徒然日記
2018年8月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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8/ 31(金)降雨終日 大曲中通病院 飯川病院ボランティア   
 0:20起床、新聞・文献他、本読み。5:10可燃ゴミ提出。7:30Taxi、8:45-12:15大曲中通病院徒歩出来ず、復路は徒歩。13:30飯川病院ボランティア。18:00Taxi、View経由で帰宅、家内は孫と夕食、わたしは自宅に、オーディオ回路検討。夕食、20:30就寝。CDデータ化。歩数計11640歩。

秋田県立博物館、県立美術館 あきた大鉄道展(3) 鉄道の思い出(2)
 
(1)羽越線遊佐駅で事故にあう
 最も思い出深いのは遊佐駅での脱線、ホームへの激突事故である。
 日付は忘れたが、多分、1980年代前半のこと。初夏の超快晴の暑い日であった。骨髄移植関連のセミナーに出席のために特急いなほで新潟に向かっていた。
 車内はガラガラで私が乗っていた車両は数人だけであった。10:30am頃、遊佐駅の手前、線路工事中のところで若干徐行したように思えたが、そこを通過直後に大きな衝撃で身体が浮き上がり、その後もしばらくガタガタと走った後、駅構内で前のめりになる様な大きな衝撃と共に列車は急停止した。
 乗っていた車両は特に損傷はなく、ドアも通常に開いた。線路に降りてみて大体の状況が理解出来た。列車はプラットホーム側に脱線し、枕木の上を30cmほど左側にずれた状態で数十m走行し、先頭車両の左側がホームに食い込んでいた。ホームは5-6mも削り取れられ、一部は列車に押しつけられ激しく盛り上がっていた。一方、先頭車両は車台の一部が大きく変形していたもののそれほどの損傷でなく、列車は随分丈夫に作られているものだな、と感心した。
 遊佐駅は停車駅でスピードを落としつつあった。それでもかなりの衝撃であった。
 列車、といえば私はいつもこの事故が思い出す。その後はこのような事故には遭遇していない。

(2)新幹線は潜在的に恐い
 現代の生活の中では私どもは住居にしろ、交通系にしろ、職場でも、ほぼあらゆる場面で巨大な建造物やシステムの中に身を委ねている。私は巨大な建造物、高速の移動手段などを用いる度に、技術・科学・文明の進化の素晴らしさを享受する一方で、いつも底知れない恐怖感を覚える。実際にはそれらを避けて暮らせないだけに、何時かは事故に遭遇する可能性は有り得るという、ある種の諦めの気持ちも持っている。
 私にとっては新幹線などは感知できないブラックボックスで、すべて他人様任せにするしかない。
 だから、新幹線に乗るのが怖い。なるべく乗りたくない。秋田新幹線区間はまだ120Kmで走っているからまだ良い。東北新幹線盛岡-宇都宮間は320Km 。
 私は人間の叡智、人的システムなどはいつかは「人的ミス」で破綻する、と思っている。
 昨年の東海道新幹線のぞみの台車亀裂問題など信じがたいが、その後の対策を信じるしかない。
 一つ一つの事故を教訓にして一層安全性を高めて欲しい、と願うしかないのが悲しい。

(3)昨年、青函トンネル内では緊張した
 青函トンネルは、湧き出す海水を止めるため、岩盤にセメントと液状ガラスを注入する先駆的な手法が応用されている。
 1988年に完成、現在は1曰に26本の新幹線と最大50本の貨物列車が走行し、人や物流の大勣脈としての役割を果たしている。
 維持管理には、海底トンネルならではの問題が横たわる。トンネル内には毎分!!!約20tの海水が湧き出る!!!ため、複数のポンプで水をくみ上げている。また、海水の塩分と高い湿度でレール等の金属がさびやすい。JR北海道はレールや架線などの設備更新に、18年度は20億円を見込む。前例のないトンネルの管理が必要で、今後もどんな問題が生じるのか予測が難しい。
 もし停電で新幹線が停止し、ポンプが停止した際どうなる??

 私は昨年10月青函トンネルを初めて通過したが、たまたま問題点を知っていた為に往復とも緊張した。他の乗客たちは平然として乗っていたのが不思議である。

 自分が関与できるレベルは住宅ならほったて小屋、交通手段ならせいぜい自転車程度でしかない。これ以上になると他人様任せの部分が増えてくる。そうなれば自分で安全を確保できなくなる。だから、自分は恐怖感と不安感から逃れ得ない。

 「あきた大鉄道博展」を見てたゆまぬ技術の発展に驚くとともに、悲観論者である私は、とんでもない世界に暮らしているものだ、と再確認してしまった。


8/30(木)早朝から降雨大雨注意情報 外来 飯川病院
1:10起床。新聞雑誌データか。録音データ整理。8:10家内に同乗飯川病院着、8:45-13:00外来。混雑無しも時間のかけ過ぎ反省。ドック関係判定総括14名分。14:00-18:45飯川病院勤務。入院患者処置2名。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計5684歩。

秋田県立博物館、県立美術館 あきた大鉄道展(2) 汽車の思い出に浸る
 私は幼少の頃から鉄道が大好きであった。
 田舎だったから乗る機会はそれほどなかったが、7-8Km歩いて、あるいは自転車で東北本線矢幅駅にはしょっちゅう見に出かけたし、盛岡の親戚に泊まった日は5:00am頃から起き出し盛岡駅に列車を見に行った。雪を蹴散らし白煙を上げながら勇壮に走ったSLの姿は今でも鮮明に思い出す。

 小学6年生の修学旅行で松島に、中学で道南をおとづれた。前者では海を初めて見た。後者の場合、往路は青函連絡船を含め三等車、復路は驚くことに全コース2等車で戻ってきた。当時1等・2等車は高額で一般人はあまり利用できなかったのに。
 何ということは無い、修学旅行の間に3等車が廃止になり2等に昇格しただけで内容は変わることはなかった。

 鉄道を頻回に利用し始めたのは昭和39年高校卒業以降、弘前、新潟、札幌への受験、仙台の予備校に行った時から。

 大学の時は東北本線で仙台経由で磐越西線で新潟間を6年間往復した。仙台までは鈍行か急行、磐越西線は準急を利用、片道7時間ほどかかった。帰省の列車往復に乗る度に固い座席、直立した背もたれで腰痛に悩み、何で新潟大学を選んだのか、幸運と悲運を呪ったのも懐かしい。

 昭和46年、卒業後は宮古市にある県立宮古病院に2年間勤務した。1年後は車を購入したので乗る頻度は少なくなったがそれまでは盛岡宮古間は山田線で頻回に往復した。とにかく区界峠ごえがあり、ノロノロ、かつトンネルだらけの線であった。子どもはトンネルが大好きで、はじめはしゃいで歌など歌っているがあまり多くてそのうちに飽きて寝てしまうのが常であった。

 昭和48年、秋田に転居。住居は家内の勤務の便もあって秋田市土崎に住んだ。
 ここは日本で有数の鉄道の町であった。明治45年6年間の工期を経て工場が完成、全国的に「土崎に国鉄工場有り」としられた。従業員は昭和22年2500名を数え、街は職員とその家族たちで活気を呈した。土崎工場は現在「JR東日本秋田総合車両センター」となったが、土崎が鉄道の町であることには変わりがない。
 土崎地域で診療に当たると国鉄関係者、JR関係者が多く、いかに文化的に巨大な組織であったかを知ることが出来る。

 平成7年(1995)県医師会理事になってからは頻回に上京することになり、時間の関係でほとんど空路となったが、それまでは学会を中心に東京、北海道、九州などを訪れたが、ほとんど列車であった。

 今はほとんど消えたが私が頻回に利用した列車は、
 ■在来線では「日本海」「白鳥」「あけぼの」「羽越」「はつかり」「つばさ」「いなほ」「青葉」「天の川」「ひばり」「やまばと」「むつ」「鳥海」「たざわ」などなど。探し出すとまだまだありそう。 
 ■新幹線は「こまち」「スーパーこまち」「つばさ」「こだま」「ひかり」「のぞみ」。


8/29(水)快晴 飯川病院ボランティア 
1:00起床、文献検討、新聞チェック。12:07バス飯川病院、院長外出予定、検食なしで即席じゃじゃ麺、これがおいしい。新聞チェック、微睡。CDデータ化進める。19:00帰宅、夕食、20:00就寝。歩数計12255歩。

秋田県立博物館、県立美術館 あきた大鉄道展(1)
 去る8月18日、秋田県立博物館で開催されている「あきた大鉄道展」を見た。17日は横手の県立近代美術館で「チーム・ラボ」の展覧会を見たばかりである。このようにタイトに動く理由は、横浜からF一家が墓参りを兼ねて明日までの予定で来秋しているからで、その歓迎を兼ねて秋田で開催される催しを訪ねている。

 秋田県立博物館は日本庭園「水心苑」のある明美な県立小泉潟公園内にあって、自宅から北に約10Kmなので、自転車散歩にもちょうど良い。片道約30分である。

 県立博物館で7月14日から8月26日、市内にある県立美術館で8月3日から8月26日まで2施設で「あきた大鉄道展」が開催された。

 この企画には展示図録集が発行されていた。会場で実物の展示を見る事は基本的に大事であるが、記憶には残らない。今回の図録集は写真が豊富に掲載されており見逃す手は無い。県立博物館では買いそびれたので8月24日第二会場である県立美術館での展示を見ながら購入した。
 資料集として素晴らしい出来である。懐かしい列車が豊富に登場する。

 展示図録集に県立博物館長のあいさつ文が載っていたが秋田の鉄道史について手短かにまとめられていた。
 私の乏しい知識で解説するよりずっと素晴らしいので全文を引用させていただく。

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            ごあいさつ

 秋田県立博物館と東日本旅客鉄道株式会社秋田支社は、このたび共同で実
行委員会を組織し、特別展「あきた大鉄道展HE-30系」を開催する運びと
なりました。「HE-30系」とは「あきた大鉄道展」の平成30年度版を意味
します。
 日本における鉄道の歴史は明治5年(1872)新橋一横浜間の開業から始ま
り、東北地方に鉄道網が広がるのは、明治24年(1891)私鉄日本鉄道によ
る上野-青森間の開業です。そして、秋田県と首都圏がレールで本格的に結
ばれたのは、明治38年(1905)9月14日の奥羽線全線開通で、この日秋田
駅前で開かれた祝賀会には、数万人が集まり、立錐の余地なき空前の盛況だっ
たといいます。この日、来賓として挨拶した当時の秋田県知事岡喜七郎は
「鉄道開通により中央市場と結ばれることで、本県は大いに発展する」と述
べました。
 しかし、近現代史をひもとくと、鉄道により輸送の利便性が高まったこと
が、必ずしも秋田県の発展に利することには繋がらなかったということを教
えてくれます。
 日本の発展は太平洋ベルト地帯に位置する工業の振興が基軸であり、その
中で秋田県に求められたのは、労働者と食料の供給でした。特に戦後の高度
経済成長期、秋田県内の各駅では、家族と別れを惜しみ都会へ旅立つ多くの
若者、農業の機械化により現金収入が必要となった出稼ぎ労働者の姿がそこ
かしこにありました。また、高学歴社会の到来と共に、他県の高等教育機関
へ進学するため、多くの若者が旅立っていきました。
 「あきた大鉄道展HE-30系」では、特に昭和36年以降のダイヤ改正に着
目し、どのような列車が登場しては、消えていったのかを問題意識として資
料を展示しました。
 展示を御観覧される皆様方におかれましては、歴史の彼方に走り去った一
つひとつの列車には、乗客のドラマも乗せていたこと、そして、その列車の
安心・安全運行のために全力を尽くした鉄道マンがいた、否、いるというこ
とにも思いを巡らせて頂ければ幸いです。
 最後になりましたが、本展を開催するにあたり、秋田県立大学、公共交通
各社、諸機関、資料所蔵者の皆様に厚く御礼申し上げます。

                 秋田県立博物館館長 山田浩充
    東日本旅客鉄道株式会社 執行役員 秋田支社長 菊地 正

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(懐かしい列車が並ぶ「あきた大鉄道展HE-30系」展示図譜表紙)


(新旧の列車 秋田駅 SLの蒸気と煙とスーパーこまち 図譜より)


8/28(火)降雨の予想外れ快晴 外来 飯川病院 
0:30起床、文献検討、新聞チェック。徒歩飯川病院着、8:45-12:30中通外来、比較的余裕。12:45飯川病院、微睡など。14:00-18:30飯川病院。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計11820歩。CDデータ化。

終活2018(13) 終活のスッキリ感(2) 家族間の調整だけは未だスッキリせず
 現在私は終活中である。

 終活の中で物品を捨てると言うことは実際ストレスは少ない。やろうと思えばいつでも可能である。

 人間関係が絡んでいるものは結構対応難であるが、私は自身の姻戚関係は居らず、よその方々とはほとんど関係を絶っているからそれほどの問題は無い。

 家庭内の人間が絡んでいる部分は、私自身のことはもう決めてあるから問題は少ないが、家内、3人の子供たち、およびその関係者の方々、それぞれの思惑があるだろう。年に何回か一堂に会することがあるが、なかなか調性の話し合いがすすまない。

 ■私の延命治療回避についての徹底、在宅医療の希望については家族間周知今一歩。 
 ■私の死亡に関しては家族葬として葬儀屋を予約した。これも家族間周知今一歩。
 ■死亡時の連絡先、当面家族としてやるべきことなど――リストアップ終了。

 私の親戚関係は兄嫁に一報いれるだけ。子供達関連の方々にも伝達のみで良い。
 生活域としては町内会、隣近所のみ。急死は別だが、緩徐に死ぬならその前に一切の行動は不要と伝達しておこう。
 勤務関係、医師会くらいか。知ってもらうだけで、一切の対応は不要としておく。

 ■家内に関しては、まだ彼女が現役であることから簡単には行かない。本人も社会通念に沿った対応を考えているようだ。だから、この点は未定のレベルでとどまっている。日々その日が迫ってきているわけだから、いつまでも未定のままにはしておけない。本人は病身なのに深刻さが無い。羨ましい性格である。 
 
 ■生命保険、預金の整理とまとめは大体終了。相続に関しては生前贈与を含め具体化数件進めた。受取人再指定した。 
 ■墓の処遇:郷里の墓じまいなど対応開始。寺にはまだ相談していない。 

 終活では、お金の面のも大事であるが、当面は物品の片づけが問題となる。
 そもそも核家族化が進み、親世代は高齢夫婦の二人きりの生活が大部分である。しかし、まだまだ元気な親世代は、終活を自分の問題としては捉えられない。考えていても億劫で手が付けられない。子供世代も日々忙しく働くなかで、先延ばしにしてしまっているのが現実と思われる。

 子供達が都会で働き、実家が遠方にある場合はなおさらである。
 さらに、親世代と子供世代の価値観の相違はとても大きい。親世代の物品は住宅を含めて殆ど不要品である。私の場合、長い間に集めた書籍、音楽ソースなどは私にとっては未だに高価値であるが、子供達にとってはゴミそのものである。

 よく、「自分が死んだら全部捨てても構わない・・」との割り切った意見も聞かれるが、言われるまでも無く親の持ち物など迷惑以外の何者でもない。廃棄を業者に依頼すると住宅を除いても100万円近くもかかる。コレだけでも負荷である。

 私は価値を認めない人の手によってゴミとして物品が処理されるということは、私自身の人生がゴミ扱いである。だから、私はその価値を惜しみながら自分の手で処分する道を選んでいる。

 終活といえぱ人生最終盤の行爲と考えがちだが、終活を通じて新しい展望も見えてくる。だから出来るだけ早めにはじめるべきだ、と思う。


8/27(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院 
 0:30起床。文献、新聞チェック。データの電子化。7:15徒歩飯川病院。新聞チェック、9:00-11:00健康クリニック、ドック診察14名。12:00飯川病院へ、微睡。 14:00-19:15勤務。19:10帰宅、夕食。21:00就寝。歩行Σ10835歩。CDデータ化。

終活2018(13) 終活過程で目覚めたスッキリ感(1)
 現在私は終活中である。
 終活は物品を棄てることなども関係するからどちらかといえば、死ぬ前に自身で身辺整理をして置くと言う、自分の今までの生きてきた証を捨てていくと言う下向きの行動なのかと考えていたが、実際は逆であった。

 終活は私の残りの人生にとってより積極的な意味付けがあると気付いた。

 終活を通じて私がみつけた楽しみはいくつかあるが、大きいのは、所有物が少なくなっていく程にスッキリする感覚である。

 私は性格的にケチだから物を捨てられない。だから、利用価値が乏しい品とわかっていながらなかなか捨てられない。その第一は書籍、第二は音楽のソースとしてのレコード、カセット、MDであったが、レコードも半分程になったし、カセット、MDは全部廃棄した。
 最近、手をつけ始めているのがCD、DVD、Blu-reyである。
 オーディオ装置も大部分廃棄した。廃棄し過ぎてまともには音楽を再生できなくなった。
 書籍も随分廃棄した。趣味の木工細工用の廃材など、これはまだ手がつかずにガレージの2Fに山積み状態である。

 所有物が少なくなっていく程に何故肩の荷が下りたようなスッキリする感覚が得られるのだろうか。

 私の場合は、大きく分けて以下の3点だろう、と思う。
■かけた経済的コストに対する反省の自省の念、随分浪費したものだ。
■物品が物理的に空間を大きく占拠。
■さらに、求めながら十分利用しなかった、出来なかったということに対する慚愧の念。

 ロクに聴けなかったのに買い求めた音楽ソース、読む時間が無いのに買い求めた書籍が書庫に積み上がっていた。これらを見る毎に私は反省してきたし、これらの物品はもの言わずに私を苛んできた。
 私の人生は浪費の人生であった。私は反省している。

 これらの物品が終活という名のもと、私の目の前から次々と消えて行った。
 目の前から消えたということは、私が感じていた日々のプレッシャーから私自身が解放されることでもあった。見えなくなればあとは忘れていくだけ。
 
 終活によって得た大きな解放感、その理由を考えてみた。


8/26(日)降雨 飯川病院日直 
1:00起床、本読み、データ整理他。8:30降雨それもかなりでレガシーにて飯川病院。日直業務に着く。患者対応無し。新聞入力、らじるらじるでNHKのど自慢、微睡、データ中心、CDデータ化。17:45レガシー帰宅。以降は文献読み、新聞切り抜きなど。録画NHKのど自慢、19:00夕食。自作の枝豆収穫直ちに食卓に、美味かった。Mac miniやはり不調、歩行Σ9697歩。

終活2018(12) 終活の進行状態 終活はできるだけ早めに開始するのがいい
 現在私は終活中である。終活は物品を棄てることだけに限らない。
 昨年6月に、私とって終活すべき対象をピックアップした。
 その後いろいろ進めたのでその進行状態をチェックした。6月時点の懸案レベルを100として現状の到達点の評価は以下のごとくである。
――――――――――――――――――――――――――――――
■住宅メインテナンス―-(90)日常のメインテナンスで良いレベルまで。
■庭木・灌木などなどの整理―(90)日常のメインテナンスで良いレベルまで。 
■隣家との境界の線引き―(0)隣家とその隣家の問題だから微妙。
■クレジットカード―(90)不要・未使用カードの解除と廃棄。必要最小限の数枚に限定。 
■インターネット・メール関連プロバイダー―(90)最小限に限定。 
■各種団体の会員証など―(100)全て脱会、或いは廃棄。
■学会認定医・専門医―(90)日本内科学会のみ残した。
■預金通帳の整理とまとめ―(100)2銀行のみに整理した。内容も確認。 
■経過した生命保険の整理とまとめ―(90)状況を把握、受取人再指定した。 
■写真整理―(70)不要な写真廃棄、必要なものはスキャナーで電子化。
■蔵書―( 30)廃棄と自炊による電子化進行中であるがまだ大量に残っている。 
■レコード( 30)、CD( 60)など―現在進行中。ミニディスク(100)はすべて廃棄。
■オーディオ製品(30)、ほとんど廃棄、スピーカーのタンノイGRFが残っている。
■私の延命治療についての徹底(90)―--家族間周知今一歩。 
■在宅医療の希望について(70)――無理か?家族間周知今一歩。
■死亡時の連絡先、家族としてやるべきことなど(100)――リストアップ終了。
■私の葬儀について(50)――葬儀屋を予約した。葬儀自体は不要だが、家族間周知今一歩。
■墓の処遇(10)――郷里の墓じまいなど対応開始。寺にはまだ相談していない。 
■相続(50)――生前贈与を含め具体化数件進めた。 
■私の実母の遺品整理―(100)終了した。
■木工用資材など―(50)いつでも捨てられる様に準備中。
■その他、遺影、一人暮らしの生活準備など―(10点)種々検討中。
■パソコン関係の整理・廃棄、電子データ等の整理―(50点)現有のデータはいつでも捨てられる状況にしてある。
――――――――――――――――――――――――――――――

 まだまだありそう。これだけ懸案事項が残っていると簡単には世を去れない。

 終活を通じて楽しみを発見した。
 一つは、所有物が少なくなっていく程にスッキリする感覚である。
 二つ目はいつか手につけなくては、と思いながらズルズルと引き伸ばしていた懸案事項を意識的に整理できた事。
 もう一つは、書籍やレコードの廃棄作業を通じて、かつて集中して読み、聴き、書庫や倉庫の奥にしまい込み、記憶からも薄れ始めていたものの価値の再発見である。

 いま、私は古い書籍をなつかしく再読し、曲を再聴して楽しんでいる。これが古い記憶にある資料だけに実に楽しい。だから勿体無くてなかなか死なれない。
 終活を通じて知った楽しみを考えると、就活はできるだけ早めに始める事だ、と思う。


8/25(土)曇快晴 大曲花火
 1:45起床、新聞・文献他、本読み。午前は東側の草刈り、南側一部、汗びっしょり。午後は微睡ご書斎の整理、オーディオ配線等調整。Blu-rey:「先週分NHK喉自慢」「N響定期カバレフスキーVc協奏曲」「チャイコNo5尾高指揮」、「ららら、Beeth No9」,「題名の無い:打楽器」、19:00夕食、TV 大曲花火 若干、20:30就寝。歩数計10933歩。

財政再建2018(6) 「経済財政運営と改革の基本方針」社会保障どうする?
政府が本年6月新たな骨太の方針「経済財政運営と改革の基本方針」を決定した。

 2度の消費税増税延期で揺らいだ財政再建をどうするのか。そのもとで、社会保障改革をどう進めるか。
 私は上記2点を注目して見たが、よく分からない、踏み込み不足??。

 今回の方針では、
―――――――――――――――――――――――――――――-
■新たな借金に頼らず政策経費を賄う基礎的財政収支プライマリーバランスを黒字化する目標を、20年度すると表明していたが、それを25年度へ5年遅らせた。
■社会保障は「高齢化による増加分に相当する伸びにおさめる」としたが、具体的な数値の目安は示されていない。
■「給付と負担の在り方を含め社会保障の総合的かつ重点的に取り組むべき政策」は20年度に取りまとめる。
―――――――――――――――――――――――――――――-

 社会保障費の伸びを毎年5千億円に抑えることを目安にした16-18年度は薬価制度の改革、ジェネリック薬の強力な導入指導、生活保護費の減額などを進め一定の成果があった。しかし、この方法での歳出の抑制は限界で、早急に他の方法を考えなくてはならない。

 社会保障費、国民医療費の伸びの抑制には、
■医療や介護で高齢者にも応分の負担を求める。---―-高齢者の経済状況はピンからキリまで幅広い。だから、私は年齢でなく所得に応じた有効な配分にすべきと考える。

■日常的に見られる軽微な疾患に対する保険の給付範囲を見直す必要---―-日本の皆保険は給付が厚すぎる。私は範囲を狭めるべきだ、と考える。基本的に自然治癒力で、時間が治すような疾患は除外してもいいと考える。「軽微な病気は、自然が治し、時間が治しているが、医療費はちゃっかり医者が受け取っている不思議な世界である」、という揶揄もある。
■我が国独自と言われるような患者の頻回の受診行動、医学的に根拠が乏しい検査や治療が多い。--------再検討し、除外すべきである。

■終末期医療のあり方の議論を避けてはならない。

 医療そのものにも手をつけなければ医療費抑制は不可能とおもう。
 ところがわが国は選挙が政策に幅を聞かせる。
 与党内には、負担増や給付カットの議論は来年後半以降に先送りしたいという空気が強い。
 間も無く総裁選挙がある。全ての政策は支持率、得票率につながるからである。
 さらに、来年春に統一地方選、夏に参院選、10月に消費税10%への引き上げと、政治的に大きなイベントが続く。

 安倍首相は日本の経済を、社会保障を、国民医療費をどうしようとしているのか??国民の希望に迎合していては取り返しがつかなくなる。


8/ 24(金)早朝から降雨終日 風強 大曲中通病院 飯川病院ボランティア 県立美術館  
 0:20起床、新聞・文献他、本読み。5:10可燃ゴミ提出。7:30Taxi、8:45-12:15大曲中通病院徒歩出来ず、13:10ルミエール落語購入、県立美術館、大鉄道博、記録集購入。飯川病院ボランティア。18:45帰宅、夕食、20:30就寝。CDデータ化。歩数計9883歩。

財政再建2018(5) 年次経済報告2018年度版を初めて読んだ(2) 物足りない印象
 経済財政白書2018は、アベノミクス礼賛で終始している印象である。

 以下の如くである。
 わが国の経済はアベノミクスの効果で2012年から緩やかな回復をきたし、回復期間は戦後最長に迫っている。名目GDPは過去最大を記録して、地方にも好循環が波及し順調な経過をたどっている。
 アベノミクスが確かな成長をもたらした。さらに高い効果を求めるには何が必要か、追求する必要がある。

 ソサイエティ5.0とは新たな社会に向けての人のあり方を論じている。
 第4次産業革命に関しては、AI、 IT導入などでかなりの労働力が不要になると考えられるが、人間は代替されてしまうのではなく、時代を補完する存在として有能な人材が重要になるから、人材育成が求められている、と記載する。

 私は最も知りたかったのは、
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
■異次元金融緩和の行方、
■脱デフレの達成の度合と目標、
■現在問題になりつつある貿易摩擦問題への対応、
■わが国が抱える巨額赤字についての国としての考え方、
■少子高齢化社会における社会保障のあり方
■・・・・
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
などであるが、これらにはほとんど踏み込んでおらず物足りなさを感じた。

 私にとっては不案内な分野であるが、年次経済報告書は経済白書の時代と様変わりしてきているように感じられる。
 うろ覚えであるが、かつては、いろいろな立場から、もっと厳しい切り口で我が国の経済を論じた報告書だった、ように思われる。

 2001年小泉内閣は聖域無き改革として多くのことを成し遂げた。
 官から民へ、大幅な規制緩和、中央官庁再編などを断行した。小泉元首相は引退してからも今だに人気が高いが、彼がなし得てきた改革路線は果たして正しかったのか、検証を擁するところである。

 経済白書は重要な経済文書として高い信頼を確立してきたが、経済白書から経済財政白書と名前を変えたが、その後すっかり内閣のPR誌になってしまった、と惜しむ見方がある。

 本来の白書のあり方は、現政策の追認だけでなく、そのマイナスの面にも鋭く切り込んで行くべきものでは無いだろうか。
 もっと立場のことなる方々、異論を唱える経済学者達の考え方もひろく提示する白書であってほしいと思う。


8/23(木)快晴暑い 外来 飯川病院 
 1:20起床。文献読み、PDF化他いつもの如し。7:30徒歩で飯川病院着、8:45-13:30外来+人間ドック判定総括12名分。飯川病院へ移動、微睡。14:00-18:50飯川病院勤務。入院患者対応、19:10帰宅。えだまめ用意、夕食。20:50就寝。歩数計16458歩。

財政再建2018(5) 年次経済報告2018年度版を初めて読んで見た
 日本の経済は現在はしっかりした足どりで推移していると評価されている。 
 昨年はトランプ大統領就任後も大きな経済的ショックはなかった。しかしながら、今年になってトランプ大統領が牙を向き始め、世界的に経済的混乱が始まってきた。
 日本の景気は不透明感はぬぐえない。世界の景気に支えられているだけで、今後は鈍化する事が予想されている。

 日本経済は膨大な借金を抱えあぶないと思っている。次年度予算も検討されているがさらに拡大路線上にあるようだ。為政者達は何を考えているのか、そんな疑問があるので年次経済報告2018年度版の要約を内閣府のHP読んで見た。
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 2018年度版年次経済報告は8月3日に閣議を経て発表された。

 まず白書の位置付けであるが、白書は中央官庁が現在の状況や方針を広く知らせるために毎年発行される。国民生活白書、通商白書など多数発行される。
 
 年次経済報告はかつては経済白書と呼ばれた内閣府による経済報告書のことであるが、2001年から経済財政白書に名称が変わった。
 白書の性格も変り,記述の重点は政策志向型から実体分析におかれるようになった。経済各分野にわたる総合的分析と今後の経済の動き、および経済政策の方向を示唆するものとして,最も権威あるものとされている。

 私にとっては難しい分野である。今年度の白書の構成は以下のごとくである。これらにはPDF形式の説明が付随している。
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第1章 景気回復の現状と課題
 第1節 景気回復のモメンタムの持続性
   1 戦後最長に迫る景気回復の背景と持続性
   2 地域経済における回復の進展
   3 需給ギャップの縮小と潜在成長率向上への課題
 第2節 景気回復の進展と経済再生に向けた進捗
   1 家計部門の動向
   2 企業部門の動向
   3 デフレ脱却・経済再生に向けた進捗と展望
   4 賃上げの状況
 第3節 消費行動分析の新たな視点
   1 インターネットを利用した消費やシェアリング
   2 ビッグデータ・AIを活用した消費分析
 第4節 財政金融政策の動向
   1 金融政策の国際比較及び実体経済への波及
   2 経済・財政一体改革への取組

第2章 人生100年時代の人材と働き方
 第1節 技術革新・少子高齢化を踏まえた労働市場の課題
   1 技術革新が労働市場に与える影響
   2 少子高齢化の下で求められる働き方の多様化
 第2節 人生100年時代の人材育成
   1 技術革新に対応したスキル習得の推進
   2 企業における人的資本投資の効果
   3 社会人の学び直しとキャリア・アップ
 第3節 働き方の多様化が進む中で求められる雇用制度の改革
   1 多様な働き方の導入とその効果
   2 多様な働き方に向けた制度面の課題

第3章 「Society 5.0」に向けた行動変化
 第1節 第4次産業革命の社会実装
   1 第4次産業革命の進展と経済構造への影響
   2 集中化が進むプラットフォーム・ビジネスとデータ獲得競争
   3 生産面・サービス供給面の改革:AI、IoTとロボティクスの普及
   4 金融面の変化:FinTech/キャッシュレス化の進展
   5 次世代モビリティ・システム、次世代ヘルスケア・システムの動き
 第2節 イノベーションの進展と日本の競争力
   1 企業レベルでみたイノベーションの現状とグローバル競争力
   2 イノベーションの基礎力:人的資本、知識、技術力、研究開発の課題
   3 イノベーションへの適合力:組織、人材投資、起業、ルール・制度面の課題
   4 第4次産業革命の加速への挑戦
 第3節 イノベーションの進展による労働分配率と生産性への影響
   1 イノベーションの進展による労働分配率の変化
   2 イノベーションの進展と生産性成長率

おわりに
―――――――――――――――――――――――――――――

 相当なボリュームで全て目を通すことは不可能である。それに「Society 5.0」、「プラットフォーム・ビジネス」、「イノベーションの進展」など馴染みのない単語も並ぶ。これを理解するのにも大変である。


8/22(水)快晴暑い 職員健診 飯川病院ボランティア
1:00起床。文献・新聞ほか処理、読書。8:30家内に同乗飯川病院へ。10:00中通病院職員健診、11:00ボランティア、外来患者対応、新聞チェック、書類等処理。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計10054歩。

第100回全国高校野球選手権記念大会(3) 甲子園大会、私の思い出
 第100回全国高校野球選手権記念大会で秋田県の金足農業高校が準優勝を成し遂げた。このような快挙はそう簡単に再現しないだろうから、長く本県の野球の歴史に残るだろう。
 第100回と直接関連ないが私の高校野球関連の思い出二つ。

(1)第50回全国高校野球選手権記念大会 盛岡一高活躍
 私の在学中には母校の盛岡一高は出場ならなかった。
 1968年、第50回全国高校野球選手権記念大会で県代表として甲子園に出場。

 初戦は2回戦の徳島の鴨島商。4-2で逆転勝した。決勝打はハ回2死一、二塁で仕掛けた重盗。
 3回戦は大分津久見高校で優勝候補。選手たちは練習を見てビビったというが、監督は「問じ高校生。お前たちと何が遠うんだ」と激励。これに奮い立ったナインは一、二回に1点ずつ挙げ、四回には一挙に7点、次いで走者一掃の三塁打でとどめを刺し、9-2と大勝。47年ぶりのベスト8進出。
 準々決勝は沖縄の興南高校。スタンドの声援は本土復帰待望ムードもあって、興南一色。興南の凡ゴロにも大歓声、野手は雰囲気に飲まれ6失策。4-10で敗れ4強入りはならなかった。

 盛岡一高は夏の甲子園出場9回、通算7勝。初出場の第3回大会で4強、第5回も4強、第7回は8強と、かつては強豪だった。第50回は上記の8強。1978年第58回大会以降は出場歴は無い。

 盛岡一高が勝利した際に校歌が流れたが、校歌は明治40年ごろから校歌になった軍艦マーチ。このメロディが流れ始めた時に甲子園は一瞬凍りついたよう静まり返った。このとき私は大学3年、勝った2試合とも新潟大学学生寮のTVで見ていたが、この一瞬の静寂が私には忘れられない。

(2)第97回全国高校野球選手権大会 秋田商業快進撃、私は滝の斜面で滑落し受傷
 2015年夏の甲子園では秋田商業高校が活躍、8月16日、この日私は志戸平ホテル宿泊していた。9:00過ぎに、TVは秋田商業-健大高崎戦の中継中、誘っても誰も来ないだろうと、一人で近隣の山の中腹にある滝を見に行った。

 濡れた石に不用意に足を取られ2mほど滑落、右背面を下にして無防備状態で落下、右側頭部と右側腹部、臀部を強打した。一時は死を覚悟した。
 何とかホテルの玄関まで戻り、救急病院を受診、頭部CT撮影、頭部の裂傷縫合による止血を受けた。
 その後、腹部腰部が晴れ始め深部の大出血が考えられ、予定を変更、急ぎ秋田に戻って経過を見た。
 
 結果として大事にいたらず、業務も休むことなく続けられた。
 私はツクヅク運がいい人間だ。何に感謝すれば良いのかわからないが、実に有難い。残りの人生を大事にしなければ、と思っている。

「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷
「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(2)  一瞬、死も覚悟
「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(3)  大事に至らなかった幸運に感謝
「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(5)  2週間経過しやっと改善傾向に


8/22(水)快晴暑い 職員健診 飯川病院ボランティア
1:00起床。文献・新聞ほか処理、読書。8:30家内に同乗飯川病院へ。10:00中通病院職員健診、11:00ボランティア、外来患者対応、新聞チェック、書類等処理。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計10054歩。

第100回全国高校野球選手権記念大会(3) 甲子園大会、私の思い出
 第100回全国高校野球選手権記念大会で秋田県の金足農業高校が準優勝を成し遂げた。このような快挙はそう簡単に再現しないだろうから、長く本県の野球の歴史に残るだろう。
 第100回と直接関連ないが私の高校野球関連の思い出二つ。

(1)第50回全国高校野球選手権記念大会 盛岡一高活躍
 私の在学中には母校の盛岡一高は出場ならなかった。
 1968年、第50回全国高校野球選手権記念大会で県代表として甲子園に出場。

 初戦は2回戦の徳島の鴨島商。4-2で逆転勝した。決勝打はハ回2死一、二塁で仕掛けた重盗。
 3回戦は大分津久見高校で優勝候補。選手たちは練習を見てビビったというが、監督は「問じ高校生。お前たちと何が遠うんだ」と激励。これに奮い立ったナインは一、二回に1点ずつ挙げ、四回には一挙に7点、次いで走者一掃の三塁打でとどめを刺し、9-2と大勝。47年ぶりのベスト8進出。
 準々決勝は沖縄の興南高校。スタンドの声援は本土復帰待望ムードもあって、興南一色。興南の凡ゴロにも大歓声、野手は雰囲気に飲まれ6失策。4-10で敗れ4強入りはならなかった。

 盛岡一高は夏の甲子園出場9回、通算7勝。初出場の第3回大会で4強、第5回も4強、第7回は8強と、かつては強豪だった。第50回は上記の8強。1978年第58回大会以降は出場歴は無い。

 盛岡一高が勝利した際に校歌が流れたが、校歌は明治40年ごろから校歌になった軍艦マーチ。このメロディが流れ始めた時に甲子園は一瞬凍りついたよう静まり返った。このとき私は大学3年、勝った2試合とも新潟大学学生寮のTVで見ていたが、この一瞬の静寂が私には忘れられない。

(2)第97回全国高校野球選手権大会 秋田商業快進撃、私は滝の斜面で滑落し受傷
 2015年夏の甲子園では秋田商業高校が活躍、8月16日、この日私は志戸平ホテル宿泊していた。9:00過ぎに、TVは秋田商業-健大高崎戦の中継中、誘っても誰も来ないだろうと、一人で近隣の山の中腹にある滝を見に行った。

 濡れた石に不用意に足を取られ2mほど滑落、右背面を下にして無防備状態で落下、右側頭部と右側腹部、臀部を強打した。一時は死を覚悟した。
 何とかホテルの玄関まで戻り、救急病院を受診、頭部CT撮影、頭部の裂傷縫合による止血を受けた。
 その後、腹部腰部が晴れ始め深部の大出血が考えられ、予定を変更、急ぎ秋田に戻って経過を見た。
 
 結果として大事にいたらず、業務も休むことなく続けられた。
 私はツクヅク運がいい人間だ。何に感謝すれば良いのかわからないが、実に有難い。残りの人生を大事にしなければ、と思っている。

「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷
「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(2)  一瞬、死も覚悟
「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(3)  大事に至らなかった幸運に感謝
「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(5)  2週間経過しやっと改善傾向に


8/21(火)快晴 外来 飯川病院 金足農業高校甲子園準優勝
 0:00起床,論文読み、データ処理・整理他、5:15家庭ゴミ出し。7:15徒歩飯川病院着。8:45-12:50中通病院外来。13:00飯川病院、14:00-18:25勤務、19:00帰宅枝豆今季初収穫、即ゆで美味。夕食、20:30就寝。歩数計13672歩。

第100回全国高校野球選手権記念大会(2) 金足農業高校甲子園準優勝!!!
 本県高校球界にとって決勝進出は長年の悲願だった。

 秋田魁新聞によると秋田中の準優勝以降、ベスト4に進出したのは1934年の秋田中、65年の秋田、84年の金足農、89年の経法大付と、これまで4度。今回金足農が決勝まで駒を進めたことは県民を大いに沸かせた。

 決勝で金足農は大阪桐蔭に敗れた。
 東北勢としても初の優勝に期待がかかったが、悲願はかなわなかった。
 しかし、試合を重ねるごとに勢いを増し、強豪校を打ち破り決勝にまで勝ち進んだ姿は県民だけでなく全国の野球ファンに力と感動を与えた。

 金足農は選手全員が地元出身の公立の農業高校。
 県大会からエース投手が1人で投げ抜き、先発メンバー9人だけで戦ってきた。バントで本塁を狙う。劣勢であっても諦めず粘り強く戦うスタイルが持ち味で、練習の成果は充分発揮された。
 決して順風満帆な勝負ではなかった。どの時点でも敗れる可能性が大であったが素晴らしいプレーでクリアし続けた。

 最終的には投手が力尽きたが,これはほぼ予想されたこと。
 どだい一人では決勝まで投げ抜くというのは無理な話。
 一勝一勝を大事にしてきたという点でベストの試合を重ね、結果的に決勝まで残ってしまった、そして力尽きた。

 「雑草軍団」などとたたえ、全国の野球ファンの心を捉えたのはその諦めない姿、ひたむきさにあっただろうが、一人の投手をここまで投げさせなくてもいいチーム作り、戦法を確立することの方が必要である。先発メンバー9人のみで戦って来たという戦法は正しかったのだろうか?? ただ、いまの秋田にはそれ以上の事を考える能力は無い。選択の余地がなかった中でベストな戦い方であった、と言えよう。

 大阪桐蔭には全国から優秀な選手が集まり、複数の投手による継投、攻撃重視のプレースタイルが主流となっている。決勝まで残り、優勝することを前提に準備してきたチーム作りと采配であった。金足農は一勝一勝を大事にしてきた。その違いは明白であった。

 決勝でも金農野球らしさは存分に発揮されていた。私は心から讃えたい。ただ、私は今回の決勝も実況中継は見ていない。19:00のNHKニュースと翌日の新聞記事を読んで抱いた感想である。


8/20(月)晴れ 健康クリニック 飯川病院  
 1:00起床。文献・新聞、医学論文チェック、先週分溜まった文献その他電子化。7:30徒歩飯川病院着。新聞切り抜き、9:00-11:00健康クリニックドック13名+結果説明1名。11:15飯川病院、読書、新聞切り抜きなど。14:00-18:45勤務、19:00帰宅、夕食、20:45就寝。歩数計14882歩。

第100回全国高校野球選手権記念大会(1) 金足農業甲子園決勝進出
 今年、全国高校野球選手権大会が100回を迎えた。
 1月以降、朝日新聞を始め地方紙もこぞって特別連載記事を掲載し始めた。

 私は高校野球に興味がないわけでないが、バカ騒ぎしすぎだと思っている。こんな過去の試合の回顧記事を読まされるのはたまらん、もっと報道すべき重要な項目は無いのか??そう思って新聞の野球記事を一瞥していた。
 私は試合のTV中継は殆ど見ない。こんなのに付き合っている時間は無い。19:00のNHKニュース、翌日の新聞記事で充分。

 全国高校野球選手権記念大会が始まったのは1915年(大正4)とのこと。

 甲子園の記録とともに昭和の歴史を振り返ると興味深い。 

 1924年、甲子園球場が完成した。広島商が優勝。
 1931年8月以降、甲子園の名勝負と共に世相は劇的な変容を遂げた。同年9月に始まる満洲事変を嚆矢に、世相が雪崩を打って軍国調へ変わった。治安対策の強化や軍拡路線を是としない意見の一つ一つをなおざりにした結果が、軍部の暴走だった。具体的な数値はあげられないが、甲子園で活躍した多くの若者が戦地で死亡した。
 1934年に出場した京都商業の沢村選手、今も沢村賞として球界に名を残している名投手であるが、フィリッピン沖で戦死した。
 1941年甲子園大会は戦局の深刻化を理由に地方大会半ばで中止され、太平洋戦争の間、空白が続いた。
 1946年8月15日、敗戦から1年後に西宮球場で全国大会が再開、
 1947年夏には占領軍の接収が解除され、甲子園に球音が戻った。

 敗戦の厳しい生活のなか、間もなく全国高校野球選手権が再開されたことは驚きであるが、それだけ国民のなかに野球が浸透していたということでもある。その後は一度も途切れることなく大会が続いてきたのは、多くの人たちの理解と支持があったからでもある。

 今年は「金農旋風」が生じている。100回目を迎える節目の記念大会の準決勝で金足農が名門日大三高を下し、金足農として初の決勝進出を決めた。

 県勢では1915年の第1回大会で秋田中学が準優勝して以来、103年振りの決勝進出。本県高校球界が待ち望んでいた快挙である。

 金足農のエースは全国的にも屈指の投手とされる。地方大会、甲子園大会で試合を重ねるながら力を蓄えてきたような気がする。決して順風満帆な闘いぶりではないような気がしたが、投手、選手ともに土壇場で底力を発揮した。
 
 県大会では出なかった本塁打がこの大舞台で3本出た。選手たちが大観衆の前で臆する事なく活躍する姿は頼もしい。

 私はたまたま3分間ほど自室のTVをつけたが、その間に2ランスクイズが決まるという劇的な瞬間を見た。2ランスクイズという攻め方があることも初めて知った。
 驚き、感動した。


8/19(日)快晴 飯川病院日直
 1:30起床、新聞文献チェック。本読み、データ整理他。散水。8:37バス、9:00-19:00飯川病院日直、当直医の時間一部代行。入院患者対応。散水。11:30F一家離秋。微睡。CDのデータ化。本読み。新聞資料化など。19:30夕食。20:30就寝。歩行Σ9278歩。11日以降の非日常的生活は本日で終了。徒歩通勤集計、本日1893万歩となり、徳島を通過し香川に入った

徒歩通勤2018(9) 徳島を通過し香川に入った 
 平成13年3月から徒歩通勤を始めた。
 歩数計「新・平成の忠孝」で歩行実績を積算している。伊能忠敬が歩いた海岸線をたどり、東京を基点に、東北、北海道、北陸、九州を終了、12月28日に広島県を終了、四国愛媛県に渡った。愛媛、高知、徳島を経て本日香川に入った。

 平成13年3月から本年8月19日時点までの積算データ
■歩行開始後 1.957日目、
■総歩数 Σ1.893万歩(平均9672歩/日)、
■歩行距離 Σ15.144Km(平均7.74Km/日)。

 徳島県通過のデータ。徳島県に入ったのが 7月22日、通過日8月19日。
■徳島県の海岸線の長さ 246Km。
■徳島県の通過所要日数 28日。
■一日平均歩数 10.000歩、
■一日平均歩行距離 7.9Km。
■現在の位置 日本一周目標の81%終了。

 最低1日10.000歩を目標にしていたが、今回は約1万歩と目標を達成した。
 そのため、徳島県は8月25日頃通過できれば良いかな、とゆったりとした計画にしたが5日間ほど早まった。

 高知県の場合は春の天候不順で、また梅雨に入ったこともあって歩行出来る機会はそれほど多くなかったが、高知県に入ってからは酷暑が続きペースが上がらなかった。
 
 徳島県の海岸線はあまり複雑な地形、長い半島など持たず246Kmと比較的短かい。

 (赤が愛媛県、緑が高知県、 青が徳島県、黄色が香川県)
 (私はこのようなイラストを用意しなければ各県の位置が分からない。土地勘オンチである)

 徳島県は私にとってはなじみの少ない土地であるが、NHKのど自慢の開催地、高校野球の代表校、歌謡曲に登場する地名とかで若干知っているに過ぎない。
 徳島市、鳴門市、小松島市程度であったが、その位置関係などを地図上で今回改めて確認した。

 いま歩いている香川県の海岸線は301.03Kmである。

平均1日9Kmとして9月中に通過できれば良いかな、とゆったりとした計画にした。


8/18(土)快晴 外旭川地区夏祭り 秋田県立博物館「大鉄道展」
 1:30起床、文献・新聞チェック等、本読み等。午前は庭掃除、落ち葉など排除、綺麗になった。トマトナス収穫。修理のMac mini戻って着た。今回はロジックボード交換。本日の段階では機能改善していた。14:00秋田県立博物館「大鉄道展」。外旭川地区夏祭りはF杉、次男一家のみ参加。金足農業2ランスクイズで9回裏逆転勝利、たまたまTVでその瞬間見た。17:30恒例の焼肉パーティ。20:30ビールで酔ったことにして中座、就寝。歩数計12966歩。

展覧会2018(6):県立近代美術館「チームラボ 踊るアート展と学ぶ未来の遊園地」 
 秋田県立近代美術館で「ABS秋田放送開局65周年 チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地」が開催されている。今回の企画はチームラボのアート作品と遊園地を一度に体験できるという触れ込みであった。
 会期は平成30年6月30日(土)〜平成30年9月2日(日)。

 チームラボに関しては何かの雑誌に紹介記事があり、斬新なグラフィックアートとして興味を感じていた。東京では御台場ほかに常設展示があり、連日多数の観客が訪れているとのことであった。東北地方での展示は初というが、この企画が秋田で実現したことは素晴らしい。見逃す手はない。
 
 8月17日(金)は大曲中通病院勤務で、横手は大曲から約20Kmと近い。外来終了後長男と横浜在住の長女一家と合流、横手市まで足を伸ばした。

 チームラボ株式会社(teamLab Inc)は東京のデジタルコンテンツ制作会社である。プログラマ、エンジニア、CGアニメーター、絵師、数学者、建築家、ウェブデザイナー、グラフィックデザイナー、編集者など、デジタル社会の様々な分野のスペシャリストから構成されている技術者集団。
 創業当時から芸術的な表現を主体とし、サイエンスとアートを融合させ、空間設計、建築、TV-CM、舞台演出など、多岐にわたる仕事をこなしている。

 秋田県立近代美術館は年に10回ほど行くだろうか。いつもは閑散としていて心が和むのであるが、今回は若い人たちを中心に大混雑であった。当施設にこんなに人が感に溢れたのを見た事はない。

 展示室は暗幕と丈夫なパネルで空間が仕切られ、テーマごとにかつて私が見たこともないような映像が部屋一杯に投射される。展示室内はフラッシュ、三脚、自撮り棒の使用は禁であったが撮影は自由であった。私もiPhoneで何枚か撮影した。
 
 映像は床、天井、四方の壁にシームレスで投影されるのもあり、それらが大きく、時に小さく揺れ動き、一部は走馬灯のように展開していくから、その中に立っていると自分の位置関係、姿勢が分からなくなり、平衡感覚が乱れ、軽いめまい感が生じた。


(配布パンフから一部借用 )
 このような大型の映像の投影は、オペラの世界、演劇等の芸術の世界に応用されれば、新たな空間を演出することになるだろう。
 身近な施設を仮想空間にして水族館、動物園を体験させることもできるようになり教育分野での利用も広がるだろう。
 また、それらが「virtual reality」の世界で応用され、比較的手軽にゴーグル調の眼前プロジェクターに応用されたら多方面ですごい疑似体験が出来ることになるだろう、との予感がした。

 今後の発展が楽しみである。


8/17(金)雨、のち晴 大曲中通病院 秋田近代美術館 
 1:15起床、新聞・文献他いつものごとし。5:00可燃ゴミ提出。7:30Taxi、8:11こまち。駅病院は徒歩、9:10-12:10大曲中通病院外来。盆明け若干混雑。業務用スーパー後にF杉一家と秋田近代美術館に、特別展「チームラボ踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地」、不思議な体験した。私の体験上、最も混雑で驚いた。17:00飯川病院着、散水など、19:00Taxi帰宅、19:30孫よろこぶ回転寿しで夕食、ここでも混雑で驚いた。歩数計10688歩。21:30就寝。

日本のプルトニウム(2) 削減はとても困難な状況にある。

 日本のプルトニウム保持量は47トン、世界第5位の大量である。単に米国だけでなく国際的にも批判が高まりつつある。

 日本政府は米国の要請を受けて、7月3日に閣議決定したエネルギー基本計画にプルトニウムの削減を盛り込んだ。菅官房長官も13日の会見で「プルトニウムの利用を進めて、回収量もコントロールする」とし、「国際社会に対して丁寧に説明をしていく」と述べた。
 しかし、方針ばかりで削減の実効性が伴わなければ、米国との緊張か高まりかねない。仮に米国か協定の見直しを求めてきた場合、プルトニウムの再利用を柱とした日本の核燃料サイクルは根本から再侠討が必要となる。  

 再処理してプルトニウムを取り出しそれを再度燃やすという日本の立場は、資源が乏しい日本にだけ認められて来た世界で唯一の特例であるが、北朝鮮の非核化、イラン等の完全な非核化を求めているアメリカは、時代柄もう日本を特別扱いできない、という事情もある。

 六ヶ所村の再処理工場は2021年稼動予定であるが、原発でウランと混ぜたMOX燃料としてプルサーマルで消費し、そのバランス取れれば問題は解消していく・・・、ハズであった。

 再処理フル稼働の場合プルトニウム生産量は年間7トン、これを消費するのが現状では困難である。原発稼働はわずか4基、一きあたりのプルトニウム0.7トンだから、このままでは大幅に増えていく。  

●再処理工場稼働は消費の能力の範囲内に調節せざるをえない。 
●再処理工場の稼動抑制で再処理料が落ちる。各原発は使用済み燃料を引き取ってもらえない事になる。発電所での蓄積は数年で満杯となる。そうなると原発を止めざるをえない。
●MOX燃料自体の価格が高騰する。結果的に電気料が更に高騰する

 日本のプルトニウム問題の解決方法は何か?? 
 プルサーマル以外に方法は無い。高速増殖炉のもんじゅ計画は破綻している。
 
 プルサーマル原発は通常の原発よりも危険度が高くなる。MOX燃料発電所の事故の影響は原発事故より大きい、とされる。 

 再処理しないで直接処分のコストも2倍に高騰している。
 政府は再処理を義務付けているから原発稼働でプルトニウムは増える。これを再処理にて燃やす必要があるが、高コスト化している。そのコスト増に電力会社は耐えられるのか否か。各電力会社は電力自由化後競争が厳しくなって来ており、コスト問題は無視出来ない。

 結局、日本はプルトニウム削減に関して、プルトニウムを燃やす以外に方法は無いと考えられるが、肝腎の原発の再稼働は困難な状態にあり、完全に手詰まり状態にある。


8/16(木)降雨 外来 飯川病院 
0:30起床。夜半から降雨、秋田県地方には大雨の予想、風も強。新聞チェック、犯罪関連本読む。8:00家内の車に同乗、一昨日クリーニングに依頼したYシャツ、ズボン8:00開店を待ち回収、なんとか診療に服装が間に合った。8:45-13:00外来、13:30飯川病院、微睡、14:00-18:50勤務、入院外来患者対応。19:00帰宅。夕食19:30開始、20:30就寝。CD再度データ化開始、歩行歩数計10198歩。

日本のプルトニウム(1) 現在約47トン  原爆6千発分溜まった
 日本のプルトニウムは現在約47t蓄積されている。これは原爆6.000発分に相当する。世界第5位の大量。

 プルトニウムはウランを燃やした時に出る自然界にない物質。 
 使用済み核燃料の再処理を認める、など日本の核燃料サイクル政策の根拠となっている日米原子カ協定が7月17日に自動延長された。
 ただ米国は延長にあたりプルトニウムの削減を強く求めてきた。

 しかしながら、日本では消費のメドが立たない。日本の原子力政策は四面楚歌状態にある。
 政府は数年前まで原発をわが国のエネルギーの根幹と位置づけてきた。最近になってやっと再生可能エネルギーに主役を移すと表明したが、それでもやっぱりエネルギーの大きな位置づけを与えている。

 日米原子カ協定は1988年に結んだ。30年後にあたる今年7月が期限だったが、互いに破棄や再交渉などを提案しなかったために自動的に延長となった。日米いずれかが6ヵ月前に通告すれぱ終了できるため、削減か進まなければ日米間の外交の新たな火種になりかねない。
 米国は日米原子力協定で、世界で唯一再利用を認めてきた。中国は疑念を持ち、韓国は特例不満を表明している。

 日米原子力協定は曰本の原発の基盤である。

 日本が掲げる核燃料サイクルは、使用済み核燃料からプルトニウムやウランを取り出して再処理し、再び原発の燃料として使用することが柱だ。そのための施設が青森県の六ヶ所村の再処理工場である。2021年稼動予定になっているが、この工場が稼働すればプルトニウムは更に増加することになる。

 プルトニウムは核兵器にも転用可能なため、核不拡散の観点からその製造にはさまざまな制約が課される。
 米国は日本がプルトニウムをあくまでも発電など平和的な利用に限ることを条件にプルトニウムの回収を認めている。この2国間の取り決めが日米原子力協定である。
 同協定は石油などの天然資源の乏しい日本が使用済み燃料を再利用できれぱ準国産のエネルギーに成りうるとして米国側に熱望して生まれた。現在、再処理は非核保有国では日本だけが進めている。

 しかし、東京電力福島第1原発の事故でプルトニウムの流れは一変した。それまで2-3割の発電比を占めていた国内のほとんどの原発が止まり、英仏で再処理したプルトニウムが燃料として消費できず在庫がどんどん増えてしまった。

 利用目的のないプルトニウムを持つことは同協定の方針に沿わない。
 そのため米国側は今回の協定延長にあたり、核不拡散の観点から強く削減を求めた。2018年春に米国の不満表明は国際社会を意識したものだった。

 日本は貯まったプルトニウムを原発で再利用する「プルサーマル」を進めて減らすしか方策はない。
 しかし、原発事故以降、原発に対してより厳しい安全対策基準が設けられたことや、地元自治体の反発が強くなったことで原発の再稼働は進まず9基にとどまる。だから燃やして大幅に保有量を減らす切り札は今のところない。

 だから、日本の原発政策は完全に四面楚歌状態である。


8/15(水)曇り 飯川病院日直3日目
 1:00起床,文献・新聞ほかこなす。医学雑誌読書。6:00庭畑に散水、トマト・キウリ収穫。8:37バス飯川病院、9:00-18:00日直、病棟は平穏。散水など。19:15帰宅、20:45就寝。歩行Σ10245歩。

73回目の終戦記念日に思う 記念日、全国戦没者追悼式の歴史を振り返る
 73回目の終戦の日を迎えた。内外の多くの犠牲者を悼み、平和への誓いを新たにしたい。

 1945(昭和20)年8月14日、政府はポツダム宣言を受諾した、終戦の詔書はこの日付。
 翌15日の正午、昭和天皇はラジオを通じて国民にポツダム宣言受諾を伝えた。
 日本が降伏文書に調印したのは9月2日。国際的にはこの日が終戦日となる。
 日本の独立はサンフランシスコ講和条約が発効した1952年。

 8月14日は実際には戦争終結の日ではない。
 だが、玉音放送の衡撃は強く、戦争か終わった日として人々の心に刻まれた。月遅れ盆にも重なり、「8月15日」が日本人の心には深く浸透しつくした。   

 政府が8月15日を「戦没者を迫悼し平和を折念する日」と公式に定めたのは1982年。
 昭和天皇の「玉音放送」と切り離せない日本人の終戦観。国民が過去の戦争を振り返る曰として、多くの国民が受け入れていたこの日しか考えられなかった、と言われている。「厳密な歴史の日付より将来の平和を願うことを大事にした、という事。

 政府主催の「全国戦没者追悼式」の歴史はサンフランシスコ講和条約が発効し、連合国による占領統治が終わった1952年にさかのぽる。開催日は8月15日ではなく5月2日であった。場所は新宿御苑。
 その後も政府による開催を求める声は強かったが、新憲法が規定する政教分離の観点から会場選びなどの議諭がまとまらず、10年以上開催されなかった。

 宗教的儀式を伴わないという形で、8月15曰の開催となったのは1963年。会場は日比谷公会堂。翌64年は「遺族の要望」として靖国神社を会場としたが強い批判を浴びた。1965年以降は日本武道館での開催が通例となった。

 私は終戦直前の5月に生を受けた。
 自分が生まれた年でもあり、過酷であった戦争から平和な時代へと、価値観が180度方向転換した昭和20年を特別な感慨を持って受け止めている。

 8月12日に墓参に行ってきた。かつては本堂の長押の上に整然と並べられた、50枚以上の多数の軍服姿の若者の顔写真でありこれらの顔写真は私の心に大きな影響を与えていた。いつぞやからその英霊の写真は見ることが出来なくなった。時代の流れなのだろうが、寂しい。

 いつもこの日を迎えると靖国問題が話題になる。今年はその話題に接していない。
 機会があれば、私も靖国神社を訪れたいと思っている。


8/14(火)快晴 外来休診とし飯川病院日直二日目
 1:00起床,文献・新聞ほかこなす。早朝涼風あり快適。4:30家庭ゴミ集積所に。バスで飯川病院、予定が休日ダイヤで急遽クロスバイクで。9:00-17:00日直。迎えあり帰宅、19:00夕食、20:45就寝。歩行Σ7233歩。

墓参り2018(2) 墓参とミニ家族旅行 孫中心の親睦会にシフト
 今年の墓参とミニ家族旅行は墓参と孫中心の親睦会にシフトしている。

■初日8/11(土)山の日休日 秋田小雨模様盛岡快晴
 今年は暦上の連休には恵まれていたが、飯川病院の日直医師が見つからず私が3日間担当することになったので12日を墓参日とし、連休利用で8月11日から墓参りミニ旅行とした。

 10: 00まず家内が飯川病院に出勤、若干の業務こなす。11:00家内、長男と私3人で森岡に。市内にて昼食。秋田道、46号線で盛岡駅に。14:00予約のレンタカー、カローラを私が運転して2台で繋温泉に。
 15:00繋温泉ホテル大観に着。今年は15年ほど前から常宿にしている四季亭から変更。横浜F杉一家を合流。散策など。17:00次男一家到着、大人7名、子供5名、総勢12名揃う。昭和47年二人から増えに増たものだ、と感慨深い。十分社会貢献しただろう。
 いつものごとく、夕食は30mlほどの食前の果実酒で泥酔し、ホントは泥酔した事にして、子供らの喧噪から逃れ早々に就寝。

■二日目8/12(日)快晴
 1:30-7:00ホテル大観ロビーにて一人過ごす。読書、新聞処理、持参のパソコンMacBook Air、タブレットで映画鑑賞などのんびり。5:00浴室オープン、さっそく入浴。湯温ぬるめで若干不満なるも大浴場で一人はとてもいい。
 7:00バイキング朝食、9:30車3台に分乗し私どもは実兄の故正明宅訪問。独居の兄嫁元気で安心した。11:00江岸寺着、読経いただき墓前で合掌。墓周辺は草ボウボウ、ちょっと問題。12:30これも恒例となっている黒川のひっつみ亭で昼食。13:00花巻志戸平温泉に。 
 15:00志戸平ホテル着、ここも6-7年前から利用している。子供らは温水プールで遊ばせ、私はのんびり過ごした。19:30夕食、ビュッフェスタイル。料理の質もいいが、私のダイエットには敵。なんとか摂取量を抑制して早々に帰室、就寝。

■三日目8/13(月)快晴
 1:30志戸平ホテルにて起床、2:00-6:30ロビーにて一人過ごす。読書、新聞処理など昨日と同じ、満足。5:00入浴、やはり湯温には不満。
 私だけ本日から業務あり別行動。7:30新花巻駅へ。8:35新幹線にて秋田へ、9:45飯川病院日直に。花のメインテナンス。家族たちは夕方帰秋。家内は新幹線で、夕方到着。

 年に一回だけの私の墓参ミニツアーで郷里訪問、無事終了した。出発初日の秋田の天気のみ雨模様、岩手は3日間とも快晴で恵まれていた。

 総勢12名となりワゴン車を含む車二台では不可能ではないが窮屈。レンタカーと新幹線併用で比較的ゆったりと移動出来た。

 私は明日から二日間飯川病院の日直業務、16日から通常業務に戻る。


8/13(月)晴れ 健康クリニック休診 飯川病院日直一日目
 1:30志戸平ホテルで起床、ロビーで新聞、読書、映画など独り過ごす。5:00入浴、5:30帰室、帰秋準備、私だけ一足先に秋田に7:38新花巻から新幹線、9:38秋田駅着、飯川病院に日直業務に。患者対応。以降は机に向かう。新聞記事チェック。蓄積データ整理。
19:00レガシーのカギ見つからずTaxi帰宅、夕食。20:10就眠。歩数計8317歩。

墓参り2018(1) 鎮魂の行脚だが、内容は様変わり 
 日本人は盆には何故憑かれたように郷里に帰るのだろうか。
 私もその例に漏れない。
 郷里の墓参は私の年に一度の郷里訪問である。毎年、家族で墓参のミニツアーを組む。今年は8月11日から墓参のために岩手に来ている。

 お盆は家族が墓前に集まって、亡き人をしのぴ、先祖、家族を敬う。子どもの心を育むためにもいい機会である。先祖を偲ぶ墓参りはとてもいいものと思う。

 しかし、われわれ夫婦も高齢化した。将来この意義を変えずに墓参をどう続けていくか、私も悩んでいる。

 私が生きている間は、私がこの行事を采配していくだろうが、その後はどうなるのか。
 その判断の概要は私がしておくべきだろうが、間に合わなければ子供達に委ねるしかない。私がこの墓に入るのに抵抗はないが、恐らく様変わりするであろう。

 もう、私が幼少期を過ごした故郷、盛岡には知己はいない。
 結局、墓だけが郷里に残った。
 私を含め次世代が盛岡に移り住む可能性はゼロに近い。

 わが家の墓をどうするか、やはり秋田に移すのが自然であろう。

 今回、住職に私の考えの概要を伝え、相談したかったが、時間がなく果たせなかった。

 私は秋田市の合葬墓でもいいと考えている。
 墓なんて不要である(1) 秋田市の合葬墓 不公平な申込方法に疑問
 家内は自分の妹の寺ではどうか、と思っている様だ。
 子供達の意向も確認しなければならない。

 墓の将来をつらつら考えながら、今年は8月12日昼、墓参し、住職より読経を頂いた。私が主催する盆の行事のメインはこれで終了し、あとは孫とその親を中心とした家族間の親睦ツアーになる。

 今年の墓参関連の小旅行は我ら夫婦中心に総勢12人で動いた。毎年墓参に参加してくれる子供達、その家族には頭がさがる。


8/12(日)快晴 実兄故正明宅 江岸寺墓参 花巻に  
 1: 30ホテル大観にて起床。読書、2:30-7:00ホテルロビーにて読書、徒然、データ整理など。7:00朝食他、体重意識しコーヒーとサラダ中心。不注意にてスボン汚す。9:00ホテル発、10:00実兄故正明宅訪問、短時間。11:00江岸寺にて読経。12:30ひっつみ亭昼食後、花巻志戸平温泉へ。微睡、映画、音楽鑑賞ほか。19:30夕食バイキング、ソフトクリーム堪能。読書後21:30就寝。歩数計8080歩。

日本の馬のお祭り 普段は馬は何処で飼われている??
 私が幼少の頃は農家のほとんどが馬を飼っていた。重要な労働力であった。

 私が幼少の頃は農家のほとんどが馬を飼っていた。重要な労働力であった。

 わが家は開業医であったが、往診用に一頭飼っていた。その世話は近所の農家に委託していた。医師である爺さんが乗ってパカパカと山道を往診した。私は自転車の三角のりや徒歩でついて行ったものである。

(昭和27年 往診に出かける祖父 馬は友達であった)

 やがて村から徐々に馬が消えて行き、わが家も馬を手放したが、その後は進駐軍払下げのアメリカの大型バイク・インディアンに変わった。

 だから幼少児私は馬小屋で過ごした時間が長い。馬の目はやさしい。小さい頃から馬と触れ合ってきたからこそ馬には今でも関心がある。競馬には関心はない。
 私の郷里では馬の運動会「馬力大会」もあった。

 今の私にとって馬を身近に感じるのはヴァイオリン、チェロの弓のに張っている糸。弓を取り出し、手元のネジを巻くたびに幼少時に飼っていた馬を思い出す。

 日本では、馬は神聖な動物として神事には欠かせない動物である。馬は人間に労働力を提供する一方で、第一次世界大戦までは各国の戦力を支えたが、その途中から銃器に変わり戦い方が一変した。

 大きな神社には、神様が乗るための神馬と呼ばれる馬が飼育されていた。神社と馬の関係は切っても切れないものがある。実際には神社で馬を飼うことは負担なので祈願や報謝のために、奉納するのは馬の絵や額。この風習は現在まで続いている。

 全国には、馬を主役にしたお祭りがある。
 私の郷里の岩手には「チャグチャグ馬コ」。今年から再興なった福島県の「相馬野馬追祭り」は有名、流鏑馬(やぶさめ)は、神社の祭の際に方々で行われるから比較的簡単に見ることができる。

 今年の「チャグチャグ馬コ」は90頭ほど、全盛期の「相馬野馬追祭り」だけでも500頭も参加した、と言う。
その中に引退した競馬馬も交じっているらしい。

 馬のお祭りに参加する馬は祭がない時にはどこで飼われているのだろうか?いくら考えても分からない。

 現在の住宅事情から一般の方が馬を飼うことは困難なのではないかと思うし、秋田や岩手の田舎をめぐっても馬を飼っている家を見たことはここ30年以上も一度も無い。

 時代劇の合戦の撮影用の馬は何処に飼われているか?

 これも疑問である。どこかの企業が一手に馬の飼育を引き受けているのだろうか?


8/11(土)秋田小雨模様盛岡快晴 墓参りミニツアー つなぎ温泉へ
 2:00起床,読書、入浴、ミニ旅行準備。10:00飯川病院経由で盛岡方面に出発。年に一回の墓参り旅行である。途中で昼食、14:00過ぎ盛岡駅着。トヨタレンタカー借りる。手続きは比較的簡単。この社でたった一台残っていたカローラシルフィ。本日は延べ500台回転するのだそうだ。15:00繋ぎホテル大観着、長女一家すでに到着。散歩、スマホではじめて映画鑑賞。便利な機能だ。17:30次男一家到着、19:00 夕食。いつもの四季亭よりは軽め。18:30早めに退散。21:30就寝。

生老病死2018(8) いのちの重さ 仏教の小冊子から学ぶ 

 本日から我が家恒例の年に一度の墓参りミニツアーが始まった。明日岩手紫波郡にある江岸寺にお参りすることになっている。

 私は敬虔な仏教信者ではない。先祖の霊を祀るということで常識的な社会の通念の範囲で仏事的習慣に従っている。
 この季節は「霊」とか「いのち」に関する記述に目が行きやすい。本日は、先にどこかで入手していた小冊子に目を通し「シビ王と鷹」という小文に巡り合った。
 私は不勉強にしてこの説話を知らなかった。ちょっと感動した。

 以下がその文章である。
――――――――――――――――――――――――――――――-
 仁徳誉れ高いシビ王があると時庭を散歩していると鷹に追われた鳩がシビ王の腋の下にかくれこんだ。
 鷹はシビ王に鳩を引き渡してくれと頼む。シビ王の慈悲心と思いやり、晴け深さを讃え
ながら、鷹は鳩は自分の命の糧であるのだからどうか返してほしい、と懇願する。
 シビ王は考えたうえ、鳩の命を助ける代わりに、白分の肉を鳩と同じ量だけ鷹に与える
約束をした。

 まず鳩を秤にかけ、次いで自ら切り取った股部、臀部、肩部の肉をつぎつぎに秤台に乗せていった。
 けれども不思議にも鳩の重さにはには遠く及ばなかった。ついにシビ王は全身を秤に乗せた。すると、何と鳩の重さと同じ目盛りのところで秤の針がぴたりと止まった。

 つまり鳩一羽の重さも、シビ王の重さも命の重さとしては同じであった。命の重さは等しいと言う厳粛さにシビ王は深く感動した。その厳粛さを認識させてくれた鷹を礼賛し、「仏道を求めるためには、わが身命をも惜しまず」と言って、喜んで自らの命を投げ出そうとした。

 その瞬間に、鷹の姿は忽然と菩薩の姿に変わり、いずこかへ消え去った。同時にシビ王の傷はたちまち癒えて元の体に戻った。
――――――――――――――――――――――――――――――-

 これは『菩薩本生鬘論』にある「シビ王と鷹」の物語で「生命の重さ」という説話である。
 この話は後世、仏の布施を称賛する比喩として、インド古典集『大智度論』、『賢愚経』、『仏本行経』、『十住毘婆沙論』、『六度集経』など多数の漢訳仏典に引用された有名な説話と言う。

 冊子の解説を参考にしながら追記すると、雷神「帝釈天」と火神「アグニ」はシビ王を試すために、鷹と鳩に変身した。シビ王は鷹に「この鳩は庇護を求めて来た。この鳩を守らねばならぬ」と述べた。代わりに私の肉をさし出そう。しかし、シビ王の肉は切れどもきれども鳩の重さには達しなかった。最終的に王は自ら秤に乗った。 なんと鳩の重さと自分の重さは同じだった。
 すると鷹は「我々は今日、汝を試すためにやって来た。自分の身体から肉を切り取るとはすばらしい。この世で汝の名声は永遠に存続するだろう」と述べた。
 シビ王は「肉は割かれ血は流れても、私の心には怒りなく、悩み沈むこともなく、人に尽くせる喜びがあった。生きとし生けるものすべてを救おうという、この真実の誓願によって、この体も元通りとなることだろう」。 そう言い終わるや、シビ王の体は予言通り元通りになった。
 これを見届け、シビ王に真実の菩薩の姿を見出した二人の天人は、天上界へと帰って行った。

 なかなかいい話である。
 こんな説話に心を動かされると言うことは、命を扱う医療関係者として命の価値に知らず知らず格差をつけていたからかもしれない。

 改めて自らの医療を反省するとともに、医療の原点に立ち戻らされたような気がする。


8/10(金)晴れ朝冷え 大曲中通病院 飯川病院ボランティア 知人と会食
 1:05起床,寒い朝、シャツ着用。文献・新聞チェックその他。4:30一般ゴミ提出、5:00収穫、散水。7:30Taxi飯川病院経由駅。8:11こまち。往復共徒歩、9:10大曲中通病院外来、混雑なし。新幹線はやや混雑、10分遅れ。13:40飯川病院、ボランティア。18:45Taxi会食に、21:30帰宅、22:00就寝。歩数計積算11052歩。

原爆投下73年(2) 日本は米国の兵器の廃棄場所と化した
 核兵器はなお国家安全保障にとっての「必要悪」であるとの抑止論が核保有国の考えかたににじむ。

 核兵器は必要悪でなく「絶対悪」だ、と捉えるべきであろう。
 「必要悪」と「絶対悪」間にどんな橋が渡せるのか。日本の技量が問われている。

 河野外相は「アプローチが違うので核禁条約に署名する考えはない」と述べている。意味不明な部分がある。2発の原爆でその年のうちに21万人が亡くなった。核被害者に寄り添う姿勢を示すことができるのはわが国のみである。惨禍の記憶を風化させてはいけない。
 近年は原爆資料館を訪れる外国人が過去最多を更新し続けている。各国国民のレベルでは核の非人道性は理解され始めている。

 日本は米国の「核の傘」に頼って国連の核兵器禁止条約にも消極的だ。

 歴史は逆戻り不可能である。しかし、正当な評価はいつでも出来る。わが国のアジアへの戦争責任の議論とは切り離し、また日米同盟とも切り離し、恐ろしい威力の原爆を用い、無差別殺戮を行った米国の非人道性について国内外で発信を強めていくのが大事だ。
 
 翌日に戦争終結の宣言があるとわかっていながら土崎空襲が行われた。
 これは過剰な兵器をできるだけ消費しておこうと言う米国の議会対策の一環だった。東京大空襲も同じ。歴史に目を瞑る事なく、国際法に照らした問いかけをし続けることは日本の責務である。

 トルーマン大統領は戦争終結のために、もはや原爆は必要でないことは認識していたが、極秘裏に巨費を投じて開発した原爆を使用しないまま残しておくことは議会対策のためにも、自分の地位を守るためにも考えられなかった。二発の原爆は作られた以上、使われなければならない運命にあった。トルーマンは戦争終結を遅らせる工作をしていた。
 広島・長崎の21万人の命は、米国の国内の事情、トルーマンの保身のために奪われたと言っていい。トルーマンの国内での世論操作も卓越していた。米国人の7割近くは原爆によって戦争終結を早められ、米兵の命を救った、と信じ込んでいる。驚くことに、わが国でも原爆が戦争終結に寄与した、と考える国民は少なくない。だから、トルーマンは歴代大統領の中でいまでも評価が高い。

 B29は莫大な予算を取り2700機ほどの製造され、それに見合う爆弾も準備された。日本は壊滅状態、ほぼ無防備・無抵抗状態にあったが、多くの都市が8月14日まで爆撃された。この時は日本がポツダム宣言を受け入れることを海外に向けて電報で発信しており、米軍もその情報をキャッチしていた。
 もう空爆の効果などはどうでも良かった。B29、大量の爆弾は作られた以上、使われなければならなかった。日本の国民の命、土崎の住民の命は、米国の政治、経済、議会対策のために奪われた。

 私はそんな風に思っている。


8/9(木)晴れ暑さ戻る 外来 飯川病院 
 1:00起床、新聞データ化と整理。画像データ処理。5:00野菜収穫。7:30バス通町、徒歩病院着。8:45-13:20外来+ドック判定14名分。その後クリニックに移動、ドック今日ブレ線判定、14:00-18:50飯川病院勤務、患者対応。19:30帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計積算12957歩。Blu-ray Discながら視聴:「世界が驚いた日本 木こう建築技術」。

原爆投下73年(1) 原爆投下の非人道性、違法性を訴えなかった日本の責任は大きい
 広島・長崎に原爆が投下されて73年になる。私の年齢と一緒である。被爆者を始めとする日本人の非核化の願いは、今に至っても全く実現されていない。

 私は昨年は広島、長崎の慰霊祭及び関連の行事をTVや新聞報道、各種の論評を通じて久々に集中して見聞したが、今年は軽く通り過ごしてしまった。業務が結構集中していたことも理由の一つである。

 ニュースで見る限り、昨年のそれと大差はなかったように思う。印象ではより地味だった様に感じた。メディアの扱いもちょっと軽かった様な気がした。

 2018年は北朝鮮と米国との間で原爆に関する応酬があった。原爆は使ったが最後、そのあまりの破壊力のために有無を言わせず応酬するすることになる。結果として二国間にとどまらない大変な事態に陥るから現実味は乏しかったが、核時代の危機感を世界に知らしめた。

 冷戦下で米ソの水爆実験が続いた1953年、ケネディ政権とフルシチョフ政権化におけるキューバ危機1962年の状況に似ている。
 その後、日朝首脳会談が開かれるなどを経て、核戦争の緊張はやや緩んだものの、この階段によって問題が複雑化した様だ。北朝鮮の非核化に関してはまだなんら進展を見ていない。
 私は北朝鮮の非核化は実現できないのではないか、と思っている。

 オバマ大統領が広島を訪れたのはつい2年前のことで、米国の原爆投下に関するひとつの歴史が終わったかのように思えたが、米国の政権交代で、核政策は一変したようだ。
 ストックホルム国際平和研究所は6月18日、今年1月時点での世界の核弾頭総数が計14.456個となり、昨年同時点から470個(約3%)減少したとの推計を発表した。研究所は、減少の速度は鈍く、一方保有国は核兵器の近代化を続けているとしている。

 北朝鮮は、20発程度と推定、世界の約9割は米露が所持している。
 インド、パキスタンも核兵器備蓄を増加させ、ミサイルシステム開発か進んでいる。
 米国は今年2月、新核戦略指針で核兵器の使用条件を緩和、「使える核兵器」とも称される小形の核兵器の開発を盛り込んだ。

 ジュネーブで4月末から5月初めにかけて開かれた核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会では、昨年国連で採択された条約を推進する国々と、これに反対する核保有国・同盟国との溝が埋まる気配はなく、議長総括は核禁止条約について賛否両論を併記した。

 双方の「橋渡し役」を買って出た日本政府は、2020年の次回再検討会議までに双方の「対話の場」を設けることなどを提案し、今回の準備委の議長総括に盛り込まれた。
 これは明るい材料であるがその成果はどの様なものになるだろうか。

 1952年(昭和27年)4月28日はサンフランシスコ講和条約が発効し、日本の主権が回復したが、それ以降、原爆投下に関して米国の非人道性、違法性を国際社会に訴え続けなかった日本の責任は大きい。


8/8(水)快晴暑さ戻る秋田34℃ 午後飯川病院ボランティア  
 1:00起床,新聞・録音のデータ整理中心。11:30バス飯川病院へ。院長外出と往診の為にボランティア、秋銀來訪、散水、新聞データ化、18:30バスにて帰宅。19:00夕食。21:00就眠。歩数計積算11540歩。

四季2018(12)なぜ空は青く、夕焼は赤く、雲は白いのか

 徐々に涼しくなって空が高くなって来た。好きと言えないが、爽やかな季節である。
 朝、しらじらと明けてきた時、私は外に出て空を眺めるのが好きだ。

 太陽が昇って来る前の空は灰色である。従って、光が乏しいうちは曇りだか晴天なのか分からない。それが明るくなるに連れて徐々に青くなって行く。
 
 朝の青空がとてもきれい。それに天高く白い雲が浮かぶ。夕方の真っ赤な夕焼けも見ていて飽きない。

 ■何で日の入りの夕焼けは真っ赤なのに、日の出はそれほど赤くないのだろうか?
 ■何で空は青く見えるのか?
 ■雲はなんで白いのか?
 小学生でも知っていることだろうが、今更ながら不思議に感じて調べてみた。

 簡単に言えば全て太陽光と地球上の空気が織り成す匠の技。
 太陽の光は強烈で白いが、実際にはいくつもの色の光の集合体でできている。プリズムで7色に分けられるが、実際にはもっと多くの光に分けられる。

 太陽から来た光は地球の空気の層を通るが、空気の小さな粒子に当たって散乱する。その時に紫や青など短い波長の光ほど散乱しやすい。一方で、長い波長の赤みを帯びた太陽光は散乱し難く遠方まで届きやすい。

 太陽が水平線や地平線の位置にある時には通過すべき空気の層が厚く、長い波長の光のほうが減衰しがたく届きやすい。だから夕焼けが赤く見えることになる。朝焼けも同じであるが、空気の層に含まれる塵埃などの影響で夕焼けよりは赤みが薄いのでは無いだろうか。
 昼は太陽光は上方から薄い空気を通って届くから、空気中に散乱した紫や青などの光を主に見ている事になる。これが空が青く見える仕組みである。

 雲はなぜ白いのか??
 雲は小さな水滴や水蒸気、氷の粒の集まりから出来ている。光は雲を通るとき、この粒に当たって散乱されるのは同じであるが、大きい粒子に当たると光は色に関係なく散乱するので、太陽光のもともとの色である白に近くなる。


8/7(火)快晴風  外来 飯川病院 保健所監査 
0:20起床,いつもの如く。5:00可燃ゴミ。散水、7:30徒歩飯川病院着。8:45-13:20外来、盆前で混雑疲弊。13:30飯川病院、秋銀スタッフ來訪、14:00-18:45勤務。保健所監査で入院患者対応無し。19:00帰宅、夕食。21:30就眠。歩数計11170歩。

最近、「藪医者」という言葉が消えた(2) 原氏のコメントに感謝して
 去る7月26日「藪医者」という言葉が消えてきた事について私見を述べた。それに対し「原左都子エッセイ集」の著者である原左都子様より貴重なコメントを頂いたので、お礼を込めながらちょっと加筆してみたい。

 原氏もパラメディカルのお一人として現役時代は免疫学の方面等に従事されていたとの事、かつ、私の雑記帳をときおり見てくださっているとの事で心から感謝申し上げる。私も今回はじめて氏のブログを拝見させていただいた。私のブログは自分で勉強したことや知り得たことの備忘録としての位置付けで統一性もなく中身は軽いが、氏のブログは構成もしっかりしていてメッセージ性も高い。今後何かと参考にしたい。

 以下が原氏のご意見であった。
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 さて、「藪医者」に関する事案ですが。
 私は福田先生とは少し異なる観点から、「藪医者」の言葉が聞かれなくなった事態に関して考察しております。

 医療現場では今の時代「informed consent 」が一般的となりました。 その恩恵で、医師と患者の距離が縮まっているように私は感じます。
 私自身は普段より「予防医学」に徹し、基本的には“病院へ行かない主義”を貫いておりますが。
 身内高齢者の付添い等でたまに病院を訪れますと、昔と比して医師と患者の関係が「対等」に近づいていることを実感します。 
 おそらく、医学部教育に於いても、患者とのかかわり方等の教育が進化しているのではないか、とも推測します。 
 患者側も、対等にかかわってくれる医師に対して「藪」と後ろ指をさす必然性が無くなっているのではないでしょうか?

 あるいは、現在は「医療訴訟」が一般的となりました。 そんな時代背景の下、医師もうかうか「藪」などしていられない厳しい環境下に置かれている、とも考察できそうですが…??
――――――――――――――――――――――――――――――――-

 ごもっともで反論はありません。追記いたします。
 私はヤブ医者という言葉が消えつつあるのは、医師と患者の距離が対話のスキルの向上など、教育の効果で一見縮まっているように見えるものの、実際には患者と専門職としての医師の能力差が広くなって、遠くなって個々の医師の能力は患者は判断できなくなってきた。そのため、と私は考えています。
 確かに患者医師関係は変わりつつあります。上から目線で患者をみる、専門用語を並べて患者を煙に巻く様な医師はかなり少なくなっています。和顔愛語を駆使しています。

 元々はヤブ医者という言葉は、ダメ医師をそれほど強く誹謗するものではない、と思っています。その理由は、医療が発展していなかった時代には医師の能力を判断する材料が乏しかったことがあげられます。

 医療は国威向上のため軍隊ではそれなりに普及していましたが、一般人が誰でも利用できる様になったのは昭和30年代の国民皆保険制度以降と言って良いと思われます。

 一般人が名医だ、ヤブ医者だと言ってもその判断は病が治ったか否か、すなわち死んだか否か、くらいしか判断できなかったと思いますし、人の生死は長い間、神仏に祈り、願かけるより仕方がなく、ヤブ医者という言葉が記録された頃は感染症を中心に疫病で多数の人間が死の転機を取り、医師は無力に近いこともありました。

 それでも、他に方法が無い以上、医師はそれなりに当てにされていたのでしょう。

 立場の違うものに対する羨望、時には蔑みなどを含め、言葉の上でけなすような枕詞をつけることはよくあったと思います。「大根役者」、「ヘボ役者」などもそれですが、医師に関してはさらに「たけのこ医者」、「土手医者」などもあり、これはヤブ医者よりもちょっときついニュアンスがありますが、それでもさげすみより親しみの呼称だった様に思われます。

 昔の医療は医師の感覚的、直感的医療でした。だから正確性には欠けていましたが当時はそれが当たり前でした。

 近代医療は検査と科学的データの時代、エビデンスにもとずいて判断されます。さらに病院機能間で連携も行われ、結果として医師の能力はより画一化されました。患者にとっては良い時代になったのですが、個々の医師の能力は患者は読めなくなっているといえましょう。だから、私の感覚では「ヤブ医者」、「土手医者」、「たけのこ医者」、などと呼びたくなる医師は依然として存在します。かつて「お前が医者ならトンボも飛行機」とまで言ったものです。

 時が過ぎ、老齢化した私は能力的にも低下しました。だから、患者に読まれる前に自ら「ダメ医者」、「ボケ医者」、「トンボ医者」と名乗って責任回避しています。


8/6(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院 竿灯最終日
 0:30起床,新聞・文献チェック他。5:00ネコ給餌ほか。7:20徒歩飯川病院着。9:00-11:00健康クリニック。11:30飯川病院に。読書、データ整理。微睡。14:00-18:30勤務。犯罪・死刑・歴史関連本読む。撒水、夕方霧雨状態、竿灯に影響は無さそう。最終日ですこれで若干静けさが戻る。19:15帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計積算11532歩。

家庭菜園・園芸2018(6) ハイビスカス  
 飯川病院で院長が主、私が従的立場でハイビスカスを8鉢ほど栽培している。

 私の関与は、秋口に伸びた枝を剪定して形を整えること、春に鉢を玄関わきのピロティに運び倒れないように固定、ときおりの追肥、連日の給水、秋には室内に収容という程度である。それでも連日のことだから結構大変である。


 ハイビスカスは、大きく華やかな花が魅力の熱帯花木である。若い女性の髪飾りのイメージ。昔見た映画のシーンを思い出す。育てて見てわかったが、花弁はデリケートで弱く生花を髪飾りには到底できない。造花なのであろう。

 南方系の花であり、やはり寒さに弱く飯川病院では鉢で栽培し、外気に合わせて場所を変えている。
 花は5-10月頃まで長期間楽しめる。
 通常は朝開いて夜に閉じて1日で終る1日花。だから一斉に咲く、というイメージは無い。長期にわたって次々と咲くがなんとなく寂しい花でもある。

 最盛期の夏には枝葉も立派でかなり水を要求する。
 5月以降はほぼ連日、散水というよりは給水と言えるほど水を与えている。
 ハイビスカスは寒さに弱いので、10月末頃剪定し室内に取り込む。春になるとおう盛に枝葉を伸ばすから遠慮せず、大胆に剪定する。時に切りすぎて再生するか心配になることもあるが失敗した株はない。とても丈夫で育てやすい。

 春には色々花を植えるがそのシーズンは短い。いまからは病院のピロティはハイビスカスが中心になる。


8/5(日)早朝から雨模様午後から晴れ 飯川病院日直 竿燈三日目
 1:00起床、読書、新聞、画像データ整理など。8: 37バス飯川病院、小雨ながら病院までの間でびしょ濡れ、不快ならず。9:00-17:00日直。13:00-15:00外来レセプトチェック。18:10帰宅。市内は観光バスと大勢の人でにぎわい。午後から晴れ、竿灯は問題無し。ネコ達口呼吸であえいでいた。扇風機最強で用いるが温風器。NHKのど自慢録画楽しむ。19:00夕食、21:00就寝。Blu-ray Discなし。歩数計6804歩。

家庭菜園・園芸2018(5) ダリア(2)  
 昨年までは南隣の農家の方から4ムネ分畑を借用してダリアを育てていたが、今年から自宅の庭の一角にスペースをつくってそこに植えた。新しく購入した7株は地植えに、わたしが維持してきた株は鉢植えとした。

 花が咲いても途中でしぼんだり変色したのが多く、これは昨季までは経験しなかったことである。昨季までは農地としてキャリアが長い土であり、我が家の庭は初年度で土つくりに問題があった可能性が残る。また肥料として発酵鶏糞牛糞を撒いたが、それが花にふさわしいものだったのかなど疑問が残る。

 一昨日、大曲の外来に通院してこられ、花や野菜作りについて私を指導してくれる方から貴重な情報を得た。今年は日差しがあまりにも強烈で気温も高い為に花自体が日照による障害を受けている、という。その方の庭でも同様の現象が生じている、と言う。予防策として日差しを遮るシートを用いればいいし、多分これから開花する分は改善が期待できる、とのことであった。目から鱗の情報であった。

 ダリアはボタンと違って花が次々と開花する。
 まだ咲き始めたばかりなので日差しが弱くなって行く今後が楽しみである。


8/4(土)快晴暑い 今朝も朝冷え 飯川病院午前外来 竿燈祭り二日目
 1:00起床、読書、新聞、画像データ整理など。今朝も朝冷えシャツ必要。5:00収穫、散水他。8:37バス飯川病院、応援位不在で午前外来業務、入院患者対応、検食。結局夕方までフリーで病院で過ごす、微睡、新聞データ収集。ピロティ朝顔に添え木。18:30帰宅、夕食、20: 50就寝。歩数計9848歩。

家庭菜園・園芸2018(4) ダリア(1)  
 ダリアは栽培のきっかけは家内であったが、いつしか栽培の主役は私になった。
 今季は4季目。

 最初は秋田雄和の国際ダリア園から8株ほどを購入、各季ごと見事な花を咲かせた。球根は霜が降りる前に掘り出して乾燥させ、室内で越冬させるのであるが、私の球根はあたかも鉛筆みたいに細く弱々しく、年々発芽株が減ってき4株ほどになった。今年の球根も弱々しく、発芽成長させる自信がなかった為に、新たに秋田雄和の国際ダリア園から8株ほど新種を購入した。
 今年購入した球根は余りにも立派、私が育てた球根の10倍ほど太く私はショックを受けた。

(新規購入の7株。名前もなかなかいい。私の球根の10倍以上大きい)

 今年から、目の前の庭先にスペースを作りダリアを栽培した。
 いままでは借用した畑にダリアを栽培していて遠目には見えたもののあまり頻回には鑑賞できなかったし、散水なども含め十分世話できたとは言えなかった。ダリアは茎や枝葉が立派であるがわずかに一月半程度で伸びるので全体に茎や枝が弱い。だから風とかの外力に弱く支柱を何本も要するし、茎や花を細かく固定する必要がある。結構手が抜けない相手である。その点では十分世話してきた、と言える。

 私の球根は自信がなかった為に地植えではなく鉢植にした。結果的にはあの弱々しかった球根からも全て発芽した。自然の力は予想外に偉大である。

 今年は身近にダリアが咲くのが心待ちであった。

 しかし、しかしながらである、今年はダリアの生育が何故か上手くいかなかった。GWことに球根を植え、7月中旬から開花し始めたが、茎や枝葉の育ちは立派でいつもより背丈も高く育ったが、肝心の花が例年より弱弱しく、開いた花も決して美しいとは言えなかった。

 咲き始めは綺麗でその開花が期待されたが、途中で萎えたり色調が変わったりし、私を落胆させた。


8/3(金)晴れ朝冷え 竿燈祭り初日 大曲中通病院 飯川病院ボランティア
 1:45起床,寒い朝で通常の姿は無理、シャツ着用。文献・新聞チェックその他。4:30一般ゴミ提出準備、5:00収穫、散水。7:30Taxi飯川病院経由駅。8:11こまち。往復共徒歩、9:10大曲中通病院外来、混雑なし。帰路病院駅は徒歩で。新幹線は関東で混雑。14:40飯川病院、ボランティア。18:45Taxi竿燈千秋公園トンネル経由帰宅、19:00夕食、20:45就寝。歩数計積算10755歩。

家庭菜園・園芸2018(3) 野菜など キウリ以外の生育はほぼ順調だが・・   


 2011年から小規模ながら家庭菜園・園芸をやっている。

 今年変えたことといえば、目の前の庭に花とかちょっとした野菜を植えるスペースを作ったことである。
 今年はそこにダリア中心に花を植え、余ったスペースにはキウリ、トマト、ダイズを植えた。

 西側に隣接する畑は通常どおり今年も借用し、ねぎ、トマト、キウリ、大豆、落花生を植えた。

■キウリ
 今年はキウリの生育が何故か上手くいかなかった。植えつけてからまもなく6本中2本枯らしてしまった。8月に入ってからさらに4本枯れた。水を十分に与えたつもりであったが、結果的にキウリは1本しか育たなかった。いつもなら獲れすぎて食べ切れず病院の給食にも提供するほどだったが、今年は10本ほどで終了した。
 外来で畑をやっている方に聞いたところ例年と変わりないという人と今年はダメだという人が半々ほどだった。天候のせいだろうか?あるいは新しい畑で土つくりが上手くなかったのか?反省点は少なくない。

■ナス
 ナスは平年並みに生育してほぼ順調あるいは若干悪いと言う程度なのだろう。実が大きくならないうちに、柔らかいうちに収穫して食べている。まず美味しい。

■トマト
 トマトも順調、収穫の最盛期を迎えている。家人の弁では市販品よりははるかに美味との評価で嬉しい。

(今朝採れたトマト、ナス。見てくれは劣るが味は市販品に負けない)

■落花生
 落花生は初体験。茎・葉は順調そうに見えるのだが、実は地下にありまだ状況を知ることは出来ない。

■枝豆用大豆
 枝豆用大豆は茎・葉はいままでになく順調、まだ身が十分に膨らんでいない。お盆すぎか? 採りたて茹でたての豆は最高で楽しみ。

■ネギ 
 昨年の出来がまず良好だったので今年は2倍以上の本数を植え付けた。しかし、勉強不足でムネの頂点に植えてしまったので根元に土を盛る作業が出来ていない。成長は力強く、そろそろ食べ頃ではあるが、食べられる部分が短そう。


 振り返ってみれば、私の植え付けは苗間の距離が短過ぎて、成長した後各株が充分に日光にあたれない状況になっている。これでは上手く成長出来ないだろう。反省点である。


8/2(木)曇り後快晴暑い  外来 飯川病院 
 0:00起床、書籍データ化整理。畑、庭に散水他。7:30徒歩病院着、汗だくになる。8:45-13:30外来+ドック判定14名分。14:00-19:10飯川病院勤務、途中iPhone音楽再生機能についてリセットの指導。改善した。19:40帰宅。夕方孫たち預かり、次男宅関連。20:00夕食、21:00就寝。歩数計積算12621歩。Blu-ray Discながら視聴:「歴史;石原莞爾」再視聴。

災害列島2018(5) 我が家の猛暑対策 大型扇風機、ヨシズ、遮光シート、氷を舐める
 私はこれまで真夏、冬は自分の書斎で過ごすことはあまりなかった。十分な冷暖房対策がなかったからである。
 冬の対策は小さな石油ファンヒーター一つのみ、夏の暑さ対策は窓からの自然風に頼り、無風の時は窓際の扇風機2基で外気を吸い込む。

 やはりこの書斎は落ち着く。前はオーディオルーム的使用が中心であったが、ここ10数年はオーディオ機器の調子が悪く本格的な音楽鑑賞から離れていた。さらにここ数年はメインスピーカーのGRF memoryも不調になっていた。書斎は物置と化していた。
 
 それが今春からヒョンなことからまた音楽三昧の生活に戻った。

 書斎のかなりの場所を占拠していた本格的なオーディオ機器を終活と称して次々に廃棄した結果、冗談抜きに、まともなレベルで音楽を聴けなくなった。

 レコード廃棄は続けていたが、もう聴くこともなかろうと今春からCD廃棄に取り掛かった。CDはパソコンでMP3化してから捨てたが、MP3化した音源を聞いたところ結構音がいいのに気づいた。

 パソコンで聴けるならば書斎の方が都合がいい。書斎復活である。

 猛暑対策としてドア、窓を開放し、窓にはヨシズをつるし、さらに窓には遮光シートをつけ光も遮って午後からの温度上昇を抑えた。この作業にはネコたちの自由外出防止の工夫も並行して進める必要があった。

(裏の畑から書斎の窓を見ると、ヨシズの雰囲気が良い。スイッチが入らない年代物のエアコン室外機が寂しげ)

 涼感は増したがたが、やはり暑い。そんな時は大型の扇風機を居間から持ち込む。

 次の工夫は冷菓である。
 私は甘党でアイスクリーム、シャーベットなどを好む。いくらでも入るがカロリー過剰となりやすい。豆乳などを利用し80Calに抑えた製品も利用しているが、それでも過剰となりやすい。
 だから、氷をアイスピックにいれて持ち込み、適宜口に含む。私の歯は幸いなことに冷たさが滲みない。バリバリと氷を噛み砕くことが出来る。
 さらに暑い時にはケーキなどについてくる保冷剤を凍らせ、タオルに包んで首に巻く。これらの効果は抜群であった。

 全国的に今年は猛暑列島である。熱中症死者も多数でている。そんな中、秋田はパラダイスと言っていいほど過ごしやすかった。
 我が家も猛暑対策を進めたが、それが効したのか私にとっては大したことはなかった。寝苦しい夜もほとんどなかった。

 むしろ夏との別れが意識されるこの頃であり、寂しい。


8/1(水)快晴暑い 飯川病院ボランティア 
1:20起床、文献新聞整理。5:00収穫、散水。午前は書斎網戸ネコ逃亡防止装置工夫。12:30バス斎場前がなく、12:50八幡田前に変更、居眠りで買い物広場まで。13:20飯川病院へボランティア,19:15帰宅、夕食、21:30就寝。Blu-ray Discながら視聴:「ma満洲事変と石原莞爾」示唆に富む内容、「地球紀行」2本。歩数計積算11682歩。

災害列島2018(4) 命に関わる猛暑はそれだけ自然災害
 最近の世界的規模の異常気象の背景は地球の温暖化であることは明らか―-と私は思うのだが、科学者たちはまだそう決断つけてはいない。

 実際にはここ10年来、日本列島は頻繁に猛暑の襲われ、今年も7月22日も広い範囲で高気圧に覆われ、各地で猛烈な暑さが続いた。熊谷市で観測史上最高の41.1℃となっ、35℃以上の猛暑日となった地点は、237地点に上って今年最多となり、金国に927ある観測地点の約4分の1を占めた。各地で熱中症とみられる死者も出た。気象庁は同日夕の緊急記者会見で「命の危険がある暑さで、一つの災害と認識している」と危機感を示した。

 同庁によると、これまでの最高は2013年8月12曰に高知県四万十市で記録した41.0℃。23日は東京都青梅市で40.8℃、都内で40℃以上は観測史上初めて。

 仙台管区気象台によると、東北南部の宮城、山形、福島の7月の気温は平年を3.23℃上回り、1946年の続計開始以来最高を記録した。秋田を含む東北日本海側も平年を2.7℃上回り最高タイとなった。

 気温とともにもう一つの懸念材料が少雨。
 東北南部では7月の降水量が平年の半分以下という地点が多い。東北地方整備局が管轄するダムの貯水率をみると、山形県の白川ダムは16%。過去5年間の同時期の平均94%を大きく下回る。

 山形県酒田市では給水制限を実施している。最上川の水量が減少して海水が遡上。7月28日に浄水場の塩分濃度か急上昇して取水を停止した。30日には取水を再開したが、一部で10%の給水制限を続けている。
 同気象台によると、8月も前半は降水量の少ない状況か続き、平均気温も高めとなりそうだ。

 その中では秋田県秋田市付近は比較的過ごしやすい日々が続いている。秋田を含む東北日本海側も平年を2.7℃上回ったというが信じがたい。ネコどもはぐったり、喘いでいるが、エアコンがなくとも私どもは十分に過ごせている。ただし日中居ないからだ、と留守のバアさんはいう。一種のイジメだ、とまでのたまわる。

 数日前から早朝3-5時頃はかなり冷え始め、腰にタオルを巻いた程度では過ごせないほどである。

 外へ出ると早朝の空は高く、秋に特徴的な細切れの雲が出始めている。涼風が足下を冷やす。畑や庭の雑草の露でスリッパ履きの足が濡れる。

 まもなく立秋を迎える。毎年8月7日頃である。
 四季の移ろいにはそれぞれ味がある。それを毎日体感出来る生活であることに喜びを感じる。
 好きだ嫌いだ・・と言ってても、必ず時は流れ、秋は来る。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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