徒然日記

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


4/30(土)晴天 病棟拘束 入院患者家族面談4件 リハビリ当直
2:00起床、ドック総括x1, 紹介状返事等.秋田医報校正作業、その他。5:30バイク病院。事務処理、6:30回診その他、8:45救急カンファ、10:30-13:30外来、混雑。13:30入院患者家族面談4件。17:00リハビリテーション病院に移動。夕食、22:30就眠.

JR福知山線脱線事故(2) 他人事とは思えない 私が経験した脱線事故
 私が遭遇した羽越線遊佐駅で特急列車の脱線事故では脱線と駅のホームに激突の2回目の衝撃があった。私が乗っていた車両は特に損傷はなく、ドアも通常に開いた。線路に降りてみて大体の状況が理解出来た。列車はプラットホーム側に脱線し、枕木の上を30cmほど左側にずれた状態で数十m走行し、先頭車両の左側がホームにぶつかったもの。それでもホームは端から5-6mも削り取れられ、一部は列車に押しつけられ激しく盛り上がっていた。一方、車両は車軸の一部が大きく変形していたもののそれほどの損傷でなく、その時、列車は随分丈夫に作られているものだな、と感心した。その時、工事区間の走行ということでかなり減速していたように思う。要するに、私が経験したのは今回の福知山線の事故とは比較出来ないほど微々たるミニ事故にすぎなかったが、それでも乗客の立場からはかなりの衝撃であった。

 私は高エネルギーを伴う環境ににをおくことに潜在的恐怖がある。バイク、自動車、鉄道、空路等高速移動手段は当然であるが、巨大な位置エネルギーを持つ建造物も怖い。極端なことをいえば、部屋の中で背よりも高く書棚に書籍が詰まっているだけでも実は怖い。怖いものは挙げるのにいとまはないが、避けては生活できないので覚悟して利用せざるを得ない。そこには現状で考えられる安全確保がほぼ出来ているだろうと、実態は知ることは出来ないが、常識的レベルの期待と暗黙の信頼をおかざるを得ない。が、何か事故が生じる度に以外と脆い状態に置かれているものだ言うことがさらけ出され、あきれるばかりである。
 この世に、特に人間が関与していることに、心から信頼できるものなんて果たしてあるのだろうか・・ともさえ思ってしまう。私自身も医師として本当にこの程度で良いのか?私の勤務する病院は???とも思ってしまう。
 その点は、自然は良い。地震とか噴火とかの現象はあるけど、この世で一番信頼できるのはやはり自然の営みなのではなかろうか。自然災害というのは自然の営みと人による不自然の営みとのギャップの間で拡大された被害であり、基本的に人災なのだと私は思う。

 今回の福知山線の事故は急カーブに高速度で侵入、同時に強力に制動をかけたこと等が加わっての複合的要因による脱線事故と考えられるが、その背景には商業主義的立場優先の無理なダイヤ編成があり、定時運行を守れなかった運転士には再教育のためという名目でいじめと思われる様な厳しい、かつ奇妙な制裁など行われていたらしい。今回の事故の運転士は遅れによる懲罰・制裁を免れようと規定以上に速度を上げていたと思われる。
 運転士自身にも問題はあったらしいが、そのような過密運行をするのであれば安全確保のための新しいバックアップシステムが導入されて当然と思われるが、事故付近の路線には導入されていなかったとのこと。複雑な運行ダイヤやシステムは個人の良識、技術、判断力にのみ頼っていては破綻を来す危険は増大するのは当然である。高エネルギーは基本的に巨大な破壊力を持つものであり、目的以外の方向にそれが向かった際には途方もないほどの危険を伴うものなのだ。

4/29(金)みどりの日休日 快晴    病棟拘束
2:00家内の帰宅を機に起床。ドック総括処理x1等処理。医報文章校正。入院患者不調で6:30出勤。回診等業務種々、10:30帰宅。12:00病棟より患者不調の電話、再度出勤、対応、19:30帰宅。夕食+α。20:30就眠。結局、終日病院で過ごしてしまった。外は快晴、風やや強いが、桜満開、何となく活気づいている。

JR福知山線脱線事故(1) 死者106人の大惨事に 他人事とは思えない
 4月25日朝に起こったJR福知山線脱線事故は28日4日間の捜索活動が終了、最終的死亡者は106人となった。海中に突っ込んだわけでも、火災が生じたわけでも無いのにこんなに時間がかかったのは、マンションに激突、一部車両が建物の中に深く入り込んで救出のための作業空間が確保困難だったことなど、従来にない要因が重なったためであるが、実に悲惨なことであった。亡くなられた方々、怪我された方のみならず、乗車されて事故に遭遇された方々には心からお見舞い申し上げたい。市街地の事故であったが、住民の方々に巻き添えになった方はおらなかったのは不幸中の幸いである。

 事故規模としては、史上最大、戦後の鉄道事故では死者数は4番目にあたるという。事故の直接原因は速度を30Kmほど超過した状態ででカーブに入ったことと考えられ、その前後の遅れを来した運行状況、運転士のキャリア、定時運行違反の際の厳しい制裁、収益第一のJR西日本の経営姿勢等が問われている。これらはこの様な事故がなければ一切解らなかったことであるが事故と安全との間が紙一重の薄さでしか無いような現実が明らかになる毎に驚きを禁じ得ない。

 私は怪我するほどの大事故ではなかったが、かつて羽越線遊佐駅で特急列車の脱線事故に遭遇したことがある。骨髄移植関連のセミナーか何かで新潟出張であったが、遊佐駅の手前、線路工事中のところで何らかの落ち度があったらしくそこを通過直後に脱線、そのまま何十mか走行し、遊佐駅のプラットフォームに激突して停止した。その時はガラガラで私が乗っていた車両には数人しか乗っていなかった。脱線した時には衝撃で身体が浮き上がり、その後もしばらくガタガタと走った後、前のめりになる様な2回目の大きな衝撃と共に停止した。その時には一体何が起こったのか、理解出来なかったが降りてみて大体の状況が理解出来た。その時の最大の印象は列車は随分丈夫に作られているものだな、と言うことであった。


4/28(木)曇 時々雨 総合内科病棟診療部会(欠) 療養病棟診療部会
2:00起床。ドック等業務ほか、医報校正作業、「すこやかさん」作文,5:25病院着,6:30回診。9:00-15:00午前外来、連休前で超超混雑。患者・医療関係者双方とも最悪日。待ち疲れて不機嫌な患者を、疲弊した看護師・医師が取りなす異常な診療風景が繰り返され、疲れが出る。入院患者処置諸々。13:45からの総合内科病棟診療部会は物理的に不可にて欠。17:00-18:00療養病棟診療部会。20:20帰宅、夕食、21:00就眠。


大型連休前の地獄:「待ち疲れて不機嫌の患者」を疲弊した看護師・医師が取りなす日々
 明日から巷ではいわゆる大型連休、ゴールデンウイークとも言う楽しい日々とのこと。この間、私は4月30日(土)は通常勤務で更にリハビリ病院当直、5月3(火)5日(木)の両日は日直である。この間に処理すべき業務は医局机上に山積みになっている。担当している入院患者は全員外泊も出来ずに残っているからそちらの方はいつもと変わらない。それでも休日は外来が無い分だけ時間に若干はゆとりが出るから、その時間を使って何とか処理していく。

 今週、月曜日から本日までの外来の4日間は私ども医療者にとっては地獄の日々であった。いや、これほどの混雑を予想せずに受診した患者も同様である。連休前に診察を求める患者達で外来は超混雑。私が担当する外来は9:00-14:00とこの三日間は予約外の患者が多くて連日約5時間、しかも、相当時間を意識して進行させてもこうであった。予約で通院してきた方々にもすっかり迷惑をかけてしまった。

 本日は更に1時間延びて診察終了が15:00と6時間もかかりっきり。外来は連日のことで慣れてはいるものの今週はかなり疲弊した。実際には診察が終了してからも書類とかの処理があるから更に1時間以上は外来に時間を取られてしまう。入院患者の回診は早朝済ましているから未だ若干余裕があるが、これだけ外来に時間が取られるとはっきり言って仕事にならない。

 正午前後までは未だ何とか良いが、それ以降の患者達は一様にふくれっ面。それは当然だ。中には待合室で2-3時間も待っておられた方も希ではなかった。こちらも何とか気持ちを和らげる様、配慮するのも大変である。この時間帯の患者の血圧は一様に高い。白衣高血圧というのは有名だが、私はこの様な日の血圧の値は「待ち時間高血圧症」と説明し、いつもより高くても気にしなくても良い旨を話して納得して戴している。

 患者達はわれわれ医師の前ではそれでも感情を抑え、そう文句は言わないが、待合室や会計の前では看護師や医事課職員を相手に不満をさらけ出していった方も相当おられた様である。本日の立ち番の看護師はあわや叩かれそうにもなったと言っていた。

 「ゴールデンウイーク」は日本語で言えば「金週間」。私どもは休めないから一ランク下げて「銀週間」程度だね。病棟も外来もお年寄りが溢れている。だからこの週を医療関係者は「シルバーウイーク」と呼ぶのはどうだろうか。秋田医報あたりで提唱してみっか?


4/27(水)曇 時々雨  県医師会定款改定委員会
2:00起床。いつものドック等業務ほか、医報用文書校正、「すこやかさん」用作文着手,5:25Taxiにて病院着,6:30回診。明日転院患者の紹介状+総括他用意。9:00-14:30午前外来、連休前で混雑。患者にも医療関係者にも類地獄日。入院患者諸処置諸々、18:00-20:00県医師会会長直接選挙関連の定款改定委員会。21:20帰宅、22:00就眠。


私のメイン機種の Mac G4 が突然原因不明の機能障害に(2)原因はマウス
 マックの不調なとき、不思議なことに一晩おくと回復していることも希にはある。そんな時は、半ば半信半疑でCPUなどのオーバーヒートとか??の関連だったと思ったりしている。今回は機能回復を期待して起動したが、駄目であった。
 電源を切って翌日の起動の間に何かがあったのか、と言うことになるが、4月1日以降は個人情報保護法の関係で自分の全てのマックにパスワードを設定してあるから家族の誰かが用いたとは思われない。だから、ソフトではあるまい。ならば片づけの際に何か不都合なこともあったのか??あるとすればマウスかキーボードか。

 試しに古いマウスを装着してみた。何と、全てが正常化した。そう言えば私のマウスは片づけの際にコードの長さの関係でしょっちゅうCRTにぶつけられる運命にある。それで遂に限界になったのであろう。それにしても、マウスの不調は今までは何度もあり、消耗品だと思うが、不調の際には殆どカーソルの動きが悪くなったのだが、今回は動きは影響なく、パソコン自体の不調になった。こんな事は初めての経験である。

 早速新しいホイールマウス(¥2700)を購入した。最近のマウスはボール式でなく光学式になっていて机上で赤く光って綺麗である。マウスパッドも不要、物理的劣化も少なく、メインテナンスも殆ど不要になっている。何か良い感じである。
 
 どちらにせよハード、ソフトのリニューアルは僅かの出費で遠のいてしまった。マウスが光学式になっただけでも、私のオールドマックは一歩当世風に近づいた感じがして嬉しくなった。ここ数日、新しい気分でマックに向かっている。


4/26(火)雨・曇 県医師会打合せ 医局歓送迎会
2:30起床、ドック総括処理x1、紹介状、医報校正、その他。
5:20病院.5:20定期処方発行等。9:00-14:00外来他。入院患者家族と面談、15:00-15:50県医師会18:30-21:20医局歓送迎会、弥高会館。21:30帰宅、22:00就眠。

私のメイン機種の Mac G4 が突然原因不明の機能障害に(1)
 コンピューターのウイルス対策ソフトの不調でJRや報道機関等のコンピューターが機能停止したとのニュースがここ数日飛び交っている。一つのソフトの影響がこんなにも一気に、かつ大きく出るものかと驚いてしまった。

 4月21日、早朝、自宅のメイン機種であるMac G4が起動直後から突然不調に陥った。幸い起動はしたが、起動直後は何ともないが5-10分ほどで処理能力が通常の20%程度と思われる鈍さにダウンする。これじゃ仕事にならん!!  昨朝の終了時までに何でもなかったのに!!  この間、何があったのだろうか? ちなみに、私はウイルスバスターは使っていない。

 私はMac ユーザーであるが、安物しか買わないからか、あるいは、あたりが悪いのか、Macの不調は数え切れないだけ経験し、作成中の大量のデータを一瞬に失った経験も数多くしている。だから、100%利用はしているが、必ずしも信用しきってはいない。そのため、何時でもバックアップ用のを側に1台置いている。早速、PB5300を立ち上げて仕事は進めつつ、G4の方の対策を平行して行った。
 再起動を数回試みても改善無し、次いで、ウイルス情報を最新のにアップデートしスキャンしてみたが感染は否定され、マア一応、安心。その後、デスクトップの再構築、DRAMのクリア、修復ソフトによる診断修復など、私の考えられる範囲での対策を全てやってみたが、出勤予定の5:00も迫りこの朝の対応は空振りのまま終らせた。

 少なくともこの時点までは、未だ原因は分からないものの、G4内部のソフトのトラブルのように思えていた。OS9.1のクラッシュか?ならばハードディスクの初期化してリニューアルみるか、面倒だな、それなら一層のこと新しいソフトのOS-Xを購入してVer 10.3に切り替えようか? イヤ、対策は後回しにして、この際、今評判のMini  Macを買うか・・・などと思いを馳せつつ夜帰宅後に、もし同じなら前向きに考えることとした。

 この様に、対策をいろいろ考えている時が、実は私にとってはマンネリから脱却するチャンスでもあるから、本当は楽しいし、好きな時間でもあるのだ。


4/25(月)晴れ→雨 管理会議 療養病棟判定会議 長副会議 
1:20起床。ドック総括x1、退院総括、紹介状等。
5:20バイク病院.天徳寺ガードの桜、若干蕾が膨らんできた。毎日通のが楽しみである。回診等。8:00管理会議,9:00-14:00外来他。患者家族と面談。15:00病棟対応、16:00-16:20療養病棟判定会議、16:30-19:00長副会議20:30帰宅、途中雨で戻り車で帰宅。夕食、21:30就眠。

矢張り根競べか、残された時間との闘い ベネディクト16世 
 4月19日、コンクラーベは比較的短期間でラッツィンガー枢機卿を第265代教皇に選出した。ラッツィンガー氏は1927年ドイツ生まれの78歳、ベネディクト16世と名乗る。私はこの方面には全く疎いから何も言及出来ないが、有力候補者の中から最高齢の方を新法王に選んだことに対して驚きの念を禁じ得ない。

  新教皇の下で、教会は深刻な問題に対峙していくとの意向を示している。資料によると、経済格差是正、貧民・子ども・難民対策、女性の権利擁護、受胎から自然死に至るまでの生命の問題、正義と人権、平和の実現、宗教間の対話、環境保護、エイズ等の脅威に対する医療・保健活動、移住者への奉仕、など等挙げている。教会は、諸宗教を信じる人々と共に、すべての国、国連、国際機関、そしてすべての善意の人々との協力のうちに、これらの課題と取り組んで行くという。

 すごい目標である。

 78歳の新法王はちょうど78歳になったばかりで、1730年に78歳3ヶ月で選出されたクレメンス12世に次ぐ第二の高齢法王だという。この方にあと何年の実務能力が残っているというのか?実務よりも高年齢であるというシンボル的存在なのか?私には理解出来ない世界だ。
 お亡くなりになったヨハネ・パウロ二世は58歳で就任され結果的に25年にも渡って君臨され数々の改革を成し遂げ、平和活動を行ってきたと言うが、一方ではかなり保守的な部分もあったと言うことで、25年に渡って改革を諦めなければならなかった面もあったわけだ。だから、むしろ、彼の様な長期政権に対してのアンチテーゼであったのか??

 私は90歳を超えてなお矍鑠とされているある医師の活動、及びその周辺の方々の考え方、すらあまり評価出来ないとの立場をとっているし、私自身が還暦を機に可能であれば現役を退きたい、いや、退くべきだ、と考えているほどであるから、この世界のことを理解出来ないのは当然であろう。だから無責任な感想でしか述べられない。

 そうそう、もう一つの私の疑問は、高邁な教義を挙げている宗教が、世界の平和のために大きく寄与した事実は歴史上にあるのだろうか?と言うこと。宗教戦争なら10程度は思いつくけど。


4/24(日)快晴 温暖 開花宣言 FF tennis  病棟拘束   
2:00起床。ドック総括処理x2等.「患者の権利」「個人情報」関連原稿等作業。11:00-12:30久々Vn。13;00-17:00FF tennis。6-4、0-6,6-2、11-11。最後は泥沼なるも今日はここ数回の中ではまずまずの出来。17:30-20:00病院、事務処理,回診等。20;15帰宅、夕食、21:00就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (11) 
 秋田組合総合病院の医師住宅で道路の騒音に悩む
 秋田大学入職後、家内は秋田組合総合病院外科に勤務した。秋田での住居は秋田組合総合病院の医師住宅に入居させて戴いた。秋田市土崎港の街のど真ん中で大学病院には若干の距離はあったが組合総合病院にも、家内の実家にも、長女を見てくれる方の家にも近いという便利なところであった。二階建てでわれわれの生活の範囲では狭からず広からずで手頃であった。
 しかし、街のメインストリートの道路脇であることで隣家とも近く、常に自動車の騒音に悩むこととなる。通常は早朝出勤し、夜も必ずしも早い帰宅でなかったからそれほどの実害はなかったが、些かオーディオにも凝っていたから、週末、特に窓を開放する夏場には終日の辛いものがあった。

 その騒音の圧巻は私にとっては土崎港曳山祭りであった。この祭りは秋田市土崎地区に伝わる300年以上の歴史を持つ由緒ある祭りとされている。国指定重要無形民俗文化財の指定を受け、 毎年7月20日から21日の両日に行われる。メインストリートには出店が並び、台車の上にいろいろな人形を形作った大型の曳き山が10数ヶ、お囃子と共に大勢の引き手に引かれて街を練り歩く。土崎地区の住民にとっては一年の生活の大きな節目となる最大の行事と言っていいだろう。街全体が熱気溢れる状態となる。若者達は血湧き肉躍ると言った感じかな?組合総合病院ですら半日休診になるほどである。
 こんな重要な行事ではあったが、余所者の私にとっては大した意味も感じず、曳山も最初の年に見たが、殆ど興味の対象にはならなかった。

 この道路の騒音のために入居早々、私は機会があれば閑静なところに移りたいと思ったが実際には3年ほど住むことになる。祭りに関してはこの間大学病院の当直することで難を逃れていた。


4/23(土)秋田 雨、盛岡曇 寒い日 病棟拘束秋田 東北医連打合会(盛岡)
2:00起床。2;30家内歓送迎会で酔って帰宅。ドック総括x1等。5:10病院着、事務処理、6:30回診等。8:45救急カンファ。10:30-12:30外来。12:58こまち、15:00-17:00東北医連シンポウジウム等打合せ
。石割桜、若干ほころび始めたという。17:25こまち。19:30帰宅。21:00就眠。こまちは往復共に20-30%でガラガラ。往路は寝不足で熟睡、復路は少量のアルコールの影響で熟睡、駅で購入した本読めず、MDはずっと空回り。秋田・盛岡間往復は自分にとっては一瞬でワープしたようなもので時間的ストレスゼロ。こういうのを夢の旅行と言うのかな。

中学の修学旅行、往路は「三等車」、復路は「二等車」!! すごい
  ラジオ深夜便、今朝の3時からの「日本のメロディ」は駅の情景特集。戦後の駅を唄った曲が数曲かかった。それを聴きながら、そう言えば子供の頃は「
一等車」(どんなものだったか想い出さない、夢の列車だったか??)、「二等車」(現在のグリーン車)、「三等車」(現在の普通車。特別料金が必要ない車両) の別があって、随分格差があったことを思いだした。「二等車」は窓から覗くだけであったが、座席には白いカバーが掛けられ、一件フカフカ、すごいと思ったものである。

 中学3年の時、修学旅行は北海道であった。修学旅行の際には大勢の場合は特別列車があつらえられたこともあったし、通常のダイヤに客車が連結される事もあったと記憶している。我らの場合は総勢70名ほどであり、勿論、後者であったと思う。勿論、「三等車」。内装は木製、背もたれた直立して固定され、座席は一応スポンジはあるものの長く座っていれば尻が痛くなる代物であった。その中で大騒ぎしながら移動して行ったものである。当然、米持参、夜の旅館での「枕投げ」も良い想い出である。

 青函連絡船は「摩周丸」「八甲田丸」「大雪丸」「羊蹄丸」「十和田丸」等の名前を記憶しているが実際は何に乗ったのかまでは記憶がない。往路は古い船体で大部屋で雑魚寝、復路は比較的新しい船体で「松前丸」だったか座席であったと思う。
 
 当時、「二等車」に乗るなんて言うのは通常の人達にとっては夢中の夢、それが私どもの修学旅行は復路は全員「二等車」であったから、この話をする度にみんなに驚かれたものである。
 今は通用しない話になってしまったけれど、何と言うことはない、私どもの修学旅行は1960年だったと思うが、この最中に制度が変わって
一等車」が廃止になり「三等車」が「二等車」と呼ばれるようになっただけの話し。この歴史の変わり目に修学旅行で移動していたのは100%偶然であるが、何故かこのことだけは記憶から消えていない。


4/22(金)曇  院内対策委員会   法人理事会 
2:30起床、眠い。ほぼ同時に家内帰宅、朝まで眠らず何かやっている。ドック総括処理x1等.5:15バイク病院着.事務処理・回診等。10:30-13;00外来、13:45ドック診察x5。16:00急遽院内対策委員会開催、医師会打ち合わせは無理。17:30-19:00法人理事会。19時過ぎ患者さん死去。見送り等。21:30帰宅、22:00就眠。

もしも、農産物の輸入が止まったら
 「夕食はご飯1杯と焼き芋1本、焼き魚1切れだけ」。これは、食糧難に悩む近隣のある国の夕食でなく、農産物の輸入が停止した際にわれわれ日本人が食べられる標準的夕食のメニューのシミュレーションである。ある経済業界紙のコラム欄に載っていた。これは農水省の作だというが、文献的に調べたりしていないが、多分本当だろうと思う。

 更に、朝食は「ご飯1杯と粉吹き芋、ぬか漬け1皿」、昼食は「焼き芋2本とふかし芋1個、リンゴ4分の1」と想定している。これでは耐えられないと言う方々のために更に続けると、うどんと味噌汁は1杯/2日、牛乳はコップ1杯/6日、卵は1個/7日、食肉は1食/9日程度は何とか食べられることにはなっているそうだ。
 農水省は食糧自給率向上を訴えるための想定しと考えられるが、世界的に食糧難が進んでいることを考えれば、こんな豊かな食糧供給がいつまでも続くとは考えがたい。現在、日本の食料自給率はカロリーベースで見て40%ほどで、先進国中最低である。一見、豊かに流通している食料であるが、いまいちど考えるべきではないか。食糧のかなりの部分を海外に依存し、脆いバランスの上に成り立っているわが国に対しては、食料は最も効果的な武器の一つになり得る。農産物安保が将来的には必要になってくるだろう。
 一方、こんな状態になったとき国民に一人一人に食料を供給するのか??国はまじめに考えておくべきである。経済的に余裕がある一部の人々が買い占めでもしたら、弱者はもう生きられない。地獄絵図が待っているかもしれない。

 勿論、農産物が主たる輸出品であるという国も少なくないから、国際的食料流通バランスが簡単に、かつ大きく均衡が崩れるとは考えがたい。そうは言っても、エネルギー、水、各種の資源も我が国にとっては同じ様なものだから、食料問題だけでは片手落ちである。こういう面からの危機管理は出来ているのだろうか。


4/21(木)雨→晴れ、 秋大麻酔科訪問  療養病棟歓送迎会
2:00起床。家内はICU当直で不在、ネコと共に過ごす。新聞チェック。退院総括処理x1等.その途中、マックG4突然不調となる。再起動数回、デスクトップ再構築、ウイルスチェック、リカバリーソフトに修復試みるも全て空振りに終わる。後は明日にかけよう。かなりの雨、5:15車で病院着.事務処理、回診等。9:00-14:00午前外来、混雑。16:30-17:00秋大麻酔科教室訪問。18:30-21:15西丸にて療養病棟歓送迎会。場所解らず30分ほどウロウロ、携帯で助かった。医局に戻り事務処理後、椅子で1時間ほど熟睡。23:00Taxi帰宅、23:15正式に就眠。

NTT電話料金請求  USA-秋田間  24:53- 1245 、27:26- 1375
 20-30代の頃、大学からアメリカに所用があって電話をする必要があって、と言っても2-3回、しかも先方は留学中の日本人医師だから言葉には困らなかったが、当時は電話代金は目が飛び出るほど高かったと記憶している。時差もあって気を遣うほかになかなか相手につながらずに閉口したものである。そのために可能な限り手紙を利用していた。電話料金は10分くらいで優に1万円は超えていたような気がする。
 
 で、いかに安くあげるかを考えた。当時はオーディオにも若干凝っていたから録音機器もいろいろあった。用件をテープに録り、それを4倍速で電話から送り、相手方には4倍速で録音して貰い、普通速に戻して聞いて貰う手を考えたりした。これだと用件部分は1/4の料金で済むはず。
 相手の都合で実行は出来なかったが、今多くの電子機器で行われているデータの圧縮法の私家版である。それ以降今まで20年以上も電話をかけていないから私の電話に対する感覚はこのときのままである。

 1ヶ月ほど前に横浜在住の長女が帰省してきた。夫はNYに単身赴任中である。2-3日の滞在期間に家から数回NYに電話をかけたようである。数回で約1時間も話したらしい。普段はメール等でやり取りしているであろうが時には電話も必要なのだろう、と思って鷹揚に構えて見せたが、来月の電話代は10万円は行くかな?と内心では覚悟を決めていた。

 数日前にNTTから請求書が届いたが、何と「NTT電話料金請求  USA-秋田間  24:53- 1245 、27:26- 1375」と印字されている。約1時間で僅か2500円ほど。私の予想の1/50ほどで安い。これでは私が出張時に東京、大阪あたりのホテルから秋田のプロバイダーを経由してダイヤルアップでホームページにアクセスしたりメール確認、返信したりするときの電話料と変わりないじゃないか!!!と驚いてしまった。

 現代の事情にすっかり疎くなって来ている自分を、また再確認してしまったね。


4/20(水)曇り→雨 医師会理事会 
2:00起床。新聞チェック、紹介状、講演準備、徒然。5:15病院着.事務処理・回診等。
9:00-14:00外来、混雑。15:00入院患者家族と面談、患者処置など。16:30-18:30県医師会第1回理事会。残務。21:30帰宅、22:30就寝。家内ICU当直と言う。


秋田県知事選  投票後10分で当確 拍子抜け 
 4月17日は秋田県知事選であった。その他、県下では合併して新しく発足した数市町村の首長の初選挙が行われ、結果は何れも現職候補が選ばれた。合併市町村では合併過程の種々の問題点から結構選挙の関心が高かったとされる。結果は有権者の多い地域の元首長が全員当選した。選挙と言えば結果は全て得票数であるから、マア当然の結果である。

 その点から見て知事選は低調であった。寺田知事は約30万票、次点の候補が20万票で決着した。今回の秋田県知事選挙は細かいことを言えばいろいろあるが政策的論戦の少ない選挙であった。何が主たる論点であったか、私も十分理解出来なかった。その点からは対立候補は自身の論点を有権者に浸透させれなかったと言える。投票率は63%と最低、秋田市は何と51%であったという。寺田知事は自身の過去の得票数を大幅に減らしたが、これは飽きられたから、が主な理由だろう。県内の景気対策に成果が見えないが、そうは言っても対立候補は得体が知れないし・・、と言うことから、支持した票も「棄権するよりは良いだろう、今回もマア寺田で行くか」と言った、消極的票だったのではなかろうか。

 私は所用があって投票時間終了5分前ほどに投票に行った。帰宅し夕食を前にラジオを付けたところもう寺田知事の当確が報道されていた。投票後10分である。これにも拍子抜けした。出口調査の結果であろう。
 私が投票した票はおそらく未だ投票箱の中にあって選管の投票所に運ばれつつある路上にいるはずである。これじゃ何のために投票に行ったのか解らないじゃないか。万難を排して、すごく無理して、やっと間に合って投票したのに、と虚しい気がした。電子投票ならこの様な状況は当たり前であろうが、その際には自分の投票も積算されるから良いんだが、これではちょっとね。マア、選管が発表する最終結果と結果に差があるで無し、その際には自分の一票も加算される、と納得せざるを得ない。が、自分の参加が何ら役立つことなく結果が発表されたと言うのはやっぱり虚しい感じが拭えない。


4/19(火)快晴 県医師会打ち合わせ 
 
2:15起床,退院総括x1、etc.5:15バイクで病院、回診他、定期処方箋発行。入院患者病状悪化、対応。 外来9:00-12:50.秋田医報校正2部。14:00入院患者と家族面談、16:00医師会打合せ、各種書類対応。次回講演「患者の権利」準備開始。20:30帰宅、賄いの石井さん無事業務復帰。夕食、21:00就眠。

反日暴徒:呆れた中国の対応(2)   しかし、国の体制の維持のための放任とみる
 今の中国は経済の開放政策は採っているが、国家体制としては社会主義を立て前としている。1990年初頭、ソ連崩壊、ルーマニア問題等で危機感を強めた中国政府にとって最も恐れるのは国家権力に対する国民の求心力の喪失である。民衆が過度の自由に染まることを警戒し、そのために中国は愛国心を高揚する方策をずっと採り続けてきた。

 教育の場では近代歴史を重視し、迫害の歴史を論じ、愛国心を高揚する教育が行われている。日本では愛国心なる言葉はむしろ嫌悪感を持ってとらえられるが、中国ではそうではない。中国人は愛国心を大事にしている。「愛国無罪」と言う言葉すらあるという。これが通用する背景には教育の成果、政治手法としての一面だけでなく根深い儒教思想がある。その精神を表す端的な言葉が「修身斉家治国平天下」である。
 
 この様な背景から見ると日中国交正常化の時の賠償放棄、小平氏がとった尖閣諸島の領有権問題先送りなどは新しい世代の若者達から見れば柔軟すぎる政策のようにうつるのであろう。若い世代は経済問題とは別に政府の対日柔軟政策に不満を持っているとされる。若者の間で「ネオナショナリズム」が出てきている、と見る学者もいる。これが今回の暴動に結びついているとすれば、この反日暴動を国家権力で抑制すると、激しい反日感情で燃え上がっているそのエネルギーは当然権力側に向かう。それを中国側が最も恐れているのだろう。だから、対日問題は強攻策を採らざるを得ないのだ。

 靖国、教科書、尖閣諸島問題、閣僚の失言問題等は中国にとっては国民の愛国心高揚、求心力高揚の都合のいい材料である。歴史問題を中心にした「反日」であることは明らかで、その点、日本の責務も重いが、日中外相会談は緊張のなかでも歴史問題での共同研究の開始と言う未来志向の意思を示した、と言う喜ばしいニュースも伝わってきたのが救いである。


4/18(月)快晴 管理会議 療養病棟判定会議 長副会議
2:00起床、退院総括x2。5:10今期初バイクで病院へ、さすがに早朝はまだ寒い。身体が引き締まる。回診など。8:00管理会議. 9:00-13:00外来。ひたすら事務処理、医報校正等。16:00-16:45療養病棟判定会議、7名判定。 16:45-19:100長副会議、若干遅れて参加。20:20バイク帰宅、夜の走行も寒い。夕食、21:00就眠。

反日暴徒:呆れた中国の対応(1)   しかし、国の体制の維持のための放任とみる
 中国でここ3週間、激しい反日デモが拡大している。日本と中国の現在・未来にかかわる重大な問題に直面している、という認識を両国政府、国民共に持つ必要がある。しかし、この事件の影には苦しい中国政府の姿があると私は思う。

 4月2日四川省で始まった反日デモは、北京や広東省広州、上海へと広がり、16日の上海でのデモは数万人規模に拡大、暴徒化した若者たちが日本料理店などを襲い、日本総領事館は五時間にわたって投石された。中国側はこれらの暴徒をなすがままに任せていたと言うが、これは明らかにウイーン条約の違反である。何故、抑制しなかったのか?? 

 昨日からの外相会談で町村外相は、大使館や総領事館などへの投石事件に対し、中国側へ謝罪、補償と再発防止を求めたが、李肇星外相は、法に基づいて措置したと謝罪を否定、逆に日本政府は歴史問題で中国国民の感情を傷つけたことが原因と反論した。中国側からは一切の謝罪の言葉はなかったと表明した。謝罪要求に対して中国側は終始、印刷物を読み上げるだけだったという。

 強硬な中国の対応である。国際的には通用しない姿である。何故か??

 中国のこの姿勢はオリンピック開催を前にした、近代国家としての脱皮、国際社会へ進出を目論む国家の姿としては信じられないことだし、3月の全人代で実質的にスタートした胡錦濤政権は国際的に大きな痛手を負うことになった。

 しかし、私は中国国家はあえて暴徒を抑制しなかったのだと思う。 今、中国は体制維持のために必死になっている。中国がかかえる最大の内憂は、国民の経済格差の是正、民主化要求の芽生えである。そのエネルギーの矛先を都合良く盛り上がってきた対日感情に向けること、それが国際的評価の後退をもたらすとしても、中国政府にとってはそれ以上の価値があるからなのだと思う


4/17(日)小雨→快晴 FF tennis 病棟拘束 バイク等整備 
 2:30起床、家内帰宅、イギリスから患者搬送されてきた為と!!  新聞チェック、紹介状、など作成数件。1-2時間本読み。9:00頃から除雪機清掃格納、ハーレー引っ張り出し整備、充電など。クロームメッキ部分、錆びて悲惨な状態なるもホントはこれが私の好みの状態。機能的にはオイル洩れ若干。13:00-16:40FFテニス2-6、4-6と今回も劣勢。17:00-19:30病院、回診ほか。20:00帰宅、夕食、21:00就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (10) 
夕食求めて市内を転々

 秋田大学入職後、家内は秋田組合総合病院外科に勤務した。
 その頃の日常は、朝7:30頃に長女を2Kmほど離れた家内の叔母宅にあずけ、家内の病院に送り、私は大学病院に出勤した。当初の1年ほどは私も19:00-20:00頃には何とか仕事を終える事が出来たので、長女と家内を迎えに行った。

 たまたま早く帰れたときには自宅で夕食を摂ることもあったが、通常は夕食を自宅で用意するのは時間的にも困難であったために、土崎港町内の食堂やレストランを転々し、夕食を摂っていた。時間が遅くなると自宅近辺には開いているところもなく、秋田の中心街まで出かけていたものである。
 こういう状態を見かねて家内の実家で私どもの夕食を用意してくれた。とても助かったが、やはり家内の実家とはいえ、夜遅くに世話になることは私にとって精神的プレッシャーは多大であった。自分達6人家族の夕食とは別に、時間をずらして私どもの食事の支度をしてくれた、今は亡き義父母達にいかに感謝してもしきれない。

 この様な夕食の形態は、後日、思いがけないことから解消することになる。
 長女の世話をしてくれていた家内の叔母さんが娘二人を連れて我が家で同居生活をすることになったからである。この時から約20年、我が家は6-9人の家族で暮らすこととなった。私にとって他人である叔母さん方との同居である。それによって失ったものもないわけではないだろうが、本来、子供は大勢の家族の中で育てるべきだと思っていた私はこれも幸運の一つと受け入れた。これによって私ども夫婦はあまり時間にとらわれないですむ自由な時間を得たことは大きい。


4/16(土)晴れ 病棟拘束 中通総合病院地域医療連携部「卯月の会
2:00起床、ドック他業務、 5:20出勤.昨年の日記には病院近辺、道路脇の桜は殆ど満開に近い、と記載あるが今年の蕾は未だ固い。6:30回診他、8:45救急カンファ、9:00ドック結果説明x1。10:30-13:00外来。残務処理、主治医意見書など。18:00View H、中通総合病院地域医療連携部の「卯月の会」。日常、医療連携をしていただいている近郊の診療所・病院の院長等60名ほどと当院の関係者20数名出席盛会であった。21:30帰宅、誰もおらず。21:30S就眠。

英語「 conclave」と「根競べ」不思議な語呂の一致(2) 内容もほぼ同じで厳しい根競べ
 百科事典によると、次期法王を選ぶ会議は英語で conclave 、語源はラテン語の cum clave(鍵と共に、らしい)。新法王を選出するために、80歳未満の枢機卿たちが選挙人となって行う会議で、2/3の賛成票を得る者が出るまで、投票を繰り返すという。
 会議を行う部屋には、鍵が掛けられ、新しい法王が決まるまで、枢機卿達は何日も部屋に閉じこめられ、TV、ラジオもなく、携帯電話、メールは勿論外部との連絡は一切御法度。そのために、cum clave(鍵と共に)の名称がついた。この形式の会議は、1271年からで、時期法王選挙を速やかに行うことが、当初の目的であった、とある。かつては数年を要したこともあると言うが最近は数日で決まる。数日と言え缶詰状態になる枢機卿達は大変である。まさに「根競べ」。12日間かかって決着が付かない場合の取り決め事もあるという。

 4月18日からのコンクラーベには病欠の2人を除き115人が出席予定で、お2人の日本人も選挙に参加するという。有力候補5人の年齢を見ると78-68歳とご高齢の方々が並んでいる。死去されたヨハネ・パウロ2世(84)は確か58歳で選出だからその時は特筆すべき事件だったようである。
 26年振りにイタリアから選出されるのか、歴史上初めてブラジルの枢機卿(70)が選ばれる可能性もあり、全世界から注目されている。

 本日は秋田県知事選挙及び7市町村の首長選挙である。
 日本の選挙に纏わる語呂合わせとしては「公職選挙法」があるが、コンクラーベに引き続いて論じるのは不謹慎だから止める事にする。


4/15(金)晴れ 温暖  医師会打ち合わせ 療養病棟利用について整形外科と打合せ
2:30起床、紹介状返事、メール返事 他。5:20Taxi 病院へ。回診他。ドック説明なしで若干余裕。机上懸案書類かなり処理出来た。10:30-12:30外来。ドック診察x5。15:00-16:00県医師会打合せ。16:00療養病棟利用について整形外科と打合せ。回診ほか患者家族との面談など業務、21:30帰宅。21:45就眠。

英語「 conclave」と「根競べ」不思議な語呂の一致(1) ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が死去
 455年ぶりにイタリア人以外から選ばれたローマ法王、ポーランド出身のヨハネ・パウロ2世(84)が日本時間4月3日4:37am、バチカンの法王宮殿の自室で死去した。法王は11億人近いカトリック教徒の精神的な支柱で、在位中に104回も外国訪問し「空飛ぶ聖座」と呼ばれた。
 死因は敗血症ショックと心不全とのこと。法王は2月、インフルエンザなどで2度入院し、気管切開手術を受け、心臓や腎臓の機能が低下していたとのこと。

 法王の病状はラジオのニュースで刻々と伝えられた。その闘病の様子の報道は、かつての昭和天皇の死去時の状況を思わせる雰囲気があった。意識も遠のいた状況で人工呼吸器や透析も行われた、とのことである。私の感覚では、もう少し早く楽にしてあげられないか?と思って聴いていた。ご高齢の方に真に必要なことは「この世に命を続ける努力」よりも「安息」であり、「休息」であり、「静かな旅立ち」である。

 私の知らない世界の方ではあるが、法王が最も力を入れたのは平和の訴えで評価が高い。一方で中絶や離婚などカトリックの教義については、きわめて保守的な姿勢をとり続けた、と言う二面性があったらしい。他方、「開かれた教会」をめざし、他宗教と協調を図る路線へ転換、新教諸派と対話を重ねた、ということなどで
全世界の信者だけでなく為政者からも敬われていたのことである。

 81年に来日し、被爆地・広島で「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うこと。広島を考えることは、平和に対しての責任を取ること」と軍縮・核廃絶を訴えるアピールを発表した。 私の好きな言葉の一つ、「過去を見ないものには、現在も見えていない」とほぼ一緒の言葉だな、と思った記憶がある。


4/14(木)晴れ  県医師会「個人情報保護」関連講演会+情報交換会
3:00起床。5;30病院着.昨年はもうバイク通勤を始めていた。また、天徳寺桜がほころび始めたが今年は未だ堅い蕾のまま。回診その他。9:00-14:00外来。14:00患者・家族と面談。18:00県医師会に。18:30-20:12県医師会「個人情報保護」関連講演会、座長を務める。20:30-22:30情報交換会。睡魔強烈。22:45帰宅、23:00就眠。


書評 海老澤 敏著 「瀧 廉太郎」-夭折の響き-   岩波新書 岩波書店 東京 2004年   740円
 ここ数日、久しぶりに滝廉太郎作曲ピアノ小品「メヌエット」、大好きな「憾み」を聴きながら仕事をしている。その切っ掛けは先の日本内科学会総会の途中で東京駅の書店で見つけて購入した一冊の本、岩波新書921、海老澤 敏著 瀧 廉太郎-夭折の響き-である。大阪に向かう車中で一気に読み切った。

 既に名曲「荒城の月」など発表していた滝廉太郎(1879-1903)は21歳の春、船で留学先のドイツに向かった。しかし、ライプチヒでの留学生活は長くは続かず、音楽院入学後僅か2ヶ月で結核を患い、志半ばで帰国、大分で23歳10ヶ月の生を終えた。

 絶筆になったピアノ曲
「憾み」は2年ほど前、たまたま我が家で知人が弾いてくれたのが私が聴いた最初であるが、その時の驚きは今でも鮮明に思い出す。作曲家が瀧だとは思いもつかなかったが、二短調、6/8拍子、重音の衝撃音から始まるこの曲は、何故か忽ち私の心の深いところに入り込んで、未だに離れない。滝廉太郎の曲、しかも絶筆となった曲、と聞き、この曲の不思議な雰囲気が良く分かるような気がしたものである。

 
譜面には亡くなる4か月ほど前の明治36年2月の日付が記載されているというが、私は実際には瀧やこの曲について何も知らないままに最近まで聴いてきた。胸躍る船旅、あこがれのドイツでの留学生活、発病、帰国。暗転した人生、間もなく迎えようとしているその短すぎる生涯の終わりに際しての彼の心情に想いをはせれば、何も言いようがないし、この曲の題名「憾み」は胸に染みる。曲は静かに心情を訴えるのではない、激しく、激しく、不運を訴えている。

 私はこの新書によって多くのことを教えられた。

 この本はライプチヒの街角に建立された滝廉太郎没後100年記念碑を著者が訪れたところから始まる。そして彼の生い立ち、この頃の日本の音楽事情などが語られていく。この頃の、洋楽の聡明期とも言うべき日本の音楽事情も興味深い。
 終章としては「荒城の月」その後、である。何と瀧の名作「荒城の月」は後輩山田耕筰によって手が加えられているという。#が一つ外されただけであるがそんなことはこの本を読むまで知らなかった。そんな事実の有無にかかわらず、「荒城の月」
は自然の中における人間の栄華の儚さを謳っている名曲である。

 海老澤 敏著 「瀧 廉太郎」-夭折の響き- 岩波新書は貴重な資料集としても値があり、お薦めの本である。 



4/14(水)快晴 県医師会常任理事会
1:30起床。紹介状の返事・対応に手間取る。主治医意見書x3記載。5:10病院着、回診他業務.救急カンファ人数があふれており邪魔になるだろうから欠。9:00-14:00外来、その後自室に引き籠もり院内、対外的業務、訪問看護指示書ほか懸案事項多数処理.17:30-19:30県医師会理事会+打ち合わせ。病院にて残務、21:30帰宅.21:40病棟より電話、急遽再出勤、患者死亡、0:00帰宅、0:30就眠。

私は選択的難聴、ラジオは邪魔にならない(2)ラジオが醸し出す不思議な連帯感
 ラジオを好むといえども、聴くときは殆ど仕事中とか本読みの時で、真面目にラジオだけを聴いていることはまずない。さらに、一人で居るときが大部分で、他人が居るところでは殆ど聴かないか、ヘッドフォンを使用する。
 小音量で鳴らしているから何かに集中すると殆ど聞こえなくなる。従って邪魔にはならない。実際に聴いているのは半分もないだろう。だから、高度の選択的難聴と言っても良い状況だ。
 重要な番組、味のある番組等はMDにLPモードで録音しながら聴く。後で通勤時とか出張時にヘッドフォンで聴き直す。今、その様な聴き方をしているのはNHKラジオ深夜便4:05amからの「心の時代」、これは良い番組だ。各界の方々が毎朝登場、実に味のある話を静かに静かに語りかけてくれる。
 早朝、誰もいないところで聴くラジオの味わいは、話す側と聴く側で知らず知らずに形成される一対一のホットな連帯感のようなものなのだろう。スクリーンという視角に訴える装置は、どうしてもより大勢の視聴者を意識した作りであるが、これが無いことも一つの要因。聴こうと思って聴くとき、意識を集中させなければならないから、語りは想像によって修飾され、直接リスナーの心に語りかける。更に、ラジオ深夜便の場合、常識的に言えばまともと思えない時間帯に互いにおきて仕事をしているとの連帯感がアナウンサーとの間、聴いている方々都の間に知らず知らずのうちに芽生えるようだ。

 日常ラジオが話題になることは殆ど無くなった。しかし、ラジオは良い。



4/12(火)晴 秋田県感染症評価会議 県医師会打ち合わせ 
2:00起床,紹介状その他、5:10病院着。6:10回診等,処方箋45枚。9:00-13:45午前外来。14:00ー15:00秋田衛生検査研究所にて感染症情報検討委員会,15:00-15:30医師会書類チェック,打合せ。i Book用キーボード、マウス購入。書類とMac OS10.28と格闘、出前夕食、21:30帰宅。21:50就寝。

私は選択的難聴、だからラジオは邪魔にならない(1)
 今はすっかりTVに押されてラジオは情報源、娯楽としての地位を失ってしまった。昨日の朝日新聞でこの様な記述があった。一般的な話で言えばその通りだろう。
 私にとっての放送メディアは、時間的に見ればラジオが95%以上でTVは殆ど見ない。放送とは異なるがここ数年はインターネットからも情報を得ているが均すと一日せいぜい10分程度だろう。
 我が家にTVが入ったのは昭和33年前後、最初は物珍しく鎮座して観ていたこともあるが間もなくラジオに戻った。この頃から大きくは変わらず、今でも私にとってはラジオは主役である。
 私の生活エリアの中では自宅では居間を中心にトイレ、風呂場、枕元、作業机、ガレージにもラジオが置いてあり、更に毎日持ち運んでいるディバッグの中にも常に持っている。職場でも自室の机にも何個かあり、病棟にも2ヶほど置いてある。サイズは大型の装置から名刺大の薄型までと幅が広い。何で今でもTVでなくラジオなのか、と言うと、一言で言えば自由であること、TVは自由を奪われるからだ、と思う。
 何で自由なのかというと私が選択的難聴だからなのだろう。自分の状況に応じて全く聞こえなくなるから邪魔にならない。



4/11(月)晴れ 管理会議  療養病棟判定会議 長副会議
1:30起床、寝不足感、軽い脱力感で全身ボーとする。医報巻頭言脱稿。HDD1名総括。5:20病院着。残務、回診その他、時間的には余裕なし。8:00管理会議.9:00-15:00外来、超混雑。これほど外来に時間取られると全く時間なく、午後の予定していた業務不可に。総括・紹介状数編用意。16:00-16:25療養病棟判定会議。16:30-18:30長副会議。難題多数。賄いの石井さん今日から10日間不在、19:30出前で夕食。21:15帰宅、誰もおらず、ネコも外で待っていた。21:30就眠。

東京、大阪 目立つマスク姿  私はヘッドフォン
 東京・大阪ではマスク姿の若い男女が多い。秋田では街に出ることは少ないので良く分からないが、印象として花粉症は都会ではかなりの頻度のようだ。地下鉄などで激しくクシャミを連発している方々もいる。うら若き女性が純白で大きめのマスクをかけているだけで何となく美人に見えるが、更に、眉間にしわを寄せ顔をしかめ、やや苦しげにクシャミを連発している姿は何となく気の毒である。
 そうは言っても、昔から「目病み女に、風邪引き男」と言う言葉がある。目を患って不自由そうにしている女性、風邪をひいて咳をしたり、苦しげな顔をしている男は普段より若干は粋に見える、らしい。「目病み女」と言っても結膜炎で真っ赤に充血させていると言うより、近視の女性が目を細めて見るあの表情の事を指すのであろう。

 そういえば、「墾(ひそみ)にならう」という故事もある。ある美女が苦しそうに顔をしかめて咳き込んでいるその姿がいつもより一層美しげな姿に見えたのであろう、美人でない女達がこぞって真似したところ、近くにいた男達はみんな吐き気をこらえながら逃げ出した、という話らしい。お気の毒であるが、美女が苦し気に眉をひそめた表情はさらに魅力的になるというのは何となくわかる様な気もする。

 この時期のマスク姿、すっかり市民権を得た様である。つけているヒトも堂々としている。マスクのデザインも一昔前の小さめで薄型のガーゼ製のに比べるととても垢抜けして機能的そうで、私どもが業務上で用いる外科用マスク類似に見える。マスクだって純白で椅麗だと何か清楚な感じである。

 私はマスクを必要としないがBOSEのノイズキャンセル機能付きヘッドフォンは町中でも殆ど放すことはない。滅多にこれをつけている人に出会わないが先日の学会会場にお一人居た。人混みや電車の中でイヤフォンで何かを聴いている姿は排他的で自己陶酔的であんまり良いものでないが、このヘッドフォンなら騒音のストレスからの防御だから目的はマスクと同じだ。マスクのように市民権を得られるかな?



4/10(日)快晴のち曇り、夕方より雨 FFテニス 病棟拘束 
2:30起床、医報巻頭言大詰め。徒然。7:30病院、8:45救急カンファ、一部回診、業務種々。11:00帰宅、13:00-16:20梅林園にてFFテニス,2-6,2-6,6-3と敗退。家内転倒、顔面に擦過傷、幸い軽傷で済んだ。眼鏡破損、修理兼ねて19:00外食、20:20帰宅。20:45就眠。

秋田県選出国会議員との懇談  永田町で秋田の実情は解らないだろう
 4月7日、県医師連盟役員と秋田県選出の代議士4名との懇談会が新霞ヶ関ビルの日本医師会研修室で行われ、県医師会から7人の役員が出席、私は本来は正規のメンバーではなかったが、医師会側出席者に欠員があるとのことで、大阪の学会への移動の途中でなら病院業務にも影響させないで済むから、欠員補充に役立てば、と考え出席した。何でも見てやろう、経験してみようとの気持もあった。

 首相官邸も外からであるが初めて見た。警備も結構厳しい様子であった。マア、当然。この周辺、コンクリート・アスファルトだけの街。比較的整然と、無機的に作られている。実にクールなイメージである。地下鉄までの往復だけであるが、高齢者の姿は一切見ることは出来なかった。こんなところで政治が語られているのか、これじゃ秋田の高齢化など現実味を持って論議されないだろう、と思った次第。

 約1時間ほどの打ち合わせの後、出席いただいた4人の議員と3つのテーブルに分かれて懇談した。多忙な委員会の休憩時間を利用しての出席とのこと。医師会が押す全国区選出のお二人にも来ていただいた。そう言った意味では大変有り難いことである。これも選挙の際の票との絡み、支持とのからみの地道な努力なのだろう。

 懇談では私は医師会側の二人と共に参議院、衆議院の各お一人と懇談した。医師会側の考え、主張、秋田の医療、介護の現状問題点を私から説明した。説明している間、集中して聴いていただいていないと言う印象を受けた。「そんな医師会の主張など、地域の実情の詳細はどうでも良い、国政はもっと大きな視点で動いているのだ・・・」という感じかな。当方からの説明の後には医療制度改革、介護保険制度、消費税の動向などについて国政の立場から説明が若干あったが、矢張りその視点は当然ではあるが国政そのもので、患者の、虚弱高齢者の、障害者の視点からは大きく隔たっていた。ある意味では、別人腫かな、と言う感じ。
 今回の懇談の前向きな意義はそれほど無かったであろうが、私にはそれなりのインパクトがあって、良い経験をしたと思う。



4/9(土)大阪東京快晴  No102日本内科学会総会三日日 帰秋
2:30起床、医報巻頭言準備他、読書などでゆっくり過ごす。8:30軽く朝食、9:30-11:30学会場に。総会三日日は午前の講演のみ聴講した。●シンポジウム消化器疾患と生活習慣●宿題報告冠動脈インターベンションの進歩と残された問題点。今日はずっと新幹線の長旅になる。東京で一息入れるためにやや早いが11:40学会場を離れ、12:16新大阪発のぞみにて東京に。15:00長女と合流、母娘の買い物に付き合う。革製バッグ購入、夕食、17:55発こまち、よく読みよく寝た。22:00秋田着。帰宅。0:30就眠。

大阪梅田の「大丸」、東京日本橋「高島屋」。田舎ものはため息つくだけ
 昨夜は、大阪梅田の「大丸」で家内の買い物に付き合う。本日は長女と共に日本橋の「高島屋」へ。そう言えば昨年は「三越本店」なるところで、ルイ・ヴィトンのコーナーではビニール調の、私から見て何と言うこともないバッグが数10万円もして、しかも若い客がどんどん買っていくのを目の当たりにして心底驚き、1ヶ月働いて革鞄1-2ヶ分にしかならないなんて、とガックリ来たことを思いだした。

 大阪梅田の「大丸」「高島屋」共に衣料品など殆どが世界のブランド品ばかり。日本製のものなんて数えるしかない。これでは日本でいい仕事をしている人達が入り込むことなんて出来ないんじゃないかなと思った。売り子さん方も美形であるが、「大丸」の方はより自由度が高いのか、個性的な表情をしている。閉店間際に入ったのだが何故か表情は生き生きして秋田のデパートとは大違い。両者とも客が多く歩くのにも不自由で嫌になるほど。大阪の方がテンポが速い感じ。これが大阪のパワーなのかと思った次第。両者でホントに日本の景気は悪いのか、と今回も思った。

 大阪では無地のグレーのネクタイ、東京では革製のバックを購入したが、共に私一人でなら現物を手にとっても絶対に購入しない、出来ない品物である。どうも家内と娘と共に買い物に出ると私の普段の抑制力も力を失ってしまうようだ。尤も、彼女らの選択、言い分を聞き入れるのも夫として父としての重要な思いやりなのだという、変な割り切りで自分を納得させている。

 手入れもせずに毎日使ってボロボロになった革製のディバッグ、今日で現役を退くことになる。肩ひも部分の革はすり減って今にも切れそうである。何としてでも修理してそれなりに使い続けるぞ、と新しいファイトが湧いてきた。



4/8(金)大阪晴天 No102日本内科学会総会二日日 
2:30Rihga Royal Hotelにて起床。医報巻頭言,院内関連書類,徒然,本読みなど。8;00朝食。9;15大阪国際会議場へ。今回は宿泊と会場は隣接していてとても便利。No102日本内科学会総会二日日は18;15までほぼ終日会場で過ごし以下の講演を聴講した。但し、1/4くらいは夢うつつ状態。録音はしっかり録った。梅田にて買い物若干、20:30夕食,21:30就寝。 

日本内科学会総会  大学内科教育は変わっていく
 今回のNo102日本内科学会総会は二日目から参加し以下の講演を聴講した。
 ●シンポジウム:悪性腫瘍の分子標的療法●宿題報告:透析アミロイドージス●気管支喘息の臨床●冠動脈疾患と炎症●副腎腫瘍の診断と治療●運動後急性腎不全●ALI/ARDS●脳血管障害の臨床●MDS診断と治療●パネルディスカッション:内科学・統合性と専門分化をどう両立させるか。 

 
日本内科学会総会は年一回4月に開催される。私はこの学会はほぼ皆勤。かつては認定医更新に50点/5年必要であったが、25点に引き下げられたためにその更新のためには出席は必要ではない。しかし、会長講演、宿題報告、教育講演、パネルディスカッション、シンポジウムなど朝から晩まで3日間続く。ただ座っているだけで内科学の多方面の進歩に触れることが出来る至福の時間がもてる。しかも,この学会は他の学会の講演よりも内容をより平易に話してくれるから不勉強の私にも比較的理解しやすい。そんな理由を挙げて今回も出席している。

 初日は所用のために出席出来なかったが、二日目の各演題とも目から鱗が何枚も落ちた。過去にも随分落としたが、私の目にははたして何枚の鱗があるのだろうか。

 パネルディスカッション「統合性と専門分化をどう両立させるか」は有益であった。最近、名大、東大、島根大、阪大を中心とした各地の先進的大学では単なる内科総合診療科とかの名前だけでない高機能の総合診療部門を作って良き臨床医を送り出そうとしている。一般病院ではとっくに取り入れていることではあるが、巨大な大学組織、そのうちでも旧帝大の保守的と思われる大学が確実に変わりつつあることが示され、大学教育が変わっていく息吹を感じることが出来た。



 私は会場では前列に席を確保し、終日会場で過ごす。昼食の休憩時間も持参の本や音楽を聴きながら居眠りしたりしてそのまま会場で過ごす事が多い。実に気楽で至福な時間を持て、更に広い臨床分野について最近の進歩に触れることが出来るからである。今回は10数年ぶりに家内も一緒の出席なので多少気疲れする。

 ところが、本日の教育講演で座長をされた元教授の演者紹介が、資料を見ながらであったがアー、ウーが頻回で、さっぱり話が進行せずもどかしかった。講演された教授も本年定年退官された方で、司会の元教授はその先代の教授だというのでかなりの年輩なのであろう。30分の教育講演のうち司会者が5分近くもウー、アー・・・とやっていた。折角の時間が勿体ない。どんな方でどんな業績のある元教授か解らないが、名誉職としてのこの人選は誤りである。

 高齢者にとって、過去の栄光よりも今の状態の方がむしろ重要な問題なのだ。それを自ら自覚しなければ栄光も錆びてしまうのだ。


4/7(木)秋田雨,東京快晴、県選出国会議員との懇談(東京・霞ヶ関)
1:00起床。ドック判定総括x1。3;00病院着,出張準備,申し送り作成。6;00回診,8;50県医師会公用車で秋田空港へ,10:05JAL,AirBusA300-600R型機。60%ほど,臨席空いていて快適。羽田強風にて使用滑走路が限定され混雑,霞ヶ浦上空で旋回待機,15分ほど遅れて着陸,霞ヶ関へ。14:00日本医師連盟と打ち合わせ。15:00-16;00県選出国会議員との懇談,17:03東京駅発新幹線のぞみ,20:15大阪着,20:40Rihga Royal Hotel 着,夕食ほか、21:30就眠.

何故、県の修学資金貸与は「公的医療機関の医師充足」を目的としているのか
(3)
 秋田大学医学部創設以来現在まで2723人が卒業しているが,卒業生の県内への定着率は1003人で定着率は36.8%と関係者が期待しているより遙かに少ない。この県の修学金事業の目的は新聞記事によると「医師の県内定着を図るため」とのこととあったので大いに賛同したのであるが,県の書類では「県内の公的医療機関の医師の充足を図るため」となっていて一転疑問に転じた。

 県内の医師不足を解消しようとするなら公私の別は問題にすべきではない。「公的医療機関の医師の充足率を高めるため」と目的にはあるが,秋田市周辺の公的医療機関の医師はほぼ充足しつつある。問題なのは県北,県南の公的病院の医師不足である。これらの公的医療機関への医師充足率の改善は緊急の課題であることは十分理解する。おそらく県のこの事業の思惑はこれら医師不足に悩む公的病院の医師充足を目的にしていると予想されるが、県の施策としては過保護であり、不公平である。
 更に,この事業では医師の偏在は解決できない。偏在の解消には地域の医療機関毎に将来の就業を条件とした修学資金を出すべきで、それを県がバックアップすれば良いのだ。

 平成16年4月現在、秋田県には79の病院があり、14の精神病院を含む50病院が私的病院である。秋田県の医療は公私の医療機関が渾然一体となって、互いに協力しあって地域医療を担ってきている。私的医療機関のいくつかは、HIV、SARS、天然痘テロ対策等を含めた政策医療の面、新臨床研修制度等で公的病院と同等に力を発揮している。私自身、日常の医療活動のなかで公私の別など意識することは無いが、今回の修学金制度の問題もふくめ,国や県の施策には私的医療機関に勤務する医師の立場からみて疑問を感じるものが少なくはない。
 秋田県では私的医療機関の役割をどう評価してるのか,知りたいものである。

 県北・県南地区の公的医療機関の医師不足が深刻なのは十分に理解しているが、医師不足の主因は働くのに魅力ある医療機関でないこと、医師確保の努力が不足していること、につきると私は思う。
 私的医療機関の医師不足は公的病院に比較して更に更に深刻である。私的病院は医師確保に常に四苦八苦しているだけでなく,やっと実力が付いた若手医師,中堅医師の公的病院への転職も少なからずあり,常に辛酸をなめている。実際にこの10年間で医師確保が困難で姿を消した私的病院も複数ある。

 この県の修学金制度は、私的医療機関の医師確保を確実に困難にする。こんな不公平な施策を県が進めることを私的医療機関関連者として許し難く,私は抗議する。



4/6(水)快晴  対策委員会 
1:30起床、ドックx1。紹介状、退院総括ほか。5:30病院着、6:00回診、療養病棟発熱者更に数人増加。出張前になると不調な患者が増える。9:00-14:00外来+人間ドック説明2名。15:00退院総括x2他、病棟対応。秋田医報関連、17:00-18:30対策会議、院長室。病棟対応、出張準備。20:00帰宅、夕食、21:00就眠。

県の「医師修学資金貸与事業」について(2) 公的医療機関とは何なんだ?私的医療機関とは?
 秋田県の修学金制度では公的医療機関に一定期間勤務すれば返還が免除されるという。こんな不公平な事はあるんだろうか??と私的医療機関の一スタッフである私は憤りを感じる。大体、公的医療機関とは何なんだ?私的医療機関とは何なんだ?

 公的医療機関は「都道府県、市町村その他厚生大臣の定める者の開設する病院又は診療所をいう」と医療法第31条で定義され、更に省告示で「日赤、済生会、厚生連、など」とされている。従って、国(国立、国立大学、労災、逓信、自衛隊等)・自治体立病院・日赤・済生会・厚生連・社会保険・厚生年金・共済組合の病院等が公的医療機関とに該当する。
 公的医療機関の使命について、厚生省医務局は
 (1)医療、保健、予防、医療関係者の養成、へき地医療等、一般の医療機関に期待することのできない業務を積極的に行い、これらを一体的に運営することが期待できる
 (2)適正な医療の実行が期待され得るとともに医療費負担の軽減を期待し得る
 (3)その経営が経済的変動によって直接に左右されないような財政的基盤を有すること
 (4)医療保障制度と緊密に連携協力し得ること、としている。

 さらに、「国庫は医療の普及をはかるため必要があると認めるときは、開設する公的医療機関についてその設置に要する費用の一部を補助することができる(中略)」と補助についても定めている。

 要するに、民間の医療機関が行なうことが困難で、かつ不採算部門などの医療を公的医療機関が担うために国庫補助の他、地方自治体や保険財政などから公的資金が投入されている、と言うことらしい。県内の医療事情を見たとき、公的医療機関として充分に使命を果たしている医療機関は少なく、言い過ぎを許していただければ、共通に見られるのは(3)だけである。

 一方、私的医療機関の定義は簡単である。公的でない医療機関は私的医療機関と言うことになる。私的医療機関は税制面で補助金制度の面で公的病院に比し何の特典も与えられていない。その状況の中、(3)以外の部分で大奮闘して地域の医療を支えているが、この実体を県ではどう認識し、評価しているのだろうか?



4/5(火)晴れ 医師会打合せ 医局会
1:30起床、ドックx1。紹介状、メール対応ほか。5:30病院着、6:00回診、定期処方発行他。8:10救急カンファ、9:00-13:20外来、13:30人間ドック説明2名。15:00医師会書類チェック+打合せ。退院総括x2。17:30-19:30医局会、連絡事項の他新人医師紹介、10数名で覚えられない。20:40帰宅、21:00就眠。終日書類と格闘。

県の「医師修学資金貸与事業」について(1) 担当課への礼状
 昨日は秋田県の「医師修学資金貸与事業」について、貴重な資料をFax頂きまして大変有り難うございました。昨日到着しております。お礼申し上げたいと思っておりました。

 以下は未だ形も整っていない
拙文ですが、秋田医報の巻頭言でこの制度についての感想、考察をこんな風に進めていこうかと思っています。


 この制度の目的は県北・県南の公的医療機関の医師不足解消のためとのことですが、この制度はその面ではそれほど寄与するとは考えていません。
 私は、地方の医師不足の主因は魅力ある病院でないことにつきると思います。だから、如何に経済的に足かせをはめたからと言って、医師の偏在は解消しないでしょう。
 
 公的医療機関の医師不足は深刻なのは解りますが、私的医療機関は超深刻なのです。実際にここ10年間で姿を消した私的病院も複数あります。偏在が問題ならば県が人事権を持たなければダメでしょう。
 特に、昨年から新臨床研修制度が発足していますから、奨学金を受けた若手医師も2年間は大学、秋田市周辺の大規模公的病院に集中します。だから、何も解決しません。3年目からはどうでしょうか?結局同じです。2年間の臨床研修では責任ある仕事は何も出来ません。だから、若手医師はその後も秋田周辺の大規模病院に留まり研修を続けます。

 SARS等を含め政策医療の面、新臨床研修制度等で、公的病院以上に力を発揮している医療機関は複数あります。これらの私的医療機関は医療の公共性を強いられる一方で税制面でも優遇はなく、かなりの額を県にも納入しています。私的医療機関の従業員も同様です。
 私的病院に勤務出来ない医師を養成する政策を県が立案されることは、私的病院軽視であり、県の施策としては問題だと思っているのです。これは、私的医療機関関係者の立場から見れば「飼い犬に手を噛まれる」のと同じことです。

 修学資金を借りて医師になった若手医師であればあるほど若いときの研修、勤務体験がが大事です。公的、私的という区別ではなく、一定の水準にある医療機関に勤務した場合、同じ扱いをすべきと思います。

 直ちに地方の公的医療機関に勤務させることは、あるいはその様に誘導することは本人のためにもなりませんし、地域の住民に医療差別を押しつける事になります。



4/4(月)快晴 管理会議 新卒医師導入研修講義 療養病棟判定会議 長副会議1:30起床。2:00療養病棟から電話、患者不調で2:30出勤。脳梗塞+出血で対応。そのまま医局自室にて、人間ドックx1、紹介状、新卒医師導入研修講義準備他処理.6:20回診ほか。8:00管理会議。9:00-12:30外来。13:30-14:15新卒医師導入研修講義(1)「中通総合病院の沿革・理念など」、14:30-16:00新卒医師導入研修(2)「医師の心得」。16:00-16:30療養病棟判定会議。16:30-19:00長副会議。20:30帰宅、夕食、21:00就眠。午前午後と喋り続けた日、疲れたね。

「挨拶」「笑顔」でない,「あいさつ」と「えがお」の効用(3)「笑い」は?
 「えがお」と「笑い」は異なるものだ。
 私はよく駄洒落を言う。確かに多いだろう。外来の看護師さん方はまたかと言った呆れ顔で「ほれ、またおジンの駄洒落ですかい」「先生、笑えば良いんですか?」と私をバカにする。私はバカにされ、笑われること、むしろ好きだからその状況を自ら作る。尤も、他人に作られたら耐え難いだろうが、これは私の人付き合いの環境調整手法の一つである。
 まず自分をバカ扱いしてしまえば後は気楽なものである。何でも話題にし易くなる。とは言ってもある程度親しくなった間柄でなければ出来ないけれども。しかし、自分のその心理の背景にはそれ以上に多いな優越感が潜んでいるような気がする。正直なところ。だからあんまり大きな声で主張出来ない。

 笑いはわれわれが持っている論理性が一瞬崩された時、論理性から外れたときに生じるものだ。だから、思いがけないところで出る方が効果的である。もともと笑いとは差別的な行為でないだろうか。笑う方はチョッピリ優越感を感じるはずだ。落語とかはこれをスピーディに展開するから笑える。漫画も良い。笑いを求めて寄席に通ったり、コミックを求めるのは優越感を味わうためかも知れない。いや、それ以上の優越感を落語家、漫画家はは味わっているはずだ。
 
「あいさつ」「えがお」「笑い」から考えてみるだけでも結構、人間関係って変に複雑で面白いものだと思う。字数をいくら出も費やせる分野でもある。
 


4/3(日)曇りのち快晴、今季初テニス 病棟拘束 コーヒーパーティ
2:00リハビリ当直室にて起床、ドック判定総括x1,紹介状1。徒然。7:15検食。8:30病院、8:45救急カンファ、一部回診、業務種々。11:00帰宅、13:00-16:20梅林園,FFテニス,6-3,6-2,9-7。約4ヶ月ぶり、低レベル.18:00-20:30療養病棟Nrsさん6名迎えてのコーヒーパーティ。21:00就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (9)
秋田での生活 いわゆるアルバイトでの生活費稼ぎは都合によりお休みです

「挨拶」「笑顔」でない,「あいさつ」と「えがお」の効用(2)
 このストレスフルな人間社会の中で「挨拶」ならぬ「あいさつ」の価値は否定する論拠は、一切何処にもにつからない。こんなに意味のあることが廃れていく。この日本の社会は寂しいモノだ。
 次ぎに重要なのは
「えがお」「ほほえみ」なのだと思う。「えがお」「ほほえみ」は人間同士の関係を作るのにすごく役立つのに、これも又少なくなっている。敵意でなく、好意を示すのに「あいさつ」と共に最大の武器であるはず。それが最近乏しくなっている。
 
 何のためにヒトは微笑むのか?
 赤ん坊は3ヶ月たつと微笑むようになる。これは誰にも教わっていないはずだし、何も感情移入など無いはず、利害関係など考えているはずはない。しかし、不快でないときには周辺にいるヒトに向か?「ニコッと」微笑む。これは外に対しての自然に備わったメッセージなのだと思う。この微笑みを見て母親も、大人達も大喜びして赤ちゃんとの関係が一層深まっていく。母親の母性を引き出すばかりでなく人間関係のスタートになる。赤ちゃんの微笑みを見て不快だと思う人は恐らくこの世には居まいと思うほど、良い表情である。
 私はウソをつかないから、私も素直になれるから動物たちがとても好きだ。ただ、動物たちとの関係の中で最も寂しいのは、笑いがないこと、微笑みがないことである。尤も、動物たちの顔の表情に笑いが無くとも全身で喜びを表現してくれるから良いんだけど、その面で考えてみると人間は全身で感情を表すわけでないから、最近の人間関係は薄れに薄れて対動物以下となってしまっている。これは残念である。

 マア、これだけ価値のあることではあるが、院長名で「微笑みましょう」とのリーフを発行するわけには行かないネ。


4/2(土)快晴 法人管理職会議 リハビリ当直
2:00起床、HDD判定総括x1。明後日の講義準備。徒然。5:30病院着、6:30回診+入院患者家族と面談。紹介状返事x3、総括x2など各種残務処理10:30-12:30外来。14:00-16:30法人管理職会議、
予告無く医療評価の報告を求められた。17:00書店にて本数冊購入しリハビリ当直へ移動。18:00本読み,検食,退院総括x1。20:30就寝.

「挨拶」「笑顔」でない,「あいさつ」と「えがお」の効用(1)
 先日,当院では院長名で「あいさつ」をしましょうとのリーフが配布された。医療評価機構受審で院内が盛り上がり院内がとてもいい雰囲気になってきたが,さらに「あいさつ」を交わすようになればもっと良い,と長副会議で出た話題を具現したもの。
 いい大人を相手に何だとの声もないわけではないが,いい大人が相手だからこそ、「あいさつ」をしましょうとの呼びかけが必要なのだ。

 日常,職員間の「あいさつ」が少ないことについて私も方々で発言してきた。看護師は独自に「良いあいさつ」運動を進めているらしく比較的いい雰囲気であるがそれでも今ひとつ。他の職種は今三つ程度,医師間は今五つ程度かな?と思う。
 医師間での挨拶はひどい。朝,院内ですれ違うときに私ときちんと声を出して挨拶を交わすのは半分程度もいないのではないかな?私は,ほぼ全員にたいし最小限目礼あるいは少し頭を下げるし,大部分は「おはようございます」と「あいさつ」する。それなりに反応は返ってくるが,完全に無視する医師も10人程度はいる。実に不思議な現象である。患者の病態や治療を巡って何度も指導したことのある若手医師でもそうだから,同じ職場の職員同士、と言うか人間関係としては実に不思議である。

 この不思議なレベルは、事務職員の一部,本当は大部分と言いたいんだが,に見られる。この様な医師や職員にとってすれ違う私は人の姿をした「かかし」程度なんだろう。自分としても不快でないかな?

 私はそれほど経験無いが,欧米ではほぼ機械的レベルだと思うところがあるけれども,ちょっとした時でも必ず「ハロー」とか何とか言葉をすぐに交わす。これには吃驚する。欧米は多民族,多宗教,多文化が入り乱れ、ヒトとしても個性的であることを尊重しむやみに他人の世界には踏み込まないクールな関係とされている彼らの環境の中では「あいさつ」は身を守る重要な手段で,「自分はあなたの敵でない」と言うことの表現だ、という。
 日本ではどちらかというと「和」とか「あうん」とか,相手の意向や状況がわからなくとも何となく関係が保たれている。それはそれなりに長い文化があるから否定できるものでないが,少なくともビジネスの中では問題だ。特に「ヒト,カネ、モノ」の中、医療機関は「ヒト」が最も重要な因子とされている世界なのだ。この場合、頭数ではない。「ヒト」の在り様の問題なのだ。コミュニティ,家庭の中でこんなんであったらもっと問題だが,それはその人個人の問題,ここでは関与しない。


4/1(金)晴天  法人入社式
2:00起床、ドック、医報巻頭言、紹介状、徒然。5:30病院着。6:00病棟回診。8:10救急カンファ。紹介状など。10:30-12:30外来。14:00-15:00法人入社式、式典の間中微睡む。70余名入社。あの大企業の三菱フソウKKですら僅か60数名しか採用していない、と言うのにすごい。マア、それだけ退職者も多いと言うこと。2-3日不調であったホームページ何とか修復した。医報関連作文、導入研修講義準備など。20:30帰宅、夕食、21:00就寝。

空路は搭乗券を持っていても乗れないこともあるし、乗れたからと言って無事着くとは限らない
 私は予約済みの搭乗券がありながら、(1)オーバーセールスのために満席で乗れなかった(2)知らないうちに手持ちの搭乗券が何者かによってキャンセルされていた(3)直前に搭乗口が変更になっていて、乗り損ねそうになった、ことなどを経験した。それから得た教訓は、とにかく空港には時間的余裕を持って出かけなければならないと言うこと。

 ところが、先日の東京出張時は快晴の羽田から飛び立ったものの秋田空港が濃霧のために東京に戻りそうになった。翌日のスケジュールがびっしり詰まっており、何としようかと些か悩んだが、霧が若干薄れたとのことで2回目のアプローチで無事着陸出来、安堵した。

 冬場は空路は運行が不安定のためと、駐車場で車を掘り出すのが難儀なために私は原則的には新幹線を利用している。今年は2月下旬から空路にしたが、帰路は毎回条件付の出発であった。2月下旬の大阪便は花巻、または仙台空港に、3月の東京便は2回とも羽田に戻る可能性があるとのアナウンスのもとでの出発であった。
 今まで、条件付の搭乗は10数回になるが、実際には毎回ほぼ問題なく着陸出来ていた。乗客とのトラブル予防のための安全弁としての条件付き、と解釈しあまり気にしていない。今回も搭乗前に自宅に電話して状況を確認したところ小雨で風もないとのこと。

 19:15秋田空港に順調にアプローチしていたかのように思えたが高度100mほどの所から激しいエンジン音と共に急上昇した。窓からの景色は別に問題ないように見えたので何故なんだと訝ったが、アナウンスによると空港周辺が濃霧で視認出来ないとのこと。暫く上空で待ち着陸の機会をうかがい、ダメなら東京に戻る予定と。
 今から東京に戻ると21:00過ぎになる。寝台特急「あけぼの」は間に合うか、ダメならどうするか、宿泊は?明日の仕事は、帰秋はどうするか、等々いろいろ対策を考えたが、ここでは何とも出来ンからじっと待つしかない。
 20分ほど上空で旋回待期後に再度着陸態勢に入った。いつ再上昇するかと耳を峙てていたが、順調に着陸出来て全てが解決した。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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