徒然日記

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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5/31(火)快晴  県エイズ関連委員会  県医師会定款改定委員会 医局会(欠)
2:00起床。ドック判定x1.書類2,3処理。紹介状他、いつもの如く淡々と処理。5:20病院着。6:15回診、定期処方40数枚送付、9:00-13:30 外来。入院患者対応。紹介状関連処理など.次々と書類に追いかけられ、本来の仕事が出来ない。16:00-17:45県エイズ委員会、18:00-20:00県医師会定款改定委員会。回診。21:30帰宅、風呂修理終了。22:00就眠。

毎日鳥海山を望められる幸せ 岩手山を想い、
啄木、賢治を想う
 私の主たる職場は7F病棟にある。病院の南側は道路を隔てて高校の体育館と隣接しているために6F病棟までは景観が良くない。7Fに上ると突然景観が開ける。病院の南側には、遙か遠方に鳥海山の景観を楽しむことが出来る。鳥海山は秋田・山形県にまたがる標高2236mの東北第2の高山。出羽富士または秋田富士ともよばれ秋田・山形県民にとってふるさとの山である。階段を上るたびに、今朝は、今回はどんな姿で鳥海山が見えるのだろうか、と思い、いつも楽しみ、時に落胆する毎日である。7F病棟担当し、鳥海山の景観を楽しめる幸せを私は毎日感じている。

 私にとって郷里の山と言えば、やはり岩手山であるが、30年近くも見続けていると鳥海山にも捨てがたい魅力と感慨を抱く様になってきた。鳥海山の姿は実に良い。見る度に姿を変える。それが良い。雄姿である。
 郷里の山と言えば、啄木である。彼は明治19年に岩手県の玉山村に生まれ、私の母校である盛岡中学(現盛岡一高)を中退、赤貧に甘んじながらも歌人としての地位を確立、26歳で亡くなった。彼の数奇な生活振りにはやはり常人でないものを感じてしまう。私の感覚ではいわゆる変人・奇人の範疇に入る代表的人物の一人。

 私の環境が変わり、時間が得られたら、岩手が生んだ数多くの偉人達の生き様に触れたいと思っているが、その際、まず追求してみたいのが啄木と賢治である。歳を経る毎にそんな欲求が強くなってきている。楽しみである。 

 ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな(一握の砂)

今、4:45am、まもなく出勤の時間だ。今朝の鳥海山の景観や如何に。


5/30(月)快晴 管理会議 療養病棟判定会議 長副会議 
2:00起床、ドック判定総括x2他。淡々と業務処理、5:00出勤。6:00回診、紹介状作成。8:00-8:50管理会議、9:00-13:30外来、15:00家族面談、患者対応、16:00-16:30療養病棟判定会議。16:30-18:30長副会議、懸案事項多数。急遽転院が決まった患者の総括・紹介状作成。20:30帰宅。夕食、21:00就眠。

風呂が故障した 
 我が家の風呂が故障した。2001年12月、秋田市の下水工事を機会に改装したもので、殆どワンタッチのマイコン仕様。便利すぎて恥ずかしいほどである。
 警報音とディスプレイに警告番号が出てまもなくボイラーが停止する。何度繰り返しても同じ。外観上は何も異常はないから素人には故障内容は全く解らない。警告番号の指示を解説書で見ると「使用せずに販売店に連絡」とある。そう簡単な故障ではないようだ。先週金曜日に工事を請け負った会社に連絡し見てもらったら部品交換要すとのこと。部品が秋田にはなく取り寄せなので数日は使用不可とのこと、ガックリ来た。朗報は保証期間内なので修理は無償とのこと。

 私はとにかく風呂好き。ほぼ連日早朝に2-4回ほど、日曜ならその倍ほどサッと浸かる。ささやかな楽しみの一つ。結構いい音で音楽も聴けるが、烏の行水如くなので短い序曲などの小品も全部は聴けない。
 土曜は5:30am、19:00pm頃と出勤時、帰宅時の2回、医局の風呂を用いたが、狭くて苦しい。かつての田舎の葬式の座棺のようなイメージだけど、ホント、有り難かった。
 帰宅してから何とかならないかと思案、風呂のボイラーはダメでも台所から風呂に湯を送り込めばいい、と言うことで熱帯魚の水交換に用いたホースを台所の蛇口に連結してガス瞬間湯沸かし器の湯を用いることで十分に満足出来た。

 風呂工事の時に給湯を石油に一本化することを業者に勧められた、その方がコスト的にも良いという。しかし、その申し出を断りガスと2系統にした。私は道具や器機は故障するのが当たり前と思っているので一本化は故障の際には不便を強いられると考えたからで、工事の方は首を傾げていた。かつて、亡義父が家を新築した際、風呂をガスと薪の二系統で沸かせるタイプにして若い人達の顰蹙を買ったと言うが、私はそんな考えに親しみを覚えてしまう。

 まあ、2系統にしておいたそのお陰で昨日も今日もいつもと同じように入浴できた。こんな場合に思いを馳せるのは災害の時の風呂のことである。神戸でも新潟でも風呂の提供は被災者にとても喜ばれたと言うが、たった一晩でも渇望してしまうなんて、と自分でも呆れてしまう。
 日常的に身近な道具や器機がきちんと機能すると言うことは、ほぼ当たり前のことだと思っているが、実際にはなんと贅沢なことなのだろうか


5/29(日)晴天 病棟拘束 FF tennis
2:00起床、家内はこまち最終で無事帰宅していた。ドック判定総括x1他。退院総括、紹介状、主治医意見書ほか。夜半から病棟から何度か患者不調の電話。6:30-11:00病院へ、回診など。不調患者対応。8:45救急カンファetc。業務処理して帰宅。13:00-16:30FF tennis、1-6、1-6,4-6,7-5と今回も劣勢。17:00-19:00病院、残務。19:30外食、21:00就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (16) 家族が増えた 長男誕生 
 家内のおばさん方が引っ越してきて毎日がにぎやかになった。
 昭和51年は田中元首相の逮捕等あり、日本の社会情勢は何かと慌ただしく動きが激しかった時でもあるが、この年の4月には長男が誕生し、我が家が7人家族となった。
 長男出産の時は、家内は大きなお腹を抱えながらも規程の産休期間も休まずに連日出勤し、周囲をハラハラさせていた。この頃からマイペース人間であったが、さすがに臨月近くでは動くのが辛くなってきたのであろう、産休に入ったが、まもなく、一週間ほども休まないうちに、出産日を迎えた。二人目だし、長女の時よりは楽だろうと予想していたが実際にはそうでもなかったらしい。夕方無事誕生したことを大学で聞き安堵し、夜に見舞いに言ったが母子共に元気で何よりであった。どちらにせよ、出産は女性にとっては一大事業であり、このことを思うと私は家内に到底頭が上がらない。
 長女の誕生前後のことは比較的細かいことまで記憶しているが、長男、更に3年後の次男出産前後のことは詳細には覚えていない。これは秋田という、家内のふるさとの中での生活で数多くの方々に支えられていたからあり、さらに石井さん一家との同居によって私の日常生活への参与度が相対的に減ったからであろう。秋田の義父母を中心とした、豊かで暖かい人間関係にはいかに感謝してもし切れないものを感じてならない。
 孫の誕生をことのほか喜んでくれたのは盛岡の祖母であったが、この頃から彼女自身の体力が徐々に落ち始めて来る。


5/28(土)小雨→晴れ 病棟拘束 
2:00起床。ドック判定総括x1,家内は長女長男とと共にニューオータニに宿泊中。風呂故障、困った。5:20病院着.回診とか。8:45救急カンファ。書類処理。10:30-13:00外来。以降ずっと書類処理。19:30帰宅、夕食、新聞チェック他、22:30就眠.早朝と帰宅前に医局で入浴した。

我が家の車庫に狸がいた ついでに狸の八畳敷きとヒトの陰嚢水腫について 
 寒風のある夜、車で帰宅し車庫に近づいたら奥に積み上げたリンゴ箱のなかに何か黒い動物がいる。何かいつもの野良猫と雰囲気が違う。手前に駐車しじっとみると何と狸である。特徴的なあの顔でこっちをみている。驚いて急いで逃げる様子もない。別に車を車庫に入れる必要もないので数m前に駐車し、ライトを付けたまましばらくみていたがなかなか愛嬌がある。怖がらせないようにソッと降りて自宅に入り、まかないの石井さんに珍しい動物がいるから見てくるように伝えた。彼女は懐中電灯を持って見に行き、確かに狸だったと言うが、彼女が近付いたら逃げていったという。狸も鍋にでもされるが如くの恐怖感を感じ取ったのかもしれない。

 我が家の車庫は通常は野良猫のたまり場で、寒い夜など車が帰ってくると一端は敏捷に逃げるがまもなく戻ってきてボンネットに上り暖をとる。今回、不思議と思ったのはコソコソと逃げなかったことである。狸まで我が家の車庫を利用しているのかと思うとなんか嬉しくなった。

 これを機会にちょっと。
 狸と言えば大きな陰嚢が連想される。子供の頃から見慣れてきた信楽焼の、あの、笠を被り、 右手に徳利、左手に通帳を持ち、腹が丸く、睾玉が大きいという狸像に由来する。睾玉がこれ見よがしに大きくつくられているし、狸が陰嚢を広げて人に座布団代わりにして座らせた、といった話などが結構沢山ある。しかし本物の狸の陰嚢はよく見たことはないが、そんな話の元になるほどは大きくはない。
 なのに何故?  なぜ八畳になのか?  一般的には金の一匁(3.75g)ほどの粒を狸の皮で包んだトンカチで叩いて延ばすと八畳程度の広さの金箔を作ることが出来たことから連想されたとされている。狸の陰嚢の皮を用いたのか知らないが、金も狸の皮も丈夫なものである。ちなみに、金1gを糸のように伸ばすと何と2000mまで伸ばすことが出来るらしい。

 病気の一つに陰嚢水腫というのがある。陰嚢に何らかの原因で水がたまり膨らんでくるものであり、最近この病のお二人が入院し、たまたま担当した。お一人はサッカーボール大、他の方はソフトボール大に膨れていたが、ここまで来ると足の間におさまらず、足を開いたままでないと歩けないし、歩くたびに大腿にこすれて疼痛もひどく、陰茎は縮み上がって埋没し、排尿もままならなくなる。回診の度に指でチョンチョンと突つき、治療の効果が出たか確認する。ちょっと滑稽な回診風景が続いたが、幸いお二人とも約一週間の経過で普通に戻り喜んで退院していった。


5/27(金)晴天→雨  医師会打ち合わせ 法人理事会
2:30起床。家内は東京出張中。ドック判定総括x1,総括、紹介状、医師会館連業務。5:20病院着.回診とか。7:00家族面談他、10:30-14:15外来+ドック説明+ドック診察x3。15:30-16;10医師会打ち合わせ。17:30-18:30法人理事会、19:10回診とか、患者死去。お見送り。20:45帰宅、21:30就眠.

元総看護師長送別会 私にとっては別世界の送別会であった
 現総師長から、元総師長の送別会に誘いを受けた。元総師長とは、それほど頻繁に接点を持ったことはなかったし、いつぞや看護学校に、次いで別法人に移られたのでより遠い存在であった。
 女性中心になるであろう会に私が出席するには大きな気後れ感があったが、元総師長の長きにわたる働きに対する私の気持ちを、送別会という大きな節目となる宴に出席するという形で表現し、讃えることは決して吝かではない、ということで出席させていただいた。男性の出席者は少ないだろうと予想としていたが、各職種から結構な人数出席しており驚いた。これも元総師長の足跡がもたらした成果なのだと感じ入った。会は出席者も多数で、スピーチも豊かで、盛会であった。

 元総師長について語られたことは私にとってはほぼ全てニュースであり、驚きであった。認識を更にあらたかにした。私が如何に職員一人一人について知らないか、を思い知った場ともなった。

 日常、看護師は他職種の集まる会議、医師との話し合い等では発言は一般的に少ない。さらに、内容的には客観的な視点から語ることは少ない。病院組織の中で人数的にも最も多く、業務上でも重要な位置づけを担っている集団としてはコミュニケーションの技術上でももう一つ脱皮する要がある・・・と日頃から思っていたが、この送別会でのスピーチを聴いていて認識を変えなければならないようである。整然と語る方あり、雑然と語る方あり、何時終わるか予想不可能なのがあり、様々であったが話題は豊かであり言葉豊かであった。こんなに看護師が雄弁に語ったのを聴くことは久々である。

 再認識したこともある。起承転結がはっきりせず、山もなく谷もない話しぶりは印象が乏しい。途中で2、3度病棟より連絡があって中座したことも関連しているだろうが、一日経過した今、
思い出せる内容は意外と少ない。
 
スピーチはより短く、その中に何か印象に残るポイントを入れることが大切である。特にお祝いのスピーチは思い出を語るからどうしても長くなる傾向がある。その思い出も、特にプライベートなことまではわざわざこんな会で披露するまでもないンじゃないかな?
   通常、スピーチは3分以内がよいと言われるが、これは少しくらい拙い挨拶でも耐えられる時間という意味もある。その3分以内に印象に残るひと言が入って、まとまっていればそれで良いのだ。スピーチをする人は、常にこのことを頭の片隅に置くべきだろう。これは、私自身についても言えることで、肝に据えておこうと自省した。

 元総師長はなかなか厳しい方であったが、私はその表情に広隆寺「弥勒菩薩」に共通する静かで豊かな包容力のイメージを感じ取った。いろんな意味で、いいお祝いの会であったと思う。


5/26(木)快晴  総合内科診療部会(出席不可) 療養病棟診療部会議 M元総師長送別会 
2:00起床。家内はこまち最終で東京出張。無事東京駅STホテルに着けたか?ドック判定総括x1。紹介状返事その他。5:20病院着.6:10回診・紹介状関連書類他.9:00-14:30外来、混雑.総合内科診療部会は参加不可。14:00過ぎ、患者死去。16:00-17:00病棟対応、17:00-17:40療養病棟診療部会議。18:00-20:50View HにてM元総看護師長送別会、盛会。21:00帰宅、21:30就眠.

国民の二人に一人が宝くじを購入し、社会貢献しているという
 最近の新聞記事によると、
「ドリームジャンボ宝くじ」(第490回全国自治宝くじ)とかいう宝くじが発売になって話題になっている。1等は前後も含めて複数枚購入していた場合、前後賞合わせ3億円!!にもなるという。  5月16日(月)から6月3日(金)まで全国で一斉発売、抽選日は6月14日(火)。1等2億円が37本、2等1億円が74本、3等1,000万円も111本だとサ。夢のような数値が並ぶ。

 私は本来こう言うのが嫌いで、60年間生きていて宝くじなるものはまだ一枚も購入したことがない。年賀状のお年玉もハナから無視。だから何も言う資格はないが、ちょっとだけ。

 財団法人「日本宝くじ協会」が実施した世論調査によると、過去一年間に宝くじを購入したことのある人が初めて50%を超えたと発表している。協会では昭和51年以来、10回にわたって世論調査を行っている。過去一年間に一回以上購入したとの答えは1976年は約20%、2004年は51.5%で初めて半数を超え、夢を宝クジに託す人が多くなったと論じている。購入者の職業別割合では企業の管理職が71%、商工サービス分野の自営業が61%、家族経営の農業漁業関係者は22%とのこと。

 2004年の「世論調査」は、全国の満18歳以上の男女6,557人を対象に直接面接法で行われた。一度でも購入したことのある「購入経験者」は68.4%で最も高い数値を記録している。「購入経験者」のうち、最近1年間に1回以上購入した人を「宝くじ人口」とすると、初めて51.5%と全体の半数を超えている。 「宝くじ人口」のうち、最近1年間に月1回以上宝くじを購入した「宝くじファン」は11.0%だった。
 協会では約1万人のサンプルの結果から強引にも全人口に占める割合を計算し、人口にして7,150万人。前回調査から356万人も大幅に増加し、宝くじの人気はますます高まっていると論じている。方法論としてちょっと問題と思うが、確かに徐々にスケールが大きくなってきていることは確か。

 購入者に還元されるのは全売上額の約40%、販売関連その他の経費として約20%が用いられ、残りの40%が自治体に還元されているようであるから購入者は社会貢献もしている事になる。こういう数値を見ていると、逼迫している社会保障費用、これにはタバコ税の運用も検討されているが、この巨大化した宝くじも運用してはどうなんだろうかと思ってしまう。

 当たって喜ぶ方の何倍かの数の方が一字違いとか、組違いとか・・・で落胆しているだろう。こんなことは語られることはないが、笑って済ませられるのだろうか?学問の世界でもノーベル賞をもらい損なってすっかりいじけて人生をダメにした研究者もいたと聞くから、それに近いこともあるんでなかろうか。心配である。当たって人生をダメにするヒトは居ないのかナ??


5/25(水)快晴 患者家族面談 秋田パートナーシップ来訪 医師会常任理事会+検討委員会 MM日本消化器内視鏡学会
2:00起床。昨日の講演終了で若干余裕が出来るか?と期待したが・・ダメらしい。ドック判定総括x1,他処理。5:10病院着.6:15回診、書類他。9:00-13:30外来。療養病棟患者対応+家族面談。15:00秋田パートナーシップ来訪、昨年度のまとめと本年度活動について打合せ。私は年末から2回担当することになった。17:30-19:30医師会常任理事会+検討委員会。20:00病院にて業務、21:30帰宅、22:00就眠。

NHKの電話番号紹介 東京03-***と必ず言うが、あの「東京」は何なんだ?
 テレビの普及を機会にラジオの存在意義が大きく変わってしまった。私は子供の頃からどちらかというとテレビは嫌いで、子供の頃から一貫してラジオを好んでいる。民法は殆ど聴くことはなくNHKラジオ放送のみである。AM第一>FM>AM第二の頻度でダイヤルを回すが、医局の自室や自宅ではいちいち選曲するのも面倒なので各放送毎にラジオを用意して適宜切り替えて、あるいは複数台同時に用いている。鞄に常に持ち歩いている一台は全国の主要な放送局がプリセットされており、何処に行っても選局に迷うことはない。
 AM第一放送は一方的な報道番組とか論説番組などを除くとリスナーの参加番組が随分多くなってきた。これは、ラジオがマスコミ的様相から、全国規模のミニコミ的手段になってきたからであろう。これがまた、人間的喜怒哀楽が表現されてなかなか良い
 最近はリスナーの参加手段が手紙やハガキに代わってファックスが、自宅の電話に代わって携帯電話が主役になってきたし、今はメールが主たる連絡方法になりつつある。
 日中の放送は主にファックス、電話、メールなどを介した、比較的リアルタイム的参加が多い。一方ラジオ深夜便は参加手段ほぼ全て書簡であるが、時間的にも、リスナーの年齢を考えても当然だろう。

 しかし、気になるし、耐え難いことが一つある。各地の連絡先等の紹介やNHKの連絡先、ホームページアドレスやメール送付先、ファックスや電話番号の紹介が比較的多いが、ファックスや電話番号の場合、番号の前に何故か必ず「東京」が付き「東京03-***」である。「大阪06-****」と読み上げたのも聴いたことがあるような気がするが、確証はない。
 この場合の「東京」は何で付けるのか??私には良く分からないし、その意義を全く感じないし煩い。「東京」にあろうと何処にあろうと「03-***」を回せば(押せば)黙っててもつながるのだ。外国から来たばかりの方々などは、電話をかけたりファックスを送るときにどうやって「東京」と入力するのか迷う人は居ないのだろうかと思ったりする。
 何故なんだろうか。ご存じの方、どなたかお教え下さい。


5/24(火) 快晴 中通病院友の会理事会 秋田県個人情報保護委員会 平安閣講演
1:00起床,ドック判定総括x1,医師会・病院書類、今夕の講演準備.5;10Taxi 病院着.5;10回診、定期処方箋発行 紹介状、講演準備ほか.9:00-13:30外来.14:00-15:10中通病院友の会理事会、来賓挨拶。15:30-17:10秋田県個人情報保護委員会。知事の交際費の講評、他検討。18:00-17:10産業医でもある平安閣で感染症関連、特にB型肝炎中心に講演、病院業務。20:30帰宅。夕食、21;00就眠.

NHKラジオ,TVのニュース 四輪駆動車が高校生の列に(2)  
   一時ほどの隆盛はないように思うが相変わらずRV車も多い、しかも、かなりの頻度でフロントに「カンガルーバー」が装着されている。今回の事故を起こした車にも装着されていたが、私はこれを「ヒト殺傷バー」と呼ぶ。かつて、随筆「車よおごる無かれ」を書き、日本医事新報社に投稿した時に、100%デザインのためのカンガルーバーは事故の際の殺傷能力を増大し危険なので禁止すべき、との意見を旧運輸省に送ったが無視された。

 カンガルーバーは原野などを走る車にとっては必需品の一つ。もし人里離れた荒野で大型動物等と接触し、ラジエーターなどが破損して走行不能になると、ドライバーの命に関わるからで、人命保護のための部品と解釈出来る。
 しかし、市街地を走る場合このバーは凶器となる。市街地を走る車の場合、乗る者だけでなく、歩行者、自転車、二輪車の安全までも考えておくべきものだ。衝突安全性を考えた場合、車に凹凸が少ないことは勿論、衝突のエネルギーを変形等のエネルギーに変換し、軽減する構造を持った車が理想的。
 最近のカンガルーバーは、多くは樹脂製のものとなっているようであるが?見上は強固な金属製のバーと区別が付かない、実際に金属製のもあるようだ。どちらにせよ、前面に凹凸構造を増し、簡単には変形しないし、歩行者の腰部から胸部、子供の場合頭を直撃する位置に付いている。カンガルーバーは低速走行時での交通外傷の重傷度を高める可能性があり、私は全面禁止すべきと思う。
 今回の事故では酒酔い運転で居眠り?、猛スピード状態で歩行者に突っ込んだのでカンガルーバーの装着の有無は結果には関係ないかも知れない。しかし、私は安全軽視、デザイン優先のこの様な構造の車を販売するメーカー、購入するユーザー共に問題があると思うし、放任している行政サイドにも責任があると思う。

 RV車はアウトドアライフを楽しむ一部の人々には便利だあろうが、あるアンケートのよると殆どのユーザーは公道、市街地以外は走行しないという結果が出ている。それなのにRV車ブームである。尤も、今のRV車は始めから市街地用に出来ている。矛盾なんだか、多葉性なんだか、私には理解し難い世界でもある。

 私はヒトがどんな車を所有しているか、その人となりを考える時にちょっと参考にする。車は車種だけでなくサイズに多くのバリエーションがあるし、高価でもある。それだけに、車を購入するときは台所に置く冷蔵庫を購入するのとは比較にならないほどの多くの面から検討を加えて決めるのが一般的だろう。だから、どんな車を用いているのかには、その人の性格や人間性が過不足無く表現されていると思っているからである。


5/22(月)雨 管理会議  療養病棟判定会議  法人評議員会
1:30早めに起床。ドック総括、本日退院患者の紹介状、返事の準備に追われる。講演準備若干など。5:15病院に。6:10回診、8:00新体制での4年目になる管理会議。9:00-13;50外来、病棟、書類対応。16:00-16:30療養病棟判定会議、17:30-19:45法人評議員会+懇親会、20:00帰宅、20:30就眠。

NHKラジオ,TVのニュース 四輪駆動車が高校生の列に・・・(1)
 一昨日の早朝、出勤準備しつつNHKラジオ「ラジオ深夜便・こころの時代」を聴いていたが臨時ニュースが入った。「今朝、4:15amころ、宮城県多賀城市内で四輪駆動車が高校生の列に・・・、三人死亡・・、運転していたのは・・」とのこと。
 部屋をウロウロしつつ聴いていたので充分聴き取れなかったが、とても違和感を感じた。「4:15amころ」「四輪駆動車が」「高校生の列に」・・である。何で主語が四輪駆動車なのだ??、こんな時間帯に何故高校生が??、朝帰りか、クラブ活動とかで早朝移動なのか・・・等々。
 5:00amのニュースでは更に詳細が判明したが、矢張り主語が「四輪駆動車」であった。高校生は仙台育英学園高校生でウオークラリーに出発して間もなくの事故だったとのこと。しかも運転者には酒酔い運転の疑いがあるとのことで、受傷や犠牲になった方々や家族にしてみれば耐えがたい事故である。実にお気の毒で言葉も出ない。

 7:00amには病棟の患者のベット脇のTVでNHKニュースで惨事が報道されていたが、タイトルは同様に主語が「四輪駆動車」であった。現場の写真で初めて当該車両をみたが、いわゆるRV車と言われる車で、どちらかというと大型サイズ。愕然としたのは
、私個人的には絶対に装着すべきではないと主張している「カンガルーバー」の装着車であったことである。この時に事故の概要を知ったが、悲惨としか言いようがない事故である。
 「四輪駆動車」が勝手に走って事故を起こしたわけでない。たまたま使われた手段で、それがたまたま「四輪駆動車」であったことで、主語はあくまでも運転者であるべきあり、このニュースにおいても報道関係者の作意が感じられてならない。


5/22(日)快晴  病棟拘束  FF tennis 
2:00寝不足感あるも起床、ドック判定総括x1.昨日の講演の下準備のために手を付けられなかった来週火曜日の講演「B型肝炎について」の準備開始。画像取り込み中心。昼頃Vnなど若干。13:00-16:40 FF tennis  6-8  5-7  6-4と負け。17:00-20:20病院。重症者数名対応、20:40帰宅。夕食、21:30就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (15) 
家族が増えた 家内の叔母さん方3人と同居 
 秋田市内在住の家内のおばさんには長女を世話していただいていただけでなく、我が家の掃除や洗濯、夕食の用意までしてもらっていた。おばさんは自分の子供達を学校に出したあと長女を連れて一日に2度、3度と自宅と我が家とを往復していたが、何かと不便なこともあったし、いろいろなことを切っ掛けにおばさんが娘二人と共に我が家に同居する話が生じて来た。

 家内は自分の身内でもあることだし、私の性格や人間関係に対しての考え方なども解っていたからか、遠慮があったのだろう、同居に関して自分からは決断しなかった。
 私は本来子育ては大勢の人間の中ですべきだとの考えを持っていたし、他人にみてもらうよりは家内の生まれ育った秋田の人脈のなかで子育てするのがベターと考えて、そのために秋田に来たことでもあるし、いつぞやの長女の行方不明の件もあったし、・・といろいろ考えて決断した。秋大内科血液班に所属することが出来、好きな血液学を学ぶことが出来たのは偶然的な所産である。

 私にとって、他人との同居はいろいろと困難なことも予想されたが、家内には私の世話や家事などをそれほど気にしないで、医師になろうと決意した頃の初心をまとうして欲しいとも思ったし、まもなく次の子も誕生する予定にもなっていた事も大きな理由の一つであった。と言うことで、我が家は一気に我ら夫婦、長女、叔母さん、小学生の子供二人の6人家族となった。確かに気遣いも必要であったし、それなりのストレスもないわけでは無かったがこれらは当然に付随することであり、耐えるしかなかった。
 しかし、この同居を機会に生活上では随分便利で、安心出来る状況になったことは確かで、家内も私も時間的にはマイペース過ごすことが可能になり、互いに早朝出勤や深夜帰宅など自由な生活するようになった。


5/21(土)雲一つ無い見事な晴れ  病棟拘束 秋田県放射線技師会講演
1:30起床。ドック判定総括x1。今夕の講演準備、データ集め、他、5:30病院着、6:30回診ほか。8:45救急カンファ、9:00人間ドック説明x3。主治医意見書x1。10:30-13:00外来。病棟対応.講演準備.16:40-18:00秋田県放射線技師会総会特別講演「患者の権利について」、於千秋会館。18:10-19:50情報交換会にて歓談。20:00-21:00病院業務、帰宅、21:30就眠.

「患者の権利」の高揚=「医療者の権利」の高揚 なのだ
 「患者の権利」などと語られると医療者側は身を堅くして対峙する傾向がある。それは、もともと医師、医療関係者自身が多くの権利のもとに保護されているにもかかわらず、その自覚が乏しいことにも由来している。それ以上に、通常の生活をする上で、良識ある市民の一人として多方向から守られている「権利」の恩恵を忘れてしまっている。
 さらに、何らかの有資格者、知識人は自らは「権利とか義務」という言葉を通常に用いていながら、一般人がこの言葉を用いること強いにアレルギー感覚を有していること、特に、医療関係者は、自分たちは、奉仕の精神で自らを犠牲にしてまで医療を行っているのに、患者側は理解してくれない、患者の側から「権利」という言葉を使われることには抵抗がある、と何時も自分たちを主語にして患者・医療者の関係を考える傾向が強いからである。

 「患者の権利の高揚」というのは諸外国では社会の熟成と共に医療界に及んできたものであるが、日本に於いては、最近まで医師がパターナリズムを身につけており、そのために患者が何も言えないような、抑圧された状態で医療を受けざるを得なかったと言う、喜ばしくない状況にあった。これは否定出来ない事実である。
 最近、忌まわしい医療事故等の処理過程や裁判過程で医療界の閉鎖性等の古い体質が次々と明らかにされ、話題にされ、その過程で「患者の権利」の高揚が爆発的に噴出してきたからである。そのために、「患者の権利」というものが本来良い医療を受けたい、納得出来る医療を受けたいというヒトとして、病むものとしての当然の要求なのであるが、その矛先が「患者 vs 医療者側」、特に「患者 vs 医師」と言う如くに極めて矮小化された形で語られ、方向転換されて論じられている。結果として、「患者の権利」が語られる毎に、常に医療者側が窮地に陥ることになり、その度毎に医師医療関係者は緊張を強いられることになる。

 「患者の権利」の高揚は「良い医療を受けたい」と言う叫びであり、これは基本的人権の要求であり、ヒトとして当然の要求である。要するに、われわれ医療人が常に思っておりながら諸般の事情でなかなか実践出来ないで地団駄踏んでいる、「良い医療を提供したい」との思いと同じ叫びである。だから、医療者として「患者の権利」を正しく理解し擁護し、その実践のために医療環境を良いものに整えてていくことは、単に患者だけにメリットがあるのではなく、われわれ医療者側にも大きなメリットにもなるのだ、と私は信じている。

 結論:「患者の権利」を語る事は医療者として常識レベルの話であり、かつ極めて重要である。何故なら、「医療関係者の権利の擁護」と同義だからである。

 昨日の講演は上記の如くの要旨にて展開した。


5/20(金)超快晴 医師会打ち合わせ(キャンセル)  講演準備日
1:30起床。ドック判定総括x1、その他。5:20病院着。6:20回診他、 10:30-13:00外来 。14:00入院患者家族と面談。有症者複数名発生。明日の講演準備大幅に送れ、午後から集中した。そのため医師会打ち合わせはキャンセル。20:30疲弊し、充電のために切り上げ帰宅.夕食、21:20就寝。

テンポが合わなかった昨日の日医の協議会  説明会のレベルで不快、不満
 昨日は「日医医事紛争・自浄化活性化担当理事合同連絡協議会」なる重要な会が開かれ、出席した。全国の都道府県医師会から複数の担当者が参加し、200名以上は集まったと思われ、会場はそれなりに緊張感もあった。
 執行部からこの会の開催に至った経過、趣旨が説明された。執行部の準備された内容は資料を見る限りそれなりの価値はあったが、実際に資料の説明が始まった途端に私は落胆した。司会を始め、ご高齢の担当の方々ゆったりとした、内容的にしつこい説明が延々と続いた。話のテンポが私の感覚からみて全て半分以下で苦痛以外の何物でもなかった。

 医療界の今後を左右するほどの重要な任務を担っている日医の執行部である、何時かの時点で、何か決定的な発言があるのかと聞き続けてたが、結局何を言いたいのか解らない説明。本日の出席者なら誰でも解っている様な、資料から予測出来る範囲の内容をしつこく、ゆったりと、20分もかかって話した。聞き終わってみれば、結局、要領よく話せば5分もかからずに伝える事の出来る内容。この様な発言が数人から続き、私は心底ガックリきた。
 本日各地から集まってきた担当者はそれなりの働きをしている担当者である。大勢の出席者を前にしてのこの様な会の進行は迷惑千万である。

 質疑応答の時間になって各地から集まった担当者から内容に関しての疑義、意見が飛び出したが、結局、挙手する出席者が複数いるなかで時間切れと言うことで司会から閉会が宣言された。私も発言の機会を狙っていたが敵わなかった。これでは協議会でなく説明会である。
 圧巻は最後の副会長のまとめの挨拶。他の会に出席していたとのことで閉会数分前に会場に現れたばかり。まとめなんか話す資格など始めから無い。出席者をバカにしている、としか言えない。私は現執行部へ大きく期待しているが、この会の運営を見て、その印象、期待感は大きく下落した。
 会が終了してから、会場で日医の事務局長に本日の懸案事項についての意見と会の進行に対する意見を具申した。後ほど文書を送ることを約した。
 
 説明の前に演者は内容を考え、如何に無駄をそぎ落として要領よく伝えるか考えて欲しいものである。時間と経費が実に勿体ない。周囲の助言も必要だろう。
 今、医療界は厳しい現実に対峙している。医師会は、医師会自身のためにも、国民医療を守るためにも、早め早めの世代交代が絶対に必要である。 日医の協議会、他の講演会などで厚労省の課長クラスの話を聴く機会が何度かあったが、彼らの殆どは40歳代で、話はテンポも速く、具体的で迫力もある。こんな彼らとまともに対峙・対応していくには少し無理がある。 おそらく厚労省の役人、議員等は日医の説明など時間が勿体なくて聞いていられないのでは無かろうか。私だって耐え難いのだから。


5/19(木)秋田雨→晴れ、東京快晴  日医医事紛争・自浄化活性化担当理事連絡協議会 
2:00起床。ドック判定総括x1、主治医意見書等書類整備。5:10病院着。5:10回診他,出張準備。9:00病院発 空港に、10:05JAL AirBusA300-600R  80%ほど、後席には余裕あり快適。悪天候で終始激しい揺れ。13:30-15:45日医医事紛争・自浄化活性化担当理事連絡協議会。日医執行部の説明、テンポのろくて内容的にもしつこい。1/5以下の時間で済むような話しぶりで苦痛。発言は時間なく無理だったので事務局長にこの件に関してクレームをつけた。18:10JAL  MD-90満席、離陸順番待ち7機目で滑走路脇で20分ほど待機。秋田近くでは矢張り激しく揺れた。20:10帰宅.20:45就寝.

白衣、Y シャツ、ネクタイ、靴下談義(2)
 本箱の整理をしていたら、3-4年前の仕立券付きのY シャツが出てきた。勿論、仕立券の有効期限はとっくに切れている。期限切れにした事は何度か経験しているので問い合わせたら、やはりそのまま仕立て可能というので一昨日、医師会打ち合わせのあと、駅前のあるデパートに立ち寄った。1F,2Fも同様であったが3Fの紳士用品売り場フロアには客は極端に少なく見える範囲で私を入れて3名だけ。売り子さんの方が多い。私は兎に角人の集まる処は嫌なのでデパートなど年に数回程度しか利用しない。だからよく解らないが、こんな程度の客の入りで果たしてこのデパートは経営は成り立つのか、疑問に思った。尤もウイークデイで時間帯も悪いし、私も情報不足なので杞憂なら良いんだが。

 長袖Y シャツは着る機会も少ないし、半袖を仕立てるか長袖にするか迷ったが、半袖なら別に頚周りと袖長とのアンバランスは関係ないだろうから、既製品でも良いはずであるし。第一安いだろう、と考え、仕立ては長袖にしてきた。半袖のY シャツはまだシーズンでないために店頭には並んでおらず、聞いたところ先週入荷したと言うので序でに2着購入したが、奥から出してきたのは2着で1.5万円もした。1着2千円位だろうかと予想していた私の感覚では驚くほど高価であったが、私には判断出来ないのでそのまま買ってきた。 ホントの話し、何でこんなに高価なのか?疑問である。 

 その間、ネクタイを見てみた。私はグレイの無地しか用いないし、歯磨きの時などに不用意に汚すことも少なくない。通常は駅の通路などで売っている500円程度のを購入し、汚れればゴミ箱行きであるが、このデパートの製品はどれをみても1万円は優に超え2万円台も少なくない。そんなに優れていると思えないし、何でこんなに高価なのか?多分私の金銭感覚がずれているのかも知れない。
 今まで背広は2着、革靴も2足しか買っていない。しかも未だ現役である。身につけるものに関しては私は概して無頓着。子供達が残していったお古を貰って着ているが、たくさんあるし、殆ど購入する必要も無さそうだ。


5/18(水)曇り 医師会理事会  
2:30起床。ドック判定総括x1、講演データ集め、他。5:20病院着。回診他紹介状など。6:10 病棟回診、9:00-13:30外来 。15:00-16:00病棟関連処置,16:30-18:45医師会理事会。再度病棟へ。21:00帰宅、夕食。21:45就眠。

白衣、Y シャツ、ネクタイ、靴下談義(1)
 
私は日常白衣を着ない。まとわりついて邪魔だから、機能的でないから、である。白衣はここ数年、ほぼTV出演用にだけに用いて来たが、今春の医療評価機構受審の際にだけは3日間連続で着用した。数年前に卸した白衣一着だけ使い続けてきたからさすがに汚れていたらしい。後の座席の医師から注意され、久々に交換した。衣服の汚れに関して私の感覚はかなり鈍いようだ。

 白衣を着ないから院内はY シャツとネクタイ姿で診療し、過ごしている。例年、夏は半袖、秋から初夏にかけては長袖のY シャツを用いてきた。が、昨年から今年にかけて多忙なこともあって交換するのも面倒だからと、そのまま半袖Y シャツを着続けてみた。院内暖房があるとはいえ矢張り寒かったが、それ以上に手や腕が自由で、袖の汚れも気にしないで済むし、患者さんの処置等の時も清潔だ、などメリットの方が大きく、結局、一度も通常のY シャツを着ることはなかった。

 ケーシースタイルの白衣の医師は半袖が当たり前だし、看護師の大半は半袖姿で働いている。この方はあまり違和感ないらしいが、冬の半袖Y シャツは見るヒトにとっては違和感がかなりあったらしく、最近まで「先生、寒くないですか?」と問われた。その度に「とても寒いです?」と答えると、問うた方は一瞬気の抜けた表情をする。「寒くないですよ」との答えを期待して聞くらしい。私はそんな異常な感覚の持ち主ではない。むしろかなり筋金入りの寒がりである。
 最近は靴下を履く事が多いが、かつては真冬でも院内では素足でスリッパ、駐車場程度までのちょっとした距離なら雪道でも同じで、やはり「冷たくないですか?」と問われた。「冷たいです」と答えたが、元来これは愚問である。こんな状況で冷たくなかったら明らかに異常者だ。私は異常ではない。冷たいのだけど、面倒だから、ものぐさだから我慢しているだけ。最近はなるべく靴下も着用するようにしているが、しょっちゅう忘れてくるから素足で過ごさざるを得ないことも少なくないが、その方がずっと気分がいい。

 身につけるものに関しては私は概して無頓着、マイペースの方。最近は独立した子供達のお古を貰って着ている。


5/17(火)晴れ 医師会打ち合わせ 健康対策課来訪 医局カンファ(MRSA)
1:30起床、ドック判定総括x1、 紹介状返事、総括x1。5:20病院着。6:00回診、定期処方箋発行他,9:00-1400外来 。入院患者の不安定な歯を抜歯した。若干難渋したが久々の処置。15:30医師会打合せ、16:00健康対策課来訪。17:30-18:30医局カンファ、院内MRSAの動向。頭痛にて能率低下、疲労か。20:30帰宅。21:00就眠。

乳母車・ベビーカー・婦人専用寝台車・レディースカー・シルバーカー(2)
 高齢者は足腰が弱ってくると杖等に頼らざるを得なくなる。
 人が立ち上がる能力、二本足で歩く能力を身につけたことで多くの機能を獲得したが、身体的には大きな負荷を負うことになった。骨格、筋肉等がヒトの体重を支え続けるほど丈夫な構造になっていないからである。若いときには余力があって何とかなる程度の機能しかない。30歳程度から機能低下がり、進行性に機能悪化の一途をたどる。
 50歳頃からその影響が明らかに身体上に出始め、年とともに足腰が急速に弱くなっていく。そのくせ異常に長命化、運動不足、体重過多が加わるから、足腰の身から言えば地獄そのものである。自分の身体の一部だから足腰は文句も言わずじっと耐えて居るわけだが、だんだんに悲鳴を上げるようになる。それが腰痛、膝痛で悲鳴ある。それでも、痩せる努力もしない。病院に来ても、あまり改善はしない。

 足腰が弱れば歩行速度が落ち、疲れ、外出の頻度が減り、気分もふさぐ。時に転んで怪我をしてやがて寝たきりに。
 ここで、転ばぬ先の杖ならぬ、シルバーカ?登場である。値段は結構張って2.3-4.0万円で、ゴールドカーと言っていいほど高価である。歩行能力に障害を来し始めた方が行動範囲の確保のための手押し車で、ベビーカーのように手押し車。何でこれがシルバーカーと言うのか解らない。○○カーというのは本来ヒトが乗るものだ。老人専用の客車とかバスとかならわかるが、これはおかしい名称でないか。

 シルバーカーを使うと実際に歩行距離も伸び、安全である。高齢者の生活のパートナーとして多くの方々に愛用されているが、何故か男性の高齢者は使う人が少ない。殆ど見たことがない。秋田ではそのためにババカーとも呼ばれている。高齢男性は杖に拘る。シルバーカーを勧めても頑として受け入れない。カッコ悪くてイヤだ・・と言う。男は何時までもダンディであらねばならぬ、とダンディと一切関係のない状況の方々でも思っているようだ。でもこの気持ちも重要だろう。が、転んで寝たきりになったらどうする?

 シルバーカーは散歩、買い物、通院などに向くよう便利な工夫がなされ、疲れたら椅子代わりに座ることも出来るし、そのまま押して貰ってちょっとした車いす代わりにもなる。足腰の弱った爺さん方にもホントのこと、使って欲しいと私は思う。
 エッ、私ならどうするかって??私はそこまでは生きられませんから、一切心配はしていません。


5/16(月)曇→晴れ  管理会議  療養病棟判定会議 長副会議  
1:30やや早め起床。ドックなどいつもの処理。5:20病院着。回診他,8:00管理会議.9:00-13:30外来。退院総括。16:00-16:30療養病棟判定会議。16:30-18:30長副会議。20:25帰宅,夕食、21:00就寝。

乳母車・ベビーカー・婦人専用寝台車・レディースカー・シルバーカー(1)
 最近、昔の箱形の乳母車を見ることはなくなった。代わりに殆ど椅子型になっている。おそらく、殆ど全ての家庭に自家用車があり、それによる移動が中心になって来たことも一つの理由なのだろうし、今の都会型の生活にはあの箱形は馴染まなくなってきたのだろう。
 子供の視点ではどちらが良いのだろうか。母と子が対面し、互いに表情を見ながら、子に話しかけながら押す、これもなかなか良いモンだったと思う。第一、小さな子にとって椅子型で前向きというのは不安定で恐くないのだろうか??乳母車だと買い物の荷物もかなり積めて便利だった、様に思う。
 先週、浜松町のエスカレーターに椅子型のベビーカーを乗せた若いお母さんが居たが、本当は禁止されているらしいが上手なものである。空いた時間帯だとJRにもベビーカーで子供を連れてチョイチョイと乗てくる。簡単に折り畳める。これは矢張り乳母車では無理だ。時代柄なのだろう。
 特急寝台「あけぼの」に数年前から婦人専用車が連結されている。家内は今でも学会の時など時折利用するが、送り出す方もとっても気楽で良い。私自身も時には寝台列車を利用するが、近くに女性、あるいは女性達が居ない方が良い。気疲れするし、仲間連れだと時にうるさい。
 朝方の身繕いする時間帯など、洗面所で百面相しているのも見るのは辛い。男性のための専用車は何で無いんだ、と思うくらいである。私は寝台に限って言えば、男性専用車があればいいと思う。

 JRで2週間ほど前に通勤帯に女性専用車が出来たらしい。これは痴漢防止のためだという。それほど痴漢行為は日常的らしいが、秋田にいる範囲では全く理解出来ない。すごく混むのか、と思ったら結構ガラガラで、女性専用ゆったり車両という感じ。しかし、こんなのを作ったら、専用車に乗らなかった女性は別な意味でのレッテルを貼られないか?等と要らざる心配をしてしまう


5/15(日)雨→晴れ FF tennis(中止) 病棟拘束  
1:30リハビリ当直室で起床、ドック総括x1。新聞チェックほか種々、講演準備、検食。8:30病院に、8:45救急カンファ4名ほど集合。回診他11:30帰宅。ドック総括x1。深夜から降り続いていた雨は昼前から上がったが風強く、コート面もびしょ濡れだろうとFF tennis中止。時間に若干余裕が生じてたが講演準備、すこやかさん in  Akita用の原稿に時間とられ余裕無し。一時午睡、20:00夕食、20:45就寝。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (14)
男鹿沖でのキス釣り、鯛釣り(2) 鯛との駆け引きが実に楽しかった
 三陸の磯釣りは足場の必ずしも良くない磯で自然と一体となって海を眺めながらの釣り、一方、男鹿の船釣りは釣り船から秋田の海岸や丘陵、山々の地形を眺めながらの釣り、どちらも捨てがたい魅力がある。船の揺れに身を任せながらの数時間、開放感は何とも言えないものがあった。

 鯛釣りの魅力は磯釣りにない魚たちとの駆け引き。エサを啄んでいるときの他、針にかかってから船際に引き寄せてくるまでの間の駆け引きは何とも言えない。特に掌サイズの鯛は合わせが難しい。釣り上げの成功率は半分以下か。20cmほどからの中型クラスになると合わせはそれほど困難ではなく、向こう合わせの頻度が多くなる。チョンチョンとエサを弄んだ後ガクンと強烈な引きが来る。
 これからが真の駆け引き。大きく横に走る場合、更に遠方に向かって走る場合などいろいろで実にダイナミック。相手の動きに合わせて時には一気に釣り糸をリールに巻き上げ、時にはむしろ糸を解いて流してやる、横に走っているときはじっと方向転換するまで待つ。この間の駆け引きの味は決して忘れられない。やがて海面近くに魚体が姿を現す、真鯛か黒鯛か??最高の一瞬である。手元に引き寄せ、網ですくい取る。海底から挙げられた鯛は暖かい。かじかんだ手に暖かみが伝わってくる。時に暴れる鯛のヒレで手を切ることがあるのでタオルなどにくるみ慎重に針を外す。良い瞬間である。

 釣り上げた獲物は一匹も無駄にしないよう食卓に供した。これは釣りを楽しむものの責任である。コスト的に見れば全然見合わない。1回毎に船とえさ代で8000-10000円かかったから、鯛は一枚1000-10000円ほどと超高価。料亭で食べる尾頭つきの鯛よりは遥かに贅沢品であった。このコストに見合わない釣果に満足するのも釣り好きの贅沢というものだろう。

 大学では受け持ち患者数は数人程度で、それほど具合が悪くない場合には後輩医師に留守中の対応を頼み、1/月ほど、年に数回程度、数年間は何とか船釣りを楽しめた。大学での後半の時期は何かと忙しく、年に1-2回程度しか出来なくなった。
 大学を辞し今の病院に勤務してからは、医局に釣り同好会もあるようであるが、一度も釣りには行っていない。年々業務量が増えて時間の確保も困難になってきたことも一因であるが、同僚医師に代理をお願いすることも憚られたからである。

 もう2度と男鹿沖に出ることはないだろう。鯛釣りは良い想い出になっている。


5/14(土)晴れ 60回目の誕生日 病棟拘束 リハビリ病院当直 患者家族と面談2件
2:00起床、ドック判定総括x1、その他講演準備の資料集め。5:20バイク病院着.回診,書類処理。8:10ドック診察x4.8:45救急カンファ.研修医4人と私だけ。10:30-13:00外来。患者家族と面談2件。紹介状返事、病棟対応など懸案処理他。16:45リハビリ病院へ当直に。そのまま業務継続,18;30検食+夕食。新聞チェック等、20:30就眠。

60歳、ザルツブルグで迎えるはずだった感激の還暦を秋田で迎えて
 本日は私の誕生日。大勢の・・と言っても10人ほどの方々から祝福のメールをいただきました。病棟では看護師の方々からもたくさん声をかけて頂き良い気分。こんなにたくさんの方々から祝福されたのは初めてです。今年は特に日常から還暦、還暦と一人で騒いでいたからでしょうか。
 何はともあれ、有り難うございました。心から感謝申し上げます。多くの人たちに支えられ助けられながら、とにかく今日まで、とても有意義に過ごすことが出来ました。こんな幸せなことはありません。
 関わりがありましたすべての方々に感謝申し上げたいと思います.今日は、この60年よくマア生きてきたな、と言う感慨と共にまた新しい意欲が沸いてくるのを感じています。10年ほど前までは、もし生きていて還暦を迎えられるような状態なら、その前に退職してザルツブルグで迎えよう、半年から1年ほど滞在しよう、と計画していたのですが、果たせませんでした。何で、ザルツブルグ?それは、勿論、モーツアルトです。今年は彼の250年祭が行われるはず、と計算もしていたのですが、秋田で静かな朝を迎えました。多少はあがきながらも、何とかしたいと思いながらも、結局は今の環境の流れの中に身を任せてしまいました。

 本日は、土曜日だし、60回目の節目の誕生日だし、最近も随分多忙だったし、対外的予定も入っていないので、少し早めにかえってのんびりしようかと考えながら出勤したら、何と、無情にも机上にリハビリ病院の当直担当を告げるの伝言が乗っており、帰宅出来ない事態になり、今これをリハビリ病院の当直室で認めています。なんと言うこと無い、医局のスケジュール割り当て表配布時に自分の予定表に入力するのを失念していたからです。

 ザルツブルグならぬリハビリ、マア、両方ともカタカナ書きと言う微々たる共通点があるから、これで納得しますか。これも私らしい誕生日の迎え方なのでしょうね(笑)。
 とにかく、有り難う御座いました。一日一日を大切に過ごすことにいたします。


5/13(金)秋田小雨 東京曇  日医病院委員会 法人理事会(欠) 
2:00起床、若干眠い。患者の権利学習。紹介状返事。5:20Taxi病院。回診他。 9:00病院発秋田道経由空港に、10:05JAL  AirBus A300-600R  60%ほど。13:30-16:00日本医師会病院委員会、主に地域支援病院の在り方を討論。18:05JAL  MD-90 満席、30分ほど遅れて離陸、19:30秋田着、20:00帰宅,夕食、22:30就眠。

パソコン関連で少々(2) Mac OS10.27は美しいOSだ
 具体的な値段の取引は未だだが、次男は自分が次ぎに新機種を購入する際には、私によこしたi Book(800)に相高な値段を付けようと考えているらしくちょっと怖い。

 それにしてもi Book(800)の機能はすごい。これでももう機能は時代遅れになりつつあると言うからすごいものである。確かに現在発売中のMacは安い機種ですらCPU機能が1200-1400Hz、高級機だと1800-2700Hzに及んでいる。こんなのは私には予想もつかないほどの高機能であろう。
 何しろ私の現有機種で最も低機能なのは25Hzで、その他は180Hzが2機種、あとは100Hz、225Hz、350Hz、450Hzが各1機種しかない。それに今回i Bookの800Hz が加わったことになる。25Hzなんてカメさんのようなモンだが、それでも作文程度には未だ現役として使えている。何しろ作文する私の頭の速さは10Hzも無いのだから、当然のことである。

 だが、コンピューターの処理能力開発競争もそろそろ限界に来ているらしい。実際にはもっともっと早く出来るとのことではあるが、実際にそれを使う方の人間の処理能力が到底追いつかなくなるから、意味を持たなくなるのだそうだ。だから最近のパソコンは別の機能の方を全面に出してくる傾向にある。低廉化は嬉しい傾向だが、ノートパソコンの中枢部にはアンチショックシステムが付いて落としたりしてもハードディスク内のデータが守られるとか、燃料電池組み込みのもの、デスクトップには水冷にしてファンの音を極力低減しているのもある。

 MacOS-10.2は画面がとても美しい。しかも、アイコンが踊ったり・・と遊び心も十分である。それ以上に重要なのは、最も汎用されているUnix(ユニックス)をベースにしているので複数の処理を同時にこなしたり、安定性も増しているとの事である。これは目には見えないが、一層Windowsとの互換性も増しているのが嬉しい。他にもいろいろ注目すべき機能があるようだが、私は未だ殆どダメである。使いこなせていない。しかし、OS9までの世界でウジウジと停滞していた時の焦りは無くなった。苦労もするであろうが、楽しみがまた一つ増えて、良い気分である。


5/12(木)曇り 還暦を祝う会
2:00起床、紹介状返事その他等.患者の権利関連学習。5:20病院。6:20回診その他いつもの如く。8:50-14:30ドック診察x2+外来+ドック説明1名。病棟処置数名。重症化数名対応。書類等懸案処理。18:30-21:30「千秋亭」にて還暦を祝う会。同僚医師で、音楽仲間でもあるF.T医師夫妻に夫婦でご招待され、美味なる料理と共に久しく歓談した。感謝感謝である。21:45帰宅、22:00就眠。

パソコン関連で少々(1) 最近、Mac OS10.27とWindowsと格闘中
 私が用いているパソコンは95%ほどはマック。昨年頃までMacが100%であったが、家内は殆ど自立して用いることが出来ないにもかかわらず、何故か突然Windowsに乗り換えたことで、私も余波を受け、若干こちらの方も使えるようになってきた。更に、先月から長女が使っていた古いSONYのVAIOなるノートパソコンを病棟用に持ち込んだ。私も時に起動する機会がある。しかし、Windowsは難しい。まだ何が何だかよく解らない。

 つい数ヶ月前、ここ4年ほど講演用、当直用に持ち運び頻用していたノートパソコンPB2400c(400)の一台がついに起動しなくなり、ガックリと来た。こころにポッカリと穴が開いたように寂しい思いである。
 ショップに相談したところ、修理は数倍高機能の新品を購入するに近い経費がかかるだろうし、修理しても何時まで使え続けられるか解らないと言う。マア、正論だろう。
 これで残っているノートパソコンはPB2400c(180)、PB1400(400)、PB5300(100)だけとな?。これらはまだ外来、病棟とかで現役として働いてくれているが、総合的には力量不足となっている。その面では命を終えたMacのPB2400c(400)はMacの中では1.9Kgと最も軽量で、機能的には私が用いるのには過不足無いレベルであったからホントはとても惜しい。

 一方、最近のMacは従来までのOS9とは全くコンセプトの異なるOS-XなるOS10.2ほどに全てが移行している。雑誌など見ても私が用いているOS7.6からOS9.2までのことなんてもう出てこない。それに最近のソフトは全てOS-X用でありもうOS7.6からOS9.2まででは用いることが出来ない。蓄積してきた古いデータを活かすためには、早めに新機能下で作動するソフトに乗り継いで行かないと結局死蔵してしまうことになる。そんな厳しい現実は何度か経験している。
 同じ轍を繰り返さないためにも、私もそろそろOS-Xも導入せざるを得ないと考えていたので、PB2400c(400)が故障したのをを機会にOS-Xに踏み込むこととした。とは言っても最新のMacは私にとっては勿体ないほど高機能なので、2年ほど前から次男が用いてきたi Book(800)を引き取ることとした。


5/11(水)晴れ  県医師会医療安全委員会 + 常任理事会 + 郡市医師会長協議会 + 情報交換会  
 
2:00起床。紹介状・返事x2、退院時総括等。患者の権利勉強。5:10病院着、6:20回診、書類処理多数記載。9:00-14:00外来、書類処理。16:00-17:20県医師会医療安全委員会、17:15-18:30秋田県医師会常任理事会・郡市医師会長協議会合同会議、懸案事項多数で討論。18:30-20:00情報交換会。20:15帰宅,20:45就寝北朝鮮:核燃料棒8000本取り出し公表。TBS部長級の盗作発覚。

失われつつある童謡、むかし話の価値  子供の視点に合わせた子育てのために
 数日前、ある保育所勤務の保母さんと話す機会があり、いろいろ教えられ、考えさせられた。
 保育所や幼稚園では出来るだけ「童謡」や「唱歌」、「わらべうた」などを取りあげ、時には「昔話」も取りあげている。子供達は何れも喜んでくれるが、その後の子供達の様子から見ると殆ど家庭でフォローされていないらしい、と言う。
    確かに、最近の家庭の子育ての場面、勿論、私はそれほど方々を知っているわけではないから独断と偏見になるが、では童謡とかが歌われることは殆どなくなってきたし、おとぎ話など、子供達は殆ど聞いたことがないようだ。

 子育ての場面では、核家族と言うだけでも大きな欠陥があるが、今の若いお父さん、お母さん方は核家族の問題点を自覚し、それを補おうとする努力がなされているのだろうか。核家族のなかでの子育ての場面、若い両親の立場と考え方に子供がそれに無理矢理合わせられているのではないのだろうか。「ダメダメ!!」、「さあ急いで!!」・・・なんかの言葉の方が多すぎないか。子守は、TVにお任せでないのか??子育てには時間をたっぷり使える祖父母の存在はとても大きいのだ。

 童謡と言えば、私でも「おかあさん」「かわいいかくれんぼ」「サッちゃん」「めだかのがっこう」「手のひらを太陽に」等が、おとぎ話では「桃太郎」「花咲じじい」「舌切り雀」「かちかち山」「猿蟹合戦」「金太郎」「ぶんぶく茶釜」「浦島太郎」あたりがスルスルと浮かんでくる。

 むかし、母親が、時には父親が、爺さん婆さんが、何かの時に、時には添い寝をしながら歌っていた歌、歌ってくれた歌、一緒に歌った歌、話してくれたおとぎ話など、今でも何かの時に何故か自然と口ずさんでしまう。おそらく、私の心の隅に深く深くインプリントされているのだろう。

 私は、童謡とかおとぎ話などは全世代のヒトが持つ共通の言語なのだと思う。それ以上に重要なのは、子供の視点に誰でも立ち返ることが出来る日本人の文化に根ざした「共有の歌」「共有のお話し」であり、更に言えば「共通のこころ」なのだと思う。
 「荒城の月」を知らない世代が増えているのにも驚いたことがあるが、日本人の各世代間で細々と続いていたはずの「共通のこころ」が失われるのは寂しい。


5/10(火)小雨→曇り 医師会打ち合わせ  医局会  
2:00起床,ドック総括x1、紹介状、退院総括ほか.5:15病院着、6:30回診+定期処方箋発行40数枚、9:00-14:00午前外来混雑+ドック説明1名.14:00入院患者対応。15:00県医師会へ。16:00入院患者3点セット交換など対応。17:30-19:00医局会。20:40帰宅、21;00就眠.

童謡「月の砂漠」ホントは「月の沙漠」  加藤まさを作詞 佐々木すぐる作曲の名曲
 早朝出勤時、未だ明けない紺青の空、西の空に見事に光る三日月を観ることがある。広い自然の中で観れば更に味わい深いのだろうが、まだ家々の灯しが少ない街並みの中でも十分に美しい。特に大型のバイクのエンジンをゆっくり回し、ゆっくり走るとき、最高だ。この時、自然に口ずさむ曲は、童謡「月の砂漠」。ヘルメットの中で自分の声が適当に共鳴する。唄が上手いか下手かなんて関係ない、自然にでてくるンだね、これが。バイクで走っている最中、全くこの曲と情景が異なる中なんだけど、何故か、この曲が最も相応しい。
 尤も、作詞者も作曲者も実際にアラビアの砂漠に行って作った曲ではないようだ。鳥取砂丘でもなく、千葉かどっかで受けたインスピレーションで作詞をしたとか聞いたことがある。

1 月の沙漠を はるばると    旅の駱駝(らくだ)が ゆきました
  金と銀との 鞍置いて     二つならんで ゆきました
2 金の鞍には 銀の甕(かめ)   銀の鞍には 金の甕(かめ)
  二つの甕は それぞれに    紐で結んで ありました
3 先の鞍には 王子様      あとの鞍には お姫様
  乗った二人は おそろいの   白い上衣を 着てました
4 広い沙漠を ひとすじに    二人はどこへ 行くのでしょう
  朧にけぶる 月の夜を     対(つい)の駱駝は とぼとぼと
  
  砂丘を越えて 行きました   黙って越えて 行きました

 作詞家も作曲者も想像力豊かな、メルヘンの世界に遊べる人達なんだな、と羨ましく思うこともあるが、現実は厳しいのだろう。むしろ、この様な作品をしんみりと味わえる程度の感覚の私の方がはるかに幸せなのかもしれない。
 ところで、家にある古い中学時代の音楽の教科書、これは歌好きの家内の大切な財産の一つであるが、「月の砂漠」となっているが、別の本を今回じっくりと見直して見ると「月の沙漠」となっている。私は今回初めて「月の沙漠」と言う漢字がある事を知った。何度も何度も見た歌詞なんだけれど、初めてこの違いを意識した。60歳にして、の驚きの一つ、である。無知だったね。

 沙漠の「沙」の字は常用漢字にないから教科書では書けず、「砂漠」と書かれるようになったと思われる。辞書にも詳しくは載っていないが、「砂漠」とは一面砂の地形のこと。「沙漠」とは砂が一面であるほか、所どころにオアシスがあり、岩場がありと言った情景を指しているのだそうだ。だから、「月の・・」は、原作に従って「沙漠」と書くのがより詩の情景としてより相応しいだろう。見る人が見ればこの差は歴然としているだろうが、知らなかった。
 4番には「朧にけぶる月の夜を 」とあるが、「沙漠」では「朧にけぶる月 」ってあるンだろうか??この歌には紺青の空にシャープに見える、細い三日月がよく似合うと、私は思う。


5/9(月)曇-小雨  療養病棟判定会議 長副会議
2:00起床、退院総括書、講演準備に着手、5:30病院着、6:30回診その他病棟業務。本日は管理会議なしで比較的ゆったり。9:00-14:00外来、こちらはさすがに混雑。こんな日に無症状なのに定期通院する患者はエライ、としか言いようがない。総括他、16:00-16:30療養病棟判定会議、16:30-18:10長副会議。20:30帰宅、夕食, 21:00就眠。イラクで日本人拘束のニュース。

わが家のゴールデンウイーク2005 
 我が家では連休だからと言って特に何を計画すると言うわけでもない。夫婦共にいつもよりは若干時間的に余裕あったが,今年も二人とも重症者をかかえ、殆ど通常勤務と同じように病院で過ごした。夕食時には何とか揃うようにできたから若干の余裕はあったと言うことかな。
 私は連休をあてにして寄せて置いたり、ため込んでいた仕事を病院と家で淡々とこなした。古い書籍や書類の整理、仕舞い込んだ自転車等を出して整備する計画は時間取れず流れてしまった。

 振り返ってみると,医報掲載用の講演会「個人情報保護法」関連の校正、これには随分時間が取られた。ほぼ書き直すに近かった。「すこやかさん in Akita」、「週刊アキタ」の解説文では呻吟した。そのほか紹介状、総括など、随分こなした。昨年はこの連休中、医療評価機構関連にかなり時間をかけたが、今年はそれが無いだけ楽だったかな?
 4月28日は当直、憲法記念日、子供の日の両者は日直。加えて連日病棟拘束で死去されたかたも居たし、マアよう働いたね。

 外来、病棟の看護師さん,患者さんからもゴールデンウイークはどうでしたか??と聞かれた。これも例年繰り返される対話。話すと怪訝な表情をされる。これも例年と同じ。

 ほんとによう働いた。いろいろ処理出来て満足である。還暦も祝って戴いた。だが、総合的にはゴールデンよりランクを一つ下げてシルバーウイークと評価しておく。病棟の高齢者達のお世話も随分したし、丁度良い。
 今日も大変だったが明日からの外来は地獄の日々になるだろう。楽あれば苦ありさ。


5/8(日)雨→曇→晴れ 病棟拘束 FF tennis
2:00起床、ドック関連処理、退院総括、紹介状、週刊アキタの原稿、講演「患者の権利」準備など。Vnも若干。13:20-16:30梅林園、FF tennis。3-6、6-2,1-6、6-2と何とか引き分け。17:50秋田空港に札幌からの次男迎え。18:30-20:40病院にて回診、紹介関連処理。21:00帰宅、夕食、22:30就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (13)    
男鹿沖でのキス釣り、鯛釣り(1)
 秋田大学での仕事も軌道に乗ってきた頃、中央検査科のスタッフから勧められ、誘われて男鹿沖でのキス釣り、鯛釣りを始めた。
 もとより釣りは好きな性分、幼少の頃は郷里の沼や小川、北上川に釣り糸を垂れた。この頃の釣果は1-2度だけ35cmほどの鯉を釣り上げたことはあるが、概して5-20cmほどのフナ、鯉、ハヤ、ヤマメ等の小魚であったが、娯楽が少なかった当時のこと、友人を誘ってはよく行ったものである。時には飼い猫のためにカジカ釣り等もして、炭火で焼いて食べさせ、喜ばれた。

 三陸での2年間は時間を見ては海釣りに興じたが、殆どが磯釣りで、船は沖の小島に移動するときの手段で船から釣ることは殆どなかった。三陸海岸の地形は厳しく、車から釣りのポイントまで降りていくのに、時には30分ほども歩いたり、厳しい崖を昇ったり降りたりで、氷を詰めたクーラーを背負っての移動は実に大変であった。釣りとは別に山歩きなどで自然と親しむと言う意味も大きく実に楽しいものであった。この時の想い出の一つは宮古病院の釣り大会での優勝である。

 秋田では一転して船釣りになった。磯釣りはホンの1-2回程度で、三陸とは異なり大したものは釣れなかった。秋田から男鹿半島の釣り宿には20-30Kmあり、車で移動。釣りは早朝と午後のコースがあり、前者の場合は3:00am頃起きだして移動、4:30am頃乗船、後者の場合には14:00頃乗船のコース。明るいうちは主にキス釣りに挑戦、薄暗い時間帯には鯛釣りを楽しんだ。キス釣は日によって差はあるものの全く釣れないと言うことはなく20-30匹程度は何とか釣ることが出来た。一方、鯛釣り方は多くて10数枚、時には全くゼロの日もあった。私の最大の釣果は39cmの黒鯛で、同僚が釣り上げた真鯛と共に、釣りの帰路、第三内科の教授宅に就任のお祝いとしてお届けした。

 キス釣りはどちらかというと作業に近くせわしないが、鯛釣りは気持ちまでゆったりしてとても楽しいものである。数10m先、時には100mもの先の海底の鯛・・・ばかりではなく岩のこともあるだろうが・・との対話を釣り糸、釣り竿を介して楽しむ。チョンチョン,プルプルとエサをもて遊んでいる様子が伝わってくる。機を見て竿に煽りをかける。多くは空振りである。空しく餌を採られた針だけが上がってくる。何で口先だけでこんなに上手にエサを外す事が出来るのか??今もって疑問である。


5/7(土)雨天  病棟拘束  還暦祝い
2:00起床。退院総括2名分。5:10車で病院着、6:30回診,病棟関連種々処理。8:45救急カンファ、5-6名で検討。10:30-14:10外来、混雑ではないが進行遅滞によるもの。病棟業務など、16:30帰宅、17:30-20:30私の還暦祝い。21:00帰宅、21:15泥酔?して就眠。

私の還暦 祝福を受ける

銀水の女将から記念品をいただく筆者

今年は私は還暦を迎えることになる。一人で還暦、還暦・・と意識していたが、思いがけなく私の還暦を祝う会が企画され、5月7日夕方から近隣在住の親戚の老若男女28名ほどで、「港の銀水」なる料亭で催していただき、感無量であった。

 若い頃は秋田の存在は岩手の隣県と言うだけで、地図上の存在だけ知っていたが、それ以外には殆ど意識無く、関連もなく過ごしていた。そんな私が、秋田出身の女性と知り会ったと言う偶然を出発点として、秋田で学び、子育てし、医師として30数年も過ごすことなど予想をもしてないことであった。あれよあれよと言ううちにここまで来てしまったと言う感じである。しかし、本日出席いただいた2-3歳の子供から80歳代の方々のメンバーに親しく囲まれ、私が秋田で暮らすにあたってこんなに多くの方々に支えられているのか、と改めて有り難いと感じ入った次第である。長女は夕方NYから日本に無事戻ったと言うし、次男は札幌でラグビーに興じている。これもみんなのお陰、有り難いものである。

 記念に、えんじ色のアスコットタイというものと同色のニットのベストをいただいた。前者は最初はマフラーか?いや、スカーフか?と思ったが、私はこんなタイの存在すら全く知らなかった。何か使い道はあるのだろうか。これを用いるには私の暮らしぶりに発想の転換が必要なようである。

 身体上でマイナーな問題点はあちこちにはあるものの、健康上でも大きなトラブルも無く、無事還暦を迎えられるなど、もしかすれば、と勿論小さな期待はあったが、現実になって本当に味わい深い事態である。数年ほど前から、「もしも、還暦を迎えるなら、その年が勤務医としての定年」と勝手に設定していたのが現実に考えなければならくなった。今までは夢として見続けて来たが、本当にこれからどうしようかと考えねばならない。それが自身に対する責任でもあるような気がする。
 多分、思うような方向には事が運ばないだろうが、その様に真面目に考えていた、という事実だけは大事にして行きたいと思う。
 
 出席した中年女性群を中心に滝廉太郎の「花」など数曲披露されたが、適当にずれているのが親しみ深く、とても良かった。今後の道に迷う私に、相応しい「花」を副えて貰ったような気がする。


5/6(金)晴れ、  年休とって運転免許更新  療養病棟レクレーション  
2:00起床、家内は疲れ果て絨毯の上で熟睡中。紹介状、退院総括。何か気力が湧かず乗らない朝。寝不足か?5:20病院、種々処理、体調改善。6:30病棟回診等。療養の患者せん妄状態、対応。9:20-11:40年休取り運転免許更新。予想外に混雑し呆れた。13:30療養病棟入院患者10数名院外レクリエーション、病院近くの公園に。15:00人間ドック診察、病棟業務。その後はカルテ総括等、医報「個人情報」関連校正終了。20:30帰宅、夕食、21:00就眠。

何年か振りに年休2時間半 運転免許更新へ 当てが外れて超混雑したが・・
 期限まではまだ1ヶ月ほどあったが、2ヶ月ほど前からこの日、5月6日に運転免許証の更新を予定していた。まだ連休の雰囲気の残る金曜だから外来患者数も多くなかろう、だから病院にもそれほどの迷惑にもならんだろう、と予想して、である。

 運転免許取得は昭和41年だから10数回更新してきたことになる。今までは全て日曜日の更新で、混雑し閉口していたので、いつか一度は平日に更新してみたい、と考えていたので、今回初めて平日をねらってみたわけ。
 9:30迄受付というので、9:00迄病院で業務をこなしてから出かけた。予想では駐車場はガラガラ、受付にはもう誰も並んでいない筈である。ところが、運転免許センターに着いてみたら駐車スペースがないほど車で溢れている。何かセンター内でエベントでもあるのかと訝りつつ、ボヤボヤしていると受付時間に遅れてしまうと、4WDの利点を生かしてちょっとした土手の中腹に乗り上げて駐車した。こんなに天気がいいのに車で来たのはバカな選択であった。

 センターに入ってみると何と!!!  エベント等でなく、更新等の 順番待ちで玄関先まで入りきれずにヒトが並んでいる。こんなに混雑しているのは初めてである。全く予想外。いつもの日曜日の倍ほどの混雑振り。
 帰るか、このまま頑張るか、悩んだが、土曜日はセンターが休みで更新出来ないし、日曜は全て予定が詰まっているからやはり今日しかないのだと諦め、列の後ろに並んだ。
 幸いリュックにはMDデッキとヘッドフォン、文芸春秋が入っていたからそれらを楽しみつつ並んで待ったのでそれほど苦にならなかったが、結局、受付終了したのが10:00丁度で、40分ほども並んでいた事になる。

 その後、適性検査でも並んだが、一応優良ドライバー・・・ホントは違うんだけどネ、講習は20分ほどで済んだので11:00頃終了し、途中ハーレーを扱うバイク屋にちょっと寄って11:30業務に復帰した。

 誰しも同じ事を考えるんだな、と思った次第。私はいろいろ小道具を持っていたし、業務から離れられた貴重な時間なので音楽を聴き、本を読んでいろいろ考えるなど、良い時間を過ごしたが、同じように待っていた100名以上の方々はやはり当てが外れたのだろう、手持ちぶさたでイライラしている様子で気の毒であった。
 同じ時間を待つにしても待ち方の工夫があれば待つのも楽し、とまでは行かないまでもそれなりに良い時間なんだけどね、と思う。
 病院で待つ患者さん方も、いろいろ工夫してみたら??血圧も下がりますよ。


5/5(木)子供の日 晴れ 日直 病棟拘束
1:30起床、ドック再検査結果等.転院患者の紹介状。そのほか種々処理。6:00日直のために出勤。早朝のバイクはまだ寒い。6:30病棟回診他、拘束の対応。8:45救急カンファ、指導医3名のみ集合。11:00-12:00救急外来にて数名診療、午後は事務処理中心。19:30帰宅、夕食、20:30就眠。これで暦上の金週間は終了、この週末はまだ名残の気分で過ごせるかな?

ブッシュ大統領も21:00に寝るらしい
 数日前のある新聞に載っていた軽い記事。ブッシュ大統領は毎日ほぼきっかりと21:00に寝るらしい。何かの会合のおり、夫人が「いつも側で黙って聞くだけだから、今日は私にも話をさせて」と壇上に立ち、大統領が毎晩21:00には一人で寝てしまうと言う話をしたとのこと。夫人は大統領が休んだ後、しばらくはチェイニー副大統領等の側近の人達とTV等見ながら夜を過ごすらしいが、「大統領はもっと遅く寝るべきだ。そうすれば世界の諸問題はもっと早く解決する・・・」と述べ、話を結んだ、という。面白い話だが、本音は、夫人自身が寂しいのではないか?と思う。

 私はアメリカの大統領などは超激務で毎日寝不足で眠る暇など削って公務をこなしているのだとばかり思いこんでいたが、ちょっと拍子抜けしてしまった。夫人の言葉には、早寝のの代わりに朝早く起きて仕事をしているような雰囲気は感じられないから、意外とゆったりと睡眠を取れる優雅な環境なのかもしれない。尤も、アメリカの大統領が忙しく公務をこなさなければならないとしたら、ちょっとした体調不調、機嫌が悪いなどで世界の舵取りがダメになっていくだろう。大統領区の仕事はブッシュが方向性を提示すれば有能な側近達の裁量でかなりの部分が進められ、大統領は最終的チェックをするだけ程度に機能的に完全にシステム化されているのだろう。クリントンが苦境に立ったときも大統領としての機能は大して低下しなかったのも解るような気がする。

 私は早朝から出勤迄の間、仕事の合間をぬって2-5回も入浴する。一回が僅か2-3分、烏の行水程度であるが、これが無上の楽しみの一つでもある。その度に「ブッシュさえ 持てぬしあわせ われ持てり」などど一人悦に入って入浴していたが、意外と意外と彼の方が優雅なんだな・・・と思ってしまった。この川柳、借用品だが、今後はブッシュの代わりに誰の名を用いようか。


5/4(水)国民の祝日 晴れ  病棟拘束
1:00起床,ドック総括x1。秋田医報「個人情報保護」関連記事校正に呻吟。3:00療養病棟で入院患者興奮し暴れているとの連絡あり、3:30病院、病棟対応その他、何とか落ち着く。6:30回診その他。8:45救急カンファ、4人で検討。9:30帰宅。Vnなど、若干微睡む。午後は自宅でずっと病院と医師会関連の業務消化、週刊アキタ、すこやかさん、医報関連の作文・校正作業。20:30就眠。

極東の一小国日本 視点を変えた地理教育、地図教育も必要だ
 欧米では日本・中国・朝鮮半島・シベリア東部をまとめて極東と称する。

 私はしばらくの間、何で日本は極東なんだ? 何かバカにされた呼ばれ方の様な気がする。アメリカの方がホンとは極東ではないのか?と言う疑問を中学生の頃まで持ってきた。そのルーツは小・中学校等の教科書や図書室とかに貼られていた世界地図の影響が大きい。あの、メルカトール図法によって描かれた、日本を左右の中心点においた地図しかなかったからである。

 幸い、私が育った家の応接間には、新しもの好きの、医師である祖父が購入した直径が40cmほどの地球儀が置いてあった。子供の頃はこれが地球をより実物に即して作った地図のようなものなんて知りもせず、クルクル回るのが面白くて良く回して遊んだものだ。お陰で軸受けのあたりがすり減ってガタが来た。時にはホルダーから外して座敷の畳の上で転がして遊んでいたものである。思えば実にスケールの大きな遊びをしていたモンだ。

 そのうちに、地球儀の意味も分かってきて、壁に貼られた地図ではイギリス、カナダやアメリカなんかはすごく遠い国に見えたが、地球儀で上から見れば意外と近いのだ、と言う驚き、大きな領土のソ連邦など地球儀で見ればそうではないんだ、と言った発見等を楽しんでいた時期もあった。しかし、やはり頭に入っている基本的な地球のイメージはメルカトール図法の地図であった。諸外国のことを読み、考える時、第一の拠り所は形として見える地図であり、今でもどうしても日本を中心に置いた地図を頭に描いて考えてしまう。要するに、インプリントされたようなものである。

 ところが、カナダ、ヨーロッパを旅したとき、最早日本を中心においたあの地図は見ることはなく、全てがヨーロッパを中心に置いた地図だけ。そこには日本は右端の小さな、小国でしかない。極東と言われて当然である。私にとってはカルチャーショックであった。

 どんな地図を見ながら育ったか、これは国際感覚の形成にもいろいろ影響するのではないだろうか。欧米人は小さな時からこの地図を見ながら育ち、国際感覚・世界観が形成されていると言うことになる。であれば、日本人の世界観とは異なって当然、日本は極東の小国に過ぎない・・と言うことになる。一枚の地図も、教育上大きな意味を持つのではないだろうか。
 果たしてオーストラリアでどんなのが公式の地図なのだろうか??見たことがないので何とも言えないが、上下逆さま何じゃないか??と思う。

 私はこれからの教育の中で、各国が用いている世界地図を資料にした教育の機会があって良いように思う。(地図の一例はMac OSから引用した)


5/3(火)憲法記念日 晴れ 日直 病棟拘束
1:30起床。ドック総括x1他。書類2,3処理。6:00日直勤務で病院に。6:30回診、処方等業務。8:45救急カンファ、集まったのは4人だけ。外来の日直業務なし。紹介状,レセプト関連書類10枚ほど処理.症状経過報告作成、秋田医報校正作業。19:30帰宅。久々家族そろい夕食、20:30就眠。●静岡県警ヘリ墜落5人死亡、●清原急性胃腸炎で入院と言う、ホントにこの人はついていないね。

今度は羽田の管制官のミス 閉鎖滑走路に着陸誘導
 羽田空港で4月29日夜、管制官が過って着陸態勢にある2機に対し閉鎖中の滑走路へ着陸を誘導、1機は着陸し、後続の1機は別の滑走路に着陸した。管制塔などで業務中の18人全員が滑走路閉鎖を失念し、機長が確認の問い合わせをしても気づかなかった、と言う。
 国交省は、急遽羽田空港の管制機関の査察実施を決め、当夜就業中であった18人を業務から外した。工事による閉鎖は1ヶ月以上前に全管制官に対し通知されていたし、当日も、責任者が再度周知するはずになっていたが、忘れて実施していなかったらしい。

 滑走路は閉鎖直後で工事作業は始まっておらず、実害はなかったが、この事故は絶対に過小評価すべきではない。国交省は航空法上の「重大インシデント」に相当するとしている。

 JR福知山線での脱線事故は恐らくは運転士の単独の判断ミスで生じたと思われるが、例え誤った判断をしても実行出来ないバックアップシステム(ATC)が必要で、あの事故の区間には設置されていなかった。設置されていれば防止出来た事故のはずである。JR西日本は最高の収益を計上しているが安全確保を犠牲にした結果でないのか?とさえ思ってしまう。

 一方、今回の羽田の「重大インシデント」専門家18人も現場に居ながら生じたことに大きな問題がある。基本は「当日すべき再確認・再徹底」を怠った事に発しているが、それ以上不思議なのは、18人も居て一人としてこの様な重大な事項を思い出さなかったことと、ここでもバックアップシステムを欠いていたことで、本当に信じられない事態である。
 管制官が運行状況を確認しているディスプレイは切り替えによって滑走路上の機体、付近の機体を確認出来るはずであるが,肝腎の滑走路の閉鎖とかは、ディスプレイ上の滑走路の色調を変えるなど、何らかの方法で示されないものだろうか?又、実行すべき注意事項は時間と共に次々と変わっていくだろうが、例えば今回の件なら「あと15分でA滑走路工事のために閉鎖」などと経時的にテロップ等で流すような方法などとって無いのだろうか??私はその程度は当然あるものと思っていた。

 「ヒトは過ちをおかすもの」である事は危機管理上常識である。しかし、その前提が役に立っていない。これを忘れて高機能だけを追求すると予想もしない事態に陥る事になる。
 日常、JRの運行関係者も羽田の管制官も事故を生じさせないように良くやっていると思う。しかし、その安全は危険と紙一重の差しかないことが次々と示される。我が国の文化、ものの価値観は誤った方向に進んでいるのではないか?


5/2(月)晴れ 管理会議 長副会議
2:00起床、若干眠い。紹介状返事等の事務処理、「すこやかさん in Akita」原稿に呻吟する。3;40病棟より連絡あり出勤、患者は天寿をまとうした。そのまま業務継続。6:00回診他、8:00管理会議。9:00-14:15外来、午後回診ほか。療養病棟判定会議は対象者無し。16:30-18:00長副会議、20:30帰宅、夕食、21:00就眠。

キヨ、37歳、やったね500号  悲壮感漂う彼の姿は忘れないだろう
 
昨年秋はイチロ-の大記録が話題になった。今春は清原。4月29日に本塁打500号を達成した。歴代8位の偉業である。今期が始まったばかりだから、怪我さえなければ504本の張本、衣笠、510本の落合の記録を抜いて歴代5位の記録までは今シーズン中に達成するだろう。期待している。

 彼は無冠の帝王と言われている。打率、本塁打、打点3部門のタイトルは一度も獲っていない。500本以上の記録保持者にはこんな選手は居ない。プロ入団の頃の若いときの彼の勢い、200号本塁打迄は王選手を上回る最年少記録をうち立てたが、その後は怪我とかで低迷してきた。今年は巨人からの去就さえ話題になったほどである。今期は頭を丸刈りにして心機一転の気持を誰からも見える形にして頑張っている。なかなか良い。この姿も忘れないだろう。

 清原も37歳、PL学園校生時代から注目されてきたし、金足農業戦の記憶は未だ残っている。野球音痴の私ですらその後もずっと、プロ野球選手と言えば清原、である。清原が去った後の西武、まだあるの??と言う程度にしか知らないし、選手名でわかるのは松坂一人くらいかな。清原のいる巨人、チームとしての成績なんかどうでも良いが、清原はこの日どうだったか?は関心を持っている。新聞のスポーツ欄2面、そのうちで私はスコア表?、と言うのかな、あの表の彼の1行だけを探し、出場しているだけで喜び、無安打で落胆する。
 
 ドラフトで巨人に入団出来ず西武に。西武・巨人で闘った日本シリーズでの彼の涙顔も忘れられない。巨人に移籍してからは必ずしも調子が良くない。史上希に見る大器と期待されながらの低迷、私は常に彼の姿に悲壮感を感じ取ってきた。絶好調であった西武時代の彼にすら、である。

 彼は何処まで、いつまでプロ野球選手で居続けられるのか、未知であるが、力が残っている間に良い格好して引退などして欲しくない。無冠の悲壮感漂う名選手の一人として、枯れるまで選手生活を続けて欲しい。彼の姿は私にとって一つの教科書でさえある。多分、数多くのファンにとっても同じだろう。彼は枯れても、長島・王と比肩出来る永遠の大スターの一人として居続けるのだ。


5/1(日) 花曇りの晴 病棟拘束 FF tennis 
2:00リハビリ病院当直室で起床、退院総括・紹介状、医報文章校正、 紹介状返事等、持参の事務数件処理。7:20検食、8:20中通病院へ、8;45救急カンファ、実際には当直医と二人だけ。9:00回診その他。11;00帰宅、誰もおらず、家内は病院らしい。Vn等若干。12:30家内帰宅。13;00-17:00FF tennis、7-5,6-4,8-8と何とか引き分けたが低次元であった。帰宅後若干微睡む。家内は再度病院に。私も19:00-22:00病院に、患者死去、見送りなど22;30帰宅。22:45就眠。

自伝 秋田大学時代(1973-1985) (12) 
 ある夜半に娘が行方不明に
 今は家内も私も車を持ってそれぞれ別時間帯に通勤しているが、秋田に来て数年間は1台のみで、電話連絡し合いつつ基本的には私が時間を工面して家内を病院に、長女をあずかって戴いているお宅に送迎し、不可能なときにはタクシーを利用していた。

 ある夜半、3時頃だっただろうか、家内は組合病院から、私は大学病院から患者の具合が悪いとのことでほぼ同時に呼び出しがかかった。別々の時間帯に呼ばれることは度々であったが、二人同時というのはそれほど多いことではないし、この時間帯では希である。
 通常、家内を病院に送るだけなら10分もあれば戻れるから、娘が起きているときは連れて行き、寝ているときにはそのまま寝かせたまま施錠して出かけ、私が早く戻っていた。何回となくこの様な状況があったが、この間、娘が起き出して泣いていたことなどは一度もなかった。

 この時間帯、ぐっすり眠っている娘をどうしようか、家内の方は比較的早く戻れそうだし、この時間帯にあずけに行くのも迷惑だろうし、寝付きが悪いが一旦寝込むと滅多に起きないし今までも大丈夫だったから・・と、そのまま寝かしたまま家内を送って私は大学病院に向かった。1時間ほど後、大学病棟に家内から電話があり戻ってみたら玄関の戸が開いていて、娘が居ないと言う。家中と周りを探したが何処にも居ないし、声も聞こえないとのこと。通りに面しているからいろいろ不安はあったが近所は静かで何かがあった状況では無いという。
 夏場であったから夜明けは早い。薄明かりのなか私も家の周りを探し始めたところ、お隣の2階の窓から「パパ・・」と呼びかける声がした。お隣に保護されていたのだ。目を覚まし、泣きながら家中を親を探し廻ったのだろう。さらに玄関から外に出てきたところを、いつもと違う鳴き声で不審に思っていたお隣の老夫婦が自宅に連れて寝かせつけてくれていたのだとのこと。

 娘の無事を喜び、お隣には丁重にお礼を申して一件落着となったが、私どものような育児環境では安心して育児も仕事も出来ないことをこの機に悟った。この日の、「小さくて大きな事件」は、親の立場として大きなショックであり、心に傷を負った。その傷はしばらく後に家内の叔母と娘達との同居を私が決断する時の大きなよりどころとなった。

 最近、若い親が、車の中に子供を置いたままパチンコに興じ、死亡事故につながった事件、類似の事件が頻回に報じられるが、それに接するたびに、私にとってはあの日のことが思いだされて背筋が凍る思いがして、とても辛い。



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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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