徒然日記
2015年3月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


3/31(火)快晴のち曇り  外来+飯川病院
1:30起床,文献チェックなど。7:00−8:00徒歩病院へ。8:40-14:00外来、病棟受け持ち患者死亡。外来も複雑な患者で疲弊した。外来カルテが電子化して2年になる。14:20−18:45飯川病院。19:00帰宅+夕食。20:45就寝。DVD視聴:「ニュース英会話:はやぶさ2」、「最新のニュース:ジャーマン・ウイング機墜落」、「世界一受けたい授業:東大教授」。徒歩Σ6012Km。

徒歩通勤2015(3) 山形を通過した 遊佐駅の脱線事故を思い出した
 平成13年3月から始めた徒歩通勤、実績が積算できる歩数計「平成の忠孝」の積算開始が4月7日からだから、約2年かかって本日Σ6112Kmに達し、新潟県に到着した。

 北海道海岸線には約1年、秋田の海岸線は266Kmで37日、山形は97Kmで10日で踏破した。山形では平均9.7Km/日で、少しずつ伸びているが、頑張っている割には意外と歩いていないものだ、と思う。師と仰ぐ伊能忠敬は40Km/日ほどだったという。考えるだけで驚く。

 山形は私にとってはそれほど知っているところはない。かつては羽越線を利用して新潟、北陸、関西方面の学会に行っていたから地名を若干知っている程度である。
 酒田市、庄内空港、鶴岡市、余目はほんの少し立ち寄ったことがある。地図上でそれらの位置関係を再確認した。鶴岡の某病院には数回診療応援に行った。余目徳洲会病院は開院時私にも転職勧誘がきたことがあり、それを機会に見学に行ったことがある。

 最も思い出深いのは遊佐駅である。ここで私は脱線事故に遭遇した。
 日付は忘れたが、骨髄移植関連のセミナーか何かで特急列車で新潟に向かっていた。多分、1980年代前半のことであろう。
 車内はガラガラで私が乗っていた車両は数人だけであった。遊佐駅の手前、線路工事中のところで若干徐行したように思えたが、そこを通過直中に大きな衝撃で身体が浮き上がり、その後もしばらくガタガタと走った後、遊佐駅構内で前のめりになる様な大きな衝撃と共に列車は停止した。
 その時には一体何が起こったのか理解出来なかった。  
 車両は特に損傷はなく、ドアも通常に開いた。線路に降りてみて大体の状況が理解出来た。列車はプラットホーム側に脱線し、枕木の上を30cmほど左側にずれた状態で数十m走行し、先頭車両の左側がホームにぶつかった。ホームは5-6mも削り取れられ、一部は列車に押しつけられ激しく盛り上がっていた。一方、車両は車軸の一部が大きく変形していたもののそれほどの損傷でなく、列車は随分丈夫に作られているものだな、と感心した。
 私が経験したのは小事故だったが、それでもかなりの衝撃であった。

 山形、といえば私はいつもこの事故が思い出される。その後はこのような事故には遭遇していない。

 新潟の海岸線は300.1Kmである。約一月かけて通過する予定である。


3/30(月)早朝降雨のち曇り晴 健康クリニック 飯川病院
 1:30起床、新聞・文献・徒然ほか何時もの如く。6:47降雨ありバスにて。9:00-11:00健康クリニック。中通病院医局にて水曜日担当の外来患者総括記述。12:00飯川病院。14:00-18:40勤務。19:10帰宅、夕食、20:30就眠。徒歩Σ6001Km。DVD視聴:「英雄選択:久坂玄瑞と禁門の変」、「立花隆:死ぬとき心はどうなるか」、「語る大相撲名勝負」、「そこまで言って委員会:昭和天皇回想録」。

巨大な「藁つと納豆」入手 美味しかったが・・
 私は納豆が大好きである。ご飯と一緒に食べてもいいし、何もない時は納豆単独でも十分朝食代わりになる。超便利で栄養的にもほぼ完全食品と言い得る。私は日常的にスーパーで手に入るパック納豆で十分である。メーカーは問わない。私はどちらかというとひきわりが好きである。 
 秋田市で高級、高額な納豆もあるようであるが、納豆は値段の安さも魅力なので私は好まない。

 家内は能代の桧山納豆の「藁つと納豆」を好む。これしか買ってこない。私は藁から納豆を外すのも面倒だし、処理し難い藁ゴミも大量に出るし、豆も固い。どちらかというと好まないのであるが、期限切れの桧山納豆がいつも数本冷蔵庫を占拠しているから、片付けも兼ねて食べざるを得ない。賞味期限切れ後1-2ケ月というのも稀でないが、納豆は若干難くなるものの滅多にカビなど生えないし、腐らない。便利な生鮮食品である。買った時は生鮮であるが私が口にするときは古鮮食品である。

 普段なら興味もなく開くこともない食品関係のダイレクトメールを見ていたら、桧山納豆の数倍もある超巨大な「藁つと納豆」の写真が載っていて、興味を持った。三重県松阪市で半世紀以上納豆を作り続けている奥野食品と言う会社の製品であった。
 
 今や、納豆のほとんどが輸入大豆になっている納豆業界の中で、全国的に珍しい 国産大豆100%を実現している老舗だという。私は別に輸入大豆でも毒さえ入っていなければ気にしない。私以上に惹かれたのが家内であり早速申し込んだようである。

 二日ほど前に届いた、でかい。孫たちの脛ほどの太さであり、桧山納豆が赤ん坊の脛に見える。

(左は桧山納豆、80gで160円程度。右は天然わら納豆、1本300gで2本セット4320円)

 商品説明によると、最近の「藁つと納豆」製造法は培養した納豆菌で作っているらしいが、この製品は天然わら菌で発酵させた希少な製品で.かつ、用いている稲わらは伊勢呻宮の神田で生まれた品種米「イセヒカリ」という品種の稲わらだと言う.大変な凝りようである。

 食感は、・・・旨かったが、製品が新しかったのか、私には柔らか過ぎた。これは何日もかけて小出しにして食べるものらしい。徐々に適当な固さになる、という。

 この「藁つと納豆」は多分再度注文することはないだろうが、納豆の製法について、品質についてなどを学ぶことができた。知識としても美味しかった。
 納豆は納豆自身もさることながら、ご飯の美味しさも問われる。秋田こまちは美味しい。


3/29(日)快晴 飯川病院日直 
1:30起床、Mac関連本読み、文献・録音データその他の整理で過ごす。作業に集中しすぎて出発が遅れ徒歩不可、8:27バスにて飯川病院に。9:00-17:00日直。患者対応数なし。DVD視聴:「池上:ソ連崩壊」、「宮崎美子のすずらん本屋:コミックエッセイ」、「池上:ビルゲイツは天才」、「マサカメ:面白給食」、19:00夕食、20:30就眠。徒歩Σ5987Km。

「新 はまなすはみた」ー語りつぐ土崎空襲ー 著者:佐々木久春(文) 佐々木良三(絵) 編集:土崎港被爆市民会議 2002年
 1945年8月14日、終戦前夜に行われた土崎空襲は全く意味のなかった空襲であった。意味がなかったからこそ悔しさが残る。理不尽なことだからいつまでも歴史に記録しておかなければならない。資料を記録に残し、語りつぐ必要がある。いずれ日本の歴史が見直され、第二次政界大戦の評価も変わっていくだろう。

 土崎空襲は、B29が132機来襲、12,047発の爆弾を投下、250人以上が死亡,200人以上が負傷した。

 この頃、日本は疲弊し尽くし、戦争終結についての動きが内外で進められていた。スターリンの対日宣戦布告を受けて、10日午前2時、いわゆるポツダム宣言を受諾の「聖断」があり、3時からの閣議で正式に承認。受諾は直ちにスエーデンとスイスに向けて送信された。
 アメリカはこの電文を傍受した。連合国としての回答は11日正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受し知る事となる。
 15日正午の玉音放送までこの事実は伏せられたが、日本の中枢部がもっと積極的に動いていれば、土崎空襲を含む12日以降の本土空爆は防げたはずだ、と思う。
 米国側も11日正午の時点で爆撃中止命令を出せたはずであるが、ぎりぎりの時点まで攻撃し続けている。終戦で余る爆弾の廃棄だったのではないか?

 私は岩手で育った。
 岩手の空襲に関して祖父母、両親から時に耳にした。10数Km離れた盛岡の空襲、宮古や釜石の空襲、艦砲射撃についても教えられたが、いずれも遠方のことで実感がわかなかった。いま、歴史の勉強しなおしているが、その過程で終戦近くの岩手、秋田の惨状を知ることとなった。

 昭和19年6月15日、サイパン島に上陸した米軍は日本本土の直接爆撃を可能にした。11月には爆撃機B29が東京初空襲を敢行、翌年3月9日、10日の東京大空襲は歴史に残る大惨事となった。

 B29による爆撃は東北にも及び3月10日は盛岡の大沢川原から盛岡駅周辺が爆撃された。6月に入り日本の制海権・制空権を確保した米軍は三陸沖まで進出、護衛航空母艦の積載機による爆弾攻撃や機銃掃射攻撃を各地で展開した。
 8月9日、攻撃機が宮古上空に飛来、小規模であったが宮古は空襲された。この日釜石は艦砲射撃でほぼ全滅した。この最中、長崎に原爆が投下された。 

 そして、8月14日夜の土崎空襲である。
 昨年8月、漫画「はまなすはみた 土崎空襲の話」が出版され、私は資料としてすぐに購入した。史実記録としても、漫画という媒体を利用した伝達性についても有意義な出版であった。
 その後、絵本「はまなすはみた」も求め続けていたのであるが、絶版であり入手は不可能だという。今回、土崎空襲に関する講演会会場で2作目に相当する「新 はまなすはみた」を入手した。2002年発刊の古い本で、私が得たのは初版本なのであろう、1200円であった。現在は定価2400円で入手出来る。漫画「はまなすはみた 土崎空襲の話」とこの「新 はまなすはみた」は飯川病院に寄贈した。待合室で見ることができる。

 本の帯に現県知事で当時秋田市長であった佐竹敬久氏が「太平洋戦争最後の空襲を次の世代に」と推薦文を寄せている。

 『まず、目に飛び込んでくるのは、燃え盛る真っ赤な炎、血の色にも見えました。そして、泣き叫ぶ子供たち。この絵本が、私たちに何を語り、訴えているのか、一瞬でわかります。「新はまなすはみた」に描かれている景色は、60年近い年月を経て、全く色褪せることはありません。悲しいほど凄惨な光を放っています。太平洋戦争が秋田に落とした深い影が、今でも私たちの心に鮮やかに焼き付いているからなのでしょう。
 今、目の前の風景を眺めながら、平和の尊さやありがたさ、そしてここに至るまでの苦難の歴史を思わずにはいられません。私たちは平和について学ぶ素晴らしい教材を得ました。後は、こどもたちに、そして未来に、この思いをどう伝えていくか、ということが大切だと思います。』

 「新 はまなすはみた」の私の読後感は、佐竹氏の小文に十二分に表現されている。これ以上の文は私には書き得ない。


3/28 (土)快晴  
 0:30起床、新聞・文献・徒然ほか。MP3の録音データ整理。家内はアトリオンの講演会他に。9:30ガレージの整理、廃棄物まとめ。シャッター修理。庭掃除など。午後鳩の餌作り、天徳寺方面に散歩1時間。新聞雑誌読み。微睡、19:00夕食、20:30就眠。徒歩Σ5987Km。DVD視聴:「NHKのど自慢」録画3回分。

「第5回日本の医療に関する意識調査」の結果概要の紹介
 日本医師会の研究機関である日医総研は、(1)国民医療政策の企画・立案、(2)国民中心の合意形成過程の創出、(3)信頼ある情報の提供を活動の理念にしている組織である。

 平成26年8月に同総研が実施した「日本の医療に関する意識調査」の結果についての概要が 2月下旬の日医ニュースに掲載された。
? 本調査は、3-5年ごとに行われ、今回第5回目となる。
 調査は、医療に関する国民の意識やニーズを継続的に把握すると同時に、新たに医療に関する要望を調査した。
? 調査は20歳以上の国民を対象に、従来の「個別面接調査」に加えて、今回から、「WEBモニター調査」を実施、有効回答数は、個別面接調査1022人、WEBモニター調査5667人。
――――――――――――――――――――――――――――――?

 個別面接調査配下の如くであった(分かりやすく項目分類を私が改変した)。
??「受けた医療の満足度」は、「満足」+「まあ満足」は89.6%、
??「日本の医療全般の満足度」は「満足」+「まあ満足」は69.5%、
??「患者一人ひとりの希望や状況に応じた医療を受けている」と回答した人も増加していた。このことから、医師患者関係に一定の向上が見られる。
??「受けた医療に対する不満の理由」は、「待ち時間」、「医師の説明」、「治療費」等が挙げられているが、待ち時間が長くても医師の説明が十分であれば、医療に対する満足度が高い。
??「自身の治療方針の決定」は、高齢者も積極的な関与を希望している。
??「医療ニーズと不安」に関しては、「長期入院できる施設の整備」が56.4%と前回より増加していた。
??地方では「医療に関する不安」が都市部より全体的に強く、地域格差があることが示された。
???「かかりつけ医」に関しては、「かかりつけ医等決まった医師の受診を最初に望む人」は69.9%と約7割を占めた。
??「かかりつけ医」への要望については、「専門医への紹介(93.3%)」、「幅広い診療(82.0%)」、「健康管理(76.6%)」等、多くを期待している
??「かかりつけ医」への要望として、高齢者は在宅医療や看取りへの要望も高くなっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――

 上記の結果を受けて、日医総研主席研究員は、今後の日本の医療について、「医師が患者に十分に説明を行うための医学教育の強化」、「かかりつけ医に対する患者の期待に応えること」、「より多くの国民がかかりつけ医をもてるよう、積極的な情報提供を行うこと」、が重要であるとした。
 さらに、「医療満足度と医師患者関係の向上の背景には、国民の医療への理解と医師の対応の改善があると推測される。
 現在進められている医療制度改革は、医師患者間の信頼関係を損なうことなく、更に強化する方向で進められるべきだ」と指摘した。
――――――――――――――――――――――――――――――

 私はこの調査結果を見て国民の医療に関する意識にかなり変化が生じた、と思った。かつての日本は医療レベル、医療制度、医療サービスが世界的に見て先進国的レベルであったものの、国民の医療に対する不満、不信は手がつけられないほど低かったと思ってきた。それだけ国民の中により正しい理解が進んできた、と思われる。


3/27(金)曇り 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
 1:00起床、文献・新聞読み、データ整理などいつもの如く。7:40Taxiにて駅に、8:10こまち。徒歩病院へ。9:10大曲中通病院外来、徒歩駅へ。飯川病院ボランティア、検食。19:00帰宅。夕食、20:30就寝。徒歩Σ5973Km。DVD視聴:「十返舎一九」、「NHKsp:未解決事件」、「闘う覇王:後醍醐天皇」、「ニュース英会話:夫婦別姓、18歳選挙権」。

地方創生2015(4) 空き家問題(2) 地域や行政のお荷物に 
 2013年10月時点の全国の空き家数は825万戸で、住宅総数に占める割合は13.5%だった。調査を始めた1958年は36万戸で、空き家率は2.0%であった。
 5年ごとの調査のたぴに数、率とも上昇し、2013年は過去最高であった。空き家率は関東など大都市圏が低いものの差はあまりなく、全国的な問題と言える。
 空き家が増えた理由は、若い世代が新所帯として独立し、所帯数が増えて住居が必要となるからであるが、それを上回る住宅が供給されている。現に、1968年以降は住宅総数が総世帯数を上回っている。2013年は5246万世帯に対し、6063万戸の住宅があった。我が国は人口は減少しつつあるほか、少子高齢化で総世帯数も減少に転じる見通しで、空き家は一層増えるだろう。

 空き家の増加は地域にいろいろな影響を持つ。まず、空き家が多い地域は活力が低下する。住民も心配している。私も空き家の側を通るたび寂しい気持ちになる。荒廃した建物による景観の劣化や、敷地へのごみ投棄、不審者の侵入など、周辺住民にとって深刻な問題が各地で起きていいる。災害時に、豪雪時には倒壊して避難や消防の妨げになる恐れもある。
 
 空き家を減らすにはどうすればいいのか?
 地方創生政策がうまくいけば、地域の人口は維持され、不要になった住宅や敷地は市場に出回り流通のコースに乗る。これが一番であるが、私は期待薄だと思う。

 ベストな方法は、誰かに住んでもらうことである。過疎地では、「空き家パンク」として情報提供に取り組んでいるが、秋田県などはそれにもかかわらず人口も所帯数も減少している。この状況であれば空き家は減ることはない。都会などから移住者が増えることは朗報であるが、ニュースで報じられるレベルの少人数では焼け石に水である。

 住み手が見つからない空き家は解体撤去を促することになる。しかし、建物の解体と更地化は決してコスト的に安くはない。坪あたり3.5-4.0万円かかる。さらに、更地にすると固定資産税の基準額が最大6倍になる。これが空き家取り壊しが進まない一因とされている。税の仕組みを見直す動きも出ている。

 所有者が不明の物件もあるという。所有者が見つかっても、多くの場合は売れもしないようなボロ空き家には関心もない。撤去に応じない場合には行政が強制撤去できるよう条例を作ったり、国に法改正を求める動きもある。
 
 住宅建築は単に建物が建つだけではない。入居者は生活に必要な物品を購入することで多方面にわたって経済効果が発生する。住宅供給が過剰だからと言って安易に抑制できない所以でもある。


3/26(木)超快晴 外来 飯川病院   
1:00起床、新聞文献、雑誌チェックとPDF化。読書。6:30-7:36徒歩飯川病院着。8:45-13:20外来+患者総括+入院患者対応。13:40飯川病院。19:00帰宅、夕食、20:30就眠。徒歩Σ5973Km。DVD視聴:「池上:スタバ経済学」、「Cool Japan:みそ」、「人はなぜ独り言を言うのか?」、「コズミックジャパン:はやぶさ2」、「人はなぜ独り言を言うのか?」。

地方創生2015(3) 空き家問題(1) 増えている「空き家候補住宅」 
 2年ほど前から車、バイク、自転車通勤を止めて積雪期以外は出来るだけ徒歩で通勤している。体を動かす事は好きであるが、私はもう激しい運動は出来ない。
 歩行は約70年も親しんで来ている。特に機器も技術も要らない。必要なのは時間と気力だけである。徒歩通勤のメリットは大きい。それは多岐にわたるが、一番は五感を通じていろんな情報が入ってくることである。

 今春、歩きながら感じているのは秋田の住宅事情についてである。
 特に感じたのは、秋田市内の住宅の様子から受ける活力がとても乏しくなっている、ということである。住宅地として昔から有名な旧市街地、団塊の世代が住宅を建築した市街周辺地区の住宅地の様子がとくに厳しいように思われる。

 空き家が増加して全国的にも社会問題化しているが、秋田でも「空き家候補住宅」と言っていいような活力の乏しい住宅が目につく様になってきた。

 ちょうど庭先の雪が消えて、まだ緑が少ないこの時期の住宅は、居住している方々の活力を示すような姿をさらけ出す。

 より若い年代の方々が住む住宅は比較的新しく、外の設備なども近代的である。玄関先には、三輪車、自転車等の子供の道具が並び、車もRV車などで手入れも行き届いており、それだけでも活力を感じる。

 子育ても終わり、現役を引退してひっそりと夫婦二人が住んでいる、と思われる住宅は当然の事、築後時間が経っていて設備等も旧式である。子ども用品はなく、車もセダンタイプである。この年代の方々の多くはガーデニングなどを楽しんでいる。庭先は綺麗に掃除され、庭木の手入れもよく行き届いている。
 
 さらにより高齢の方々が住んでいると推定される住宅は、屋根の塗装も剥げ落ち、雨樋等が壊れ、壁に亀裂が入り、庭先には不用品が乱雑に置かれ、かつては手入れが行き届いていたと思われる庭木も荒れ始めている。住んでおられる方は、多分なんらかの事情で住宅のメインテナンスにまで手と心が及ばないのであろう。

 住まいの様子からは本当のことはわからないが、ご高齢の方々が住んでいると思われる住宅を見ると、健康状態は?家族関係は?このままここにずっと住み続けられるのか?・・などと思ってしまう。余計なことだと思いながら、明日は我が身の問題でもある。

 2013年10月時点の全国の空き家数は825万戸で、住宅総数に占める割合は13.5%だったことが5年毎に行っている調査で分かった。1958年は36万戸で、空き家率は2.0%であった。これが時代の流れでもある。住宅事情から見ても地方創生政策の困難さが読み取れる。


3/25(水)曇り 外来 飯川病院ボランティア メガネ購入
1:00起床、文献整理関連ほか。7:45徒歩にて飯川病院着。8:45-13:00外来+回診外来患者総括ほか。13:40-18:30飯川病院ボランティア。途中で玉屋でメガネ購入。19:00帰宅一部徒歩帰宅、夕食、20:00就眠。Σ5963Km。DVD視聴「放送90年日本側板スポーツ実況」、「羽生名人vsチェスチャンピオン」、「そこまで言って委員会」。

難病不認定の書類に用いられている「教示」、「処分」という言葉について
 先日、特定疾患治療研究事業に関する書類を受け取った。書類は2通で秋田県福祉部長からの主治医宛の「特定医療費支給認定申請の認定不承認について」と、県知事から患者宛の「通知書」である。
 その内容は「疾病の症状程度が特定医療費の対象程度でないため申請は認定されませんでした」、というものである。
 
 この患者は私が担当する外来で20年近く治療してきた難病の一つ「特発性血小板減少性紫斑病」の方である。発病当初は病状も厳しく、ときに出血にも悩んでいたが数年後から病状が改善し始め、ここ10年ほどは無治療でも血小板数は危険域を脱していた。この状態で年一回認定更新の手続きを続けてきたが、不認定は今回初めてである。
 今回、患者から申請用診断書発行を求められた時に、病状が安定しているために認定されない可能性があることを説明し、患者も納得しての申請である。だから認定されなかったことには私も不服はないし、多分患者も納得しているだろう。

 問題は患者宛の書類の下半分にある「教示」以下の文章である。それを下に示す。
 『この処分について不服がある場合は、この処分があったことを知った日の翌日から起算して60日以内に秋田県知事に対して異議申立てをすることができます。この処分の取消しを求める訴えは、この処分の通知を受けた日の翌日から起算して6か月以内に限り、秋田県を被告として提起することができます。また、この処分の通知を受けた日の翌日から起算して60日以内に異議申立てをした場合には、この処分の取消しの訴えは、その異議申立てに対する決定の送達を受けた日の翌日から起算して6か月以内であれば、提起することができます。』

 この場合の「教示」、「処分」という言葉の選択は場にそぐわないもののように思える。
 大辞林 第三版によると、「教示」とは教え示すことであり、「処分」とは、@不要な物などを捨てたり,他に売り払ったりすること。かたをつけること。A規則に反した者などを処罰すること。B物事を処理すること、とある。
 おそらく県では「認定申請を処理した」という意味で用いているものと思われるが、この書類を読むものにとっては、「教示」という大げさな意味の単語に続いての文章だから、Aの「規則に反した者などを処罰すること」の語彙から離れることはできない。特に「異議申立て・・」、「処分の取消しを求める訴え・・」などと難しい内容が続くからなおさらである。

 基本的に患者は弱者である。国は特定の難病について医療の確立・普及、医療費の負担軽減を目指すことを目的として臨床研究を研究を行なっている、患者の協力があってこそ成り立っている。県の書類の用語は悪意は感じられないが権威主義的イメージを感じてしまう。


3/24(火)降雨寒波、外来 飯川病院
0:30起床、いつもの如し。5::50可燃ゴミ提出、6:46バス飯川病院に。8:45-13:45外来。14:00-18:30飯川病院勤務、転入院患者の診療情報提供書作成。19:10帰宅。夕食、20:30就眠。Σ2926Km。DVD視聴「チャレンジャー爆発事故」、「未解決事件04:オウム真理教」、「ヒストリア:桜田門外の変」。

宗教とは何か2015(6) 葬式仏教:我が国の信仰の風土として大きな意義がある
 私のように、宗教の勉強もロクにしない一般人を、一定の教義を身につけている宗教界の方々からみれば、宗教的には曖昧な生き方をしている輩に見えるだろう。
 しかし、このように見える徒であっても、その本人の気持ちを言えば決して「絶対的な宗教否定論者」でもない。
 一般人の宗教心は絶対的な救済に求める方向には進まないが、完全な無心論者というわけでもない。この気持ちは「葬式仏教」行事に参加することで養われる。

 人は生きている限り不安を抱える存在であって、その解消には宗教心が必要である。
 大多数の日本人は小さい頃からの生活習慣を通じて結構濃厚に寺や宗教に関連しており、必要に応じていつでも宗教的世界に入ることができる、という安心感を持っている。だから、立派な宗教的存在だ言っていいだろう。

 宗教は、おそらくこうした曖昧な人生に対して根本的な生きる意味を与えてくれるものなのだろうが、宗教の教義は難解であり、不人気となるのも止むを得ない。
 要するに、一般的な人における宗教心は、絶対的な救済を求める方向には進まないが、だからといって、完全な「無神論」者にもならない。もし、どちらかと強く問われれば、教義などを全く知らないから「無宗教」と答えるしかないが、人生の底流にある不安を神仏に祈ることを通じて安息を得ていることを自覚している点で、宗教的世界に容易に共鳴することができる点で、もう立派に宗教性に富んだ存在なのである。

 日本人の間では、立派な寺院の奥に住み、教義を日夜学んでいる高僧よりも、「一遍上人」や「良寛和尚」、「空海」など、宗教人でありながら旅に生き、旅に死んだ僧の方がが人気を博しているが、自分の宗教的放浪性に重ねているからであろう。多くの人々は、旅に生きた僧侶たちがどのような思想や教義をもっていたかには、さして興味を示さない。人々の関心は、もっぱら「旅に生きた放浪性」という生活形態にある。私はそのように感じている。

 一般人が普段宗教と関わらないで生きていると言っても、やはり、死後のことがまったく気にかからないというわけではない。その気がかりをなんとなく解消してくれるのが「葬式仏教」の存在と「葬式仏教」への参加ではないか、と思う。
 要するに、「葬式仏教」への参加していることが、「無宗教」を標榜しても不自然と思わない安息を陰で支える役割を果たしている、と言えるのではないだろうか。

 調べてみれば、「葬式仏教」は、日本に固有の仏教行事で、日本の宗教文化に固有のことの様である。


3/23(月)曇り寒い 外来 飯川病院 DVD視聴装置入れ替え
 1:30起床、いつもと同じパターン。データ整理。6:40-7:30徒歩飯川病院着、8:45-13:30外来。14:00-18:10飯川病院勤務、19:10帰宅。夕食、 20:30就眠。飯川病院医局のDVD視聴装置入れ替え。画面より大型に。

宗教とは何か2015(5) 葬式仏教:我が国の信仰の風土として大きな意義がある
 日本では中世までは死を穢れたものとして避け、遺体は河原や道端に捨てられていた。
 当時の僧侶は国家鎮守を使命とするいわゆる「官僧」であり、国家鎮守の儀式を執り行うためには「穢れていない」ことが何よりも重要だったからである。

 「官僧」以外の僧侶が弔いに参加することも憚られた。僧侶の間でも「穢れ信仰」は共有されていたからである。むしろ、穢れに対して最もナーバスだったのが僧侶だったとも言えた。

 それを革新したのが鎌倉時代の仏教者たちである。葬式のための仏教は、人々の切なる願いから生まれた。古代から、弥勒信仰や阿弥陀信仰など「浄土思想」が隆盛するが、その影響で人々は死後浄土へ生まれ変わることを希求し始めたのだ。だが、打ち棄てにされてしまってはとうてい浄土に至ることなど不可能である。

 人々は自らの死に際してある「手続き」を必要とするようになる。
 その動きもあって、律僧や念仏僧といった僧侶たちの中から、慈悲のために穢れ忌避のタブーを犯す僧侶が出現してきた。貴族や武士から庶民まで、幅広い身分の遺体を弔い供養する実践に取り組み始めた。

 仏教が葬式を行うという事は、今こそ当たり前であるが、それが始められた中世の当時においてはまさに「革命的」だったと言われている。また、僧侶たちは今の墓石につながるような石塔を建て始めたが、これが現在一般的な墓石の源流らしい。長期にわたり魂を宿らせ続けることのできる頑丈な作りが必要とされたかららしい。

 葬式仏教というと、江戸時代に真に確立した。
 仏教文化は、「葬式といえば仏教、仏教といえば葬式」と言えるまでに発展してきた。

 一方、私どもは大変世話になっていながら、葬式だけを行っている寺、これが大部分のように思えるが、は宗教としての本義から離れた、世俗的な存在として、さらに加えてそこに戒名料やらお布施とか、何やらと良く分からない金銭の授受がなされることに嫌気や疑問を感じる人が増えて来ているのも事実である。寺への寄進は「おこころざし」として檀家に判断を委ねられているのも不可解と言える。

 最近、少子高齢化などがあって、人の死は「社会的な死」、「親族内の死」、「家族内の死」、からさらに「個人の死」の様にその意義が変わってきている。この中で葬式仏教のあり方も変わっていくべきである。

 ところで、日本独自の仏教文化である葬式仏教の発展は、同時に日本人の信仰に大きな影響を与えてきた。
 もし、寺が、僧侶が葬式仏教として国民と意識を共有していなかったら、日本人の信仰はどうなっていたか分からない。葬式仏教としてしか仏教と接することがない人を「エセ信者」、「エセ仏教徒」ととらえたとしても、実は立派な仏教徒と言っていい存在なのだ、と思う。
 私も「エセ仏教徒」の一人である。


3/22(日)晴れ 義兄納骨(欠)飯川病院日直
1:00起床、蓄積データの整理と確認、本読み、文献読み。そのほかいつもの如く。義兄納骨日であったが勤務で欠。7:45徒歩飯川病院。8:50-17:00日直勤務。院内平穏、DVDなく2008年のラジオ深夜便を聴く。18:00迎えあり車帰宅、義妹迎え19:00夕食囲む、早々にダウン、20:00就寝。Σ5942Km。

宗教とは何か2015(4) 仏教は迷えるものを受け入れないのか
 3月20日は地下鉄サリン事件が起きて20年である。オウム真理教についてはまだ勉強し始めたばかりであるが、麻原が31年前に設立した少人数のヨガサークルがわずか10年間の間にどんな経過で無差別テロまで起こすような反社会集団になったのか不思議である。
 なんで知識も教養もあるインテリ達がこの集団に取り込まれたのか、それも理解できない。

 社会が文明化すると、科学が発達していくと、人間の心はむしろ空虚になっていくのかもしれない。多分、そうだろうと思うが、日本には教義もしっかりしている宗教が複数ある。それに属さない新宗教もあったが、それらの入信動機は「貧困」、「病気」、「争い」が大部分であった。しかし、オウムの信者たちは既存の宗教、新宗教に飽きたらなかったのかもしれない。いや、オウムの信者たちはもっと高いレベルの救済を求めてさまよったのかもしれない。

 オウム真理教に救いを求めたのはなぜか??若者たちの悩みに応えるところがなかったのではないか?
 
 例えば仏教。現代社会に生きずらさを感じている若者が多くなってきていることはら宗教界も察知していたとは思うが、仏教界にこれらの若者たちに門戸を開けるような動きはあったのだろうか?あるいは積極的に若者たちにアプローチしたという動きはあったのだろうか。
 
 私は日本の仏教の多くは葬式仏教の中に安住していると思っている。仏教はこれでいいのか?仏教の教義とは死の不安と対峙しながらいかに生きるのかを説くものではないのか?と思っている。
 
 私はキリスト教の一部の教団からは誘いを受けたことがあるが、仏教関係者から誘いを受けたことは一度もない。私と仏教の関連は全て葬儀関係である。

 また、私が担当している外来には病院に来るよりもお寺にでも通ってありがたい説法や講話を聴く方がはるかに有用と思われる患者が多数いる。私はそのような方は私の外来に来るより寺に行くべしと勧めている。今までに50人は下らないと思っているがまだ一人もお寺に救いを求めた患者を知らない。これらの方々には不本意ながら「神経症」、「パニック障害」などと診断名をつけざるを得ない。

 生きる悩みは医療では解決しない。哲学は?救いになるだろうか。


3/21(土)春分の日 晴れ 飯川病院日直
 1:30起床、文献検討、徒然など、8:28バス飯川病院に、9:00-17:00日直。患者安定しており終日読書、データ整理、など。DVD「映画:鬼龍院花子の生涯」、「落語:京の茶ずけ」、「バクモン:防衛大学校」、「NHKsp:オウム真理教02」、「秋田の自販機」、「池上:株式市場今昔物語」を観る。17:00-18:15徒歩帰宅。19:00夕食。20:30就寝。Σ5932Km。秋田終了、山形県吹浦に到着。

徒歩通勤2015(2) 秋田を終了し山形県吹浦に到着。
 平成13年3月から始めた徒歩通勤、実績が積算できる歩数計「平成の忠孝」の積算開始が4月7日からだから約2年かかって本日Σ5932Kmに達し、山形県吹浦に到着した。
<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/1d/f1fcb00bbd3ff897e5b3257c12887c89.jpg" border="0">

 北海道海岸線一周には約1年かかった。長かった。秋田の海岸線は266Kmと北海道の一割程度で37日で踏破した。平均7.2Km/日で、この季節は道路の条件で歩行できない日も少なくなかったので不満ではあるが標準的と見なすべきだろう。ちなみに山形県の海岸線の長さは97Kmだから10日前後で通過できる。

 徒歩通勤とはいえ、車もあるし、バスもある。マンネリ化もあってともすれば安易な方向に流れたくなる自分を感じている。
 それは自分にとっては拙い。私の座右の銘の一つが「継続は力なり」で継続すると決めたことの結果を自分の意欲のバロメーターにしているからである。それに、運動不足の解消である。

 徒歩通勤なんて自分一人の自己満足だけの問題だからやめても誰にも迷惑はかけない。現に家内などは私が出発するのを横目で見ながら悠々と構え、一時間半も後に車で家をでる。一生懸命歩いていても、悠々と車で通おうと1日は1日であり、人生に大差はない。

 それで各年ごとの歩行距離をプロットして見た。結果は以下のごとくであった。
―――――――――――――――――――――――――――――――
2013年は4月から12月末まで2422Kmで、1ヶ月平均273Km、1日9.9Km。
2014年は1月から12月末まで2946Kmで、1ヶ月平均245Km、1日8.1Km。
2015年は1-3月の本日まで80日間で546Kmで、1日5.7Km。

計測開始から本日まで717日経過、総距離数5932Kmで1日平均10.036歩、8.3Kmとなる。
―――――――――――――――――――――――――――――――

 この数値を見ると、徐々に減少しているように見えるが、2013年は徒歩通勤に条件のいい期間中心であり、2014年は冬期間を含む通年の値であり、2015年は1-3月と歩行に厳しい時期のみの歩行でありそのままでは比較できない。頑張っている割には意外と歩いていないものだ、と思う。ただ、本日までの平均歩数は何とか1万歩/日をクリアしている。
 まあいいとするか。
 毎日毎日、歩数計のデータを記録しているが、それを元に数字をいじくり回して遊ぶことができる。つくづく「継続は力なり」と思う。


3/20(金)快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
 1:00起床、文献・新聞読み、データ整理などいつもの如く。6:00可燃ゴミ提出、7:40Taxi駅に、8:10こまち、徒歩病院、9:10-12:45大曲中通病院外来、業務用スーパーに買い物に来た家族の車で飯川病院へ。13:30-18:40ボランティア。19:10帰宅、夕食、20:30就寝。Σ5922Km。録画視聴:「昭和は輝いていた:李紅蘭」、「池上塾解説塾」、「スポーツ選手はどこまで進化するのか」。

認知症・ボケ 2015(7):私のボケ防止に有効な方法?(2)日光を浴びる
 私は血管性認知症を発症する候補者の一人である。分かっているのだから座して認知症を発症するのを待ってはいられない。学問的背景のある予防法は積極的に取り入れたい。
 「美しさ」の認識も有効らしい(認知症・ボケ 2015(6):私のボケ防止に有効な方法?(1)美しさの認識 3月17日)ことが分かった。 

 今回は日光浴の効果についてである。
 
 米国神経学会は2014年8月6日、ビタミンD不足の高齢者は、認知症やアルツハイマー病を発症するリスクが増える可能性を示唆する大規模研究を発表した。本研究は機関紙であるNeurology誌に掲載された。

 本研究は、鮭、マグロ、サバなどの脂肪性魚類、牛乳、卵、チーズなどの食物、サプリメントにより摂取したビタミンDの血中レベルに着目して実施された。

 検討の対象者は、心血管系の健康調査に参加している認知症のない65歳以上の高齢者1658人で、検討方法は血中ビタミンD値の測定値と認知症発症との関係である。

??平均6年間の観察で、参加者のうち171人が認知症を、102人が アルツハイマー病を発症していた。
??ビタミンD中程度低値群と正常群との比較。
 認知症発症リスクが53%増大し、アルツハイマー病発症リスクは、約70%増大。
??ビタミンD重度に不足群と正常群との比較。
 認知症発症リスクが125%増大し、アルツハイマー病発症リスクは120%以上増大した。
??学歴、喫煙歴、およびアルコール摂取といった、認知症発症リスクに関連し得る他の因子を調整しても、上記結果は変わらなかった。
??ビタミンD不足は、神経変性と血管系のメカニズムの両方で認知能とアルツハイマー病のリスクを上げる可能性がある。

 著者のDavid J. Llewellyn氏は、「ビタミンD低値であることと認知症やアルツハイマー病のリスクとの関連性を見出せると期待していたとはいえ、相関性は想像していた以上であった。臨床試験を実施して、脂肪性魚類やビタミンD サプリメントなどを摂ることでアルツハイマー病や認知症の発症を遅らせたり予防したりできるのかを確認する必要がある。一方、本研究の結果は、ビタミンD低値であることが認知症リスクであることを実証するものではないことは認識している」と述べた。

 ビタミンDは血中カルシウム濃度を上げたり、免疫力を上げる作用がある。 一方、不足すると、骨粗鬆症、高血圧や結核、がんなどの確率が上がるといわれる。
 人間の場合、冬季は意識して日光浴をしないと、必要量のビタミンDを体内でつくれない。

 私は春から秋にかけては太陽を光をサンサンと浴びながら外で作業をしながら過ごすのが好きである。特に夏場のギンギラ照りが好き。しかし、冬場はどうしても室内で机やパソコンに向かって過ごす時間が増えてしまう。認知症の予防には読書とか作文、指先作業も有効だと言われているから日照不足分は補われているとは思うが、ビタミンD不足に関するここの様なデータが示されるとつい考えてしまう。

 認知症予防に効果があると思われる因子はまだまだあると思う。それらを日常生活に取り入れようとすると忙しくなる。私のように認知症を心配している高齢者はのんびり過ごしている暇などない。大変である。

 あの貝原荻軒は、「道かはき、風なくば、庭圃に出て、従容として緩歩し、草木を愛玩し、時景を感賞すべし」と述べていると言う。卓見である。


3/19(木)午前降雨のち晴れ 外来 飯川病院 
1:30起床,文献多数検討など。本読み、録音データ整理など。雨あり6:47ナスにて飯川病院に。8:45-14:30外来、外来総括数人分、入院患者対応。14:20−18:30飯川病院、18:42バス帰宅、乗り遅れタクシーにて19:00帰宅、夕食、20;30就寝。Σ5914Km。43回結婚記念日。録画視聴:「フランケンシュタインの誘惑:不死の細胞」、「ガイアの夜明け:日本の医療ードクターカー、補聴器」。

人は見た目が9割??  私はラフな姿に戻した
 「人は見た目が9割」という本を購入していたのを思い出し読み返してみた。
 著者は「人は見た目が9割」と主張する。彼の言う「見た目」というのは服装だけではなく、「表情」、「姿勢」、「マナー」などの「非言語コミュニケーション」全般の因子を指すようだ。

 確かに初対面などの場合には意味のある因子であろうが、付き合いのある関係にでは通用しない、と思う。他の方々のことは分からないが、少なくとも私は「見た目」から人を判断して大きく間違ったことはないし、それによって実害を受けたことはない。私は基本的に対人恐怖があるために相手を見極めるのには長けている、と思う。だから、慎重に判断し、多くの場合は一定以上の距離を置く。

 対話もしないような他人同士の場合は、互いの服装、髪やヒゲ等が相手に与える影響は大きいだろう。「馬子にも衣装」、「着物が人をつくる」、「人形にも衣装」、「君飾らざれば臣敬わず」といった言葉があるが、これは褒める言葉ではなく「まやかしの勧め」である。一方、「衣ばかりで和尚はできぬ」と言った、衣装などで本当の姿は変えることはできないのだ、という対義語もある。

 私は若い時から立場を考えないラフな服装を好んできた。普段はTシャツに素足にスリッパ姿を基本としていた。55歳も過ぎた頃、某市医師会長から「会う相手のことを考え、場にあった身なりをすべし。貴君の服装は相手に失礼だ・・」と手厳しい指摘を受けた。服装など無頓着でスーツは一着しか持っていなかった。これを機会に、何着かのスーツを用意し、靴も新調した。革靴は20年ぶり2足目の購入であった。この時以降、現役引退まで常識的な身なりをして来た。身なりを整えると生活の緊張感も増すが、やはり私にとっては大いにストレスであった。

 現役を引退するときに、これからは身分も立場も、職場もなくなるのだから、だからこそ身なりをしっかりしておくべきだろう、と考えた。
 ただ、三日間しか持たなかった。

 私は外見を格好良く見せようという意識はゼロに近い。むしろひどい姿形を好む。髪もヒゲも誰かに指摘されるまで伸し放題である。道を歩く時はノイズキャンセリングヘッドフォンを用いている。「人は見た目が9割」だとすれば、こんな私を見た人は「風采の上がらない爺い」だと思うことだろう。そう思われる方がはるかに気が楽でいい。

 今はいろんなことを気にせず気楽に生きている。日常、他人を意識することないから1年ほど前からメガネ着用もやめた。運転の時はもちろんメガネをかける。
 「人は見た目が9割」という考え方には同意できないが、「私は見た目が9割」であって欲しい。


3/18(水) 夜半早朝降雨 のち快晴に 外来 飯川病院ボランティア 
 1:30起床,文献多数検討など。録音データ整理など。6:30定期点検のプリウスで出勤、飯川病院に。8:45-13:45外来、総括と入院対応。14:00飯川病院、プリウス点検終了。15:00受診帰秋の長女迎えて足代わりで自宅と病院往復。19;00帰宅、夕食、20;30就寝。歩行計5907Km。DVD視聴:「冷戦終結首脳たちの交渉:ゴルバチョフ」、「オウム:地下鉄サリン事件」。

新書「人は見た目が9割」竹内 一郎  新潮新書  2005/10
 人というのはわからないものである。それは私の実感でもある。
 最近、私と同年代のある患者が、「外見がよかったので信用して騙されました。今回は大いに反省させられました・・・」としみじみ語った。詳しくは聞かなかったが何がしかの金銭を騙し取られたらしい。

 私は「人は見かけから判断できるものではない」と本心から思っているが、「人は見た目が9割」という本がベストセラーになって私のハードディスクに収めていたので呼び出して読み返してみた。
 私は、著者の考えは当たり前過ぎて賛同も反論もできない。ただ、私はこの本の内容を逆手にとって生活している。

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 著者の竹内一郎氏は劇作家、マンガ原作者、舞台の演出や俳優教育者である。その経験から、演劇では俳優や演出の違いで天と地ほど出来栄えが変わるし、マンガでは、作品にしてくれるマンガ家の力量により名作にも駄作にも変わる。原作を作者に提供している立場から、自分が考えている原因をはっきりと世に問いたいと思ったのであろう。

 活字の本よりマンガの方が圧倒的に売れている。その理由は様々だが、「文字だけ」より「文字と絵の組み合わせ」の方が、受け手に理解されやすいから、マンガの方が伝達力が高いと言ってもよい。その理由を著者は「言葉による伝達」より、「言葉以外の伝達」の方が、伝達力が高いからなのだ、と主張する。

 心理学では、人間が伝達する情報の中で話す言葉が占める比率は7%に過ぎない、という。著者はそのデータを引用して論旨を展開している。だから、言葉の他に登場人物の表情や背景が描かれるマンガの方が伝達能力が高い、と言っている。

 同じことは人間社会にも言える。対人関係では相手の言葉からは7%の情報しか受け取っておらず、93%は他の要因、すなわち「外見の威力」から得ている。

 著者の言う「外見の威力」は服装だけではない。「表情」、「アイ・コンタクト」、「姿勢」、「間の取り方」、「相手との距離」、「マナー」、「声や話すテンポ」、「話のフィーリング」、「会話の際のまばたき」の効果も大きい。などの「非言語コミュニケーション」の基本的な効用について述べている。

 本書では、こうした「言葉以外の情報」すべてをひっくるめて、「見た目」と捉えている。情報の「伝達力」には本来は人の能力や人格が問われるが、その能力や人格はむしろ「見た目」から推定できる、という。だから、いま強調されている「コミュニケーション能力」の教育面では「言語以外の伝達」にもっと目を向けるべきである。何故なら、93%の方に力を入れる方が、効果が大きいからである。

 見栄えと言葉、我々はどちらを信じればよいのか。著者は言葉より見栄えの方が、よりその人の本質を表していると考えている。
 「人は見た目が9割」である。
――――――――――――――――――――――――――――-
 本書の内容の概要は著者の前書き参考にまとめると上記の如くである。
 私は購入当初に読んだ印象は、内容が当たり前すぎてあまり学ぶべきものはない、と半ば無視していた。
 今回ざっと読み直してみたがほぼ同じ印象であった。もちろん、著者の基本的考え方、各章、各文章、行間から学ぶべき内容は少なくはなかった。

 「人は見た目が9割」は間違っていると思う。「人の第一印象は見た目が9割かもしれないが、それにとらわれてはならない」、私はそう思っている。「馬子にも衣装」は褒め言葉ではなくまやかしの勧めである。どんなに着飾っても馬子は馬子、本質は変わらない。服装で言えば不潔感がなければいいのだ。


3/17(火)快晴のち曇り  外来 飯川病院
1:00起床、新聞・文献チェック。5:20可燃ゴミ提出、8:49徒歩飯川病院、8:40-13:20外来、外来患者総括、入院対応。14:00-18:40飯川病院、外来など。19:00帰宅、夕食、20:30就眠。Σ5900Km。録画視聴:「クールジャパン:交通安全」、「そこまで言って委員会」、「日本食七変化」。19:10帰宅・夕食、20:00就寝。

認知症・ボケ 2015(6):私のボケ防止に有効な方法?(1)美しさの認識
 人が絵画や音楽を「美しい」と惑じたとき、脳の「内側眼窩前頭皮質」の血流量が増加する、ということをロンドン大学神経生物学研究所神経美学の石津研究員(34)らのチームが米専門誌などに発表し、認知症の治療等に応用できるのでは??と注目されている (2014/11/22日本経済新聞)。

 石津氏は種々の脳機能測定法(機能的MRI、脳磁図、脳波計など)、と実験心理学手法を用いて、美醜と芸術的創造性に関連する脳活動、顔・身体像の認知、絵画作品の認知、色知覚などの研究を行っている方である。

 石津研究員のチームは「美しさ」に反応する脳の動きを探るため、人種や宗教など異なる22〜34歳の健康な男女21人を対象に、機能的磁低共鳴画像装置(fMRI)を使った実験を実施。肖像画や風景画などを16秒ずつ順に45枚提示し、美しいと感じたかどうかを示してもらった。
 その結果、美しいと感じた場合、美しくないと感じた時と比べ、「内側眼窩前頭皮質」で血流量が増加し、働きが平均で約35%活発化することを確認した、という。美しいと強く感じるほど、活動量も増えることが分かった。

 この21人に音楽を聞かせた場合でも同様のデータが得られたという。
 ほかにも多くの実験を重ねた石津研究員は「科学の世界では、美に関する感情は客観的に測定できないと考えられてきた」として研究の意義を強調している。

 基礎歴研究者、臨床研究者者の間では、脳のこの領域の機能が低下すると、うつ病、気分障害、などを招く可能性があるとされてきた。欧米では、前頭葉に電流刺激を与えて活動を促す治療法か既に採用されている。

 私はこの記事に興味を持った。私は自然や芸術などの多くの事象について「美しい」と感じることがとても多い。「路傍の石、路傍の草花・・・」にも美しさを感じる。しあわせ者、だと思っているが、一方「美しさとは何か」、「人はなぜ美しさを感じるのか」などについては日頃から考えてはいるがまだわからない。

 この記事からは「美しさ」とは何か、は分からないし、こんな若手を被検者にした実験結果が、高齢者の衰えた「内側眼窩前頭皮質」に対し同じような作用があると関連付けられるのか、などについても素直に受け取ることはできない。

 そうはいっても興味深い知見である。私にとっても役立つかもしれない、と思う一方、多くに「美しさ」を感じている私がボケの途上にいそうだということは、今更私には役立たないのでは??とも思う。
 今後も「美しさ」をどしどし味わっていいきたい。


3/16(月)快晴温暖 健康クリニックドック 飯川病院 
 1:00起床、新聞・文献チェック。その他蓄積データ整理。7:40徒歩飯川病院に。9:00-11:00健康クリニックドック。外来患者総括数人分。11:45飯川病院、14:00-18:45勤務、主治医意見書、紹介状等作成。録画視聴:「東京大学の先生たち」、「ニュース英会話:感震ブレーカー」。19:10帰宅・夕食、20:00就寝。Σ5890Km。

認知症・ボケ 2015(5):私はボケるハズ ならばどうするか
 「認知症10年後700万人」、認知症の人がこれほど増えたら誰が支えていくのだろうか。人口動態として少子・高齢化が強調されるが、さらに質的変化がともない「少子・高齢化・認知症社会」というべき時代が来る。おそらく認知症の治療、看護、介護に人手が取られ、社会機能は鈍化し、経済活動も低迷していくと考えられる。

 だから、これからは一人ひとりの生活の在り方が問われることになる。しかも、誰でも認知症好発年齢まで生きられる時代だから、若い時からの心がけが必要になってくる。

 私も認知症発症候補者の一人である。ならばどうすべきか?いつも考えている。
 
 認知症といっても病状に差異があり、ざっと大きく4タイプに分けられる。
 ―――――――――――――――――――――――――
??アルツハイマー病(約50%)ーー海馬から病変が始まる。新しいことが記憶できない、思い出せない、時間や場所がわからなくなるなどが特徴的。徐々に進行、性格変化もきたす。ドネペジルが一部の患者で有効だが限界も。 
??血管性認知症(約15%)ーー脳梗塞や脳出血などによって発症する認知症。 
??レビー小体病(約20%)ーーー脳全体からの機能障害。実際には「幻視」、眠っている間に怒鳴ったり、奇声をあげたりする異常言動など。ドネペジルが有効と言われるが限界も。
??その他、ピック病など(約15%)。 

 実際には互いに重複する混合型も少なくない。それを考慮するとアルツハイマー病は80%ほどを占めるという意見もある。
―――――――――――――――――――――――――

 私は脳が萎縮し、立派な梗塞巣があり、虚血性変化がかなり見られるから血管性認知症のタイプであろう。
 
 全身の血管病変は生活習慣に左右される。例えば、糖尿病患者、高血圧症患者では種々の血管性病変が生じる頻度が高く、血管性認知症の罹患率が高い。だから、このタイプは生活習慣病の予防を介して発症を遅らせたり、進行を遅らせたりすることが可能であるる。

 私の脳病変はかなり進んでいる。いずれ認知症に罹患するにしても、座してその時期を待つのは面白くない。少しでも発症を遅らせたい。遅きに失した観もあるが、継続的に生活習慣対策をして行きたい。

 認知症の予防に、決定的な要因はなく、??1 頭を使う、??2 手先指先を積極的に用いる、??3 運動・筋肉トレなど身体的予備カを高める、??4 社会との関わりを持つ、??5 日常的生活の継続を基本とする、??6 そのほか諸々・・と一般的に上げられている。
 私の場合、毎日記しているミニ随想は??1 、??2に役立っていると思う。徒歩通勤は??3に役立っているはずである。??4は全くダメだから期待しない。

 これらの項目一つ一つ毎の認知症予防効果は決定的なものではない。総じて価値があるというレベルである。だから、粛々と実行しておかねばならないだろう。

 人間、年をとることは毎日が新しい経験ができるから実に楽しい。私はそう思う。楽しいからこそ生きられる。ただ、それには心身の事故管理が重要である。認知症多発社会では高齢者は悠々自適などと甘いことを言っててはダメなのだ。


3/15(日)小雨のち晴れ・寒波緩む 飯川病院日直 
 21:15起床、新聞チェック。関連文献検討、本読みなどほかいつもの如く。5:00-6:00微睡。8:30バスにて飯川病院に、8:50-17:00日直。録画視聴:「プロファイラー:勝新太郎」、「戦後70年広島:マツダ自動車」、「池上経済教室:スターバックス」、「歴史列伝:皇女和宮」。18:30迎えあり、楢山の住宅見学後帰宅、夕食、20:00就眠。Σ5882Km。

原発事故から4年(3) 汚染物質中間貯蔵施設(1) 原子力船むつの二の舞にならないか
 東電福島第1原発事故の除染で出た汚染土壌や廃棄物を保管するため、国が建設する中間貯蔵施設を、福島県と大熊、双葉2町が廃棄物の搬入を容認し、国と安全協定を結んだ。13日から搬入が始まっている。

 福島県内では、放射性廃棄物が仮置き場など7万6千カ所に分散して保管されている。
 地元で廃棄物の受け入れを容認した背景には、30年以内に福島県外で最終処分することが法律に明記され、国が県外処分の工程表を作成し、毎年、進捗状況を報告することにしたからである。

 私は放射線廃棄物を福島県内の非汚染地域、全国の非汚染地域に持ち込むことに疑問を持っている。住民の方々にはお気の毒であるが分散させずに原発による汚染地域にまとめるべきだと思う。
 それに30年後に県外に移設・・という約束は遵守されるのだろうか。
 
 私は中間貯蔵施設の話題になると放射能汚染を起こした原子力船むつ問題を思い出す。

 原子力船むつは日本最初の世界で4隻目の原子力船であった。母港に予定していた横浜港に断られ、むつ市の大湊港へ移され、名称もむつとなった。

 1969年に進水、1974年に核燃料搭載した。反対運動で漁船がむつの周りを取り囲み出港を阻んだが、大嵐で漁船が引き上げた隙に無理矢理出港した。太平洋上で出力上昇試験が開始されたが、早々、わずか1.4%の低出力段階で放射能漏れが生じた。漏れた量は極微量であったがメディアによってセンセーショナルに報道された。この放射線漏れで地元むつ市の市民は帰港を拒否したため、港に入れず沖に停泊した。4年間も、である。

 4年後に佐世保で修理したが、佐世保港、大湊港での母港化反対運動により帰る場所を失ったままであった。長い話し合いの末に「原子力を動さない」、「6ヶ月で出て行く」条件で大湊港に入港させた。しかし、6ヶ月経過しても受け入れる港はなかった。

 最終的にむつ市関根浜港が新母港として決まった。放射線漏れを生じてから1988年1月関根浜に入港するまでに実に14年を要した。90年関根浜港で低出力試験を、4度の航海で出力試験を行った。むつは1992年廃船となり、93年に原子炉が撤去され、96年みらいとして生まれ変わった。220億円の建設費をかけて整備した関根浜港は5年間しか使われなかった。

 貧しいながらも漁業も地元の人間関係もうまくいっていた地域にはむつ問題関連の保証金23億円が転がり込んだ。急に大金を握った人の末路は悲惨だったとされる。漁場は荒廃し、住民の心も荒廃した。むつを巡る政府の政策はいまでは「海殺し政策」と呼ばれている。

 むつの無理やり出港の判断も政治が関与した、と推定できる。そんな中で放射能漏れが生じたことから地元の反発は激しさを増し、修理後に大湊港に入れる際の「原子力を動さない」、「6ヶ月で出て行く」という約束も反故にされた。

 政治家の先々についての約束はあてにならない。沖縄の普天間基地県外移設問題だって反故にされた。今回の放射線廃棄物を30年後に県外に移設する、と言う約束もどうなるのか。次世代の方々の監視が必要である。


3/14(土)晴天 JRダイヤ改正 飯川病院ボランティア 
 1:00起床、新聞・文献・資料検討。11:00車、飯川病院外来補助ボランティア。13:30-15:00徒歩帰宅。BR録画したドキュメンタリー40項目についてインデックス作り。 19:00夕食、20:30就寝。Σ5877Km。秋田市を通過本庄市付近に到達。DVD視聴:「資本主義のジレンマ研究」、「認知症予防プログラム(2)」、「東京空襲は何故行われたか」、これはいい資料となる番組であった。

確定申告2015:パソコン上での申告書作成が上手になった

 私は40年間、秋田市の北税務署で欠かさず確定申告してきた。納めるべき税金は全て納めたいと思っているが、申告はとても難しい。

 今まで何度も小さな失敗はあった。私に知識が乏しいから間違いが生じると思うが、申告漏れがあった時には税務署員から脱税者紛いの扱いも受けてた。だから、申告の時期になると私は落ち込む。

 従来からパソコンで申告書を作成、電子的に送るか印刷して郵送できることを知っていたが、Macでは作成不可能かと諦めていたが、2013年春にやっとその方法を見つけた。
 これ以降、毎年奮闘してきたが、国税局のホームページは初めてパソコンで申告書を作成しようとする者にとっては不親切だと思う。それでも今年は3回目となってだいぶ慣れた。

 私が入力すべき項目を入れればあとは自動的に申告書作成ソフトが計算してくれる。私は退職後入力すべき項目は大幅に少なくなって、給与、その他の収入、年金、生命保険・損害保険控除、寄付控除程度であるが、給与と収入はどんな違いがあるのかなど、未だに理解でずどこに入れるべきか迷ってしまう。
 何とかマニュアルに沿って40項目ほどの必要項目を入力できた。特に寄付控除は年月日、寄付額、寄付先など15回分も入力しなければならなかった。

 家内の申告書も作成したが,こちらの方は医療費控除の準備作業段階で100項目以上もあって難渋したが、後はさらさらと作成できた。今年は3月13日投函してして解放された。あとは判定を待つだけである。ここまでやっておけば多少の間違いがあっても脱税者紛いの扱いは受けないだろう。

 この作業を通じての本音は、国民の義務の一つを果たした、という満足感と、だんだん慣れてきたとはいえ通常のマニュアルとは別に初心者用に「ネコにも分かる」程度のガイドが欲しい,と言うことである。

 これとは別に最近税金の勉強を始めた。贈与とか相続とか私には一見関係ないように思えるが、自分に関係ないことだと思って読むとこれが結構面白い。


3/13(金)寒波悪天候去り快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。文献・本読み、徒然他、データ処理。7:35Taxi駅、8:10こまち、8:45-13:00大曲中通病院外来、やや混雑。14:45飯川病院ボランティア。19:10帰宅、夕食、20:30就寝。DVD視聴:「英雄たちの選択:幻の改革 松平定信」、「100分で名著:茶の本(2)(3)」。歩数計5861Km。カンボジア、ポルポトの大量虐殺について勉強。

原発事故から4年(2)  この一年間で何が改善したのか
 福島第一原発の事故から3月で4年が経つ。今、現場はどうなっているのか?新聞から得られる情報からがその方向性はなかなか見通せない。

 数少ない朗報として、4号機からの核燃料取り出しは予定通り昨年末に終了した。

 一方、東京電力は昨秋、1号機の燃料取り出しが従来の計画より2〜5年遅れると明らかにした。メルトダウンした1号機では、燃料がどこにどんな形状であるのか、取り出すにもどこからアプローチ出来るのかすらも、まだわかっていない。

 国と東電の13年6月段階の廃炉工程表では使用済み燃料の取り出し開始を19年度としていたが、21年度に延期し、20年度予定の燃料の取り出し開始を25年度に遅らす。強い放射線の下で燃料の状態を確かめる技術から開発しなければならないのだそうだ。回収は不可能とみる専門家もいる。チェルノブイリ原発のように石棺で建屋を覆う方法も提案されている。
 30-40年かかるとされる廃炉への道のりは依然として厳しい。

 1月に東電はタンクにたまった放射能汚染水の処理が予定通りには進んでいないとも公表した。原子炉建屋に山側から地下水が流れ込み、放射性物質に触れて今も絶え間なく汚染水が発生している。
 高濃度汚染水の処理も、東電社長が今年3月末までに終えると約束した。それも放射性物質を取り除く設備の不調などで、想定の約6割しか処理できていない。

 汚染水の処理はいろいろ対策しているがどれも決め手を欠く。建屋周辺の地盤を凍らせて地下水流入を防ぐ「凍土遮水壁」の工事も難航しているし、原子力規制委員会はその効果を疑問視している。

 建屋周辺の井戸から汚染水を積極的にくみ上げて処理し、海に放出する計画もある。ただし、特定の放射性物質は除去できず、環境に影響を与える恐れがある。

 2月末には、建屋屋上にたまっていた汚染雨水が排水路を通り、海に流れ込んでいたことを公表した。事故発生以降、雨のたびに流出していたとみられる。この件は昨年1月の時点で、東電は問題を把握していた。だが何ら防止策を取らず、データも公表していなかった。地元は猛反発している。当然であろう。認識不足でなかったか。

 いずれの項も、未知の分野であり、予定通りにはいかない固有の事情があるようだ。見守っていかざるを得まい。
 それにしても物理科学の知見を集めた原発が一旦事故に遭遇すると雨風、地下水等の当たり前の事象にこれほど悩まされることは事前に予想されていたのだろうか?


3/12(木)曇り・快晴後雨 外来+飯川病院 
 0:20起床。文献新聞など。夜間の降雪殆どなし。7:20車病院着。机上書類処理。8:45-13:00外来。13:45-18:00飯川病院。18:30−21:10秋田市文化会館、落語:昇太・たい平・円楽三人会、外食後22:30帰宅、すぐに就寝。DVD視聴:「ニュース英会話:三人の遺伝子」。歩数計5861Km。

原発事故から4年(1)  事故対策、まだ目処すらない状態
 東京電力福島第1原発事故から4年経過した。その影響は今も深刻である。

 原発事故は人間の奢りを背景に、史実も無視した人災であった。各界の関係者の誤認、だんまり、国民を騙した安全神話。事故後の対応も拙く、無用な汚染につながり、炉は結局メルトダウンまで行った。その責任を政府や官僚、東京電力は誰も取っていない。別に犯人探しをせよというのではない、我が国の原子力問題、エネルギー問題をしっかり検証すべきだ、ということである。

 福島の復興は遅々としている。
 原子炉に対する急性期の対策は一応功を奏したようであるが、ぎりぎりでバランスを保っている程度の様に見える。
 
 事故の際に、風、雨、地下水、池や沼、山や海などの自然現象、地形などがこれほどまでに事故を複雑化するなど、関係者の誰も殆ど想定していなかったのだろう。
 特に風。3号機が水素爆発した後、菅首相は事故対策のノウハウなど全くご存知ないだろう専門家の助言をいれ、同心円状に20Km圏内は避難、20Km-30Km圏内の屋内退避を指示したが、素人でもおかしいと言える判断であった。これは、チェリノブイリの事故を見ていると誰でもわかることである。この事故では風に乗った放射能物質が数千キロも被害をもたらした。

 官邸には原発事故が起きたとき、どんな問題が発生し、その後どう展開すればいいのかをまともに予想できる人間はいなかった。当時の原子力安全委員会の委員長は原子力工学の専門家であって、事故の対策などほとんど知らなかった、と思われる。

 東日本大震災が生じた3/11まで、多くの人は科学の進歩が人間を幸福にし、自然も克服できると信じてきた。東京電力は50mほどあった岸壁を大工事で10mまで削って福島第1原発を建てた。

 しかし、自然の力は人智を超えていた。すでにその証拠も見られるのに、歴史の検証もなど無視された。福島県の沿岸部の古い神社の場所を線でつなぐと、868年の貞観津波を免れた線が結ばれる、という。こうした歴史や伝承の研究結果も入れるよう2009年に提言されたこともあったが、生かされてこなかった。もし、補助電源の位置がこの高さにあったならば、この高さに移動させるなどの処置があれば、原発事故は防ぎ得たかもしれない。

 福島の事故を見た時、茨城県東海村で1999年9月30目に起きた核燃料加工会社(JCO)の臨界事故が思い出された。作業員がウラン溶液の混合作業中、規定量を超える溶液をバケツに入れたため、核分裂反応が継続する臨界状態が発生、中性子が約20時間にわたって放出され、作業員2人が死亡、周辺住民ら660人以上が被曝した。
 国内の原子力開発史上初の犠牲者を出し、「原子力の安全神話」はすでにこの時崩れていた。にもかかわらずこの事故を教訓にするどころか、原子力推進の邪魔になるとして蓋をしてしまった。この判断が事故処理を不十分なものにした。これも人災であった。

 安倍政権は九州電力川内原発について「火山による影響も確認し、安全性は確保された」として再稼働に踏み切ろうとしている。


3/11(水)東日本大震災4周年 激しい暴風雪 外来 飯川病院ボランティア 
1:30 起床、文献など。外は激しい暴風雪。7:10バスにて飯川病院。8:45-12:30中通病院外来。久々余裕あり。飯川病院、休息とボランティア。19:20避妊手術の野良猫回収して帰宅、夕食、TVニュースは東日本大震災・原発事故関連。あまり見たくもなし。20:10就眠。Σ5854Km。DVD視聴:「ザ・プロファイラー:ポルポト」。

東日本大震災からまる4年 復興復旧は遅々としている
 本日、東日本大震災はまる4年を迎えた。各地で追悼他の関連行事が行われている。普段、東日本大震災・原発事故関連ニュースをろくに取り上げないNHKをはじめとするメディアはこの日を待ってました、とばかり取り上げる。しかも、お涙頂戴的発想の取り上げが多い。見るのも読むのも辛い。

 震災・事故からしばらく経つと朝日新聞、秋田さきがけ新聞の記事では物足らなくなり、被災地の情報が知りたくて、私は岩手日報、福島民報、河北新聞も購読していた。現在は岩手日報を継続している。被災した県の地方紙と他紙との間には大きな違いがあり岩手日報の紙面では決して大震災は風化していない。他のメディアはこの日に集中して大震災は忘れ去られようとしている、風化していると、書き立てる。
 
 東日本大震災の人的被害は、2015年3月10日現在の警察庁の統計は、直接死者数は(??昨年??一昨年)15,891人(??15,884人??15,882人)、行方不明者数 2,584人( ??2,633??2,668人)は、震災関連死3194人(??3,048人)、となっている。
 直接死者数を見る限り、この3年間で9人増えただけである。遺体が発見された数であろうが、年余に渡る広範囲な捜索がほとんど実を結んでいない。

 復興は遅々としている。
 今なお不自由な生活を強いられている被災された方々の心情などは、遠くで平穏な日々を送っている私などには到底推し量ることは出来ない。多分、時間の経過と共に辛い思い、政府への不満などが一層募っていることだろう、と思う。
 結果として、さまざまな事情から内陸や他地域への移住が止まらない。もう待てない、それが正直な気持ちだろうが、多くの方々は今後どうすればいいのか、その選択肢すら持たないのだろう。

 東日本大震災の津波に遭った沿岸部で人口減少が際立つ。多くの犠牲に加え、住まいや産業の復興が遅れ、内陸部へ流出したとみられている。
 一例として、宮城県女川町は2月1日現在の推計人口によると、6805人で震災直前から31.5%、3127人も減った。宮城県山元町、南三陸町や岩手県大槌町の人口減少率も20%を超えた。詳細な統計は知らないが人口が増えた地区はないだろう。ここまでくれば復旧も困難、復興も夢また夢だと思う。人口減の地区では居住区のコンパクト化が必要だろう。

 被災3県の仮設住宅で孤独死が増えている。今年1月末までの累計は146人で、うち65歳以上は6割近くを占める。私は仮設住宅に入居できた後も環境に馴染めない方達は高齢者等の施設に無理矢理でも移すしかないと思う。

 私は 「復興」、「復旧」は望めないと思う。防波堤をいくら高くしても、土地をかさ上げしても、過疎化・高齢化には太刀打ちできない。だから、住民の生活は成り立たない。よく阪神淡路大震災の神戸から学べ、と言われているが、環境因子が異なる、人的要因が異なる。経済活動力も違う、ほとんど参考にならない。

 被災地の多くはその前から高齢化過疎化が問題になっていた。復興・復旧に代わる新しい発想も必要であろう。


3/10(火) 風雨・夕方から暴風雪 外来 飯川病院 
1:00起床、文献・新聞関連など。自分の申告終了、本日郵送予定。6:40風雨で車、飯川病院、8:45-12:30中通外来。13:00-18:45帰宅、8:20就寝。Σ5848Km。明日は3.11で新聞、ラジヲ、TV共に東日本大震災関連特集が組まれており、見るのも聴くのも辛い。DVD視聴:「そこまで言って委員会」。最終こまちで帰秋の長女、強風で2時間遅れ。2時頃到着。ノラの子猫捕獲し避妊のために動物病院に入院。

楢山節考 深沢七郎著 新潮文庫 昭和39年:高齢者の死生観はどう確立されたのか
 私の身近に捨老の習慣に関する書籍は3冊ある。私は今回、食料もなく貧しかった時代、高齢者の死生観はどう確立されたのか知りたくで以下を読み直した。
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 ??食料が少なく生きることが困難であった時代、各地に捨老の習慣があった。それを紹介したのが柳田國男の遠野物語である。老人の共同生活の場所である「デンデラ野」に入った老人たちは身を寄せ合って生き続け、体力があるものは日中は里に下りて農作業を手伝い、わずかな報酬を得て日暮れとともにデンデラ野に帰る。そんな日々を送りながら自然死を待ったのだという。
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 ??捨老の習慣を題材にした新しい書籍として、平谷美樹著「でんでら国」が本年小学館から発行された。ここには老人達が最後を迎える理想郷として「でんでら国」が描かれているが、老人達は時に積極的に団結して生きるために活動する姿も描かれている小説である。
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 ??信州の捨老の習慣を題材にした深沢七郎(1914-87年)著「楢山節考」は名著の一つとしての知られている。
 本書は「山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりである。この信州の山々の間にある、向う村のはずれにおりんの家はあった」で始まる、老人を山に捨てる「うぱ捨て伝説」をもとにした小説だ。
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 おりんは69歳。この村では、70歳になると「楢山まいり」に行くことになっている。貧しい村なので、老人は口減らしのために楢山に捨てられる。おりんはもう覚悟はできているし、そのための準備も進めてきた。山に行く前にふるまう料理や濁酒も、山で座るためのむしろも用意した。息子の辰平の妻は栗拾いの時に崖から転落して死亡、その後妻をどうするのか心配だったが、隣村で辰平と同じ年の未亡人が出た、ということでそれもなんとかなりそうだ。この山村の中の結婚のしきたりも不思議である。

 辰平に後妻を迎え安心したが、もう一つ気がかりなのは、自分の歯が丈夫なこと。食料の乏しいこの村で、年寄りの歯が揃っているのは食い意地をはっていることになり、恥ずかしいことだ、とされている。おりんは火打ち石で自分の歯をガッガッとたたく。
 我慢してたたき続ければ、そのうちに歯が欠けると思ったからだがなかなか抜けない。おりんは祭りの夜、意を決して石臼の角に歯をぶっつけた。大量の出血とともに2本の前歯が落ちた。おりんは喜び勇んで村人たちに見せて回った。口から血を流し凄惨な形相で村人たちを驚かせた。
 もう一つのクライマックスは、おりんが捨てられる場面。息子の辰平は、張り裂けるような気持ちでおりんを背板に乗せ、楢山に向かう。山には白骨化した死体、腐乱死体も所々にある。死体をつついているカラスが動く度に屍体も動き辰平の歩みは時折とまった。

 やがて、おりんが背板から降りるときがくる。おりんは息子の手をにぎり、それから、その背中をどーんと押した。山では喋ってはならない。老いた親を捨てて帰るときには、ふり返ってはならない。辰平は降りる途中死体に足を取られて転倒、死体の顔に手をついた。その死体。そのの首には細い紐が巻き付けられてあった。「俺には、出来ない!!!・・・」

 空から白いものが降ってきた。辰平はそれを見て村の掟を破り一度捨てた母のところに戻り、こう言ったのだ。「おっかあ、雪が降ってきたよう」。しかし、おりんは言葉も発せず、帰れ帰れと手を振るだけであった。

 人間の残酷さと親子の情愛とが交錯する。そんな人間の姿を、見つめたこの作品の迫力は読み始めたらやめられない。

 日沼倫太郎氏の巻末の解説によると、作者の深沢は42歳のときに「楢山節考」で第1回中央公論新入賞を受賞した。この作品は三島由紀夫ら同時代の作家たちに大きなショックを与えたらしい。特に、作家で評論家の正宗白鳥は「人生永遠の書の一つとして心読した」と絶賛した、とい記述している。


3/9(月)朝快晴、夕から降雨  健康クリニックドック 飯川病院 
 1:30起床。新聞・文献チェック。家内の申告もう一息。7:30徒歩飯川病院着、9:00-11:00健康クリニックドック、5名と結果説明1名。11:30飯川病院。14:00-18:45勤務+α。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。Σ5842Km。DVD視聴:「福沢諭吉」、「団塊スタイル:孫は可愛いけれど」。

死生観2015(3) 60年の人生を通じて納得 遠野の老人達の死生観
 我が家ではお盆の時期に墓参りを兼ねて家族が集まり、小旅行をしている。2010年の夏は遠野市を訪問した。柳田國男の作品の中に紹介されている古の文化に接したいと思ったからである。
 遠野市は岩手の内陸部にあり、四方を山に囲まれている。柳田國男の遠野物語、河童や座敷童子が登場する「遠野民話」でよく知られている。

 遠野は他の地域の観光地と違い、観光客の目を引きつける様な派手な売り物はない。想像力をフルに働かせる素地があれば遠野の旅の意義は大きく異なってくる。カッパは売りの一つであるが、「カッパなんて居るわけ無いじゃないか」、などと考えては遠野探訪は成り立たない。時代考察を含めた想像力で補って味わうものだ。岩手の厳しい生活環境、悲惨な食糧事情、続く冷害などを念頭に入れながら味わうことに意味がある。

 遠野の東部の集落の近く、四方を沢に囲まれた丘陵はデンデラ野と呼ばれている。
 このデンデラ野はいわゆる遠野のうばすて山であった。遠野地方では60歳を超えた老人は、家を離れこの地へ向かい共同生活をしながら自然死を遂げるのがしきたりであった。食糧事情が悪く、生きるのが如何に厳しかったのかを物語っている。

 デンデラ野に入った老人たちは身を寄せ合って共同で生き続け、体力があるものは日中は里に下りて農作業を手伝い、わずかな報酬を得て日暮れとともにデンデラ野に帰る。そんな日々を送りながら自然死を待ったのだという。村の掟によって分け隔て無く行われたであろう棄老の習慣は、共に長く暮らしてきた家族にはプレッシャーであったであろう。しかし、甘いことは言っていられなかった。「働かざるものは食うべからず」、私は遠野の老人達は60年の人生を通じて死生観を確立していた、と納得した。見送る家族たちも同様であったろう。

 デンデラ野は町の中心部からそれほど離れておらず、里が見渡せるところにある。帰ろうと思えば帰れる距離にある。老いた親たちは自らの立場を理解し、自発的にデンデラ野に移り住み、その地から孫や子の幸せを祈ったものと思われる。
 若い家族が生き残るために姥老するのは日本に限らず各国各所で行なわれた風習である。それは生産活動に関わらない人間を不要と考えざるを得ない、生きていくだけで精一杯であった時代の、やむを得ない方策であり、老人たちはそれを受け入れてきた。

 姥老というと、信州の姨捨伝説を題材にした深沢七郎の楢山節考が有名である。今回それも読んでみた。


3/8(日)快晴 タイヤ交換2台分
0:30 起床、新聞・文献チェック、本読み。データ整理。午前は読書中心。確定申告作業続き。10:30-11:45徒歩飯川病院、プリウスで帰宅。14:00-15:30フィットとプリ、夏タイヤに交換。微睡はさみ蓄積データの整理、申告関連、本読みなど。19:00夕食、20:30就眠。時間的には豊かな週末であったが確定申告で時間取られた。Σ5832Km。潟上市出戸浜通過中。

認知症・ボケ 2015(4):ついにボケた? 12月中旬の経験
 私は自分の脳機能の先々に年齢以上の不安を感じている。
 脳萎縮を指摘され4年、脳梗塞罹患後2年余、今のところ健忘症範囲の記銘力低下はあるが、認知症・ボケを意識する問題を感じていなかった。
 ところが、昨年12月中旬に現実のものとなった。

 ??12月16日朝、ここ2週間ほど急性上気道炎・気管支炎様の症状が続き体調不良であったが、何時もの様に1:20起床、倦怠感強度、咳嗽あって辛かったが日常的にデータ整理等の作業を続けた。やや判断力が落ちているような気がした。

 ??夜間に降雪があり、除雪が必要であった。いつものごとく時間確認し、5:30から45分かけて除雪、6:47のバスに乗るために家を出た。と、思っていたが、結局、私はその日は1時間間違えて行動を始めていた。
 いつも除雪を始める5時半ですら除雪機の音がご近所に迷惑だろうと考えているが、出勤の時間を考えるとこれ以上遅くはできない。
 それが、この日は何度か時計を見ながら間違いに気付かず、4時半から除雪を開始したことになる。確かに、いつもなら台所付近に電気がついている近所のお宅も真っ暗であった。多分、早すぎる除雪機の音に驚かれた、と思う。

 ??私が冬季積雪期に利用するバスは6:47に近所を通過するが、1時間早く5:40-6:10までバス停でじっと待っていた。寒い朝であった。体調不良もあって骨の髄まで冷えた。耐え難くて時間を再確認して、この時点で時間を間違えていたことに気づいた。近所のコンビニにタクシーを呼んで飯川病院に移動した。この骨身にしみた冷えの体験を機会に、私は上下ともアンダーウエアを購入し着用し始めた。

 ??この日は中通総合病院外来の担当日であった。いつもの診察室で、いつものコンピューターに向かったが、全体的にいつもと違うような奇妙な違和感があった。前日まで難なく処理できた電子カルテの入力に難渋、頻回にミスタッチ、間違いを生じ、それを修正するのに何度も時間を要した。この間、冷や汗をかきながらあたふたしたが、立ち番の看護師にもこの異常を悟られたくなくて診察室から締め出して一人で操作した。結果的に大きな間違いはなかったが、13:30過ぎまでかかり、その後も薬局からの問い合わせが何度かあった。

 当日は若干頭がぼーっとし、微熱はあったが身体的にはそれほど不快ではなかった。外来主任は外来業務継続が無理でないか??と思ったという。
 
 ??14:00から飯川病院の勤務であったが、ほとんど仕事にならず医局で休息。19:00家内の車を運転して帰宅したが、ルートを間違い助手席の家内に確認しながら帰宅した。夕食は摂らず、そのまま就寝した。

 時間感覚、業務、運転を含め1日迷いの中で過ごした。
 
 さいわい翌日からは徐々に快方に向かい、翌日には問題なく元に戻った。
 上記の現象の原因は不明である。専門医にも相談していない。ボケると言うことはこんな状態をいうのか?・・・と自分で納得している。


3/7(土)快晴 確定申告に集中
1:00起床、文献新聞チェック。コンピューター関連の勉強、本読みなど。午前中家内分の確定申告に集中。資料不足。午後はガレージ等の整頓と物品廃棄準備。天徳寺付近散策。19:00夕食、20:30就寝。Σ5825Km、久々土日フリーの貴重な週末の前半。DVD視聴:「漫画家 浦沢直樹の慢勉」、「池上経済教室:日経平均株価」。

目の輝きとは何か(5) 目の表情から患者の心理・体調を読む
 「目は口ほどにものをいう」と言われる。
 私は診療を通じて、言葉で表現し得ない感情や体調の変化を目の表情から読み取る。患者も往々にウソをいう。その時の目は言葉と乖離している、「目は口以上に饒舌である」が実感である。

 相手の目を見て話すコミュニケーション技術は「アイコンタクト」と言われる。これは対話の中などでは情報収集にとても重要な技術の一つである。

 日本人の場合、相手の「目を見て話す」のは下手である。一方、欧米の方々の大部分は相手の目をよく見ながら話しかけるスタイルが目立つ。一種の勝負である。これで迫力、説得力にかなりの差が出る。

 診療の時の対話の要素は「限られた時間の中で、相手の言いたい事を引き出し、次いで当方の言いたいことを理解させ、納得させる」こと。「アイコンタクト」が良いと患者側も「自分が何を求められているのか?」という気構えで聴く。

 長い間目をじっと見つめ合うのは通常は激しく愛し合っているか、憎んでいる時にほぼ限られる。ところが、通常の医師と患者という関係はこんなでないから、患者側が目をそらすことが多い。このタイミングも重要である。

 日常、医師は患者やその家族の目をしっかり見据えて話す、これは臨床技術の一つであるが、その時のポイントは医師側の笑顔である。「和顔愛語」は仏教界の言葉であるが、おだやかな笑顔と思いやりのある話し方で 人に接することを示すが、「アイコンタクト」は相手を理解するのに重要である。
 外来などでパソコン画面を介した対話は、患者側の評判は良くない。医師の表情を読めないから、患者が自分を理解してくれたのか分からないから、不安が募るからである。

 人の目の表情から多様な憶測を呼び起こされる。初対面であっても、患者がここに来るまでのストーリーを読みとれる。

 目の表情は心の状態をあらわす。
 これをよく教えてくれるのは漫画である。私は好んで漫画を読む。いま「かわぐちかいじ氏」の「ジパング」を読んでいるが、彼の作品の目の表情は特筆ものである。一方、ほとんど目をつぶった状況で主人公の心理状況を表している「山下和美氏」の「天才柳沢教授の生活」は目以外の顔のパーツ、ボディランゲージの重要さも示しており、別の意味で興味深い。


3/6(金)快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:00 起床、新聞、徒然。可燃ゴミ失念、出さず。7:40Taxi駅東口、8:10こまち、徒歩病院、9:05-12:00大曲中通病院外来、最近あまり混まない。13:24飯川病院ボランティア、外来レセプト点検終了、歩数計5817Km。19:00帰宅、夕食、20:00就寝。

認知症・ボケ 2015(3):私の脳は萎縮している!!! ボケやすい??
 嘱託として働いている法人は年に2回、職員健診がある。2010年に眼底に何らかの所見があったらしく、眼科で精査を受けたがその時点では特別の結論は得られなかった。2011年2月の検診結果のコメント欄には眼科的精査を受けるようにとの指示であった。別に症状もないしと逃げていたのであるが、眼科科長がわざわざ部屋に訪ねてきて精密検査を勧められた。もう逃げられない。

 視野検査は時間がかかるし、退屈な検査である。日を変えて3回も検査した。眠くて耐え難く再現性のある結果が得られなかった。5月下旬診察を受けたが、左目に視野欠損があり正常眼圧緑内障(NTG)が疑われる。また、視野欠損の局在から脳の病気も否定できないので、近日中にMRIを受けて下さいの指示を受けた。

 最近知見によると、40歳以上の日本人は28人に1人がNTGに罹患しており、そのうち8-9割が医療を受けていない、とされている。私も何も症状もないし、そのうちの一人になっていただろうと思う。それ以降、点眼薬で治療し、時に経過観察を受けている。

 問題は脳のMRIである。
 私は中枢性疾患の存在を示唆するような症状を感じたことはなかったが、一体自分の脳はどうなっているのか?と興味を覚えていたし、一度受けてみるのも悪くはない、と軽く考え、6月下旬に脳のMRI受けた。

 結果は、頭蓋内の後方に嚢胞状の構造があるほかに、何箇所か無症候性脳梗塞が指摘された。専門医のコメントは年齢相応の所見とのコメントであったが、自分で画像を取り寄せてガックリ来た。「脳が小さい!!! 」。

 一見して脳室が拡大、脳のシワ間の溝も拡大傾向で脳萎縮の所見である。読影専門医は脳萎縮のことを記載していないが、どうしてだろうか?私にはとても年齢相応には見えない。

 老化関連の変化は別として、嚢胞状の構造ならば脳外科医の評価ももらわねばならない。早速、脳外科科長に評価をお願いした。結果は「この嚢胞状所見は、脳の萎縮の過程でたまたまそのように見えたものと判断します・・・。」とカルテに記載があった。しかも、気遣ったのであろう、「カルテに直接所見を書きましたがよろしかったでしょうか?」とあった。何か妙な配慮を感じてしまった。

 患者に対しては「歳ですね、元には戻りませんよ・・・」と言うレベルであるが、こと自身のことだとそう気楽なものではない。これから先、脳機能が比較的早く落ちていく危険性を意識している。

 その後、私の不注意で心性脳梗塞に罹患、一過性であったが意識消失、右片麻痺、言語障害を生じたが、幸いに後遺症を残すことなく改善した。

 そんなこともあって、私は自分の脳機能の先々に年齢以上の危険性を感じている。
 脳萎縮を指摘されて4年、脳梗塞罹患後2年余、今のところ健忘症の範囲の記銘力低下の進行はあるが、認知症・ボケを意識する問題を感じていなかった。
 ところが、それが昨年12月中旬に現実のものとなった。


3/5(木)風雨強し 外来 飯川病院
 1:20起床。新聞他、文献読み、PDF化。5:30資源ゴミ大量に集積所に運ぶ。風雨強く6:47バスにて飯川病院着。8:45-13:45中通病院外来。14:00-18:55飯川病院、外来レセプト点検半分ほど。19:15帰宅、夕食、20:30就眠。Σ5809Km。男鹿半島入道崎を周り船川港付近を南下中。

地方創生2015(2) 地場産業育成が最も持続可能な活性化をもたらし得る
 国の14年度補正予算に、地方創生への先行交付金1700億円が盛り込まれた。
 それを見越して秋田県は14年度の一般会計補正予算として総額116傭6000万円を2月議会に提出した。地方創生関連事業にこのうちの約18偉円を計上している。いずれも国の交付金を主な財源としている。

 秋田県は地方創生関連事業は15年度当初予算案に874億円を計上しており、今回の補正予算案分を合わせると計892億円となる。巨大な予算が組まれているが、県で地方創生関連事業を具体的にどうするか、私は注目してニュースを探しているが、メディアを通じては分かり難い。本来の行き方は、予算=事業計画、であって、先に計画があってそれに予算が計上されるものである。この地方創生に関しては逆で多分、予算は出来上がったが、具体的施策はまだなのではなかろうか。
 これではアイデア欠如のカネのバラマキでないか? 

 自治体側からの視点では、2015年には巨大な予算が組まれることになったが、2016年以降の地方創生関連の交付金がどうなるかが全く予断を許さないらしい。もし、次年度に大幅に減額されるとするならば、あまり予算を食う施策を打ち立てるわけにはいかない、という。
 だから、無難な、都市圏から地方に戻り就職するのを支援するUターン助成など、国が例示した事業を進めるのが無難という内向きの考え方もある、という。

 政府はアベノミクスの第三の矢の一つとし、「地方創生=日本創生」と強調し、地方創生関連2法案を可決した。子育てしやすい環境整備や地方における雇用創出などを基本理念に掲げながら、具体案は15年度中に県・市町村が総合戦略を作成するよう促す内容である。これじゃ地方への丸投げでないか??
 だから、今になっても具体策が見えてこないのだ、と思う。

 多分、自治体では今までにない方法で地域の活性化を考えていると思われるが、田舎にパイプオルガン付きの壮大な劇場を作るような真似は相応しくない。私は各地域の特徴を生かした地場産業を見直すことしかない、と思う。

 秋田で言えば、地域の経済の基盤となっている農林漁業の見直しである。秋田は豊富な農林水産資源を有している。食料自給率170%、秋田杉を中心とした木材の供給の可能性、自然環境の保全など、まだまだ手をつけられる分野があると思う。都会の様な経済力や華々しさは期待できないだろうが、物価は安い。人間生活にとってかけがえのない生活空間になりうると思う。

 こうした秋田の実情と特性を蹟まえると、農林漁業の再生こそか、地方創生の一つの鍵を握っていると言える。これを現実のものにするためには、例えば、農業では新しい作物の開発・導入、付加価値をつけた6次産業化など幅広い観点から取り組むべき課題である。
 
 秋田という地の利、長く県民を支えてきた農林漁業の再編こそが、地方創生の一翼を担うことができると私は思う。


3/4(水)雨のち快晴 寒気緩む  外来 飯川病院ボランティア
1:00 起床。文献・新聞チェック。6:45車で飯川病院着。8:45-13:15外来、混雑、疲弊。13:30飯川病院ボランティア、18:45帰宅、19:00夕食、20:30就眠。Σ5804Km。DVD視聴:「高橋是清決死の攻防」、「バクモン:国技館の舞台裏」、「判事マツケン:デカルト・ルソー・ニーチェの罪状・功罪」。

地方創生2015(1) 予算措置はだいたい決まったが、・・・
 2014年度補正予算には、地方創生先行の交付金1700億円が盛り込まれた。1400億円は人口や財政力に応じて自治体に配リ、残り300億円は事業内容を国が判断し上乗せ交付する。

 昨年の段階で、石破茂地方創生担当相は、「地方創生にはお金のばら撒きはしない」、「創生のアイデアに対して予算をつけたい」、「地方創生は日本創生だ」と強調し、「これに失敗すれば国か危ういという危機感がある」と訴えてきた。
 結局、予算のばら撒きで、「地方創生の主役はあくまで市町村、都道府県である」とその創生のアイデアなどは地方自治体に丸投げした。

 私は地方創生は極めて困難な政策だと思っており、実効性は殆ど無いと考えている。
 何となれば、人口減を主とする地方の衰退は、我が国の経済政策がもたらした結果であって、本来ならば日本がバブル期にあった時期から対策を開始しなければならなかった問題である。我が国の経済政策による経済格差、都市への人口、労働力の集中に伴う地方の衰退は時代の流れの結果であり、長い歴史がある。もう遅きに失した、と思う。もし本当に政策を成し遂げようとするなら革命的手腕を発揮しなければならないだろう。

 有識者の一部、心ある人たちは常に人口減による地方の衰退に警鐘を鳴らしてきたが、インパクトはそれほどなかった。景気がいい時にはそんなことを言っても誰も注目しない。ほとんど無視された。

 あれから20数年、都会にに住む住民にとっては感じられないであろうが、地方に住む私などは地域の衰退を実感できるようになった。秋田県の現状は眼に余るものがある。そこに昨年、地方創生会議のレポートが公表された。これは漫然と不安に思ってきたものにとっては衝撃的であった。これを通じて、多分誰しもがその問題点をはっきりと自覚したのではないだろうか。
 しかし、「今さら何ができるのか?」、「遅きに失した!!!」と私は諦め気持ちのほうが大きい。

 安倍首相は2月12日の施政方針演説で、「経済再生、復興、社会保障改革、教育再生、地方創生、女性活躍、そして外交・安全保障の立て直し」はいずれも「戦後の大改革」だと自信満々、声を張り上げた。最近の総理の答弁は強権を背景に紋切り型になってきたが、その問題点を追求する野党に迫力がない。

 中でも、地方創生の重要性を強調した。
 石破茂地方創生担当相の発言は変わることがないが、最近の大臣の姿勢はやや弱腰に見える。

 地方剤生をめぐリ言葉の応酬という意味では政治は踊っている。


3/3(火)晴れ ひな祭り 外来+飯川病院
 1:00 起床,文献読み、新聞チェック、徒然ほか。5;30可燃ゴミ集積所に。6:40-7:40徒歩飯川病院着、8:45-12:30中通外来。比較的余裕。13:00飯川病院、14:00-18:15飯川病院。。19:00帰宅、夕食。21:30就眠。Σ5797Km。DVD視聴:「単身高齢社会:ひとり死への備え」、「そこまで言って委員会:最高裁」、「科学捜査最前線」。

ひな祭り2015: 孫たちのすこやかな成長のために・・が、ちらし寿司中心に
 本日はひな祭りである。我が家でも昨日から2セットの雛が飾られている。
 本来、ひな飾りは一月も前から飾ることになっているようであるが、今年は昨日まで出していなかった。賄いの石井さんが2月一杯不在で、私どもの間ではひな祭りのことは話題にもならなかった。すっかり失念していた。石井さんはひなが飾られていないのでびっくりしたのであろう。私も昨日帰宅してひなが2セット鎮座しているのを見て驚くとともにすっかり失念していたことを恥じた。
 
 1973年に長女用に用意したセットはピアノの上に、2007年に家内が自分用に求めたセットは低い位置に置く。後者は十二単を上から鑑賞する様なデザインなのでローチェストの上にある。男女一対の内裏の雛がすまし顔で鎮座している。昨年から夜間照明も付けたので、その薄明かりの中で雛の白い顔立ちが浮き上がって,独特の雰囲気を醸しているがこれも良い。

 夕食はひな祭りの祝膳としてのちらし寿司が用意されていた。私のには11種類の具を用意した、という。こころから味わっていただいた。

(うす暗い私の食卓に並べられたちらし寿司、吸い物ほか。美味でした)
 どこの家でも女の子が生まれれば、健やかな成長と幸せを願って雛を飾るのだろう。今年、嬉しいことに孫が生まれ、孫4人となった。そのうち女児が3人である。おそらく女児2人となった次男宅でも本日雛を出して祝膳を囲んだことだろう。横浜の長女宅でも同様、だろうと考えている。

 私の周辺の状況を観察していると、女の子達も幼少期にはひな祭りを喜んでいるが、女の子達は小学校卒業する頃からはひな人形にはあまり興味を示さなくなるようだ。第一、嫁入り道具に自分のひな人形を持って行く話は聞いたこともない。娘たちは、改めて自分に女児が生まれたときに改めて興味を持つようだ。ならば、その時点で自分用の雛を取り寄せればいいじゃないか、と思う。

 日本人形協会によると、ここ数年は60代の女性や30、40代の独身女性が自分のために買う「マイ雛」が増えている、と言う。家内も60歳になってから自分のために買い求めた。女性たちはひな人形に何を求めるのだろうか?子供の時のノスタルジアか?と私は理解している。
 
 我が家の祖母や母はひな祭りの時期になると私のためにひな壇を飾ってくれた。私があまりにもひ弱で可愛かったため、私の幸を願って、私のために飾ってくれていた、とつい最近まで思ってきたが、最近の世相から見ると、祖母、母は、また賄いの石井さんも、自身のために雛を飾っていたのではないか、と思う。

 ひな人形はひな祭りが終われば速やかにしまわなければ娘の婚期が遅れるとも言われる。今年はまだ出したばかりだし嫁に行く娘もいないから旧暦でも祝うこととした。


3/2(月)雨曇り雪晴と不安定 健康クリニックドック+飯川病院 
1:30 起床、文献、徒然、その他。6:40雨の中車で飯川病院着。9:00-11:00健康クリニックドック。11:30飯川病院、秋田銀行スタッフ来訪。定期振り込み。14:00-18:40勤務、19:00帰宅、夕食。20:30就寝。Σ5788Km。DVD視聴:「1980-90年代歴史に残る言葉、3時間」。

認知症・ボケ 2015(2):自身の問題として考える
 認知症は、脳細胞の機能低下などで物忘れや判断力低下が起き、日常生活に支障が出る病気である。かつてはボケ、痴呆症などとも呼ばれていたが、最近は認知症はに統一されてきている。

 認知症という名称はまたたくまに普及した。それほど関心が高いからなのだろう。私は認知症という名称は相応しくないと思う。
 認知は人間として極めて重要な脳機能、脳活動であるが、この機能の機能障害が原因である。だから、認知障害がいい。ただ、障害という名が相応しくなければ統合失調症にならって認知機能失調症などがいい。さらに、正常と認知症の間には比較的広いグレーゾーンが存在する。早期診断が確立して行くと認知症が増加する。認知症と確定すればこれはもう病気である。軽症の場合、まだ生活機能が維持されている間はボケ症とでも呼んでいる方が、その人なりの生活感があって、より人間的である。笑って済ませられることもある。私は今でもボケを用いている。

 厚生労働省は、団塊の世代が75歳以上になる2025年には、認知症患者が約700万人に達するとの推計を明らかにした。65歳以上の高齢者の5人に1人、25%に当たる。これは大変な人数である。進行した認知症のケアには大変な人出がかかる。ケアを担当する人数まで加算すれば国民の半数が関与することにもなるだろう。

 これは国の運営にとっては大変な状態、はっきり言えば活力低下をきたす。国力の維持も困難になるかもしれない。地方創生プランなど夢また夢だと私は思っているが、これが思った効果が上がらないと、地方は少子高齢化が一層進み「痴呆創生」になってしまう。

 「認知症大国日本」、これをどう対策するか。政府は認知症対策を重視し、新たな国家戦略をまとめた。
 厚労省は2013年度から認知症施策推進5ヵ年計画、オレンージプランを施行してきた。これの改訂版として新オレンジプランと呼ばれる。早期診断に必要な医師の研修を17年度まで6万人に受講してもらうなど、現行計画の数値目標を引き上げる。また医師や保健師らが訪問して本人や家族をサポートする「初期集中支援チーム」の設置は14年度に41市町村にとどまっているが、18年度から全市町村に置く。

 こうした目標と合わせ、戦略案は7本の柱を掲げた。65歳未満で発症する「若年性認知症施策の強化」では17年度末までに全都道府県の窓口に相談の担当者を配置。「適切な医療・介護の提供」では、急性期病院での看護職員への研修を新設する。「介護者への支援」、「本人や家族の視点の重視」などにも取り組む。

 認知症は早期発見し、早期治療を受けることが大事であるが、加齢に伴って脳の機能低下で生じる健忘症と見分けが付きにくい。
 専門家を受診して精度の高い判断を受けるのがいいが、「認知症の人と家族の会」がまとめた「早期発見の目安」は実態に即しており、参考になる。

 認知症は記憶障害は中心であるが、性格にも変化が及んでくる。
 具体的には、「電話を今切ったぱかりなのに相手の名前を忘れる」、「同じ事を何度も言う」、「しまい忘れ、置き忘れが増える」、「料理や片付けなどのミスが多くなった」、「慣れた道でも迷う」、「約束の日時や場所を間違えるようになった」、「意欲が低下し、好きなこともしなくなる」、「身だしなみを構わなくなった」、「趣味や好きなTVなどに興味を示さなくなった」、「怒りっぱくなった」、「周りへの気遣いがなくなり頑固になった」、「自分の失敗を人のせいにする」、「一人になると怖がる」、「・・・」などである。

 私は、「早期発見の目安」に照らして見ても、今の所は大丈夫である。


3/1(日)夜半より雨模様 寒波  
1:00飯川病院医局のソファで起床、文献関連、新聞チェック。録音データ、雑誌や本の整理など進める。9:30フィットにて帰宅。誰も居ない家は底冷え、なかなか暖まらない。データ整理に集中。16:30賄いの石井さん含め家族盛岡から帰宅。長女と孫は横浜に。新聞PDF化、19:00夕食、20:30就眠。Σ5784Km。

認知症・ボケ 2015(1):運転免許関連 自身の問題として考える
 私は間も無く70歳にならんとしている。今年は運転免許証の更新である。2ケ月ほど前に高齢者講習のハガキが届いた。年齢が70歳以上では、この講習を受講しなければ免許の更新が出来ないという。このハガキが届いて制度の変更を初めて知り、自分もついにこんな判定を受けなければならなくなった歳まで生きたか、と感無量である。

 この講習は、「身体機能の低下が運転に影響を及ぼす可能性があるか否かを本人に理解してもらうため」という。費用は5,800円、指定の自動車教習所等で受ける。講習の内容は講義、運転適性診断、夜間視力、動体視力検査等で終了すると「高齢者講習終了証明書」が交付されるのだという。4月10日に予約した。

 私はまだ若いのだ、という意識は持たないようにしている。逆に積極的に高齢であることを認識して行動している。さいわい、私はまだ認知症のレベルにはない。

 しかし、現実に最近運転が下手になった、判断力が落ちていると自覚しているし、同乗する家族たちからも指摘される。実際に事故は経験ないが、自身で拙さを自覚するたびに、指摘されるたびに「もっと謙虚であらねばならぬ」と気を引き締めている。
 
 ところで、私はまだ医師として働いているが、こっちの方面は適性検査等受けなくていいのだろうか? 医師も高齢化している。その大部分の方は現役で働いているようだが、大丈夫なのだろうか。尤も、他の高齢医師の仕事ぶりに接する機会は皆無だから、他の医師のことはわからないが。
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 運転免許に関してはまだ以下のことがあるようだ。

 75歳以上のドライバーの免許更新の場合はさらに講習予備検査が必要とのこと。この検査によって認知機能レベルが判定され、「著しく低下していると判断」され、更新期間満了日前1年以内に一定の違反歴がある場合は、医師による専門的な臨時適性検査を受け、それで認知症と診断された場合は原則として免許取り消しとなる。13年は全国で118人が運転できなくなった。

 認知症患者の運転による事故を防ごうと、警察庁は高齢ドライバーの記憶力などを調べる機会を増やす改正進路交通法の試案をまとめている。改正の柱は認知機能検査の受検機会を増やすこと、だという。
 死亡事故が減るなか、75歳以上による死亡事故の割合は増えている。「認知機能の低下があると、運転中に周囲を良く確認せず、標識の見落としや一時不停止をすることが多い。高齢運転者による事故に認知機能が相当の影響を及ぼしているのと考えられる」と警察庁の担当者は言う。
 だが、これに日本精神神経学会が「患者差別につながる」、「認知症と危険な運転との因果関係は明らかではない」、「加齢によって視力や聴力も落ち、運転は危なくなる。認知症だけを排除しも意味がない」、とする意見書を警察庁に出した。

 私も、そう思っている。多方向からの運転能力再評価が必要である。



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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
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