徒然日記

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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7/31(土)超快晴 猛暑 秋田女医の会;小川宏氏講演「うつ病の克服」   
2:00起床、寝不足感あり。ドック判定総括x1、再検査結果返し。3;30過ぎ自由人家内帰宅。紹介患者返事等.5:40病院着。回診他。8:45救急カンファ。事務処理種々。10:30-13:00外来。14:00地下の理髪店で散髪、ぐっすり寝む。16:00-18:10メトロポリタンホテルにて秋田女医の会主催の講演会:小川 宏氏「うつ病の克服」聴講。病院にて業務後19:30帰宅。夕食外食。20:30就眠。22:00患者さん死亡、病院に。見送り他、1:30帰宅、再度就眠。

私は糊が好き。両面テープ等による外来カルテの修理は特に良くない(2)
 セロハンテープや両面テープはとても便利だからみんな気楽に書類の修理に使う。ところがこれは、その場限りの発想で、長期的に使用される書類や本の場合には寧ろ害となる。テープによる修理はやらないより結果が悪くなる。しかし、そんなことは誰も考えないようだ。

 私の勤務する病院では基本的に両面テープにて書類やデータ、伝票を添付する。外来カルテの場合、30年ほど前から一人一カルテ方式を先進的に採用し、初診から現在に至るまで同じカルテが用いられている。当院に受診歴があればこの間の病歴を一覧出来るからとても良い方式である。

 ところが、これだけ良い方式を採用していながら、長期間使用されるカルテのメインテナンスについての取り決めは極めて不十分である。特に、接着には両面テープを使用することになっているから10数年もたつと劣化して接着面がひどい状態になっている。古い伝票は剥がれ落ち、頻回受診で厚くなったカルテはテープによる接着面が前後にずれて不揃いになってきている。
 しかもすごいのは誰も積極的に修理をしようとしないことである。ずれて駄目になった面に次々と新しいページが追加になる。カルテの補修は医事課が担当することになっているが、極めて消極的であり、そこではテープが使用される。だからますます駄目になっていく。

 私はカルテの修理が好きである。多分、真面目にやっているのは院内で私一人で無かろうか。とても見逃せないカルテが多数流通している。その際、決してテープは使わない。基本は糊とホチキス。剥がれた伝票を糊付けし、ずれて不揃いになったカルテはページを剥がして再構成する。糊はたっぷり使う。ずれの防止にはホチキスを打ち込む。外来で出来る範囲のは診療の中でやってしまう。糊付けした直後のカルテは看護師、医事課職員にはすこぶる評判が悪い。はみ出た糊で彼女らの手が汚れるからである。そんな声は随分聞こえてくるが、聞こえれば聞こえるほどファイトが湧いてくる。

 これは私から職員に向けての問題提起なのだが、殆ど解ってくれない。だから、ますますファイトが湧いてくる。私の糊の消費量は院内で一番だろう、恐らく。


参考:外来カルテ形式、記載法など改善への提言


7/30(金)超快晴 猛暑 医師会打ち合わせ(キャンセル) 対策委員会  
1:30起床、寝不足感.ドック判定総括x1.講演昨日終了で一段落。来週も二つあるが特に新しい準備は不要なもの。5:20Taxiにて病院着。事務処理、回診他。8;10救急カンファ。机上に溜まった業務処理。10:30-13:00新患補助+再来。14:00病棟対応、15:00ドック診察x5。16:00-17:30院内検討委員会。結局、時間とれず医師会打ち合わせはキャンセル。最近キャンセルが増えている。賄いの石井さん盛岡出張で不在、夕食は医局で出前で済ます。20:50帰宅、21:10就眠.

私は糊が好き。両面テープ等による書類添付・修理は良くない(1)
 セロハンテープや両面テープは書類とかを添付するのにとても便利。清潔だし、書類も凸凹にならず綺麗だし、その時の作業で全てが完了するし・・・と良いこと尽くめ、とよく人は言う。他方。糊なら乾くまで一定の時間が必要だし、手も汚れる。書類もデコボコになる、はみ出た糊で不要な部分までくっつく・・等々言われる。どうしても糊は無勢である。特に若い人達に糊の支持者は少ない。

 私は一般的に、ものを修理するのが好きだ。本や書類などの修理、再製本など、得意技の一つでもある。しかし、これらの作業の時に、時には、両面テープも用いることもあるが、私は殆ど糊を使う。だから、自宅の机、医局の机、病棟、外来等に所謂化学合成糊と言われるの50mlほどのカラフルな糊が数本ずつ用意してあるし、その内の1本は常に逆さまに立てておき、いつでも直ぐ使えるようにしてある。また、空になった容器が数本ずつ詰め替えされるのを待っている。

 テープを用いることが少ないルーツは、子供の頃から糊に親しんでいたことが第一、テープは便利だが、経時的に変化し、結局は書類や本を駄目にするし、結局は剥がれてくる。そうなった際にはもう綺麗な修理は困難である。要するに長期間使用するものの修理等にテープは向かないのだ。それが結構軽んじられている。ここでも軽薄短小的発想がまかり通っているのが悲しい。

 子供の頃は糊なんか無かったからご飯粒で代用したものであった。上手くのばせなくて所々に膨らんだところが出て来たものだ。本にハエがとまって舐めることさえあった。大量に必要なときはメリケン粉で糊を作った。粉と水の調整が結構難しかったが、これでいろんな紙細工、時には大型の張り子などを作ったものだ。だから、紙を貼る・・と言うときには私の発想はまず糊、である。古く市販品の糊は澱粉質系のもので、良い匂いもしたものであったが、いつぞや完全に化学合成のりに替わってしまった。これも時代の流れだがちょっと寂しい。


7/29(木)晴 県教育庁福利課関連講演「定年退職後の健康管理」  秋田市医師会納涼会 
1:30起床, ドック判定x1、紹介状・返事x1。講演準備等.5:20バイク病院着。6:00入院患者家族と面談、説明。回診他.8:10救急カンファ。講演準備終了、資料用意。9:00-13:45外来.14:00-15:30県教育庁福利課関連講演「定年退職後の健康管理」90分。16:00帰院、残務。19:45-20:45秋田市医師会、永年勤続者表彰+納涼会に途中から出席、中途で退席。21:00帰宅、21:20就眠.

人生の最大の転機は何か 定年退職だろう(2)
 
本日は千秋会館にて秋田県教育庁福利課主催の主催のライフプラン講座で「定年退職後の健康管理」について講演した。出席者の多くは近々定年退職を迎えられる教職関連の方々である。
 最初に人生の中の最大の転機は??と、「誕生」「成人」「結婚」「定年退職」「死」を項目としてあげ、出席された方数人から選んでいただいたが、「結婚」と「死」を選ばれた方はいたが「定年退職」をあげた方はおられなかった。もう少し多くの方々のご意見を聞いてみれば良かったと反省したが、ほぼ予想通りの結果であった。それだけ間もなく来る定年退職を自然に受け入れているのかも知れない。他の職種の方々は定年退職を経済的な事情から第一に挙げる方が多い。

 私は一つ一つの意義は勿論大きいが、私なら「定年退職」>「成人」>「結婚」>「死」>「誕生」と挙げる。「誕生」は自分にとって選択権はなく、気付いたらもうこの世に居たわけだし、「死」というのは家族等にとってはそれなりの意義はあるのだろうが、自分にとってはローソクの火が燃え尽きるが如くに消え去るだけで、ほぼどうでも良いこと。ただ自分の死に際の状態は小さくない関心事ではある。「成人」は、子供の頃とても虚弱であった私は、成人するまで生きる事を一つの目標としていたから、無事二十歳を迎えたときになったときは達成感はとても大きかったし、肩の荷が下りて自由を得たような気がしたものだ。これは他の方には理解していただけないことの一つだと思う。

 人間は社会的な生き物だ。特に巨大な社会のシステムの中の一員として生きてこられた所謂サラリーマン族に属する方々、更に中でも公務員の方々は職に就いた時点から完全に社会的巨大システムの駒の一人として、一定の路線の範囲で生きることにならざるを得ない。マイペースは許されない世界。定年まで勤められた方々はその状態を濃厚にかつ自然と身につけられ、同化された方々である。いや、そのこと自体もう気付いていない状態になっているのだろう。要するに、組織への帰属と肩書きの人生が自分のアイデンティティのほぼ全て、になっている。その事を意識することもなく自然に身に付いておられるのだろう。
 だから、「肩書き喪失症候群」と私が勝手に付けた状態があるが、自分はそんなのに関係ないと思っておられるのだろうし、まだ実感が湧かないのだろう。私は仕事を通じてこの様な状態に嵌った方々を多く見てきた。退職後、数年間は多かれ少なかれこのためと思われる、無気力、ひねくれ、居直り、虚勢・・・が続く。そのうちに自然と軽くなっていくのだが。
 今年の出席者はほぼ私と同年代であった。みんな、リタイヤするにはまだまだ早いような、良い表情をしていた。この元気な状態で転機を、定年退職を迎えることにこそ前向きの良い意義があるのだ、と思いたい。今日の講演は自分のためにしたようなものだ。


7/28(水)晴れ 県医師会理事会
1:30起床、懸案の病院集会終了、ホッとした。やや開放感。ドック総括、紹介状、主治医意見書他。明日の講演準備開始。5:20バイクで病院.6:30回診。8:10救急カンファ。9:00-14:20外来+ドック診察x4.16:30-18:40県医師会理事会、話題豊富。病院で書類若干処理の後20:50帰宅、21:30就眠。

人生の最大の転機は何か 定年退職だろう(1)
 
7/29は千秋会館にて秋田県教育委員会主催の会で講演するので今急ぎ準備中である。この会からは何故か毎年依頼が来る。今回は3年目だったような気がする。今年は更に県南での会での講演も依頼された。主催者の方々には歓迎されているようだ。対象者は教職で定年退職を迎えられる方々中心で、結構堅物だし、彼らは朝から会場に缶詰になって定年退職後の生活のガイドを受けているから、午後になると疲れ果てている。ましてや昼食後だ。それに、第一、彼らは喋る方のプロだが、聞く方は慣れていないと来るから、講演全体の持って行き方は結構難しい。
 
 主催者側から求められている講演演題は「定年退職後の健康管理」であるが、内容的には「定年・喪失・老化・病死」とねじ曲げて話す予定である。一般的健康管理については100ページ以上のビジュアルな立派なパンフレットが用意されており、生活習慣病の予防や医療機関の利用の仕方など書かれてあるから、関心がある方はそれを読めばいいのだ。
 基本は、健康管理なんて殆ど不要・・・好きなことして暮らしたらどうです・・?、と発想の転換勧める内容・方向で、「定年退職後症候群--うつ状態」「定年退職亭主在宅症候群」「肩書き喪失症候群」・・・と私が勝手に付けたいろんな状態があるからこれを中心に話す予定である。

 今年の退職者は多分私と同年代。私も最近、定年退職後の自分の生活に大きな関心を持って模索し始めているので、今日の講演は自分のためにするようなものだ。
 上手く口が滑ればいいのだが。それが心配。


7/27(火)晴れ  第二回病院集会
1:00起床,ドック判定総括x1、2:30病棟より電話.2:50病院着、死亡確認。見送りもあり中途半端。そのまま病院自室で業務。紹介状総括。回診、定期処方ほか45枚送付。8:10救急カンファは該当症例無し。9:00-13:50外来+ドック説明.18:00-20:15千秋会館にて第二回病院集会。21:00帰宅、21:20就眠。

ホテルの会計の自動化、何か寂しかったね
 7/19(日)は民医連拠点病院長会議に院長の代理として出席し「東京ベイワシントンホテル」に宿泊した。いつもの如く早朝から起きて持参のパソコン相手に仕事をこなしていたが、時折、12Fの窓から明けてくる東京の景色を眺めていた。
 東京ベイは最近出来た大型レジャー施設の集合体の様である。ホテル自体も新しくいい雰囲気。いろいろな施設も造られているが、施設間に設けられた広場も十分に広い。丁度3連休の人達が多いからなのであろう、早朝からホテル周辺の広場では真夏の姿した若者達が数名ずつ連れだって散歩したり、バイク走行等を楽しむ姿が見えた。周辺の環境全体が若い雰囲気である。
 
 7:00am前からロビーなど散歩してみたが、フロントに係員は一人しかいない。宿泊客の大部分は20代の若者が多いようである。会場の朝食レストランは既に50名ほどの若者達が並んでいるなど、通常のホテルとは若干違った若い雰囲気、レジャーっぽい雰囲気が溢れていた。
 8:30会議も出るためにチェックアウトをしたが、丁度混み合う時間なのにやはりフロントには殆ど係員が1-2名しか居ない。普通のホテルの朝の情景と何だか違う。チェックアウトの客は次々と降りてくる。これでスムーズに会計出来るのか??と思ったが、若者達は次々と駅の切符自動販売機のような器械に並んでいる。こんなところでレジャー施設の切符でも買うのか、と思ったら、何と「ホテル自動チェックアウト器」。部屋のキーはカード式であったが、それを機器に挿入するとあとはホントに駅の切符購入と同じ。提示された金額を札入れに入れて釣りを貰うだけで、10数秒で済んだ。実に合理的だ。

 ホテルのチェックアウトの際、フロントで2.3の言葉を交わしつつ会計を済ますが、その時の雰囲気で次もこのホテルにしようかと思うくらい、ホテルの印象に欠かせないものだと思ってきたが、・・・自販機もここまで来たかと思うと何か寂しく空しい。 


7/26(月)晴れ 管理会議 県医師会打ち合わせ 長副会議
1:30起床,ドック判定総括x1他.病院集会準備。5:20病院着。回診。8:00管理会議.9:00-14:30 外来。15:30県医師会に。16:00-18:30長副会議。若干の打ち合わせ、20:30帰宅、夕食、21:00就眠。

外来にババヘラアイス  Yahoo  Topicsにも取り上げられていた
 今朝出勤直前、パソコンを落とす前にたまたま「Yahoo 天気予報」 をのぞいていたときにTopicsに「ババヘラアイス」が取り上げられているのに気づいた。また、外来終了し引き上げるときに中型のタッパーに入った赤・黄色2色のババヘラアイスがテーブルの上に乗っており、若干戴いた。私はこのアイスの単純で素朴な味が好きだ。 以下はYahoo の記事である。

 「ババヘラいらねがー」「ねっちゃん買ってけれー」。秋田県の国道沿いやイベント会場。カラフルなパラソルの下、おばあさんの声が響く。
 ババヘラとはイチゴ味とバナナ味のアイスをコーンに盛った秋田名物。「ババ(おばあさん)」がヘラで盛りつけるところから、地元の高校生らが10数年前に名付けたらしい。
 コンビニや自動販売機が増えた今も根強い人気で、東京進出やホームページ(HP)の開設、通信販売の開始など新たな取り組みも始まった。
 2002年にババヘラ」の登録商標を取った進藤冷菓(同県若美町)によると、業者は県内に計6社。6社の「ババ」は以前より増えて計170人ぐらいという。同社では60−70代が多く、80代も5人いる。
 

 
私もよくババヘラがいるところを通過するが、売り子、でなく売り婆の声は一度も聞いたことはない。私は無言でも売れるものだと思っていた。ちょっとイメージが変わった。ヨーロッパでは自動販売機などは殆ど無く、老弱男女がそれぞれ小さな出店を出して水とかハガキ、パンとかの小物を売っていた。小物であるからこそ、売り手と買い手がちょっとコミュニケーションを取りながらやり取りする、とても良いものだと思ったものだ。日本は何処に行っても自動販売機が乱立している。
 ババヘラの記事を見て、数年前のウイーン、パリ、ワルシャワ等のヨーロッパの広場のことを思い出した。関連性が乏しいが、何かの機会にフッと思い出す。これもまたとても良いものだ。

http://www.babahera.net/about.php

AKITA_STYLE 秋田の基礎知識


7/25(日)超快晴 病棟拘束 NGO講演「尊厳死・安楽死」 
0:30リハビリ当直室にて起床、ドック判定総括x1、総括、本日の講演準備に集中。7:15検食。8:30病院に。8:45救急カンファ。講演準備。11:00-12:00回診その他病棟業務。FF tennis中止。13:00-16:30NGO講演「尊厳死・安楽死」関連。病院、残務。18:45帰宅。17:30-23:00就眠、家内帰宅で起こされて夕食、23:30-1:00再度就眠。

自伝  宮古病院時代 1971〜73 (11)
 宮古の思い出  ボーリング大会で良い成績
 宮古病院に赴任した頃はボーリングブームがまだ続いており各地でいろんな大会がも催されていた。職員の若手に誘われて時々やっていたが、通常はせいぜい140-170程度のスコアであったと思う。これでもそう悪いわけでなく、宮古地区の職場対抗ボーリング大会に薬局、検査室の若手職員と共に4人チームの一人として選ばれて出場した。他の3人は普段は私よりは上手かったように思う。一人3ゲーム投げたのだが、何と236のハイスコアが出て平均で195程度だったと思う。チーム内ではダントツにトップ、チームはBクラスか何かの恐らく2位だったと思う。私が200以上出したのはこの時が最初で最後。大部分がストライクで進んだが7投目あたりから緊張のせいかガタガタとなった。
 宮古を去ってから殆どボーリングはやったことはないが、4-5年ほど前に仙台で何年かぶりに長男とやったとき、この時の再現かと思う様な経過を途中までたどった。結果的に後半は崩れたが198のスコアがでた。その後は一度もやる機会はないが流石にもう駄目だろうね。この2回は良い思い出である。

病院の釣り大会でビギナーズラック、優勝。カモメも釣れた
 赴任した年から先輩医師らにさそわれて何度かは磯釣りをやってはいたが、概してそれほどの釣果はなかった。三陸海岸の釣り場は良い所ほど厳しい場所にある。行きやすい平坦な海岸は時折来る予想外の大波にさらわれる可能性があり極めて危険。そのために切り立った崖をおりていく必要がある。良いポイントほど到達するには大変で、時には30分以上もかけて足場の良いところまで降りていく必要があった。釣り竿、クーラー、そのほかを担いでの崖の上り下りは決して楽ではなかった。
 2年目の初夏、病院の釣り大会に出場させてもらった。たまたま占拠した岩の付近は通常はそんなに釣れる場所ではなかったが、その日は何故かほぼ入れ食い状態。アイナメを中心に釣れること釣れること、とは言っても私よりもっと初心者のA副院長の世話をしながらの釣りだったから時間的には制限時間の2/3程度しか有効に使えなかった。それでも、5-6Kg釣り上げた。圧巻だったのは私が釣り上げたアイナメをカモメが横取りし、結果的にカモメが釣れたこと。カモメは飛んでいるときは優雅だが側で暴れると猛禽そのもの、表情は怖いし力は強い。やむなく手元からテグスを切って放してやった。口元から錘他の付属品、長いテグスを風になびかせながら飛んでいったが、その後どうなったのだろうか。病院に戻っての集計で、何と私がトップで並み居るベテランは悔しがるやら、驚くやら。大物こそ無かったが中型のを数で稼いだと言うこと。意気揚々と帰宅したが、釣った魚の処分に困り果て翌日看護婦さん方に分配した。
 そのほか、当日、鰯の大群が海岸にうち寄せられたのを目撃した。恐らくイカとかに追われて行き場が無くなり波によって打ち上げられたのだと思う。海岸線が一瞬盛り上がり、白くなったかと思うと無数の鰯が砂の上で飛び跳ね、どこからかカモメの大群も来てそれをついばむ。壮観な眺めであった。自然の食物連鎖??というか、自然の営みは大したモンだと感心した。


7/24(土)晴れ 病棟拘束 医局スーパー野球 リハビリ当直
1:30起床、ドック判定総括x1他、講演準備、他。5:40バイク病院着.6;30回診他.療養病棟の患者高熱数名あり対応。8;45救急カンファ。10:30-13:10 外来。以後、病棟も含め業務処理、講演準備.17:00リハビリ当直へ.18;00夕食、業務、20;00就眠.


「安楽死と尊厳死」 7/25は13;30から市内で講演
 
NPO法人「秋田パートナーシップ」からの依頼で月に一度ほどの頻度でシリーズ講演を行っている。第一回目は「医師と患者の良い関係」、二回目は「生老病死に医療はどれほど役立っているか」について話した。今回は「尊厳死・安楽死」を取り上げた。
 来週は重要な病院集会と県の関連の講演があり、準備の時間がなかなか確保できなかった。今7/25 4;00amであるが準備を続けている。3/4ほどは何とか出来上がって一段落、ホッとしているところである。ここまで来れば1時までには何とかなるだろう。

 「尊厳死・安楽死」問題は近代医療の発展に伴って延命的治療の普及と共に問題化してきているが、文献上での歴史は約100年前まで遡ることが出来る。これらのうち、東海大学安楽死事件以降が知られているに過ぎない。以下にその流れの概要を紹介する。この中から主要な項目を取り上げ解説する。


1907 英国:Goddard医学総会で安楽死を提唱
1928 英国:不治の病に苦しむ患者には致死量の麻薬を与えてもよく,その際、患者に相談する必要はないという
    提案
1931 英国:イギリス保健医学会でミラード会長の挨拶。後に任意的安楽死合法化法案を付した小冊子出版
1935 英国安楽死協会設立(世界最初)
    英国:任意的安楽死法案がイギリス上院に提出され第二議会で14対35で否決
1936 英国安楽死協会が任意的安楽死協会と改称
1948 世界医師会総会,「ジュネーブ宣言」を発表
1950 日本:東京地裁,安楽死について最初の判決
1962 日本:名古屋高裁が安楽死の6要件を示す
1969 英国:安楽死法案提出 40対161で否決
1970 英国医学協会パンフレット「安楽死の問題」を発行
1971 オランダ ポストマ医師事件安楽死の市民運動に発展
1973 米国:アメリカ病院協会,「患者の権利章典」を発表
1973 英国:王立保健協会 安楽死を主題とする会議を開く
1975 米国:カレン・クィンラン事件発生
    ドイツ外科学会「死にゆく者の治療のための決議」を発表
1976 日本安楽死協会設立
1976 米国:州最高裁,カレン事件に判決
1976 第1回安楽死国際会議,「東京宣言」を発表
    「安楽死法制化を阻止する会」--------作家水上勉氏ら
1991 東海大学「安楽死事件」-----塩化カリウム
1983 日本安楽死協会は日本尊厳死協会に改称
1989 昭和天皇闘病
1993 オランダの「改正埋葬法」成立
1996 京北病院事件----筋弛緩剤
2000 オランダ下院「患者の明確な要請がある」などの要件を満たした場合、安楽死を容認する法案を可決
2000 エホバの証人輸血訴訟 患者の人格権を認めた
2002 川崎協同病院事件----筋弛緩剤


7/23(金)晴 初期研修マッチング 医師会打合せ(キャンセル) 法人理事会 
1:30起床。ドック処理x1。退院総括、訪問看護指示書、病院集会、講演準備など。家内は4:00帰宅、相変わらず。5:30バイク病院着。回診、事務処理他。10:30-13:30外来。ドック診察x5。再度回診後、16:00本年度初の初期研修マッチング面接.時間調整難で医師会打合せはキャンセル。17:30-19:00法人理事会.7/25の講演準備に正式に着手。20:40バイク帰宅.21:00就眠.

「アイコンタクト」ってなんだ??
 最近「コンタクト診療所とは?」と言う質問が医師会を通して、「アイコンタクトとは何ですか?」というのがこのホームページを通じたメールで入ってきた。当然前者はコンタクトレンズのことで、答える準備して待っているが、その後まだコンタクトはない。

 「アイコンタクト」は勿論コンタクトレンズのことではない。相手の目を見て話す、と言うコミュニケーション手段の一つのこと。これは対話、講演の中などではとても重要な技術の一つである。
 一般的に日本人が人前での話なすときの特徴は、「棒立ち」と「棒読み」である、と言われる。喩えて言えば秋田出身の大歌手「東海林太郎」調と言えるようなものである。確かに、欧米の方々の話しぶりやプレゼンテーションを観察してみればよくその違いがわかる。
 日本人の場合、相手・聴衆の「目を見て話す」というよりも原稿を下を向いて読むタイプが多い。一方、欧米の方々、と言っても全てではないが、原稿を見ずに、自分の言葉で聴衆をよく見ながら話しかけるスタイルが目立つ。これで迫力、説得力にかなりの差が出る。「アイコンタクト」のポイントはワンセンテンスワン/ワンパーソン、即ち、一人ひとりに目を合わせながら話すことだと言われる、が、あまりにも聴衆が多いときなどには実際には困難である。その時は、数10人単位ほどにまとめて視線を移す、それでも十分とされる。
    「アイコンタクト」技能の下手な代表を挙げれば、歴代の内閣官房長官である。重要なコメンテーターであるはずなのに、失言を恐れるからか、厳しい質問を回避するためか、棒読み調。しかも、フリーディスカッションの時ですらその雰囲気が取れない。これでは国民は政府に騙されている、と言う印象がぬぐえない。

 日本人だけの会議や講演会などではあまり違和感はないが、多くの人達のは「アイコンタクト」そっちのけで、説明・説得というより朗読である。プレゼンテーションの大事な要素は「限られた時間の中で、複雑な内容を、理解させ、納得させる」こと。「誰に」「何を」納得させるかということである。聴衆の方も、「自分が何を求められているのか?」という視点で聴くから、個々の聴衆をしっかりと見据えて話さなければ、聞き取る熱意も失せ、そっぽを向くことになる。
 きちんと聴衆のに目をむけ、視点を合わせ、理解が十分に行き届いているかを表情を見て確認しながら、講演やプレゼンテーションを進めると、話し手自身も落ち着くし、自分の話している内容に確信も持てるし、聴衆の集中力も増してくる。
 「アイコンタクト」は重要である。
 日常臨床の中でも患者さんやその家族の目をしっかり見据えて話す、これも臨床医の技術の一つである。


7/22(木)晴れ 7A病棟診療部会   
1:30起床。ドック判定・総括x1、紹介状返事、病院集会準備等.5:20病院着、回診ほか、8:10救急カンファ。9:00-15:30、6時間半、地獄のような外来.残務、17:00-18:10療養病棟診療部会、入院患者家族と面会1件。紹介状作成。 20:00各種書類その他.20:30久々にバイクにて帰宅、夕食、21:00就眠.外来予想外に長く、予定していた業務処理2/3止まり、超多忙な一日。

書類には時間も一緒に付けて持ってきて
 最近は患者や医療に関連した書類はどんどん増えていく。驚くほどである。当院における医師の業務の調査が先週一週間に渡って行われたが、私の記載した内容をまとめて見直してみると、出勤から帰宅までの間、入院回診と外来の時間帯、会議の時間帯、若干の医師会関連の時間以外の実に95%以上が自室での書類処理に追われていることになる。若干のオアシスは歩いているとき、移動しているときだけ。朝食・昼食をとらないという習慣は業務を中断せずに済むから、とても便利だ。

 その間訪れる人もなければ一言も話すこともない。マア、これは当然だ。私が一人で喋っていたら、異常ということになるだろう。と、いえども例外がある。目の前に立てかけてあるネコの写真には四六時中よく話しかけている。誰にも聞かれないように細心の注意をしながら、である。
 私は側に誰か居るだけで能率が著減するから、独りで居る時間が好きだし、とても貴重だと思っている。その面では今の恵まれた環境に不満はゼロ。

 不満は自室での時間のほぼ全てが書類処理に追われているということ。よく来るね、ホント。外来患者が週に200人以上、療養を中心に入院の受け持ち患者が45名前後、さらに週5-10名のドックが加わるから、発生する書類もただごとでない。
 これらの書類の内には誰かが代筆し、私が訂正や追記し、サインするだけで処理出来るものがかなり含まれる。それを全て私が書かなければならないのは実に非効率。医師としての仕事が中途半端になり、病院の管理者の一員としての考え、学ぶ時間が一切とれないのは私にとっても病院にとっても不幸なこと。私はもう何時でも道を変えられるから良いけど、と今はただ笑うしかない。

 大型の書店に入ると、とても幸せな気持になる。同時に、もう私には残り時間が足りないことを自覚する。何処かに買った本を読むための時間も売っていないか??本に時間が一緒についていれば良いなと思う。書類にも、処理する時間が一緒について来ればいいのだが、今は何かを削らなければ処理出来ない。その何かは、睡眠時間であるが、私の人生を削っているに他ならない。私はこの様な状態の限界を60歳と決め、その後のことを模索している。


7/21(水)快晴  長副会議 
1:00起床、ドック判定・総括x1、紹介状返事等.5:20病院着、回診ほか、8:15救急カンファ。9:00-14:00外来。紹介状他。16:00-18:10長副会議.18:15-19:30病院集会打合せ.残務。20:30帰宅、夕食、21:00就眠。

C・クライバー死去  私もスカラ座引っ越し講演「オテロ」で感動
 C・クライバー(74)が13日死去した。彼がが何時、何処で、次の指揮をするかが、世界中の音楽ファンの注目を集めていたが、これで叶わぬ夢となった。 名指揮者E・クライバーの息子をして生を受け、父の反対で一時断念していた指揮の勉強を20歳頃から再び始め、各地の歌劇場で修業を重ねたと言う。
 1968年からバイエルン国立歌劇場で指揮するようになり国際的に知られるようになり、70年代にはバイロイト音楽祭で「トリスタンとイゾルデ」の個性的な解釈・表現で一気に脚光を浴びることとなる。
 レパートリーは多くはないが、音楽の本質に厳しく迫る独自の解釈、流麗で躍動感に満ちた指揮ぶりでオペラのほか、ベートーベンやブラームスの交響曲演奏も得意とした。

 日本でも1974年のバイエルン国立歌劇場引っ越し公演の時の「ばらの騎士」の名演が伝説的に伝えられている。その後も1994年まで度々来日した。超カリスマ的存在で、彼が指揮するらしい、という情報だけで事件になるほどであった。最近では1999年スペイン領カナリア諸島でオケを振ったニュースが雑誌「音楽の友」に大きく掲載されていた。

 私は80年代のミラノスカラ座日本公演の時にC・アバドと共に彼の指揮する演奏を聴いたことがある。ウイーン国立歌劇場日本公演だったかな?良く覚えていない。場所はNHKホール。午前外来を済まして旧秋田空港に急ぎ、15:00頃の飛行機、当時はYS-11で東京に。演目はヴェルディ「オテロ」。目の前のピットで彼の動きは流麗そのもの・・と言っても頭と腕くらいしか見えなかったが、レーザーディスクで繰り替えし観て夢をふくらましていた彼そのものが目の前に居ることだけで十分だった。演奏は・・、何も言うこと無し。言葉では表現出来ないからしないことにしている。
 残念だったのは、帰路の特急寝台「あけぼの」に乗るために最後の15分聴けずに会場をそっと抜け出たこと。あの最後の場面、彼はどう演奏したのか??私にとって謎のまま。急ぎ上野駅に着いたら、なんと!!  架線事故のために「あけぼの」は1時間半遅れて出発したするというアナウンス。真からガックリ来たね。今はとても良い思い出として残っている。彼の訃報に接して、懐かしく思い出した。


7/20(火)降雨 管理会議 医師会打ち合わせ(欠) 医局カンファ
12:00起床,ドック判定・総括x1他、紹介状、退院総括、病院集会準備他.5:10病院、回診+定期処方書き。今日で新処方箋試行まる一年。この様式の意義はとてつもなく大きい。8:00-8:40管理会議。9:00-14:00午前外来、休日後で混雑、予約外も多数.医師会打ち合わせは連休後で懸案無かろうからキャンセル。机上処理多数。17:30医局カンファ、マンモトームについて.残務処理.病院集会スライド作成、20:30帰宅。21:00就眠。眠い一日であった。

韓国は何でも大きいのが好きか?? 2300床の巨大病院誕生
 平成13年3月に開港した韓国の仁川国際空港は、4000m級滑走路2本を備えた24時間空港で関西国際空港の約2倍の面積を有しているなど、その規模の大きさ、着陸料の安さでも話題になって久しい。この空港の影響で関西国際空港は国際競争力が低下し一層閑散となったとされる。

 韓国は巨大な建造物が好きなようである。先日読んでいた雑誌でまた驚いてしまった。最近出来た病院の規模もまたすごい。
 
 韓国・ソウルにあるソウル峨山(あさん)病院は、病床は2265床(一般病床2017床、特殊病床248床)、総職員数4840人(医師1144人、看護師1837人、薬剤師56人、事務職員443人)、1日平均の外来患者は6473人、入院患者2038人、救急患者180人となっている。
 日本の病院の常識をはるかに超えた、大規模医療施設である。ところが2006年にはこの規模を上回る病院、ヨンセイ大学病院(約2700床)が同じソウルにできるという。

 日本では特化した機能を持つ効率の良い300床クラスの病院が注目されているが、韓国では今のところ逆の方向に進んでいるようだ。病院の経営支援母体は有名な「現代財閥」である。財閥支援病院としては他に「サムスン財閥」によるソウルの王星医療院がよく知られている。財閥系病院に共通しているのは、2000床規模で外来・入院患者が多く、韓国国内でトップの医療水準を誇り、国全体の中核病院の役割を担っている点である。

 ただ、仁川国際空港も巨大ではあるが、アクセスとかに根本的な問題を抱えたままであり、また、2-3年前には巨大なビルが自然崩壊するなど、その計画性には何処か抜けているような印象がつきまとうのだが、巨大財閥の飽くなき競争の標的となっているように見えるこれらの巨大病院のシステム、人事管理、物流など、ホントに上手くいっているのだろうか??と思ってしまう。個々の患者の満足度や如何になっているのだろうか?興味が沸いてくる。


7/19(月) 海の日 曇り小雨 病棟拘束 FF tennis 
1:00起床。ドック判定・総括x1。書類2,3処理。主として病院大会準備。昨年MD購入したが最近音楽に、会議にと大活躍中である。5:30病院。回診、残務多数処理。入院患者不調。8:45救急カンファはオーバーナイト患者無し。9:30-13:30小雨の中で梅林園FF tennis 。 二代+次男の親子ペアvs F+Fペアで6-2,6-2,6-4と完敗。14:00病院、業務処理、17:00帰宅、そのまま業務処理継続、激しい睡魔、19:30就眠。22:30家内帰宅、夕食、23:00再度就眠。

「光陰矢のごとし」??、様変わりしていた民医連の集会(2)
 第36期民医連拠点病院会議が開催され出席した。
 初日の会場は
お茶の水「損保」会館というところ、古いビルでそこに全国から集まった院長・副院長クラス100名程度集合。フンフン、かつてと全然変わらないね、これじゃ夜の交流会や宿泊も思いやらられる・・・と思った。
 私にとっては民医連幹部を始め殆ど初対面の方だけ。会場の雰囲気を見るとかなりの方々が顔見知りなのだろう。何か和気藹々の雰囲気が感じられた。会議終了後に、かつて共に働いたことのある同僚がお二人居る事が解り、懐かしく歓談した。

 初日の内容は「会長の挨拶」、「特別講演」、「7病院の現状報告」、「その他」、と内容的に盛りだくさんであったが、大変参考になった。終了後、貸し切りバスに分乗して「東京ベイ有明ワシントンホテル」に移動、1Fジョージタウンと言うレストランで交流会が行われた。病院の規模毎に席が決まっていて、国会議員の挨拶があるなど、かつても面影もあったが、バイキングスタイルで自由でなかなかいい雰囲気であった。民医連もなかなか良い方向に変わったじゃないか、と感じた次第。とは言えども私は腹を満たし早々に部屋の鍵を受け取って退散した。

 与えられた部屋は12Fのシングル。比較的新しいホテルらしく良い部屋である。気兼ねなく早朝起床、あとはいつもの如くマック相手に業務処理・・・である。

 二日目は側の東京ファッションタウンビルに移動、8グループほどに分かれて分散会。グループ分けは病院規模に応じていて、私は概ね350床以上の大規模病院の院長達10数名と民医連幹部数名の中に入った。会場はなかなか良く出来ている。出席者はやはり私以外は互いに顔見知りのようである。年に何回かこの様な会合で顔を会わしているらしい。
 内容的には各病院の運営上の困難な諸点の分析等が中心。各病院共に内憂外患を抱えており、それなりの立場で大奮闘している様子が実感出来た。それだけでも出席した甲斐があるというもの。

「光陰矢のごとし」??、様変わりしていた民医連の集会に久々に出席して感じた印象である。


7/18(日)東京快晴・暑い、病棟拘束 民医連拠点病院会議二日日 
2:00 東京ベイワシントンホテルにて起床。ドック判定・総括x1、途中までの紹介状他追記等.こんなところまで来て、こんな仕事をこなさなければならないなんてバカみたいだがやむなし。講演準備も若干。9:00朝食バイキングスタイル、野菜と珈琲中心に軽く摂る。  9:00-12:00民医連拠点病院会議二日日の分散会。閉会後、無人の「ゆりかもめ」にて移動。東京ベイは最近出来た大型レジャー施設の様である。真夏の姿した若者、親子連れで賑わっていた。青函連絡船の懐かしい一隻、南極観測船「宗谷」等が港に繋がれ一般公開されていた。浜松町にて本購入、羽田待合室にて紹介状他処理追記する。
 15:30JAL  秋田へ。17:30病院着 回診そのほか
。種々処理、19:50帰宅、21:00就眠。

自伝  宮古病院時代 1971〜73 (10)
宮古近隣地区の自然 
潮吹き穴、重茂半島、北山崎、龍泉洞などの思い出
 長年月をかけて太平洋の荒波に侵食された自然の造形は何物にも代え難い魅力がある。わざわざ宮古に住んでいて、美しいリアス式海岸の景観を味あわずにいるのは罪つくりに等しい・・・なんて勝手に理屈を付けて、特に夏には時間を見つけてはチョコチョコと出かけていた。夏はさすがに観光客が多いから早朝、日の出と共に出かけるのがコツであった。何時かゆっくりと訪れてみたい名所であり思い出の場所である。

本州最東端/トドヶ崎 
 本州で最東端にあるのが、重茂半島トドヶ崎。ここには明治35年に建てられた灯台がある。この灯台は、終戦まぎわに被災し、昭和25年に復旧されたものなのだそうだ。木下恵介監督による映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、この灯台守の妻の手記をもとに作られたという。周辺には三陸でも有数の磯釣りスポットがある。
 ここは数回訪れ、病院職員数人でキャンプも2回ほど。電気浮きを用いた夜のスズキ釣り、朝のアイナメ釣りなど楽しんだ。スズキ釣りでは鯖の入れ食いにあって釣れすぎて困ったし、竿を持つ身が持って行かれるような激しく強い挽きで崖から落ちそうになり、思わず手を離したが、購入して間もない新品の竿と共に電気浮きが深く海の底に引きこまれていくのを呆然と眺めていた。

潮 吹 穴
 
浄土ヶ浜の北、車で20-30分で国民休暇村の間の海岸に、波が打ち寄せると潮を吹き上げる岩のすき間があり、これが潮吹穴と言われるもので、天然記念物に指定されていたと思う。
 荒れた海が打ち寄せる海水の圧力で、上部の穴から海水を霧状に吹き上げるもので、時には、吹き上げる海水の高さは30mにもなる。何度か行ったが、晴天でドライブ日よりの時はなかなかいい吹き出しが無く、台風が通り過ぎたときとか、雨天の時などの方が見応えがあった。

北 山 崎
 
久慈市に向かう途中にある北山崎は、海のアルプスと呼ばれる北部陸中海岸で最もダイナミックな景観で、雄壮そのもの。私は三陸海岸の中では鵜の巣断崖と共にここが大好きである。切り立った岩肌と、眼下には白く砕ける波が展望の展望はいつも感動をもたらしてくれた。また、ここでは数10年前に生じた三陸海岸の山火事の面影を見ることが出来、松の緑との対比が自然の草木の再繁茂の力強さを感じることが出来る。海岸まで753段の階段の遊歩道は体力を試すのに良かったが、運動不足の足では筋肉が痙攣したりして帰路の運転が危なっかしくなる。

龍 泉 洞
 
龍泉洞は岩泉町にあり 、高知県の龍河洞、山口県の秋芳洞とならび、日本三大鍾乳洞の一つに数えられ、国の天然記念物に指定されている。宮古盛岡間の国道から北上するルート、三陸海岸を北上してから内陸に向かうルートがある。洞内は2.5Km以上あり、その内700mが公開されているだけ。湧き出る清水は世界一の透明度をもち、地底湖が神秘的。深い地底湖を形成し、水深120mと日本一の水深を誇っているらしい。行く度に地球の歴史の長さと深さを味わうことが出来る。今湧いている水は何万年か前に降った雨であると説明受けたようなきがするが、にわかには信じがたい。

 私は観光旅行など好きでない。しかしこの三陸の壮大な景観、龍泉洞を見るたびに地球の歴史、自然の偉大さを感じとる。その前に今ある自分など実に小さな存在でしかないが、その偶然性を想ぅ。小さな人生だからこそ大切なにしなければならないと思う。


7/17(土) 東京晴れ 病棟拘束 民医連拠点病院会議初日
2:00起床、ドック判定総括x1。退院時総括、病院集会準備、その他.5:30病院着、6;00回診、申し送り。紹介状などと出張準備。10:20
病院発、ANA11:20東京へ。AirbusA321型、最後尾に席を取る。気流はかなり悪いらしく全行程かなりの揺れ。更にこの機種は座席間の間隔がやや狭く、足の置き場が苦しい。14:00-18:20お茶の水「損保」会館にて民医連拠点病院会議、内容的には見るべき、聞くべきもの多数あり。バスにて有明ワシントンホテルに移動、19;00交流会。20;00一足お先に失礼し、部屋にて残務少々、21;00就眠


「光陰矢のごとし」??、すっかり様変わりしていた民医連の集会(1)
 「光陰矢のごとし」、と言われる様な、時の流れを感じる経験をした。要するに、民医連の会議の持ち方にも時代の変化が感じられ、驚き、関心したということ。私が中通病院に就職してから、最初の数年間は民医連関連の仕事も結構割り当てられ全国規模の大会に数回出張し、他の病院の診療応援にも出たが、その後、ここ10年ほどは民医連関係の仕事については一切話がなかった。。

 私は民医連の考え方には共感できる部分も少なくないし、その活動にはいつも感心しているが、秋田のそれに関しては会議の持ち方が不満で、役員は一期途中で降りてしまった。そのことも声がかからなかった一因であっただろう。

 全国規模の民医連の各種の大会は過去に数回出たが、熱気あふれて大変に参考になり、リフレッシュのためにはとても良いものであった。しかし、会場は熱海の富士やホテル・・とかの老舗がつかわれ、狭苦しいところに大勢詰められたものだった。熱気はそのためであったかもしれない。会議後の、通常なら懇親会と称するが民医連では交流会と称して目的のはっきりした会であった。だから、交流会も内容は予めプログラムされ、参加・不参加の自由度も乏しく、閉口していたというのが本音であった。圧巻は宿泊で、これも参加者間の交流と称して数人ずつ割り当てられるようなものであった。私は会議そのものにはきちんと出席したが、交流会は耐えかねて食事レベルで早々に退散、個人的にとったホテルに移動して一人で宿泊した。この様な動きは当時珍しかったらしく、民医連の事務局には多大な迷惑をかけたことになる。一方、この個人的理由による宿泊の変更は県連からも病院からも認められず、費用はすべて自腹であった。

 院長から今回の会議の出席について相談・打診があった時に、出席を直ぐに決めたが、その時頭をかすめたのが上記のあまり印象の良くない会議、交流会、宿泊の経験のことであった。当然、同じ様な行動を取るつもりで出席を引き受けた。


7/16(金)曇り→雨 健康対策課来訪 医師会打合せ 秋田市近隣救急隊との懇談会
2:00起床、ドック判定総括x1。紹介状2部、その他.5:10病院着。6:00回診、紹介状その他。8:15救急カンファ。以降は明日からの出張の資料作りの没頭。10:30-13:00外来,14:30-15:30病棟業務。15:45-17:00医師会館で健康対策課と打合せ、医師会書類チェック。17:30-18:30千秋会館にて救急隊との話し合い、一部出席、病院に戻り、残務、20:45帰宅,21:00就眠.

こんなに増産が出来るとは インフルエンザワクチン生産量 鶏さん有り難う
 本年度のインフルエンザワクチンの生産量は約2000万本であることが解った。任意接種になってからは年々減少し、一時30万本まで落ちこんだわが国のワクチン生産は高齢者を中心とする接種勧奨、公的補助などの影響で再度増加に転じ、業界では最大限の努力をしてきた。それでもワクチン不足がマスコミを賑わして来た。
 結果的に、生産量は平成11年には350万本、平成13年に1000万本、昨年は1500万本。本年度はついに2000万本に達しようとしている。

 経済が落ちこんでいる近年、製造業の中でこれほど激しく生産量が増えているものは他にあるのだろうか・・・と思う。一時縮小した生産ラインは廃棄されていたであろうから、設備投資も大変で、それほど利潤は上がっていないだろうと考えると、ワクチン業界の努力には頭が下がる思いである。
 人のインフルエンザワクチン生産にニワトリの受精卵が用いられる。一本のワクチンを作るのに2-3ヶの卵が必要だからそれだけでも大変な量。しかも受精卵だから、ニワトリの、特に雄ニワトリの努力には頭が下がる。彼らは恐らく朝から晩まで必死に頑張っているだろうことを考えると、・・・何とも言いようがない気持になる。

 昨年秋から、実際には今も東南アジアではトリインフルエンザ騒動が続いている。感染鶏は原則廃棄処分である。人間の都合で生命が与えられ、厳しい環境で育てられ、卵生産にひたすら勤しむ。今のニワトリの大部分は一度も土を踏むことなく、人間の思うまま繰られて生を終える。彼女らは一体何を考えて生きているのか?? それだけでももの悲しいのに、仲間がトリインフルエンザに感染でもしようものなら健康なニワトリまで則処分・・・。アア・・と思う。

 でも、ちょっと発想を変えると、私の今の生活もニワトリと似たようなモンだと思う。だから共感するのかも知れない。


7/15(木)曇り 魁新聞記者来訪 
1:30起床、ドック判定総括x1、退院時総括+紹介状作成+医師会関連作文等。5:30病院着。回診他。6:00-6:30魁新聞記者来訪。6:30-8:00回診他病棟業務。8:10救急カンファ、書類処理。9:00-13:30外来。書類多数。15:30-16:30回診他病棟患者処置業務。16:30-17:00A I医師来訪歓談。以降は淡々と業務処理。20:30帰宅、夕食。21:00就眠.

時代の流れを解っていない??近鉄-オリックス問題(2)
 
近鉄はどうなる?事態は予期せぬ急展開を見せた。インターネット関連サービスの「ライブドア」が近鉄球団を買収する意向を発表したからである。
 近鉄本社社長は合併を最優先とすることを再度強調したが、近鉄とオリックスとの合併作業は、難問が山積したままの状態。選手雇用や、パ・リーグが5球団の変則になることへの解決策は見えていない。西武などパ各球団は1リーグ制移行を主張していると言うが、11球団ではどだい無理な話し。

 「ライブドア」は平成9年8月に設立された企業でコンピューターネットワークに関する管理を行っている。同社の堀江社長は驚くことに若干31歳!!!。東大文学部中退、学生時代に「オン・ザ・エッジ」社を設立。ネットサービスなどで収益を飛躍的に向上させたと言う。今年2月に「ライブドア」に社名変更。先には、ダイエーの球団買収に動いたとの情報もある。

 もう、時代が変わった。私はそう思う。「ライブドア」側は記者会見にもTシャツ姿で現れ、気負ったところがなく、実に淡々とし、紳士的だったという。ビジネスの世界も大きく変わったようだ。私の如くの凡人感覚では、インターネット関連の新興企業がプロ野球のオーナーなど本当に出来るのか? 売名を狙った短期保有の可能性?などとどうしても考えてしまう。が、既に時代が変わっていて、「とんでもない」と思う方が間違っているような気がしてならない。年寄リばかりのオーナーサイドは「ライブドア」の出現をどの様に認識しているだろうか。

 企業体では業績や問題点を最も敏感に感じ取るのは現場の若手だという。改革とか変革とか唱えなくても、現場では感覚的に察知しているのだ。しかも、企業体の問題点の殆どは内部にあり、中堅から上層部の考え方、企画力、実行力にある、とされる。それに気がつかない年寄り上層部、現場の声がトップまで届かないシステムでは、やがて人や企業が衰退していくことになる。これからの企業体のリーダーには情報を如何に蒐集し、熟慮し、自ら発信するかが問われてくる。
 その歪み・問題点が、年寄り集団によるファン無視、現場無視、強引に話を進める今回のプロ野球合併問題に象徴されているような気がする。


7/14(水)快晴 県医師会常任理事会  
1:30起床。ドック判定総括x1.総括紹介状などいつもの如く。5:20病院着.回診その他。8:10救急カンファ、9:00-15:00外来+ドック説明1名。病院・医師会関連書類処理多数。17:30-19:50県医師会常任理事会,病院にて残務、21:00帰宅、21:10就眠。多忙であった。

時代の流れを解っていない??近鉄-オリックス問題(1)
 
近鉄はどうなる? このままではオリックスと合併、1リーグ制へ、移行かな??
 私は小学校の頃から万年最下位の近鉄に興味を持っていた。西本監督時代も注目していたが、彼が去ってからは何時しかプロ野球自体への興味が薄くなっていった。ただ、パリーグは当時はいつも1-2割しか入っていない閑散とした球場で、寂しく試合が行われていた、と言うことが印象として残っている。今はそれほどでないだろうが、パリーグ=寂しい、というイメージは変わっていない。

 この合併問題、話の進め方が変に固い。突然ライブドアという新興企業が買収に名乗リを上げ、事態は急転回するかのように見えたが、実際には話の道筋に大きな影響は与えていないようだ。買収話は2リーグ制という体制維持には悪くないはずだが、ライブドアについて真剣に検討を開始したという言う印象は持てない。逆に、買収話には一切耳も貸さす、無理無理押し進めようとしている様に見えている。何故だろうか。何をしているのか解らない様なライブドアからの話だから問題なのか?ソニーなら?ホンダなら別扱いなのだろうか??
 
 既にマスコミ発表される前から、来期にはさらにもう1球団減らして10球団による1リーグ制というシナリオが出来上がっている?  という推測をしてしまう。観客動員があってのプロ野球だ。ファンの声、選手会の意向などは完全無視、現場無視の横暴さが見える。こんな理不尽な話がすんなリ通るのだろうか。これでは日本のプロ野球は衰退する。オーナー達、プロ野球の上層部にいる関係者達は何を感じ、何を考えて運営しているのだろうか。それが伝わってこないから変に感じてしまう。


7/13(火)曇-晴れ 医師会打ち合わせ 医局カンファ
1:30起床。ドック判定総括x1.総括・紹介状など書類処理、5:20病院着.6:30回診他定期処方、書類書き、8:15病院着.9:00-14:00外来+ドック説明x2。医師会打ち合わせ。再び書類書きに追われる。医局カンファ(心血管CT像)。種々処理、20:30帰宅。21;00就眠。書類に追われた日。

「辞典の言葉は死んだ言葉、ことわざは生きた言葉」
 最近、次第に私にとっても重みを帯びてきた一言である。いつ、私が、何処で聞いたかは定かでない。
 「ことわざ」は、短い文句だが、時に自他の行動を決定づけるほど強いインパクトを持っている。短い、単純な言葉で、人、感情、人生、生と死、運命・・などの機微について、また、日常生活、健康、しつけ、自然、気象・・などの分野においては生活の知恵とも言える素晴らしい一言、二言が存在する。

「ことわざ」は、語り継がれてきた「言葉による教科書」と言うべきだろう。要するに、先人達が我々に残してくれた「経験のことば」そのものなのだ。
 われわれは日常生活の中で知らず知らずのうちに「ことわざ」をつかっている。「ことわざ」が口をついででない日なんてちょっと考えられない。私は外来の患者さんを相手に、敢えてキザなほど「ことわざ」を引用する日もある。言いたいことがスーっと患者に伝わるからとても便利。側で診療補助をしている若い看護師が「またか・・としらけた表情をしている。この点年期が入った看護師の表情はちょっと違う。

 「ことわざ」の歴史をみると、既に平安時代初頭に「世俗諺文」という「ことわざ」辞典の元祖が登場していると言う。この書には「良薬は口に苦し」「千載一遇」などが、すでに記載されているという。「ことわざ」は本とかが作られる以前から存在していた、ということになる。
 「ことわざ」の半数近くは、庶民の生活の中から滲み出てきた教訓で、実体験が元となったものだから、全世界どこにでもある。本とかで見知らぬ世界の良い「ことわざ」に触れたとき、世界は一つなのだと実感するホッとする瞬間でもある。

 「ことわざ」には特に定義は無いとされる。もともと、曖昧なものだから、広く認知されて、昔から使われている教訓めいたものは、全て「ことわざ」と言っても間違えではないだろう。私自身の中でも、とある特定出来る先人が言った言葉と、「ことわざ」との間が曖昧になってきている。これはちょっと拙い。きちんと調べよう。慣用句と「ことわざ」の違いは?と言われれば答えられない。
 理屈抜きに、「ことわざ」と「音楽」には国境を越えた、民族を越えた共通点があるように思えて楽しい。


7/12(月)晴れのち曇のち雨  管理会議  長副会議 医師就業記録調査開始
2:00起床、ドック判定総括x1. 書類処理数編。5:20病院着.6:00回診他、8:00管理会議.9:00-15;00外来。講演準備。16:30-18:50長副会議。議題豊富、処理困難。20:40帰宅、夕食、21:00就眠。息つく余裕もないと言えるような一日。

失われたブランドイメージ 前を三菱車が走っているだけで・・・
 三菱自動車のブランドイメージの零落は悲惨なほどである。もし三菱でなければ企業体として存続出来るかの重大な危機に陥っていたであろう。いや、これからそう言う事態に陥る可能性がある。
 三菱は巨大で、不思議な企業である。三菱「デボネア」という車、1999年に生産が中止された不思議な名車。初代の「デボネア」は何と外観を22年も変えることはなかった超高級車。内容的には進化し、FF駆動を採用するなど見るべきメカを沢山持っていた。殆ど一般には売れず、三菱系会社の重役専用車・・と陰口も叩かれていた。年間数100台しか売れなかったにも関わらず生産を続けたという事実だけから見ても異常な会社である。一般企業なら通用しない体質がここにも現れている。 

 三菱自動車は私は前から興味を抱いていた企業の一つであった。大企業が方向性を誤ったときの社会に及ぼす影響は犯罪的行為になると言うことがまたも如実に示された。自動車関係でこれほどの影響を持つ事件にまで発展したのは歴史上類を見ないだろう。
 次々と出てくる欠陥車のニュース。日本各地で出てくる車の火災やタイヤ脱落のニュースの殆どが三菱製のもの。またか、いつまで出てくるのか。もう国民が三菱製の車はこんなものだ、と思い始め、「欠陥」が新しい三菱車のブランドイメージになっており、「隠蔽」が三菱の会社のイメージになってきた。

 近年の消費行動はイメージ先行で行われる。決して底が深い判断力を持っているわけではないし、一般ユーザーが判断出来るレベルではなく、物品一つ一つを確かめて購入することは不可能。好みで選ぶだけであとはブランドイメージに賭けるしかない。だからこそブランドイメージが重要になってくる。
 だから、
ブランドイメージの零落ほど恐ろしいものはない。いま、前を三菱のエンブレムを付けた車が走っていると、この車は大丈夫なのかな?とつい思ってしまう。ブランドイメージの回復のための方策は何か??いま、会社ではいろいろ模索中のことだろう。私の興味は尽きることはない。
 各病院だってブランドイメージを持っている。患者の受診行動にはこのイメージが大きく影響する。そのイメージに合わない現実に遭遇したとき、患者はどう行動するのか、自明の理である。だから、各病院もブランドイメージ大事に育て続けなければならないのだ。


7/11(日)雨、曇のち雨 病棟拘束  FF Tennis
2:00起床、ドック判定総括x1,医報校正など.夜半まで雨。何とか上がる。7:00病院に。回診、書類など。8:45救急カンファ。10:00-13:30 FF Tennis。6-2,6-4,4-6。午後は再び雨。この時間帯だけ何とか降らずに済みラッキーであった。14:00帰宅、総括・紹介状など.一時微睡み、講演準備、Vn練習。21:00就眠。

自伝  宮古病院時代 1971〜73 (9)

宮古での生活(1) 陸中海岸国立公園
 宮古に赴任2年間の間、よく働きよく学んだが、時間を見つけてはいろいろな遊びもした。その中では、やはり地域的に見て最も特徴的な三陸海岸での水泳、観光、つり、キャンプ、ドライブなどは忘れられない思い出となっている。新潟大学在学中は金衛町浜を中心に海との触れあいも随分持ったが、日本海側と太平洋側・・と言っても私は殆ど三陸海岸のことしか知らないが、では海の様子が大きく異なっていた。やはり三陸の海は海岸の構造も、海の色も、波もスケールが一段と異なっていた。これは秋田に来てから触れることの出来た秋田県内、青森の海岸からは到底受けることの出来ない、格別の雄大さを感じたものである。

浄土ケ浜
 陸中海岸国立公園の中心にある浄土ケ浜は、宮古市の代表的な景勝地としてよく知られている場所である。「日本の渚百選」にも選ばれた浄土ヶ浜海岸は海水浴場として県内でも最も人気の高い海水 浴場の一つである。白い砂浜、澄んだ青い海のコントラストが美しい景勝を持つ浜辺で、連日のように泳いだ思い出は決して忘れることは出来ない。

 太平洋側は天候の移り変わりが明瞭である。雨も多いが晴れるときは雲一つ無い快晴、晴天が多い。宮古の夏は暑い.当時は宮古病院は相当に老朽化しており、冷房装置とかはなく真夏の日中はただひたすら汗を流しつつ業務に追われる日々であった。真夏の突然の激しい雨には救われるものを感じたものである。
 夕方5-6時はまだ明るく暑い。この時間になると若い医師は業務を途中にしてそれぞれ連れ合って浄土ヶ浜に向かう。道路事情にもよるが15-20分ほどで着く。日中は観光客で道路は渋滞し、海岸も足の踏み場もないほど・・と言えるような混雑であるがさすがにこの時間帯になると道路も海も空く。
 300余年前ここを発見した霊鏡和尚が「さながら極楽浄土の如し」と感嘆したといわれる様に、ダイナミックな断崖や奇岩が複雑に入り組んだ白い岩と透明度の高い青い海とのコントラストは絶景。海の水は日中の太陽のエネルギーを十分に吸収してほのかに温かく、海岸から対岸の岩までは近場では僅か数10mしかないから簡単にいくことが出来た。水深が深まるに連れさすがに海水は冷たくなる。この変化もまた気持ちのいいものであった。
 ここで小一時間、ほぼ連日来るのでそうゆっくりはしない。サッと病院に帰ってシャワーを浴び、夜半まで再度仕事をこなす。そう言う毎日であった。


7/10(土)曇 さきがけ記者来訪 農村医学会 産業医研修会  秋大泌尿器科同窓会(虚の会)
2:00起床、寝不足感。ドック判定x1, その他、医師会医報校正、農村医学会関連。5:10病院着、事務的処理、6:00-7:00さきがけ記者来訪。7:00病棟回診、その他。退院総括他各種書類処理。10:30-12:20外来.以降は18:30まで山積みの院内業務処理に集中、かなり消化。18:30-20:20Castled H秋大泌尿器科同窓会(虚の会)に代理出席.20:40帰宅。21:00就眠.

JRの指定券、どんな順序で売るのか??実に疑問、不満である
 ここ数ヶ月の間にJRを用いた出張が何度かあった。秋田-東京間の新幹線は原則的に全席指定となったから購入に悩むことはない。他の地区に出かける際、指定のある便なら私は必ず指定券を確保しておく。乗車前の時間が勿体ないし、さりとて立っての移動は嫌だからである。新幹線以外は指定券を買うまでもないほど空席の目立つ便の方が多いが、決して無駄な出費だとは思わない。

 私は、空席が目立つ場合には、必ずしも指定された席に座るわけではなく、自分にとってより快適な席に移動して座る。快適な席というのは基本的に、(1)隣に誰も座らない、(2)知人がいない、(3)周囲に乗客が少ない・・の順である。私は隣同士の人との距離が近いのには耐え難い。だから、あえて自由席に遷ることもある。

    私はJR指定席の発売の順序に不満と疑問を抱いている。数日前の特急「いなほ」による新潟往復に際してはこの疑問と不満がより一層大きくなった。
 正午近くの新潟行きの特急「いなほ」は新潟県に入るまでは車両に私一人しかいなかったために、最高に快適であった。それが中条駅あたりからチリポリと乗客が増えてきたが、と言っても10人程度だが、何と私の座席周辺に集中的に座る。そのうちついに中年の女性が私の隣席に座ってしまった。こんなに空いているのに何でわざわざここに座るのか!!!   勿論、次に私のとった行動は空いている席への移動であった。指定席の販売順序はどうなっているんだろうね。
 帰路は往路よりも若干乗車人数が多かったが、ほぼ同様で、乗車時には席の隣には中年男性が座っていたから最初から自分の席には行かず、別な席に座った。このような場合、停車駅ではこの席に乗客が来るのではないかと心配しなければならないのが嫌だがやむを得ない。そういえば5月の山形新幹線、やはり車両には僅か10数人だったが、私の隣には若い女性が座った。このときも私はさりげなく席を移動した。

 何で、車両をまんべんなく次々と埋めていくような指定席の売り方をしないのだ!!  極めて不満である。

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7/9(金)晴れ  医師会打ち合わせ(欠) 法人理事会(欠) 秋田大学医学部関連病院協議会総会+講演会
1:30起床、眠い、ドック判定総括x1、退院総括、医師会関連書類用意.5:20病院着、6:00入院患者家族と面談。6:30回診他.紹介状、主治医意見書など、10:30-12:30外来+ドック説明x1。16:00秋大医学部へ.16:30-17:15秋田大学医学部関連病院協議会総会.秋大でも地域枠を5人ほど認める方向らしい。この点について若干意見を述べた。 17:30-19:00講演「救急外来診療のピットフォール--院長・指導医・研修医のためのトラブル防止法」。県医師会打合せ、法人理事会は欠席。業務処理後、20;45帰宅、21:10就眠.

秋田県に医師を増やす方策としての入学地域枠設定は疑問 
 先の新潟大学関連病院長会議でも語られたが、本日の
秋田大学医学部関連病院協議会総会でも、県内に一人でも多くの医師を残すために、県内から医学部学生を5名ほど入学させる地域枠を新設しようと計画中であるという

 私は私立大学、自治体立などならいざ知らず、国立大学は全国一区であまねく機会均等に入学選抜すべきと考えている。これは教育を受ける側の機会均等の権利でもあり、基本的人権でもある、と考えるからである。もし、新潟県が昭和40年にこの様な方針を出していて新潟大学に5名ほどの地域枠を作っていたら、岩手から受験した私自身が合格出来たか解らなくなる。その事を考えたらおぞましくなる。

 この地域枠は現在滋賀大学で導入したと言うし、新潟を始め、医師が少ない地域の国立大学でこの方法を導入しようとしているとのこと。確かに、それなりの効果は10数年先には出てくるだろうが、とても安易な考えだと思う。文科省が今春是認の方針に変わったから問題はない、と説明があったが、教育者としてそれにただちに乗って良いものか、・・・私は大いに驚いたし、疑問に思っている。もし地域枠を創設するなら定員外に設定すべきである。

 秋田県に医師を増やすためには第一に県内から秋田大学に限らず、どこでも良いから医学部に入学する学生数を増やすことである。そのためには医師志望の学生に対する体験入学を初めとするガイダンス、奨学金制度などが重要。第二に、秋田大学への入学者数を増やしたいなら、秋田大学自体が魅力ある大学にならなければならない。第三に、全国に散らばっている県出身学生が卒後研修は前期・後期共に郷里の秋田で受けたい、更に秋田で医業を行いたいと思わせることにつきる。そのために魅力ある研修システムの構築が求められる。その目的で、県医師会が中心となって県、秋田大学、病院協会が一緒になってプロジェクト委員会を立ち上げている。

 何故、秋田大学に県出身者が少ないのか、卒後に秋田に残る卒業生が少ないのか、秋田に戻ってくる新卒生、既卒生が少ないのか。それは大学を始めとして若い医師達にとって秋田が、秋田大学が、秋田の医療環境に魅力が足りないからでないのか?今のままでは、地域枠で増員した卒業生が直ちに他県に流れてしまぅ事になろう。 そうなったら、ただ笑うだけしかない。


7/8(木)曇-小雨   
1:30起床。HDD判定総括x1.5:15タクシーにて病院着、6:30回診その他、書類と格闘。8:15救急カンファ、9:00-14:30外来、混雑。書類、カルテ処理かなり進める。16:00から病棟患者処置その他。体調に若干違和あるも徐々に軽快、夕方には若干増強。20:00帰宅、夕食、20:40就眠。

「代表取締役= 取り締まられ役代表」 ある要人の愚痴 
 先に新聞の何処かにコラムとして乗っていた言葉。面白いと思ってメモしておいていた。
 一般論として、時代の流れと共に企業体の社会責任が問われるようになり、長引く不況などから経営が困難になり始めて来た。かつては企業体の「
代表取締役 」などというのは、まあ、レベルはピンからキリまでいろいろあろうが、概して、超エリートに近い、と言っていいものであっただろう。それが、昨今、すっかり企業体の代表取締役 」は、社会や社員からの「取り締まられ役の代表」になってしまっていると嘆く、ある要人の言葉であったように記憶する。社会からは厳しい目で見られ、社内にもどれば社員から厳しい目で見られ、立つ瀬がない、対策したくても時間がない、毎日がイバラののムシロです・・・と言ったようなことが書かれていた。要人にしては何と弱音を・・・と思ったものである。 まあ、そんなものであろう現代は。

 企業のトップにトップらしい仕事をさせるためには十分な時間を与えることが必要である。個人が集合した分以上の成果を上げるために組織を作るのだし、組織では各人はその立場に応じた役割があるのだ。だたし、これが誤解されていて、組織の中では自分に与えられた範囲の仕事しかしなくても良いと言うような石頭的考えの構成員もかなりいるようになるのも問題である。ヒトはミツバチとは違うのだ。組織人に必要なのはむしろ融通性なのだよ、本当は。

 一般的な業務・雑用等の、誰でも分担出来る仕事をトップにさせて、忙しい等の愚痴を言わせるようでは、基本的にはその組織は基本的には駄目である。右肩上がりの経済の元ではそれでも良かったかもしれないが、今のご時世それでは全く駄目。
 特に、今必要なのは企業体としての将来の展望、現状の問題の処理と維持管理等、従来にましてやるべき重要な仕事が多くなっている。トップには組織を導いて貰わなければならないのだ。十分に時間を与えて。権利も与えて、考えさせて、実行させて、それでも駄目なら厳しく評価すればいいのだ。


7/7(水)新潟・秋田快晴 新潟から帰秋 医療行政懇談会   
2:00起床。体調やや不調、ドック1判定総括x1、医報校正など。トロトロ進める。7:20コーヒー+α程度の朝食.食欲無し。8:33特急いなほにて帰秋。12:40病院着、13:30ドック診察+外来1名補助。回診、15:30-17:30医療行政懇談会。話題は「グループホーム」「バリアフリー」「小児救急」。17:30から西村副知事を交えての懇親会、19:00病院経由で早朝分の仕事を持参して帰宅。20:00就眠、終日やや不調であったが徐々に軽快。

FTA(自由貿易協定)交渉 フィリッピン人看護師が誕生するかも  
 厚労省医政局は2006年以降の需給見通しを策定するため「第6次看護職員需給見通しに関する検討会」の初会合を近日中に開くとのこと。看護師の需給問題ではいつも就労していない免許保持者、いわゆる「潜在看護師」の再就労率を多めに設定して無理矢理辻褄を合わせ、そのために養成数を増やしていないこと。だから、実際には看護師数はいつも不足している。
 
 看護職員確保については、日本医師会が新卒の看護職員が減少していることを問題視しており、厚労省に対して准看護師養成を始めとして改善要望を出しているが、厚労省は需給見込みを盾になかなか方針を示さない。

 一方、FTA(自由貿易協定)交渉でフィリッピンを中心とする東南アジアなどが看護労働者を受け入れるよう求めている問題では、厚労省は「需給見通しの全体の議論のなかで検討される可能性がある」(医政局看護課)としている。従って、これほど不足してくるとその是非も議論されることになる。
 事実、構造改革特区策として全国で看護師数確保が困難な6医療機関から少子高齢化社会の看護師確保対策として外国人受け入れが提案されている。

 厚労省はフィリピンなどが求める看護師らの受け入れについて、国民の生命・健康を預かる見地から、あくまで日本の資格取得を前提であるとしているが、これは当然である。しかし、外国人有資格者の就労は、現在では、例えば看護師なら日本の養成所卒業後4年以内と制限されているが、厚労省はFTA交渉の過程でこれらの制限に関しては順次、緩和する方針だという。 この様な状況下では将来的に外国人看護師に介護を受ける可能性がでてくる。
 我が国の看護職員養成は絶対数が不足していると思う。入学定員を増やし、高校生達にやりがいのある職業の一つとして積極的にキャンペーンすべきである。


7/6(火)秋田・新潟共に晴れ 新潟大学医学部関連病院長会第30回定期総会
2:00起床,ドック判定総括x1、 農村医学会準備手伝い.医報校正、5:20病院着。回診他。9:00-12:15外来、12:48JR特急いなほにて新潟に。ホテル「イタリア軒」にて16;30新潟大学医学部関連病院長会第30回定期総会、18;00新潟大学医学部教授会との話し合い。19;30懇親会は何となく体調不良?で挨拶+α程度で失礼し、宿泊の新潟シティホテルに移動、若干の業務。ドック総括x1、医報用原稿。やはり体調は通常ではない、前回の不調時とほぼ同じ。21:00-21:00就寝.

大学医学部は人集めに必死、エゴが見え隠れ
 本日は所用で出席できない院長に代わり、新潟大学医学部関連病院長会第30回定期総会、新潟大学医学部教授会との話し合い、懇親会に出席した。
 第30回定期総会は型の如くに進行したが、余った時間を利用して初期研修問題、後期研修問題が語られ、秋田県の実情は如何にと発言を求められ、医師不足の件、医師会のプロジェクトについて話題提供した。

 新潟大学医学部教授会との話し合いの中では文科省とかの交渉の結果やその過程が話され、普段聞き得なかった話題もあった。ただ、列席した臨床教授からは後期研修に際しては是非とも新潟大学に戻ってきて欲しい、との考えが濃厚に表現された。彼らの立場では当然そう言わなければならないだろうが、地域医療にとって如何に良い医師を育てるのかという視点では、私は必ずしも大学での研究、研修活動がベストとは思っていないが、教授達のの多くはそう考えないらしい。とにかく一人でも多く帰ってきて欲しいの一点張り。
 その発想の陰には旧態依然とした医局制度、徒弟制度の中での医師育成の考え方からのエゴが見え隠れする。

 これからの医師は個々人としてのあり方を考えるとき、研修修練に幅の狭い従来型の方法論など要らない。多様化して当然。勿論、博士号が欲しければ、あるいは大学の特長を生かして修練したければ、研究・教育に興味があるなら大学を志向するのも良し、純然たる臨床の中で腕も磨くの良し。
 今では博士号よりも、臨床的実力の表現としての専門医の称号の方がずっと価値がある時代になってきた。


7/5(月)曇  管理会議  長副会議 
1:30起床、ドック判定総括x1、紹介状、家内の農村医学会の準備手伝いなど、5:15病院着.事務処理、回診他。8:00管理会議。病院集会について意見交換。9:00-14:00再来。私が診察した高度るいそうの患者、検査に行く途上で心肺停止に陥ったが無事蘇生し、対話も通常に出来るようになった。驚いたね。紹介状返事2通、医報原稿校正など。16:00-18:00院長出張不在のもとでの長副会議。懸案多数あり。19:00来客予定あり早めに帰宅。22:30夕食、21:00就眠。

台風の年間上陸回数は? 「接近」「上陸」「通過」の定義
 今年は6月に入ってから台風が日本列島に何度か接近したり、上陸したりして、週単位で新しい台風が来たような印象が強い。既に、今年は台風4号と6号が共に高知県に上陸したし、2号が房総沖に接近し、結構な被害が出た。、早々と初秋の台風シーズンに突入したような感じさえ受ける。
 台風の問題点はその土地の方々や農家の方々にとっては大問題と思うが、私は台風自体に何か心踊らせられるし、東京出張の際の空路の確保に関連して時に影響を受ける。

 台風は年間10個も日本に上陸するのかと思っていたが、調べてみると年間平均上陸回数2.6個だと聞いてあまりの少なさに唖然とした。気象庁が統計を取り始めて以来、台風の上陸回数が多かったのは1990年と1993年の各6回だとのことである。本当にそんなものかと一見信じがたい。

   私どもは台風を話題にするとき、上陸、接近のの区別していないから随分多く感じているだけのことのようである。で、「台風上陸」「台風接近」「台風通過」の定義を調べてみた。気象庁の定義によると、台風の中心が北海道や本州、四国、九州の海岸線から300Km以内に入った場合を「接近」、海岸線に達した場合を「上陸」と定義し、島や半島を横切って短時間で海に出た時を「通過」と呼ぶようになっているとのことである。
 
 そう言う風に分けて考えれば確かに上陸する台風は少ないのかも知れない。 気象用語もそれなりの意味を知ると、結構面白いので、今後その目で台風について考えてみたい。

 1951年以降の気象庁の記録で見ると6月中に台風が2つも上陸したのは1997年以来6年ぶりのことなのだそうで、この年は4個が上陸した。今年はもう2つも上陸したのだから、この分だと今年は台風の当たり年の可能性が強くなってきた。


7/6(日)快晴 病棟拘束 FF tennis  
2:00リハビリ当直室で起床、ドック判定総括x1. 総括、紹介状、主治医意見書等など数件。7:10検食、8:30病院に移動、8:45救急カンファ。10:00-12:30FF tennis、1-6, 6-2、6-4.何とか勝ったが低次元の勝負と反省しきり。超快晴で暑いが絶好の日和であった。13:30-16:00病院で回診・事務処理など。16:30帰宅、ドック。総括、紹介状。Vnなど。21:00就眠。

自伝  宮古病院時代 1971〜73 (8)
家内宅のオープンな雰囲気にカルチャーショックを受ける(2)
第二の驚きは、敷居がとても低いことであった。私にとっては敷居なんて無きに等しいのではないかと言うほど、隣近所、地域の方々や、各家族の知人・友人達がほぼ自由に入れ替わり立ち変わり出入りする事であった。
 私が訪問していた時間なんて大した長さではないが、居間で義父母と歓談しているところに次々と何人ものヒトが訪れる。その度ごとに私は緊張し居ずまいを正すのだが、訪れる当の本人は緊張感全くゼロ、私は完全に拍子抜け状態に陥った。何なんだ、この家庭は!! と言う驚きである。完全にカルチャーショックを受けた。

 結果的に解ったことは、家内の両親のその地域にしっかりを足をついた何10年という生活、誰にも好かれる性格の良さ・・・などの結果であると言うこと。更に、それこそ、面倒見の良い、どちらかと言えば親分肌の雰囲気を持ち気っぷの良さを兼ね備えた鷹揚な性格の長男、それに、とても献身的に迎えてくれるその奥さん・・・が揃った結果であろう。それと、酒、料理・・・。誰でも気軽に箸を持ち、自由に突っついて口に運ぶ。ちょっと見なくなったと思ったらその訪問者はいつの間にか帰ってしまっているなど、私にとってはとにかく驚きであった。

私の育った環境は訪れる人とて殆ど無い、閉鎖的な家庭であった。近所の人達は先ず来なかった。私の小学校時代の友達も呼んでも誘っても我が家には先ず来ることはなかった。小学校の頃までは診療所を開設していたので随分人が訪れたが、患者としてであって、門も、玄関も別で、生活圏のエリアとは全く混じり合うことはなかった。こんな閉鎖的環境で育った私にとって兎に角、家内の育った環境には驚きの一言しかなかった。

 もう一つ、酔いつぶれていい気分で微睡んでいる爺さんを起こすぞと言って年端もいかない孫が頭とか身体を蹴飛ばしていたが、側にいる家族の誰もが特に注意をしなかったこと。蹴飛ばされた本人も特に何も感じていないらしく、そのまま孫を抱き上げた。これもショックであった。私の環境であれば激しく折檻されるか抜き身の日本刀を振りかざした祖父に追いかけられただろう。

 まだ、あれこれいろいろある。要するにこの様な私にとって別世界と思われる家庭で育った女性と一緒になったものだから、その後の歪みの調整は実に大変であったが、先ず私の方から折れることにした。それによって私の視野も、考え方にもかなり融通性が備わってきた、と思って今は感謝している。おかげで、我が家の子3人の供達もいい人間関係、雰囲気の中で大勢の方々からいろんなことを吸収して育っていったと思っている。


7/3(土)快晴  山田カップテニス リハビリ当直
2:30起床、やはり寝不足で眠い。ドック判定総括x1、他、5:15病院着.事務処理、回診他。8:45救急カンファ、9;00ドック結果説明x2。10:30-13:00再来。13;00太平山テニスコートに向かう。往復30Km久々にハーレーで飛ばす、爽快。2試合に出場、共に相手側の自滅で6-2、6-2.総合的には結果はどうなるだろうか?16:40病院に戻り、17:00リハビリ病院に当直。18:30検食、若干の業務、雑誌等。20:00就眠.

ベルリンso演奏会「エグモント,新世界,交響曲第7番・・」
 県民会館で昨日7月2日に上記の演奏会があった.曲はベートーヴェン「エグモント序曲、第7交響曲」ドヴォルザーク「新世界」。私はベートーヴェン「エグモント序曲」が演奏されると聞いていたのでそれだけで出かけることにした。私にとってはベートーヴェン「エグモント序曲」は特別な曲である。私を音楽好きにしてくれた曲で、演奏した想い出もある。だから、この曲が聴けるなら、と、どんなオーケストラが、どんな指揮者が来るか、は全く調べもせずに出かけた。会場で他の演奏曲目について知ったほどである。
 
 何と、でっぷりと肥った指揮者が出てきて解ったのであるが、なんと、2002年10月16日にこの県民会館で聴いた指揮者とオーケストラそのもの。その時は「未完成、メンコン、英雄」であった。
 ベルリンsoは1966年に設立された新しい楽団で指揮は1950年イスラエル生まれのLior Shambadal.指揮者の出入るが激しい時代、この組み合わせで二回も聴けるとは・・。

 指揮者は腹の大きい肥満者で,腹がつかえて下を向けないからだろう、終止天井に向かって指揮をしていた?ようなもの.前回よりは体動は小さかった。年を取ったからか?一層ふくれた腹か.アンコール曲の紹介,拍手への感謝はきちんとした今回も日本語であった.アンコールは大サービスで「ハンガリ−舞曲No5,6,スラブ舞曲No8」.最期に「アキタ.オヤスミナサイ」という挨拶で終了。
 名曲を並べた長丁場の演奏会.私は適宜微睡んだ。90%ほど入りの聴衆の反応・拍手・歓声はとても大きかったが,何故?と,感じたほどである.これほどの大拍手ではまた来るんではないか??と思ったほど。
 私はどの曲も適宜楽しめた。楽しい演奏会であった。何故か高齢者が目立った。第7番>エグモント>アンコール3曲>新世界、と言う感じかな?? でも長すぎた、「飽きた.お休みなさい」の言葉にホッとした。

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7/2(金)快晴 医師面接 医師会打ち合わせ(欠) ベルリンso演奏会
2:00起床、やや寝不足気味、ドック判定総括x1、紹介状、5:15タクシー病院着.事務処理、回診他。10:30-13:30新患補助+再来。13:30医師面談。紹介状返事2通、主治医意見書。医報原稿校正など。多忙。医師会打ち合わせは失念。19:00-21:20ベルリンso演奏会「エグモント,新世界,ベートーヴェン第7交響曲、アンコール3曲」。アトリオン12Fで夕食、22:30帰宅、23:00就寝.

風呂好きの風呂談議(2) 起床後出勤までに2-3回、それ以上
 私は風呂好きである。ストレス解消法の一つでもある。誰か家族、または準同居人が利用する場合には別だが、最近はエネルギーが無駄だからと、家内が帰宅してから、あるいは私の起床時する2:00am頃に風呂を用意する。それこそ指一本だけである。約20分ほどで仕上がり、セットした温度に維持される。

 先ず仕上がったら一浴、灯りを消して、窓のブラインドを全部開けて星、雲を見ながら約5分。私の入浴時間は極めて短い。何もしないから。暖まり、リラックスするだけ。それからパソコンに向かう。
ドック判定総括、紹介状などは機械的にさらさらと進むが、医師会関連・病院関連の作文はそうはスムーズには進まない。突っかかる、呻吟する。呻吟したらウジウジ悩まず風呂に向かう。まず5分、突破口が開ける・・事もある。いつもそう甘くはないが、開けることもあるのだ。季節によっては身体が冷える。冷えたら一浴、5分、ぬぐだまる、あったまる。気分が良いねえ。5時前、さて出かけるか・・・で一浴。空も明るくなって良い景色だ。これだけ明るいと外から丸見えだろうが、普通のヒトなら一度見たらもう絶対に見ないだろうから気にしない。見たいなら見せてやれ・・・、の心境。

 起床してからの私の服装は季節によるが、超軽装。下半身は社会人として最小限の義務かな?小さな布きれ一枚にバスタオルを巻き付けただけ、上半身もシャツ一枚程度、それも着用しないこともある。だから、入浴準備なんて1-2秒、あがっても1-2秒、しかかからない。これが何度も楽しめる秘訣の一つ。
 悩みの一つは、いい音で鳴るオーディオを備えているが、入浴時間が短か過ぎて小品一曲くらいしか聴けないことかな?防水スピーカーは高価で無駄だから普通の小型のをサランラップでくるんでいるような、いい加減な装置だけど、風呂場だけにいい音で鳴る。これも贅沢なことだ。

 数年前に何かに載っていた川柳、「ニクソンに 持てぬ幸せ われ持てり」を思い出す日々である。


7/1(木)秋田快晴 さきがけ新聞文化部記者来訪  情報交換会食 
2:00起床,ドック判定総括x1、5:15病院着、回診他、重症者2名。8:15救急カンファ。8:00-13:30外来,15:00-16:00さきがけ新聞文化部記者来訪「夏ばてについて」インタビュー。意外と表現が困難な領域だ。16:00-17:00入院患者処置など。17:00-18:00市内開業のA.I  医師、近郊診療所S.I  医師来訪、種々意見交換。19:00-21:15某病院医師と医療情勢の意見交換、情報交換など。21:30帰宅、21;50就寝。

風呂好きの風呂談議(1) 全身から指一本に
 私は風呂好きである。ストレス解消法の一つでもある。幼少の頃から年何回かの花巻とか志戸平温泉等湯治に出かける祖父母には常に同行し、楽しんでいた。いつも一週間ほど滞在したが、何するわけでもなし、随分時間がゆったり流れていたものだと思う。今でもお盆の墓参り時に数年に一度程度計画することがあるが、一晩に数回は楽しむ。過去には10数回も入って体調を崩したこともある。

 進学のために田舎の家を離れるまでは風呂の準備は主に私の役目であった。母屋とは別の風呂専用の小屋があり、井戸から手動ポンプで水をくみ上げ、風呂桶を一杯にする作業は実に大変であった。350回ほどハンドルを上下し、20分ほどかかった。更に、木炭や薪、時には廃棄物で湧かしたが、週に何回か一時間以上もこの作業に追われたものである。激しく火を燃やすこの作業も私は好きであった。
 高校の下宿の時、浪人時代は銭湯を利用、湯もたっぷりあり、自宅とは全く別の雰囲気で良いものであったが、寂しいことに市井から全く銭湯が消えてしまった。大学6年間は寮で過ごしたから更に一層大きな浴場で毎日楽しめた。

 宮古の住宅ではユニットバス風であったが灯油式風呂釜になり、秋田の自宅ではガス風呂となったが、オートマチックではなく、時に点火したことを忘れ沸かし過ぎなど時々あった。コーヒーやラーメンに利用出来るわけでなし、冷やすための水も大量に必要。その度に多大な無駄に心が痛んだものである。

 3年ほど前に浴室を改造してからワンタッチとなった。掃除さえしておけば給湯、保温はコンピューター制御なので指一つで全て仕上がる。
 私版の風呂の歴史である。便利になって、今は何でも指一本の時代。こんなことでは、未来人の手は人差し指一本を残して退化してしまうのでないか?とさえ思う。



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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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