徒然日記
2018年7月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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7/31(火)快晴暑い 中通病院外来 飯川病院 
0:00起床,書斎の温度高くて寝て居れない。文献整理。本読み。雑誌データ化。5:00可燃ごみ提出。7:30徒歩飯川病院。8:45-12:30外来。13:00飯川病院、14:00-18:45勤務、19:15帰宅、夕食、20:30就寝。積算14464歩。CDデータ化最終段階。

オウム事件(5) 全13人の死刑執行 死刑は極刑なのか??(3)
 法務省は7月26日、オウム真理教による一連の事件で死刑が確定した元教団幹部6人の死刑を執行した。6日に教団元代表含む7人の死刑を執行しており、これで全13人の死刑囚全員の刑が執行された。

 文化的に特異的な死生観を持つ日本人において、死刑の位置付けは微妙である。その為には死刑反対論者は少ない。日本人は死ぬ事に、単に死ぬこと以上の意味を持たせる。いや持たせすぎる、と私は思う。
 自死のメッセージ性、死刑のメッセージ性、長命信仰がそれである。私は死刑廃止論者ではないが、常日頃から人が死ぬことの意味、自死、死刑などについて考えている。

 よく犯罪被害者の遺族たちは「犯人は死んで罪を償ってほしい。極刑を望みます・・」、という発言をする。また、重大事件の犯人も「死んでお詫びをしたい・・」というコメントが報じられることもある。
 実際、私はこれを聞くと何か違うのではないか、と思う。

 私の考えでは、究極的に、死刑は犯罪者に安息を与えることである。死んでしまったら悔やむことも、償いも贖罪の気持ちも全て失われて無になる。生きながらえて悩み続けることの方にこそより大きな意味があるのだ、と思うが。

 私は齢70を越している。別に体調も歩くないし、生活苦があるわけでもない、まだ小さなレベルであるが働いている。そんな私でも、生き続けることに苦悩を感じている。いつ死んでも・・と思いつつも、一方ではまだ急ぐまでもあるまい、と思っている。

 我が国には自死の文化もある。年間3万人近くが自死する。
 一方、キリスト教文化圏では「私をお生みくださったことに感謝いたします」とされ、自死は神に対する冒涜というはっきりした位置付けがある。
 生きることを国家権力で一瞬にしてを頓挫させることが死刑であるが、それに対して、道義的な縛りから死ぬ自由を与えない我が国では、生きているものは緩慢な経過で死への過程を辿らせるという、死刑を課せられているようなものである。

 多くの人は「自死をしてはいけない。人間として、やってはいけないことである。これは、人間の根本原理だ」と言う。自死は悪だというがどうしてだろう。誰が決めたことなのか分からないが、それでも年間3万人近くが自死しているという事実は重要である。

 人間社会の基本原哩として、自死をしてはいけないという基本定理はなはずなのに、現代社会では自死はいけないと考えるのが一般的だ。なぜいけないのか。
 生命に対する哲学的原理だからではなく、人間社会がそのように合意をして、構成メンバーの死ぬ自由を奪っているからなのだろう。

 私は自分の命は自分のものだと思っているから、そんな合意に納得できないし、それに従う気もない。

 日本の社会は自死を禁じているから、死刑が相対的に重要性を増すことになる。
 ところが、自分から死刑を望む人たちもいる。

 池谷孝司篇「死刑でいいです」新潮文庫には、本書に取り上げられた山地悠紀夫、大阪池田小事件の宅間守、秋葉原の無差別殺傷事件の加藤智大・・と何例かあげている。
 このような、一見開き直った姿勢の死刑囚には死刑の意義が様変わりする。


7/ 30(月) 快晴暑い日  健康クリニックドック 飯川病院
0:30 起床。文献処理他録音データ整理。5:00収穫、庭畑散水。本日も暑予想。 徒歩飯川病院着、9:00~11:30 健康クリニックドック,11:45飯川病院、微睡、14:00~19:00飯川病院、入院患者対応、散水。データ整理、CDデータ化、19:30帰宅夕食、21:00就寝。歩数13897。

オウム事件(4) 全13人の死刑執行 死刑は極刑なのか??(2)
 法務省は7月26日、オウム真理教による一連の事件で死刑が確定した元教団幹部6人の死刑を執行した。6日に教団元代表含む7人の死刑を執行しており、13人の死刑囚全員の刑が執行された。
 死刑が1カ月以内に2回施行されたのは、法務省が執行の事実や人数の公表を始めた1998年以降初めて。 
 上川法相は臨時記者会見で「命を奪われた被害者、ご遺族らの恐怖、苦しみは想像を絶するものがある・・」との前回と同じ見解を強調した。執行を二回にわけた理由、短期間の執行の理由などには言及しなかった。 
 7人の死刑が執行されてから次の執行までわずか20日間。98年以降、これまで最も間隔が短かかったのは47日だった。
 海外の死刑制度をめぐる動き。
 海外では死刑制度を見直す動きが増えている。国際人権団体アムネスティ・インターナショナル日本によると、2017年現在では198カ国のうち142が廃止あるいは停止している。経済協力開発機構(OECD)の加盟35カ国で制度が殖るのは日本と米国、韓国の3カ国のみ。このうち韓国は1997年を最後に裁行していない。
 米国でも半数近い州が死刑を廃止したり、執行をやめている。米国のNPO「死刑情報センター」によると、米国では麻酔薬などの注射による執行が一般的。99年の計98人をピークに滅少傾向にあり、17年は23人であった。
 制度廃止の主な理由は、
■えん罪だった場合に取り返しがつかない。英国は死刑執行後に真犯人が現れた事件を受け1969年に廃止。
■いかなる場合も殺人を肯定しないという考え方。
■欧州連合(EU)は生命の尊重という基本理念から、死刑廃止を加盟条件にしている。
■死刑制度が凶悪犯罪の仰止につながっている証拠が少ない。アムネスティによると制度を廃止した国で「凶悪犯罪が増えた」という報告はない。
■制度を維持する国はアジアや中東に多い。

 死刑廃止は世界の潮流と言われる。内閣府の最新の世論調査では、死刑を容認する人が80.3%と依然高水準で、廃止を求める人は9.7%にとどまっている。2016年10月に日弁連が「死刑制度廃止を目指す」とする宣言を賛成多数で採択した。しかしながら、一部の弁護士らは「遺族は死刑への思いが強い」などとして、死刑廃止に反対している。

 殺人被害者遺族は死刑への思いが強いのは理解できる。しかし、私は死刑が極刑だとは思っていない。死刑よりも厳しい極刑を制定するべきと思う。刑期不明の「無期懲役」の見直しが必要だし、釈放されることがなく、かつ強制労働を伴う「終身刑」の導入が必要と思う。


7/29(日)快晴・猛暑
1:00起床、書類、読書などいつもの如く。撒水、野菜収穫。本日も暑くて外仕事ムリ。午前は新聞チェック、データ整理、本読みなど。逆送台風の被害の報道でNHKのど自慢12:45開始となる。微睡、16:00家内に同乗飯川病院、散水。データ整理、CDデータ化、19:30帰宅夕食、21:00就寝。歩数7968。

こんな便利なものがあったのか!!! (3) 伸縮ホース 
 私は現在午前中は水曜を除き他の病院で勤務しているが、午後は秋田駅の近くの飯川病院という小さな病院で、月火木の3日間14:00-18:30頃まで勤務し、他の3日間は同時間帯ボランティア、土日祭日は月に3?4回日直あるいは当直している。この時間帯以外もこの病院で過ごす事が多い。

 私のこの病院における身分はわからない。嘱託医でもなさそうである。しかしながら保険医登録しているから診療は可能である。
 この病院に関与している理由は、院長が家内だからで、病弱なため、補助的に診療を手伝っている。
 
 診療以外は訓練室と玄関先のピロティの木や花の世話である。
 春から秋にかけては水やり、散水を欠かせない。特に玄関脇のピロティは雨が当たらない構造なので乾燥しやすい。晴天が続く場合は土日祭日であってもは散水のために出てくることもある。
 病院は路地に面していて学生や通勤者が多い。飯川病院の「小間使いの爺さん」としか見えないだろう。私はそれでいい。

 今春、従来から用いていた散水用ホースの取り付け口が壊れた。
 修理を試みたが部品がなかなか合わず水漏れを防止できなかった。新しい部品の購入を病院に申し出たところ、ホースと巻き取りリールの劣化もありホースそのものを購入すると言う。勿体無いと思ったが任せた。

 届いたホースは見たこともないようなタイプで、黒く、短く、軽くてコンパクトで全体が布に覆われていた。いわゆる伸縮ホースと言うことで、結構普及しているようであるが、私は初めてみた。
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/7a/feaafbb09f06271d45a372de9630fbb5.jpg" border="0">
(ホース内の水圧が下がると蛇口のそばまで縮んでくる 水道との連結部、ノズルとの連結部の頑丈さが目立つ 壁に私のシルエット)

 ホース自体も頑丈そう、蛇口側、シャワーノズル側のコネクターともに金属で従来のプラスチック製とは一線を画する頑丈さである。ホース内の水圧でジャバラ状のホースが伸びる構造らしい。ジャバラだと耐久性が気になる。

 蛇口をひねるとホースが3倍ほどにゆっくり伸び、蛇口を止めて水が抜けると元の長さに縮んで手元に戻ってくる。ブーメランが戻ってくる感じである。
 縮んだ状態では柔らかく場所も取らないので小さなバケツに入れるだけですみ、片づけも簡単。

 今までは、散水の度に倉庫から重いホースを運び、終わるとハンドルを回して片付けたがこれが結構大変であった。そのため自宅では巻き取らず伸ばしたままにしてある。病院では管理上そうはいかない。

 伸縮ホースは水圧をホース全体で受け止めるから水の出は強くスムーズである。伸縮ホースの耐久性とか問題もあるらしいがまだ経験していない。

 自宅では通常のホースである。何カ所も穴が空いてその度に修理してつかっているが、今度買い換える際には伸縮ホースにする積りである。


7/28(土) 快晴猛暑 我が家の居間は34.4℃
0:30起床、新聞や文献読み。データ整理。5:00収穫、庭畑散水。本日も暑予想。午前は暑くて外作業困難、 机上作業、読書中心、自宅の不具合など修理。Mac mini修理から戻ってきた。再調整する。今度はよさそう。 微睡、結局外仕事ムリ。19:30夕食、21:00就寝。我が家から一歩も出ず、徒歩6765歩に。Blu-ray Disc試聴「らららクラシック:カザルス」、読売交響「R シュトラウス:アルプス交響曲」

こんな便利なものがあったのか!!! (2) 鼻毛シェーバー(2) もっと徹底的に鼻毛を抜き去るペーストもある
 幸いなことに、数年前に手動の鼻毛シェーバーを家内から土産品としてもらっていたことを思い出した。いつ頃のことか思い出せないほど前のことである。なんで買ったのか?それだけ鼻毛切りが大変そうに見えていたのであろう。

 貰った当初は全くその必要性を感じていなかったために机の奥深くにしまい込んでいて記憶の隅からも失われていた。今回、たまたま、なんの脈絡もなくふと思い出した。必用が記憶の紐を辿らせたのであろう。愛用のハサミと爪切りと同じくゾーリンゲン製であった。値段は4.000円くらいだったらしい。

(ゾーリンゲン製の、鶴の形のハサミと爪切り いづれも30年近く使用 真ん中が使い始めた鼻毛シェーバー)

 今回初めて箱を開けて見た。
 長年動かしていなかったから油が固着しいたためだろう、当初は全く動かず使い方もわからなかったが、潤滑油を刺しながら少しずつ蝶番部分をこじ開けたところ、内蔵のバネの力で開閉できる様になった。なるほど、作りは堅牢で構造的にも関心する。これは優れたメカニズムだと感心した。

 ただ、用いる場所が場所だけに水洗い禁と書いてあるのが問題であるが、私は使用後にアルコール綿で拭き取っている。

 週1回ほどシェーバーで鼻毛処理を練習し、徐々にうまくなった。ほとんど視力を必要としないのがいい。鼻の側面にやや強めに当てて使用すると、うまく切れる。実はもっとスッキリ切れるのかなと思っていたが結構残る。
 鼻毛には、ほこりなどの進入を防ぐフィルターの役目や、鼻粘膜の湿度を保つ働きがあるからこのぐらいがよかろうと思う。

 ただ、巷には根こそぎ鼻毛を抜くことができる固形型のワックスがあるらしい。
 電子レンジで温めて柔らかくしてから鼻に塗ると2分ほどで固まる。それを剥ぎとると、多少痛いというが1mm以下の短いのまで一気に抜けるのだそうだ。日本医事新報4945号のエッセイに紹介されていた。 
 面白いが、鼻毛の機能を考えた場合そこまで徹底して処理する必要はなかろう、と思う。

 鼻毛シェーバーの存在は最近知ったが、視力障害の私にはもう手放せない便利な小道具である。

 ところで、ドイツのゾーリンゲン社は優れた刃物の製品で世界的に有名である。私も何種類かもっているがいずれも堅牢でよく切れる。
 その会社のトップの人は、意外にも日本製の刃物を愛用しているのだそうだ。最近、新潟県のある刃物工房にはゾーリンゲン社の技師や研究者が何人も研修に訪れて日本の刃物作成のノウハウを学んでいるのだそうであるが、優れた企業の謙虚さがわかるエピソードである。


7/27(金)快晴暑い 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 飯川病院送別会
1:20起床,文献・新聞チェックその他。5;00可燃ゴミ集積所に、7:25Taxi駅に、8:11こまち大曲に、9:10-12:00大曲中通病院外来。往復徒歩、汗だく。コンビニで冷凍の飲むアイス購入、身体に当てて涼を取る。14:00-17:45飯川病院ボランティア。18:00-20:15ViewHotel7Fレストランにて管理栄養士の送別会、20:30Taxi帰宅、21:15就寝。徒歩積算14277歩。CDデータ化まもなく終了。

こんな便利なものがあったのか!!! (1) 鼻毛シェーバー(1) 
 私は自分の顔を鏡で見ることは滅多にない。関心がないのだ。

 現役のときは適宜散髪にも行き、ほぼ毎日電動シェーバーで、鏡なしで当てずっぽうで髭を剃っていた。両者とも私にとっては面倒で、嫌なことであったが社会通念上やむを得なかった。その頃は鼻毛が伸びてくると適宜ハサミで処理していた。

 退職してからは散髪の頻度は少なくなり、髭も一切剃らずに伸ばしっぱなし。自分ではずいぶん楽になった。それでもまだ嘱託医として働いているから仕方なく散髪している。
 散髪は2ヶ月おきほど、その時バリカンで髭も短くしてもらう。顔を剃ることはない。

 たまに鏡を見ることがあるが、そのとき思いがけず髭も鼻毛も伸びていることに気づく。病院での診察時にはマスク着用するので患者やスタッフは気が付いていないだろうと思うが、自分自身で恥いってしまう。

 顔面の毛、特に髪も髭も綺麗に手入れしておくことは男性にとって社会生活上重要だとされている。その人物の信用度にも関わることである。とりわけ伸びた鼻毛はその人のイメージを著しく低下させる・・、と誰かが言っていたが確かにそうだろうと思う。

 だから私も気付いた時には慌てて切りとっていた。

 私が鼻毛切りに愛用してきたのはドイツの土産物としても有名なゾーリンゲン製の鶴の形をした鋭利なハサミである。鼻穴を引っ張ったり、押しつぶしたりてりして鼻毛を浮かしハサミを入れるのであるがこれがなかなか上手くいかない。この鋏は先が鋭利なだけに中々危険である。さいわい今まで刃先で皮膚や鼻粘膜を傷つけた事はないが、毎回怖かった。

 しかしながら、最近の私の問題点は視力障害である。
 年2回の職員定期健康診断の視力の項を見るとここ2年ばかりは両眼ともに0.1以下と記載されている。私の眼科診療録には診断名として、緑内障、白内障、近視、乱視、遠視、眼底出血・・・と並んでいる。3年ほど前から緑内障の進行予防で点眼薬の処方を受けているが、最近視力低下が著しい。
 
 メガネも嫌だから焦点の合わないボケた視野のもとで日常生活を送っている。脳もボケているから目の焦点だけの問題でない。唯一の例外は運転時で、この時はメガネを用いる。

 尤も、私の目は裸眼で15-18cmのところで完全に焦点が合い細かい字も見えるから、本もコンピューターのディスプレイもこの範囲で見る。私のマックは数台あるが、全て滑車をつけてこの距離に簡単に近づけることができる様にしてある。

 鼻毛を切るにも、足の爪を切るにも、距離的に中途半端でメガネを使用しても殆ど見えない。後者は手探りでもなんとか出来るのであるが、ときに深爪して血を流す。

 さて、困った。さりとて誰かに依頼して鼻毛を切るのは私にとっては堪え難い。
 こんなときにいいことを思い出した。


7/26(木) 快晴暑い秋田は34.3℃ 外来  飯川病院 オウム6人処刑
0:30起床、新聞・文献など。データ整理。いつものパターン。7:30徒歩飯川病院着、8:40-13:00中通病院外来+ドック判定14人分。14:00飯川病院勤務、19:30帰宅・夕食。 20:30就寝。歩数計12699歩。CDデータ化。

最近、「藪医者」という言葉が消えた
 私は岩手の片田舎で育った。祖父が村で開業していた。

 田舎では苗字とは別に各家屋敷に呼びやすい屋号がついていた。
 家屋が建っている地形や位置によるものと,職業,出身地,先祖名、家の本家・分家関係、などによって呼び分けられていた。 明治になって平民に苗字が許されたとき屋号から苗字に切り替えられたが、私の田舎では、私が過ごした昭和20-40年代には日常的に屋号の方が通用した。

 私の家の屋号は「いしゃど」であった。どんな漢字が充てられたは分からない。多分「医者殿」、「医者戸」あたりではなかったかと類推している。
 村人達は「いしゃど」と呼んだが、子どもらの中では「やぶいしゃど」というのが通用していたが、私にとってはあまり嬉しくない呼ばれかたであった。

 医者を小馬鹿にする言葉として最も代表的なのが「藪医者」であろう。当時の田舎の医師は村の指導者の一人でもあり、親しみを込めて呼ぶ場合もあり、一概に責められるものではない。憎しみとともに藪医者と呼ばれることもなかったわけではないが・・・。

 「藪医者」とは、もともと、江戸時代に但馬国養父(やぶ)にいた長島という医者のことだった、という説がある。
 「藪医者」と同じ意味で「藪薬師」ということばが「日本国語大辞典」第2版に載っている。「藪薬師」は鎌倉時代の文章にもあるという。だから鎌倉時代からの、歴史のある言葉だったと考えられる。
 巷では江戸時代の「薮医竹庵」が有名であるが、その実態はわからない。

 「藪医者」の語源に関する説はいくつかあるが、「藪」は一般的に「田舎」の意味で使われる。 藪医者は「田舎の、近所にいる未熟な医者」程度の解釈のもと、同じ生活圏に住み苦楽を共にする「お医者さん」として住民から親しみを込めて呼ばれたものと考えられる。

 賢治が足繁く通い作品の中で「ブッシュ」と紹介される蕎麦屋の「薮屋」は今も現存するが、この藪には蔑みの意味はなかろう。賢治にとって親しみのある田舎の蕎麦屋だったのだろう。

 私は、近所の子どもらの中では「やぶいしゃどの光之ちゃん」という呼ばれたが、蔑みのニュアンスが無かったとはいえ、私にとってはあまり嬉しくない呼ばれかたであった。

 ところで最近は世間から「藪医者」と言う言葉が消えてしまった。
 医師自体が、「生活圏を共にするお医者さん」という関係が薄れてしまったことと、現代医療が一般住民の知識が及ばないような遠くの存在、高度の存在になってしまったことが原因と思われる。

 数日前に江戸期の医者物語の一つを読んだが、懐かしい「藪医者」という呼称が頻発されていたので、懐かしい昔のこと、現代の医師患者関係の在り様を含めて「藪医者」について考えた。


7/25(水)快晴暑い 午後飯川病院ボランティア
1:00起床、新聞・文献・本読みなどいつもの如く。午前フリーで畑周辺の草刈り。日差し強く、予定の半分ほどで下肢・足低のこむら返り頻発で中断、屋内で家の整理などにした。12:07バスで飯川へ、ボランティア。入院患者静脈確保など対応。本読み。撒水。19:30帰宅夕食、20:50就眠。歩数計10943歩。 CDデータ化。

書籍:まんが 「人体の不思議」 茨木 保著 ちくま新書 2017年 940円
 茨木 保氏は漫画家・イラストレーター、それに産婦人科医である。
 1986年奈良医卒、臨床医学に携わりながら次々と著作を発表、2006年いばらきレディースクリニックを開設、現在にいたている。
 私が50年近く、あるいはそれ以上愛読している日本医事新報に「がんばれ!猫山先生」 を連載中。開業医の厳しい現状をうまく表現している。
 私が所持している作品だけでも、■「まんが医学の歴史」(医学書院)、■「まんが人体の不思議」(ちくま新書)、■「がんばれ!猫山先生」(1)-(5)(日本医事新報社)がある。

 本書では、医者のイバラキ先生が人体の解剖や機能を解説するが、看護師のウニ子さん、猫のナマコくんが質問に答えたりしながら先に進めるという構造をとっている。
 TVのヴァラエティ番組に似たようなかたちで進行させる。理解困難な内容にはときにピントのずれた意見などがでると、一旦そのレベルに立ち返って解説できるというメリットがある。

 私は一応医師として知識を持っているから受け入れやすいが、それでも難解な部分があったし、私に欠けていた知識の部分も少なくなかった。私も再勉強になり大いに役立った。
 
 一般の読者にとっては難しい内容であるが、ギャグも少なくなく、医学史上での逸話も挿入されており、読むものを飽きさせない、と思う。

 以下の10章からなる。どの章から読んでもいいような構成である。
第1章 細胞  
第2章 消化器  
第3章 血液
第4章 循環器
第5章 呼吸器
第6章 泌尿器
第7章 内分泌器
第8章 神経
第9章 感覚器
第10章 生殖器

 医学を発達させた貴重な研究の紹介が多いが、「この分野の研究で○○博士は○○年にノーベル医学・生理学賞を受賞した」という説明をオチに使っているが、この方法でこの漫画の内容の正当性をさりげなく主張している。
 
 それとは別に時折茨木氏の独自の考え方が挿入される。
 氏が婦人科医である事もあって発生学、細胞学、遺伝学、内分泌学、泌尿生殖器の分野の解説は特に優れている。
 私は一応血液分野を専門にしてきたが、広範な血液学をコンパクトにまとめている。血液免疫の分野にもう少し紙面を割いてもよかったのでは、と思った。

 最新の医学知識を分りやすくまとめた茨木氏に敬意を表したい。


7/24(水)快晴暑い 午後飯川病院ボランティア
1:00起床、新聞・文献・本読みなどいつもの如く。午前フリーで畑周辺の草刈り。日差し強く、予定の半分ほどで下肢・足低のこむら返り頻発で中断、屋内で家の整理などにした。12:07バスで飯川へ、ボランティア。入院患者静脈確保など対応。本読み。撒水。19:30帰宅夕食、20:50就眠。歩数計10943歩。 CDデータ化。

四季2018(11)全国的に熱暑、秋田の早朝はもう秋の息吹

 私は朝早くから起き出し活動する。
 我が家の居間にはエアコンがないので暑い日は私は上半身は時には裸で、腰にはちょっと厚手のバスタオルを巻く。扇風機が部屋の4隅にあり風を送ってくる。私にはちょうどいい環境である。

 東北地方は7月20日に梅雨明け宣言が出た。
 秋田は日中まだ日差しが強く暑くて31℃もある。今週末には更に暑くなり34−35℃にも達すると予想されている。熱中症搬送が続いているが、この日差しと暑さは夏好きの私にとっては最高に嬉しい。

 昨日あたりから早朝3-5時頃はかなり冷え始め、扇風機を止めるだけでなく薄手のシャツが必要になってきた。

 朝5:00過ぎには裏の畠にキウリ、トマト、ナスなどの収穫に、また、庭の花たちに散水するのが日課であるが、外へ出ると早朝の空は高く、秋に特徴的な細切れのスジ雲が出始めている。涼風が足下を冷やす。畑や庭の雑草の露でスリッパ履きの足が濡れる。

 秋の朝の雰囲気を感じた日以降は、私はそろそろ夏も終わりか、と気分的に落ち込み始める。しかも、今年は一週間ほど早く感じている。
 通常は8月中旬、お盆の墓参りで足元の露で秋を体感するのであるが、昨年も今年もちょっと早い。

 早朝は寒くなったが、それでも日中はまだまだ暑い。自分勝手であるがこれからの日々は夏の名残りとしての暑さと残暑が、一日も長く続くことを願っている。

 まもなく立秋を迎える。毎年8月7日頃である。暦便覧では、立秋を「初めて秋の気配が現れてくる日」としている。立秋から立冬までが暦の上で「秋」である。私が好きな季節は、夏>春>冬>秋の順。間も無く秋が来る。

 秋田は比較的涼しく過ごせているが、全国的には今年も異常気象が続く。
 梅雨の後半には中部地方で集中豪雨があり、観測史上最大の降雨が生じ、河川が各所で氾濫、土砂崩れも頻発、死者200人以上、被災家屋3万戸に達した。その数日後からは被災地も快晴となったものの今度は異常高温となり、復旧活動の支障になっている。
 関東関西方面では酷暑の日々が続いている。35℃以上の地域が各所に及び、40℃にも達している。体温より暑い環境って一体どんなものだろうか。呼吸も苦しくなるのではないだろうか。

 四季の移ろいにはそれぞれ味がある。早朝起床の生活を通じそれを毎日体感出来ることに喜びを感じる。
 一方では、近年の異常気象について、孫子の代には一体どうなるのか、と心配のタネになっている。


7/23(火)晴れ暑い 外来 飯川病院
1:00起床、文献読みなど。5:00畑庭に撒水、他。5:15可燃ゴミ収集所に、7:30徒歩にて飯川病院。新聞チェック。8:45-13:00中通病院外来。 13:20飯川病院、微睡。14:00-18:15勤務、入院患者対応など。歩数計11415歩。19:10帰宅、夕食、 20:30就眠。CDデータ化。

徒歩通勤2018(3) 高知を通過し徳島に入った

 平成13年3月から徒歩通勤を始めた。
 歩数計「新・平成の忠孝」で歩行実績を積算している。伊能忠敬が歩いた海岸線をたどり、東京を基点に、東北、北海道、北陸、九州を終了、12月28日に広島県を終了、四国愛媛県に渡った。

 平成13年3月から本年7月22日時点までの積算データ
■歩行開始後 1.931日目、
■総歩数 Σ1.865万歩、
■歩行距離 Σ14.926Km。

 高知県通過のデータ。高知県に入ったのが5月10日、通過日7月22日。
■高知県の海岸線の長さ 647Km。
■高知県の通過所要日数 72日。
■一日平均歩数 11.389歩、
■一日平均歩行距離 8.99Km。
■日本一周の目標の79%の地点。

 最低1日10.000歩を目標にしていたが、今回は11.389歩と目標を達成した。
 そのため、高知県は7月いっぱいで通過できれば良いかな、とゆったりとした計画にしたが1週間ほど早まった。

 春を迎えてからも天候が不順で、また梅雨に入ったこともあって歩行出来る機会はそれほど多くなかったが、気温も比較的穏やかで、小雨の日も無理して徒歩通勤した日もある。
 最近は自身の「ひやみこき」で歩くファイトが出ずにペースが落ちていたが、この季節なんとか持ち直している。

 高知県の海岸線は瀬戸内特有の複雑な地形、長い半島などがあり647Kmと意外と長かった。

 (赤が愛媛県、緑が高知県、青はこれから歩く徳島県、黄色が香川県)
 (私はわざわざこのようなイラストを用意しなければ各県の位置が分からない様な土地勘オンチである)

 高知県は私にとってはなじみの少ない土地であるが、NHKのど自慢の開催地、高校野球の代表校、歌謡曲に登場する地名とかで若干知っているに過ぎない。
 足摺岬、四万十市、四万十川、土佐市、高知市、坂本竜馬記念館、安芸市、室戸市程度であったが、その位置関係などを地図上で今回改めて確認した。

 いま歩いている徳島県の海岸線は246.25Kmである。平均1日9Kmとして8月25日頃に通過できれば良いかな、とゆったりとした計画にした。


7/22(日) 晴れ それほど暑くは無い 庭仕事中心
2:30起床。ひさびさに寝過ごし。クルマの往復の疲れか。読書、宗教、歴史関連勉強。データ整理他。6:00散水、8:00午前は外仕事など。ダリア咲き始め支柱に固定作業、のど自慢楽しみ微睡。ネコ逃走防止用カギ作成、庭の作業。Apple staffとの相談結果再度点検修理に。16:30書斎の整理。19:00夕食、20:30就寝。Σ9650歩。本日もアップルの電話対応うく。サイドサービスに送る事に。

「爆笑お笑い祭り in 能代2018」
 7月21日「爆笑お笑い祭り in 能代2018」なる催しものがあった。


 同様の催しは2015年6月にもあった。この時は2014年新語・流行語大賞を受賞して大ブレークした「日本エレキテル連合」を中心に、「ヒロシ」、「ウエストランド」、「響」、「コウメ太夫」が出演した。
「爆笑お笑い祭り in 能代」(1) ひさびさのお笑い公演
 「日本エレキテル連合」はその後一切聞くことは無くなったが今はどうしているのだろうか。

 7月21日、私は飯川病院の午前外来の補助と午後日直が当たっていたので14:30からの午後の部にした。午後日直は交代医師が見つからず、止む無く院長に代理をお願いした。会場は7割かたの入りで、駐車場も余裕があった。

 会場の能代文化会館は6月24日のベルリン交響楽団演奏会でも訪れたばかりであった。この時は駐車場に入るのに一苦労したので今回は時間的に余裕を持たせ、会場に約1時間前に到着した。超快晴、とても暑い日で外で待つのは辛かったので、会場脇にある市立図書館で本を読みつつ開演を待った。なかなかいい施設である。

 今回は「ヒロシ」、「アキラ100%」、「狩野英考」、「マツモトクラブ」、「ハリウッドザコシショウ」、「ジャガーズ」が出演した。「ヒロシ」以外は「アキラ100%」は一度TVで見たような記憶があるが、他はまったく初耳の芸人であった。

 「ヒロシ」は前回同様、「ついに絶滅芸人候補のリストからも消えました・・・」、「かつてファンレターをくれた方達はもう全員お亡くなりになったのでしょうか」・・・などなど前回と同じようなギャグで笑わせた。今回は若干トークが多かったが、今後どう新境地を開拓して変身していくのか、興味がもたれる。このままでは本当に消えていくかも、心配である。

 「アキラ100%」は全裸で登場、金属のお盆2枚を上手に用いながら「みせない芸」を披露したが、間口の大きな舞台では左右の座席からは見えたんではないか、と心配した。
 私は今回もバードウオッチング用の双眼鏡を持って行った。勿論、「みせない芸」で、もしかしたら!!!・・と期待したわけではない。視力が弱った私にとって舞台をみるには必須の道具である。

 そのほかの登場者たち、その中で「ハリウッドザコシショウ」もパンツ一枚の姿で登場したが、裸で出てきた意味、発するギャグが良くわからなかった。座席の前に陣取った方々の反応は意外に良く、結構知られている方々なのだ・・と思った。

 前回は私も舞台に上がったりして結構インパクトが大きかったが、今回はそれよりはちょっと落ちた。でも結構楽しめた。

 お笑いの会は通常はTVで見る。TVではアップで演者の表情は見える利点があるが、客席を含めた全体の雰囲気が見えない。
 今年は、2月のABS秋田放送ラジオ「らんまんラジオ寄席」公開収録
ABS秋田放送ラジオ「らんまんラジオ寄席」公開収録、3月のルミエール落語会落語公演2018(2) 落語公演2018(2) 第5回ルミエール落語会 立花家橘之助襲名披露公演に続いて3回目であるが、このような機会があれば、今後も参加したいものである。  


7/21(土)快晴 飯川病院午前外来補助 日直院長交替 能代のお笑い ?
1:00 起床。文献・新聞チェック他、貴重な週末を楽しむ。5:00畑庭散水、鼻に肥料撒き。フィットエンジン下部のカバーはがれ修理。10:30プリウス飯川病院、外来補助。昼検食、12:30院長と交代、能代に。14:30-16:30演芸会。18:00帰宅、19:00夕食。20:30就寝。14482歩。

書籍:「雨のことば辞典」倉嶋厚 原田実編著 講談社学術文庫2239 2014年 920円 
 東北地方の梅雨は7月20日開けた。

 私は夏のギラギラと太陽が照りつける快晴も好きであるが、しとしとと静かに降る雨の日も好きである。
 私は本来アウロドア派ではない。炎天下で過ごすのは好きであるがせいぜい家のまわり、畑程度の距離の事で、めったに海や山には出掛けない。
 その点、雨の日の休日などは自宅で過ごすが、早朝から夜まで机の前で読んだり書いたり、音楽を聴いたりしながら嬉々として終日過ごす。尻に褥瘡が出来たのではないかと思うこともある。

 講談社学術文庫に「雨のことば辞典」と言うのがある。本書は季語から気象用語、各地の方言まで、雨にまつわる言葉を約1200語集めた辞典である。

 諸外国に雨を表す単語がどれだけあるか知らないが、日本人の表現力の豊かさにはほとほと感心する。雅な表現も多く、言葉を通して昔の日本人の研ぎ澄まされた美的感覚を味わう事ができる。
 その点、なんでも横文字化する最近の日本語の風潮は嘆かわしいと思っている。

 私は発売後間もなく入手した。
 その購入の切っ掛けは欧陽菲菲が歌う「雨の御堂筋」を聴いて「こぬか雨」とはどんなものか知りたくて購入した。予想を超えた豊かな内容でその後私の座右の書になっている。
 日本の雨は四季のうつろいとともにその様相が変わる。その雨の姿をとらえたうつくしいことばが数多くある。雨は文学作品にもたびたび描かれ、詩歌にもよまれてきた。とくに俳句の世界では季語としても重要で多用されている。歌謡曲でも、例えば香山明夫が唄う「氷雨」などがある。香山氏とはあるイベントで会話する機会があり「氷雨」も好きになったが、「氷雨」の意味は後にこの本で知った。

 最近、雨の降りかたが変わってきている。梅雨時の雨は静かに、長々と降ると言うのが今までの印象であったが、梅雨期後半には「これまでに経験したことのない猛烈な降雨」と形容される豪雨が全国で発生している。昨年は秋田でも被害が出たし、今年は西日本で豪雨による多大な被害が生じている。
 
 南から暖かく湿った空気が流れ、北からの冷たい空気とぶつかると積乱の雲が次々と発生、「線状降水帯」となり、これが長時間停滞して記録的豪雨となる。一般的に西日本の方が「線状降水帯」ができやすい。秋田県でも発生する可能性があるといい、油断は禁物である。

 やはり最近の気候は異常である。
背景には地球温暖化があるのは明らかだ、と思う。日本政府の対応はなんかトロイような気がしてならない。


7/20(金)快晴暑い 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
?1:00 起床。文献など読む、録音データ整理。ネットつながらず、自宅のWi-Fi検討して。5:00可燃ゴミ廃棄、キウリナスはピーク過ぎた。 7:35Taxi、飯川経由駅に、8:11こまち、9:10大曲中通病院外来。往徒歩。14:00飯川病院ボランティア。微睡、文献読み、新聞チェッ ク。19:00Taxi書店経由帰宅・夕食。20:00就寝。Blu-ray Discなし。本日もアップルの電話対応うく。Σ11707歩。 CDデータ化すすめる。

災害列島2018(3) 東北地方の梅雨が開けた 近年梅雨の様相が変化

 東北地方の梅雨は本日開けた。

 梅雨があるのは日本だけではない。中国にも朝鮮半島にも同様の雨期がある。中国語は日本と同じく梅雨と書いて「メイユ」、韓国語では長霖で「チャンマ」というのだそうだ。
 英語でもこの時期を「Baiu」と書く。梅雨前腺は「Baiu front」。「Baiu」は1980年代頃から世界的にも広く使われるようになったという。「Kuroshio」、「Tsunami」「Karaoke」、「Noukyou」などなど、日本の呼び名がそのまま通用する。日本では外来語が多過ぎて閉口するが、たしかに例に上げた単語は一言で説明するには困難で諸外国でも日本語をそのまま受け入れたのだろう。

 梅雨に関連する呼び名は、「五月雨」、「茅花流し」、「田植雨」、「麦雨」、「猫毛雨」、「水取雨」などがある。
 講談社文庫に「雨のことば辞典」と言うのがあって私の愛読書の一つであるが、方言も含めて梅雨に関連する言葉が90以上も収められている。日本人の表現力の豊かさにはほとほと感心する。その点、なんでも横文字化する最近の風潮は嘆かわしいと思っている。

 「暴れ梅雨」など、梅雨の終わりの集中豪雨を表した言葉も昔からある。最近は「ゲリラ豪雨」であるが、梅雨期とは基本的にはしとしとと幾日も降る雨で、恵みの雨というニュアンスを表現した言菓が多い。

 梅雨は6月上旬ごろから7月下旬にかけて日本列島及ぴ周辺に現れる雨期。

 なぜ、梅雨と呼ばれるのか??
■ 梅の実が熟す頃の雨だから
■ カビが生えやすい時期という意昧の黴雨が中国から伝わった・・などの説がある。

 最近、梅雨の様相が変わってきているようだ。
■ 梅雨明けがはっきりしなくなった。たしかに秋田でも数年前に梅雨明け宣言がなかったように記憶する。
■ しとしと降るより、激しくザーツと降る雨の割合が増えている。特に後半には最近日本各地で水害、土砂崩れが頻繁に発生している。秋田でも昨年洪水被害があった。

 ラジオ深夜便に出演した気象台のスタッフは、ここ50年ほどの梅雨期の降雨の変化について「平均雨量の変化は小さいが、弱い雨が減り、強い雨が増えてきた」と話していた。
 気象庁気象研究所の藤部室長らが過去100年のデータを解析した結果によると、日本では4時間降雨が50mm以上の強い雨が増加し、1-2mの弱い雨が減少している。こうした傾向は梅雨時期も同様の傾向が見られた、と言う。

 また、2000年までの50年問の降水量に関する同庁の調査報告書によると、「強い雨」の割合は年々増加。中国と韓国のほぽ同期間のデータでも、この傾向は共通していた。
 こうした変化は温暖化による極地の氷の溶解による海水の増加、それに伴う水蒸気量の増加など地球規模の変勣が関係しているのではないか、と報告書は指摘している。

 田畑を澗し、作物の実りを助けてきた、気だるいような、静かなイメージであった梅雨だが、最近強烈に姿を変え暴力的様相を帯びている。


7/ 19(木) 快晴 外来 飯川病院
1:00起床。新聞・文献等。4:30資源ごみ大量廃棄、6:30徒歩飯川病院。 8:45-13:00中通病院外来。13:20健康クリニックに・ドックの胸部レ線チェック。14:00飯川病院に、14:15-18:30勤務。18:32バス帰宅・夕食。本日もアップルの電話対応うく。21:00就寝。歩数計13950歩。CDデータ化すすめる。

日本人の食を考える(3) 東北の「ご当地グルメ」を調べた
 B級グルメについて調べた序でに東北地方の「ご当地グルメ」を調べて見た。以下に示したが、まだまだあるだろうが私のレベルではここまで。

 私は旅行が嫌いである。アルコール類は好まない。医師会の仕事とかで東北各県を訪れたが会議場とホテルを往復するだけで街を歩いたことはない。盛岡の「盛岡三大麺」くらいしか味わった事はないから、未知の味の料理の羅列になった。

■ 青森
黒石つゆ焼そば
十和田バラ焼き
八戸せんべい汁
■ 岩手
岩手町焼きうどん
久慈市 まめぶ
盛岡三大麺 冷麺 じゃじゃ麺 ワンコ蕎麦
一関市餅料理
■ 秋田
秋田市かやき
本荘ハムフライ
横手やきそば
湯沢市稲庭うどん
■ 山形
山形市冷やしラーメン
山形市芋煮
米沢ラーメン
■ 宮城県
石巻焼きそば
仙台市 牛たん
白石温麺
■ 福島 
喜多方ラーメン 
会津ソースカツ丼
福島ぎょうざ

 一覧にしてみると麺類が多い。日本人は麺水が好きなんだな、と感じる。私も同様で毎日食べても飽きることはない。外国人にはズルズルとすする音が嫌がられているが、ズルズルなしに食べても美味しくない。むしろズルズル音を世界に向けて広めるべきである。

 地方の文化に詳しいある学者の評価では、日本は他国にみられないほど地域文化が盛んな国で、中でも東北地方は食文化の宝庫で、ご当地グルメの火付け役となった地である、と言う。
 その地域ならではの名物料理「ご当地グルメ」が注目を集めて久しいが、独自の食文化を生かした地域振輿に取り組む人たちが少なくない。

 郷土に対する熱い思い入れが背景にあるのだろう。


7/18(水) 曇天  飯川病院ボランティア
1:00起床、書斎のMacMini ネットに繋がらず。昨夜までは繋がっていたのだが。5:00町内ゴミ集積所の掃除当番、問題なし。8:30家内に同乗飯川病院。9:30-19:00院長不在の為に飯川病院ボランティア、外来患者、入院患者対応、撒水ほか。 19:00帰宅・夕食、20:50就眠。歩数計9190Km。歩数計3950歩。終日座学中心、CDデータ化すすめる。

日本人の食を考える(2) B級グルメは地域の生活感が感じられる
グルメにはABCのランクがあるらしい。

 ■ A級グルメとは高級な食材や一流のサービスによる料理で、見事な料理の陰でどれだけの食材が無駄になっているのかと考え、私はちょっと眉をひそめる。

 ■ B級グルメは日常的に食べられている安くて庶民的な料理。ラーメン、お好み焼き、うどん、焼きそば、カレーライス、ハンバーガー、どんぶり物などが、代表的とされる。私はこれに親しみを感じる。

 ■ C級グルメは、一般的にはA級・B級グルメよりもレベルの低い料理とされているが、格安、ゲテモノ料理などを示す場合もありはっきりしない。
?
 B級グルメには、地域の庶民の暮らしに定着してきたものも多い。このため、食材はその地で採れたものを用い、料理そのもの、提供する店にも独自の創意工夫がされている。

 このように地域独自の食文化を「ご当地グルメ」として見直し、町おこしに活用しようとする動きが増え、地域のB級グルメを集めたイベントが各地で催されるようになった。
 
 中でも、2006年から開かれている「B-1グランプリ」は人気を博している。地域の曰常食が注目され、地域おこしに活用されるようになったのは、2000年代に入ってからのことだが、こうした傾向の背景には、それまで顧みられてこなかった「地域の個性、生活を見いだそう」とする社会的な価値観の変化がある。それを促す社会的要因がある。

 東北でも独自の食文化を生かし、地域振輿に取り組む人たちがいる。

 「ニッポンめんサミット・In Morioka」では全国からご当地麺が出店し、数々のイベントが繰り広げられた。
 「盛岡冷麺」、「盛岡じやじや麺」、「わんこそば」が盛岡の三大麺とされ、市内の飲食業者が開いた上記の「サ・In Morioka」は入場者は延べ5万人を記録した。
 盛岡市の人口は30万人を割り、20年後にはさらに6万人滅ると推計される。市は街を活気づけるため「盛岡三大麺」をさらに強く押し出す方針という。
 私は盛岡近郊の出身ということもあって「盛岡三大麺」のどれも好きだが、「ひっつみ」「焼うどん」も好んで食べる。

 秋田市で売り出し中の「かやき」は本来は「貝焼き」でホタテの貝殼を器にして食材を煮込んだ鍋料理を指す。「かやき」は青森・秋田・岩手三県に見られる郷土料理である。  
 「横手やきそば」は第4回「B-1グランプリ」の成功を契機に一気に全国プランドに駆け上かった。この時を機会に横手市の知名度もぐんとアップした。この大会の日、秋晴れの横手市には2日間で、何と26万余人が詰めかけた、と言う。
 その後も、横手市には「やきそば」目当てにたくさんの人が訪れている一方で、「横手やきそば風」と称する類似商品も多数販売されており、関係者の頭を悩ませている。
 当たり前の食習慣、食材を基にしているだけ考えるだけでも楽しい。誰でも作れるような気がするだけにどれだけ社会の中に浸透し続けるか、難しい問題を抱える。関係者には頑張って欲しい。


7/17(火) 秋日雨模様 外来 飯川病院
1:00起床、書斎で作業すすめるもiWork不調でデータ更新出来ない。データ整理、本読みなど。5:00可燃ゴミ収集所に。キウリ収穫。6:47降雨にてバス飯川病院。8:45-12:50中通病院外来、13:15飯川病院、微睡。14:00-18:20勤務、19:00バス帰宅、夕食、19:30?20:30iWork不調、Time Machine不調に関してAppleの指導受ける。まず改善。21:00就眠。歩数計9101歩。 CDデータ化すすめる。

日本人の食を考える(1) 日本人は食べることにしか興味がないのか?
 今の世相をみていると、ちょっと大げさにいえば日本人は食べることにしか興味がない民族なのか?と思ってしまう。それほどメディアには情報があふれている。
 食べることは生きることであって、私もそれを軽視する気はない。ただ、生きるための食事のレベルを質的に超えている。私の目から見て日本の食事は何倍も何倍も贅沢だ、と思ってしまう。世界の食材を食い尽くしているのではないか?

 TVにはグルメ番組と称されるものが多い。雑誌をみても食べ物の記事や広告が多い。新聞然り、折り込み広告見ても食べ物の広告がかなりを占める。

 私はTVのグルメ番組は嫌いである、
 中でも特に食品をコケに扱う遊び半分の番組、高級食材を扱う番組、大食い競争、若い女性をキャスターにした食べ歩き番組、大騒ぎしながら食べる番組・・・は特に嫌だ。

 外国も含めて行列店や有名店を訪れては「フルーティ」「うまい」を騨するリポーターたちに、うんざりする。彼女らの言葉による表現力も乏しい。ちょっと口にいれただけの本当の味などわかる訳ではないのだ。女優やアイドルが登場するが、食べるマナーも気に入らない、箸の使い方、口に入れる様子などももう少しなんとかならないか・・と思うことがしばしばである。

 その点、ラーメン、焼きそぱ、からあげなど、私たちが普段当たり前のように□にしているものをとりあげた番組はまだ良い。作り手の、食べ物への執着心の強さと、対象へのアプローチの独自性が伝わり、そこには心地よさを感じる。火加減やこしかた、蒸らし方など、一つ一つにこだわりを見せる料理人たちの真心、心配りが見える。

 私は食に関しては貧しい岩手の片田舎で育った。母親も料理は保守的であった。新潟大学では6年間学生寮で一日130円の食費で、空腹を抱えた生活であった。秋田に来て食材の豊かさにびっくりした。

 私は食事に関して厳しさを感じている。いま地球上には75億人生活しているが、食品の供給力は50億人分ほどで頭打ちになっている。理屈の上では三人に一人は飢えに直面する事となる。現にそうなっている。経済格差で食品の奪い合いで今の所優位な立場にあるが、将来的には日本も厳しくなっていく。

 だから、日常不足なく食べられる自分の環境に事にこの上なく感謝している。

 私が食事に抱いている考えを簡単にまとめれば、
■食べられる環境にあることにひたすら感謝、食品として供される他の生物の命に感謝、
■食品を絶対に無駄にしない,
■食事に不満は言わない、薄味で良い。塩分に関してだけは気を配る・・、
■食べる前後にネガティブな評価をしない、
■当たり前の、地産地消の廉価な食材が良い,過度に贅沢な食事は喜びよりも罪悪感、
■旬の食材を摂れば栄養バランス等配慮不要、
■食事に時間をかけない,
■・・・・・、である。


7/16(月)海の日休日 曇り後晴 孫達のピアノ発表会
0:45起床、新聞、文献収集その他。録音データ整理。8:00-10:30庭の草刈り、これで一段落。次は3週後か。今のオーディオ回路再セット。その間に見にオーディオセットの電源入らずアンプ昇天す。代替のセットと置き換え。タンノイGRFの状況いっそう悪化、修理可能か?13:30文化会館に家内おくり飯川病院、花壇に散水、帰宅、Blu-ray Discながら視聴:「らららクラシック」、「N響定期公演: ショスタコP協奏曲、ブルックナー交響曲第1番」。19:00夕食、20:30就寝。歩数計10253歩。

終活2018(8) 自由時間はゆとりない時の方が価値が大きい
 私は睡眠を一日2回分割している。21:00頃就寝、起床はam1:00頃で、人とずれた時間に起きて気ままにやっている。歳とった今は流石に疲れるので、1時間余ほぼ毎日午睡をとる。

 現役で多忙な時は、睡眠時間を削ることでしか時間路生み出せなかった。業務量を減らす発想は思い付かず、どうしてひとはこんな長い時間を寝て過ごさなければならないのか??そう考えていた。だから当時は寝るというよりは次の活動のための充電と捉え、寝床に行く時のあいさつは「おやすみ」でなく「充電してくる・・」と言っていた。まあ、いま思い出しても快適であった、と言える生活でなかった。

 いまは睡眠は休息である。頭の力が衰えているために3-4時間まとまった仕事をするとどっと疲れるようになった。だから午前の業務終了後の休息は快適であり、次の時間のための準備である。

 1307年代に大作「神曲」を書き上げ,世界文学の巨峰として他に比類ない地位を占めるダンテは、「心ある人は、時間の損失をもっとも悲しむ・・」と述べている。これは自分のために使える時間を大切にしたい、と語っているだろうが、私は自分のかつての姿こそが「時間の損失」、考えようによっては「人生の損失」であった、といまは自省している。得られたことも多かったが、別の生き方があったかもしれない、と。
 だから、今は過去のことは遡りたくない。

 忙しい毎日を送っている時は時間をどうやって生みだすかを考えていた。
 かつては時間を無為に失うことが最もイヤであったが、もう時間を多少失ったとしても何にも気遣う必要もないから、心のおもむくままである。この定期的な午睡の楽しさ、心地よさ、を知ったのは退職してからである。こんな人生もあったのだ、と思う。
 更に、一歩進めて、なんで日本人はこんなにあくせく働かなければならない状況に至ったのか?最近、疑問に感じてきた。

 現役を退いてから勤務という意味ではそうハードでは無い。
 それでも、やっぱり早朝から起きだす生活パターンを続けている。早朝から活動すると時間の自由度が増すからである。
 その生まれた自由な時間を結構濃密に用いている。やりたいことはまだまだいっぱいある。ただ、これ以上の自由時間は無い方がいいように思う。
 勤務という形で時間が区切られ、取られ、自由時間が少ないからこそ、生まれた自由時間が価値がある様に思うからである。

 もう歳だから「朝の笑顔、夕べのしかばね」という状況になっている。もし、もっと生きながらえて自由時間だけになったらどうなるか??そのことはその時点で考えよう。


7/15(日) 快晴 庭の草刈り 散髪 町内会役員会
1:00起床、文献検討等など,いつもの如く淡々と。蓄積データの整理中心。久々フリー日の快晴で早朝から興奮ぎみ。8:00庭の草刈り、ダリアほかに散水、11:00以降は暑さで継続困難、懸案であった洗面所のネコトイレ大掃除、側の金属性のキャビネット錆びて廃棄。12:15NHKノド自慢楽しむ。微睡、ガレージ、窓にヨシズをセット。散髪など。書斎の整理。粗大ゴミ無料回収業者に委ねた。18:30夕食、19:00-20:00八幡田町内会役員会。21:00就寝。歩数計15514歩。

共同幻想論(3) 日大アメフト危険タックル事件 二つの会見から
 アメリカンフットボールは、体を張ったぶつかり合いが基本に思える。だから、選手の命と身体を守る為に厳格な規則があり、それが守られなければ競技ではなく危険極まる格闘の場になる。
 全ての実権を握る監督に「勝つために相手選手にけがをさせろ」と命じられた日本大学の20歳の選手は、ボールを手放し無防備になった相手選手に後ろから猛進し、危険なタックルをかけた。相手選手は膝と腰に全治3週間ほどの傷害を負った。

 その後、日大の選手は我に返って猛反省した。

 20歳の選手が単独記者会見に臨む過程はどうであったか知らない。
 私の感覚では、不祥事を起こした側はより責任ある立場のものが代行して会見するのが通常である。

 しかし、彼の記者会見は、極めて実直なもので、爽やかな印象を与えた。彼は会見の中で「たとえ絶対服従すべき状態であっても、まともな大人なら拒否できたし、何よりも事実としてけがをさせたのは他ならぬ自分である」と深く頭を下げ、事実をつまびらかにすることが自分の使命であると述べた。集まった報道陣もある種の感動を受けたのであろう、個人を責めるようなきつい質問などは出なかった、とされる。
 私も会見の様子を映像で見、記事で読んだが、それは、久しく見なかった正直な人間の姿だった。

 この会見を受けて日大の監督、コーチの会見はひどいものであった。選手が指示を誤解して実行した、私どもはそんな指示は出していないし、それに自分はその現場を見ていなかった・・との責任逃れに終始した。完全にズレていた。報道陣からも厳しい質問が飛び交った。

 ここ数年企業不正の問題で、責任者の説明と陳謝の会見が頻繁である。また、森友加計問題を巡っての証人喚問、セクハラ会見・・・どれを取っても説明が歯切れがわるい。身近な例はJA秋田の巨額損失と隠蔽事件の際にも見られた。ほとんどすべてが一般社会と異なった自分たち独自の世界にしか通用しない概念、論理を展開した。

 20歳の選手の勇気ある会見の背景には部員たちが発表した声明が力になっているのだろう。結果的に指導者の失脚をもたらした。

 従来からの日大アメフト部の実態が明らかになって来ているが、ほぼ閉鎖空間であったとされる。
 社会に出て活躍している先輩も多いはずだが、なんで部内の状況が外でも語られてこなかったのかを疑問とする意見が見られた。

 私はこれこそが共同幻想の魔力なのだ、と思う。学生達は幻想から覚めたのだ。


7/14(土) 晴れ 飯川病院午前外来 午後日直
0:30起床、録音データ他整理。5:00キウリ収穫。8:38バスにて飯川病院に。9:00-12:00大学循環器医不在のため午前外来代診、12:00-19:00午後日直、座学中心、データ整理。CDデータ化すすめる。19:30帰宅、夕食、21:00就寝。Blu-ray Discなし。歩数計7368歩。

共同幻想論(2) 日大アメリカンフットボールタックル事件
同幻想論とは、思想家吉本隆明(1924年-2012年)氏が説いた国家論である。

 当時の国家論は社会契約説や圧力機構説が一般的であった。吉本氏は、国家とは共同幻想であると説いた。
 端的にいえば、ある集団が国家と言う機構を空想して作り上げ機構だ、と言う考え方。国家に関する哲学論だから共同幻想論にも賛否両論がある。どちらかと言うと少数派的である。

 しかし、私には共感できる考えである。人間の心理的な動きを背景にしていて、国家という組織だけでなく、宗教、風俗・・も共同幻想に由来した組織であるとの考え方に立つ。共同幻想は単純な集団心理とも違う。
 
 現代でも、人は共同幻想に侵食されている。愛国心やナショナリズム、愛社精神などと言う形でとらわれており、一旦はまり込むと、そこからの自立は一般に困難である。その幻想の醸成には教育も重要な位置を持つ。

 要するに、私達の世界は共同幻想に起因したうえでの個々の思い込みから成り立っている。
 学校、職場、家庭でも複数の人が集まっているとすると、大抵、何か大なり小なりの共同幻想が生じる。企業の不祥事が後を絶たないが、家庭的には良きパパが企業の中では変身する、企業体のなかの共同幻想の結果と考えれば理解出来る。

 私は、特定の宗教を信じている人はキリスト教でも仏教でもイスラム教でも、「神」という実態の無い存在を作り上げ、共同幻想を抱き続けている集団だと思っている。今回処刑で問題になったオウム真理教もそう考えることができる。

 私達の日常生活自体が、常にいつも、この共同幻想による仲間意識を背景に支えられている。
 熱狂的なスボーツファンも共同幻想であり、チームに属するメンバー達も同様である。

 今回問題になったアメリカンフットボールを巡る動きも共同幻想で説明可能である、と考える。質は異なるが、オウム真理教に通じるところも少なくない。


7/13(金)降雨午前から晴れる  大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:00起床、文献・新聞チェック他。5:00可燃ゴミ提出、びしょ濡れ。ネコ世話、7:30Taxi、8:11こまち。病院間往復徒歩。9:10-12:00大曲中通病院外来。 14:00徒歩飯川病院ボランティア、散水など。19:10Taxi薬店経由で帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計10658歩。 CDデータ化すすめる。
オウム事件(3) 死刑執行 猟奇的な、興味本位のメディアの扱い

 死刑囚達はどのような気持ちで執行の瞬間を迎えたのだろうか。
 その立場になれない私など到底知り得ないことであるが、長い事件の過程の中で、もっとも厳粛な瞬間を迎え、自分をしての総括をしたのではないか。私はそう思いたい。

 刑の執行については高度な政治的判断があったとこ考えられる。複数の刑がほぼ同時に執行されたことはそれなりの理由があったと考えられるが、刑の執行過程が、半ばリアルタイム中継のようにTVで報じられた、とされ、死刑執行が半ば見せ物的扱いをしたことに私はメディア側の姿勢の軽薄さに怒りを覚えた。

 どれほど重い罪の犯罪者でも、私たちと同じ人権を持つ。また、彼らにも家族が居る。

 そう思う一方で、私もある種のホッとした気持ち、事件に対する一区切りの時がやっと来た、との感覚を覚えた。それは関係者やご遺族らの抱いた感情とはほど遠い、別物と思う。

 刑の執行とは、犯した過ちヘの相応の処罰であるが、死刑は国家権力による生命の断絶行為である。厳粛な過程の中になくてはならない。そう進められた、と思いたい。
 かつては処刑は公開で行われた。
 古くはローマ、ギリシャの時代の処刑は半ば見せ物であり多くが見物した、とされる。公開処刑の意義はしに至る過程を見せることで犯罪抑止効果も兼ねていたとされるが、憎悪の対象になった権力者の処刑は被害者たちを前にしての報復行為に近かった。

 フランス革命のときにマリーアントワネットがギロチンで断首されたが、処刑された彼女を見て見物に来た群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。

 報復的な処罰感情は、被害者やその家族の方々に生じるであろう当たり前の感情であろう。個人的な報復行為は「かたき討ち」として日本の文化に一定の位置づけがあった。赤穂浪士の「かたき討ち」は美談として尾鰭がついて真実とかけ離れてしまったが、実際には最悪の手段であり、次々と憎悪の連鎖を生んでいく。そうした破滅への連鎖を克服するために、国家によるの刑罰が設けられた。

 私は、不特定多数の興味を満たすようなTV中継は、国民は知る権利があるから報道するのだと言うメディアの低次元の発想から来ていると思われるが、むしろ今回の報道はメディアが勝手に演出した報復行為に近い、と思う。
 
 人権人権と軽薄に叫ぶメディア自身が、人権を無視している、と思う。

 今回の処刑が、厳粛な過程の中で進められた、と思いたい。


7/12(木)早朝より降雨終日  外来 飯川病院
0:30起床。文献,新聞、録音データなど処理。5:00ネコ対応など。雨で家内に同乗8:15飯川病院着。8:45-12:30外来+ドック14名処理。13:00飯川病院、微睡、秋銀スタッフ來訪、14:00-18:45飯川病院。患者対応、19:30帰宅、夕食、21:00就寝。Σ10515歩。CDデータ化すすめる。

オウム事件(2) 死刑執行 彼らにとって死刑とは

 教団の暴走による坂本弁護士一家殺害から29年。松本サリン事件から24年、地下鉄サリン事件から23年、松本元代表の死刑確定から12年経過した。

 刑事裁判で解明できることには限りがある。裁判はオウム事件の社会的背景とかには深くは踏み込まなかった。犯した罪に関してはそれなりに判断された、と思う。
 死刑囚たちは事件の概要を語り始めていたらしい。内部の関係者しか知らない貴重な知見はまだまだあるだろう。その意味では死刑執行によって貴重な人材が失われた、と言える。しかし、社会に対して犯した罪は重大で、死刑執行はやむを得なかった、と思うが、私には割り切れないものもずっと残っている。

 カルトを含めて私は宗教とはなんだろうか・・とずっと問い続けてきているが、いまだに分からない。端的に言えば共同幻想、持続性のある集団催眠術的なものでなかろうか??これが今の私の到達点である。

 だから、オウム事件は善悪の判断をなくした集団による行動であったのではないか??彼らは人を殺めることはポアすることであり、悪いことだと思っていなかったのではないだろうか。だとすればそのような考えに至った彼らは犯罪を冒したという意識はなかった?
 彼らの行為は社会的視点からみれば大きく常軌を失していたが、こういう発想の連中を一般社会の立場で断じていいのか?事件の主眼点は、一般的に言われている、社会に対する憎悪に基づく無差別殺傷やテロだったのか?教団は国家の転覆を目指したのか??社会的視点に照らし合わせて責任を問える状態にあったのか?
 私にはまだわからない。しかし、結果は重大で責任は免れない。

 オウム真理教をめぐっては、捜査や裁判などを通して、「なぜ、学歴も常識もある、多くの若者たちが教団に魅入られ、教祖のもとで洗脳され、無差別殺人に突き進んでいったのか?」であり、それを追及された。にもかかわらず、明確な答えは得られた、とはいえない。
 「ここにしか真実も居場所もない」との確信、これはどう形成されていったのか??
 人間の心理、精神活動には強みと弱点、危険性と素晴らしさが同居している、といえよう。負の面では、ヒトラー、レーニン、ポルポト然りで、枚挙にいとまがない大量殺戮の歴史がそのような事実を記録している。

 オウム事件と司法との関係では一定の節目を迎えたが、まだ死刑囚は残っており、事件が終わったわけでは、決してない。


7/11(水)早朝に降雨、午後から快晴 暑い 飯川病院ボランティア
1:00起床。新聞・文献チェック、歴史関連書籍他。早朝から降雨、外仕事は無理、午前は座学中心、飯川病院から応援の要請あり。12:00レガシーにて出勤、対応する。 録音データ収集分類など。昼微睡、CDデータ化すすめる。19:10帰宅、夕食、20:15就眠。歩数計7575歩に達した。

オウム事件(1) 死刑執行 死刑は極刑なのか??
 オウム真理教の教祖、松本死刑囚と、側近として殺人行為やサリン製造にかかわった元幹部6人に、7月6日死刑が執行された。

 オウムの一連の事件では13人の死刑が確定した。今回その中の7人に一気に執行されたが、これほどの一斉処刑は1911年(明治44)の大逆事件以来である。このときは12人に執行された。法相は「個々の執行の判断にかかわることは説明を差し控える」と繰り返した。
 世界からも注目が集まる事件で、従来どおりの秘密主義を貫いたことになったが、マスコミは法相の会見について情報公開のせよと言うが、誰にむかって情報公開せよとするのか。興味本位の世論に対してか?

 多くの国が死刑廃止に向かうなか、日本は重大な犯罪者には極刑を課すべき、犯人は「いのち」をもって罪を償うべしという世論を理由に制度をそのままにしている。だが、死刑廃止の論議は深まっていない。死刑廃止に関しては「いのち」の意義を巡って感情的論議のままである。刑罰のあり方を多方面から検討する素地が出来ていない。
 
 私は死刑が極刑だとは思っていない。むしろ刑罰としては軽いほうである。受刑者はその日を機会に全てから解放されるではないか。

 なぜ教団は社会を敵視し、「サリンの散布」にまで走ったのか。暴走をとめることはできなかったのか。その根源的な疑問は解けないまま残されたと、メディア、識者は論評する。暴走をとめることが出来なかったのは価値観が狂った連中からは無理であり、社会のほうであった。不審な集団としてもっと監視はできなかったのか?昨年いま頃成立した共謀罪は一つの手段となる。

 裁判はオウム事件の社会的背景とかには深くは踏み込まなかった。犯した罪に関してはそれなりに判断された、と思う。

 松本死刑囚の裁判後の言動は明らかにされていない。彼自身の裁判後25年間にわたる間の心の変化は無かったのか?何か語ったのか?私には情報は無い。資料を読んだ範囲では事件に関連する供述は得られなかったとされている。

 一方で、死刑囚も含む元信徒が、自らの言葉で事件の概要を語り始めていたらしい。内部の関係者しか知らない貴重な知見はまだまだあるだろう。
 そういった意味では死刑囚たちは貴重な人材であったが、社会に対して犯した罪は重大である。
 法治国家としての裁判で死刑判決が下されている以上、死刑執行はやむを得まい。


 7/10(火)快晴曇小雨  外来 飯川病院
1:00起床,暑い夜。新聞、文献読み、その他いつものごとく。4:30可燃ゴミ提出。徒歩7:30飯川病院。8:45-13:00中通外来。飯川病院へ、微睡、14:00-18:45飯川病院。入院患者対応、住友生命スタッフ来訪、生存確認。19:10帰宅、19:30夕食、20:15就眠。Σ12187歩。CDデータ化すすめる。

大型バイク事故(2) 大型バイクは体重計以上に最も怖い乗り物
 交通事故の死者が年々減少を続ける中、バイクの中高年の事故死が増加している。若いころに親しんだバイクに再び乗り始める「リターンライダー」が増えたことが一因とみられる。

 警察庁の統計では、2013年の交溥事故の死者総数は4373人で、13年連続で減少。このうちミニバイクを除く40‐59歳のバイク事故の死者数は170人(約4%)で、10前のほぽ2倍に増えている。

 13年度のミニバイクを含む二輪の国内販売台数は、前年度と比べて7,8%増の約48万台で5年ぶりの高水準を記録した。日本自動車工業会の調査によると、同年度の二輪車ユーザーの56%が50歳以上となっている。

 私も40代後半から約20年大型バイクに乗っていた。その間に得られた教訓は「大型バイクは、体重計以上に最も怖い乗り物である」と言うこと。

 私は幼少の時に祖父が所有していた米国製のインディアンの大型バイクに跨って遊んでいた。 
 小学校4年頃からは父のホンダベンリー125ccを自宅敷地内で、中高生の頃は早朝や夜間に田舎道を無免許で走っていた。?

 平成2年に子供達も大きくなり、一人での移動が多くなったのでまずヤマハビラーゴ250ccを購入、次いで平成3年2月にハーレーダビッドソンFLSTOF1340ccを購入した。?
 以降、体力不足で手放すまで20年間乗って来たが、幸い事故歴も無く、かすり傷ひとつ負わなかった。?
 私のバイクライフの一部は以下の項にまとめた。

 私のバイクライフは以下のごとくであった。
■ 大型バイクの前、約1年間250ccのバイクで感覚を養った。また、筋トレで大型バイクの取り回しに備えた。
■ 大型バイクは重く細かな練習は出来ない。250ccのバイクで危険回避の操作、パニックブレーキ時の運転操作、転倒を想定した運転練習した。上手に車体から離れないと押しつぶされ、かつ高熱部分で火傷を負う。
■ 大型バイクに乗る際には、たとえ夏であっても上下の皮製のライダースーツを着用した。半袖半ズボンは危険である。
■ 大型バイクと車を比較すると優位な点は発進時の加速のみである。
■ 大型バイクと車を比較すると、曲がる、止まる能力、危険回避能力は格段に落ちる。慣性も大きく思いがけない方向に力が働く。
■ 大型バイクは重いために低速時は不安定、停車時には立ちごけの危険がある。交差点右折時の一時停止はとくに危険。立ちゴケは左右を問わず死に直結する。
■ 大型バイクのパワーは生半可ではない。200Kmにも達するパワーがある。高速になればなるほど操作が難しくなり、危険が増す。
■ 不用意に加速すると振り落とされることもある。
■ 二人乗りは危険である。そのための訓練、練習も必要。私は後ろの座席を外して乗っていた。
■ バイクの危険性は技術不足、自己過信、それに自動車、自転車等である。自転車と接触しても転倒して自身が死ぬ可能性が高い。

■ 大型バイク、とくにハーレー型のバイクの最大の魅力は、中等度のスピードで風と振動とエンジン音を味わいながら走りを楽しむ事にある。

 40歳以上になると身体機能、反射機能が衰えることを自覚して、どういう運転をすべきか、体得することが先である。集中力も低下しがち。
 事故原因には、カーブを曲がりきれないなどの運転操作ミスや安全確認の不徹底が目立つ。

 さいわい私は楽しかったバイクライフを無事故の内に終了した。一応、安全に関しては上記のことを念頭に置いて慎重に運転していた。
 私はバイクを人に勧めたことは一度もない。


7/9(月) 快晴暑い 健康クリニックドック  飯川病院
0:30起床、医学文献等など中心に読書、録音データ整理。5:00畑花壇に散水、7:10履き物がスリッパしか無く歩けず、バスにて徒歩飯川病院着。9:00-11:15健康クリニック、12名。11:30飯川病院で文献読みなど、微睡。倦怠感強度。A Bank staff來訪、14:00-18:45業務。入院患者対応。Σ8629歩。19:10帰宅夕食、20:30就眠。CDデータ化。ダリア4鉢開花、1鉢を飯川病院玄関先に出張。

大型バイク事故(1) 「捨てる!技術」の著者死亡 バイクは最も危険な乗り物の一つ
 6月26日朝9時頃に軽井沢で起きたバイクと軽自動車の衝突事故でバイク側の52歳の女性が死亡した。バイクには夫が同乗していた、と言う。

 この女性はベストセラー「捨てる!技術」などの著書で知られる辰巳渚氏。

 軽井沢署によると、午前9時ごろ、軽井沢町内の国道146号で、氏の大型バイクと軽乗用車が正面衝突、辰巳さんは搬送先の病院で約5時間後に亡くなった。現場はカーブが続いて入り組んだ道だったらしい。警察は大型バイクがカーブを曲がりきれずに衝突したとみている。

 辰巳渚氏は2017年にバイクの免許を取得したばかりだった。

私も1990年代には1340ccの大型バイク・ハーレーに乗っていた。その頃は新聞に報じられつバイク事故をスクラップして、運転者の年齢、性別、事故の内容、死亡したか否か、などをチェックし、自分の安全運転に役立てていた。
 2011年、体力の限界を感じて手放した。私自身は約20年の間、すり傷ひとつ経験していなかったが、バイクは最も危険な乗り物の一つ、と思いつつ乗っていた。乗るたびごとに今日事故にあうかも!!と思いつつ乗っていた。それが良かったのかも知れない。

 辰巳渚氏の事故の報道記事は短かったが、その中から私が感じ取った問題点は以下のごとくである。
――――――――――――――――――――――――――――――――
 ■50歳の年齢 ■大型免許取り立て ■軽井沢で ■カーブが続いて入り組んだ道で大型バイクがカーブを曲がりきれずに衝突 ■二人乗りだった
――――――――――――――――――――――――――――――――
 残念なことに、これだけの条件が揃えば危険きわまりない状況であったと言える。

 ■50歳の年齢で、過去のバイク歴が不明であるが、ライダーとして経験は十分だったのだろうか。
 ■大型免許取り立てとのことであったが、大型バイクの世界は中小型バイクと完全に異質である。パワーを制御できる技術、転倒を想定した練習など、充分に積んだのか? 
 ■軽井沢の路上で、とのこと。多分、ツーリングに魅力的なコースだったのだろう。
 ■カーブが続いて入り組んだ道でバイクがカーブを曲がりきれずに衝突??バイクは直線道路よりは曲がりくねった道路で爽快感がつよい。その際、ノリを超えたスピードを出していたかも知れない。 
 ■二人乗りだった。バイクは一人乗りと二人乗りの場合では走りの性格が全く異なってしまう。重さも重心も変わり、ハンドル性能、ブレーキ性能も変わる。スピードによってはカーブの軌跡は外側に拡がる。この時のパニックブレーキによってコントロール不能状態に陥ったであろうことは想像に難くない。
――――――――――――――――――――――――――――――――

 私も大型バイクを楽しんだ。その間、ひやっとした事も少なくなく、ひとつ一つの事象から体得したことは数多かった。その蓄積で私はなんとか事故に合わないで済んだ、と思う。 

 著作「捨てる!技術」は終活を意識してからその存在は知っていたが手に取って読んだ事はなかった。しかし、著者の方が先日バイク事故でお亡くなりになったことを知り驚いた。
 辰巳渚氏は才能豊かな方だったと聴く。捨てなくても良い命を捨ててしまったように思えてならない。御冥福を祈りたい。


7/8(日) 快晴曇り小雨 山陰山陽方面豪雨で被害
  O:10飯川病院で起床、読書、文献チェック。録音データ整理。微睡。CDデータ化。7:00検食、9:30帰宅。久しぶりの晴れ間、午前・午後とも外仕事。庭と畑の草刈中心、花とトマトに支柱補強、ナス初収穫10本程。ここ数日の強風と雨でダリア折れるなど多少被害。 16:00座仕事に。微睡若干。19:00夕食。20:45就眠。歩数計12399歩。

災害列島2018(2) 日本の地球温暖化対策は他国に比し大幅な遅れ
 1950年以降、数年に一回程度、世界的にも極端な異常気象が増えている。
 災害列島日本ではほぼ毎年異常降雨、ゲリラ降雨が襲っている。

 地球環境破壊が異常気象の原因になっているとの見方に異論もあるが、数億年の歴史がある地球の安定が産業革命以降に急速に変化しているという事実は重要である。
 先進国に温室効果ガスの排出削減を義務づけた京都議定書(COP3)から20年経過した。当時、温暖化対策は経済の阻害要因とされていたが、EUはCO2削減を成長への機会ととらえ、技術革新の先頭に立った。今は成長戦略の一つとなった。
 対する日本は、CO2削減施策は経済抑制因子と言い続けてきた。この考え方の違い、結果の違いは歴然としている。
 削滅を成長に生かせなかった日本は、「脱炭素」をめぐる競争に後れを取っていて国際的にバッシングの対象にもなっている。

 各種のデータを示す。

 ■京都議定書で第1約束期間(2008〜2012年)に1990年比6%削減を義務づけられた日本全体の温室効果ガス排出量は、1,4%増加した。
 ■削減義務を課された先進国約40カ国中排出量が増加したのは10カ国。日本は森林吸収分3,9%と海外が削滅した分を買った5,9%を合わせて、なんとか目標を達成できた。

 ■この20年で排出量が最も少なかったのは、リーマンショツクの翌2009年。1990年より排
出量が少なかったのはこの年だけ。
 ■2011年の東日本大震災後は、原発が止まり排出量が増加した。

 ■8%削滅を義務づけられたEUは、結果的に11,8%削減した。さらにEUは2020年までに温室効果ガス排出を90年比で20%削減、エネルギー消費に占める自然エネの割合を20%、エネルギー効率を20%引き上げるという新戦略を発表した。

 ■COP3以降、世界の風力発電の導入量は60倍以上になり原発の容量を超えた。
 ■太陽光発電も原発に迫る。発電コストで石炭火力発電を下回ることも珍しくなくなった。

 ■国民1人当たりのGDPは、1997年に日本は経済協力開発横構(OECD)加盟国で4位だったが、2014年には19位に低下。CO2排出単位当たりの「炭素生産性」も5位から20位へと急降下。

 ■02年から14年のGDP名目成長率と温室効果ガスの削減率の関連。
 英国は62,1%成長 24,8%削減、ドイツは32%成長 13%削滅、米国は58%成長 4,4%削減。日本はマイナス0,4%成長で1,9%削減、「日本は稼ぐことも、CO2を減らすこともできなかった」。

 京都議定書を社会、経済を変える機会にできなかった日本は、欧米諸国と比較しても地球環境保持に対する使命感が欠けていたように思える。

 ここ数年、ひどい自然災害が次々と襲ってきているにもかかわらず、である。


7/7(土) 終日降雨  飯川病院日直・当直
0:15起床、新聞・文献チェック他いつもの如し。録音データ大量整理。代替のScan-Snapセットアップ、問題なし。11:45降雨でレガシーで出勤、12:10飯 川病院、日直・当直に就く。検食後、新聞チェック大量、微睡。CDデータ化。寒くて一時暖房いれる。18:00検食。20;00就眠。歩数計5245歩。雨と日当直では歩数のびない。

災害列島2018(1) 異常気象時代が現実になっている
 地球温暖化を背景にした異常気象の世紀を迎えた。
 人間の欲望とエゴ (?)がついに地球の健康を害してきた。
 大気・水質汚染は人間の体でいえば尿毒症に、温暖化は発熱に、異常気象は喘息に例えられよう。早急な治療が必要な状況である。
 日本列島は1時間あたり50mmの降水を前提に計画が作られているが、最近のゲリラ豪雨のもとでは従来の排水治水のシステムではなんともならない。今まで国が、地域社会が経験して来た常識的対応が通用しなくなっている。自然は突然牙をむく。しかも、予測が難しく、その規模は自然災害の恐ろしさを改めて思い知らされた。
 豪雨に地域がどう備えるべきか、今後の教訓にしなくてはならない。それも早急な対応が必要である。
 過去に学ぶことは大事である。しかし「今までは大丈夫だったから」と過信してはならない。警報を伝える手段を複数にし、自治体は避難勧告や指示を早めに出し、住民は迅速に行動をすようにする。この際に町内会活動が役にたつ。
 遅まきながら私も気象について学び直している。
 近年、「これまでに経験したことのない猛烈な降雨」と形容されるような豪雨が頻発してい る。昨年42人の死者・行方不明者を出した「九州北部豪雨」からちょうど1年が経った。いまも福岡県で423世帯の1032人、大分県で43世帯94人が、仮住まいを余儀なくされている、と言う。
 国交省によると、土砂崩れの規模は東京ドーム8杯分の約1千万mmmに及び、過去最大級という。これまでに撤去できたのは半分強で、河川の護岸の復旧も応急措置にとどまっている。

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 今年も数日前から西日本を中心に活発な前線の影響で記録的な大雨に見舞われ、河川の氾濫、土砂崩れなどが各地で発生、多数の死者と安否不明者が出ているという。気象庁は一時、岐阜、京都、兵庫、鳥取、岡山、広島、福岡、佐賀、長崎の9府県に大雨特別警報を出し、土砂災害の発生に最大級の警戒を呼び掛けた。各地で48時間雨量が観測史上最多を記録、気象庁は「これまでに経験したことのない大雨」とし、避難情報に従い迅速に行動するよう求めている。
 しかしながら、多くの集落が浸水被害に遭い、崩れた土砂に埋もれる家屋も相次いだ。多数の住民が避難を余儀なくされている。孤立する地域が相次ぎ、自衛隊や消防、警察などが懸命の救助活動に当たっている。
 記録的な大雨は各地に甚大な被害をもたらした。崩れた土砂に生き埋めになった家族、道路や橋の決壊、濁流にのみ込まれて孤立する集落。全力の捜索・救助活動が続けられたが、多くの貴い命が奪われてしまった。


7/6(金) 日中は曇、夕方から降雨  七夕 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
0:30起床。文献読みなど。新聞雑誌スクラップ入力。録音データ整理、5:00可燃ごみ集配所に。7:25Taxi駅に。8:11こまち、病院徒歩、橋の欄干に七夕飾り。9:10-12:15大曲外来。帰路は処方処理など有り歩行出来ず。13:30検食、飯川病院ボランティア。 BR disk視聴なし。1900書店経由でTaxi帰宅、19:30夕食、21:00就寝。歩数計8758歩。代替のScan-Snap届く。

終活2018(6) オーディオ関連の機器廃棄(2) 廃棄しすぎて聴けなくなった
 終活は広範囲に渡る。
 品物を整理しておくという意味での終活を意識し始めたのは5年ほど前からである。

 かつては重厚な音を奏でていたオーディオ機器と次々と役目を終えた。
 当時はそれなりの評価があった機器であるが、次世代の家族たちに受け継がれることは無いと考え廃棄を決めた。
 当時の機器は大型でかつ重い。

 先日、廃棄の前に玄関先に並べて記念の写真をとった。

(下から ソニー製カセットデッキ、YAMAHA FMAM テューナー、KENW00D FMAM テューナー、Dynaco製管球式メインアンプ、ソニーオーディオタイマー)

 今は居間でも、書斎でも、飯川病院でも、比較的安価な卓上ミニステレオセットに置き換わった。小音量ならば結構いい音がするだけ、喜びと、半面悔しい気がする。

 書斎のオーディオラックが実にスッキリした。
 かつての機器の中で残っているのはYAMAHA製のレコードプレーヤーだけになった。


7/5(木) 降雨、強風 Scan-Snap昇天す 外来 飯川病院
1:30起床。新聞チェックし文献、歴史書を読む。新聞取り込みに約10年活躍した富士通のスキャナーScan-Snap突然機能不全。7:30家内に同乗、渋滞激しく8:30飯川病院着、8:50-13:30中通病院外来。富士通サービスによるとスキャナー修理不能とのこと。2008年購入で本日までよく働いてくれた。内蔵データによるとスキャンした総枚数は154,764枚に達していた。14:00-18:45飯川病院。入院患者対応。19:00帰宅、夕食、 20:30就眠。歩数計9272歩。

エンジェルス大谷選手が負傷から戻ってきた 嬉しいが私は不安な日々が続く
 6月8日、右肘の靭帯の一部を損傷し、故障者リスト入りとなっていたエンジェルス大谷選手が、回復して戻ってきた。復帰後初日はノーヒットであったが翌日は2塁打を含む2安打を放った。

 大谷選手は現代野球では不可能とされた「二刀流」で、大リーグで華々しく活躍を続け、強烈なインパクトを与えてきた。
 私は彼の快進撃が、当初の3試合連続ホームランなど「夢のごとく・・」と思っていて、夢ならいつかは覚める、とハラハラしてみていた。指のマメで降板したかと思ったら突然右肘の靭帯損傷のためと発表されビックリした。一時手術や再生医療を受けるようなニュースも流れ、心配していた。

 彼の復帰は最高に嬉しいが、私にとってはまた不安な日々となりそうである。
 私はプロ野球はほとんど関心がない。12球団をあげることも出来ないし、セ・パの区別もできない。
 しかし、何人かの選手個人の活躍だけには注目していた。古くは清原、しばらく間が空いてイチロー、最近では田中、ダルビッシュ、雄星、そして大谷である。毎朝新聞のスポーツ欄で結果を確認する。実況を見ることは皆無である。
 大谷選手は故郷岩手花巻東高校の出身、2013年「二刀流」を容認してくれた曰本ハムに入団、あらゆる予想を上回って「二刀流」を両立させ日本ハムの優勝に貢献した。
 大リーグで「二刀流」を為し得たのは1世紀ほど前のベーブ・ルースしかいないとされ、近代野球のなかでは「二刀流」はほぼ不可能だろうとされていた。多くの識者の意見も同様であった。しかし、彼は「二刀流」にこだわっており「二刀流」の道を尊重してくれたエンジェルスに入団した。「投球を含めたゲームが僕のリズム」と言い、かなりのこだわりがあると言う。

 あんな優しい、可愛い顔つきながらかなり意志が強く、素直ながら頑固者なのだそうだ。
 大谷選手は日本で自分の調整法を確立しており、「二刀流」を前提としたエンジェルスのサポートもある、という。その恵まれた環境の中、ケガなく活躍して欲しいと思う。


7/4(水) 終日降雨 強風 飯川病院ボランティア Mac mini修理に
2:10起床。いつもより寝過ぎ、気温のせいか。昨夜就寝時やむなく短時間エアコンのスイッチ入れる。文献・新聞チェックなど。収穫、降雨にて外仕事なし。座学中心。午前中にMac miniのWi-fy機能不全ある事が判明、けっきょく修理に。12:50小雨の中バスにて飯川病院。13:30-19:00ボランティア。新聞データ化など。文献・新聞チェック、19:00夕食、20:20就眠。歩数計8643歩。CDデータ化進める。

マック談議2018(2) 私のマックと周辺機器の事情(2) 記憶を超えた記録の蓄積

 古いものを大事に使うことにこだわりを持っている私でも不調のパソコン、能力的に能力的に時代に追いつけなくなったパソコンは使い道が限られる。だから、自分の倉庫に持っているよりはと、リサイクルのコースに載せた。
 昨年3月にマックを3機種、Mac Book、Mac BookG4、Mac Book Pro17インチ、それにプリンター、スキャナーなどを廃棄した。今までに廃棄したマックと周辺機器は数え切れない。

 現有のマックは以下の如くになっている。

(1)iMac 27インチ(2013年製) 自宅居間 汎用 紙媒体の電子化
(2)iMac 21インチ(2010年製) 飯川病院 汎用 CD音楽データの電子化
(3)iMac 21インチ(2010年製) 飯川病院 資料データ化と整理 音楽鑑賞 読書
(4)Mac mini(2014年製) 自宅書斎 資料・データ整理 音楽 読書
(5)Mac mini(2011年製) 大曲外来 診療 読書 音楽  
(6)Mac mini(2009年製) 中通病院医局 補助的に使用 
(7)Mac Book air(2017年製) モバイル用 汎用

 まとめてみれば随分贅沢な・・と思う。数だけは多い。これは私が一定以上時間を過ごす場所に設置してあり、座ればスイッチオンのにするからどうしても多くなる。移動する場合、他の場所で時間を過ごすような時はモバイル用にしている1Kg程と軽いMac Book airを持ち運ぶ。

 数はあるが機能的には全て低~中級品で、比較的安価な製品である。いまのマックは能力がすこぶる高く、私の能力が追い付かないからシリーズの中で低機能品でも困るとは殆どない。
 機能的には全部のマックはドロップボックスとiCloudを通じて常に同期されるようになっているからいつどのバソコンを開いても常に同じ条件で作業を進めることができる。これはとても便利な機能である。
 例えば金曜日朝、居間のマックの作業を中断し、8:01こまちで移動、大曲中通病院の外来のマックを立ち上げると居間のマックのデータが届いており直ぐにやりかけの作業を開始することが出来る。

 さらに、2003年以降のパソコン上での作業はすべて3TBのハードディスクに集めて蓄積してあり、必要に応じて適宜各マックにデータを配分して用いている。これらのデータは三重にバックアップをとって大事にしている。

 それにしても、ここ15年間の私のパソコン上の作業は文庫本程度の小さなハードディスクに収まってしまうが、驚きである。
 紙媒体の情報はスキャナーScan-Snapで電子化しているが、取り込んだ枚数は16万毎に達している。これらを紙媒体のままスクラップ帳として残しておいたら我が家は紙で占拠されてしまていただろう。
 更に、500枚以上のCDの音楽データ、1000冊以上の書籍のデータもこの中に含まれる。

 このハードディスク内に蓄積されたデータは私が生きて来た足跡そのものの一部である。


7/3(火)快晴で暑い 中通病院外来 飯川病院?1:00 起床。文献など読む.蓄積データ整理。5:00可燃ゴミまとめ出し,3袋。ネコ世話、庭畑散水他、ダリア開花間近。7:30徒歩飯川病院。8:45-13:00中通病院外来、面倒な対応多。13:45飯川病院、14:00-18:45勤務。19:00車帰宅、夕食、20:45就寝。歩数計14012歩。CDデータ化進める。

マック談議2018(1) 私のマックと周辺機器の事情(1)不調時プロに聞くに限る
 最近の私の生活のほとんどは、診療と外仕事、ネコどもの世話などを除くと大部分の時間をパソコン、私の場合はマックであるが、それと周辺機器の操作をしている状況である。
 内容的には、■収集した紙媒体情報の電子化、■ネットなどからの情報収集、■音楽鑑賞、■美術鑑賞、■読書、■徒然日記の記載などなど、すべてマックとその周辺機器を用いている。
 しかしながら、最近私が所持しているマックとその周辺機器は不調が続いている
 そのような場合は、私は性格的に人に聞くのが嫌で、自分で文献を調べ、情報を集めて可能な限り解決を図ってきた。だからマックについてイッパシの知識は持った積りである。
 かつて、私は1340ccのハーレーに乗っていたことがあるが、これまた当たりが悪かったのか、購入した当初から不調であった。■プラグの煤被りによる頻回のエンスト、■ガソリンのエンジンへの供給途絶、■寒冷期のエンジンオーバークールによる出力低下などなど・・・最初の一年は迷いと疑問、その対策に追われた。これらの不調はディーラーに相談してもラチがあかず、諦めて自分で工夫し謎を解いた。
 約一年後これらを一つひとつずつクリアしてベストな状況に持って行った。だから、愛着があって約20年乗った。手放し難かったが、高齢になった私には300Kg超の車重は取り扱いが困難になった。2011年泣く泣く諦め、売却し、東日本大震災の義援金になった。
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/52/5892c389f9071857dc756cfd7c969c36.jpg" border="0">
(ハーレイFLSTOF1992年型、愛称Fat boy。私から見て手のかかるヤンチャボーイであった)
 米国の工業製品には荒削りの面白さ、意外なところに落とし穴があって私は好きである。
 パソコンは1993年マックのカラークラシックの発売を機にワープロから乗り換え、以来現在まで25年、脇目も振らずマック一筋でやってきた。

 この間私も随分コンピューターについて勉強してきたが、機器とソフトの進歩には到底追いつけない。軽度な不調は自分で大概解決できるが、徐々にその不調は高度に、かつ深くなってきた。こうなると個人による対策には限界が見えてくる。
 先人の言葉に「愚か者はあれこれ思いめぐらす。賢い者は人にたずねる・・・」と言うのがある。英国の政治家、小説家であったB・ディズレーリの言葉だったと思う。
 私はかつて秋田大学で教官として若手医師の指導も行ってきたが、当時は「そんなことをいちいち聞かずに自分で調べろ・・・」と言ったものである。自分もなるベく人に聞かずに、何はともあれ、コツコツと自分で調べてきた。今でも大概の疑問はそのようにして解決している。ただ、その行き方は必ずしも正しいとはいえない、と最近思っている。無駄なことを考えて時間を浪費するより次のステップに進んで行く方がいい。
 ことがコンピューターの不調となると、大きく壁に突き当たった際にそれを突き破る方法がなかなか見つからない。その為にいたずらに時間を浪費してきた。随分時間をかけた。その過程は無駄にはなっていないが、時間という面では確かに愚か者だった、と思う。
 だから、最近は比較的早めにマックそのほかの周辺機器のサポートに電話相談をかけることにしている。ここ2年ほどは次第に相談をかける機会が増えてきた。
 各社のサポートのおかげで維持できていると言っていい。


7/2(月) 快晴  健康クリニックドック  飯川病院
0:30起床。文献処理。新聞チェック。録音データ整理。7:30徒歩飯川病院着、9:00-11:30健康クリニックドック診察13名、結果説明一人。12:00飯川病院に移動、微睡、14:00-18:45勤務、19:00帰宅・夕食、マックサポートと電話3日目、終了、21:30就眠。Σ12990歩。 CDデータ化進める。

四季2018(10)夏至 残念、気がつかずに過ごした 
 自然の移ろいを楽しむ心境、辞世の句などを楽しむのも終活の一つととらえてこの辺の変化に感受性を高めてきた。とは言うものの、今年も私にとって重要な季節の節目である夏至を失念して経過してしまった。

 2018年の夏至の夏至は「6月21日(木)」であった。このころは6月12日の日米首脳会談後の世界の動き、北朝鮮を巡る動き、日米の動きに気が取られすっかり失念していた。
 今年の夏至は6月21日であるが、年によって20日、22日になることもある。この辺のメカニズムについては私は知らない。
 夏至は北半球における日照時間が最も長くなる日で、高緯度の北海道では16時間40分程度、低緯度の沖縄では13時間50分程度である。

 私は30年前から早起き生活をしている。もう完全に習慣化していて、通常はam1:00前後から活動し始める。この間am3:00にベットにいたという記憶はほとんどない。静かにラジオを聴きつつ、窓から見える夜明けの雰囲気、当日の天候の様子などを毎朝味わいながら過ごす。なんと幸せなことか・・・と思う。

 最近はam3:00ころから東の空からしらじらと明けて来る。
 国立天文台の資料によると夏至の頃は秋田の日の出はam4:11となっているが、この日以降は一日ごとに日が短くなる。約10日経過した今日の日の出はam4:15となっている。感覚的にはこの変化を感じ取ることは出来ない。
 ちなみに、最も日の出が遅い1月上旬は秋田の日の出はam7:11で夏至と冬至の頃とは約3時間の差がある。実はこの差は生活上大きな意義がある。真冬に可燃ごみを集配所に運ぶam5:00頃、
除雪を開始するam5:00頃は手元や道路を照らす照明が必要である。

 夏至の日そのものでは無いが、夏至付近、として今朝もam3:00に外に出て早朝の空の雰囲気を味わって見た。今日もいい日になるだろうか。

 私は夏至以降の日々はあまり好きでない。
 私はカンカン照りで汗だくで過ごす真夏が好きである。しかし、徐々に日照時間が短くなり、季節は秋に向かって変化する。実際には気候としては2ケ月遅れて変化する。8月14日には天候としてはまだ真夏であるが、私は秋の雰囲気を先取りし、気持ちの上では寂しくなる。

 夏至を失念して7月を迎え、いまになって慌てて夏至近辺の季節感を味わっている。


7/1(日) 快晴 飯川病院日直 レセプト点検
1:00起床。新年を迎えて6ヶ月経過、速い。 本読み、文献読みu、整理。8:30ソーダ水、CD積んでレガシー出勤、日直。午前は新聞チェック、データのコピー、13:00-15:00外来レセプト点検。患者対応、17:00-18:30当直医業務代行。BR disk「そこまで言って委員会」。19:00帰宅。マックサポートと電話、ラチあかずクリーンインストールを自分から提案、実行に。21;30就眠。歩数計 Σ9166歩。 深夜に家内帰宅。

本日7月1日。新年を迎えてからもう6ヶ月も経った。
 「老後の一日は値千金に相当する」とはよく言われてきた言葉である。実感である。

私の記憶力はかなり劣化してきた。この半年間はイメージとしては残っているが、具体的出来事の多くは記憶としてほとんど残っていない。忘れてしまえば私が存在しなかったのに等しくなる。今ここに居ることは継続的に存在したことの証であるが、現実にはちがう。この徒然の記録、新聞雑誌から収集している毎日のスクラップを呼び出すと、毎日の出来事が、思索内容が思い出され、生きていた事が実感できる。
 そんな効能もあるから記録し続けることに意味を感じている。

 私が費やしてきた人生は約2.5万日に相当する。実に長い。しかし、全体として眺めてもそんな長いという実感は無い。
 子どもの頃は楽しかった。人生の4分の1くらいは、親の庇護のもとで育てられた時代。それほど自由があったわけではなかった。
 やっぱり人生が自由になったと実感するのは社会にでて自分で欲しいものを自分で買えるようになってからである。

 学校を出てから65歳過ぎまでウイークデイは1日のうち15時聞近くは通勤や自己研鑽、労働、拘束時間に費やされ、寝る時問を削って時間を配分してきた。1日のうち自由になるまとまった時聞は6時間もなかった。

 現役を完全に引退すれば、時間が全て自分の時間ということになるが、私はまだ勤務していて、労働、拘束時間に今も12時間程度費やしている。

 それでも自分の自由になる時聞は、現役時代の倍以上はありそうだ。特に休日は自由度が高い。

 今後の事はいつ途絶えるかわからない。健康であってこそ、ということになる。
 「朝の笑顔、夕べのしかばね」を常に念頭に置いているが、早死にしたら、体を壊してしまったら、それまでである。

 今は私は健康管理など何もしていない。今から健康管理しても先が伸びるか分からない。運がいいか否かだけである。

 確かに時間が惜しい。もったいない。
 心ある人は、時間の損失をもっとも悲しむ、と言う。私もちょっと前まではそうであったが、今はそう緊張した生活はしていない。思うがまま、流されるまま時間を失ってもそれほどこたえない。そんな気分で過ごしている。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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