徒然日記
2014年7月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


7/31(木)曇り午後から快晴 外来 飯川病院
1:00起床、新聞・文献など。データ整理。7:50徒歩飯川病院着、8:40-12:30中通病院外来。13:00飯川病院、14:00-18:30勤務、19:00帰宅・夕食。20:30就寝。DVD「NHKスペシャル-STAP細胞不正の深層」、「ゴジラvsメカゴジラ」、「名言集」観る。歩数計4207Km。

捨てる2014(10) 恐怖感と劣等感
 私の人生があまりにも恵まれて、安易な道ばかり選んできた。 
 自らも望んだし努力もしたが、医学部に進学出来た事で私の人生の大部分が決まってしまった。本当に運が良かったといまでも思う。ホンの、紙一重の差、ちょっとした幸運で得られた幸運が運のよさだけであったと自認している。

  この幸運が無かったらどうなっていたのか?もし、医師へ進めなかったら私はどうなっていたか?と言ったような恐怖観、それなりの苦労はあったが、地を這う様な思いをして生きてきたわけではない、子育てしたわけではない・・こんな事が長い間の劣等感、自責の念を抱く事になった。

 医師として歩んだ私の道は人的にも社会的にも、最高に恵まれていた。家庭的にも恵まれていた。このギャップが逆に私の劣等感のもとになっている。
 ただ、私が抱いた恐怖感、劣等感は「他人との比較によるものではない」事が自分にとって最大の救いであった。すべて自分の内面の問題であった。他人ををうらやむ事は無かった。従って、私のこんな心情に気づいていたのは、おそらく誰もいなかったと思う。

 恵まれていた状況にありながら消す事が出来ない劣等感、それを乗り切るために、私は自らを苛む様な生活設定をして自らを鼓舞して来た。ただし、この事自体も今考えてみれば甘い自己満足の遊びの様なものだ、とも思う。
 「こうすればもっと楽になるはずだ」と分かっている様な道は、その道に流される様に進めばさらに大きく後悔するから、自分の弱さに対し小さな闘いを挑んできた。

 なぜ、徒然日記を続けてきたのか?職場のエレベーターに乗らないのか?手術した時に術後あえて鎮痛剤を拒否したのか?現役の時に処理しかねるほどの業務を引き受けていたのか?・・・・。
 
 私は修行中と言う言葉を好む。「何にもならないムダな努力だけれど、劣等感を凌駕するためにムダな修行はない」とでも考えていたのだろう。今となればそう思うが、バカであった。

 現役の最中に迎えた困難な日々が私の人生をとても豊かにしてくれた。その果実をたくさん得たからこそ、多くの事を学ばせてもらったからこそ、私の満足感はとてつもなく大きかった。しかし、心の中では別な感覚もあった。
 今はもう、それほど自分を追い込む必要も無い。こんな事が過ぎ去った日々を忘れようとしている理由である。自分自身に気を使う事もなく、自由に生きられる喜びで一杯である。


7/30(水)快晴暑い 外来 飯川病院ボランティア
1:00起床、新聞・文献・本読み。7:50徒歩飯川病院着。8:45-12:30中通病院外来、13:00−17:10飯川病院ボランティア。大学家内を国際交流会に送り18:00書店、精肉店経由帰宅。本読み、19:30夕食、20:50就眠。歩数計4191Km。DVD「お遍路」、「ゴジラvsメカゴジラ」見る。

午年を迎えてから6ヶ月も経った(3) 午年・馬について(2)馬とのホットな関係を示す言葉
 近年は実生活の中では馬と触れる事は無くなったが、今でも各地域では神事や祭りの際に馬を欠く事は出来ない。盛岡の「ちゃぐちゃぐ馬っこ」は私にとっては懐かしい祭りで、馬が主役である。「南部曲がり屋」は馬は家族の一員であった事を示す住宅形式である。郷里の岩手では馬と人間が深く関わって生きていた。

 その他、ダービーが盛んであるが、精悍な馬の姿、疾走する姿は美しい。映画やTVの時代劇の中でも馬は重要である。遊園地の馬を見るたびに懐かしい思いがするが、老齢馬が多く痛ましい感じがする。

 人間の社会にとって馬が如何に大切であったか、今は知る人も少ないが、生活文化の中に名残が残っている。馬が関連している言葉はとても多い。
 ■絵馬:むかしは豊かな貴族達、大名等は神社に馬を奉納していた。馬は神の使いとされ神馬と言う言葉もある。かつての神社には馬小屋が在ったとされる。時代とともに馬から木に代わり、次いで木片になり、馬から他の絵柄に変化した。今は馬の面影も無いが、木札の名前が絵馬として残っている。

(近所のお堂に納められた絵馬。一週間前にお堂っこ祭りが行われ,多数の子供達が参加した。)
 ■御馳走:馳せるのは高速で走る事であり、馳走は馬で走り回る事である。馬に乗って走り回ってもてなしの準備を集めたので、もてなす料理を御馳走と言う様になった。美味しいものをしめす事もある。宅配便で届くのは御馳走とは言えないようである。
 ■引き出物:招待した客にかつては馬を贈り物にした。庭に引き出した馬を客に選ばせて贈り物にしたとされるが、その馬を引き出す風習が引き出物と言う言葉で残っている。
 ■はなむけ:むかし旅立ちの人を見送る時に旅の安全を願って目的の方向に馬の鼻を向ける風習があった。この鼻向けがはなむけと言う言葉として残ったもの。入学式などの時に歓迎の言葉として「はなむけの言葉」などと使われるが、相応しくない。卒業式なら間違いでない使い方と言う事になる(この項はラジオ深夜便1月20日4:05amを参考にした)。

 この様に馬が登場する言葉、熟語、教訓はとても多い。国語辞典等を参照にざっと並べてみた。
馬子にも衣装 馬車馬の様に働く 馬が合う 馬乗りになる 馬には乗ってみよ、人には添うてみよ 馬耳東風 馬を水辺に連れて行くことは出来るが水を飲ませることは出来ない じゃじゃ馬ならし 天高く馬肥ゆ 人を射るには先に馬を射よ 人間万事塞翁が馬 尻馬に乗る 生き馬の目を抜く 馬並み 馬脚を現す 馬の耳に念仏 人馬一体・・・・・・・。


7/29(火)晴れ暑い 外来 飯川病院
1:00起床、文献読みなど楽しむ。4:30収穫、撒水他。5:15可燃ゴミ収集日、7:55徒歩飯川病院着。8:45-13:00中通病院外来、14:00-18:50飯川病院、19:30バスと徒歩帰宅、夕食、21:00就眠。歩数計4180Km。DVD「オリバーストーン:米国史その6 ケネディ」見る。

新年を迎えてからもう6ヶ月も経ったのか!!(2) 馬について(1) 人馬一体
 午年を迎えてからもう半年以上経過した。早いものである。
 馬は人間にとって代表的家畜である。干支の中で午年をウマ年と読むが、馬年ではない。何でだろうか。中国から伝来した十二支を一般的に覚えやすくするために適当に動物の名前を割り振った時に、午の所に馬が割り振られたことから来ているのだそうだ。

 馬は頭がよく、飼い主の指示を理解し人と馬との間に共感も生まれる。昭和20−30年代は各戸とも農耕馬を飼っていたものである。黙々と農作業に従事する馬を大事にしていたし,馬もそれに応えていた。夕方、泥に汚れた躯を地域のため池で洗ったものだ。馬のうれしげな表情は忘れられない。私が小学に入る迄はわが家でも祖父の往診用に一頭飼育していた。優しげな目をした馬であった。

 人と馬の主従関係の確立は紀元前4000年ほど前からだったとされている。主に乗り物として用いていたらしいが、紀元前2000年ごろに馬車を疾走させることができるようになって馬が瞬く間に世界に広まり、陸上輸送の要、戦車としてとして軍隊の主力となった。また、馬耕という農法を生んだ。西ヨーロッパでは騎兵戦闘法が生まれ発達した。第一次世界大戦時が騎馬戦と銃砲戦との端境期であった。

 わが国に馬が渡来したのは弥生時代末期といわれ、平安時代には競馬が行われていた。平将門は騎馬による機動的な戦闘を行ったとされている。その際,馬は跨がる主人の指示に従っていのちを張って戦いに参加した。動物の本能として自ら受傷する可能性も自覚していただろうに、その際の行動の背景は何なのだろうか。
 飼い主は馬を大事にし,馬はそれに応えた。人馬一体となったヒトとの間に多くのエピソードが生まれている。名馬として歴史に名を残している馬も少なくない。

 江戸期の太平の時代になると、軍馬としての馬の需要は減り、一方で市民経済の発展に伴って荷馬・農耕馬に用いられるものが増えてきた。日清戦争・日露戦争以降には再度軍馬としての需要が増し、国力の維持にも重要な位置づけであった。

 太平洋戦争後の経済復興期迄ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる代表的家畜であり、ピーク時には国内で農用馬だけで150万頭が飼育されていた。平成13年の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬だと言う(ブリタニカ百科事典を参照した)。


7/28(月)晴れ 蒸し暑い 健康クリニックドック 飯川病院
1:30起床、新聞、文献収集その他。7:55徒歩飯川病院、9:00-11:30健康クリニックドック。12:00飯川病院、13:30秋田銀行スタッフ来訪。14:00-18:50飯川病院。19:15帰宅、夕食、20:45就寝。歩数計4169Km。DVD「日本・世界の異常気象」観る。

四季2014(6) 7月中だと言うのに2週間前から早朝はもう秋 私の大好きな夏は間もなく終わる。秋は嫌だ。
 ここ最近、17:00のNHKTVニュースは連日気象のニュースから始まる。関東以南のゲリラ的豪雨の話題、さらに、猛暑のニュースが並ぶのが常である。7月25日は共同通信の集計では一日1.009人で3人が死亡している。

 秋田はここ数日、日中の気温は30℃もある。しかし、2週間ほど前から早朝3-5時頃はかなり冷え始めた。私はしらじらと明けて来る早朝4:30頃にはいったん外に出る。この時間帯がとても気持ちがいい。畠の収穫と撒水、庭の植木、草木に対する撒水等を行う。

 明けてくる早朝の空は高い。もう秋に特徴的な細切れの雲が出始めた。涼風が足下を冷やし,足下の雑草の露のスリッパ履きの足が濡れる。

 通常は8月中旬、お盆の頃からであるが、今年はちょっと早い。一昨年は夏の猛暑が長引き約1ヶ月ほど延びた。昨年は7月下旬に感じた。熱中症などの問題はあるが、これからの日々は残暑が一日も長く続くことを願っている。

 マア、いろいろだが四季の移ろいには味がある。それを毎日体感出来る生活であることに喜びを感じる。嫌いだ・・と言ってても必ず秋は来る。そんなことを言っているより、毎日を楽しむ方が良い・・と納得。

 一方、植物はどうしているのだろうか?
 植物は移動する事が出来ないために四季の移ろいを敏感に感じ取って次の季節の、さらには翌年の準備を早々に開始している。要するに、植物は精密な情報収集機能を持ち、命を守るために数ヶ月以上も前から備えを怠らない、という。

 メディアは最高・最低気温、湿度などを報じているて長期予報も出しているが、住民の五感を通じた観測が取り上げられることはまず無い。

 先日、農村復興政策の指導者であり、かつて小学校の校庭に銅像があった二宮金次郎(尊徳)についての小冊子を読んだ。
 二宮金次郎は、自然観察に長けており、毎日観察日記を怠らなかった。時には土を味わい、土地に何が不足しているのかを判断して耕作・施肥を指導した。ある年に、夏に漬けたナスが秋なすの味がした事、芋の蔓の伸びが悪い事、葉の先がかれた枝が多数見られた事、などから冷夏の訪れを予想し、育ち始めたコメの苗を抜き、代わりにヒエや粟などを栽培させた。二宮の予言どおり、冷夏で凶作が続き天保の大飢饉となったが、金次郎の地域では餓死者が一人も出なかったと言う。
 五感を大事にした金次郎も人間関係の維持には五感が働かなかったらしく、「荒れ地の開拓は易しいが、荒廃した人のこころを開拓するのは難しい」と言う言葉を残している。

 私の気候に関する五感など、蓄積も無いし中てにはならない。しかし、個人的には今秋、今冬の気候についてはより厳しいのではないか、と予想をしている。


7/27(日)快晴時折激しい降雨
 1:30飯川病院にて起床。新聞チェック他。歴史勉強。文献整理他。5:30患者対応、7:00検食、9:00当直業務終了。突然降雨、9:30バスと徒歩帰宅、幸いそれほど濡れず。植木の移植はプロの手で終了、うまく生着すれば良いが。花壇・畠対応、収穫。本読み、データ整理。特にブルーレイのデータの整理とインデックス。終日雨読。雑誌類廃棄。19:00夕食、20:30就寝。Σ4155Km。DVD「オリバーストーン:米国史その4-5」観る。

「絆」、「おもてなし」などの美しい言葉の意味は変容していく
 2011年の世相を一字の漢字で表す「今年の漢字」は「絆」であった。選ばれた時点では私もとても良い選択だったと思った。

 漢字を含む日本語はとても素晴らしい言語だと思う。一つ一つ の漢字に歴史,生活があった。漢字の研究で名高い白川静氏の著書を読む度に感心してしまう。漢字一つ一つのに深遠な意味が込められている。だから,「今年の漢字」などの行事が成り立つ。

 震災後「絆」、「助け合い」などの言葉が繰り返されて強調されてきた。この言葉が空虚であったことは、大震災の記憶が忘れられかかっているぱかりか、これらの言葉が刃の様になって、「被災者の分断」と「相互敵対心」をもたらした、と言う見方もある。
 いつまでも甘えるなという被災者バッシングさえも聞かれた。勿論、助け合いには、「自助」、「共助」、「公助」がある。まず自助の考えがあってしかるべきで、その後に「共助」、「公助」であることは理屈としては分かる。しかしながら、被災地域、被災者が「自助」出来る迄の援助が体系的になされなければならない。被災者を仮設住宅に住まわせ、地域のガレキが整理されただけでは地域は再生しない。

 あれほど強調された「絆」、「助け合い」などの言葉は、あまりにも無造作に使われ過ぎて手あかにまみれてしまった。今となってみれば、「絆」という言葉をことさらに言い立てて、震災復興がドラマ化されたように感じられる。

 これらの言葉の真の意味は言う側からではなく、被災者の側からの評価がされなければならない。おそらく、良い反応はでてこないのではないか、と思う。

 2020年の東京オリンピックを迎えるにあたって「おもてなし」と言う言葉がクローズアップされ、流行語にさえなっている。
 あたかもきめ細やかな「おもてなし」のこころは日本特有の美徳のごとくに用いられているが、世界中どこでも、訪問者や旅人をもてなすのは当たり前のことだ、と思う。各国で「おもてなし」の風習、文化が違うだけだろう。

 過度に配慮された「おもてなし」は相手の心に響かない。もてなす側の自己満足であってはいけない。もてなされた側が楽しめる「おもてなし」であることが大切だろう。それができなければ、「おもてなし」とは言えない。それに、「おもてなし」の言葉は、もてなす側が強調すべきでない。「おもてなし」される側にたった方々によって評価されなければならない。
 東京オリンピックで日本においでになる方には地方の国際空港に降り立てば良いと思われる。その方が細やかな「おもてなし」がなされるのではないだろうか。


7/26(土)快晴猛暑続く 飯川病院日当直
 1:00 起床。文献・新聞チェック他、貴重な週末を楽しむ。午前、収穫当外仕事。11:30植木の移植のために園芸師来訪、12:00バスと徒歩飯川病院に。12:30翌朝まで日当直に就く。新聞記事チェック、本読み、データ整理。18:00検食、20:00就寝。歩数計積算4155Km。DVD「怪獣大戦争」観る。

捨てる2014(9) 運のよさの陰に潜んでる恐怖感
 私がいま進もうとしている道は、おそらく、いましばらく生きながらえた場合には自分をより厳しい状況に追い込む道だと思う。
 私の人生があまりにも恵まれて、安易な道ばかり選んできたから、残りのコースは相対的に厳しい状況で生きることを選択したい。相対的と言うのは過去の余力がまだあるからで、だからこれも甘い判断でしかない。それでも、私にとっては自責の念もあるから意味があるだろう。

 家族以外の誰からも存在も意識されず、必要もされない存在になる。これが私の目標の一つである。そのためには人的な交流なども含め、次々と物品を処分し、あるいは距離を開けている。間もなく、そうなるだろう。 

 自らも望んだし努力もしたが、医学部に進学出来た事で私の人生の大部分が決まってしまった。本当に運が良かったといまでも思う。ホンの、紙一重の差、ちょっとした幸運で人生の方向が決まってしまう、と思う。

 一方、医師への道に進む事が果たせずに他の職業に進んでいたら、私は果たして人生をまとうすることが出来たのか、自信がない。この自信の無さは私の弱さに由来し、劣等感と恐怖感となって常につきまとっている。

 その恐怖感の一例であるが、大学生の時からつい最近迄何度も何度も見てきた夢にも現れている。夢は大別して三つのパターンあってすべて大学に関連している。
■大学の合格電報が間違いで途方に暮れた、
■学業についていけなくて放校になった、
■教養時代の数学の点数が不足して仮卒業扱いで、今でも毎年新潟に受験にいく夢、である。

 今迄何10回、何百回と見ている夢であるが、その度ごとに真っ逆さまに暗い奈落に落ちていく。その途中で目が覚め、「ああ、夢で良かった」と安堵する。つい一月前も見た。大学に受かったことが運のよさだけであったと自認しているから、こんな夢を見るのだろう。

 もし、医師へ進めなかった場合、私はどうなっていたか?
 もうこんな仮定はあり得ないが、私が思い描くのは、やっぱり未練が捨てきれず、思い悩んで半年ぐらいで次々と道を変えていたのではないか? 何度か「やり直して」も到達出来ず、「力つきて」、結果的に「いちぱん厳しい道を選んで」しまう。そういう生き方になっていたのではないか、と思っている。
 医師として歩んだ私の道は人的にも社会的にも、最高に恵まれていた。

 このギャップが私の劣等感のもとになっている。


7/25(金)快晴熱暑 大曲中通病院外来 Alve内市役所分室 飯川病院ボランティア
 1:00 起床。文献など読む.録音データ整理。ゴミ処理他、7:40Taxi、8:10こまち、9:10から大曲中通病院外来。結構混雑。病院駅間往復徒歩。汗だくとなる。Alve内の市役所分室で私が生存中であることの証明を貰う、生命保険関連。15:00飯川病院ボランティア。文献読み、新聞チェック。19:00帰宅・夕食、20:00就寝。Σ4150Km。DVD「ゴジラvsモスラ」、「オリバーストーン:米国史その2-3」観る。米国側の視点での原爆投下、興味深い。

吉田松陰 獄中1年余で600冊超の書を読破
 最近ちょっとしたきっかけで吉田 松陰についての論評を読んだ。明治維新の精神的指導者として知ってはいたが詳しくは知らなかった。秋田にも訪れている。

 幼少時から叔父の松下村塾で指導を受け、11歳の時、藩主への御前講義が見事であったことにより、才能に注目された。西洋兵学を学ぶため九州に遊学、ついで、江戸にでて佐久間象山に師事する。無断で出かけた東北遊学では、東北の鉱山の様子等を見学、秋田では津軽・南部の長年にわたる確執と檜山騒動、相馬大作事件について調べたとされる。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

 1853年、54年には来日したペリーに接触、密航を訴えるが拒否、罪を問われて野山獄に幽閉された。2度とでられないとされる牢獄であったが、1年2ヶ月後出獄を許された。この間に読んだ本は600冊を超えたとされる。開塾した松下村塾では、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋らを教育した。 

 1858年幕府が日米修好条約を締結したことを知って老中暗殺を計画、倒幕を持ちかけて捕らえられ、野山獄に幽囚、処刑された。満29歳であった。辞世の句は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”、“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”が残されている。

 二度と出獄出来ないとされる牢獄の中でなぜこれほど勉学に勤しんだのか? 与えられた環境の中で、今出来る最高のことは何か?と考えたのであろうか?
 すべて前向きに攻めの姿勢で見れば牢獄の格子はビクともしない壁に等しいが、一歩下がって落ち着いて様子を見れば一抹の光が見えて来ると言うことか? 「思い通りに行かない時は、一歩下がって人生を見渡すと言うことの重要性」を教えてくれている様に思う。

 4人殺害した死刑囚の永山則夫も密航を二度試みている。獄中で多数の書籍を読み、自らも10数冊の書籍を書いた。永山と吉田は育った環境、思想、時代背景等は全く異なる。永山の罪は許されるはずもないが、私はこの二人の間に共通した「知を求める」意欲を感じ取る。

 今回、松蔭に関する小文で知った津軽・南部の長年にわたる確執は安土桃山時代に端を発した、とされる。岩手出身、秋田在住の私にとって無関心ではいられない史実である。調べてみたい、と思う。


7/24(木)晴れ 外来 飯川病院
1:00起床。新聞・文献等。8:00徒歩飯川病院着。8:45-13:00中通病院外来。13:15飯川病院に、14:00-18:45勤務。19:10帰宅・夕食。20:20就寝。 歩数計4141Km。DVD「オリバーストーン:米国史その1」観る。米国側の視点での世界史、興味深い。

レクイエムを聴く日々(5) チマローザのレクイエム(2) 3種の音源は楽譜が違う
 この名曲を他の演奏でも聴きたいと探していたが、本年になってたまたまカタログで同曲のCDを2種見つけ、買い求めた。CD購入は久々で昨年5月に購入した「いきものがかり」の「バラー丼」以来である。

 ■2 2002年録音のジェレミー・ロレル指揮のもの(Lidi02243-12 2CD-HM57)が昨年発売になった。演奏は「ルーブル宮音楽隊合唱団」でライブ録音。何で10年ほどたってから発売したのかは不明。当時指揮者が無名だったからか?指揮者も演奏家もソリスト達もすべて初耳の組み合わせ。演奏は刺激的な表現が随所に見られるが十分楽しめる。音質は略良好。

 ■3 もう一つは2008年録音のカーク・トレヴァー指揮カペラ・イストロポリターナの演奏(Naxos 8.572371)である。カペラ・イストロポリターナは2006年4月に秋田で聴いている。この楽団はNaxosに80枚ほど録音している。マイナーな曲迄含め安く提供している。私はCDとしての質が高いことから結構Naxos盤を好んで購入する。この盤も音質良好、演奏の表現は■1と■2の中間と言うところか。十分である。

 私はチマローザのレクイエムをムード音楽的に聴いている。それほど真面目に聴いてはいない。通勤時も家でも職場でも四六時中鳴らしている。時間的には他のレクイエムを凌駕しいる。最近、使用されている楽譜は■1-3とも違うらしいことに気づいた。細かいことは説明出来ない。

 ■1のネグリ指揮のはMP3化してiPod Schaffleを通じて通勤時、移動時に、あるいはちょっとした時間がある時にヘッドフォンで聴いている。また、自宅の居間のCDプレイヤーに半年以上もセットされたままになって時折鳴らされている。心が休まる演奏である。音質なアナログのデジ化であるがとても良い。
 ■2は自宅の書斎のCDチェンジャーの一枚目にセットし、BGM的に早朝に聴く。読書、データ処理等の邪魔にならない。
 ■3は飯川病院のCDチェンジャーの一枚目にセットし、午後の勤務帯、ボランティアの時に、あるいは土日の日当直の時にBGM的に聴いている。


 聴き飽きたわけではないがそろそろ別の曲にするか、と考えている。次の候補はケルビーニのレクイエムか?


7/23(水)曇り  外来 飯川病院ボランティア
1:00起床、3:00頃より雨となる。7:30バス飯川病院着。8:45-12:00中通病院外来、12:10-18:50院長急患付きそいで不在、飯川病院ボランティア、19:15帰宅・夕食、 20:30就眠。歩数計4132Km。DVD「世界で一番受けたい授業」観る.面白いが項目詰め込み過ぎで浅い。

レクイエムを聴く日々(4) チマローザのレクイエム(1) 4枚3種の音源
 D・チマローザ(1749年−1801年)はイタリアの作曲家。
 幼い頃に優れた楽才が僧院のオルガン奏者の目にとまり、その援助を得て11歳でナポリ音楽院の前身に入学している。作曲したオペラは約70曲、その他レクイエム、オラトリオ、オーボエ協奏曲などがあり、美しい旋律が特徴である。その中では「秘密の結婚」は彼のオペラ・ブッファの最高傑作といわれている。
 チマローザはナポリの宮廷楽師長の職についたが、政変に巻き込まれて投獄され、一時死刑の判決が下ったが友人達の尽力で釈放されたもののナポリから追放され、間もなく死亡した。

 チマローザと同年生れのゲーテは彼の音楽を賞賛している。文豪スタンダールは「私が生涯において情熱をこめて愛したのは、チマローザ、モーツアルト、シェイクスピアだけである」と述べた事でも知られる。両文豪がレクイエムを好んだのかは不明である。ロッシーニが登場するまではオペラブッファはチマローザが第一人者であったが、この時代の音楽家と同じ宿命を負って歴史の中に埋没した。

 私は30年ほど前に、レクイエム20曲を含む宗教音楽を50曲ほどを集中的に買い求めたが、その中にたまたまチマローザのレクイエムがあった。意識して購入したわけではなかったが、初めに聴いた時からこの曲に魅了された。
 そのレコードはこの曲の発見者であるV・ネグリ指揮のものである。しばらくはこの盤しか手に入らなかった事もあり、30年にわたり愛聴版であった。
 最近3枚のCDを購入した。

 ■1 1997年に発売されたCD(PHILIPS PHCP-20037)は上記ネグリのデジタルリマスター版(ADD)である。ローザンヌ室内管弦楽団の演奏、ソプラノはエリーアメリングが担当している。ネグりは指揮者としても知られるが、イ・ムジチ合奏団の録音のプロデューサーでもあった。私は70年代にビバルディの40枚セットのレコードを購入、今でも時折聴いているが、これらと同質の音であり、演奏である。最近のバロック音楽の演奏は速く、表現が刺激的でもあるが、ネグリの演奏は正統的、抑制のきいた遅めの演奏である。ADDの良さが生きており、とて艶やかな音色である。

(4枚3種の音源 レコードと右下のCDがネグリ盤) 


7/23(火)快晴 外来 飯川病院
1:30起床、この時間帯だと時間がリッチ。データ整理、本読みなど。5:15可燃ゴミ収集所に廃棄。8:00徒歩飯川病院着。8:45-12:20中通病院外来、13:00−18:30飯川病院。休宝寺経由帰宅。19:00夕食、20:30就眠。DVD「そこまで言って委員会」、「ゴジラ・デジタルリマスター版」、NHK「子どものスマホ規制」――突っ込み不足で不満な内容。

岩手県の復興費:次年度からの経費を3,5兆円と試算
 私は退職後の2年余、岩手県に対して月収の20%のほどを復興費の足しにと寄付し続けている。
 私の収入は年々減少しているが,その中から寄付をし続けるのは徐々に厳しくなって来ている。さらに、岩手県の復興の全体像,特に必要経費についての全体像が分からなかったから自分の行為がどれだけの意味があるのかも分からなかった。理解出来る資料が提示されていなかったためである。それを,最近知る事が出来た。

 6月23日の岩手日報のにその概略が掲載された。以下に提示提示する(記載内容は一部省略し,表現を変えた)。
―――――――――――――――――――――
 岩手県は東日本大震災の復興完了までの事業費(国・県、市町村分計)について、2014年度以降、20年度までの間に3兆4898億円とする試算をまとめた。自治体財政か厳しさを増して行く中、復興推進には国の財源確保か不可欠だが、国は再来年以降の予算措置について現時点で明示していない。県は試算を基に7月上旬、青森を含む被災4県として財政支援の継続を国に要望する。
 試算によると2011年度から20年度までの岩手県の復興費用総額は5兆6897億円。総額のうち国・県分は3兆9864億円。そのうち本年度以降の必要額は全体の費用の61.3%に及ぶ。

(岩手県が試算した東日本大震災の復興費用) 

 安倍首相は6月16日の衆院決算行政監視委員会で、財政支援継親を示唆した。だが、現時点では、予算の枠組みなど具体的な内容は示されていない。
 被災4県の共同要望は、岩手県から達増知事が参加して中央省庁を訪れる。
 沿岸市町村は被災により人口流出が加速し、地方交付税の配分額の大幅減が懸念される。財政環境は厳しさを増す一方で、国の財政支援が継続されなければ、復興が遠のくのは確実と思われている。
―――――――――――――――――――――
 東日本大震災後満3年余経過した。震災復興は遅々としているように感じられる。
 実際には復興にかけている費用は上記の表からも読み取れるように、年々増加し本年度がピークで約1億円に達している。次年度から徐々に減少する予定となっているが、それでも全体の経費の60%がこれからかかる費用である。

 復興費用は国・県・市町村で分担するが、県・市町村ともに財政基盤が弱まっていることからその費用の捻出は困難を伴うと予想出来る。国とて借金財政の中での負担であるから同様であろう。

 この事から私が果たして来た寄付行為等は、雄物川に向かって立ちションをする程度のものかもしれないが、無いよりは良いだろう。
 「与えたまえ,心に傷がつくほど・・」と言う誰かの名言があるようだ。寄付行為は後悔するほどの額でなければならない,と言う事であろうが、私は十分傷を負っている。それでも、今後も継続しようと思った。 


7/21(月)海の日休日 快晴・31℃ 草刈り・収穫・撒水など
 1:30起床、新聞、文献収集その他。10:00-11:30畠の雑草の草刈り。ミニカブ初収穫。強烈な日差しと気温で晴耕など無理。午後は蓄積データ整理、歴史関係本読み、レクイエムなど。20:00夕食、20:30家内横浜から帰宅、20:45就寝。歩数計4114Km。DVDでドキュメント「海底の戦艦大和」、「戦闘機:隼」、「ドイツの戦闘機:フォッケウルフ」、観る。

ありがたきかな 土に向かいて感謝のみ ほかに言うことなし
 今期、畠に初めてカブと人参を植えた。数日前からカブが穫れ始めた。
 私が畠に植た初めての根菜である。初体験であったために植え方には問題があった。適当な間隔を開けず、溝を掘ってそのなかに連続的に種をまいた。カブと人参の種は初めて見たが、1mmほどの微小な種で、こんなので発芽するかいな?と思ったほど小さい。

 10日ほどして芽が出た。種の袋には数cmになったら適当に間引きが必要と書いてあったが、私は一本一本の芽が愛おしく間引きを一切したなかった。カブと人参の苗はよくのびた。人参はまだであるが、カブは収穫の時期を迎えた。掘り起こしてみるとカブ同士が土の中で干渉しあって成長出来無かったのであろう、ミニカブになってしまった。

 今になって種まき、間引きの必要性を痛感した。ミニカブは早速漬け物にして食している。これが、なかなか美味い。ピリッとした辛味とコリコリとした歯ごたえが何とも言えない。

 私は、毎年この時期になると、カブ漬けの味が恋しくなっていた。しかし、今年迄漬ける機会が無かった。私が育った岩手の片田舎では、穀物の凶作の兆候が見えてから農家では急ぎカブを植えたものだと教えられて来た。私は子どもの頃から、カブは凶作にとても強い作物であると一目置いてきた食材である。そのために、種苗店でカブの種子を見つけた時に急に思い立って栽培したわけである。

 本日採れたカブは5-6cmと小さい。葉茎迄入れると30cmになる。種と比較すると数千倍に成長している。植物を育て上げ、食物連鎖を通じてあらゆる生物を育む土の持つ威力はすごいものだと思う。

 これほど大事なものなのに、土は大事にされているのだろうか?
 近頃は、水・空気のありがたさ、地球温暖化に関して見直されつつあるが、土への認識はまだまだ低い。
 都市圏に住む人たちにとって、土と言えば植物を育て、いのちを育てる土壌としての認識よりも、地面、地所、一坪いくらの宅地と言うイメージの方が一般的であろう。都会でも小規模な園芸は盛んであるが、その際、土は掘り起こし、耕すのではなく、園芸店から袋で買ってくるものになっている。

 人間一人の命を支えるのに750坪の土壌が必要と言う計算があるようだが、耕作に適する土地は、風、家畜の放牧、宅地化などでむしろ減少していると推定されている。そんな中、農産物も、家畜飼料や工業製品の原料に回されたり、バイオ燃料としての消費も増えている。これで人間の社会が将来的に成り立っていくのか?いささか不安になる。

 人間はあらゆるいのちの源である土をもっと大切にしていかなければならないのでは? カブのを成長見て考えさせられた。


7/20(日)快晴 飯川病院日直
2:00起床、新聞チェック・文献検討等など,いつもの如く淡々と。5:00収穫、自室の小物整理。8:30−17:20飯川病院日直。保戸野のコーヒー店に立ち寄り、そこから徒歩帰宅。文献など整理。17:00夕食、 20:00就寝。歩数計4109Km。DVD映画「ゴジラ」、「孤高のメス」観る。

捨てる2014(8) 恵まれすぎた過日の記憶を捨てたい
 いま、現役を離れて改めて振り返ってみれば、私の今迄の人生は余りにも恵まれていた、と思う。

 「他、我にあらず」で、私は他の方のことなど一切分からない。しかし、どんな人も、ある年齢やある環境になると、自分自身の人生を振り返ってみる時期が来るのだろうと思う。私もその例に漏れない。
 いまは自分史ブームだと言う。作家の立花隆氏は立教大学でシニア向け「自分史講座」を受け持っているし、歴史家の色川大吉氏は40年も前から自らの人生を振り返るためには自分史が一番と提唱している。多分そうであろう。

 私は振り返ってみれば、「助走なしでも超えられそうな低いハードルばかりを選んで」来た様な気がしてならない。勿論、その時点時点では、随分努力してきたとは思う。それでも、いまになって振り返ってみた場合、恵まれすぎていた。

 もともと私は若い時から劣等感を抱きやすい、自分でも嫌な性格であった。そのために対人的には傷をたくさん受けたが、一切を外に表すこと無く、自分の心の中にすべてを仕舞い込んで来た。私の過ぎし日をあらためて眺め返せば、「恵まれすぎていた」、「大した苦労もせずに流されてきた」、「心の葛藤をかくしてきた」人生と考えている。そのことも新たな劣等感の源になっている。

 私は終戦近くに未熟児で生まれた。とても育たないだろうと思われたらしいが、運良く開業医の家で生まれたこともあって、何とか生き延びた。幼少時から医師になる様にしむけられ、自分も疑問なくその道に向かった。
 本当に運がよく、医学部に合格できた。この運のよさが最近迄続いてきた。学生生活の資金が乏しくなった際には岩手県から奨学金を得て、バイトもせずに古本の中に埋もれていた。宮古病院、秋大病院、中通総合病院と勤務したが、先々を考えること無く目の先に在った病院を選択しただけであった。職場環境等にも恵まれた。医師会活動も有意義であった。家庭的にも特に記するほどの問題は今迄のところない。健康面でも、外傷、疾患もいくつか経験したが、すべてが運が良かった、としか言いようが無い。

 勿論、細かな問題点は無かった訳ではないが、殆ど順風満帆の半生であった。これは私の最大の弱みである。
 私には、「これについてなら人に負けない」とか「多くの艱難を乗り切ってきた」という強み、自負は一切無い。在るのはそのようか方々に対する「羨望」の念である。

 これから先は、自分自身の本来の姿だけで過ごすことになる。


7/19(土)晴れのち雨 飯川病院午前外来
 1:00起床、録音データ他整理。5:00収穫、トマトがとれ始めた。撒水。8:30バスと徒歩、飯川病院。午前外来、大学循環器医、院長ともに不在のため。三浦綾子関連のデータ聴く。17:00バスと徒歩帰宅、新聞,単行本データ入力。19:00夕食、20:00就寝。歩数計4104Km。DVDドキュメンタリー「日本人は何をめざしてきたか」、第3回「丹下健三」観る。DVD映画「千利休」観るも入れず中断した。

「患者申出療養(仮称)」(2)日医の見解は消極的賛同か
 7月5日の日医ニュースによると、横倉会長は6月13日、日本歯科医師会長、日本薬剤師会長と共に会合同記者会見を行い,「患者申出療養(仮称)」は「最低限のことは担保されている」とし、注視していく意向を示した。注視していく、と言うことは賛成と言うことだろう。

 今回、安倍総理が「患者申出療養(仮称)」を創設し,「安全性や有効性が確立すれば,最終的には国民皆保険の下,保険の適用を行っていく」と表明したことを受けて行われた。
 会長は,以下の様に語った(分かり難いために私が改変した。原文参照のこと)。
■1:患者がその治療を望んだとしても,高度かつ先進的な医療であれば,内容を理解することは非常に難しく,医師と患者の間には情報の非対称性が存在する。
■2:医療行為は本質的に不確実性を伴い,たとえ医師が十分な説明をしたとしても,患者の自己責任に委ねられることになる。
■3:患者がその治療を望み,医師が真剣に取り組んだにもかかわらず,結果として不幸な事態になってしまう場合もある。
■4:それゆえに、安全性と有効性の確保のためには,現行の評価療養と同様,プロトコルの確認等,一定水準の安全性・有効性の確認が必須になる。
■5:「患者申出療養(仮称)」については,「将来的に保険収載を目指す」とした点で最低限の担保はなされている。■6:国民の幸福の原点は健康であり,私たちの願いは必要な医療が過不足なく受けられる社会づくりに尽きる。
■7:医療に関する規制は,国民の生命と健康を守るためにある。行き過ぎた規制緩和で患者の生命と健康が危険にさらされることのない様に,注視していきたい。
■8:「患者申出療養(仮称)」に対する三師会の考えは一致している。

 上記の中で、■1−4、■7は総論的説明。
 ■5がポイントであろう。
 日医としては、「保険外併用療養費制度」と同様に、「将来的に保険収載を目指す」とした点で「最低限の担保はなされている」、としているが、私は疑問である。大差ないのであれば「患者申出療養(仮称)」の新設は不要である。今ある制度に含めてしまえば良い。新制度は「保険外併用療養費制度」より遥かにルーズな適応で、「患者申出」に対応出来なければ新設の意味が無い。

 結果的に「患者申出療養(仮称)」では対象疾患、対象治療は多岐に渡るから、その効果を検討して有用であれば「保険収載を目指す」のは無理であろう。と、言うことは混合診療そのものの容認に等しい、と思う。

■6:「・・・私たちの願いは必要な医療が過不足なく受けられる社会づくりに尽きる。」とある。日医は国民皆保険制度堅持をうたって居るし、そのためには混合診療は受入れられないとして来た。現医療保険制度はその患者の願いに十分に対応出来ていない、と言うことと、混合診療の導入を認めたことに等しい、と私は思う。
■8:歯科医師会、薬剤師会は日医に追従した様に感じられる。その真意はこの記事からは受け取ることは出来ない。

 日医は苦しいだろうと思う。「患者申出療養(仮称)」には消極的賛同に思える。何で苦しい賛同なのか?今春の診療報酬のプラス改訂と関係があるのではないか?? 私は勘ぐってしまった。


7/18(金)快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:30起床、文献・新聞チェック他。7:40Taxi、8:10こまち。8:45-12:15大曲中通病院外来。12:30飯川病院ボランティア、家内横浜に。19:10バスと徒歩帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計4097Km。DVDドキュメンタリー「日本人は何をめざしてきたか、第2回 「鶴見俊輔と思想の科学」観る。映画「二百三高地」観る。史実を学べたが、戦闘シーンの大部分は不要である。

「患者申出療養(仮称)」(1)良くわからないが日医が賛同して驚いた
 わが国では国民皆保険制度があり、保険診療と、保険で認められていない自由診療を併用する「混合診療」は禁止されている。
 
 混合診療では公的医療保険分も適用外になるために医療費の支払いは一般的に莫大になる。支払額は別にしても、「混合診療の原則禁止」は、「国民皆保険」の理念にもとづき、国民にたいして医療の平等性を保障する重要な仕組みである。

 実際には、現行下でも一定の評価がある先進医療については「保険外併用療養費制度」として混合診療が行われている。この制度は、対象の診療内容や実施医療機関を事前に決めるなど、一定のルールのもとで運用されている。更に、「保険外併用療養費制度」で安全性や有効性が確認された医療は、公的保険診療の対象に加える事になっている。

 安倍首相は3月末に、政府の規制改革会議が提案した「選択療養制度(仮称)」の導入を急ぐよう指示した。安倍政権は「成長戦略」の目玉にしたい意向である。

 「選択療養制度」とは、医師から説明された治療法に患者が同意すれば未承認の治療法や医薬品でも公的医療保険と併用出来る仕組みで、現行の「保険外併用療養費制度」の適応を緩くするものと言っていいようだ。いかに患者が希望したからと言ってそのような治療を公的保険制度の枠組みの中に認めると言う事は、わが国の医療が求めてきた医療の安全性、平等性を揺るがしかねない。
 「選択療養制度」で不測の事態が生じた際には責任は何処にあるのだろうか。患者か?勧めた医師か?実施した医療機関か?
 
 「選択療養制度(仮称)」は「混合診療の原則禁止」を揺るがすものになりかねない。公的保険と併用するとしても、自由診療分は数10から数百万円単位になりうる。国は医療費の伸びを押さえ込もうとしている現状から見て、「選択療養制度(仮称)」に組み込まれた治療や薬は、そう簡単には保険診療の対象にしないと思う。だから、医療費削減を通じて成長戦略になりうる。もちろん裕福な方々のお金を市場に引き出す効果も大きい。

 「選択療養制度(仮称)」には、日本難病・疾病団体協議会、日本医師会や健康保険組合連合会など「患者の健康に不利益」と反対を表明した。
 私はその反対は妥当なものと思っていたが、最近、検討を加えて内容を改訂し「患者申出療養制度(仮称)」と名称が変わった。

 これに日本医師会が賛同したようである。私はこの急展開に驚いた。


7/17(木)快晴 外来 飯川病院
 0:30起床。文献,新聞、録音データなど処理。5:00収穫、7:45徒歩飯川病院着。8:45-13:45外来、患者数の割には大変であった。14:00−18:45飯川病院。19:00夕食、20:00就寝。DVDドキュメンタリー「日本人は何をめざしてきたか−第1回 湯川秀樹と武谷三男」見る。日本の原子力政策の流れ、かなり参考になった。当初は全面公開が原則であったのに、完全に隠蔽体質に移行し,安全神話に走った。

ジジババ・孫論(9) 「まね」余談:私のネコは私のまねをした
 霊長類でも「まね」をしない(京都大学大学院准教授明和政子氏)なら、他の動物、例えばネコは「ネコまね」をするのだろうか??私は一匹のネコのことしか知らないが、私のネコは「まね」をした、と確信している。

 私が小学一年の秋から飼ったネコは13年間,高校卒業まで私の最愛の友であった。学校に行っている時間以外は殆ど一緒に過ごしたから、生老病死の現実を含め生き物としての一面を観察出来たし、教えてくれた恩ネコである。もう50年も前の事である。

 このネコは私が勉強している時は机の角に置いた座布団の上で過ごすのが常であった。
■三三七拍子のリズムを取った。
 ネコに短い尻尾の種類があるのか否かは知らないが、このネコははじめから10cmと短い尻尾であった.それが3−4歳の頃、犬にでも襲われたのか、先端の4cmほど骨が露出し、血まみれ状態で戻って来た。露出した骨を私はハサミで切断した。もともとの傷が痛かったのだろう、特に騒ぐ事もなかった。傷は化膿する事もなく一週間ほどで癒えた。だから,ネコの尻尾は5−6cmと短かくなった。そのためか、くるくると回す等よく動いた。
 ある日,鉛筆で机をたたいていたらそれに合わせてネコも尻尾をタンタンと動かしているのに気づいた。たたく間隔を空けてみたり,リズムを替えてみたり何度か試みたがそれに応じて反応している。3つたたくと3回、5回なら5回尻尾を振る。毎回2−3分で飽きるみたいであったが、機嫌良くまどろんでいる時は互いにこんなことをして遊んでいた。ネコの表情も満足げであった。
 何処までまね出来るのか?何度も何度も練習させたら何とか三三七拍子のリズムまで覚えてしまった。楽しい交流であった。わが家の「ネコ」まねをした。

■手を握ると握り返した。
 ネコの手は握るのにちょうどいいサイズである。ツメを出さない状態の手は形も良い。私は勉強の傍ら、机上で休んでいるネコの手をそっと握っているのが好きだった。かなり長時間握っていても嫌がらなかった。
 そのうち、私がちょっと力を入れて握ると,ネコも軽く爪を立てる様になった。熟睡している時はさすがに握り返さなかったが、私とネコのコミュニケーションの一つであった。

 九官鳥等ヒトの言葉を覚えるとされているが、どんな気持ちでやっているのか?分からない。しかし,これも広く「まね」ととらえると、ヒト以外でも物まねする動物は結構いるのではないか?と思う。


7/16(水)快晴 外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。新聞・文献チェック、歴史関連書籍他。7:50徒歩飯川病院着。8:45-13:20中通病院外来+健康クリニックドック判定。13:45飯川病院ボランティア。19日の外来依頼あり。DVD「世界の名建築100選」後半、「演芸図鑑』、ドキュメンタリー「羽田空港」見る。新聞・歴史勉強、畠に散水、トマトにカラスよけの光沢テープつける。19:00夕食、20:00就眠。

ジジババ・孫論(8) 「共感」、「共感力」の育成が育児の基本

 現代の子育て環境にはいろいろ無理がある。その中でも、特に「人間としての最大の特徴である子どもの共感力の育成」に関して、私は大きな問題があると思っている。

 共感とは何か? あまり定義しない方が良いように思うが、簡単に「他人の意見や体験、感情を共有すること。芸術作品や自然などから受ける感情も含む」,とでもしておこう。

 豊かな共感力は人に特有,とされている。一般的動物と異なる人間のユニークさは、他人の喜び・感情にも共感してしまう事だと思われる。ネガティブな共感力は動物にもあるが、危機感、恐怖感と関連した情報の共有・伝達であり、それは保身のため、命を守るためにの感情でもある。
 人間は他人の喜び、ハッピーなことに対しても共感してしまう。共感力は信頼感覚にも繋がり、人間同士を連結する重要な能力となる。他人に共感を持てなければ人間関係は全然成り立たない。

 この共感する能力をどう育てていくか。それが人間として育てる育児の中で最も重要な課題の一つである。
 ヒトは生後数日から「まね」をする、とされる。「まね」こそが共感の発達のスタート,と考えられる(京都大学大学院准教授明和政子氏)。「まね」することの大事さは「まね」を通じて学習が行われるし、共感が育っていくからである。「まね」は他人のこころに気づく過程でもある。「まね」をするから共感する。共感するから「まね」をする。

 子どもはよく笑う。最初は反射的な現象であったかもしれないが、相手の笑いの行為を通じて他人の,多くの場合は母親の、うれしい気持ちに気づいていく。成長とともに単にうれしさだけでなく、母親の表情から怒りや哀しみなどの感情にも気づく。何れは親以外の他者の存在にも気づき、親と他人との違い、も知って来る。

 「まね」から共感が生じてくる。社会性が養われていく。この段階では、子どもが安心して「まね」が出来る対象者は多いほど良い。ここでは、やはりジジババの登場である。両親と良い関係にあるジジババの表情は両親の表情そのものよりも優しい。子どもにとってオアシスだろう。ここに、ジジババにしかない価値がある。

 ところで、「猿まね」と言う言葉がある。辞書には「猿が人の動作をまねるように、人がむやみに他人の真似をすること」、と記載されているが、前述の明和政子氏は「猿やチンパンジーは人のまねはしない。誤解されている。反対に、人はしょっちゅう猿のまねをしている」と述べている。
 霊長類でも「まね」をしないなら他の動物、例えばネコは「ネコまね」をするのだろうか??私はネコのことしか知らないが、ネコは「まね」をする、と思う。


7/15(火)快晴 外来 飯川病院
1:00起床,新聞、文献読み、その他いつものごとく。5:00家庭ゴミ。収穫、8:00徒飯川病院着。8:45-13:00中通外来。13:00-18:50飯川病院。DVD「ドキュメンタリー世界の名建築100選」前半、「演芸図鑑』観る。19:10帰宅、19:30夕食、20:15就眠。歩数計4072Km。

不注意、忘れ物を防ぐ(2)忘れ物回避の工夫 番号で確認
 「老いが身の/あはれを誰に語らまし/杖を忘れて帰る夕暮れ」。
 これは僧侶、歌人である良寛(1758-1831)の句である。老いた身の辛さをしみじみと語っているが、多少の矛盾がある。それほど不自由してなかったから杖を忘れたのだろう。明日また取りに行けば良いじゃないか。良寛はユーモアたっぷりの句を詠う。だから私は好きだ。

 高齢の患者は外来受診の際、老いの哀しみ、苦しみをぐだぐだと5分も10分も話して行く。多分、愚痴る相手も居ないのだろう。私はこれも功徳の一つと、時間が許せば聞いている振りをしているが、結構忍耐力が要る。せめて、良寛の如く、俳句とか短歌に気持ちを込めて伝えて欲しい。そしたら私も一ひねりして返歌するよ。これだと10数秒で済む。余談であるがツイッターには誹謗中傷の言葉が飛び交っているが、三十一文字で表現出来ないのか,と思う。世の中とてもマイルドに,豊かになるに違いない。

 「老い」で感じる事はその立場になってみないとわからない。私は間もなく70の齢を迎えるから、衰えを日々感じている。私にとっては「こんな事も老化によるのか?へー、新発見.そうだったのか・・」と受け止めている。ここまで生きたから味わえる幸せである。「明日は何が起きるのか?」、毎日が楽しみでもある。場合によっては最期となる大事が生じるかもしれないが,それも運である。静かに受け止めよう。

 「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る。」これは作家井上 靖氏(1907-1991)の言葉である。老いの愚痴を並べられるのは煩わしい。「私のご近所においで下さい。すべて解決しますよ・・」と突き放す。私は斎場の近隣に住んでいる。

 良寛の嘆きではないが、私も物忘れが多くなった。出かける時に携行品を忘れる事もしばしであるが,最近はこれらに番号を割り当てた。No1はiPhone、2は歩数計,3はiPod shuffle付きのヘッドホン,4はiPad mini、・・.と続く。出かける前に番号をちょっと口にするだけで芋づる式に頭に浮かんでくるから便利である。これを習慣にしてから忘れ物が殆ど亡くなった。番号を割り振っていない日常的でない物品は予め玄関に,靴の側に置いておくと忘れる事はない。その際,思いついたらすぐに置いておく事である.後回しにすると忘れてしまう。

 年を取ると生活のためにいろいろ工夫も必要であるが、これを考えるのも楽しい。


7/14(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院 
 1:30飯川病院にて起床、歴史本、医学文献等など中心に読書、録音データ整理。9:00-11:00健康クリニックドック14名。患者書類処理、12:00飯川病院で文献読みなど、14:00-18:45飯川病院業務。DVD:「火垂るの墓」、あまりにも悲しい作品。「演芸図鑑」観る。19:00帰宅・夕食。20:30就眠。Σ4062Km。

捨てる2014(7) 北朝鮮はロケット弾を日本海に捨てているのではないか?
 北朝鮮は6月26日3発のロケット弾を、29日には2発の短距離弾道ミサイルを日本海に向けて発射してから、13日までロケット弾5発、ミサイル6発を発射した。
 更に本日14日はロケット弾とミサイルを一気に100発ほど発射した、と言う。

 わが国では国連安保理合意に反するとしてその度毎に抗議しているが、発射の目的は16日から韓国南四沖で始まる米韓合同訓練に対する牽制目的とみられている。北朝鮮国防委員会は12日に非難の談話を発表、「朝鮮半島情勢を緊張させる危険な火遊び」と指摘した。

 メディアによると13日の短距離弾道ミサイルも軍事境界線に近いところから発射されたが、今回はさらに韓国に近くなった。どこからでも「韓国のほぱ全域を攻撃できることを誇示」しているのだ、と報じている。

 北朝鮮は最近、急に対話路線に変更した様に見える。理由は中国との確執による孤立化、国内の食料・経済状態の破綻があるらしい。
 わが国との間では拉致問題の再調査合意されたばかりである。韓国に対しては、韓国内で見つかった小型無人機の共同調査を韓国側に提案、南北協議の開催も求めるなど対話を呼びかけた。しかし、韓国側に拒否されたために挑発を繰り返しているとみられる。

 多分、この見方は正しいのだろうが、いまどんどん物品を廃棄している私は、「北朝鮮は日本海に向けて維持困難になった短距離用のロケット弾やミサイルを廃棄している」と感じた。
 どれだけの数のミサイル、ロケット弾を所有しているか知らないが、本日100発以上も一気に発射したのは一石二鳥を狙っての廃棄処分でないのか?北朝鮮が何処に対してであっても先制攻撃を仕掛ければ国が消えてしまう可能性がある。兵器の所持は全くムダである。この辺に気付いたのなら良いのだが。飢餓、干ばつ、食糧難を武器にして対話路線に持ちこむ方が北朝鮮にとっては確実に成果が得られると思う。

 勿論、半分冗談だが発射のニュースを見てそう感じた。


7/13(日)曇り午後から降雨 飯川病院当直
 1:00 飯川病院にて起床、新聞、文献チェック。録音データ整理。9:00畠と庭見回り、収穫、草刈り。午後一時体調不良、若干休む。降雨あり、16:30車で飯川病院に。17:00当直業務。18:00検食。DVD:ピアニストの半生、「シャイン」観るも入り込めず。20:00就眠。Σ4056Km。

不注意、忘れ物を防ぐ(1)重要な「指差し・声出し確認」
 私の癖と言うか、習慣と言うべきか「指さし・声だし」確認習慣が身に付いている。
 かつては医療安全のための習慣として、さらには可能な状況ではダブルチェックもしていた。これで見落としや確認間違いが大幅に減った、と思う。

 今は日常生活で個人的に行っている。さすがに、他人がいる所では声を立てることはないが、唇を動かす程度に声を出して確認している。 指差しはその場で不自然でない程度に大げさなしぐさで行う。

 かつてのパソコン、私はすべてMacであったが、機種によっては頻回にフリーズし、作成中の文書など数ページ分も無くしてしまうことがあった。それを防ぐためには頻回に「Command+S」作業をしばければならなかった。興に乗って仕事している時には往々にして「Command+S」作業を失念してしまい、数10ページ分の作業を一瞬に失うこともあった。こんな時には頭が真っ白になり、自分もしばしフリーズした。だから、作業中は「Command+S」、「〃」としょっちゅう口に出していたものである。
 
 最近のMacは作業中にも一定時間ごとに自動的にバックアップが行われ、かつ「Time Machine」を用いていれば一日単位で、年余に渡り自動的に取られたバックアップデータに戻ることが出来る。実害は殆どなくなったが、癖になっているから、今でも、たまに「Command+S」、「〃」と口走っている。

 外来・病棟診療の記録はすべて電子化されているが、限られた時間の中での入力作業である。各患者ごとの最終的作業として「登録」ボタンを押す必要があるが、往々にして流れ作業の中でこれを失念する。こんな場合でも再入力を後回しにすることは出来ない。愕然とするが、愕然としている暇もない。ひたすら再入力作業にいそしむ。これを防ぐために「登録」、「〃」と口走り予防している。

 日常生活でも指さし「指さし・声だし」確認が癖になっている。
 特に、出かける時は「暖房・風呂・台所の火の始末」、「消灯」、「戸締まり」は重要である。靴を履きながらし「指さし・声だし」確認をする。これをしないと不確実でいつまでもうじうじと悩む。「火の始末」に関しては途中から戻って再確認したことも何度もある。
 車の運転時にも「指さし・声だし」して信号機を確認する。

 人間は、五感があるが使い様である。五感それぞれ単独ではなかなか記憶に残らない。五感を組み合わせて使っうと集中出来るし、記憶にも残る。
 私の場合、実生活にこの習慣がかなり役立っている。


7/12(土)曇り小雨、午後から快晴 草刈り 蓄積データ処置
1:15起床、新聞文献チェック他いつもの如し。録音データ大量整理。台風8号の影響は殆どなし。10:30草刈り。梅雨になってから草の伸びが早い。午睡若干、文献PDF化。Blu-ray Discに蓄積されたN響定期公演30回分の演奏曲Index作り。N響定期はいつでも呼び出しで視聴可能に。17:00夕食。20;30就眠。歩数計4052Km。

捨てる2014(6) 年賀状による交流を捨てた
 2014-15年の暮れから正月にかけて、要するに今年から、60年以上も続けてきた年賀状を出す習慣をやめた。

 私は65歳で現役を退いた。今は嘱託医師として細々と診療を続けている。私は、第一線を退いた者は、現役世代の誰に対しても、負担や迷惑もかけるべきでない,と言う考え方を持っている。だから、退職後は、診療以外は誰とも交流せずにひっそりとマイペースで生活を送っている。そんな考えで会合類には一切出席していない。

 私は現役の時には多くの方々から助けられた。その恩は忘れることはない。私の宝でもあった。これからも忘れることはないだろう。そのことは意識しながらも、退職後はすべての方と距離を置いている。一切迷惑をかけたくないからである。

 現役の頃は、年賀状はものぐさな私にとってストレスであったが、60年以上も続けてきた。それなりの意義を感じていたからである。年賀状にはハガキ代金以上の無形の力がある。最大の効能は年末に、先方の方との関係を思い出し、懐かしみながら感謝の気持ちを再確認すること、だと思う。名刺を並べてみても、交友録等の名簿を見てもこんな気持には絶対になり得ない。高齢化のいま、互いの生存確認の意味もある。

 しかしながら、割り切って考えれば無くても何ら困らない習慣である。私が賀状を用意する手間が大変であるが、裏を返せば私の賀状が先方の方に迷惑になっている可能性もある。私宛の一枚でも少ない方が楽だろう、と思う。

 現役を退いて後はいま迄蓄積してきた有形無形の、人的交流を含めて、私にとっての貴重な財産を処分し続けている。上記の理由などから今期から年賀状を介した交流も捨てる事にした。それで今期は一枚も書かず、また、200枚ほどの届いた年賀状は一切見ないまま封印した。

 多分、私の行為は非常識なのかもしれない。それを分かった上で今後もそうさせていただく。


7/11(金)午前降雨・午後晴れ 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
 1:00起床。文献読みなど。スクラップ入力。録音データ整理、7:25Taxi中通病院経由駅に。8:10こまちへ。9:00大曲外来。駅病院間もTaxi。飯川病院ボランティア。 DVD映画「失楽園」観る。私にとって新ジャンルの映画である。とても興味を感じた。他の作品にも触れてみたい。新聞他チェック。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。

ジジババ・孫論(7) 子どもの「共感力の発達」はまず母親との間から 
 家内は休日を利用して頻回に孫に会いにいく。とても良いことである。
 私は滅多に孫と会うことはないが、会う度にその発達ぶり、成長ぶりをつぶさに観察し、密かに楽しんでいる。

 人は生まれた時に出来ることと言えば、泣くことと、吸啜だけであとは何も出来ない。こんな状況で生まれてくる動物は他にはない。だから、新生児期の子育ては大変であり、しかも、成長、知的発達もゆっくりしている。人が半人前になるまでに10年以上もかかる。
 にもかかわらず、人は2-3年の短い間隔で子を産む。手がかかる子どもを抱えながら次の子を産む動物も、私が知る限りにおいて他にはない。

 それが長い間、人間で可能だったと言うことは、多人数の家族間で子育てしたから出来たことであって、母親が中心になって子育てをしている現代の育児環境は決して自然でない。そのしわ寄せは子どもに及び、ストレスは母に及び、そして父親にも及んでいく。
 核家族のでの子育ての苦労は大変で、イクメンとしての夫の協力がえられないと、夫を厳しく評価するだけでなく「もう子どもなんて生むか・・」と言うことになる。こんな状況では少子化になるのは当たり前である。この辺にもジジババ、特にババの支援が重要である。

 現代の子育て環境にはいろいろ無理がある。その中でも、特に「人間としての最大の特徴である子どもの共感力の育成」に関して、私は大きな問題があると思っている。

 新生児は周りのことから多くのことを学ぶ。毎日が学習の日々である。母の顔の認識は2ヶ月ほどからで、他の人と区別が出来る様になるらしい。コアとなる対象は多くの場合は母親であるが、私はいわゆる動物で観察されるインプリンティングに似た様な現象ではないか、と思っている。

 新生児は快適な状況では反射的に笑顔を作るとされている。1ヶ月頃から赤ちゃんが笑っているように見えたり、眠りながらふっと笑顔を見せてくれる瞬間が見られる。生理的微笑や新生児微笑ともいわれるが、この時点では、笑おうと意識して笑顔を作っているわけではない。繊細な表情を作る顔面筋が発達し始めた結果である。この笑いの表情で周囲の者が、特に母親が一層良い表情をになり、自分に優しくしてくれることを学習する。その結果、目的を持って笑顔を繰り返すようになる。

 これが最初の「共感の原始的始まり」である。

 次いで、多くの人からあやされることを通じて 、母親以外の異なる人もいると言うことの認識、母親と別の人間の存在の認識である。この時期には例え核家族であっても機会を見つけては他人との関係を経験させることに意味があるらしい。

 これが最初の「社会性の原始的始まり」である。
 次の共感の獲得は赤ちゃんのモノマネの行為である。


7/10(木)台風8号影響の降雨 外来 飯川病院ボランティア
0:30起床。新聞チェックし文献、歴史書を読む。7:15降雨にて車,飯川病院着、8:40-13:30外来。14:00−18:45飯川病院、DVD「キャビンアテンダント刑事」、出演者の深田恭子は良かったが内容はやや陳腐。次いで「遠野物語」、ドキュメント「ハンセン病」を見る。医療人の一人としていろいろ考えさせられた。 19:10夕食、20:30就眠。歩数計4040Km、

ジジババ・孫論(6) 子どもの「共感力の発達」と核家族化
 核家族とはいろんな組み合わせがあるが、簡単に言えば、ジジババと同居していない家族、あるいはジジババだけ、と言うことであるが、一般的には前者を指す。
 核家族は増加傾向にあり、全体の60%を占める。主に経済的な社会構造の変化によるが、世代間の人間関係の希薄化も背景の一つとなっている。

 核家族化の是非についてはいろんな意見があろうが、一つ、子供の成長に関して、とりわけ、「人間としての最大の特徴である共感力の育成」の面で私は問題があると思っている。だからと言って、もう多世代同居時代にはもう戻らないだろう。そうであれば、核家族下での子育はその問題点を認識してそれなりの配慮が必要である。

 人間の歴史は300万年と言われる。今は飽食の時代と言われているが、歴史の99.99%は飢餓との闘いであり、飽食出来るのは一部の先進国だけで、それもたかだかこの100年程度である。そのために過食による健康上のひずみが生じてきている。過食、肥満対策は今や喫緊の問題である。

 核家族化も同様である。わが国では核家族化の流れはまだ半世紀程度でしかない。それまでは子育て、家庭内教育などは多人数で分担して行ってきた。今は、核家族の中で両親が、あるいは父親が多忙だったりすれば、母親が一人で奮闘している。その様は状況は各所に垣間見ることが出来る。その努力には本当に頭が下がる。

 一般的に若い世代の核家族による子育ては、心理的にも、経済的にも、マンパワーの面でも余裕が乏しく、両親の間にも、子どもとの関係に於いても、過剰な緊張関係が慢性的に生じているのではないだろうか。
 
 私自身はそういう子育て環境を持ったことがないから何とも言い難いが、結果として、「家庭の育児力・教育力の低下」、「共感の乏しさ」、「人間関係の希薄化」、「非行」、「不登校」、「児童虐待」、「DV」などのキーワードで語られる問題の一因に核家族化を影響を挙げざるをえない。

 その中では、特に「人間としての最大の特徴である共感力の育成」に関して、私は大きな問題があると思っている。


7/9(水)降雨 台風8号接近中 外来 ドックデータ処理 飯川病院ボランティア
 0:30起床。文献・新聞チェックなど。撒水、7:30途中まで徒歩,降雨で途中からバス、飯川病院着。8:45-13:50中通外来+ドックデータ処理15名。14:00−18:30飯川病院ボランティア、DVDドキュメント「ゴジラの逆襲」,「ゴジラvs伊福部昭」観る。19:10徒歩+バス+Taxi利用で帰宅、夕食、20:20就眠。

歩数計4033Km、電動草刈り機購入2年 毎週活躍、刃も鋼鉄からナイロン紐に
 現役を退いてから家庭菜園、園芸にも手を広げ始めた。実際には家内の指示で私が作業している。
 野菜作り、園芸とも楽しいが、実際には楽しむ以上にメインテナンスが必要である。野菜作り、園芸ともいわゆる雑草への対策が必要である。基本は雑草が小さいうちに引き抜くのが一番であるが、時間がかかるし、私は腰が弱い。椎間板ヘルニアがあると言われている。だから、この草むしりが辛い作業であった。

 2012年7月、電動式の軽量草刈り機、山善(YAMAZEN) 製「刈る刈るボーイ SBC-280A」を購入した。いま、3シーズン目であるが実に便利に機能している。とても使い勝手が良い。

 私は草刈機は鋼鉄製の円盤状の刃(チップソー)をつけて作業するものだと思い込んでいたために恐くて二の足を踏んでいたのであるが、プラスチック製の刃もつけられることを知った事で決断した。

 購入した当初はチップソーをつけて庭の一角に繁茂していた笹竹を一掃した。これで庭が明るく、一層広くなった。笹竹を処理するのにチップソーを2枚消費した。鋼鉄製といえ意外と擦り減ったし、刃も欠けた。

 笹竹以外には難渋する様な草は生えていない。その後はプラスチック製の刃(Xカッターフィート)のみ用いた。小形の櫛のような刃でこれを回転円盤に3枚付ける。回転と共に遠心力で飛び出して草を切る。これが思った以上に良く切れて感心したが、木の幹や石に当たると刃が簡単に折れてしまう。逆に言えば、折れるから安全なのだと理解出来た。一昨年の後半と、昨年はこの刃で作業した。
 Xカッターフィートの補充を考えていたとき、ナイロン製のカッター「サメガーブレード G88」と言う製品もある事を知り、購入してみた。

 サメガーブレードはやや固い15cmほどのナイロンのヒモで、円盤に2本取り付ける。ヒモ状なだけに、石や塀、植木にかすっても双方にダメージがなく、とても便利である。

 細い笹竹程度も切れるから、今年は庭と畠の雑草はすべでサメガーブレード処理出来ている。私にとっての使い勝手は、サメガーブレード G88>>Xカッターフィート>チップソーで、もう元には戻れないと思う。

 畠のメインテナンス用に購入したのであるが、庭や家周辺、小径の草もこれで刈っている。草刈り後も雑草達の伸びるのが早い。刈り込むエリアを三分割して週末毎に順繰りに刈っている。


 冬の除雪機、夏は草刈り機、これらのお陰でわが家は,私は随分助かっている。


7/8(火)快晴 外来 飯川病院 
1:00 起床。文献など読む.蓄積データ整理。8:00徒歩、コイ、ハトに餌蒔、飯川病院。8:45-12:45中通病院午前外来。13:00-18:45飯川病院、DVDにて「そこまで言って委員会」。19:00車帰宅、収穫。夕食、20:45就寝。歩数計4025Km。

エリア「なかいち」満二年 今後どうなるか 秋田市の「エリアなかいち」が7月5日に満二年を迎えた。
 「なかいち」は衰退した中心市街地の活性化を目指して、県と市がてこ入れして作られた施設で、総事業費は約135億円、美術館を含めると総事業費約147億円、そのうち8割超が国、県、市による公費が投入された。秋田市は約56億円を負担している。

 私は近隣に類似の機能を持つ施設があることから、運用は難しいのでは、と思っていた。しかし、当初の一年間の「商業施設」と「にぎわい交流館」の来場者数は予測を上回り250万人に達し、私の予測は外れた。しかし、最初の3ヶ月こそ15-20万人/月ほどであったが、それ以降は12万人程度、最近はさらに低迷が続いている。「商業施設」の売り上げは目標に全然達していなかったという。

 私はエリア「なかいち」のオープンの頃は午後フリーであり、通勤にはこの側を通るから、いつでも立ち寄る事が出来た。今まで「商業施設」に一度、「にぎわい交流館」の展示会に数回立ち寄っただけである。その時の印象では前者は品揃えはかなり充実していると思われたが、近隣のアトリオン地下の物産販売所とどう違うのか?と思った。後者はあまり魅力を感じる企画がなく、足を踏み入れる機会は少なかった。

 その後もこのエリアの側を通って通勤しているが、「にぎわい」はなくこのエリアは「とても静か」である。
 危惧していた通り、本年1月、5月に「商業施設」のテナントが撤退した。
 市は、「巨額の公費」を投入した立場から経営に介入した。佐竹知事は「なかいち」の件は当事者ではない、とクールな発言をしているが、多額の県税を投入した以上県民に対し秋田市と同様責任があると思う。

 食料品等の買い物は生活上の日常的活動で、店の経営にはリピーターの確保が必要であるが,車で行くにはアクセスが悪いし、駐車場が機能的でない。わざわざここに買い物に行く理由が見つからない。一方、「新県立美術館」、「にぎわい交流館」、「にぎわい広場」のイベントへの参加は非日常的行動であって,「商業施設」と持ちつ持たれつの関係にはなり難い。いや,このままでは共倒れにもなり得る。日用品の販売はダメでなかろうか。

 秋田市中心部の活性化を目指して、市の一等地に,巨費を投じて造った施設である。この運営が失敗すれば、秋田市の活力高揚は望めなくなる。このエリアを活かすにはとにかくヒトを呼び込む事,そのために官民による継続的な新企画、エベントの開催,だと思う。

 今までの記載。
■エリア「なかいち」(1)部分オープン 小路は交通渋滞(2012 7 9)
■エリア「なかいち」(2) グランドオープン 行事、イベントで驚くほどの人出(2012 7 21)
■エリア「なかいち」満一年 来訪者は予想以上だったという(2013 7 9)


7/7(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院   
 0:30起床。文献処理。新聞チェック。録音データ整理。7:50徒歩飯川病院着、中通病院にて本日転院患者の紹介状作成、9:00-11:00健康クリニックドック担当。ドック診察15名、結果説明1名。医局は旧病院解体工事のために喧噪で仕事にならない.早々に飯川病院に移動。14:00-18:15勤務、録画で「世界の決定的瞬間映像」、「遠野物語」観る。19:00夕食、20:30就眠。歩数計4014Km。

ジジババ・孫論(5) 経済優先の考え方が反省期に入ったようだ
 核家族化は時代の趨勢であるが、子どもの養育の面にもたらしたネガティブな影響は小さくない。

 経済優先の社会構造は若い世代に核家族化をもたらしただけでなく、女性の職場進出も進み、両親は日中は家にいない家庭が増えて来ている。これによって、家事、育児等の家族が持つ機能のいくつかが家庭外に委託されるようになり,本来持つ家庭機能は縮小化した。

 核家族化のメリットもあるが、家庭機能は縮小は、両親、子供双方に余裕のない生活を強いる。それは、家族間の絆や情緒的結びつきを弱めるという面を持つ。この事は成長過程のこども達に大なり小なり影響を及ぼす、だろう。

 私は長女が誕生した時点から核家族化の問題を上記の様に考え、子どものために何とかしなければ、と考えていた。
 そのため、私が判断したことは、
■私ども夫婦だけでの子育ては困難、■子育ては血縁者のいる環境がベター。私どもに取って盛岡市も候補だが、家内の出身地の秋田がより相応しい。■私はかねてから「血液の臨床」を勉強したいと思っていたが、秋田で子育てと両立出来る環境を得られそうであった。■当初、家内のおばさんに通いの形で子育て、家事、食事一切を委ねた。■後におばさんとその娘二人と同居することとなった。我家の子どもも三人となり8人の大家族に。一時盛岡の父も引き取ったので9人となった。■秋田では家内の両親を核にした豊かな人間関係があった。

 この大勢の中で成長した我が家の子ども達に取って、かけがえのない経験になったはずだ、と私は思っている。勿論、目に見える変化ではないが。

 核家族化による家族機能の変化は少子化と無関係ではない。出生率の低下の原因として一番多く挙げられているのは経済的な負担であるが、育児そのものの負担の増加も大きい。私どもだけでは多分3人の子育てと仕事との両立は不可能だったと思う。

 ある調査で、「家族機能に何を求めるのか?」と言う設問に対して、53.6%の人が「心の安らぎ」と回答している。これは、人が家族を最小の社会的単位としている以上、「やすらぎ」は普遍的な要求と思われる。とくに、子どもに情緒面でより豊かな環境を与えたいと願わない親はいないはずはないが、現実にそのための選択肢は乏しいのが現実であった。

 最近、子育てに関して変化が生じてきている。女性の育児休暇の取得率の向上とイクメンの登場である。社会も変わりつつある、労働に対する考え方も変りつつある。人生観も変わってきた。
 やっと、経済効率優先から家庭のあり様についての振り返りと実践が始まった、と思う。子育ての重要性、特に子どもの情緒面での発達を大切にすると言う考え方が見直されてきた。


7/6(日)快晴暑い 入院患者・家族面談 晴耕・草刈り
 1:30起床。本読み、文献整理。7:45バス+徒歩病院、データまとめ、9:00-10:00患者家族面談。11:30バスにて帰宅。以降ずっと家の内外の整理、畠・花壇の草刈り、蓄積データ大量に整理。作業コーナー整理等。N饗定期「カルミナブラーナ」、「レクイエム等」視聴。19:00夕食。20:45就眠。 歩数計4004Km。

ジジババ・孫論(4)孫の共感の育成のためにジジババあえて乗り込む
 先月、6月14日(土)生まれた仔犬を見に家族が集まるので私も参加するか?と訪ねられた。私に世代間ギャップ、疎外感を抱かせない様に、と言う子ども達の配慮だろう。

 まあ、何であれ、孫たちが親以外の人間、ジジババと接する機会を持つこと事はとても良い事だと思っているので参加した。

 孫は可愛い。私はそれとは別の興味があって孫たちに接している。自分の子育ての最中には深く考えなかった子供の発達過程に興味を感じているからである。そのために散発的ではあるが幼児や小児の精神の発達に関連する書籍、文献も読んでいる。

 この時代、核家族の中で子どもは育てられる。この育児環境は育つ側から見ても決して良いとは思っていない。私が育った環境は他人数家庭であった。我が家の3人の子ども達も大勢の子ども達がいる環境の中で育った。私はとても良かったと思っている。

 時代柄、世の中の趨勢から、もう多人数家族には戻れないが、子どもの発達段階に於いて、特に人間関係,共感力の確立のためにとても不自然な環境だと思っている。 ジジババとしては出来るだけ頻回に接しなければならない、と考えている。

 ところで、何で核家族化が進んだのだろうか?旺盛な経済活動の結果であって、子どもは被害者だ、と思う。

 核家族化の進展は、日本が農耕文化から急速に工業化に進んだために、若い世代を中心に人口移動が生じたことがきっかけである。平成4年には全就業者の約8割が雇用者という状態に、平成2年には親族世帯のうち77,6%が核家族世帯となっている。

 このような核家族世帯の増加は、子供が狭い環境の中で、両親の価値観のみで、あるいは父親が多忙で育児に関与し難い家庭では母親中心の価値観の中だけで育つことになる。また、若い親世代がジジババ世代の受け入れを忌避する傾向もある様に思われる。

 結果的に、ジジババと子ども達が日常的にふれあうことが無くなり、ジジババの持つ、親にはない穏やかさや暖かさ、優しさなどを学ぶする機会を減少させた。それは、子供の心の中に自分のジジババを介しての高齢世代や他人に対する理解やいたわり、思いやりといった共感の感情が育つのを妨げることにもなりかねない、と私は思っている。

 そこで、休日などを利用して祖父母を訪問したり、子供と高齢者がふれあう機会を作りだしていくことなどが今後重要になるであろう。
 だから、孫達の共感力の育成のためにジジはあえて乗り込むことにした。


7/5(土)快晴 晴耕 入院患者面談
 1:00起床、各種データチェック、新聞文献PDF化。本読みほか。7:00収穫、撒水、家の周囲の草刈り。剪定した枝葉切断、袋詰め。一部償却。昼の軽食はさみ外仕事。15:00中通病院患者面談,転院準備。DVD録画「殺人偏差値70」見る。17:30帰宅。N饗定期演奏会録画視聴。19:00夕食。20;40就眠。 歩数計3996Km。

レクイエムを聴く日々(3) 最近はムード音楽として利用している 
 昭和53年6月、母が64歳で死去した。死去した直後は苦悩から解放だったのだと納得したが、半年ほど経って母の人生は一体なんだったのか,彼女のために私は何も出来なかったのでは、と悲しみが襲って来た。これ以降、しばらくの間、私自身を落ち着かせるために宗教音楽のレコードを集中的に聴いた。レウイエムは自身の鎮魂のためであった。

 私はお経の録音を聴くのも好きであるが、あまりにも直接的で,やや暗い。この点、ヨーロッパで発達した宗教音楽は時に明るく、暗く,そして力強い。聴きながら目の前には宗教画が展開する。

 昨年から再び宗教音楽のレコードを取り出して聴き始めた。今回聴き始めた理由は、まもなくゴミとして処分されるであろうレコードを今のうちに聴いてい置きたいと思ったためである。

 宗教音楽の中で集中的に聴いているのはレクイエムで、これには名曲が多い。私が持っているのは20曲くらいである。その中で聴く回数を多い順に数曲上げると、チマローザ、ケルビーニ、フォーレ,モーツァルト、ペルゴレージ、の作品である。いずれも私の心に落ち着きをもたらしてくれる名曲である。

 レクイエムは音量を上げてまじめに聴くのも良いが、そんな聴き方を私は滅多にしない。通常は、音量を絞り、サブウーファーにて低音部を強調して静かに聴く。こうすることでレクイエムは、私に安息を与えてくれる。同じ様な気持ちを私は仏像にも感じるし、宗派を問わず宗教画からも感じ取る。とは言っても、私は信心深いわけではない。

 今はレクイエムを静かなムード音楽として、ながら勉強に、子守唄がわりに聴いている。
 特にチマローザのレクイエムが良い。前者ではレコードで聴き,後者の場合は同じ音源のCDで聴く。この曲は最近まで発見者(?)のネグリ盤しか入手出来なかったが、3種の音源が入手可能となり、私に取っては嬉しい限りである。


7/4(金)曇り 大曲外来 飯川病院ボランティア
1:00起床、文献検索、新聞チェック,本読み他.4:00収穫、剪定作業若干。撒水等。7:45Taxi駅着。8:10こまち、9:45大曲外来。駅往復徒歩、15:00飯川病院ボランティア。15;30レセプトチェック。19:00帰宅。ドキュメント「こだわりの日本」見る。19:00夕食、20:30就眠。歩数計3988Km。

佐木隆三著 死刑囚永山則夫 講談社文庫 1997年(2)
 私は永山の解読力、文筆力は一般的にいわれているほどは低くなかった、と思う。
 確かに事件前に母にお金を無心する手紙はとても幼稚な表現であるが、それからだけで判断は出来ない。

 以下は読書に関する部分で、精神鑑定医に述べた内容である。著者については省略した。本当に読んだか否かは分からない。幼少の頃から、少なくとも私など足下にも及ばないほどの読書家である。
 永山本人が自分の学歴は小学校2年程度と述べている。

 小学校の頃から吉川英治の「宮本武蔵」、「石川啄木」、「ヒトラーの伝記」などを愛読した、とある。ホントか? 小学生向きに編集されたものなら分かるが。

 社会に出てからは、「氷原」、「足長おじさん」、「嵐が丘」、「若きヴェルテルの悩み」、「白痴」、「カラマーゾフの兄弟」、「罪と罰」、「西部戦線異常なし」、「アルジェの闘い」、などを読んだ。

 拘置所あるいは刑務所で読んだ思想関係の本は、「フロイドの著作」、「貧乏物語」、「哲学の貧困」、「革命と反革命」、「資本論」、「賃労働と資本」、「実践理性批判」、「純粋理性批判」、「永遠平和のために」、「共産党宣言」、「ドイツイデオロギー」、「反デューリング論」、「自然弁証法」、「家族私有財産及び国家の起源」、「空想より科学へ」、「黒い皮膚白い仮面」、「孤独な散歩者の夢想」、「テアイティトス」、「方法序説」、「哲学原理」、「社会契約論」、「告白」、「小論理学」、「政治学」、「形而上学」、「幸福論」、「誘惑者の日記」、「死に至る病」などなど。

 夜は気休めにロシア文学の、「どん底」、「桜の園」、「四号室」、「マカールの夢」を読んでいると言う。いま所持している本は哲学関係の本70冊程度と言っている。

 膨大な読書量である。確かに、「無知の涙」の中にはこれらの本からの影響と思われる部分、引用文が出てくるから読んでいた事は事実であろう。私はこれらの中の約1/3ほどを、手に取った事がある、途中まで読んで止めた、で終わっている。読み切った本は少ない。

 「死刑囚永山則夫」は殆どが裁判記録から構成されている。著者の主観は殆ど入っていない.だからこそこの本の存在価値は高い。一方、「無知の涙」は出版社の予想を超えて重版され続けた。この本で生きる希望がわいて来た、と言う読者も少なくない。その一人の女性と永山は獄中結婚している。私にとっては、死刑囚永山則夫を知る切っ掛けにはなった。そこまででしかない。
 
 両作品から得たのは永山の並外れた「自己顕示欲」が自身の人生を決めてしまった、と言う事である。それを死刑執行の瞬間まで貫き通し得た事に関してのみ、私は羨望の念を抱かざるを得ない。


7/3(木)超快晴.暑い日 外来 飯川病院 
 1:00起床、文献チェックほか、資料整理。本読み。4:30資源ゴミ用意、5:00収集所に大量に提出、庭木剪定、一部焼却、畠収穫と散水。7:05徒歩、8:00飯川病院。8:45-14:30中通病院外来、混雑し疲弊。入院患者対応2名。14:45−18:50飯川病院、レセプト対応。「日本のロボット技術」後半見る。19:30帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計3978Km。

佐木隆三著 死刑囚永山則夫 講談社文庫 1997年(1)
 永山則夫著「無知の涙」に続き、佐木隆三著「死刑囚・永山則夫」を読んだ。

 永山は1968年に4人を殺害した死刑囚である。1979年に死刑判決、1981年無期懲役、1990年に死刑が確定、1997年に死刑が執行された。永山はまともな学校教育を受けていない。獄中で独学によって識字能力を獲得し、哲学・文学書などを読みあさり、同時に執筆活動を開始した,と一般的に言われている。私は信じられない。

 彼は逮捕後に猛勉強した・・と言われているが、最初の手記「無知の涙」を出版するのに僅か2年余である。文庫本にして500ページもある大作である。死刑を意識し,自分に先がない,と分かっていた中での向学心,向上心のルーツは何だったのか? 私は旺盛な自己顕示欲だった、と思った。
 突然、私は永山に、特にその旺盛な向上心、勉学、創作活動に、興味を持った。

 永山を知るには永山以外の人物による評価が必要がある。それで、佐木隆三著「死刑囚永山則夫」を読んだ。

 本作は530ページの大作となっている。著者は事実だけを並べていて、自分の意見とかを示すことはない。本人はこれを「ノンフィクション・ノベル」と称しているようである。本作は永山則夫に関する得られた膨大な資料からなる。それらを読んで読者がどう考えるのか。全てを読む者に委ねている。
 
 生誕、幼少時の環境、集団就職、二度の密航未遂、ピストル窃取、4件の殺人事件、その他の犯罪歴、逮捕拘留後の発言・行動、取り調べへの抵抗、公判中の暴言、度重なる国選弁護人解任、裁判妨害、脅迫的言辞の数々、獄中結婚、死刑確定・・・その周辺の資料が溢れるほど提示されている。

 著作、「無知の涙」から予測した以上の、裁判自体を妨害し結審を長引かせた問題囚人であった。


7/2(水)快晴 外来 飯川病院ボランティア
 1:00起床、文献チェック,本読みほか、8:00徒歩飯川病院。中通病院病棟回診、病棟業務、8:45-13:45外来、14:00-18:30飯川病院ボランティア。ドキュメント「日本のロボット技術」前半見る。19:00帰宅.午後雲一つない快晴。剪定庭木焼却処理。19:15夕食、20:20就寝。歩数計3966Km。

うわっ アメシロが我が家の木々に発生した(2) 焼却にはガスバーナーが便利
 先月下旬、わが家の柿の木、ウメモドキの枝葉にアメリカシロヒトリの巣を見つけた。昨年あれほど苦労し,剪定・薬剤散布まで行ったのに、またである。

 昨年は後手に回った。今年は昨年の二の舞を踏まない様に早期の対策を続けていく。発見したら早期段階の駆除が一番効果的。繁殖力が旺盛だから一日も待てない。翌朝、高所用枝切りバサミを用いて巣が付いている枝葉を多数切り落とし,その日のうちにいつもお願いしている園芸業者に依頼して薬剤を散布した。

 その後は毎朝家の周辺の木々を見回り、ちょっとでもあやしい枝葉があれば予防的に切り取っている。
 切り取った枝葉には蜘蛛の巣様の糸が張られ、その中に2-3cmほどの小さな幼虫が時に数10匹いる。これらは焼くか踏みつぶしすしかない。本来なら焼却処分にしたいのであるが、たき火は禁じられている。3年ほど前に庭の隅に繁茂していた笹だけを大量に焼却処分したら翌日消防署から注意された。ご近所から通報があったらしい。

 当初は踏みつぶしていたがなかなか効果的でない。やはり焼却が一番である。初日は調理用のガス器具を外に出して焼却を試みたが調理担当者からクレームがでた。

 で、焼却用のバーナーの購入を検討した。灯油使用タイプは得られる温度も持続時間も良さそうであるが、器具が大型で操作・メインテナンスが面倒そうなので、カセットガスボンベ仕様のタイプにした。

 大量の枝葉の焼却には向いていないが、アメシロの巣と幼虫用にはほぼ十分である。

 アメシロの幼虫と言え一生懸命生きている。駆除するのは嫌であるが,放っておくと木々をダメにし、地域にまで伝播するからやむを得ない。天日に干したり踏みつぶしたりするよりは焼却の方が良かろうと納得し,毎朝追いかけている。
 


7/1(火)早朝降雨、午前から快晴 外来 
 1:30 起床。新聞、音声データ整理.書類処理、7:40雨の中バスと徒歩、飯川病院着、 8:45-13:50中通病院外来、人数の割に時間がかかり、疲弊した。14:00-19:00飯川病院。ドキュメント「サッチャー」、「日本の話芸」を見る。新聞PDF化、19:00夕食、20;15就眠。

新年を迎えてからもう6ヶ月も経ったのか!! 再び「ジャネの法則」について

 本日7月1日を迎えた。本年度の後半に至ってしまった。
 早朝はかなり雨が降っていたが、午前から快晴、夕方には雲一つない快晴となった。気分が良い後半の初日である。
 無事この日を迎えられて、私は感慨深い。

 本日の印象は、「この前、年賀状が話題になっていたが、もうあれから半年過ぎたか」である。尤も、私はこの新年から賀状を出すのとやめてしまった。
 「このごろ時間が過ぎるのが早い」と嘆くのは、われわれ高齢者の常である。人生とともに徐々に時間が過ぎるのが早くなる、と感じる。この法則は「ポール・ジャネの法則」と言われている。

 何故、私たちは年を取れば取るほど、時間の流れを早く感じるのか?
 この法則では「心理的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する』とまとめている。すなわち、同じ1年でも、70歳のいまの私が感じる時間の長さは20歳の頃に感じた時間と比べると、70分の1対20分の1で、3.5倍も短く感じられる、すなわち時間が過ぎるスピードが速い、ということ。

 脳の働きも、身体の動きも鈍くなっているのだから、時間は若い頃より、もっとゆっくり流れてもよさそうに思うが、実際は逆である。これをもっと分かりやすく川の流れと下流に向かって歩く人の速さに例えてみれば分かりやすい。川の流れは物理的時間で一定だとすると、歩くスピードが遅いと川の流れが速く感じるし、速いスピードで歩くと、川の流れが緩やかに感じられる。要するに、思考も行動も鈍くなれば時間の流れが速く感じられる、と言う事である。

 だから、年を取れば取るほど、若い頃よりも待つ事に我慢強くなるはずである。20歳の頃は、「1週間待って」と言われると随分長く感じられるが、70歳になると、20歳の頃に、「2日待って」と言われたのとほぱ等価になるはずである。しかし、それでも高齢者は待ちきれない人が多い。多分、高齢者は「ジャネの法則」で感じられる以上に性格的に短気になっていて、待ちきれない人が多くなる。だから、そう単純ではない。

 不都合な事ととしては、何か行動をおこしている時に、高齢者は有効に使える時間が少ないと言う事でもある。同じ1日24時間を丸々使うにしても、70歳になってから使える1日は、20歳頃の1日の、せいぜい半日分しか使い勝手がない。何も出来ないうちに気がついたら時間だけが空しく過ぎてしま事になる。

 だから、企業とか、社会で活動をするときには世代間の調整が必要になってくる。
 だから、高齢者は時間を有効に使わなければならない.惰眠をむさぼっている暇等ないのだ。高齢になると早朝覚醒が多くなるのは自然の摂理なのかもしれない。

■もう2月!!! 驚く時間の早さ(3) 学術的な「ジャネ(Janet)の法則」なるものもある(2009年2月4日) 。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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