徒然日記
2014年9月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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9/30 (火) 晴れ 外来 飯川病院
 1:30起床,新聞、文献、徒然などゆったり過ごす。7:40車飯川病院着。8:45-13:45外来。祝日翌週にあたっており混雑。14:00-18:00飯川病院、DVD映画「昭和は輝いていた上半期」、「宇宙エレベーター」、「原発廃炉は可能か」。19:00夕食。20:45就寝。日常はまだトランクスでOK。

大曲中通病院クールビズ終了
 私は週に一回金曜日に大曲中通病院の内科外来診療を応援している。
 ここでは7月から玄関先に「クール・ビズ中」と張り紙がでた。「職員がクール・ビズ調の服装をしている。ご了解い下さい」、と言うことである。

 クール・ビズは日本で夏期に行われる衣服の軽装化キャンペーンである。2005年に小泉総理の発案で行われた。これで冷房消費のための電力をセーブしようと言う考えがあった。
 ビジネスの世界では、だらしなく見える、緊張感を欠くなどの否定的意見もあったものの、徐々に行政機関などを中心にノーネクタイ、半袖開襟シャツ姿が見られる様になってきた。そうは言えども私企業ではなかなか普及しないようで、相変わらずスーツ姿のサラリーマンも多い。「人は見てくれが9割」といった本には服装などが与える影響について無視出来ない効果がある、と強調されている。やむを得ないのかもしれない。
 
 私はクール・ビズに関しては大賛成である。と言うよりは、身体を締め付けるネクタイ、ワイシャツ、ベルト、靴下、靴など大嫌いである。それでも現役時代には我慢して常識的な範囲は何とか維持していた。

 この「クール・ビズ中」の張り紙は私にとって実に好都合であり、7月から早速取り入れ、テニスとサイクリング用のシャツとトランクス姿にした。駅と病院間は歩くので靴下と靴は履いているが、診察室ではそれも脱いで裸足になる。身体を一切締め付けていないから実に快適であった。
 
 見えた範囲では、スタッフの中で私が一番ラフな格好であった。
 医師としてだらしない姿に見えないか?そのことは若干危惧したが、問題があるようならスタッフや院長から注意されるだろう。患者はどうとらえるか分からないが、診療応援ももう2年以上にもなるから多少は顔を知られているし、ひげ面もさらしているし、今更そうびっくりされることはなかろう、と考えた。
 実際にはスタッフからも患者からも「先生、涼しそうですね・・」との声は聞かれたが、とがめられたと言う印象は一切受けなかった。

 かつて、現役を退く時には「もう歳だし、これからはむしろ身なりもしっかりしなければ・・」と前向きに考えたこともあったが、この決意はその翌日から頓挫した。逆に「気楽な身分だから、人から何と思われようと可能な限り自由に、ラフに過ごす・・」と考えを変えた。私は易きに流れやすい性格である。

 そのクール・ビズも9月末で終了した。次回の診療応援からは通常に戻る。
 この3ヶ月、涼しく、動きやすく、実に快適であった。

 私どもはいろんなしがらみの中で生きているものだ、と実感する。世の常識、社会的立場や人間関係、加えて服装など。これらのうち、捨てられるものは捨てつつあり、かなり身軽になったが、クールビズ間は一層の開放感を味わった。


9/29(月)晴れ 健康クリニックドック 飯川病院午後週5日勤務に
0:30起床、昨年、一昨年は足温電気あんか使用開始。今年はまだ。文献、新聞他。7:45徒歩飯川病院、9:00-11:00健康クリニックドック。中通病院見舞いに。12:00飯川病院に、13:00A銀行スタッフ来訪、14:00−18:30勤務。16:00-17:00病状説明に中通病院に。DVD『そこ迄言って委員会』、「映画:ダーリンは外国人」一部、「NHKのど自慢」観る。19:00帰宅、夕食、20:00就寝。歩数計Σ4686Km。

映画「永遠の0」(2):Bru-ray2枚組購入(1) 詳細に見直す
 2013年12月26日、公開されたばかりの話題の新作、映画「永遠のゼロ」を秋田の東宝シネマにて観賞し、感嘆した。次いで、原作の文庫本も購入して読んだ。
 『永遠の0』は百田尚樹氏の小説。原作は2006年に発表、2013年12月21日より年末年始映画として華々しく公開された。その一週間後、私は劇場に見に行った。新作映画を求めて見に行ったのは初めてであった。

 私は引退後は近代日本の歴史を学び直している。第二次世界大戦についても文献や歴史的映像、多くの方々の論評などを参照している。学んでも学んでも奥が深い。その流れの中でこの作品も参考にしている。

 そして再度、映画「永遠の0」を再度、細部にわたって見直したくて、9月にBru-ray2枚組セットを購入した。映画を購入したのはこれが初めてである。

 一枚は映画そのもの。劇場で初回に見たとき以上の感銘を受けた。
 もう一枚は名場面の静止画像、「永遠の0」が出来るまでの人的準備の問題、撮影装置、零戦制作、Computar GraficsおよびVFXの手法、空母赤城、真珠湾、ミッドウエー開戦のリアルな画像等、どのようにして作られたのか,等々興味ある内容になっている。私が特に興味を持ったのは、実際にあり得ない場面を臨場感さながらに作り出す現在の撮影技能についてである。もうここまで来ているのか? と感嘆する事ばかりである。

 ストーリーと劇場で見た際の感想は、映画「永遠の0」(1):妻との約束「必ず戻ってきます・・」が全編のキーワード(http://www.mfukuda.com/nikki/2013/nikki201312.htm)に記載した。

 原作者百田尚樹氏はNHK経営委員でもあり、就任後の発言でいろいろ物議をかもしている方であるが,小説家としてはこの作品がデビュー作である。「永遠の0」では、60年以上も前の,ほぼ忘れ去られようとしている史実を示しながら、現代に生きる我々にも綿々として繋がっている,決して忘れてはならない問題として、見事に結びつけたところがすごい,と思う。

 書籍でも文献でも参考になるものであれば何度も読み返す。連日録音をとりながら聴いているラジオ深夜便も優れた内容のものは何度も聞き返している。今までは映像作品に関しては一見れば十分と言う感覚で軽くとらえていたが、昨年Bru-rayのシステムを導入してからはドキュメンラリー番組を中心に蓄積し,適宜振り返って歴史勉強の参考にしている。

 この映画「永遠の0」は劇場で見た時にも感嘆はしたが,今からみれが消化不良であった。作者の意図も2回目を見て理解出来たところも少なくない。


9/28(日)快晴 庭仕事     
 0;00起床。本読み、新聞など。9:30バスと徒歩帰宅、朝刊で御嶽山噴火を知る。昨日正午近く噴火、50名ほど死亡か、またも大惨事。この時間、事故を知らず噴火関連の勉強をしていた。午前はデータ整理中心、午後は庭の草刈り+落ち葉掃除+禁止の落ち葉焼き他。19:00夕食、20:00就眠。歩数計Σ4674Km。

ジジババ・孫論(14) しつけにおける社会の責任 
 子どもの社会は、よくも悪くも大人の社会の影響を受ける。
 この情報化社会、子どもは大人社会から隔絶された純粋培養の社会ではあり得ない。子どもには興味津々たる大人社会の現実のニュースが次々と飛び込んで来る。

 最近生じた例を多少挙げて見る。子供達の目には何と映ったのか。それを知る方法は私は持ち合わせていないが、興味はある。

■いじめ問題:これは大きな教育課題である。国レベルでも対策が講じられた。しかし、いじめは学校だけでなく、職場や地域など一般社会でも起きている。子ども社会の手本は大人社会にも多数ある。教員の不祥事は教育成果も水泡に帰してしまう。海上自衛隊、某県県警などの件が大きく報道された。
■東京都議会の女性都議セクハラやじ問題。
■現代のベート−ベン氏のゴーストライター事件
■某県県議の号泣会見
■STAP細胞関連 
■食品偽装問題
■女児誘拐・・・・・。

 これらはみんな「こんなことしても良いんだろうか、いや、そうであってはならない・・」と反道徳の教育材料とな成り得る事件であった。
 学校では、家庭でも、多分「正直であれ・・」と教えているはずであるが、上記のごとくの事件は「正直でなくても許されるのではないか?」と言う発想を植え付けてしまいかねない。

 勿論、この世の中は聖人君主ばかりではない、いや、逆で凡人から成っている、と言って良い。だから、社会では「よろしくない」ことはしばしば起きるし、起こす。これが社会の現実でもある。
 
 だからこそ、「よろしくない」ことを正視して、教育的に生かすことが重要である。その際の要になるのは親であり、ジジババであり、教育者であろう。


9/27(土)風強いが快晴 飯川病院日当直 御嶽山噴火
1:30起床、新聞、本読み。文献・データ検討、12:00バスと徒歩飯川病院に、12:30日当直勤務に。DVD映画「秘密」途中迄、映画「HOME 愛しの座敷わらし」、「巨大災害:火山大噴火」。18:00検食。20:10就寝。歩数Σ4668Km。

ジジババ・孫論(13) しつけに於ける親の責任 
 今年は孫の幼稚園の運動会にはジジババが参加、学習参観日にはババが参加した。

 その際、面白いことに気づいた。しつけなどに関して自我が少しずつ発達している孫二人は、親の言いつけは中なか守らないが、口だけは達者になり、親の言い方をしっかりまねしながら二人が互いに言い合っている。一部など、まるで親の発言そのものでもある。こども達は親をしっかり見ているものだと感心している。

 人間の学習の大半はまねによって学ぶ。教え込んだりするよりも、多くは日常的に見聞きしていることを、まねすることで身に付けていく。だから、しつけは親やジジババが「口で言うより、日常手本を示していること」が肝要である。

 例えば、挨拶一つとっても親が普段から家庭内でも、あるいはご近所の中でも気持ちよく挨拶する姿を見せていれば、子どもにとってそれが当たり前の姿に映り、自然に身に付く様になる。そのためには、家庭内では両親間の間柄、ジジババ世代との人間関係、少なくとも隣近所あたりの人間関係が良くなくてはならない。

 多くの親は、子どもには社会生活に自然に入って行ける様、「当たり前」のことを「当たり前」に出来る様になってほしいと願う。そのためには、まず親自身が「当たり前のことを当たり前にする姿勢」を示し続けることが最も重要なことである。しかも、その姿勢は絶え間なく一貫していなければならない。これは大変なことである。少なくとも自我が発達して親離れが始まってくる年代に至る迄はそうあって欲しい。

 中学生頃、高校生の頃になると親とのコミュニケーションよりも友人同士で互いの考え方の擦り合わせが行われる様になる。
 少しずつ親との間の距離が広がっていく。これは成長過程の当たり前の姿であるが、それ迄の間と違い、その過程とは異なる価値観が家庭内に入って来る。親との摩擦も次第に増えて来る。親としてしつけるべき社会性の基礎的能力は、それ迄の間に養っておかなければならないだろう。


9/26(金)快晴 家内孫の保育参観で盛岡 大曲中通病院外来 飯川病院
 0:30起床、新聞チェック・文献読み・徒然など。5:30家内を駅に送り飯川病院。8:10こまち、9:10-13:10大曲中通病院外来、往復徒歩。14:30飯川病院勤務、19:00帰宅、夕食、20:00就寝。歩行計Σ4659Km。DVD「関東大震災後半」、「英雄の選択:後藤新平」観る。

書評:「坂村真民一日一言」坂村真民著(藤尾秀昭選) 初版2006年 致知出版社 1143円
 本書は致知出版社社長で自らも文筆家である藤尾秀昭氏が、坂村真民氏の膨大な作品から366語を選び出し「一日一言」としてまとめた本である。


 坂村真民氏(1909-2006)は熊本出身で「癒しの詩人」と呼ばれている。作品は平易な言葉で表現され、広い年代の方々に愛されている。言葉「念ずれば花ひらく」は多くの人々に共感を呼び、その詩碑は日本全国で800余、さらに外国にまで建立されている。

 著作に『自選坂村真民詩集』、随筆集『念ずれば花ひらく』、『生きてゆく力がなくなる時』、『愛の道しるベ』など多数がある。

 私はつい数年前迄は氏の作品をまとめて読んだことは無い。僅かな作品を十数編たまたま知っていたに過ぎない。氏の作品は心にしみるものが多い。

 私は氏について興味を引かれたのは,最近で氏の生活パターンに付いて知ったからである。
 私もそうであるが、氏は超朝方人間であった。氏は午前1時に起床、健康維持のために真民流の体操を行い、経を唱える。3時過ぎに外に出て思索し、日の出の時間前に近所の重信川の傍らに立ち、日の出に手を合わせた。朝食時間に帰宅、家族と朝食をとった。実娘の西澤真美子氏によると、氏は夜半・早朝は家族の誰もが起きているのを好まず、ましてや氏の部屋に近づくのは許されなかったとのことである。私も一人で過ごす時間帯として大事にしているのであるが、私の場合は生活に一定のパターンを持たない家内に時折邪魔される。文句は・・・言えない。やむを得ない。

【念ずれば花ひらく】
念ずれば花ひらく
苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを
わたしも いつのころからか となえるようになった
そうして そのたび わたしの花が ふしぎと ひとつひとつひらいていった
【時】
日の昇るにも手を合わさず、月の沈むにも心ひかれず、あくせくとして一世を終えし人のいかに多きことぞ。
道のべに花咲けど見ず、梢に鳥鳴けど聞かず。せかせかとして過ぎゆく人のいかに多きことぞ。
二度とないこの人生をいかに生きいかに死するか、耳をかたむけることもなくうかうかとして、老いたる人のいかに多きことぞ。
川の流れにも風の音にも告げ結う声のあることを知ろうともせず、金に名誉に地位に狂奔し終わる人のいかに多きことぞ。

 氏は日常、心に浮かんだ言葉をさらさらとノートに書き留めたと言うが、それが何と796冊にものぼったと言う(坂村真民記念館館長 西澤孝一氏)。巨人であった。

 坂村真民氏の作品は、著書も、驚くほど多い。選択に困る。
 そのなかでも本書は作品のなかから366語を選び出し「一日一言」としてまとめた本で、とても親しみやすい。


9/25(木)夜半から降雨午後快晴 外来 飯川病院
1:00起床、新聞・文献・徒然など。8:15車飯川病院着、8:45-13:30中通病院外来、混雑。14:00-18:00飯川病院勤務、帰宅、 19:00夕食、20:00就眠。 DVD「太宰治物語」、「関東大震災前半」。 歩数計Σ4647Km。

巨大災害(3)地球にとって当たり前の現象 地球は生きている
 自然現象はコントロール出来ない。
 地球自体が若く、山は高く、海は深く、凹凸も激しいから、より平坦になる迄地殻変動はまだまだ続く。大陸は今も移動中である。更に、地球の中心には1000℃ほどのマグマがあり、時折圧力が異常に高まり、地上に噴出する機会をうかがっている。

 さらに、生物が住むに相応しい環境を持っている希な星である。空気、水、土などいのちを育む貴重な物質を持つ。これらは太陽からのエネルギーを得て活動し、循環している。

 人は一定レベルを超えた自然の営みに接した際に、数々の影響を受ける。それが著しい場合は害を受ける。地震・津波・噴火・豪雨・豪雪・風水害など、規模が大きくなると自然災害と言われる。これに加えて人災もある。

 私どもは、まだ若くて活動生の高い地球にいる限り、地球の活動を知るために学ばなければならない。地球を読まないと被害に遭う。地球を読むと言うことは地球の自然の営みの範囲を読み知ることであり、地球の活動の歴史を知ることである。
 自然災害は防ぐことが出来ないが、地球を知ることによってその被害を減じること、減災はできる。

 人間は科学、文化、文明を発達させた。しかし、自然との共存共栄の謙虚さが乏しくなって、人間だけが偉くなリ過ぎた感かある。自然の営み、自然現象をもコントロール出来ているがごとくやや増長きみに私には見える。大自然は人間だけのものではない。自然の営みは決して人間に都合良く合わせてくれない。

 そのことを忘れていないのだろうか。忘れたが故に、3.11のような大自然の活動を目の当たりにして愕然とする。そして、自然の活動を無視した人の営みに気付き人間の無力さを、時々、自覚する。

 東日本大震災は確かに未曾有の激しいレベルだったと言う見方もある。
 しかし、古い記録には類似の津波もあった。福島第一原発は50mほどの高台をわざわざ削って低くし、海抜20mほどに設置した。主に、建設上での、運用面からの経済的な理由だったと言う。それなりに事情はあっただろう。しかし、地震・津波が殆ど無い外国の設計による原発を、地震国・津波国の日本にそのまま建設した所に問題があった。さらに、最後の砦である冷却機能さえも失う可能性がある場所に設置した。今、わが国は厳しい現実に対峙している。いや、にもかかわらず、東日本大震災自体が忘れ去られ様としている。

 自然災害は自然の活動を無視した驕りの結果である。人間はもっと謙虚にならねばならない。


9/24(水)家内の誕生日、曇午後雨、外来 飯川病院ボランティア
1:30起床。文献若干,本読み、新聞読む。7:40徒歩飯川病院着。回診等病棟関連業務。8:45-13:00外来。13:10飯川病院ボランティア。15:00-16:30中通病院にてドックデータ総括。DVD「撃墜:3人のパイロット後半」、「日本兵になったアメリカ人」、19:00帰宅、夕食、20:45就寝。歩数計Σ4642Km。

巨大災害(2)地球にとって当たり前の現象 広島の災害から学ぶ(1)
 広島市内では8月19日の深夜から20日未明にかけて100mm/h以上の記録的な大雨に見舞われた。積乱雲が縦走して発達するバックビルディング現象が起きたのではないかと推定されている。初耳の気象用語である。最近の気象はちょっとおかしい。私も気象について学ばなければ,と思っている。

 現地から伝えられる映像は悲惨であった。被害の詳細が分かるとともにに、驚きは増すばかりであった。
 被災地の航空写真を見ると、門外漢の私が見ても異様であった。山肌に何本も走る土砂崩れや土石流の爪痕が走り、直撃を受けた住宅は無惨な様相を示していた。地形は一見デルタ地帯に見える。何でこんなところまで、住宅が密集して建っているの?にわかには信じ難かった。

 私は知らなかったのであるが、広島市内で従来から土砂災害が相次いでいた、と言う。それが、そんな地域で何故こんな甚大な被害が生じることになったのか?行政の災害予防対策はどうなっていたのだろうか。

 広島市の北側に広がる山は花崗岩が風化した地質で、ちょっとした雨でも土砂崩れを繰り返してきた,と言う。2000年に制定された「土砂災害防止法」は、1999年6月に広島県内で起きた、死者・行方不明者32人を出した土砂災害が切っ掛けになっている。
 広島ではその法さえも前向きに活きなかったらしい。

 国土交通省が全国で指定している土砂崩れ危険箇所は、広島県が約3万2千カ所と全国一だと言う。広島が特殊な構造になっていると推定出来る。秋田県はまだ調査中だと言うが7685カ所だという。徒歩通勤の途中、千秋公園の北側にの斜面も怖いところが数カ所ある。

 想定外の降雨であっただろうが、これも地球の活動の一環である。手はつけられない。いままで類似の降雨は無かっただろうか?
 被災に会われた方々にはかける言葉もないが、未曾有の豪雨だったとしても、今回の被害はほぼ人災と言うべきだろう,私はそう思った。


9/23(火)秋分の日 快晴 
 1:30起床。新聞・医学論文チェック他。6:45ゴミ出し他、朝からデータ整理に、13:00購入したBlu-rei版「永遠の0」と特典盤観る。映画館での鑑賞とは別の意味で良かった。DIYショップにて花購入し花壇改修。その後、読書、新聞、文献など、19:00外食、20:30就寝。 歩数計Σ4631Km。

巨大災害(1)地球の当たり前の活動だが災害化は人間 普代村の例から学ぶ
 2011.3.11東日不大震災が生じた。この記録は後世に残さなければならない。情報が豊な現代だから、書籍として、映像として、電子データとして永く後世に残っていくだろう。この記録が今後の自然災害の被害を食い止めることになる。

 東日本大震災は東北・北関東地方に激しい被害をもたらした。
 壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で岩手県北部の普代村では漁船流失など漁業被害が出たが、村の中心部や集落地には大きな被害は出ず、死者数はゼロ。過去の津波の被害を重視して普代川上流に設置した、高さ15mの水門などが巨大津波から村をしっかり守った。計画時に「高すぎる」と批判を浴び、呆れられたが、当時の村長が「明治に15mの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。

 「明治三陸地震」は1896年(明治29年)6月15日午後7時半頃に、釜石沖200kmを震源とする、マグニチュード8.2- 8.5の地震であった。地震そのものはいわゆる長周期地震と言うべきか、揺れが5分間の続いたが、各地の震度は2-3程度であり、地震による直接被害はほとんど無かった。地震の後、当時の観測史上最高の38.2mの津波が発生、北海道から宮城県にわたって到達した。死者・行方不明者合計2万1959人、うち岩手県は1万8158人と被害は甚大であった。この地震と津波については作家吉村昭のルポルタージュ「明治三陸大津波」に詳しい。

 岩手県普代村は、「明治三陸津波」で302名 、1933年の「昭和三陸津波」で137名の犠牲者を出した。村は津波から 住民を守る防壁設置を検討、このうち普代水門は1984年に完成した。人口約3000人のうち半数が海に近く、狭あいな普代、太田名部両地区に住み、残る村人は高台で生活している。この水門がなければ同村でも甚大な被害がでたと考えられる。

 常識的な「想定内」ではなく、批判を恐れず史実を重視した村長の決断が後に住民のいのちを救うことになった。
 ここから学ぶべきことは少なくない。
■若い地球だから、自然界の営みはまだまだ起こる。地球にとってはくしゃみとか震えの様なものである。
■自然の営みとは言え、人間にとってはそれが災害となり、甚大な被害を被ることになる。
■それを前提に、安全対策を平行して行わなければならない。
■安全対策は膨大は費用がかかる。
■史実に沿って安全を考えるべき。


9/22(月)雲一つない快晴 健康クリニック
 1:00飯川病院にて起床。医学論文・新聞他いつもの如し。7:00検食、9:00-11:30健康クリニックドック16人+結果説明1名。中通病院医局は解体工事で強烈な騒音。11:45飯川病院へ、文献読み他、14:00-18:30勤務。19:10帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計4626Km。

花を楽しむ(2) バラ 岩手「サンテミリオン」と「花巻温泉バラ園」  
 今年は、岩手にあるバラ園を2回訪れた。

 6/15(日)は次男宅で産まれた子犬を見るために家族が盛岡に集まったが、その際に紫波郡紫波町にあるバラ園「サンテミリオン」を訪問した。「サンテミリオン」はバラの庭園が有名で、レストランもついている。バラは品種ごとにきれいに分類されちょっとした説明もついていて、ブロックごとにきれいに咲いていた。そこで昼食をとったが、一時間も待たされ、バラで癒されたいい気分が萎えてしまった。にもかかわらず色とりどりの多種類のバラは見事であった。鉢植えのバラを2本ほど購入、今わが家の庭で咲いている。


 8月中旬の墓参りをかねた家族ミニ旅行では花巻温泉に宿泊、帰路「花巻温泉バラ園」を見学した。ここは10年以上も前に一度立ち寄ったことがある。
 花巻温泉バラ園は約5000坪の敷地に、世界のバラが450種、6,000株の規模と言う。このバラ園は、宮沢賢治が設計したかつての南斜花壇があった場所に、昭和35年に開園した。バラのアーチ、噴水、賢治の詩碑、賢治が作ったとされる花時計がある。

 あいにくの小雨であったが、順路は舗装されておりあまり気にならなかった。

 私はバラは嫌いではないがあまり好きでもない。自分に比較してあまりにも高貴すぎるからである。私は草花系の、雑草のような雰囲気の花を好む。そんな事もあってバラ園なるものはまだ数カ所しか見ていない。その中では「花巻のバラ園」は印象に残っている。

 バラの一部はいい香りを放っているが,不思議な事につぼみや開花直前の花はにおわない。室内に置くと耐え難いほど強烈な香りを放つカサブランカ等も同様である。開花して受粉の用意ができるとその時点で一気に香ってくるようだ。虫媒花の場合はこの準備ができてから昆虫を誘っているのだろう。自然界の妙か。
 何で花はいい香りなのか?人と昆虫は共通の好みがあるのか? ただ、これには例外もあって「死体花」と言われる腐臭に似た耐え難い臭いの花もあると言う。ある種の昆虫の好みには合うのだろう。

 もう一つ不思議な事はバラも虫媒花の一種だと思うが、園などでこれだけ多数の種類を密集させて栽培していて乱雑に混じり合うことは無いのだろうか?と言う疑問である。何で純系が維持されるのか、不思議である。接ぎ木で増やしているからなのか。

 などなど、私にとってまだまだ知らない事が多い。花を見てきれいだ・・等と感心しているだけでは面白くない。



9/21(日)快晴 飯川病院当直 
1:00起床、電子データチェック、本読み。午前は庭の整理・掃除。DVDにて「N響定期ほかの公演」を楽しむ。データ整理と本読み、16:30バス徒歩飯川病院、17:00当直業務に、18:00検食、20:00就寝。歩数計4621Km。

花を楽しむ(1) 雄和の国際ダリア園 見事な花を見ていろいろ考えた 
 3週間前と昨日の2回、秋田市雄和にある国際ダリア園を訪れた。ここは開園23年目で、世界14カ国からの約700品種、7,000株のダリアが植えられている。見事な花をつける9月から10月にかけては何度訪れても見飽きることはない。球根の予約販売もしており、春先に頒布される。

 ダリアは、1842年にオランダ人によってもたらされた花で、歴史はそう長くはない。牡丹に似ているため、天竺牡丹とも呼ばれる。球根は寒さに弱くて秋には全部掘り起し、5月頃に植える。大きく育った茎は太さが数cmもあり、僅か数ヶ月でここ迄育つのかと驚く。土作り、追肥などかなりの手間がかかっていると思われる。我が家でも球根を数種類購入して花壇に植えたことがあるが、うまく育たなかった。

(鮮やかな赤 とても目立つ 華麗である) (鮮やかな黄色 私は華麗な赤より好きである)


 暑さに弱く、日本では東北・北海道が栽培に適している。花は大きく、色とりどり、鮮やかな色調で咲く。青と緑以外のあらゆる色があると言われる。ダリアの花の形は16に分類されているというが、鑑賞に特に知識は不要でありどんな形の花も十二分に美しい。何で花はこんなに美しいのか?

 毎朝欠かさず聴いているNHKラジオ深夜便では、5;00amの終了間際の数分間に本日の「誕生花」と「花言葉」が紹介される。
 「誕生花」と「花言葉」は誰がつくり、どんな方法で承認を得たのか? ずっと疑問に思っていたのであるが、権威ある植物学会等で決めているのではないので、自由に付けていいのだそうだ。「誕生花」については解らないのだが、「花言葉」はその花からどの様な印象を受けたのか、故事・伝説・宗教・物語等からも引用されて自然と作られ、いつの間にかコンセンサスが出来上がったと言うこと、らしい。
 ダリアの「花言葉」は、花そのものの持つ雰囲気から、「華麗」、「優雅」、「威厳」、「栄華」など。そのほか、「移り気」、「不安定」、「感謝」もあると言う。なかなか立派で意味深である。

 花は植物にとってみれば生殖器である。花を好む方々は人間で言えばヒップの辺りの構造を、見て、嗅いで、触って楽しんでいる様なもので、考えようによっては卑猥である。考え過ぎかな?

 花の色は、花の形も、人間の目で見れば美しいが、別に人間にサービスするために美しいのではない。赤系統の花の色素はアントシアニンが、黄色はカロチンが、白色系はフラボンが含まれ発色している。


 花の色を決める発色物質は美しさのためでなく子孫を紫外線から守るためである。単に色で紫外線を遮っているのではなく、これらの発色物質は協力な抗酸化作用を持ち、紫外線で生じた有害な活性酸素を中和して、めしべの基部にある卵細胞を守っている。日当りが悪いところの花は同じ花でも発色が弱いのは紫外線が弱いためである。


9/20(土)超快晴 庭掃除
2:30起床、いつもと同じ、蓄積資料整理。文献読みなど出来て満足。午前は主にNHK交響楽団定期演奏会の録画を視聴しながらデータ分類,インデックス作り。午後は庭掃除、若干の焚き火。15:30急遽雄和のダリア園に。18:00帰宅、19:00夕食、 20:30就寝。DVD「N響定期、R・マゼール追悼講演」視聴 。歩数計4616Km。

真珠湾攻撃はだまし討ちだったのか(6) 過去を振り返る重要さを改めて感じとった
 ■結局、真珠湾攻撃後にアメリカに届けた文書はハルノートについての返答であり、最終結論部分は作成途中に届いたルーズベルト大統領への意向を取り入れたソフトな表現になった。だから、内容的には宣戦布告文とは言えない。届ける必要さえなかったレベルの外交文書であった。だから、「真珠湾攻撃の開始後に宣戦布告した」のではない。

 ■時間的な面から見れば、最終結論部分が届いたのは13通目が届いてから15時間も後であった。この遅れがあったために米国側に手渡すのが真珠湾攻撃の後にならざるを得なかった。その遅れの原因は作成途中に届いたルーズベルト大統領の「これ以上の状況悪化は避けたい」と言う天皇宛の「平和を願う」親電を意識して手直しされたからであった。
 しかもこの親電は雲行きが怪しくなってきた日米間交渉に心いためた現地の日本の大使館のスタッフが「平和的交渉継続」を願い、大統領に提言したものであった。その電文を陸軍が10時間電報局に留めてからアメリカ大使館に届けている。

 ■ハルノートへの返答が遅れた原因は、だから、大使館側にはない。

 ■自ら「平和を願う」親電を送ったにもかかわらず無視された形となったルーズベルトは「逆切れ」し、ハルノートへの返答の遅れを「卑怯な開戦」に結びつけて「 リメンバー・パール・ハーバー!」と自国民の戦意高揚に利用した。これが無差別爆撃、原子爆弾に結びついた。「 リメンバー・・・」は終戦70年も経った今でも両国間で憎悪やわだかまりとして生きている。

 ■最後に(1):私が主に参考にしたのは元外務省官房審議官、元駐ニュージーランド大使、東海大学教授、尚美学園大学教授を歴任された井口武夫氏が10年前に「終戦から60年・元外交官の回想」としてラジオ深夜便に登場された際の録音がきっかけである。同氏の「開戦神話 - 対米通告を遅らせたのは誰か (中公文庫) 」、他も参照した。

 ■最後に(2):私はここ数年、昭和以降の日本近代史を集中的に勉強している。しかし、昭和の時代を学ぼうとすれば明治維新、しいては1853年のペリー浦賀に来航した時代迄遡らねばならないことが分かり対象範囲を広げたばかりである。
 鎖国が終わって突然投げ込まれた残酷な国際社会、明治時代の外国と結んだ不平等条約、日清、日露戦争、第一次世界大戦、ベルサイユ講和会議と条約、世界恐慌、これらが連綿として繋がり、真珠湾に繋がっていく。
 真珠湾一つをとってみても日米間のボタンの掛け違えに起因していることが理解出来る。それが次々と増幅していった。
 歴史を学ぶことは「人間を学ぶ」ことである。現代に生きる自分が、知ることのなかった時代の推移を学んでいるが、そこには時代に翻弄される人間の姿がある。そこに思いを馳せ、共感出来れば良い。それを大切にしつつ明日のことを考える。ここにこそ歴史を学ぶ意義があると思う。


9/19(金)午前降雨午後快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
0:30起床、新聞チェック、本読みなど。5:00可燃ゴミ集積所に運搬。7:40Taxi。8:10こまち、渋滞のためギリギリ、ちょっと待ってもらった。9:00-13:00大曲中通病院外来、病院駅間復路のみ徒歩。14:45飯川病院ボランティア。 DVD「変革者:上杉鷹山」、「知恵泉:高田屋嘉兵衛」、「世界のドキュメンタリー:長寿への挑戦」 。新聞読み他、19:00帰宅・夕食、20:00就寝。Σ4609Km。

真珠湾攻撃はだまし討ちだったのか(5) ハルノートへの返事が遅れた理由
 外務省はハルノートについての返答を作成、その返答13通までは開戦前日にワシントンの日本大使館に送られていた。しかし、最終結論としての14通目が届かず、大使館側では最終結論部分が届くのをひたすら待っていた。

 実際に最終結論部分が届いたのは13通目が届いてから15時間後であった。この遅れがあったために米国側に手渡すのが真珠湾攻撃の後にならざるを得なかった。

 最終的に大使館に届いた結論部分である14通目は、「米国側の姿勢を遺憾に思う」と言う、従来用意されていた文面から見てもソフトな内容であった。何故15時間も送らせる必要があったのか。電文を受けた大使館員も,それを米国側に届けた野村大使も不可解であったと言う。ましてや、この文章が宣戦布告文として見なされるなどは感じていない。

 何故,結論部分が遅れたか。

 これは井口武夫氏の研究に詳しいが、結論部分を作成している最中にルーズベルト大統領からの天皇陛下宛の親電が電報局に入ったために遅れた、のが真相らしい。この親電の内容は「日本側の動きには重大な懸念はあるが、何としてもこれ以上の状況悪化は避けたい。天皇陛下の一層のご尽力をいただきたい」、と言う平和的解決を求める内容であった。またこの親電は日本大使館の野村大使、来栖特派大使らが戦争を回避するために大統領に働きかけた,と言う。

 更に、電報局に着いたこの親電を陸軍が10時間局に留め置いた事が判明している。陸軍は真珠湾やマレー半島に軍を進めている最中であり、天皇陛下に親電を届ける事に依って開戦の意思が揺らぐ事を恐れたためと思われる。
 グルーアメリカ駐日大使は届いた電文を急ぎ解読、東郷外相に届けた。外相は東條首相とも相談,天皇陛下にそれを届けた。天皇がこれを見てどのように思われたのかは不明である。実録「昭和天皇」にはあるかもしれない。

 外務省はこの大統領からの親電を受けて、ハルノートに対する結論部分を一層ソフトなものに手直しせざるを得なかったが、その作業に手間取ったために発信するのが大幅に遅れた。また、内容的に宣戦布告の通告文とは見なし得ない内容となった。

 だから、井口氏の研究によれば、ハルノートに対する返書の結論部分が遅れた事に対する責任は大使館にはなく、軍部と外務省が負うべき、としている。


9/18(木)快晴 外来 飯川病院
1:00起床。文献検索、新聞チェック、5:00本・雑誌・新聞・一般紙など収集所に。7:55徒歩病院、8:45-13:30中通外来、混雑。14:00-18:45飯川病院、19:00帰宅、夕食、20:50就寝。DVD「英雄達の選択:徳川慶喜」、「宇宙遺産:138億の超絶景」、「青空の墓標:御巣鷹の尾根で」、「聖女」。歩数計4601Km。

真珠湾攻撃はだまし討ちだったのか(4) これまでのまとめ
 私は今以下の二点について文献的に学んでいる。
 ■真珠湾攻撃は不意撃ちとして本当に非難されるべきだったのか?
 ■日本の交渉打ち切り通告が攻撃の一時間遅れであった。遅れの原因はワシントンの日本大使館の職員達の怠慢とされたが、本当だったのか?

 真珠湾攻撃はだまし討ちだったのか(1)(2) (3)で私は以下の如くにまとめた。抄文を再掲する。

■最終的に開戦を決意したのは日本側であるが、日本政府は複雑に交錯する国際情勢の狭間を縫って米国と事態改善のための交渉を続けて来た。しかし、日本側は窮地に追い込まれ、厳しい内容のハルノートを突きつけられた。

■結果的に真珠湾攻撃は通告なしの不意打ちになった。ルーズベルト大統領はこの不意撃ちを最大限に利用、世論を巧みに誘導した。無差別大量殺戮、原爆投下などに、また、戦後処理のすべてに渡って影響を与えた。

■開戦前の駐米大使館の動き。大使館員は開戦が信じられなかった。翌日の大統領の「日本が戦争を開始した。宣戦布告は無かった。とどめはアメリカが刺す・・」と述べた放送を聞き開戦を実感した。

■大使館員の職務怠慢は事実無根。大使館員が開戦前夜送別会で泥酔し職務を怠慢したことが開戦通告遅れの原因であった、とされた。実際は日本の外務省、軍部が負うべきであったが、末端の大使館に押し付けた。詳細は今も公表されていない。

■ハルノートへの対応。ハルノートは日本が大陸で得ている権益を全て放棄せよと言う厳しい内容で,当時の考えでは到底のめない内容であった。ハルノートへの反論文が攻撃開始1時間後にアメリカ側に手渡された。これが宣戦布告文書と解釈された。この文面はハーグ条約にある宣戦布告に則っていない。だから、国際法上は布告が遅れたと解釈されていない。

■宣戦布告 一般的にはどうか。日本は攻撃が開始されてから「渡す必要が無かったどうでも良い文書」をハル長官に手渡した。ルーズベルト大統領はこのことを世論形成に巧く利用し、「 リメンバー・パール・ハーバー!」の標語となった。これは終戦70年も経った今でも生きている。

■開戦前に宣戦布告を書面にして相手国に手交し、その後、戦闘を開始するなど、どこの国もやってない。一般的には、交戦が始まってから自国民に対して通告するのが世界の開戦慣例である。日本も真珠湾及びマレー半島の攻撃を開始した後、天皇陛下の名の元に宣戦布告 『 米英両国に対する宣戦の詔書 』 を出している。

■ルーズベルト大統領の天皇宛の親書が遅れの一因。日本の外務省からハル・ノートに対する「回答書」が大使館に送られたのは予定より10数時間遅れであった。結果的に攻撃前に届けられなかったがその原因は開戦直前に届いたルーズベルト大統領の天皇宛の親書であった(井口武夫氏)。その遅れを大統領自身が巧く利用した。皮肉な結果であった。


9/17(水)快晴 外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。文献検索、新聞チェック、本読み他。7:50徒歩病院着。 8:45-12:30外来。13:00飯川病院へ、ボランティア。新聞、医学文献チェック、歴史本など。風邪か?やや不調。DVD「そこ迄言って委員会」、「立花隆:臨死体験」、「神様がくれた時間:岡本喜八監督夫妻」、19:00帰宅、夕食、19:50就寝。Σ4579Km。

地方創生は出来るのか(5) 実は、わが国には素晴らしい創生モデルがある
 私は地方創生政策に注目しているし、期待している。

 政府の人口減少問題や地域活性化策の司令塔である「まち・ひと・しごと創生本部」は本部長に安倍首相、副本部長兼担当大臣に石破氏を置いた。基本方針を「2060年時点で1億人程度の人口を維持するため、東京一極集中を是正、地方で安心して子育てができる環境を実現する」とし、従来とは異次元の大胆な政策をまとめると強調した。

 創生本部は本年末までに、「2020年まで実施する5ヵ年計画である総合戦略」と、「2060年までの長期ピジョン」を決定する。地方が自由な発想で、主体的に地方創生に取り組めるよう、実効性のある本部をつくってもらいたい。

 画策の一覧表を作っても、地域は喚起されない。全国一律の地域創生策をつくり、それに地方が従う方式では、地方の活性化は望めない。地域創生のためにはその地域に特徴ある施策でなければならない。それは霞ヶ関の机上の論理では到底出来ない。

 かつて、竹下政権の時に通称「ふるさと創生事業」の名の下に各市町村に対し地域振興に使える資金1億円を交付した政策があった。多くの自治体は資金だけ来たものだから使い道に困り、箱ものに投資した。日本各地にパイプオルガン付きのコンサートホールが林立したのはその頃であるが、そのほとんどは閉館同様である。こんなことは繰り返してはならない。

 地域の創生のアイデアが問われる所であるが、そんなものが地域にあれば今迄だって効果を上げているだろう。だから、「まち・ひと・しごと本部」の使命とノウハウを身につけたスタッフを各県に派遣してリーダーとしてはどうか。

 わが国には地方創生、「まち・ひと・しごと本部」がやるべき事業のモデルと見なすのに相応しい地域がある。すなわち、「東日本大震災の被災地と原発事故被災地」である。この地域の復興は主役は被災地域の住民、行政であるべきだが、私には地域のアイデアが見えてこない。3年半も経つのに復興は遅々としている。

 被災地の復興は日本全域でなく特定のエリアである。しかも、津波と原発事故で地域が物理的に、機能的にほぼ消滅している。考えようによっては新しい発想を盛り込み再生しやすい地域でもある。

 一方、アベノミクスの成長戦略としての地方創生は大都市圏を除く全国的規模にある。広く薄い対策になりかねない。
 私は地方創生政策に注目しているし、期待しているが、前途多難だと思う。


9/16(火)快晴 外来 飯川病院  
 1:30飯川病院当直室起床。冷えて医局ソファは無理。文献・新聞チェック。DVD視聴、7:00検食。8:45-12:30中通外来、数の割には比較的順調に進んだ。13:00飯川病院に、14:00−18:30勤務。本読み、文献読みなど。DVD「奇人の天才南方熊楠」、「飛行機の秘密」、「日本、まるごと地図」、「新幹線誕生60年」観る。19:00夕食、20:30就寝。Σ4579Km。

地方創生は出来るのか(4)秋田の場合(1)
 地方の課題として、●人口減、●少子高齢化、●企業誘致困難、が挙げられる。秋田県は深刻である。

 総務雀が公表した人口動態調査によると、日本の人口は2009年がピークであったがその後5年連続で減少し,本年1月時点で約1億2643万人となっている。これが2060年に8700万人まで落ち込むと推計されている。
 民間の「日本創生会議」は2040年には20〜39歳の出産年齢にある女性が2010年に比較して半数以下となる自治体は896市区町村に上るとの試算をまとめた。このままでは人口減少で行政機能を維持できず、いずれ消滅の可能性があると指摘した。5年近く前に限界集落などと言われた事があったが,何か対策された?? 状況は悪化し、限界自治体,絶滅危惧自治体などと言われかねない。
 この試算の発表は本年5月であったが、具体的な近未来像にショックを受けた人も多いが,今更何なのだ!!!の感は拭えない。

 秋田県の人口は7か月間で1万人減少し、6月1日現在104万人を切っている。人口減少率は47都道府県で最も大きい。出生率は昨年まで19年連続で全国最低。婚姻率も14年連続ワースト。知事は減少を抑える対策を打ち出したいと述べている。ずっと同じことを言っている。
 このままでは百年後に秋田県はなくなる、と冗談も出る。しかし、行政の動きは鈍い。

 私は具体的な数値は別として、この傾向と結果として生じる地域社会の機能低下、生活不能状態に陥る可能性は予想されていたのに,何で今更慌てるのか,疑問に思う。
 この人口問題は既に1990年(25年前)の低出生率「1.57ショック」で社会問題化したが,社会的に,政治的にそれほど関心を持たれていなかった。人口問題は単に数字上で人口が減少して行くだけではないあらゆる方面に多様な影響を与える事が分かっていたのに、である。あまりにも多方面への影響で,具体例を挙げるのはかえって困難である。少子化の影響を受けない領域はあるのだろうか。個々の領域への影響は区別して論じられない。一言で言えば「国力の衰退」である。

 2003年(10年前)に「少子化社会対策基本法」が成立した。その時にはもう少子化が顕著となり、国の人口ピラミッドは高齢者側に頭でっかちになっていた。しかし、少子化問題はまだ個人的問題と考えられて来た。実際は、ここに問題があった、と思う。
 「少子化社会対策基本法」は、少子化に対して従来の取組に加え、もう一段の対策を推進する目的で制定された。 少子化対策担当大臣が任命されている。この10年間で何か効果はあったのか? 不勉強であるが,見えない。

 はっきり言って人口問題に対する国・政府の対策はお座なりであった、と思う。今更、多分、もう間に合わないだろう。国の,地域の人口維持のためには、減りつつある出産年齢にある女性の数、晩婚化などを加味すると出生率を最小限2.5−3.0に、いや、それ以上に高めなくてはならない。そのためには、例えば、妊娠・出産・育児・教育への負担をゼロにするくらいの方策を論じられてしかるべきである。社会の仕組みも変えなければならない。
 
 本当に地方創生は出来るのか?


9/15(月)敬老の日 快晴 飯川病院当直
 2:00起床。家内居間のガスストーブに初点火。録音データ整理。新聞、文献、本読み等。10:10園芸関連作業、一時休み午後も若干清掃。15:00部屋の片付け、本廃棄。データ整理、読書で過ごす。16:30バス、乗客は一人のみ。17:00飯川病院当直に。DVD「昭和は輝いていた:ホンダの名車スーパーカブ」、「日本人の知らないイスラエル」。昨年、外ネコ避難箱設置、今年は未定。18:00検食、本読み、20:15就寝。4573Km。

亡母を慈しむのも亡くなっていればこそ(2) 母37回忌 若い死に感謝している
 昭和53年6月実の母が死去した。64歳の若い死であった。本年は37回忌にあたっていた。
 母は大正2年花巻市近郊の生まれ、と聞いている。詳細は知らない。母の一生を私の目から見れば、畑違いの家に嫁いでしまったための忍従、忍耐だった。二人の子供の成長のみを楽しみに生きてきたが、最後は子どもにも裏切られた、そんな一生だったと思う。

 明るい性格ではなかった。暗い、悲観的な母の性格や行動様式はしっかりと私に受け継がれている。私の処世術は母の姿を見て身に付いた。私は一人でいる時と、誰かといるときとでは別人と思うほど違う。嫌な性格だが、やむを得ない。

 その母の生き甲斐は何だったのか?二人の息子の成長のみであったと言える。私が医師になったことは唯一明るい材料だったと思うが、生き甲斐を彼女から奪ったのは、私を含む二人の息子でもあった。
 
 私から見た母にとって喪失の項目ざっと挙げてみた。
●昭和27年医院兼住宅消失。●長男が医学部進学をやめ工学部に。●定年を数年残し父が突然退職。●軽度の肺結核で半年入院。●家計的にほぼ破産状態に陥った。●家屋敷を手放し、盛岡に転居。●長男が他家に養子縁組、改姓。●長兄が事故で瀕死の重傷。●私が岩手から秋田へ転居。●体調悪化し、秋田で療養。●病院内で転倒、手首骨折→生きる意欲喪失→医療拒否、衰弱死。

 生涯を通じてこれだけのことが続けば生きる意欲もなくなるだろう。
 母の死去当初、これで本当に母は楽になったのだ、と安堵の気持ちを味わった。死後数ヶ月も経って、彼女の人生は何だったのか?私が最終的にとった治療方針は果たして正しかったのか?他の選択肢はなかったのか?・・等々、しばらくの間、私はこれらの問題で苛まれることになるが、過ぎゆく時が徐々に私を癒してくれた。

 彼女が生活上で時折示した理解し難い態度、物事の判断、死を目前としての姿勢、これらに私は少しばかりでない異常性を感じてならない。その異常性の一部は私にも立派に備わっている。だから、亡き母は今でも私の心の中で大きな存在感で生き続けている。

 彼女が64歳で死を迎えた。しかるべき時期に死亡した、と思う。一歩進めて、その若い死に、今は感謝している。


9/14(日)快晴 飯川病院日直 義母13回忌の小宴
 1:30 起床、新聞チェック、本読み、データ整理ほかいつもの如し。歴史本読み。8:00徒歩とバス、8:30-17:10飯川病院日直、DVD「江戸時代の変革者:松尾芭蕉」、「本田宗一郎(後半)」、「映画:誰も守ってくれない」見る。17:37JRで土崎に、18:00-21:00「いしやま」にて義母13回忌小宴,21:30タクシー帰宅。就寝。歩数計4568Km。

亡母を慈しむのも亡くなっていればこそ(1) 義母13回忌の小宴
 9月14日、本日であるが、夕方から義母13回忌の小宴会が開催された。出席者は9名だけであった。義母は一男3女をもうけたがその配偶者+アルファのメンバーだけ。孫は9名いるが参加は一人だけで、他のメンバーはそれぞれ予定があったと言う。

 次に何かの機会があってもこのメンバー全員が揃うなど考え難いほどの、高齢者のミニ小宴会であった。私は人間関係の時代の流れを感じた。これは良い意味での感想である。

 会では、各々が義母の思い出を提供しあい、語り合った。
 死去して13年、各々には必ずしも良い思い出だけでなかったはずであるが、何を語っても各人の表情は笑顔であり、個人を心から懐かしんでいる様子であった。仏になった義母の思い出を語っている側の表情も仏に近い、良い表情であった。互いに近いんだろうね,やはり。

 義母は気丈な方であった。高齢になってからは「寝たきり状態になったらころっと死なせて欲しい」と私に口癖の様に言っており、「そうしてもらえるなら日本一の婿だと思う・・」とも語っていた。

 晩年、義母は広範な脳梗塞を患って寝たきりになった。認知症でもあった。主治医は次女である家内。義母は自身が陥った状況に納得出来ず医療・看護に激しく抵抗した。私は機会あるごとに「もう良いじゃないか、いい加減にしたら・・」と言っていたが、聞き入れられなかった。はやり娘である。
 発病数か月後、寝たきり全介助状態の義母を我が家で引き取ることとなり、私の書斎をフローリングに変更するなど準備していた。しかし、義母はその退院の朝、痰詰まりによって死亡した。退院の朝の死,多分偶然だろうが偶然とは思えない。

 寝たきり全介助状態の義母を引き取ることで、夜半から起きている私に介護の負荷が大きくかかってくると覚悟していたが、義母は私にそのような負担をかけることなく死去し、私から見て「日本一の義母」となった。わが家に引き取られる事に「いのち」をかけて抵抗したのであろう。

 家内に阻まれてコロッと逝かせられなかったことで、私は「日本一の婿」になれなかった。しかし、我が家で義母を引き取り、私を含む家族で在宅介護を決心して準備していたことは高く評価されてしかるべきだ、と私は自負している。このことで私は、「日本一の婿」の地位に返り咲いた、と思っている。


9/13(土)秋田・岩手晴天,涼しい 孫運動会参観 ぶどう狩り
1:20 起床。いつもと同じ。6:08こまち、9:10-11:45孫の幼稚園の運動会にジジババ参観。黄色い声で疲れた。13:00息子一家と昼食後、郷里近郊の紫波フルーツガーデン,紫波ワイナリーなど訪問。大量の荷物をかかえ17:35こまちで帰秋。19:45帰宅、夕食、20:45就眠。歩数計4562Km。

朝日新聞記事取り消し問題(3)吉田調書誤報記事取り消しと謝罪 私は購読を続ける
 ■朝日新聞は9月11日、木村伊量社長自ら記者会見に臨み、「原発事故吉田調書に関する誤報記事を取り消す」と謝罪し、ついでに「慰安婦問題の誤報記事取り消し」についても初めて謝罪した。翌12日、社長の謝罪文を掲載した。この中で、関連した社内のスタッフの処分と自らの進退についても言及した。

 「原発事故吉田調書に関する誤報記事」とは、吉田所長の命令に反し、「原発から東京電力社員ら600人か撤退した」、とした5月20日付のスクープ記事である。
 この吉田調書は、公表される前に産経新聞も入手、両社の入手経路は明かされることは無いだろうが、産経は朝日の誤報を追及していた。今「吉田調書」を読み返すと朝日の報道は誤報である。

 朝日新聞は自ら犯した誤報を当然把握していたはずであるが、何で記事取り消しが「原発事故吉田調書」発表の日だったのか、これも納得いかない。当然大きな社会的責任を負わなければならない。だからこそ、その判断が遅れたのであろう。気がついた時点で訂正記事を出すべきであった。それが常識と言うものでないのか。朝日新聞は購読者である私の感覚と大きくずれている。多分、慰安婦問題の謝罪を棚上げにしてきたからそれに引きずられて動けなかったのではないか?と思う。

 朝日新聞は読者離れが進行していると言う。週刊文春は「朝日新聞が死んだ日」と言う見出しを用いているし、櫻井よしこ氏は「廃刊も・・」と述べている。東京では不買運動も盛んと言う。朝日離れについての具体的数値は把握していないが、購読取り消し数はかつての「珊瑚礁捏造記事」を上回っているとの報道もある。

 この朝日離れを押しとどめるためには、慰安婦問題に総力取材で再検討に取り組むべきだし、同時に大胆な組織改革を断行するしかない。組織は巨大化すればするほど自由な判断と対応に問題が生じてくる。朝日には切実な危機感が必要だ。

 私は購読をどうするか、考えた。
 つねづね朝日を読んでいて違和感を覚える論調も少なくないが、私はこの一紙だけを読んでいるわけでない。多様な考え方の一つととらえむしろ面白いと思っている。少なくとも、この誤報、記事取り消し問題、謝罪と再評価、組織改革がどうなるのか、購読をやめたら状況が分からなくなる。現物を読みながらその推移をフォローしたいと考えている。


9/12(金)降雨快晴降雨と一定しない天候 大曲中通病院外来 歯科治療
1:30起床、文献新聞徒然他、7:40Taxi駅。8:10こまち。9:10-13:10大曲中通病院外来。駅病院間往復徒歩、新幹線雨のために数分遅れ。16:00Taxi帰宅、降雨のためにプリにて歯科医院に。17:30帰宅。データ整理など。18:30夕食。20:00就眠。歩数計4554Km。

朝日新聞記事取り消し問題(2)慰安婦記事取り消し後の動き 自ずから傷を開いていく
 朝日新聞は1980年から90年代にかけて従軍慰安婦強制連行を示唆する記事を10数回にわたって掲載していた。日韓の関係悪化に朝日新聞の記事が悪しき影響をもたらした事は明らかであろう。
 朝日新聞は今年8月8日に慰安婦問題を特集し、記事の記載内の一部が虚偽であった事を認め、臆面も無く取り消した。紙上で2行の記載のみで取り消し、それだけと言う姿勢は許しがたい。メディアとしての責任放棄である。また、この事についての世論も比較的静かなのも理解しがたい。(参照:朝日新聞記事取り消し問題(1)8月19日徒然日記)

 この問題について、
 ■朝日新聞は8月29日「慰安婦問題核心は変らず」、「河野談話、吉田証言に依存せず」との見出しの記事を掲載し、朝日新聞は記事を取り消したが、吉田証言は韓国内でそれほど知られておらず、河野談話作成の調査でも取り上げられていないので、朝日が報道し取り消した吉田証言は事の本質ではない。自社の責任を回避する、報道機関としての資質が問われる記事を掲載した。

 ■一方、同日掲載予定であった池上彰氏の連載記事の「新聞ななめ読み」は同社ににとって不都合な表現が含まれているとして掲載しないことにした。同連載記事は大きなスペースを割いているがその欠損を埋めるために上記の記事を挿入したものと考えられる。池上氏は朝日に対し「信頼関係が崩れたので連載も中止・・」と申し入れた。これに関しては外部から「論評を封殺」した、などとの批判を受け、簡単な経緯を含むコメントと共に9月4日同記事を掲載した。池上氏の記事はソフトな指摘であり「不掲載」とすべき理由は私には分からない。朝日新聞はまともな判断力を欠いている。

 ■朝日新聞は9月6日、「池上彰さんの連載記事見合わせ 読者の皆様におわびし、説明します」を掲載。この記事は経時的に池上氏とのやり取りを説明しただけで、「不掲載」と判断したことの核心は何ら説明していない。言い訳記事であった。

 ■朝日新聞は9月11日、社長自ら記者会見に臨み、「原発事故吉田調書に関する誤報記事を取り消す」と謝罪し、ついでに「慰安婦問題の誤報記事取り消し」についても初めて謝罪した。

 ■朝日新聞は9月12日、木村伊量社長の謝罪文を掲載した。吉田調書と慰安婦問題にふれ、「信頼回復と再生のための委員会」を立ち上げ、朝日新聞の第三者機関である「報道と人権委員会」に審理を申し立てたこと、関連した社内のスタッフの処分と自らの進退についても言及した。

 朝日新聞は「慰安婦問題の誤報記事取り消し」に関連して社長自らの謝罪することが無く、そのこと自体も問題視されていた、今回の「原発事故吉田調書に関する誤報」が明らかになって併せて謝罪したことになるが、何をやるにも後手後手で、記事が掲載される度に傷口が開いていく。


9/11(木)快晴夕方雷雨 外来 飯川病院
1:00起床,医学文献、新聞他、7:45ハトに餌、徒歩飯川病院着。8:45-13:30外来。14:00-18:30飯川病院、バスにて帰宅、途上美しい雷の閃光を楽しむ。DVD「吉田松蔭」観る。19:15帰宅。19:30夕食。20:45就寝。歩数計4539Km。

錦織選手USオープン準優勝 有能選手の可能性を奪う大騒ぎ
 錦織選手は有能なテニス選手だ。昨年からM・チャンがコーチに就いたことで勝負強さも増し、USオープンで決勝まで進出した。しかし、日本時間9日朝、試合時間2時間弱でストレートで敗退した。

 私は情報の殆どは新聞記事である。将来有望とされているが一人のテニス選手に過ぎず,それほど感心もなく、勝敗結果だけ見ていた。決勝進出が決まってからは若干関心を持ってみた。彼自身に関する記事でなく、メディアの扱いに関しての関心である。

 メディアは対戦相手がシード格下の,過去の対戦成績で錦織が5勝2敗と優位にあった事などを挙げ,ほぼ優勝が手中にある様な書き出しである。錦織にとって目標は優勝しか無いのは当然であるが、格上の相手の方がやり易かったはずである。

 世界的にも注目されていると言うし、 地元NYでも大騒ぎだったと言う。前日夕方の19:00NHK-TVニュースは10分間に渡って錦織のニュースで占められた。彼には直接間接的にプレッシャーとなったただろう。試合後、「試合に入り込めなかった」、「緊張のため前夜胸が苦しくなり、寝付けなかった」と明かしている。私はメディアも、固定ファンも、にわかファンも騒ぎ過ぎだと思う。何でもっと静かに見守ってやれないのか。

 有望選手にとってメディアの後押し,ファンの後押しは大きな力になっているだろう。しかし,時には選手に苦悩を押し付けている。無批判にそれに乗っているファンも同じである。
 彼は若い。まだまだ時間がある。まだ伸び盛りである。もっと経験を積み、4大大会の優勝争いの常連の一角を占めるようになればに周囲がどう扱おうと平常心で臨めるようになるだろう。

 私は、正直なところプロにしろアマにしろスポーツに興味は無い。さほど誰からも注目される様な試合の方が気楽に接することが出来る。それが機が熟して誰か特定の選手が注目される様になると途端に距離を置く。

 何故かと言うと、私は争いごとが嫌いである。ちょっとした口論も嫌で避けて通る。勝負事も嫌い。加えて悲観論者だからである。

 スポーツはたかがスポーツととらえているのでより気楽ではあるが、個人競技の場合は選手が破れる場面しか予想出来ない。高梨選手、真央選手しかり、今回の錦織選手しかりで、勝って欲しいとは思ったが,その場面を前向きに予測出来ない。だから、実況とか,試合経過などは辛いから見ない。後で結果だけ見る。

 私には錦織選手の気持などわからない。分かる訳はない。選手の気持ちを一部ながら理解できるのは、同じ道を歩み、同レベルに達したものだけ、と思う。だから,ファンの気持ちもよく分からない。だから,乗れない。
 錦織選手の今後には期待している。怪我が無い様に願っている。


9/10(水)晴れ 外来 飯川病院ボランティア
 0:00起床。文献・新聞。医学論文など。7:40徒歩飯川病院着。回診他。8:45-13:00中通外来。14:00-19:00飯川病院ボランティア。DVD映画「池上のニュース解説:航空機事故、イスラム国」、「体幹を鍛える」観る。歴史本他。19:30帰宅・夕食、20:30就寝。歩数計4529Km。

地方創世は出来るのか(3)少子化に逆らうことは出来る?
 地方の課題として、●人口減、●少子高齢化、●企業誘致困難、が挙げられる。実際これらは互いにリンクしている。

 新設の地方創生担当相に、石破氏が就いた。若者が安定して働き、安心して子育てができる地方を目指すとの事、新しいことを始めるのに責任者のネームバリューは重要である。石破氏は鳥取県の出身で、地方の実情を熟知しているとされることから適任とされているが、地域のために石破氏はいままで何か対策をしてきたのだろうか。

 上記にあげた三項目はどれも対応困難である。日本の時代の流れ、世界的な経済の流れがもたらした自然の姿、一部人工的な姿である。だから,地方創生策は見方によっては時代に逆行する課題である。

 地方の人口減を全国知事会は「死に至る病」と表現し、非常事態を宣言したが、私は何を今更、と思う。
 少子化は、先進国では共通してみられる現象である。その中でも特に日本は韓国に次いで出生率の低下が著しい。

 国力はGDPとかで論じられる事が多いが、そんな指標以上に少子化は日本社会が抱える最重要課題であった。 人口問題、少子化問題をわが国では軽視してきた。
 ●農耕社会で労働力の確保のために、家と血縁、財産を守るために子供が必要であった。  
 ●明治維新後には富国強兵のために若者が必要となった。1930年代には、日本は毎年100万人ずつ人口が増加した。
 ●日本の工業化と共に子供は工業地帯に出て働く様になると子供に対する価値観が変わり、少子化傾向が始まった。
 ●1938年には、日中戦争の影響もあって、突如として人口増がたった30万人という、驚くべき数字になった。その後は若者の出征により出生率は低迷。
 ●1947年第一次ベビーブーム。
 ●その後は出生率低迷、人口比の子どもの数は急激に減少。
 ●1990年(25年前)低出生率「1.57ショック」が契機となり少子化が社会問題化。
 ●1997年(15年前)「人口問題審議会」で少子化問題が中心議題となった。
 ●2003年(10年前)「少子化社会対策基本法」が成立。
 その時にはもう少子化が顕著となり、国の人口ピラミッドは高齢者側に頭でっかちになっていた。しかし、少子化問題はまだ個人的問題と考えられて来た。実際は、ここに問題があった、と思う。
 ●2014年5月「日本創世会議」の「人口減少問題分科会」が2040年の人口動向試算発表。地方の破滅的実態予測が示され、この後一気に少子化・人口減問題が取り上げられる様になり、地方創生本部を設けた。

 はっきり言って人口問題に対する国・政府の対策はお座なりであった、と思う。今更、多分、もう間に合わないだろう。


9/9(火)快晴暑い 外来 飯川病院
0:30 起床、医学文献・新聞ほか。書斎の無線LAN不調、接続に難渋。5:15可燃ゴミ提出、7:55徒歩飯川病院着、 8:45-13:30中通外来。14:00-18:50飯川病院。19:20夕食、20:30就寝。歩数計4519Km。DVD映画「陸海空自衛隊」、「吉田秀和:音楽を語る」。

地方創世は出来るのか(2)介護面から(1) 介護職員の実態
 少子高齢化が進んで医療・介護に金がかかりすぎる様になった。
 要支援の切り捨て、特養は要介護3以上でないと入所出来ない様になるなど、看護介護の分野も厳しさは増している。要支援の訪問介護が市町村に委ねられることになったが、経済基盤の弱い市町村は安い労働者を雇わなければならなくなる。
 これ以上安く人を雇えるのだろうか?介護職員は生活出来るのだろうか。

 介護労働者の実態は深刻な状況にある。
 厚労省が最近公表した2013年度の実態調査では、介護労働者の離職率は16.6%と高く、介護事業所の56.5%が「人手不足」にある。理由は低賃金と「仕事がきつい」ためである。

 全労連が公表した「介護施設で働く労働者の実態調査」は約6300人が回答している。正規職員の平均賃金は月20.8万で全産業労働者平均月29.7万円と比べ約9万円も低水準。「有給休暇とれず」は2割を超え、「腰痛」は63.0%、不眠などの精神的ストレスを原因とする症状が1割以上であった。

 7割近くが「やりがいのある仕事」と回答しているが、利用者に十分なサービスができていない、と3割が回答、余裕のない職場環境が、サービスの質を低下させ、利用者の安心と安全を脅かしている様子が窺い知れる。
 6割近くが「もうやめたいと思うときがある」と答えた。「健康」と「将来の生活」への不安を抱えている。在宅介護にたずさわるホームヘルパーの労働環境はさらに厳しい。

 安易な外国人労働者の参入拡大は介護労働がかかえる問題点をさらに広げる。

 高齢者人口がピークを迎えようとするなか、特に地方の介護労働者の役割はますます重要になる。介護の雇用条件を改善することは、地域活性化、創生の要の一つである。

 地域活性化、創生は重要な課題である。
 地方の課題として、●人口減、●少子高齢化、●国内産業の低迷のあおりで企業誘致困難、が挙げられる。どれも対応困難である。時代の流れがもたらした自然の姿でもある。だから,地方創生策は見方によっては時代に逆行する課題である。

 むしろ、地方創生のためには、生活基盤の集約化、効率化、切り捨てと言ったドラスティックな政策も必要ではなかろうか。


9/8(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院
 0:50起床。新聞・文献チェック。データ整理、歴史本読み等。7:50徒歩病院着。8:45中通病院CT検査申込書。9:00-11:00健康クリニックドック15人+結果説明3名。11:30飯川病院、院長不在で留守。14:00-18:50勤務、新聞チェック、データ整理。読書他、19:15夕食、20:30就寝。DVD「タカジン・委員会」、「日輪の遺産」見る。歩行距離Σ4513Km。

地方創世は出来るのか(1)医療面から(1) 不自然な施策は逆効果に
 アベノミクスは一見成功しているように見えるが、効果を持続させて行くためには成長戦略が絶対的に必要である。景気は回復傾向にあるが,収入を増やした資金を大企業は内部留保に回している。これが企業投資に向くようであれば安心なのだが。

 第2次安倍改造内閣の成長戦略の目玉として地方創生担当省を置いた。
 地方の活性化のためには、地方に雇用を産む具体的な産業政策が必要であるが,その効果は不透明だと思う。

 地方が今抱えている問題点は、●人口減、●少子高齢化、●国内産業の低迷のあおりで企業誘致困難、などであり、これら三者は地方の活力低下の三大原因である。

 この状況のなか、活性化を産みだすことは困難である。  
 結果を急ぐあまり、早急な対策を導入するとむしろ地方と大都市部の格差拡大か 広がってしまい、地域衰退を加速させる方向に動くことも考えられる。

 国の労働状況もどんどん変化している。時間給でなく成果主義の導入もその一つである。時間がかかる仕事の成果は評価し難い。現在は年収1000万円以上の従業員が対象で、低賃金の傾向にある地方にはすぐには影響がない様に見える。
 しかし、多くの政策は運用が軌道に乗り始めると適応範囲の拡大が行われる。すなわち、成果主義の対象の年収が切り下げられる可能性がある。そうなると地方にも影響が及ぶ。結果として正社員減少、非正規社員増加、すべてがサービス残業化することもある。このことは、若者の雇用を奪い、地方の少子高齢化の原因を強めていく。

 今、労働力の確保のために外国人労働者の受入れ強化も話題になっている。当面、看護介護労働市場が狙われることになる。わが国では看護師の無就業化,すなわち免許を持ちながら働いていない看護師、が問題である。この背景には厳しい労働環境や低賃金も原因になっている。この状況を改善し看護師の就労増加に結びつけることが肝要であるが、これを欠いたまま低賃金の外国労働者の受入れ拡大は地域の就労条件を変えてしまう。
 地方の低賃金化である。確かに、東南アジアの女性にとっては、例え低賃金であろうと、出稼ぎ労働者としてのわが国の賃金は魅力であろう。

 安易な外国人労働者の導入は地方の就労条件を悪化させかねない。  


9/7(日)晴れ 錦織決勝進出 飯川病院日直 
 1:00起床、新聞チェック+歴史本、医学論文読み。文献整理。USオープン錦織決勝進出を知る。快挙。8:30徒歩飯川病院。歴史関連本読む。データ整理、入力、など進める。17:40迎えの車で帰宅、DVD「渡辺淳一:雲の階段3、4」途中まで、「スズラン本屋:渡辺淳一回想」、「吉田松陰」観る。19:30夕食。20:30就寝。

真珠湾攻撃はだまし討ちだったのか?(3) 遅れた宣戦布告は作られたエピソード
■宣戦布告 一般的にはどうか
 日本は真珠湾攻撃が開始されてから「どうでも良い文書」をハル長官に手渡した。ルーズベルト大統領はこのことを世論形成に巧く利用し、「 リメンバー・パール・ハーバー!」の標語となった。これは終戦70年も経った今でもアメリカで生きている。

 開戦前に宣戦布告を書面にして相手国に手交し、その後、戦闘を開始するなど、どこの国もやってない。ましてや、日本が攻撃後一時間あとで手渡したのは宣戦布告の文章でなく、ハル・ノートに対する返答の「 交渉打ち切り通告 」であった。だから、真珠湾攻撃は、「宣戦布告が遅れた」 のではない。

 一般的には、交戦が始まってから自国民に対して通告するのが世界の開戦慣例である。日本も真珠湾及びマレー半島の攻撃を開始した後、天皇陛下の名の元に宣戦布告 『 米英両国に対する宣戦の詔書 』 が出されている。

■宣戦布告 「米英両国に対する宣戦の詔書 」
 富山いづみ氏が現代文に書き下した「宣戦の詔書」を以下に示す。http://www.shgshmz.gn.to/shgmax/public_html/news/war_declare.html

――――――――――――――――――――――――――――――――――
 天の助けを持ち、万世一系の天皇の位につく大日本帝国天皇は、まさに忠誠で勇武なるあなた方国民に示す。  私はここに、米国および英国に対して戦争を布告する。陸海軍の将兵は全力をふるって交戦に従事し、官僚は職務を全うし、国民はそれぞれの本分を果たし、全ての国民が心を一つにし、国家の総力を挙げて戦争におもむく目的を達成するために、手落ちのないように心がけてほしい。  そもそも、東アジアの安定を確保し、これによって世界の平和に寄与することは、おおいに輝かしい皇祖考(=明治天皇)、それを立派に受け継いだ皇考(=大正天皇)が述べられたことであり、私もそれを心に留めてきたところである。多くの国と親しく交際し、あらゆる国とともに共栄を図ることは、帝国が常に国交の重要な意義としているところである。今や、不幸にして米英両国と戦いを始めるのが避けられなくなっている。これは私が望むものではない。先に、中華民国政府は、帝国の真意を理解せず、無用に事をあらだてて東アジアの平和を撹乱し、ついに帝国と戦争を行うに至り、すでに4年を経過した。幸いなことに国民政府がこの状態を更新しようとしており、帝国はこちらと国交を結び互いに提携するようになったが、重慶に残存する政権は、米英の庇護を頼り、自国内で争うことを止めようとしない。米英両国は、残存政権を支援し、東アジアの騒乱を助長し、平和の美名の下に東洋制覇の高望みを強くしている。さらに、同盟国を誘い帝国の周辺に軍備を増強して我が国に挑戦し、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついに経済断交を行い、帝国の生存に重大な脅威を加えている。私は政府に、平和のうちに回復させようとし、じっと我慢をしていたが、かの国はほんの少しも互いに譲り合う気持ちがなく、無用に時局の解決を引き延ばして、その間にさらに経済上軍事上の脅威を増大し、我が国を屈服させようとしている。このようにして、東アジアの安定に関する帝国の長年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存続がまさに非常に危険な状態に瀕している。このような事になり、帝国は自存自衛のため、勢いよくたちあがり、一切の障害を破砕するほかにない。  天皇歴代の祖先の御霊が我々にはついている。私は、あなた方国民の忠誠さ勇武さを信頼し、祖先の遺業を成し遂げ、速やかに災いの元を除き去り、東アジアの永遠の平和を確立し、これによって、帝国の栄光を保全することを望む。
昭和十六年十二月八日
――――――――――――――――――――――――――――――――――

■ルーズベルト大統領の天皇宛の親書が「回答書」が遅れた一因
 日本の外務省からハル・ノートに対する「回答書」が大使館に送られたのは予定より10数時間の送れ、結果的に攻撃前に届けられなかった。その原因は開戦直前に届いたルーズベルト大統領の天皇宛の親書への対応に手こずったことも一因と言う(井口武夫氏)。その遅れを大統領自身が巧く利用した事になる。皮肉な結果であった。


9/6(土)快晴 
1:00起床、本読み、文献チェック。午前は音楽、読書、データ整理等進める。午後は園芸、植木の世話中心。16:30-18:00後援会参加の家内送り飯川病院で待機。19:30帰宅。19:30夕食、21:00就寝。 DVD「落語・さん喬/権太楼二人会」、歩数計4489Km。

真珠湾攻撃はだまし討ちだったのか?(2) 井口武夫氏の研究のから
 今、私が参考にしているのは外務省官房審議官、駐ニュージーランド大使を務めた井口武夫氏の放送等の資料である。氏は外務省退職後、東海大学教授、尚美学園大学教授を歴任し、宣戦通告遅延問題について研究している。
 氏は駐米大使館に対米最後通告の遅れの責任はなく、その責は全て日本の外務省と軍部が負うべきものであったとの主張を行なっている。更に、実際に手渡した文書は宣戦布告文書ではなかった、とも言う。この辺が井口氏の研究が強調しているとことであるが、その理由は氏の父親が開戦当時の大使館員でありその名誉回復の趣旨もあると考えられる。

■開戦前後の駐米大使館の動き
 ワシントンにある大使館関係者は昭和16年に入り日米間の動きが慌ただしくなっていたので事の推移を心配していたが、12月8日に真珠湾攻撃が行われた、と聞いてもにわかには信じられず呆然とした、と言う。   
 確かに、開戦当時の海軍の戦力比では、日本の連合艦隊は空母9隻を含む合計205隻、米国のアジア・太平洋地域の艦隊は空母3隻で合計157隻と日本側が優位にあったものの、直接アメリカを知る山本五十六、白洲次郎、栗林忠道などは豊かさ、国力、経済力、工業力の底力を知っていて、日本は到底太刀打ち出来ないと考えていたらしい。当時ニューヨークでは高層ビルが建ち並び、街には自動車が走りるなど文明、工業力が圧倒的に違っていたからである。

 大使館員は翌日のルーズベルト大統領は「日本が始めた戦争であり、許せない。とどめはアメリカが刺す・・」と述べたのを聞き開戦を実感した、と言う。また、その演説を聞き、日本からの対米最終覚え書きが届いたのは真珠湾攻撃後であったことから、大使館側の責任が問われるであろう、と自覚した。

■大使館員の職務を怠慢は事実無根
 後日、心配していた様に、大使館員が開戦前夜送別会で泥酔し職務を怠慢したことが遅れの原因であると糾弾する声が上がった。事実無根である。実際は、夜通しの仕事を前に中華料理店で2時間ほど数人で夕食を供にしたが、その後仕事に戻っている。切迫した状況の中で送別会など開催することはあり得ず、同席者は誰も酔っていなかった。
 本来日本の外務省、軍部が負うべき責任を末端の大使館に押し付けた。

■ハルノートへの対応
 日本側は対米交渉において、これ以上は譲れないとして甲案乙案の二種類の譲歩案を提示したが、がアメリカ側は拒否、11月26日に出されたハルノートは以下の厳しい内容であった。要するに、日本が大陸で得ている権益を全て放棄せよと言うことであった。
●1 日本軍の支那、仏印からの無条件撤退。 
●2 支那における重慶政府(蒋介石政権)以外の政府、政権の否定(日本が支援する南京国民政府の否定)
●3 日独伊三国同盟の死文化(同盟を一方的に解消)

 ハルノートへの反論を含む対米覚え書きは外務省で作ったが、初期の版で「交渉は何の意味もないので交渉打ち切りを通告する」との表現であった。しかし、12月3日版では「交渉を打ち切る。将来発生する戦争を含む一切の事態の責任はアメリカ合衆国にある」と最後通告の形式であった。
 ところが、12月5日の修正版では「交渉は妥結の余地がない。交渉打ち切りの通告は遺憾である」と表現が柔らかになっている。この趣旨でアメリカ側に手渡され、宣戦布告文書と解釈され、かつ1時間の遅れが一人歩きしたが、この文面は国際司法裁判所ではハーグ条約にある宣戦布告の形式でに則っていないと解釈されている。

 要するに、日本は宣戦布告の文書は手渡していない。だから、真珠湾攻撃は作戦的に奇襲であったが、国際法上は布告が遅れたと解釈されていない。


9/5(金)降雨 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 歯科治療
1:00起床、新聞・文献他.蓄積データ整理、7:40Taxi駅に、8:10こまち、8:45-13:15大曲中通病院外来。徒歩駅、14:30飯川帰院、15:30Taxi歯科医院治療、17:00徒歩帰宅。新聞処理、本読み。19:00夕食、20:45就寝。 DVD「アンネの日記(4)」,歩数計4482Km。

真珠湾攻撃はだまし討ちだったのか?(1)
 私は終戦直前の昭和20年5月に岩手の片田舎で生を受けた。
 自分が生まれた年で、終戦を機にわが国の価値観が大きく変わった昭和20年を特別な感慨を持って受け止めている。

 私はいま日本の明治以降の近代史を学び直している。歴史は、特に近代史は激動の世界情勢の中でとらえなければならない。決して時間を切り取って短絡的に結論を導いてはならない。

 最終的に開戦を決意したのは日本側であるが、山本五十六を始めとするアメリカの実情を知っていたもの、首脳陣は開戦を回避する努力を最後迄怠ってはいなかった。複雑に交錯する国際情勢の狭間を縫って米国と事態改善のための交渉を続けて来たが、交渉のたびに日本側は窮地に追い込まれ、孤立させられ、厳しい内容のハルノートを突きつけられた。

 結果的に真珠湾攻撃は通告なしの不意打ちになってしまった。
 ルーズベルト大統領はこの不意撃ちを政治的に最大限に利用、日本人は虫けらにも劣る人種と見なす演説を行い世論を巧みに誘導した。このために終戦間際の無差別大量殺戮、原爆投下などにアメリカ人の多くは道義的責任を感じていない。この不意撃ちは開戦から、東京裁判を含め戦後処理のすべてに渡って影響を与えてしまった。靖国問題、慰安婦問題にも影を落としている。広島の記念館の石碑には「二度と同じ過ちを繰り返しません・・」とある。

 わが国は第二次世界大戦のあと、民族の誇りを捨て卑屈になった様な気がしてならない。GHQによる宣伝効果も大きかったと思われるが、もう一つの要因として真珠湾攻撃に対する負い目がわだかまりになっているのではないか?とおもう。

 私は今この辺のことを文献的に学んでいる。歴史の評価は重要である。
 ■本当に、真珠湾攻撃は不意撃ちとして非難されるべきだったのか?
 ■日本の交渉打ち切り通告が攻撃の一時間遅れであった。そしてその原因はワシントンの日本大使館の職員達の怠慢でそうなったとも一般的に言われているが本当だったのか?


9/4(木)晴れ 外来 飯川病院
10:10起床。眼鏡外し柱時計を見て1:50と誤解した。しばらく気付かずに新聞・文献など。自宅のパソコン調整、録音データ整理。8:55徒歩飯川着、8:45-13:20外来。14:00-18:20飯川病院。19:10バス利用帰宅。DVD「聖女3」、「本田宗一郎」、19:15夕食、20:30就寝。

死生観(4):私は死をどう考えて来たか(4)高齢者の自然死を見て
 私の家は盛岡市郊外の片田舎の開業医であった。昭和27年診療所及び住宅が貰い火で全焼した。医師である祖父はガックリと力を落とした。私には11歳年上の兄がいて、兄は医学部進学受験を目前にしていたが、祖父は兄の進路を自由に選択させた。兄は嬉々(?)として工学系の道に進んだ。

 祖父は、まだ小学校低学年の私に徐々に有言無言に医師になるようプレッシャーをかけた。兄を医師にしなかったことを後悔していたのであろう。

 昭和30年代の頃の記憶である。当時小学生であった私を祖父は時々往診に連れて行ってくれた。祖父はかつては馬にまたがり往診していたが、高齢になってからは近所のオート三輪のホロ付き荷台に、冬期間は迎えにきた馬橇に乗って往診した。そんな時、時に私を往診に連れて行ってくれた。

 当時、貧しい農家の高齢者が自宅で死を迎えた。そのうちのホンの数人ではあるが、その様子などを垣間見てきた。死期を迎えた患者は、座敷の中央に寝かされ、身近な数人が取り囲んでいた。居間や隣の部屋には家族や親戚、隣近所の人たちが静かにその時を待っている。そんな感じだった。誰しもその時を待ちながら,旅立とうとする患者や自分の死の時のことをしんみりと考えていたのだ。

 当時の家庭における死はすべて自然死であった。途中の経過は知る由もないが、意識も無い状態でむかえる静かな死であった。当時は口から水分や食事を摂れなくなったら、あとは痩けていくしかなかった。やがては脱水、電解質異常を来すことになるが、その結果,意識も徐々に落ちていく。あくまでも静かな死であった。

 その祖父は私が小学5年の時に自宅で死亡した。いい死であった。これ以降、祖母の死まで直接ヒトの死に接することは無かった。

 高齢者の自然死を通じて、死は決して恐れるものではない・・私は何も分からなかったが、印象としてはそんな感じだった。
 祖母は、私が「医学部に進学するのを見届ける迄は死ねない・・」、と口癖のごとくに言っていたが、私が新潟大学に進学した年に本当に死んでしまった。岩手医大に入院、点滴の日々で、高熱で苦しんだ、と言う。家族は短時間しか面会出来ず、私は言葉を交わすことも無かった。

 祖父と祖母の死に時代の差を感じた。近代的医療を学んだ今も自然死の良さが頭から離れない。


9/3(水)快晴 外来 飯川病院ボランティア
0:30起床、文献検討、新聞チェック。7:50徒歩飯川病院着。8:45-13:40外来+人間ドックデータ判定。14:00−18:45飯川病院ボランティア。DVD「日本の特撮」、「檀蜜」、「トレブリンカ:死の収容所」観る。19:00帰宅・夕食、20:30就寝。歩数計4460Km。

死生観(3):私は死をどう考えて来たか(3)祈祷の手にゆだねられたことも
■医師の祖父も諦めた? いや、自然に任せたのだ
 小学3年の頃のことだったと思われるが、急性気管支炎、急性胃腸炎で危機的状態までいったことがある。大量皮下輸液もやっていたから恐らく強度の脱水などもあったと思う。意識も朦朧とし、譫言でクロマイ、クロマイと欲しがったそうである。祖父も今度こそダメかもしれないと思ったらしい。いわゆる臨死体験と言われる現象を経験したときである。

 祖父は本当に駄目か、と思ったらしい。その時、祖父は使用人の一人を遣わして恐山のイタコに願をかけさせたという。イタコは「約10日で回復し床離れが出来る。その後は徐々に丈夫になるだろう。それ迄の毎日、祈祷した紙切れを切って湯のみに浮かべて飲ませる様に」、と告げた。私はその予言通りに回復し、丈夫になった。 
 
 「臨死体験」も「イタコ」も余りにも出来すぎた話であるが、祖父は自分の経験から困難な状況であると悟り、それ以降は「自然の摂理に任せる」と選択したのだろうと思う。当時はそれほど治療学があったわけではない。苦渋の判断だったと思う。私はそう思ってきた。

 この様な経験を背景に、死ぬのは「昇天する」のであって、苦痛などを伴わず意外と気持ちのいいものなのでないか?と思うようになった。私は医師になってからも回復が困難と思われた状況の患者には「みまもりの医療」の視点を大事にしてきた。

■医師である祖父にもらった「いのち」、と容貌
 生まれた直後の危機の何とか乗り越えられたのは祖父の力が大きかった。その時点で私は「無」になっていた可能性がある。

 もう一つは3歳の頃、私はお茶を飲みながら部屋を歩いていた時に座布団につまずき、鼻に怪我を負った。鼻尖から大きく裂け目が入って遊離し、左の鼻翼で皮膚一枚でかろうじてついていたと言う。産婦人科医・外科医であった祖父は小さな子どもの鼻を形良く修復し、細かく縫合した。小さな鼻で治療は困難だったと思われる。その後も成長と共に鼻の形が崩れることも無かった。

 今でもかすかに傷跡として残っているが、もし、この傷が順調でなかったら私の人生はどうなっていたことか。勿論、形成外科的に対応出来たではあろうが、その必要も無かった。

 医師の治療対象は決して「いのち」だけではない。祖父はこのことも教えてくれた。


9/2(火)曇り、降雨、快晴と変化 外来 飯川病院
0:30起床、文献検討、新聞チェック。徒歩7:50飯川病院着、8:45-13:00中通外来。14:00−18:30飯川病院、レセプトチェック終了。 DVD「アンネの日記No1-3」,「昭和維新の指導者達」、「ドラマ:東京が戦場になった日」観る。19:30帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計4450Km。

レクイエムを聴く日々(6)ケルビーニのレクイエム 3種の音源で楽しむ
 私はこの頃はレクイエムをムード音楽的に、BGM的に聴いている。それほど真面目に聴いてはいない。家でも職場でも四六時中鳴らしている。今迄チマローザのレクイエム中心であったが、最近はケルビーニのレクイエムを集中的にかけている。

 ルイージ・ケルビーニ(1760年- 1842年)はイタリア出身のフランスの作曲家。6歳から音楽家の父から教育を受け、後にパリに定住。作品は厳粛で人間的にも高邁な性質のために、当時の人気作曲家にはなれなかったらしい。

 1805年にウィーンに招聘され、ハイドンやベートーヴェンの熱心な支持をかち取った。オペラなどは演奏の機会がなかなか与えられず徐々に宗教音楽に向かい、7つのミサ曲と2つのレクイエムの他、多数の小品を作曲した。

 私が愛聴している『レクイエム ハ短調』は1816年にルイ16世の処刑を悼んで作曲された。この作品はベートーヴェン、シューマン、ベルリオーズ、ブラームスにも絶賛されている。指揮者であるハンス・フォン・ビューローは「モーツァルトのレクイエムよりも優れている」と評価した。私もそう感じている。

 1820年代にロッシーニの、声楽の技巧を凝らした輝かしく熱っぽいオペラがパリに上陸すると、古典的な厳粛さをそなえたケルビーニのオペラは、チマローザの作品と同様に時代遅れになり歴史のなかに埋没した。

 そんな作曲家であるが、私はケルビーニの作品に比較的多く接している。本レクイエムの他、歌劇『メデア』、「アナクレオン序曲」、「交響曲ニ短調」、弦楽四重奏曲数曲、葬送行進曲などである。

 私は30年ほど前に、レクイエム含む宗教音楽を集中的に買い求めたが、その中にたまたまケルビーニのレクイエムもあった(■1)。頻回に聴き始めたのはここ数年のことである。この名曲を他の演奏でも聴きたいと思っていたが、本年になってたまたまカタログで同曲のCDを2種(■2、3)見つけ、買い求めた。今私は3種の音源で楽しんでいる。

 ■1 レコード R・ワーグナー指揮、同合唱団、ロイヤルフィル 録音不詳 ECC40130 
 ■2 R・ムーティ指揮、フィレンツェ・テアトロ・コムナーレ管、録音1971年 LCB-008
 ■3 Dファソリオ指揮、スイスイタリア語放送協会管、録音1996年 Naxos 8.554749

(レコード盤は■1、CD左上が■3、右下が■2)

音質は■3>■1>■2、演奏の表現はいずれも個性的で甲乙なし。好みからは■3をとる。

 この曲は歴史的に重要な葬儀の際に演奏されている。ベートーヴェン、ボアエルデューの葬儀でも用いられた。同じくレクイエムを作曲しているベルリオーズはパリ中の葬式がケルビーニにより占領された、と嘆いたとされる。

 名曲である。こんなのを気軽に楽しめる環境にいることに感謝したい。


9/1(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院 
 0:00飯川病院にて起床。文献チェックその他。9:00-11:30健康クリニックドック診察と結果説明。文献検討、12:00飯川病院へ 14:00-18:45勤務。レセプトチェック一部。DVD「 プロフェッショナル:種田陽平」、「ウガンダ」、「大本教:民衆は何を求めたか」、観る。19:00帰宅、夕食はパークH焼きそばフェア。20:30帰宅、就寝。歩行Σ4435Km。

「朝顔に つるべとられてもらい水」vs「鳩ポッポ エサを忘れて遠回り」
 「朝顔につるべとられてもらい水」は元禄時代の俳人、加賀千代女の代表作として有名である。

 早朝、いつも使っている井戸で水を汲もうとしたら、朝顔がつるべにつるを巻きつけていた。昨夜のうちにつるを伸ばしたのだろう。このまま汲み上げるとつるが切れてしまう。不憫なので隣の人に水を貰いに行きました。

 傍らに生えているちょっとした草花に迄も気配りするやさしい心を詠った句である。ただ、当時の井戸は共同である。次に水を汲みにきた人はどうするのか? 千代女はおそらく急いで井戸の側に添え木を作ってやり、つるべのつるを丁寧にほどき、添え木にやさしく巻いてあげた・・・。後半は私が勝手に追加した解釈である。
 私も共感出来る。名句だと思う。

 この3年ほど私も畠を作り庭を造っている。野菜の生長を見るのは楽しい。しかし、私は剪定や間引きが苦手である。植物と言えいのちあるもの、いとしくて出来ない。そのために今年は繁茂しすぎて、特にカブ、人参は失敗した。庭や畠に生える雑草にに付いても同様の気持ちを持つ。「何でお前たちはここに生えたのだ。悪いけど刈られてくれ・・・」、と草刈り機を回す。そんな日々である。

 「鳩ポッポ エサを忘れて遠回り」、千代女にあやかって創った私の作である。
 私は天候などもよるが、可能であれば徒歩で通勤している。昨年迄は帰路も歩けたが、今年から中通総合病院の近隣にある飯川病院で午後週三日間勤務し、残りの三日間はボランティアで19時近くまで病院にいるので徒歩通勤は往路のみになった。ゲーム上で伊能忠敬の後を追って海岸線を歩いている。

 東京をスタートして1年半かけて4500Kmで、まだ網走近くで、日本一周は当初の計画より大幅に遅れそうである。

 徒歩通勤はちょっと遠回りして千秋公園のお隅櫓の側の坂を登り、公園を横切って公園の正面口に至る。正面口にはハトが私の通過を待っている。明らかに私を認識し四方から寄って来る。いまの私にとっては友人と言っていい。

 餌を与えているからであるが、エサを忘れた朝にも寄って来てエサをねだる。「何だ、今朝はエサ無いの??」と私を見上げて不満顔をする。私は10年ほどハトを飼っていたから表情や仕草からその辺のことは読み取れる。だから餌を忘れた朝は不憫でこのコースは通過出来ない。遠回りになるが秋田脳血管研究所側におりて病院に向かう。これが「鳩ポッポ・・・」の所以である。

 途中の久保田新橋にはコイも寄って来る。私の徒歩通勤の楽しみである。
 


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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