2014年8月分
日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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8/31(日)夜間から早朝降雨 秋田国際バラ園 飯川病院当直
1:30起床、本読み、データ整理他。10:00msuuko一家来訪、11:00住宅見学、13:00家内の希望で秋田国際バラ園へ。途中の稲穂の実り見事。何度か利用したことのある雄和のCoopとか路傍の商店などが閉店していた。16:00飯川病院、17:00当直に。DVD「親日国家キルギス」、「アナザースカイ・瀧本美織」、「味覚の科学」、歩行Σ4435Km。
死生観(2):私は死をどう考えて来たか(2)幼少の頃
■虚弱児
私は1945年年生まれである。人は生まれて来る時代、場所,親などを選べないが,私はたまたま医師の家庭で生まれた。戦時下であること、母が11年間も間をあけてからの妊娠であったこと、などで約2000gだった。相当な難産だったらしいし、母乳も十分出なかったらしい。当時はミルクとて無く、重湯、山羊の乳、牛乳で育った。そのためかいつも不消化便を出していたという。生まれた当初は体温の維持のためガラスの水槽に電球を入れて即席の保育器をつくりその中で育ったという。
もし医師の家庭で出生していなければ確実に死んでいただろう、と子どもの頃いつも聞かされて育った。物心つく頃までにも何度か死線をさまよったと言う。この様なことを聞かされる度に生きているか死ぬかは紙一重の差の様なもの、と感じていた。だから具合悪くて寝込んだ時などには「これで死んでしまうのか?」と思っていた。別に「死ぬのが怖い」とかの感覚は無かった。
私は生きる事にそれほど執着が強くなく諦めが早いが,これはこの時期に培われたのかも知れない。この考えは医師になってからも変わる事は無かった。
■小学校低学年で臨死体験?
私は背は順調に伸びたがやせこけて,見るからに腺病質で虚弱な子供であった。幼少の頃は気道系、胃腸系が極度に弱く、小学校の頃は冬季間、特に正月を元気な状態で迎えたことは殆どなかった。お手伝いさんに背追われて登校した記憶も残っている。当時,小学校は職員室に顔を出せば欠席扱いにならなかった。
当時,抗生物質のはしりであるクロラムフェニコールが実用になった。医師である祖父は適宜用いてくれその度ごとに病状が好転し、このチョコレート色の錠剤は自分にとっては救世主のように感じられたものである。
小学3年の頃のことと思われるが、急性気管支炎、急性胃腸炎で危機的状態までいったことがある。恐らく脱水などであったと思うが意識も朦朧とし、祖父も今度こそダメかもしれないと言われたらしい。譫言でクロマイ、クロマイと欲しがったそうである。
このとき家族が見守っている中、自分の「たましい」が身体から抜けて、独り小学校に遊びに行った夢をみた。暗い静かな道路を歩いていくと学校についた。校門から校庭を覗くと校庭はお花畑に変わっていた。一面、黄色の花で覆われ実に美しい光景であった。何度か逡巡した後、思い切ってお花畑に入っていこうとしたが、なかなか足が運ばない。そのうちに、遠くの方で母親から名前を呼ばれたので,校庭に入るのを諦めて家に引き返した。自分が寝ている周りに家族が心配そうに私を見つめている中、私は気づかれないようにそっと自分の身体に戻った。苦しくも痛くもなかった。この時から、「昇天する」と言う事はこんなに気持ちのいいものなのか?と思うようになった。
成人になってからであるが、この時の体験に関連した文献や書籍を読んだ。いわゆる臨死体験と言われる現象に似ている。体験談などを読むと黄色のお花畑がほぼ共通している様である。立花隆氏の「臨死体験」は参考になった。このような臨死体験現象は一定の条件下で生じる脳の生理現象と考えられている。
8/30(土)快晴 家の整理、畑仕事中心
0:40起床、新聞・文献他、本読み。週末の休日をゆっくり過ごす。5:00不明の腹痛、微睡。午前は主に室内外の修理、資源ゴミ整理など。微睡、14;00畠仕事、草刈り,マルチはがし、すべての苗抜去。16:30溜め込んだDVD「N響定期演奏会」などのインデックス作り、「最後の希望;人工心肺」。19:00夕食、20:30就寝。歩数計4425Km。
死生観(1):私は死をどう考えて来たか(1)
8月は、おのずと「死」と言うテーマが身近に感じられる月である。
私は幼少の頃虚弱でうまく育たないだろうと言われながら育ったので、死についてずっと感心をもっていたし,自身の死についても常に想定して来た。結果として途中でこける事も無くいい年まで生きたが、この時期は特別な感慨を持って自分の死についても考える。
私は郷里の盛岡近郊に墓がある。割には私は両親、祖父母の霊に関して丁重に扱っているわけではない。私は、死ねば無、と考えている。そんなことで、実際には郷里を訪れ墓参するのはここ20年ほどは年に一回だけとなっていた。
また,盛岡市内には実兄が住んでいる。数年前までは墓前で兄の家族とも合流したが、ここ数年は兄の体調の関係で墓前で会う事は無くなった。だから、私の方が墓参の度に兄宅を訪問して半時間ほどであるが親交を温めている。
今年も、秋田に戻る途中で兄宅を訪問した。11歳上の兄は在宅酸素療法を行っている。兄の様子は比較的良い状況で、当面、何か大事が無ければそう危険な状況にあるとは思えなかった。
一方、私は発作生心房細動を抱え、脳塞栓も経験した。幸い目立つ後遺症も無く改善したが、MRI像を見ると左側頭葉に大きな脳梗塞像が残存しており、微小な梗塞巣が無数にある。脳全体も萎縮している。この自分の脳の画像を見ると、これが自分の脳か、と呆れるほどである。多彩な症状を持つ患者の脳の方が立派である。いつ同じ様な発作を来すか分からない。
「お互い,病気をかかえているから、間もなく死ぬかも・・」と言いながら、「来年の再会」を期して兄宅を辞した。現実に生きて会えるか否かは分からない。ホンネである。
幼少の時から私は死をどうとらえて来たのか,医師になって患者のいのちと死にどう対峙して来たのか、齢を重ねて自身や家内の体調も変調を来しているなど、死が一層身近な問題になりつつある今、私はどう考えているのか,そんなことを見直すのも面白い様な気がする。また,見直す過程で、私に看取られた多くの患者,今、外来で診ている患者の事についても考える事になるだろうから意味ある事と思う。
ちょっと敬虔な気持ちに私を誘ってくれる8月も間もなく終わる。
8/29(金)晴天 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 職員検診
0:40起床、新聞・文献他、本読み。5:30ゴミ出し。7:45Taxi、8:10こまち、晴れ間あり徒歩病院、9:00-13:10大曲中通病院外来。徒歩駅に向かうも途中で雨。15:30職員検診。体重増加、視力低下、心電図に問題、飯川病院ボランティア。17:00帰宅、夕食、20:30就寝。DVD「上杉鷹山(後半)」、「三三・左龍二人会」、「神秘の球体−マリモ」。
書評:英語で味わう名言集 心に響く古今東西200の言葉 R・パルバース NHK出版2011年 1400円
「名言−それは旅の道づれ。名言とは、一言で言えば、詩です。名言は人生の指針を教えてくれるもの。私たちを癒したり、楽しませたり、知恵を与えてくれたりします」、著者のロジャー・パルバースは前書きの第一行に記している。
私もそう思う。
著者は1944年生まれ、米国出身のオーストラリアの作家・劇作家・演出家。1982年来日し、英語と日本語で25冊の著書がある。13年まで東京工業大学教授、世界文明センター長。宮沢賢治の研究者としても有名で2008年、第18回宮沢賢治賞受賞。同年「雨ニモマケズ」の翻訳で第19回野間文芸翻訳賞受賞している。
私はこの本をNHKの番組を通じて知った。
「NHKギフト〜E名言の世界」は2010年に14回にわたって放送された20分番組の再放送を録画して全編見た。その放送内容に魅了され、最初のうちはDVDを止めて名言のすべてを書き取っていたが大変な作業であった。そのうち、この本の存在を知り、後半は本書を参考にしながら録画を見た。作業としてとても楽になった他に、じっくりと英文を味わう余裕が出来た。
実は、私は英語がからきし駄目である。
中・高・大学教養課程と8年間も英語を学んだことは自分にとって何だったのかと問いたいほどである。ただ、学生の時の医学書は、アメリカの有名な教科書のアジア版を用いた。とても安かったからである。当時、日本語の教科書は高額であり、貧乏学生には手が出なかった。「沖中内科書」は4万円ほど、セシル内科学書は3千円程度で買えた。貧乏だったから英語に親しまざるを得なかった。大学で研究している間は9割方の文献は英文であった。いつも苦しんだ。
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幸い、最近は追いかけられることも無く、余裕を持って英語を楽しめる環境になった。とはいえ、安易な楽しみ方である。せいぜいTVの「NHKギフト〜E名言の世界」、「トラッドジャパン」単行本「その英語は恥ずかしい!」などである。
著者のR・パルバースが選んだ、あるいは英訳した英文は美しい。原文を損なう事なく、表現に奥深さを与えている。さすが、賢治の研究者である。賢者の言葉は重い。
本書は放送で取り上げた14項目から厳選した「成功」、「挑戦」、「社会」、「芸術」、「愛」などの8項目を取り上げている。それぞれに簡単なエッセイ、伝記も併記されている。
下記の様な含蓄のある言葉が200並んでいる。
■Being rich does not mean having lots of money, but having an amount you consider enough. Being poor is not lacking in money, but considering what you have not enough.
■Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
■I have not failed. I've just found 10,000 ways that won't work.
どんないい言葉も、文章も到底覚えられない。もう無理である。それ分頻回に参照しなければならない。ただ、こんな所にも楽しみを見いだせる私は恵まれている。自炊してiPad miniに入れて楽しむこととする。
8/28(木)晴天、外来 飯川病院
1:00起床。文献読み、PDF化他いつもの如し。7:30バス徒歩飯川病院着、8:45-13:30外来、14:00-18:50飯川病院、某診療所調来訪。19:10帰宅。夕食。20:10就寝。DVD視聴「聖女」、「英語で名言ギフト:勇気・世界」、「2億5千万年後の地球」。歩数計4412Km。
医療介護費用削減2014(8)日本人の死生観 輪廻転生
8月は、お盆があり各家庭で死者を迎える行事を行い、墓石に手を合わせ、荘厳な雰囲気の寺の本堂でご先祖を忍ぶ。ヒロシマ・ナガサキに原爆が落とされ、秋田の土崎に空爆もあった。終戦も迎えた。多くの方々が亡くなった。240万ともされる戦没者に思いを馳せ、靖国の意味についても考える。
こんなことを通じて、おのずと「死」と言うテーマが身近に感じられる月である。
日本は2005年から人口減少社会に入った。人口問題研究所の推計によると、高齢化は一層進み、05年に約108万人だった死亡者は40年ごろには170万人になる。
戦後のわが国の社会、特に高度成長期を中心に「死」というテーマを忌避する傾向が強くなった。
当時日本は右肩上がりの高度成長の時代を迎え、すべてがスケールが大きくなり、スピードは速くなり、個人の生活も豊かになった。この時代に社会に出て、身を粉にして働いた、いわゆる団塊の世代の方々にとっては人生の設計は直線的に右肩上がりであった。
この年代の方々は、自然を改造し、自動車を手に入れて移動も便利になり、家事は電化し、暖冷房を含め生活環境も自由に調整出来る様になった。同時に、国民皆保健制度が作られて安価に医師にかかれる様になり、医療医学が発展し、従来であれば救命出来ない様な重症な患者が助かる様になった。わが国の平均寿病も急速に伸びた。
その結果、生きていることのリアリティーは喜びとともに十分に味わうことが出来たが、「死」ということの意味がよく見えなくなり、生活上の「死」の実感が希溥になった。このことはある意味で、戦後から現在までの日本人全体の生命観や死生観について影響を与えてきた事態である。
私など、診療や講演を通じて「人は何れ弱って死ぬ。あなたも、高齢のご家族も死にます。今迄死ななかったヒトは一人もいません」と説いてきたが、さっぱり効き目が無かった。
高齢者の医療費は若年者に比較して著しく高額である。高齢者は疾病罹患頻度は高い。当然である、われわれは生まれ落ちたときからひたすら「死」に向かって生きているからで、高齢になった状態では疾病罹患頻度は著しく高く、その中には若返りしなければ改善が望めない様な、要するに検査・治療を重ねても意味を持たない様な疾患や状態が多数含まれる。
いのちの問題を医療介護費用削減の項目に含めるのも何であるが、高齢者医療の考え方を、いのちに対する考え方、死生観を変えていかなければ解決出来ないと思う。
政府は医療費を、特に高齢者の医療費を出来るだけ縮小しようといろいろな策を提起して来る。しかし、制度や経済の締め付けだけからの発想は高齢者いじめにも繋がるし、社会のひずみを拡大することになる。
いのちを緩やかな曲線ととらえ、何れは元に戻って行くと言った発想でとらえなければならない。医療費の面からとらえるのではなく、「死」がもっと身近にあった時代の感覚に回帰することでもある。これは退歩ではなく、新たな進展なのだ、ととらえたい。
8/27(水)快晴早朝は冷える 外来+健康クリニックドック判定 飯川病院ボランティア
1:00起床。文献・新聞ほか大量処理。読書。7:55ハトに餌後飯川病院着。8:45-13:45外来、健康クリニックドック判定。書類等処理。14:00飯川病院ボランティア。各種振込。DVD視聴「日本人は何を考えたのか:西田幾多郎」、「英語で名言ギフト:勇気・世界」。19:15帰宅、夕食、20:45就寝。歩数計4405Km。
医療介護費用削減2014(7)13年度医療費概算 伸び率2.2%
厚労省は26日医療費について発表した。
■2013年度の医療費概算
39.3兆円で、11年連続で過去最高を更新。前年度比で+8千億円、率で+2.2%増であった。
次年度には40兆円に届きそう。
13年度の1人当たりの医療費は30万8千円。75歳未満が20.7万円、75歳以上は1.2万円増の92万7千円。
診療別では、外来と調剤が20.6兆円で52.6%を占めた。入院が15.8兆円で40.2%。
■12年度の都道府県別の医療費の分析
全国平均は48.7万円、最高の高知県が62.5万、最低の千葉県が40.1万円と1.5倍の開き。本県は医療費総額は3607億円、伸び率は2.2%。一人当たり51.3万円で全国22番目、東北6県では最高であった。
医療費高騰の原因は、一般的には高齢化に加え、医療技術の高度化、薬品の技術進歩がもっとも大きな原因とされている。
医療費高騰に関連する関連する要因 (田村貞雄氏による)
(1)人口の高齢化による医療受容率の増加
(2)国民皆保険の実施による医療受容率の増加
(3)急性的疾患から慢性的疾患への疾病構造の変化
(4)医学医療の進歩による1件当り診療費の増大
(5) 医療経済における効率的システムの欠如
特に、ガン治療の分野の薬品は開発費がかさみ、結果として治療期間が長くなり治療薬も高騰する。決して医療費の高騰は高齢化だけではない。高度な治療の成功は病院にも患者にもメリットはあるが、経済的資源に限界がある以上、医療費全体という括りで考えれば大きな問題を抱えることにもなる。何でも光が当たる表面があれば、あたらない裏面もある。
政府は医療費抑制のため入院治療から在宅医療へ移行を促し、15年度から都道府県ごとの医療費支出目標を導入することを目指している。
しかし、制度や経済の締め付けだけからの医療費抑制策は社会のひずみを拡大する。
8/26(火)快晴 残暑 外来 飯川病院
0:20起床,論文読み、データ処理・整理他、5:45家庭ゴミ出し。7:45徒歩、ハトに給餌,飯川病院着.8:45-13:15中通病院外来。14:00-18:50飯川病院勤務、19:15夕食、20;45就寝。DVD視聴「日本人は何を考えたのか:女性解放」、「NHK
BSドキュメンタリー:史上空前の論文捏造」、「原爆実験60年」。歩行Σ4396Km。
慰安婦問題2014(3) 河野談話以降の動き
93年8月、河野談話が発表された。
私は昨年迄、この談話にある「・・その場合、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。・・・」との記載から、強制性があったと認められたものと思っていた。
その後、文献等を読んで最大のポイントである「強制性」を示す証拠は何も無いことを知った。かつ、この談話は両国の擦り合わせによる合作であること、河野談話はアドリブ部分もあるらしいことなどを知った。
■河野談話以降の動き
韓国側は河野談話によって日本側の誠意を認めこの問題をおさめることとし、外交問題として韓国政府から提起さることはなかった。
■1995年9月「アジア女性基金」の提起で再び火がつく。
河野談話のなかで「いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験されたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、気持ちを我が国としてどのように表すかは、今後真剣に検討する」、と述べているが、その具現として村山内閣の時に「アジア女性基金」の設立が発表された。わが国は日韓基本条約のなかで解決済みと言う立場から政府としての対応は出来ずに、民間の基金で対応しようとした。これに対して韓国の挺身隊問題対策協議会はあくまで政府の賠償と謝罪が必要であるとして拒否してきた。詳細は明らかになっていないが230人あまりの慰安婦のうちで60人ほどは受け取ったとされるが、この問題は未解決のまま残ることとなった。
■2011年、外交問題として再浮上。
韓国挺身隊問題対策協議会が提訴に対し、韓国憲法裁判所が「政府が従軍慰安婦の損害賠償を日本に求めないのは違憲」との判断を示した。
この判決後、当時の李大統領は日本政府に対応を求めて来た。次いで、李大統領は竹島に自ら上陸し、天皇による謝罪を要求する演説を行い、野田総理から大統領に当てた親書の受け取りを拒否した。これ以降、反日運動が再燃した。
任期末期の時点で支持率が著しく低迷していた李大統領は、国際感覚上非常識な行動によって日韓問題に波風を立てたまま姿を消した。最後の選挙対策だったのか?と思う。
■次に選ばれた朴大統領に日韓関係の改善が託されたが、わが国の側から見れは慰安婦問題を金科玉条のごとくに掲げ続け、日韓関係はむしろ悪化している様にも見える。日韓関係は慰安婦だけ?
朴大統領韓国の判断は国民の支持を受け、国益にかなっているのだろうか?理解困難であるが、残念なことではあるがそうであるならば関係改善のラブコールをわが国から送ることもなかろう。
8/25(月)曇りのち晴れ、外来 飯川病院
1:00起床。文献・新聞、医学論文チェック、その他。徒歩出勤、ハトに餌撒き、7:50病院着。9:00-11:00健康クリニックドック15名+結果説明1名。書類処理他。12:00飯川病院、14:00-18:45勤務、19:10帰宅、夕食、20:45就寝。DVD視聴「命のある限り戦え、そして生き抜くんだ」、「ギフト:松下幸之助」、「夢千代日記」中断、「そこ迄言って委員会」。歩数計4386Km。
四季2014(7) ついに秋が来た 今年は夏があったのか
今年の天候は変である。
私の勝手な分類では、8月お盆の墓参りの翌日から初雪が降る日までの間が秋であるが、今年は秋の息吹の訪れは早かった。自分勝手な希望であるが、これからの日々、残暑が一日でも長く続くことを願っている。
私は7月中旬の気候に秋の息吹を感じ取った。その頃、秋田は日中まだ暑くて30℃もあった。しかし、早朝3-5時頃はかなり冷え始めた。窓からの涼風が足下を冷やした。外に出ると朝露でスリッパ履きの足が濡れた。早朝の空は高く、秋に特徴的雲が出始めた。例年より2-3週間早い。
6月中旬から7月中旬迄は、19:00のNHK TVニュースは各地の最高・最低気温、湿度などを報じていた。それ以降は総じて関東以南の集中降雨、ゲリラ豪雨の話題が続いた。一方、秋田地方は雨天が多く、3日から4日間開催された竿燈祭りも後半は雨のために客足が伸びなかった。後半の2日間は雨で竿燈が滑るために危険と判断して演技の時間が短縮された。
11日未明には台風11号が接近し高温の強風が吹いた。県南ではそのフェーン現象と思われる高温の影響で稲が白くなる「白穂現象」と黒っぽく変色する「褐変現象」が見られ「ひとめぼれ」の出荷にかなりの影響が心配されている。この台風に関しては中心から500Kmも離れた地域で大きな被害がでた。気象庁によると帯状に発達した「レインバンド現象」が認められた、と言う。初耳である。
台風直後だから快晴が期待されたが、私どもの3日間の墓参りミニツアーは終止降雨に見舞われた。今迄のこれほどのことは無かった。
19日以降は広島の土砂災害のニュースが集中している。悲惨である。大雨をもたらした「バックビルディング現象」と言う言葉も初耳であった。山の麓に集中する住宅地の様子と見ると人災でなかったかと思う。
23日の大曲の花火は当日朝迄大雨状態で心配させたが無事開催された。
今年の夏は期待したほどではなかった、なんていうと大拠裟だが、僕にとってギラギラ天気の少ない夏は、夏を過ごした気がしない。それなりに暑かったのではあるが、ピークが過ぎ去った今は「夏なんてあったかなあ」と思ってしまう。
今夏を昨年と比較するとどうだったのか。身近なバロメーターはどうだったか。
私の書斎のエアコンは昨年孫のために修理した。昨年は頻回に用いられた様であるが、今年は一度も電源を入れていない。孫用に用意されたビニールプールは包装を解くことも無く物置にしまわれた。毎夏、私の悩みの種の一つである汗疹は昨年の2割程度と殆ど気にならなかった。寝苦しい夜は一晩も無かった。やはり、冷夏だったと思う。
私は家ではシャツも着ないで過ごすのであるが,今日あたりからは無理なようである。寒がりな家内は昨夜「ガスストーブを出して・・」と言っていた。いくらなんでも早すぎる。
8/24(日)快晴・降雨2回・暑い 飯川病院日直
0:30起床、新聞文献チェック。本読み、データ整理他。8:00バスにて飯川病院、8:30-17:00日直。入院患者は比較的落ち着いている。本読み。DVD視聴「働く車」、「E名言:地球・表現」、「国際連盟脱退」。18:00バスと徒歩帰宅、1時間草刈り、19:00夕食。20:30就寝。歩行Σ4377Km。
書評: 土崎空襲の話 漫画「はまなすはみた」 監修 佐々木久春 土崎港被爆市民会議
上記書籍は800円、作画は佐藤清勇氏、2014/8/14に初版発行された。
<<佐々木久春 刊行にあたって>>より
土崎空襲がこの度「漫画」になった。絵本「はまなすはみた」、「新はまなすはみた」に続くものである(中略)。8月14日の「土崎空襲犠牲者追悼平和式典」に何とか間に会うようにと、お忙しい佐藤さんに制作を急いでいただいた。心から感謝申し上げる(中略)。
土崎には14日夜の10時半にB29が2機、まずやってきて照明弾を落とした。その後、15日未明まで計132機が爆撃を繰り返した。15日が終戦の日だ。降伏受諾の通知は14日午後11時だったという。
数日早ければ、いや数時間早ければ死ななくてもよかった人が大勢いたはずだ。戦争はいけないということを、私たちはあらためて知るべきである。戦争の悲惨さを掛り継いでいこう。
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私は土崎空襲が終戦の前日に行われたことを知っていたが、不勉強にしてこの日7地域に空襲がなされていたことをこの本を見る迄しらなかった。改めて調べてみると以下の地域で空襲がなされていた。
<<昭和20年8月14日から15日にかけての空襲>>
■大阪府大阪市………8月14日12:30頃〜午後
■山口県岩国市………8月14日午前中〜午後
■山口県光市…………8月14日13:20頃〜14:20頃
■秋田県秋田市土崎…8月14日22:30頃〜翌15日3:30頃
■埼玉県熊谷市………8月14日23:30頃〜翌15日1:30頃
■群馬県伊勢崎市……8月14日深夜〜翌15日未明
■神奈川県小田原市…8月15日未明〜明け方
土崎空襲では250人以上が死亡,200人以上が負傷した。
「数日早ければ、いや数時間早ければ死ななくてもよかった人が大勢いたはずだ。戦争はいけないということを、私たちはあらためて知るべきである。」佐々木久春氏の言葉は重い。
この頃、戦争終結について内外で対策が進められていた。
8月9日ソビエトの満州侵攻を受けて、鈴木首相は同日の最高戦争指導会議の冒頭で「ポツダム宣言を受諾する他なくなった」と述べ、「国体の護持」、「自発的な武装解除」、「日本人の戦犯裁判への参加」を条件に宣言の受諾の方針が優勢となった。
議論は天皇臨席の最高戦争指導会議で10日2時、いわゆる「聖断」が下され、3時からの閣議で正式に承認され、直ちにスエーデンとスイスに向けて送信された。また受諾方針については15日の勅語の発表まで公表を行わないことにした。この間の時間の浪費が惜しまれる。
アメリカはこの電文を傍受した。日本がつけた受諾への条件にたいしアメリカ国内でも意見が別れ,連合国側との調整も必要であった。日本への連合国としての回答は11日正午にスイスに向けて打電され、12日午後0時45分に日本の外務省が傍受し知る事となる。
米国側は日本が疲弊し切っている事を知っていた。しかし直前まで爆撃し続けた。11日正午の時点で爆撃中止命令を出せたはずであるがぎりぎりの時点まで攻撃し続けている。トルーマンは2発の原爆が戦争終結をもたらし、日米の多くの命を救った,と自負しているが、矛盾に満ちている。
漫画「はまなすはみた」は広く読まれていい作品である。
8/23(土)夜半早朝降雨 午前から快晴 大曲花火
2:30 起床、文献・新聞チェック等、本読み等、週末の時間を楽しむ。7:00頃まで降雨。午前は引き続き雨読、蓄積データ整理に集中。0:30−15:20庭の草刈りなど。半分程度。午睡若干、Blu-ray
Disc蓄積のデータ整理、インデックス作り。19:00夕食。TVで第88回全国花火競技会の一部見る。20:30就寝。DVD視聴「日本の水族館」、「永遠のゼロ−特典ディスク」。
家庭菜園・園芸2014(6) 収穫終了 反省点
ここ数年、近所の方から畠を借りて野菜を作っている。
5月GWに,キウリ、トマト、大豆、ナス枝豆、人参、カブなどの苗を植えつけた。6月中旬頃からナス、キウリ、トマトが連日収穫できている。次々と実をつけ収穫に追われた。しかし、初収穫から約一月半、本日の収穫をもって今年の畠作業は終わりにした。今後は片付けのみである。
ナス、キウリ、トマトは一夜漬け、サラダ、味噌汁、酢の物等で消費しているのだが、毎朝、台所の脇のカウンターに採り立てのが並び追いつかない。
今年から家族が中型のタッパーウエアに糠床を作り、糠漬けを作り始めた。初期はやや不快な有機溶媒様の匂が若干した。この現象は初期にはほぼ当たり前のことと言う。約2ヶ月経って乳酸菌が安定したのか、味がとても良くなった。キウリ、ナス,カブを毎日の如く楽しんでいる。
私が作るようになってから3年目であるが,今年は枝豆、カブ、人参は失敗した。反省すべき点がいろいろ生じて来た。
<<今年の特徴、反省点>>
■今年はまず標準的時期に植えつけができた。
■トマト、キウリは病虫害に強く、連作にも強い「接ぎ木苗」を購入した。
■少しでも多く植えようと思い、苗と苗の間隔が狭すぎた。特にトマトは「接ぎ木苗」のためか育ち過ぎ密集してしまった――反省点。
■トマト、キウリ,ナスは各々10本以上植えたが、本数を減らしていい。とても食べきれない――反省点。
■添え木は二つのムネの添え木を三角形に交差させた。そのため風害に対しては一切の問題は生じなかった。
■生長する苗をいつくしむあまり,間引き、剪定など出来なかった。結果として育ち過ぎた――反省点。
■一度も追肥作業をしなかった。特に、枝豆はそのためか成長がわるかった――反省点。
■農薬は一切用いなかった。
■枝豆に関しては一回目にまいた種はすべて発芽した。2週間後にまいた2回目の種はマルチのに植えた分は一切発芽しなかった。マルチ外に植えた種は発芽した。2回目の分は水も十分与えたが、それが悪さし、マルチのしたで種が高温と過剰な水分にさらされたためと考えられた―――反省点。
■カブ、人参は種の小ささ,繊細さに驚き、狭い範囲に多数の種を蒔き過ぎた。密に発芽し成長したが、間引きをしなかったため十分育てなかった―――反省点。
■土が持つ「いのち」を育てる能力はすごいと,再確認した。
■経済的に,労力的にはスーパーで買う方が絶対に得である。それでも生長する苗を見守り世話をする喜びは捨て難い。
8/22(金)降雨後晴天暑い 大曲中通病院 飯川病院ボランティア 映画「アオギリにたくして」
1:30起床、新聞・文献他いつものごとし。7:40Taxi、8:10こまち。徒歩病院へ。明日の花火の準備が方々に見える。8:45-13:00大曲中通病院外来。15:00飯川病院ボランティア。19:00-21:00文化会館映画「アオギリにたくして」。21:30帰宅、夕食、22:30就寝。DVD視聴「知床のヒグマの旅」、「重松清が見つめた戦争」後半、「E名言:努力・料理」。
映画「アオギリにたくして」 アオギリの語り部・故沼田鈴子氏の人生
秋田「上映する会」の主催による映画「アオギリにたくして」の上映会が8月22日秋田市文化会館で行われた。原爆関連で関心があるテーマだったからである。
映画「アオギリにたくして」は広島平和記念公園の被爆アオギリの木の下でたくさんの子供たちに被爆体験を語りアオギリの語り部と呼ばれた被爆者・故沼田鈴子氏の人生を紹介した作品。脚本と監督は中村柊斗氏。
沼田氏は結婚式の3日前、勤務先の広島逓信省、爆心地より1.3Km、で被爆、瓦礫に左脚を潰され左腿から切断を余儀なくされた。戦時下の物資不足のため、切断手術はほとんど麻酔なしだったと言う。
退院後、義足で復職したものの、被爆者や障害者への差別や偏見に遭い、半年で自ら辞表を提出。次第に心が荒び、やがて自殺寸前にまで陥った。
そんな矢先、被爆で今にも枯れそうなアオギリを目にした。そのアオギリから新しい葉が芽吹いている様子を目にし、生きる気力を取り戻した。後に教師職に就き28年間、教員生活を送った。
50歳代後半から原爆の惨事を後世の人々に伝える使命に目覚め、原爆の恐ろしさと愚かさを世界中に伝えることを決意し、修学旅行生たちへの被爆証言を始めた。一時期には証言相手の学校は年間200校もあった。証言を聞いた子供たちの数はのべ10万人にのぼった。海外へ出かけての証言も10数ヶ国に及んだ、と言う。
2011年3月11日に東日本大震災,原発事故そしてが発生。自分の唱えてきた放射能の危険が現実のものとなったことで激しいショックを受け、同年7月12日に心不全で死去。没年齢87歳であった。
沼田氏は不自由な身体をかかえ、広島市民による被爆者への偏見・差別に心を閉ざし、和服でひっそりと暮らしていた。それを乗り越えたのは人生も半ば過ぎであった。それ以降は障害ある姿を隠す事無く洋服で活動したと言う。
氏は自らの体験を通して、戦争の愚かさ、平和の尊さ、核の恐ろしさ、そして平和づくりの大切さを死の直前迄伝え続けたが、氏がもっとも辛かったのは被爆者に対する地元の偏見でなかったのか? 日本人の偏見の文化,これは恐ろしい文化である。私はこの映画を通じてそれを感じ取った。
<資料>会場で以下の資料を購入し,上記の参考にした。
■書籍 シネ・フロント 2014/3月号「アオギリにたくして」
■CD「アオギリにたくして」サントラ版12曲収録 ミューズの里KK
■中村 柊斗「アオギリにたくして」徳間文庫 2013/7
8/21(木)降雨終日 外来 飯川病院
1:00起床。医学論文、新聞チェック、心理学関連本読む。5:00降雨の合間を縫って資源ゴミ大量廃棄。7:45バスと徒歩飯川病院着、8:45-13:30外来。14:00−18:30飯川病院。駅からバス19:10帰宅、夕食。20:50就寝。歩数計4357Km。DVD視聴「米国最強の戦闘機」、「重松清が見つめた戦争」前半。
ジジババ・孫論(12)「共感力」の育成は「痛み」から(3)「つねって他人の痛さを教えよ」
「痛み」は生まれたときから備わっているのだろうが、赤ん坊のときは具体的なものでなく、不快な感覚の一つなのだと思う。脳が発達し、言語が発達していく過程で「痛み」として識別されていく。言語化して行く過程で不快感から徐々に「痛み」と言う具体的な感覚になる。
「痛み」感覚は不快な感覚であるが、身体防御のために重要である。これを欠くと、生存に著しく不利である。
「痛み」感覚はほぼ万人に共通な感覚である。自分と同じ「痛み」感覚が他人にも、動物にもある事を教える事は、人としての「共感力」を養う基本である。そのためには適切な「痛み」を体験させる事が重要である。生きるために身を守る、危険を教え込む必要があるが、その時には「痛み」感覚を利用すべきである。
言葉を覚え始めた頃の幼児が救急外来に受診する事は多いが、中耳炎で耳が痛くとも頭が痛くとも「ポンポンが痛い」と表現する。母が何となく不機嫌な子供に対して「ポンポンが痛いの??」と問いかける事から痛みの表現法を学習している過程である。
「わが身をつねって人の痛さを知れ」とか「足を踏まれたことがない人は踏まれたときの痛みがわからない」とよく言われる。つねられて痛かった体感を持つ人は、面白半分や無目的に、人をつねるようなことはしない。人が社会の中で成長していく過程において、痛みを体験させることは教育的に必要である。そういう経験を通じて、人の痛みに対する共感力、想像力も育ち、自分の行動を制御していく。
稀ながら「痛み」を感じない先天性無痛症と言う疾患がある。痛みを感じない子供は、「痛み」による防御反応が欠如しているため自傷,他傷を受け易い。外傷でも疼痛は無いから行動に制御がかからず外傷死に至る事もある。内臓痛も無いために命の危険もある。
この疾患の場合にもっと重大なのは「他人の痛みを全く理解出来ない」事である。他人と「痛み」感覚の共感力が育だたずに性格が粗暴になり暴力行為に走り易い。社会生活に順応困難になる。
「痛み」の感覚は生命を守るだけでなく、他人との共感力を養うのに重要である。最近の子育てではこの面での教育が乏しくなっているのではないか?結果として他人と「痛み」を共有出来なくなっていないか? いじめ問題の背景にもなっていないか。私は話して理解出来るまでの間は軽い「痛み」を利用するのがいいと確信している。「わが子をつねって、他人の痛さを教えよ」である。
「梅干し」を頬張る姿を見ただけで「酸っぱさ」が伝わってくる。これぞ共感である。視覚を通じての生理的反射作用でもあるのだが、「梅干し」文化の無い外国人は恐らく何も感じないはずである。「痛み」の経験はこれと同じ効果がある。
8/20(水)雨 外来 飯川病院ボランティア 広島で土砂災害
0:10起床。朝の時間をゆったりと豊に過ごせる。文献他。録音・画像データ処理、涼風、寂しい。5:00明日の資源ゴミの準備。プリウスの荷台に入りきれず。7:30降雨でバス徒歩飯川病院着、8:45-13:00中通病院外来。13:45-17:00飯川病院ボランティア。19:10バス帰宅、夕食、TVで広島の土砂災害を報じていた。20:20就寝。歩数計4350Km。DVD視聴「山本五十六(前後編)」、「西南戦争は何故起こったか」。
慰安婦問題2014(2) 宮沢内閣発足以降河野談話迄
宮沢内閣発足は1991年12月であるが、当時、慰安婦問題は日本では殆ど知られていなかった。
■内閣発足後3ヶ月目に元慰安婦の3人が日本政府を相手どって損害賠償の提訴に踏み切り、両国間で一気に問題化した。この背景には朝日新聞が従軍慰安婦を報道したことで人権問題に関心の高い弁護士等が元慰安婦を支援し提訴した、とされている。
■これに対し加藤官房長官が記者会見で「国家としての対応は困難」と述べた。これに韓国側のメディアと世論が猛反発、提訴の翌月奉還した宮沢総理は厳しい状況に追い込まれた。総理は真相解明を指示、慰安所の設定を前提とした治安要請等の資料が発見された。
■加藤官房長官は談話として「慰安所の設置、慰安婦の募集にあたるものの取り締まり、慰安施設の経営、慰安所関係者への身分証明の発行などで政府の関与が認められた。政府としては従軍慰安婦として辛酸をなめられた方々に衷心よりお詫びしたい」と発表した。これに対し韓国挺身隊問題対策協議会は「強制性」を認めていないと反発した。その後の調査でも強制連行を裏付ける資料は見つかっていない。
■韓国側から被害者本人からの事情聴取の申し込みあり16人に付いて事情聴取した。
■1993年8月河野談話発表。
「河野談話」
従軍慰安婦問題について、政府は、調査を進めた。今般その結果を発表する。
調査の結果、長期に、広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在した。慰安所は、軍当局の要請により設営された。その設置、管理及び慰安婦の移送は、軍が直接あるいは間接に関与した。募集は、軍の要請で業者が主として当たった。その場合、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。 慰安婦の出身地は、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めた。当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、募集等も、総じて本人たちの意思に反して行われた。 本件は、軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身に癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、気持ちを我が国としてどのように表すかは、今後真剣に検討する。 われわれは歴史の真実を回避することなく、歴史の教訓として直視していきたい。歴史研究、歴史教育を通じて、永く記憶にとどめ、決して繰り返さないという固い決意を表明する。 なお、本問題は、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(短縮するため一部言い回しを変更した)
■河野談話に韓国の関与は?
通常、外交文書や声明などは意見交換して調整が行われる。従って、談話は両国の合作である。
■談話表明以降、韓国政府は慰安婦問題を取り上げなかった。
8/19(火)雨、曇りのち晴れ 外来 飯川病院
1:00起床,文献・新聞ほか。早朝涼風、むしろ寒い。5:30家庭ゴミ処理,集積所に。8:00徒歩飯川病院。8:45-12:30外来。盆の翌週で混雑始まる。楽あれば苦あり。12:30飯川病院に,14:00-18:50勤務。新聞、医学雑誌読書。17:15夕食、20:45就寝。DVD視聴、「そこまで言って委員会」、「知られざる生命の星の秘密(3)」、「ギフト:達成」。歩行Σ4343Km。
慰安婦問題2014(1) 朝日新聞の記事取り消しは許しがたい暴挙
慰安婦問題は1990年に韓国の大学教授が「挺身隊怨念の足跡取材記」を新聞に連載した事で宮沢内閣の時に問題化した。その前から、朝日新聞は1980年から90年代にかけて従軍慰安婦強制連行を示唆する記事を10数回にわたって掲載していた。
慰安婦問題は日韓の間でずっと懸案とはなっていたが、外交問題として浮上したのは2011年である。
韓国憲法裁判所が「政府が従軍慰安婦の損害賠償を日本に求めないのは違憲」との判断を示したからである。既にこの問題は日韓基本条約の中で賠償の問題は解決済みとなっていることは周知の事実である。これに対して韓国憲法裁判所は「基本条約は国家間の賠償の問題で、個人の請求権は含まれていない」との解釈を行った。国家間の条約の解釈が勝手に変更されるのは国際常識に照らして理解しがたい事である。
この問題は、もし何らかの対応すべしと言うのであれば韓国の国内問題のはずである。基本条約を結んだ当時の政権を責め、責任を明確にするのは韓国の自由である。
この判決を受けて当時の李大統領は日本政府に対応を求めて来た。これもバカな話しであるが、政府としては対応のしようがない問題である。頭に来た李大統領は竹島に自ら上陸し、天皇による謝罪を要求する演説を行い、これ以降、反日運動が再燃した。
新しく就任した朴大統領はこの慰安婦問題を日中の最大の懸案事項として位置づけた。日韓基本条約は現朴大統領の父親である朴大統領の時代に締結されている。日本は当時、外貨の乏しい中から5億ドルを提供した。韓国の疲弊していた経済はこれで息を吹き返し復興の礎となった。
日韓関係は互いの歴史観の相違がありずっとギクシャクしてきたが、歴代の内閣は関係改善に改善に力を注いできた。その結果、2010年ほど迄は両国の関係はかなり改善が見られていた。
両国の関係悪化に朝日新聞の記事が両国の関係に悪しき影響をもたらした事は明らかであろう。
しかし、朝日新聞は今年8月8日に慰安婦問題を特集し、記事の記載内の一部が虚偽であった事を認め、臆面も無く取り消した。紙上で2行の記載のみで取り消し、それだけと言う姿勢は許しがたい。メディアとしての責任放棄である。また、この事についての世論も比較的静かなのも理解しがたい。
この朝日新聞の記事取り消しを機会に慰安婦問題を再度勉強してみた。
8/18(月)雨後晴れ、健康クリニックドック診察 飯川病院
2:00起床、小旅行の荷物整理、文献チェック他いつもの如く。5:30畠、2泊3日の短い留守なのに畠には巨大キウリが多数ぶら下がっていた。収穫も最後となる。8:00徒歩飯川病院、9:00-11:00健康クリニックドック診察15人。12:00飯川病院。14:00-18:45勤務。19:00帰宅、夕食。20:10就眠。DVD「100分名著:罪と罰(1)-(4)」、映画「ホタル」。
墓参り2014(3)兄と互いの死亡時の打ち合わせ
私は岩手出身で、郷里の盛岡近郊に墓がある。実際には郷里を訪れ墓参するのはここ20年ほどは年に一回だけとなっていた。
また,盛岡市内には実兄が住んでいる。数年前までは兄の家族とも墓前で合流したが、最近は兄の体調の関係で墓前で会う事は無くなった。その後は私の方が墓参の度に兄宅を訪問して親交を温めている。
今回も、秋田に戻る途中で兄宅を訪問した。私より11歳上の兄は慢性呼吸不全で在宅酸素療法を行っている。兄の様子は予想に反して比較的良い状況で、昨年の印象と大差ない状況にあった。ボケの症状も短時間の面談の範囲では感じ取ることは出来なかった。
この時、ご本家の当主が亡くなったことを知った。一瞬戸惑ったが、事態を納得し、私の死亡時には郷里の親族に対しては実兄への連絡だけ、とフッと肩の荷が下りた。
これについて兄の側からはどうだろうか。意見は一致し「互いの死亡時には最小限連絡だけはし合う」ことだけ確認した。その後のことは互いの家族の問題である。私自身は「密葬」で、と決めてあるが、どうなるかは残ったものの問題で、私の与り知らぬことである。
「お互い,病気をかかえているから、間もなく死ぬかも・・」と言いながら、約30分後、「来年の再会」を期して兄宅を辞した。矛盾しているが,人生これでいい。
死について宮沢賢治の詩がある。
臨死の状況にある者の心理を淡々と詠っている。私の好きな作品の一つである。
「眼にて云ふ」 宮沢賢治
だめでせう とまりませんな がぶがぶ湧いてゐるですからな ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
そこらは青くしんしんとして どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといゝ風でせう
もう清明が近いので あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうにきれいな風が来るですな
もみぢの嫩芽と毛のやうな花に 秋草のやうな波をたて 焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが 黒いフロックコートを召して こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず こんなにのんきで苦しくないのは 魂魄なかばからだをはなれたのですかな たゞどうも血のために それを云へないがひどいです
あなたの方からみたら ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが わたくしから見えるのは やっぱりきれいな青ぞらと すきとほった風ばかりです。
(段落は短縮するために私が改変した)
8/17(日)岩手・秋田終日降雨 岩手手づくり村
1:00四季亭にて起床。読書、DVDなど。入浴5回,すべて一人だけで堪能す。7:30朝食他。10:00手づくり村へ。12:00息子宅に。14:00舩杉一家帰横。実兄宅訪問、印象として昨年と大差なし。互いの死亡時の対応について打ち合わせ若干。15:30昼食、秋田に向かう。小岩井農場にて買い物。19:00自宅着。19:30軽夕食、21:00就寝。歩数計Σ4321Km。DVD「ヒトラーの権力掌握後編」、「日本解体新書」観る。
墓参り2014(2)フッと消える人とのつながり
ここ10年ほどの天候は変である。想定外の寒冷、ゲリラ降雨、降雪、竜巻、猛暑・残暑・・などなどである。これが地球環境の変化によるものなのか、自然現象の大きなうねりの一環としての現象なのか、よく解らない。
今回の墓参りのミニツアーは3日間ともに降雨に見舞われた。が、今回の荒天はそう大袈裟に考えることはあるまい。私の心がけが良くなかっただけなのかもしれない。ただ、先月の後半から真夏らしいぎらつきの晴天は少なくなった。そして、早朝の涼風は秋の雰囲気を持っていた。私は、台風11号の北上を含むこの天候の不順が今後の農産物の熟成、稲の生長に与える影響を心配している。
今回も、墓参りの後、恒例にしている本家の仏前にご挨拶に伺ったが、いつもおられるご当主夫妻が留守であった。私は留守のご高齢の方に型通り挨拶し仏前にを手を合わせて辞したが、翌々日実兄宅でご当主が死去されたことを聞き驚いた。
その際、一瞬であるが私の所に何故連絡頂けなかったのか、と軽いショックを感じた。
しかし、考えてみればもう時代が違う。私は本家・分家の関係から毎年欠かさず訪問し、仏前に手を合わせていたのであるが、既にこの家同士の関係は本家の周辺に住む数軒の分家との間では消滅していたのかもしれない。私は秋田にいてこの辺の情報は全く得ることは出来ず、ずっと維持していた。このたび、ご当主がお亡くなりになって、私との間の細い糸も切れた,と言う事だろう。連絡をいただけなかったのは当然である・・、私はそのように考え、理解・納得した。
私は最近、人的交流のほとんどを私の方から遠ざけている。ここ数年の間に私の親戚との付き合いもすべて消滅した。私は唯一残っていた本家とのおつきあいを今後どうすべきか悩んでいたが、これで解決する。私はとても気が楽になった。
残るは兄一人とのつながりだけとなった。そうそう、本日のミニツアーのメンバーの事を忘れていた。今のところこれらの方々がすべてである。
日頃から、私は「人と人とのつながりはちょっとしたことでフッと消えるものだ」と思っている。これまで多くの方々が「フッと」消えた。その理由には時代の流れ、高齢化などの理由もある。また、ちょっとした行き違い、ボタンの掛け違いが因になっている場合もある。後者の場合であっても私は修復を望まない。そのほうが私にとっては都合がいいからである。
「フッと消える人とのつながり」、こんな終わり方もいいじゃないか。
8/16(土)岩手終日小雨 野村胡堂記念館 江岸寺墓前に つなぎ温泉泊
0:10花巻渡り温泉「楓」で起床、1:00-5:30ロビーにて文献・新聞チェック、DVD観る、この間入浴5回,すべて一人だけで堪能す。5:30再就寝若干。8:30朝食。11:00楓発,11:30花巻バラ園、賢治ゆかりの園で2回目。12:30野村胡堂記念館、13:50江岸寺墓参、14:30ひっつみ亭昼食。16:30つなぎ温泉四季亭着、読書、DVD「ヒトラーの権力掌握前編」、「女たちのシベリア抑留」観る。19:30夕食、20:45就眠。4313Km。
墓参り2014(1)一日目 大人7人、幼児3人の家族旅行
今年は8月15日から、私はこの日一日だけ年休を取り、土日を利用して墓参りを兼ねて岩手で過している。嘱託医となってもなかなか休めない。常勤スタッフ達との連携が得られ難い立場だから、自分の都合で休む際には担当する外来を休診にしなければならない。だから私の年休は年に0−1日だけしか消化出来ていない。
この三日間は殆ど雨天で,本来なら孫達を広々としたところで遊ばせたかったのであるが、行動がいろいろ制限された。
盆の墓参はわが家にとって年1回家族が集合する重要な行事であり、私にとって年一回の故郷訪問でもある。両親・祖父母の供養のほか、健康問題を抱える実兄に会う機会になっている。本家への年一回の挨拶もある。家族揃っての小旅行の機会でもある。数年前までは実兄の家族と墓前で合流していたが、ここ何年かはわが家だけ、となった。これも時代の流れだろう。
今年はプリウスは舩杉一家の4人で、私ども夫婦は新幹線で盛岡に移動した。息子と合流後は息子のワンボックスカーに6人乗って2台で移動した。
15時、江岸寺に到着、読経いただく。今年は祖母キヌの50回忌,母ハナの37回忌となっていた。私の代になってからは両親の葬儀のみは簡素に行ったが、それ以降の行事は一切行っていない。旧い感覚で言えば困った跡取りと言う事になるであろうが、時代がらこれでいいのだ。あれこれ言う方々はもう亡くなって誰もいない。
読経をいただいた後,恒例になっているご本家への挨拶に伺ったがご当主は不在であった。留守の方に型通りに挨拶を住ませたが、後にご当主は今年死去された事を知った。次の代の方についての情報は無い。従って今年が最後のご挨拶と言う事になろう。
大人7人、幼児3人の家族旅行である。墓参り,ご本家訪問以外の行程はすべて若い世代に任せて私は言いなりに動くだけであった。夫婦二人からよくまあここまで増えたものだと感心した。これでも人口減になるのか?まあ,計算上はそうなる。
一方で、それぞれの家庭を持っている子供達にとって年老いた親の存在などすこぶる小さくなっているようだ。これも当たり前である。もう私がどうこう言える事などなくなった。一抹の寂しさとうれしさが入り交じった不思議な感覚とともに過ごした。
宿泊した花巻温泉郷の渡り温泉ホテル楓は3回目ほどの利用であるが、天候が雨だけに、久々ゆっくりとした,静かな時間が流れた。いつものごとく早寝し夜半から起きだし、朝までロビーの一角で新聞チェックや本読み、DVD視聴等で過ごした。夜どうし入浴可能で、この間5回も楽しめた。ロビーも一人、広い浴場も一人,いい時間であった。
8/15(金)終戦記念日 秋田岩手終日激しい降雨 江岸寺 花巻へ
12:20起床,本日は一日だけ墓参り年休とった。いつもの如く机に向かう。5:30資源ゴミ処理、墓参り出発準備.私どもは11:08こまち18号盛岡に。13:00息子一家と合流、15:00江岸寺にて読経いただく。祖母キヌ50回忌、母ハナ37回忌。他の一家渋滞で遅れて到着。16:00ご本家に挨拶,ご当主死去されたらしい。17:50花巻渡り温泉楓着、読書ほか。19:00夕食。20:30就眠。DVD「日航機墜落の真実」、「迫害に立ち向かったユダヤ人」、「小遊三独り会」観る。
69回目の終戦記念日に
終戦から69年を迎えた。
私は終戦直前の5月に岩手の片田舎で生を受けた。自分が生まれた年で、昭和20年を特別な感慨を持って受け止めている。
私はいま日本の近代史を学び直している。開戦、終戦について考えてみた。
■日本の開戦は激動の世界情勢の中でアメリカにしむけられた開戦だったと思う。
最終的に開戦を決意したのは日本側であるが、首脳陣は開戦を回避する努力を怠ってはいなかった。しかし、複雑に交錯する国際情勢の狭間を縫って米国と事態改善のための交渉を続けて来たが、交渉のたびに日本側は窮地に追い込まれ、孤立させられた。開戦に至る過程は様々な解釈はあり得るだろうが、私はあの時点で、首根っこをしっかり押さえられた状況の中で、抗議のアクションを起こすのはやむを得なかったのでは?と思う。だだ、いつどんな状況になれば、どう収束させるか?そこ迄考えずに流れに乗ったのは問題であった。ところで、どんな機構の中で誰が開戦の最終判断をしたのだろうか?
ただ、この点はまだまだ勉強不足である。
■結果として通告なしの不意打ちになってしまった。
日本側にとっても痛恨の極みであるが、真珠湾攻撃についてはルーズベルト大統領は暗号を傍受し十分予測していた。しかし、現場には迎え撃つ作戦を指示していない。当時、ルーズベルト大統領は開戦の機会をうかがっていたが、議会の承認を受けるのに困難していた。
大統領はこの「不意撃ち」を世論形成に利用、議会の承認を取り付けた。この時の演説は国民の支持を受け,日本人は虫けらにも劣る人種との見方を固める事となった。このために戦時下の無差別大量殺戮、原爆投下などにアメリカ人の多くは道義的責任を感じていなかった。この「不意撃ち」は最初から最後迄、東京裁判を含む戦後処理のすべてに影響を与えてしまった。
■トルーマン大統領は戦争終結を大幅に引き延ばした。
日本は既に疲弊し切っており、5月には側近から国体保持を条件に戦争終結を働きかけると直ぐにでも日本は降伏する、と提言されていたが、トルーマンは原子爆弾の完成と投下の準備ができるまで引き延ばしを図った。この背景には、ルーズベルトがスターリンとソビエトが対日戦争を開始することが極秘に確認されていた事実があったため、対ソ対策として原爆でスターリンに衝撃を与えることにあった。日本人の犠牲のことなどトルーマンの歯牙にも引っかかっていなかった。
■一方,そんな状況にありながら日本の軍部は引き際を誤り、勝算もないのに無謀な作戦を続け、結果として悲惨な結果をもたらした。軍の指導部は日々積み重なる国民の犠牲について何と考えていたのだろうか?
終戦記念日近くになると大戦に関する新しい考え方などが出版されるし、メディアを通じて提供される。そのうちのいくつかは私にとって重要な情報となっている。近代日本史は深い。まだまだ疑問点が多く、勉強が必要である。
8/14(木)晴れ 外来 飯川病院午後日直
1:00起床,いつもの如く。5:30収穫、撒水、7:50徒歩飯川病院、8:45-12:30中通病院外来。予約患者は昨日同様15名前後と少なく余裕。13:00飯川病院。14:00-18:40飯川病院日直。読書ほか。病院の花壇に撒水他。19;30家内の車で帰宅、19:00夕食。20:30就眠。歩数計4298Km。DVD視聴「知られざる生命の星の秘密(2)繰り返される栄枯盛衰のドラマ」、「11代将軍徳川家斉」。
医療介護費用削減2014(7)高齢者医療の変遷(5)老人医療無料化は10年で終焉
老人医療の無料化の動きを年表形式に追った。
■1976年(昭和51年)予算で老人医療費の有料化見送り。
■1977年(昭和52年)同上。
■1980年(昭和55年)行政管理庁が老人医療無料化の見直しを求める勧告。
■1981年(昭和56年)老人保健医療法案が国会に提出され老人医療有料化の動き始まる。
老人保険制度の創設の議論は、臨時行政調査会で増え続ける社会費用の抑制の議論から始まった。その中で俎上に上がったのは、1973年(昭和48年)の老人医療無料化であった。
老人医療無料化によってそれ迄医療にかかることの出来なかった高齢者が医療費を気にせずに医療を受ける事が出来るようになった。当時の老人が置かれていた医療、健康関連の環境を一変させた。
しかし,「患者負担を無料化すれば,高齢者が病院に殺到して医療費が増える」と言う大蔵省,厚労省の心配は現実のものとなった。
老人医療が無料となった1973年(昭和48年)、メディアは病院の待合室が老人のサロンとなった,高齢者がいろいろな医療機関をはしごし受診している,処方された大量の薬をゴミ箱に捨てている、高齢者の入院急増で病床が不足している、などと報道している。現に、この年のうちから老人医療費の予算が不足し、120億円の補正予算が計上された。
■1982年(昭和57年)参議院で老人保健法案を修正,可決。衆院でも可決,成立。
■1983年(昭和58年)老人保健法施行。
1960年(昭和35年)の岩手県沢内村から始まり、その13年後の1973年(昭和48年)国として老人医療費の無料化が成し遂げられた。
しかし、老人医療自己負担の無料化は経済的に壁に突き当たる事となり、10年で終焉を迎えた。伸び続ける老人医療費を抑えるため、高齢者の自己負担は外来400円/月、入院300円/日(2ヶ月限度)となった。
8/13(水)曇りのち晴れ 外来 ドック結果判定総括 飯川病院午後日直
1:00起床,新聞・録音のデータ整理中心。5:30ペットボトル処理、集積所に。7:50徒歩飯川病院着。8:45-12:10外来。15名前後と少なく余裕。ドック結果判定総括。12:30飯川病院へ。14:00-18:45休診で午後日直。新聞、歴史本など読む。19:00帰宅、夕食。20:30就眠。歩数計:4287Km。DVD視聴「知られざる生命の星の秘密(1)後半」、「山本五十六の真実(後編)遺された手紙」。
医療介護費用削減2014(5)高齢者医療の変遷(3)老人医療無料化とその後の流れ
老人医療の無料化の動きを年表形式に追ってみる。
■1960年(昭和35年)岩手県沢内村の英断
老人医療の無料化は東北の貧しい一山村、沢内村で1960年(昭和35年)に始まった。これには深沢村長らの英断はあったが、背景の一つには昭和30年台の「神武景気」、「岩戸景気」と言われる好景気があった。沢内村がわが国の高齢者医療、乳幼児医療の無料化を通じて国民の健康増進に果たした役割はとてつもなく大きい。
■1963年(昭和38年)老人福祉法が施行
国は、65歳以上の高齢者の健康診断を自治体の長に義務づけ、また、必要に応じて、高齢者を養護老人ホームや特別養護老人ホームに「収容する」とした。この法の背景には、人口の高齢化、民法上の家長制度の廃止、家族の中の高齢者の立場は不安定になっていた。住宅事情の悪化もあった、ことが挙げられる。
遠野物語、デンデラノを彷彿させる様な話題であるが、この頃、私は高校生の頃で医師の道を目指していた。岩手の片田舎の老人達も厳しい生活を送っていた。
老人福仕法で年1回の健診を義務づけていたのに、高齢者の受診率は低かった。「病気が見つかっても、医療を受ける金がない。かえって家族に迷惑をかけるだけ・・・」というのが、受診しない理由だった。日本の景気は良くなったと言えども地方にはその恩恵は少なく、高齢者達は貧しく、不安定な立場で生きていた。
このため、高齢者の医療費負担を軽減しようと、老人医療費を無料化したり、軽減する自治体が増えた。1969年(昭和44年)から東京都が無料化に踏み切ったこともあって、老人医療無料化を実施する市町村の数は、全国に広がった。沢内村の13年後の1973年(昭和48年)国として老人医療費の無料化が成し遂げられた。
これ以降の約20年、日本の経済・社会、医療福祉は大きく変遷した。
65歳以上の人口は、戦前から長い間、5%程度であったが、1965年(昭和30年)国勢調査で5.73%と増加の兆しを見せ始め、社会学者、人口学者は、将来の厳しい高齢化を指摘していた。
■1973年(昭和48年)老人医療費無料化発足の年から予算不足に。
老人医療費無料化が始まったその年のうちから老人医療費の予算が不足する事態となり、厚生省は10月に120億円の補正予算を計上した。
この様に老人医療費無料化はスタートしたその年から経済上の壁に突き当たった。
■1975年(昭和50年)大蔵省は老人医療費有料化の建議提出。
老人医療費はその後も増加し続け、49年度350億円、50年度555億円が臨時財政調整交付金の名目で予算を計上した。大蔵省は危機感を募らせ、老人医療費有料化の建議を提出したが、時の三木首相は予算編成の大詰の12月末日、老人医療費有料化を見送る裁断を行った。
8/12(火)曇り 風強 外来 飯川病院
0:20起床,いつもの如く。深夜からの貴重な時間をじっくり読書等、楽しむ。5:30可燃ゴミ処理、野菜収穫、7:30バスと徒歩、飯川病院着。8:45-12:50外来。盆前で患者少なく余裕。14;00-18:45飯川病院。19:00夕食。20:30就眠。DVD「知られざる生命の星の秘密(1)前半」「山本五十六の真実(前編)真珠湾への道」。
情報収集、歴史の勉強にTV番組、映画,購入ソフトを積極的に取り入れる
かつて私はニュース、ドキュメンタリー以外のTV番組、とりわけ娯楽系のを毛嫌いしていたが、最近は考えが変わってTV番組を情報収集、歴史の勉強に積極的に利用している。
その発想転換のきっかけは2011年8月観た映画「マーラー:君に捧げるアダージョ」、9月に観た映画『ルートヴィヒ』であった。創りものと分かっていたが与えられる情報量の豊かさに感心した。
これ以降、劇場で上演される50本ほどの映画を立て続けに観たが、残念なことに行きつけの映画館が12年暮れに閉館した。これを機会に劇場での視聴から自宅の書斎に構築した簡易AVシステムに移行した。最近勤務時間が増えた飯川病院にもミニミニAVシステムを構築、深夜から早朝にかけては自宅で、午後のフリーの時間、週末の日当直の時間は飯川病院で観ている。
映像のソースはNHK3波、民放10局で放送される番組の録音である。録画はハードディスク、DVD、Blu-rayディスクを適宜利用する。毎週10−20時間分録画されるので視聴するのも大変である。音楽関連以外は1.2-1.4倍速で観る。
好んで観ているジャンルは、■科学、■自然、■歴史、■人物の記録、■音楽番組、■文学紹介番組、■落語、■むかし観たいと思っていた映画、■・・・、が中心である。前5者が大部分を占める。
映像を伴うと情報量が多いが、私は画面をじっと見つめていることはない。文献や雑誌、新聞などの文字情報を集めながら、読みながら、あるいは文章を作りながらの視聴で、音声が主、必要に応じて画面を見る、そんな利用の仕方である。
「百聞は一見にしかず」と言われる。「何度くり返し聞いても、実際に見ることには及ばない。何事も自分の目で確かめてみるべきだ」という教えがあるが,私の情報源は今でも殆どが文献、書籍等の文字情報,次いでラジオ深夜便を通じて聞く各界の方々が語る言葉である。これらを補完するために映像情報を用いる。
映像を伴う情報は内容理解には有用であるが、枝葉をばっさりそぎ落とし直接的に編集されているために想像出来る範囲が狭い。更に、編集方針が恣意的であることもあり,時には疑いの目で見なければならない。
私の情報源は一層増えた。とてもうれしいが、毎日の時間配分が悩みの種となった。
8/11(月)台風11号日本海沖通過で暴風雨 健康クリニックドック 飯川病院
1:30起床,新聞・文献チェック他。台風11号で暴風雨でバスも困難、7:30車で飯川病院着。9:00-11:45健康クリニック、15人と結果説明2名。12:30飯川病院に。14:00-18:30勤務。歴史関連本読む。撒水、19:00夕食、20:30就寝。歩数計4268Km。DVD「そこまで言って委員会」、「映画トラ・トラ・トラ(吹き替え版)」、「神宿る鳥海山」。
ジジババ・孫論(11)「共感力」の育成は「痛み」を教えることから(2) 痛み感覚の共有
子どもの痛覚がいつ頃から発達するかは私は分からない。
娩出される過程は赤ん坊にとっても厳しい環境であるはずだ。「狭い」、「圧迫」、「暗い」、「長い時間と距離」、「・・・」、この間どう感じているのだろうか。娩出直後の様子から見て意識が無いわけではなかろう。何らかの感覚はあるのだろうが,混沌とした訳の分からない妙な感覚だろうが,私は覚えていない。孫に聞いてみたが「ハア?」,と言うだけで教えてくれない。
新生児期に何らかの手術を受ける赤ちゃんは少なくないが、術後の様子を見ていると大人の様子とは全く異なる。私の目から見れば痛いはずだが、様子からはそうは見えない。かなり鈍い?殆ど感じていないのでは?とさえ思う。
「痛み」の原始的な感覚は不快な感覚の一つとして生まれたときから備わっているのだろうが、具体的なものでなかろう。脳が発達していく過程で「痛み」として識別されていくのだろう。
「痛み」感覚は危険を感知する重要なセンサーである。不快感から徐々に具体的な感覚になる。自分を害する可能性がある「不快感を痛いと感じるためには情動的な感覚へと変換が必要」である。その区別がつき始めると「痛み」として徐々に意味のある存在となる。高等生物ほど痛覚神経が発達していて、特に霊長類やヒトなどは小さな物理的刺激でも痛みとして感じる様になる。
私は長く一緒に暮らしたネコには痛覚がある事は教わった。安全ピンでちょっと刺したら優しくたしなめられた。今,魚に「痛み」感覚があるのかどうか、調べている。大量に水揚げされた魚達の,あるいは釣り上げられた魚達に苦痛の表情を読み取れない。これはしょっちゅうお世話になっている私にとって大きな救いである。まだ魚の「痛み」感覚の有無について結論は得ていないが、「魚の生き造り」は人間の奢りで許し難い。
「魚の生き造り」などを愛でる大人達の感覚がこども達の情操に与える影響は小さくないだろう。佐世保の事件等に繋がらないか?と思う。
「痛み」感覚は不快な感覚であるが、これが無いと、生存に著しく不利である。「痛み」感覚は全く感じない特別な疾患の患者を除くとほぼ万人に共通な感覚である。自分と同じ「痛み」感覚が他人にも、動物にもある事を教える事は、「共感力」を養うために極めて重要である。そのためには痛みを経験させる事は、子育て上重要である。
8/10(日)台風11号日本海を北上中 終日風雨
12:00飯川病院医局起床、のんびり読書、新聞、蓄積データ整理など。早朝は花壇に撒水、9:00バスと徒歩帰宅。天候悪く外仕事出来ず。世界史・日本史関連の勉強する。17:00飯川病院に。パソコンのデータ移行。18:50帰宅。19:00夕食、20:30就寝。DVDドキュメント「玉音放送を死守せよ」、「昭和の偉人伝:司馬遼太郎」観る。歩数計4264Km。
ジジババ・孫論(10) 「共感」、「共感力」は「痛み」を教えることから(1)
現代の子育て環境にはいろいろ無理がある。核家族での子育て環境にも問題がある。時代柄親子関係の有り様も変った。
私は、特に「人間としての最大の特徴である共感力の育成」の面で問題がある、と思っている。
共感とは何か? 簡単に「他者の意見や体験、感情を共有出来る能力」,とでもしておこう。
豊かな共感力は人に特有,とされている。共感力は信頼感覚にも繋がり、人間同士を連結する重要な能力となる。他人との間に共感を持てなければ人間関係は全く成り立たない、と言って良い。この他者と共感する能力をどう育てていくか。それが育児の中で最も重要な課題の一つである。
人間の特徴の一つである「まね」する行為を利用するのも良い。「まね」は共感の発達のスタート,と言う学説もある。「まね」は他人のこころに気づく過程でもある。「まね」を通じて共感する。共感するから「まね」をする。
次の重要なしつけは「痛み」感覚の共有なのではないかと私は思う。
子どもの痛覚がいつ頃から発達するかは分からないが、「痛み」感覚は生まれたときから備わっていると考えるのが一般的である。ただ、おむつが濡れた感覚、暑い寒いの感覚などと明快な区別がない「不快な感覚」として感じるのだろう。おそらく、これらの感覚は、脳が発達していく過程で識別されていくのだろう。
「痛み」感覚は身を守るための貴重な情報源であると同時に、人間にとって最も不快な 感覚のひとつである。
生後1年ほどの時期、乳児の手背の皮膚をつねると明らかに不快な表情をする。他の不快観とは異なる表情と、逃れる動作をする。この頃には「痛み」感覚が発達していることを示唆している。ハイハイから立ち上がる時期になると「痛み」感覚がもとになっていると思われる防御的行動が見られる。何でもやみくもに立ち上がるのではなく周囲の状況を観察して身を守っている。
さらに心身ともに発達すると徐々にイタズラが増えて来る。乳幼児にとって自分の行いに大人から見る様な善悪の区別は無い。この善悪を教え込むのに「痛み」感覚を利用すべきである。
私の子育ての過程では、禁止事項のレベルに応じて、声かけ→手背の皮膚をつねる→頭を軽くゲンコ→尻を平手で叩く、の4段階であった。今も間違っていたとは思っていないが、息子の子育てを見ていると声かけを重視しているようである。時代なのかな?と思う。
8/9(土)長崎原爆投下69年 雨天 飯川病院日当直
1:00起床、本読み中心、画像データ整理。7:00居間のAV機器、孫の攻撃対策。裏口の網戸修理、野良ネコ対策。本読み若干。12:02バスと徒歩。12:30飯川病院着、日当直業務に、18:00検食、20:00就寝。歩数計4255Km。息子一家離秋、F杉一家来秋。DVD「富岡市」、「昭和偉人伝・越路&夏目」、「名言集ギフト」。
原爆投下問題(4)オリバー・ストーン「もうひとつのアメリカ史から」(3)長崎以降
8月9日午前10時、緊急最高指導者会議で終戦に関する討論が開始されて約50分、長崎に2発目の原爆が落とされた。それと同時にソビエトが日本に宣戦布告し満州に侵攻、またたくまに満州を制圧した。
日本の軍部にとっては前者のショックはそれほどでなかったが、後者によっては大きな打撃を受けた。何しろ,その直前まで日本はソビエトを信頼し、ソビエトを仲立ちにアメリカとの間で戦争終結の工作を続けており,ソビエトが攻め込んで来るなどの動きを全く察知していなかったからである。
なぜ、広島・長崎へ落とされた原子爆弾にそれほどショックを受けなかったか。
1944年以降、ルメイの指示で無差別絨毯爆弾が連日のごとく行われており、都市が消滅する報告に慣れきっていたからだろう。軍部にとっては2000機のB29が多数の爆弾を落とそうが、一機が一発の爆弾で都市を消滅させたかにはそれほど関心を持たなかった。だから、広島・長崎の犠牲は日本の軍部に対してそれほど影響を及ぼさなかった。
これらの犠牲は何だったのか?日本の軍部は連日連夜失われている自国民のいのちには思いを馳せる事は無かったらしい。実に、やるせない気持ちになる。この点は、トルーマンも理解出来なかったようだ。トルーマンは保身のために「2つの原子爆弾が戦争終結を早め、日米双方数百万のいのちを救った」・・と宣伝し続けた。85%のアメリカ人はそのように信じ、トルーマンは今でも偉大な大統領の一人と尊敬を集めている。
ソビエトの満州侵攻を受けて、翌10日にはポツダム宣言受諾を決定し、国際放送を通じて流された。世界各所で傍受されている。国際的には戦争終活になると確信された。しかし、当日の国内向けのラジオ放送は相変わらず一億玉砕政策を放送し、国民を鼓舞し続けていた。
長崎に投下した原爆はプルトニウム型のファットマンで4万人が犠牲になったが、軍人は僅かに250人であった。長崎市民が受けた苦悩も無条件降伏を早める事は無かった。
しかしながら、ニミッツ、アイゼンハワー、マッカーサー、キング、アーノルド、レイヒーという6人の主要な将軍が、「原爆投下は道徳的にも非難されるべきであり、軍事的にも必要ない」と考えて発言していたが、トルーマンは類似の発言を禁止した。そして、トルーマン路線と対立したウォレス商務長官も突然の解任された。
このあとトルーマンは原爆の威力を背景に独自路線に踏み出していく。大統領はソビエトが原発を開発出来るハズは無い。今後の世界はアメリカ中心に回るだろうとほくそ笑んだが,その目論みは100%外れ、原発開発競争、冷戦の時代に入って行く。側近の一部は危機感が全くない大統領のバカさ加減に呆れた,と言うが,何と提言しても通じなかった,と証言している。
オリバー・ストーン「もうひとつのアメリカ史から」学ぶところは大きい。
現在、核弾頭は19.000発ほどあり、90%は米ロにある。トルーマンが生きていたら腰を抜かすだろう。
最近の世界的な流れとして核兵器の非人道性を訴える声が徐々に強くなってきている。半世紀以上経過したが、喜ばしい動きと思う。
8/8(金)雨 大曲中通病院 飯川病院ボランティア 息子一家来訪
1:30起床,文献・新聞チェックその他。一般ゴミ処理、7:40Taxi駅。8:10こまち。8:55-13:00大曲中通病院外来、混雑。駅病院間はTaxi。14:40飯川病院に、ボランティア。19:15帰宅、息子一家、孫二人、犬3匹来訪。仔犬が大変。自宅が別世界に。19:30夕食、20:45早めに就寝。DVD「上杉鷹山」、「名言集ギフト」観る。感嘆する。歩数計積算4252Km。
原爆投下問題(3)オリバー・ストーン「もうひとつのアメリカ史から」(2)米人の日本人観
オリバー・ストーン「もうひとつのアメリカ史から」には原子爆弾の開発、広島・長崎への投下に関して次のように表現されている。
広島への原爆投下の成功を知ってトルーマンは舞い上がった。歴史上最大の快挙と見なした。彼には無抵抗になった多数の日本人を殺戮したと言う罪の意識は無かった。しかし,トルーマンの期待に反して、それでも日本は降伏しなかった。
米国人は日本人をどうとらえていたか。これは重要である。
大戦を介して日本人ほど米国人に忌み嫌われた人種は無かった。ヨーロッパ戦線では敵であっても、同じ人間同士の闘いと見なされていた。日本人に対しては、人間としての良識も見られ無い、人間以下の虫けら同然と見なされていた。その事が日本国内の各都市に対する無差別絨毯爆撃に結びつき、実験的要素の強い原子爆弾の投下に繋がっている。
その第一の原因は、国際上のルールに反した真珠湾奇襲であった。更に、日本軍はどのような窮地に陥っても天皇のために戦死する事は名誉であるとして降伏せず徹底抗戦した。これも米国人にとっては理解の外にあり、1900回にも及ぶ特攻隊では36隻が撃沈され、多数の戦艦が被害を受け多数がいのちを失った。この捨て身の作戦も米国人には理解出来ない事であり,戦闘現場では次々と襲ってくる特攻隊に対する恐怖におののいた。
1944年、ドイツ戦線で無差別爆撃をおこなったルメイが太平洋戦線に着任、通常爆撃による成果に限界があるとして日本の各都市に徹底した無差別爆撃を開始した。その標的となった都市は戦略的意義のない都市が大部分で非戦闘員が多数犠牲になった。富山は95%が消滅した。
当時、原爆の開発に関連していた科学者達はあまりにも大きな原爆の威力に尻込みし、道徳的立場からや,実際に使用された場合,将来ソ連と原爆開発競争になり得る等と申し出た。日本の終わりは近く、天皇制を温存と言う条件を提示すればすぐにでも停戦となるだろうから原爆投下は不要であろうなどと提言したが、バーンズはすべての申出を拒否した。
8月9日、長崎の原発投下で,識者達はトルーマン、バーンズの考えは決して平和を指向していない事を悟った。
トルーマンは原子爆弾の実験成功で,それまでの決断力の乏しい優柔不断の性格から別人と化したとされる。それまでとは打って変わった態度でポツダム会議を取り仕切った事を、後にチャーチルは回想録の中で述べている。
この,世界最高の武器を手にして別人の如く変身したトルーマンのその後の施策は、大戦後の長い冷戦の時代に繋がって行く道を選択し,進んで行く。
この「もうひとつのアメリカ史」は、原爆の開発、投下等について良識的立場から意見を発していた識者も多数いた事も提示している。この視点は今となっては何ともしようがないが、一読一聴の値はある。私はそう感じ取った。
8/7(木)降雨それもかなり 外来+飯川病院
1:00起床、新聞データ化と整理。野菜収穫。7:30バスと徒歩病院着、8:45-13:00外来。14:00-18:50飯川病院勤務、19:15帰宅。19:30夕食、20:30就寝。歩数計積算4248Km。DVD「アポロ13号」、「JAXAの挑戦」。
原爆投下問題(2)オリバー・ストーン「もうひとつのアメリカ史から」(1)広島・長崎に至る裏話
ハリウッドを代表する映画監督オリバー・ストーンは2012年、1930年代からブッシュ、オバマ大統領までのアメリカ史を、独自の視点で描いたドキュメンタリーシリーズ(全10本)を制作した。
そのうちの1-4回が2013年4月8日から深夜のNHKで放送された。私はそれらを録画して適宜観ているが、この内容に深く魅了された。他の文献等から知ることが出来難い米国から見た視点の史実を画像入りで紹介しているからである。
このシリーズの制作のコンセプトは「教科書には書かれていない歴史」、「アメリカがたどる道を変えられたかもしれない“ヒーロー”達」に焦点を当てていると監督は導入部の中で語っている。
全10本のうち、第2回目は、「 Roosevelt,Truman & Wallace」、第3回目は、「 The Bomb」で広島と長崎への原爆投下に至るアメリカ政府内の“論争”に焦点をあてている。
第2回から3回目にかけて描かれているのは、
■第二次世界大戦後半にナチス・ドイツがスターリンに敗北し、独ソ戦の形勢はソビエトに傾いた。
■英米が恐れたのが、ソビエトとドイツの和平であった。これを防ぐためルーズベルトは、1943年11月にテヘランで、スターリン、チャーチルと会談。ルーズベルトは、スターリンと個別に交渉し、東ヨーロッパの戦後処理にソビエトが関与することを事実上認めた。
■ナチスとの戦争終了後にソビエトが対日戦争を開始することが極秘に確認された。
■当時のアメリカでは、ヘンリー・ウォレス副大統領は最も人気のある政治家だった。しかし、彼のリベラルな考え方が民主党内で問題視され、シカゴの党大会でトルーマンが一転して副大統領となる。この史実はアメリカにとってだけでなく世界的に見ても「歴史の分かれ目」となった。
■ウォレスはニューディールの中心的な存在で、ルーズベルト政権の農務長官、副大統領、そしてトルーマン政権の商務長官をつとめた。彼がもし、引き続きルーズベルト政権の副大統領の座にあれば、ルーズベルトの死後、大統領になっていたはずである。そうなれば、日本に原爆の投下はあっただろうか?戦後の核開発競争もあっただろうか?世界情勢は今とは大きく変わっていたかもしれない。
■ルーズベルトは、極秘に原子爆弾の開発を進めていたが、その開発に対して反対の意見も少なくなかったことが示されている。しかし、計画は進められ、ルーズベルトは原子爆弾完成前に病魔に倒れた。
■トルーマンが大統領となる。政権内に残っていたウォレスは反対勢力として、トルーマンは彼を罷免した。その後、一部の側近の強い意見に引きずられて日本に原爆を投下する決断をしている。目的は対日戦略では無く、対ソビエト戦略であった。
■このドキュメンタリーシリーズのなかでは、トルーマンは決断力の無い優柔不断な男として描かれている。ある政府高官は後にトルーマンを、「そりで遊ぶ子どもの様なもの。彼は何も決断していない」と評価している。
8/6(水)終日降雨 外来 飯川病院ボランティア
広島原爆投下69年 竿燈最終日1:00起床。文献新聞整理。英語勉強他。7:30バス利用飯川病院着、8:45-14:30外来+健康クリニックドック判定総括、嫌になった。14:45飯川病院ボランティア,途中でダウン。19:15帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計積算4240Km。DVD「東京遷都大作戦」、「ゴジラ vs デストロイヤー」一部,乗り切れず中断。
原爆投下問題(1) 69年目を迎えた広島「原爆の日」
広島に「原爆」が投下されてから69年目を迎えた。
本日、広島では雨の中しめやかに平和記念式典が行われた。
昨年のこの日もいろいろ疑問を並べた。その後もこの方面の史実をいろいろ勉強したが、私の考えは変っていない。
一部重複するが再度提示する。
■毎年毎年同じように式典が行われている。マンネリでないか。歴代首相の挨拶は毎年似たような内容で進歩が無い。核に対する政府見解を知りたい。
■「平和祈念」式典なら発展性がある。「平和記念」なら忘れられる。
■「平和記念」公園?「非人道的無差別殺戮を糾弾する」公園とすべき。
■原爆死没者慰霊碑にある「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」はどんな意味か。
■国力、国民が疲弊しつくした状態でもはや原爆投下など不要であった。トルーマンには8月8日に対日宣戦布告をするはずの対ソ戦略しかなく、そのため6日が選ばれ、天候の関係で広島が選ばれた。トルーマンには犠牲者について関心などなかったのだろう。余りにも悲しい犠牲である。
■非戦闘員を含む大量殺戮は人道上許されない。国際法違反行為で疑問を挟む余地はない。原爆だけではない。東京など各都市の空爆、土崎空爆は非戦闘員の大量殺戮を目的としていた点で許せない。
■アメリカ人の85%は原爆投下を正当化している。原爆に関する歴史認識、犯罪行為の責任を明らかにすべきなのは我が国である。平和記念式典の繰り返しでは何ともならない。
8/5(火)午前激しい降雨、後快晴 暑い 外来+飯川病院 竿燈祭り三日目
1:00起床,新聞入力、文献整理。本読み。ゴミ日。7:30バスと徒歩飯川病院。8:45-13:15外来。14:00-18:45飯川病院、レセプトチェック1.5時間終了。書店薬店経由、19:15帰宅、夕食、20:20就寝。積算4234Km。DVD「そこ迄言って委員会」、「認知症800万人」。理研副所長自殺。
医療介護費用削減2014(4)高齢者医療の変遷(2)老人医療無料化と経済成長
■老人医療の無料化:沢内村
老人医療の無料化は東北の貧しい一山村、沢内村で1960年(昭和35年)12月に始まった。当時の人口は約6000、村民は貧しい食事と重労働で健康を害していた。
新たに就任した深沢村長は、住民の保健活動に力を注いだ。まず、乳幼児の健康診断を始めた。しかし、住民は貧しく、医療に金をかけようとしなかった。
村長は村が「65歳以上の高齢者の自己担分を負担して無料化」を断行した。
老人の多くは「若い者に迷惑をかけたくない」という厄介者意識を持ち、医者にかかる現金も持っていなかった。お金の心配をせずに医者にかかり、健康のありがたさを理解してもらい、そのことを通じて、家族にも健康管理の意識を持ってもらおうという考えだった,と言う。また、その事が国が進めようとしている国民皆保険にも役立つとも考えた、と言う。
この時期は、国が4ヵ年計画で、国民皆保険体制を整備している最中だった。岩手県国保課は沢内村の方針に激しく反対したが,結局、村長の熱意を受け入れた。
参照「沢内村地域包括医療実施計画の目的と目標」1962年(昭和37年)策定>
幸福追求の原動力である健康を人生のあらゆる地域で理想的に養護するため
(目標)@すこやかに生まれる Aすこやかに育つ Bすこやかに老いる
これらの目標を実現するためには、誰でも(どんな貧乏人でも)いつでも(24時間365日生涯にわたって)学術の進歩に即応する最新・最高の包括医療サービスと、文化的な健康生活の保障を享受するすることが必要である(一部抜粋)。
■老人医療の無料化とを支えた豊作と景気
この時期の日本経済は1955年(昭和30年)に不況から脱して、輸出が大幅に伸び、昭和32年まで「神武景気」と言われる好景気であり、農村も大豊作だった。日本は戦後初めて米が自給となった。
景気は更に1961年(昭和36年)まで「岩戸景気」と言われる好景気となった。日本経済は、高度経済成長へ伸び始めようとしていた。この経済成長が沢内村の老人医療無料化を可能にしたもう一つの背景であろう。
■沢内村の老人医療無料化がもたらした影響
沢内村で始まった老人医療無料化は、同じように住民が貧しく、国保の保険料収納率も低い東北の町村に少しずつ広まった。
秋田県が80歳以上を、東京都が70歳以上を、横浜市が75歳以上を無料化に踏み切った。
次いで、当時高かった乳幼児の死亡率を下げる狙いから、乳児医療の自己負担無料化を実施する市町村も多くなった。
このように、沢内村がわが国の高齢者医療、乳幼児医療の無料化を通じて国民の健康増進に果たした役割はとてつもなく大きい。以上は深沢村長の生涯を記録した、映画「いのちの山河〜日本の青空U〜」に詳しい。
8/4(月)晴れ 健康クリニックドック 飯川病院 竿燈祭り二日目
0:30 起床。文献処理他録音データ整理。7:50徒歩飯川病院着、9:00-11:00健康クリニックドック。12:00飯川病院へ、14:00-18:50勤務、レセプトチェック1.5時間。19:20帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計4228Km。DVDは「英語で聞く名言集」、「正しい歩行姿勢」。
医療介護費用削減2014(3)高齢者医療の変遷(1)無料化の流れ
日本はかつて幸せな時期があった。いや,今が決して不幸と言うわけではない。医療の推移を見た時に、労働人口の増加、右肩上がりの経済力を背景に、夢が次々と実現して行った時代であった。
今日、日本の医療・福祉・介護の運用状況は経済的に逼迫している。日本の経済的活力が低下している現在、早急に手を打たなければならない。大局的に見た場合、日本の高齢者の社会保障は世界的に見ても充実していたと思う。しかし、その後に訪れた経済の陰り,これは爛熟した資本主義社会が歩む当然の推移,と私は思っているが、その後の社会保障の舵取りが正しかったかと言うと、時代に即した発想の転換が遅きに失した、と思う。いつまでも夢を追いかけてしまって墓穴を掘ってしまったのだ,と思う。
高齢者医療について考えるにあたって、日本の高齢者医療の推移を勉強し直してみた。かつては高齢者医療費は無料化されていた事もある。
高齢者医療費の無料化に関連する動きを年表形式にまとめると、
■1957年(昭和32年)1月 政府が国民皆保険制度を4年計画で達成すると閣議決定。
■1960年(昭和35年)12月 岩手県沢内村で無料化実施。
■1961年(昭和36年)4月 国民皆保険施行。健康保険は本人10割給付、家族5割給 付。国民健康保険は5割給付。
■1963年(昭和38年)8月 老人福祉法施行。65歳以上に毎年健康診断実施。必要に応じ養護老人ホーム、特養に収容。
■1963年(昭和38年)10月 国保の世帯主7割給付に。
■1968年(昭和43年)1月 横浜市が80歳以上の国保被保険者9割給付に。国保の世帯員も7割給付に。
■1969年(昭和年)4月 秋田県が80歳以上を無料化。
■1969年(昭和年)12月 東京都が70歳以上を無料化。
■1970年(昭和45年) 横浜市が75歳以上を無料化。
■1973年(昭和45年)1月 老人医療自己負担無料化実施。
■1973年(昭和45年)7月 東京都、65歳以上を無料化。
■1973年(昭和45年)10月 国も、寝たきり状態は65歳以上を無料化。
わが国の医療の中に国民皆保険制度が施行された事は大きい。素晴らしい制度であった。しかし,健康保険も国保も現役の労働者,世帯主を守る視点で創られており、高齢者に光りをあてていない。
その問題を鋭く指摘し,独自の判断で老人医療の無料化に踏み切ったのは,私の郷里の岩手県の沢内村、現在住んでいる秋田県であった。他の都道府県,自治体に先駆けて果たした先進性が国を大きく動かした。
8/3(日)快晴・猛暑 引き続き飯川病院日直 竿燈祭り初日
1:00飯川病院医局のソファで起床、シュ-ベルト作品聴く、書類廃棄などいつもの如く。撒水、野菜収穫、7:00検食、8:20-17:00日直業務。長丁場であった。18:00バスにて帰宅、19:00夕食、20:45就寝。DVDは「ファーブル昆虫記」、「歌人 柳原白蓮」、「ゴジラvsメカゴジラ03」、「江戸の情報網」、「ロケット打ち上げ100日間」、「南極物語」。当直だと歩く機会乏しく積算はのびず+3KmのみでΣ4217Km。
千秋公園の「ハス」満開 昨年の私の失敗が悔やまれてならない
徒歩通勤時に毎日通る千秋公園の「ハス」が満開となった。見事である。「ハス」は早朝が最も美しい。毎朝,愛好家の方々が数人真剣にカメラを向けている。
この見事な花を観ていると私の昨年の失敗が悔やまれてならない。
私は3年前から庭で「ハス」を育てていた。本荘市の陶芸家から譲り受けた株をプラスチック製の大きなたらい鉢に植えてた。常に水を張っておかねばならず、地植えや植木鉢、プランターとは勝手が異なり試行錯誤しながら何とか維持してきた。
3年前は4-5輪美しく咲き感激したが、厳寒期に根を凍らせたらしく、春に若芽が出てこなかった。
2年前はその反省にたち鉢をふた周りほど大きくし、新しい株を入手した。その年は小さな花が数ヶ咲いただけであった。心配した厳冬期も何とか乗り切って、昨春には沢山の葉が顔を出した。
今度こそは立派な花を咲かそう、と意気込んでこまめに水管理をし、肥料も追加して育てていた。葉は驚くほど密集し、1m以上の長さに成長した。7月下旬、元気な花芽が数本姿を見せた。
7月27日(土)は飯川病院の日当直で11:00頃から翌日10:00過ぎまで留守にした。帰ってみると「ハス」の葉の大部分が萎れて元気がなくなっていた。鉢の土も干上がって固くなっていた。その後連日給水し続けたが、一月ほどで枯れてしまった。日当直であったその日は30度を超す暑い日であったが、まる一日、22時間ほど給水しなかったことで干上がったのは予想外であった。
「ハス」は池や沼に生育する花であることは、大量の水が必要なことを示している。
自然の摂理を無視して不自然な環境で植物を育成をする。動物のペット化もそうであるが、私どもの自己満足のために、である。このこと自体の問題点、罪深さを勉強させてもらった。
今春,「ハス」栽培の再スタートを切る機会があったが,上記の反省のもと手を付けなかった。それが,今この時期になって悔しい気持ちになったが、自己満足に浸らず、この公園の見事な「ハス」を毎日見る事が出来る状況にある事に感謝する事とした。
8/2(土)快晴猛暑 草刈り 飯川病院日当直
1:30起床、新聞や文献読み。データ整理。5:00キウリ・なす・トマト収穫、食べきれない。7:00-10:00草刈り、途中で体調不良に、熱射病前駆か。12:30車で飯川病院へ、この時間から明日夕迄日当直・日直長丁場。患者は落ち着いており静かな時間。18:00検食。20:30就寝。
DVDは「津田梅子」、「名言集」。徒歩積算4214Km。
医療介護費用削減2014(2)次は高齢者医療を標的に
日本の医療・福祉・介護の運用状況は経済的に逼迫している。
医療・介護総合法が集団的自衛権等を隠れ蓑にひっそりと成立した。これで一定の方向性が出て一段落したが、厚労省が次にターゲットにしているのは高齢者医療である。
高齢者が急増するなかで、現状のままでは医療費はどんどん膨らんで行く。何らかの手だてが必要な事は明らかである。特に、医療費の中でかなりの部分を占める高齢者の医療費を絞り込むのは避けられない,と私も思う。
高齢者の医療費抑制の方法としては、△受診の制限、△受診医療機関の指定、△医療給付の内容制限・・などがあるが,これらは日本の国民皆保険制度の理念に反することである。
抜本的改革を叫ぶのは簡単であるが、どんな方法をとったにしても高齢者はパニック状態に陥るだろう。だから、現状の制度の中で調整して行くしかない。
厚労省が目論んでいるのは、高齢者の自己負担額の引き上げである。
医療費の現状の概要は以下の如くである。
■1 2011年度に38兆6千億円だった自己負担分を含む医療費は、25年度には60兆円を超すと試算されている。国の運営上厳しい数値となる。
■2 外来受診患者数でみると、高齢者は15〜34歳の4.5倍占める。
■3 75歳以上の高齢者の1人当たりの年間医療費は89万円。65歳未満の人の医療費の5倍以上である。
■4 医療費の自己負担は所得や年齢に応じて1~3割であるが、70歳未満の高齢者は高額療養費制度で、たとえどれだけ医療費がかかったとしても上限が8万7430円である。
■5 70歳以上の高齢者が外来だけ受診した場合は、年収約370万円以上なら、上限は月4万4400円、年収それ以下では1万2000円、低所得者は8千円となっている。
厚労省は高齢者優遇の縮小を視野に入れている。私もやむを得ないと思う。
●1 75歳以上の高齢者約1400万人の自己負担額を、いまの原則1割から2割に引き上げる。既に70〜74歳の高齢者は、4月以降に70歳になった人から2割に引き上げられている。
●2 ■4と■5の内容の見直し。実際の作業はかなり困難を伴うだろう。
これらの方策を進めると「高齢者医療の縮小」、「高齢者軽視」、「高齢者バッシング」等の批判がでて来ると思われる。今迄そうであった。これを乗り切るにはどうするか?今迄も高齢者医療の改善はズルズルと先延ばしにしてきた。その理由は選挙にある。政治家は高齢者に媚を売って議席を確保しているからである。ここの政治家は何と考えているのか?
今になって急に人口減、少子化がクローズアップされているが、もう30-40年前から分かっていた事で今さらなんだ!!と私は思う。もう遅いのだが手をこまねいていはいられない。これからは子育て支援の方に主眼を置かなければならないが、パイに余裕が無い。
この国をどのように舵取りしていくのか、目が離せない。
8/1(金)超快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 新幹線ダイヤ乱れ
1:30起床,文献・新聞チェックその他。一般ゴミ処理、7:00突然の激しい降雨、7:35Taxi、8:10こまち、徒歩、8:45-13:15大曲中通病院外来。徒歩駅に、こまち田沢湖付近の豪雨にて大幅遅れ。11:57のこまち7号が3時間遅れ14:50に大曲に到着、15:40飯川病院。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。終日暑い日であった。DVD「知の巨人 丸山真男」観る。徒歩積算4211Km。
医療介護費用削減2014(1)医療・介護総合法成立 集団的自衛権等に隠れてひっそりと通過
国会で審議されていた「地域に置ける医療及び介護の総合的確保を推進するための関係法律の整備等に関する法律案(医療・介護総合法)」と言う長ったらしい名前の法案が6月18日に参院本会議で可決成立した。
集団的自衛権の話題が大きく取り上げられる中、メディアもあまり報道しなかった。国民、関連する高齢者の方々も法が示している内容の重大さに気づかなかったかもしれない。
この法は医療や介護にかかわる19の法律改定を一括にした法で、病床の削減、要支援者の訪問通所介護を介護保険から切り離す、介護保険利用者の負担を増額する、といった厳しい内容が含まれている。
日本の医療・福祉・介護の運用状況は逼迫している。何らかの手だてが必要だから消費税を増税したのではなかったのだろうか。また、2000年当時の介護保険の「介護を社会で支える」と言う理念はどこに行ったのか?
主な内容は以下のごとくである。
■介護保険
介護保険で『要支援1・2」と認定された人は「訪問介護」と「通所介護」を介護保険では受けられなくなり、市町村による「地域支援事業」に置き換えられる。国の責任から外し地方自治体事業に丸投げされた。対象者は160万人とされ、介護保険の公的費用を抑制するためであるが、事業主体が変っても経費はそれほど変らない。地方自治体では到底負担出来ない等の意見が出ている。
サービス内容は市町村任せとなるために自治体の経済状況によって給付に差が生じる事になる。当然、給付費も圧縮される。サービスの具体的内容などはまだ明らかになっていないが、単価や人件費切り下げ、利用者の負担噌となると予想される。
■特養ホーム
特養ホームの入所者は要介護3以上に限定される。特養ホームの現在の待機者は52万人、そのうち17万人以上が「要介護1・2」でしかも生活困窮者が多い。だから入所を希望していながら対象から外され、行き場の無い高齢者難民が増加する事になる。政府はサービス付き高齢者住宅などを受け皿として考えているようであるが、この場合、月15万〜25万円もの負担が必要になる。現実的にはこれらの高齢者を在宅でケアする事は困難になる。訪問看護師は全体の2%、わずか3万人しかいない。介護職員は100万人不足しており、現状のままでは到底成り立たない。
■介趣保険サービスの利用料
これまで1割負担だった介護保険サービスの利用料が2割になる。対象者は「合計所得160万円以上」で、高齢者の2割が対象となる。
収入の少ない人が施設に入った場合に適応される、食費・居住費の負担を抑える「補足給付」(103万人利用)も適応と額が狭められる事になる。預貯金が一定額ある人や、世帯分離をしていても課税される配偶者がいる場合には打ち切られる。月2万〜7万円の負担増を求める事になる。
■病床の削減
現在でも入院出来ない入院難民が社会問題になっているのに、入院病床の大幅削減が進められる。高齢化のピークとされる2025年には202万床が必要と試算されているのに、43万床も減らす計画で、都道府県に「病床再編計画」をつくらせて削減にあたらせる。
診療報酬の面からも、重症患者を治療する病床の基準や入院できる日数を厳しく制限。入院患者を早く退院させないと病院の収入が減るために、今以上に患者追い出しが強まる事になる。
この法が成立して一定の方向がでた事で、次は高齢者医療費の削減の具体定期方策が論じられる事になっている。これも厳しい内容になりそうである。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |