徒然日記
2012年5月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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5/31(木)晴れ 外来 
1:30 起床.文献等資料チェック、7:00病院着、7:45回診など、8;40-13:30外来、予約数は少なかったが時間がかかった。16:30帰宅、最近連日向かい風で辛い。新聞処理、パソコンデータ整理など。19:00夕食、 20:20就寝

マイペースで(18)1年経過 マイペースも板に付いてきた
 退職して本日で丸一年経った。
 従来にない生活様式を求めていろいろなことを試みてきたが、大体形が出来てきた様に思える。その中で最も大きな変化は、夢にまで見た活字漬けの生活を十分に楽しんでいると言うことで、時間を惜しんで本や文献を読んでいる。
 一日の過ごし方を見ると、睡眠時間は平均1時間ほど延びたが、就寝時間が早くなり、起床時間も早くなってきた。0時半頃から1時半にかけて起き出している。日中に勤務があるので出勤準備に入る6時頃までのこの時間帯は私にとっての極楽の時間である。
 月から金曜までは8時間の業務がある。この時間帯は外来診療を中心に集中して仕事をこなしている。時間と共に徐々に入院患者が減少してきた。外来で診ている患者以外の入院患者を受けもつことは殆どなくなった。更に、大学病院から血液の専門家が外来に診療応援に来るようになり、血液疾患の患者の診療からも解放されつつある。
 8時間で処理しきれない業務は翌日朝に回し、とにかく離院して自分のための時間を確保する。この夕方からの時間と、週末の二日間は素晴らしい時間である。
 人間の歴史、宗教,芸術の勉強に充てるほか、いろいろな展示会や講演会、演奏会に立ち寄り、週に一本は映画を見る。自転車で運動も兼ねている。とにかく時間が勿体なくて無為には過ごせない。
 更に生活パターンが替わりそうである。40年近く我が家の家事を広く引き受けてくれた賄いの石井さんが高齢のために引退することになった。だから、これからは今までのごとくにはいかなくなる。これまでの安穏とした生活は今日までとする。来月から、掃除洗濯、簡単な料理なども担わなければならなくなる。もう心の準備が出来ているし、何となく面白そうだ。
 いろいろあったが、良い一年であった。明日からの2年目を楽しみに迎えたい。


5/30(水)快晴 外来 
 1:00起床。文献・本読み他、いつもの如し。7:00自転車病院着。7:20回診。8:45-14:00外来、混雑。16:30北インター経由で自転車帰宅、新聞他データの整理。19:00夕食、20:00就眠。

東日本大震災(38)東電福島原発事故国会事故調査委員会(2)全員避難
 国会事故調査委員会の調査において、絶対に無視できない重要な焦点の一つが、東電に「全面撤退」の意志があったか否かであり、撤退の意志の有無を政権にどう伝えたのか、である。

 東電会長は、当時の社長が海江田経産相に、「直接作業に関係ない人員の退避を検討したい」と伝えたものの、全面撤退は考えていないなかった、と主張している。一方、この電話を受けた海江田元経産相は「全員退避と認識した」と説明している。菅前首相は経産相から報告と相談があった、ということだから同じように解釈したのは当然である。

 この問題が重要なのは、東電の経営陣が原発事故をどのように考えていたか問われるからである。全員撤退するということは、コントロールを失いつつある原発を放擲することであり、場合によっては関東以北を廃墟にしてしまうことを意味するからである。全員撤退の選択肢を微少なりとも持っていたとするなら、東電の全国民に対する裏切り行為である。一方、不明瞭な情報のもと、政権側の思い込みだったとすれば、必要以上に東電を悪者にしていることになる。

 不思議なのは、こんな重大なことでありながら、言った言わないの論争になっている事である。海江田氏は「全員撤退と解釈した・・」と言っているが、再確認も復唱することもせずに電話を切ったのか?と思う。また、政府の中枢を担っている関係者の電話に録音機能もないのか??と思う。電話で直接対話したもう一人の枝野氏も全員退去と受け取ったと言うが、同様にこれにも証拠はない。言った言わない論争である。

 さらに、菅前首相が東電に乗り込んで行った演説の録画の音声が消えていたという。わざわざ音性抜きの操作で録画することはあるのだろうか?後に消去したのでは?と疑われるのは当然である。
 政府の原子力災害対策本部で行われた23回に及ぶ会議の議事録が一切作成されていなかったことも信じ難い。廃棄したとは考えたくないが、各会毎の議事録なしで有益な会議を積み重ねることが出来たのだろうか?
 
 上記のことを含めて、情報管理に問題があったことが強調されている。官邸に十分な情報が届かなかったことが明らかになっている。多分そうだったのだろう。ただ、情報が十分だったら彼らはどんな判断をしたのか?その能力はあったのだろうか?

 私は、こんなあやふやなやりとりする様な人たちによって原発が運営されていたのかと思うと驚いてしまう。同時に、こんな締まりがない方々によって国が運営されている事実に戦慄さえ覚えている。

 今の政治の混乱はなるべくしてなっている、と考えざるを得ないが、実に残念なことである。


5/29 (火)晴れ 外来
0:45起床、文献チェック、本読み他いつもの如く。6:55自転車病院着。回診他。8:40-13:55外来。混雑し疲弊した。16:30北インター経由で帰宅。新聞処理、夕食、20:00就眠。眠い一日であった。

東日本大震災(37)東電福島原発事故国会事故調査委員会(1)あたふた
 東電力福島第1原発事故の国会事故調査委員会は、28日まで海江田、枝野、菅氏を参考人として招致し、29日には福島県知事から聴取した。

 新聞報道の範囲からしか情報はないが、原発の炉心メルトダウンという未曽有の危機に見舞われた際の官邸の対応状況の説明を受けたとのことで報道はその一部だろう。事故時の関係者の対応の検証のために重要な意見交換である。結果は、今後の危機管理に十分に生かす必要がある。しかしながら、政権中枢と東電の主張が大きく食い違ったままで、真相はまだ尚不透明なままのようである。

 教訓を最大限引き出し共有するために、関係者は隠さず真相を明らかにすべきである。ただ、この際、関係者を個人的に糾弾することであってはならない。
 政治家や裁判官は、われわれ医療関係者と異なり、結果が誤っていても,また、それによって関係者に損害を与えても、個人的に罪に問われることはないらしいので、多分大丈夫だとは思うが。

 海江田、枝野、菅氏の説明を見ていると、重大な決断を政治家が行わなければならない立場であったことは理解できるが、彼らに原発事故に対する危機管理能力、知識があったかはなはだ疑問である。

 彼らは政治家であって、技術者にあらず、科学者にあらず、学識経験者にあらず,である。彼らは国の中枢にいるのであるが、国家的危機管理についての対応の訓練は受けていたのだろうか?疑問である。原発事故を含め、北朝鮮のミサイル問題など、国内外で突発的大事件が生じた際、上手く対応して行くだけの技量が備わっているのであろうか。少なくとも尖閣諸島沖の漁船衝突事件の際の菅政権の対中国への対応を見ていると、行き当たりばったりで,とてもそう思えない。

 今回の原発事故においては、東電の危機管理対応者にどれだけの準備、知識があり、事故のグレードに応じてどのように行動すべきか、定期的訓練やシュミレーションを行っていたのか、政治家達の決断のバックに原発事故の専門家がどれだけ関与していたのか,それが全く見えないのが一番の問題だったと思う。

 東電社長が海江田通産相に電話連絡していたというが、総論的にしか分からない同士が、結論の再確認もせずに話し合ったことが混乱の一因になっている。菅首相が過剰に介入して現場を混乱させたとされているが、責任に応じた最小限の知識さえ不足していたことが因である。

 要するに、日本の中枢は重大な事故に冷静に対応していなかったことがよく分かったが、政治家はプロではない。バックアップ機能が必要である。


5/28(月)晴れ  
 1:00起床、新聞チェック他。7:00病院着。回診他。本日は外来なし。2週間処理できなかった総括、紹介状、カルテ整理など集中的にこなす。16:30向かい風の中北インター経由で帰宅。新聞その他チェック、本読み。夕食、 20:30就眠。

記憶がダメなら記録に(3) データ蓄積の目的は検索と利用にある
 1993年以降蓄積してきた電子データは現在1.5TBほどの容量になった。
 随分巨大になったが、私がいろんな資料のデータ化を進めているのはため込むことにあるのではない。データは日常的に利用しているが、実際に利用するのは入力したデータの1%程度、あるいはそれ以下かも知れない。だから一見無駄な作業のようにも見えるが、キーワードで検索をかけることによりコンピューターは全データを対象に抽出してくれる。少なくとも私の能力の到底及ばないレベルで、確実に要求に応えてくれる。その結果を見る度に1993年以来こつこつと進めてきた地道な作業に対し自ら満足し、評価している。

 データ化のもう一つの目的は、形あるもの、重量があるものからの解放でもある。
 今まで、書籍、書類、木片、録音テープ、レコードなどなど、不要なものなどないのだ、いつか活用できるハズと、いろんなものを集めすぎたと思っている。それらの活用はとても楽しいが、ものはあれど時間がないという状況になった。とにかく身軽になるべき時期を迎えている。そのために御所野にある処理場に何度も持ち込んでいる。

 もう一つ、形がないもの、いろいろなしがらみも捨てつつあって、この一年かけてとても身軽になった。

 参考までに、単位について。
 わが国で用いている単位は10の4乗毎に、国際単位は10の3乗毎に表示が変わるから徐々にずれていく。変だが実害はない。
 漢字の単位は10の4乗毎に「万」、「億」、「兆」と変わり、その上は「京」、「垓」、「?」になる。経済活動や国家予算は億や兆レベルで身近な単位であるが、それ以上は大きすぎて現実味がなかった。しかし、時々次の単位も使われる時代になった。例えば、東電原発事故で大気中に放出された放射性物質の量は「90京」ベクレルと推計されている。これを「90万テラ」ベクレル、「900ペタ」ベクレルとも表示している。それだけ社会が巨大化、高速化、大規模化していると言うことである。

 国際規格は10の3乗毎に表示が変わる。「キロ」、「メガ」、「ギガ」、「テラ」となり、次は「ペタ」、「エクサ」、「ゼタ」、「ヨタ」となる。かつて原子爆弾の規模の表現に『メガトン爆弾」というのがあった。せいぜいこのレベルであったが、電子データは、かつて用いた一枚1.2MBのフロッピーディスクには120万バイトのデータを保存できた。1GBなら10億バイト、1TBなら1兆バイトとなる。私が1992年以降蓄積してきたデータは「テラ」の量にまでなったが、私がこのレベルまで扱うなどと言うことはかつては想像もしていなかった夢の量である。


5/27(日)快晴 病棟拘束 映画「マシンガンプリーチャー」
1:20起床、本読み、文献チェック、新聞処理、微睡みなど。7:00ー8:30畠仕事。PDF化した書籍を入れたディスク不調で初期化とデータ再構築。10:00鯉にエサ、草生津川に沿って走る。文献書籍整理廃棄。網戸サッシ調整給油など。15:30−16:30映画「マシンガンプリーチャー」。観客3人、内容は期待した以上。19:00帰宅、夕食、20:00就眠。??

記憶がダメなら記録に(2) 記憶装置は座右の共
 私は記覚えることが苦手である。「記憶がダメなら記録」である。紙ベースの資料を徐々に電子化し、蓄積してきた。

 私がパソコンを初めて購入したのは1985年頃だったが、パソコンに記憶媒体はなく、電子データを音声に変換してカセットテープにアナログ録音していた。データ量として何KB(キロバイト)あったかは分からない。実に不安定でデータをパソコンに戻す時にエラーが出てデータを頻回に失った。その後、数年間ワープロを用いた。これには FDが内蔵されており50枚分ほどのデータとなったが、これらはパソコンに移行できず廃棄した。貴重なデータもあったが、残念だった。

 1993年に購入したMacのColour Classicには160MB(メガバイト)の内蔵HDとFD装置が内蔵されていた。HDの容量が小さかったのでデータの蓄積はFDを併用した。パソコンの処理速度も遅く、外からデータを得ることも少なく自分で入力するデータが中心だった。その頃は1.2MB(メガバイト)のフロッピーディスク(FD)一枚を満杯にするのに何ヶ月もかけたものだ。

 それでも枚数が200枚を超え取り扱いが不便になったので、徐々に大きな媒体に替えていった。1.2MBのFDから100-750MBのZipへ換え、更に700MBのCD-RW、1−2GB(ギガバイト)のJazも併用した。当時日本では外付け記憶装置はMOが主流だったと思う。それを用いずに主流でなかったIomega 社のZip、Jazを用いたのはセキュリティがしっかりしていたからである。欠点はメディアが比較的高額で100MBのZipが1600円、1GBのJazが1万円であった。

 2000年以降、パソコンで新聞、文献等のスクラップを作るようになってからデータ量が一気に増えた。
 更に、一昨年秋頃からは本を丸ごと電子化しているからデータ量はうなぎ登りに増えている。まだ書棚に本が詰まっているから今後もどんどん増えるだろう。ちなみに、標準的な厚さの新書一冊が約30MBである。

 2008年に記憶媒体はすべてHDに移行し、Zipを250枚、1GBのJazは15枚廃棄した。
 思えばパソコンと記憶媒体に随分散財した。また時間もかけた。が、自分の乏しい能力を補ってくれる道具として、特に私の記憶からトウに消えてしまった過去の資料へ私を誘ってくれる貴重なガイド役である。

 私にとって、気兼ねの要らない座右の友であるが、機能を発揮しやすいように毎日メインテナンスをしなければならない。しかし、それも楽しい作業である。


5/26(土)快晴 ストーブ煙突付け替え工事
2:00起床。新聞、文献PDF化他、録音データ処理など。8:30業者によるストーブ修理、煙突付け替え。蓮の世話など。13:00外食、買い物。網戸ネコ対策。16:00カリモク展示場。追加の苗購入など18:30帰宅、夕食、20:00就眠。ポタリングの時間なし。

記憶がダメなら記録 (1) 電子データはバイトからテラバイトへ著増  
 私は記憶することが苦手である。もともとダメだったが加齢と共に一層劣化している。だから、「記憶がダメなら記録で」と割り切って来た。その方法として、日記を書き、思いついたことを文章化し、備忘録を整備し、紙資料は製本して整理するなど、いろいろ工夫してきた。

 最初は全て紙ベースであったが、パソコン導入以後は積極的に利用してきた。
 現在に至る迄、各種の電子記憶媒体を利用してきたが、今は100-750GB(ギガバイト)のハードディスク(HD)が中心となり、100GB以上のは10ヶ、それ以下のも何ヶか用いている。

 中ないし低容量のHDを複数ヶ用いている理由は、■パソコンの内蔵HD容量不足を補う、 ■必要に応じ買い足したので容量はさまざま、 ■移動時のデータ携帯、■希ならずクラッシュするので二重、三重のバックアップ用、■大容量HDは失うデータが大きく、リカバリーにも長時間かかるので嫌・・と言うこと。

 自宅や病院間移動時にもMP3録音、新聞や文献、書籍のPDFデータを適宜持ち運ぶ。どのパソコンでも同じデータを利用できるのはとても重宝である。その一方で、HDは信頼を置けない。苦々しい経験を何度もしてきた。だからバックアップをしつこく取っている。本日も160GBのHDがクラッシュしたが無事修復出来た。バックアップがあったからデータの損失はなかったが、データを戻すのに4時間ほどかかった。

 本日、320GBのハードディスクが新たに手に入った。早速、分散してあるデータの再配分を始めたが、新聞・文献・書籍のデータだけで15時間かかるので昨日職場のパソコンにセットしてきた。無事終了していることを願うだけ。

 私のHDの容量を合計すると7500GB、即ち7.5TB(テラバイト)で各HDは平均20%程度しか用いていないからデータ量としては約1-1.5TB程度となる。MP3データ、新聞、文献、書籍のPDFが大部分を占めている。私が所持しているデータを仮に1.2TBとすると、フロッピーディスク(FD)なら100万枚に相当することになり、驚いた。
 2000年にドキュメントスキャナーを用いてパソコンでスクラップを作るようになってからデータ量が一気に増えた。


5/25(金)曇り雨 大曲外来
1:00起床。新聞・文献・雑誌読みと自炊他。6:45自転車病院着、回診他。8:01こまち、8:45-15:00大曲中通病院内科外来、駅で「秋田犬の鼻くそ」なる菓子購入。16:30病院。17:20雨中濡れて帰宅。新聞・文献・雑誌読み、夕食、20:15就眠。

宗教とは何だろうか(3) 神道とは何だろうか?(2) 祭りの意義
 自転車では自動車では行けない路地や小径を走ることが出来る。走ると今迄気が付かなかったが、多数の神社が目に付く。
 神社は全国で8万ヶ所もあるというから、秋田市内の方々にみられて当然である。多くは鎮守の森とされるような森や丘を背にしている。ちょっとした丘の途中にも小さな社がひっそりと立っていることもある。その他、大木や大岩に縄がまかれ、白い短冊様の紙がひらひらと風にそよいでいる所もある。これも神を祀る信仰の姿であろう。

 神社や社はそこで祀られている神との接点の場所と考えられている。社があると便利で分かりやすいし、そこを中心に人々が集う事になり、こころ一つにして祭りを行い神様をお迎えする。それによって共同体意識が醸成されていく。
 わが国では八百万の神がいると言われているが、神とは自然であり、親族の霊でもある。だから、太陽神、風神などもある。何かの対象物を神と見なして崇めればそれでよかったらしい。
 私の子供の頃にはどこの家でも天井近い所に神棚があったものである。多分ご先祖様が神になって家を守ってくれていると、ご先祖様に対する感謝と畏怖の念を抱いていたのであろう。にもかかわらず、葬式は仏式で行われ墓には先祖代々の墓などと書かれてあって、何が何だか分からなかった。ただ、何となく神様の方が清楚で崇高なイメージであった。キリスト教やイスラム教などの一神教は一定の教祖を持っているのとは大きな違いである。

 神事の中で代表的行事が祭りである。神をお迎えして五穀豊穣への感謝の意をあらわす、農耕の時代から伝わってきた行事である。
 今の季節になると全国でいろいろな祭りが行われる。食料品のかなりの部分が輸入に頼っている現在、神に感謝する意義は薄れているが、祭りはむしろ盛んになっている。4月下旬には浅草三社祭りが行われ大変な人出で話題になった。明日から「東北六魂祭」が盛岡市で開催される。多分大変な人出になる事だろう。秋田でもほぼ一月後には土崎神明社の例祭、即ち土崎港祭りが行われる・・。

 日本人はこんなに信心深い民族だったのだろうか。近年の祭りは神を祀るという意味は著しく薄れ、楽しみと経済活動中心の行事と化している様に思える。四季のうつろいがハッキリしているわが国では、節目毎に祈願祭、感謝祭などなど何らかの行事が営まれて来たが、名目だけであっても神を祀るのは日本人の文化として良いことかもしれない。

 神社の存在とそこを中心に行われるのが祭りの本来の姿であるが、秋田の「ヤートセ祭り」、「大学祭」、「病院祭」などのように神事とまったく関係がなさそうなイベントもある。
 長い農耕文化の中でを過ごしてきた日本人には「お祭りさわぎ」を好むDNAが組み込まれているのだと割り切って考えるしかない。お祭りなど「興味がない」、「不合理だ」、「人がうんといるから嫌だ」・・と言っている私も、実は祭りのお囃しを聞くとこころが騒ぎ始める。


5/24(木)快晴 外来 
?2:00起床。いつもの如く本読み中心。7:00自転車病院着、7:30回診他。8:30-13:45外来。新入院あり対応。16:50川尻新川町の旭川と運河合流点から旭川沿いを上流に沿って添川まで走り帰宅、夕食、20:40就眠。??

宗教とは何だろうか(3)神社が随分あるが、神道とは何だろうか?
 私は昨秋、約20年乗ってきたバイクのハーレーから自転車のクロスバイクに乗り換えた。ガソリンを使わずに自分の筋力・体力を利用して走れることは大きな喜びである。
 今年も2月下旬から乗り始めている。寒いと雨天は辛く雨具を用意しているが、これからは多少の雨なら濡れながらでも走れる。

 基本は職場と自宅の往復であるが、時間をみつけて適宜遠回りして市内の各所を走っている。昨年は手当たり次第行ったことのない路地を見つけては走ってみた。その中でも老健施設・老人ホームに注目して走った。きちんと記録はとっていないが20施設以上は訪れたと思う。下手に入ると入所の予約に自分で来たのか誤解されるから外から眺めるだけにした。殆どの施設と業務上で患者のやりとりをしていたからとても親近感がわいた。感想は、一言で言えば、何でこんな寂れたところに、しかも坂の途中にあるのだ、である。もっと早く知っておけば良かった、と思っている。

 やみくもに走っても面白くないから今年は、■秋田周辺の河川、■神社・仏閣探訪、をテーマに走りたいと思う。
 若干興味あるためか、走っていると神社が目に付く。市内の方々に大小様々ある。大きいのは日吉、三吉、弥高、護国神社、などあるが、市内各所の小高い丘や山々に多数あり、赤い鳥居が目立つ。平地にもある。時には社まで行ってみる。私は信心深い方でないが、敬虔な気持ちになるから不思議である。

 私はいま人間社会の歴史について勉強中であるが、それには常に宗教問題がつきまとう。不遜な表現であるが、今のところは宗教は死にまつわる考え方の集大成、思想の一つであり、人々を束ねる文化・習慣であり、一部は集団催眠状態ではないか、と思っている。

 神仏に関連した行事に自分から積極的に行動することはないが、生活の中では適宜取り入れている。仏教について何も知らないが、宗教を問われると仏教と答えるだろう。祖父母も両親の葬儀も当たり前に仏式で行った。そう言えば、私どもの結婚式もお寺で仏式で挙げた。しかしながら、七五三は護国神社で、子供達は入信したわけでは無かろうが牧師さんの前で結婚を誓った。それに私は平然と出席・・などなど節操がない。
 宗教観に依ると言うより生活習慣だからである。


5/23(水)晴れ 外来 
1:10起床。文献チェックほか。7:00自転車病院着、回診他。8:45-13:50外来、混雑。 16:30北インター経由帰宅。一昨日から半袖、本日から短パンでにした。新聞、文献読み他。夕食、20:15就眠。??

大相撲夏場所 旭天鵬が史上最年長で優勝
 私は相撲はそれほど好きというわけではないが、嫌いではないはない。短時間で勝敗が決まるから性格的に私に合っている。幕内にモンゴル他の外国人が20人もいて、しこ名と顔が一致する力士は数人だけしかいない。誰が日本人力士なのかも調べないと分からない。旭天鵬はしこ名は知っていたが今回優勝してから初めて顔とモンゴル出身であることもしった。なかなか良い表情の方である。

 いろいろと変な話題が発生するから相撲界に関心はある。
 日本相撲協会は閉鎖的な妙な組織である。大相撲は神事と言うが神道とは何なのか、どんな関係があるのか、何で君が代を歌うのか、文科省との関係も分からない。納得し難い解決で有耶無耶になった八百長問題、若手力士の傷害致死事件、外国人力士の隆盛・・などのためである。それに、いまは納得できたが何で土俵が高いのかなども疑問であった。尤も、高くなければ土俵に上がるとは言えなくなる。
 言葉を交わし握手したことがある豪風関の成績にはちょっとだけ関心がある。

 いつもはニュースで見るのだが、今場所は最後の数番の取り組みをTVで見る機会が比較的多かった。
 初日から白鵬が敗れ、最終的に平幕の旭天鵬の優勝で終わった。6大関も看板倒れ、最後まで擾勝を争ったのは稀努の里だが終盤に崩れた。上位陣が互いに星潰しを演じているうちに、平幕の旭天鵬は下位で着実に白星を重ねていた。TVの解説者達の話題、関心事は千秋楽直前まで横綱大関陣、特に稀勢の里に関してであり、旭天鵬が話題になることは殆ど無かった。

 大関琴欧洲が干秋楽に休場、4敗で優勝の可能性を残していた3力士の優勝の可能性が消滅するなど予想外の展開もあった。優勝が絡む取り組み相手であった琴欧洲の休場の理由は分からないが、批判を浴びている。
 旭天鵬は決定戦に勝って優勝を決めた。37歳8ヶ月という最高齢の優勝とのことで立派であった。モンゴル人または出身の力士の優勝は50回目となる。2006年初場所以降日本人力士の優勝はない。これも驚きである。旭天鵬は史上10人目の通算800勝も達成した。最高位は関脇で十両陥落もある一方、敢闘賞などの表彰歴は多い、と言う。知らなかった。

 地位はどうであれ、誰であれ白星の数で優勝が決まる。そんな中で稀勢の里の優勝を前提に上位陣についてのみ話題を展開し、解説をし続けた解説者、NHKの報道姿勢は反省の要がある。
 
 豪風関は黒星が先行したが前半の相撲内容は決して悪くなかった。7−8の成績は評価すべきと思う。


5/22(火) 外来 ナンナン命日 暖房器具関連修理
0:30起床。文献他PDF化、徒然、7:00車病院、回診、8:45-13:50外来。16:15車帰宅。 居間の暖房器具、煙突他点検と修理を業者に依頼。 新聞、文献読み。19:00夕食、20:00就眠。本日はナンナン一周忌であった。

不整脈(4)患者の食習慣などを確かめずに処方・指導して来たことを反省
 一般的には薬の服用に関する指導は 、医師が処方箋に指示し、薬剤師がより具体的に服薬指導を行っている。
 医師は投薬の際、服薬回数、いつ服用するのかを処方箋に記載する。
 服薬の時期・時間についての指示内容を挙げてみると、(1)食前 、(2) 食後、(3) 食間、 (4) 空腹時、(5) ○時間ごと、(6)就寝前、 (7) 起床時服用30分座位または立位保持 、(8) 医師の指示通り、 (9)発作予兆時、発作時、発熱時、疼痛時など、 (10 ) その他に曜日指定の服用、もある。

 薬剤師の服薬指導の際には、「薬の性質や効き目などから服薬時間や食事との関係がが決められているので、量や時間を守って服用して下さい・・・」と指導する。その指導がワンパターンでマニュアル読み上げ的な印象は拭えない。患者の方でも病院でさんざん待たされて、薬局でも待たされ、やっと呼ばれた時にいつも同じセリフを聞かされるのが辛いという。薬剤師とのコンタクトは通常は秒単位と短い。その意味でも多数の処方箋を扱う病院近くの薬局よりも、居住しているに近い薬局をかかりつけにする方が良いような気がしてならない。

 私は一剤だけの服用だし、自己責任で勝手に変更しているが、服薬する患者の身になれば大変だろうと思う。5-10種類も処方されている患者、服薬時間が異なっている組み合わせがある場合など、特に高齢者は何としているのだろうか、と思う。

 食事との関連だけでも、(1)食前 、(2) 食後 、(3) 食間、 (4) 空腹時、であるが、私も処方する際に、患者の食習慣を自分で確かめながら処方したことは殆ど無かった。自分が三食摂っていないのに、患者は三食きちんと定時に摂っているという前提で処方してきた。薬物によっては夜間の薬効が減弱するようなことも生じているかも知れない。

 今回自分が服薬するようになってから、自分が発行する処方箋の服薬時間の設定について改めて反省した。診療時間の中で服薬指導に割く時間を増やさなければならないだろう。


5/21(月)晴れ 外来 
1:20起床、文献、新聞他処理。7:00自転車病院着。8:45-14:00外来、若干混雑。輸血等の対応が多く煩雑で時間がかかる。入院一名。16:15帰宅。向かい風で体力消耗。新聞スクラップ他。夕食、20:20就眠。

不整脈(4)抗不整脈剤開始 指示は食後3回服用だが8時間毎にしてみた
 抗不整脈剤として「塩酸ピルジカイニド」50mg、一日3カプセルで、食後服用とあった。私は基本的に一日1食で19:00に夕食を摂る。最近、家内が時に朝食を用意するから1.5食ほどとなっている。
 食後の指示なのであるが食事に関係なく、7時、13時、19時前後に服用した。服用開始数日から自覚的には効果が表れ、1ヶ月後の24時間心電図では不整脈はあるものの心房細動ではなくなっていた。循環器科医師からは効果ありなので継続服用の指示があった。

 継続的に服用となった時点で考えた。
 この薬物の血中濃度は服用後2時間でピークとなり持続時間はそう長くない。だから上記のような服用時間では深夜から早朝にかけて効果が減弱する事になる。それで2ヶ月目からは食事に関係なく、2時、10時、18時の8時間毎服用としてみた。私は早朝2時前には起き出して机に向かっているから特別な努力は要らない。結果的に、この服用時間に変更してから一層不整脈が減少したように感じられる。ただ、それが服用時間の変更によるかは即断は出来ない。

 ところで私が服用している薬物は添付文書上は一日3カプセル、3回分服とあり、食事との関係では特に記載がない。だから、服薬指示は自由度が広い。で、私は勝手に8時間おきにした。

 日本医薬品集という分厚い本がある。これは薬剤の添付文書を集めたものであるが、最近の医療過誤や医療事故の裁判の判決の傾向を見ていると、この医薬品集の記載に反した使い方で治療した際や治療のガイドラインから逸脱した治療を行って思わしくない結果が出た時などの判決は厳しい。そう言う立場からは常に座右に置いておくべき本である。

 私が外来で処方している一日3回分服の薬品を50品目ほど取り出してこの医薬品集で服用法の指示を集めてみた。
 以下が指示のある薬品であった。

■漢方薬は食前又は食間に3回服用、
■骨粗鬆治療薬の一部は起床時服用、30分座位または立位保持。
■一部の抗結核薬は食直前の空腹時。
■一部の抗真菌薬は食直後。
■解熱鎮痛剤として最も繁用しているアセトアミノフェンは空腹時を避ける事が望ましい。

 大部分の薬品は一日3分服とはあるが、食事との関係での記載はない。要するに処方医の服薬指示に自由度が広く認められている事である。だからこそ処方の際に服用方法を明示しなければならない、ということだろう。


5/20(日)快晴晴れ 県立博物館「看板展示会」
1:30起床、いつもの如し。本読み、文献読み、そのほか。11:00ー13:30県立美術館「看板展示会」、小泉潟周辺。17:30家内帰宅。庭木のケアなど。文献整理など。20:00夕食、21:00就眠。

不整脈(3)服薬開始まで
 この徒然の見出しとして自分自身の不整脈について記載したのは2004年6月であったが、その中に不整脈は数年前から、と記述してある。だから、ちょうど2000年頃からだったと記憶している。当初は寝不足と心的ストレスと不整脈の発症はよく相関していたが、徐々に不整脈の頻度が増えて関連がはっきりしなくなった。

 ただ、就眠時に不整脈が生じていることは多く、満腹で誘発されたと考えている。しかしながら、年2回の健康診断の心電図に異常なかったので精査も受けずしばらくそのままにしていた。

 07年8月に全身麻酔を受ける機会があり、私自身は不整脈をそれほど気にしていたわけではないが、麻酔医や執刀医に迷惑をかけることにもなり得ると考え、術前検査に24時間心電図を加えてみた。この時に、不整脈の病態が分かるかと期待したが、上室性の不整脈が24時間で僅か3発のみで空振りに終わった。その後も徐々に頻度が増加した。それでも、上室性ならそれほど心配すべきでなく、不整脈を感じて不快なうちは心臓が動いているから安心なのだ、と思っていた。

 1988年以降、年2回の健康診断の記録はパソコンに入力しているが、それによると心電図異常が初めて出たのは2008年8月で上室性期外収縮であった。その後も不整脈は続いていたが検診上では異常なく、11年2月、9月に2度続けて上室性期外収縮であった。
 12年2月、今春に初めて心房細動が記録された。

 自分の理解では、心房細動は上室性不整脈と異なり高頻度に脳塞栓症の原因になり得るから軽視すべきでない病態である。私も抗不整脈剤や抗凝固剤服用すべき時が来たのだろうと観念し、心臓超音波検査、24時間心電計のデータを持って3月末に循環器内科を受診した。夜間中心に心房細動発作が生じて持続している、と言うことであった。
 カテーテルによる焼却療法もないわけではないが、まず抗不整脈剤を服用することになった。処方には一般名では「塩酸ピルジカイニド」50mg、3カプセルで、一日3回食後服用とあった。


5/19(土)快晴 菜園仕事 飯川病院日直 予備テューブと携帯ポンプ初使用
?1:10 起床。文献読みと新聞電子化、録音データ整理、徒然。9:40−11:00家庭菜園に支柱立て、苗5本購入し補充、12:30自転車飯川病院着.日直。17:00自転車パンクしておりこれで10回目、前輪として3回目、病院ロビーでテューブ交換。18:00帰宅、家内盛岡で誰もおらず、花壇、畠に水撒き、本読み、パンク修理など。20:00近所で外食、21:00就眠。

映画(46)『シテール島への船出』 名匠アンゲロプロスの作品は2本でギブアップ
 5月13日に観た作品で、監督はテオ・アンゲロプロス、1983年の作。
 テオ・アンゲロプロスはギリシャの映画監督。場面の長回し、曇天下での撮影などで独自のスタイルを確立している。 本年1月24日バイクにはねられ死亡した。私もバイク愛好者の一人であったので複雑な気持ちである。

 行きつけのシアタープレイタウンでは「追悼特集 テオ・アンゲロプロス作品集」と称して一日に二本づつ、3週にわたり6作を上演している。それの第二週目で「エレニの旅」とカップリングで上演されていた。私は選択する知識もなかったから「 シテール島への船出」を選んだ。

 32年前ソ連に亡命した男が村に帰ってくる。そこで繰り広げられるやりとり、流石に長年留守にしただけに住民や家族とのトラブルが生じる。現地の警察は出航するソ連の船で国外退去させようとするが本人が同意せず失敗。現地の警察は処置に困って港の国際水域の艀に彼を置き去りにする。翌朝、老妻は彼と行動を共にする決心をして艀に送ってもらう。二人は自ら艀を固定していた舫い綱を解き、沖に向かって流されていく。
 雨の中、遠く、小さくなっていく二人を映像は長く映し出す。二人はギリシャで愛の島とされる美しいシテール島に着けるのであろうか? いや、現実は厳しい。老夫婦は厳しい自然の中で静かに艀の上で死を迎えることになるだろう。

 この映画には、亡命先から帰郷した老人にとって祖国ならず郷里も冷たく、微かな希望すら打ち砕かれる厳しい現実が描かれ、高齢者の空しさ、やるせなさが充満している。老夫婦は静にこの世から消え去る道を選ぶ。希望を失った老人の空しさ、寂しい末期などなど、監督が言わんとしたであろうメッセージを十分に感じ取ることが出来た。

 名匠アンゲロプロスの作品を2本観た。画面は雨や嵐の情景が多く、くすんだセピアカラーの場面が多かった。画像としては十分に美しかった。ただ、映像のテンポがとてもゆったりしていて私に全く合致せず、見続けるには辛かった。シリーズとして次週は「旅芸人の記録」「こうのとり、たちずさんで」が上映される。前者が約4時間、後者が2.5時間と長い。興味はあるのだが、残念ながら私には監督の設定するテンポに合わせて費やす時間的余裕は、ない。
 名匠アンゲロプロスの作品は一週前に観た「永遠と一日」と今回の2本でギブアップさせてもらうこととした。


5/18(金)曇り・小雨 大曲外来
1:30起床。文献検討、徒然。新聞チェック。自転車9回目、前輪として2回目のパンク。7:05車病院着。回診他。8:01こまち大曲に。8:45-15:00大曲中通病院外来。16:30病院着,17:30帰宅。居間掃除他、新聞など。夕食、20:30就眠。

なんか変だが,まあいいか(7)せっかく無理して寄付しているのに!!! 
? 今春の確定申告では、追加納税金が44万円となり既に納入した。
 今回は退職後の半年分を含むから収入は大幅に減少した。さらに全月収の20%以上を岩手県に寄付しているから若干は還付されるものと期待していた。しかし、実際には従来よりは少ないものの追加納税が必要となり、現実は厳しい、と若干落胆していた。

 4月下旬、北税務署から自己申告に間違いがありそうだとの連絡があり、修正に出かけた。私が岩手県に寄付している分の計算に誤りがあったと言うことで、その場で計算しなおしたところ追加分はそっくり不要となった。私の気持ちは一気に明るくなった。一昨日、修正申告の正式決定が来た。

 自治体への寄付は還付が手厚い。大震災の特例もあって適用下限額の2千円を引いた残りが丸々戻ってくるケースもあるらしい。また、所得税では認定NPOの場合は40%も戻る。以前からの所得控除方式と比べ、寄付した大半の人に還付額が増えた。 私の場合もこれに相当した。

 要するに、寄付額の半分近くが国や自治体から戻ってくる、と言うこと。だから、篤志家の実質的負担は寄付額の半分程度ということになる。例えば、私が岩手県に寄付したお金は半分が私に戻り、その分を県民や国民が税金を介して付き合ってくれる、と言うことである。要するに個人の寄付が、国民全体の寄付行為行為にもなっている、と言うこと。

 実に素晴らしいことである。が、以下の3点に関して、ちょっと待て、である。

 (1)私は収入が著減したが、その中から20%の寄付をし続けることはとても辛い。毎月振り込む度に迷いを生じるが、「傷つくほどだからこそ、意義があるのだ」、と自分に言い聞かせて継続して来た。私の寄付金はそっくり役に立つだろうと信じてきた。寄付行為には厚い還付がある、とあらかじめ知っていれば若干気が楽だったのであるが、それを知ったのはつい4月下旬のことで、あの葛藤は何だったのか?

 (2) 東日本大震災も風化しつつある。義援金や寄付金も減少の一途だという。私の寄付行為を国民全体でバックアップしてくれていると考えると、とても意義があること、と思う。

 (3) 国や自治体の財政状態はそれほど良くないが、私の寄付金の約半分にあたる額が自動的に支出されることになる。このことを通じて財政の悪化に繋がらないのだろうか。

 結論:疑問はあるが、今回予想外の還付を受けた。還付された額を分割して毎月の寄付金に上乗せして今後も寄付を続けることにする。


5/17(木)快晴 外来 
1:30起床、文献読み、新聞チェック他。6:55自転車病院着.7:40回診・関連書類他。8:45-14:00外来、混雑、疲弊。16:30北インター経由帰宅、本読み他、夕食、20:15就眠。??

映画(45)「テルマエ・ロマエ」 男の尻、爺さん方のたるんだ裸をふんだんに見た
  注:この先に映画の核心に触れる記述があります
 「テルマエ・ロマエ」は、ヤマザキマリ作の人気マンガ作品。 題名は、ラテン語で「ローマの浴場」の意味。単行本は4巻まで刊行されている。わが家でも愛読している。

? 主人公であるローマの浴場設計技師が、古代ローマの浴場と現代日本の浴場の間をワープするという場面展開で、入浴に関して両国の文化の差が対比されてとても面白い。絵も比較的丁寧に描かれ、とても読みやすい。
 これが映画になったとのこと。

 一月ほど前の朝日新聞に、全紙大で4面を用いた広告が掲載され、何だ!!! と圧倒されたが、アレがこの映画の宣伝だったらしい。広告費に何億かけたのだろうか。マンガの発想が面白いだけに映画でどのように扱われているかに興味を抱き、また、先に見た人からの推薦もあってGWにトーホーシネマに観に行った。秋田市の映画館でシアタープレイタウン以外で映画を観たのは初めてである。会場、映画館,観客数についても、秋田にもこんなに賑わう所があったのか、と驚いた。

 主演は阿部寛と上戸彩と言う俳優が演じていたが、両者とも初めて聞居た名前であり、初めて見た俳優である。前者はローマ人としてそれほど不自然でない容姿や表情・演技を展開していた。日本の風呂文化に接する度に見せる驚きの表情がとても良かった。後者は「平たい顔の民族」の娘として可憐に演じていた。山口百恵に似た雰囲気の女優である。古代ローマの広大なセットは壮大であったが、他の作品で用いられたセットを用いた、とのことであった。
 娯楽映画であったがその割りにはスケールが大きかった。戦闘の場面も多数の兵士役、それもかなり外国人が登場していたと思う。良く集めたものである。

 日本の銭湯、家庭風呂、温泉地へ主人公がワープしてくる度毎に、日本の風呂文化をローマに持ち込み目新しい試みと絶賛されるというのが主たる筋であるが,最後は戦闘に疲れ果てて士気が衰えた自国の兵隊達に薬効のある露天風呂を提供し、それによって結果的に国を救う事になる,言う展開で終わる。

 筋書きはともかくとして、各場面の構成が面白い。
 ローマの大浴場の場面では男の裸がすごい。ローマの男達は若者中心、日本の銭湯、温泉地では「平たい顔の民族」の老人達が中心になって登場してくる。殆ど裸のシーンである。だから、男の尻を数百ヶ見ることができた。

 映画化されると本来の味が変わってしまうことも多いとされているが、良くできていると思う。風呂好き、歴史好き、男の尻好きの方にはお勧めである。


5/16(水)小雨  外来 
?0:50起床。随想読み、新聞処理。徒然。7:40自転車病院着。小雨で濡れた。7:20回診、書類他。8:45-14:00外来、16:00帰宅、向かい風。風呂掃除、ネコ世話、文献読み他。夕食、22:15就寝。

エドヴァルド・ムンクが嘆いている  名作「叫び」が約96億円で落札 
 エドヴァルド・ムンク(1863−1944年)はノルウエーの国民的な画家である。特に「叫び」はムンクの作品の名家ではもっともよく知られている。ゴッホの作品と共に心の異常を形で見れるようなので私も好きである。題名は「叫び」であるが、次々と妄想の如く聞こえて来る「叫び」を「やめてくれ、聞きたくない!!!」と言っているのだという。

 「叫び」は4点制作され、ムンク美術館に2点、オスロ国立美術館に1点、個人所蔵が1点とのことであった。このうちオスロ国立美術館所蔵の作品は1994年、2004年の2回盗難にあって心配されたが、2回とも無事発見されている。そんなことでも話題になっていたことを思い出す。

 つい先日、5月2日、個人所有であった1点が競売にかけられ、約96億円で落札されたと言うニュースが新聞紙上を飾った。絵画の競売落札価格としては史上最高額だと言う。

 私は絵画を観るのが好きで展示会あると出かけていくが、99%画集で楽しんでいる。ルーヴルやオルセーを始めとする美術館でモナリザ、レンブラントの作品、ミレーの作品などの実物も見たが、時間の割りに見たい作品がありすぎてせいぜい5分くらいであった。
 図鑑で慣れ親しんできたこれらの作品に対して「実物を見た」という感動しかない。実物のサイズを見たことは大きな意味があった。私にとっては一瞬しか見ることの出来ない本物よりじっくり観ることの出来る偽物の方が価値がある。ただ図鑑ではサイズが分からないから臨場感を感じ取ることが出来ない。ナポレオンの皇帝就任の式典の様子を描いた絵は展示室の壁一面のサイズで圧倒されたが、図鑑ではその迫力を知ることが出来ない。

 「叫び」などの作品はムンク作であると同時に「人間の遺産」なのだ、と思う。それらがオークションで高額の値段立ついて取引されることの意味がよく分からない。値段で価値をあらわすことは分かりやすいが、純粋な価値ではない。実際はそんなレベルでは論じられない欲望が絡んでいるのだろう。

 さて、「叫び」であるが、オークションでやりとりされる声を、やせたムンクが「やめてくれ、聞きたくない!!!・・・」と言っているように思えてならない。あのデフォルメされた空、橋などの背景は人間社会のどろどろした欲望を表していると考えるのは飛躍だろうか。


5/15(火)終日小雨  外来  
?1:30起床,文献チェック、随想読みほか.7;00車病院着。7;30回診。 8:45-13:20外来。16:30帰宅、プリウス本年2回目給油、走行距離僅か14.5Km/L。新聞、本読み。夕食、20;15就眠。??

転倒(5) 大相撲の土俵は何故高いのか 実は安全のためなのだ
 一昨日、私は激しく転倒したが運良く命拾いした。もし宅地と畑の間に段差がなかったら私は大ケガをしたと思う。
 折しも、いま大相撲の本場所が行われている。土俵が審判席から見て何で50cmほど高くなっているのか、今迄疑問であったが今回の転倒でやっと理解出来た。力士の安全のためなのだ。
 
 今迄は、あんなに高いと力士が転げ落ちたら身体を強打して危ないと思っていた。今回の転倒で段差の意味が分かった。土俵外に落下するまでに受け身の体勢をとることができるからなのだろう。
 加えて、土俵下の床面は硬い構造ではなかろう。何らかのクッション的役割をするソフトなシートなどを敷いていると思う。野球の場合はフェンスに選手が激突した際にのことを考えて軟らかなシートを貼り付けて安全を確保している。大相撲も力士の安全確保はなされていると思う。或いは、力士の厚い皮下脂肪にクッション作用を期待しているのだろうか?まさか!!!である。

 実際に力士がもつれ合いながら倒れこんでいく場面は少なくないが、力士は何とか立ち上がり、土俵上に戻る。彼らは素人ではなく、鍛えに鍛えた身体だし、稽古を通じて怪我をしない転び方についても習熟しているからだろう。それに、土俵下で座している審判員、近くの観客も、時にはクッション替わりになりうる。

 各部屋の稽古用の土俵は平土間である。その方が効率的に稽古が出来る。なのに何で本場所の土俵を高くしているのだろうか。
 理由を私なりに考えてみた。

■ 稽古場での稽古と本場所の勝負とは別次元のものである
■ 闘う力士にとっても高い土俵は舞台と同じでやりやすい
■ 土俵際の勝負にもつれ込んだ場合に一層の力が発揮できる
■ 観客にとっても力士がよく見えるし、勝負を観戦しやすい
■ 審判員にとってもよく見えるから判定しやすい
■ 平坦であればモロに身体を打つが、段差があれば落下するまでに受け身の体勢をとることができる。

 などなど挙げたがもっとあるかもしれない。
 今回、自分の転倒を機会に土俵の段差の意義について考えてみた。


5/14 (月) 快晴 67歳初日
1:00起床。文献検討。徒然、7:40自転車病院着。書類作成など。病棟対応、17:00北インター経由帰宅、賄いの石井さん休暇、関東に。18:30夕食、 21:00就眠。

67回目の感謝の日? 5月14日は67回目の 5月14日は67回目の感謝の日
 昨年、この日はまだ第一線にいた。とはいえ僅か2週間だけであったが・・・。

 だから、今年のこの感謝の日はまるまる自由な立場として迎える初めての記念日である。尤も、嘱託医として細い糸で病院とつながっているが、業務が徐々に縮小傾向にあり糸も細くなってきている。

 横浜の娘から白の薔薇が送られてきた。息子はいつか温泉をプレゼントするという。 数人から祝いのメールがあった。昨晩は一応お祝いの寿司をとった。

 今日からは家内とひっそりと一汁一菜の夕食である。私は今、何ら背伸びする必要もなく、自分の性格に最も相応しいと思われる生活パターンで過ごしている。
 そのコンセプトは、■過去・しがらみから離れ、自由に、ホンネで生きる。■やりたいことをやる。■やりたくないことはやらない。■移動機能維持する、■死に支度、かな。だから、忙しい。寝る時間も惜しい。

 社会的に引退すべき年齢だし、医師の能力としても問題があるだろう。自分でそう思う。ただ、私的にはまだそう捨てたものでない。知識欲、興味、活力はまだあると思う。現状では、殆どの時間を活字を追って過ごしている。これこそ望みの一部であった。いつまで続くか分からないが、これからの日々は更に楽しみである。

 67回目の感謝の日を無事迎えられてとてもうれしい。特に今年は私の再出発の年になる。
 多くの、お世話になった方々に、心から感謝いたします。


5/13(日)晴れ 映画「シテール島への船出」 右後頚部通あり
1:30起床、文献新聞チェック。録音データ整理。10:00北海道七飯町から来客、歓談。14:30自転車鯉に餌撒き、15:00-17:30 映画「シテール島への船出」。これもよく分からなかった。18:00帰宅、畑に水撒き、新聞文献整理など。19:30夕食、20:00就眠。

転倒(4) 約50cmの段差があったから無傷で済んだ
 本日は快晴だったので夕方裏の畑に先日植えた苗に水撒きをしようとした。

 畑は近所の方から借用しているが、わが家の敷地に1.5mほどの小径を介して隣接しているから何かと便利である。水撒きも庭のホースを伸ばせば十分届く。敷地と小径には50cmほどの段差があり、ブロックで土止めしてある、ブロックは10cmほどが露出している。

 ホースを畑まで引き、水道の蛇口をひねりに戻り、その段差の所に来たとき、ホースに足を取られて足がもつれ前の方につんのめった。ちょうど境目で下半身が敷地内に、上半身が段差の向こう側にあった。ブロックに腹部を打ちそう、一瞬「大ごとになる!! 」と思ったが、無意識のうちに強く足で前方に蹴り出したらしく段差の下の小径に転げ落ちた。しかも、うまく身体を丸めたらしく半回転して背中から落ちた。殆ど痛みを感じるところはなかった。小径は草ぼうぼうで、幸い石なども転がっていなかったことも幸いした。

 一応、文章にすればこんな状態であったが、ホントに一瞬で何が何だか分からない経過であった。
 普通に立ち上がることが出来、どこも何ともなかったから、予定通りに苗に水撒きした。家に戻りスポーツウエアを脱いでみたところ背が草で汚れ、左膝に1cmほどの擦過傷があり若干血がにじんでいた。それだけで済んだ。幸運であった。

 第一の要因は、歩きなれたところでの私の不注意である。長さに余裕があったホースを弛ませていたから足を引っかけた。さらに、両方の足に1Kgのアンクルウエイトをつけていたことも倒れかかった因の一つである。これは運動不足を補うために数年前から利用しているので身体の一部のようなものであるが、階段を下りる時などには足の微妙な動きを妨げる。これが足の動きを若干阻害した、と思う。

 もし段差がなかったら、小径に草が生えていなかったら、石でも転がっていたら、多分、顔面を地面に、胸部または腹部をブロックに強打していたかも知れない。背中も打撲したかも知れない。そう考えるとぞっとするが、大きな幸運を一人喜んだ。家族にはなかなか言えない小事件である。

 折しも、いま大相撲の本場所が行われている。時にTVで見るが土俵が何で50cmほど高くなっているのか、やっと理解出来た。


5/12(土)小雨 ハスの白光蓮植え付け 飯川病院日直 
1:30起床。読書、文献処理一部廃棄、録音データ整理。10:00陶芸家・ハス栽培家の倉田氏来訪大型ハス「白光蓮」植え付け、自転車パンク修理他。12:20-17:00飯川病院日直、17:30帰宅。文献読み。19:00夕食、20:30就寝。

筆記用具(5)鉛筆(5)最近「B」「H」「HB」「F」の語源を知った
 私にとって日常的に頻用している小道具と言えば大工道具と文房具である。

 文書書きにもっとも利用しているのは公私共にコンピューターであるが、文房具とは到底思えない。
 文房具にもいろいろあるが、代表は筆記用具で、自宅、病院の机上あるいは引き出しには、万年筆、鉛筆、シャープペンシル、毛筆、サインペン、マジックインクなどがある。私は鉛筆も用いるので消しゴムも含めよう。手を伸ばせば届く範囲にこれだけの用具があってそれぞれを使い分けている。インクをつけて用いる使い捨ての金属ペン、ガラス製のペンは何という名前か分からないが、短期間使っただけで、所持してもいない。

 使用頻度から見れば、ボールペン>万年筆>毛筆>鉛筆>>その他、となる。愛着から言えば、万年筆>毛筆>鉛筆>ポールペン>>その他、である。その他に分類されるのは シャープペンシル、マジックペンなどであるが、滅多に使うことはない。

 鉛筆は今後どうなるのであろうか。安価だし、消すことが出来るのは鉛筆の優れた点だから、よもや鉛筆自体が消えることはないだろう。多田、現実は厳しいようである。日本鉛筆工業協同組合によると国内生産量は1966年の13億8千万本をピークに2007年には3億千300万本と1/4まで減少した。この背景には少子化があると考えられているが子供の数の減り具合より鉛筆の減少率が大きい。学生の大部分は鉛筆でなくシャープペンシルを用いているのだそうだ。
 小学校低学年には適正な筆圧を覚えさせる面、正しい握り方を習得させるために教材として鉛筆を用いている。

 鉛筆について若干調べてみた。
 鉛筆の前身は14世紀頃の発明とされているが、近代鉛筆の祖はあのナポレオンである。日本に入ってきたのは1609年オランダ人が家康への献上品の一つであった。当時は毛筆の時代でありそれほど注目されなかったようである。明治になってドイツ製の鉛筆が輸入され、郵便関連業界から徐々に使われるようになったらしい。

 さて黒鉛筆には「B」と「H」の表示がある。「H」は硬く「B」は柔らかい。「H」は「Hard」の頭文字であることは容易に予想つく。硬度別にHから10Hまで、「B」はBから10Bまである。「B」は軟らかと言うイメージがあって最近までの語源が分からなかったが、「Black」の「B」であることを知った。ならば「F」は? これは軟らかからず硬からずと言う事で語源は「Firm」とのことである。長い間疑問であった点が解けて一つ肩の荷が下りた。

 私は鉛筆を買った記憶はない。引き出しにはいろんな長さの鉛筆が100本近くある。家や職場で放置されているのを貰ってくる。短いのは2-3cmのもある。これらにホルダーをつけたり、互いに接合したり、いろいろ工夫しながら再生する。私は削り器は用いず、カッターで丁寧に削る。原則的に芯は削らない。だからとても長持ちする。木の部分を丁寧に削っていると心がとても落ち着く。
 やはり鉛筆は良い、愛おしくてとても捨てられない。


5/11(金)曇り 8回目パンク 牛島の家講演 大曲中通外来 
1:30起床、講演準備、文献読み。7:00車病院へ。自転車前輪初パンクで8回目。7:30回診ほか患者面談。関連業務。院長室整理。17:30-18:45法人理事会。20:00帰宅、軽食、21:30就寝。

外来患者を分類してみれば(2) 私の視点で分けてみた
 昨年6月以前は緊急の出張など外来に出れない日も頻回にあった。
 その度に総合内科の中堅、若手医師を中心に代診して頂いた。私も希ながら他の医師の外来の代診をすることもあったが、とにかく代診は患者の質が全く異なっているだけに大変で、出来れば避けたい業務である。今は外来の代診をお願いすることは殆どなくなったので私自身も気が楽になった。

 「私が担当している外来」の代診は極めて評判が悪かった。「福田先生はどうなっても良いが、あの外来だけはやりたくないなァ・・・」が若手医師の一致した意見であった。

 なぜ、そんな評価になっているかというと、殆どの患者が「私が担当する外来」だけに集中して受診しているからである。患者には「一人の医師のみに受診するのは良くない。10回の診察のうち2−3回は他の医師に診てもらう方が良い。その方が安全だよ・・」と説明してきたが実際にはそうなっていなかった。その真の理由は知るよしもないが、「話しやすいから・・」、「癒されるから・・」で、全然医療の中身ではなさそうであった。だから、心身のどちらが問題なのか、病態がよく分からない患者が多数混じっていたからである。

 3年ほど前から外来が予約制になった。たまたま「私が担当している外来」に受診した患者のうち疾患の領域によっては専門外来に紹介するが、総合内科で診療しても良い病状の患者を他の医師の外来に勝手に振り分けるわけにいかず、自分で抱えることになる。だから、患者は徐々に増えてくる。

 私が常に「私の外来」と称さずに「私が担当している外来」とわざわざ表現するのは、患者は中通総合病院に通院しているのであって、私はそのうちの一部を分担して診療しているに過ぎない。そんな風に考えてきたから、私の立場から患者を分類してみて、どうしても私でなければならない患者は、実は一人もいない。

 その立場に立って患者を分類すれば、

(1)標準から乖離した治療をしたので、責任を負わねばならない患者
(2)やや責任を負わねばならない患者
(3) 特異な性格、受診行動をもつ患者で他の医師に回し難い患者
(4)外来担当医が私である理由が見つからない患者

 (1)(2)は主に血液疾患の患者である。この群の差は相対的でそうクリアではない。
 (3)は10数名と少ないが、気を遣うし、時間もかかるし、治療効果も上がら無い。対応は実にむなしいが、これも年の功か、と諦めている。
 (4)は8割以上を占める。是非私より相応しい、若手の医師に替わって欲しい患者群である。

 この、連休前後の混雑する外来、混雑が予想された外来の担当日にこのままトンズら出来たらどんなに気が晴れるだろうか、と思う。しかし、代診医が見つかるだろうか、代診医はさぞや頭に来るだろうな・・と思うと実行できず、力なく、いつもの如く外来の椅子に座る日々がまだしばらく続きそうである。


5/10(木)小雨・曇り 外来
0:30起床。文献等若干処理。講演準備。6:50車病院着。7:30回診他病棟関連業務。8:45-14:15外来,超混雑、疲弊。16:15帰宅.新聞、本読み。夕食、家内迎えに。21:00就寝

外来患者を分類してみれば(1) 患者の状態からは
 GW連休の前週、ど真ん中の5月1日、2日,及び連休明けの週は外来は患者が多くて,外来診療をあまり好まない私にとってはとても辛い。外来のコンピューターで来院予定患者数を見てガックリし、後半には時に軽度の吐き気、発汗を伴うこともある。

 多くは病状が安定し、症状もない慢性疾患患者なのであるが、何でこんなに来るのだ・・と思いながら診療している。とは言っても,この間に受診した患者の大部分は前回診療時にこの日を相談して予約した患者達である。予約した時には、とにかく早く終わって欲しい一心で先のことなどを考えないで次々と予約を入れていく。その結果、患者が集中する日が出来る。
 更に、予約外の患者が数名加わる。時に手のかかる新患が訪れる。他の科から回ってくる患者は概して対応が困難である。「こんな忙しい日に予約外で受診するなんて!!!・・」、 本音ではそう思うのだが、40年も培ってきた、「快く迎える振りをする」技術を発揮するが、実に空しい。

 私が担当している外来は週4-5回であるが。そのうち金曜日は大仙市にある大曲中通病院の外来応援である。4月以降始まったばかりでまだ様子がよく分からない。月~木曜の外来は患者が多すぎ、間もなく導入される電子カルテ下では到底診療不可能だから患者を大幅に減らさなければならない。

 患者を他の医療機関に積極的に紹介しようとしているのであるが,患者がなかなか離れない。次善の策として病状が安定している患者の受診回数を減らすため、従来からの方針を変更して通院間隔を4週から8週に延長した。だから、一昨年頃の外来に比較すると一日辺りの患者数は確実に減っている。それでも外来日はストレスから逃れられない。

 今後のこともあるので患者を分類してみた。患者の病状の面から、多い順に見れば以下のごとくかな,と思う。
(1)無症状で主に投薬と検査で経過を見ている慢性疾患患者
(2)自然経過で増悪していく、あるいは再発を繰り返す患者
(3)医療の恩恵で改善し,経過観察中
(4)自然経過で改善が見込まれる、あるいは回復した患者
(5)医療はほぼ不要なるも「健康追求病」に罹患している患者
(6)医療で悪化した、あるいはしている患者
(7)内容はいろいろだが、特異な性格、受診行動をもつ患者

 そうクリアには行かない。互いにオーバーラップしていたり、経過と共に移行していくが、とりあえずこんな分類にしてみた。(1)は8割方占める。(6)に属する患者は時には生じる。よかれと思って始めた治療が時には逆効果になることもある。細心の注意をはらって治療している群である。



5/9(水)晴れ 早朝患者死去 外来 患者家族面談 
0:30起床、文献チェック他。4:00頃から患者不調の電話あり、4:50自転車病院着。5:00患者死亡確認。そのまま業務、7:20 病棟回診、関連書類。10:00見送り、8:40-12:00外来。昨日と比較して患者数半数、この程度が理想。12:30-13:15患者及び家族面談。16:50遠回り帰宅、新聞チェック。本読み、夕食、22:00就眠。

書籍・本・文献の電子化(6)かつて製本した文献を再度ばらして電子化
 私は製本が好きである。興味を感じた文献、将来役立ちそうな文献は集めてきれいに製本していた。
 医学雑誌はザッと目を通したあと適宜ばらして必要な文献のみにした。かつて製本業者に依頼したこともあったが高額で、コストベネフィットの面では不利で続けなかった。それで30年ほど前からは自己流で製本し始めた。薄手の本は数冊まとめ一冊にした。

 製本の方法にはいろいろあるが、私は綴じ側に電動ドリルで4ヶ所穴を空け、U字型に切り揃えた針金で綴じる単純な方法である。それに厚手の紙で表紙を作り糊で接着、最後に別に用意したタイトルを貼った。 インデックスはパソコンで整理し、検索し取り出すことが出来るようにした。
 各々の過程に一寸したコツがあって大変だったが、作業する度に適宜読み返し、楽しみながら製本した。穴を空ける際にずれないようにする、表紙をつけた際には凹凸にならないよう10Kgほどの重しをかけてプレスすると上手く行った。

 製本化文献が等身大のスチール書架2ヶ以上を占拠するようなって来たのでそれ以上増えないように新旧を置き換え古い方は処分していた。15年ほど前からヒュレット・パッカード社のScanJet4Sで重要書類、文献は電子化し、その他を製本にしていた。5年ほど前からは富士通社のScanSnapS300Mに替えて作業能率が改善したので、殆ど全ての書類文献を電子化にした。だから、この5年ほどは製本はしておらず、書籍の電子化で捨てるに惜しい本の再生、古くなって乱丁した本の修理するだけになった。

 ここ一年は製本化した文献の一部を電子化し始めた。古い文献なので殆どが廃棄することになるが、針金を切断し製本を解き、かつて興味を持った文献を最終チェックして廃棄している。

 考えてみれば、製本にもかなりの労力と時間を費やしたが、今度はそれを解き電子化するのに時間を使っている。一見無駄な作業のであるが、この作業で蓄積した文献、記憶から消えた文献を見直す最後の機会が得られ、私は満足している。


5/8(火)曇り 外来
0:30起床、文献検討他。新聞チェック。講演準備。自転車、踏切待ち中に足滑らしこけた。実害無し。7:05病院着。回診他。 8:40-14:30外来、混雑、疲弊。16:15帰宅、7:10買い物。小砂利で前輪滑り転倒。右肩打撲若干。新聞、文献他。夕食、20:20就眠。??

不快な表現「吐き捨てるように言った」
 最近、乗用車が歩行者の列に突っ込んだり、バス事故、クマ牧場の事故とかが頻発している。何か事故が起こるとマスコミは臨場感を増すためか関係者や特に被災、被害者のインタビューを利用する。

 TVでは肉声そのまま、時には音声を変換し、画像をマスキングしたりするが、内容的には分かり切った、差し障りのない答えだけを取り上げる。その際に口調とか表情から感情などをくみ取ることが出来る。私はニュースなどは事実を淡々と伝えればいいのでドキュメンタリー調に局側が校正を加えていくのを好まないが、特にNHKはその傾向が強くなっていて不快な気分になる。

 新聞等では、インタビューされた側が語った内容の一部のみ、ホンの数行程度掲載されるだけであるが、その際にインタビューした側が発言者の感情とかを一言付け加える。
 その際によく使われるのが「・・・と吐き捨てるように語った」、「・・・と吐き捨てた」と言う表現である。「・・・と切り捨てた」もある。今回のクマ牧場の被災者の関係者の声の掲載時にも「・・・と吐き捨てた」が用いられた。これは、とても大きな不満とかを持った方の言葉の調子を表すのに用いられる一つの常套句である。

 私はこの言葉が使われると気分が悪くなる。「吐き捨てる」から受けるイメージは「不潔」と言うことである。よく路上や時にはトイレで唾やたんを吐き出す人を見ることがあるし、はき出されたものを見ることがあるが、目を覆いたくなる。
 だから、私は不快になる。大体、自分の体液、分泌物をそのままはき出すと言うことは許し難い非常識な行為であり、単に不潔だけでなく時に感染の源にもなり得る。最低限、ティッシュペーパーにとって処理する、更に人前では、私の前では避けて欲しい。二度と顔も見たくない・・が、病院のスタッフにも何人かいる。

 で、紙上にこの表現を見た時に同じような不快な気分になる。記載する側の表現力が低レベルと言わざるを得ないが、そう言う表現と共に意見を掲載された側にも私は同様の感情を抱いてしまう。その方が悪いのではなく、記載した側の巻き添えであって、気の毒である。
「・・・と不満を述べた」「・・・と強い口調で抗議した」とか、その場に相応しい表現法はいろいろあるだろう。

 私は、身体から発する音は『排ガス』を除けば耐え難い。身の毛がよだつ。咳払い、痰のゴロゴロ音、食事時のクチャクチャ音などである。演奏会、レストラン、新幹線等で近くにいると耐え難い。可能であれば逃げる。病気ならばやむを得ないが、それでも他人への配慮が欲しい。

 「吐き捨てるように言った」に過剰に反応する私の方が異常な人間ということなのだろうか。どちらにせよ、汚らしい表現である。新聞社はもっと表現法を考えて欲しい。これに関しては、まあいいかとは言いたくない。


5/7(月) 快晴夜小雨 外来
1:00起床。文献検討。徒然、6:55自転車病院着。8:45-14:15外来、入院3名。17:00遠回り帰宅、北インターの広場で着足に失敗、こけた。すりむき程度。新聞処理、夕食、 20:00就眠。通勤路の旭川縁にあるしだれ桜が満開で、空の青さと花のピンクのコントラストが実に見事。

わが家のゴールデンウイーク2012  息子の車に接触、不注意にガックリ
 今年のゴールデンウイーク(GW)は第一線を退いて初GWである。
 
 4月28日から6日までであったが、重症入院患者がいて連日対応した。出勤日2日、近隣の飯川病院の当直2回、日直1回、その他わが家の行事等もあり、時間的にはとても窮屈であった。

■4/28(土)家族で市内観桜 重症患者対応 飯川病院当直
■4/29(日)重症患者対応 観桜ポタリング 映画「運命の子」
■4/30(月)重症患者対応 飯川病院日直
■5/1  (火) 外来 家庭菜園植え付け
■5/2 (水)外来 宗教関連本購入、読む
■5/3 (木)映画「テルマエ・ロマエ」 重症患者対応 
■5/4 (金)自宅書籍書類破棄 家庭菜園植え付け  法要+会食
■5/5 (土)鉄道模型展示会 重症者対応、飯川病院当直
■5/6 (日)重症患者対応 映画「永遠と一日」 家庭菜園植え付け トイレ修理 プリウス修理

 3日から娘夫婦、4日には息子夫婦と孫二人、犬も来て家族が全員揃った。これに通いの賄いのおばさんを加え総勢10人と犬一匹、ネコ2匹である。我が家は一時9人家族であったが、短期間ながらそれを凌いだ。

 4日からの二日間は2歳半と6ヶ月の孫中心の生活。2歳半にもなると意思疎通が幾分出来るが聴き取り難くて大変であった。孫達は共に一層可愛くなったが対応は大変。昼寝すると家中がホッと安堵する感じ。子育ては実に大変である。

 5日娘夫婦を駅に送り、私は重症患者対応と飯川病院当直に就いたが、その直前、プリウスの斜め後ろに停めてあった息子の車に接触した。車があるのを見ていながら失念し、不用意にバックしたためである。乗り込む直前に病棟から患者不調の電話があったがその所為には出来ない。いつも見るバックモニターも見ていなかった。

 かなりの音だったらしい。家から息子が飛び出してきた。大きく凹んだのは私の車の方で、降りて見なかったが息子のは軽く擦り傷程度とのこと。力のかかり具合による差だろう。

 最近、この様な不注意が増えつつある。何か別なことを始めると直前までやっていたことをすっかり失念してしまう。一つ一つを意識して確認しなければならなくなった。孫もいるし危ない。

 プリウスのキズは翌日自分で内側から叩いて修理した。鈍的に圧迫された凹みだったから戻る力が残っていたらしい。凹みは簡単に戻った。ちょっと見ただけでは分からない。凹みの割りには音が大きかったと思うが、衝突のエネルギーがうまく音として分散したのだろう。

 昨年あたりまでのGWと比較すれば、時間を自分のために使えたと思う。
 それでも車をつぶしたのでシルバーウイークとしたい。


5/6(日)こどもの日 雨のち曇り、雷鳴 映画+畑仕事+トイレ改良+プリウス修理
0:30飯川病院で起床。新聞処理X2。文献チェック。6:00車病院、回診他病棟業務若干。10:50車帰宅,文献対応。13:30-14:00映画「永遠と一日」、畑に野菜の苗移植、水洗トイレのノブのバネ折れたので重力利用の方式に改良、次いでプリウス修理。いずれも上手く行った。プリウスは10x10cmほど、4-5cmの深さの凹みだったが内側から叩いてほぼ跡形無し。 夕食、20:30就寝。これで私のGWは終了。??

映画(44)「永遠と一日」 テンポが合わず寝てしまった
 5月6日に観ようとした作品で、監督はテオ・アンゲロプロス、1999年の作。

 テオ・アンゲロプロスはギリシャ・アテネ出身の映画監督。場面の長回し、曇天下での撮影の徹底などで独自のスタイルを確立している。 本年1月24日、アテネ郊外のトンネル内で撮影中にオートバイに跳ねられ死亡した。享年76歳であった。

 行きつけのシアタープレイタウンでは「追悼特集 テオ・アンゲロプロス作品集」と称して一日に二本づつ、3週にわたり6作を上演している。それの第一週目で「霧の中の風景」と共に上演されていた。この監督の作品は概して長い。今回の6作を見ても最短が2時間5分、際長が3時間52分である。とても一日に2本は続けて観れない。私はこの監督についても、作品についても知らなかったので、とりあえず「永遠と一日」を選んだ。

 ギリシアの港町テッサロニキを舞台に、ある詩人の入院前の最期の一日と難民の子供との出会いを描いた作品・・・。あとは寝てしまって書けない。
 
 導入部から映像のテンポがとてもゆったりしていて私のテンポに全く合致せず、私は10分ほどで微睡み始めた。時折目を醒ましてスクリーンの映像を見たものの作品としての流れは全く分からなかった。

 確かに画面はくすんだセピアカラーの場面が多かった様な気がする。折角の作品を味わえず実に勿体ないことをした、と反省した。
 次の作品に改めて挑戦してみたい。


5/5(土)子供の日 降雨 
1:00起床。文献整理,新聞チェックなど。昨晩は家族全員9人+犬一匹揃い賑やかであった。11:00本日鉄道模型展示会を見に2.5歳の孫連れて児童館に。帰路ミニカー購入。16:00次男夫婦離秋、長女夫婦を駅に送り重症者回診、16:55飯川病院当直に。移動時息子の車に接触、私のプリウス小破。直前に患者不調の連絡あって動揺したためか不注意であった。18:30検食、本読みなど、20:00就寝。?? 

映画(43)「運命の子」 若い母親の自害のシーンが絶品であった

 4月29日に観た中国映画。観客は私の他一人だけ。最低の人数であった。
 約2,600年前、中国の春秋時代に実際に起こった事件を背景に、司馬遷の「史記」にも記される「趙氏孤児」の物語によっている。多くの中国人にとってはお馴染みの話しだとのことで、京劇などで繰り返し舞台化されてきた人気のストーリー。日本で言えば「忠臣蔵」にあたるのだろう。
 その物語を、「北京ヴァイオリン』などの有名な作品を生み出しているチェン・カイコー監督が映画化したもの。この監督の作と言うだけで観に行くファンがいるほど評価は高い、と言う。「北京ヴァイオリン』はどこかで最初の10分くらい見て感心したことがあり、監督についても記憶の隅に残っていた。機会があれば全編観たい、と思っている。

 「運命の子」のストーリーは、春秋時代は下克上の時代でもあった様で、栄華を誇っていた一族が謀反で皆殺しになった。いつものパターンである。その最中、王の息子の妻は男子を出産。だが、自らの運命を悟った母は、出産に立ち会った医師に生まれた子を託し、自害する。
 反乱軍は王の孫を捜しだすのであるがその過程で、医師の子供が代わりに殺害され、医師の手には王の孫が残る。医師は強く復讐を誓い、王の孫を大切に育て復讐させる、というもの。

 ストーリーそのものには興味は殆ど無かったが、歴史を学ぶ過程で参考になるような、当時の文化などを推測できる見事な画像が見れたことで、私としてはとても参考になった。

 中国映画は人海戦術という意味ではとてもスケールが大きい。この作品も戦闘場面が多いが、人馬の数の多さ、人馬一体で転げ落ちるシーンなどは驚くばかりである。馬が何頭か骨折とかで犠牲になったのではないか、と心配した。

 それに加えて、母となり、程なく自害して果てた王の息子の妻の表情、自害の場面は女優ファン・ビン・ビンが、見事に演じ、まとった衣装の美しさも相まって、忘れがたいほど見事な情景、場面であった。


5/4(金)みどりの日 終日雨 種苗購入 法要 家族全員揃う
1:00起床、文献検索そのほか。10:30書斎整理、家庭菜園用の苗追加購入。14:00息子夫婦+孫+犬来訪。一気ににぎやかに。自室のオーディオ関連の整備、調整、十分堪能。古い書類大量に破棄。16:45−19:45休宝寺にて法要+会食。20:00帰宅、そのまま就寝。


イオンモールのTOHOシネマズ秋田に初めて行った 秋田市街地の活力低下の因ここに  
 私は大勢の人が集まる所を好まないが、今回は映画を観に郊外の大型商業施設に行ってみた。

 何かと話題になっている施設であるが、私はまだ入ったことはなかった。ここだけではなく、私がまだ行ったことのない商業施設、あるいは1−2回しか行っていない施設は県内に何カ所もある。

 秋田県最大のショッピングセンター「イオンモール」は1993年に秋田市郊外の御所野ニュータウンに、秋田新都心開発整備事業の中核商業施設として誘致された。これに2001年に映画館「TOHOシネマズ秋田」が併設した。秋田市周辺のみならず全県から客があり、休日は大変な賑わいだという。駐車場は3.800台分あるというが、これが休日とかにはほぼ満車に近くなるらしい。

 5月3日の憲法記念日、家庭菜園の植え付けなどを予定していたが雨降りでダメになった。先に観た方々の勧めもあって、映画「テルマエロマエ」を観ることにした。ネットを通じて指定席を確保し、この施設に詳しい方から駐車場の選び方などのアドバイスを聞いて、1時間の余裕をもって向かった。周辺まではスムーズであったが、駐車場の空きがなく、家内を先に降ろして探し回った。結果的に最上階に何とか駐車出来、20分ほどの余裕を持てた。私が入った駐車場は一部らしいが、こんな大きい立体駐車場は初めてである。TOHOシネマズ入り口前は大混雑で心配したが、館内は8館からなっていて合計1,661席、適当に分散して私共が入ったNo1館は7割方の入りであった。

 先に入った家内は売店にて小型バケツほどの容器に山盛りのポップコーン、その他を購入していた。私は映画館は飲食できないものと思っていたが、多くの観客はトレイに何らかの飲食物をもって入場していた。これも驚きであった。

 私にとってはいろいろ驚き体験であった。
 感じたことは、市街地が休日というのに閑散としていたがここは別世界で、老若男女で大賑わいで、秋田市内が寂れていく大きな原因の一つになっていると思われた。これが県の開発整備事業の一環として誘致されたとすれば、行政としては市街地の過疎化に荷担した事になり、正しかったのか?と考えてしまう。 

 秋田市内の長期の過疎化が問題となって、いま旧婦人会館跡に新しい商業施設を建設中で、間もなく完成する。新県立美術館とかもあるが、広い年代に魅力的な施設をは思えないし、駐車場スペースも十分とれないだろう。私の印象ではオープン当初こそ若干賑わうかもしれないが、内容的には「イオンモール」と太刀打ちできない様に思われた。そうなると次の賑わい創世計画が必要になってくるが、手詰まり観は否めない。


5/3(木)憲法記念日 雨 映画「テルマエ・ロマエ」
 2:00起床、文献検索、録音データ処理その他。 13:00大規模ショッピングモール「イオン」へ初めて。14:00−16:30 映画「テルマエ・ロマエ」観る。17:30−19:00病院、重症患者対応、娘夫婦来秋。19:30夕食、20:30就眠。

悲惨な交通事故多発(3)  高速バス事故 一日670Km、9時間まで運転可能とは!!!
 4月29日群馬県藤岡市の関越自動車道で高速バスが防音壁に衝突、男女7人が死亡、39人が負傷し、うち3人が重体となっている。運転手のいねむりが原因らしい。次々と報道される高速ツアーバスの運行の現状に驚くばかりである。?

 小泉政権時代の規制緩和によって、国内の貸し切りバス会社の数はこの10年で2倍弱の4300社余りに急増。旅行会社がツアーバス事業への参入出来ることのなったことで料金も低廉化し、2005年に約21万人だった利用者が2010年には約600万人に激増している。確かに便利になった,と思うが私は利用しようと一度も思ったことはない。怖いからである。

 秋田市と仙台市、首都圏を結ぶ便は空路や新幹線より安いこともあって若い世代を中心に利用されているようである。早朝出勤時、秋田駅付近には首都圏から着いた定期高速バスから大きな荷物を持った乗客が降りてくる。それを見る度に、全国的に見れば毎日軟00便もの夜間バスが運行されているだろうが、その割には事故が少ないことに驚きの念を懐いていた。

 安全対策は交通機関として最重要課題であって、規制緩和と相反するのだから、安全確保は徹底されていて、長距離の夜間便は運転手二人制だと思っていた。

 高速バスの安全基準は一体どうなっていたのだろうか。 また業界に対する国の指導や規制が適切だったのだろうか。このようなことは事故でもなければ滅多に公表されることもない。だからユーザーは綱渡り状態のバスの状況を知らずに、信用して利用している事になる。?
 今回は■運転手は一人体制で、■金沢から運転、■「疲れていた」「居眠りをしていた」と説明している、というが、この3点は重要である。

 国交省の基準では、ツアーバスなどの貸し切りバスは1日に9時間、670Kmを1人の運転手に運転させていい、としていた。新幹線で言えばほぼ秋田・東京間にあたる距離であり、休憩なしで連続4時間運転して良いことになっている、という。私は自分ならあり得ない実態を知り驚いた。

 一方、総務省の調査によると、運転手の9割が、運転中に居眠りや睡魔を経験していて、原因に長距離運転や夜間運行、休み不足をあげている事が判明している。こんな状況なら事故が起きても不思議ではない。こんな調査結果を持っていながら国は何も対策してこなかったと言うことも驚きである。国交省は2年前に総務省から改善を求められていたが、業者への徹底が先と後回しにしていたらしい。
 今回も第一義として運転手の過失、次いで運行会社の責任が問われているが、実際には国の無策が起こした事故で運転手も被害者だと思う。

 私は車はとても便利だと思うが運転嫌いで、5-6Kmの通勤ですら嫌である。自分の安全運転に自信を持てないからで、自分に自信がないことは不特定多数の他人の運転も信用していない、ということ。空路や鉄道はヒューマンファクターによる事故を未然に防ぐための安全装置を各レベルで備えているが、バスを含む自動車にはまだ殆ど適応されておらずほぼ100%運転手の技量,心身の状態,健康状態に依存している。だから、安全上運転一人体制はあり得ない、と思う。

 今回の事故で明らかになって来つつある実態を見てますます怖くなってきた。国の早急な対応が必要である。


5/2(木) 晴 外来
1:30起床。文献チェックその他いつもの如し。7:00 自転車病院。回診+病棟業務。書類処理。8:45−14:30外来、連休の狭間で地獄の如し、疲弊。17:00飯川病院医局に立ち寄りネット対策見学。自転車帰宅。風つよし。宗教関連書籍購入、読む、新聞処理。19:30夕食、20:30就寝。??

悲惨な交通事故多発(2)  歩行者、自転車をハード面からも護って欲しい
 私はここ数年は歩行と自転車中心であるが、昨年まで大型バイクにも乗っていた。車との関連ではいずれも交通弱者で、危険な思いをすることも少なくないので、交通行政からは目が離せない。
 新聞の交通事故報道は気がつく度に切り抜きしファイリングしている。多すぎてとても全部集めきれない。車が保育園児や高校生のに突っ込んだ事故を私のファイルの検索では以下が挙がってきた。

■2005年5月多賀城市RV車、高校生3人死亡、15人重軽傷
■2006年9月川口市乗用車、保育園児4人死亡、17人重軽傷
■2007年9月南陽市乗用車、児童1人死亡、1人重症
■2008年12月所沢市乗用車、児童1人死亡、4人重軽傷
■2011年1月仙台市ワゴン車、高校生1人死亡、1人負傷
■2011年4月鹿沼市クレーン車、児童6人死亡
■2011年9月仙台市乗用車、1人死亡、1人重症

 悲惨な事故が並んでいるが、これらの事故を受けて道路行政上で対策に乗り出したか否かは検索の範囲から出てこなかった。そのようなことが成された、という記憶もない。

 昨年からは自転車は原則として車道通行になったが、その後車と自転車との接触事故や死亡事故が増えてはいないようである。ただ、自転車と車への指導は不徹底で、秋田では車道を走る自転車はまだ殆どない。私は原則的に左側の車道走行であるが、時折こころないドライバーがいて冷や汗をかくことがある。

 ところで、交通量が比較的多い交差点には歩行者がわたる時間をなくするために歩道から降りていく地下道が設置され、歩行者や自転車はここを通るようになっているが、基本的には歩道の設備だし、嫌な「ちょっと待て、車は急には止まれない」と同質の「お車様優先、弱者抑制による理不尽な安全対策」である。私が知っているのは茨島交差点、城東交差点であるが、昨年秋に後者がある横山金足線で車道走行していたら警察官に警笛を鳴らされ、歩道を走る様に、交差点は地下道を通るよう注意を受けた。その時はその指導に従ったが、自転車は車道を、と言う原則に矛盾しており腑に落ちない指導であった。

 後に、この交差点近くの派出所に電話で自転車の車道走行についての考え方を確かめたが、最初は自転車は「歩道走行、地下道を通るべき」との意見であったが、後に訂正の電話があって「自転車が歩道走行すべきであること、地下道を通るべきと指導する根拠はありません。交差点を通過しても結構です。しかし、当方としては自転車の安全を守るために地下道を通ってほしい、と指導しています」とのことであった。私は今でも地下道を通らずに交差点をそのまま走っている。ちなみに、旧産業会館前のT字路にも歩行者用の地下道があるが、車道には自転車レーンが設置されている。

 交通弱者保護にはドライバーへのマナーの徹底が重要であることは論を待たないが、ハード面での対策が必要である。歩道がない生活道路への車の乗り入れ制限、歩道へのガードレール設置、自転車走行レーン確保などは喫緊の課題である。


5/1(火) 晴れ 外来
1:00起床、文献、新聞等種々処理。6:50自転車病院へ。8:45-14:00外来。連休前で大混雑、亜地獄外来。16:30帰宅、途中で自転車用夏グローブ購入。家庭菜園にトマト、ナスなど植える。なかなか良くできた。新聞処理他。19:00夕食、 20:30就眠。??

悲惨な交通事故多発(1)  交通弱者保護をもっと前面に
 4月は悲惨な交通事故が多発した。
■4月12日京都市の繁華街祇圃の交差点近くで軽ワゴン車が暴走、7人死亡12人が負傷した。不可解な暴走で運転の男性も死亡したが、てんかんの持病を持っていたと言う。
■4月23日京都の亀岡市で、集団登校中の小学生の列に無免許軽自動車が突っ込み妊婦を含む3人死亡。いねむりが直接の原因とされている。
■4月27日にも千葉や愛知で、登校中の児載の列に乗用車が突っ込む事故。よそ見らしい。
■4月29日群馬県藤岡市の関越自動車道で高速バスが防音壁に衝突、男女7人が死亡、39人が負傷し、うち3人が重体となっている。運転手のいねむりが原因らしい。

 4月12日の翌日から私は3日間京都にいたので地元の新聞を詳しく読むことが出来た。 
 車の走行状態から見て、病気か、故意なのか不可解な事故であったが、基本的には歩行者を守る道路行政の問題に突き当たっていくと思った。

 京都府亀岡市の現場は、府道で幅約6.5mで近くに国道9号が並行、渋滞のために抜け道としても使われ、交通量が多くなっていたという。この府道は07年に側溝を埋めて道幅を50cm拡幅。約1m幅の歩道を作ったがガードレールは設置しなかった。今回の事故後、現場の府道を登校時間帯に通行止めにしてほしいとの要望が出されたという。当然である。

 千葉や愛知の例は詳細は分からないが、前2者はドライバーと歩行者の良識におんぶした、わが国の道路行政の問題点にあると思う。白線だけで、あるいは低いブロックだけで歩行者と車を分けていても殆どなきに等しい。歩行者のすれすれに車が飛ばしていく状況を当たり前として容認している文化はおかしい。

 多少不便になっても、幅の狭い生活道路は基本的に登録車のみ、より幅の広い、今回の亀岡市の道路程度の幅があるところであれば最小限ガードレール設置が必要と思う。

 私は1992年に「車よ驕るなかれ」を書いたことがある。「車の対人事故の大部分は道路の構造的欠陥に由来するので、事故を防ぐ手立ては幾らでもある」、というのが本稿の結論である。時代が変わっても内容的には今も十分通用する文と思っている。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
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