徒然日記

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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10/31(金)晴れのち曇り 県医師会打ち合わせ+健康対策課とのうち合わせ
2:40起床、ドック判定総括x1、日医委員会報告書案改訂作業.5:20Taxi 病院着。回診ほか。9:30-13:00秋田市基本検診+外来。13:30ドック説明1名。ドック診察5名。日医改訂作業.16:00ー16:40県医師会+健康対策課とのうち合わせ。20:20帰宅。21:00就寝 .

コ・メディカルとパラ・メディカルの違いは??
 今,私は日本医師会の医療関係者対策委員会の報告書の作成と改訂作業で日夜呻吟している。この委員会はわれわれ医師と共同で医療を支えていくほかの業種と医師の関係,あり方について検討する会である。
 かつては医療が医師を中心として行われていると言っても誰も問題にしなかったであろう。しかし,近代においては医療は予防から診断,検査,治療,リハビリテーション,社会復帰まで包含している為に,多くの協力者を必要とし、良いスタッフを得て初めてよい医療を行うことができる。現在20数種もの職種員が医療の現場に参加しているとされており医師との関係も時と共に様々で複雑になってきている。

 その医療関係者についてはその表現方法に若干の混乱があるように思える。すなわち、コ・メディカルとパラ・メディカルという言葉の使い方である。
 コ・メディカルの?co」は、「…とともに」「…と協力」「…と共同」という意味であり、看護婦、薬剤師、診療放射線技師、臨床検査技師、機能訓練士などがこれに当たると考える。
 パラ・メディカルの「para」というのは、「…に対する」「…と並行」「…と近似」という意味であり、医師とは異なるが一部業務が似かよっている、いわゆる医類似行為を行う,鍼灸師,マッサージ師、指圧師、整体師などを示すとされる。現に、欧米ではそのような意味で使われている。我が国ではこれらは往々にして混同して使われている。適当な日本語がなくそのままカナ書きで使っているので、本来の意味を考えることなしに慣習的に使用してしまっているためだろうと思われる。外来語といえども,本来の言葉の意味をよく理解して使い分ける必要があるだろう。
 意外と諸外国ではこの様な言葉の違いが大きな立場の違いを示していることがある。だから,殊に外国人との交流の場では気をつけて使わないと誤解を生ずる可能性があるので注意したいものである。


10/30(木)雨→曇り インフルエンザワクチン接種  
1:30起床、ドック判定総括x1、紹介状・返事x1等.いつ寝たのか家内は徹夜で読書などしつつ朝まで付き合ってくれた。5:30Taxi病院着。回診など。9:00-13:30外来。整形受診,抜糸は11/5予定となる.午後インフルエンザワクチン接種,以降若干局所痛と寒気がする。19:50帰宅。今日は終日眠かったな・・と思いつつ21:00就寝。

患者にとっての理想の医師「赤ひげ」像--について(3)
 如何に「赤ひげ」が頑張ったとしても、個人的な施策などでは国民的な健康は維持できない。「赤ひげ」自身もそれを自認している。
 
疾病に正当に対処するには医学上の手段のみならず、社会的手法を必要で、人口問題、周産期の保護と看護、衣食住、公衆衛生対策、一般医学教育、が必要であることは論を待たない。わが国が世界一の平均寿命・健康寿命の国になってはいるが、医師の個人的診療の範囲で果たした役割は必ずしも大きくはない。先進的近代的医療なんて人間の寿命統計には何ら影響を与えていないのだ。

 唐代(618年-907年)の『備急千金要方』に「上医は国を直し,中医は人を直し,下医は病を直す。」と記載があるというが、医師が治すべき対象が国・人・病だという様に記されていると言う。すなわち,医師は病人を診ているだけでは不十分であり,患者の健康の為には社会,生活環境,生活様式から直していかなければならないと,説いている。この様な視点こそ現代の医師に求められる視点で無かろうか。更に付け加えていけば医師が治せる病なんてほとんど無いのだ。患者は自分で治り,金を医師に払っていると言う不思議な世界なのだ・・・が,現に私もその世界の一員だからこれ以上は,言及しないでおく。

 
「赤ひげ」の診療態度は今から見れば時代錯誤的な保護者的・父性的な態度である。患者に対してはやり方は手荒く、言葉も乱暴で辛辣、患者にはろくに説明もせず、一方的に命令する。極めて権威的に描かれている。一見、使命感のある,力強い医師らしい態度として描かれているが、患者が自己の権利意識に目覚めた今日においては、この態度で患者にのぞむことには問題があり、医師としては時代錯誤,失格である。
 山本周五郎はこの著作の中で医師ですら驚嘆するような素晴らしい内容の記述をちりばめている。しかし
「赤ひげ」の診療の姿の描写ではあくまでも権威主義的に描く。自ら患者としてそのような医師が良いとは思っていなかったと類推する。このことに関しては,時代背景が江戸であり,赤ひげは武士で,患者は町民,疾病構造が急性疾患,感染症,事故等と今とは全く異なることと言うことで理解しておきたい。そうだとするとこの設定もまたすごいと言わざるを得ない。
 作者の随想とかで,患者として本音で医療を語った作品はないのだろうか。もう少し彼の著作にあたってみたい。


10/29(水)雨  医療の安全委員会+郡市医師会長協議会+懇親会 
 
2:00起床。ドック判定総括x1、紹介状・返事x1等処理.5:20Taxi病院着、回診、処置種々他。9:00-13:30外来。ドック診察x1、療養病棟入院患者に腸閉塞増悪、頭部打撲など発症、対策。16:30-17:40医療の安全委員会、引き続き郡市医師会長協議会+懇親会(View H)。20:30Taxi帰宅。21:00就寝。外の会議等では松葉杖は不便だが、やむなし。

コメ作況指数「著しい不良」に。が、不作は日本だけでない
 昨今、外来で稲作の話題になることもある。秋田は全国レベルでは良い方で90以上だと言うが農家の方々の表情は一般に良くない。青森とかは60とも聞くがその地域での農家の方々の心情は如何様なものだろうか。私が子供の頃冷害は少なくはなかったが、自殺とか鬱病になる農民が少なくなかったように記憶する。

 農林水産省は27日、2003年水稲の作柄概況(10/15現在)で、全国平均の作況指数が最終的に90となることを明らかにした。予想収穫量は765万t前後となる見通しだと言う。作況指数を6段階に分けていた従来の評価に当てはめると、最もランクが低い90以下の「著しい不良」に該当し、作況指数74であった1993年以来10年ぶりの不作で、戦後では5番目に悪い水準となる。あの、タイ米やカリフォルニア米が輸入された年に近い状況である。
 実際には、在庫米が10月末で150万tあると見込まれるため、新米と合わせた来秋までのコメの供給力は国内需要量を約50万t上回り、コメ不足にはならないとの見通しは従来から変化はない。しかし、このまま不作が続けば、世界的不足と相まって食料自給率の少ないわが国は大変なことになる。

 目を世界に転じて見ると、世界の穀物不足は2000年が1600万t、2001年が2700万t、2002年は9600万tという記録的な数字が並ぶ。米農務省発表の作況報告を基にすると2003年も前年に近い9300万トンが不足することになる。もし2004年も同じような不足になると穀物輸入国は100ヵ国を越え、わずかな穀物を求めて国際的パニック状態に陥る可能性もある、と警鐘を鳴らすのは、前「ワールドウオッチ」所長、現在「北地球政策研究所」理事長のレスター・ブラウン氏。
 不作の一番の原因は気温の
上昇だという。欧州は今夏熱波で小麦の収量が大きく落ちたのは記憶に新しい。国際稲研究所と半農務省農業研究局の研究によると、成長期の気温が適正温度よりも1度C高くなることに穀物収穫量は10%低下するらしい。だとすると、今後ますます作柄が低下していく可能性がある。
 日本の食糧自給率の低さ、何とかしなければならないだろう。


10/28(火)快晴 県医師会打ち合わせ(欠)K医師と打ち合わせ
2:00起床,家内はICU当直。ドック判定総括x1.紹介状x2、5:20Taxi病院着、回診。定期処方。9:00-13:20外来.13:30ドック説明x1。14:00入院患者の保護者との面会。文章校正他。16:20-17:00新しく赴任してくるK医師と業務分担打ち合わせ。県医師会打ち合わせは取りやめ.20:20帰宅。21:00就寝。
 契約しているプロバイダーのメール機能一日半ダウン。復旧して2日分のが一気に大量に入ってきた。対応が間に合わないのもあり関係者の方にはご迷惑をかけた。

患者にとっての理想の医師「赤ひげ」像--について(2)
 小説「赤ひげ」は悪政のもとでの無知なる庶民の犠牲、苦しみ、もだえ、などの状況を医師「赤ひげ」の視点で読者に訴えたかったのだろうと思う。だから、小説の中で扱われている「赤ひげ」は私には単に庶民の側に立った良医と言うよりは、もっとスケールの大きい、医師像の一つの理想の姿としてうつってくる。
 だから作者の視点は「赤ひげ」の発する言葉を借りて、鋭く政治的問題点へ迄切り込んでいく。いや、それ以上に医師のあり方にまで辛辣に迫っていく。

 恐らく作者も自身や先妻の看病を通じて医師や医療についてかなりの問題点を感じたのだろう。

 作者山本周五郎の医療観をうかがうことの出来る言葉は「赤ひげ」の言葉として随所にちりばめられているが、その一部。
●この病気に限らず、あらゆる病気に対して治療法などない。
●医術がもっと進めば変わってくるかもしれない、だがそれでも、その個体のもっている生命力を凌ぐことはできないだろう。
●医術などといってもなさけないものだ、長い年月やっていればいるほど、医術がなさけないものだということを感ずるぱかりだ。
●生命力の強い個躰には多少の助力をすることもできる、だが、それだけのことだ、医術にはそれ以上の能力はありゃしない。
●現在われわれにできることで、まずやらなければならないことは、貧困と無知に対するたたかいだ、貧困と無知とに勝っていくことで医術の不足を補っていくしかない。
●貧困と無知さえなければ、病気の大半は起こらなくて済むんだ。
●医者にも薬にもたいした差別が無いというのが事実だ。名医などと言う評判を聞いて高い藁代金を払ったり、効能も知れない薬を買いあさったりするのは、泥棒に追い銭をやるよりばかげたことだ。
●医が仁術だなどというのは、金儲けめあての藪医者、えせ医者共のたわ言だ。
●仁術どころか、医学はまだカゼひとつ直せはしない、病因の正しい判断も付いていない。
●医術は、ただ患者の生命力に頼って、もそもそと手探りをしているだけのこと。しかも手探りをする努力さえもしようとしないえせ医者が大部分なんだ。

 私は、約30年間医師として過ごした結果、やっとある種の諦観を伴う医療観に到達しつつあるが、作者の山本周五郎は医師でもないのにそれに近いことを見事に言い当てている。これは何なのだ!!  と私には思えてならない。彼の周辺に執筆を手助けした老練な医師が居たのかも知れないが、資料を見てもその様子をうかがうことは出来ない。
 医療を、医術を、医政を語るのに医学を学ぶことは必要ないのか??これは人間としての一つの到達点なのか?
 今再び読み返してみて作者の含蓄の深さに恐れ入った次第である。


10/27(月)快晴 管理会議  ギプスカット→装具装着  長副会議
 1:30起床、ドック判定総括x1、退院総括、主治医意見書その他処理。5:20Taxi病院着。回診他業務.8:00管理会議.9:00-13:15 外来、大混雑。整形外科にてギプスカット→プラスチック製の装具装着。右下肢の開放感は十分だが装具自体は丈夫でないので帰って心配になる。13:40ドック結果説明x1。16:30-18:00長副会議.20:30契約車にて帰宅。21:00就寝。昨年の本日MacG4が届いた。今朝、本家の福田静枝殿死去の知らせが入った。明日葬儀と言うが失礼させていただく。

患者にとっての理想の医師「赤ひげ」像--について(1)
 秋田の地方紙「秋田魁新報社」が創立130年を迎える記念に「ワラビ座」公演ミュージカル「よろけ養安」を県内外で公演するので県医師会でも後援して欲しいとの依頼が県医師会に来た。江戸時代後期に生涯を秋田県の院内銀山で過ごした人で,言ってみれば庶民の為の良医の物語らしい。後援自体には問題ないが,この様な医師像が理想という,一つの押しつけ的考え方には問題があると,私はクレームを付けた。赤ひげ類似番である。

 理想の医師像、医師患者関係を語るときに、マスコミなどでは良く「赤ひげ」が引き合いに出される。ご存じ山本周五郎の大作「赤ひげ診療譚」の中の登場人物のことで、この作品は後日、黒沢監督の手で映画化され大ヒット、一層有名になった。この小説の中の登場人物が日本人的理想の医師として良く引き合いに出される。この小説の時代背景は1700年代の江戸であり、将軍吉宗の頃とされる。享保の治としても知られ、幕府は一気に豊になったが庶民の生活は苦しく、百姓一挺が多発した頃である。

 私はこの小説を大学の頃に読んだ。読んだ切っ掛けは作者の死去であったような気がする。そのころ私は医進過程の2年生であった。当時何を感じながら読んだのか殆ど覚えていないが、一気に読んだことはそれなりに感じ入ったものがあるからであろう。最近、講演のための資料集めのためにこの本を斜め読みにしたが、今回は内容的に大きな驚きを感じた。「何で、医師でもない小説作家がこれだけのことを書けたのか??」という驚きである。

 山本周五郎は、明治36年(1903)に山梨県に生れ1925年頃、「日本魂社」の編集記者となる。この年「須磨寺附近」が「文藝春秋」に掲載され、文壇出世作となる。第17回直木賞に「日本婦道記」が推されたが辞退、以後も「賞」は一切なし。清貧?に甘んじながら「柳橋物語」「樅ノ木は残った」「青べか物語」等を書き上げ,何れも代表作となる。1966年(63歳)心臓発作に悩み、翌年死去した。
 自身も病弱だったと言うし、先生の看病とかを通じていろいろ考えることも多かったのかもしれない。(続く)


10/26(日)快晴 病棟拘束 瀬戸名誉院長夫人しのぶ会(仙台) 
2:00起床、ドック判定総括x2、総括その他処理。日医委員会原稿改訂進める。大曲仙北地区SARS講演準備開始,途中Vn2時間ほど挟みつつ、主治医意見書等も含めて結局終日業務をこなす.天満敦子著作、佐々木倫子「Haeven」読む。Vn再度その他,新曲にも挑戦、恐れ多いがパールマンにでもなった気分で・・・。家内は終日病院、帰ってきたばかりだが,急患にて18:30再出勤,22:30就寝。終日病院に行かず電話連絡ですました。一日は十分に長く、業務も読書も練習も進み良き休日であった。

自伝大学時代(1965〜71)(14)

かくして私の医進過程の一年は終了したが、この間の私の記憶に最も鮮明に残っているのは入学後間もなくの5/30に行われた新潟大学医学部管弦楽団の第38回定期演奏会の模様である。難曲ベートーヴェンのVn協奏曲作品61を、私を指導してくれたコンサートマスターが独奏した。約2ヶ月間、この曲の練習を見学してこの曲の構築の見事さ、独奏パートの難解さを改めて知って、私の最も好きな協奏曲の一つとなった。

 演奏会は新潟地震の復興がまだ不十分で、従来管弦楽団が演奏会に用いていた新潟市の公会堂は使用不能であり、新潟日報社のホールで行われた。中規模のホールで椅子は数百席しか置けないような状態であったが、満席、立ち見もでた。開場は演奏前から熱気が感じられた。恐らく新潟市民も地震の後の音楽会を、例え大学オケの如くアマチュアであっても、求めていたのだろうと感じられた。
 演奏は細かなところでは軽いミスとかがあったり、独奏者のテンポがずんずんと速くなり、この日のコンサートマスターが時折ボディアクションで指示していたが、最後まで楽器を十分に鳴らし、大きな破綻なく見事に弾ききり、私は心から感服した。
 独奏した彼はこの曲のために昔習った師匠に定期的に習いに行ったと言う。協奏曲を全曲弾き通すことの大変さも理解できた。ただ、その夜の打ち上げコンパでOBの教授達を始め諸先輩方からかなり辛辣な批評があり、私はすっかり不快な気分でなった。この間、独奏した彼の様子を時折盗み見ていたが、彼は虚脱状態にあったのであろう、この間ずっとボーとしていたのがむしろ救いであった。

 今まで演奏会でこの曲を10数回は聴いている。レコード・CDなどで数百回・・いや、到底数え切れないが、聴く度にあの時の演奏会を、コンサートマスターを思い出す。彼は間もなく勉学にいそしむために・・・と言い残してオケを退団した。恐らく、一種の燃え尽き状態であっただろうし、打ち上げ会での諸先輩方の言葉も関連していたかもしれない。
 私も、ある時期にはVnを仕舞い込み、一切弾かなかった時期もあったが、楽器を再度手にし、後には私には分不相応な楽器に出会うなどのエピソードもあったが、今日の今日までまでそれなりに楽しむことが出来ているのは、指導してくれたコンマスのVnに対する真摯な姿勢、生き方であったような気がする。テクニックと等の指導は本当に短い間ではあったが、彼は今でも私を指導してくれているように思う。心から感謝している


10/25(土)曇り→雨 日本医師会医政懇談会 (出席取りやめ)
1:30起床、ドック判定総括x1他、日本医師会医療関係者対策委員会原稿の改訂作業に着手。7:30家内に送られ病院着.こんな時間に出勤したのはここ10年ほどで初めてかもしれない。本日東京出張の予定であったから公的な予定なし。早朝の日医委員会の改訂作業を進めた。回診.13:00療養病床入院患者家族と面会、病状説明。殆ど机上仕事で尻に褥創が出来そう。17:00帰宅、Vn、夕食、20:30就寝。

アキレス切断、一週間目の憂鬱
 先週の日曜(10/19)の夕方のアキレス腱切断だから、厳密には6日目、私のいつもの丼勘定で言えば一週間目。この間、受診、手術、ギプス固定、疼痛、松葉杖歩行、車椅子移動、タクシー出勤・・と今まであまり予想もしていなかった状況にはまりこんでいる。切断した瞬間は
自分の受傷のことよりも先に、会議、外来、病棟、東京出張、講演、原稿・・・などの院内外の今後のスケジュールのことが頭をよぎったが、幸いにこの点では何とか一つも穴を開けないで過ごすことが出来た。
 さすがに今日の
日本医師会医政懇談会 は講演会の聴講だけであったので出席を取りやめた。東京方面は来月2,3回の出張予定、その内の一つは比較的重要な会議なのだが、が出席は無理だ。東京は水平方向にも縦の方向にもかなりの移動を余儀なくされるので相当リハビリをしてからでなければ無理であろう。

 実際的には移動が不便である以外は,意外と支障のない生活をしている。風呂も片足上げの状態ながら楽しめているし、トイレも机上仕事も普通に出来ている。
 だが、なんかここ2-3日はやや落ち込みかげんである。最初の数日は自らの不注意で陥った状況へ自分自身を順応させることで精一杯であったが、大体の目処がついてきたらこんな状態であと6週間以上も過ごさなければならないかと思うと、正直なところ嫌になりはじめてきた、と言うことだろう。ちょっと意欲の減退を感じている。

 そんなときはスケジュール表を眺めてみる。原稿締め切り、何回かの講演が迫りつつある。引き受けた以上責任は果たさねばならない、一日手を抜くと今以上の地獄が待っている・・と外側から自分を何とか鼓舞しているこの頃である。


10/24(金)曇り 医師会打ち合わせ 法人理事会  
1:30起床、ドック判定総括x1。退院総括x1.その他。5:40Taxi病院着、回診、事務処理他。9:00ドック説明x1。9:30-13:00外来。市基本健診中心に20数名。13:30-14:00ドック診察。16:00医師会打ち合わせ.17:30-19:00法人理事会。22:00契約車にて帰宅。21:00就眠.院外に出かけるのに松葉杖はかなり辛い。道路等の段差、凹凸の影響をもろに受けよろけてしまう。

松食い虫の被害が目立つ県南の海岸。国や県は対策しているのか??
 私どもがテニスを楽んで来た梅林園周辺の松林は、ここ数年松くい虫の被害が目立ち始め、30-50%が被害木に思える。このままでは早晩総てが被害を受けるのではないかと心配していた。
 約10日ほど前、新潟からの帰秋の途中、列車の窓から県南の海岸の松の姿を見て唖然とした。希に健常そうな松が残っているものの、場所によっては全滅と言うところもある。幹を黄土色に変色させた松は、救いを求めるかのように、太い枝で空を掴もうとしている。それらは全て骸で、あたかも山火事の後、焼け残った木々を思わせるほどである。

 「松食い虫」
と名の付く虫はおらず、松を枯らす線虫がまとめてそう呼ばれる。「マツノザイセンチュウ」などの線虫におかされた松は夏以降、数週間から数ヶ月で枯れていく。大気汚染と酸性雨がマツの根を傷め、松食い虫がとどめを刺すという説も有力。これらの線虫を媒介して被害木を増やしているのが「マツノマダラカミキリ」である。

 
松に寄生した線虫が発する臭いに「マツノマダラカミキリ」が引き寄せられ、その松に産卵する。孵化した幼虫に何千匹もの線虫が寄生し、幼虫が風に乗って飛行し、離れた松の木にとりつき食害を与え、その傷から松の中に線虫が潜入すると言う。線虫は、数ヶ月間に数十万匹に増えるとされ、大木ですら一年も持ちこたえる事が出来ない。

 二次被害を防ぐには伐採消却以外に方法はない。
松を臥し、枝を払い、玉切りし1カ所に積み上げ、薬剤を散布し線虫を死滅なければならない。鎌倉市では残された健康な松を守るため「松くい虫被害木伐倒等事業補助金」を交付していると言う。「松食い虫」を原因とする松の伐倒・処分に係る経費(限度額1立方M28000円)の半額を個人所有者に補助しているとのこと。

 無惨な姿をさらす県南の海岸付近の松、これらに対して国とか秋田県とかは何らかの被害拡大防止のための手だてをしているのであろうか??無惨な松の周辺には伐採された跡とかが全く見えないのだから、何もやっていないのであろうと思った次第。


10/23(木)曇 総合内科診療部会 療養病棟診療部会 
1:30kisyou。ドック判定・総括x1、紹介状返事等.5:40Taxi病院着、回診ほか。9:00-13:30外来。ドック結果説明x2。13:45-14:45総合内科診療部会。主治医意見書x2他、17:00-18:00療養病棟診療部会。20:00契約車にて帰宅、21:00就寝。右下肢の疼痛殆ど感じなくなりつつある。机上の未処理書類かなり少なくなってきた。

自民党長老に立候補辞退勧告。小泉さんやったね
 いよいよ総選挙。小泉さんは再選の余勢で長期政権の基礎を固めようとしている。
 足かせの一つが藤井総裁問題。すんなり辞任せず石原大臣の辞任要請を蹴っ飛ばし、予想外の展開に解任という大太刀を振るったのも良い。いい加減なところで妥協してはせっかくの勢いが頓挫する。官僚との癒着のイメージを払拭するためにも断固たる態度で臨んで欲しい。若干のけが人が出るかもしれないが自浄作用のために耐えるべし。

 もうひとつは自民党の長老議員の去就。党の定年を超えている宮沢(85)、中曽根(86)の2人。総理経験者というので特例??、小泉さんもその程度か??,と思ったが本日夕方のラジオニュースで自ら出向いて立候補辞退勧告をしたという。これはすごいことだ、さすがである。結果的に宮沢氏は後輩に道を譲るとして引退、中曽根氏は居座りの意向。両極端の結果が出てこれからの展開が面白い。

 中曽根氏の処理には総理の指導力が更に問われる。首相は公認はしないと言うが,私はそれでは中途半端,離党を迫るべきと思う。その上で中曽根氏がどうするかは自由。小泉さんは身近に悪人的人物を育て挙げ,あるいはワザとつくり出し,機を見てばっさり裁断する。それでイメージアップを図る策略に長けている。たいしたモンだ。

 東洋では指導者の交代がなかなかうまく行かない例が多い。欧米では古い人はあっさりと引退するから次々と若い指導者がでてくる。年寄りが頑張りすぎて、若い人が出て来にくい自民党・・・,だけではない,聖路加国際病院をはじめとして医療界もひどいモンだ,・・・の体質をどう変えるのか、ここでも小泉首相の英断が注目される。
 今日の小泉首相の行動は日本の文化を変える嚆矢になるかもしれない。

 長老を敬うべきは人間としての礼節の一つだ。しかし,真に敬われるような長老はあらゆる地位を辞退しても輝き続けるのではないか。その自信がないから社会的地位にしがみつくのではないか。あるいはお金か?? 中曽根さん,日野原さん,定年退職後の公務員達・・・。引退して社会活動にはボランティアで参加すればいいのに。彼らの本音を聞いてみたいものだ。


10/22(水)曇のち雨  医師会理事会+委員会 
 1:30起床、ドック判定・総括x1、紹介状等.総括。5:40Taxi病院着、車椅子で回診、より快適に出来るようになった。9:00-13:10外来。13:30ドック説明2名。主治医意見書等作成。16: 30-18:20県医師会理事会、18:30-20:00もう一つの委員会。20:30Taxi帰宅。夕食、21:10就寝、多忙であった一日。

辛い松葉杖 & 快適な車椅子 エレベーターは待つのが辛い
 本日で受傷3日目、術後2日目。局所の疼痛は徐々に軽減してきている。まず順調だと思うが今後6週間前後のギプス固定、約半年のリハビリが続く。長丁場だが回復を短縮する王道は無いのだし、素直に一人の患者になりきるしかない。この6週間は右足に荷重をかけられないので基本的には松葉杖歩行となる。雪の季節前には何とかギプス固定からは解放されそうである。不幸中の幸いの一つだ。

 今一番悩んでいるのは松葉杖歩行時の上半身の筋肉痛、脇下の痛み。これは従来ひ弱な筋肉しか持ち合わせていない私にとって松葉杖歩行は体重を上半身の筋肉で支えることになるのだから大変な作業となる。上肢で体重を支えなければ腋下に負荷がかかり神経障害等を来すこともあると言うから必死の思いで頑張っているが、歩くたびに筋肉痛で冷や汗が出るほど辛いし、長く歩行した後は微熱が出る感じで頭がボーっとし、手がふるえてカルテに字がうまく書けないなど困ったことになっている。しかし今日で3日間、徐々に筋力も付いて来ているのであろう、筋肉痛も若干良いようだ。更に使い方も上手になってきているためか少しづつつらさは軽減つつある。何処まで楽になるか楽しみでもある。

 昨朝、痛みに耐えつつ病棟になんとかたどり着き回診したが、ちょっと辛かったので途中でたまたま廊下にあった車椅子に腰掛けてみた。車椅子に乗るのも初経験であるが、何と!!これは楽である。そのまま車椅子を借用して快適に回診した。車椅子の操作も何と言うことはない。ほぼ思った通りに動かすことができたし、距離が長くともさほどの負担にならない。車椅子を一台借用し、外来、医局では椅子代わりにも使っている。快適さに任せてこれだけで過ごすと四肢の萎縮が来そうなので適宜松葉杖と使い分けている。通勤時や医師会、会議などに行くときはには車椅子でも不可能ではないが、松葉杖で移動する方が身体のためにも良いようである。

 私は従来はエレベーターは好きでないので院内では大型の荷物運搬時以外には一切使用していなかった。少なくとも15年は乗ったことはなかったが、3日前からはすっかりお世話になっているし、後2-3ヶ月は乗らざるを得ないかもしれない。快適だが、待つのが若干辛い。贅沢な悩みの一つだね。


10/21(火)晴 医師会打ち合わせ(欠)医局カンファ(欠)永年勤続者表彰式(欠)
1:30起床,疼痛で熟睡出来なかったから若干眠いし、結構痛い。ドックx1、紹介状など。途中1時間ほど坐位にて微睡む。5:20Tax病院へ。回診時療養病棟で車いすに乗ったらこちらの方が快適。患者さん方も仲間が出来たと、なんか嬉しそう。定期処方日。9:00-13:00外来、30分ほど毎に足を机の上にのっけて鬱血をとる。これだけでしばらくは疼痛が軽減する。整形外来でギプス一部カットして創部の消毒。午後、夕方、夜の予定をキャンセルして書類その他処理。動けないだけにいつもよりは集中出来た。19:00契約車にて帰宅、20:30就寝。

ゴルフ会員権を買いませんか?? 会員権が普及に足かせになっていないか??
 私はゴルフをやらないが、先日ゴルフ会員権を買いませんかというダイレクトメールが送られてきた。岩手県北部、仙台周辺、関東地区のゴルフ会員権を安く販売いたしますと言う中間業者からのもの。200-500万円と私にとっては考えられないほどの値段だが、これでも従来の30%ほど安いのだそうだ。そういえば昔は投機の対象にもなっていたことを思い出した。

 昭和46年にはゴルフ練習場に結構通っていた。同僚から誘われて、ただひたすら打つだけ。からりと晴れ渡った青空にキーンという金属音を残して白球が飛んでいくのは実に気分が良かったし良く飛ぶので気をよくして思いっきり打っていたが、肋骨の疲労骨折様の疼痛が出てきたのを機会に止めてしまった。

 ゴルフには良い季節になったが、入場者は年々減っていると言う。バブルの頃には年間1億人、昨年は9000万人をも割り込んだらしい。ゴルフ場は全国に約2500箇所もあるのに、プレー人口が減り、プロの大会のスポンサーも減り、企業のコンペも大幅に減った。そしてゴルフ会員権の悲惨なほどの暴落。倒産して消えてしまったゴルフ場もあると言う。
 今はまだ中高年がゴルフ好きで元気だから良い。ところが今の20-30代の若年層にゴルフが浸透していない。この若年層の減少傾向はゴルフだけではなく、スキーやスノーボー、サーフィンでも同様で、ある程度の習熟しなければ楽しくないレジャーは人気を失っている。代わりに楽に楽しめるディスーランドのようなテーマパークや温泉あるいは高級レストランやゲーム、ネット・・・に傾斜している。

 ゴルフは健全なスポーツだろうから、その発展のためには、歪んだ会員制度を何とかしなければ、と思う。高額な会員権を購入しなければ十分楽しめない様なスポーツやシステムは私の理解の外にある。このままでは将来的には普及しないで尻すぼみになっていくだろう。とは言っても、既存会員はそれなりにお金を払って会員になっているのだから、いまさら安くするわけにもいかないだろうし、ビジターだけの料金では到底やっていけないだろうし、会員制ゴルフ場はどうにもならない袋小路に入り込んでしまっているようだ。

 空路で東京に向かうと東京周辺の山や丘は全てゴルフ場化していると言っていいほどだが、今もこれらの全部が運営されているのだろうか??


10/20(月)曇 アキレス腱縫合手術 長副会議 マッチング最終調整  
1:30起床。右足に鈍痛あり。ドック判定・総括x1。紹介状。5:30Taxiにて病院着 .回診、松葉杖の移動は辛い。療養病床入院中の患者さん方,私の松葉杖姿を見て目をまん丸にして驚いていた。9:00-13;20外来。こんな日に限って何故か大混雑。やや辛かった。明日は無事出来るんだろうか,と思いを馳せる。13:45まで右足の装具のための型どり。整形外科受診。手術へのオリエンテーションを受け、同意書作成。14:00-16:00アキレス腱縫合術。16:30-17:45長副会議。18:30-18:30初期研修マッチング最終調整。この頃から麻酔が切れ疼痛増強、仕事に集中出来ず。19:00契約車呼んで帰宅。夕食若干、20:00就寝。

私のアキレス腱が無事つながりました。ご心配をおかけいたしました
 昨日の受診時に本日午後手術と決まっていた。もうここまで来ると「まな板の鯉」に成りきる方が絶対に楽である。
 外来をやりながら整形外科よりの連絡を待つ。10:00担当医のM医師より電話、採血や装具の説明を受ける。外来終了時に装具の型どり。術後一週間後からはギプスではなく着脱可能なプラスチック製の装具を付けるらしい。「へー、進歩したね」。どんなものか解らないけど、痒い時は外して掻けるんではなかろうか。型どりは15分ほどで終了。
 続いて整形外科外来で担当医の問診、「通常はご家族の同意も必要なんですが来ておられない様ですし、局所麻酔なので良いでしょう・・」。そういえば家内は手術について何も言っていなかったな・・・。

 そのまま手術場に。看護師さんが車いすで送ってくれたが、慣れない松葉杖よりは実に快適。術衣に換え、手術台にうつぶせになる。モニター類装着、チームの看護師さんが下肢の消毒を疼痛を与えないように丁寧に、丹念にしてくれる。若い女性にこんなに身体をさわられたのは初めて。何となくいい気分。次いで静脈確保、仙骨ブロック、局所麻酔・・・・と続く。仙骨ブロックも初体験だが間もなく腰から下肢にかけて暖かくなった。一つ一つの操作の時に声をかけてくれるので全く見えないが、今どの程度の進行かが予想がついて安心感に繋がる。局麻で手術するときはチームの皆さん,気遣いが大変ですね、と思った次第である。
 術中の疼痛は全くなし、何となく違和感あるのみ。途中眠くなってトロトロと微睡んで、看護師さんから大丈夫ですかと声をかけられたほどである。M医師が最後にデジカメの画像を見せてくれた。アキレス腱はしっかりと結ばれている。

 16:00再び看護師さんに送られて自室に戻る。気分は悪くなく疼痛もない。そのまま長副会議、マッチング会議へ。でもやはりそう甘くはなかった。会議終了時前後から中等度の疼痛が襲ってきた。もう仕事に向かっても集中力なし、昨日契約済みの迎えの車を要請して帰宅。夕食に向かったが疼痛のために食欲も湧かずあっさりしたもののみ摂ってやや早いがベットに横になる。
 処方された抗生物質、鎮痛剤を服用した。NSAIDSと分類される鎮痛剤の服用も私にとっては初体験。だが,あんまり効果が無いナー・・と思いつつ微睡む。あっちを向いたり、こっちを向いたり痛みを我慢しながらトロトロしていたが,いつぞや眠りに入っていった。

 これが今日の私の一日。M医師と担当チームの皆さん方,有り難うございました。声をかけて下さった患者さん方、職員の皆さん方にも感謝いたします。HP,メールを通じて暖かい言葉,激励の言葉を贈って下さった方々にも。


10/19(日)晴れ FF tennis アキレス腱を切る
2:40リハビリにて起床、ドック判定・総括x1、等.市医師会用原稿脱稿。検食、8:30病院、種々処理。10:30帰宅。13:00-16:20梅林園 FF tennis、3-6、5-7,6-3、1-2と劣勢、何とか引き分けにしたいと分不相応に頑張ったらプッツンとアキレス腱が切れ、中止となる。これで今シーズンのテニスは終了。17:00救急外来受診、シーネで固定、松葉杖にて帰宅。18:00-19:20長男と来客まじえてアンサンブル。自宅のNECのパソコン不調、修理に。21:00就眠。

私の右のアキレス腱がプッツンと切れました。ご迷惑をおかけいたします
 スポーツマンでもない私にとってアキレス腱断裂などは全くの無縁だと思っていたが、本日の午後のテニスで、ついにやってしまった。もう何年も続けてきた、いつものFF tennis、 今日はセットカウント1-2と試合は明らかに劣勢、ペアの家内との雰囲気も厳しくなってきていたので、ついつい必死にボールを追いかけた。 やや手前へ落ちたボールを取りにダッシュした瞬間 「ブツッ」と言う音が聞こえ、右足に力が入らなくなり倒れそうになった。不自然に転ぶよりは、と思って自分の方からそのまま倒れてしまった。アキレス腱を切った??と悟ったが、最初に自分の受傷のことよりも先に、院内外の今後のスケジュールのことが頭をよぎった。連日の外来、病棟、東京出張、講演も控えているし・・・。

 横になった状態で右足を動かしてみた。通常のように動かせる。次いで立ってみた。どうにか歩ける。痛くもない!!   本当にアキレス腱??と思い直したが、今シーズンのテニスはこれを機会に終了とした。幸い、右手の一部に擦過傷が出来た程度で他には問題がなかった。

 家内の車でそのまま病院の救急外来を受診。その間右足をさすってみたりつねってみたりしてもそれほど痛くもない。アキレス腱断裂ってこんなものなのか?? しかし、整形外科の女医さんは「完全離断ですね」「手術をお勧めします」「よければ明日手術しましょう」と爽やかに宣告してくる。回復までの期間が短縮出来るなら・・・と明日手術を受けることにした。足関節を添え木をつけて包帯で固定していただき、慣れない松葉杖をつかってよろよろと歩行し、帰宅。右足には荷重をかけないようにとのことであったが、松葉杖歩行は結構難しい。 家に帰る頃は多少、心の整理もついたような気になり、息子と来客をまじえて1時間程度アンサンブルを楽しんだ。 

 と言うことで、明日(10/20)午前中に一般検査、夕方手術を受けることになりました。それから先のことはよく解りませんが、関連の皆様方にはいろいろご迷惑をおかけします。
 ご容赦下さいますようお願いいたします。


10/18(土)晴後曇り、時に雷雨  明和会看護活動交流集会 リハビリ当直
1:30家内の帰宅の音で目覚め起床。ドック判定x1.5:30病院着、低く雲がたれ込めほぼ真っ暗。8:10ドック診察x5。9:00説明x2、10:30-12;30外来。残務処理、秋田市医師会報のSARS原稿作成.紹介状その他に対応。15:30-16:30明和会看護活動交流集会で療養型病棟のまとめを師長が発表するので参加、高齢患者の死について意見を述べた。17:00リハビリ病院に当直に。19:20-20:30療養病棟入院患者死亡で病院に、21:00就眠。

杉江 弘著 機長の「失敗学」(2)----この本からの学び
 彼は前書きの中で過去の大事故から学び、再び同様の事態に遭遇したら自分ではどう対処するか、その考えを持ち得ないまま日々多くの乗客を乗せて乗務していることは良心に反する。いかなる事態が生じても安全に帰還できる技術を身につけるのが真のプロだ、と言っている。これは極めて重大な事である。
 文中では○事故の分析は死者の霊に鞭打つ行為か?○エンジン非対称出力調整は何故使われなかったか○機長が操縦しなかったのは何故か○何故日本語で交信しなかったのか○何故クルーは酸素マスクを用いなかったのか○低酸素症に対する知識、訓練は不十分だった○事故の教訓は何か○失敗学が生かされる現場とは○事故調査の第一目的は再発防止なのだが○すべての油圧を失っても生還できる操縦法とは○何故、垂直尾翼を徹底的に捜索しなかったのか○本当に垂直尾翼の破損から始まったのか○事故原因の真相は何か---と項目をあげて論旨を展開していく。

 この項目一つ一つも興味深いものがある。
 しかし最も興味をひかれ評価すべきはこの本を貫いている、事故の分析は死者の霊に鞭打つ行為か?、と言う命題への答えである。彼はそうではないとの視点に立つ。だから時には歯に衣着せぬ記述となる。そのことで事故の分析がかなり明晰になる。問題なのはこの様な考え方が航空界全体のものでなく一人のパイロットのものであると言うことであろう。

 しかし、われわれ医療はもっともっとひどい状況にある。従来は、例え医師の仕事ぶりに問題があって重大な結果が生じたとしても、その仕事ぶりが詳細には公開されることがなかったし、多くは闇にほおむり去られてきた。慈恵医科大学青戸病院の事故の類似症例が各地から報道されてきた。だから、今でも結局そんなに大きくは変わっていない。航空機事故は例え軽量プレーンであっても事故は確実に記録され調査される。医療関係のトラブルは一部しか出てこない。医療関連事故はあってはならないことだが、医療行為は必ず患者に大なり小なりリスクを与えるのだから一定頻度で生じることは防ぎ得ない。問題はそれを如何に検証して同じ事故を繰り返さないか、同じ事態に堕ちいったらどうすればいいのかを学ぶことである。そのためには第三者機関の設立が必須である。警察の関与はその後で良いのだ・・・・・所の本を読みながら考えてしまった。

 飛行機に、リスクマネージメントに興味のある方等にはお勧めである。


10/17(金)晴れ 臨時長副会議 秋田県医師連盟執行委員会 感染症危機管理対策委員会 郡市医師会感染症担当理事連絡協議会
1:30起床、ドック判定総括x1。紹介状2部.本日の会議の準備、資料検討。5:30病院着、回診、紹介状+主治医意見書。9:40-13:00外来補助.基本検診中心に33名ほど。13:00-13:40臨時長副会議。16;30-17:30秋田県医師連盟執行委員会、18;30-18:30感染症危機管理対策委員会、18;45-20:00郡市医師会感染症担当理事連絡協議会。県医師会打ち合わせは時間とれず.20:30帰宅21:20就眠.

機長の「失敗学」 講談社 2003/4  杉江 弘 (著)
価格: ¥1,600
東京出張時に羽田空港の行きつけの書店で購入した。飛行機事故に関する書籍は柳田邦夫氏の「マッハの恐怖」に触れて強烈な印象を受けてから彼の著作のほぼ全てを始め、多くの書籍を読んできた。飛行機事故の記録から危機管理、巨大システムの管理など学ぶことが多い。

 その点、羽田空港の書店には場所柄、飛行機に関する書籍が多く陳列されている。飛行機に乗るときには飛行機に関する本を読むのが楽しい。

 約一ヶ月ほど前の出張時にたまたまこの本が目に付いた。表紙からは解らなかったが、あの20年ほど前の日本航空のジャンボ機の御巣鷹山墜落事故に関する本である。事故の後の数年間、多くの関連図書が発行され、私もかなりの読んだが、どれも大同小異であった。この本は視点が若干違っているとことに興味を覚え購入した。
 著者の杉江 弘氏は1969年慶大学法卒。DC-8型機長を経てジャンボ機機長として現役のパイロット。飛行時間は約17000時間。首相フライトなど政府要請特別機の操縦も多いと言う。著書に「機長のの告白・生還のマニュアルー(講談社)」等がある。これも面白い作品であったが、今回の著作で彼は、機体の損傷によって悲劇的とも思われる運命を辿ったこのジャンボ機のクルー達の操縦や対策にクールにメスを加える。

   彼は十二分に検証を加える過程で彼らの過ちを指摘することは決して死者にむち打つ行為ではないと言い切る。この視点は医療に携わるわれわれにとっても極めて重要である。

(To be continued)


10/16(木)晴、 医局会 長副会議
1:30起床、家内が直前に帰って来たらしい。ドック判定x1。医師会誌投稿用文章等。5:30病院着、9:00-13:20外来。医局会に出席、よく寝た.午後淡々と業務処理。介護保険主治医意見書、紹介状、総括など.16:30-17:40長副会議。20:30帰宅、21:00就眠.

新潟大学46年卒同級会 発言集
 新潟大学46年卒同級会はもう何回開催されたのであろうか.よく解らないが20回ほども開かれたらしい。私は今回が2回目の出席、家内は5回ほどの出席。私は数年前に家内に強力に誘われて出席したのが初めてで、懐かしく、楽しい時間が過ごせた。今回は当日東京出張なのでその帰りに寄れるという気楽さもあって出席とした。家内は直接長岡に向かった。

 46年(1971)卒だからもうあれから32年にもなる。2年ほど前に一名欠けたがほぼ全員生きている珍しいクラスでもある。香典用の積み立ても遣い道がなくて○百万円もあるとのこと。次は誰か?俺か?

 30数名が出席した。一言ずつコメントを述べたが、内容的にははやはり年だね。

大学は法人化等で大変・・・・これは4人ほど、教授連から
医療事故処理でTVカメラの前で頭を下げたのが何度かあって・・・
秋田の何とか病院は年間1000例もの白内障の手術が行われている・・・
医療評価機構受審担当で困っています・・・・
家内が調子が悪くて,今から直ぐに帰って介護します。では・・・・
何で日本医師会長の選挙に会員は投票出来ないのか・・・
孫が可愛くて・・・・・これは10人以上からの意見,でれっとにやけた表情が印象的
最近目が悪くなって・・最近、物忘れが・・最近尿が近く・・最近足腰が・・・
遅まきながら昨年開業しました・・・・
講演依頼があるけど,医学的内容でなくて,歴史とか,人生観とかの希望が多くて悩んじゃう・・・・
家内もホームページを持っています・・・・
今日は、皆さんに最後のお別れを述べに出席しました・・・
ペンネーム○○でいろいろ書いてましたが、最近時間がとれなくて・・
最近、女医診療日記を書いてます・・・
最近、眼科医会の方の仕事が回ってきて、医師会活動にもやっと興味が沸いて・・・
旧姓○○です。皆さん覚えていらっしゃいますでしょうか・・・
同級の眼科の○○君がつい先日当教室で研究しめでたく博士号を取得しました・・
研修医の誰よりも長く病院に居て業務をやっています・・・
来年は皆様方を名古屋にご招待申し上げたい・・・で,来年の開催地が決まった
中通りにも整形関係で手術に行ったことあるよ・・・あっ,そう!!有り難う・・

などなど・・・まだまだ続いたがこの辺で。
 同じような年齢の同級生が集まると私も年を感じてしまうが,肩の荷をおろして自由にしゃべれるのがとても良い。なにしろ30数年前の話と今の話で盛り上がり,その間の事は互いに勝手に類推しながら話するものだから適当にずれるし,明日からはまたバラバラだから気楽なものだ。私にとっては情報収集の意味もあって実に楽しかった。


10/15(水)雨・晴 秋田県試験研究開発評価委員会 モニター会議 患者家族との懇談
1:10起床。本日は予定がびっしりで早めに起床。ドック判定総括x1.総括・紹介状用意。家内は帰宅せず。健康面で大丈夫かな?? 5:20病院着.6:30-7:20入院患者家族と面会、相談を受ける。回診他、8:40-12:20外来を早めに開始、早めに終了。13:00-15:00秋田県試験研究開発評価委員会で県衛生科学研究所の研究演題二件について聴講、評価す。15:00-17:00県医師会第2回モニター会議,17:20-20:00会長と共に患者家族と懇談,長丁場であったがそれなりの価値はあっただろう。21:00帰宅、夕食21:30就寝。

工事現場の交通整理、旗振りにロボット
 先週は2度上京したが、秋田道から空港までの間の一般道路で拡張工事が行われていた。旗を振って道路が狭くなるのを注意喚起している人と、もう一人が通行を整理し一車線になった道路で交互に車を通しているのが遠くから認識出来た。減速しながら近づく間もずっと見続けていたのだが何ら違和感を感じなかった。ところがすぐ側まで行って見ると何と旗振りと交通整理していたのはガードマン調の制服を着た様にみえる仕様のロボットであった。
 最近のロボット研究は随分進歩し、ホンダ、ソニー、三菱など、人間型のヒューマノイドと言われる作品に素晴らしい成果を挙げている。その日見たのは勿論そんな先端技術を駆使したものではない。どちらかと言えば案山子に近い。しかし、遠方からは本当に人間が作業しているように感じたのだから、それなりにすごい。

 最近の道路工事現場では必ず交通整理がなされている。恐らく安全管理上何らかの決まりがあるのであろう。多くは人間によって成されているし、その多くは警備会社への委託とか学生、フリーターの方々のバイトで行われている様である。そのような副業の場所、機会も自動化、機械化され、徐々に狭くなって行くようである。これは経済性、効率性を考えると止むを得ないことなのかもしれないが、日本では各種の自動販売機が発達し、企業の従業者、労働の現場からがどんどん人間が減っている。

 3年前のヨーロッパの旅行の間で感じたことの一つが自動販売機がないことであった。水一本購入するにも店員さんから購入しなければならなかった。しかも、各商店は小さいし、屋台で出店を出している人も多い。しかし、何か暖かいものを感じたし、地域の人達によって街が支えられていると言う実感を感じることが出来た。わが国の街は機能的すぎるし、賑わっていてもなんか寂しい。諸外国が良いとは言うつもりはないが、ハローワークなどは職を求める人達であふれている一方、高校生の求人求職係数が0.3と働き口が乏しいなど、なんか矛盾を感じてしまう。それとも地道な作業に従事する希望者が見つからないためのロボット化対策なのであろうか。


10/14(火)曇り 管理会議 秋田県感染症サーベイランス評価委員会 医師会打ち合わせ 長副会議(中止) 医局カンファ
1:30起床,ドック判定総括x1. 書類処理、5:20病院着.6:30回診他、8:00管理会議。9:00-13:50外来、14:00-15:00秋田県感染症サーベイランス評価委員会,15:00-15:40医師会打ち合わせ,16:30予定の長副会議は中止。医局カンファ(欠).紹介状、総括など処理。20:30帰宅、Vn、 21;00就寝。

階段は最後の段が危ない。長岡駅で激しく、無様に転倒。
 10/12の日医代議員会終了後、大学の同級会出席のため東京から長岡に到着した.しかし開場への案内書を忘れてきたために何処に行けばいいのか解らない。先に着いているはずの家内の携帯に電話、二度目に繋がる。この間二階からの階段を下りつつあったが最後の段を踏み外して前向きに激しく転倒した。一瞬、随分、地球の引力って大きいモンだ、骨折??、頭部強打??これは大事になる!!!・・との感覚が頭をよぎった。

 背にリュック、左手にパソコン、右手に電話を持っていたがどのようにしたのか解らないが右膝、両腕を支えにして何とか耐えたらしい。メガネは数メートル先に、パソコンも側に飛んでいた。周囲に数人いたが、若い女性が近寄って声をかけてくれ、メガネを拾ってくれた。礼を言いつつそろりと立ち上がってみたが、特に激しく痛む箇所もない。腕も指も、一見何処も何ともなかった。が、右手に若干血が付着していた。歩行も何も全く障害がなかった。

 メガネは右レンズ表面に傷が付きフレームも曲がったが何とか使用可能。気になったのはパソコンである。外見は大丈夫だがスリープ状態のインジケーターランプが消えている。タクシーの中でそっとパソコンを再起動させてみたが・・・反応なし。クラッシュらしい!!。気に入った機種だったのに残念、と半ば諦め気分に・・・。開場で友人の一人から右のこめかみ付近に出血していることを知らされた。既に止血されていたがメガネのフレームの角が床に当たり、それでこめかみ付近に傷が付いたのであろう。

 パソコンは深夜いろいろ試みている内に何とか再起動に成功、データも失われずに済んだ。人間で言えば脳しんとう程度であったらしい。衝撃吸収パットの入ったケースが良かったのだろう。結局は私の小傷2箇所ほどとメガネレンズの傷のみで済んだことになり、幸運を喜んだ。

 基本的に私の不注意だが大事に至らず全て良かった。もし、同級会の案内書を忘れずに持ってきていれば、もし、家内が一度目の電話に出ていれば、もし、足下がぼける遠近両用のメガネをかけていなかったなら、この転倒はなかったとは思うが、そんな過ぎたことを考えるより今後注意をする方が大事だろうと割り切る。
 同じような、階段の最後の段を踏み外しての転倒は2年ほど前秋田の総合保険センター2階で一度経験しているが、この時も何ともなかったが、反省が足りなかったようである。反省反省。


10/13(月)体育の日 新潟秋田共に雨  FF tennis(中止)
4:30ホテル日航新潟で起床、人間ドック判定総括x1。書類処理、7:30朝食,8:30いなほ1号にて帰秋,0:30病院にて業務。メインのマック不調でサブにて進める。近々OS入れ替えか??どうせ入れ替えるのなら今度はOS9.2にしてみよう。18:00帰宅。業務
継続、Vnなど、20;30就寝。

ホテル日航新潟 西日本一のっぽのビル,新潟に出現
 ホテル日航新潟は本年5月2日開業したホテルで 、河川の長さが日本一の「信濃川」の川縁に立つ。日本海側随一の高さだという。確かに高層ビルの少ない新潟ではよく目立つ。22階〜29階の客室フロア。下の階は何になっているのか?時間的に余裕なく知ることは出来なかった。壁面ほぼ全体が厚手のガラスで、ワイドビューの窓からは眼下には信濃川と万代島の美しい風景、遠方には遥かに臨む北アルプス連峰の山々、日本海・佐渡島、等々新潟の美しい風景が広がる。今朝は雲が低くたれ込め雨も降っているので、晴天の日や如何に・・・と思わせる景観である。建物、客室内のインテリアはステンレス、鏡、ガラスを巧みに調和させた近代的イメージ。備品で最も目をひいたのは最新のIT機能を有したワイド液晶のTV機能付きのコンピューター、これなら自分のを持ち運ばなくて良い。(ただしマックではないので私にはちょっと駄目だが。)

 いろいろ考えさせられるものがあった。新潟と言えばあの地震、どうしても当時の町の状況を考えてしまう。緩い地盤と液状化現象。なのにこの様な高層の建物を建てたと言うことは、それだけ近代建築の技術が進歩したということの現れであろう。建物の形の上からはあの世界貿易センタービルを連想し、9/11同時テロのあの惨事を思いだしてしまう。それにこの不景気。どんどん既存のホテルが経営困難に陥っているというのに、今時こんな新しいホテルを建築して大丈夫なのか??と言う疑問が湧く。信濃川河口付近の再開発のプロジェクトという背景はあるらしいが、秋田をはじめ地方はとても厳しい状況にあるのだが、東京をはじめとして都会にでていくと本当に日本は経済的に落ち込んでいるのかと疑問になる。日本の不思議の一つでもある。


10/12(日)小雨のち曇り 日本医師会代議員会 新潟46同級会(長岡市かも別館)   
2;30浅草ビューホテルで起床.ドック判定総括x1,医報用原稿書き。講演準備他、種々.7:00朝食、9:30-16:00日医代議員会。坪井会長は正式に来期の出馬はしないことを表明した。質疑も比較的スムースに進んだ。私の質問は20番目と最期であった。今回の代議員会は久々に時間内で終了した。16:40新幹線にて長岡に。18:00長岡着。駅の階段で一段踏み外して転倒した。スリープ状態のPB2400衝撃のために 起動せず。18;30同級会に出席、家内と合流し同級生達と旧交を温める。二次会を経て23:00新潟に移動、ホテル日航新潟に泊。PB2400 何とか起動に成功。初期設定がキャンセルされていたが全てリカバリーした。ホッとして0:30就寝。 

自伝 大学時代(1965〜71)(13)
 祖母の死は丁度医進過程の前期試験の約一週前のことである。試験の前に集中的に頑張ろうと予定していただけに大幅に狂ってしまった。前日に新潟に戻り、全科目一夜漬け、半ば諦め気分で試験に臨んだ。やはり、十分には対応できなかったが、結果は何故か全科目通過していた。高校ならば半分以上の科目は赤点レベルであっただろうが、大学の採点とか判定はどうなっているんだ??と思う一方、幸運に喜んだものである。恐らく授業に出ているのが最も効率の高い方法だと考えて地道に出席していたのが結果的に良かったのだろうと思う。多分、10 x ルートX??ほどの下駄を履かせてくれたのではなかろうか。この式でやると36点を取れば60点になる。この換算式は何処で知ったか忘れたが、後に看護学校の試験の時に役に立った。
 同様に後期試験も無事通過して1年終了時には選択科目は全科目単位を取れた。結果的に再試験を受けずに通過出来たとはいえ、実質的には数学、物理などはよく解らず、ドイツ語、英語などと共に最後は破れかぶれ、何とかなるさ、と半ば開き直って受けた。当時のことは今でも時折夢を見る。それほど私にとっては負担だったと言うことだろう。


10/11(土)秋田・東京超快晴 SARS対策緊急セミナー(千代田区公会堂)東北医連打合会(グランドパレス)
2:00起床、ドック判定総括x 1,その他、出張時申し送り準備。4:30病院着、事務処理、5:30病棟回診他、入院患者は大部分熟睡中。6:40病院発駅東口よりリムジンで空港へ。7;50ANAにて東京。殆ど揺れず快適。10;30-17;35SARS対策緊急セミナー香港・トロントの現地に学ぶ、へ出席。なかなか良い会であった。18;30-20;00ホテル・グランドパレスにて東北医連打合会。22;30浅草ビューホテルに移動、若干酔ってて直ぐに就寝した。

生きた話の聞けたSARS対策緊急セミナー
 今週は私は明けても暮れてもSARS、SARSであった。秋田市医師会報用の原稿に着手し、秋田市保健所、大曲市医師会からのSARS関連の講演依頼への対応、水曜日は日医で、木曜日は仙台で東北厚生局主催の危機管理の会合に出て、そして今日である。明日はまた日医代議員会で個人質問として日医の危機管理を話題にする。

 今春から数えるとこの種の会合に出たのは何回目だろうか。それらの講演会、協議会、セミナーの中で本日のが一番聞き応えがあり、役に立ったと言える。いつもはその道の専門家とは言えせいぜい見学程度の経験をもとにした一般論的講演であったが、本日のは香港、トロントで実際に診療にあたった医師、看護師が登場し、従来感じていた擦靴掻痒感的不満足感がぐっと軽減した。

 本日の会の主催は朝日新聞であり、最期のパネルディスカッションの司会は本社の論説委員の田辺 功氏。朝日新聞は医療関係者、特に医師、医師会に対して最も厳しい評論を書く新聞であり、私も時には不快な気分にもなる事も少なくないが、本日の司会者の意見等を聞く限り、それなり以上に勉強しており手強い相手なのだと認めざるを得ないと感じた。

 講師の「許 樹昌」氏は香港中文大学医学部副教授で見事な英語での講演、流行期間には自らすべてを投げ打って100%対SARS対策に時間を使ったとのこと。今冬流行が再度生じるかについては50%の確立だろうと予測した。「Ms Carolyn Farquharson」氏はトロント マウントサイナイ病院ナースクリニシャン、予定されていた同病院副院長が病気で来日できなくなったために急遽来日したもの、にもかかわらず見事な講演であった。略歴を見ると二つの大学で病態生理学、救急看護についての講義を受け持っている。患者のもとに行くのを怖がる若い看護師に自ら率先して看護の範を示した、とのことである。
 両氏の講演は通訳付きであったためにもどかしさはあったが、通訳がなければ私にとってはもっとひどいことになったであろう。
 日本の医師としては国立国際医療センター川名氏で、講演内容は何度か聞いているのとほぼ同じ。今日は休憩時間に横の席におじゃましてじっくりとお話をうかがったが、秋田県で追求している危機管理の方向性は誤っていないのだという確信を得る事ができた。


10/10(金)晴れ 法人理事会
1:50起床、寝不足感あり。ドック判定総括x1.市基本検診のまとめ7名分.ドックにしろ基本検診にしろ,貴重な早朝の時間をこんなので費やされるのは実に惜しいが、通常時間帯では到底処理出来ないのでやむなし。5:30病院着、6:30回診他。9:30-13:00市の基本検診中心に再来。13:30ドック結果説明x1.14:00事務長と、15:00病棟師長と、16:00県医師会の打ち合わせと続く。17:30-18:30法人理事会。入院患者不調で回診、対応他。21:00帰宅、21:30就寝。

剖検について(3)
 最近は病理の剖検に対する位置づけが変化してきている。
 第一に、
病理学の学問体系がより実験的要素を帯びてきていることで、医学教育の中で病理解剖の意義が十分説かれていないのではないかと思われるふしがある。
 第二に、一般病院の病理部門は臨床病理が中心ではあるが、日常的には手術材料、診断的摘出臓器の診断が中心で、病理解剖は脇役中の脇役的なものとなり関係者の熱意もそれほどとは感じられない。せっかく解剖させていただいても肉眼的観察の範囲での説明だけで、このレベルの判断は画像診断の結果を中心に推定出来た範囲である。
    第三に、剖検例の検討会がもたれるのは剖検後1-2カ月、時には数ヶ月後である。もう臨床側も多忙な日常診療の中で過去の例への興味が失せているいる時期で、単なる事後報告に終わるにすぎない。まして、剖検の意義を理解していただき承諾してくださったご遺族に対して剖検の詳細について担当医から改めて説明が行われると言う様な機会はほとんどない、と私の知る限りでは思う。

 この様な状況の中、臨床医の剖検に対する熱意が薄れていっていることは否めないし、そう非難出来るものでもない。従って全国的に剖検が少なくなっていく傾向はやむを得ないだろう。更に、最近の死亡例は高齢者が多いために臨床医の熱意がより乏しくなっている。この変化は、実は私自身にもある。かつてはあれほど剖検に熱意があったのに何処に行ってしまったのかと自問している。

 一方、剖検率は厚労省の臨床研修指定病院の資格要件の一つとなっているために一定以上の剖検率は必要になる。要件として満たすべき剖検率自体も下げられてきているが、私どもの病院でもここ1-2年それにさえも達しないほど低率になってきている。そのために剖検率を上げる必要がでてきているが、その目的のためだけの剖検では余りにも悲しい。

 剖検の協力は単純に、機械的に剖検率を上げるために申し出るのではなく、本来であれば、生前の治療、臨床的な問題点、医療の将来のために剖検の必要性が本当にあるのかをよく検証し、悲しみにくれる遺族に対し十分な配慮をもって説明がなされるべきであるのだが・・・。


10/9(木)秋田・仙台とも超快晴、第4回東北ブロック感染症危機管理会議
2:00起床。ドック判定総括x1。紹介状への返事、4:30家内やっと帰宅した。健康管理は大丈夫かね。5:30病院着、6:30回診他。8:10ドック診察x4。9:40病院発。10:07こまちにて仙台に。13:00-17:20第4回東北ブロック感染症危機管理会議。仙台第二庁舎会議室にて。17:38こまちにて帰秋、20:00--21:00病院にて業務。21:30帰宅.22:00就寝。

第4回東北ブロック感染症危機管理会議  私の意見は「けんもほろろ」であった
 本日は東北厚生局主催で第4回東北ブロック感染症危機管理会議が開催された。言うまでもなく今週から今冬にかけてのSARS対策中心。

 演題は(1)感染症法案の見直しについて(2)SARSへの準備は十分か(3)外来における対応(4)院内感染対策(5)地方自治体の役割(6)関東での合同訓練に参加して(7)感染症とメディア対策。(4)は東北大学乾癬管理室講師、(7)は読売新聞東京本社論説委員が講師を務めたが、他は厚生省関係者が中心。外来診療のあり方等についての演題では従来よりはより具体的に述べられた、と言えよう。日医とかの協議会に比較すれば、より具体的な内容であったと思うが、それでも擦靴掻痒的なもので、実際には各医療機関の苦悩の解決には殆ど役に立つとは言えない内容であった?BR>  それにしても何で一般医療機関側がもっと意見を述べないのか、苦悩を表現しないのか、不思議である。・・・だから駄目なんだと思う。
 
 いつもの如く、私は「疑い例」や「可能性例」は総合病院の中ではなく一カ所に集中させるべきとの意見を述べたが、厚労省にはそのような考えは全くないような「けんもほろろ」的答弁でガックリした。結局厚労省の考え方は危機管理になっていない、医療機関の苦悩を全く理解していない、と思う。今後も主張し続けなければならない。次は今週日曜の日医代議員会で意見を述べる。

 ところで、「けんもほろろ」と言う慣用句は読売新聞によると、16-19歳の80%が意味が分からなかったそうだ。2002/6文化庁が発表したデータらしい。人の頼みや相談を冷たくはねつける様子を言うが、「けん」「ほろろ」共にキジの鳴き声を評したものという。今日の東北ブロック感染症危機管理会議では私の意見はそのように扱われたが、そのお陰で一つ日本語を勉強したね。確かにキジに頼み事しても通用しないのは当然だ。厚労省役人はキジ程度かな、キジルシかな??。


10/8(水)秋田快晴 東京曇 県医師会常任理事会(欠)日医感染症危機管理担当理事連絡協議会  
2:30起床。ドック判定総括x1、他。家内4:00帰宅。5:30病院着.回診等。回診中に二つの病棟で患者さんの急変あり一部対応。受け持ち患者さんも不調数名。8:55病院発、高速にて空港、10:00JAS Airbus A300-600。13:00-16:00日医感染症危機管理担当理事連絡協議会。SARS中心であったが今春の状況と大きく進展していないことが解った。18:05JAS MD-90。20:10帰宅、夕食、21:00就寝

剖検について(2)
 宮古病院での剖検を通じ、また、血液像、骨髄像の独習を通じて私自身は血液方面の臨床に興味が深まっていったし、院内でも評価されて血液疾患を担当することになる。その中、2年目の夏に経験した、治療困難な「細網症」とおもわれる25歳男性の患者さんを受け持った時に、その理解しがたい病態を文献的に検索し、当時秋田大学第一内科柴田助教授に電話で相談した。それが縁で秋大で血液学を学ぶことに繋がった。患者さんは亡くなったが剖検させていただき、その病態は秋大病理で検索していただいた。私の道を決めたのも病理への未練と剖検であったと思う。

 秋大ではお亡くなりになった患者さん全員に剖検の協力をお願いした。ご家族の理解を得て、多くの患者さんに剖検をさせていただいた。が、徐々に協力いただけない場合が増えてきたように思う。画像診断が微に入り細に入り行われる時代となり、生前にかなり多くの情報が得られる様になってきたこと、患者の権利意識の高揚、医師-患者関係の変化等が関連していると思う。
 従来は、大病院にありがちな高圧的な剖検の申し出にたいし一部の家族は十分考える余裕もなく、断る勇気もなく承諾してきたのが現状ではないだろうか。
 患者の家族は、苦しむ患者とともに何ヶ月も病床をともにし、精神的にも肉体的に疲れ、経済的にも破綻した家族もある。患者の死を前に、まださめやらぬ悲しみとともに、出来れば一時も早く、ぬくもりのある自宅に連れて帰ってやりたい、まだわかずな温かさの残る体に触れ、もうこれ以上告しませたり、傷つけたりしたくない・・これは自然の感覚であろう。だから「剖検のとれない医者は無能な臨床医である」といった考えはについては時代考証と共に検証してみる必要がある。


10/7(火)快晴 医局会、中通総合病院倫理委員会  
1:30起床。ドック判定総括x1、他いつもと同じパターン。5:30病院着.回診等。7:30入院患者家族と面会、今後の対応について。9:00-14:00外来+ドック説明x2。入院患者不調で対応.17:30-18:45医局会、中座.18:15-20:30中通総合病院倫理委員会(ルピナス),協議件数6件で長時間にわたった。21:00帰宅。21:50就寝。

剖検について(1)
 学生の時に教えを受けた病理学第一のK教授の学問に対する真摯な姿勢、剖検時の姿、臨床i医師団側との間で交わされた厳しい応酬、やり取り等から、私は病理の剖検に対して一種の特別な感慨を持っていた。卒業時にはこの教授から入局のお誘いを協力に戴き感激したが、既に臨床医としての道を決めていたので後ろ髪を引かれる思いでお断りした。

 当時は医療機関や医師の剖検率があたかも各病院、医師の能力の大きな指標の如くに扱われていた。「剖検をとれる医師は、生前患者のため誠意を尽くした良い臨床医である」とよく言われたものである。全てそのようには割り切れていたわけではなかったが、私もそれに近い気持でいたと記憶する。剖検に関連する話題がでるたびに今でもあの教授の面影が思い出される。

 大学卒業後2年間、岩手県立宮古病院に勤務したが、その間自分で担当した患者さんが死亡した際にはご家族に積極的に剖検を申し入れた。結果的には2年間で約30人の方の剖検をさせていただいた。剖検は上司が資格を有していたので面倒な手続きなく出来たが、実際には剖検は主治医である私と病棟の看護婦1-2名で行った。死亡するまでの間、何日も寝不足状態で過ごし、死亡されてから更に数時間剖検に時間を費やし、剖検室の後かたづけ迄やるのは実に辛いことであった。更に、時間的に調整がつくときには同僚医師が担当した患者の剖検も一部やらせていただいた。

 この経験を通じて多くのことを学んだ。当時は超音波診断、CTなどもまだ研究段階で実用化されていなかったために患者さんの病態を生前に詳細に知ることは困難な時代であったから剖検させていただくたびに新しい発見があり、自分の診断が正しくてホッとしたり、全く別方向で愕然としたりしたものである。
 この2年間の症例の報告書をまとめ上げ、昭和48年に厚生省に病理解剖の資格を申請して認可された。この2年間の剖検への取り組み、私の小さな足跡の一つであるが、今でも満足している。


10/6(月)朝雨 晴れ 管理会議 長副会議 県医師会委員会
1:30起床。ドック判定総括x1、総括、紹介状、その他。5:20小雨の中バイクで病院着。この季節この時間帯のバイク出勤は寒くて結構厳しい。事務処理,回診.8:00管理会議.9:00-13:30外来 。13:30ドック説明、16:30-18:00長副会議,18:30-20:20県医師会委員会.20:40帰宅、21:10就寝。

坪井日本医師会長、商業雑誌に今期限りと引退と表明。ナンと無責任な!! 
 今朝届いたメディファックスの第一面を見て目を疑った.坪井日医会長が今月発売のある商業誌の中に今期限りで引退を表明した、とある。全会員が恐らく来期の坪井体制はあり得ないとの認識は持っており、引退自体は自明の理と思われていたから、彼は気楽な立場で述べたのだろうが、極めて無責任な行為だと言わざるを得ない。就任当初の斬新さ、実行力、判断力はすっかり影を潜めてしまった。私は今、医療関係者対策委員会の報告書作成のために日夜呻吟しているが、やる気が失せてしまった。
 
 第一に、彼は代議員会で選挙で選ばれ、信任されてきた。従って、代議員会の場が最も相応しい意志表明の場であり、その代議員会は年2回で、代議員会がまだ数ヶ月後とのことでもあればナンだが、来週日曜日に予定されているのだ。それが、商業誌の中で引退を表明するなんて愚挙だ。
 第二に会長のポストは個人的な判断だけでは左右されては困るのだ。日医には国民の医療を守り、会員の立場を守る使命がある。強い姿勢で厚労省、政府に対峙しなければならない。任期を半年も残した今、診療報酬改訂への交渉その他の難題への取り組み姿勢、相手方の対応の姿勢に影響がでるのは避けられない。その責任をどうとるのか。責任放棄だ。
 第三に、引退したいなら今すぐすべきである。既に彼への期待感は薄くなっていたが、引退を表明した会長などに何も期待は出来ない。この残りの任期、半年の持つ意義は決して小さくはない。早急に引退し、日医は副会長の下で業務処理を進め、定款に従って選挙にを行い新体制をくみ上げるべきである。

 不用意に引退宣言等をしないこと、引退を決意し表明した時が最善の引退の時期なのだ、・・・これはそれなりの責任の立場にあるヒトにとって常識のはずでなかったのか!私はそう思ってきた。引退の時期までは残務処理にいそしむ・・等というのは無責任の上塗り以外の何物でもない。今すぐ止めて欲しい。日医は一定の混乱に陥るかもしれないが改革の良い機会にもなるはずだ。


10/5(日)曇り FF tennis  
2:00リハビリ当直室にて起床、ドック判定総括x1. 医師会関連作文、新聞スクラップや資料作成ほか種々。検食後8:30病院に。回診その他。11:00帰宅。家内もほぼ同時に帰宅、昨夜帰らなかったらしい。Vn、13:00-17:00FF tennis 6-4、6-2,5-7,6-2、右大腿屈側痛発症。業務若干、21:00就寝

自伝 大学時代(1965〜71)(12)
祖母キヌ、享年79歳死去
 私の祖母キヌは、私の父である長男の耕栄、兄の正明が医業を継がなかったことを常々気にしており、私がその道に進むことを常日頃から強く希望していた。「おまえが医者になるのを見るまでは死なれない・・」と時折話していた。そのため医学部に進学が決まったときには大喜びしてくれた。

 大学一年の夏休みはクラブの合宿の時期以外は自宅に戻り家の周りとかのメインテナンス、両親への手伝い、運転免許取得などで過ごしたが、祖母の様子には特に衰弱したような印象は受けなかった、8月下旬に新潟に戻ったが9月中旬頃、キヌが発熱等あり、盛岡の三女の家---夫が開業医---で療養しているとの連絡があり、更に10日ほど後には経過が思わしくなく、岩手医大内科に入院したこと、更に数日後には危篤状態に陥ったとの連絡が入り急ぎ帰郷した。高熱がありながら見舞客に細やかに心遣いするなど気丈な一面は最後まで持ち続けていたが、最後は昏睡状態に陥り9月27日早朝死去した。今から見ると尿路感染、菌交代現象のための真菌の感染症ではなかったかと推察する。

 造り酒屋「月の輪酒造」の娘として育ち、厳格であった祖父耕陽のもとに嫁ぎ、娘3人、息子6人の子供を育てあげた。私が幼少の頃は住み込みの看護婦さんとか、お手伝いさんとかで10数人が生活を共にしていたが、キヌは見事に全員を取り仕切っていた様に思う。祖父が死去した後、約10年我が家の環境は大きく変化したが、晩年まで財布のひもを握り、多くのことについて采配し続けた。しかし、長男の嫁である母ハナとの間では、厳しい嫁姑の関係を見せつけられたし、既に定年退職していた父耕栄すらもキヌの前では言いたいことを言えなかった様に記憶している。

 明治生まれの厳格・気丈な祖母キヌ、「おまえが医者になるのを見るまでは死なれない・・」と常々話していた通り、私が医学部に進学した年の初秋に死去した。多少なりとも安堵の気持を持って、少しは満足して逝ってくれただろうと思う。


10/4(土)快晴 病棟拘束 リハビリ当直
2:00起床、ドック判定総括x1、医療評価受審関連他.5:30病院着。6;30入院患者家族と面会、病状説明.回診他。8:10ドック診察x4、9:00ドック説明 x3。10:30-12:30外来。最近Zip不調なのでZipに蓄積の種々データ
の大多数をCD-ROM化した。16:50リハビリ病院当直に 。業務若干、新聞チェック。20:00就寝。

小泉第二次内閣 安倍晋三氏幹事長抜擢と坂口氏留任
 自民党総裁に再選された小泉首相は党3役人事で幹事長に安倍官房副長官を決めた。幹事長に抜擢された安倍氏は北朝鮮での拉致問題などで国民の中での人気が高い方である。自民党内でも当選回数重視による年功序列が大きく崩れることになる。安倍氏は49歳で、田中角栄、小沢一郎に次ぐ若さで歴代幹事長36人中3番目、当選3回は岸氏と同じ、閣僚未経験者は福田赳夫以来。 祖父の岸信介、父の安倍晋太郎に続く三代続いての就任となる。彼の持つキャリアを点数化し評価すれば異例の抜擢であることは明らか。従って、10月解散11月総選挙を強く意識し、若さと人気で国民の注目を集めるための小泉氏特有の目玉人事である事は明らか。確かに山崎前幹事長の雰囲気はTV映りも悪いし、その点では絶対的に優位である。本当はこんな因子で政治が語られてはならないのだ。しかし、現代の政治は真の能力と言うより一般大衆の人気投票で決まると言っていい。本来政治とはそんなものなのだ。国民の多くはTVから情報を得ているから、もしかして自民党大勝もあり得る事になる。彼の実力は未知数とはいえ、もしこの選挙で自民党が大勝すれば、血筋の良さと相まって彼の党内における立場は一気に特別なものになろう。当選回数によって年功序列的な党内の人事は一新する可能性がある。

 
坂口厚労大臣留任も留任した。これは朗報である。今までの厚生大臣は短期で変えられていたし変えられても厚生行政には何ら影響を与えないようなポストであった。今回は業績を買われての留任と見たい。彼は三重県立大医学部卒、昭和44年三重県赤十字血液センター所長、47年12月衆議院議員当選以来のキャリアを有する。12年12月以降厚生大臣、厚労大臣。年金改革、医療改革が最も大きな課題であることは明らかだが雇用対策なと懸案事項は数多い。公明党からの閣僚と言うこともあって小泉改革に物申すことのできる数少ない人材だと思う。彼の留任は歓迎したい。


10/3(金)曇り→快晴 医師会打ち合わせ 秋大泌尿器科羽渕教授就任祝賀会
2:00起床、まだ風邪気味。ドック判定総括x1、ドック再検査返事x1等.5:40病院着。回診.9:00ドック説明x1、9:00-13:00外来. 秋田市の基本検診にて混雑。16:00-16:30医師会打ち合わせ。18:30-20:30秋大泌尿器科羽渕教授就任祝賀会,院長の代理で出席.盛大であった。20:50帰宅。Vn、21:30就寝。

 ビルはなぜ建っているかなぜ壊れるか−現代人のための建築構造入門    文春新書
望月 重 (著)
価格: ¥700
出張の時の移動時間は私にとっては貴重な情報収集、すなわち本を読む時間である。そのために移動時間は長い方がいい.かつては佐賀で行われた小児血液学会にあえて往復JRを利用したこともある。片道24時間ほどで、10数冊ほど読めて満足したが、座席と寝台だけの狭い空間で腰に来た。で、その後はあまり無理をしないことにした。

 先週の仙台出張時にも駅の書店で数冊仕入れたがその中の一冊がこれである。書名ですぐに目に入ってきた。何で建築学の本などに目が??、とおもうが、多分、私の潜在的な恐怖心がそうさせたのだろうと思う。高所、閉所、高速・・・全部、実は恐い。巨大な建物の中にいるときも恐い感覚がぬぐえない.

 日々当たり前にその中で暮し、働いているビルについて、私は建っている仕組み、構造について殆んど知らない。別に知らなくても良いのだろうが,恐怖感が根底にあるためにそうは言って居られない。巨大な会議場、ホテル、高層ビル・・・、人間の英知の集合で安全対策も十分、特に日本の建造物の安全性については折り紙付きとも言われているが、私には信用出来ないのだ。

 本は、第1章:建物を「骨」まで知ろう、第2章:建物、それは重さとの戦い、第3章:構造材料さまざま、、第4章:なんでだろう?部材の力学……と続く。実に解りやすい親切な記述である。建造物はデザインへの配慮はさることながら,自重,風,地震,積雪等の多くの因子について検討が重ねられ,特に大きな地震のあとには建築基準が厳しくなってきている歴史もよく解った。

 特に驚いたのは,巨大な建造物の場合,飛行機突入も想定しているとのことについての記述である。事実,あのエンパイア・ステート・ビルにも1945年7月に,B-25爆撃機が激突し,ビルを貫通したと言う。
 ワールド・トレード・センター(WTC)に飛行機が衝突する可能性について、構造設計者も当然予想し、設計に考慮していたとされる。ただ,予想した飛行機は当時の花形旅客機のボーイング707で、その重量に119トン、時速290kmと着陸時の迷走時の事故を想定していたとのこと。2001年9月11日、午前8時48分北棟の96階から103階の間に、続いて午前9時6分、南棟の87階と93階の間に、それぞれボーイング767旅客機が激突した事は記憶からは消えることはないだろう。各種のデータから衝突した767の運動エネルギーは想定値の8-9倍はあったと推定されるが,それでもWTCは崩壊しなかったからその強度はすごいと言えるだろう。約1時間ご崩壊したが,その間約2万5,000人は安全に退去でき、結果的には2,800人の尊い人命が失われた。しかし,この崩壊は外力そのものではなく,飛行機に満載されていた燃料による火災が原因の熱崩壊と見なされている。

 この本を読んで,多少は私の恐怖感は薄らいだと感じる。「ビルはなぜ建っているか、なぜ壊れるか」と言った当たり前のことに疑問や興味を感じている方にはお薦めの一冊である。
 


10/2(木)曇り→雨 
2:00起床、ドック判定総括x1、紹介状・返事x1等.3:00頃から体調不調で1時間ほど坐位のまま微睡む。微熱もありそう。風邪気味と寝不足なのだろう,やや改善。5:20病院着。回診ほか.9:00-14:00外来. 超混雑。午後は事務的処理,書類の山処理に費やす。新入院あり,回診.20:30帰宅。21:10就寝。

日医会副会長が慈恵医大青戸病院の事故で会見「憤懣やるかたない」と述べた
 仙台で開催された日医と東北医連との懇談会で 東京慈恵会医大青戸病院の死亡事故について私は日医の見解を発表しないのはおかしいと述べ,答弁の中で坪井会長が私への怒りをあらわにしたが,結果的に9/30に糸氏副会長は記者会見し、見解を述べた。
 日医のあり方として一歩の前進であるが,素直に方向性を示せば良いものを,くだらない回り道をしたものだと思う。この程度の見解はいつでも出せる様に通常から危機管理対策をしておかなければならないのだ。

 以下は日医ファックスニュースに掲載された全文である。                                  
  腹腔鏡手術で前立腺がんの摘出手術を受けた男性患者が死亡した、東京慈恵会医大附属青戸病院(東京都葛飾区)の医療事故について、日本医師会の糸氏英吉副会長は9月30日会見し、「この医師達は人の命に対する責任感をどう考えているのか。助けを呼ぶとか、指導を求めるとか、何らかの命をとどめる方法を取らなかったのかと考えると憤懣やる方ない」と話した。
 
 報道によると、男性患者の手術を行った3人の医師のうち1人は、腹腔手術に助手として2度立ち会っただけ、残り2人は全く経験がなかったという。手術中にマニュアルを見たり、立ち合わせた業者に器具の使い方の説明を受けたりしていたこともわかっており、止血や輸血の対応が不十分であったため男性患者は出血多量による低酸素状態に陥り、1か月後に死亡した。3人の医師は業務上過失致死容疑で逮捕されている。
 
 糸氏副会長は、「この医師達の教育、医師の倫理の教育はなんだったのか、病院のシステムの問題はどうなっていたのか次々疑問が沸いてくる」とし、近く同病院の落合和彦院長に会って、詳しい事情を聞くことを明らかにした。
 
 「日医として医師自らの手で医療の安全を作っていこうと講習会や研究会をやろうとしている、また医師の倫理規定を作成している矢先に起こった。無念かつ残念だ」とも述べ、「2度とこうしたことが起きないように日医として何ができるのか。関係者の意見を聞いたうえで進むべき方向を改めて考えていかなければならない」とした


10/1(水)曇り→夜間雨 療養病棟診療部会 
2:30起床。ドック判定総括x1、他。5:30病院着.回診等。9:00-13:30外来。ドック結果説明x1、午後は大きな予定なく、患者家族との面会説明、書類処理など。とにかく最近は書類が多い。本来の業務が出来ない。何とかならないか。秋田市医師会よりSARS講演依頼。20:35帰宅。21:00就寝。

上医,中医,下医。上工,中工,下工とは。ついでに藪医者も
 県医師会の会長は座談等でよく「上医は,中医は,下医は・・・」と言う言葉を用いながら医師の有り様について,また自らの医師会活動の有り様について話すことがある。なかなか良い喩えで,私も講演等の時に引用させてもらっている。

 本日,たまたま古い文献をあさっていたらこれについての記載が見つかった。出典は唐代(618年-907年)の『備急千金要方』。その中に「上医は国を直し,中医は人を直し,下医は病を直す。」と記載があるとのことで、医師が直すべき対象が国・人・病だという様に記されていると言う。すなわち,医師は病人を診ているだけでは不十分であり,社会,生活環境,生活様式から直していかなければならないと,説いているのである。心すべきである。

 古典医学書の『黄帝内経素問』にも医師について次のような記載があるとも書かれていた。すなわち,「上工は,その(病邪の)まだ生じないのを刺す。その次は,その,まだ盛んにならないものを刺す。その次は,その,すでに衰えたるを刺す。下工は,その襲いかかってくるものと,その形の盛んなものと,その病と脈の相い逆するものとを刺す。」とあって,ここでは医師を工と呼び,4つのランクに分けているが,中間の二者は,中工,すなわち中医とみなすことができよう。なお,この際の刺すと言うことは鍼治療のことである。更に,『難経』と言う古書には「上工の診断は10のうち9を完全に判定する。中工は10のうちの7,下工は10のうちの6。」とある,とのことである。

 約1300年以上もの昔のことを,現在に対比させるのは些か強引であるが,この観点からみると現代の医師の多くは上医,中医,下医のうち下医に,上工,中工,下工の分類では中工あたりに該当するのではなかろうか? すなわち「人を直す」「病みかけているのを直す」「盛んになりかけているのを直す」というものである。
 
 現在強調されている早期治療や予防医学的な発想は,この様に古くからあったという事が解って面白い。

 「名医」,「良医」,「藪医者」と言うランク付けもある。私はこれで言えば前二者なんてほど遠く,藪医者に相当する。ただしその際もう一つ「土手医者」というランクも加えて欲しい。藪なら何とか頑張れば隙間から向こう側が見えるが,土手となればもう何も見えずお手上げ状態であるが,そこまではまだ衰えていない。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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