徒然日記

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


11/30(日) 曇り 病棟拘束 秋田県臨床内科医学会講演
1:30リハビリテーション病院5階より2件のオーダーを求められ,診察したのを機に起床。ドック判定総括x1、本日午後の講演の最終準備。本日届いた「野村胡堂・荒戎とその時代」を読む,名著である。8:40-11:50病院で回診他の業務,帰宅。今年の年賀状準備開始。14:30-18:00県総合保険センターで開かれている秋田県臨床内科医学会に出席,16:10-17:30講演とディスカッション。これで今年の講演は全て終了。開放感あり,18:00帰宅、夕食ほかVnなど,20:30就寝。

自伝 大学時代 医進2年(1965〜71)(18)
かくして医進生活終了
 いろいろあったが,かくして私の医進生活はまず充実した状態で過ごし得た。

 オーケストラは今春の私の初舞台となった第39回の定期演奏会が「医学部管弦楽団」としての最後の定期となった。実際にはこの名称ではあったが教育学部を始めとして全学からメンバーが集まっていたので,名称も全学を対象に「新潟大学管弦楽団」として発展的解消することになったからである。
 秋には医学部文化祭でメンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」、ベートーヴェン「ロマンス第2番」、シューベルト「未完成」を演奏したが、私の技術ではまだ十分には参加出来たとは言えない状況であったが、とにかく良い曲である。実際に弾いてみて初めて曲の構築の素晴らしさを感じるし、作曲家の技能には驚くばかりで、一度弾いたことのある曲は特に、いつ聴いても新鮮な感動を覚える。

 3月に医進課程から医学科課程への進学の判定がなされた。前から厳しい判定がなされるという噂があったが、蓋を開けてみて驚いた。約1割に相当する11人が医学課程に進学出来なかったが、さらに驚いたことはその内の5人が寮で同じ釜の飯を食った仲間達であった。学生寮はポジティブにもネガティブにも各人に様々な影響を与える場所で、田舎育ち,世間知らずの私には学んだことも少なくなかったが、常にマイナスの方に流されてしまう危険もあり、抑制する理性が求められる魔窟でもあったといえる。

 いろいろあったが,私の2年間の医進生活は終了した。読み・打ち(パチンコ)・買う(古本)・弾く,が二年間のキーワードだったかなとも思う。良い時間を過ごし得た。


11/29(土)曇り 病棟拘束  H医師来訪 散髪 リハビリ当直
1:30起床、ドック判定総括x2他、家内3:00過ぎ帰宅。多忙で大変そう。5:50運転して病院着.回診他.9:00人間ドック説明x4。外来12:50 まで。病棟拘束、H医師来訪 15;00散髪、17;00受傷後初のリハビリ当直。新聞チェック他、明日の講演準備は不十分のまま20:30就眠.

アキレス切断40日
目 早く歩きたい!
 アキレス腱切断が10/19,手術が10/20,ギプスから装具に変えたのが10/27。抜糸が11/4、以降は現在に至るまで局所的にはほぼ順調で、疼痛は術後の翌日は厳しかったが以降は殆どない。抜糸から2週間は車椅子中心の移動で松葉杖は補助的に使用、それ以降は松葉杖中心、11/17に車椅子を返上した。

 松葉杖中心になったのは上肢の力が付き、技術的にも習熟してきてとても楽になった事と、ギプスから装具に変えてそれに6cmほどの高めのヒールを追加したことで、立位時に右足を前方に投げ出さずに済むようになったこと、少しずつではあるが右足をアキレスに力を加えない様にしながら使えることになったことが大きい。装具には足首を伸展位から徐々に直角に近くまで調節する機構がついており調節用のリングを毎日一回転し少しづつ直角位に近づけた。今では殆ど左足首と同じに近い。それに伴いヒールも少しづつ低くし、通常の履き物に近い状態にまでなった。松葉杖も初期には右足を持ち上げた状態での使用であったが、今では右足も接地させ、通常に歩くような状態で、アキレス腱に負荷をかけないように用いている。これで随分楽になった。

 院内の業務は殆ど問題無くこなした・・つもりでいる。が、休日出勤の頻度は受傷後減少した。本当はこれが当たり前に近い姿なのだと思いつつも、何となく後ろ髪引かれる思いで自宅で業務をこなした。
 対外的な業務は日本医師会、秋田県医師会、秋田県関連の東京、仙台出張だけは都合4回キャンセルさせていただいた。県医師会の打ち合わせは週2回あるがこれは重要案件がない時には週一回にしたこともある。11/15には小坂町の講演にも出かけた。この時には秋田駅では知人に、大館駅では講演の関係者に車内まで来ていただきパソコンやプロジェクターを運んでいただいた。11/22の大曲講演では大曲駅では手伝っていただいたが秋田駅は何とか自分でこなしたが、二本の松葉杖を使いながらトランクを曳いての移動はかなり苦しい。
 対外的な業務として受傷時に心配したのは講演の予定であった。今月後半4回の講演を集中的に組んでいたが、何とか主催者に迷惑をかけないで済みとても安堵している。

 先週、二日間ばかり自分で運転して出勤してみた。機能的には十分で不自由なくできた。しかし、障害をかかえての運転は問題があるとの指摘があったし、自分でもそうだろうと思う。またタクシー、契約車通勤に戻してた。室内程度ならもう杖無しでそろそろと歩けるようになってきているが、主治医からはまだ荷重をかけて良いとも歩行して良いとも許可はない。なかなか無情なものである。来週木曜日12/3は整形受診日、この日に歩行の許可がでることを心待ちにしている。


11/28(金)快晴 夜風強い  県医師会打ち合わせ 法人理事会 
2:00起床、ドック判定総括x1。退院総括予稿x1.家内4:30帰宅。5:30taxi病院着、回診、事務処理。10:32-13:10外来。13:40-14:10ドック診察。16:00-16:40県医師会へ。17:30-19:00法人理事会。20:30契約車にて帰宅、21:00就寝.

孫の面倒は祖父母にとってはかなりのストレス・・らしい
 外来で、孫の世話に明け暮れて自分の時間がとれないとか、大変です・・と愚痴をこぼしていく高齢者は少なくない。だけど、何故か他のことで疲弊しているときと違って愚痴るときの表情は嬉しげでもある。そんなに辛かったら、止めたら・・と言っても通じない。本当は孫はとてつもなく可愛い、自分の子供なんて問題でない・・・のだと言う。要するにネガティブの愚痴りでなく、周りに自分とこの孫が如何に可愛いく、元気なのかと言いたいだけなのだ、と私は思っている。

 この度、一週間に9時間以上孫の子守をしている祖母は心臓発作のリスクが55%ほども増えるという調査結果が米国で報告されたという。それにしてもあまり高い値で驚くと共に、具体的にどのようにして調査したかなど迄は記載無かったので信憑性を疑いたくなってしまう。その文章では、子守のストレスと自分の健康管理が疎かになるのが原因か、と推論されている。孫と適当に遊んでいれば身体も動かすし、ストレス発散になると思っていたが、意外な結果である。

 実際にこの調査結果は自分の感覚とは全くかけ離れた結果である。孫のストレスが原因で病気になったという方を私は殆ど知らない。むしろ孫の世話をしているお年寄りは明るくより元気である。自分の衰えに対する恐れなどの感覚が、孫の成長過程を見る歓びで置換され、自らが孫の成長の過程に深く関わっていると言う満足感があるのだろうとも思っており、お年寄りの心理にもいい影響があると考えている。
 一方、現実的にはお年寄りと孫の時間感覚の違い、これはお年寄りにとってはかなり大変なはずである。若い親達はそれなりに多忙で、両親に子供を当たり前の如くあずけるのだろうが、あまり負荷をかけすぎないように、時にはお年寄りを解放してあげなければならないのだよ。


11/27(木)曇 火災訓練 総合内科病棟診療部会議、療養病棟診療部会議、師長会と院長副院長との懇談会 
 
2:00起床。ドック判定・総括x2、紹介状返事等.主治医意見書x3。5:20taxi病院着、回診ほか。9:00-14:00外来、混雑.15:00-16:00総合内科病棟診療部会議、16:10-17:20療養病棟診療部会議。18:30-19:00師長会と院長副院長との懇談会。回診.20:30契約車にて帰宅、21:00就寝。

SARSに朗報:新型肺炎の検査キット申請 厚労省、年内にも承認へ
 臨床検査薬メーカーの栄研化学は27日、SARSコロナウイルスの感染を調べる検査キットの製造承認を厚生労働省に申請した。
 症状だけではインフルエンザと見分けがつかないSARSが国内に侵入するのを危ぐ手段としても、また診療上も重要であることから、厚労省は優先的に対応するとしており、早ければ年末にも国内で初めての検査キットが承認される見通し。中国を始めとする諸外国でも是非採用して貰いたいものである。
 このキットは、サルモネラなど食中毒病原体の検査試薬にも使われている同社の独自技術を応用。国立感染症研究所や長崎大熱帯医学研究所の協力を得て開発したと言う。従来の遺伝子検査法は結果が出るまで半日程度かかった上、結果の信憑性にも問題があったが、この検査キットは1時間程度で判定が可能で費用も安いという。しかし、詳細は発表されていない。
 このキットの開発・承認はSARSに関しての最高の朗報の一つと評価出来る。これでわが国のSARS対策は何段階も進展する。特に院内感染への心配を抱える病院関係者にとっては何事にも代え難い価値がある。SARSの対応は新展開するであろう。関係者はみんな喜んでいるものと思う。

 一方、邦人の乗り継ぎ客が香港でSARS疑いで入院させられたというニュースも入ってきた。大連から乗り継ぎのため香港国際空港に到着した日本 人男性(29)が26日、発熱などを訴え私立の病院 に運ばれたが、エックス線検査で肺炎らしきも のが確認され、血液検査にも問題があり、クイーン・エリザベス病院にこの男性を移した。
 検査結果、SARSウイルスは検出されなかった、と発表したが、男性が滞在したホテルは客室50室が一時封鎖され、消毒などの緊急措置が取られたと言う。
 中国、香港とかではいろんな過剰反応と思われる対応も見られるが、国の威信をかけての対応の現れととらえておきたい。


11/26(水)曇 県庁人事課関連講演「定年退職後の健康管理」、医師会理事会 
1:30起床、ドック判定・総括x2、紹介状等.総括。次男フェリー早朝便にて離秋。5:30Taxi病院着、6:30患者家族と面会、病状説明。回診ほか。重症者若干改善傾向あり。9:00-13:30外来、混雑。ドック診察x1。15:00-16:10県庁講演「定年退職後の健康管理」みずほ苑。終了後急遽移動、16:30-17:45県医師会理事会、その後賠償責任保険関連で若干のミーティング。18:30病院へ。20:00契約車にて帰宅。21:00就寝。

浜松町駅のエスカレーターが高速化した。
 JR浜松町駅は乗降客が多い上に羽田空港へのモノレールとの接点であるためにいろんな行き先、思惑のある人々が交差する駅である。通路も曲がりくねっており、歩いていても方向の異なる人とのすれ違いがストレスでもあった。その駅が現在改装中で、通行者の導線がかなり改善されそうである。もう一つの特徴は登り方向のエスカレーターの一部が通常よりかなり早い速度で動く。これも乗降客の処理になかなか良い。これと比較してみれば、羽田の動く歩道はのろくてストレスでもある、が老弱男女いるのだからやむを得ないのだろう。せめて歩く人のためのスペースだけは空けて欲しいものである。
 フランスでは名物のコンコルド旅客機は姿を消すことになったが、新しく速さが売り物の乗り物がパリの名物になろうとしている。それは動く歩道。モンパルナスの地下鉄の駅で試験的にスタートした。地下鉄の乗り換えをスムーズにするために作られたものだがそのスピードが時速9Kmだという。要するに歩く速度の約2倍。だから乗降時に直接乗ったり降りたりすれば、よほど運動能力が高くなければつんのめったり転んだりする危険が高い。そこで高速道路に乗り入れる時の本線と平行に走るアクセス道路と同じようにスピードを徐々に調整する補助的な動く歩道があるという。
 お年寄りは普通のエスカレーターでも恐いという人は多い。外国人にはフランス語のアナウンスもわかりにくい。この様な人に対しては何らかの別な方法も用意されているのであろうか、気がかりである。

 本日午後、病院の正面玄関のエスカレーターに乗ろうとして逡巡しているお年寄りを見かけていろいろ考えさせられた。能率一辺倒での改良の影で、それでは困る人達も生じてくる。その人達にどう光を当てることが出来るのかは能率化、便利さの追求と同じように重要である。


11/25(火)曇り 管理会議 長副会議 三医局討論集会
1:00起床。ドック判定・総括x2、その他。5:30Taxi病院着。回診他紹介状など。8:01-8:45管理会議。9:00-14:00外来、入院x1。療養病棟入院患者不調数名、患者・家族に対応。16:30-17:10長副会議。真空採血管問題中心。18:30-20:30医局討論集会。療養病棟、初期研修問題など、興味深い内容で討論された。21:30帰宅。22:00就寝。

発想の転換? 表も裏も、前も後ろもない立派な化粧品関連パンフレット
 我が家では、やや広めの部屋を居間兼仕事場兼台所兼食卓兼客室兼寝室兼オーディオルーム兼・・・として、要するに、全てを一室に集中させて生活している。そのために 概して乱雑である。特にここ数日子供達も全員揃ったので足の踏み場もないのに近い状態であった。さらに、昨日、来客をお迎えする予定になっていたためにその直前に急遽片づけた。と言っても物品、本など段ボール箱に詰めて空き部屋に移動しただけ。
 
 その時に女性週刊誌のような派手な装丁の小冊子にちょっと異様な感じを受け、手に取ってみた。娘か誰が持ち込んだか解らないが、化粧品を中心とする立派な小冊子である。2-3ヶ月前の古いものらしいから破って廃棄しようとして手をかけたが、何かいつもにない雰囲気がある小冊子である。みるとこの小冊子は表紙も裏も区別出来ない作りになっていたことで、180°回転させることでどちらからでも全く同じように見ることがでるようになっている。一つの方は雑誌「an・an」に掲載された記事、もう一方は「クロワッサン」に掲載された特集や広告記事がまとめられた内容のようで、30-40ページもあるが、内容的にはどちらも甲乙つけられない洗練された記事で装丁も立派である。

 何故こんな作りになっているのだろうか、と考えてみたが、通常の作りでこの2冊分を一冊にまとめた場合、必ず配列によって優劣がつく。要するに表紙に近い方を確保出来た方のスポンサーが得することになるだろう。内容的に差が大きい記事や写真であれば配列自体に決定的な意味があるとは考えられないが、実質よりも夢を得る??化粧品、装飾品の広告などの世界ではこの序列は無視出来ないのでは無かろうか?その点ではこの作りであれば全く扱いに差がなくなり公平になる。
 へー、こんなアイデアもあるのか、他にもこの様な装丁の本はあるのかも知れないが、私は初めて見ていたく感心した。


11/24(月)振り替え休日 晴れ・雨   
 
2:00起床。ドック判定総括x1。紹介状、Vnなど。10:30-13:30来客。夕方までかかって療養病床のまとめ関連終了。本日は病院には行かずに終日自宅のパソコンに向かう。デジカメ購入。長女・長男離秋、家内は後頭神経痛の間欠的発作昨日から。21:00就寝。

200万素子、超小型のデジカメ購入
 本日子供達に依頼してカシオのEX-20と言う型番のデジカメを購入した。画素はに200万素子と今の製品の中ではそれほど高機能品ではないが重さが70g台と軽くサイズは名刺サイズで日常的にメモ代わりに使う予定である.
 デジカメは今や主流になってしまったが、初めて商品化されたのは1995年とまだ8年しかたっていない。驚くほどの急成長であり、改良が一気に進んだ分野である。最初の商品はやはりカシオのQV-10、25万素子で内蔵メモリーは2MB、それでも65000円と当時驚くほどの低価格?と驚かれたもので、大ヒットしたものであった。気をよくしたカシオは改良型QV-10A、QV-100を投入、後者は当時はまだカシオ製品が中心であったこともあり、販売台数でも群を抜いていたという。
 1997年頃から各社の参入と高機能化が、低廉化が進み、従来はプロ機能と言われた100万素子の製品が普及してきた。1999年には200万素子、最近は400-600万素子、遂に1000万素子のものも発売になっている。ここまで来れば高機能過ぎてもう私の興味の世界、能力の範囲を超えてしまっている。
 私は今まで2台のデジカメを所有していた。QV-10、SONYのCybershotであるが両者とも型遅れ状態になってからかなり安く手に入れ、我が家の犬猫の撮影に大活躍したが、今になってみれば画像が荒く、いつしか机の中に鎮座する様になっていた。本日購入したカシオのEX-20は超小型、機能も私にとってはまずまずで、もし購入するならこの型をと前から思っていたが、今回改良型として発売されたのを機に購入を決めた。値段は2万円後半と決して高くはないし、私はもともと画質にこだわる能力もないので200万素子程度で十分と考えている。

 今後、このホームページにもこのデジカメによる写真が掲載される機会が増えていく?と思われる。

http://www.exilim.jp/ex_s20/


11/23(日)勤労感謝の日 快晴 北海道医師会来訪昼食会 
0:00やや早いが起床、ドック判定・総括x2、療養病棟師長の半年間の病棟運営の総括の校正作業等.5:00-6:00坐位にて微睡む。Vn etc。11:00-12:30北海道医師会会長、副会長一行来訪、Viewにて懇談、会食。13:10-17:10病院。回診など。一家で外食20:00帰宅、21:00就寝。勤労感謝の人は勤労出来る環境に感謝して勤労に励む日と言うことであろう。

自伝 大学時代 医進2年(1965〜71)(17)
学納金18000円で卒業、を目標にした。一方、不用意に浪費して赤貧の生活も
 入学時に半年分の授業料6000円を含めて18000円ほど納入したが、教務の掲示板には授業料減免のお知らせが張り出されていた。条件は、ある程度の学業成績と生活の困窮度となっていた。既に父親は定年退職して現金収入が少なくなっていた上、寮生活であったので後者の条件は何とかなる、前者さえクリアすれば良い考え、授業は真面目に出席して申請を出し続けることとした。
 結果的には、恐らく一回ほど申請が却下されたことがあったような気がするが、大体授業一年分で卒業出来た。当時の授業料は2-3年ごとに改訂されていったが、在校生は値上げされず入学時のままで、私の場合には年間12000円であった。一人の医師を育て上げるのに当時でも2000万円ほどの税金が遣われると言われていただけ、感謝感謝である。何らかの形で社会に還元しなければなるまい、といつも思っている。

 我が家では古くから富士銀行を利用していた。私も子供の頃から祖母さんなどに連れられて出入りしてたし、年長になってからは私が代わって利用していたので親しみやすい銀行であったから大学の時も古町通の富士銀行の新潟支店を利用していた。古いたたずまいは盛岡支店とほぼ共通しておりこれもまた良かった。
 医進2年の秋頃のある月に生活費を降ろしてから、近くのパチンコ店「白鳥」に寄ったところ何故か大勝ちしてしまい、1万円ほどの卸したばかりのお金が当面は不要になった。古い本の間に挟んで置いたのだが、このことを何故かすっかり失念してた。数ヶ月後に寮の友人達数人と話し込んでいる時に何かの拍子に本の間にこのお金を発見、古本に挟まった誰かのへそくり??と、すっかり得した気分になり、その場の舞い上がった雰囲気でみんなで近くの寿司屋に繰り出し、一気に飲み食いで遣ってしまった。実際にはその時のお金が自分のものであったことに気づいたのは、たまたま通帳をチェックしていたときで自分のバカさかげんに呆れると共に、予定にない出費をつくってしまったため、それからの数ヶ月はかなりひどい生活が強いられた。


11/22(土)雨・強風  東北緩和医療研究会 大曲仙北地区「医療と健康を考える集い」
2:00起床。長女横浜より帰秋。ドック判定総括x1。再検査結果報告、紹介状。5:40福島に出かける家内と共にTaxi駅経由病院に。回診、9:00ドック説明。10:00-11:40外来,途中で交代,出張準備。12:59こまち。大曲プラザ「たつみ」にて講演「SARSは恐れるには足らず,より恐いパニック状態」、懇親会。17:30契約車の迎えにて19:00帰宅。私はアルコール後よくこむら返りが生じるが、車中で左足のこむら返りが激しく大変であった。20:00就寝.

親の子育て談議、三世代。
 講演とアルコールで疲れて一眠りし、夜半トロトロ微睡んでいると家族達の話し声がする。福島出張の家内も無事帰っており家族が全員揃ったようである。子供達三人が自分たちの幼少の頃のことを話し合っている。私と家内の子育てに関していろいろ雑談しているが、評価は概して芳しくないようである。要するに賄いの石井さん任せにしてさっぱり構ってくれなかった・・と言うことであるが、私どもから見ると決してそうとは思っていない。私は、勿論、十分なことをなしえたとは思っていないがそれなりに時間を作って頑張ってきた積もりで、それなりに自負もある。一方、家内は自分の人生の中で何が一番心残りかというと、子育てに十分時間をかけてこなかったことだと日頃からよく言っているから、いろいろ感じていることはあるのだろう。まあ、こんな話題で大笑いしているわが子供たちは幸せモンだね、と思いながらまた眠ってしまった。

 父親の兄弟達は、一人が大阪住まいであったこともあって6人全員が揃うのは数年に一度程度であったが、その度に全員が我が家に数泊して親好を暖めるのが常であった。その度のメインの話題は如何に祖父の耕陽が恐ろしかったのか、祖母キヌが厳格であったか、と言うことに集中していたものだ。楽しかった・・と言うような思い出話しを聴くことは全くなかった。それだけ昔の親はにらみを利かせていたのだろう。私も祖父耕陽の逆鱗に触れて日本刀片手に追いかけられた体験があるだけに気持の一部は理解出来たものだった。それでも長兄と末娘では10数歳の開きがあってそれぞれ親に対する印象が異なっていたことが興味深かった。そのルーツは時代の流れなのか、人間の熟成のなせることなのだろうか。

 私の世代の場合には、兄と二人だけでありしかも12歳も離れているので実際に会っても両親の思い出話をすることはほとんど無い。各々が一人っ子のようにほぼ別々に育ったために共通の話題になり得ないからである。

 最近、若い親の子供に対する虐待や、折檻死が新聞紙上をにぎわしている。十分に手をかけられ無いまま育った若者達なのであろうか。どちらにせよ子育ての重要性は論ずる必要もない人間の基本である。


11/21(金)曇 東北ブロックエイズ拠点病院(欠席) 医師会打ち合わせ 
1:30起床、ドック判定総括x1。紹介状2部.講演準備。運転して5:30病院着。回診他、10:30-14:00新患補助、混雑.インフルエンザワクチン接種患者が多い。宣伝が行き渡っている。13:30ドック説明x1、診察x5。16:00県医師会打ち合わせ.20:20帰宅、21:30就寝.長女最終こまちにて帰秋予定と。

中国政府は今冬のSARS対策に威信をかけているが、住民は・・・
 今春の中国政府のSARSへの初期対応は情報の隠蔽などで完全に国際的信用を失ってしまった。それだけにその後の対応には驚くほどの教権を発揮して信用改善に努めた。

 最近、実際に診療に当たった医師や看護師の体験を講演会で直接聴く機会を得たが、現場の対応は壮絶そのものの。例えば、北京市内では病院を約20箇所専門病院に指定し、各地から人民解放軍も含めて治療スタッフを集め、各スタッフはホテルと病院に缶詰にされ、約2ヶ月間自宅に帰ることは許されなかったようだ。防御に用いたガウン等は何と130万セットに及ぶという。また市民のパニック状態の防止や監視には中国軍が出動している。確かにあれほどの流行した状態から見れば、医療関係者の犠牲者を増やさないためにもこの程度は必要だとも思えたが、通常の政治形態の中ではまず実施は困難であろう。
 現場の声を聴けば聴くほど、厚労省や日本医師会のSARS対応・危機管理の甘さがよく解って情けなくなる。

 で、そろそろSARSが再燃するかも知れない季節を迎えて中国では対応を強化している。その様子が入ってきた。
 具体的には、まず、
感染症用救急車を各地に配備すると共に、院内感染対策の充実の為に関係者の教育に余念がないと言う。また、中国は情報収集,情報公開が不得手であったがその徹底の為にネットワークを構築、全国何処SARSが発症しようとすぐに中央政府に情報収集出来る様にし,国内国外に向けての情報公開の準備も整えたようである。

 発熱患者に対する対応の強化も既に始まっている。天津空港では発熱者チェックが始まり、発熱のある人はいかなる理由が荒れ搭乗出来なくなっている
数日前にはエアラインの乗務員が勤務中に発熱し、到着した空港で診療を受けたが、SARSが否定されるまでの何時間か、約百人の乗客は機内で缶詰状態で待たされたという。天津にせよ、乗務員の発熱にせよ過剰反応と思うが、これが中国らしいところでもある。

 問題の動物の売買であるが、SARS発症当初は動物の売買は完全禁止措置もとったが、その後、50数種の動物のに関しては人工飼育以外のものは禁止している。しかし、実際には野生の動物も流通し始めており当局は厳しく取り締まっているが、生活がかかっているだけに住民もしたたかであり、なかなか効を奏していないと言う。取引所では排泄物や死体が至る所に放置されて居るという。政府は躍起になって頑張っているが、田舎の末端までは浸透していないようである。


11/20(木)快晴 整形外科受診 秋田市班協議会(欠)
2:30起床、ドック総括x1.5:20受傷後初めて運転して病院着。運転自体は何ら問題はないようだ。回診他、9:00-14:00外来。整形外科受診。概ね順調だが加重について、運転について等種々の注意を受けた。自分の感覚よりは遙かに回復にゆっくり時間をかけるべきであることで、もっと時間が必要なようだ。些か落胆したがやむなし。午後は土曜日の講演中心に淡々と業務処理。20:30帰宅。21:20就寝.

人類は永遠に感染症と闘い続ける。明後日のSARS講演に向けて
 昨日は秋田市保健所と市医師会主催のSARS講演会であったが,明後日は大曲・仙北地区での一般の方々を対象にしたSARSの講演。昨日から集中的に準備しているが,むしろ話の展開は困難だ。
 人類は永遠にウイルス、細菌と闘い続ける・・と言うような趣旨も話したい。

 殆ど全てのウイルスは動物や植物にルーツがあり、それぞれが活性期と衰弱期というパターンを繰り返しながら、存在し続け、変異し,感染の機会を虎視眈々とねらっている。時には数百年の時間をかけてゆっくりと進化し、人間界へと進出しきていると言う。いつも新しい感染症が出ると「ウイルスの突然変異」と表現されるが、その営みが見えないだけで実際はウイルスはホストとの関係,つばぜり合い,において常に変異し続けていると考えられる。
 21世紀にも恐らく,次々と新種のウイルスが出てくるだろう。HIVも人間の旺盛な社会的・経済的営みに関連して出るべくして出てきたのだ。HIV感染症はアフリカの一地方の風土病で、被害も小さく気付かれることが無かっただけ。そこの地域に免疫を欠く人間が出入りするようになった為と,HIVが人間の性行動・習慣に密着しているだけに急速に広まったもの。人間の文化,行動の変化が蔓延の切っ掛けとなり,かつ,世界的な蔓延のルーツとなっている。HIVが認知されたのは1981年ごろだが,実際には1950年代から存在していた事を示すデータが得られている。SARSも同様,恐らく風土病的にしばらく前から存在していたのだろう。

 多くのウイルスは、動植物、昆虫などとともに自然の生態系の中で長い歴史をかけつつ安定した「共生」関係にあると考えられる。この関係にないホストが関与した場合,感染という状況に変化し,どちらが優位か激しく勝負する。それが感染症である。生態系の中で「共生」しているウイルスに対し、動物も植物も免疫機構やその他の生理的機構を介して抵抗性を身につけているが、人間は経験のないウイルスには全く無防備である。だから,人間が異世界に踏み込むときには注意が必要である。熱帯雨林の開発・破壊活動などがこれに相当する。個人的には外国旅行も含まれる。今回の「鯉ヘルペス感染症」も同じ機序と考えられ,どこかで人為的流通が感染の切っ掛けになっているのであろう。

 人間がウイルス感染症に弱くなった要因に、内的外的因子の変化がある。身体的に生活習慣病と言われる変化ですら,実際には感染症防御能に対して大きな影響を持つ。人間の文明活動・経済活動は人間の内部環境,生態系,社会環境のすべてを変化させた。人間は自然界の営みから急速に,かつ,すっかり離れてまった。同じ規格のものの集中,過密状態は感染症の餌食になりやすい。老人ホームなどその典型。
 だから,21世紀は新感染症の時代になるのかもしれない。


11/19(水)超快晴 秋田市保健所と市医師会合同講演会「SARS」 
入院患者状態不良で夜半に2度ほど電話。1:00やや早いも病棟に呼ばれる可能性大で起床し机に向かう。人間ドック判定総括x1ほか.3:00病棟からコール。3:20Taxi病院着.患者さんの死亡確認,5:30お見送り。監査用カルテ整理ほか。6:30回診他。9:00-14:00外来.対外的業務無く自室で今晩の講演準備。結局不十分なところで線引き。エコノミークラス症候群になりそう。18:30-20:20秋田市保健所と市医師会合同予防接種講演会「SARS」。60名ほど。20:30帰宅、次男札幌から帰省。夕食、21:00就寝。

秋大名誉教授が酒酔い運転で逮捕。交差点で軽乗用車に追突
 本日夜、講演後、Taxiにて帰宅したが、八橋三和町付近の交差点にさしかかったときに運転手さんが、昨日秋大名誉教授が交通事故を起こして逮捕されたのはこの交差点です、と教えてくれた。この交差点はAKT放送局の付近で局での仕事も際に私もたまには通る場所である。昨夜、ラジオを聴きながら仕事をしていてこの事故を知ったが、一瞬、医学部の名誉教授か??と思ったがそうではなくて安心していたもの。その後はすっかり忘れていたが、たまたま今日通過して思い出した。

 地方紙によると、秋田署は18日、秋田大名誉教授(66)を道路交通法違反(酒酔い運転)で逮捕した、とある。彼は同日19:40ごろ、秋田市八橋三和町の市道で、酒に酔って乗用車を運転し、交差点で信号待ちをしていた主婦(22)の軽乗用車に追突、軽乗用車がさらに前の車に追突する玉突き事故を起こしたと言う。実際には怪我人はでなかったらしい?BR>
 この名誉教授は地質学、地震学等で有名な方で、昨年4月、秋田大教育文化学部教授を退官した。県の地震被害想定調査委員会委員長を務めるなど、本県地震研究の第一人者として知られ、県地域活断層調査委員会委員長などを今でも務めていると言う方で、大きな地震等があれば時折地方紙に登場することもあって私の記憶の隅にあった方である。

  魔がさしたのか、常習であったのか解らないが、どちらにせよ残念なことであった。酒の国秋田ではどちらかというと酒酔い運転に対し罪の意識が乏しいところだと感じていたが、最近はやっと文化として地につき始めてきた。その中での今回の事件は残念なことであった。
 これで、彼の全ての業績や名誉は大きく傷つくであろうし、称号や地位は失われ、これからは専門を生かせる分野ですら一切登用されることもなくなるであろう。実に大きな代償であるがやむを得ない。幸い、誰にも怪我を負わせなかったこと、それだけがせめてもの救いである。さらに加えて言えば、不祥事が続く医学界の大御所でなくて本当に良かったと思う。

 私? 私は時に信号無視はやりますが、酒酔い運転はやりませんよ。ご心配なく。


11/18(火)快晴 県医師会うち合わせ+県人事課とのうち合わせ 医局カンファ「SARS」
1:30起床,ドック判定総括x1. 書類処理、5:40契約車にて病院着.6:30回診他、9:00-13:00外来。15:30-16:30県医師会うち合わせ+県人事課と来週の講演についてのうち合わせ.17:30-18:45医局カンファ「SARS」.19:30帰宅。講演準備若干改訂。21;00就寝.

何処まで他人の視線を無視出来るのか,車内で化粧の若い女性に感心
 まったく物騒な世の中になった。新聞に事件の記事が載らない日はない。天災は防ぎようがないが,犯罪はかなり防ぐことが出来る・・はずである。最も根本的な方法は教育や躾であろうが,もう一つの要因としては犯罪を引き起こしやすい環境がある。その最も大きな要因が人間同士の無関係さ,無関心さだろう。

 人間関係がある程度でも維持されているところでは,何処の誰が何をしたというのがすぐ分かり,噂は広まり,なかなか消えないものだが,一方ではこれはかなり大きな犯罪の抑止力になっていると考えられる。都市部では他人の目がある中での犯罪も多いが、これは他人に対する無関心,無視が犯罪を助長している例だ。

 さすがに東京近辺よりはまだずっと少ないが,最近,秋田のローカル線でも車内で堂々と化粧をする若い女性を時に目にする様になった。数日前,小坂町に出張したが,その際乗った秋田青森間の普通列車の中でも20歳前後の都会風のファッションの女性が居たが,耳にはイヤフォン,手には携帯電話と女性週刊誌をもち,周囲から完全に独立していて,実に堂々としていた。そのうちに手鏡を見ながら念入りに化粧を始めた。実は,その様子は,顔の表情も変化に富んでいて端から時折チラチラと見るのもまた楽しいのだが,彼女の目には他人の姿などは全く入っていない様に感じられた。向かい側に座っている私なんざ,中年の姿をした置物にしか見えないのだろうと思う。これほど堂々としていると呆れるよりもむしろ感心してしまう。秋田もここまで来たかと思う反面,多分,この女性はこの近辺のヒトではないだろうな・・と否定したい気持ちにもなってしまった。


11/17(月)曇り 管理会議 長副会議
0:30多忙な一日が予想されるので早めに起床、ドック判定総括x1。その他。5:20Taxi病院着。6:30回診他。感染症、発熱他で重症化しつつある患者数名。8:00管理会議。9:00-14:00外来、何故か超混雑。主治医意見書他作成。16:30-18:20拡大長副会議+対策委員会。20:10契約車にて帰宅、21;00就寝。

ブランドの終焉。
 舶来ブランド品は景気が悪いと言われるわが国の中でで、まだ何とか好調だという。今でも銀座等の一等地に店をかまえ、値引きもせず、殿様商法で売りまくっている。私の目では変な模様のビニールバッグに過ぎないものが何10万円という値段なのだから驚く。そうは言ってもブランド品の繁栄もそろそろ終わり??という気がする。その根拠は出回りすぎていること。バックはバックの機能しかないから、所持していることがステータスにならないようなら全く意味がない。無駄銭を払うようなもの。私はブランドものなんて興味はない。第一に求めるのは機能である。それが一致すれば良いのだがなかなかそんなものはない。
 私はかつて大学で勉強していた頃、通勤の際にスーパーのビニール袋に資料や書類を入れて通勤していたことがあったし、日除けのために窓に新聞紙を貼っていたが、ある日助教授に呼ばれて非常識だと責められ、さすがに止めてしまったでも、私はまだ鞄を購入したことはない。学会等で貰う手提げ袋で十分である。

 ブランドの地位獲得方法は品質管理とマーケテイング操作によるところが大きい。小売店には値引きを禁止し、品質管理、少量販売、高価格戦略、販売ルートの厳重管理など、日本的な薄利多売販売戦略に逆行するコンセプトを持ち込んでいる。さらに重要なのは常に新製品を開発して購買層の意欲を刺激し続けること。これが結構大変なのだ。栄華盛衰は世の習い、すでに陰りの見えてきたブランドもある。ヒット商品には必ず類似品がでるし、常に追いかけられる。どうやって常に一歩先んじていることが出来るか、と言うことである。それには第一に人材であり、第二にアイデア、第三に実行力・・・と言うことになろう。
 病院もしかりである。しかも、病院では価格統制された中での戦略が求められているから大変である。しかし、勝負の場はある、ソフト面での戦略と言うこと。これの品質管理は極めて重要な位置を占める。われわれの病院が提供出来るブランド品??は従来からソフト面、患者対応の素晴らしさ、であったと思うが、最近かげりが見えてきているのが気がかりである。


11/16(日)快晴   
2:00起床.ドック判定総括x1。3:00過ぎ家内帰宅、病院で若干寝たとのこと、そのまま眠らず午後呼ばれて病院に出勤していった。講演準備中心に終日自宅で過ごす。病棟からの連絡は数件。何とか対応。ブルックナーなどの大曲を次々と聴きながら、業務処理、作文、読書など、時々入浴・・・Vnなども。アキレス腱が与えてくれた静かな一日であった。19:30夕食、Vn etc 20:30就寝。

自伝 大学時代 医進2年(1965〜71)(17)
新六花寮の規約づくりを担当
 昭和40年の秋、か41年の春であったか忘れたが、西大畑にあった、元旧制新潟高校の木造の寮、天井が垂れ下がり、幽霊屋敷の如くであった六花寮は新潟市関屋地区に新築された新寮に移転した。鉄筋コンクリート造り4階建て。定員400名超の大きな寮である。事務室、食道を挟んでA棟、B棟に大きく別れていたが造りは極めて単純、廊下を挟んで
2段ベットが並ぶ2人と4人部屋があり、畳敷きの談話室があるだけ。当然トイレは水洗。旧寮に比較すれば驚くほどの良い居住環境となった。

 私が寮生だった60年代後半は、全国的に学生運動で大きく揺れていた時期であり、新大でも69年にキャンパス統合移転問題で学園紛争が起きた。学長辞任や移転計画の白紙撤回、試験のボイコットや入学式中止、ストや校舎の封鎖で授業のない時期もあった。 学内や寮でも集会が開かれた。寮も学生運動とは無関係ではいられなかった。医学部ではインターン闘争、卒後研修問題でもめており、私のようにノンポリで距離を置いていた学生も多かったが、時代の空気は強く感じられていた。

新六花寮は多分3つほどの学生寮が合併した様に記憶する。そのために新寮規約を作る必要が生じ私がその委員長を押しつけられた。基本的には最も寮生数の多かった六花寮の規約を元に作成したが、各々がそれなりに伝統?のある寮であったのが新六花寮として統一されたことで、名前が残らない寮出身者は何かにつけて要求が厳しく、調整は難航したが3ヶ月ほどかけて何とか作成することが出来た。何かと強者の多かった寮生の中で私はひっそりと目立たぬ様に暮らしていたが、この規約作成の課程の調整役や最終的承認のための全寮制大会で交わされた激しい質疑の応酬等を通じて、多くの寮生に知られることとなり、その後の寮生活は大きなトラブルも生じずとても生活しやすくなったと言える。経済的な問題があくまでも主であることには変わりなかったが、6年間も寮生活を続けることが出来た一つの因子となった。

 写真は1968年2月頃の卒業生を中心とした記念写真。食堂の屋根とA棟の一部が見える。当時の寮生は殆どどてら姿であった。


11/15(土)晴れ 小坂町社会福祉協議会講演
1:30起床、ドック判定総括x1、講演準備他。5:20契約車にて病院着、事務的処理、6:30病棟回診他、10:30契約車にて駅に。11:11鈍行にて13:00大館着、迎えの車にて小坂町に。14:30-16:00講演「健康で長生きの呪縛から逃れて生きる」。16:50特急かもしかにて18:17秋田駅着、契約車にて病院、回診若干。19:30帰宅、21:00就寝.

日本最古の芝居小屋 「康楽館」
 本日講演のために初めて小坂町を訪れた。小坂町は現在人口7000人ほど、高齢化率30数%とのこと。かつて鉱産額で全国一位にまでのぼりつめた小坂鉱山で栄えた町であったが現在は採掘はされていない。かつては小坂鉱山病院もあったが、閉山と共に縮小し今は診療所として残っていると言う。
 講演までに若干の時間があり、迎えに来ていただいた社会福祉協議会の方の案内で「康楽館」と指定重要文化財の「小坂鉱山事務所」を見せていただいた。この一角は町並みから見てかなり異質のイメージであった。特に洋風の「小坂鉱山事務所」のたたずまいは異質であった。当時の小坂町の隆盛が偲ばれる。
 「康楽館」は明治43年小坂鉱山の厚生施設として建てられたが、昭和45年 建物の老朽化ということで一般興行は中止された。昭和61年芝居小屋として建物を復興したと言う。康楽館を作る運動を進めた立て役者は小沢昭一氏とのこと。
 年に一度の歌舞伎公演があるほか、常設の公演が一日3回。こんな少人数の町で一日3回もの講演を維持していくのは大変なんだと思うが、駐車場には大型の観光バスも何台か居るところを見ると全国からもかなりの見学者や観劇客が訪れてきているらしい。舞台には回り舞台があり、地下で人力で動かしているとのことであった。

 人口30万の秋田ですら音楽会とか芝居とかは数えるくらいしか来ないし、来てもそれほど入場者で賑わうわけでもない。かつて栄えた町で、その時の遺産とは言え、現在の小坂町にこの様な常設の芝居小屋があること、連日の講演が催されているということは驚きである。
 ヨーロッパでは人口数万程度の小都市にも殆どオペラハウスがあると言われる。私から見て実に羨ましいが、小坂町と康楽館にその様なイメージを感じてしまった。


11/14(金)曇り・晴れ 医師会打ち合わせ(略) 法人理事会 AKT peview
1:30家内の帰宅で覚醒、起床。ドック判定総括x1.講演準備他。5:00家内やっと就寝したが直後特養の入所者死亡と言うことで出勤。またもや、ほぼ徹夜。若くないんだし健康に気を付けなければ、と言うも馬に念仏的効果のみ。5:20Taxi病院着、回診他.10:30-14:00外来+ドック説明x1+ドック診察x2。医師会打ち合わせは時間確保出来ず略。17:30-18:45法人理事会。18:50-20:00法人理事会AKT peview。20:00Taxi帰宅、Vn、21:00就寝.

「常識人」とは何か。 ヒト自体、非常識な動物なのだが、・・
 常識はずれの、あるい常識を超えた考えかた、生きかたが出来る人は、少数派に属する。この種の人間は日頃から周囲に大小さまざまの波紋を起こす。周囲の常識人たちは驚き、呆れ、さらに自分たちの常識的判断が乱されそうになると、迷惑がり、恐れ、非難する。

 常識も非常識も決して固定的ではない。古今東西に通ずる常識や非常識も恐らくはあるだろうが、よほどの国際感覚がないと判断出来ないから私には解らない。大部分の常識・非常識は時代とともに変わっていくし、地域、国、宗教等で独自の考えからが存在する。中東の問題、イスラエル、パレスチナ問題などは私の感覚からは到底理解出来ないし、最近、日本でも話題になった宗教?カルト?、オーム、法の華、白装束・・・にまつわる話しも理解出来ない領域だ。

 ヒトは自分の生きてきた足跡を残したいと言う願望があるらしい。動物の世界では自分のDNAを残すことがその個体としての存在の主目的であり、従目的としては他の動物の餌となり生を終えることである。そのことだけの目的で彼らは餌を求める。だから彼らは生殖期をを終えることは生命の終焉をも意味している。この生き方が本来の動物のあり方なのだが、人間はその存在に照らしてみても非常識的存在なのだ。DNAを残すだけでは満足しないし、子育てを終わってもいつまでも生きながらえる。もともとヒトは80歳までも生きる様に身体は準備されていないのに、延々と生きるから、身体的にはガタが来て当たり前なのだ。人生なんて山登りと同じ。登れば登るほど水や緑は失われ岩場だけに成って行くし、さらに登れば雪の世界だ。長生きすればするほど人生は寂しく殺伐たるものになっていく。その点では高齢社会はあり得ても、自他共に喜べる長寿社会なんて絵に描いた餅なのだ。みんな人生に幻想と期待を持ちすぎているんじゃないか?私にはそう思えてならない。

 人生、良いとこ60歳代までかな??そのころまでの人生に、自ら満足して死の床につければ本当は幸せなのかも知れない。しかし、周りが長生きしすぎるから無理か?? 人生、自分で満足出来るか否かだけが常識人の人生の価値なのだ。当たり前の常識人なんて、退職して1-2年後には社会的に忘れ去られ、その存在は死後、家庭、家族の中ですら何年持つだろうか。(せいぜい数年か?)仏教の何周忌かの行事でたまに思い出されるだけだろう。

 常識人なんて、その人生の価値は自己の内面にこそあるのであって、対社会的には数の内の一人にすぎない働き蜂のようなもの。だから、人生は楽しまなくては・・・。(つづく)


11/13(木)曇天 秋田NPO来訪 
1:30起床。寝不足感状態。ドック判定x1等.講演準備も乗らず、坐位にて若干微睡む。5:30Taxi病院着、回診他。9:00-13:50外来。15:00-16:00秋田NPO来訪、病院のモニター活動について。17:00-18:20院内の機構について検討.22:20帰宅.21:00就寝.

「常識人」とは何か。 幸せである一方、実に悲しい存在なのだ
 辞書で「常識」を引くと「普通の人が持っている、また持っているべき、あたりまえの知識や見識」「健全な社会人が共通に持つ、ふつうの知識また考え方」とある。要するに一般大衆が、一般的社会人がもつ倫理観、道徳観、人生観等で、悪しき方向の考え方は含まれないようである。一見良い規範のようにも見える。一方「常識人」と言う敬称もある。あの人は常識を兼ね備えた人だ、とか言って社会的に成熟したような良識的人間を指す。そう言う観点で周囲を見回すとほぼ全ての人達は、自分も含めて常識人だということになる。常識に反することは非常識と言われ、その様なことをしでかすのは非常識な人だ、と言うことになる。

 個々の人間は別々の個体だし、その個体も何代かの先祖達の歴史を経た結果の存在だから個性があって当たり前であるが、常識人の個性たるやあっても微々たるものである。いや、実際には社会に都合良く、常識人になるように育てられていくのだろう。
 常識人なんて、ミツバチの世界に例えてみれば、一把一絡げに働き蜂の集団に過ぎないのさ、と私は思ってしまう。常識人の能力ややっていることにはそれなりの価値があり、社会を支えていくのに重要である。しかし、家庭程度の小集団ならいざ知らず、社会とかの大きな単位で見れば常識人のやっていることなんて、その人が欠ければ誰でも代行出来る、大したことでない、ことを担当しているに過ぎない。
 常識人は、余りにも常識的であるが故に、職場を変わったり、退職したり、死去した場合でも、すぐに忘れ去られてしまう。その人間が存在したことは、仕事の足跡とか書類の筆跡とか記録として長く残るではあろうが、すでにそこには人間としての存在は無い。
 
 常識人なんて悲しい存在なのだ。(続く)


11/12(水)曇  県医師会常任理事会  
1:30起床。ドック判定総括x1、他。5:20契約車にて病院着.回診等。9:00-13:30外来+ドック診察x4.講演準備他。17:30-19:30県医師会常任理事会.19:50帰宅。Vn、21:00就寝。

早朝,快晴の日の超美観。木々、山々のシルエット  
 いつものように起床、いつものごとく静かな早朝を過ごし、5:00過ぎに出勤するのが私の日課である.尤も,日祭日だけは,午前は出来るだけ自宅で過ごすようにしているが。

 最近はいつ雪が降ってもおかしくはない気温で朝はかなり寒い。ここ3週間ばかりはタクシーでの出勤なので車窓から十分に外を見ることが出来る。最近の楽しみは快晴の日の東の空の深い紺青色と山々,尾根の木々の織りなす景観である。西の空に浮かぶ月も良い。

 快晴の日の朝は,曇り空の朝の日よりも周辺は更に暗い。放射冷却現象で冷え切った気温の中,あくまでも黒い山々や木々,建物が紺青の空との間に織りなすシルエット,千秋公園のお隅やぐらのシルエットもとても良い。アトリオンも,最近出来た高層マンションも良いシルエットを見せてくれる。この時期のこの時間帯はまだまだ朝日がのぼる時間でないから病院に着くまで楽しめる。この場合に,望めないことだが,街灯とか窓窓の灯りがなければどんなに綺麗だろうか,とも思ってしまう。

 1ヶ月ほど前には更に美しい光景を目にした。この紺青と黒一色の情景の中,東側の空に金色の細い線が一筋。実に素晴らしい取り合わせであった。どこかのエアラインなのか,米軍機なのか解らないが超高空を南に向かって飛んでいる。それが短い飛行機雲を曳いていたための細い線であったのだが,超高空であるために,それだけが地上からはまだ見えぬ位置にある朝日の光をたっぷりと受けて金色に光っていたのである。
 この様な情景を何とか記録しておきたいのだが,デジカメでは無理だろうし,私に絵心があったら・・と思う。忘れられない美観であった。


11/11(火)曇り-雨  医師会打ち合わせ 公開カンファレンス
1:30起床,ドック判定x1、 紹介状返事x1。SARS講演準備。5:30契約車にて病院着.回診他。9:00外来混雑13:30終了. 14:20入院患者家族と面会.16:00-16:30医師会打ち合わせ。 18:20入院患者家族と面会.18:30秋田市医師会病診連携関連の公開MCが当院で開催された。SARS講演準備の為出席出来ず。会場の活発な討論の雰囲気だけは伝わってきた。20:30帰宅。21:15就寝.

擦過掻痒:擦靴掻痒の思いのSARS関連の講演。今度は自分がやることに・・・
 先週から,何とか時間を作って11/19(水)の秋田市保健所主催のSARS関連の講演会の準備に集中している,とは言っても一日1時間も時間がとれない日の方が多い。2ヶ月ほど前に秋田市医師会の担当理事を介しての依頼があったもので,昨年は同じ会のインフルエンザ対策の講演の依頼を周辺の業務との調整がつかずにお断りしたという経緯がある。今年も決して時間的には余裕はないが,重要な問題でもあるし,県医師会の危機管理の担当としていろいろ進めてきたという責任もあるし,何とかなるさ,とお引き受けすることにした。やはり講演が近くなってくると準備時間が不足して,ここ数日大変焦っている。

 今春からつい先日のアキレス切断の前まで,東京,仙台,秋田のSARS関連の講演会には事情が許す限り出席して情報を収集し,機会ある毎に秋田県医師会の考え方などを意見として述べてきた。その中で感じたことはどの講演会に行っても内容的には確かに新しい事実も知ることが出来て有益であったが,講演内容は擦靴掻痒的との印象であった。確かに我が国においては名だたる感染症の専門家とされている方々ではあっても,自らSARSの診断や治療を体験したわけではなく,せいぜい流行地での見学程度しか経験していないから,やむを得ないかもしれない。そうは思いつつも,いつも不満に思っていた,と言うのが正直な感想である。
 それを,今度は屁理屈はこねてはいるもののSARS患者を全く診たこともない,感染症の専門家でもない,院内感染にもそう詳しくもない私が,県医師会の役職上やむを得ず講演をやる羽目になったから大変である。同じ擦靴掻痒でも私のは登山靴やスキー靴の底を掻いているようなひどい状態にならないかと危惧している。

 その点では,さる10/8,10/11に行われた日医の講演会,朝日新聞主催の講演会では中国,香港,トロントで実際にSARSの治療を担当した方々が講演した。これは確かに実際的でありとても有意義な会であった。私のSARS講演の内容はこれらを中心にした伝達講演になりそうであるが,私なりの意見も入れながら,少しでも役に立つような話にしたいと思っている。


11/10(月)曇り 管理会議 長副会議 AKT TV収録
1:00起床。ドック判定総括x1、メール返事多数送付.ずっと起きて何やらやっていた家内は患者急変で4:30病院に。今日も徹夜だね。夜中に呼ばれそうな重症患者が居る時は、私なら先に寝て睡眠時間を確保しておくのだが・・・。私も早めに、と5:05Taxi病院着。事務処理,回診.8:00-8:50管理会議.9:00-13:30外来、ドック説明x1、14:20入院患者家族と面会病状説明。16:30-17:30長副会議,18:00AKT来訪 TV収録、SARS関連.20:20帰宅、21:10就寝。

職場で妊娠出産ラッシュ。おめでたい。昔はどうだったんだろうか?
 今朝、小児科病棟に入院中の患者の回診時車椅子で廊下を通っていたら入院姿の外来の看護師さんに会った。私の足を心配して声をかけてくれたのだが、逆に私の方で彼女に何で入院しているのか??と尋ねた。一昨日二人目の赤ちゃんが生まれたとのこと。驚いたね、私は彼女が妊娠していることなど全く知らなかったのだ。そう言えばしばらく会っていなかったような気がする、産休だったのか。下腹に手を添えてそろそろと歩いており、顔もまだむくみっぽいが、その表情はとてもチャーミングであった。大事業をなしえた満足感なのだろう。
 療養病棟でも最近何人か産まれたし、外来、他の病棟の看護師さんもこれからの人が何人かいるようだ。おめでたいことだ。

 最近の若いお母さん方は幸せだね。ちょっと後ろを振り返ってみる。

 瀬川清子箸『女の民俗講』の出産や月経について述べる冒頭部分。「その頃出産や月事の忌間は小屋で暮し、母家に寄っても神を祀る山居には入れず、井戸にも触れてはならず、用事で他家を訪ねても庭に居るだけ。小屋上がりには寒中でも河で髪を洗い身を清め着物を洗うので辛かった。家族と食事を共にする前に、他家に行ってお茶を一杯貰って飲まなければならない。これは合火というが出産の忌明けの祝に当るものであろう。忌み上がりの人との共食は村人に喜ばれる筈もなく、自然、寺や小児のような人達が選ばれた」
 これは明治頃の話らしいが、妊婦は出産直前小屋に入り、出産後31日目に母子で潔めをうけて小屋を出て、更に20日間は自宅の下屋、納戸のいずれかで別火の生活を続け、普通の人に戻る迄に100日を要した・・とか紹介されて居る。産床には藁を敷き、藁束を産枕にする地域が全国にわたっているらしい。散米、米を噛む習俗も散見される。この様な産屋は実際には明治中期から昭和初期までで消え、昭和10年ころが最後となっていると言う。産の忌間を見ると、最長100日ー15日以下と各地まちまちで、21-33日が大勢を占めていたと言う。

 昔の女性は大変だったね。妊娠出産に限らず、人間は厳しい自然環境の中必死の思いで生きてきた。加えて社会の中のいろいろな慣習がさらに当時の生活を厳しくしてきたことがよく解る。この時代を背景とした映画やドラマでもこの様な厳しい世相はまず扱われることはなく、今風に描かれる。だから、多くの人は、特に若い世代はこの様な厳しかった時代のことを殆ど知らない。情報伝達のメディアの安易な作風が現代人の時代考証を駄目にしている、とも言える。

 私はどちらかというと、上記の様な民俗学、古い人間社会の文化に触れるのが好きである。


11/9(日)晴れ→曇  
1:30起床.ドック判定総括x2. HP関連作文、メール返事など多数処理。来週の市医師会SARS講演準備。10:00療養病棟患者死亡されて出勤。14:00帰宅。選挙投票。15:00-17:15来客、Vnなど。夕方からやや寒くなってきた。昨年の今日は吹雪であった。20:30就寝。

自伝 大学時代 医進2年(1965〜71)(16)
時間的に余裕の出来た医進過程2年次 本と格闘
 時間的に余裕が出来たが、日祭日、授業のない日も生活そのものは流されることなく規則正しく過ごした。朝は6:30頃に同室の寮生の睡眠を乱さぬように静かに起床、朝食を摂り、机に向かう様にした。
 寮生活は何かと喧噪で、寮内の行事も少なくはなく、寮生間の個人的つき合いも適宜・・と言うか私にとっては予想外に沢山あり、何時人が訪ねて来るか解らないような不安定な状況、やりたいことも出来ないこともままあった。

 寮生活は全体的に見れば夜型である。そのために早朝はことのほか静か。誰にも邪魔されることなく自分の時間を確保出来るとすれば早朝しかなかった。ウイークデイは起床している寮生が居たとしても多くは講義にでるためであり、休日は10:00-11:00頃までは静かな時間をほぼ一人で過ごすことが出来た。この時間を無為に過ごすことはない、と言うことで朝型生活をずっと守り続けたことが、いろいろと制約があって時には煩わしいと思うこともあった寮生活を6年間も続けられた最大のルーツであった。勿論、私にとっては経済的なメリットはそれ以上の価値があったから、如何に煩わしいからと言って寮を出ることなどは考えられなかったのも事実ではある。それと次年度には郊外に寮が新築され引っ越すことが決まっていたのも楽しみの一つであった。

 医進2年目の生活の中で集中したのは岩波文庫100冊の本読破への挑戦である。前年から始めていたがこの年は時間的にさらに集中出来た。新潟市内の数軒の古本屋に通い詰め目的の本を殆どを購入することが出来た。実際的には80冊くらいまで進んだところで時間切れとなって頓挫したが良くまあ読み切った物だと自分でも感心し、満足した。これだけ本を読んだことが自分にとって何であったのか、全く解らないが、目標を立てたことをほぼやりきったこと、そのことだけは自分にとっての自信の一つになっている。
 再び時間がとれる機会が訪れることがあれば、もう一度読んでみたい本は少なくない。これは私の夢の一つである。


11/8(土)曇  昼食会 No1医療廃棄物産業医・No4医療廃棄物合同研修会
1:30起床、ドック判定総括x1、退院総括、紹介状作成.5:30Taxi病院着。回診他。9:00ドック説明 x3。10:30-11:30外来.12:00-13:30View Hotel VIP room本日講演の浜松医科大学松島教授と昼食。14:00-16:30産業医・医療廃棄物合同研修会。講演の座長。病院にて業務種々.19:00契約車にて帰宅。Vn他、20:30就寝。

徳川吉宗  vs  小泉(了) 今日は選挙日です。投票に行きましょう
 吉宗は自分の考えを強力に全面に打ち出し、自分の政治を行なった。効果が上がらないと見るや武士だけでなく、庶民の生活さえ押さえ込んでこの世を良くしょうと壮大なことを考えた。その他にもいろいろな政策を打ち出した。目的を持って考え、実践したことは大きく評価されるべきで、まれに見る名君であったと言える。しかし、武士達の弛みきった精神を立ち治させるには確かに役立ったが、その経済政策は社会全体からみれば失敗である。貿易が行われておらず外貨獲得が無かった江戸時代の経済運営では、倹約を重ねて行けばいつかは豊かになると言うことはあり得ず、ますます貧乏になっていく。例えば、収入のない家庭で倹約につとめ、爪に灯をともすような生活をしていても結果は見えている。多少破綻の時期が延びるだけ。収入がある上での倹約なら何とかなるのだが・・。

 吉宗と同じ発想で展開されている政策が医療・福祉政策分野である。「このままでは医療費によって財政が破綻する」と、小泉首相が言っているが医療費亡国論は詭弁である。医療費の総枠はずっと抑えられ、結果的に医療機関の経営は著しく悪化している。病医院では従業員の給料を上げることもできないし、設備投資にすら出来ない。全国の医療機関で将来のために投資を控えたら、殆どの医療メーカーが倒産するだろう。医療費の厳しい締め付けは、病医院で働く医師、看護婦、コメディカルの人々の活力を落としてしまう。また、そんな状態では真っ先に被害を被るのは病人である。対価に見合うだけの適当な医療費が支払われれば、医療人により高めの給料を支払われるし、優秀な人材も集まって来る。さらに設備投資にまわす資金ができればさらに社会に還元されていく。私どもの病院でも秋闘が始まっている。個々の医療機関が出来る対応には限界がある。生き抜くために自分の足を食べたタコは活力が低下して餌を採れず、疲弊し、やがて襲われて自らが餌になる道を辿るのだ。

 これが経済の本来あるべき姿なのである。経済は停滞させてはならないのだ。外貨が得難くなってきた今の日本、そのために需要の宝庫である医療・福祉分野は経済の建て直しのために積極的に利用すべき分野なのだ。ところが現実には、低医療費政策によって、この経済循環の輪が断ち切られ、病医院をはじめ医療関連産業が瀕死の状況にならんとしている。
 今日の選挙は興味津々である。結果や如何に。


11/7(金)曇り→雨、医師会打ち合わせ 県SARS専門委員会
1:30起床、ドック判定総括x1等種々.5:40契約車にて病院着。回診、カルテ総括、紹介状など作成。10:30-13:00外来. 基本検診終了して結果返し若干あるも落ち着いた。医師会打ち合わせは時間無く省略。15:00-17:00第1回の県SARS専門委員会、図らずも委員長に.司会して疲弊した。17:30-19:50病院にて事務処理、20:10契約車にて帰宅。21:00就寝.

徳川吉宗  vs  小泉(2)
 戦国時代の動乱が終了し
天下太平となったこの時代、武士は消費者となり商人は栄えた。武士階級の生活は次第に華美になり、商人は益々繁栄し町人文化が中心となり武士の生活様式も次第に町人化していった。要するに幕府自体は破産直前であったが民衆は比較的豊に暮らしていたことになる。吉宗は武士階級に対して生活を戒めるようおふれを出したが一旦華美、贅沢になったものを元には戻すことは困難,効果は殆ど上がらなかった。それならばと、町民生活全てをマルメてレベルを下げれば何とかなるはずと考えて、全て華美を禁じて統制一色にした。一般市民は節約を命じられ全ての楽しみを奪われ,灰色の市民生活になった。人々は物を買うことを躊躇い、結果として都市生活の活力が完全に失なわれ恐るべき不景気が到来した。

 時は昭和から平成、平和が維持され,市民生活も豊になり天下太平となったこの時代、国民は全員中流階級と自認し、消費を楽しむようになた。大量消費,大量廃棄が当たり前となり国の経済活動は栄え、日本はバブル経済に突入、大手企業はアメリカのビルを買いあさり,美術品を集めた。経済界中心の文化が栄え,国民の生活も次第に華美になっていった。こんな経済はいつまでも続くはずはない,やがてバブル経済も終息を迎えた。企業の業績は軒並み低下,特に金融界は大混乱。国の税収入は大幅に減少した。さらに,高齢化、その他の要因で支出が増加,国自体は破産直前であったが、それでも民衆自体は比較的豊に暮らしていたことになる。民はやすきに流れると言われるように,一旦華美、贅沢になったものを元には戻すことは困難である。これが不景気と言われる日本の生活なのか??と思われる現象は都会に出ていくと方々に見られる。歴代の総理、政府関係者は国民の離反による選挙の大敗を恐れ、笑顔を振りまきつつ国債を発行し続け、国民生活と国の経済は大きな解離状態になる。
 ここで登場の小泉さん,国の支出を抑制する為に大鉈を振るう。その矛先が消費一方で利潤を生まないとでも考えているのだろうか,社会保障の分野を主たる標的にしているから大変である,医療費の多くはマルメになり,働いただけの見返りもない。患者・医療関係者共に環境はすっかり灰色になってしまった。
 なんか似てますね,この時代。(続く)


11/ 6(木)曇り 日医医療関係者対策委員会(欠席)、四師会懇談会打合会 
1:30起床,ドック判定総括x1、主治医意見書等.4:00家内やっと帰宅。5:20Taxi病院着。事務処理後回診.9:00-13:30外来。本日は本来なら第3回日医医療関係者対策委員会で出張の予定であったが移動困難で欠席。原稿が検討されているはず.16:00入院患者家族と面会。17:30四師会懇談会打合会で秋田県看護協会に。18:30終了、19:00契約車にて帰宅。20:30就寝.

徳川吉宗  vs  小泉純一郎(1)
 八代将軍吉宗は徳川の経済危機を救った名将軍と言われている。小泉氏はどうかな?
 紀州家の三男坊であった吉宗は、二人の兄が相次いで死亡したために、思いがけず紀州徳川家の藩主となったが,当時紀州藩は経済的には完全に破綻状態にあったらしい。長子なら大切に扱われたのであろうが、三男坊は相対的に見れば冷や飯食いの人生しか約束されていない。そんな扱いを通じて生活感覚が育成されたらしく、吉宗は危機感を持ってこの藩財政打破に乗り出した。吉宗の打ち出したのは徹底した緊縮財政。自らにも贅沢をいさめ、質素そのものの生活を藩内に徹底した。5年間に及ぶ努力の末,藩内には経済的な余裕が徐々に生まれ始めてきた。吉宗の政策の正しさが実証されたわけである。
 あれこれあったらしいが,この辺のことは私は知らない。やがて吉宗は第八代将軍に就任する。当時は元禄文化隆盛時代で、放漫財政のツケがきて、完全に幕府も財政破綻直前の状態であった。将軍吉宗は、この危機を乗り切るべく紀州藩主時代にやったのと同様の緊縮政策を施行した。改革の中で最も大変だったのは放漫財政の元凶である大奥の刷新であった。これまで誰も手をつけられなかった領域に彼は大鉈を振るった。当然女どもの激しい抵抗にあったが、吉宗は断固としてこれをやり遂げた。

 時は平成。派閥も持たず政治家として相対的には冷や飯食いの人生で終わるかな??と思われた小泉純一郎は小渕、森と能力的にみてあまり相応しくない二人の首相が開けた大穴を繕う役目として、思いがけないほどの国民的人気を得て首相に就任した。冷や飯時代を通じて生活感覚,政治感覚が育成されたらしく、日本の経済的状態に関しての危機感は極めて大きく,日本の経済政策に大鉈を振るい始めた。「改革無くして展望無し」、「三方一両損」、「国民には痛みに耐えていただく」・・・は彼のキャッチフレーズ。大きな政策は持っているか否かは読めないところもあるが,とにかく経済的には国民に我慢を強いる締め付け。しかも,弱者いじめの傾向が見え隠れする。改革の中で最も大変だったのは放漫財政の元凶である自民党そのものの刷新であった。これまで誰も手をつけられなかった領域に対して大鉈を振るい始めた。議員の定年制をめぐっては老練の政治家を中心に激しい抵抗にあったが、小泉は断固としてこれをやり遂げた。

 なんか似てませんかこの二人。(続く)


11/5(水)晴れ 医療行政懇談会 電話相談関連打ち合わせ  
1:30家内帰宅の物音で起床。ドック総括x1、他。5:30Taxi病院着.医療行政懇談会発言準備、回診等。9:00-14:00外来+ドック結果説明x1+ドック診察x2。留学用健康診断記載に手間取る。16:00-17:50医療行政懇談会。総合司会担当。話題は県健康作り推進条例案医療安全支援センター病床種別届け出結果臨床研修問題自殺予防対策SARSグループホーム外部評価。18:30-19:00電話相談関連のミーティング。17:50帰宅。20:30就寝。

政治と健康と 医師と患者 健康で長生き
 本日は今年度の第2回医療行政懇談会が開催された。春と秋の2回開催され、行政と医師会の重要な意見の交換の場である。
 本日の話題の中では「秋田県健康づくり推進条例(仮称)について」に興味を覚えた。 厚労省が国民の健康推進の為にと言うことで「健康21推進計画」を全面に押し出し、各自治体が各地域毎に計画を悪性している。秋田版は「健康秋田21計画」である。厚労省の本音は,医療費の軽減が主目的であることは明らかであるが、まあ、あって悪くない方向ではある。この秋田版「健康秋田21計画」をより効果を上げる為の条例であるらしい。
 説明では,秋田県は健康・長寿という面では後進県で,ガン死亡率6年間、自殺死亡率が8年間トップを続けているし、平均寿命も男が全国46位、女が40位である。だから目指す目的は単純明快「健康長寿社会」に近づけることである。

 だからといって行政の押しつけは良くない。厚生省はかつて健康の為には一日30品目を食べなさいと指導した。大きなお世話だ。国民の食卓に政治が口を出す必要はないのだ。大体,そんな指示に従っていたら「健康なブタさん」になってしまう。健康で長生きするのが良い人生だとダレが決めたのか??満足して死ねればいい人生なんじゃないのか??

 政治だけではない。医療だって同じ。生活習慣病の予防が厳密な生活習慣で達成出来ると信じている医者にあたった患者は「あれはいけない、これも・・」という言葉を受診のたびに聞かされ嫌な気分を味わう。さんざん待たされ,イヤミを言われ,血を採られ,・・・それでお金をもらえるなら我慢もしようが,逆にお金まで取られる。医療って一体何なんだ??
 更に、それ迄楽しんで来たあらゆる愉快な習慣,生き甲斐さえも禁止される。医師の指示で本当に止めてしまうヒトは少ないが,少なくとも心から楽しめなくなる。昨日私の外来の隣のブースの医師と患者のやり取りはひどかった。70才を優に超えたと思われる女性は自分の生活信条であると言って一歩も引かず,医師の説明は次第にエスカレート,半ば脅迫に近い状況であった。結果は,年の功の方が勝っていたと言うところか。互いに捨てぜりふを吐いて診察は終了した様にきこえた。

 私はこれらの禁止の大部分を無用だと思うし、医師も説得が殆ど常に無効に終わるということを悟るべきだろう。どっちにしても死ぬものは死に、生きるものは生きるのだ。
 患者の側から見れば、医療は随分と押し付けの要素をもっていることになろう。生活習慣病、高齢医療を考えると、療養は長く、無症状に近い中での制限が強要される。患者の職業や立場,生活を無視して、常に治療を最優先にすることは難しい。
 患者は苦痛がなければ自由にしたい。苦痛があってさえも無理を続ける人々も少なくない。それが並の人間の姿なのだ。万事承知の上での自己決定もある。急性疾患のように一時的に堪え忍べば完全治癒が約束されるか、少なくとも質のよい生命が保証されるのであれば、誰もが医者の強制に耐えられるだろうが,医師は保障なんて出来やしない。

 さまざまな理由で難治のケースが跡を絶たない。治療法に窮したとはいえ、また患者が指導を守らないからといって、見捨てたり、逃げたりすることは許されない。次善,三善の策がベストの策であることも多々あるのだ。


11/4(火)晴れ,管理会議 抜糸 医師会打ち合わせ 長副会議 医局会
1:30やや早めに起床。ドック判定総括x1、 紹介状返事x1.5:20Taxi病院着.6:30回診、定期処方。8:00管理会議、9:00-13:30外来. 14:00整形受診抜糸.15:00病棟処置種々。医師会打ち合わせは時間とれずキャンセル。16:30-17:30長副会議.17:30-18:25医局討論会。20:30契約車にて帰宅。Vn、21:30就寝.

アキレスその後の経過 今日抜糸した 松葉杖にも慣れてきた
 右足のアキレス腱を切断、手術して丁度半月目。今日はやっと待望の抜糸を受けた。何故待望かというと,やはり入浴時の不便さからの解放である。受傷日,手術日も含め一日も欠かさず,時には2-3回もはいるのだが,シンクロナイズドスイミング調にギプスや装具を着けた右足を不格好に挙上しての入浴,これは楽しみの中の大きなマイナス因子の一つであった。今日から晴れて全身を沈められる。これだけでも嬉しい。

 最初の数日は慣れない松葉
杖で上肢の筋肉痛が生じて辛かったが、最近はかなり慣れて、移動時の苦痛は少なくなって来た。通勤時や、医師会とかの会議の際には松葉杖を使用しているがストレスはかなり軽減し,出かけるにも億劫でなくなってきた。しかも,普通の歩行よりも速く歩くことも可能である。病院内の移動,回診,処置等はもっぱら車椅子を使っているが、ちょっとした移動なら松葉杖の方が楽になった。

 松葉杖の持ち方、体重の支え方は使っているヒトを観察してみると3つのタイプに分ける事ができるようである。「腕と手に全体重をかける」、「脇の下に全体重をかける」、「手と脇の下に分散して体重をかける」、であるが、
この中で正しい使用法は「腕と手に全体重をかける使い方」であろう。私はその方法になれた。ただ、手掌と上腕にかなりの力が必要なので、事故とかリューマチとかで上肢の方にも何らかの障害を持つ方にはこの方法は無理。一人一人にあった方法をとるしかないようだ。ただし,腋に体重をかける方法だと神経を傷害して上肢機能に害を及ぼす危険があり、数ヶ月もしびれが残ったりすることもあるそうだ。

 「松葉杖の使い方」は筋肉痛も伴い,慣れるまでかなり時間を要するし、やってはならないこと、危険なこともあるが、実際には誰も教えてくれない。階段や段差は危険であるがあえて昇降しなければならないこともある。救急室で下肢を仮固定した後、看護師さんが荷重をかけないようにとの一言の注意だけで二本の杖を渡してくれただけで高さの調整などももっと細やかであって欲しい。結局は自分でコツをつかんだが,私が従業員だから説明を遠慮したのかな?患者さん方には詳細に説明する方がいいし必要なことだ。また,「松葉杖の使い方」程度の小冊子があっても良いと思った。

 車椅子で体得したことの一つは,左足で蹴って後ろに走るのが両腕で前に進むより遙かに楽だ,と言うこと。蹴る方向で舵取りもうまくいく。両手にものを持てるし,ぶれない。医局から日に何回かコーヒーを部屋に運ぶのだが松葉杖や車椅子の前向き走行では無理である。ただ,後ろ向き走行は廊下に人が沢山いるときは相手方に若干の恐怖感を与えるだろうからちょっと出来ない。やはり
「車椅子の使い方」程度の小冊子があっても良いと思った。


11/3(月)晴れ→雨 文化の日
。ドック判定総括x1、メール対応多数.住所録等検討。早朝から途中でVn何度か挟みつつ終日業務、読書など。午後、日医委員会原稿一応一段落とし、日医に送付。大曲SARS準備他、県医師会原稿校正。病棟より10数回程度の電話連絡あるが何とか対応し終日居間で過ごす。今日も尻に褥創が出来そうな日であった。20:00一旦就寝、21:30家内帰宅?22:00熟睡中起こされて夕食摂る。22:30再度就寝。

この連休、自宅で過ごす。時間がゆっくり流れる、これは怪我の功名か。
 昨日と今日の二日間はじっくりと自宅で過ごした。出張で秋田を離れるとき以外は自宅で終日過ごすことはまず無かったが、先週の日曜日と今週の連休は動きが不自由なことを良いことに出勤せずに過ごした。
 この間,比較的安定している療養病棟とはいえ35名ほどの入院の受け持ち患者がいるので病棟からの電話はひっきりなしにかかって来た。常に気持の上では必要があれば患者を診に行けるようスタンバイ状態にあるが、幸い軽い変化のみであったので電話の対応の範囲で済ませられた。これが自分が受け持っている病棟以外からの連絡であれば何度か出かけなければならなかったであろう。あうんの呼吸が出来ている分,助かったが,それに甘んじてはならないと自分に言い聞かせる。

 殆ど自分の定位置になっているテーブルに陣取り,前にはパソコンとミニオディオの各機器,左のワゴンには業務上の資料等を積み上げ,右には読みたい本を積む。後ろには楽器と楽譜を並べ,一区切り毎に右に,左に,後ろにと向きを変えてリフレッシュ。実に機能的。土曜夜以降,殆ど終日この状態で過ごした。おかげで,遅れ加減でどうなるかと思っていた日本医師会医療関係者等検討委員会の報告文のVer3.1を土曜からの三日がかりで一応終了させることが出来た。若干尻が痛くなった。
 Vnの練習もかなり出来て弦をおさえる左の指先が痛い。

 次の懸案は秋田市保健所と大曲市医師会のSARS関連の講演の準備と医療評価機構の受審準備である。少しずつ進めることが出来たがこれらも予定よりは大幅に遅れており,些か心配ではある。

 アキレスを切ったことで得られた,時間が比較的ゆっくり流れた終末の日々。怪我の功名の一つ。
 側で飼い猫が終日のんびりと日向ぼっこしながら過ごし,時折背筋を伸ばしたり,毛繕い,欠伸している。かまって欲しいときは足下でニャーと鳴く。しばし背中をこすってやる。彼女らの人生は15年ほどというが,「こんなにゆったりと時間が流れるなら,お前にとっては決して短くはないだろうね」,と婆さんネコに話しかけた。


11/2(日)晴れ   
1:30起床、ドック判定総括x1. 退院総括、紹介状処理。日医委員会報告書関連。午前に見舞客数人来訪。大曲SARS関連講演準備開始、スライド作成など。時折Vn練習を挟んで終日。15:00-16:00午睡。病院からは数回連絡、電話対応で済ます。20:30就寝。10数時間坐位にて過ごして尻に褥創が出来そうな一日であった。

自伝 大学時代 医進2年(1965〜71)(15)
時間的に余裕の出来た医進過程2年次 オケで初舞台を踏む
 1年次に医進課程で必要な単位の2/3ほどを取ったので4月からは授業に関しては実にゆったりとしたスケジュールとなった。更に2年次の講義の選択は4日間に集中する様に計画したので週の内、火曜日、木曜日は講義を入れない様に計画できた.その代わり他の曜日は土曜を除くと終日講義があった。
 時間的には余裕が生まれたのでひたすら楽器の練習と読書に集中した。

 昭和41年6月18日は医学部管弦楽団第39回定期演奏会で私の初舞台でもあった。開場は復旧した新潟市公会堂。曲目は 1)小林勝郎 弦楽のための2楽章 2)ベートヴェン交響曲第7番第二楽章 3)ロッシーニ「アルジェのイタリア女」序曲 4)モーツアルト ピアノ協奏曲第23番 5)ベートヴェン交響曲第1番 であった。1)2)は前年にお亡くなりになった部長の田中宏皮膚科教授追悼として演奏したものである。練習は前年の秋から始めていたが初心者の私が十分に弾けるはずはない。特にこの時の楽器配列は2)ベートヴェン交響曲第7番第二楽章のVn間の掛け合わせを引き立たせるために第一、第二Vnを対照に配列したので最も後席とはいえ客席に最も近いところであり強度に緊張し無我夢中であった。特にモーツアルト、ピアノ協奏曲第23番では難しい上に速く、出来る所だけ時々音を出したような気がする。だからこの曲を聴くたびに、---実は今もバレンボイムの名演奏を聴きながら書いているのだが---あの時のことが思い出されて、恥ずかしい思いに駆られる。それでも自分の出す音がうまくハモった時の感覚は何とも言われない心地の良いものであった。2)-  5)は私の思い出の曲となっている。 


11/ 1(土)快晴  
1:30起床、ドック判定総括x1. 再検査結果報告.医師会関連文章校正、5:40Taxi病院着、回診他。10:30-12:40外来。院内業務その他、17:00契約車にて帰宅。Vnなど、賄いの石井さん箱根に出発、家内は多忙で帰れず、と。19:00出前にて夕食、20:30就寝。

HP開設二周年を迎えて
 当ホームページは、本日で開設二周年を迎えました。

 自分自身のために、と思って気軽に始めた試みでした。その際に立てた目標は、可能な限り連日更新すること、ということでした。「小さなことでも継続し続けることは、得られた結果以上に、自分にとっては価値あることなのだ」は、自分の性格にも合っているのでしょう、自然と私の生活信条の一つになっています。

 私は文章を書くことはそう嫌いではありませんでしたが、書字は苦手でどちらかと言うと文章の作成は億劫でした。15年ほど前にワープロを購入してからはこの辺のことは一変しました。キーボードに向かうことはまったくストレスにならないどころか、むしろ良いストレス発散の手段になってしまいました。
 で、この便利な道具、メディアを捨て置くのは惜しい、とホームページを立ち上げたときに連日更新を第一の目標にしたわけです。時間におわれて何度か穴を開けそうになりながらも、ヨタヨタながらなんとか継続できました。

 この間、予想した以上の多数の方々のご訪問いただきました。貴重なアドバイス、感想なども多数いただきました。心から感謝申し上げます。

 今後も、目新しいことは何も出来ませんが、同様の目標を持って継続していきたいと思っております。
 今後ともよろしくお願いいたします。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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