徒然日記
2014年10月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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10/31(金)超快晴 大曲中通病院外来 飯川病院  
 0:30起床、新聞チェック他。歴史関連本読み、5:30ゴミ出し他。7:40Taxi。8:10こまち、8:45-12:10大曲中通病院外来。13:30-18:50飯川病院、7:00Taxi。近所の蕎麦屋で夕食摂る。20:00帰宅。誰もおらず無音。4964Km。DVD視聴「映画:雨あがる』、「探検:日本銀行』、「チュウボウですよ:佐々木希』。

吉村昭著 「戦艦武蔵」新潮文庫(3) 詳細な浸水時の記述
 戦艦武蔵はいつどこで建造が決定されたのか、これほどの巨艦を、世界最高の戦艦のイメージしたのは誰か、具体的装備の計画は誰なのか、設計の統括者は誰なのか、吉村昭氏の「戦艦武蔵」を読み進んでもなかなか疑問は解けない。

 これだけの巨艦のあらゆる箇所を詳細に設計したことも、そのまま建造して、大きな変更を加えることなく、昭和15年秋に、2年8ヶ月という短期間で進水にまで完成させたのも驚きである。

 かくして武蔵は浸水の運びとなった。
 大和は呉のドックで建造されたから、ドックに海水を満たす方法で進水させることが出来た。長崎造船所ではこの方法は取れず船台に載せた武蔵を滑らせて浸水させる方法となった。その際、進水の機会は満潮に達する11月1日朝9時が選ばれた。この進水作業は武蔵の重量から見て、一度失敗に終われば再度試みるのは不可能と考えられていた。また、船台から無事滑り降りたとしても、狭い湾の対岸に激突し破壊される可能性があった。これらについての詳細な対策がとられた。

 吉村氏は進水式周辺の対応についても詳細に調査している。その表現の緻密さには驚くばかりである。また、進水式自体も極秘に行われたが、その隠蔽方法についても詳細である。
 船体自体はシュロのすだれの中で極秘裏に建造されたが、進水後約1年は艤装工程のために長崎港の中央部にむき出しになる。これほどの巨体を隠すのにどうやったのか。

 ??進水式は簡素に行った。天皇ご名代軍令部総長官他の来賓はまとまって長崎入りするのではなく三々五々。平服で参加、数も大幅に限定した。 
 ??進水日を察知されないために進水日の2週間前から徹夜作業を日常的に行った。
 ??特別徽章無き作業員は船体に一切近づけず。
 ??領事館前に急遽目隠し倉庫を建設。
 ??海軍・憲兵隊・警察署合同の防空訓練と称し、ダミーの演習を行った。この間、市民の外出を一切禁止。海岸付近の住宅は家族を全員を家の中に閉じ込め、雨戸を閉めさせ、窓にはカーテン。各個に憲兵隊を配備。 
 ??海岸線・丘陵地一帯に1800名ほどの憲兵・警察職員を配置して市民の監視に当たらせた。これらのスタッフも進水時間には海岸線を向いて立つことが禁じられた。
 ??大型の春日丸を武蔵に横付けし、船体の一部を遮蔽。
 ??外国人家庭には家族調査と称する偽装の調査を行い、進水時間にはできるだけ調査を長引かせて時間稼ぎし、家の中に釘付けした。
 ??湾内外の船舶は全て湾外に出し、運行禁止した。
 
 結果的には浸水式は滞りなく進行、ゆっくりと海面に浮かんだ武蔵は対岸に衝突することなく計画地点に停止した。と同時に湾内の海面が満潮と武蔵の体積の影響によって約50cm上昇、進水による衝撃波は1.2mの高波となって対岸に押し寄せた。海岸付近の住宅は突然床下、床上浸水となった。飛び出した住民は憲兵によって家の中に押し戻され、恐怖の中で震えていた、という。高波は渓流されていた小舟を覆した。
 
 進水は全く完璧なものと評価された。その後1年余をかけて戦艦として艤装がおこなわれ昭和17年3月30竣工した。


10/30(木)快晴 外来 午後飯川病院 家内新潟経由東京へ
 0:40起床,新聞・文献チェックほか。家内の旅行準備の手伝いなど。7:45徒歩飯川病院、8:45-13:45外来+ 健康クリニックドック判定。14:00-18:30飯川病院。
19:10バス利用帰宅、夕食、20:00就寝。歩行計Σ4957Km。DVD「BATTLE SHIP』途中でやめ。「世界珍動物世界』、「家康の正室、築山殿はなぜ殺されたのか」視聴。

吉村昭著 「戦艦武蔵」新潮文庫(2) 超弩級戦艦大和は極秘裏に建造が進められた
 1894年(明治27年)7月から1895年3月の日清戦争、1904年(明治37年)7月から1905年9月の日露戦争に勝ち、1914年(大正3年)から1918年にかけて戦われた人類史上最初の第一次世界大戦でも、中国のドイツ基地に出兵した日本軍はそれなりの成果を収めた。このことが、日本の行く道を決定したと言っていいようだ。
 1931年(昭和6年)9月18日に奉天の郊外の柳条湖で、関東軍が起こした柳条湖事件に端を発した満州事変、関東軍はわずか5か月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。1932年(昭和7年)3月1日満洲国の建国が宣言された。この後、日本は国際社会の荒波の中で徐々に孤立していく。

 そんな時代の流れの中、昭和12年7月、九州の漁業界に異変が起っていた。海苔養殖漁業で用いるシュロが市場から姿を消したのだ・・・・。吉村氏は意表をついだ書き出しで戦艦武蔵について書き始める。

 武蔵の建造は極秘裏に進められた。知っていたのは軍の中でもほんの一握りの関係者だけであった。建造する三菱重工長崎造船所の周辺は小高い山に囲まれているのでその姿を隠す覆いを作る必要があった。そのために軽くて腐蝕しにくく、しかも火災に強いシュロを集めていたのである。
 武蔵は完成すれば全長263m、全幅38,9mもある。それを長崎市民からも、航行中の船からも見せないようにするためである。それが最後までうまくいったのも驚く。対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのため大きな倉庫を建造して遮蔽するなど、建造中の艦の様子が窺い知れないようなあらゆる対策を施した。長崎住民に対する監視も厳しく行われ、丘から景色を見ていた市民などはすぐに逮捕され、身辺調査された。

 このような巨大な建造物を極秘に、建造するために設計図は極秘事項として厳重に管理された。そのために一枚の設計図が無くなったときの特高警察の取り調べに関する記述が印象的である。吉村はこの項目について20ページを割いている。
 憲兵隊に連行された被疑者8名は警察署に収容された。独房に留置され、刑事たちの鋭い訊問を浴びることになった。刑事たちは、8名の身辺調査の結果と答弁の食いちがいがあると、刑事たちは数人がかりで暴行を加えた。竹刀で乱打、平手打ち、皮製のスリッパで殴る、など執拗な拷問を繰返しても、取調べの面には少しの効果もあらわれなかった。

 結局、19歳の少年製図工が、図面を持ち出し焼却したことが判明した。動機はその職場から逃れたいためにとった行動なのだという。
 無罪放免された7名の被疑者たちの3名は強度の神経衰弱に陥った。少年は裁判にかけられ懲役2年、執行猶予3年の判決を受け、特攻の手で密かに満州に送られた。その家族は密かに長崎から姿を消した。

 造船所には身元調査で問題がない、有能な技術者だけが集められていたが、何万枚もある設計図の一枚が紛失しただけで上層部はパニックに陥った。特攻の捜査は辛辣さを極めた。武蔵の前には従業員の人権など無に等しかった。


10/29(水)曇り 外来 健康クリニックドック判定 飯川病院
 0:40 起床,文献チェックほかいつものごとし。7:45徒歩飯川病院着。8:45-13:20外来+ 健康クリニックドック判定一部,13:30-18:30飯川病院、バスにて帰宅。19:30夕食、20:30就寝。歩数計Σ4945Km。DVD「日本の技術力:造船、電力供給維持管理など』、「NHK sp 巨大災害:異常気象・温暖化』、「伊福部昭の世界」視聴。

吉村昭著 「戦艦武蔵」新潮文庫(1) 吉村昭氏と三陸海岸大津波と戦艦武蔵
 歴史を学ぶ上で避けて通れないのが第二次世界大戦である。

 世界最大の戦艦大和の存在は複雑な感情を国民に植え付けた。どちらかといえば象徴的な思いでとらえられているような気がする。しかし、戦艦大和は極秘に作られていたから戦時中にその存在を知るものは極めて少なかった。真に国民の中に姿を現したのは戦後数年経ってから、すでに海の底に眠ってからである。戦後のドサクサと落ち着きつつあるときに、半ば象徴的、悲劇の戦艦として国民の間に一気に知られることとなった。大和に関しての文献、物語、漫画などは多い。

 一方、大和と同型の二号艦・戦艦武蔵については知る人は知るが、大和の陰に隠れて知名度は今ひとつである。

 作家吉村昭氏が丹念な取材と資料の読み込みによって戦艦武蔵が建造される過程から撃沈されるまでの過程を、精緻に描いている。それが本書「戦艦武蔵」である。

 本書は、約七割が、武蔵の建造に過程の記述に充てられている。
 軍事的観点からは、もはや超大型艦船の建造は合理的でないのではという意見が発せられつつあった昭和の初期に、当時の日本がこのような巨大戦艦を2隻も、いや、実際の計画では4隻が着手していた。これらの巨大戦艦群を作ろうとするエネルギーはどこにあったのだろうか。本書を読み進めるにつれて感じた第一の疑問である。

 第一次世界大戦後、各国は戦争によって疲弊し厳しい経済不況に襲われていた。当時の海軍予算は国家予算の32%も占めていた。国家予算は破綻の危機にあった。にもかかわらずの建造である。海軍航空本部長であった山本五十六中将は大和・武蔵の建造に反対意見を持ち、もし、これを航空機に向ければ2000機以上の作ることができると主張した、とされる。

 私が作家の吉村昭氏の著作を知ったのは1971年である。これ以降、氏の作品に親しんでいる。
 当時、私は岩手県宮古市の県立病院に2年間勤務した。海岸には津波の跡が残り、所々に三陸海岸大津波が到達した高さを示す指標が立っていた。内陸育ちの私が初めて津波を意識した。さらに、在任中は釣り仲間とともに釣り大会をはじめとして磯釣りを楽しむ機会があったが、その際の気構えとしてなだらかな丘ではなく、急峻な崖の上から糸を垂らすよう、地元の方たちからしつこく注意を受けた。津波ではなくとも、数時間ごとに予想外の大波が来ることがあり、釣り人がさらわれることがあるからだという。確かであった。いい天候で凪いでいるときにも驚くような大波が押し寄せ、海の怖さを知った。東日本大震災・津波の脅威については予想すら困難である。

 氏の作品、『三陸海岸大津波』は、1970年(S45年)に刊行された。これは氏の取材によって記されたルポルタージュである。三陸海岸各地の大津波を受けての被害状況、人々の行動を克明に記録している。
 私は三陸大津波の被害地にいたこともあって、私は津波の威力に驚くとともに、作家の吉村昭氏を知り、心酔し、多数の作品に親しんでいる。彼の緻密な調査活動と、それをまとめあげる能力に感嘆したが、医師の立場でも、その姿勢から学んだことは少なくない。

 その吉村氏が1966年、戦艦武蔵 について詳細な作品を残した。


10/28(火)早朝から雷雨、終日降雨 外来 飯川病院 居間のストーブ初使用
 0:40 起床,文献チェックほかいつものごとし。3:00am頃から激しい雨、6:00可燃ゴミ提出、7:30車にて飯川病院着.8:45-12:00中通外来、13:00-18:30飯川病院、新入院家族面談。戦後の歴史読む。18:50車帰宅、夕食、20:30就寝。DVD「映画:硫黄島からの手紙』、「そこまで言って委員会』、「NHKのど自慢:前回分」視聴。居間のストーブを今季初使用。

品物以外に何を売っているのか(3) 看護学生の方からのご意見に 
 10月11日の「品物以外に何を売っているのか(1)コンビニで82円の切手を買って」に対してお二人の方からご意見いただきました。書き込み、ご意見に感謝いたします。

 私の記述の趣旨は、「コンビニで82円切手一枚購入した。私はこの際の店員の笑顔とさりげないサービスに感心した。切手はどこで買っても同じである。でも、私が得たのは82円の切手だけではなかった。一日気分が良かった。私が働く病院の患者対応ははたして良いのだろうか、と気がかりになった。」という内容であった。
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看護学生の方からのご意見
ブログを拝見している看護学生です。実習う講義の忙しさに追われ、『いつも笑顔で話を聞けないこともある!どうしてこんなにへりくだらなきゃいけないの〜!』と思いがちになっていました。
へりくだる必要はなく、お互い気持ちよく過ごせるよう、態度よく接する姿勢が大切なんだなと感じました。
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 私の拙文から何かを感じ取っていただけたようですね。感謝します。
 まず、看護教育のカリキュラムについて私も問題を感じます。短期間に詰め込まれる知識の量は膨大です。こんなカリキュラムをこなさなければならない看護学生は気の毒で、そんな気持ちにったのもやむを得ないかもしれません。
 看護教育の問題点については、もし可能でしたら、??2013年1月21日「看護学院講義(6) 学生・講師にとって、教務にとっても辛いカリキュラム」、??2011年10月17日「看護学院講義(2)難解な教科書を用いる看護師養成カリキュラムに難あり」、ご参照ください。

 でも、看護学生のうちから、自分の置かれている立場を自覚する必要があります。学習環境がいかに大変でも、ひとたび「患者」と向かい合った際にはその気持ちを出してはいけません。患者にとっても、学生との対話は時に楽しいことも、時には辛いことがあるでしょう。時に感情をあらわにする方もおります。でも、多くの方々は病める身で、自習だとわかっていても協力してくれます。気遣いさえしています。有難いことです。

 実習の前には戴帽式があります。みなさん感激しませんでしたか? 私も役職上5回ほど法人立の看護学院の戴帽式に出席させていただきました。その時の祝辞の一部を引用します。
?? 何故戴帽式では「周囲を暗くする」のか、「何故ゆらぐロウソクの光」なのか。この暗闇は、病に悩む患者の揺れ動く不安を表しており、一筋のロウソクの光はそこを訪れる「看護師のこころ」を表し、患者にとっては「希望の光」なのだ、と私は解釈しました。(中略)私は本年8月1日に泌尿器系の病気で下腹部を大きく切開する手術を受けました。術後の痛みに耐えている時、深夜に懐中電灯を片手に私の状態を確かめに訪れた看護師さんの姿、言葉に大きな「安心感」と「闘病する勇気」を戴きました。手術という体験を通じて「看護師のこころ」を実感できたことは、私にとって大きな喜びになっています・・・。

 まだ未熟な看護学生の実習生に患者は何を感じながら協力しているのでしょうか?若い学生の学ぶ姿から、「生きる意欲」、「闘病する勇気」などを貰っているからです。看護学生の実習は、自分たちだけが得るだけではない、それ以上の意味があるのです。
 みなさん方のフレッシュな表情、若さにも価値があります。患者も「かつては若かった」のです。対話を通じ自分の若かった頃を偲び、懐かしみ、人生を振り返っているのです。

 まだまだありますが、最後に一つだけ追加します。笑顔です。これは万人にとって最高の価値があります。憂いをたたえた表情、不機嫌な表情、これが似合う看護学生に私は一度も会ったことがありません。勉強、実習に追われているからか、病院実習で緊張しているのか、実習生にはちょっと笑顔が足りません。ついてくる指導教官にも問題があり、笑顔が足りません。緊張を振りまいています。
 自分のためにも笑顔です。笑顔は自分のためだけでなく、人としていろんな可能性を導いてくれます。その扉です。

 今後の勉強を通じて看護の心、看護技術を学んでください。加えて、それだけではない看護師になりますよう願っています。


10/27(月)曇り時折雨 健康クリニックドック 飯川病院
1:00起床、文献新聞他チェック。この時間からだと余裕あり。7:45徒歩飯川病院、9:00-11:00健康クリニックドック。紹介状その他書類関連病等業務。12:00-18:30飯川病院。19:10バス利用帰宅、夕食。20:45就寝。歩行計4931Km。DVD「映画:ヴィヨンの妻』、「映画:アヒルと鴨のコインロッカー』視聴。

「孤舟」 渡辺淳一著 集英社(2) 「定年退職亭主在宅症候群」をテーマにした作品
 主人公は何もすることのない、有り余る時間を過ごすのに苦労するが、その日常生活の描写に作者はページを延々と消費していく。主人公の孤独や無力感、妻や娘から受ける疎外感に焦りを感じ、干渉し過ぎ、夫婦仲も娘との関係が悪くなって行く。この過程の描写はなかなか面白い。

 主人公は、大手広告会社の常務まで上り詰めた人である。その背景や苦労、意志の強さは人物像は作品の中に的確に表現されていない。妻の人間性も軽く表現されている。だから、読む側として主人公の気持ちに入り込めない。共感を抱き難い。だから一歩退いて読んでしまう。そんな感じを抱くが、これは著者が意図した表現なのかもしれない。

 後半に至って,主人公は寂しさのあまりデートクラブに入会し、ある女性に出会う。この辺から作者のお得意の恋愛まがいの話が中心になる。しかし、作者の売り物の一つである、濃厚なエロチックな展開は一切ない。著者も老いて発想転換したのか。私はそれも良しとするが、余りに綺麗すぎる内容で、小説としては盛り上がりを欠く。なんにも起こらないままハッピーエンドでまとめている。

 定年退職は社会的存在であった男性にとって「喪失の初体験」から始まる苦渋の体験を日々味わう人生である。
 退職の日、笑顔と花束で送られるだろう。送る側は厄介払いをしているだけ。
 家では家族の労いの笑顔と言葉、で迎えられるだろう。30年近く給料を届けていたのだから当然であるが、多分、翌日からは家族との価値観の違いに愕然とするだろう。
 
 定年後の男の孤独や行き場のなさ、なかなか足が地につかない空虚感、孤独感・・・現実はもっと深刻だろう。この方面をもっと掘り下げても良かったのでは?もっとも、作者はサラリーマンの経験はないから不案内だったかもしれない。

 勤務医を3年前に定年退職し現在嘱託医として働いている自分の場合は「喪失の体験」はなく、「いい意味での離別への置き換え」になっている。私にとっての社会的な立場の多くは、初めから私にとっては不要なもの、不似合いなもの、であったと自己評価しているからである。

 来年は年齢的節目にあたる。医師を続けていくのに心身ともに問題が生じてきた。だから、嘱託医としての立場は不似合いだし、病院や患者への責任も負えなくなってきている。私もそろそろ「孤舟」 の主人公のごとく24時間フリーの体験をしてみたい。その際に私の独自の道を歩めるか、主人公と同じ轍に落ち込むか、分からないがいまから楽しみにしている。

 本書は読者に受け入れられやすいテーマで、エンターテインメント小説としてとても読みやすい。
 軽く読めて楽しめる作品である。


10/26(日)快晴 飯川病院日直   
1:00起床。新聞チェック。資料、種々こなす。8:02バスにて飯川病院へ、8:30ー17;15日直業務に。患者は落ち着いており新聞チェック,切り抜き。昭和初期の日本の歴史読む。DVDなど。18:00車で帰宅。休宝寺に往復。19:30夕食、20:30就寝。4920Km。DVD「映画:シコふんじゃった』、「ブラジャー』、「スマホを捨てて外に』、「アンチエイジング」視聴。

「孤舟」 渡辺淳一著 集英社 「定年退職亭主在宅症候群」をテーマにした作品
 最近、外来に通院してくる94歳の男性患者から書籍を頂く。月一回の受診であるが、その度ごとに2冊ほど持参する。「先生は本が好きだというので・・・、私が持っていても捨てられるだけなので・・・」と置いていく。私は、頂くのも供養のうち、診療のうち、と割り切って頂いている。

 今まで10数冊になっただろうか。爛熟した江戸文化を中心とした人情物が多いが、これが結構面白い。近代日本の歴史を学ぶのに、当初は昭和以降の歴史で十分と考えていたが、昭和を理解するには明治維新以降の歴史の勉強も欠かせない。さらに、江戸時代の歴史も無視できない。そんな視点で、頂いた書籍を興味深く読んでいる。

 渡辺淳一著「孤舟」 もその頂いた本の一冊である。これは他のと毛色が変わっていた。

 私は、通常は小説、特に恋愛小説、官能小説などは読むことは殆どないが、この小説の主題が、私が言う「定年退職亭主在宅症候群」だったので読んでみた。この本では「主人在宅ストレス症候群」という名称が使われている。多分こちらの方が正式に通用しているだろうが、私が使っている方が実態に即していて良いと思う。

 「定年退職亭主在宅症候群」は定年まで家庭生活を半ば無視して働き続けた亭主が、退職後、四六時中家にいることで妻がそのストレスのために陥るうつ的状況のことを指す。退職後、数け月で妻が無気力、不眠、イラつき等の症状を訴えてくる。一方、亭主は自分に問題点があるとは一切気づいていないのが悲しいことである。定年を迎える年代の亭主はもはや「丈夫で留守で、給料を運んでくる」存在になっているのに、いや、それ以上に、積年の不満、恨みの源になっている存在で、そんな妻にとっては亭主は煩わしい迷惑な存在にすぎない。

 この本のあらすじは以下のごとくである。
 大手企業の役員で、60歳で定年を迎えた主人公の生活を描いている。本人はバラ色の人生が待っていると期待して定年を迎えたのであるが、何もすることのない、有り余る時間を持て余す毎日である。家族の生活に口煩く関与するものだから、結果的に長男 娘は独立、妻も家を出てしまう。主人公は、寂しさのあまりデートクラブに入会し、ある女性に出会う。そんな日常が淡々と綴られていく。

 定年退職は社会的存在である男性にとって「喪失の体験」の始まりで、人生最大の転機を言われる。
 数年前から団塊の世代が定年を迎え、社会問題にもなっている。こんな時代の空気を的確に読み、定年後の夫婦が迎える危機をいかに乗り切るかをテーマに選んだ作者の眼は的確である。

 しかし、私の印象では、この作品は成功したとは言えないように思う。
 私はまだ渡辺淳一氏の作品はほんの一部、10数編しか読んでいない。これからなので何とも言えないが、この作品には従来読んだ作品には見られない、退屈さが終始付きまとう。
 「遠き落日」、「心臓移植」、「花埋み」・・などから受けたシャープな印象とはちょっと違う作品となっている。


10/ 25(土)快晴 Sウーファー修理ほか
 1:00起床、新聞・文献、徒然、その他、ゆったりと。今後日曜祭日は全部日直となる。貴重な週末。午前はバラ関係若干、データ整理。午後は不調であったスーパーウーファーの配線点検修理、昨日再開。書斎の掃除。Blu-rayデータ整理インデックス作成。佐村河内・新垣「交響曲一番 HIROSHIMA」味わう。買い物運転。19:00夕食、20:15就寝。歩数計4911Km、わずか4Km。DVD視聴「枕草子(3)」、「マッカーサー」。

人口減・少子高齢化:医療はどうなる(4)先日いただいたご質問、ご意見に対して(2)

(2)医師過剰について

(2)医師過剰について

今後、地域によっては、相当長期間、人口減は続いていきます。住民の生活を支える産業や企業がある都市部は減少傾向が少ないと考えられますが、現在人口が減りつつある地方の県では年月を重ねるごとに、歯が抜けたように人口は減っていき、高齢化が進行します。秋田県がそのいい例で、半年に1万人減少し、現在104万人をわっています。これを食い止める方法は、私には思いつきません。

住民に必要なのは医食住の確保です。その中でも困難になっていくのは医療・看護・福祉等の供給と思われます。もちろん雪国等では、加えて道路網の確保などが加わります。人口減、高齢化地域では病院や診療所の運営も困難になります。これを維持し支えるのは公的機関のみになると思われます。

現在医師数は絶対数で見ても人口比で見ても増加傾向にあります。1973年には人口10万人あたりの医師数は120人でしたが、各県に医大を整備した結果、2010年には230.4人と倍増しています。ただし、分布が問題で、大都市圏に集中する傾向があり、2010年の統計では東京都に4万人、秋田県は2300人で、県の中でも秋田市周辺に800人と集中しています。医療が人と人との営みである以上、この偏在の傾向はさらに開大していくでしょう。要するに今後も医師数は増えていきますが、人口減地域ではその恩恵は乏しいと考えます。

住民の生活を支えるインフラがなければ住めません。その維持は困難になります。それらを居住区の中心部に集め、バス等で便宜をはかる方法もあります。効果は一時的で、その維持も、利用する方々にとっても厳しくなります。

医療提供はいずれは地域の公的な中核的病院からの巡回診療で維持するようになることが想定されます。

(3)大病院の医療 

地域の中核病院は規模は大きく建物も立派ですが、多くは医師不足であり、経営状態も厳しいものがあります。医師は過重労働で疲弊しています。

いささか古いデータであるが、2009年の秋田県の病院で不足している医師数は290人でした。こんな中、勤務医は自らを犠牲にして地域医療を維持しています。今後は県内の中核的病院の医師数は充足していくと思われますが、広大な県域の医療供給体制を維持するにはシステム化とマンパワーの確保が必要になります。

2013年の国民医療費は39.3兆円で過去最高でした。国は消費税を増税をする一方、医療費の抑制を図ります。診療報酬は下げられ、医療機関の運営は厳しさを増し、一層の効率的運営が求められるでしょう。大病院の運営は常に効率化が求められますが、これと診察上での効率化とは一緒ではありません。

患者さん方には病院と地域のクリニックの利点を、有効に、かつ効率的に利用しながら良き主治医を得て、健康を維持していただきたいと思います。


10/24(金)超快晴 大曲中通病院外来 飯川病院  
 0:30起床、新聞チェック他。歴史関連本読み、5:30ゴミ出し他。7:40Taxi。8:10こまち、8:45-12:00大曲中通病院外来。13:30ー18:30飯川病院、7:00Taxi帰宅,
19:00夕食、20:00就寝。4907Km。DVD視聴「井原西鶴:世界初の経済小説家』、「日本の巨石文化』、「知恵泉:西行』、「壇蜜:時々ファーム』。

人口減・少子高齢化:医療はどうなる(3)先日いただいたご質問、ご意見に対して(1)
 先日の人口減・少子高齢化:医療はどうなる(1)に対し以下のご意見をいただきました。感謝申し上げます。プライバシーは守られていると思いますので記述に沿って私の考えを述べてみたいと思います。

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医師過剰になりますか?(高齢者)
(1)若いときはたった5分で行けた距離にある大病院。足は痛いし、血圧も高い。夜はおしっこが近くて夜も眠れない。大病院では待ち時間も長い上にいろんな科をはしごしなければなりません。それでしかたなく近所の医者にかかっております。そこでは健診から予防接種もしてくれます。具合の悪い家内には往診までしていただきました。
(2)最近不安に思うことは、この先生が倒れでもしたらどうしようかということです。若いときに比べ高齢者になってからの病気は多様です。とても医師過剰のようには思えません。
(3)大病院の先生方には効率的かもしれませんが、高齢者の私にとって大病院は非効率的なのです。
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(1)について
ご質問の方の受診について考えてみますと、ご近所のクリニックに通院なさっているのはより良い選択だと考えられます。高齢者になるとともに病気は多様になっていきます。しかも、患者さん方が期待するほどの治療効果が得られないこともあります。これらの多くは加齢に伴う現象で、自然の摂理です。大病院なら・・と考えることはできません。

クリニックの医師は外来診療の専門家です。より幅広く多様な疾患に対応できます。健診、予防接種はもとより、往診にも対応できます。一方、大病院の医師は入院機能を持ち、より重症な疾患に対応できる専門家です。

クリニックに病院の診療と同じ内容は求められませんし、病院医師は入院診療、救急診療も担いますので、かかりつけ医的能力を求めることも出来ません。往診はできません。

クリニックの医師は自分のところで出来る診療についての限界も心得ています。適宜大病院の医師とタイアップし、必要に応じ病院の専門医に相談しながら診療を進めているはずです。もし不安なことがあれば申し出て病院に紹介していただけばいいのです。

病院の待ち時間が長いのは外来担当医の手に余るほどの患者が受診することです。多くの病院では医師不足のために外来担当医を増やせないのが現状です。病院医師の立場からも、安定した病状の方々には通院に便のいいクリニックに転院なさることをお勧めいたします。


10/23(木)曇り 午後降雨 外来 飯川病院
 0:30起床。文献・新聞他。7:40バス徒歩飯川病院、8:45-13:45外来+病床見舞い。14:00~19:00飯川病院。 新聞・文献スクラップ入力。19:30帰宅、夕食、20:30就寝。歩行Σ4895Km。 DVD視聴「映画:月光の夏』、「キング牧師との大行進』、「完全養殖マグロ』、「ギフト E名言集:経済&道』。

ノーベル平和賞:マララさん受賞(2) 彼女の安全をどう守る
 女子教育を訴え続けているパキスタンの少女マララさんがノーベル平和賞を受けた。
 私はそのニュースに接した時、わずか17歳の早すぎる受賞にオバマが受賞した時と同じに、嫌な感じを受けた。無知であった。マララさんの資料にいろいろ接して、今は良かったのだろうと思っている。ただし、問題はいろいろある。

 オバマの場合は核廃絶に向けての決意を語った演説だけで実績は何もなかった。同じことはもっと早くから私も言ってきた。

 マララさんは銃撃で受けた瀕死の重傷から再起したが、彼女の意思はなんら変わることはなかった。こらはすごい。あどけない17歳の少女が、銃弾の脅しにも屈せずに信念を貫いている姿勢は世界を動かした。彼女のこの危険を顧みない行動力はすごい。いま、私はオルレアンの少女「ジャンヌダルク」の資料を読んでいるが、たがいにイメージはオーバーラップする。

 マララさんの、主張は正しい。しかし、今後迎えるであろう現実は厳しい。受賞によってさらに命が狙われる可能性が生じた。命が危ない。どうやって守ってやるのか。バキスタンで初等教育を受けられない子どもは、2012年の推定で約537万人、うち6割近くが女性。農村部を中心に「女性教育は不要」との考えが今でも根強い。これが彼の地の文化である。こんな状況で教育論を主張してもそう簡単に受け入れられるものではない。文化のレベル、武装闘争の文化を背景にしたままでの運動である。一部ながら彼女に対して余計なことを、とネガティブに捉える意見もある。こんな状況だから、どんなに頑張っても1−2世紀はかかるだろう。

 この文化、文明の変化を一気に成し得た国がある。それは我が国である。私が知る限り、他の例を知らない。明治維新しかり、戦後の民主化しかりである。前者の場合は近代化して国際社会の中で生きていくための維新であり、後者の場合は暴力的勢力が壊滅的状況になった時にGHQの圧力で無理やり入れ替えられた。マララさんの場合は決定的に異なった環境にある。
 ノーベル平和賞受賞者の安全を守らなければならない。

 最後に、マララさんの受賞は現時点では祝うべきであろうが、ノーベル平和賞は廃止してもいい賞だと思う。過去の平和賞受賞者の中には何が評価られたのかわからないケースがある。卑近な例は結果が見えないオバマ、日本人受賞者の佐藤栄作も意味がわからない。裏で核持込み等の密約をしていた。
 第一、平和運動の意味はその社会ごとに定義が異なる。それをどう評価するのか。先進国の平和運動の定義を無理やり持ち込んでも到底受け入れられない場合だってある。平和運動自体が表裏一体の影響を多方面に及ぼす。新たな紛争の元にもなりうる。その評価はどうなされていくのか。ノーベル委員会はそこまでフォローしていないように思う。

 平和運動を評価するノーベル平和賞に値するような賞は他にもある。それでいいじゃないか。


10/22(水)曇り晴れ 外来 ドックデータ整理 飯川病院   
0:30起床。読書、録音データ整理と処理、分類など。歴史関連本読み。7:30バス徒歩飯川病院着、8:45-13:15外来+ドックデータ整理+病用患者見舞い。13:45-18:30飯川病院。19:10バス帰宅、夕食、20:15就寝。Σ4886Km、DVD視聴「そこまで言って委員会」、「Switchインタビュー 鳥崎和彦X加藤隆生」、「警察学校」、「中国ネット依存矯正施設」。

ノーベル平和賞:マララさん受賞(1) 平和賞は価値観の押し付けになりかねない
 女子教育を訴え続けているパキスタンの少女マララさんがノーベル平和賞を受けた。

 私はそのニュースに接した時、オバマが受賞した時と同じに、嫌な感じを受けた。
早すぎないか?わずかに17歳である。
実績は何か?銃撃で瀕死の重傷を受けていなければどうだったのか。
「女性教育は不要」との考えがパキスタンで根強い。異文化に対する価値観の押し付けでは?
インドのNGO代表、K・サトヤル(60)との共同受賞は、バランスのため?
・・・・
 
 あどけない17歳の少女が、銃弾の脅しにも屈せずに信念を貫いている姿勢は世界を動かした。イスラム過激派が暴力で女性や子どもの教育を否定する中、偉大な勇気だとは思っていたが、もうノーベル賞なのか?
 ノーベル賞委員会は「過激派の抑圧と闘い、青少年の教育を受ける権利を追求している」ことを評価した、としている。

 2009年、イスラム武装勢力「パキスタンのタリバン運動(TTP)」が女子教斉の停止を布告。マララさんは英BBC放送を通じ、実態を伝え始めた。12年10月の下校中、通学バスに乗り込んできた男に銃撃された。TTPは「イスラム法に反する入物を殺すのは当然」と犯行を認めた。軍は9月、銃撃犯10人逮捕を発表したが、過激派への恐怖はぬぐい去られていない。
 
 マララさんか住んでいた北西部地区では、政府が地元の学校名をマララさんにちなんだものに変更する計画を進めたが生徒が抗議し、その計画は頓挫している。これが彼の国の教育文化の現状である。

 ナイジェリアでは今年4月、イスラム過激派ボコ・ハラムが女子生徒200人以上を拉致した。まだ解放されていないが、マララさんは7月の誕生日に同国を訪れ、被害生徒の親や事件直後に脱出した生徒と面会し「今年の誕生日の願いは、私たちの少女を無事取り戻すことだ」と訴えた。この危険を顧みない行動力はすごい。

 マララさんは「私が成し遂げたい本当のゴールは、すべての子どもが学校に通える様にになることです」と話している。確かにそう思う。だが、現実は厳しい。
 ユネスコによると、バキスタンで初等教育を受けられない子どもは、2012年の推定で約537万人、うち6割近くが女性。農村部を中心に「女性教育は不要」との考えが今でも根強い。教育への理解が浸透しているとは言い難い国である。小学校に通えないのは世界中で3100万人、中学では約3400万人。アジア、アフリカの広い範囲で女性差別が常態、これが世界の現実である。先進国では考え難い現状に見える。

 マララさんが「本とペンをすべての子どもたちに」との主張は正しい。「教育を平和構築の原動力とすることが暴力の連鎖を止める最良の道だ」という意見もある。多分、この価値観も普遍的で、正しいだろう。ただ、現状では彼の地の実情を無視した、先進国の価値観の押し付けでないのか?
 地球を何100回も破壊しうるほどの数の核兵器を撲滅できない先進国の価値観は、彼の地の住民にとって本当に正しいのだろうか。


10/21(火)雨 外来 飯川病院
 0:30起床、歴史、新聞切り抜きと入力などいつものごとし。5:30可燃ゴミ廃棄、7:20車で飯川病院へ。8:45-13:15中通病院外来、病棟患者見舞い。13:45ー18:45飯川病院。 19:10帰宅、夕食、20:00就寝。DVD視聴「映画;明日の記憶」、「幻の東京計画」、「巨大地震:驚異のメカニズム」。

閣僚辞任劇(2)我が国のジェンダー文化はまだ成熟していない
 本年は女性が不自然に注目された年である。

STAP細胞
 STAP細胞について唐突な発表であったが、すごい発見だった。「ネイチャー」、「ハーバード大学」、「理研」、「・・」とでてくる中で報道機関も国民も最初から信じて当たり前と考えられる。そのためなのか、報道はSTAP細胞の意義をそっちのけにして、「リケジョ」、「かっぽう着」、「ムーミン」といった学問そっちのけの、世紀のアイドル誕生といった報道が実に不自然であった。「男のやっかみ」も込められていただろう。
 この報道を通じて我が国のジェンダー文化の後進性が明らかになった。

都議会のセクハラヤジ
 都議会のセクハラヤジ問題は日本の文化の中では男尊女卑的考えが未だに根強く残っていることの表れであった。報道したメディアのスタッフもそうだろうし、コメントを述べた識者達も、男性であれ女性であれ総じて聖者様であった。識者達は議員の心の内までを批判していた。本当にヤジを飛ばした議員の非を責める資格はあるのか?
 私はセクハラヤジを是とする気はなく、バカな行為だったとは思うが、女性に対して思うことは似ている。だから、少なくとも私には議員の心の内までを批判する資格はない。「ある、姦淫した女性に、住民たちが石を投げていた時、キリストだったか忘れたが、自らの心にきいて石を投げる資格があるものだけが投げるが良い、と述べたところ誰も投げなくなった・・」という話が伝わっている。

閣僚辞任劇
 今回の閣僚辞任劇は性別に全く関係ない話題である。この件に関する新聞報道の見出しを並べてみると、「女性閣僚の失態、辞任」としての報道が大部分であった。

 私が「女性閣僚の問題」と捉えるのは小渕・松島両氏についてではなく、歴史を無視した総理の不自然な女性登用という点についてである。我が国では女性の国政参加が認められたのは1945年11月で翌年の衆議院選挙で女性議員39名が誕生した。まだ、たかだか70年しか経っていない。女性の登用については一般社会の成熟を待つことであろう。

 自由の国アメリカでも人種差別問題はリンカーンの時代、ケネディの時代をへて改善に向かっているとはいえ、未だに根強く残っている。性差別も同様である。人の考え方は法があろうと何があろうとなかなか変わっていくものではない。それには何代かの世代交代が必要である。

 上記の3件はちょっとした例に過ぎないが、メディアの報道から「女性」を強調した部分がなくれば、我が国のジェンダー文化が真に成熟に向かった、と言えるだろう。

 それにしても、政治家の金に関する意識はどうなっているのだろうか。マニュアルはないのか? 公職選挙法や政治資金規正法に抵触しないか否かを判断できるプロの会計士などを雇ってはいないのだろうか?小渕氏の件は週刊新潮の指摘で発覚したという。第三者が比較的簡単(?)に見つけられる問題をチェックできなかったのか、私は不思議に思う。


10/20(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院 小渕・松島大臣辞任
1:00飯川病院で起床。いつもの如く持参のデータ整理、読書とか。9:00−11:00健康クリニックドック。中通にて入院患者のオーダー書き。12:30-18:30飯川病院。回診ほか。19:00夕食、20:00就寝。 歩行計Σ4869Km。昨年は寒気襲来で足温器・湯たんぽで暖をとった。DVD視聴「ザ・プロファイラー:太宰治」、「昭和は輝いていた:通信販売」、「ありえない世界:トンガ、グルジア共和国」。歩行計Σ4864Km。

閣僚辞任劇(1)性別は関係ないのにメディアはまたもや大騒ぎ
 本日20日午前は健康クリニックのドックの担当であった。
 9:00から業務を開始したが、待合室のTVが何やら慌ただしい動きを見せていた。少し前に小渕経産相の閣僚辞任が発表されたらしい。待合室には15名ほどの人間ドック受診者が画面を眺めていたが、特別驚いた様子もなく淡々と見つめていた。またか、と慣れきったという感じである。一番驚いていたのは私だったかも知れない。
 続いて、午後のラジオで松島法相の辞任も発表になった。

 小渕氏は講演会が開いた観劇会支援者向けに開いたイベントで、その費用を負担した疑いが浮上している。本当ならば選挙民に対する利益供与に相当し公職選挙法違反する。単に記載漏れであるならば政治資金規正法に抵触する。真相はわからないが、小渕氏はどっちに転んでも閣僚辞任は回避できない状況にあった。松島法相の場合は選挙民にうちわを配ったことが問題になった。法的解釈はわからないが、棒がついたうちわは涼を得るための生活用品、と見なされれば公職選挙法に違反する。

 安倍改造内閣の大きな目玉の一つの女性閣僚登用が裏目に出たかたちとなったが、やはり総理の勇み足である。女性の社会進出、登用は日本の将来にとっても重要な意義があるが、焦る事はないのだ。我が国では文化的にまだその土壌は育っていない。

 総理は「国民に深くおわびする」と頭を下げたが、その任命責任は重い。
 
 ただ、私が思う任命責任は無理やり5人の女性閣僚を任命したことに対してであって、小渕・松島問題は「女性閣僚」の問題ではない。政治家共通の「金」の問題である。こんなに「金」にまつわる政治家の辞任劇があるのにおなじ轍を踏んでいる。「バカでないか・・」と私は思う。それがたまたま女性閣僚にあった、ということ。

 今回の件での救いは、小渕氏自身が「知らなかったではすまされない重大な問題」と認識し、事実なら閣僚辞任もあり得ると発覚当初から述べていたことで、潔しとも言い得る辞任であった。
 松島法相の場合は、当初は「言いがかり的指摘だ・・」といった発言までしていた。ことの重みを「知らなかった」、という。不用意な行為であったことは否定できない。

 自民党の議員の男女比の具体的数値を私は知らないが、まだまだ少ないはずである。この少ない中から5人も閣僚を登用したのは不自然な政治的判断である。真の女性の社会進出は、まず自民党の女性議員を50%近くに高めること先行させなければならない。

 小渕・松島問題は、性別は関係ない問題である。メディアは「女性問題」とでっち上げ、またもや大騒ぎしている。メディアにも考えてもらわなければなるまい。


10/19(日)晴れ 飯川病院当直
 1:00起床。文献チェック他。何時ものごとし。午前はZonta関連の送迎、外灯、コーヒーメーカー等家電修理。午後はガレージの整理、庭の掃除。17:00飯川病院へ当直に。病院のマック2台も新OS「Yosemite」にアップデート。この週末はOSアップデート作業中心に過ごしたことに。18:00検食。21:30就寝。DVD視聴「枕草子(3)」、「近代医学の父、北里柴三郎」、「世界最大の魚マーケット築地市場」。歩行計Σ4864Km。

三楽園バラ園、雄和のダリア園見学  レストランの残り物は誰のものか
 10月18日、終日雨の予報であったが、昼前に若干小雨になったので秋田市郊外の老人保健施設「三楽園」のバラ園と雄和の「国際ダリア園」を見学した。

 家内の発案で親戚の高齢女性を2名誘い、私が運転した。家内の発想の真意はわからないが、お誘いした女性は近々福祉施設にお世話になってもおかしくない雰囲気があった。バラでなく施設の見学をの方をメインでなかったのか?そう勘ぐってしまった。

 「三楽園」のバラ
 「三楽園」はバラの庭園が有名である。 バラまつりは年2回、6月と10月に開催されていて、昨年にも見学したので招待状がきていた。このバラは先代の施設長が自ら栽培した、と言う。施設案内には、「当施設では緑とバラに囲まれた環境で、より良い療養生活が送れます」とある。入所者はバラで癒されると評判はいい。ただ、寝たきりの方も多く、比較的元気で花を楽しめる方はそう多くはないとスタッフの説明があった。

 330株のバラが栽培されている。小雨が降る中の見学であったが見学者は私どもだけで、ゆっくりと説明を受けながら見ることが出来た。花は全体的に盛りを過ぎていたが、咲いている個々の花は雨に濡れてとても美しかった。

 私はバラの花は嫌いではないがあまり好きではない。私に比較して高貴すぎるからである。あトゲも嫌だ。不注意なのだが、私はしょっちゅう怪我をする。

 それでも家内の希望もあって、私も最近はバラを10数本程度栽培している。我が家のバラは三楽園ほどの背の高さにならず、茎の太さも細くひ弱である。土壌と日当たりのせいと諦めていたが、私に責任があるようである。今年もバラ相談コーナーで栽培の秘訣を教えてもらったが、剪定、虫害防止、肥料・・などなど年間に渡って細やかなケアが必要とのことで、わが家のバラの花に元気が乏しい理由がよくわかった。
 目の保養になったが、今回も私には無理だということもばっちり学んで帰ってきた。

雄和の「国際ダリア園」
 私はこの夏以降、3回目の訪問である。折から降雨が激しくなったので丘の上のレストランで昼食をとりながら「国際ダリア園」の遠景を楽しんだ。手入れの良さが実感できた。レストラン内部にもダリアの鉢とか切り花のアレンジが多く飾られていて、園に植えられている花とは別の視点で十分に楽しめた。

レストランの料理は誰のもの??
 昼食時、3人の高齢女性のご飯の大部分が残ってしまった。私は鳩の餌を作るために持ち帰りたいと申し出たが、ウエーターから拒否された。店によって時々拒否されることがあり一定していない。これを機会に、レストランの料理の所有権は店舗側にあるのか客にあるのか、改めて考えてみようと思った。


10/18(土)降雨・夕方から快晴 三楽園バラ園、融和のダリア園再訪 
 1:00起床。マックの新OS「Yosemite」自宅の2機種にアップデート。時間もかかったし、不慣れのためか操作に戸惑うことばかり。11:00-16:00家内と親戚2人を乗せて老人保健施設『三楽園』のバラ園、雄和のダリア園に再訪。雨で条件は良くなかった。本読み、その他。19:00夕食、20:30就寝。Σ4857Km。

徒歩通勤2014(11) 北海道最北端通過し南下開始
 昨年4月7日から伊能忠敬が測量しながら歩いたと言う海岸線のルートを、私もバーチャル上で北上し、約1年半になる。東京を起点に現在、積算歩数計は4847Kmを示し、北海道の地図上での頂点を通過し、ついに南下を開始している。

 Σ2932Kmの時点で青森県を終了し、北海道に渡った。北海道の海岸線一周は2750Kmである。昨年までは午後は緩やかな勤務体制であったが、本年一月からは飯川病院の院長の補助として、勤務またはボランティアで帰宅は18:00過ぎになったので、1日平均12Kmほどと歩行距離が少なくなった。

 北海道の南端福島町を皮切りに津軽海峡、太平洋側を北上、根室、知床半島を通過、オホーツク海岸側を北上、やっと地図上の頂点、稚内市に達した。やっと頂点を過ぎ、これから北海道の日本海側を南下することになる。
<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/0a/96ac2b1f1f167d60801fce8bdb76b706.jpg" border="0">
 本州に戻るにはまだ740Kmもある。青森県は秋田県境まで終了しているから、本州に戻ると秋田県の海岸線を歩くことになり、楽しみである。

 東京以北、東北地方を通過中はマメに地図を開き通過地点を中心にその地域の特徴、産業などについて学んできたが、北海道に渡ってからはあまりその気にはならない。
 私は北海道に7回行っている。しかし、親近感を感じるまではいたっていない。地図を開く機会は殆どなかった。

 最初は中学校3年の時の修学旅行であった。細かいことは忘れたがもっとも印象深かった。
 二度目は札幌医科大学の受験のため。この時は受験初日に新潟大学の合格が分かり受験せずに岩手に戻った。
 三度目は親戚の娘の結婚式で函館に、他の3回は札幌で、内科学会総会、血液学会、臨床血液学会への出席であった。その初回にYS-11機上で膀胱尿管逆流現象を体感し、私の健康に関する考え方は一変した。臨床血液学会総会ではシンポジストを務めた。そんなことをつらつら思い出した程度である。

 南下が始まったといえど、まだまだ北海道の旅は続く。

 歩行開始時に履き替えたシューズの底がすり減ってだめになった。昨年から約5000Km歩いたからこんなものだろう。2週間前に新調した。あまり快適だったのでいきなり10数Km歩いた。不用意で予防策を取っていなあった。足低に3cmほどの水疱ができた。改善しつつあるが、今は距離を制限して改善を待っているところである。


10/17(金)降雨曇り 大曲中通病院外来 飯川病院 NTT回線からauひかりに変更
 0:30起床、いつものごとし。5:00可燃ゴミ廃棄、7:45Taxi駅に、8:10こまち、8:50-12:00外来、病院駅間は歩行できず、13:30-18:30飯川病院。19:15帰宅、夕食、21:30就寝。DVD「ザ・プロファイラー:ジャンヌ・ダルク」、「造幣局」、「清少納言(2)」視聴。本日夕方から自宅の電話、インターネット回線auひかりに変更、設定など若干必要。

人口減・少子高齢化:医療はどうなる(2)住民がいる限り医食住提供は国の務め
 今後、相当長期間、人口減は続く。
 これを食い止めようにも国内のパイは限られている。●新生児を増やす、●寿命をもっと伸ばす、●都会から連れ戻す、●移民を大量に入れる、しかない。これらの全項目に渡って必要なのは住民が食べていけて、必要最小限の文化的生活が営める生活環境が必要がある。住民がいかに住み続けたいと思っていようが、収入源と生活のインフラがなければならない。
 だから、人口減社会に応じた方向に早めに舵を切らねばならない。
 昔は最低限の生活のインフラの基盤は「衣食住」であった。現代は「医食住」である。
 
 原発事故の避難者の声
 福島第一原発から20Km圏内の川内村東部地区の大部分について、政府は今月1日に避難指示を解除した。福島県内では現在、10市町村に避難指示が出され、約8万人が避難している。そのうち解除対象はわずか約69平方キロ、139世帯274人である。解除になったから自宅で暮らせるが、「買い物」や「医療機関への通院」の便がなく、村民はそのまま避難先に留まる、という。

 東日本大震災の被災者の声
 岩手県は9月25日、沿岸被災地から内陸部や県外へ避難した被災者を対象に行ったアンケート調査の結果を公表した。県によると8月末現在、震災に伴う避難者は内陸に3787人、県外に1712人。居住場所について「避難先に定住したい」とした人は内陸50.7%、県外43.2%であった。一方、「元の市町村に戻りたい」は20%台にとどまった。避難者の地元に戻る意欲は低下傾向にあり、人口流出の懸念が高まってる。
 復興の先行きか見通せないことが背景にあるとみられる。「復興やまちづくりに時間がかかる」、「現在の居住地の(医食住などの)利便性が高い」などの意見が多かった。

 都市圏に住む住民の声
 内閣府が10月18日に発表した「日本の将来像に関する世論調査」では都市に住む住民の60%が地方に移り住むことを希望しておらず、60代では75%と年齢とともにその傾向が強まっている。理由は地方に行けば「文化、教育・医療・福祉の利便性」が失われる、をあげている。

 原発事故の避難者、東日本大震災の被災者の声から読み取れることは、例え住み慣れた土地であっても、社会生活を営むためのインフラが整っていないと「戻りたくとも戻れない」のであり、「インフラが整う可能性は低い」、だから「戻る意欲がなくなった」である。
 また、都市部の住民は「あえてインフラが乏しく、生活に不便な地方に移住する気はない」、と都市部に留まる考え方が多い。

 原発事故、東日本大震災の被災者の実態、都市部住民の生活意識は「地域創生政策」の困難さを示すモデルでもある。国内の多くの自治体は年々、歯が抜けたように人口が減っていき、それと共に生活のインフラも消えていく。だから、人口増など望むべくもない。


10/16(木)晴れ曇り 外来 飯川病院
 0:30起床、歴史、新聞切り抜き入力・整理。録音データ整理などいつものごとし。7:40バス利用飯川病院着。8:45-12:20中通外来、13:00ー18:30飯川病院。19:00夕食、20:00就寝。DVD「ザ・プロファイラー:ジンギスカン」、「少女は何故記憶を失わなければならなかったのか」、「清少納言(1)」視聴。歩行計Σ4847Km。2年前「腸閉塞」手術を受けた日。昨年は寒くて数日前から書斎では足温器使用開始した。今年は未。

人口減・少子高齢化:医療はどうなる(1)集約による拠点化と派遣による地域医療の維持
 現代社会の看過できない喫緊の問題点として、「人口減、「少子高齢化」」が挙げられる。この2項目は互いにリンクしており、双方ともに対応困難である。
 日本の文明の流れ、世界的な経済の流れがもたらした自然の姿、一部人工的な姿である。だから,最近アベノミクスの3本の矢の一つとして重視されている「地方創生策」は、見方によっては時代に逆行する課題であるから、地方創生策は実現困難な政策である。バラマキによって多少の影響は出るかもしれないが、多分、継続的成果を上げられないであろう。

 少子化は、経済が爛熟した先進国では共通してみられる現象である。中でも日本は韓国に次いで出生率の低下が著しい。国力は経済指標であるGDPとかで論じられて来たが、そんな指標以上に少子化は日本社会が抱える最重要課題であった。
 にもかかわらず、人口問題、少子化問題をわが国では軽視してきた。
 日本の人口問題の歴史的概略は9月10日の「地方創生は出来るのか(3)少子化に逆らうことは出来る?」に簡単にまとめてみた。

 人口減・少子高齢化の歴史は長い。
 2014年5月「日本創世会議」の「人口減少問題分科会」が2040年の人口動向試算発表した。2010〜40年の間に20〜39歳の女性人口が5割を切る市町村数が全国の自治体の5割に、具体的には全国の896自治体に上ることをあげ、地方の壊滅実態予測が示された。

 この発表があった後に一気に少子化・人口減問題が政治的にも取り上げられ、政府には地方創生本部を設けられた。この深刻な実態を軽視してきたメディアは今になって大騒ぎである。地方の人口減を全国知事会は「死に至る病」と表現し、非常事態と称したが、問題を肌で感じていなければならなかった知事たちが、無策だったことを棚上げにして今更何を言っているのだ、と私は思う。

 はっきり言って人口問題に対する国・政府の対策はお座なりであった、と思う。今更、多分、もう何をやっても間に合わないだろう。もうそんなレベルに達してしまった。一方効果が微々でも地方に生活者はいる。だから、対策は講じていかねばならない。

 率直に言ってこれから取り組んでも相当長期間、人口減を食い止めることは困難であろう。出産適齢期と言われる年代の女性の減少が続いていく以上、どう頑張っても生まれてくる子供の数は増えない。最近の出生率は1.3であるが、こんな率に一喜一憂するのでなく、これを3−4倍に上げなければ人口減にブレーキはかからない。
 この数値は実現不可能である。だから、いまさら少子高齢化を悩んでも始まらない。

 そのような社会に応じた方向に舵を切らねがならない。

 医療においても患者数の絶対的減少が始まる。病院は空床をかかえ医療機関の収入は減少し、新しい要因による地域医療の崩壊が始まっていく。これから医師数は患者あたりに見て過剰になっていく。人口減・少子高齢化社会の医療供給体制は重点地域への医療機関の集約化と効率的運用、および、そこを拠点にした医師の地方への派遣、これに尽きると思う。


10/15(水)快晴 外来 飯川病院
 0:30起床、歴史、新聞切り抜き入力・整理。録音データ整理などいつものごとし。7:50徒歩飯川病院着。8:45-12:50外来、13:00-18:30飯川病院。録画 DVD「ドキュメント:小沢征爾」、「世界一受けたい授業」観る。昨日はこの日迄トランクス、今年は2週前からテニストレーナー着用。今年は冷えるのが早い。新しいウオーキングシューズ、一気に10Km歩き足底に水泡形成。まずかった。歩行計Σ4840Km。

auのiPhone6プラスを入手(2) 小さなフレームの世界に没頭(6) 
 私は2008年からiPhone 3GSを、2010年10月からiPhone5を用いている。スマートフォンはメール、カメラ、メモ帳機能、私のパソコンデータにアクセスできる機能は重宝した。

 しかし、私は持っているといえど電話とメール機能が主で、せいぜい一日1-3件程度で、他の機能は副次的で使用頻度は少ない。持てる機能の1%も用いていないのではないか。

 何であまり用いないのか?
 何しろ小さな画面を凝視するのは耐え難い。私の場合、小さな画面を見ていると心が苦しくなる。画面を凝視していると周囲への感心が薄れ、排他的心理になるのが分かる。

 私の場合はパソコンを頻用している。デスクトップの場合は1台あたり2つのディスプレイを並列に並べ、小さいのでも40インチ、大きいのは50インチである。もっと大きくしたいと思っている。だから、私にとってスマートフォンの画面は耐え難いほど小さい。

 「他、我にあらず」だから、他人の感覚などわかりようがない。自分の経験から推定するしかない。
 内閣府は本年2月21日に13年度の小中高生の生活実態調査を公表した。それによると、スマートフォンの所有割合が12年度の36.0%から58.4%に増えた。利用時間が平均1時間47分。2時間以上の利用者が39.8%、5時問以上も7.9%となっている。要するに、かなりの時間を小さな画面を見て過ごしている実態が示されている。子供達は携帯、スマートフォンが普及してから物心がついた世代だから、小さなディスプレイにストレスを自覚できないでいるのだろう。
 私は通勤時に会う子供達のかなりがスマートフォンを片手に歩き、あるいは自転車に乗り、赤信号で待っている時間に見ている姿などを見ることが多い。バスの場合は中高生の大部分、若者の大部分が画面を見つめている。こんなことが子供達の心理に、身体的にも悪しき影響はあるはずだと、と懸念している。

 2012月10月、私と一緒に家内の携帯もiPhone5にした。みるみる使い方に習熟、結果的に私の数倍、いや、10倍以上も使いこなす様になった。本人はなんとも思っていないというが、家内が小さな画面と凝視している姿を見ているだけでも私は辛かった。
 だから、今回発売になった、ひとまわり大きな画面を持つiPhone6プラスへの乗り換えを勧めた。家内のために、というわけではなく、自分の安息ためにである。
 iPhone5のディスプレイは4インチ、iPhone6プラスは5.5インチである。この差は大きい。ただ、携帯通信機器としてはこのサイズが限度のような気がする。家内が小さな画面からちょっとだけ解放された様子を見て、私はホッとしている。


10/14(火)台風19号接近夜半から降雨風強まる 外来 飯川病院
 0:30起床、歴史、新聞切り抜きと入力などいつものごとし。7:20プリウス病院着、8:45-13:00外来、14:00-18:30飯川病院。19:00夕食、20:00就寝。歩行計Σ4828Km。DVD「そこ迄言って委員会」、「日本と世界の知られざる絆」、「J.F.ケネディ、光と陰」前半、観る。

auのiPhone6プラスを入手(1) 画面の狭さの問題から少しだけ解放された 
 私の携帯電話歴は長い。確かな記録は取っていないが、多分1995年頃からだと思う。当時は使用料金が現在の3〜4倍とかなり高額であった。当時の機器はニッカド電池でかなり早く消耗した。当時ポケットベルと併用していたから、ベルがなってから携帯で連絡を取るなどの工夫しながら用いていた。当初のサービスエリアは狭く、秋田市内で郊外のテニスコートなどに出ると利用できなかった。現在とは隔世の感がある。この間、NTT→DDIセルラー → J-フォン→ソフトバンク→ auなどと主に通話領域の広さを判断しながら乗り換えた。

 2005年諸外国では携帯機能とパソコン端末機能を結びつけたスマートフォンが普及し始めていたが、日本は携帯電話が多機能であったため関心は低かった。ところが2007年iPhoneが国内で発売され関心を集めた。

 2008年iPhone 3GSが発売となった。私は携帯電話に不満を感じてはいなかったが子供達の勧めがあって購入した。メール、カメラ、メモ帳機能、スケジュール、ボイスメモなどの諸機能、特にインターネットを通じて私のパソコンデータにアクセスできる機能は重宝で、それまでの携帯とは一線を画した機能を持っていた。

 スマートフォンとしての機能の発達は早い。iPhone 3GS後普及も急速に伸びた。
 Apple社は2010年にiPhone4を、2011年のiPhone4S、2012月iPhone5を、2013年にiPhone5Sを発売した。そして、本年9月からiPhone6及びiPhone6プラスが発売となり、処理能力は明らかに早くなった。

 私はiPhone 3GSが機能的に見劣りしてきたので、2010年10月iPhone5に替えた。私の場合はスマートフォンは持っているといえど電話とメール機能が主で、せいぜい一日1-3件程度で、他の機能は副次的で使用頻度は少ないから、iPhone5は今でも十分である。何しろ小さな画面を凝視するのは耐え難い。私は電話とメール機能以外は、ふた回り以上画面の大きなiPad miniを頻用している。

 2012月10月、私と一緒に家内の携帯もiPhone5にした。
 家内は最初の頃はスマートフォン機能を持て余していたようであるが、みるみる使い方に習熟、結果的に私の数倍、いや、10倍以上も使いこなす様になった。子供達とのコミュニケーション、インターネット機能を通じての調べ物や情報収集で、あの小さな画面でピチピチと入力している。世界のニュースなど、私よりはるかに早く入手している。

 私は自分でも嫌だが、家内が小さな画面と凝視している姿を見ているのも辛い。だから、今回発売になった、ひとまわり大きな画面を持つiPhone6プラスへの乗り換えを勧めた。

 私のと同時購入であるが、家内のiPhone5は電池の持続時間も明らかに短くなっている。そんなことでiPhone6プラスを購入した。


10/13(月)体育の日 快晴 台風19号接近中
0:00起床、本読み、蓄積データ整理等に集中。午前は冬迎える準備。だるま型石油ストーブ分解掃除調整。居間のストーブ準備。14:00-17:00飯川病院。室内の植物に水供給。午睡。19:00夕食、20:00就寝。歩行計Σ4819Km。 DVD「医療今昔物語」.

残念!! 佐渡にいけなかった 
 私は昭和40年から46年春迄の6年間新潟に住んだ。ここで学生生活を送った。
 しかも、住まいは金衛町の六華寮であった。寮は浜に近く、休日の日の夕方や夏の日々には海辺でよく過ごした。何しろ、私は岩手の片田舎育ちで、海を初めて見たのは小学6年の修学旅行でみた松島の海だけだったから海にはあこがれがあった。いつかは海の近くに住んでみたいと思っていた。それが、新潟で実現した。

 山に囲まれた生活しか知らなかった私は、海の側での生活は6年間と短かったが、満足した。海は広大であった。山にはない自然があった。冬の海、嵐の時の海の荒れようには驚いた。おかげでちょっとは大きなスケールでものを考えることが出来る様になった気がした。

 日本海にはぽっかりと佐渡が浮かんでいた。天候の良い日に日本海に沈む夕日は赤くて幻想的であったが、そこに佐渡があったから季節によっては佐渡の山に沈み、季節によっては水平線に沈んだ。佐渡を眺めるたびに、新潟にいる間にいつかは佐渡に行ってみたいと漫然と考えていたが、貧乏学生であったし、出不精、観光など興味なしで、ついに佐渡に行かないまま新潟を離れた。
 その後、佐渡に付いて想いを馳せたことは一度もなかった。

 今夏、今年の大学の同級会が10月12日佐渡で開催されるとの知らせが届いた。会の前後にはミニツアーもあると言う。ならば、と思い立ち、準備した。秋田から佐渡へのコースは意外と不便であった。秋田新潟間の羽越線のコースでは前泊しなければ間に合わない。新幹線で大宮経由とした。

 私の計画は、秋田を離れる時間を最小限にするために、12日朝6:08分こまちで発ち、大宮にて上越新幹線に乗り換え新潟に、13:30新潟港発の水中翼船ジェットフォイルで佐渡へ、と言う8時間コース。帰路は13日両津港発15:30で逆コースで秋田に戻るルートを予定した。結構ハードな旅程となった。

 ところが、9月下旬に飯川病院の院長が体調不良とのことで急遽休暇を取ることになり、10月1日から私が午後の業務をカバーすることになった。12日〜13日は連休であるために時間的には佐渡に行けないことはなかった。しかし、この間、重症患者を日当直医師に全て委ねるわけにはいかないので、佐渡行きは中止した。実際、12日の早朝、入院患者が急変し2:00amから出勤し対応した。この状況だと行けなかった。

 私は佐渡に付いて何ら知識もないし、訪ねてみたい所も特にない。私の郷里には「大ヶ生金山」と言う小規模な金山があり、そこが私の遊び場の一つでもあったために、佐渡金山に関してはちょっとだけ興味があったくらいである。
 今回佐渡行きを計画したのは、40年ほど前に「行ってみたい」、と漫然と考えていたことが現実になる、と言うことがメインだった。従って、未練はない。
 ただちょっと残念だったのは同級生達に生存報告が出来なかったことである。


10/12 (日)快晴 次男一家離秋 iPhoneプラス購入
0:30起床、新聞、医学文献、録音データチェックなどダラダラと整理。2:00飯川病院より呼び出し。中通救急に患者搬送。4:00帰宅。午前は犬、孫の相手。テンポの違いで疲弊。14:00次男一家離秋。孫は来た瞬間と別れを惜しむ瞬間が良い。DVD「医療今昔物語」、「高校野球大好き』後半観る。iPhoneプラス購入。新聞データ化。19:00夕食、20:00就寝。歩数計Σ4812Km。

品物以外に何を売っているのか(2)  新規開店のレストランと某化粧品店のさ
 ■昨年、私の徒歩通勤路の傍に瀟洒なたたずまいの、やや小さめのレストランが開店した。私は興味を抱いた。滅多にないことであるが、時に夕食にありつけないときがあり、ここなら帰路、あるいは休日などに気楽に立ち寄るからである。「良いとこが出来たぞ。行ってみたら?」と家族にも勧めておいた。

 ある夏の夜、そのレストランを利用した。2階に15席ほどのこじんまりとした作りである。私以外には誰も客はいなかった。やや高い音量でポップス系の曲が流されていた。私はうるさい環境が嫌いである。若くもない30代と思われるスタッフに料理を注文してから、「音量を下げていただけませんか?」とお願いした。彼女は「まもなくいつものお客さんが来られますから・・」と笑顔一つなく答えた。「それ迄の間だけでも駄目ですか?」と重ねてお願いしたが、特に返事しなかった。

 これ以上願っても無駄なようであった。注文を断って帰ろうとも考えたが、空腹であったしほかに適当な所もないので耐えることにした。料理? 2900円ほどのラム肉料理のセットで、盛りつけも味もまあまあで、このことだけが救いであった。おそらく2度と来ることはないだろうな、と思いながら食べた。この間、来ると言っていた客は来なかった。会計の間もスタッフの顔には笑顔もなかった。多分、客扱いの訓練も受けていなのだろう。
 たった一度の経験で、「絶対に行かないぞ」、との結論を出すのは早計であろうが、第一印象は重要である。その後、店舗に灯がともっている日は少ない。

■バス停前の化粧品店
 徒歩通勤時、帰路は18:40のバスに乗る。バス停のすぐ近くに某有名化粧品メーカーの店舗がある。それほど大きくない店舗にはいつも若い女性が1-2名20代のモデル調のスタッフと談笑している姿を見ることが出来る。時々ちらちらと見ているがなかなか良い風景である。
 先日、購入したと思われる小袋を持った客とスタッフが店から出てきた。入り口脇でスタッフは「お買い上げ有り難うございます・・・」と丁寧に述べていた。やがて客は駅の方向に歩いていったが、スタッフは店舗にすぐには戻らず、客の後ろ姿に2度深々と頭を下げた。

 私はこの光景を見てほとほと感心した。去っていく客に見えるはずがないのにこの姿は何なのだ? 私は理解出来なかった。おそらく、店内の会話の中にもこの感謝の気持ちが込められているのだろう。いまはそう考えている。

 品物以外に何を?、品物と共に何を売っているのか? このことの重要性を教えてもらった。


10/11 (土)快晴 佐渡旅行中止となる 次男一家来訪
 0:30起床。何時もと同様、書類・録音データ整理、新聞、医学論文などチェック、3連休である。ゆっくり早朝、午前の時間を楽しんだ。2週ほど前迄は佐渡に旅行する予定を立てていたが、中止となった。15:30盛岡次男一家、夫婦+孫二人+犬3匹来秋、てんやわんや。17: 00現用のウオーキングシューズ劣化し購入。18:00夕食、20:00就寝。 DVD「蛍の光り」,「ウオーキングで健康に」観る。

品物以外に何を売っているのか(1) コンビニで82円の切手を買って 
 本日昼、急ぎの書簡を投函する必要が出来た。土曜だから郵便局本局に行けば良いのだが面倒であった。近所には店頭脇にポストがあるコンビニがある。切手も売っているかもしれないと半信半疑で寄ってみた。

 切手はあった。いつもなら切手はシート単位で購入するのであるが、とりあえずその場で必要なのは82円切手一枚だけなので、100円硬貨を出して購入した。若い店員が「袋にお入れ致します・・・」と言うので、「いま、外のポストに投函するので良いです・・」と答えた。すると店員はカウンターの下からさっと指先を湿らせるスポンジを出してきた。私はそれを用いて切手を濡らし封書に貼った。
 私は日常的にほほ100%、唾液をつけて切手を貼っている。こんなスポンジで濡らして貼ったの初めてであった。

 店内には数人の客がいて結構忙しかった様に思う。私はこのちょっとした、さりげないサービスに感心した。
 私は非定型の封書を投函するために時折街の郵便局を利用する。しかし、窓口で切手を購入しても此の様なサービスを受けたことはない。切手を受け取って、いつもの様になめって貼っていた。

 郵便局でもコンビニでも売っている切手は同じである。私は今回のコンビニのサービスを受けて「品物以外に何を売っているのかが、品物以上に重要」だと言うことを感じた。客に対する配慮、サービスしかない。店員の笑顔も良かった。たった82円のことであったが一日気分が良かった。何か買うものがあったらまた同じコンビニを利用したいと思う。

 私はコンビニをあまり利用しないのでコンビニのサービスがどのようなものかはよく知らない。此の様なサービスが店員のマニュアルにあるのか、も知らない。もしマニュアルがあっても笑顔で、と迄はないだろう。あるいはたまたま感じのいい店員にあたっただけなのだろうか。

 私が働く病院の患者対応ははたして良いのだろうか、と気がかりになった。


10/10(金)快晴 大曲中通病院外来 飯川病院
0:50起床、早朝短時間ながら突然の降雨。新聞その他文献チェック何時ものごとく。7:40Taxi駅に。8:10こまち、徒歩病院、9:00-12:00大曲中通病院。13:30飯川病院,勤務に、 DVD「新幹線50年の歩み』 、「アジアゾウの知られざる生態』、歴史関連勉強。19:00バス徒歩帰宅、夕食、20:00就寝。Σ4797Km。

等身大のピンナップ写真 美人でも気持ちが悪い
 7月2日秋田の地方紙「秋田魁新報」の朝刊は秋田出身のモデル・女優の佐々木希さんの写真が付いた特別号であった。この付録はページをつなぐことで、等身大の佐々木希さんをつくれる様になっていた。

 私はモデルの佐々木希さんはそれほど知っている訳ではなく関心はなかったが、面白い付録なのでとりあえず捨てないでとっておいた。9月末に時間があったのでページをつなぎ、等身大のピンナップをつくって自室の壁に吊るしておいた。天井から床面に達するサイズである。
 私はネコ以外の写真、例えば芸能界の方の写真などを自室の壁に飾るのは初めてである。私にとっても多少気恥ずかしいことであった。

 この魁新聞の企画は同紙の創刊140年を記念した企画なのだそうだ。何か県民を元気にする仕掛けができないかということで同紙東京支社と進めてきた。新聞見開き裏表8ページにもなる人物像をきれいに、ムラなく印刷するために輪転機をよりゆっくりと回転させるなど工夫し、随分苦労したらしい。
 この新聞は口コミならぬSNSで拡散し、ヤフーのオークションで販売までされたと言う。

 で、美女の全身像を壁に飾った効果はどうだったのか?

 一口で言えば「気持ちが悪かった」に尽きる。
 佐々木希さん自体は表情よく、細身でスタイルもよい。好みから言えばもっとふくよかな女性の方が好みであるが、そんなことはどうでも良くて、「等身大の像」が自室内に吊るされていつも私と視線が合う、ことに問題があったようである。視線が合うことは平面像だから当然であるがやはり気持ちが悪い。

 私はこんな像をじっくりと鑑賞する趣味などない。
 今日剥ぎ取って廃棄したが、その前に顔の部分だけをカットして試しに貼ってみた。この場合はそれほど違和感がなかった。ただし、全身像を再度バラバラに切り取る作業は、猟奇的事件などが思い出されて良い気がしなかった。


10/9(木)雲一つ無い快晴 外来 飯川病院 
 0:30起床。文献・新聞他。7:35徒歩病院、回診ほか、8:45-13:40外来、数の割に大変であった。13:00-18:25飯川病院。19:10バス利用帰宅、19:00夕食、20:00就寝。。DVD「サンフランシスコ講和条約』、「高校野球大好き』前半、「ベンガルトラ』。

ノーベル賞 スタチンの遠藤博士 徐々に厳しくなってきた
 スタチンの遠藤博士、今年もノーベル賞の受賞ならなかった。実に残念である。
 スタチンは動脈硬化の進展と予防する画期的作用のある物質で、世界中で数億人の方が恩恵を受けている。それを開発した中心人物が遠藤章氏である。

 2008年9月遠藤氏はアルバート・ラスカー臨床医学研究賞を受賞した。この賞はノーベル賞受賞に一歩近づいたとされるほど権威のある賞である。

 私はそれ以降、今日に至る迄ノーベル賞の医学・生理学賞が発表される時期になると遠藤氏が受賞することを期待していた。
 2012年のノーベル賞の医学・生理学賞は、iPS細胞の先駆者、京都大学の山中教授が受賞した。山中教授が受賞された事には驚かなかったが、「スタチンの遠藤章博士」が選考から漏れたのにはがっかりした。
 2013年、遠藤章博士は期待されながら、またも選考に漏れた。
 2014年、今年もである。残念なことであった。

 遠藤氏は80歳と高齢である。ノーベル賞は生存中の研究者に贈られることになっている。今後もご健勝であることを願いつつ待つしかない。遠藤氏は由利本荘市出身。私は氏の講演を2度拝聴し感銘を受けた。遠藤氏の受賞を県内でも多くの方々が期待し、見守っている。さきがけ新聞によると氏は「私はもう賞味期限が切れたから・・」と冗談を言っていたと報じられた。氏もちょっと気弱になっているようである。

 私も、時間とともに徐々に苦しくなってきている様な印象を抱くが、来年に期待したい。
 一方、京都大学の山中教授がノーベル賞を受賞して以降のiPS細胞についての動き、発展は目覚ましいものがある。今年、9月眼科領域で老人性黄斑変性症と言う、治療法のない患者に初の臨床応用が行われた。患者の経過はまだまだ長く経過を見なくてはならないが、いまの所は順調のことである。iPS細胞が確立してから7年目とときわめて短い期間で実用化への一歩を踏み出したのは驚きでもある。11月には改正薬事法が施行され、細胞を製品化しやすくなる。これも再生医療の後押しになるだろう。

 いずれ、遠藤氏については来年に期待したい。


10/8(水)晴天 外来 飯川病院 
 1:00起床。読書、録音データ整理と処理、新聞データ化、データ分類など。歴史関連本読み。7:45徒歩飯川病院着、8:45-13:40中通外来。疲弊。入院患者,術後一週間目に退院。14:00-18:45飯川病院、新入院対応。19:00車帰宅、夕食、20:00就寝。Σ4774Km。DVD「プライド―運命の瞬間」、「そこまで言って委員会」観る。

映画「永遠の0」(5):私が感じた、この作品の存在意義(2)
 60年以上も前の,ほぼ忘れ去られようとしている史実を作者の百田は「父の世代と子供の世代をつなげたい・・」と述べている。
 現在80代前後の戦争を味わった世代、私を含む戦後の復興期に生まれた50−60歳代、豊かな時代に生まれた20ー30歳代の世代には第二次世界大戦に関して世代間ギャップが大きいと思うが、百田は現代に生きる全ての世代の日本人に綿々として繋がっている、忘れてはならない問題として、再提起した。すごい,と思う。この映画はそれに耐えうる見事な映像として出来上がっている。

 先の戦争に関して、敗戦自体の衝撃が強かったこともあったが、戦後の価値観の急速な変化があったためだろう、戦争を経験した世代は戦前、戦中のことをあまり語っていないし、語り継いでいない。戦後の民主化の流れに乗せられて変身したから過去を語れないのか。分からないが、少なくとも私の周辺の方々は戦前、戦中のことを語ってくれなかった。

 新聞やラジヲも戦争にむけて世論をリードしていたにも拘らず、その問題を総括することはなく、新しい時代にただ乗りし、当時は暗い時代であった・・と論評を加えている。当時の知識人と言われる方々の大部分も、そのように私からは見える。

 私が歴史に関心を持ったのは、近代日本が歩んで来た歴史はもう変えようがないが、「何かが違う、何か違う道に迷い込んだ?それは何だろうか」、と言う感覚と疑問である。歴史を正視する。困難であるがこれが未来のために大事だと思う。

 この作品に関しては私は否定的感覚は持たない。特攻隊を美化していると言った意見も新聞紙上に掲載された。その様に思い、表現するのは自由である。この映画、原作の中に描かれた若者達の姿が実態に即していたのか、私は判断出来ないが、時代に翻弄された若者達の苦悩の姿は描かれていると思う。若者達をそこ迄追い込んだのは誰なのか? 私は特定の人間を挙げることは出来ない。

 いま、慰安婦問題が話題になっている。女性の人権が愚弄されていた。その実態を詳らかにするのは重要である。それ以上に、若い男性の人権が愚弄されていた、私はそう思う。男なら問題にならないのか? この問題も「永遠の0」のなかに立派に提起されていると思う。

 私は人に勧める気は毛頭ないが、私にとっては存在感のある作品、映画であった。


10/7(火)台風一過調快晴 外来 飯川病院
 0:30起床、新聞・文献チェック、徒然など。早朝の時間が長くて嬉しい。5:10家庭ゴミ出し。7:45徒歩飯川病院着、8:45-13:40中通病院外来、混雑、疲弊。14:00-18:30飯川病院、19:00帰宅、夕食、20:30就寝。Σ4762Km。「知恵泉:高田屋嘉兵衛」「ザ・人体」「ファン・ボイ・チャウ」「落語:文七元結 桂ざこは」。

映画「永遠の0」(5):私が感じた、この作品の存在意義(1)敵にはあれど なきがらに
 『永遠の0』は百田尚樹氏の小説。私はいま近代日本の歴史を学び直している。
 私は終戦直前昭和20年5月に生まれた。盛岡市の南20Kmほどに位置する田舎で、病弱ではあったが、食糧難の経験はなくそれほど不自由なく過ごした。盛岡も、空襲はあったが駅前が少しやられた程度で市内全域というわけでは なく、育った地域には大戦の面影を見ることはなかった。
 当時の大人達は戦争体験に付いて語ることは少なかった。

 戦争を身近に感じられたのは、■家族縁者の中で戦地に赴いたのは軍医としての叔父1人で、無事生還した。私が知る範囲で家族に戦死者はいなかった。■盛岡では白装束に身を包んだ傷痍軍人が多数路側に立っていた。■菩提寺にあたる江岸寺の梁には軍服、飛行服の20台男性の遺影が所狭しと並べられていた。■GHQが時折、ジープとトラックで小学校を訪れ、給食用脱脂粉乳を置いていった。美味かった。■わが家にGHQから払い下げられた大型バイク、インディアンがあった。■・・・。

 私は大戦に関して子供向きの本は読んでいたが、大戦について殆ど知らない状態で過ごした。本を読みあさった大学時期には古典文学を中心にしたために日本の歴史に関連した本はあまり読んでいない。1989年、文藝春秋社から発行された辺見じゅん著「収容所から来た遺書」を読み、自分の無知さ加減に衝撃を受けた。そのとき、いずれは日本の歴史を勉強したい、と思ったが、集中出来るようになったのはここ3年ほど前である。遅れを取り戻そうと文字、音声、映像を駆使して取り組んでいるが、遅々としている。

 日本人であるならば大戦の歴史を避けては通れない。学んでも学んでも奥が深い。その流れの中でこの映画「永遠の0」も歴史の一こまを学ぶのに参考にしている。

 この映画はフィクションであろうが、史実も取り上げているように私は感じる。

 一例であるが、昭和20年9月2日に日本の降伏文書の調印式が行われたアメリカ最後の戦艦ミズーリ号に、4月11日午後2時特攻機が右舷船尾付近に激突した。この時の映像も記録されているが、爆弾は不発であった。艦の軍医は散華した特攻隊員の肉片を集めて縫合し、白布に日の丸を描いて遺体を包み、艦長ウイリアム・キャラハンは翌12日手の空いている兵達を甲板に集め、乗組員の勇気を称え丁重に水葬の例を取った、と言う。多分、作者の百田氏はこれを参考に小説のプロローグの宮部がタイコンデロガに突っ込んだ時の模様を描いたものと思われる。

 一方、軍歌「討匪行」は藤原義江が「敵にあれど なきがらに 花を手向けて 懇ろに・・」と言う歌詞(昭和7年八木沼丈夫)に魅かれて作曲したと言うが、後に軍部から「敵を憐れむとは何事か」と忌憚に触れ歌唱禁止になった(ミズーリ号、「討匪行」に関しては日本医事新報4367:133.2008の川田繁氏の随筆を参照した)。

 「鬼畜米英」と蔑んだ相手から丁重に葬られた特攻隊員がいた。戦争と言う危機的場面で、命をかけて戦った同士間に立場の違いを超えて人間的共感が生まれた、と言うことであろう。

 このような事実がある限り、戦争回避の道は針の道ほど細かったかも知れないが、あったはずだと私は思いたい。「鬼畜米英」vs「Jap」などではなかったのだ。


10/6(月)台風18号接近のため雨 健康クリニック 飯川病院 
 0:50起床。いつもの如く。7:00車飯川病院病院、重症者回診対応、9:00-11:00健康クリニックドック業務。中通病院に患者見舞い。12:30飯川病院勤務へ。新聞チェック、歴史本など。19:00夕食、20:00就寝。DVD「日経スペシャル:私の履歴書昭和人6人」、「ザ・プロファイラー:マリー・アントワネット」。

肺炎球菌性肺炎予防(2) ワクチンの接種回数
 高齢者にとって致死的肺炎になり得る肺炎球菌は、日本人の高齢者では約3〜5%で鼻や喉の奥に菌がいるとされる。これらの菌が感冒等をきっかけで病原性を発揮し、気管支炎、肺炎、敗血症などの重い合併症を起こす。65 歳以上の高齢者においては肺炎球菌が肺炎の原因菌の第一位を占めている。さらに、多種の薬剤に耐性を示す多剤耐性肺炎球菌が急増している。だから、予防の方が重要と言うことである。

 肺炎球菌には 93 種類の型があり、本年10月からの定期接種で使用される「ニューモバックスNP」は、そのうちの23種類の血清型の菌に効果がある。この23種類の血清型は成人の重症の肺炎球菌感染症の約7割を占めるとも言われている。

 肺炎球菌ワクチンは効果は5年ほど続くとされていたが、抗体水準を維持するために再接種が必要である。従来は2度目の接種の場合の副作用が強いと思われており、従来,日本では2度目の接種は禁忌とされて来た。薬品について来る添付文書にも明記されていた。しかし、海外の経験では5年ほど経過した後では接種時の合併症は生じないわけではないが、一回目より必ずしも多いわけではないことが分かり、かなり前から5年ごとの追加接種も行われて来た。
 ニューモバックスR23の接種時に認められる全身性の有害事象としては、倦怠感、易疲労感、筋肉痛、頭痛があるが接種後数日で改善するとされる。重症な副作用は低頻度ながら生じる事もあるがこれはワクチンに共通の問題である。

 そのような事情の中、わが国でも平成21年10月から再接種が可能となった。

 国の高齢者肺炎球菌ワクチンの定期接種は公的補助が受けられるが、一回しか認められない。これは政治的な,非医学的な判断であるがそれでも意義は大きい。2回目、3回目の接種は自腹で行えばいい。

 患者の一部はインフルエンザワクチンは広く感冒に効果があると思っている。肺炎球菌ワクチンはすべての肺炎に予防効果があると期待してくる。ある方はがんの予防にヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチンをやって欲い、と受診の度に希望する。高齢の患者の理解を得るのは大変である。


10/5(日)晴れ 飯川病院日直
 0:00 起床。新聞チェック、電子化。文庫本自炊など、いつものごとし。読書、歴史本など。8:15バス利用で中通病院に。入院患者見舞い。8:50飯川病院日直。やり残しの外来・入院レセプト点検処理、主治医意見書作成、回診等多忙な日直であった。18:30バス帰宅。19:00夕食、20:00就寝。歩数計Σ4742Km。DVD「NHK SP 東日本大震災 集団移転3年半の記録」。

肺炎球菌性肺炎予防(1)秋田市の高齢者用肺炎球菌ワクチン予防接種について
 肺炎球菌性肺炎は、成人肺炎の25%〜40%を占め、とくに高齢者は重篤化しやすい。肺炎球菌ワクチンは肺炎球菌による肺炎の予防や重篤化を防ぐ効果がある。接種後の免疫の持続は約5年間とされている。

 私が担当している外来では高齢者が多い。従来はワクチン接種希望者は少数であった。先月あたりから高齢者用肺炎ワクチンについての質問や申し込み希望者がどっと増えた。市の公報、TVや新聞などで接種について知った方達である。

 わが国で高齢者用肺炎球菌ワクチンが定期予防接種になった。秋田市も10月から開始する。ワクチンの定期予防接種は、生涯で1回のみ。過去に高齢者用肺炎球菌ワクチンの接種を受けた方は対象外である。
   
 対象年齢には決まりがある。本年度〜平成30年度は、65、70、75、80、85、90、95歳、100歳の方。このやり方は各年度の接種対象者数をコントロールしつつ、5年間続けて行く事で,希望する高齢者のすべてに行き渡る事になる。
 平成31年度以降は65歳の方、及び60歳〜64歳で、心臓、腎臓、呼吸器の機能またはヒト免疫不全ウィルスにより免疫機能に問題があり、身体障害者手帳1級を交付されている方,となっている。対象年齢の方で接種の機会を失した方は5年間待たなければならない。その際は自費で受ける事は可能である。
           
 接種は本年10月1日以降。自己負担額は3500円。ただし、市民税が非課税の方、生活保護受給者は別料金となる。
 
 ワクチンである以上、対象年齢の方でも接種を受けられない方もいる。事前に医療機関に相談が必要である。

 まもなくインフルエンザワクチンの接種も始まるが、高齢者用肺炎球菌ワクチンには上記の如くの接種条件がある。結構分かり難い様で、説明するのに難渋する事も稀でない。


10/4(土)曇り・晴れ  
 1:00起床。文献チェック他。何時ものごとし。週末の大切な時間。本日は録音、録画、自炊等の資料の整理、DVD・Blu-rayディスクのインデックス作成など。片付け中心。本読み、16:00中通病院に見舞いに。途中皇太子殿下通過のために足止め15分ほど。コーヒー店、子供の衣料専門店に立ち寄り19:00帰宅・夕食、20:00就寝。Blu-ray「フィラデルフィア管弦楽団来日公演」観る。

最近、私の就労時間が増えてきた(2)業務の隙間を縫って読み、聴き、観て、働く
 私は来年は70歳を迎える。体力的にも業務が辛くなって来ている。次の契約時には、長年の夢であった完全リタイヤを、と思っている。

 しかし、心に引っかかるものはある。私が深く関わり継続的に責任を負わねばならない患者、かなり死去され少なくなっているが、まだ通院してきている。
 もう一つは、長く共に働き、私を支えてくれてくれ、まだ現役で働いている仲間のことを考えてしまう。彼らは医師不足の中、外来診療に、入院診療に、更に病院の運営に心をすり減らしている。そんな状況を見ていると私の勝手なリタイヤ希望は彼らに負荷をかける事になりかねない。私が突然死したり、業務継続が困難となった時にはそれなりに乗り切るだろけれど。

 私はまだまだやりたいことは多い。知りたいことも多い。少なくなった自由時間の間を縫っていろいろ情報を集め、学んでいる。

 私の情報源は、活字>>音声>映像>インターネット検索>・・・である。私は自作のデータが豊かにあるし、時間もないのでネット検索は殆どしない。
 これらの情報源はデータ化し、電子的に保存する。その場合は名称化と分類が命である。これがうまくいくといつでも呼び出して利用出来る。これが結構時間がかかる作業であるし、連日コツコツと進めなければならない。だから、今の様に勤務時間が増えて来ると苦しい。

■文字情報は新聞を4誌、非医療系、非医療系週刊誌、月刊誌も数種、単行本の購入も少なくないが、ざっと目を通した後は電子化し、適宜呼び出してパソコンやiPad mimで読む。

■音声情報としては、NHK放送のニュース、時事問題解説番組、それにラジヲ深夜便である。ラジオ深夜便は2008年以降連日MP3で自動録音し、別に作成したインデックスで検索をかけ、パソコンやiPodで聴く。

■映像情報はここ2年ほど前から取り入れ、積極的に利用している。10数局分の番組表をチェックし番組を録画、DVD、Blu-rayディスクを介して適宜観る。ディスクの視聴は一日平均1.5枚である。

 私は如何に無知であったか,無知なのか自覚している。まだまだ知りたい分野も多い。
 先日、家内と地球の地殻変動、火山活動について対話したとき、「地質学」もこれから勉強したい,と答えたら、「いつまで生きる気ですか?」と問われた。そのとき私は覚えたての名言をもじって「Live as if I were to die tomorrow. Learn and work as if I were to live forever・・・」と答えた。格好よく決まっていい気分であった。


10/3(金)大曲中通病院外来 飯川病院
 0:30起床、いつもの如く。まだ多少体調不良。書斎の石油ヒーター今季初点火。7:30Taxi駅に。8:10こまち、徒歩病院、9:00-12:00大曲中通病院外来。本日より12:28発こまちで帰り飯川病院勤務となる。14:00外来・入院患者対応そのほか超多忙。19:00長女と孫家内の見舞いに来秋、病院に立ち寄り帰宅。20:00夕食。21:00就寝。DVD「歴史展望:皇女和宮」後半。盛岡の孫達も来秋。

最近、私の就労時間が増えてきた
 私は2011年に現役を退き、嘱託医として働いている。
 私は可能な限り勤務を短くして自由時間を確保しようと努めてきた。今迄出来なかった方面の、特に近代日本の歴史を学び直したいからであった。徐々に自由時間が増えたが,まだ不十分で、更に就労時間を少なくしたいと考えている。間もなく70歳になるので、完全引退すべき時期でもある。にもかかわらず、ここ1年ほど前から再び自由時間が少なくなって来ている。秋田の、法人の医師不足の影響である。
 
■嘱託医一年目(2011年6月-2012年3月):月〜木曜は午前外来、午後は入院業務。15:30帰宅可能。金曜は終日大曲中通病院の診療応援。契約上の拘束週42時間。

■嘱託医二年目(2012年4月-2013年3月):月曜は隔週午前外来と健康クリニックドック業務、火〜木曜は外来、午後は入院業務。15:30帰宅可能。金曜は終日大曲中通病院の診療応援。土曜は4週に一度港北診療所の午前勤務。契約上の拘束週43時間。

■嘱託医三年目前半(2013年4月-2013年12月):月曜は健康クリニックドック業務、火〜木曜は外来。入院業務なし。外来業務終了後帰宅可能に。金曜は終日大曲中通病院の診療応援。契約上の拘束週37時間。

■嘱託医三年目後半から嘱託医4年目前半(2014年1月-2014年9月):月曜は健康クリニックドック業務、火〜木曜は外来。金曜は終日大曲中通病院の診療応援。月、火、木は14:00-18:00飯川病院勤務。契約上の拘束週40.5時間。

■嘱託医四年目後半から(2014年10月〜):月曜は健康クリニックのドック業務、火〜木曜は外来。金曜は大曲中通病院の午前診療応援。月〜金は14:00-18:00飯川病院勤務。契約上の拘束週47.5時間。

■上記に加えて土日は月に3-4回の飯川病院日直あるいは当直,時に双方連続。一回の拘束時間は5−24時間。

 実際に計算してみると増えたと言っても数値上は大同小異であった。しかし、私にとっては影響は大きい。

 最近は,中通総合病院、大曲中通病院、健康クリニック、飯川病院の4カ所の業務である。
 私は定年を迎えて退職した高齢の医師は総合病院クラスの大規模高機能病院には不要と思っている。ほかの方々のことは全く分からないが、私の場合は臨床能力、判断力共にかなり低下して来ており,業務処理機能も遅くなっている。体力的にも業務が辛くなって来ている。こんな私が医師をやり続ける事は私にとっても病院にとってもメリットはない。

 来年は70歳を迎える。次の契約時には、出来ればリタイヤしたい,と思っている。まだまだやりたいことは多い。
 


10/2(木)秋晴れ 外来 健康クリニックドック判定総 飯川病院
 1:00起床、新聞、医学文献他読む。徒然。7:50徒歩飯川病院着。8:45-14:30外来+健康クリニックドック判定。14:40飯川病院、外来、入院家族対応、患者家族面談。休息なしの一日。ストレスか熱感あり。19:15バスと徒歩帰宅、夕食、20:00就眠。Σ4718Km。 DVD「皇女和宮」前半。

映画「永遠の0」(4):Blu-ray2枚組購入(3) 特撮、CG、VFX技術に驚く
 日本の映画の中で特撮を発展させた円谷氏は「特撮の三大要素」として、「カメラワーク・ミニチュアワーク・合成ワーク」をあげ、『ゴジラ』などの怪獣映画によって「特撮の円谷」の名を不動のものにした。戦争映画も沢山手がけ、私も5-6本は観ている。あら探しするのではなく、楽しむために見ればそれほど不自然感、違和感を持つことはない。1942年撮影のハワイ・マレー沖海戦の特撮はGHQが実録だと思ったほどの完成度だった、とされる。
 しかし、円谷晩年の1968年「連行艦隊司令官山本五十六」と「永遠の0」を比較してみると隔世の感は否めない。いや、比べてみること自体酷と言うべきだろう。
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 「永遠の0」の山崎貴監督は、映像そのものを電子的に作るComputer Graffics(CG)、及び、実際に撮影された映像を加工したり、合成して現実にはない映像を作り上げる技術ビジュアルエフェクツ(Visual Effects VFX)を駆使した映像表現の第一人者である。

 映画「Always 三丁目の夕日」も同監督の作品で、空気感のある戦後の町並みが評判であったが、これがVFX技法に依ったものだとは私は全く気がつかなかった。すべてセットを作り実写したものと思っていた。

 映画「永遠の0」では操縦室も実機に即して作った実物大の零戦を一機作り、フルボディー、主翼なし、尾翼なしなどに姿を変えて多数のシーン用に撮影、それをもとにVFX技法で映像を発展させ、自在に利用している。

 映画の中で空母赤城が重要なシーンを持つ。海洋を疾走す大型客船の実写映像をもとに空母赤城に作り替えられていく過程、海洋を縦横無尽に滑る様に活躍する姿、最後に米軍の急降下爆撃機ドーントレスから放たれた2発の爆弾が命中、その爆破シーンは映画の中で圧巻であった。

 真珠湾の場面も圧巻であった。この場面はCGに依ったと言う。ハワイの市役所から当時の地図の提供を受け、地形を再現、それに飛行場や建物、米海軍の艦船等を配置して作成したと言う。この技法を用いることによって「永遠の0」の真珠湾攻撃シーンはほかの映画と異なり、上空から見た様子が中心に描かれている。

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 本年9月に「永遠の0」を再度見直したくて、Blu-ray2枚組セットを購入した。一枚は映画そのもの、もう一枚は静止画像や「永遠の0」が出来るまでの過程を紹介した盤である。この同梱された盤によって、零戦制作、CG、VFXの手法、空母赤城、真珠湾、ミッドウエー海戦のリアルな画像等、どのようにして作られたのか,等々を知ることが出来た。

 私が特に興味を持ったのは、実際にあり得ないシーンを臨場感さながらに作り出すVFXについて、である。もうここまで来ているのか? あら探ししてみようと思ってみても問題を感じとれない。見れば見るほど感嘆する事ばかりである。

 円谷監督の頃の撮影技法はさながら真空管ラジヲの回路を見ているようである。配線が直接見えるし、もっと工夫出来そうなにも見える、この部品を遣えばもっと良くなるのでは??などと言える様な見るものにとって親しみのある特撮であった。一方、「永遠の0」の山崎貴監督の作品はコンピューター回路を見ている様な感じである。整然と美しくICが並び手をつける所がない様な感じである。
 アナログとデジタルの違いそのものであるが、ここ迄来ると、私どもははたして何を見せられているのか?映像とは何なのだ?どうあるべきなのだ?と言った疑問も湧いて来る。


10/1(水)晴れ 外来 飯川病院
 0:20起床。文献・新聞チェックなど。録音整理、7:40車飯川病院着。中通病院に見舞い、8:45-13:00外来。飯川病院に移動、14:00-18:30勤務、途中中通病院に見舞い。19:00夕食、DVD「チェリノブイリ原発事故:国家はどう補償したのか」、「ダラスより速報:JFK死す」、「R・ジョンソン:ケネディの後を継いだ男」。19:15帰宅、夕食20:15就寝。歩行Σ4706Km。

映画「永遠の0」(3):Blu-ray2枚組購入(2) 殆ど知らなかった出演者達
 映画「永遠のゼロ」について映画館で観た後、原作も読み、今回Blu-ray2枚組を購入し、再度詳細に見ている。2回目は余裕を持って味わう事が出来たためか、初回に受けた印象とは大きく異なった。

 私は約2年前迄は映画やTVを軽んじて来た。私の情報収集と楽しみは活字とラジオ放送であった。映画は小学生の時の「ファンタジア」、大学時代の「東京五輪」、昭和55年頃の「アマデウス」など、数本を見たに過ぎなかった。その考えを改めさせられたのは2011年8月に映画館で見た「マーラー 君に捧げるアダージョ」であった。映画の持つ情報量に感嘆した。
 その後は現在に至る迄、堰を切ったように映画の、画像の世界にのめり込んでいる。もっとも行きつけの映画館は2012年12月を持って閉館したのでその後はもっぱら自宅の書斎、飯川病院の医局でBlu-ray diskやDVDで録画を観ている。

 最近は少しずつ俳優や日本の映画について知りつつあるが、「過去はゼロ」であった。特に、昨年暮れ「永遠の0」を観た時は原作者の百田氏、監督の山崎氏は全く知らず、出演者は3人ほど聞き覚えがあったが、映画を見ていてどんな役を演じていたか見分けが付かなかった。

 後で資料を見て知ったのであるが、主役陣は岡田准一、三浦春馬、井上真央の各氏、これにヴェテランの風吹ジュン氏、夏八木勲氏、山本學氏、田中 泯氏、平幹二朗氏,橋爪功氏が出演。これに、中堅?の吹石一恵氏、染谷将大氏,上田竜也氏等多数の方々が出演している。
 
 主役を演じたのは岡田准一氏。この映画で初めて知った。いま,NHKの大河ドラマ「軍師勘兵衛」にも出演していると言うから、高い評価を得ているのだろう。私はこちらは一度も見ていない。「永遠の0」では凛々しく,表情豊かに主役の宮部を演じた。私にとって無名の俳優が演じたから既存のイメージにとらわれずにこの映画に入り込めたのだと思う。

 宮部の孫役、三浦春馬氏、宮部の妻役、井上真央氏もこの映画まで全く知らなかった。適役だったと思ったし、新鮮な印象を受けた。

 ヴェテラン陣のうち、風吹ジュン氏、山本學氏、平幹二朗氏は知っていたが,初めて見た時は出演していることも気がつかなかった。資料を見て知った。夏八木勲氏、田中 泯氏、橋爪功氏は初めて名前を耳にした。ヴェテラン陣の方々はいずれも素晴らしい演技だったと思うが,私には景浦と言う人物を演じた田中 泯氏の圧倒的存在感を示したシーンが印象深かった。田中 泯氏はクラシックバレー界出身と言う。

 中堅から若手の出演者の方々はすべて初めて知った。

 「永遠の0」を観た後も時に映画やドラマを見ているが、「永遠の0」に出演した方々の姿の接する事がある。その際には「永遠の0」で受けた印象との違いに注目して画面を追いかけている。ちょっとだけ映画やドラマを見る私の目が変わって来た。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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