな私にとってあの轟音は耐え難い、吃驚した。工事現場さながらである。共鳴するのか何か解らないが、痛いところがますます痛くなる感じである。が、数分もすればこんなものかと慣れてしまう。お陰で約20分のうち大部分の時間熟睡できた。所見は専門医による詳細な検討はされていないから解らないが、一見する範囲では加齢による変化はそれなりにあったが、ヘルニアの所見などの著しい変化はないようである。

 それにしても、あの轟音の中でも無為な時間があれば熟睡できる私はハッピーだと思う。そう言えば、数ヶ月前私が寝込んだ後に家内の姉妹が集まり我が家で合唱の練習をした。「藤原三代合唱団」として親族中ではちょっと知られた集団である。しばし練習後、編曲等で意見が合わずに大げんかまでした、と聞いているが、同じ居間の片隅で寝ていた私は全く気付かなかった。あの三人なら工事現場並みだったはずである。私は翌朝テーブルの様子で就寝後に来訪者、あの合唱団?、と察しただけである。

 MRI施行中に、一人の放射線科科長に見つかってしまった。この医師は漢方とか針治療を得意(?)としている。「ナニ、腰痛? ならば針だね。終わったらやってあげるよ」と気軽なモンである。運の悪さを嘆いてもしょうがない。言い訳して逃れるのも面倒だし、面白そうだし、覚悟して受けた。極細の針が手の甲に数本、足の甲に数本、ポイントと思われる場所に打たれたが、刺入時には蚊に刺されるほどの痛みもない。10分ほどで抜去、良い経験したが、効果もそれほど無かった。

 相変わらず左下肢に疼痛・しびれはあるがあの所見では大したことも無かろう、と次の懸案に向かう気持が沸いてきた。明日は保健所の立ち入り検査がある。明後日は隆起性病変の疑いで上部消化管内視鏡を受けるぞ。結果や如何に、これも楽しみである。


10/4(火)雨 患者面談 法人常務会 医局会   
1:30起床。ドック判定総括x1、他いつもと同じパターン。5:15病院着.6:15回診、定期処方箋発行等。病棟業務。9:00-13:20外来+ドック説明x1。13:30当院の医療に疑義持つ患者さん来訪、対応。14:30-17:00法人常務会.17:30-19:00医局会議。20:40帰宅。21:20就寝。

院長職の重さは何Kgか? 坐骨神経痛様症状で明日MRIを受けてみる
 数週間前から左の下肢の屈側側、すなわち後方に鈍痛が走るようになった。いわゆる、坐骨神経痛様の症状である。一番の苦痛点は左の臀部外側。そこから大腿後部、脹ら脛後方にも痛みとしびれがある。腰痛などの場合には何らかの原因となる事象があって発症するが、今回は別に原因となる要因に心当たりがあるわけではない。ヘルニアでも?と思う。

 かねてから時々腰痛を経験することがあったが大体は一週間程度で改善、消失するが今回はもう三週間も続いている。アキレス切断縫合手術以来の整形外科主治医に相談、L4-L5あたりの腰椎ヘルニアの疑い、と言うことで明日MRIを受けることとした。どんな画像がでてくるのか??症状はバッチリあるのだから、今更じたばたしても始まらない。結果が楽しみでもある。

 腰椎ヘルニアとすれば原因は何だ??と考えても出てくるわけではないが、院長職の責任の重さのせいかな??等と考えてしまう。従来は60Kg程度の人間を背負って歩いても何とも無かったことなどを考えると、担っている職責を重さで表すと100Kg程度なのかな??と考えて一人で笑ってしまう。

 勿論、職責には辞令の紙の1gほど以上の物理的重さはあるわけではないが、体調に関して言えば、かつてならこの程度の症状なら多分それほど深刻に考えず、検査も受けずに過ごしたであろうが、今回は自分から積極的対応を考え、求めるようになった。
 体調一つでも私的なことと勝手に考えてはいられなくなった。立場上の責任感がこの様に行動させるのであろう。私的な価値判断以上の事を取り入れることの容認、このこと自体が真の職責の重さなのであろう。
 今週金曜日には胃の検診で指摘された隆起性病変なるものの確認のために上部消化管内視鏡を受ける。嫌だ、というより甘んじて受けよう、との心境である。これも変容の一つだね。


10/3(月)曇  管理会議  21世紀の医療を良くする会打合会  療養病棟判定会議  長副会議 県議会議員のとの懇談会(欠)
1:30起床。ドック判定総括x1、総括、紹介状、その他。5:20Taxi病院着。ここ一週間ほ13:00-14:15「21世紀の医療を良くする会打合会」、16:00-16:40療養病棟判定会議,17:30-19:20長副会議,懸案事項多数。20:40帰宅、夕食、21:40就寝。

10分違いで羽田まで2便!!   往路復路の値段差7000円もちょっと割り切れない
 10/1東京に出張したが、私が利用した14:10ANAの10分前にJALが羽田に向けて出発した。通常この時間帯に利用することが無く、こんな時間配分になっているのは今日まで知らなかったが、実に無駄である。驚いた。

 お陰でANAは搭乗率40%前後で、特に私の好みの後部座席はガラガラで実に快適であった。時間表を見ると羽田から秋田に向かうこれらの便は5分違いで出発することになっている。東京-羽田便は一日8便しかないのに、実に不思議な無駄に見える時間表である。もう少しANA-JAL間で調整すればいいのに、と思うがライバル社同士だしダメか? 一方、羽田の発着枠の問題、機材繰りの問題などもあるから調整はしても事はそう単純ではないだろう。もともと利用者が少ない時間帯だけに、燃料消費。排ガスなどを考えればもうちょっと何とかならないかと思ってしまう。

 秋田市の大病院間の救急体制の連携がもっとスムーズであれば、もっと機能的に対応できるし、患者さん方にとっても随分良いのではないだろうかと、先に飛び立ったJALを見ながら、つい考えてしまった。
 
 ところで、往路のANAは特割り搭乗券で13200円で、機種は余裕のある広胴型の767-300型で、ガラガラで快適であったのに対し、復路のJALは普通運賃22800円で、狭胴型のMD-90型で満席でやや不快。
    飛行機は値段と快適さは必ずしも相関しない。座席等の状況は乗るまで分からないし、また揺れるか否かの状況は出発しなければ読めない。これが辛くもあり、また、愉しくもある。


10/2(日)東京快晴 秋田雨  日本医師会臨時代議員会  
2:00浅草ビューホテルにて起床、持参のドック判定総括x1、紹介状仕上げ、ラジオ聴きつつ読書、 作文、新聞チェック、ほか。7:00葉っぱとコーヒー朝食。8:45ホテル発日本医師会館へ。9:30-16:30日本医師会臨時代議員会、内容的には弛緩した会となった。高齢の議長、執行部のしまりのない答弁にも問題がある。18:10JAL   MD-90満席で苦しい。20:10帰宅、業務若干、夕食など、22:00就寝。

母と自分を語る 母の最大の失意は心の支えの長男、次男を失ったこと(6)
長男の次ぎに次男の私
 母は改姓と言うことで自分のもとを去った長男を、死別と半ば同じ、と無理矢理自分を納得させていた。多分、間違いではないと思う。改姓したからと言って何ら変わりが無いという説得は全く無駄であった。母は気の毒なことに、何かを思いこむとその考えに深くとらわれ、改めることが出来ない女であった。

 兄の問題の次ぎに母にとって問題になったのは私の秋田への転居である。医師として何れは宮古病院を去りいずれかの大学で勉強・修練する必要があることは伝えてあったが、結果的に秋田大学を選択したことは母にとって大きなショックであった。家内が秋田出身であることから、兄同様に息子を秋田に奪われるが如くの感覚でとらえてしまった。学びと育児を両立させられる、願ってもない恵まれた道として私は秋田を選択した理由であるが、母は説明の度に表層的には解った様な表情をしてはいたが、最後まで決してその様には理解していなかった。

 如何に母が感じ、思い込もうと、嘆こうと、私の選択は変えることなど出来なかったが、如何にして母の気持ち、嘆きに報いるか、はいつも私の心の隅にあり忘れることはなかった。そのため、私どもも頻繁に盛岡に訪問し、頻繁に秋田に来て貰い、共に生活する時間を増やし現実を体感して貰うことであった。

 孫である長女と共に過ごすのを無常の喜びにしているように見えたし、長男誕生の折りには「良いものを付けて生まれてきたね」とことのほか喜んでくれた。時間と共に母は私が秋田に居を構えていることに対する不満は消えつつあったように思えるが、その際、私も彼女にとって兄同様に半ば死別に等しい存在だったのか?あるいはついに容認したのか、それについては私は今もって判断できていない。
 


10/1(土)秋田雨 東京快晴 東北医連打ち合わせ会議 
1:30起床、ドック判定総括x1、主治医意見書、紹介状。5:10病院着、6;30回診他。病棟業務。50周年記念パンフ用挨拶文完成送付。書類処理、10:30外来に行くも本日より週末は外来からはずれていた。自分の腰椎、他撮影するも一見何ともなし。12:45病院発、14:10ANA羽田へ、767-300,搭乗率40%ほどで後部はガラガラ。京急→地下鉄にて九段下ホテルグランドパレス。18:30-20:15東北医連打ち合わせ会議+情報交換会。浅草View宿泊。21:00就寝。

サンスイのプリメインアンプ「Au-α907i  MOS  LIMITTED」が故障、白煙
 今はサービス部門しか遺っていない古のオーディオメーカー、サンスイKKの製品で、名機の一つと言われた「Au-α907i  MOS  LIMITTED」が先週の土曜午後、使用中に「バチン・バチバチ・・」とかなりの音と底部から一瞬の閃光を発した。発火したわけではないが、その後、底部から若干白煙が生じ始めた。すぐに電源を抜き約一時間観察したが進行性の変化はない事を確認した。私自身は事の成り行きにがっくり落ち込み、帰宅後すぐに毛布をかぶって寝てしまった。

 ゆっくり考えたが、このアンプはもう再起不能だろう。故障のレベルも電気製品としてはただごとではなかった。単に保護ヒューズが飛んだレベルではない。非常に名残惜しいが、10数年前の製品だし、今回は修理の問い合わせもせずに引退させることにした。

 このアンプの音質は立ち上がりが良いというか、アタック感もすごくて中高音部が前に出てくるタイプであった。パワーはすごいが低域はなんか不満。 中域が抜けてボーカルが引っ込む。高域もシャンシャン、ギラギラと響いてちょっとうるさい。自宅のタンノイとは全く相性が良いとはいえず、医局のケンウッドのスピーカーでは連日よく働き心地よく鳴っていた。
 このままアンプ無しというわけにはいかないので、とりあえずソニーの、これも20数年以上前のラジカセにサブウーファーを付けて使っているが、不満。

 私は昭和47年、セパレート型のオーディオ製品にグレードアップした。アンプはサンスイプリメインアンプとし、つい10年ほど前まで、特別の不満もなく約20年間も使用していた。さすがに接点、ボリュームが劣化して使用に耐えなくなり処分したが、そんなこともあってサンスイ製品は私にとっては馴染みである。

 今回故障した製品はかなり高価なものと思われるが詳細は知らない。元同僚が東京では使えないからと私に置いていってくれた製品群の一つで、ありがたく押し頂いて大切に使用してきた。彼が残していった高価な製品のうち、修理不能であったソニーの高級CDプレイヤー、NAKAMICHIのカセットデッキと共に三つの名器が私のもとで機能の終焉を迎えた。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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