徒然日記
2005年8月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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8/31(水)曇、晴れ   患者家族面談  患者サービス委員会 
2:30起床。さすが若干寝坊。ドック判定総括x1、他。家内帰らず。病院で寝込んだ??ならば早めに出勤。4:10病院着.紹介状返事その他事務処理。6:20回診等。9:00-14:15外来+ドック面談診察x4。15:00入院患者家族と面談2件、16:00-17:00第8回患者サービス改善委員会。20:50帰宅。夕食、21:20就寝。

THE YAMAMOTO BAND  忘年会用のアンサンブル
 昨夜は「THE YAMAMOTO BAND」の初練習日。19:00-21:30まで秋田県民会館隣のジョイナスのスタジオを借用しての会合。確かに防音とかしっかりしていないところではとても練習にならんだろう。その意味では良い練習場であった。

 まだ8月であるが、なんと、12月の忘年会の出し物のための練習である。曲目は「神田川」「悲しい色やねん」「夢のカリフォルニア」「その他」。楽器はヴァイオリン、エレキギター、アコースティックギター、サックス、キーボード、果てはコンピュータ音源、津軽三味線まで持ち込んでの変なアンサンブル集団。更にボーカルまで上乗せする。メンバーは秋大の循環器系の教授お二人、近郊の病院の循環器科長、私と同級の循環器系の診療所院長である。今後更に数人が加わる予定。

 私にとっては狐につままれたような変な集団であるが、これは昨年の秋大心臓血管外科医局忘年会で行われたミニコンサートの、酒の席で急遽決まったアンサンブル。一昨年の忘年会での席でのちょっとした話が実現して昨年は忘年会がミニコンサートとなったが、更にその席での夢語りがこういう風に実現するところが凄い。あれよあれよと言っている内に初練習日を迎えた。名前は大心臓血管外科教授の名前を借用して「THE YAMAMOTO BAND」とでもしようか。最近のタイトなスケジュールの中、CDを買い込んだり、時間の隙間を見つけての練習をしてきた甲斐もあって私の下手なヴァイオリンも何とかなりそう。久しぶりにリラックスタイムを過ごすことが出来た。

 私のジャンルにはなかった曲、無かった楽器との組み合わせ。これがまた何とも心地良いものである。本番までにまだまだ時間もあるし数回の練習が組まれそうである。練習は愉しい。万難を排して参加し、少しでも良い結果を出したいものだ、と思う。これで楽しみがまた一つ増えた。


8/30(火)晴れ 医師会打ち合わせ(キャンセル) 秋田県健康づくり審議会 医局カンファ THE YAMAMOTO BAND 
1:30起床,ドック判定総括x1、 紹介状返事x1.入院患者不調で4:30病院着.6:30見送り、回診、定期処方箋その他病棟業務。9:00-13:30外来、15:00-17:00秋田県健康づくり審議会。17:30-18:30医局カンファ(AED)、19:00-21:30THE YAMAMOTO BAND初練習、ジョイナスにて。21:50帰宅。22:30就寝.

「敬老」の言葉が消えつつある  「軽老」と表現した随想には憤慨
 今は高齢化社会ではなく既に高齢社会である。日本の高齢化率も20%を間もなく超えようとしている。平成15年の秋田県では25.7%、さらに県内の郡部は42.2%に達している町村を筆頭に軒並み35%以上である。どこに行っても高齢者は多い。
 一方、殆ど見ることがないのが子供たちの元気な姿である。

 日本の高齢化率がこれほどでなかった20年ほど前まで、敬老という言葉は十分に生きており、それなりの輝きを持っていた。それが今は殆ど見ることがない言葉になってしまった。軽老なんて言葉に置き換えて茶化しているような文章にさえ巡り会うようになった。 確かに数が少なければそれだけで存在価値があり、それが何らかの機能を有していればなおさら価値が高い。かつてはそうであった。家という単位が生きておりその長としての高齢者がいたし、体力的には弱ってはいても知恵者であり、指導者であったから。特に冠婚葬祭の歳には独壇場でもあった。まさしく周囲のお年寄りを見る目は敬老であった。

 時代は変わった。単位としての家は崩壊し、家の中ですら世代が違うと全く勝手に生きている。子供たちは家にいても携帯とかパソコンとかで外とつながっている時代である。家族という単位すら影が薄い。家にある道具類、殆ど高齢者には使いこなせない。TVの録画、ご飯を炊くことも出来なくなっている。冠婚葬祭は完全にコマーシャルビジネス化されている。
 核家族化で高齢者単独所帯が大部分。別居している若い世代は健康でも害さない限り父母や祖父母のことを思うこともないだろう。 それと、今は介護の社会化が叫ばれている。確かにその意義は大きい。私も療養病棟担当者としてその一翼を担っているが、正直なところ家族の患者本人や病院、職員に対する対応には問題を感じている。 少子高齢化を経済面からだけとらえるこの風潮は日本古来の人道観・倫理観をもだめにした。


8/29(月)雨→曇→晴れ 管理会議  初期研修マッチング  療養病棟判定会議  長副会議 
1:30起床,寝不足。ドック判定総括x1、紹介状他。5:20病院着。6:20回診他。8:00管理会議.9:00-14:30外来。15:30-16:00初期研修マッチングx1。16:00-16:30療養病棟判定会議。16:30-19:10長副会議。懸案多数。再度回診、20:50帰宅。夕食。21:30就眠。余裕ない一日。

台風11号後、急に冷えを感じるようになった。ちょっと寂しい 
 例年お盆過ぎには朝夕冷え始めるのだが、今年は夏が遷延しているのか、あまり実感することなく過ごしていた。が、昨朝からは急速に冷えを感じ始めた。いつもなら最小限のTシャツ、短パン等で扇風機を弱めにかけつつ仕事するのだが、扇風機はもう不要なようである。それ以上に昨朝は半ズボン姿では寒く、腰にバスタオル巻いて仕事した。
 出勤時、外に駐車して置いた車は露のためにびしょ濡れ、座るとシートや金具がひんやりと、ゾクッとする。
 私の大好きな夏はとうとう終わりを迎えたようである。今年もまたもや夏は簡単に、かつ、短く過ぎ去っていった。夏休みもなかったし、殆どデスクワークで過ごしたからか、炎天下で汗水流す日は殆ど持てなかった。
 
 実際に秋の訪れを実際に体感したのは、先日、8月24日、東京出張で羽田行きの一便に搭乗するために6:30前に秋田空港に向かった時。秋田付近は快晴で見晴らしも良かったが、高い位置にある空港付近は一面深い霧に被われ視界が100mほどもない状況であった。緑の木々が生い茂っている景色と深い霧の取り合わせは実に幻想的。車の窓を開けると冷気が飛び込んで来た。こんな冷たい外気は今期初めてである。実に爽やかなのだが、何か寂しい。
 霧自体は7:30頃、急速に消えてまばゆい日射しが現れた。この景色の変化を見ているだけでとても良い気分である。こんな幻想的な風景を地球は数億年も静かに静かに繰り返してきたのだ、と自然の懐の深さにもしんみり感じ入った。

 機は前日の秋田着の最終便である。折り返し便なら今朝の霧では着陸は無理だったろうと思う。夜間駐機に県が決して少なくない額を負担しているが、その意味もそれなりにあるな・・と、感謝しつつ東京に向かった。
 上空からの山の木々は深く緑で、まだ、秋の情景ではなかった。当然だね、自分だけ「夏の終わりで寂しい」と騒いでいるが、実際はまだ8月なんだからね。


8/28(日)雨後快晴 FF tennis
2:00起床、ドック判定総括x1、その他作文多少、収集画像整理など。早朝から降雨あり午前のテニスは中止。9:00朝食軽く摂る。Yamamoto BandのVn練習若干、難しい。午後から快晴、13:00-16:30梅林園にてFF tennis。7-5,0-6,3-6と完敗。17:00-19:30病院、引っ越し若干、業務。19:45ハーレーにて帰宅、夕食、20:45就眠。

自伝  母を語る その生き甲斐と失意とは何だったのか
 私の目から見て母の半生は忍耐、忍従、小姑達への奉仕であった。生き甲斐は二人の息子を中心としたものであったことは容易に推測出来る。

 私の知らないこともいろいろあったであろうが、私の知る限りにおいて母の第一のショックは昭和27年の火災であった。建坪400坪ほどの大邸宅?と言っていいほどの医院と住宅は強風に煽られて完全に消失し、我が家は多くもののを失ったが、だれ一人として怪我もなかった。
 その時の状況を想い出すに、母の落胆振りは家族の誰よりも大きく、当時小学一年であった私の目には異様なほどであった。当時はそんなに深くも考えていなかったが、婚家のハード面の大きさ、長男の嫁としての日常のメインテナンスから生まれるてくる愛着心、それに将来の自分の生活を重ね合わせ、人生の一つのよりどころとして大きな位置を持っていたのだろうと思う。

 母の第二の落胆は長兄が医学部進学をやめて工学部に進んだことであった。この火災は医師である祖父にも大きな影響を及ぼした。家が消失した年は兄が高校3年であり受験準備中であったが、祖父は火災の後、それまでの方針を変更して医師を目指していた兄に自由な選択を与えた。この背景については後に触れることもあろう。兄は祖父の心変わりによって、かねてから密かに持っていた希望、エレクトロニクス世界を求めて東北大学工学部に進学した。このこともまた母にとっては大きなショックであった。夢は長兄が医師となって家業を継ぐことであったのだ。


8/27(土)秋田快晴  
1:30起床、最近起床時間が早くなってきている。ドック判定総括x1他。5:20病院着、6:30回診他。紹介状、総括などこなす。10:30-13:30外来。土曜だって言うのに何でこんなに混むんだ?と言うのが実感。後はずっと書類と格闘。遅れている東北医連の発表スライド作成すすめる。19;00帰宅、夕食。Vn若干、20:45就寝 。

ついに選挙(2) 意外と首相の思い通りになるかも
 首相にとっては自民党の賛成議員と公明党とで過半数以上取れれば、抵抗勢力は完全に排除できることになる。自民党は小泉党になってしまうだろう。翳りが漂っていた首相であるが、今回の選挙で勝てば首相は再び光り輝き、あと数年は安心して総理を続けられよう。本人は勝利しても退陣と言っているから、今回みたいに予告したとおり突然辞めるのだろうか。後継者も育てずに突然、小泉流で。

 今回の選挙を国政の私物化だ、等と批判する意見も聞かれるが、私は必ずしもそう思わない。民営化を本気で考えていれば当然の帰結だと思う。
 今回の選挙の焦点は郵政民営化に賛成か、否かということになる。今回反対票を投じた議員の中には、法案自体には反対でないが、国民への説明不足や首相の独裁的な手法、執行部の強引なやリ方に不満で反対した議員も少なくないらしい。だから、民営化法案自体は国会内でも賛意は多い、だから、選挙をすれば乗り切れる、と変人首相は読んだのだろう。
 小泉戦略が成功して、自民・公明で過半数をとり、郵政法案を再上程、成立、政権安定というコースをたどるのかも知れない。

 医療福祉関係者から見れば、命を削るような弱者切り捨てを次々に断行する小泉首相のやり方は納得出来ない。

 しかし、構造改革として主要銀行の不良債権比率は8%台から2%台に減少し、名目成長率は昨年0.8%、今年度1.3%、来年は2%の見通しとなるなど経済も回復傾向にあるようだ。他のヒトが首相になってたら今の日本はどうなっていたのか?あまりにも小泉流が強烈なので、比較なんて出来ないし、まだ先を読めない。ただ、確実に評価出来るのは外交は下手だね、ということかな。


8/26(金)雨、 県医師会打ち合わせ(略) 県医師連盟執行委員会(欠) 法人理事会            
1:30起床、ドック判定総括x1、紹介状・返事x1等.5:20病院着。6:20回診、院内紹介状、その他。10:30-13:50新患補助外来+ドック診察x5、15:00入院処置、県医師会打ち合わせ、16:30No1秋田県医師連盟執行委員会は時間とれず。17:30-19:00法人理事会。事務処理ほか、21:00帰宅。21:20就眠。

ついに選挙(1) 小泉首相は政治の在り方にも一石を投じた
 ついに選挙になった。首相が予告をしていたと言え、参議院で否決されても本当に解散にまでは至らないだろう、と大部分の議員も国民も思っていたようだ。「まさか!!」を実行する、さすが小泉流である。法案が通らなかったら解散というのは、彼にしてみれば予定の行動。だから、反対する議員は小泉氏には首相のみが抜ける伝家の宝刀があることを軽視してはならなかったのだ。だから、半信半疑であった各議員大も慌てである。

 それにしても、衆議院議員というのは大変なものだね。明日のことは解らない。しかも、今回は党内で盤石の地位を築いてきた超ベテランであっても、反対票を投じた議員は公認しないという、大鉈を振るった。これは凄いことである。それ以上に評価すべきは反対票議員の選挙区には対立候補を擁立すると言う手段。こんなことは歴史上初めてのことでなかろうか。世が世であれば次期首相候補になっていたかも知れないベテランも離党した。離党した候補者なんか当選してももう恐くはない。確かに、郵政を問う特別な選挙なのだから選挙民には意思表示出来る環境を整えなくてはならない。だから、論理的にも正しい手法なのだろう。

 大きな派閥を持たない首相にとって最大の拠り所は国民からの支持である。支持と言うより半ば人気投票。「ナニ!!!  、選挙が人気投票? 国政選挙がそんなことであっては困る!!!  」、と多くの真面目なヒトは顔をしかめるだろう。しかし、選挙とは本来そんなもの。だから、首相が最終的には民営化の賛意であっても人気投票であっても良い、民意を問うのは当然。郵政民営化の詳細は知らなくとも改革の雰囲気、新しい手法を使う、過去にとらわれない変人首相として必ず賛成が得られる、と首相は読んでいる。だから解散したのだ。


8/25(木)秋田東京共雨 台風11号接近 日本医師会社会保険指導者講習会二日目 
1:30浅草Viewにて起床,持参のドック判定総括x1、紹介状・返事x1等.東北医連発表原稿、図表作成。7:00サラダ+コーヒーで朝食。9:00Check-out、台風接近も鈍いので夕方までは大丈夫だろうと18:10のJALに賭けることにした。10:00-16:00日本医師会社会保険指導者講習会二日目、リューマチ、膠原病等勉強す。急ぎ空港に。18:10JAL,Aia Bus A-300型、いつもは混み合う便だが天候のためか30-40%ほど。最後列に陣取る。さすがに大揺れ。19:40帰宅、夕食、自転車出勤の家内迎え、21:20就眠。

台風11号の接近で果たして空路帰れるのか、やきもき   
 昨日の快晴から一変して、浅草ビューホテル24階から見える外界は厚い雲に被われており、少々の雨交じりの曇天である。木々の揺れはないからまだ風は無いらしい。大型の台風11号が静岡の南方約300Kmの付近を時速15-20Kmとゆっくり北上している。その影響であろう。本日の社会保険指導者講習会二日目は16:00頃まで続き、帰路は18:10発JALを予約してある。
 朝から、もしこの便が欠航になったらどうしようか、翌日のスケジュールを考えると帰れないのはマズイ。途中で切り上げて15:00台の前のANA便で帰ろうか、それとも新幹線に乗り換えて夕方まで聴こうか、といろいろ考えながら過ごした。朝の時点での空路の欠航は羽田-八丈島間の4便だけ発表になっている。
   遅くとも昼頃には決めねばなるまいと講演会場ではラジオのイヤフォンを耳にNHKの情報を聴きつつ講演を聴講していた。昼頃には関空、中部国際、九州を発着する便に欠航が出始めている。静岡の海岸付近は高波がすごいと言うがまだ暴風雨にはなっていないらしい。北上はまだのろい。
 6時間後はどうなっているのか?この接近速度なら多分大丈夫だろう、と見込みを付け最後まで聴講することとした。途中で帰った方も多いのだろう、午後には会場もまばらになってきた。16:00講演終了時、小雨は降っていたが風は弱い。これなら飛べるだろう。ただ、秋田から戻る便が発着するときはもっと条件は悪化しているだろうから、機が戻れないとの理由で欠航もあり得るかなと思いつつ羽田に向かった。
   いつも混雑する便なのにさすがに空席が多い。特に後部座席はパラパラ。前部から主翼付近には結構混雑。これは重心の関係で集中的に乗客を集めているのかな?と思う。
 
 幸い欠航にはならずに済んだがさすがに気流は悪いのだろう、よく揺れた。こんなにでかいものがユサユサ、ガタガタ、主翼もバタバタしている。時々スーッと下降したかと思うとグイと持ち上げられる。ロッキー山脈上空ではもっとひどい状況も経験したから恐くはないが、飛行機って随分丈夫に出来ているモンだと今回も感心した。

 秋田からの帰路は21:00頃羽田着だからもっと条件が悪かっただろうと思うが無事戻ったらしい。良かった良かった。


8/24(水)秋田東京共快晴 日本医師会社会保険指導者講習会初日 県医師会常任理事会(欠)
1:00起床,ドック判定総括x1、紹介状x1、3:20出勤。申し送り等出張前準備、5:00回診、病棟業務他。6:40病院発空港へ、7:50ANA、767-300型、50%? 10:00-19:45日本医師会館社会保険指導者講習会初日。免疫関係の講演数題、長丁場なので一部は録音機に任せてマイペースで聴講。この分野はいつ聴いても難しい。台風11号接近中と。明日の空路気になる。18:30浅草View着、外食、本読み、20:00就眠。

20年ぶりの第三内科会合に出席
 8月20日、秋大第三内科のM助教授が聖マリアンナ医科大学の血液内科学の教授として赴任されるとのことで、20年ぶりに振りに出身医局の行事に出席した。私自身の送別会以来である。
 こんな事は一般論では元医局員としては極めて非常識なことであるが、古巣にとっては理由は何であれ、去っていったヒトはもう過去の人であることから、辞した本人は古い環境にはクリアに決別し新しい環境に没頭すべし、と言うのを私のポリシーの一つとしているが、そのことの具現化の行動でもある。非常勤講師として講義をしたあとも医局には一度も訪問しなかった。
 だから、今回も福田個人にも招待状が来たがこれは従来通り欠席とした。院長宛のにはやはり病院代表は必要であろうと副院長の代理出席とした。名前は記載しなかったが、出席予定者は当然私である。今後は立場上逃れられないからこういうわがままは出来なくなる。

 当日、テーブルの周辺の方々、私の席に回ってきた方々には長年の無沙汰を陳謝し若干の歓談した。実に懐かしい思いがした。出席者名簿はなく、座席から後ろを振り向くこともなかったためにどのような方々出席されていたのか全く知るよしはないが、恐らく半分以上は知らない方々であったであろう。

 歴代の教授の祝辞は時間的に見れば縮辞ではなく、弔辞ならぬ長辞であったけれども、いろいろ示唆に富むものであった。一人の教室員を教授にするためにはそれなりの立場にある方々の多方面からの運動、根回しが必要なこともよく理解出来た。M助教授も同じく感じ入ったことだと思う。 秋大第3内科からは二人目の教授誕生である。歴代の教授がお喜びになるのも当然である。教授に選考されるためには、業績の積み重ねは勿論、豊かな人脈とそのバックアップ、運の良さ、の三者が揃うことが必要で、このうちのどれを欠いても駄目なのだ。そう言った意味では M助教授も自身の努力はさることながら、とても恵まれていた、と思う。
 後は3-5年後の教授としての評価であるが、とても楽しみにしている。


8/23(火)快晴 県DV防止条例作成委員会  県医師会医療相談関連面談  医局カンファは欠席
 
1:20起床,ドック判定総括x1、紹介状2部ほか、5:10病院着。回診、定期処方・臨時処方40数枚発行、9:00-13:30午前外来。15:00-17:10県DV防止対策委員会。いったん病院に戻り業務若干。18:30-20:10県医師会へ、医療内容に異議ありと電話相談してきた家族と面談。再度病院で若干業務、21:30帰宅、21:50就眠。

クールビズでとても寒い思いをすることもある  今冬はホットビズ運動らしいが
 今夏はクールビズなる運動が形をなしたという記念すべき年。かつては大平内閣の頃半袖のスーツなどが提起されたが普及には至らなかった。今年は閣議や国会を始めノーネクタイ、開襟シャツでの公務姿が頻繁にTVにも新聞にも登場したせいか、違和感が少なくなった。秋田県の会議、県医師会の会議も同様の傾向にあって、これは良いことだ。

 私はかねてから病院や自宅では私的にクールビズ調でやってきたから当たり前のこと。自宅でもクーラーをスイッチなど入れたことないし、病院でも時間外はテニスウエアで業務をこなしている。通勤時も同様である。しかし、格好が悪いらしく、とても評判が悪い。診療中はノーネクタイでネームプレートにストライプをつけてぶら下げている。ノーネクタイで日中堂々と過ごせるのはとても気分が良い。ホッとする。白衣を始め、身体にいろいろまとわりつくような服装は、私はイヤだ。

 この辺までは良いのだが、せっかく解禁で会議に出かけたもののそこがすこぶる寒いことがある。これはしばしばである。夏に寒い思いするなんて辛い。クールビズならば冷房温度をゆるめなければ全く意味がない。冷房の温度を高めに設定することは結構徹底されていない。それに、困るのは実際その会場に行ってみなければ状況が分からない。そのため、東京出張時は一応スーツ姿で出かけ現場で脱いだり着たりして調節する。だから移動時は暑くて大変。秋田では外の会議などは息子からのお上がりのウインドブレーカーを着込んでいく。本日は「先生、バイクで来たんですか?」と言われてしまった。

 今冬はホットビズとのこと。どんなことになるか分からないが、これで消費エネルギーが抑制されるなら良いことだと思う。エネルギー消費など、個人個人の考え方は勿論基本だがこれほど消費が贅沢になった以上、政治的に関与しなければ到底抑制は困難である。しかも一国の問題ではなく国際的強調が必要である。京都議定書の達成目標はまだまだ遠いが、国を挙げての目標達成の努力は、国民教育も含めて良い傾向と思う。


8/22(月)曇→雨  管理会議  療養病棟判定会議  長副会議 
1:30起床,ドック判定総括x1、退院総括、紹介状。5:20病院着。6:20回診、8:00管理会議.9:00-13:30外来。14:00病棟患者検査他、15:45-16:30療養病棟判定会議、16:30-19:00長副会議、懸案多数。書籍引っ越し若干、21:00帰宅、夕食、21:30就眠。

20年程ぶりに吐いた   密かな自信、記録が脆くも崩れた
 20日(日)は久々予定のない休日。朝までバッハなど聴きつつ、ゆっくりと仕事をこなした。9:30から梅林園でFF tennisがあるので、いつもは摂らない朝食を今回部屋の引っ越しで机の隅っこから出てきた賞味期限後3年超過のインスタントのトマトスープを溶いて摂った。ニオイも味も悪くない、なかなか美味しい。「賞味期限なんてあってないようなモノだね、食品はやはり大事にしなければ」、といつもの如く一人で悦に入っていた。
 と、ものの15分後くらいであろうか、食器を流しの方に運んでいる間に、突然激しく吐き気が襲って来て、所定の場所で2-3回激しく嘔吐した。その後は幸いケロリと吐き気も消失し、体調には何も悪しき影響はなく、約一ヶ月ぶりのテニスも通常に出来て先方に迷惑もかけずに済んだ。この様に一過性に済んだのだから、原因は細菌や毒素が関係したのではなく、蛋白か何かの変質によるものなのであろう。

 子どもの時のことはよく覚えていないが、私は成人になってからの嘔吐は3度目である。一度目は学生の頃、今の家内と酒を飲んでかっこつけて飲み過ぎ、泥酔したとき、二度目は西武・巨人の日本シリーズにフランス料理を賭けて同僚医師から奢ってもらったとき、このときはワインの飲み過ぎであった。それに今回である。

 私は食品の期限切れなんて一切気にしないし、多少の変質?と疑われるような食品でも吐いたことはない。だから、妙な自信が着いて、判断がちょっとルーズになっていたのかもしれない。これからはあまりカッコの悪いことは出来ない。これを機会に考えを若干改めよう。

 嘔吐は自律神経の刺激症状から始まり、咽喉頭部の緊張、胃の逆ぜん動、強い腹筋の収縮、呼吸の一時的停止など一連の動作が自動的に組み込まれたプログラムに沿って順序よく生じ、進む。これは、不都合なものを摂取したとき等に命を守るための重要な防御反応なのだと改めて感じ入った。ヒトってホントに巧くできているものだね。

 この自然に備わった機能を大切にしていかなければならない。少なくともこのような機能に障害を与えるような医療行為は極力控えるべきだろう。


8/20(日)快晴 FF tennis   
2:30起床、ドック判定総括x1、主治医意見書他、文書作成など9:30-13:10FF tennis約一ヶ月ぶり。5-7、6-2,6-4と今回も敗退。家内の下肢痛何とか良さそう。13:30-17:00病院、文書、その他。17:30帰宅、Vn、文書、入浴と交互に。20:00夕食、21:00就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (27)  
母を語る その生き甲斐を裏切った息子二人
 祖父母の礼儀作法に対する姿勢は厳格であった。母はいつもその非難のターゲットとなり、責められていた。それは虐めに近いものであったし、嫁姑間の距離、格差は甚だしく大きく、些細な事象にいろいろ尾びれがついて徐々に大きくなっていく。私はそれを幼少の時から見ていて母の方に問題があるものだ、と思っていた時期もある。
 幼少の私には理由はよく解らなかったが、母と祖父母、父を長男とする6人の子供達を中心とした我が家の家庭環境、人間環境は母が育った家庭とはかなり大きくかけ離れていたのではないかと言うことである。結局、母は自らの生活環境とは別世界の、異なる文化、意識を持つ家庭に嫁に入ってしまった気の毒な女、と言うべきだろうと思う。確かに、一挙一動を見ても祖父母や伯父叔母達と違うものがあったし、毅然とした態度をとれない、女だったと思う。母もそれなりに頑張って同化する努力は私の目から見てホントに涙ぐましいものがあったが、最後まで身に付かなかった、と思う。
 厳格な祖父母から見たら、確かに、母の持つ雰囲気は許し難い部分もあったかも知れない。

 何故、母が我が家の嫁として嫁いで来たのか、残念ながらこの辺の話を私は誰からも聞いていない。だから、祖父が今の花巻市で開業していたときに何らかの縁があって父と一緒になったものらしい、と予想することしか出来ない。具体的な話は全く知らない。話題にもなったこともない。これは息子の立場から見て、今から見ればとても残念なことである。
 生物行動学的に見れば、何でいま私が両親の遺伝子を受け継いで生きているのか語ることは比較的簡単であろう。しかし、父母が個々のヒトとしていかなる背景で一緒になり私が生まれたのか、興味が沸くところでもある。更に蛇足的であるが、兄との間11年間も身籠もることのなかったのに、何故、私が昭和20年に生まれて来たのか、その時両親は何を考え何を感じたのか、興味があるが、いまは知ることも出来ず、ただ空想するだけしか出来ない。
 私が、くだらないと思いつつ自らを回想して過ぎ去った日々、今日ある自分の糧となった日々を記録しているのは私の命を受け継いでいく子供達へのプレゼントでもある。ついでに、徒然日記も、同じくプレゼントだよ。お前達の父親が日常何を考えて、どの様に過ごしていたのか、いつか知りたいと思う日もあるかも知れないからね、と言う発想が主たるものなのだ。勿論、従たる目的もある。
 
 その母の生き甲斐は何だったのか、二人の息子の成長と、孫達に囲まれて静かに暮らす自分の姿、それを夢に想し、楽しみにし、艱難に耐えていたものだと思うが、現実にその生き甲斐を彼女から奪ったのは二人の息子でもあったのだ。勿論、私にも兄にもそんな気は微塵もなかった。しかし、母は発想の転換が出来ない女であった。そう感じ、そう確信し、失意の中で生きるしかなかったのだ。


8/20(土)快晴  医局引っ越し 日医雑誌用投稿  M秋大第3内科助教授聖マリアンナ医科大学教授就任祝賀会
2:00起床、ドック判定総括x1他いつもの如し、5:20病院着.6:30回診その他、主治医意見書、総括、紹介状、特定疾患関連書類処理。10:30-12:20外来。以降業務と引っ越しと。日本医師会雑誌投稿文日医に送付、一段落。東北医連用原稿に着手。医局整頓、医師会打ち合わせキャンセル。17:30-19:30秋大第3内科M助教授聖マリアンナ医大学教授就任祝賀会に代理出席。秋大第3内科関連行事には自分の送別会以来初出席。22:00帰宅、22:45就寝。

「対話--ディスカッション」の重要さ(2)
 我が国では「一を聴いて十を知る」こと、阿吽の呼吸などファジーな判断の中で正しい結果を出すことが美徳とされて来たが、この態度は有害以外の何物でもない。折角の対話の芽をつみ取るからである。
 「それはおかしい」、「私にはわかりません」と言い出すことは若干の勇気がいるが、素晴らしいことである。この様な簡単で単純な問いを発することが対話の基本である。対話は物事の白黒をはっきりさせる、必ずしもそんなものではない。そんな大げさな考え方だと対話は消えてしまう。対話をすることによってこそ、各個人が抱く意見を、小さな差を確認しながらゆっくり前向きに進む。対話があるからこそそこに発展があるのだ。
 ただ、対話が生まれる環境については重要である。そこには「挨拶」、「笑顔」を交わす仲であれば気楽に対話が生まれてくる。そういう仲でないととても大きな勇気がいる。

 最近、正論を吐く正論論者が増えてきているが、この正論を振りかざしてくる相手との対話が虚しいのは?個人がもつ微妙な個人的な考えの機微が削りとられた意見になるからである。個人が個人の実感にもとづいて発するかけがえのない言葉こそが重要なのだ。賛成か反対かという結論のみに力点をおいて、本音、自分の感覚を語らない、そんな対話は先すぼみとなる。

 我が国では、真実を語ることよりも「思いやり」を優先する考え方が少なくない。特に医療の世界はその傾向が強い。特に医師同士の仲では互いの仕事、判断などを批判しないのが礼儀とされてきたが、これについてはその危険性を告発しなければなるまい。
 最近、子供たちは特に「思いやり」が必要という教育がなされてきているから、かえって本当の気持ちを語れなくなっているのだ。相手への「思いやり」を重視すればするほど対話が成立しなくなり「なぜ?」「わかりません」という単純な言葉を発することが出来なくなる。これでは、ことの真相は追求されなくなり、いつも他人への「思いやり」と言う配慮によって背後に隠される。この風通しの悪い社会、すなわち「遠慮」、「思いやり」を背景に真実を語らない社会、言葉を信じない社会が形成されてきたのである。
 
 医療機関の中ではこれではいけない。日常のちょっとした対話の重要性はどんなに大きく評価しても評価しきれない。だからこそ、その対話が出来る土壌として、まず「挨拶」を交わすことが第一、気持ちの良い挨拶の後は「笑顔」である。そして、そこに生まれる「対話」を大事にしたいものである。


8/19(金)晴 医師会打ち合わせ(キャンセル) 医局引っ越し
1:30am起床、ドック判定総括x1他。いつものごとく。5:10病院着、6:30回診、事務処理他。医局整頓。10:30-14:30新患補助外来+ドック診察x5。日本医師会雑誌投稿文完成、会長に送付。医局整頓、医師会打ち合わせはキャンセル。医療要意見書x4など.20:50帰宅、夕食,21:30就眠.昨年の本日台風15号で暴風状況、停電した日。今年は台風関係は平穏。

「対話--ディスカッション」の重要さ(1)阿吽の美徳は捨てよう
 「笑い」、「挨拶」、「笑顔」の次ぎに私が大切にしたいのは「対話--ディスカッション」である。現代の日本では、と言うのはオーバーか?、私の職場では、日常的会話はそれなりに豊かに見えるが、対話がすたれかかっている様に思われてならない。更に、会話レベルから一歩踏み込んだ対話の際に、「個人の生きた言葉」が乏しくなってしまった様に感じられる。この国では個々の個人の言葉の価値よりは、TV画面、パソコンの画面の方が重要視されるようになってしまったのではないだろうか?

 対話は単にしゃべり合う日常的な、相手を傷つけない気楽な会話とは違う。白黒をはっきりさせなければならないときに交わされる討論により近いが、同義でもない。対話では自分の人生の蓄積を背景にし、その論理がより説得的であることが求められる。みずからの生きている環境現実からかけ離れた、教科書的な言葉、夢想的な言葉の使用対話にそぐわない。

 一方、会話は、コミュニケーションのような「達成さるべき一定の目的、情報伝達等の目的」をもたない、異質な個人が異質性を保持しながら出来るものであり、分からず屋を排除もしない気楽なものである。「サザエさん」、「ちびまる子ちゃん」、「寅さん」などが何10年も続くルーツはそこにあり、対話や討論がなく、全てが日常的会話のレベルで落ち着いているからであろう。そこで交わされる言葉言葉をとらえて理屈を振り回すのは簡単だが、バカくさいし、変わり者として周囲のヒトに嫌われること必定である。

 日本人は対話を好まず、むしろ阿吽の呼吸を重視する、と言われている。ヒトから何かを言われて「わかったような気」になりやすいし、その様に教育されてきたのが日本人なのだ。「一を聴いて十を知る」ことが美徳とされものを学ぶときに一般的に要求される態度でもある。しかし、この態度は有害以外の何物でもない。 特に医療機関では危ない。医療事故の温床となる。そこに必要なのは対話である。


8/18(木)晴れ  医局引っ越し 
1:30起床、ドック判定・総括x1、紹介状等.5:20Taxi病院着。6:30回診。患者不調。9:00-15:00午前外来+検査等。午後は書類処理中心に過ごす予定であったが、急遽、院内で部屋を入れ替わることになった。大変な荷物である。なかなか捨てれない。一応仕事が出来る程度にはなったが雑然としたままで終了。21:20帰宅。夕食、22:00就眠.

挨拶の重要さ(3) 明るい挨拶で病院を変えよう
 欧米では挨拶は身を守るために重要な習慣となっている。挨拶を交わすべき状況で交わさない仲は一応敵と見なすらしい。個々の人格を重視して生きるためには相手と自分の関係をはっきりさせておかないと危ないことにもなりうるからである。
 その点は日本はルーズである。甘えなのか、ファジーなのか、はたまた個よりも集団の論理なのか、家庭内での教育の拙さなのか。挨拶が上手に出来ない世代が子育てしているのだから止むを得ないか。
 実際に、私と挨拶を交わさない同僚医師も少なくはない。そう言うヒトには私の方でも僅かな挨拶のサインしか送らない。が、欠くことはない。最小限、黙礼程度は同僚として当然の礼儀だから。さりとて私を敵視しているわけではないようだ。それなりに普通に会話が成り立つ。だから不思議でもある。基本的に他の職種の方々とも同じ。多くは向こうから挨拶される。ほぼ同時に私も返答する。やはり、挨拶を欠くヒトはそれなりにいるが、敵視とか云々の前に素養の問題らしい。
 
 病院では職員同士が明るく挨拶を交わす。そんな環境が欲しい。そのことが職員同士のコミュニケーションをより豊かにし、医療のレベル、質を向上させることになる。質の中には勿論安全の向上も含む。職員同士が明るく声をかけやすい環境は医療安全の基本である。いや、それ以上に、一日の1/3も過ごす場所だもの、それに、自分と社会との接点の場でもある。少しでも明るく気分良く仕事が出来る様になれば、それだけでも良いことだ。

 腐ったみかんが一つでもあると、みかん箱の中はやがて全部属ってしまう。挨拶というこんな簡単でいい習慣でさえ放っておくと駄目になって行きうる。特に、この厳しい医療情勢の中だもの、病院という組織の中で、多忙な業務の中で、少し心がくすんでいて上手く行かないと前向きに考えずに言いわけをするようになっているのかもしれない。

 だから、ふと思う。挨拶一つで職場の雰囲気,医療の質も変わっていくのではないかと。


8/17(水)快晴 新臨床研修制度マッチング4名 郡市医師会長協議会+情報交換会
1:40起床。ドック判定・総括x1。入院の喘息患者不調で何度か電話。5:10病院着、6:00患者家族面談、回診。9:00-3:30外来。15:30-16:30新臨床研修マッチング。16:30-19:30郡市医師会長協議会+情報交換会。19:50病院、21:00 帰宅、21:20就寝。

「挨拶」の重要さ(2) 「五つの心をもって挨拶」再掲
 挨拶し合うということはお互いが気分が良いものなのだ。少なくとも挨拶されて、挨拶し合って不快な気分になることなんてあるのだろうか? 私は、絶対ないと思う。ただ、良い挨拶が返ってこなかった場合、無視された場合などはちょっと不快になる。だいたい挨拶されて、それを無視するなんてどういう心境なのか、私には理解を超えた世界だ。

 この点に関して古い経験だが、秋田大学第一内科血液グループに属して半年ほど過ぎた頃、チーフのS助教授から「病理のある助教授が、今度来た福田という若い医師はろくに挨拶も出来んのか?」と言われた、と告げてくれた。私は当初はキチンと挨拶をしていたが無視され続けていたのでそのうち挨拶されるのも迷惑に思っているのかもしれないと考えて挨拶をやめていた。その後、S助教授の立場もあろうと考え仕方がなくまた挨拶をし始めたが病理の助教授はなぜかそれ以降はきちんと挨拶を返すようになった。もしかすれ無視していたのではなく、彼自身のスタイルで返答していたのだろう。今はそう解釈している。挨拶を交わすようになってからは仕事上での対話もうまくいくようになった。

 挨拶は他人同士のを見ていても気分が良いものだ。タクシーの運転手さんたち、同じ会社のタクシーとすれ違うときにさっと手をあげて挨拶し合っているが、そうでない会社もある。挨拶し合うか会社ではおそらく人間関係も上手く行っているのだろうと自然とそう思ってしまう。


 医療機関においては、職員同士の明るい挨拶は患者たちの目で見ても気持がなごまるだろうし、医療機関に対する信頼感にもつながって行く。職員同士がろくに挨拶もしないような、コミュニケーションも上手く行っていなそうな、そんな医療機関に患者たちは暖かさ、安心感を感じるだろうか。

 昨年訪れた国立病院機構盛岡病院の掲示には以下のごとくあった。今改めて見直してみたがとても良い言葉である。再掲させて頂く。
 「五つの心をもって挨拶し、人に優しい・限りなく優しい病院」
    「はい」という「素直な心」
    「ありがとう」という「感謝の心」
    「すみません」という「反省の心」
    「どういたしまして」という「謙虚な心」
    「させていただきます」という「奉仕の心」


8/16(火)晴れ 暑い 医師会打ち合わせ M先生の私的祝賀会
1:30起床,ドック判定・総括x1、紹介状、ネコと海苔を分けあった後、5:10病院着、6:30病棟へ。重症化3名ほど対応、定期処方40数枚、回診等。9:00-13:30午前外来、15:00県医師会書類チェック、事務局は夏期休暇で閑散。18:30-21:30聖マリ医大教授に就任するM医師と我が家3人で歓談。22:00帰宅、22:15就眠。

「挨拶」の重要さを再認識しよう(1) お互いに大切な存在なんだ、と言う意志の表現だよ
 ヒトは一人一人独立した存在であり互いに尊重されなければならない。そうは言っても、ヒトは一人では生きられない。家庭の中で、社会の中で、職場の中で、互いに何らかの関連を持って生きなければならない。さりとて、けじめのない、互いの領域まで踏み込んでくる様な人間関係は例え家族間であっても辛いし、上手く行かない。ましてや他人同士の中では尚更である。
 だから、そこに必要なのは個々のヒトが「自分」と「他人」を共に大切にする姿勢であり、そこにはけじめが必要である。なんて考えると難しくなるが、そんなことはない。「挨拶」がその関係を簡単に、かつ確実にもたらしてくれる、挨拶は人間関係にとって必須なものなのだ。

 家族間でも「おはよう」「行って来ます」「ただいま」「お休みなさい」「・・・」と挨拶し合うことはとても大切である。挨拶をしっかりすることはけじめをしっかりすること。このけじめを付けることでヒトはたとえ家族同志であっても、互いに独立した人格である、と言うことを学ぶことが出来る。だからこそ家庭内での挨拶の教育、習慣は社会の中でヒトが生きていくための最も基本的な教育でもある。が、最近、この教育がなされていないのではないかと思ってしまう事象に事欠かない。

 家庭の中での重要なこの挨拶の習慣は職場では更に重要であり、必須である。
 毎朝、会ったときには「おはよう」、仕事の終わり時、帰宅時には「さようなら」これで良い。更に移動中にすれ違ったときなど「ごくろうさん」・・と声を掛け合う様であれば更に良い。頭をちょっと下げる、それでも良いがやはり声を出さないと寂しいね。職員同士の挨拶の意義は志を同じにする仲間通しの連帯感の醸成につながり、なおかつ、互いの立場を尊重するんだ、と言う意味もあって、とても重要である。


8/15(月)晴れ  管理会議  療養病棟判定会議  長副会議  賄いの石井さん1週間夏期休暇 プレスリー命日
1:00起床。ドック総括x1。紹介状、書類2,3処理他、通常のパターン。5:20病院着.6:30回診など。8:00管理会議、重要伝達事項ほか。9:00-13:00午前外来、予想外に混雑。14:00-15:00入院患者家族との面談他。16:00-16:30療養病棟判定会議、16:30-19:00長副会議。20:30帰宅。夕食、21:00就眠。多忙であった。賄いの石井さん1週間夏期休暇で北海道へ。ネコ共、花、ゴミなど大変。
 
今年は祖父「耕陽」50回忌、父「耕栄」23回忌にあたっていた 
 昨年は1日ほど有給休暇を取って墓参したが、今年はとある事情で休日返上となる。前日帰省ラッシュの中、車で関東から帰省した長男を伴い土曜夕に出発、中継点の繋にて一泊、日曜に墓参、その後は啄木へ、と計画した。
 日曜日10:00盛岡市近郊の菩提寺へ墓参。今年は来れないかも、と言っていた兄夫婦とその三男も墓前に揃った。

 昨年は寺に行ってから母親の27回忌と解って些か慌てたし反省もした。今年は、何と!!!、祖父「耕陽」50回忌、父「耕栄」23回忌にあたっていた。また、ポカをやってしまった。昨年の反省は何処に生きたのかと、改めて反省した。しかし、もうしばらくはこういうエベントはないだろう、とただ笑うだけ。

 私は祖父母、両親の何周忌目とかの行事は一切行っていない。年に一度この時期に住職にそれなりの読経をお願いし、住職から仏の生前の想い出を拝聴するだけ。一般的に言えば実に親不孝な、先祖軽視と思う。しかし、盆に、自発的に墓前に家族が揃い、集い、過ぎ去った日々の記憶を材料にしばし語り合い、年に一度の親好を深める。このことこそ最高の供養だ、これで良いのだ、と私は今年も信じて疑わない。・・・が、墓前、寺の本堂などで他の家族の信心深そうな姿を見ればちょっと心が揺らぐ。でもこれで良いのだ。

 それにしても親子で同じ年に50回忌、23回忌を迎える組み合わせはそうあるものではなかろう。幸せな祖父、父である。いや、墓前でこの偶然の組み合わせ等、二人についていろいろ語り合い、思いだしたが、私どもの方がより幸せ者だと言うべきだろう。

 早朝、秋の息吹がもう感じられる。私の大好きな夏は例年この墓参りをもって終わる。幼少の頃からずっとそう思っていて、私自身の気持を切り替える日でもある。今年の夏は私にとって例年以上に短かった。


8/14(日)岩手雨のち曇り→秋田雨  「耕陽」50回忌、「耕栄」23回忌にあたっていた  繋ぎ→江岸寺→渋民→盛岡→秋田
3:00繋温泉ホテル「紫苑」にて起床、入浴2-3回、再度就眠。 8:30朝食、琥珀製のヴァイオリンミニチュア購入。9:30ホテル発.10:00-12:00墓参。兄夫婦と三男も同席。今年は祖父耕陽の50回忌、父耕栄23回忌。本堂、墓前の読経戴く。12:30本家挨拶、花月堂にて歓談。13:00矢巾の叔父宅に立ち寄り、14:30渋民へ。啄木記念館訪問。盛岡でわんこそば屋に。美味しくて70杯。仙岩峠より運転を長男・家内に代わり19:30帰宅。20:30就寝。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (26) 
母を語る 私が幼少の頃の母の印象
 私が物心ついたときには我が家は住み込みの看護婦見習い、お手伝いさんなど常時10名以上と結構大人数であった。母は当時は医院の看護婦として医院を切り盛りし、早朝から夕方まで、あるいは急患にと和服の上に白い予防衣をまとって常時忙しく立ち働いていた。

 必ずしも明るい性格ではなかったと思う。自分の部屋で暗く沈み、涙を流し、時には声を出して泣いていた姿をいろいろ想い出すことが出来る。しかし、居室から出ていくとき、あるいは誰かと一緒の場合には別人のような明るさで出ていき、働いていた。常に良き嫁の姿を演じていた女、と言うような、そんな記憶である。

 あまり明るくない母の性格やその行動様式はしっかり私に受け継がれている。性格は遺伝だろうが、二面性と言っても良いような私の処世術はずっと母の姿を見続けているうちに自然と身に付いていったものだと思う。私は一人の時と誰かといるときとでは自分でも別人かと思うほど違う。だから誰かと一緒だととても疲弊する。嫌な性格だが、やむを得ない。

 母は家事もそれなりに多忙であっただろうから子育てに割ける時間は乏しかったのであろう、添い寝の記憶は幾分はあるが、幼少の頃に母にじゃれついて甘ったれたと言うような記憶は私には殆どない。祖父母は厳格なヒトで近寄りがたかったのか、常に一定の距離があった様に思える。そう言えば幼少の頃の父親の記憶もうすい。
 私の世話は住み込みの母と同年代のお手伝いさん「藤原ハツ」さんであった。彼女との間の記憶の方がはるかに大きく残っている。

 母の家の中に置ける立場は、その働きの割には小さなものであったように感じられる。当時の嫁の立場はそんなものであったかも知れないが、祖父母の立場とは段違い、しかも数段違いで、どちらかというとお手伝いさん並、看護婦見習いより少し良かった程度の扱いだったような気がする。
 その原因は長男で跡継ぎである私の父の家に於ける立場の小ささとも連動して居たのかも知れない。
 その中で、彼女の生き甲斐は何だったのか、と今になって思うとき、私の母に対して取ってきた行動・態度・姿勢も彼女を大きく傷つけていたのではなかったのか、と今更ながら思えてならない。母が生きていたときには気付かなかったことだが、今の私の心に大きな残る大きな反省点である。


8/13(土)曇のち晴れ 墓参へ 秋田→繋ぎ
1:00起床。いつもの如くドック総括x1、紹介状とか若干。5:10病院。6:00回診+病棟業務。8:45救急カンファ。その他。16:00帰宅、16;30昨日帰省の長男と共に墓参に向かう。盛岡近郊の温泉郷「繋」に。ここはこの何年かは墓参時の中継点にしている。前日の予約で確保出来たホテル「紫苑」に18;20チェックイン、19;40夕食、21:00就眠。ここの大浴場は私にとっては温度がぬるいのが玉に瑕。

今年のテーマは啄木に
 ここ何年かは、墓参後にひたすら秋田に急ぐことはせず盛岡近郊の各所をめぐっている。盛岡で育ちながら今まではなかなか訪れることの出来なかったところは多い。
 盛岡市にある「先人記念館」は岩手県出身で政治,経済,文化など各方面で活躍した130人の先人たちの遺品や資料を見ることが出来るが、数年前にここを訪れ、新渡戸稲造,米内光政,金田一京助をはじめとする岩手県の先人達の偉業に触れたことは私の発想の転換に役だった。出来得ることであれば「変人記念館」なるものも造って欲しいものである。

 昨年は「宮沢賢治」の足跡に触れるために花巻に向かったが、今年は「石川啄木」を求めて北上する予定である。3-4ヶ月前にNHKラジオ深夜便で「啄木」についての解説を聴いたことも訪問のきっかけとなった。

 資料によると、「啄木」の本名は「石川 一」。明治19年(1886年)2月20日岩手県玉山村日戸の常光寺の住職の長男として生まれる。盛岡尋常中学校に入学(だから、一応私の先輩にあたる)、この頃ペンネーム「翠江」(すいこう)で「岩手日報」に短歌を掲載、文芸雑誌「明星」に「白蘋」(はくひん)の名で短歌を掲載した。文学で立身することを決意し、盛岡尋常中学を退学、上京して与謝野鉄幹・晶子夫妻らと知り合い大きな影響を受けている。
 明治36年、初めて「啄木」の名で「明星」に詩「愁調」を発表、堀合節子と結婚。
渋民尋常高等小学校の代用教員となる。この時「日本一の代用教員」と自称していた。以降、「明日」を求めて函館、札幌、小樽、釧路、東京と転々し、明治45年4月13日肺結核で死去した。若干27歳であった。

 彼の資料集を紐解いてみなければ詳細は知ることは出来ないが、文学的才能は並ではなかったであろうが、性格的には「変人」の一人とも言うべきところがあったと思われ、興味がそそられる。

●やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
●不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心
私の郷里の盛岡をの自然をうたった青春時代の多感な歌も良い。一方、
●友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひきて妻としたしむ
の如く、いつも「明日」を求めてさまよい続けた啄木の心の葛藤をあらわした歌もとても良い


8/12(金)晴れ→曇り、法人理事会
1:30起床、ドック判定総括x1、退院総括、医師会関連作文。5:20病院着、6:15-9:00病棟回診、関連業務。10:30-14:00外来+ドック面談診察。机上に溜まった書類処理。17;30-19:00法人理事会。22:30帰宅。21:00就寝。

「笑顔」の効能(3)医療関係者の笑顔は、医療技術の一つだよ 
 笑顔を浮かべているとき、ヒトは明るく、リラックスしている状態だから心に余裕が生じ、外に心を開いている状態といえる。不安・不満を乗り越え、それなりに「プラス思考」の状況にあるということだろう。仏頂面では心は開かない。他人を受け入れるどころか自己すらも否定し、過剰に緊張し、人とうまく話せなくなっている状態だ。仏頂面では暖かい会話なんて成り立たない。すぐに対立関係になってしまう。

 ヒトに笑顔を向けられると、それだけでヒトは暖かさを感じるものだ。あたたかい家庭の家族の場合、意識しなくても笑みをたたえつつ会話しているのではないか。そこには無用な緊張感なんてないはずだ。
  ヒトは決してひとりでは生きられない。自分以外のヒトに支えてもらって生きている。しかし、意外とその自覚は最近の若い者には、イヤ、中年にすら欠けているのではないか?実際には「孤立」しているのにそれを「自立」と誤解して誤った自信を持っている。「孤立」しているヒトほど知らず知らず周りの人に迷惑をかけ、世話になっているものなのだ。それに気づいていないだけ。

 「アイコンタクト」は相手の目を見て話す、と言うコミュニケーション手段の一つ。これは対話の際とても重要な技術の一つであるが、このとき欠いてはならないのが笑顔である。笑顔が伴わなければ鋭い視線は一種の武器である。ここでは相手を不必要に緊張させるから、すぐに対立と言う関係に陥る。

 最近、会話の技術を持たない若い医療関係者、医師が増えているように思う。医療の現場で小さな、時には大きなトラブルを生じている。
  最近、立場が変わりつつあると言っても大病院の仕組み、そこに働く職員は病を持つ弱者である患者の視点、立場からから見れば相変わらず不安と脅威を感じる対象物であり対象者なのだ。だからこそ、医療関係者には笑顔が絶対的に必要なのだ。不安と脅威を感じている状況に笑顔を欠いた冷たい扱いを受けたとき、患者の心は瞬時に固く鎧でガードされる。もう診療なんて成り立たない。そこから大小のトラブルが生じ、それらがさらに育っていく。

 これを書きつつ、だれかの良い言葉「楽天的でいることは能力の一つである」を思い出した。
 医療関係者には、特に笑顔が大切なのだ。それは、医療技術の一つなのだ、と思う。


8/11(木)晴れ 秋田県老人クラブ連合会講演 
1:30起床、ドック判定総括x1、退院総括、自己免疫性疾患経過報告書x3処理、講演準備など。家内の下肢痛は若干改善しかかってきているようだ。5:20病院着、6:15病棟回診、8:40-12:30外来、中座して講演に。13:10-14:30秋田県老人クラブ連合会講演。15:10帰院、入院患者家族面接2件。20:50帰宅、夕食、21:30就寝。

「笑顔」の効能(2) 笑って乗り切ることもある
 笑顔でいる時、私は自分自身がとても落ち着いており、前向き志向にあり、疲れにくい状態にある様に思う。だから、笑顔はこのストレス社会にはより大切なものに思える。

 実は、私は、時にはあまり面白くもない場面でもつき合い半分の、笑顔を作るが、これは人間関係維持の方便としての笑顔である。幼少の時からいわゆる良い子であることを求め続けられ、押さえつけられ、それに迎合しつつ成長した私の情けない姿でもあるが、それでもそう悪いものではなかろう。仏頂面しているよりは遙かに良いじゃないか。
 つくり笑顔でも真の笑顔でも脳波の変化が似ているとか、NK細胞が大差なく活性化することも、実験的に立証されていると言うから、作り笑いでも良いと私は割り切って気軽に利用している。

 例えば、外来診療で疲弊するまで頑張ってもさっぱり患者が減らないとき、業務が込みすぎてにっちもさっちも行かなくなったとき、人間関係に疲れてストレスが強いときなど「もう、笑うしかないね」と自分自身に言い聞かせ、周囲に愚痴りながら気持ちを入れ替えて乗り切るのは日常的に良くやっていること。

 たとえそれが作り笑顔であっても、笑顔でやると心身がリラックスして、何事もマイペースでより楽に出来るようになり、能力が維持される様に感じられる。心も体もなんか元気になる。また、直感、アイディアもひらめくし、相手の気持ちも敏感にキャッチできるし、相手に対して優しくなれる。だから、結果的に人間関係までスムーズにいく。

 笑顔は人間だけに授かった貴重な表情。もっともっと活用して、前向きに毎日を過ごしたい。人は一人では生きられない。ましてや組織の中では孤立化していてはやっていけない。笑顔で挨拶し、慰めたり,話を聞く、手助けする。これがコミュニティの基本だよ。

 ちょっと最近、みんなの表情が乏しいようだ。無用に心を閉じて居るんでないかい?


8/10(水)晴れ  日医病院問題検討委員会(欠)    県医師会常任理事会+委員会
1:30起床。ドック判定総括x1. 総括・紹介状etc処理、まだ家内不調。5:20病院着.6:30回診、その他、重篤者1名。9:00-14:00外来+ドック診察5名.外来はやや余裕。
17:00県医師会へ、17:30-19:45常任理事会+委員会.病院に21:00帰宅.21:30就眠。

「笑顔」の効能(1)    まじめに考えると笑顔もなくなるが
 私は良く笑うが、「笑顔」も多い方なんだと思う。診察中でも、誰かと対話していても、大勢の中でも、である。ちょっと調子が良すぎるかな?と感じることもある。勿論、生真面目な時もあるし、一人でいるときはさすがにこの限りではない。一人の時は結構苦虫を噛みつぶしたときの様な表情なのかも知れない。考え事しながら廊下を歩いている時、知人に気づかないこともあるが、「ひどい表情でしたよ」と後で言われることもしばしである。

 「笑顔」というのは解剖学的に言えば第二鰓弓由来の、顔の表情筋が、顔面神経の興奮に反応して微妙な運動で生じるものである。その動きは心の奥の動きを反映して、実に微妙である。私は患者の顔の表情の変化を見逃さずこの心の奥にあるものを探る。「笑顔」は単純そうに見えるが実にいろいろな種類がある。顔の表情筋の微妙な動きは皮下脂肪によっても修飾される。強度のるい痩、肥満によってはこの微妙さが異なってくる。どちらかというと肥満の女性の「おかめ型」の笑顔がいい。程度は勿論あるけど。
 この筋が顔面にあるのはほ乳類だけとされるが、ヒト以外の哺乳類は「笑顔」を作るか否か、サルの一部は笑顔があるとも言われるが、私はまだ勉強不足で知らない。

 赤ちゃんは生後3ヶ月くらいからよく笑う様になる。それを見て周囲の大人達の心も和む。そしてあやす。ところが、この生後3ヶ月頃の笑いの表情は、別に赤ちゃんが「心地よい」とか「可笑しい」から笑っているのではなく、周囲の大人を欺き、身の安全を守るため、ではないか、とさえ言われている。また、表情筋が機能し始める時期でもあるという。赤ちゃんはこの様な表情をすると大人達が自分にとって都合のいい反応をしてくれることを学習し、何れは心の働きの発達と共に、それが顔の表情筋にリンクしていき、心の表現を反映、同時に全身で喜びを表現するようになる。

 「笑顔」は社会で共に上手くやっていく上でとても重要なのだが、最近みんなの顔から豊かないい「笑顔」が失われつつある、と感じている。特に「私どもの病院の職員にもっと笑顔が欲しい」、と私は思う。そうなれば、何かが変わっていくのではないだろうか。


8/9(火)快晴 家内下肢激痛発症 県感染症評価委員会 県個人情報保護審査委員会 
1:30起床,家内が昨夜帰宅時から左大腿部の激痛を訴え身動きもままならない状態。他覚的にはそれほどのことないがかなり辛そう。ドック判定総括x1. 書類処理、5:15病院着.6:30回診、定期処方箋発行。9:00-13:10外来.13:30-13:45県感染症評価会議(衛生検査研究所)、15:00-17:10県個人情報保護審査会(県庁第二庁舎)。回診、書類。20:40帰宅。20:50家内帰宅。状況変わらず。Xpは問題なしと。休めばいいのに・・と思うが聞き入れない。夕食、21;20就眠。

「笑い」の効能   まじめに考えると笑えなくなるが
 私は随分笑う方だと思う。誰かと対話していても、大勢の中でも、あるいは全く一人でいるときでさえ笑う。時にはつき合い半分の、あまり面白くもない場面の時にも笑うが、これは人間関係維持の方便としての笑いで、この場合は「緩やかな笑い」という状況だろう。

 一方、4コマ漫画や川柳、ラジオの「お笑い」番組などの内、内容の豊かなものは心地よい笑いを誘ってくれる。これは「突発的な笑い」である。これはとても心地が良いものだ。
 後者の突発的な「笑い」はどんなときに生じるかと考えると、「自分が持っている論理的ルートからの、予期しない、突然の、しかも、著しい逸脱」によって生じるような気がする。少なくとも私の場合はそうだ。だから、クドクドと長々しいユーモア的内容よりパッと取り組めてパッと笑えるものが良い。だから、駄洒落、4コマ漫画や川柳、ラジオの「お笑い」番組が良い笑いを誘う落語も漫才も良いが、その中ではパッパとテンポが速いものが良い。

 「笑いとユーモア」に関する研究は、多くは、哲学、心理学、社会学、文芸学、人類学、医学などの分野で専門的に行われてきた。それも大事なことであろう。しかし、そんな研究の結果がどうであろうと、「笑い」は、人間の心身の問題として、またコミュニケーションや人間関係の問題として重要な意味を持っている。笑いのない人生、笑いのない社会なんて考えられない。
 もし、ヒトが笑わない動物だったとしたら、この世の中はどうなっていたのだろうか。そんなことを考えるのは余りにもバカくさい、と、一人で笑ってしまう。

 ヒトは誰でも笑う。当然である。だが、最近、日本人がみんな笑わなくなってきているのではないかと思う。一人でいるときにはどうなのかは知る由もないが、なんか日本全体が「笑い喪失症候群」「バカ笑い喪失症候群」というマズイ心理状況に陥っている様な気がしてならない。そのルーツは個々人の「自立化」ならぬ「孤立化」にあるように思う。
 マア、難しい理屈を並べた考察などはさておき、家庭の中では笑って欲しいし、個々が属するコミュニティの中、特に「私どもの病院の中」では「各職員にはもっともっと笑って欲しい」ものだ、と私は思う。そうなれば、何かが変わる、何かが変わっていくのではないだろうか。


8/8(月)晴れ 管理会議 新臨床研修制度マッチング 療養病棟判定会議 長副会議
1:00起床、ドック判定総括x1.退院患者総括、紹介状他,5:10病院着.6:30回診他、8:00管理会議.9:00-14;00外来。15:40新臨床研修制度マッチング2名。療養病棟判定会議は担当者に依頼。16:30-19:00長副会議。回診、ICUに見舞い。20:50帰宅、21:30就眠。

望郷? ある40歳代看護師の帰郷
 今春、ある40歳代の看護師が病気療養のために帰秋してきた。腹部の悪性疾患のために、既にターミナルに近い状態での遠方からの帰秋である。
 彼女は秋田県内の2、3の医療機関で働いた後、一層の飛躍を求めてロンドンに渡り、彼の地で看護師としではなく出版関連の業界でかなりハードに働き、それなりの実力と地位も確立していた様である。数ヶ月前に病に冒され、種々の治療を受けてきたものの進行は止められず、かなり体力も低下したとのこと。独身で、彼の地には家族はいなかったことや、医療上でも療養上のアメニティ等にも満足できず、最終的に帰国・帰秋を決断したようである。

 20年以上も前の話であるが、私の母方の祖母は盛岡の親戚宅に滞在中に急性心筋梗塞で倒れ、殆ど寝たきり状態で安定し長期の療養が必要な状況となった。祖母も望んだと言うし、介護等のことをから静岡県三島市まで陸路搬送したが、私的な救急搬送会社と契約などをめぐって、コスト的にもマンパワー的にも実に大変で家族達はかなり疲弊した、と聞いている。

 この看護師の場合には小型ジェット機をチャーター、パイロット2名、医師1名、看護師1名のチームを組んでロンドンからロシア経由、秋田空港まで搬送してきたもの。途中ロシア国内で5回ほど給油しながら到着したがスムーズに事が運ばないこともあったという事で半日以上遅れて到着した。費用は約5000万円、半額が医療保険から、残りは勤務していた会社が退職金のような形で負担したという。多分、EU圏内ではこれに近いことはよくあるだろうが、極東の日本までの搬送である。大変な困難を乗り越えてなしえたことだろうと驚嘆した。この医療チーム、ジェットクルー達は患者を秋田の救急車に移したあと、のんびりすることもなくまもなく飛び立っていったという。

 看護師は秋田の地にて約一ヶ月の療養の後お亡くなりになった。彼女は自分の予後は幾ばくもないことを知っていたと言うが、このような困難を乗り越えて、短い時間でも郷里でと、最後は郷里で、と言う、その意欲のルーツは何であったのか。
 私も里帰り療養を希望されて北海道、関東方面から何人かを治療したことがある。すべて悪性の病気で何れもお亡くなりになった。私はそんなこともあって人間の望郷の心理について興味を抱いている。望郷の念のために命を落とした歴史上の人たちも少なくない。そのエネルギー、意欲のもとは何なのか。

 この看護師の方にもその立場でいろいろと聞いてみたいこともあった。私どもの法人内での勤務歴もあるらしいが、直接的には面識のない方であるし、進行する病状の中で大変だったとのこと。私の希望はもとより望み得ないものであった。お盆を前に、改めて思い出した。ご冥福をお祈りいたします。


8/7(日)東京快晴 秋田曇→雨 FF Tennis(中止) 日本医師会医療事故防止研修会二日目 
2:00浅草ビューにて起床、持参のドック判定総括x1,新書・文庫読み若干。7:00葉っぱとコーヒーで朝食。レストランは家族連れ、子どもの団体で喧噪、ゆっくり出来ない。8:15ホテル発日本医師会館へ。9:00-16:00 日本医師会医療事故防止研修会二日目、本日も7時間連続坐位のまま。日医会館の座席は椅子も机も若干余裕があるので何とか耐えられたが、実に長丁場である。途中若干午睡。浜松町のいつもの書店にて新書・文庫数冊購入、18:10JAL    AirbusA300-600R。いつもならMD-90だがめずらしい。1便減になった影響か、夏季の一時的処置か。秋田道経由で20:00自宅着、夕食、21:00就寝。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (25) 
母死去 昭和53/6/7 
 2004年は母親の27回忌にあたっていた。
 母は私が秋田に転居してちょうど5年目、
第1回の「新潟シンポジウム」の準備をコツコツと進めていた頃、昭和53年6月7日秋田組合総合病院で家内の世話になりつつ、寂しくこの世を去った。享年64歳。
 家内の手によって病理解剖が行われ私も途中から見学したが、直接の原因は肝不全、その主たる原因は肝臓を中心にした全身性多発性嚢胞性疾患に何かのストレスが加わったものと思われるが、最終的には生きる意欲を喪失し自ら死期を早めたと言いうる状態であった。

 母ハナは大正2年岩手県花巻市近郊の生まれ、と聞いているが詳細は知らない。祖父が最初に医院を開業したのは花巻市であったと言うから、その頃の何らかの縁で父と一緒になったのかも知れない。
 母の両親一家はまもなく花巻を後にし、静岡県三島市に転居したので私自身は比較的近くで育ちながら母の郷里としての花巻を認識したことはない。花巻は我が家にとって年に数回訪れる温泉地、保養地としては慣れ親しんでいたところでしかなかった。母方の祖母、叔母、従兄弟達一家は私が物心ついた頃には全て三島であり、今では音信は途絶えたが三島を2-3回訪れたことがある。

 母の一生を子供の目から見れば、畑違いの家に嫁いでしまったための忍従、忍耐だったように思うし、二人の子供の成長のみを楽しみに生きてきて、最後は去られ、裏切られ、た、と失意の中、軽く転倒しただけで手首を骨折したと知らされた瞬間に生きる意欲が途絶えた、そんな一生だったと思う。


8/6(土)秋田・東京快晴  日本医師会医療事故防止研修会初日 東京泊 
1:00起床。ドック判定総括x1他。5:00病院着、5:30回診、患者はほぼ全員就寝中。看護記録を呼んでオーダーを書く。6:45病院発、秋田道経由で空港に。原水禁世界大会に出席のチームも一緒。7:50ANA一便。B767-300、80%ほどか、久々最後部の窓際に座る。10:00-17:30日本医師会医療事故防止研修会初日。内容は価値があるが、実に長丁場。昼休みも座席でパソコン叩いていたから7時間以上も坐位のまま。明日はもっと長い。19:00浅草ビューホテルへ。夕食後作文若干。21:00就眠。

今年も墓前で家族が揃わないらしい
 あと一週間でお盆である。
 年に一回、この時期、盛岡市の隣町にある菩提寺への墓参は私共家族、兄の家族に長年根付いて来た行事で、いつも7-8人は集まっていた。
   ここ何年か、それぞれに都合があり、参加メンバーは年々少なくなっている。昨年は娘夫婦と4人だけで最も少なかった。長男・次男共に仕事の関係スケジュールがあわず、兄も体調を崩していたためである。今年も長男次男共昨年同様に参加できないらしく、娘は一時帰国した夫と共に今日、ニューヨークに発った。成田からか「今から搭乗・・」とメールが入っていた。

 今回は我ら夫婦のみかな??、兄は参加できるかな?まあ、予想されたことだが、徐々にこうなっていくのだろう。
 今年の墓参の行程は墓参後県北の自然を見て回ろうかと思っていたが、私の仕事上夏季有給休暇は取れそうもないので諦めることにした。13日外来終了後ゆっくりと盛岡に向かい、14日早朝に墓参し、ゆっくり戻ってくる最短のコースになりそう。


8/5(金)快晴・真夏日  竿灯祭り三日目  県医師会打ち合わせ 
1:20起床、寝苦しく寝不足感あり。ドック判定総括x1.退院時総括中心に紹介状3件ほど.5:20病院着、事務処理、6:30回診他病棟関連業務。主治医意見書等処理。10:30-12:50外来。退院総括,15:00-15:30県医師会打ち合わせ。貯まった書類処理。21;00帰宅。夕食、21:30就眠.

大きく成長した黒チビ 家中に影響が
 6月上旬、横浜で拾われて我が家に搬送されてきた黒チビの「ユー」はこの2ヶ月間で大きく成長し、我が物顔で家中を走り回っており、いろんなところに影響を及ぼしている。
 もっとも大きく影響受けたのは我が家の第二お局様の地位を享受していた老猫「ナンナン」。子猫を受け入れたわけでないのに、本音は嫌いなのに、顔も見たくないほどなのに、子猫に好まれて追っかけまわされて煩くてしょうがないらしい。かなりストレスなのだろう、食欲は衰え、痩せてきた。ちょっと気の毒である。最近は寂しげに外で時間を過ごしていることが多い。目があったときは抱き上げて「いつまでもお前は主役だよ」と言って聞かせるがあんまり効果はない。

 次は、通い猫の壮年「ミーシャ」。このところ我が家寄りつかなくなった。これも子猫が煩いためだろう。
 第三の影響は、私の手足に来ている。傷だらけである。それに加えて貴重な私の充電時間を邪魔しに来る。だから、私は完全に寝不足状態。居間での仕事中は足にからみつき、囓る。寝ると手足にじゃれつき、引っ掻き、囓る。おかげで私の手足はみみずばれ多発状態。まだ甘囓りの調節を知らないらしく、囓られると結構痛い。子猫にも痛みを教えなければなるまいと囓られるたびに蹴飛ばし、ベットから投げおろすが、子猫は遊んでもらっていると誤解して喜んでまた迫ってくる。真夏で寝苦しいと言うのに、毛布と夏がけ布団をしっかりと身体に巻いて充電するが、オーバーヒートして寝苦しい。最近はお陰で起床時間がさらに早まってしまった。

 数日前から扇風機にリボンを付けてヒラヒラさせて見た。今はそっちに気が移った。囓られる頻度は減ったがドタバタと紐にじゃれつくのが煩い。 夏の夜の我が家の一風景である。


8/4(木)快晴 竿灯祭り二日目 県健康対策課員来訪 秋大耳鼻咽喉科医局訪問
 1:30起床。ドック判定総括x1。入院患者退院総括ほか。5:10病院着、事務処理回診他病棟関連業務。9:00-13:30外来。14:00県健康対策課員来訪 16:30秋大耳鼻咽喉科医局訪問。20:50帰宅.夕食、21:30就眠。

今年の竿燈まつり 帰宅時の印象から見て今年は人出は少ない
 本日は竿灯祭りの二日目。いつもはかなりの雨にたたられるのだが、今年は天候には比較的恵まれるようである。一方、今年は愛知地球博の影響なのだろう、桟敷席等の予約状況は例年に比較してかなり良くないらしく、当日券も発売されていると言うことが新聞等で紹介されていた。

 昨日帰路に、歩行者がいつもより多いことで何だろうかと思った。公的駐車場には大型の観光バスが停車している。これで竿灯祭り初日なのだと気付いた。例年だともう少し、数日前からお囃子とかいろんな音で雰囲気が高まり気付くのだが、今年はすっかり失念していた。私の方が時間的に一層余裕がなくなってきているためなのかも知れない。

 本日は二日目であるが、その目で見ると何となく人出は少ない印象である。

 あるWebサイトで「東北お勧め夏祭り」を引いていたところ、何と!!  竿灯祭りは紹介されていない。8月2日〜8月7日「青森ねぶた祭」、8月6日〜8月8日「仙台七夕まつり」、8月5日〜8月7日「山形花笠まつり」と東北4大夏祭りと言われている他の祭りはしっかりと載っているのに、これはどうしたことなのだろうか?

 5人ばかりの祭り好きの患者さん方から聞いた範囲では、東北の祭りで行ってみて面白いのは「青森ねぶた祭」>「山形花笠まつり」>>「仙台七夕まつり」>>竿灯だろうと言う。
   私は秋田に住んで30年になるが、引っ越してきた年に一度だけみた。高田市長の愛挨拶の後竿灯が一斉に上がった瞬間だけ、感動したが、それきりであった。その後は一度も行ってみたいと思ったこともない。 私にとって竿灯まつりは、帰宅のルートを変更しなければならない4日間、と言うだけである。


8/3(水)快晴 竿灯祭り初日  外来患者面談   療養病棟診療部会
3:00起床。さすがに疲労感あり。ドック判定総括x1、 紹介状返事x1.他。5:20病院着.6:30回診他病棟関連業務。9:00-13:30外来。16:00-17:00外来患者と面談。17:00-18:00療養病棟診療部会議。各種書類他処理.20:00重症患者回診、20:40帰宅。街中に歩行者溢れている。竿灯初日。21:00就眠。

新幹線を乗り過ごす(2)   みどりの窓口の電光掲示板で座席無しと諦めてはいけない
 17:50大宮で下車。後は二本の「こまち・はやて」しか残っていない。帰路の切符は車掌と大宮駅の窓口で「誤車」の証明貰ったから何とか確保されたが、駅の電光掲示板を見る限り満席となっている。 「こまち・はやて」は全席指定だから乗車できない。ならば羽田に向かいANA最終便か、とも考えたが、それすら間に合うか解らないし、満席かも知れない。試みにみどりの窓口で座席を申し込んでみた。18:22「こまち・はやて」はとびとびになら空席はあるとのことで「こまち」の仙台-秋田間は指定を確保できた。窓口での指示はまず「はやて」のグリーンに空席があるのでそこに乗車し、車掌の指示に従うようにとのことであった。結果的に大宮-盛岡間は「はやて」の普通車の座席に座ることが出来た。しかも無料で。

 電光掲示板で満席となっているはずの「こまち・はやて」に実際に乗ってみると結構空席があった。要するに、始発から終点までの間に一部区間座席が使用されるとその前後空いていてもその座席は空席扱いにはならないと言うことなのだ。だから、電光掲示板で満席となっていても、途中で席を移る必要があるが、座席を確保できることもある、と言うことが解った。
  これは病院の空床でもややもすれば同じである。 午前に退院しても空床報告では空床無しになっている可能性がある。リアルタイムにきめ細やかな退院報告があれば機能性を一層高めることが出来るのだが・・・と、考えつつ、仕事上は半日無駄にしたことを反省しつつ、大宮で新たに購入した本を読みふけりつつ、秋田に戻った。

 自宅へ向かうタクシーの中で病棟から緊急呼び出しがあり急遽病院に向かった。 出張旅費は返還無用とのことであった。


8/2(火)秋田、仙台、大宮共に晴れ  東北医連理事代表者会議(出席できず)  
1:30起床、ここ数日ほど暑くて寝苦しい。ドック判定総括x1、総括、紹介状返事。5:20病院着、回診、定期処方40数枚発行他。9:00-13:00外来、14:05こまちにて仙台・・のつもりが大宮まで。東北医連理事代表者会議は出席できず。大宮からとんぼ返り。22:00秋田着、病棟から呼び出し病院に。1:00帰宅。1:20就眠。

新幹線を乗り過ごす(1) 単独行動+騒音軽減ヘッドフォン+ラジオ深夜便+読書・・のためと深く反省
 本日は仙台で東北医連理事代表者会議があり、こまちにて仙台に向かった。秋田駅の書店にて前から注目していたPHP新書、富山和子著「環境問題とは何か」を購入し、発車間際に乗車した。

 県医師会長他の一行はいつもの如く別の車両である。横の座席は空席のままでまず快適、持参の書類や書籍など並べつつ、耳にはBOSEヘッドフォンで列車の騒音を軽減、MDに録音してあるラジオ深夜便の講演を聴きつつ、時に微睡みながら良い時間を過ごした。

 盛岡以降、先ほど購入した「環境問題とは何か」を読み始めたが、これが予想以上の本で一気に私の興味を引きつけた。もともと私は環境問題に関心を持っており、時折関連書籍も読むが、この著作は切り口が鋭く、私見も大胆に展開しているなど読み始めたら止められなかった。
 切れの良いところで車窓から外を眺めたら宮城県立がんセンターの立派な建物が目に入った!!??  このがんセンターは確か仙台の南にあるはず, 要するに乗り過ごしたのだ!仙台通過に停車したことに全然気が付かなかった。

 社内放送によると次は福島でなく大宮だという。途中停車駅の少ないタイプの列車であった。これではもう会議には100%間に合わない。更に帰路座席を確保している列車にも間に合わない。県医師会に連絡し会場にいる事務局長を通じて状況を伝えてもらい、あとはなるようになるしかないと割り切って座席に身を沈め大宮に向かった。

 私は移動時には出来るだけ単独行動を好む。そして騒音軽減ヘッドフォンを耳にあて、ラジオ深夜便を聴きつつ読書三昧を楽しむ。これで今まで大きな失敗はしてこなかったが今回はこれらがすべてマイナスに働いた。 反省しきりの一日であった。出張旅費は当然返すべきナンだろうね


8/1(月)快晴  管理会議  県医師会打合せ  長副会議 
0:00起床,JR内で適宜睡眠を取ったこともあり何となく寝足りた感じ。蒸し暑い夜だが明け方は急速に冷えた。HDD判定総括x1等すすめるがさすがにこの時間に起きると時間的にはゆったり。5:10病院着。事務処理,6:00回診その他病棟業務.8:00管理会議.9:00-14:00外来、15:00県医師会へ。療養病棟判定会議は対象患者無し。16:30-19:30長副会議。病棟処理21:00帰宅、21:30就眠。

日本医師会の「No1男女共同参画フォーラム」に参加(2)目から鱗  
 男女共同参画と言うことは時代の流れであり、社会のあらゆる分野において必要なことであることは、このフォーラムに参加して内閣府の局長の基調講演を聴いてよく理解できた。
 女性の参画は医療、医師の世界でも同様であるが、他の分野に比較して女性医師の進出、参画はプラスの面は勿論大きいが、マイナスの影響も大きく、無視できない。だから日本医師会へ女性医師問題への対応の要望が大きくなり、この会が開催されたということ。
 女性の進出と言っても、医師の中に於ける女性の割合は平成14年の統計でたかだか15.7%でしかない。しかし、医師国家試験に於ける合格者数は平成17年では33.7%も占めており、女子医学生中の割合は更に多いようである。従って、今後はその問題が年々大きくなっていくだろう。

 日本はまだ男性中心の社会、と言うか男性が家事を分担することは個人単位ではないわけではないが、概して少ない。従って女性は結婚・出産・育児と仕事の両立に苦慮している姿が浮かび上がってくる。その結果、日本の女性の就業状況は結婚・出産・育児の年代で低下する。これは先進諸外国ではあまり見られない現象である。これが医師の場合には両立が特に困難で女性医師にとって厳しい生活・就労環境が強いられることになり、結果的に退職やパート化に至っている場合も少なくない。
 従って、このまま女性医師が増加していくと医師不足にも拍車がかかることになり、周り回って男性医師の就労環境も悪化していく。

 だから、日医が女性医師問題を重視しこの様な検討会を立ち上げ、この様なフォーラムを開催したことの意義はとても大きい。男女共同参画社会を発展させて行くにはまず男性のものの考え方を変える必要があり、育児・家事が女性が担って当たり前と言う社会構造を変えていかなければならない。

 県医師会の総務・庶務担当という立場での出席で、会場に入るまで「何で私が男女共同参画・・なんだ?」とあまり気乗りしていなかったが、会場を出るときにはその気持ちは一変していた。良い時間を持てたと思っている。
 ただし、意見交換の場での発言者の冗長な話しぶりには心底不快感を持った。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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