徒然日記
2015年2月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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2/28(土)降雨のち快晴 飯川病院午前外来+日直+当直 患者家族面談
 1:00起床。新聞、文献、徒然などゆったり進める。8:30フィットにて飯川病院に、午前外来 午後日直+当直業務に就く。読書、宗教曲など。18:00検食、20:30就眠。Σ5778Km。長女と孫、家族は鶯宿「森の風」へ。DVD視聴:「ヒストリア:鈴木貫太郎」、「NHKsp:腸内細菌」、「歴史列伝:渋沢栄一」、「時間よ止まれ:アンチエイジング」、「サリドマイド事件50年」。

宗教とは何か2015(3) 私は仏教徒なのか、について
 宗教とは何か、オウム事件とは何だったのか、宗教を信じるということはどういうことなのか、私は仏教徒なのか、オカルトとは?・・・、という問いは私の中でずっとくすぶっている。

 私は幼少の頃からどちらかというと宗教的考え方、東洋的無常感に親しみを持っていた。日常生活における仏事は疑問を持たずに仏式で行ってきた。しかし、経典などは散発的に接したことはあったが、体系的に紐解いたこともない。こんな私を仏教徒と言っていいのだろうか。

 私の周辺の方々を見ていると、宗教に関しては二極化しているようだ。
 宗教家と言われる方々の大部分はおそらくは信仰を持っておられるであろう。
 それ以外の方の中では、神仏の救いを信じて普段からそれなりの行動をしている、信仰を持っていると評すべき人は稀で、大部分の人は宗教的行事を社会習慣として利用する、私と同じレベルにあるような気がする。尤も、日本では日常生活の中で宗教的立場が話題になることはその必要もないから、とても少ない。だから、私の知人たちがどんな宗教的背景を持っているかを知る由も無い。

 私が今まで会った中で、クリスチャンネームをお持ちの方は10数名はおられたが、私の目にはとても信仰を持っているようには見えなかった。

 私が「信仰を持っていた方」としてとらえているのは、僅か10名程度である。
 新潟大学の同級生の一人は敬虔なクリスチャンで、彼の日常での物事の判断、発言、医師として生きた道は、キリスト教的世界観に基づいていた、というべきか、私とは全く異なっていた。
 浪人時代に仙台で下宿していた一家4人は創価学会の信者であった。
 長く患者としてみていた中年女性の一人は真如苑の信者であった。
 輸血関連の判断等で診療に参加せざるを得なかった数名の患者はエホバの証人であった。

 これらの方々は私と価値観が違うためか、信仰上のこだわりなのか、何となくコミュニケーションが取りにくかった。いや、それ以上に、私の理解の及ばない別世界からきた人のようにさえ思えた。考え方、ものごとへの感じ方は凝り固まっており、共感は持ち得なかった。

 私をこの分類に当てはめれば、私は「信者」ではなく、仏教・神道の「利用者」のレベルである。それでもこの社会の中でなんとなく相手を信頼し、理解できるのは、具体的信仰をもたなくても、日本人の多くは「諸行無常的」な感覚をもっているし、「もののあはれ」を理解する心をもっているからなのだろう。生活習慣上、多くの方々は仏教と神道をセットとして臨機応変に利用している。これに儒教や道教の要素もまじった曖昧な「宗教観」が日本人の心理のベースにあるから、日本人は「無宗教」と言えない、ような気がする。「宗教観」は生まれ落ちた社会の生活習慣で徐々に形成されていくものみたいだ。

 この宗教に対するファジーな感覚は海外では通用しないらしい。かつて私も旅行した際に、時に宗教について問われる場合があるが、その際に「無宗教・・」あるいはそれに近いあやふやな返事はしないようにと指導を受けた。外国では「無宗教」であることは「非人間的」であることを自から表明するようなもので、その後の対応に雲泥の差が生じる、とのことであった。だから、私は海外旅行中は自称敬虔な「仏教徒」になっていた。

 私は、本日の段階では仏教徒とは言えず、「神仏利用者+α」のレベルにいるとしておこう。


2/27(金)急に嵐来襲 新幹線遅れる 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:10起床。文献・データ整理、読書。7:30Taxi、飯川病院経由駅に、8:10こまち、強風で10分遅れ、8:55-12:00大曲中通病院外来。帰路のこまちは強風で和田駅にて1時間停車、14:30-18:30飯川ボランティア、19:00帰宅、19:15夕食、20:15就寝。DVD視聴:「日本の成長遺伝子30人」、「オイコノミア:お金の正体」。

金子みすゞ名詩集 彩図社文芸部編集 2014年 571円+税
 週一回利用する大曲駅の売店でたまたま手に取った本。文庫本でページごとの字数も少なく、帰路の新幹線で読むのにちょうどいい、と思い購入した。かつて私の本棚にハードカバーの金子みすゞ詩集はあったはずだと思って探していたが、見つからなかったことも購入のきっかけになっている。


 この本は、序に「明治36年、山口県に生まれた童謡詩人金子みすゞ。彼女の残した作品には、小さな動植物に対する深い愛情や悲しみ、そして子供の持つ独特の感性がみずみずしい言葉で綴られています。心に響く金子みすゞの詩を味わってください」。

 作者紹介欄には「金子みすゞ(1903-1930) 山口県生まれ。早くから詩の才能を開花させ、西条八十から『若き童謡詩人の中の巨星』と賞賛されるも、自ら死を選び26歳でこの世を去る。没後しばらく作品が散逸していたが、1980年代に入り全集が出版され、再び注目を集めた」、とあるだけ。解説や編集後記はなく、挿絵もない、全く、シンプルな装丁である。その分、想像が広がっていく。

 詩人金子みすゞに関してはかなり前から知っていたが、身近に感じたのは10数年前に「金子みすゞ記念館館長」の矢崎節夫氏のインタビューをラジヲ深夜便で聞いた時からである。その頃に、詩集を購入して読んだ、と記憶するが、当時は私もたただただ忙しく生活していた時期で、金子みすゞの詩に溢れている、見えないものまでをも見ようとするまなざしに感心したが、深く味わうまでには至らなかった。

 ひさびさ、金子みすゞの詩に触れたが、この小冊子に掲載されている100篇ほどのどの詩にも心落ち着くものを感じた。

 表立っては見えないものにも価値がある、無駄ないのちなどはない。そのような視点に立つ感受性は共感できる。悲しい詩、楽しい詩、どれも共感する。人や動物だけではなく、月、星、風、花等の自然界の全てが、彼女の言葉によって新しいいのちを与えられ、生き生きと共在していることを再確認できた。

 まだ私は512篇もある彼女の作品の一部にしか触れていないが、読むたぴに、自分自身を新発見できる。みすゞの詩に自分の心を映し出し、彼女の言葉を通じて自身を知ることができる。70歳にならんとするジジイが20歳の若い女性に共感出来る。これは快感でもある。私にもまだ若かった時代の感受性が残っていることかな、とも思う。

 西条八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されながら、512篇の詩と愛娘を残し、26歳の若さで自らいのちを絶ったのはなぜか。私にはわかるわけもないが、作品を読む範囲からはその苦悩の心を読み取ることはできない。


2/26(木)雲ひとつない快晴 早朝は冷えた  外来 飯川病院
 1:00起床。文献チェック他。本読み、徒然など。7:40徒歩飯川病院着。8:40-12:15中通病院外来。13:00飯川病院、14:00-18:00勤務。文献新聞、DVD視聴:「立花隆:我が原点の広島・長崎」、「池上彰:ドル紙幣の秘密」、「ロマノフの秘宝」、「ディスカバリーCh:第六感」。歩数計Σ5747Km。20:00帰秋の長女迎え駅に、外食、9:30帰宅就寝。Σ5767Km、男鹿入道崎通過。

アウシュビッツ解放70年(8) ホロコーストへの疑問
 ヒトラーと取り巻きの狂信者達によるユダヤ人撲滅作戦は人類最大の犯罪の一つである。これは戦争とは直接関係ない思想によっているが、戦時下でなければ成し得ない、人類の最大の犯罪であった。
 犠牲者はユダヤ人と限らないが、その数は一般的に400万人とも600万人とも言われている。ニュルンベルク裁判は400万人と認定したが、1995年には「150万人」に改められている。また、これ以外の数値を挙げる研究家や学者もいて一定しない。

 アウシュヴィッツ強制収容所についてはそれなりに知っていたつもりであったが、2000年にポーランドを訪れ収容所を見学した。見るもの全てが信じ難い光景であった。

 何故、こんな非道な犯罪が集団的に、年余にわたって一気に行われたのか? 
 戦争という狂気の中、極限状態であったという特殊な状態にあったにせよ、戦争で発現する集団的狂気や異常心理で理解しようとしても疑問は残る。人間はどこまで非情になれるのか? 
 
 その疑問をユダヤ人の側からの視点で整理すると、現段階では以下の如くである。
何故ユダヤ人はかくも無差別に、組織的に虐殺されなければならなかったのか
何故ナチスはユダヤ人を敵視し、徹底的に撲滅を図ったのか
何故ユダヤ人は組織的に立ち上がることなくアウシュヴィッツへの道を歩まなければならなかったか
どうして世界は、特に、ナチス支配下の国々が傍観していたのか

 前二者を含め、これらの項目について私はさらに勉強しなければならないが、後二者については、特に、アメリカに亡命できた財力も知識もある亡命者の方々は祖国で展開されているユダヤ人に対する非人道的な扱いなどについて世界に情報を発信できなかったのか?と思う。私が親しんでいる音楽家も多数亡命しているが、そのような動きをしたという話に触れたことはない。時代柄無理だったのだろうか。

 連合国側の指導者達はドイツで展開されている悲劇に全然気づいていなかったのか? 日独伊同盟を結んだ日本は特派員も派遣していたと考えられるが、国としてどの程度情報を得ていたのか?
 ユダヤ人への迫害の歴史はを遡るとすれば、キリスト教がユダヤ教から分離する時代に到達する。そんな長い歴史がありながら、受けてきた差別や迫害についてユダヤ人が一斉蜂起した、という話は聞かない。ユダヤ人が厳しい環境の中で、宗教的にはまとまり、財をなし、学問的にも、文化的にも成熟したが、私の目には一方的に放浪し続けてきた弱々しい民族のような思えてならない。
 ユダヤ人は居住地の文化とか人間関係に溶け込まずに遊離していたことがその土地の政治家の悩みの種になっていたとされている。そんな文献を探すのには事欠かないが、このことがもつ意義は小さくないだろう。


2/25(水)快晴、緩む 外来 職員検診 飯川病院ボランティア
 1:00起床。文献チェック他。本読み、徒然。7:40徒歩飯川病院着。8:40-12:15中通病院外来。12:30-18:30飯川病院ボランティア、14:30職員検診。19:00帰宅・夕食、20:30就寝。DVD視聴:「未来遺産:生命38億年・脳科学ミステリー」貴重な映像が多数見られた。Σ5747Km。

インフルエンザ流行2015(4) 秋田県の施設内感染状況
 県内の老人福祉施設や医療機関で、A香港型インフルエンザの集団感染が相次いでいる。10人以上の感染が確認された施設、医療機関は17日の段階で77施設にも達している昨シーズンの合計が50施設だからこれを既に大きく上回っている。

 県内の医療機関、老人福祉施設では1月以降、集団感染により散発的に死者が出ている。
 新聞報道によると、老人福祉施設では井川町で10人以上が感染し1人が死亡。大館市と秋田市では計50人余りが感染して3人が亡くなった。医療機関でも鹿角市と大館市で計70人以上が感染し、6人が死亡した。これらの死亡者は、新聞で年齢が明記されている方は88歳、96歳、97歳で、他の方々も80-90代と記載されており例外なく高齢者である。

 以下に私の感想を述べる。

老人保健施設、老人病院等で集団感染が多いのは虚弱老人を集めているためで、感染拡大のコントロールは困難である。
 狂牛病の蔓延、養鶏場での鳥インフルエンザの蔓延などは類似の個体を一箇所に詰め込んでいるためである。稲作における病虫害の蔓延も同様である。

老人保健施設、老人病院等にウイルスを持ち込ませないのは不可能。
 家族の見舞いの禁止も事実上実行困難。面談室面会でも危険。施設のスタッフも通勤してくる以上、感染防御は困難。特に幼児、学童がいる家庭では感染の機会は高い。スタッフがウイルスを持ち込む可能性は高い、と考えられる。

熱なし、軽い鼻水程度の症状の職員に対して「まさか出るはずはない・・・」と思いつつも大事をとって行った簡易検査で陽性者が出ることも稀でない。しかも、ワクチン接種済みのスタッフであった。検査をしなければ分からなかったし、感染後時間が経っていない場合は検査しても陰性で、後日陽性になることもある。インフルエンザの早期診断はこのように困難である。したがって、スタッフからの感染も防ぎ難い。

ワクチン接種は入所者、スタッフともに行うべきであるが、種々の理由で出来ないこともある。スタッフといえども強制はできない。
 
ワクチン接種は重症化を防ぐとされるが感染予防効果は乏しい。入所者が50名ほどの某老人保健施設では入所者全員と20-30代中心のスタッフ全員にワクチンを施行したが、共に4割近くが発症している。

インフルエンザワクチン接種は重症化を防ぐとされるが、それも限界がある。死亡された88歳、96歳、97歳、80-90代の方々には効果が乏しかったと思われる。

推奨されているマスク、うがいには予防効果はほとんどない。スタッフ、訪問者とも手洗い、着衣交換が必要。

抗インフルエンザ薬の治療効果、予防投薬の効果も虚弱高齢者には効果が乏しい。しかも、抗インフルエンザ薬予防投薬は保険診療対象外であり、病院、施設の費用で行われるが理不尽である。少なくとも感染が蔓延しつつある施設等では公費で行われるべきである。ちなみに、タミフルを1日1カプセル10日間内服費用は一人6,570円である。50人も予防投薬したら、持ち出しは大変な額になる。

病院、施設等では感染まん延を防ぐために隔離などのための余剰のスペースが必要である。

中規模、小規模の病院では感染者の入院を断っているとされるが、地域の中核病院ではその様な患者の選択はできない。重症化しつつある場合、感染者であっても入院させねばならない。

病院、施設等では感染まん延を防ぐためにの指針もある。いかに対策しても高齢者の死亡は防ぎ得ない。管理者から情報を公開する必要があるが、対応上、大きな過誤や判断ミスがなければ、メディアの前で陳謝する必要はない。

圏内では下火になりつつあるが、インフルエンザの流行期はまだまだ続く。病院、老人保健施設ではまだまだ気が抜けない状況が続く。


2/24(火)曇り・快晴 外来 飯川病院  
1:00起床。新聞・文献など読みつつゆっくり過ごす。6:45-7:45徒歩にて飯川病院、この時間になるとやっと夜が明けたという感じ。8:45-13:00中通外来、正月の煽りで混雑ぜず楽であった。14:00-18:30飯川病院。外食、本日見たDVDに刺激されて回転寿しへ。20:00帰宅、就寝。Σ5747Km。DVD視聴:「回転寿し:驚きの新業態」、「そこまで言って委員会」。

目の輝きとは何か(4) 目元の小道具(2) メガネ
 人は情報を80%ほどを目を通じて得るという。人間の祖先は弱い視力は大変な問題だったと思われる。その間、財力や金力を持つ人は若者を雇ってしのいでいた。 実際にメガネの発達段階を見ると実用的メガネが発明されたのはそれほど古いことではない。

 メガネの歴史を調べてみた。
 キリストと同時代を生きた古代ローマの修辞学の権威セネカは、用いた素材はわからないが、球体に水を入れて字を拡大しローマ中の書籍を読み漁ったとされる。しかし、メガネの発見には結びつかなかった。 
 13世紀の英国の哲学者ベーコンは水晶かガラス越しに見れば字を見るのに有効だと言い続けたが、これもメガネの発達には結びつかなかった。13世紀の終わりになって読書用の拡大レンズが発明され、14世紀には原始的なメガネが利用されるようになった。15世紀に近視用のメガネが発明された。18世紀にはベンジャミン・フランクリンが遠近両用メガネを発明した。コンタクトレンズは1887年にスイスで発明された。

 メガネの実用化は目だけでなく顔の外観を変え、ある種の主張を持つようになった。太い黒ぶちのメガネは利用する人を荒々しく放漫に見せた。太い丸ぶちのメガネは目を見開いた凝視の表情を作った。濃いサングラスは目が表す多くの情報、繊細な心理的な変化の反映など、を除去してしまう。

 このようにメガネは顔や目の表情を大きく変える作用がある。芸能人など、冗談で奇抜なメガネを着用することもあるが、最近の傾向は細ブチの、あるいはフチなしメガネが好んで用いられている。その方が目の表情を隠すことなく、より自然に伝えるからである。また、レンズの改良も進み、かつてのような厚手のレンズは姿を消した。今はメガネは目元を、顔を演出する重要なアイテムとなっている。

 日本人は一般的に近視率が高いとされている。
 ある統計では40歳以上の日本人の41.8%が近視だという。これを世界の同年齢者で見ると、アメリカの黒人は21.0%、白人は24.8%、オーストラリアは14.4%、インド28.2%、中国21.8%という。この統計によると、やはり日本人の近視率はすごく高いことになる。
 さらに、日本人の子供達の近視率は増え続けている。文科省の学校保健統計によると、ここ5年間で小学生が25.6%から29.9%へ、中学生では47.7%から52.6%へとまだ増加しているという。

 だから、メガネは目元や顔を演出する重要なアイテムとして、特にわが国ではその意義は小さくない。
 最近では、メガネ着用者が減少しているように思われる。


2/23(月)曇り・晴れ 健康クリニックドック 飯川病院 徒歩通勤開始
 1:30起床。文書整理、徒然他。6:45徒歩通勤、7:45飯川病院、9:00-11:30健康クリニックドック。12:00飯川病院、14:00-18:30勤務、19:00帰宅、夕食、20:30就眠。Σ5737Km。歩行者道路等雪消失、今年度の徒歩通勤開始日、昨年は3月21日であったから一月早いスタート。DVD視聴:「医療今昔物語Part2」、「明治憲法への道:伊藤博文」。

四季2015(1)私にとっての春がもう訪れた 早い!!!
 (千秋公園の御隅櫓の今朝の様子。昇りつつある朝日を浴びて白壁が見事であった)
ついに、私にとって春が2月3日に訪れた。例年に比較してずいぶん早い。

 私は四季を以下のように勝手に分類している。かんかん照りの夏が大好きで、降雪期には除雪のストレスに苛まれる私にとってこれが合理的な分類である。

■春 除雪が不要になった日(今年は2月3日)から桜が散るまで(約2か月)。
■夏 桜が散った時期からお盆の墓参りの8月13日まで(約3か月)
■秋 8月14日から降雪時期まで(約4か月)
■冬 除雪が必要になった時(昨年は12月15日)から不要になるまで(今年は2月3日)(約3か月)

 昨年の12月15日が私にとっての今季の冬の始まりだった。この日5:00amの段階で一気に15cmほどの積雪となり初除雪した。それ以降6週間余、除雪の最終日は本年2月3日で、この間の除雪回数は8回のみであった。これ以降も1-2回ちょっとした積雪があったが、時期的に見てすぐに解けるだろうと考えて除雪はしなかった。

 本年の除雪の最終日となりそうな2月3日時点で見ると、除雪回数が8回で、昨年は16回、一昨年は25回であった。いかに今季の除雪回数が少なかったか、明らかで、私にとってはいい冬であった。私のところのデータ以外でも、秋田市の道路除雪を請け負うある建設会社は昨年は稼働が5回、今年は一回のみで100万円ほどの赤字になる、とこぼしていた(朝日新聞)。

 だから私の勝手な定義では、2月4日から春である。除雪から解放された。確かに庭先の木々は新芽の準備が始まって膨らみつつある。実に嬉しい。

 一昨日、弘前からの帰路、車窓からいつも利用している奥羽線沿いの歩行者道路に雪が全くないことを確認できたので、本日から通勤の往路は原則徒歩にした。昨年よりこれも一月ほど早い。 



 まだ時折寒い日はあるだろうが、好きな夏に向かって右肩上がりに暖かくなるから私の気持ちも高揚して来る。具体的に動き出す時期にはまだ早いが、今年は庭木やバラなどどう世話しようか、畠には何を植えようかといろいろ思案し始めたところである。


2/22(日)盛岡快晴・秋田降雨 実兄の法要 孫の作品展示会見学
1:30起床、文献・本読み、その他いつものごとく。7:12こまち盛岡に。10:00-14:00実兄の法要と偲ぶ会、東顕寺。家族と合流、孫の作品展示会見学。15:35家内とこまちにて帰秋。19:00夕食、20:30就眠。弘前、盛岡と往復、ちょっと疲れた。歩数計:Σ5723Km。八郎潟の沿岸過ぎ北浦港付近を通過中。

インフルエンザ流行2015(3) 虚弱老人が感染して死亡するのは異常なことではない
 感染の洗礼を受けておらず、免疫が弱い幼児・学童がインフルエンザに罹患することはほぼ自然の摂理である。

 同様に、高齢化や種々の慢性疾患に罹患し、感染に対する抵抗力が乏しくなった虚弱な高齢者がインフルエンザに罹患しやすいのも同様である。しかも、インフルエンザ罹患を機会にもともとあった慢性疾患が悪化したり、摂食困難で全身状態が悪化したり、誤嚥によって呼吸状態が悪化することがある。もともとある慢性疾患の重症度は各人によって様々であろうが、年齢的にみて後期高齢者の多くはギリギリの状態で生きておられる方も少なくない。このような状況にある方がインフルエンザに罹患すると急速に重症化し、時には死の転機を取る。

 もっとはっきり言えば、インフルエンザに罹患してお亡くなりになるような方々は、罹患しなくとも一歩手前におられる方である。このような方は感染に対して実に脆い。

 後期高齢者でも全身状態が良く元気な方はもともと病院とか老人保健施設には入所しておらず、インフルエンザに罹患してもそれほど重症化せず、外来で十分治療可能である。

 病院とか老人保健施設で死亡患者が発生するとメディアは大騒ぎで、その施設・病院の対応の落ち度を探し出し、報道する。勿論、指摘事項は謙虚に受け止める必要があるが、ウイルスが侵入してくることを防ぐことは不可能である。対応に落ち度がなかった、ということもあり得ない。

 別疾患であって感染のレベルが異なるが、2002-03年に中国広東省に端を発した重症急性呼吸器症候群(SARS)は30ケ国で発症し、8069人発症、そのうち775人が死亡した(WHOのデータによる)。さいわい日本国内では発症しなかったが、その当時、私は県医師会の感染症担当であったために患者発生時の対応について国や県の担当部署と連絡を取り合いながら対応を種々検討していた。SARSは感染症として2類に分類され厳しい対応が求められた。患者を収容する医療機関ではスタッフへの感染予防対策を第一に考え、治療部門を独立させ、人的交流の遮断までも計画していた。治療スタッフは一定期間院内にとめおき帰宅させない、なども考慮していた。国内で発生したら大変な事態になっていたと思われる。非現実的な部分もるが、感染症の予防対策の基本はここにある。

 今の季節性インフルエンザは感染症分類では5類に分類され、このような予防対策は行われない。

 虚弱老人の多くは病院や施設に入所している。同じレベルで横並びにある虚弱者を一ケ所に集めてケアするという発想は効率性第一に考えた危険な方法である。それを国が計画し、社会が認めた方法で広く普及している。

 病院や老人保健施設にウイルスの侵入を完全に阻止できない以上、虚弱者が集まっている施設内で感染が生じることはやむを得ない。結果的に高齢者が死亡することも阻止できない。まず、その前提を社会が認めなくてはならない。このような背景の中、高齢者の幸せを願い日夜奮闘しているスタッフたちには敬意を表したい。その上で、院長ほか管理者にはベストな対策を講じることが求められる。


2/21(土)秋田・弘前快晴 結婚式で弘前往復
1:00起床、文献・本読み、その他いつものごとく。8:00飯川病院、回診など。8:55家族5人特急津軽にて弘前へ。弘前市内にはまだ多量の雪が残っていた。11:30-16:00休宝寺長女の結婚式、ニューキャッスルにて。人前結婚式なるもの初めて体験。16:30現地解散で家族は大鰐温泉に、私は特急津軽にて帰秋、19:30夕食、20:30就眠。

インフルエンザ流行2015(2) 蔓延防止には手洗いと着替えが第一
 幼児・学童がインフルエンザに罹患することはほぼ自然である。従って、学校などで感染流行が生じても校長や学校医の責任が問われることはまずない。せいぜい、学級閉鎖などの対応時期や期間が問われる程度である。
 一方、医療機関、高齢者福祉施設での蔓延は一人でも死亡者が出ればメディアの良いニュースソースとなる。高齢者がインフルエンザに感染して死亡するのは社会がそのように仕向けているのであって、特別なことではない。もちろん対策は必要であるが、高齢者がインフルエンザに罹患して死亡するのは自然の摂理でもある。

 インフルエンザは人を介して伝播する。そしてそこに未感染者がいれば、感染者との密着度に応じて異なるが、濃厚なほど感染する確率は高くなる。人が日常生活を営む以上、人同士のコンタクトは避けられないから、インフルエンザの流行期には感染を避けることは困難である。私は諦め半分で見ている。

 医療機関や高齢者福祉施設の蔓延がメディア等で問題になっているが、最も想定されやすい感染ルートは、
幼児や学童が保育園・学校で感染→ 
両親に感染、家庭内に広がる→ 
母親・父親の職場に伝播→ 
感染者が見舞い等を通じて、あるいは感染した医療・介護施設スタッフが業務を通じて施設内に伝播→ 
施設内で感染者同士で伝染しあい→蔓延、ということであろう。

 インフルエンザの蔓延防止には人の動きを遮断するのがベストであるが、この社会では人同士のコンタクトは避けられない。秋田には新幹線に乗って時速330Kmで、空路なら900Kmでインフルエンザウイルスが移動してくる。ウイルスも人間の交通手段を上手に利用している。

 予防対策として含嗽やマスクが推奨されるが、実際にはそれほど役立たない。予防効果に対する信用できるデータはない。特殊なものを除き、一般的に用いられるマスクは装着しても周りから空気が出入りしている。マスクは装着さえしっかりしていれば、咳やクシャミの際に飛沫の飛散範囲を狭める働きは期待できる。それでも流行期には必須のアイテムである。医療関係者は常に着用していて良い。

 ウイルスを含んだ飛沫は衣服、寝具、身の回りの品々など感染者の周りに付着している。鼻をかむ行為はティッシュペーパーを例え4-5枚を重ねて用いてもほとんど手のひらで鼻をかんでいるようなものである。手にはウイルスがウジャウジャいる。

 だから、予防対策に最も重要なのは、実は「頻繁な手洗い」と「衣服の着替え」である。衣服に付いた飛沫の中のウイルスは時間とともに感染力を失うが、数時間は維持される。感染者の手、医療機関や老人保健施設のスタッフの手は最も重要な感染源となる。


2/20(金)曇り 大曲中通病院外来  飯川病院ボランティア
 1:20起床。文献チェック、徒然など。5-30可燃ゴミ集積所の。路上にはうっすらと雪。提出。7:30中通病院経由にてTaxi駅に、8:10こまち、9:10-13:00大曲中通病院外来、往復徒歩。14:30同じ便で横浜から来秋の長女と孫と共に病院。19:10バスにて帰宅、夕食、20:00就寝。歩数計:Σ5713Km。DVD視聴:「ディスカバリーch:飛行機Top5後半」、「岡倉天心」。久々会った横浜の孫は急に言葉が発達し、曖昧な姿勢で相手できなくなった。

インフルエンザ流行2015(1) 今季の流行は早かった
 秋田県の今季のインフの流行はれ雨年に比較して早かった。
 県の感染症情報センターのデータによると、12月末から1月初旬にかけて定点医療機関の41.87で早々に警報基準をの30人を突破した。観測史上3番目の流行状況になっている。ただ、最近は流行がやや下火になりつつある。

(感染症情報センターのHPより)

 本年のインフルエンザ様疾患(集団カゼ)とインフルエンザ集団感染は以下のようになっている。
本年のインフルエンザ様疾患(集団カゼ)に対する措置状況は2月15日現在、保育園・幼稚園・学校の累計施設数204、休校・休園14、学年閉鎖98、学級閉鎖92 、で昨シーズンは累計施設数245、休校・休園14、学年閉鎖138、学級閉鎖93であったから、シーズン途上だというのにもう既に近似した累計数になっている。

本年のインフルエンザ集団感染に対する措置状況は2月15日現在、累計施設数77で、内訳は、社会福祉施設31、保育園・幼稚園35、病院11となっている。参考までに昨シーズンのインフルエンザ集団感染措置状況をあげると、累計施設数50で、内訳は社会福祉施設9、保育園・幼稚園33、病院8となっており、シーズン途上だというのにもう累計数は昨年を超えている。

 一般的に幼少児、学童が集団で過ごす教育機関では、子供たちは感染経験が少なく、免疫を十分獲得していないので流行の影響をもろに受ける。と、言うよりインフルエンザの流行はこの年代の子供たちの流行から他の年代に伝わっていく。
 その視点から1962年に、全学童にワクチンの集団接種が行われるようになった。しかし、学童の集団接種方式に関しては、接種を強制するのは人権問題、学童だけに接種しても流行状況は変わらない?、等の批判が起こり、1994年の予防接種法の改正でインフルエンザワクチンは定期接種からはずされた。今では重症化を防ぐために高齢者へのワクチン接種が勧奨され、65歳以上の高齢者には費用が低減されている。

 上記に示すように幼児・学童はが罹患することはほぼ自然である。従って、多くの施設で流行が生じた際には学級閉鎖などの対応がなされる。わずか数日間の閉鎖で流行が抑えられることが多い。従って、大きなニュースになることもない。


2/19(木)快晴 外来 義兄葬儀 ドック関連業務処理 飯川病院
0:45起床。いつもの如く。降雪なし。6:47バス飯川病院へ、7:15病院着。8:45-13:30中通病院外来、混雑。昨日残したドック関連業務処理。院長実兄葬儀関連で不在、13:45-18:30飯川病院。バスにて19:10帰宅、夕食、20:30就寝。DVD視聴:「大事件の裏側で活躍した知られざる偉人達」、「ディスカバリーch:飛行機Top5」。歩数計:Σ5705Km。

宗教とは何か2015(2)宗教は理解困難
 2001年9月11日にアメリカ合衆国で航空機を使った4つのテロ事件があり、同時多発テロ事件と称する。 航空機使用された史上最大規模のテロ事件であり、9.11は時代の変節点だったと言われる。ここにも宗教が絡んでいた。

 日本では、その6年前の1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。この事件によって「日本の安全神話は崩壊した」と言われた。1995年は日本の変節点だったという見方もある。

 1995年以降、確かに日本社会は大きく変わった。けれどもそれはサリン事件や同じ年の阪神淡路大震災が変えたのではなく、戦後の日本社会の経済・社会の発達、日本人のメンタリティ等の変遷がもたらした、と言えよう。

 宗教とは何か、オウム事件とは何だったのか、宗教を信じるということはどういうことなのか、私は仏教徒なのか、オカルトとは?・・・、という問いは私の中でずっとくすぶってきた。私にとって宗教に対する勉強は、いつかきちんと取り組まなければならない問題の一つであったが、対象が対象だけに今までは文献読みの範囲にとどまっていた。イスラム国、ホロコースト、オウムの再審裁判などに接して、宗教について考えることができるようになったのはつい最近のことである。私の時間の残り少なさを思うとき、私自身が高齢に達し、自身を含め形あるものはすべて崩れ去る、との考えに近づいたからでもある。逆に、遅きに失したか、とさえ思う。

 私は幼少の頃からどちらかというと宗教的考え方、東洋的無常感に親しみを持っていた、と思う。その背景に虚弱なために常に自分の死が身近だったこと、臨死体験様の現象を体験したこと、恐山のイタコによる予言体験・・等の神秘体験があったこととは切り離せない。
 さらに、自ら医師になって何百人もの死に接したが、私自身の抱く死生観に照らして、その多くの死が自然の摂理からかけ離れた死を迎えていることに対する憂いの感覚、も関連しているように思われる。

 ただ、それを具体的に言語化してこなかった。私の中で曖昧な状態で残していたから、宗教を考える上で自分の位置すらも分かっていなかった。

 人として、魂の救済といった無形の規律や約束事を明快に言葉として語る教祖が出現して、それを言語化し、信じるものが集まれば宗教になる。ブッダ然り、マホメッド、キリスト然りである。これらの偉大な先駆者の言葉は弟子によって記録され、経典になっている。その経典は信者によって、宗教学者によって検討が加えられ、種々に解釈され現代に伝わっている。

 日本でも、古くからつい最近に至るまでも、自らが信じるところを言語化した教祖?があらわれた。その多くは地域的な範囲で止まり、一代限りで消滅していくような小規模な民間的と評すべき新興宗教であった。

 オウム真理教はなかなか理解できない。信者は教祖が語る言葉をそのまま信じた。というよりも盲信した。大学や大学院から教団に入った者が多くいた。それらが教祖の指示に沿ってテロ集団として暴走した。それがよくわからない。
 大量のユダヤ人を殺戮したホロコースト集団にも医師や哲学者などが混じっていた。

 オウムにしろナチにしろ、逆らうと殺されるという背景があったにしろ、オウムから、ホロコースト集団から離れることができた体験者の記録が重要と思うが、それらの資料がとても少なく、残念である。


2/18(水)曇り晴れと一定せず寒波 外来 飯川病院ボランティア
 0:30 起床。新聞・文献などいつもの如し。6:47バス飯川病院へ、7:15病院着。8:45-13:50中通病院外来、混雑。ドック判定半分のみ。2:00-18:45飯川病院ボランティア、院長所用で外出、病棟外来業務若干。19:00帰宅、夕食、8:30就寝。DVD視聴:「池上:日銀に」、「ネコと遊ぶ」、「世界が驚いた日本:魚」。歩数計:Σ5697Km、白神、八峰町通過。

アウシュビッツ解放70年(7) 45年1月27日アウシユヴイッツ収容所解放
 アウシュビッツ収容所ではシアン化水素によるユダヤ人の大量殺毅が行われた。多い時には一日に17.000人がこのガスで「効率的に除去」された。ピルケナウ収容所にはガス室が四室あり、一日に6.000人を殺す能力があった.

 1945年1月、アウシュヴィッツとピルケナウにソ連軍が迫ってきた。ナチス親衛隊は10日余の間に施設を完全に破壊し、ホロコーストに関する資料も焼却し証拠隠滅を図った。この殺戮のために作業員として無理やり働かされたユダヤ人からなる特務班員も口止めのためすべて銃殺された。

 .二つの収容所が開設されて以来、45年1月までにチクロンBによる殺戮は少なくとも400万人にのぼるとされている。45年1月27日、ソ連軍がアウシユヴイッツ収容所に入り、収容所は解放された。

 チクロンBは猛毒のために廃棄できなかったのであろう。大量の、2.000万の人間を殺すのに十分な量が、残っていた。
 殺人は被害者は例え一人であっても残酷である。犠牲者がどれだけ多くて個々人にとっては軽重はない。そうは言えども数100万人のユダヤ人の大量殺戮は人類史上最大の犯罪行為であった。
 
 ホロコーストを命じたヒトラーは1945年4月30日に自殺、5月7日ドイツは降伏した。ユダヤ人殺戮の責任者であったH・ヒムラーはイギリス軍に捕らえられたが、5月23日に自殺した。

 アウシュヴィッツ収容所所長であったR.ヘスは、農夫に変装して潜伏しているところをイギリス軍によって逮捕された。47年4月2日、ポーランド最高人民裁判所において絞首刑の判決を受け、4月16日にアウシュヴィッツ収容所のガス室の横に設けられた特設絞首台で処刑された。

 R.ヘスは告白遺録の中で「もし、自分がヒムラーと出合わなかったら、チクロンBに出合わなかったら、一農夫として平凡な半生を送っていたことであろう。」、「私は第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械もすでに壊されてエンジンは停止した。私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるから。」、「世の中の人は私を、血に飢えた獣、残虐なサディスト、大量虐殺者と見ようとするだろう。大衆にはそのような者としてしか想像されない。」、「しかしながら、その男もまた、心を持つ一人の人間だったということを。彼もまた悪人ではなかったということを、決して理解しないだろう。」と回顧している。
 R.ヘスの回顧録のこの記載は本心であるか私にはわからない。しかし、これを記述した時には、まともな心理状態に戻っていたのでは?と思わせる。ちょっとした救いである。彼は罪を認め、ガス室の脇で処刑された。

 このような記録を掘り起こしていくと、一部には信じ難い内容もある。
 その中でも、500万から600万というユダヤ人犠牲者の屍体が焼却処理されたとされている。50-70Kgもある犠牲者たちの体は容易に焼却できなかったはずである。そんな能力のある焼却施設はどんなものだったのか、燃料は何を用いたのか。それらは潤沢にあったのか・・・などなど。ニュルンベルク軍事裁判では400万、さらに最近は150万人だったとされた。それでも、にわかには信じ難い人数である。


2/17(火)曇り、外来 飯川病院 義兄死去
 0:30起床,文献、本読み他、降雪無し。6:47バス飯川病院、8:45-13:00中通病院外来、13:45-18:30飯川病院。義兄死去の報あり急遽訪問、良き表情であった。20:00帰宅、夕食、21:00就寝。Σ5690Km。DVD視聴「元寇:北条時宗 最強の帝国モンゴルに挑む」、「日本最後の宗教戦争:島原の乱」、「プロフェッショナル:金属研磨師・小林一夫」。

宗教とは何か2015(1)再度勉強開始
 最近、またまた宗教やナショナリズム、心理学の分野に興味が湧いてきた。これらの項目を追求してみたくなる世の中の事象が多すぎる。イスラム国問題しかり、フランスの風刺画テロ事件、オウム心理教地下鉄サリン事件の再審開始、アウシュビッツ解放70年などなどである。

 私的な問題として、1月には実兄が死去し、本日、2月17日には義兄が死亡した。共に仏事に則った葬儀等が営まれ、営まれた。私自身、子どもの時から仏式の行事にそれほどの疑問も抱かずに我が家の菩提寺である江岸寺に出入りし、どっぷりと浸かり、受け入れてきた。
 確かに寺を訪れれば敬虔な気持ちになる。安息を得る。私は家の代表者として祖父母、両親の位牌を受け継ぎ、時には仏壇に手を合わせる。しかし、「お前は仏教徒なのか?」と問われれば「そうと言えるほど・・ではない」、と自信なさげに答えざるを得ない。生活上、社会的な常識の範囲で仏教を利用しているに過ぎない輩の一人に思えてならない。

 宗教とは何か?興味は尽きないが、未だにわからない。

 過去にも興味を持って関連書籍を読み漁った?こともある。何度もなんども手をつけていながらが、なかなか理解困難な領域で、壁に当たり中断していた。最近でも、以下について考察したがようわからなかった。
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宗教とはなんだろうか2012(1)こんな言葉に触れた
宗教とはなんだろうか2012(2)経や仏教用語は難解だ
宗教とは何だろうか2012(3)神社が随分あるが、神道とは何だろうか(1)
宗教とは何だろうか2012(4) 神道とは何だろうか(2) 祭りの意義
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 聖書には人生の指針となるような言葉が満ちあふれているらしい。コーランも仏典もしかりである。米国を始めとしてキリスト教社会の子供達は聖書を通じて、教会での説法を通じてこの様な文化に接しながら成長しているとすれば、最高の道徳教育がなされていると言って良い。が、米国は常に強さを、豊かさを求めている国である。ちっとも道徳的ではないように思う。
 宗教の理念と現実との間には大きな乖離がある。イスラム国、イスラム教の教えとは違うと思うが、コーランの教えに基づいた行動をしている、と指導者達は言明してやまない。

 私にとっての宗教とは、現時点での考えを一言で言えば、不遜かもしれないが、人間の心理の深層に根付いた「集団的催眠状態」なのではないか? と思う。


2/16(月)曇り晴れ 寒波緩む 健康クリニックドック 飯川病院
 1:00起床、文献・本読みなどいつもと同じ。積雪2cm、除雪無し。6:47バス飯川病院、7:10病院着、9:00-11:00健康クリニックドック 、飯川病院へ。12:30-14:00院長外出で飯川病院ボランティア、14:00-18:00勤務。19:00帰宅、夕食、20:30就眠。Σ5685Km。DVD視聴「林修の1970年代の歴史回顧」、「池上彰:経済教室」、「ニュース英会話:ユーロ圏財相会議」。エジプトがイスラム国攻撃。錦織メンフィス・オープン優勝。

アウシュビッツ解放70年(7) チクロンB 所長R・ヘスの告白遺録より
 チクロンBは1919年に駆虫剤・消毒剤として開発され、「ドイツ害虫駆除有限会社」で製造された。主成分はシアン化水素で、固形化して粒状とした。粒状のチクロンBはブリキ缶やビンに密封保存されていた。これをガス室の天井からばらまいたが、チクロンBは開封するすぐにガスが発生するので、作業員も危険にさらされた。中毒した場合には酸素吸入など迅速な手当てを必要としたので、親衛隊の医師が常に付き添って監視に当たっていた。

 チクロンBを用いた殺戮方法は、安価で効率がいいとみなされ、所長のR・ヘスによってすぐ実行に移された。

 R・ヘスは、1942年の夏に900人ものソ連軍捕虜を殺毅した時の模様を次のように証言している。「ロシア人グループ全員がガス室に入りきると、ドアが閉められ開口部からガスが噴出した。ガス噴射の際、ものすごい叫びが聞こえ、ドアにどっと人がぶつかってきた。何時間か経ってドアが開けられ、排気が行われた。私が屍体の山を見たのは初めてであった。私は、苦しみ、もがく窒息のさまを思い描いていた。だが屍体には痙璽のあとさえみられなかった」。

 1942年秋以後はユダヤ人がアウシュヴィッツ収容所に送り込まれ、一度に大勢が殺された。

 R・ヘスは、ユダヤ人の殺戮の状況について次のような証言をしている。「最初、女と子どもがガス室に入り、次に男が入った.。男たちの数はいつも少なくした。ドアが素早く閉められると、待機していた係がすぐに天井の通風孔からガスを送り込んだ。ガスは換気孔を通って床まで下りた。換気孔の近くにいた者はすぐに死んだ。1/3は即死に近かった。残りの者はよろめきながら悲鳴をあげ、喉をかきむしってもがいた。数分もすると、全員が倒れ動かなくなった。遅くとも20分後には、誰もぴくりとも動かなくなった」。

 覗き窓から観察していた医師が全員の死亡を確認し、約20分後にガスが室外に排出され、その後、ユダヤ人特務班が屍体処理作業を始めた。
(参考文献:「アウシュヴィッツ収容所:所長ルドルフ・ヘスの告白遺録」サイマル出版会 1972年)他。

 とても生なましい証言でキーボードを打つ手が止まる。告白録の中の表現はさらに詳しいが、これを簡素化して記載した。


2/15(日)夜半降雪、のち晴 2-3cm 飯川病院日直
 1:00起床。新聞文献処理、録音データ処理など。夜半から積雪2-3cmほど。8:27バスにて飯川病院に。8:50-17:00日直勤務。17:32バス帰宅。新聞・文献などファイル化。19:00夕食、20:30就寝。Σ5680Km。DVD視聴「米国:人はなぜ浮気をするのか」,「世界で一番受けたい授業」、「地下の現場:大谷石の採石場」。

映画:「マエストロ」を観た、聴いた
 オーケストラを扱った音楽映画としてちょっと前評判が高い映画「マエストロ」を秋田Alveの映画館ルミエールで観た。
 私は映画を楽しむ歴史は浅いが、音楽映画が好きである。小学生の時に見たディズニーの「ファンタジア」の印象が良かったからである。「アマデウス」、「未完成交響楽」、「アンダンテ」、「マーラー 君に捧げるアダージョ」などは特に印象深い。

 2011年にフランス映画の「オーケストラ-Concert-」 を観た。寄せ集めのメンバーが『ボリショイ交響楽団』になりすまし、パリでチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏に成功するまでのドタバタの苦労話である。迎えた演奏会の日、なんとか集まった団員たちによる調子っぱずれの演奏が始まり、「神様がいるなら教えてくれ」と祈る人も出るひどい状態でスタートしたが、突然楽団員は霊感を得たようにアンサンブルが整い始め、結果として超名演を奏でた。なかなか見ごたえがあった。

 「オーケストラ-Concert-」を観て知っている私から見て今回の「マエストロ」は二番煎じ的な印象は拭えなかった。
 経営難のために所属楽団が解散し、行き場を失ったバイオリニストの香坂真一を演じたのは松坂桃李氏。父親もバイオリニスト、自身も楽団最年少でコンサートマスターになったという設定の役柄。解散した楽団による復活コンサートを企画した謎の指揮者の元に元メンバーが集まり、「運命」、「未完成」を演奏する、とのストーリーであった。

 指揮者は西田敏行氏が務めた、監督は小林聖太郎氏。
 主役を演じた松坂桃李氏はこの映画の撮影の1年以上前から本格的にヴァイオリンを習って準備した。台本を開くよりも楽譜を見る時間の方が長く、撮影に入る頃には鎖骨あたりにバイオリニスト特有のアザができていた、という。氏は演奏シーンの吹き替えなしで演じ切っていた。

 得体の知れない、破天荒な指揮者の指導にプロのプライドがある元楽団員は最初猛反発するが、徐々に心酔し音色を合わせていく。途中にドタバタ部分はあったが、ラストの躍動感溢れる演奏シーンは聴きごたえがあった。このシーンで用いられたのは「ベルリン交響楽団」の演奏。音楽面の監修指導は佐渡 裕氏が担当した。
 私は下手ながらヴァイオリンやチェロ、ヴィオラを弾くが、その目で見ると出演者たちの楽器を演奏する姿、姿勢には無理が見られた。それは当然である。私には十分楽しめる作品になっていた。

 もう一本、似たような映画がある。「おくりびと」である。不況で解散となるオーケストラの最後の演奏、ベートーヴェンの合唱付き交響曲の演奏から始まる。この映画ではプロの演奏者、山形交響楽団が担当した。主役を演じた本木雅弘氏の楽器演奏の姿は驚くほどの自然な姿であった。最後の場面、主人公が山形の名峰月山を背景にチェロを奏でるシーンが圧巻であった。

 「オーケストラ-Concert-」、「おくりびと」、「マエストロ」は似たようなテーマの作品であったが、各々別な視点でみて楽しめた。


2/14(土)寒波・降雪2cmほど 
1:00起床。文献,新聞整理他、録音データ整理一段落、2cmほど。除雪せず、今季はまだ8回、昨年は14回、一昨年は23回目であった。午前は本読み、データ整理、微睡。午後は書斎にこもり録画でバイエルン放送交響楽団来日公演からベートーヴェン交響曲6-9番を楽しむ。インデックスも改定。他にマーラー交響曲5番他も。オーディオ旧機器ケンウッドのプリメインアンプ、テクニクスのプリアンプ廃棄。約15年活躍してくれた。19:00夕食、20:30就寝。Σ5672Km。

目の輝きとは何か(3) 目元の美しさを際立たせる小道具
 目の輝き、目の表情の演出というのは、特に女性にとってはかなり重要なのだと思う。目の輝きを演出することは女性にとって大きな仕事なのであろう。私はその詳細は知らないが、その努力を惜しまない方は年齢にかかわらず魅力的である。

 目の輝きを演出をするには化粧もあるだろうが、小道具の効果も重要である。

 いま病院では看護師、医師をはじめ総じてマスクを着用している。私もつけている。マスク姿の彼女らは総じて目の表情が良い。総じて美人に見えるから不思議である。実際には目元だけはきれいと言うべきなのだろうが、波及効果か、全身的にも素敵に見える。
 マスクをすると何で素敵に見えるのかというと、本来、人間の目は美しい構造をしているからである。むしろ、顔の他のパーツが目の美しさを邪魔している??のではないか。だから、マスク着用は合理的である。患者に直接接することのない女性事務職員がマスクをつけているのはコスメティックな目的であり、病院にとっては経費的にも無駄である。

 患者方も多くはマスクを着用している。病院でも咳エチケットとして推奨している。患者の表情から私は瞬時に心身の状況の概要を読み取るからマスク姿はダメである。診察時「マスクをとって・・」と言うのも面倒である。

 マスク美人は私にとっては想像・妄想による美女像である。これを拡大して考えると女性は身体をさらけ出さないで、見るものの妄想に任せている方が良いこともある。そのために衣装がある。中でも和服の効果は絶大である。いや、自信のある女性はさらけ出しす方向を追求するのもいい。

 いま話題になっているイスラム教の預言者ムハンマドは女性の美しい部分をを隠すように求めたとされる。美しい部分とは何を指すのか分からないが、イスラム教徒の女性は地域によってはヴェール状の衣服を着用する。ブルカは全身を覆う。ニカブは目の部分だけは開いている。映画とかドキュメンタリーでこれらの服装をまとったイスラム世界の女性を見ると、目元がとてもきれいで、総じて美人のイメージである。ムハンマドはイスラム圏の男性に妄想する夢を与えたのかもしれない。
 イスラム圏の女性たちは質素な身なりを強要されているが、予想に反して目元の美しさを際立たせる化粧品、下着類の産業は大盛況だ、という。女性の、美を求めてやまない強さの表れであろう。


2/13(金)夜半から午前強風雪 大曲中通病院外来(欠) 飯川病院ボランティア 映画「マエストロ」
0:50起床。文献チェック、徒然など。5:30可燃ゴミ集積所。7:30Taxi駅に。8:10こまち。9:10まで待つも強風のために発車見合わせ、見込みなし。大曲中通病院は帰路のことも考え休に。10:00-12:00ルミエールにて映画「マエストロ」鑑賞。12:30飯川病院ボランティアに、19:00帰宅、夕食、20:30就寝。 Σ5668Km。DVD視聴「米国:人はなぜ浮気をするのか」,「フルシチョフ:アメリカを行く」。

徒歩通勤2015(1) 北海道終了し秋田の海岸線を南下し始めた
 平成13年3月から始めた徒歩通勤、実績が積算できる歩数計「平成の忠孝」の積算が約2年かかって昨日Σ5663Kmに達し、北海道から秋田に渡った。
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 北海道海岸線一周だけで2748Kmあり、約1年かかった。長かった。
<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/42/2e26a3d7aa8d9505cfbbac6763e50c7b.jpg" border="0">

 徒歩通勤を始めた頃に比較して最近は若干モチベーションが低下しているように自分で感じている。車もあるし、バスもあるから通勤には不自由しない。安易な方向に流れたくなる自分を感じている。安易な方向に流れるのは自分にとってはまずい。

 それで3け月ごとの歩行距離をプロットして見た。結果は以下のごとくであった。
―――――――――――――――――――――――――――――――
1013年 3-6月   793Km
    7-9月   841Km
   10-12月   788Km――1ヶ月平均290Km

1014年 1-3月   263Km
    4-6月  1267Km
    7-9月   778Km
   10-12月   700Km――1ヶ月平均300Km

1015年1-2月   282Km
―――――――――――――――――――――――――――――――

 この数値から見ると、過去2年間の1ヶあたりの歩行の平均値は季節による変動は大きいがほぼ同じである。昨年夏以降、気持ちがたるみ始めたかな??と感じていたが歩行距離を見るとこの2年間の傾向は同じである。また、今年に入ってからの歩行はとても少ないが、これは季節性の傾向で昨年同期に比較して少なくはない。だから、モチベーション低下は数値の上からはなさそうである。このデータを見てまたちょっと元気が出てきた。

 毎日毎日、私はほとんど1日も欠かさずに新聞の切り抜きを40-50枚ファイリングし、生活メモとミニ随筆を書いているが、それらからこのようなデータを引っ張り出して、いじくり回して遊ぶことができる。つくづく「継続は力なり」と思う。

 北海道を通過しているときも、時々地図を眺めてどの辺を歩行中なのか、どんな街があってそんな産業があるのかを調べてはいたが、なにぶん遠い北海道のことで親近感が全くわかなかった。昨日から秋田と青森の県境から南下し始めている。通過する地名も身近であ。

 秋田の海岸線は266Kmと北海道の一割程度である。ちなみに山形は97Kmである。うかうかしていると通り過ぎてしまう。秋田の地図を頻回に開き、秋田についてもっと知りたい、と思う。


2/12(木)曇り・寒波緩む 外来 飯川病院 歩行は秋田県須ク岬に到達
 1:20 起床。コンピューター関連学習。新聞、文献本読み。積雪2cmほど。6:47バス飯川病院、8:45-14:00外来+人間ドック総括+入院回診+退院時書類準備、14:29-18;45飯川病院。19:00プリウス帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計Σ5663Km、ついに北海道の海岸線2748Kmを歩破、秋田県須ク岬にはいる。DVD視聴「クールジャパン:犬」,「映画:陽はまた昇る」。

『ヘンゼルとグレーテル』:アトリオン コンサートオペラVol2
 去る2月8日秋田市のアトリオンホールでE・フンパーディンク作曲、歌劇「ヘンゼルとグレーテル」の公演があった。演奏は飯森規範指揮山形交響楽団と7人の声楽ソリスト達。児童合唱は地元のアトリオン少年少女合唱団と女性合唱、バレーも秋田の川村泉舞踏団。

 「ヘンゼルとグレーテル」は、ドイツのE・フンパーディンク作の代表作で全3幕のオペラ。原作は童話の同名の作品。台本は作曲者の妹。ワーグナー以後に多く作曲されたメルヘンオペラの代表的な作品で、ドイツ圏、英米でも比較的人気が高い。

 原作であるグリム童話とは異なる設定とされるが、私は幼少時に読んだ原作をすっかり忘れており、このオペラは初めて耳にしたので、わからない。欧米ではクリスマスなどに子供連れの観客向けに上演されることが多い、とのこと。

 私はオペラが大好きであるが、楽むレパートリーは狭い。モーツアルト、ヴェルディ、プッチーニ、ワーグナー、R・シュトラウスの大部分の作品が中心で、ほかはいわゆる名曲とされる名の知れている作品が中心である。E・フンパーディンクのこの作品は聴きたいと思ったことは一度もなかった。たまたまその機会が身近にあったから聴きに行った、ということ。通常はオペラを聴く際には予め聴き込んで準備するのであるが、この曲のソフトは所持していない。

 前回の「椿姫」の場合に続き、今回も演奏会形式であることを会場に行くまで気がつかなかった。アトリオンコンサートオペラVol2と称していたから気づかない私がバカであった。オーケストラの後方にミニステージが設置され、出演者たちが小さなアクションで演じ、歌ったが、私の席は前方のF列であったために座席がステージより低く、指揮者と最前列のヴァイオリン奏者以外はほとんど見えなかった。見えなくてもそれほど問題は無いのだが、ちょっと寂しい。アトリオンでは通常最後列付近に座る。こんな前の席は初めてであった。

 E・フンパーディンクはワーグナーの下で働いたことがあり、その影響を大きく受けている、とのことであるが、私にはよくわからなかった。管弦楽部分は混沌とした曲であったが、これがワーグナー的なのかもしれない。数名のソリスト、合唱は見事な出来だったと思う。十分楽しめた。

 ただ、今回も「ブラボー」男が数名いて異常なほど奇声を張り上げ、興を削いだ。不快であった。静かに余韻を楽しみたい聴衆もいるのだ。


2/11(水)建国記念日 曇り晴れ 飯川病院日直 
 1:20起床。新聞・文献読みとPDF化およびそれらの整理に集中。自宅の積雪は7-8cmあるも新たな降雪なし。8:28バス飯川病院、9:00-17:00日直勤務、17:30帰宅、風呂掃除など。19:00夕食、20:20就寝。Σ5655Km。DVD「池上彰時事解説;意外と知らない日本について+イスラム国」、

アウシュビッツ解放70年(6) 銃殺から排気ガスに 最終的にチクロンBへ
 ドイツ軍がポーランドを完全に制圧した1940年2月、ナチ親衛隊の国家保安部長官であるH・ヒムラーは、捕虜やユダヤ人などの収容所の建築用地として、チェコスロヴァキアの国境に近い荒涼とした湿地帯のアウシュヴイッツに着目した、そこに人造ゴムなどを製造する化学工場を建設し、囚人たちを就労させる予定でであった。
 
 それが、40年5月に親衛隊突撃隊長R・ヘスがアウシュヴイッツ収容所の初代所長に着任した頃から様相が変わった。この収容所は当初はポーランドの政治犯やソ連軍の捕虜などを中心にした収容所から、主に東ヨーロッパから集めたユダヤ人の収容所になっていった。
 アウシユヴイッツを大量殺戮用の施設に選んだ理由としてR・ヘスは、交通の便がよいこと、一定地域を隔離しするのも偽装するのも容易であることをあげている。

 一年後の41年にはアウシュヴイッツから3Kmのピルケナウにも巨大な第二収容所を建設した。この他に強制労働を目的とした収容所をアウシユヴィッツから半径60キロ圏内に30カ所以上も建設した。

 42年1月、ベルリン郊外で会議が開かれ、H・ヒムラーはヒトラーの極秘命令により「ユダヤ人問題の最終的解決」を実行する総責任者に指名され、ユダヤ人に対する大量殺戮を遂行することとなった。

 しかし、大量殺戮に用いる有効な手段はなかなかみつからなかった。

 ユダヤ人の殺戮は初めは薬物によったが、対象者が激増してくるに従い処理が難しくなった。機関銃や拳銃による銃殺などは大変むごたらしく煩雑であった。  
 次に有毒ガスが使われた。当初は一酸化炭素が採用された。トレブリンカ強制収容所では、ソ連軍から捕獲したトラックや戦車のディーゼルエンジンからの排気ガスを引き込んで殺毅が行われていた。また移動式のガストラックも開発された。これはトラック荷台に排気ガスを送り込んだ。しかし、この方法は実際は一度に少人数しか処理できず、死に至るまで時間がかかり、非常な苦しみを与えて残酷で、後処理が大変であった。

 1941年、アウシュヴィッツ収容所の親衛隊の一人から殺虫剤のチクロンBを用いるアイデアが提起された。


2/10(火)暴風雪 外来 飯川病院
0:50起床。外は風が強く荒れ模様。新聞、本読みなどいつもの如く。積雪3-4cm、強風のために除雪せず。6:40天候に負けてプリにて出勤、6:55飯川病院。8:45-14:30外来+紹介の入院患者対応、時間がかかった。14:45-18:30勤務、途中疲労にて微睡。19:00帰宅・夕食、20:20就寝。Σ5649Km。DVD「映画:おかえりはやぶさ」、「100分で:日本文化」。

アウシュビッツ解放70年(5) ドイツの良心と言われるヴァイツゼッカー元大統領死去
 ドイツ連邦の大統領であったヴァイツゼッカー氏が本年1月31日に94歳で死去された。「ドイツの良心」とも呼ばれる方で、今でも政治家として尊敬を集めているようである。

 第8代大統領に選出された際の氏の格調高い演説はドイツ内外に感銘を与えたことで知られている。その中の一節に、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」がある。さらに、「過去の罪と未来に対する責任を区別し、共同で責任を果たしていくこと」を呼びかけた。同時に若い人たちに向けて「他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないように。敵対ではなく、互いに手をとり合って生きていくことを学んでほしい」とも述べた。この日はドイツ降伏40周年にあたっていたが、氏はこの記念日を「ナチスの暴力支配による非人間的システムからの解放の日」と形容した。

 耳あたりはいいが、ドイツの国家、国民がおかした犯罪をヒトラーやナチスによると矮小化して罪を押し付け、国家としての責任をうやむやにする論旨に感じられる。ドイツの国民性なのだろうか、演説に心酔する傾向があるようだ。ヒトラーの演説も当時国民に熱狂的に支持されていた。
 ヴァイツゼッカー氏の死去のニュースも、アウシュビッツ解放70年のを振り返るきっかけとなった。

 ドイツ・フランス・イスラエルでは、ホロコーストを否定したり、ナチスを支持するような一切の発言や表現は法律で規制されている。その背景には、ホロコーストに疑問を持っており見直すべきだと主張する人がいるからである。
 その論拠を詳しく読んだことはないが、その一部を示すと以下のごとくである。
ナチスドイツにユダヤ人絶滅を意図した公式の文書は確認できない。
ナチスはユダヤ人を殺害するのにガス室を使用していない。
500万から600万というユダヤ人死者数は誇張である。
・・・・。

 私は、深い意味での真相はわからない。だから、今まで通り書籍や文献でナチスドイツやアウシュビッツについて学び続けたいと考えている。


2/9(月)曇り風雪強い 厳しい寒波到来 健康クリニックドック 飯川病院
1:10起床、外は天気予報のごとく風が強く荒れ始めている。新聞、本読みなどいつもの如く。積雪3-4cm除雪せず。6:47バス飯川病院、9:00-11:30健康クリニックドック+入院患者対応。12:00飯川病院、14:00−18:00勤務、帰宅。19:00夕食、20:20就寝。Σ5642Km。DVD「そこまで言って委員会」、「歴史列伝:一休宗純」。「実録:アイヒマン裁判」はいいドキュメントであった。

目の輝きとは何か(2) 口ほどにものを言わせる目の演出
 目の輝きというのは特に女性の実生活においてもかなり重要な因子なのだと思う。映画の主人公や絵画、漫画の世界でも重要な表情のひとつである。目の輝きを演出することは女性はにとって大仕事である。その努力を惜しみ輝きを失った目の女性は魅力的でない。

 目の輝きを補足するための目の化粧は6000年前から行われてきたらしい。まぶた、まつ毛を含めて目の周りの皮膚は色や陰影などを微妙に変える工夫の場になっている。女性たちは毎日大変である。それほど広くもない場所なのに、アイシャドー、アイライナー、アイラッシュカーラー、付けまつげ、カラーコンタクトレンズ、ファッションメガネ・・・などが利用される。目の化粧に関しては周辺の皮膚を黒系統に塗り上げ、それに陰影をつけることによって瞳の反射光を目立たせる、すなわち目の輝きを増す目的があるように見える。

 パッチリと目を強調できる二重まぶたは女性の憧れの様である。確かに、顔の印象が大きく変わってくるし、目が大きくスッキリと開くことで目の輝きを増すことになる。二二重まぶた化の整形手術は広く行われているようであるが、その実態を私は知らない。

 数世紀前にはイタリアの娼婦たちは客と会う前に瞳孔を大きく開くためにベラドンナエキスを数滴目に垂らした、と言われる。瞳孔が開くことで角膜からの反射光が増し、目も心も輝いているように演出した、という。「目は口ほどにものを言う」の演出である。

 瞳孔が不自然に大きくなるとレンズの物理的性質から焦点深度が浅くなる。若く熱烈に愛し合っている恋人たちの瞳孔は精神的高揚から大きくなっていると考えられる。二人が熱い気持ちで見つめ合っている時には、相手の瞳の大きさなどは鮮明に見えるだろう。しかし、大きく開いた瞳の周辺はぼけて見えているはずである。「恋は盲目」とはよく言ったものである。恋をすると周りのことが見えなくなると言われるが、実際に視覚的にも見え難くなっている、と思われる。そんな二人にとってはアバタもエクボに見えるだろうから、種の保存のためにも好都合であろう。

 大抵の動物は目は丸い。したがって白目が殆ど見えない。これは敵から身を守るためには重要である。ところが、人間だけは眼裂が横に大きく広がり強膜と言われる白目が黒目の両側に見える。これも目にある種の表情を与える。互いの目を見ていると視線がどこを向いているか容易にわかる。これを上手に利用し「伏せ目」、「流し目」、「横目」などの演出で目の表情を増すのに威力を発揮する。

 目の輝きとは何か?簡単な気持ちで考え始めたのであるが、根は深かった。


2/8(日)曇り後晴れときに降雨  歌劇「ヘンゼルとグレーテル」
 1:30起床、医学文献、新聞チェックPDF化など。午前は録画にてバイエルン放送交響楽団のベートーヴェン連続演奏会から交響曲1-5番を聴く。13:30アトリオンに、14:00-16:30歌劇「ヘンゼルとグレーテル」、演奏会形式、山形交響楽団。16:30緊急電話あり飯川病院に。院長とともに患者対応。19:00帰宅、20:00夕食。20:30就寝、Σ5635Km。DVD「池上:生放送解説」、「ひまわり8号」。

目の輝きとは何か(1) 医学的に見れば単なる角膜表面の反射光なのだが・・
 目の輝きというのは実生活においても、映画や絵画、漫画の世界でも重要な表情のひとつである。
 男の目をじっくり観察したことはないが、女性の目の輝きは重要なチャームポイントとなる。名画の中の女性の目は多くは輝いている。それが作品の価値を格段に高めている。フェルメール「青いターバンの娘」は暗い背景の中、かすかに開いた唇と一点の目の反射光が少女を生かしている。

 人間を含め哺乳類の眼は自分から光ることはない。だから、眼の輝きとは自然光や照明光が眼で反射されることによって生じる。だから、眼の輝きの成分は、眼球の角膜における光の反射の加減で決まる。極めて単純なものである・・が、これが女性の表情に決定的な意味を与える。

 角膜はほぽ透明であるが、眼球内へ入った光のほとんどが網膜に吸収されるため目の中は暗い。網膜からの反射光は微弱で、暗闇以外の環境下において肉眼で観測されることはない。光の一部は鏡のように角膜面で反射する。それが平面でなく凸面なので外野にある光の種類や光の強度に応じて、多くは点状に輝いて見えることになる。決して目が輝いているのではない。

 角膜の内側には虹彩かあり、瞳孔の大きさが変化するから反射光はそれによっても変化する。ただ、虹彩が黒に近い日本人はその影響は少なく,虹彩部分の角膜にも反射像が映るから、角膜面の反射はより強く、日本人女性の魅力を醸し出す重要な要因となっている。

 瞳孔は周囲の暗さとか、身体的活動・精神的興奮状態などの要因でその大きさを変える。瞳孔が大きいほど角膜の反射域が広くなる。したがって、眼か輝いている時の瞳孔は一般に大きい。若い人ほど瞳孔径か大きくなることも知られている。若い女性の眼が輝いて見えるのもこの因子が大きい。眠くなると瞳孔は小さくなる。

 眼の輝きは角膜表面を常に潤している涙の量にも影響を受ける。涙は角膜面の微細な凹凸を滑らかにし、角膜反射を強くする。

 このように、「目の輝き」とは何かをじっくり考えてみれば単純である。しかし、目の輝きは女性の魅力の要であり、「目の輝き」で人生を変えることもあるなど重要な意義がある・・・と私は思う。

 「目の輝き」におよぼす因子は、目が大きい、瞳孔が大きい、虹彩が黒に近い、涙が十分であること、角膜・レンズに濁りがない、・・・、が挙げられるが、「目の輝き」には他の因子も複雑に絡んでいる。


2/7(土)快晴暖か 終日データ整理 散髪など 
1:00起床。徒然。本日は終日データ整理に費やす。7:30盛岡の出産祝いに出かけルカない送り駅に。8:00-10:00飯川病院、患者の回診など若干。データ整理続行、賄いの石井さん北海道へ。居間の掃除他、散髪、午睡取る。19:30帰秋後講演会出席の家内県医師会館に迎え20:10帰宅、夕食。21:30就寝。DVD「先週分:のど自慢題」、「題名のない音楽会:2週分」、Σ5623Km。

名画「絶世の美女130人」平松洋著 中経の文庫 2013年
 私は女性が好きである。美人でなくとも美しい表情の人に惹かれる。「美しいとは何か」、私はまだ深くは追求していないが、感覚的にそう感じる美しい女性がいることは確かである。「美しい」か否かの判断は全くの個人的、趣味的価値判断と言えようが、何世紀に及んで美人が描かれ続けているということは、美の判断に比較的狭い法則性があるように思われる。

 書店にはグラビア雑誌とか女優、モデル等の写真集がたくさん並んでいる。大抵ビニールで覆われているので実際に手にとって中を見たことはないが、表紙だけでも十分に目の保養ができる。最近、男性の写真集も増えてきている。
 しかし、今まで写真集を一冊も購入したことはない。私が現存の、特定の女性の写真集などを見ている図は、我が家の健康の維持のためにはふさわしくない。

 決して代用品というわけではないが、私が好んで鑑賞しているのは内外の画集である。決して代用ではなく、画集の中の美女鑑賞の方が主である。画集では多数の美女を見ることができる。しかし、膨大な画集の中から美女を探し出して鑑賞するのは大変な手間がかかる。その点この本は便利である。

 この本はルネサンスからエコール・ド・パリまでの間に描かれた名画に登場した美女たちのうち130点を、作家であり美術キュレーターである平松氏が選び出し、そのうち50点に絞って紹介したものである。絵の紹介は100点以上である。文庫本サイズの読みやすい冊子である。

 紹介された作品は、裸婦の全身像、見事なコステュームを纏った作品、幼児を抱いた母子像、横たわる像を描いた作品、神話や歴史的な題材から取ったもの・・などに分けられる。全身像を見てもよし、一部のパーツをクローズアップしてみてもいい。あえてパーツを上げるとやはり目の表情の描写の素晴らしさに驚いている。

 現代は画像を記録することは簡単にできる。その技術がなかった時代には富裕層はお抱えの画家を雇い、こぞって肖像画を描かせた。描く方も細部まで緻密に、しかもバランスよく表現した。何しろ馘がかかっているからどれも力作ぞろいである。D・アングル(1780-1867)はドーゾンヴィル伯爵夫人の肖像画を書き上げるのに3年を費やした、と言われる。

 取り上げられている作品群は私の「違いがわからない」鑑賞力では優劣をつけられないが、私の好み、という点ではピックアップできる。10p「フローラ像」、36p「小椅子の聖母」、66p「ミランダ」、96p「オーストリア皇妃エリーザベト」、136p「真珠の耳飾りの少女」、138p「読書する娘」などの作品は見飽きることはない。

 こういった名画に接していると、一緒に働いている女性スタッフ達をはじめとして多くの人の表情が、ある作品とよく似ていることに気ずく。これは美人画鑑賞の福利品のようなもので日常生活の間接的な楽しみとなっている。尤も、プーチン大統領がTVに登場するたびに、R・ダ・ヴィンチの作品が思い出されるのはあまり快いとは言えない。


2/6(金)寒波、曇り 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 
 1:00起床、徒然。新聞・データチェック。5:30カ年ゴミ集積所に。7:40Taxiにて駅に。8:10こまち、大曲は冷えて霧が立つ。8:45−12:10大曲中通病院外来、今週も患者少ない。13:45帰宅、飯川病院ボランティア、外来患者神経性ショックか?救急車にて中通救急外来に搬送。19:00帰宅、夕食、20:30就眠。Σ5623Km。

アウシュビッツ解放70年(4) 人体実験の多数行われた
 「狂気」のヒトラーがユダヤ人の大量殺戮を命令し、アウシュビッツ等の施設で実行した、と言う認識は正しくはない。そのホロコーストのルーツを遡るとすれば、キリスト教がユダヤ教から分離する時代に到達する。だから、ホロコーストは長い時代を経て到達した結果と言うべきである。
 そんな時代背景の中、ドイツは第一次世界大戦の賠償とかで経済的に困窮しており、国民の不満が一気に高まった。比較的裕福なユダヤ人に抱く憎しみも一気に増幅した。たまたまそこにドイツ帝国の再興を掲げたヒトラーが現れた。

 「一人の英雄が時代を造るのではなく、時代がその人を呼び,造らせる」、という言葉がある。例え、どんな能力があろうとも、時代や環境が揃わなければ、如何に努力しても到底同じ実績は上げられない。
 ドイツの世論がヒトラーを育て上げた。その後の蛮行は彼の異常性が関与していたであろうが、彼を堅固に支えた世論と取り巻きがいた。
 ヒトラーは戦局が悪化した1945年、愛人E・ブラウンと結婚式を挙げた後心中し、遺体は命令を受けた部下によりガソリンをかけて処理したとされる。二人の遺骨は見つかっていない。
 戦後処理の中で、ドイツはヒトラーと取り巻きに何でもかんでも罪を押し付けたという感は否めない。

 大量殺毅計画が本格的に動き始めたのは、1939年9月1日で、まさにドイツ軍がポーランドに進攻した日とされている。この日、ヒトラーは信頼を置いている何人かの医師を集め、「回復の見込みなしと判断される病人に慈悲深い死を授ける」という安楽死計画を発表した。これがすべての始まりであったとされる。
 ナチスはもともと精神障害者や身体障害者を「生存に値しない命」としていたが、占領したポーランドの地で彼らに対する大量殺害を始めることになる。
 最初の頃は、統合失調症、痴呆、その他精神病患者などが対象であったのが、いつの間にか急激に適用範囲が拡がり、ユダヤ人絶滅にまで到達した。私はこの過程はまだ理解出来ていない。

 ナチの狂気集団には優秀な学者もおれば、哲学者も、大勢の医師もいたはずだ。高い教育を受け高い社会的地位を得た人々が悪に走るのは何故なのだろうか。ホロコーストの文献には狂気に陥ったと思われる多くの医師の姿が描かれている。同じ医療職にあるものとしてそれを推進した医師たちは、何を考えていたのか?疑問は解けない。日本でもオーム真理教集団の中に何人かの医師がおり、重要な役割を演じていた。高度の教育を受けながら良識・常識を欠く人の犯罪は社会を震撼させるものが少なくない。

 ナチスの犯した犯罪行為を個々に比較できるものではないが、中でも生きながら医学的人体実験は筆舌に尽くしがたい。ナチスは捕虜や政治犯、ユダヤ人などを対象に様々な人体実験を行った。実験の目的としては、医薬品の効果や生物学的兵器の効果確認、飢餓の限界を知る、劣性遺伝子を駆逐する研究等・・、が含まれたが、中には目的不明の、当事者達の楽しみのためのサディスティックな内容のものも少なくなかったという。私はこの意味のない、実験と言えないような行為が意外と多かったのではないかと推定している。

 戦時下では人は往々にして良識を失い狂気に走る。
 日本でも1945年に九州帝国大学医学部で、撃墜されたB-29に搭乗していた8名に対して生体解剖実験が行われた事実がある。そのほかにも人体実験が行われた史実は少なくない。


2/5(木)夜間降雪2cm、寒波曇り 外来 飯川病院
 1:00起床。新聞チェック、徒然。5:30資源ゴミ集積所に。6:47バス飯川病院、8:45-13:50外来+人間ドック結果処理+入院患者対応。今週は患者数多かった。14:00−18:20飯川病院、18:42に乗り遅れ、天徳寺までタクシー、歩行。19:20帰宅。20:20就寝。Σ5617Km。DVD視聴:「そこまで言って委員会」、「池上経済講座:アベノミクス」、「クールジャパン:日本の防寒」。中東での首相演説が問題化しているがみんな後出し意見を展開。

死生観(6):独居老人は死に方を心配しすぎる 
 日本人は80歳から90歳まで生きるのが標準になってきている。それに伴って「高齢者の医療観、死生観」に変化が生じている。

 「人生60年」の頃には「まだ死にたくない」と生きることが目的であり、希望であった。
 いまでも本音は「死にたくないには変わりない」のだが、「ボケるのだろうか?」、「いつ死ねるのか?」、「もうここまできたらいつ死んでもいいが、そのときには楽におくり出してるもらえるのだろうか?」、「・・・」が最大の心配事、関心事になっている。
 
 私は極論を言えば、慢性疾病や自然経過で生命力が下り坂にある高齢者にはもはや医療は必要ないと思っている。要するに不要に医療が介入する死よりは自然死が良いと思っている。実際、医療を介入させてもそれほどの効果がないし、時には患者に苦痛の時間を延ばすだけでしかない。

 だから、私が担当している外来では医療や治療に関することよりも「死」に関する話題で話すことが多い。尤も、外来に通って来られる方々だから死が差し迫った状態にあるわけではない。私自身が「自分の死」に関心があるだけでなく、いつお迎えが来てもおかしくない年齢の患者の方々に少しでもいい最期を迎えさせたくて、医師の立場から意見を述べている。もう20年も前から続けていることであるが、当初は「死」に関する話題に抵抗があったが、徐々に受け入れられるようになってきた。

 高齢者の死はもはや時代とともに「社会的な死」から「家族内の死」、さらに「個人的な死」に変った。

 ところで、阪神大震災、東日本大震災の仮設住宅等を中心に孤独死が社会問題化している。これは災害復興の有り様にいろいろな示唆を与える事象である。これについては考えるべき部所で考えてもらいたい。

 ところが、一般社会においても孤独死が問題化している。2013年のデータでは東京都で3806人が誰にも看取られず死亡している。日本では2013年の時点での65歳以上の単身世帯が26%、夫婦二人だけの世帯は31%である。後者の方々もいずれは片方が欠けて単身世帯となる。秋田の現状はどうか??いま手元にデータはないが似たようなものだろう。

 孤独死を社会問題として捉え対策を考える必要はあるだろう。これについても考えるべき部所があるはずだから対策は考えてもらいたい。
 
 私はそれ以前に独居生活には孤独死をとげるかもしれない、との覚悟がいると思う。


2/4(水)夜間降雪2-3cm、曇り降雪若干 外来 飯川病院ボランティア
 0:30起床。新聞チェック、徒然。除雪せず。6:47バス飯川病院、8:45-13:50外来+人間ドック結果処理一部+入院患者対応。今週は患者数多い。14:00-18;30飯川病院ボランティア。外来レセプト2/3処理。19:00帰宅、夕食、20:20就寝。DVD録画:「昭和は輝いていた:グラビア誌」、「ドキュ:アンネの家を訪ねて」観る。Σ5607Km。

アウシュビッツ解放70年(3) アウシユヴイッツからビルケナウヘ
 暗い気持ちででアウシユヴイッツ収容所見学を終わったあと、3Km離れた第2強制収容所ビルケナウヘ向かった。広さ53万坪と端の方が見えない広大な土地が広がっていた。かつては300棟のバラックがあり、ガス室もあったとか。ピーク時の1944年には90,000人が収容された、と紹介があった。

 バスを下車して真っ先に目に入ったのが、鉄道の引き込み線と中央衛兵所のいわゆる「死の門」だった。ここでユダヤ人は、「労働者」、「人体実験の検体」、「価値なし」などに分けられた。「価値なし」と判断された被収容者はガス室などで処分された。その多くが「女性、子供、老人」であったとされる。ガス室は計6棟があったとされるが、これらは撤退時に証拠隠滅のために破壊された。

 ユダヤ人達はビルケナウ収容所では通電された有刺鉄線のなかで家畜以下の生活を強いられていた。収容所における生活は現代人には到底語り得ないほどのものだったらしい。収容所を経験し生き延びたV.フランクルの「夜と霧」をはじめとして、「14歳のアウシュヴィッツ」(アナ・ノヴァク著、山本浩司訳、白水社)等に詳しいが、想像を絶する内容が語られている。後者はナチスの脅威にさらされたハンガリーの少女の手記である。氏は約4ヵ月の間に、アウシュヴィッツなど4ヵ所の強制収容所を転々としたが、その著書の中で「シンドラーのりスト」に描かれた内容さえ「甘いシロップのように生ぬるい」と言い切り、「私たちは感情なんて持てなかった。人間らしいところと言えば、ただ苦しむ能力が残っているだけ」と表現している。

 私はアウシュヴィッツ・ビルケナウの訪問で自分の無知を痛いほど知った。そのあと今に至るまでヒトラー、ナチス、ユダヤ人迫害についての文献や資料を集めている。

 その一環として2008年8月にS・スピルバーグ監督、「シンドラーのリスト」をDVDで見た。当時のドイツがどれだけ狂っていたか、映像がよく示している。私の表現力では何とも説明し得ない地獄絵図そのものである(徒然日記2008.5.15)。
 素晴らしい映画だと思った。あまりのリアルさに心は暗くなった。しかし、前出のノヴァクによるとこの映画ですら「甘いシロップ」のようだと言い切る。

 強制収容所の有刺鉄線を潜り抜け逃亡に成功した少年がいた。当時8歳のA・アッベルフェルドである。1940年母が殺され、父とともにゲットーに移住させられ、後には強制収容所に送られた。父の死後、逃亡に成功し、1946年にイスラエルに移住した。イスラエルの教授職にあった方で今もご存命らしい。著作に「バーデンハイム1939」(村岡崇光/訳、みすず書房、1996年11月)、「不死身のバートフス」(武田尚子/訳、みすず書房、1996年10月)があり、ノーベル賞候補にもなったこともある。氏は「今でもわからないのは、ユダヤ人の大虐殺を生き延びたという貴重な記憶を、ずっと呼び戻したくなかったこと、なぜかそれを許す気になったこと、今もって困惑しているのは、自分か体験したことの意味が分からないことだ」と述べている。

 強制収容所を体験した人々の言葉は実に重い。
 アウシュビッツやビルケナウの収容所を一度見学したことがあるとは言え、このような厳しい状況に置かれたことのない私など、強制収容所などについて何をコメントできるのだろうか、と心が萎縮し、キーボード打つ指が止まってしまう。それでも、自分の勉強のために、と資料を読み、少しずつまとめている。


2/3(火)曇り・寒波 外来 飯川病院
 1:10起床。本読み、文献チェック。早朝、降雪あり。4-5cm、除雪8回目。6:47バス飯川病院、8:45-13:00外来+入院患者対応。今週は患者数多い。13:45飯川病院、14:00-18;30勤務。19:00帰宅、夕食、20:10就寝。計Σ5603Km。DVD視聴:「アウシュビッツ解放70年:ヒトラーチルドレン」。

緊急車両の前を堂々と横切った若い女性の車 
 本日、秋田市街の主要道路の交差点で、駅の方向に向かっていた救急車の少し前を、若い女性の運転する小型車が平然と横切った。私はそれを歩道で一部始終見ていて、驚いた。

 女性の車は減速することもなかった。救急車は赤信号に入る直前で十分減速しており、さらに減速し、衝突することはなかった。女性の運転を見ると救急車を全く認識していなかった、と思われた。あわや事故に結びつく状態であった。

 3車線と1車線とが交わる信号機のある交差点で、救急車は3車線の主幹道路を秋田駅方面に向かっていたが、ちょうど交差点直前で信号は赤に変わった。救急車は徐行しながら「交差点に入ります・・・」と何度か連呼しながら交差点に入ろうとしていた。交差点は見通しも良く、救急車側は減速しないで交差点に入ろうとする車に気づいたのであろう、一層減速した。

 この道路と直角に交わる支線道路側は青信号である。その若い女性の小型車は信号が変わった時点で50mほど手前のところを走っていたが、交差点に入る直前から若干速度を増したように見えた。支線側の信号が変わるのは早いから、急いだのであろう。
 私は救急車が近ずいてくる中、さらにマイクで警告も出ているのに、その車が減速する様子がないので不審に思いドライバーの表情を見ていたが、その女性は周りの状況に無関心、といった感じで前方をしっかり見たまま通り過ぎた。少なくとも交差点に入った時点では救急車を認識したであろうが、ブレーキランプが点灯することもなくそのまま立ち去った。

 実際には救急車側の的確な対応があって間一髪といった状況ではなかったが、事故は避けられた。

 信号が青なので、自分の方に優先権がある、ということで交差点の状況には目もくれず・・といった感じであった。私にはかなり前から救急車の警報が聞こえていたが、そのドライバーは気づいていないかったと思われる。

 どちらにせよ、事故にならないで済んでよかった。

 ドライバーの性格か、注意不足か、体調が悪かったのか、カーステレオか・・・いろんな状況が考えられるが、若い女性のことなどわからない。

 私は、数年前に隣の交差点で信号無視の女子大学生の車に側面から当てられたことがある。ふらふらと走っている高齢ドライバーの車を見ることも少なくない。
 車の安全運転は自分だけ心がけていてはダメである。安全は他のドライバーの判断力、技術、良識に大きく負っている。
 特に交差点はいろんな思惑が交差するところである。たとえ青信号であろうと細心の注意をしながら通り過ぎる必要がある。


2/2(月)曇り・晴れ 寒波緩む 健康クリニック 飯川病院 4人目孫誕生
 1:00起床。本読み、文献チェック等々いつもと同じ。6:47バス飯川病院、9:00-11:00健康クリニックドック。入院患者対応。12:00飯川病院、14:00-18;30勤務。19:00帰宅、夕食、20:00就寝。夜半に4人目孫誕生。DVD視聴:「人類火星に立つ;過酷な旅」、「映画:プリンセストヨトミ」途中でギブアップ、「ドキュ;ソビエト連邦最後の日々」。計Σ5595Km。危険地域への渡航自粛徹底へ具体策検討開始。

アウシュビッツ解放70年(2) アウシュビッツのユダヤ人の収容所
 ユダヤ人の歴史は旧約聖書の時代から長く、複雑であるが、ポーランド関連部分についてざっと眺めると、ポーランドには.13世紀頃よりユダヤ入か流人し、次第に膨らんで最盛期にはユダヤ人の80%がこの国に住んでいた、という。やがてポーランドはリトアニアとの協力で黒海にまで達する大国となるにつれユダヤ人も全領域内に広がり、町を築き、商業、信用取引の自由を保障し、また生活の安全、個人別産、宗教の自由までも保障されるに至った。

 一方、ポーランドの歴史も複雑である。17世紀、ポーランドが衰退してからはユダヤ人は苦難に満ちた運命をたどる。それでも、ユダヤ思想の発展と自立した宗教と共同体を営むことができた。その過程でイディッシユ語なるものまで作られた。この言葉は、ドイツ語、ヘブライ語、スラプ語の混成語として、ヨーロッパやアメリカに住むユダヤ人の間で母語として用いられていた。ところが、ナチスはこの言葉をドイツ語のユダヤ訛り、方言として蔑視していた。

 ポーランド国民は何世紀にもわたる戦争の経験のなかで武装力の乏しさからか、いつも敗退の憂き目をみた。1944年ワルシャワ蜂起の時には、ドイツの圧倒的な火力の前に敗北し30万人が死亡した。
 それでも、ポーランド人はワルシャワを最後まで見捨てることなく、やがて復活し、現在に至る。

 2000年のことであるが、私どもは、ワルシャワで医療施設、ショパン関連施設、キュリー夫妻の施設等を見学した後、翌々日、バスでクラクフヘ向かい、ついでオフィシエンチムのユダヤ人の収容所に着いた。

 1939年、ナチス・ドイツがアウシユヴィッツと地名を変えた。こちらの方が一般的に知られている。この収容所は終戦時の姿のまま国立オシフィエンチム博物館として保存され、ナチス・ドイツの残虐ぷりを伝えている。

 入り口の鉄扉には、「ARBEIT MACHT FREI」(働けば、自由になれる)の標語があったが、何故かBの字が逆さまで、何か意味でもあったのだろうか。働いても自由になれない、という意味だったのか。人所者達はどんな思いでこの門を潜ったであろうか。敷地内は煉瓦造りの二階建て兵舎が整然と3列に28棟あった。このうち何棟かを見ることができた。

 収容棟には収容者の写真が掲げられていた。いずれも固有の氏名はなく、番号で識別されていた。さらに、メガネ、カバン、靴、ブラシ、洋服、女性の毛髪などが、陳列してあったが、埃にまみれくすんだ色に変化していた。人髪で編んだ絨毯も陳列されていた。これら遺品のうち貴金属が含まれるものは取り外して加工所に送られた。屍体の金歯も抜き取った、という。

 ユダヤ人達は到着するなり、ナチスの医師たちにより労働に耐えるか否かで分別され、80%がガス室で惨殺されたという。用いられたのは「チクロンB」で、大量の空き缶が陳列されていた。集団絞首台、第2ガス室、銃殺に使われた死の壁、焼却炉を見た。灰や骨は肥料にされた、という。

 飢えと重労働で動けなくなれば直ちに死刑にされた。医学実験も行われていた。
 犯罪者でもないのに処刑された、と言われる。気の毒で、違和感を禁じ得ない。犠牲になった人の数は400万人とも600万人とも言われていたが、詳細は分からない。ニュルンベルク裁判は400万人と認定したが、1995年に「150万人」に改められている。また、これ以外の数値を挙げる研究家や学者もいる。

 何故、こんな非道な犯罪が集団的に、年余にわたって一気に行われたのか?人間はどこまで非情になれるのか?疑問は解けない。
 いま、非情な戦闘集団「イスラム国」が台頭してきている。


2/1(日)曇り時に晴れ間 飯川病院日直
1:00起床。読書・新聞・文献チェックなどいつものごとく。8:30飯川病院日直に。終日読書、データ整理で過ごす。DVD視聴なし。16:30患者不調との連絡、意識喪失状態、院長も来院、中通病院救急に搬送となる。18;30帰宅、19:00夕食、20:30就寝。計Σ5590Km。邦人人質殺害された。

アウシュビッツ解放70年(1) 15年前の記憶から
 私は2000年にヨーロッパ医療視察団に同行してポーランドにあるアウシュビッツを訪れた。
 終戦の年に生を受けた私であるが、歴史を少しずつ学び直していく過程で、戦争の悲劇についても不十分ながら学んできた積りであった。

 戦争はきれいごとでは済まない。戦闘では双方の人間を狂わせる。そこには非人道的な殺戮などが展開される。個々のケースについてもどれも悲劇であるが、戦闘員でない一般人を巻き揉んだ状態は、到底実感できないが、恐らく地獄絵図そのものであったであろう。集団を対象に行われた非人道的な行為の最たるものは、終戦間際に行われた日本各地の都市に対する絨毯爆撃、広島・長崎への原爆投下、終戦前日の土崎空襲など、ヨーロッパではドレスデン空襲など枚挙にいとまはない。

 その中でヒトラーと取り巻きの狂信者達によるユダヤ人撲滅作戦は人類最大の犯罪の一つである。これは戦争とは直接関係ない思想によっているが、戦時下でなければできない人類の最大の犯罪の一つであった。
 アウシュヴィッツ強制収容所についてはそれなりに知っていたつもりで、私はいつかぜひ1度この目で確かめておきたかったが、その機会が巡ってきた。

 フランクフルトからポーランド国立ロト航空でワルシャワに向かったが、ANAのジャンボ機の明るい雰囲気、客室乗務員の豊かな笑顔から、ロト航空の50-60人乗りの小型機に乗り換えた途端雰囲気が一変した。客室乗務員も乗客も笑顔が乏しく、異様な雰囲気に包まれた。

 ポーランドは、昔、ロシア、オーストリア、ブロイセンによって分割され、ヨーロッパの地図から一時姿が消えたこともある。そんな国民の哀しみがいかに根深いであったか、その瞬間に少しわかった気がした。

 日本の感覚で20:00前後にワルシャワ国際空港に無事着いた時はホッとした。宿泊したホテルからは立派な文化科学宮殿がライトアップされていた。これは市内で最大の高層ビルで、スターリンの置き土産とされ、ガイドの説明によるとポーランド人にとっては有難迷或な施設なのだという。

 翌日から市内の要所を見学したが、日本の大学で一時学んだことがあるという若い、美形の女性ガイドの説明でのキーワードはショパンとヒトラーであった。やはり、笑顔は乏しかった。私は彼女が熱っぽく語る「ヒトレル」というのがヒトラーを示していることに気づくのにしばらく時間を要した。

 ワルシャワのムラヌフ地区にはユダヤ人の悲劇を記憶にとどめるために「ワルシャワゲットー蜂起」の記念碑があり、この国の悲劇に触れた気がした。
 
 私は広島・長崎を始めとする全国の戦争記念館が「平和公園」なる名称になっているのに違和感を覚えている。もっと具体的な名前にして国民が受けた悲劇を語るべきだった、と思っている。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
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  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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