徒然日記
2012年4月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


4/30(月)振り替え休日 快晴 飯川病院日直 
2:00起床。新聞・文献・録音データ処理,いつものごとく。7:30病院により重症患者回診、治療変更等処理。8:20飯川病院で日直業務。帰路、千秋公園に立ち寄る。家内ゾンタクラブバザーに。14:00旭川を上流に、草生津川を下流に向かい観桜ポタリング。18:00 映画「運命の子」 。21:00ファミレスで外食、帰宅。21:50就眠。

嫌音嫌(4) 車の警笛でめまい これが Tullio現象 3回目の経験
 本日は午後快晴、桜も満開、風もそれほどでない。よいポタリング日和であった。病院の帰路、千秋公園、旭川、草生津川と観桜ポタリングした。こんなに桜を求めて見たことは今までなかった。

 草生津川べりの公園の側の路上で停車中の軽自動車の脇をすり抜けた途端、車のクラクションが突然鳴った。びっくりした。その瞬間、一瞬めまいを感じた。何ら必要のない状況でのクラクションであったから注意しようと戻って運転席を見たら子供が運転席で悪戯していた。助手席の母親らしき女性がドアを開け「すみません・・」としっかりとした口調で誤ったので、私は黙ってその場を去った。

 私は車のクラクションは必要な装置とは思うが、音が大きすぎると思う。常にあれほどの音量が必要なわけではない。ワイパーに段階があるようにクラクションにも段階をつけるべきだと思う。ちなみに、私はクラクションを鳴らすことは年に一度もない。40数年の運転歴の中全てをトータルしても1分に満たないだろう。

 世の中騒さ過ぎる。私は機会ある毎に嫌音権を主張している。

  強烈な音刺激によってめまい、平衡障害を起こすことが知られており、Tullio現象といわれてる。イタリアの耳鼻科学者のPietro Tullioは1929年に名著とされる「Das Ohr」を出版したが、彼の業績の一つである。車のクラクションのほか、高速電車の通過、聴力検査の音でめまいを訴える患者もいる。
 音刺激がでめまいが生じる機序については、強烈な音が平衡感覚を司る前庭部を刺激するからと言われている。
 
 私はTullio現象と思われる経験これで3回目である。
 3度目は本日、2度目は2004年3月新横浜駅で「こだま」をホームで待つ間に「のぞみ」が通過した。すさまじい轟音と共に一瞬で通り抜けた。この時もめまいを感じ恐怖感も覚えた。引き込まれそうになる。駅にはホームドアが必要である。

 1回目は中学生の時。自転車パンク修理が終わって空気を入れているときに突然、轟音と共に白煙があり、タイヤがバーストし、10cmほど裂けた。テューブを戻すときにタイヤとの間にテューブが挟まったためと考えられる。この時は何が起こったか直ちには理解出来ず、頭の中が一瞬真っ白になった。このあと2−3時間、吐き気とめまいがしてまっすぐ歩けなかった。このことは私の記憶から消えることがない。

 最近、クロスバイクを用いているが、4ヶ月間の路上走行の間に8回ほどパンクした。実に頻繁で安心して乗れない。今は路上でテューブを交換し、自宅でパンク修理している。この時最も注意するのがテューブをタイヤを戻すときで、細心の注意で行っている。クロスバイクのタイヤ空気圧は通常より高く6気圧も入れるから、バースとしたらあのとき以上に大変になるだろう。


4/29 (日)快晴 観桜ポタリング 映画「運命の子」 
2:00飯川病院で起床。持参の新聞・文献・録音データ処理,いつものごとく。7:00検食、8:30病院により重症患者治療変更等処理。帰路、千秋公園に立ち寄る。家内ゾンタクラブバザーに。14:00旭川を上流に、草生津川を下流に向かい観桜ポタリング。18:00 映画「運命の子」 。21:00外食し帰宅。21:50就眠。

宗教とは何だろうか(2)経や仏教用語は難解だ
 最近、私は少しだけであるが宗教についても勉強し始めている。人間のありようを知るにも、世界史を学ぶ際にも必要だし、難解なパレスチナ問題を少しでも知ろうとするとどうしても宗教についての知識が必要となる。そうはいってもまだ手をつけたばかりで混沌としている。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係について少しずつ分かってきた。互いに相容れない関係にあるように見えるが、実際には殆ど共通した宗教である。同じ神が話したことを基にした宗教だから当然と言えば当然である。ただ、人種や民俗の問題、ユダヤ人迫害や流浪の歴史を同時に理解していかなければならず、その関係を知るのはなかなか難解である。

 この三つの宗教は互いの違いを強調している。特に、キリスト教徒は自分たちの、世界の救世主たるキリストをユダヤ人が殺した、と宣伝したことなどでユダヤ人を憎み、排斥する様になった。イスラム教は好戦的なイメージであるが、コーランの教えにあるのではなく、貧困が背景になっているようである。食事や礼拝等に関する戒律とかは厳しいがその他の所では結構融通性がありそうに見える。

 一方、仏教に手をつけてみると、言葉の難解さが壁になる。「南無阿弥陀仏、如来、涅槃、菩薩・・」と、古来の外来語だから仕方がないのかもしれないが、漢字に弱い私には難解である。
 先日、岩手県大槌町の方が岩手日報に「名は娑婆訶」と言うエッセイを投稿していたが、この題名を読めなかった。調べてみると読みは「ソワカ」である。「娑婆訶」とは「幸あれ」という言葉のようでもあるが、般若心経では駄目押しの言葉として使われている。遠野地方の民話には最後に「どんとはれ」、秋田では「とっぴんぱらりのぷう」と結ぶが、これ似たような言葉だと理解している。

 私は年に一回盆に墓参りをしている。その度ごとに住職から有り難い読経を戴くのであるが、挿入される私共家族の安全を願う様な一節以外殆ど理解出来ていない。それでも心が清む気持ちを得ていたのであるが、最近これではいかんと思うようになってきた。
 ブッダの教えをまともに知る機会を得ないまま生を終えることは実にもったいない。だからといって仏典を直接読み解くのは私にとって無理である。解説書はいろいろ出ているが、仏典を現代日本語訳にした文献を探しているところである。
生命科学者で自ら生死の淵をさまよった柳澤桂子氏の「生きて死ぬ智慧」、詩人の伊藤比呂美氏の「読み解き般若心経」あたりから手をつけてみたい。

 エッセイの「名は娑婆訶 (ソワカ)」はネコの名前であった。ちょっとガックリ来たが、2年前の5月に死んだわが家のネコ、通称「ナンナン」に対して私がつけた正式名は「マルスランナ・ランドスト・福田」で特別の意味はないが、似たようなものか。


4/28 (土)快晴 観桜 飯川病院当直
2:00起床。新聞・文献・録音データ処理。自炊若干。13:20外食、桜見物に大滝山、草生津川、高清水公園へ。松本市長講演会は欠に。16:00病院、重症患者治療変更等オーダリング入力他。17:00飯川病院当直、17:30検食、読書、文献読み。20:30就眠。

映画『家族の庭』  私とは全く異なった世界があった

 映画評

 

 4月22日に観た映画。イギリスで高い水準の映画を作り続けているマイク・リー監督の作品。
 内容的には特別面白くもない映画だ。ストーリーは殆どない。ある初老夫婦の生活を中心としてそこに集う友人達と交流を綴っているだけ。
 
 映画は不眠の中年女性の診察風景から始まる。患者は一見して生活困窮者であって薬物療法だけでは改善しない背景を持っていることが分かる。医師の診察は素っ気ないものでカウンセリングを受けるように勧める。この身・心両面からのアプローチの土壌がイギリスの医療の通常の姿だとすれば、これは素晴らしいと思う。わが国でも日常的にカウンセリングを受けられるようであれば医師の負担は大きく軽減するだろうし、患者にとっても望ましいことである。

 老夫婦の夫は地質学者、妻は心理カウンセラーとして働いている。二人は日常の食事から、休日の野菜栽培まで協力的に生活していてライフスタイルはしっかりしている。息子は弁護士でよく手伝いに来る。
 一方、尋ねてくる女性は喫煙し、他人の批判ばかりし、独身で常に孤独を抱えている。男性も喫煙者で食欲のコントロールが出来なないために高度の肥満におちいり、同じく独身である。他にも何人かの出入りがありその人物像が画かれる。

 この映画を通じて何を表現しているのかといえば、人の生活観、ライフスタイルの違いとその意味づけだろう。「人は生きてきたように死ぬ」と言う言葉があるがそのことを言いたいのであろう。もう一つは古い友人達の傍若無人で非常識な振る舞いと、広い心で友人達を受け止める初老夫婦の有り様との対比である。

 私は見ていてとても心が苦しくなった。私の理解を超えた寛容な老夫婦であったからである。
 私は自分の家に客人を招く事はない。尋ねて来られるととても困惑する。自宅に電話がかかってくることすらも是としない。電話は受けての気持ちなど何ら考えない暴力的道具である。メール、ファックスなら、それをどう扱うかは受け手の問題だし、返事をするにしても相手と会話しないで済むだけ私には向いている。

 私はもはや、生き方、生活習慣、嗜好などが異なった人と嫌な思いをしながら挨拶や会話を交わす必要もなくなった。だから、この映画は、私にとって別世界の話題であった。
 
 この映画は家内と共に観た二本目の映画である。
 家内は私と異なった視点でこの映画を見ていたようである。イギリスの田畑や庭の様子などはかなり気に入ったようであり、そこに描かれた人間関係にも共感したらしい。家内にとっては偏屈な私の存在はある意味で邪魔なのかもしれない。そんなことを考えながら観ていた。


4/27 (金) 曇り・雨 友の会南通支部総会講演 大曲中通病院外来 
11:50起床、講演準備。新聞・文献自炊。7:00自転車病院。講演準備。11:00-12:00友の会南通支部総会講演。演題は「これからを思うように生きる」。 12:59こまち。13:40-15:05大曲中通病院外来。17:20帰院。18:30 雨、肺炎で不調の家内ひろって帰宅。新聞チェック。微睡、夕食、20:00就眠。??

食べること(2) 私は食事に時間をかけたくない
 私にとって食べることは、今のところは、食事を楽しむと言う感覚よりも空腹を満たすため、生きるために食べるのだ,と言う意識の方が大きい。勿論、食欲を満たす楽しみ、満足感は大きい。

 食事にあまり時間をかけたくない。まして食事準備に時間を割く事は今のところは考えていない。もし、予想外に生きながらえれば生活環境も変わるだろうし、最小限の事はしなければならないだろうが、今のところそんな事態にはならないだろう、不整脈もあるし、と甘く考えている。

 健康講話の中では、特に第一線を退いた男性は将来の老老介護、独居生活に備えて特に調理を身につけておくべし,と強調している。他人のことは心配しているが、私には実感はない。
 私は中年になってからは基本は夕食だけの一食であるが、体調が良いときに家内が早朝に茶と軽食を用意してくれるので1.5食程度となっている。夕食は19時と決めていて、NHKニュースを見ながら摂る。時間は短くて、大体15分から長くて30分くらいで終わる。酒は不要、飲み物は甘みなしの炭酸水で味も素っ気もない。

 こんな感じだから、私は外食が嫌いである。
 外食は非日常的な料理を食べられることに対する興味はあるが、時間がかかるからである。第一、往復の移動がイヤ。第二に料理が出てくるまでの時間が長すぎるし、最後の料理までも長すぎる。レストランのコースメニューは私にとって辛いメニューである。だから、メ迅速コース、通常コースなどの区別が欲しい。私は定食のように一気に出てくればいいと思う。

 アルコールや会話を楽しみながら,と人は言う。多分そうだろうが、私にはそんな趣味はない。アルコールは一切不要、話もなるべくしたくない。この点から言えば、空いていればファミリーレストラン、回転寿司、定食屋、ラーメン屋 辺りが良いが、一人の時は面倒なのでラーメン屋にする。学会他で結構良いホテルに宿泊することもあるが、通常は外のラーメン屋でさっと夕食を済ませる。

 私の食事に対する考え方や姿勢は貧しい、と思っている。豪華?な食事は勿論素晴らしいが,私には喜びよりも後ろめたさの方が大きい。


4/26(木)曇り・雨 外来 桜満開に
1:00起床、書類PDF化、文献読みなど数件。7:00自転車病院に。8:45-14:30外来。連休前で混雑。16:00小雨に追われながら急ぎ帰宅。17:45大曲外来用パソコン医局に届け、不調の家内迎えて帰宅。19:00夕食、20:15就寝。昨日まで3分咲きの桜が本日一気に満開となった。通勤路の桜見事。

食べること(1) 人は食事の一部で生き、過剰分で医師にかかる
 私は食べることに対して関心は高い。生きるために最も重要で欠くことが出来ないから。誰しも生きるための栄養を摂取する食行動から逃れられない。一方、高齢になると高頻度に嚥下障害に陥る。私はその時が人生の末期と割り切って考えている。本心から納得しているわけではないが、嚥下障害のある患者に対して、家族の希望を入れて胃瘻とかの手法で延命の一翼を担っている。

 私の第一の関心は自分自身の、自宅における食事事情であるが,食品が溢れ加減で心を痛めている。台所を担う家内と賄いの叔母さんの考えによっているが、前者は質的に、後者は量的にちょっと贅沢なような気がする。次の関心事は世界の食糧事情であり、日本の過剰消費、大量廃棄問題である。

 私は,外食は嫌いである。家で当たり前の料理をほどよく食べることに喜びを感じるが、実際は過剰傾向にある。豊かすぎる食事には嫌悪感を抱く。生まれ育ったのが戦後の混乱期で、物資不足、食糧事情が劣悪であったこと,超倹約家と言って良い母親が原因かもしれない。更に、大学生活6年間学生寮で暮らしたこととも関連している。いつも注意するのであるが、なかなか改善されない。

 私自身の食事に対する関心は、今のところ楽しみというよりは生きるための手段であり、色で表すと地味なモノクロの世界である。

 現代の栄養学は過剰摂取側にシフトしており間違っていると思う。わが国には「腹八分医者いらず」なる言い伝えがある。医師であった祖父はいつもそう言っていて私の頭にこびりついている。食事の度に思い出す。成長期を覗けば人問が生きて行くためには一般的に食べている量の半分以下で良いのではないだろうか。

 人は腹一杯であっても,更に視覚で食べ、臭いで食べ、つきあいで食べている。別腹なる便利な言葉がある。腹一杯食べることに喜びを感じるとそれが日常的習慣になってしまう。
 「日本人は摂取した食品の一部で生き、過剰分で医師にかかる」。このように風刺できるのではないだろうか。

 ひかえめな食事に感謝し、一つ一つを味わいながらいただく。こんな生活がに近づけたいと思う。


4/25(水)快晴 外来 
1:30起床、新聞・文献読み、脱原発に関して資料他、徒然。自炊。6:55自転車出勤。7:00回診他。8:45-14:10外来。16:30一つ森・手形山経由帰宅、資料整理。夕食、20:50就眠。??

「ローカルコミュニティーエリア」「エイジフレンドリーシティ」とは(2) 今度は「デスティネーションキャンペーン」?
 最近は自治体の広告紙等、真面目なパンフレットが届くと目を通すようになった。

 しかし、ときどき意味が分からない言葉が並び困惑する。「ローカルコミュニティーエリア」は2年前に秋田県議会で話題になった言葉、「エイジフレンドリーシティ構想」は秋田市の広報にあった言葉である。
 多少英語を知っている方、若い人達にとってはそれほど抵抗なくスッと入ってくるカタカナ語も、高齢の方々にとっては意味不明の文字で意味を感じ取ることは出来ない。記憶力・記銘力が衰えた方には大変気の毒である。
 こんな書き出しでカタカナ語の氾濫について感想を述べたことがあった(2010.3.24)。

 昨日配布された「あきた市議会だより」の次年度の予算配分の項目に「デスティネーションキャンペーン推進事業」という言葉があった。

 説明の文章は「平成25年度に開催する大型観光企画デスティネーションキャンペーン(DC)の推進に向け、24年度はプレDC として集中的な宣伝販売活動を県等と連携して展開します。23.541.000円」。読んでも全く意味がとれなかった。
 私はまだ分かる方なのだと思っていたが、私もすっかり遅れてしまった。

 最近、秋田県や秋田市の事業にカタカナ語が氾濫しているようである。確かに、漢字表現よりハイカラな印象があるのは否めないが、ちょっと待てよ。秋田県は島根を抜いてついに高齢化率日本一になってしまった。この秋田に相応しい言葉なのだろうか。「高齢者に優しい市構想」を何で「エイジフレンドリーシティ構想」と言うのか、私には分からない。

 ちなみに、「デスティネーションキャンペーン」とは、JR北海道・東日本・東海旅・西日本・四国・九州のグループ6社と指定された自治体、地元の観光事業者等が協働で実施する大型観光キャンペーンのことだと言う。更に略して「DC」と省略し、「デスキャン」と略されるという。ますます分からない。

 景気低迷や東日本大震災の余波で県内には閉塞感が漂っており、特に観光業界の落ち込みは大きい。そこからの脱却は急務であるが、ならばもっと分かりやすい表現を用いて欲しい。漢字の良さは字を見ただけでおおよそのことがイメージとして浮かぶという、外来語にない魅力がある。公的な立場にある方々はもっと日本語の良さを学んで欲しいと思う。


4/24(火)曇り晴れ 外来 
1:00起床、新聞・文献読み、徒然。自炊。6:50車出勤。回診他。8:45-13:20外来。16:00車帰宅、19:00不調の家内迎え。19:30夕食、20:30就眠。??

映画(41)「アンダー・コントロール」(2) 人は原発のリスクを凌駕できるのか?  
 機能優先で無駄のない内装は無機質だが清潔で、徹底的にヒューマンエラーを排除する設計思想がうかがえる。そこは完全にコンピューターの管理下に置かれ、わずかな変化でも危険を知らせる。指令センターで警告ライトが点灯し、廊下にサイレンが鳴り響くシーンは、人間の関与を窺い知ることは出来ず、見る者にむしろ大きな不安を抱かせる。
 技術者は毎朝の如くミーティングを開き問題点を検討している。その様子も見せてくれた。いろいろ事故防止の対策をしていることは理解出来たが、これらのスタッフは真にこの巨大システムの上に立ち、コンピューターを配下に置いているのだろうか、疑問を感じた。
 スリーマイル原発事故の際には数百の警報装置が次々となり出し、何から手をつければ制御できるか分からなかったことで貴重な時間を失った、と言うし、福島第一原発の事故では所長が「一体、自分たちは何をすればいいのか分からなかった」と回想しており、会長は「現場のスタッフを全員避難させて良いか」と国に問い合わせている。文字通りアン・コントロール状態で放棄する考えもあったという。信じられない事態・経過をたどっていた。

 廃炉過程にある原発の様相も見せてくれた。稼働中の原発と比較できない建屋の老朽化、配管は汚くさび付いている。放射能汚染があるために、また施設が巨大すぎて解体作業は困難している様相であった。単なるコンクリートの化け物ではない。慎重な扱いが求められる。

 原発は発電コストが他に比べて安いというのが設置理由の一つで大きなセールスポイントとなっている。だが、放射能漏れや爆発といった事故のリスク、廃棄物の処理コストがかなり高く付くのではないかと言われていた。さらに、原発の停止解体には長い年月と膨大なコストがかかりそうだ。また、年々増えていく使用済み核燃料をどうするのかについての解決策はないまま、日本は54基もの原発を作ってしまったのだ。現在も3基建設中である。
 今国内で稼働中の原発は北海道泊原発一基のみである。今夏の電力不足が問題になって大飯原発の再稼働が論議されているが、建築した54基のうちの一基のみで何とかまかなえている状況は一体何なのだ?と思う。化石燃料が殆ど無い、将来枯渇する、などの問題点があるにせよ、国のエネルギー政策の将来構想はどうなっているのだろうか。
 様々な光景を捉えた映像は、私に新たな知識をもたらしてくれた。これから原発について考える上で、観ておくべき映画の一つだと思う。


4/23(月)雨 外来 
2:00起床、新聞・文献読み、自炊など。6:55車病院着、昨年は通勤路桜開花したが、今年はつぼみがやや膨らんだ程度。 回診等病棟業務。7:45-8:30管理会議,8:45-14:40外来、混雑で疲弊。16:00-16:50東日本大震災支援担当者会議 、療養病棟判定会議は欠。17:00-18:15長副会議。重症患者対応。20:00帰宅、夕食、21:00就眠。

映画(40)「アンダー・コントロール」(1) 日本の原発は何故過疎地域にあるのか?  
 

 映画評



 

4月15日、京都の学会出席を切り上げて観た映画。
 アンダーコントロールは脱原発を進めるドイツの現状を撮ったドキュメンタリー。2011年の作。F・ザッテル監督は「原発に賛成、反対という視点をあえて入れなかった。観客に原発の全景を見せたかった」と話す。
 
 映画ではドイツ国内における数ヶ所の原子力発電所、関連施設の最近の様子を見せてくれた。本や図鑑のレベルでは知っていたが、これほどの映像はなかなか見れるものではない。本当のところはアン・コントロール状態にある原発の様相を観たかったのであるが、簡単な故障やトラブルの際の対処法は説明があったもののそのような場面はなかった。

 ある原発にはテロ攻撃などに備え煙幕発生装置が装備されている。起動させると高さ300mの煙が町全体を10分〜15分覆うことができ、施設が上空からも見えなくなる。タコの墨の様なもので敵の目をくらます仕様である。
 原発の仕組み、米国のスリーマイル島原発で起きた事故の原因もガラス製のモデルを用いて解説・再現してみせた。

 別な原発ではプールの中に貯蔵されている大量の使用済み核燃料を見せてくれる。これらは3〜5年の間、貯蔵用プールで冷やされた後、容器に詰められて、さらに数十年保管される。映像は施設の内部に入り込み、原子炉から廃棄物が保管される地底深くのトンネルまで及んでいる。

 1970年代に建設を進めていたドイツの原発は四半世紀以上を経ても先端的設備なのだ、と関係者は胸をはっていた。コンピューターと人間で4重にチェックするシステム、対航空機テロ対策などのほか、指令室のコントロールパネル上の数々の警告装置、従業員の放射線被爆、原発事故の可能性を限りなくゼロに近づける機能を誇っている。

 日本の原発は人里離れた半島とかにひっそりと建造されているのだが、ドイツでは市街地にある。たくさんの自動車が走る生活道路のそば、通勤電車の線路脇等々、ドイツの原発は人々の暮らしに隣接している。原発の安全性に関する自信の表れだったのだろう。原発の写真でしばしば見かける底の方が広い円柱状の巨大な建物は自然通風冷却塔と呼ばれ、巨大な煙突の下部に熱交換器を設け、発生する上昇気流で高温になった冷却水を冷やす。だから、高さ100mを超えるものも多い。これが、住宅地から眺められる。

 ドイツの原発の考え方から言えば、東京で用いる電力をまかなう原発をわざわざ東北の福島に設置する必要はなく、東京湾に面したところに作れたはず、と感じた。日本の原発の関係者は、一抹の不安に対する最後の砦として、過疎な地域を選んで建立したのではないだろうか。だとしたら、地域住民へ人権軽視である。そんなことを考えてしまった


4/22(日)曇り・風雨・雨  映画:家族の庭 
2:00起床、新聞チェックほか。文献整理、自炊多数。ノースアジア大学・安保教授講演会、第35回秋田青少年オケは欠とした。 16:00 映画:家族の庭。19:00帰宅、夕食、20:40就眠。

大飯原発の再稼働問題 ドイツの脱原発の流れから学ぶ
 いま、大飯原発の再稼働問題で、政府、地元共に揺れている。政府は原発再稼働を決めたが、その判断は端から見ていて不透明である。安全性の保障はなお不十分なように見えるし、急いで再稼働しなければならない程電力が不足しているかも、立場によって出てくる数値は異なっているし、説明を聞いてもよく分からない。ただ、報道から見る限り産業界からの要求が大きいようで、政府も揺れ動いている。

 日本では一時脱原発論議が高まった時期もあったが、最近は再び原発維持の方向にあるように見える。将来のエネルギー政策の方向性はどうなっているのだろうか。
 担当大臣である枝野経済産業相は、「原発依存度を最大限引き下げるのは明確な方針」と言っていたが「原発を今後とも引き続き重要な電源として活用することが必要」とぶれている。政府は中長期の方針を示さないまま、夏場の対策として大飯原発を動かす必要性を説いている。これではなし崩し的に元に戻ってしまう。原発・エネルギー政策は、国民と方向性を共有しながら冷静に議論し、結論を導くべきである。

 「産業の国際競争力のため原発は必要である」、「夏の需要期には電力が不足し関西圏の産業、住民は大きなダメージを受ける」、「原発からの撤退は非現実的だ」、「・・」。これらの主張は政府の、原発再稼働支持者達の代表的な意見である。

 注目すべきは、これらの推進論は、表現が異なってはいるが、原発ゼロの道を選択したドイツの産業界で唱えられてきた議論と同じである。しかしながら、ドイツのメルケル政権は、福島の原発事故からわずか4ヵ月後の2011年7月、2022年末までに稼働中の原発全17基の廃止を閣議決定した。メルケル首相は自身も物理学者で、原発を推進してきた保守政党の党首であるが、福島事故を受けて「原発撤退派」に転向した。ドイツの原発では大きな事故は生じていない。福島の事故は、遠い国ドイツの原子力の歴史に終止符を打つことになった。

 しかし、ドイツは福島事故で、急に政策転換したわけではない。
 この決断の背景には、40年にわたる原発反対派と政府間の激しい政治論争の歴史があり、2000年に当時のシュレーダー政櫓が電力会社との間で、原子炉の稼働年数に上限を設けることで合意しており、ドイツの脱原発はもともと進行中であった。既に、建設途上の施設は中止され、遊園地等の施設に流用されている。

 福島原発事故のあとでも世界中の原発は増加しつつある。だからこそドイツのエネルギー政策の転換は特異な光を放つ。世界で最も安全と評価の高かったわが国の原発は安全神話とされる幻想の上に打ち立てられていた脆いシステムであったことが明らかになった。

 人間は暴走した原発を本当に制御できるのか?どんな状況まで科学技術は原発を確実に制御できるのか、の原点に立ち返り、ドイツの行き方も参考にしながらわが国に最も相応しいエネルギー政策の方針を決めていくべきであろう。

 ドイツの脱原発路線を理解するのに、■熊谷徹著「何故メルケルは転向したのか ドイツ原子力40年戦争の真実」日経BP社、■G・パウゼバング著「見えない雲」小学館文庫 は参考になりそうである。取り寄せて読みたいと思う。


4/21(土)晴れ 由紀・安田ファイナルコンサート
1:00起床。週末恒例のハードディスク同期とデータ整理等。14:30病院、16:00-18:00県民会館。由紀・安田童謡コンサート。18:30帰宅、19:30夕食、20:30就眠。

「いのち」の質(1) 冒険家はどう考えているのだろうか
 職業、とは言えないだろうが、冒険家とされる方々がいる。堀江賢一氏、植村直己氏、白瀬矗氏等々が挙げられるが、一般の尺度では到底はかることができない方達である。一歩判断を誤れば命を失いかねない厳しい状況に自ら乗り出していく、旺盛な意欲と強靱な体力を有する人達である。ひとたび大事業を成し遂げたあとも次々と新しい挑戦を企てる。
 一見、冒険家は命知らずなのか?とも思われるのであるが、私は、むしろ、「いのち」の大切さを最も深く感じ取っている方々として注目している。

 古代から中世の探検や冒険の動機は主に商業や宗教であったが、15-16世紀の大航海時代になると、ヨーロッパの各国や貴族等がパトロンとなって、国家的または商業上の戦略としてサポートし、成功した折には地位や名誉、報酬を授けていた。この時代の歴史を読むとコロンブス他、多数の冒険家が名を連ねている。また、その業績が評価され、マゼラン海峡、クック海峡、白瀬海岸等、探検家の名がつけられた地名もある。

 最近の冒険家は殆どが個人的は行動である。彼らは、自分としてやりがいや生きがいのあることをしたい、そのためには一歩間違えば「いのち」さえも失いそうになる厳しい状況に身を置き、自分の体力の限界に挑戦する、そんな苦境に自から意欲を持って乗りだしていく。
 実際に冒険家として有名になったのはほんの一握りであって、どれだけの人数なのか、把握のしようがないだろうが、今も多数の冒険家が世界中で困難に挑戦していることと思われる。

 恐らく、彼らが求めているのはお金で買えないもっともっと貴重な体験、達成感なのだろうが、冒険には多額の費用がかかる。少なくとも冒険には経済的な見返りでは殆ど無いようである。白瀬は帰国後借金を返済するために、記録フィルムを持って全国を回ったというし、女流の冒険飛行家アメリア・イアハートは、飛行機の入手、燃料の調達のために嫌いな講演活動、執筆活動に追われていたという。
 北極点に到達出来なかった女優の和泉雅子1985年に北極点踏破を目指したが、途中で断念した。その際、1億円以上の借金を抱え、3年近くかかって返済、完済し終えた1989年に再度北極点を目指し、日本人女性として初めて達成する偉業を成し遂げた。

 冒険家が「いのち」について語ったこと、記述したことに私はまだ触れたことはないが、恐らく彼らにとって最も大切なのは「いのち」なのだろうと思う。意外と、日常的に出来るだけ危険を回避し、安全なところに身を置いている人達と、究極的には同じであろうが「いのち」の質には互いに相容れない感覚の違いがあるように思えてならない。


4/20(金)快晴 自転車7回目のパンク 大曲中通病院外来 
2:20起床。読書中心。6:20パンクしていて、急遽車で出勤。パンクは7回目。回診、病棟業務。6:30徒歩で駅、こまち大曲外来に。17:00病院に戻り週末の治療オーダー入力。18:00帰宅。パンク修理2回目、夕食、20:30就眠。

書評:総理の辞め方 本田雅俊著 PHP新書 2008年7月 
 いま、私は近代日本史を勉強中である。目標と意気込みは大きいのであるが実際には時間が足りず、遅遅として進まない。
 先日、京都出張の際、この本を駅の書店で見つけて手に取ってみた。戦後の歴代の首相について第43代東久邇首相から安倍首相に至る迄の28人歴代の首相の辞任過程と福田首相の最後の場面に視点を充てたユニークな本である。2008年発刊であるからから福田、麻生、鳩山、菅については記述無いのが残念である。

 そのうち、私の記憶にあるのは吉田茂首相の退陣直前の頃からで、その後福田首相まではいずれも記憶にある首相だから親しみを持って読むことが出来た。

 総理は就任する際でも、「やっとなれた」から「何でおれが・・」と言うレベルまでいろいろある。業績は簡単には評価できない。それこそ、評価には長い年月を必要とする。それに、政治は必ず利害関係があるから評価は一定しない。
 辞任に関してもその全てがドラマチックである。この本は一人ずつ年代順に首相になった背景、在任期間、特色、功罪、退任に至る主の原因が書かれていて、理解しやすかった。

 膨大な首相に関する歴史資料で、ポイントを絞れずに理解出来なかった辞任への過程を一気に読むことが出来た。私にとって貴重な資料になる。

 著者は 「まえがき」で退任劇を大きく自己の見解で6型に分けている。

「美しき辞任」     鳩山一郎、石橋、岸、池田、小泉
「淡白な辞任」     東久邇宮、鈴木、細川、村山
「結果責任による辞任」 片山、芦田、宮沢、佐藤、安倍
「未練のある辞任」   幣原、吉田、海部、羽田、橋本
「再起を目指した辞任」 田中、福田赳夫、中曽根、竹下、森
「流れに逆らえない辞任」三木、大平、宇野、小渕  

 一定の業績を上げて退任したのは鳩山、中曽根、小泉くらいで、殆どの首相は「志半ば」辞任である。岩手出身の鈴木善幸首相は何で辞任したのか今もって分からないが、かつては、病気、金銭や女性関係によるスキャンダル、派閥抗争による辞任が大部分であった。小泉以降の自民党首相、民主党の首相は失政もあるが、高頻度にマスコミ大手によって行われ、大きく報道される支持率が低迷して結果的に退任に追い込まれている。民意、と言えば聞こえが良いが底の浅い人気投票に近い。一人一人の判断、一つ一つの政策への評価でなく、支持率が評価の指標になっている。私は頻回の支持率調査には疑問を持っている。

 いろいろなタイプの辞任がある。この本を通読すると首相の辞任時期の見極めがその後の政治に大きな影響を与えていることが分かる。また、首相退陣後の人物としての評価にも関わっている。本当に難しいものだと感じた。


4/19(木)快晴 外来 
2:00起床。新聞・文献チェック他。6:55自転車病院着,回診、8:45-13:30外来。対外的行事無く。手形山久々登坂疲れた、16:20帰宅、新聞チェック。微酔30分、夕食、21:00就眠。?

クロスバイク(16) 仮走:上越新幹線上で新潟、長野新幹線で長野に着いた

 4月2日職員駐輪場で自転車のサドルバッグが盗まれ気落ちしたが、パンクの頻度からみて交換テューブ、交換用のグッズ無しでは走行出来ない。11日にテューブとタイヤレバーを再度購入した。今後はサドルバッグなどに入れて泥棒にサービスしないように、毎日背負っているディバッグのポケットに入れて持ち運ぶこととした。
 4月12日に積算走行計のカウントが2.270Km迄行った。新幹線上にプロットすると秋田から鹿児島までの距離と大宮から上越新幹線で新潟に着く距離に相当する。その後、高崎から長野新幹線で長野に向かったが、これも本日到着してしまった。明日からは福島ー新庄間148.6Km、次いで、盛岡-青森間178.4Kmを仮走する予定である。

 ところで、今回この作業を通じて新幹線は何所から何所までなのか、と言う事を考え直した。東京以南は一本のルートであることと、途中でJR東海、JR山陽、JR九州と会社が異なるので東京-新大阪-福岡-鹿児島が拠点であることは分かりやすい。東京以北の場合は会社はJR東日本一社であるが、ルートは東北(東京-青森)、上越(大宮-新潟)、長野(高崎-青森)、山形(福島-新庄)、秋田(盛岡-秋田)新幹線と5ルートで全線が東京・大宮間は東北新幹線上を走っている。

 ここで不思議なのは、すべての新幹線がを東京を起点としているしている如くの呼ばれ方をされていることである。一週間前に京都出張で東京駅にいたが、「上越新幹線新潟行き」、「秋田新幹線秋田行きこまち12号」などと呼ばれている。正式にはどうだろうか。例えば長野新幹線の場合は、大宮までは東北新幹線、大宮から高崎までは上越新幹線、高崎以降が長野新幹線だから、本来は東北・上越新幹線経由・長野新幹線「とき12号」などと呼ばれるべきであろう。

 面倒だから単に長野新幹線と呼んでいるとは思うのだが、また、それで良いと思うのだが、このことが結構誤解を与えている、と思う。ここ数日、患者やスタッフに秋田新幹線はどことどこを結ぶのか、と聞いてみると7割り方「秋田・東京」間と答える。


4/18(水)曇り・雷鳴降雨・夕方晴れ 外来 新幹線上仮走は新潟着
1:30起床。文献検索、徒然ほか。6:55自転車病院着,回診、病棟業務、8:45-14:00外来。17:00 自転車帰宅。走行積算2321.4Kmで新幹線仮走で新潟着、次は高崎から長野へ向かう。117.4Kmと短い。新聞チェック、夕食、20:45就眠。??

映画(39)孔子の教え  超大型スケールの戦争映画であった

映画評

 

4月7日に 観た映画
2009年 中国映画
監督フー・メイ


 静かな文芸作品として期待して観たのであるが、前半は超大型スケールの戦争映画であった。何でも巨大なスケールを好む中国映画ならでは、と思えば理解可能であるが、監督が女性だと知って驚いた。戦闘場面では千人以上の戦闘員が馬、戦車などを駆使して闘う。城壁に敵兵が迫り来た段階で火のついた油を流して敵を焼き殺すシーンなどなど壮大で、ただただ驚くばかりであった。制作費用はどれだけであったのか、と思ってしまった。

 全編の内容は、紀元前6世紀を舞台にし、思想家孔子が魯国に取り立てられ、業績をあげるものの寧略のために失脚し、弟子達と隠遁生活の中で学問を追究し続け、亡くなるまでの半生を描いた伝記物語である。

 諸国が覇権を取ろうと戦いを繰り広げる中、乱世を憂う孔子は、小国・魯の中で古い慣習を撤廃するなど改革をすすめて頭角を現す。孔子は、安定した国を築こうとする魯の君主から大司寇の位を与えられて国政の改革を託された。
 孔子は期待通りの活躍で内政、外交ともに次々と改革を進める。殉葬など古い慣習の撤廃や新しい礼節の制定だけでなく、斉との同盟条約を無血で締結させ、外交でも力を発揮した。その功績は他国の為政者にも注目され、孔子を招聘しようとする動きも活発化する。そんな中、国内では孔子の改革に危機感抱く勢力が台頭し激しい巻き返しも始まった。

 やがて、策略で孔子は魯から追放される羽目になり、家族を残して旅に出る。その過程で顔回や子路をはじ歴史に名を残すような多くの弟子たちが合流してくる。弟子は3500人にも至ったという。いわゆる孔門十哲と呼ばれる有名な弟子たちが、老いつつある師に付き従う姿は感動的であるが、前半の戦闘場面に制作エネルギーを使いすぎたのか、後半はしょり過ぎているようで、作品全体としてみればとてもアンバランスであった。本当はこの後半こそ私が観たかった場面であるが、その意味では少なからず残念であった。

 やがて、孔子は許されて魯国に戻ったが、政治には一切関わらず、学問のみを治めて静かに暮らし後世に残る名言を含む思想体系を確立していく。当時は紙はなかったのだろうか。論語と思われる作品は板を組み合わせた巻物に丁寧に記述されていく。それらを愛しく抱きしめつつ、白髪白髭の孔子は柱にもたれて静かに息を引き取る。

 主演のチョウ・ユンファは国際的にも活躍している俳優とのことであるが、慈悲に満ちた優しげな表情で適任であった。私は為政者であった若い頃の孔子のことを殆ど知らなかったが、この作品を通じて孔子についてと古代中国史の一部を知ることが出来た。歴史の勉強の際、参考になる、私にとっては価値ある作品であった。


4/17(火)晴れ・曇り 外来 
1:20起床、新聞・文献読み他徒然。6:55自転車病院着。回診他。 8:45-13:45外来、16:30帰宅、文献処理。夕食、20:30就眠。

マイペースで(17)無精ヒゲ(5)まわりに「さかなクン」

 私は超ラフで薄汚れた服装、しがらみからの解放に安堵する。アル中で失踪を何度も繰り返した漫画家の吾妻ひでお氏に共感を覚える。その気はなかったが、30年ほど前「完全失踪マニュアル」はよく読んだ。たぶん私の前世にこれに近い状態があったのかもしれない。

 しかし、「身だしなみとか服装を整えることは、社会人としてかかわる相手に対しての礼儀である。何と考えようと先生のはダメ、非常識だ・・」と、ある後輩から厳しいアドバイスを受けたことがある。確かに、と私も納得しここ10年ほどはそのように配慮して来た。

 加えて、私は会議や会合などは大嫌いである。会話を必要としない集会や催し物はそれほど抵抗がない。昨年10月の出身医局の同窓会を、私は「最後の重要な会」と位置づけていたが、この日を機に私は自身を解放し、会合に出るのを止めにした。

 ヒゲ剃りも止めた。あれからちょうど半年、上唇にかかってきた部分を一度すこし切ったが、その後は一切手を入れていない。顎ヒゲは6cmほど、徹底した無精髭である。自分で見ても貧相である。最初の頃は無精ヒゲに若干負い目に感じていたが、伸びるにつれて次第に面白くなった。引っ張る感触も良い。顔は個性が現れる部分だから、顔つきが変わるのは楽しい。もうかつての私ではない、生まれ変わった感じ、である。

 今回の京都出張では面白い現象があった。
 一応、通常のブレザーを羽織って締めたつもりであったが、下は着古したサマーセーターとズボン、薄汚れたテニスシューズ、頭にはヘッドフォン、背には不格好で大きい布製のディバッグというラフな格好で出かけた。3日間私の周りには「さかなクン」のような表情の方々が多数いた。私を見て「ギョ・ギョ」である。新幹線で隣席となった方、ホテルのカウンター、レストランのスタッフ、学会場や路上ですれ違った方々、は私を見た瞬間、一瞬「驚きと不安」の表情をした。一瞬「この年よりは大丈夫なのか」と思ったのだろう。

 アラブの男はヒゲがないと仲間として認められないという。だからほぼ全員ヒゲ面である。日本はヒゲを生やしている方は少数である。しかも、よく手入れしている。格好良い。立派な個性となっている。私もヒゲ面仲間になったのだが、無精だから自然に任せているだけであって一緒にはできない。こんな無精ヒゲ男はあまり居ない。路上生活者らしい人が似たような格好をしていた。
 私はヒゲの手入れする気は一切無い。綺麗に揃えるくらいなら面倒だから全部剃ってまたゼロから再スタートする。
 退職したとき、肩書きのない年寄りだから身綺麗にしていなければなるまい、と心新たにしたのであるが、のびたヒゲが考え方を元に戻してくれた。
 今後も、しばらくこのまま無精を続ける積もりである。


4/16 (月)快晴  
?1:30起床。3日間不在で新聞、印刷物が溜まっている。昨日修理に出したiMacが届いており再調整など。6:55自転車病院着.回診等病棟業務。出張中も患者は何とか安定。溜まった外来、入院患者関連書類処理。16:30帰宅、本、タイヤレバー購入に再度街に。夕食、20:40就眠。

老老介護は悲惨(2)「年の差婚」が高齢化社会を救う 
最近、65歳以上の高齢者の独居又は夫婦だけの所帯が増えている。
 2010年の国内の全所帯数は4863.8万所帯で、65歳以上の高齢者だけの所帯は1018.8万所帯、そのうち一人暮らしは501.8万所帯と初めて500万所帯を超えた(厚労省:国民生活基礎調査、2012.7.12発表から引用)。

 この資料からは高齢者がどの様な生活機能を維持しているのか、などは窺い知ることは出来ないが、早晩独居生活困難や老々介護状態に陥る可能性が高い。私が担当している外来は高齢者が多く、一人で、或いは夫婦で助け合ってヨタヨタと、見るからにやっと通院して来る患者も少なくない。家でもかなり不自由して暮らしている。一人暮らしよりも老老介護にある方々は一層悲惨である。
 私は出来る限りソーシャルワーカーを通じて訪問看護やヘルパーなどの社会資源の利用を勧め介護者の労の軽減をはかっている。それでも虚弱老人が丈夫になるわけではなく、根本的に事態が良い方向に変わるところはない。

 私は講演講話で「あの世に地獄はないが、この世にある。それは先進的医療と老々介護なのだ」と言ってきた。私のファイルの中に「孤立死」、「老々介護」、「老々介護関連殺人、心中」などの事例が蓄積されている。共に悲惨である。
 これは、わが国の医療・福祉の問題なのであるが、永田町の連中には通じない話題だろう。政治に頼れなければ自己防衛するしかない。

 ここで「人生複数回婚」を考えても良いのでは、と思う。
 その際、話題になっている「年の差婚」を求めればいい。20-30歳くらいの差が適当か。これが厳しい高齢化社会を上手く乗り切る最良の方法の一つだと思う。大体、平均寿命がこれ程延びると一度の結婚では長すぎる。「あなた100まで、私99まで・・」との誓いは、昔は口から出任せで良かったが、今は現実のものになってきている。子育てには年齢差は少ない方が良いのかもしれない。最初から「年の差婚」を求めれば犯罪になる可能性もある。だから2回目以降である。

 子供が離れていったら、早目に協議離婚し、互いに配偶者を取り替えればいい。その際に「年の差婚」をすればいいのだ。これで人生ばら色になるかもしれないし、老々介護でこの世の地獄を味あわないで済む・・かもしれない。

 若い配偶者を得るには、若々しさ、格好良さ、かなりの財力、などが必要である。・・とすれば、やっぱり生活に疲れ果てている一般社会の中年、初老の男女では実現は無理か、・・・うーん残念。


4/15(日)京都・秋田快晴 学会三日目欠席 映画:アンダーコントロール
1:00京都アパホテルにて起床。本読み、微睡、音楽、落語など楽しむ。6:30葉っぱとコーヒー朝食。家内不調で三周忌法要欠席とのこと。学会参加せず帰秋、9:00-16:00新幹線移動。16:30帰宅、夕食、19:00ー20:45映画:アンダーコントロール、病院にて患者状況チェック、22:00自転車帰宅、22:30就寝。

第109回日本内科学会総会講演会(2) いつもの半分しか聴講できなかった

 三日間の学会が終了した。いつも講演を聴講するのを楽しみに参加するのであるが、今回はいつもの半分ほどしか聴講できなかった。残念であった。

 開催地が京都であり、朝一番の新幹線で発っても京都着は13:00頃であった。 空路も検討したが大差なく、前泊は考えなかった。 だから聴講できたのは初日午後の、総会後のセッションのみであった。これはやむを得ない。

 会場がパイプ椅子で長時間座っているのに適さなかった。尻と腰が痛くなって2時間余で辛くなった。会場に足を踏み入れた途端、「聴けるものは全部聴くぞ」と言う意気込みは一気に萎えた。正直ガックリ来た。それで初日は午後の2時間余、二日目は午前、午後とも2-3時間のみしか聴講できなかった。三日目はどうしようか、と迷ったが、今ひとつファイトが出ずにキャンセルして帰秋した。

 結果的にいつもの半分、以下の演題しか聴講できなかった。
 ■心臓超音波の進歩、■甲状腺機能異常、■ANCA関連腎炎、■肺高血圧症(途中まで)、■運動ニューロン病、■機能性胃腸障害、■インクレチン、■診療ガイドラインの法的側面、■内科学の使命と挑戦(途中まで)。

 今は主要都市に国際会議場レベルの立派な会場がある。ここしばらくはそのような会場で開催されていて、良い環境で終日聴講できた。今回の如くの会場は予想もしていなかっただけに驚き、かつ、落胆した。ホテルで過ごした時間が長かったので、持参の新書を5冊ほど読めたのが救いだった。?


4/14(土)京都雨のち晴れ 第109回日本内科学会総会講演会二日目(京都みやこめっせ)
1:30京都アパホテルにて起床。本読み、微睡、音楽、落語など楽しむ。6;00葉っぱとコーヒー朝食。10:30学会場。昼は通常は会場で過ごすが今回は椅子の関係で無理、近くの平安神宮など散歩。午後は15:00で終わりにしホテルに戻った。新聞本読みなど。19:30夕食、20:30就眠。??

老老介護は悲惨(1)「年の差婚」が高齢化社会を救う 
? 学会出張時、私は学会場とホテルの2点間往復だけである。京都の如く観るべき所があってもまず観光はしない。ホテルは非日常的環境だからゆっくりと自分の時間が持てる。録り貯めた録音を聞き、スクラップ記事を整理するのに恰好の環境である。パソコンと手帳大のハードディスクで10年間分のスクラップ記事、PDF化した論文や書籍を検索して読める。良い時代である。

 昨年の新聞スクラップ記事に、初老或いは中老以上の男性芸能人が40歳以上も年下の女性と結婚したことを紹介する記事があった。朝日新聞の生活欄では時折家庭や家族問題が取りあげられ、なかなか面白い。興味を持ってみている。

 具体的には昨年の6月頃のこの欄に、ドリフターズの加藤茶氏(68)が23歳の女性と結婚したことが紹介され、同様の方々も何人か紹介されていた。堺正章氏(65)が43歳女性と、寺田農氏(68)が33歳と・・と続いていた。

 この記事をスクラップした日の事は記憶にないが、記事の分類場所は「医療・福祉・介護」に入れていたから、恐らく介護面でのメリットという目でこの記事に注目していたことが分かる。
 紹介されていた方々にはそれぞれ事情と思惑があろう。それに最近の社会事情も関与しているだろう。その事情など私などに分かりようもないが、私は日常の診療の中で老々介護の悲惨さを身近に見ているだけに「年の差婚」は高齢化社会の一つの有り様だと思っている。

 芸能人だから興味本位に取り上げられるのだろうか、あるいは、一般社会でも「年の差婚」が増えてきているのだろうか。分からない。私が業務とかを通じて知る範囲ではほぼ近い年齢同士で再婚している例が大部分である。

 やはり、芸能人は特殊なのかもしれない。女性からどう見えているのかなど計り知れないが、一般的に芸能人男性は初老期になっても活動性は高い様に思われる。多分財力も十分あるだろう。
 だから、言葉は悪いが、互いにギブ&テイクの思惑があるのだろう、と勘ぐってしまう。私はそれでも良いのではないか、と思う。
 いずれ訪れる老・病・死において「年の差婚」は大きなメリットになるだろう。


4/13(金)秋田快晴・京都曇り 北朝鮮ミサイル発射 第109回日本内科学会総会講演会初日
0:30起床、出張準備。新聞、文献など。徒然、4:30車病院着。治療のオーダー入力、自分のパソコン他の機器を詰め、6:02こまちで発ち12;50京都に到着、ホテルチェックイン、14:00-17:00「みやこめっせ」での日本内科学会後援会総会へエントリー、午後の演題一部聴講。18:00ホテル、夕食、本読み、20:30就眠。

第109回日本内科学会総会講演会初日(京都みやこめっせ) 座っているのが辛い
 本日、日本内科学会総会講演会があり京都にいる。

 この講演会は最近の内科学に関する講演を、3日間で30演目以上聴くことが出来る。それが魅力で1973年以降万難を排して出席している。 第108回総会もエントリーしていたが、東日本大震災のために中止となった。秋に一日だけ108回として講演会が開催されたが、それには出席しなかった。
 
 従来は出張前の準備が大変であったが、入院患者が少なくなってとても楽になった。0時半から起き出しいくつかの用事をこなし、4:30頃病院に立ち寄り、こまちにて京都に向かった。こまち車内ではずっとノイズキャンセリングヘッドフォンを用いたので騒音も少なく、本も読めて6時間余快適に過ごした。学会場には14時過ぎに着いた。東京以南は桜が満開であった。

 京都は学会で10回以上訪れているがすべて国際会議場であった。今回は「みやこめっせ」というところで、初耳で新しい施設かと期待したが、外れた。当施設は 平安神宮の近くにあり、平安建都1200年を記念して平成8年に開館、産業界の展示会、イベント、見本市などで利用されている多目的施設である。講演会場はだだっ広い平場にビニールシートを敷きパイプ椅子であった。こんな会場は10数年以上無かったような気がする。

 専用の会議場だと椅子の座り心地も良い。いつもなら最前列に席を取って終日聴くのだが、本日は気後れして後列に座り、16:30終了まで聴講した。

 最近の日本内科学会総会は会頭の地元が何所であっても東京フォーラムに固定されて開催されていた。移動にも便利、座席のクッションもほどよく、3日間、8時間も座り続けていても苦痛より満足感の方が大きかった。パイプ椅子は狭くて固い。本日は2時間ほどで座っているのが嫌になった。明日から辛そうだ。

 宿泊のアパホテルは550室もあるビジネスホテルであった。部屋やデスクや風呂等は狭く、最小規格仕様と思われた。その中でベットはセミダブルと広く、TVは26型の液晶ものだから実にアンバランス。荷物を広げたら動くのにも苦労した。駅に近くシャトルバスに便利で立地条件は良かったが、そのバスが10分ほどと思われる距離を渋滞のために30分以上もかかった。
 今回の学会は、会場、ホテル、移動の状況からちょっと辛そうだ。


4/12 (木)晴 外来 患者家族面談
 2:00起床、文献チェック、徒然他。6:45自転車病院、家族面談着。回診、病棟関連書類、8:45-13:30外来。15:00入院患者対応。16:15添川経由帰宅、本読み、夕食、20:30就眠。


モンスター患者(3)モンスター患者誕生の背景(2)怒りの表現、受け止め方の教育を
 「モンスター患者」は医療の現場で表れるから医療側の問題点を述べた。その中で医療者側に包含される問題を記述をした。実際には医療の現場だけの問題ではない。わが国の文化、社会自体に問題があり、家庭・学校教育に問題があると思う。

 日本人は表情に乏しく何を考えているか分からない国民だと言われている。あまりにも感情を、怒りを抑制する。それを日本では美徳とされ、そうでない人は「人間が出来ていない」などと言われている。
 かつて、大勝負を制した横綱がガッツポーズをとって協会から注意を受けた。甲子園でさよならホームランを打った選手が塁走中に右手を大きく挙げて喜びを表現したが、それも高野連からやんわりと注意があったように記憶している。喜びの表現、怒りをあらわすことが抑え、無表情にじっと耐える、それが日本的伝統、美徳と評される。ここに「モンスター患者」が発生する背景がある。しかし、時代は変わった。なでしこジャパンが優勝した時の狂喜にはウソもカゲもなく私も感動した。

 よくしゃべり、適宜怒る人は実は恐くない。ウソがない、ウラがないからである。だから、対応も可能である。しかし、必要な時ですら口を開かない、内心では激しく怒っていながら一切外に出さない様な人は、笑顔の裏に怒りや嫉妬、憾みや悪意を上手に隠している、はずである。他人のことは私にはよく分からないが、私がそうだから多分そうだろう。そんな人が時に暴走し「切れる」。こう言う人の扱いは一般に困難である。しかし、身近に私を含めてすごく多い。あ、私はまだ切れたことはありません。

 人が集団で社会を形成して暮らしているが、そこには生物として生きていく上に本来備わっている闘争心、怒りの感情の抑制が必要となる。だから、人の社会は生物として不自由である。社会的に個人の感情の抑制は美徳であった。それが出来なければ「つまはじき」になり社会から放擲される。社会にいることのメリット以上に、抑制されている方のデメリットを大きく感じ取る人もいるし、その大きさに圧倒され、押し倒される人もいる。ある人はモンスター患者的になり、ある人は更に自分を押し殺しうつ的になる。

 従って、日本の美徳を考え直す必要がある。時代は変わり個人と社会の関わり方が変わってきた。人間同士の関係も変わり希薄になってきている。道義・道徳・倫理観は失ってはいないが小さくなった。個人がより自由になった。要するに社会的絆が薄れ、野生動物の世界に似てきている。個人の責任が大きくなった。こうなると自分を表現する方法が必要になってくる。要するに、自分の意見を、怒りの気持ちを言葉によっておおらかに表現する教育が必要になってくる。同時に、他人の意見や怒りをクールに受け止める教育も必要である。患者が医療機関に対しもっと意見を述べられる様になればモンスター患者は激減する。

 わが国はどこから見ても今ひどい状態にある。せめて政治がしっかりしてくれれば良いのだが、と思う。それにしても国民の怒りが乏しいのではないだろうか。怒りが乏しいから永田町ではのうのうとキャッチボールを繰り返しているのだ。ただ、その責任はわれわれにもある。


4/11(水)終日雨  外来 
?1:45起床。新聞・文献検討、徒然。6:50自転車6回目のパンク、車で病院着、事務処理、7:30回診等。8:45-13:30外来。16:00交換用テューブ、パンクキット再度購入し帰宅。50年振り自分でパンク修理。本読み、夕食、20:45就寝。

4.10は我が家の防災の日(2)家具転倒防止器具はほんとうに有用か?
 火災に次いで対策が必要なのは地震であろう。特に昨年の3.11以降は地層が不安定になったらしく、それ以前に比べて大きな地震が頻繁に生じている。秋田市の近くにも活断層があるとされているから要注意と思う。しかし、まだそれほど対策は進んでいない。

 災害時の情報収集にはラジオが役立つ。居間にある2台は太陽光発電と人力発電機能、ライト付きで携帯への充電も出来るタイプで、日常的に用いている。
 食料品、飲料水、カセットガスボンベなどは数日分は備蓄している。
 その他、家具には重いものを下に詰め、出来るだけ上にはものを置かない様にしている。また、家具や物品は積極的に処分し始めている。居室の家具はそう減らせないが、孫達が来たときに用いる部屋は家具は一切置いていない。

 特に最近力を入れているのが本、書籍などを処分である。我が家には等身大の本立て、書架が20以上ある。これらは他の家具よりも重く、しかも、転倒する可能性が高い。2階の書庫と廊下への重量負荷は相当なはずである。その真下が居間なので心配である。それで、不要な書籍は処分し、興味ある書籍は電子化することで軽量化を図っている。約1年前から始めているが書架に隙間が目立つようになってきた。

 地震の被害軽減のために家具の転倒防止対策はとても重要であるが、我が家ではあまり進んでいない。居間の書架を一つだけ壁に固定したがこれは地震対策と言うより構造的に不安定だからである。

 地震は揺れの規模によってはどんな対策も無効だろう。中規模の揺れの場合は対策はそれなりの効果があると思う。ただ、市販されている家具の転倒防止用具は家具をネジで壁や柱に固定するタイプである。
 私は家具が移動したり倒れたりする規模の揺れに対してこれらの固定式の器具は殆ど役だたないと思う。壁面と家具が同期して同じ方向に動くのであれば効果があるだろうが、地震の際には別々な周期で別方向に動くはずである。だから重量のある家具はバッチリ固定しても最初の揺れでネジなどはじき飛ぶ。ボルトでしっかり固定するなら効果は期待出来るだろう。

 私が少し信頼出来ると思っているのタイプは、壁と家具を固定しないチェーン式の器具である。これならば家具と壁との別方向への揺れを許容し、かつ、転倒も防ぐ事が出来る筈である。しかし、残念なことに私がイメージしている様な器具は市販されていない。

 先日、住宅の設計士の方と話す機会があってこのことを質問したが、「多分そうでしょうね」との答えで、私の疑問は晴れなかった。
 上記の如く、我が家の地震対策はまだ緒についたばかりである。


4/10(火)晴れ 乙部大火記念日 外来 ?
 1:15起床,文献検索と読みetc.6:55自転車病院、7:35回診他。8:45-14:10外来、入院あり。16:30北インター経由で帰宅、本読み、夕食、20:30就眠。


4.10は我が家の防災の日(1)私は火に過剰に反応する
 昭和27年4月10日、私が小学校入学の年であるが、もらい火によって我が家と診療所が全焼した。農家のモミガラ焼きの火が風速10m以上の強風に煽られ、近くの農家のわらぶき屋根に引火した。近隣の11軒が瞬く間に消失した。
 私は我が家が燃え落ちるのを傍の畑で麻薬が入った手提げ金庫に座って護りながら見届けたが、今でもあの光景は忘れられない。

 私はこの日を個人的に防災の日と位置づけている。

 当時、田舎では熱源は薪と炭であった。着火にも苦労したが消火には更に気を遣った。こたつや火鉢の残り炭には丁寧に灰をかけ、風呂やカマドの残り火は集めて火消し壺に入れて消火した。私は家族達が呆れるほど火に気遣いし、消火を確かめ回っていた。一方で、私は火を燃やすのが好きで、自宅の可燃の廃棄品は庭や畑に穴を掘って私が全部焼却処分した。大きく燃え上がる炎に興奮した。最後は土をかけて更に水をかけて消したが、それでも心配で夜間に何度か確かめに行ったものである。

 私は日頃から火の扱いには過剰に神経質である。
 今は電気、ガスや石油なので器具が不調でない限り着火も消火も完璧に行われる。あとは使う人の問題である。ストーブはタイマー予約を禁じ、家を少しでも空けるときは消火を求めている。調理時にはアラームのセットを強く求めているが、なかなか徹底してもらえず私は心配しているし大いに不満である。仏壇の線香、ろうそくは手を合わせる時だけ火をつける。
 火災報知器は法に則ってセットし、消火器は台所と2階の廊下に備えてある。それでも、満足出来ていない。

 この火に関して過剰に神経質なのと、大きな炎に快感を覚えるのはあの時の火災の衝撃がルーツだと思う。あの日見た巨大な炎と激しい熱気は、希ではあるがまだ夢に出てくる。

 秋田に来てからは焼却炉で可燃物を処理していた。市販の焼却炉は脆かった。大量のゴミを燃やすので大体2-3ヶ月でダメになった。20年ほど前からだろうか、ダイオキシン問題で自宅で火を焚けなくなって寂しい。今、家具や書籍等を大量に廃棄しつつあるが、廃棄物を公的な処理に委ねなければならないのは、私にとって本意ではない。本当は自分で使った者は、自分の手で葬りたい。しかし、果たせず残念である。


4/9(月)雨後曇り風 外来 
1:20起床、文献、新聞チェック他。6:45車病院着、回診、病棟業務、8:45-14:10外来、16:10帰宅。新聞・本読み、夕食、20:30就眠。

柳家小三治独演会を聴く 枯淡の芸であった
 私は落語が好きである。去る3月30日、秋田県児童会館にて10代目柳家小三治氏の独演会があった。私は襲名と言うことの意味はがよく分からないが、初代柳家小三治は1890年だからもう一世紀以上続いている名誉ある名前である。

 10代目柳家小三治氏は1939年生まれで、私より6歳上である。大学に進学せずに、5代目の柳家小さんに入門した。若い頃からその技能は注目され、真打ちになる際には17人の先輩を飛び越したという。落語界では真打ち昇進は基本的に年功序列で氏は異例だったらしい。
 氏は芸を磨くことにひたすら精進し 当代一の実力と人気の落語家の一人で、券の入手は困難とされている。演目に入る前の語り「まくら」が面白いことも知られ「まくらの小三治」という異名もある。「まくら」だけで一演目分になった事もあったらしい。2010年に落語協会会長職に就任した。

 私は小三治氏を落語以外のジャンルで知っていた。大型バイクとオーディオ、クラシック音楽を通じてである。共に20年も前のことで、当時、私もバイクやオーディオに若干凝っており雑誌等を購入していたが、それらに時折登場していた。バイクはヤマハの750cc、オーディオ装置は私のよりは格段にハイクラスであった。そのほかにスキー、声楽、食などの分野でも基礎から精進と工夫を重ねているとのこと。「趣味だからこそ真剣に取り組まなければ面白くない」と何かに載っていたが、この趣味の広さ、物事を徹底して追求する性分が「まくら」に生きているのだろう。

 主催のABS放送局を通じて券を購入した。その際座席は指定出来ないとのことであったが、「通路に接した席希望」と書いたためか、最前列の左端で手足を気兼ねなくゆったり伸ばせて満足した。演者の表情もよく見えた。

 独演会と言うから一人だけかと思ったが若手の「柳家ろべえ」氏が前座を務めた。とてもシャープな声と演技であったが、声がクリアで大声だったから耳に痛い。私はヘッドフォンを付けて聞いていた。
 次いで登場した小三治氏は一転し、淡々とした、間を大事にした語りで、枯淡の境地という雰囲気で2題演じた。一つは秋田・岩手に関する話で、30分ほど演じたが、私はこれは正式の演題でなく、「まくら」だけだったのではないか、と思って聴いていた。後半は私にとって初めて聞く演題であったが、20分ほどで終了し、尻切れトンボ的な印象を受けた。これが正式の終わりなのか、体調でも悪かったのか、と心配した。

 会が終わると壁に本日の演目名が貼られる。参考にしようと携帯で写真を撮ったがぶれて読み取れなかった。したがって何を話したのか、うまく表現出来ない。


4/8(日)快晴 県立博物館「貝の多彩な世界」 タイヤ交換他
1:30起床。週末の習慣・ハードディスク内データ整理。新聞チェック、本読み他。9:00盛岡に向かう家内送り病院経由で帰宅。11:00-14:00県立博物館「貝を巡る多彩な世界ー渡辺浩記コレクションより」を見る。15:15車タイヤ交換2台分病院。19:10家内迎えと週末の学会用チケット購入、外食21:00帰宅、21:30就寝。

モンスター患者(3)モンスター患者誕生の背景
 人は誰でもモンスターになり得る。その背景は何だろうか。
 モンスター患者はクリニックでも皆無ではないが、多くは先進的医療を展開する大病院が多い。何故か?

 キーワード的に理由を挙げると、■先進医療の自負と自信、■巨大施設の権威と威圧、■患者の萎縮・恐れ、■人としての平等意識、自尊心の軽視・無視であろう。
 加えて、■患者・医師共に酷な受療・診療環境にあること、■医師の上から目線、権威を感じさせる物言いや指導、■患者・医師間の情報量の差、■患者特有の負の心理状況、生命への危機感、社会的・経済的危機感、■見ず知らずの他人、若手医師に自分をゆだねなければならない悔しさ、■非日常的環境とベルトコンベア式に進められる診療スケジュール、■患者の不満や注文を伝えた際に見られる医師の尊大な態度・・・等々も関与する。

 医療者も多忙で必死に耐えている。しかし、それ以上に患者は耐えている。医療者側はそんなことはないと言う。しかし、これが大きな要因である。内部にいるものには分からない。医療者側の耐えて頑張っているという意識は相手側の苦悩を軽んじる。

 医療の中で双方共が耐えながらギリギリのところでバランスがとれている状況こそが最大の問題なのだ。だから、医療供給体制をもっともっと改善して行かなくてはならない。 
 患者の大病院志向も変えていかねばならない。現状では押し寄せる軽症患者への対応に時間がとられ、より重症な患者への対応がおざなりになっている。また、軽症患者自身の不満も大きくなっている。モンスター患者は一般的に軽症者から発生している。

 医療人がモンスターを作っているという背景を顧みないで特殊な患者として見下していないだろうか。医療側に責任はないのか、考えてみる必要がある。患者側は最後の砦である「人としての平等意識、自尊心が軽視され無視された時」に鬱積が外に向かって行動を惹起する。
 ドイツの作家・詩人・政治家・自然科学者・美術研究家ゲーテ(1749-1832)は多方面に業績を残しているが、医療への批判も厳しい。「医者なんて信用できるものでないが、医者なしでやっていけないところに我々の苦悩があるのだ!!」と述べているが、彼が現代に生きていればモンスターになっていたかもしれない。


4/7(土)晴れ・寒波で風強い 映画「孔子の教え」
1:00起床。新聞チェック、本読み、録音データ整理他。13:30ー16:00映画「孔子の教え」。壮大な映画であった。自転車往復は風と寒さで難儀した。録音データ整理。19:00夕食、 20:30就眠。

寝台特急「日本海」(2)随分揺れたが繊細な配慮で運行されていた
 特急寝台「日本海」の足跡を調べてみると、私は食堂車はわずか2年しか利用出来なかったことになるが、その間に2-3回は利用した。記憶に鮮明なのは、大阪からの帰路、通過した暴風雨のために「日本海」の運行は未定、とされていたが今更他の方法で帰れるわけで無し、と判断を駅で待っていたが、幸いにも直前に運行が決定した。

 この列車には僅か20人ほどしか乗車しなかったらしい。待ちくたびれたので早速食堂車を利用したが誰もおらず、私は2時間ほど本を読みながら貸し切り状態で過ごした。良い思い出である。私が乗った寝台車両も私だけだった。

 私の記録では最後に「日本海」を利用したのは2006年7月の新潟出張で、思ったより昔だった。年に一度、新潟大学医学部学士会の関連病院院長会議というのがあって何度か出席した。翌朝の外来に間に合う様に帰秋するには新津発1:27の「日本海」に乗るしかなかった。5:25秋田駅に着きそのまま出勤、外来等をこなしたが、なかなかハードな出張であった。

 寝台列車は随分揺れた。特に、3段式の最上段は時には激しく揺れた。私は荷物置きの棚の一部も利用出来て広くて便利なことと安かったので好んで利用した。そう頻回に利用したわけではないが、A寝台は座席の向きも異なり、揺れも少なく別世界であった。
 鉄道マンの手記などを読むと「日本海」の如く多数の客車を牽引するタイプの機関車は構造的にも古く、ブレーキをかけてもすぐには効き始めない上、ブレーキ操作によって客車の揺れがひどくなるため、なるべく自然に減速させるという。加速や減速のタイミングは乗客人数、天候、勾配やカーブなどでその度ごとに異なるとのことで、運転士は就寝中の乗客を起こさないよう細心の気遣いして運転したと言う。それにしても揺れた。日中の特急「白鳥」、「いなほ」ではこれほどの揺れ感じられない。車両のスプリング等の構造的にも関連する因子もあったのだろう。

 寝台車での移動はどうしても眠りが浅く、時折停車する駅のアナウンスも控えめで、微睡みながら独特の雰囲気がある。朝は早く目覚める。車窓からの眺めは陽が昇ると共に次々と変化し、見飽きることはなかった。特に帰路、山形から秋田に向かう鳥海山の勇姿、海岸線の美しさは夜行列車でなければなかなか味わうことが出来ない。
 かつては早朝に洗面所が結構混雑した。洗面台もトイレも構造は古めかしいままであった。特急「日本海」の客車は大部分35年以上も使用してきたタイプだという。それにしてもずいぶん丈夫なものだ。

 特急「日本海」の廃止は寂しい。空路の秋田・伊丹便は今年は6往復になった。大阪市内まで2時間余で着く。この便利さは今の私にとってはむしろ辛い。今週末の京都出張は「日本海」があれば全く迷わなかったと思う。本日「こまち」「のぞみ」の往復乗車券を購入した。


4/8(金)曇り晴れ 大曲中痛病院診療応援 iMac起動せず
1:00起床。新聞、文献関連、6:15車病院、回診他、8;05こまち、8:45-15:15大曲中痛病院外来。こまち、病院経由、18:00帰宅、iMac起動せず修理依頼する。Mac Miniと入れ替え、夕食、20:30就寝。

寝台特急「日本海」(1) 半世紀以上も走ったがついに廃止
 4月13日(金)-15日(日)京都市において日本内科学会総会が行われる。外来のスケジュールの合間なので出席できそうなのでエントリーした。ホテルの確保に難渋したがキャンセルが出て何とか確保出来た。

 で、今どのような方法で出かけるか考えている。空路で、秋田→伊丹便、秋田→羽田→伊丹便、羽田まで空路でその後新幹線で東京→京都も候補であるが、今回は新幹線での往復を考えている。片道6時間余であるが、その時間を揺れにゆっくり身を任せてラジオ深夜便の録音と本、車窓からの景色を楽しみたいと思っている。

 従来から、裏日本側の出張等で不便したのは移動手段である。それは今でも殆ど変わらない処か、ますます不便になった。大阪−青森間の、国内で昼行列車で最長距離と最長時間を誇った特急「白鳥」は2001年3月に遂に廃止され、本年3月には寝台特急「日本海」が姿を消した。この2本の特急列車の廃止は、時代がらやむを得ないと分かっていながら心情的にはとても残念である。

 寝台特急「日本海」は関西方面への出張にはとても便利であった。秋田から19時あるいは20時半頃に乗るとの翌朝丁度良い時間帯に京都あるいは大阪に着いた。寝ている間に到着するのはとても便利であったし、前泊が不要で時間的にも経済的にも効率的であった。

 ここ数年は多忙で、かつ、空路も便利になったので私ももっぱら秋田→伊丹便を用いていたが、今はそう急いで移動する必要もなくなった。こうなると3月に廃止された寝台特急「日本海」が惜しまれる。

 大阪・青森間1023Kmを走る寝台急行列車は終戦後間もなく、1947年から運行が開始され、1950年に「日本海」と命名され、1968年に特急化されたが、1975年3月には食堂車が廃止、2008年3月には利用者の減により一日2往復から1往復となった。それでも利用者が減少し、昨年の利用者数は10年前の4割程度に落ち込んでいた。主に採算性の面からついに本年3月17日をもって定期列車としては廃止された。

 私が「日本海」を利用するようになったのは1973年からで、主として大阪、京都、神戸での学会出張で10往復以上したと思う。


4/5(木)降雪・曇り 外来 
1:00起床、就眠中咳がひどかった。主に医学関連文献読み、新聞チェック。6:50車病院。7:20回診。8:45-14:00外来。16:10帰宅、本読み中心、夕食、20:40就眠。

モンスター患者(2)誰でもモンスター患者になり得る

 「モンスター患者」と呼ばれる怪物患者にはいろいろなタイプがいる。
 私が対応した患者で見ると、■病気の一環として医療者を攻撃する行動に出る患者、■認知症で易興奮性にある患者、■人格異常、性格異常と思われる患者、■正論論者、■普通の、常識人・・といろいろである。

 先日は、高齢で中等度の認知症があり、耳は聴覚障害で殆ど聞こえない患者が待ち時間が長いと興奮し、待合室、診察室で大声を上げて診療に支障を来したことがあった。こちら側としては診察順番が来た際に何度も何度も呼び出しても一切反応が無く、不在患者としてカルテを寄せ、数人の診察毎にも声をかけていた。院内放送も行った。患者は約2時間前から待合室に座っていた。
「自分は予約時間のずっと前から待っているが、一度も呼ばれていない。何度かスタッフに手を挙げて合図したが無視された。スタッフは長く待っている患者には声をかけるべきだ。病院は耳が聞こえない患者がいることを考えて対応すべき。医師の診察もだらだらと長い・・・」、とクレームの内容は一部筋が通っていた。耳が聞こえないために自分の声量のコントロール出来ず、こちら側の言葉が全く通じないので対応に難航した。

 正論論者は、自分が患者として診療を受けた時はそれほどではないが、家族や友人から診療についての内容を聞いて「あるべきでない対応だ」、怒り、興奮し患者と共に来院する。患者は診療に納得して帰宅したのに正論論者と一緒に来たときはそちらの側に立ち話を合わすから厄介である。ひどいのはメールでのクレームで対応する度ごとにエスカレートする。論旨は正しいだけに対応は困難である。先方の結論は「本人を出せ、あやまれ、補償せよ」である。

 普通と思われる人が、たまたま何かを切っ掛けに怒り、振り上げた手を下ろせずにズルズルと「モンスター患者」様の行動を取る事もある。意外と、このタイプが多い。この際にはたまたまムシの居所が悪かった、と言うような前提、背景があるようだ。「今までは何とか耐えてきたが、今日は・・」と蓄積エネルギー暴発型である。

 私は人は多様で物差しで到底測り得ない、わかり得ない存在だと思っている。何を持って普通の人と判断するかの判断基準を持っていないが、一見常識、良識を備えた社会人とみなすと、普通の人も「モンスター患者」になっていると言うことは、逆に誰でもなり得る、と言うことでもある。更に、誰でもなり得るとすれば、何が切っ掛けになっているのか、と言うことが問題になる。
 確証はあるわけではないが、普通の人を「モンスター患者」にさせるのは患者側、医療者側双方に問題があることを示唆している。


4/4(水)暴風雨 外来
 0:30起床、暴風雨で自然排気型のストーブ使用不能。一瞬の停電朝まで数回。デスクトップは危険、家内のパワーブックで処理。新聞、文献チェック、本読み中心に。6:55車病院着、7:30回診他、8:40-14:00外来。16:10車帰宅、早朝風速40m以上だったという。途中で屋根飛ばされた家あり。夕食、21:00就眠。

モンスター患者(1)そのかげにモンスター医師あり
 私が最も好んで読んでいる医学雑誌は週刊の日本医事新報で、子供の時から身近にあったこともあって医師になってから約40年ずっと購読している。 雑誌には殆どの診療科にわたって総論的論文が掲載されるので、一般内科で診療している私にとってとても有用である。その他、医療全般にわたるニュースや情報、医師会情報などを読むことが出来る。

 この医事新報は年2回、随想集となる。夏は「緑陰随筆」、冬は「炉辺閑話」として、医師達の、それも教授連とか有名病院の院長クラス、更に第一線を退いたベテランの医師等が投稿している。この随想号は100編くらいのミニ随想が掲載される。かつては老人クラブか何かの機関誌の雰囲気があり、私は老医の「昔は良かった・・」調のグチみたいなのは見たくもなかった。が、私も還暦を迎える頃から発想が変わってきた。嬉しいことに、と言うか、共感を覚えるようになってきたからである。

 執筆者が高齢であるから疾病体験記、入院闘病記などが掲載されるが、その中には「病気で入院してみて、初めて患者の気持ちが分かるようになった・・」としみじみと記載している例が少なくない。私はこれらを読む度毎に「今更何を言っているのだ。ならば、今まで、あるいは第一線を退くまでどんな医療をしてきたのか・・」と、かえって呆れてしまう。こんな医師が医師・患者関係を悪化させてきた、と思う。
 
 近年、「モンスター患者」と呼ばれる怪物患者が医療界で問題になっている。
 「モンスター患者」はわれわれ医療人にとっては実に厄介な存在で、実際に対応していると医師としてのモチベーションが低下する。ところが、逆に実害が無いところではこの「モンスター患者」は医師にとって恰好の憂さ晴らし的な存在になっている。「バカな患者」、「異常な患者」、「常識の乏しい非社会的患者」などと完全に見下している。要するに、この時だけは普段抑鬱されている医師が復権を果たす時である。

 患者の権利意識が高まって医師の立場は限りなく小さくなったが、「患者様」とバカな呼び方が普及してから「患者様」と「医者」は立場が逆転した。このことは医師にとってある種の緊張感を伴うストレスになっていることは疑いはない。だから、この「モンスター患者」を話題にしている時の医師達の表情は実に晴れ晴れとしている。問題のある患者を見下すような立場で論議を展開する事が出来るし、患者の異常性をどうどうと批判出来るまれな機会だからである。

 この、老齢になって初めて患者の気持ちが分かった、とか、患者を見下した態度で批判できる医師自体が、実は自分たちが「モンスター医師」であって、知らず知らずのうちに患者に抑制をしいていたのだ、と言う事に気づいていない。大いに反省が必要である。

 ただ、医師だけではない。明治中期の文学者である高山樗牛も「われ病にかかりて、ここに真の人生を見初めき」と言っているが、病に罹患し自分が弱い立場に陥る経験は人生を考え直すために、医師にとっては患者の立場を知るために大きな意味がある。ただ、あまりにも気づくのが遅すぎる。この間に「モンスター患者」の素地を持つ患者を育成してきている。


4/3(火)曇り・午後から大荒れ 外来 
1:30起床,文献チェックなど。6:45自転車病院着。昨年は本格的に鯉へ餌撒きを始めた時期だが今年は未だ鯉たちの姿が二匹と少ない。 回診+病棟業務。8:40-14:00外来、結構混雑。16:00強風降雨で車帰宅、新聞・本読み、夕食、かなりの荒れ模様。20:45就寝。

私が担当している血液の病気を持つ患者さん方に 「担当医変更のお勧め」
 4月は病院の医局でも若手医師を中心に多くの異動が行われる。私が嘱託として勤務する病院でも新卒医師が9名入職し、他に10数名の医師が交代していく。いまその最中で医局付近は引っ越しとかがあり、フレッシュな声が飛び交っている。とても気分の良い時期である。
 その他にも新機構がスタートする時期でもある。私に関連するところとして、4月から大学病院から血液疾患を専門とする医師に週1回外来を担当して頂けることになった。
 現在私が担当している外来にはザッと見て100名近くの血液疾患の患者が通院しているが、そちらの外来に通院するよう勧める事として、診察時に以下の案内書を提示しながら説明している。
 なお、このページでこの案内を読まれた中で該当なさる方は、次回予約日にかかわらず私宛に事前にご連絡下さい。


■血液疾患で通院の患者さんに
 この4月から大学病院の血液疾患を専門とする医師による「血液疾患外来」が開設されます。医師:○○先生 診察日:毎週金曜日午前
 血液疾患の治療は日進月歩で診療には最新の知見と細心の配慮が必要ですし、時には大学病院との連携が必要になります。「血液疾患外来」では現状以上の治療効果が期待されます。
 上記の点から「血液疾患外来」へ通院されることをお勧めいたします。ご希望の方は診察時に或いはTEL(火〜木曜日 9:00-14:00)にて福田までお申し出下さい。今迄の治療経過等をまとめて申し送るなどの手続きを進めます。
                                                   内科嘱託医 福田光之
 (附 これを機に日本血液学会認定医・指導医資格は返上の予定です)



 私が担当医変更を勧める理由は、その方が患者にとって治療上ベターと思えるからである。私の方で患者を選択して説明する事は失礼なので対象者全員にお勧めする積もりである。また、日本血液学会認定医・指導医資格は施設資格のためにも必要ということで更新してきたが、その必要もなくなった。
 これでまた一つ肩の荷が下りた。


4/2(月)曇り 
2:00起床、未だ不調。新聞・文献・徒然ほか。7:00自転車病院着、7:20回診。総括他文献整理。16:45自転車帰宅、小雪の降る中身体の芯まで冷えた。文献読み他。19:30夕食、20:30就眠。

クロスバイク(15) 買ったばかりのサドルバッグを盗まれた
 本日昼、職員駐輪場で比較的新しい自転車のサドルバッグが盗まれた。サドルの下にバンドで固定していたミニバッグで、中にはサイズ700cの新品交換テューブ1本、タイヤレバー2本、点滅式リヤライト、現金である。被害額は15.000円である。誤算だった。

 私は当駐輪場で盗難にあったのはこれで3回目である。2回は自転車を、それに今回である。
 1回目は2002年頃、廃物であった古いアルミ製のスポーツタイプの自転車の再生品。チェーン式ロックが切断されていた。ところが、約一週間後に奇麗になって駐輪場に置かれていた。真新しいチェーン式ロックが掛けられ隅々まで注油もされていた。で、私は「どなたか知りませんが、これは私の大事な自転車で、未だ現役ですのでお返し下さい。今晩はロックを外しておいてください。内科医師福田」と書いたメモを封筒に入れて貼って置いた。しかし、期待に反して自転車はなかった。多分、あの様子からみて病院外で大切に利用されていると思う。それが救いである。

 2台目は2006年4月ボロ・マウンテンバイクで、乗り始めて僅か二日目に盗まれた。盛岡でもらい受けた廃品を2年かけて乗れる状況にまで整備し、初めて通勤に乗ったのであるが、翌日姿が消えた。

 自転車の盗難はかなりあるらしい。だから、2009年に中学時以降2台目となる新品自転車を購入したが、盗まれる危惧があったので安価なマウンテンバイクにし、チェーンロックだけは専用のカッターでなければ切断できないような太いのにした。これは盗まれることもなく今も私のセカンドバイクになっている。クロスバイクも5-100万以上とピンからキリまであるが、やはり盗難を意識して普及品にした。高価な自転車は部品別にも狙われるらしい。

 今回、盗まれたのが本体でなく装着品で済んだのを喜ぶべきかな、と思う。新しいバッグとリヤライトが目的で中を確かめずに持って行ったと思う。700cのテューブはちょっと特殊なのでそう役立つとは思えない。現金が入っていたので驚いただろう。ポタリング途中で私が不調になった時などタクシー代として、内張を剥がして隙間に入れていた。

 持って行った方がこの小文を読むとは思っていないが、バッグとライトはしっかり利用して欲しい。もし、捨てるなら中通総合病院職員駐輪場に捨てて欲しい。お金は差し上げます。


4/1(日)晴れ・降雨・晴 新年度初日 飯川病院日直 
0:30起床、昨日からの延長で、文献・録音データその他の整理を十分出来た。まだ若干体調不良。7:45自転車病院着、重症患者のオーダーなど追加。8:25-17:15飯川病院日直。天候は不順で降雪・風の中17:45自転車帰宅、新聞チェック、夕食。21:30就眠。


一般国民から見た21世紀の宰相達(4) 麻生首相(2008.9-2009.9)
 麻生首相は小泉、安倍、福田と続いたクールな雰囲気の総理から観れば最も親しみやすい首相であった。
 比較的小柄のようにも見えたが身長175cmと私と同じ程度である。何故か分からないが口の左端が下がっているが本人は気にする様子はない。マンガ好きと公言しはばからず、軽妙な語り口で毒舌も多く、しばしば失言を指摘され、時には「首相の資質がない」と激しいバッシングが続けられた。
 笑顔が良い首相であったが首相就任後まもなく苦虫顔になった。それでも外遊中に振りまいた笑顔は素晴らしかった。屈託のないマンガ少年の表情であった。

 「漢字の誤読」が話題になったのも思い出す。踏襲を「ふしゅう」と、未曾有を「みぞゆう」と読み違えたことが有名であるが、これをマスコミは面白おかしく取りあげた。くだらんやりとりであった。日本のマスコミの頭の程度を表している。これを喜ぶ国民の頭は追って知るべしである。「みぞゆう」と読まれた過去もあるらしい。首相は漢字を読み違えても良いから良い政治をやればいい。真の教養はこんな事でははかれない。

 福岡県飯塚市に約2万坪の邸宅を、渋谷区神山町に敷地面積2400mxmの邸宅を所有していて、格差社会の象徴として騒がれた。首相在任中に不正を犯して建てたのならまだしも、彼の生い立ちからしてそう不自然でないし、多額の増税している方と私はとらえたい。「庶民感覚がない」とも言われたが、もともと彼は庶民ではない。彼に庶民感覚を求める庶民の方が増長している。

 政治的には自民党が最悪状態の中で総理大臣を務めた。彼も1年で座を降りざるを得なかったが、決して彼の資質のためではない。政治の流れがそうなっていただけの話しである。

 以下にWikipedia、ブリタニカ国際年鑑、私の新聞スクラップを参照して麻生氏の足跡を抄述した。麻生氏についての私のコメントは別項に掲載予定。

1979年
   ■10月 第35回衆議院議員総選挙で初当選。1983年 落選、1986年当選。以降7   
    回連続当選。
2001年
   ■4月自民党総裁選に初出馬(1位は小泉純一郎)
2006年
   ■9月自民党総裁選に出馬(1位は安倍晋三)
2007年
   ■9月 自民党総裁選に出馬(1位は福田康夫)
2008年
   ■9月2日自民党総裁選に立候補。1位当選。第23代自由民主党総裁、内閣総理大   
    臣に就任。麻生内閣組閣。
   ■10月「竹島は固有の領土」とする答弁書を閣議決定
 ■ 10月リーマンショック以降の世界的な金融危機と景気低迷へ の対策に事業総額
      26兆9000億円の追加経済対策を発表。
   ■11月 「金融危機打開には、日本の経験が有効」とする論文を米紙に寄稿
   ■11月 集中豪雨被害を受けたパナマ共和国に対し緊急援助
   ■12月 初めて政府主催で拉致問題の集会を開く
   ■12月 国連で日本が提出した「核兵器の全面的廃絶に向けた新たな決意」が圧倒     
      的賛成多数で採択
2009年
   ■1月 アフリカ東部で誘拐された赤羽さんを無事解放
   ■1月 年金記録漏れ対応処理の迅速化のため、280人→500人体制
   ■1月 二次補正予算成立 給付金の年度内完全実施は困難
   ■3月 北ミサイル「破壊命令」 安保会議経て防衛相が発令
   ■6月 首相と閣僚、今夏のボーナス2割返納
   ■7月 北方領土は「日本の領土」明記 改正北方領土特措法が成立
   ■7月 レアメタル備蓄増強 景気悪化で価格安定
   ■7月日米「核の傘」公式協議で一致

   ■7月21日衆議院解散。
   ■8月30日第45回衆議院議員総選挙にて自民党が歴史的敗北
   ■9月16日 - 第23代自由民主党総裁並びに第92代内閣総理大臣を辞職。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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