徒然日記
2012年3月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


3/31(土)終日雨  
2:30起床、新聞・文献・徒然ほか。週末の幕末遊興伝は明らかにガチャガチャと騒々しい映画と思われキャンセル。昨夏から上映作品は全て観てきたが初めての頓挫。終日蓄積データの整理に充てた。MP3の録音データを徐々にiTuneを介して整理することとし,所持している7ヶのiPodにジャンルを分けて収録した。19:30夕食、20:30就眠。

3月末日は、平成22年度の最終日 「○○年」と「○○年度」の違い
 365日をどこからどこまで区切るか、各国とも異なるし、わが国内でもいろいろあって面白い。
 分かりやすいのは暦にならった1月1日の年始とする区切りだろう。慣習的にはこれが最も受け入れられているが 、「旧正月」という数え方もあり、必ずしも1月1日ではないが、こちらでもいろいろな行事がおこなわれる。新年を迎えてのリフレッシュは概して個人的感覚、文化的区切り、伝統的な区切りである。

 一方、組織的な活動、経済的活動は一般的に4月1日から翌年3月31日をその年の「年度」としている。これは、政府機関が明治時代にこの区切りを採用し、県や地方自治体も業界団体等も追従したからである。組織活動は経済活動を伴い、予算・決算・納税などの報告や申請、申告をこの区切りで受け付けているから、まず例外はない。ただ、納税は2-3月に「○○年度の」として申告するのであるが、対象範囲は前年の1月1日から12月31日の一年間である。
 教育界も3月終了、4月新学期である。しかし、秋田の国際教養大学は中嶋学長の強力なリーダーシップのもと開学以来9月入学にしており、最近、東京大学もこの意向を表明し話題になっている。諸外国の学期に合わせることで有能な学生を入学させるため、と言う。秋田にこの様な先進的考えの大学があったことはもっと知られて良い。

諸外国の状況を見れば、会計年度は日本は4月開始。米国では10月であり、ヨーロッパや中国では1月である。学校年度は日本は4月、米国や中国では9月。韓国は3月と様々である。グローバルな時代にこの様な違いは交流を複雑化している可能性がある。

 何であれ区切りがあることは良いことである。3月末の年度末、4月1日からの新年度は物理的に何ら区別がなく連続しているのであるが、学校・企業共にフレッシュな若者が往来し、社会が何となくリフレッシュされ、活性化し明るくなる様に思える。
 この時期、秋田では厳しかった冬から春への端境期でもある。4月になるとこれから暖かくなり、間もなく桜の季節を迎える・・等々から気持ちも自然と明るく軽やかになる、そんな切り換え効果もある。

 私もいろいろ目標を立てて過ごしているがそう目標通りに進むわけはない。何かの力が欲しい時もあるが、こんな時に1月の新年の区切り、4月からの新年度の区切りは自身のリフレッシュにも有用であり、新たなペースで再スタートを切ろうとする意欲にもつながっている。

 明日からまた一層時間を無駄にしない様に過ごしたいものだ、というのが年度末の本日の感想である。


3/30(金)晴れ・雨・強風 柳家小三治独演会
2:30起床、体調若干回復。新聞、文献チェック。6:50自転車病院着、7:15回診他。重症患者対応+患者家族面談。書類処理。退院患者総括。16:00車帰宅、18:30児童会館「柳家小三治独演会」、21:00Taxi帰宅、雨に濡れた。夕食。21:50就眠。

映画(38)「Death in Venice(ヴェニスに死す)」  美しい作品であった
 | 映画評

 

映画 「ヴェニスに死す」はマーラーの交響曲第5番も主役の一人、と言われていたことで、制作された頃から名前だけは知っていた。それから、約40年経った先日、初めて観る機会があった。

 1971年(昭和46年)製作の伊・仏合作映画でT・マンの同名の小説の映画化。監督はL・ヴィスコンティ。主演の老音楽家グスタフはマーラーがモデルで風貌もマーラー調,これを英国の俳優D・ボガードが演じている。美少年タジオ役はB・アンドレセン。その母役はS・マンガーノ。

 時は1911年、世界各地の富裕層が避暑に訪れるヴェニス。
 そこに静養に来ていた老作曲家グスタフが、レストランで見たタジオに理想の美を見出し、次第に心を奪われてしまう。すき通るような美貌と、碧眼、ブロンドの髪、なよやかな肢体、まるでギリシャの彫像を思わせるタジオに、グスタフの魂は完全にタジオの虜になった。当時、ヴェニスではコレラが大流行し、グスタフはヴェニスを去らねばと焦りながらも、タジオへの思いに決意が鈍った。タジオの姿を求めて町をさまよううちに自身もコレラに感染し、美しい海辺で戯れるタジオの姿を見つめながら一人静かに,寂しく息絶える。

 美しい映画だった。少年タジオ役に相応しい少年が現実に見つかったことをヴィスコンティは奇跡だ,と称したと言う。確かに,妖気さえ漂っていた。もう一つの主人公はマーラー作曲「交響曲第5番・第4楽章のアダージェット」。演奏者とかの資料は見損なったが映像とマッチして雰囲気を高めた。もう一人、少年タジオの母を演じたS・マンガーノの表情が実に美しかった。同監督の超大作「ルートイッヒ」でも貴族婦人にも起用されていたのを思い出した。

 毎週通っている秋田市の映画館は、最低で二人、通常は数人から多くても20人程度の観客しかいないが、今回初めて50人ほどと大入りであった。その大部分が若い女性達で驚いた。少年タジオを見に来たのであろう。

 私はこの映画館で昨夏以降毎週欠かさずに上映作品を見ているが、この作品は「ルートイッヒ」、「マーラー・君に捧げるアダージョ」と共にベストグループに挙げるべき作品と言える。私をしらけさせる様な筋書きと俳優達の作為的な演技は無かったに等しかったのが第一の理由であり、加えて、音楽が、情景が、登場人物がこよなく美しかったからである。100年前のヨーロッパの文化的事情も若干ながら知ることが出来た。
 久々、甘美な時間を味わうことが出来た


3/29(木)晴れ 外来  
0:45起床、新聞文献、雑誌チェックとPDF化。7:00自転車病院着。回診ほか、8:45-14:00外来、混雑し疲弊した。微熱他若干体調不良、上気道炎だろう。退院総括他。16:20帰宅。新聞チェック後発熱あり18:00微睡、夕食、20:30就眠。

宗教とは何だろうか(1)以下の言葉に接した
 最近、私は少しだけ英語を復習している。中高大で学び、日常でも英語に触れているのにこんな程度でしかないのか、そんな気持ちだからである。特に体系的に学びなおしているわけではないが、英語の録音や書籍を身近に置いて利用している。

 その過程で、先日以下の詩を知った。NY大学付属病院リハビリテーションセンターの壁に誰かが書いたものらしい。ネットで知られて有名になった詩だという。

「A creed for those who have suffered (author unknown)」
I asked God for strength, that I might achieve 
  I was made weak, that I might learn humbly to obey.
I asked for health, that I might do greater things  
  I was given infirmity, that I might do better things.
I asked for riches, that I might be happy
  I was given poverty, that I might be wise.
I asked for power, that I might have the praise of men
  I was given weakness, that I might feel the need of God.
I asked for all things, that I might enjoy life
  I was given life, I might enjoy all things.
I got nothing that I asked for but everything I had hoped for
  Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed!     
 苦しみを超えて 大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶように弱い者とされた。より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよいことができるようにと病気を戴いた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧しさを授かった。 世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、神を求め続けるようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと命を授かった。
 求めたものは一つとして与えられなかったが、 願いはすべて聞き届けられた。 神の意に添わぬものであるにもかかわらず、こころの中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
 私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。


 すごく心に響く名文だと思う。これは聖書の言葉ではない。無名の兵士の作と言われている。
 
 聖書にはこの様な言葉が満ちあふれているらしい。米国を始めとしてキリスト教社会の子供達は聖書を通じてこの様な言葉に接しながら成長しているとすれば、最高の道徳教育がなされていると言って良い。が、米国は常に強さを、豊かさを求めている。米国は世界の軍事費の46%も占めている。自由と平和と富を得るためである。
 中東戦争および以降のパレスチナ勢力との紛争は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地であるエルサレムなどの帰属問題が絡んでいて、軽々しくは言えないが、私には宗教が絡む戦争に思える。ユダヤ教・イスラム教などの教義も好戦的な内容ではないと思うのだが、宗教と戦争、殺戮など、現実との差はどこから来るのだろうか。

 私にとって宗教は今後追及していきたい分野である。現時点での感想を一言で言えば集団催眠状態ではないか、である。


3/28(水)曇り後雨 外来 
1:00起床、文献整理関連ほか。6:55自転車病院着。7:30回診ほか、8:45-14:20外来。 退院総括他。16:00帰宅。録音データ整理、夕食、20:30就眠。

人事異動の季節 人事部門の業務に脱帽 ただ新聞報道は疑問

 毎年この時期は県、市町村の人事異動が行われる。
 人事異動は行政機関にとって、欠員補充、新規採用者の配属、人員整理、機構改革、降格・昇進などを含む適材の配置など複数の因子によっている、と思われるが、若手職員には多くの部門を経験させる必要があるし、人脈形成を通じての縦割り行政を少なくするためにも必須と思われる。

 もう一つ大事なのが長期間同じポストを占めることによるワンマン体制、他部門、外部機関との癒着の防止であろう。これらは公務員といえども通常の人であるだけに、時には犯罪の温床にもなる。利権に絡む金銭的事件だけでなく、組織的犯罪と隠蔽問題など公務員の特権意識がその因となっていると思わざるを得ない事件が頻繁である。最近は検察、警察がからむ事件が目立つ。

 異動対象となりうる職員にとっては落ち着かない大変な時期である。新しい部署では新たな勉強が必要になるだろうし、新たな人間関係も構築しなければならない。時には遠方への出向もありうる。また、配属された上司によって職場環境が大きく変わりうるだけに影響は全ての職員に及ぶだろう。

 中央官庁よりも地方公務員の一般事務職の方々は人事異動が頻繁な様に思える。2-3年毎の配属転換ではやっと仕事の内容をつかんだ頃に異動になるから、業務上の効率としては必ずしもベストな状態を維持出来ないことになる。

 この時期、連日地方新聞の1-3面ほどを占拠するのが、県庁、県警、教職員、更に秋田市他の異同職員の名簿である。何でこれらを新聞が取り上げるのか?と不思議に思う。公務員は公人なので人事異動に関する情報は開示すべきである。しかし、何で新聞社がこれを代行するのだろう。本来行政自身が発表すべきものである。新聞社にとって報道すべき価値があると言うなら掲載は自由だが、自治体が正式に発表しないのは片手落ちである。全戸配布の広報誌、あるいはホームページを通じて広報すべきだろう。私は新聞掲載は部課長以上で良いと思う。

 それにしても大変な人数の異動である。これらを過不足無く、間違いもなく配属を決める部署の能力及び業務は大変だろうと思う。ほぼ出来上がった状態で不都合が生じて芋蔓式に大幅な変更を余儀なくされることも少なくないと思うが、この点に関しては頭が下がる思いである。

 もう一つ驚くのは職員の多さである。異動になっただけでこれほどなのだから、県内にどれだけの人数の公務員が居るのだろうか。納税している県民一人あたり何人なのだろうか。税金の何%が人件費に遣われているのだろうか、と新聞を見て改めて思った。


3/27(火)晴れ降雪と不安定、外来
1:30起床、いつもの如し。6:55自転車病院着。昨年もいつまでも雪が降り寒い、と記述。回診ほか、8:45-14:30外来。銀行スタッフ来訪。16:00ミゾレ、雨雪で車で帰宅。新聞・文献。iPod用卓上再生機入手。夕食、20:30就眠。

一般国民から見た21世紀の宰相達(3) 福田首相(2007.9-2008.9)
 2007年9月安倍氏は経験不足、ひ弱さが危惧されたとおり約1年の任期で辞任した。ここで登場してきたのが福田康夫氏で、何度も首相有力候補の一人と言われながらこれまで総裁選に出馬して来なかったが、今回、麻生を破り自民党総裁に就任した。首班指名選挙では参議院は小沢氏が選ばれ、ねじれ指名となった。

 福田康夫氏は父が首相を務めた福田赳夫氏でエリート議員であった。長く官房長官を務めたが印象は薄い。記者とかへの説明も長期に担当したが、所々で相手を見下すような表情が見られ、あまり良い印象を受けていなかった。

 首相就任後の働きを項目を立てて挙げることが困難であったが、退任してからまとめてみると短い在任期間の割りに多方面の対応が目だつ。特に、岩手・宮城内陸地震発生時、リーマン・ブラザーズ破綻においては素早い対応を見せた事が注目される。
 ただ、退陣の過程については、「行き詰まった・・・」と言うことで「次の政権にお願いしたい・・・」よく分からなかった。記者会見で「あなたとは違うんです」発言が飛び出した。

 小泉、安倍、福田共に2世議員である。小泉氏にはあまり感じなかったが、後二者には党内の高い地位にもかかわらず何となくひ弱なイメージがつきまとっていた。この点は、次の麻生、鳩山も同様であった。

 以下にWikipedia、ブリタニカ国際年鑑を参照して福田氏の足跡を抄述した。福田氏についての私のコメントは別項に掲載予定。

1990年
■総選挙で初当選。
2000年
■10月森内閣で内閣官房長官。
2001年
■4月小泉内閣で内閣官房長官。
2002年
■5月31日オフレコで「非核三原則の見直し」発言、物議。
2004年
■5月7日自身の年金未納が発覚し引責辞任。内閣官房長官1289日は歴代最長。
2007年
■9月安倍首相の辞任による総裁選挙で麻生を抑え、第22代自由民主党総裁。9月25日首班指名選挙は衆院で福田、参院で小沢が指名。法規に則り福田となった。「背水の陣内閣」と命名。史上初の親子総理大臣。
■小泉改革は大きな成果を挙げたと評価し、「消費税増税無しでは財政赤字は減らせない」と発言。
■「大量生産、大量消費社会からの決別」宣言。
■11月福田と小沢との間で大連立構想が模索されたが頓挫。
2008年
■4月23日「消費者庁」新設を正式表明した。
■5月日米同盟は「アジア・太平洋地域の公共財」とし関係強化を押し出した。
■6月14日午前8時43分岩手・宮城内陸地震発生。自衛隊派遣など迅速に対応。
■7月7日北海道洞爺湖サミットで議長。
■7月9日政令を公布し、一関市、奥州市、栗原市を激甚災害区域と指定した。
■8月2日改造内閣発足。
■9月1日首相辞職表明、記者会見で「あなたとは違うんです」発言。
■9月15日リーマン・ブラザーズ破綻、その際、素早い対応を見せた。
■9月24日内閣総辞職。


3/26(月)降雪5cm 曇り、寒波  外来 24時間心電図装着 
1:30起床、いつもと同じパターン。6:45病院着、回診ほか。8:45-13:30外来。この間ホルター心電図装着した。16:00帰宅。新聞、文献読み中心、夕食、 20:30就眠。

ラジオ深夜便「青春リアル・スピンオフ---君の思いを受け止めた」(3)残念、最終回を迎えた
私は早朝から起き出してラジオを聞きながら自由時間を楽しんでいる。ラジオはNHK-FM1波だけである。
 1:00am台はインタビューあり、落語あり、シリーズものありと、構成内容は多彩で必ずしも私の好みに合うわけでないから、月刊誌「ラジオ深夜便」であらかじめ番組内容を確認して聴いている。

 ところが、昨年5月から日曜の1:00amから番組表にない「青春リアル・スピンオフ---君の思いを受け止めた」と称する、若者による若者のための番組が放送された。深夜便に登場する視聴者は高齢者が大部分であるので奇異な感じを受ける番組でビックリした。

 毎週のテーマが決まっていて、それに関連した意見をメールで募集し、届いた順から次々と読み上げる。テーマはNHK教育TVで毎週土曜23:30-23:55、即ち1時間ほど前に放送される「青春リアル」と言う番組に引き続く意見交換番組である。意見はメールでのみの受付とのことだからほぼリアルタイムに届く。投稿者は10−30代の世代にほぼ限られている。

 ラジオが面白いものだから、一度だけTVの「青春リアル」を見たがテンポがまだるっこしくて2度と見る気にはならない。
 メールは4人の声優によって少しだけ感情を込めて良いテンポで読み上げられる。声優がクリアに読むから聴いていられる、と言っていい。極めて限定された一部の方達の意見であることを割り引いても、若い方々が真剣に考え意見を発進している、内容も結構深い、と感心する。

 話題は,1月に徒然に取り上げた際に紹介した項目の他、■シリーズで8回「福島をずっと見ています」があった■震災と罪悪感■発達障害の私はどうすれば働いていけますか■どうして働かなくてはいけませんか■子育てにまつわる各種の話題■摂食障害■腐女子■私は末期のがん患者です・・・等々である。

 意見は読み上げるだけで結論は無い。意見交換だけである。 この番組を私は全て録音し通勤時やポタリング中に聴いている。 もう何度も繰り返して聴いた。何度聞いても新鮮で飽きない。やはり声優の読み方が上手いからだろう。

 毎回聴くのを楽しみにしてきたが、3月11日の放送をもって突然最終回を迎えてしまった。実に残念である。私が蓄積した分だけで30回であった。
 思えば実に魅力的、かつ不思議な番組であった。1年近くにわたって定時に放送されているのに何でNHKホームページの番組プログラムや、雑誌「ラジオ深夜便」に一切掲載されていなかったのだろうか?

 毎年、3月から4月の年度替わりの際には放送内容や司会者等が変更になる。ラジオ深夜便も若干の変更があろうとは思っていたが、「青春リアル・スピンオフ---君の思いを受け止めた」の終了はとても残念である。TVの「青春リアル」は来年度も継続されるとのことであるが、私が観ることはないだろう。


3/25(日)小雨のち降雪 映画「ベニスに死す」 
1:30起床。文献検討、看護学校試験答案採点他、本読他。13:30-16:00映画ベニスに死す。病院、重症者対応他。17:30秋大付近で突然降雪、迎え請う。新聞・文献PDF化、夕食、20:50就寝。

映画(37)「家族X」  会話もない、暗い暗い家庭をあつかった作品

 映画評



 3月16日に観た日本映画。


 30回以上も続いているという「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」で、この作品は2008年に審査員特別賞を受賞している。監督は吉田光希、出演は 南果歩、田口トモロヲ。

 実に暗い作品であった。見ててつらかった。
 ストーリーの設定は、東京郊外のある住宅地。その中の一軒に夫婦と大卒のひとり息子の3人が暮らしている。夫は会社でリストラ対象になっており、息子は大卒後も定職に就けない。そんな現実を偽り、対外的に必死に体面を保とうとする主婦。
 3人は互いに会話を交わすこともない。ほぼ単語レベルの会話。用意した食事に、夫も息子も手をつけることもない。そんな状態の中で、主婦はストレスで次第に神経をきしませ、自壊し発作的に家を飛び出す。

 夫婦に子供という家族といえば誰しもが抱くであろう、ある種の暖かみのある幻想を微塵に打ち破ってみせながら、逆説的に家族の有り様を提起する事にテーマを置いている映画だと思いながら観た。
 実際には、程度に差はあれこんな家族は現在は別に珍しくないのではないかと思うが、通常はここまで問題にならない。几帳面過ぎる主婦にも問題はあるが、この夫と息子が家族関係を維持することに何ら配慮や責任を持たないことにある。それでは家庭といえども崩壊する。

 家族は婚姻や血縁関係から成り立つ伝統的社会形態であり、利害関係はゼロではないが、それを超えた縁で結ばれている。これと対極にあるのが、主として経済的利便性や利害関係に基づき人為的に作られる共同体がある。都市とか会社、町内会などがこれに相当するが、最近、この共同体の概念が変わりつつあり、構成メンバーの人間関係が希薄になりつつある。この共同体では一定レベルの関係以下になった時にはもはや存在できないし成り立たない。離脱も可能である。この共同体の有り様の変化が間接的に家族関係にも微妙な変化をもたらしている。

 一方、家庭は利害関係ではなく縁で結ばれていることから、家族間にはどうしても甘えがあり、家庭を維持するという面での自覚と努力が乏しい。一定のレベルまで関係がこじれた場合には切っても切れない縁で結ばれていることが仇になってむしろ泥沼化する危険性がある。DV異常の惨劇になることもある。
 家庭の維持には結構各人の配慮が必要である。

 映画「家族X」は何ら変哲のない、面白味の乏しい作品であったが何かメッセージをくみ取ろうとしてみれば示唆に富む内容を含んでいる。


3/24(土)雨午後曇り 飯川病院日直 
1:30起床、文献検討、徒然など昼前まで、この頃起きると時間が豊富である。12:30飯川病院日直へ。18:20病院経由、帰宅。19:20夕食。20:30就寝。

マイペースで(15) 溜めた文献、本を集中的に読む 無知を自覚する日々
 私の日常は時間で見ればほぼ一定でワンパターンである。
 退職後は、1:00前後の起床時から6:00まで、夕方は16:00の帰宅後から夕食までの時間の大部分を自分ために用いることが出来る。自転車通勤の日は積極的に遠回りするから若干短くなる。土日祭日は入院で重症者がいなければ原則休みなので時間的には更に豊かである。

 退職後は得られた時間のかなりの部分を溜まりに溜まった文献・書籍読み、整理と廃棄、PDF化に費やしている。貯めたのではなく溜まってしまったと言うこと。更に、MP3で録音したデータの整理も進めている。こんな作業、作業している時間は至福の時である。これこそ私が還暦前から求め続けてきた環境でであり、だいぶ遅れてしまったが、一部ながら実現できてとても満足している。
 
 製薬会社が発行する多彩な文献集、新聞社等が発行する医学雑誌、定期購読の医学雑誌、その他の一般誌も数種定期購読していたから、次々と届く。さらに出かける度に本を買い込んだが、時間が無くて書棚に並べるだけであった。本や文献、書籍に付録として時間が付いてくればいいのに、と思っていたものである。

 あまりにも増えるので、原則3-5年以上前の古い文献、雑誌は漸次廃棄していた。「音楽の友」「文藝春秋」は30年以上も継続購読しているが、数年間分は一度も開かれずに資源ゴミに回った。それでも溜まってしまい、退職時にそれらを家に運んだが2階の書庫、書棚に入りきれず廊下や床に山積みとなった。書籍は随分重い。巨大な地震が来れば床が抜け落ちる可能性もゼロではないから早くスリム化しなければならない。

 これら文献・書籍に目を通すのは大変な作業であるが、私の性に合っているようである。退職後約10ヶ月、これらを読むというか、目を通し、必要な文献書籍は書棚に再度整理し、一般的なのはPDF化したが、1年分ほど処理が済んで書庫に徐々に余裕が出来てきた。

 それらの医学文献を読んでいて、一応、外来診療中心に診療はしているが、第一線を退いてから勉強する時間が豊かになるなんて実に皮肉である。現に、素晴らしい論文や医学の進歩を実感できる文献に今接してみて、おおいに感心すると共に自分の不勉強を改めて自覚している。

 論語に「知らざるを知らずと為せ。これを知るなり」と言う言葉がある。知らないことを自覚することが即ち知る、と言うことである。全くその通りだと思う。いかに自分が無知無学であるかを突きつけられている毎日であるが、それがまた新しいスタートになる。
 こんな作業は何時間やっていても飽きることはない。もっともっと時間が欲しいくらいである。


3/23(金)新潟大学同級会打合会 
2:00起床、文献・新聞読み、データ整理。6:50自転車病院着。7:20回診、病棟業務。16:20ABS放送局に寄りチケット購入、護国神社経由して帰宅。18:30新潟大学同級会打合会。21:00帰宅、21:30就寝。

一般国民から見た21世紀の宰相達(2) 安倍首相(2006.9-2007.9)
 2003年9月安倍氏は当選3回、大臣経験なしの状態で小泉首相により党幹事長に抜擢された。さらに、小泉後の首相最有力候補の一人と言われ、2006年9月20日の総裁選で麻生、谷垣を大差で破り総裁に選出、次いで内閣総理大臣に指名された。戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣であった。

 安倍氏は首相のポスト直前に急死した父・安倍晋太郎氏の地盤を引き継ぎ1991年の選挙戦で当選した若手のエリート議員であった。2000年の森内閣で官房副長官に就任、2002年の小泉首相の北朝鮮訪問に同行し、安易な妥協すべきでないと強硬論を主張したことで一躍名を知られることになった。2003年には党幹事長に就任、小泉政権を支えた。

 安倍氏の首相就任は私にとっては相当の驚きであった、確かに小泉政権をしっかり支えたとはいえ、強烈な個性のある首相のもとであっただけに安倍氏の実力は測りしれ無かったからである。だから、ひ弱な印象は最初からぬぐいきれなかった。以下に国民的人気があると言え、将来あるエリート議員を未熟な状態で使い潰してしまうのではないかという危惧であった。
 就任後は、彼自身の資質の問題点のみならず、年金問題、郵政問題で非公認になり落選した元議員達の処遇問題等、閣僚の不祥事、自殺まであり、その度ごとに首相の決断の遅さ、対応の拙さなどの問題点が目立って次第に追い込まれていった。参議院選挙の大敗後のあがきがだめ押しとなって心身症の状態となり辞任に至ってした。
 
 以下にWikipedia、ブリタニカ国際年鑑を参照して足跡を抄述した。

2006年
■9月20日総裁選で麻生、谷垣を破り自由民主党総裁に選出、9月26日臨時国会で内閣総理大臣。
■10月北京で胡錦濤国家主席と会談、日中・日韓関係の改善を目指し、北朝鮮の核実験に対して非難声明を発し厳しい経済制裁措置を実施。
■11月郵政造反組復党問題が政治問題化。
■12月教育基本法改正と防衛庁の省昇格を実現。一方で、閣内でスキャンダルが相次ぐ。

2007年
■3月慰安婦発言が「二枚舌」と欧米のマスコミから非難。4月米国を初訪問。
■5月28日松岡農水大臣自殺。年金記録問題が浮上。
■7月3日久間防衛大臣辞任。
■7月16日新潟県中越沖地震で当日現地入り。
■7月29日参議院選挙で歴史的大敗するも総理続投を表明。
■8月27日に内閣改造、8月以降体調不良が顕著になったらしい。
■9月10日臨時国会で安倍は所信表明演説の中で職責を全うの決意表明。
■9月12日退陣を表明会見。13日慶大病院に入院。
■9月25日内閣総辞職。

 経験不足に次々と懸案事項が発生しストレスに耐えきれなくなって健康を害してしまった。体調の問題もあったと思われるが、辞職の際の歯切れも悪く、国内外からの彼への評価・期待は完全に失墜し、せめてもの有終の美の、その一端さえも飾ることが出来なかった。

 ハラハラしながら見てたから、私の徒然への安倍氏の登場回数は少ない。
 もう安倍元首相は完全に過去の人間である。私は今でも惜しい人材を勿体ない潰し方をしたと思っている。


3/22(木)寒波で風 外来 
1:30起床,文献多数検討など。7:00車病院着。回診、病棟処置、8:45-14:00外来、 16:00帰宅。風の中ポタ、北インター往復。新聞・文献チェック、夕食、20;30就寝。

一般国民から見た21世紀の宰相達(1) 小泉首相(2001.4-2006.9)
 私は小泉首相以前は政治にそれほど関心を持っていなかった。しかし、医師会活動を通じて医療・福祉・介護行政を中心に自然と関心が高まった。この部門をじっくり考えると、政治そのもの、国内国際問題など日本がかかえる内憂外患全体のことが見えてきて多方面に関心を持つようになった。
 
 小泉首相はこの徒然にも24回登場しているが、小泉首相の就任は21世紀の始まりとほぼ同じ2001年である。それ以降、野田首相まで6人の首相が交代した。
 この徒然に上記の首相達が頻繁に登場しているので、Wikipediaと、先に書籍としての発行を止めたことで話題になったブリタニカ国際年鑑を参照して各首相の足跡を抄述してみた。それと併せて自分の徒然日記の記述を順に読み返すと面白いし、感慨深いものがある。

 この項には各首相の客観的足跡を抄述し、徒然日記は別項として記述する。


(1) 小泉首相(2001.4-2006.9)

 2001年4月森首相の退陣によるの自民党総裁選に、橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香と共に出馬。小泉は「自民党をぶっ壊す!」「私の政策を批判する者はすべて抵抗勢力」と過激な言葉をスローガンにし、予備選、本選挙で圧勝、自民党総裁に選出された。
 以降、従来にない政治手法を展開した。以下にWikipedia、ブリタニカ国際年間を参照して足跡を抄述してみたが、改めて従来の手法にとらわれない斬新なアイデアと異常と思える実行力が浮かび上がってくる。

■2001年4月26日首班指名選挙で第87代総理大臣に就任。
■組閣・党人事を全て自分で決定。第1次小泉内閣に女性閣僚が5人。
■構造改革なくして景気回復なし、と郵政三事業、特殊法人の民営化を打ち出す。
■消費税増税を否定。
■発足時の内閣支持率は、87.1%で歴代1位。
■7月の参議院議員選挙で自民党大勝。
■8月靖国神社参拝を公約、毎年靖国参拝。
■9月11日米同時多発テロ発生。ブッシュ大統領を支持。テロ対策特別措置法を成立させ、海上自衛隊を米軍らの後方支援に出動。
■2002年2月田中外相を更迭。小泉内閣の支持率は50%台に。
■9月北朝鮮を訪問、初の日朝首脳会談、日朝平壌宣言に調印。
■9月30日小泉改造内閣が発足。金融大臣は竹中平蔵。
■2003年3月米はイラクへ侵攻してフセイン政権を打倒。小泉は開戦支持。有事関連三法案、イラク特措法を成立。
■9月自民党総裁選で再選、党人事で安倍を幹事長に起用。
■11月総選挙で安定多数の確保(第2次小泉内閣発足)。
■中曽根康弘元首相、宮沢喜一元首相に引退を勧告。
■2004年5月北朝鮮を再訪問、日朝国交正常化を前進させると発表。
■6月年金改革法成立。
■7月選挙で自民党が改選50議席を1議席下回った。
■2005年郵政民営化関連法案で紛糾。
■8月8日参議院本会議で郵政民営化関連法案否決。衆議院を解散。
■郵政法案に反対した全議員を非公認。「刺客」候補作戦。選挙で大勝。
■9月21日第89代内閣総理大臣就任。
■10月14日郵政民営化関連法案成立。
■10月第3次小泉改造内閣発足。後期高齢者医療制度を創設。
■2006年診療報酬マイナス3.16%。
■9月20日安倍晋三が総裁に。
■9月21日 総裁任期満了し退任。戦後3位の長期政権。
■2008年9月25日政界引退表明。

 小泉政権の5年余で日本の社会は随分変わった。従来の価値観が通用しがたい社会になり、人間関係も変わってしまった。医療費抑制策のもとで度重なる診療報酬のマイナス改定が進み地域医療は崩壊した。
 その後の政権は社会の立て直しのために修正が迫られいずれも苦境に立ったが、それも小泉政権の後遺症と思う。小泉氏は政権交代のあと「消費税は民主党にあげてもらえばいい。それと共に民主党は分裂する。再び政権交代が起こるだろう」とマスコミに予言的に語ったことがある。的中するかもしれない。


3/21(水)寒波で風 外来 
1:30起床,文献多数検討など。7:00車病院着。回診、病棟処置、8:45-14:00外来、 16:00帰宅。気温と風でポタに不適。新聞・文献チェック、夕食、20;30就寝。

クロスバイク(11) 3ヶ月振りにポタリング再開  ただ今 2078.1Km 
昨年12月7日以降、道路事情のために自転車走行を諦め、室内用のトレーナーを装着し3ヶ月間は室内でトレーニングしつづけた。とは言え、ちっとも楽しくないので走行距離をそれほど伸ばせなかった。
 従来は雪が消える3月末まで自転車を出さなかったが、今年の初乗り・初出勤は3月1日で昨年より3週間早い。走る意欲は維持されていることだろう。走行条件が昨年より良いというわけではなく、車道は道路脇に積み上げた雪で狭く成り、歩道は積雪が残っており走れない。
 この3週間で10日間ほどしか走行できていない。それでも本日の段階でコンピューターの積算は2078.1Kmを示している。走った距離を新幹線上にプロットしてみているが、昨年は九州新幹線の終着駅近辺までのところで頓挫していた。今期はすぐに終点まで到達したので、今は東京駅を起点として上越新幹線で新潟に向かう、と言う設定でプロットしているが現在高崎近辺である。新潟まであと250Kmとそれほど遠くはないが、私も歳だし、不整脈の悪化傾向もあり、経皮的測定で酸素飽和度が常に低めなので身体に負荷をあまりかけないようにしようと思っている。前者については循環器科医師の判断で抗不整脈剤を開始した。嬉しいことに、特に運動制限は要らないでしょうとのことであった。

 昨年は4回パンクし、今年も先日パンクした。秋田に来てからも時折自転車を利用し、タイヤがすり減って交換したこともあるが、パンクしたのは昨秋が初めてである。これほど頻回だと心配で走れない。シーズン開始を機に交換用テューブ、パンク修理キット、携帯用のポンプも購入した。これで安心して多少の遠出も出来る。自分でパンク修理するのは半世紀以上前の小学校の頃以来になる。懐かしい。

 まだ秋田地方は時折降雪がある。今朝も天候は荒れていてうっすらと雪景色である。それでも本日見たところ私が通常利用しているコースは路地や自転車道路を含めて路面の雪が消えて走行可能になった。その点では昨年と同じである。早速、久保田新橋によって旭川の鯉を探したが、まだ一匹も見られなかった。昨年は餌への食らいつきはなかったものの数匹姿を見せていたが、やはり今年は寒さがきついのかもしれない。

 などなど、車から自転車に替えると生活の幅が広がる。今年も楽しみである。


3/20(火)春分の日 小雪寒波 
2:00 起床、新聞・文献チェック。寒い。15:00孫達盛岡に戻る。どっと気が抜けた感じ。資料、文献整理に再着手。夕食、20:30就眠。

外来で何故「お大事に」と言わないのですか(2) 高齢患者に楽をさせてはダメ

 症状もなく元気な患者に儀礼的であろうと「お大事に」と言う事は正しくない。これはかつての日本の医療が、健康を害した際には「栄養をとって安静臥床」と言っていたときの名残である。これも時には重要であるが、出来るだけ短期間にすべきである。少なくとも私の外来に受診される高齢者には現状では必要のない考え方である。だから、私は「お大事に」言うことはないが、看護師の「お大事に」は他に適当な言葉がないことと、優しい慈しみの言葉と解釈したい。

 高齢化が急速に進んでいる今、「お大事に」の指導では足腰が弱って転倒・骨折・寝たきりに誘導することになる。筋力は30歳頃から10年で5%ほど筋力が低下するとされている。60歳頃で-15%、 90歳頃で-30%と筋力は低下する。筋力を維持するには筋を休ませず使い続けることで、最小限歩くことであるが、それだけでは不足で若干の筋トレが必要である。歩く場合には意識して早足でなければならない。こんな状況にある高齢者に「お大事に」はそぐわない。

 高齢者に対して、適切な動き方を指導するのは難しいが、最小限、仕事だけでなく家での役割、また地域での役割でもいい。趣味でもいい、何かに参加し続けることが良い。足腰が痛い方はトロトロ歩くだけでもやらないよりずっと良い。外の刺激を受けることの心理的効果も大きいからである。残念ながら、家族や周囲の人々も「お大事に」の考え方で行動を抑制するように仕向けていることも少なくない。
 
 私共は和式生活から洋式生活に変わった。意外とここにも問題がある。洋式生活は合理的、と言う面でとらえればメリットが大きいが、楽をするための生活洋式であるから生活様式で身体をひ弱にしている。講演や健康講話の時などに参加者に聞いてみると、トイレは和式は殆ど無く、和式の食卓、生活様式は1-2割に過ぎない。私は畳の生活は起居動作が大変であるが、大変であること自体がとても良い運動になっている、と推奨している。それにTV、高齢者がTVの前に座っている時間は驚くほど長い。TVは間接的に、ねたきり、ボケの遠因になっている。

 田舎のおばあさん方は今頃から活動的になる。畑の存在である。院内を老人車、ババカーを押して歩いてくる方も早朝から起き出して畑に向かう。そして月に一度ほど私の外来に来て大笑いして帰る。こんな方から畑を取り上げたらに早死にする。

 私は健康寿命を延ばすためにも患者に「お大事に」は禁句と思っている。


3/19(月)小雪寒波  
2:00 起床、新聞・文献チェック。7:00車病院に、寒い。回診、外来は血液疾患患者の対応で45分のみ。患者関連書類整理他。帰宅直前に入院適応患者来院、待機。17:30帰宅。重症者対応、紹介状他。夕食、20:30就眠。

外来で何故「お大事に」と言わないのですか(1) 薬剤師から質問 
 私共の病院には大学薬学部あるいは薬科大学学生が実習に来る。その際、薬剤部では外来診療見学のコースを設けていて、私が受け入れを打診される。私は請われれば引き受ける。

 私の外来は高齢者の慢性疾患の患者が多い。最近はカルテの電子化の準備もあって長期処方にして患者数を抑制しているから50人程度と少なくなった。診察は「何かかわったことはありましたか」で開始するが8割方は「順調です・・」と返事が来る。その際は、血圧を測り生活指導、世間話して診療が終了する。
 この間、私の診察としては患者の全身を眺め回す視診と患者の訴えや話をよく聞く耳診が中心である。何か変わった様子や自覚症状があれば聴診、触診をする。だから、実習生が傍らで見ていて味も素っ気もない診察風景のハズであるが、何年も実習生が回ってくる。もしかすれば、私の外来が良いのではなくて他の医師が受け入れないから、かもしれない。

 つい先日、付き添ってきた薬剤部の中堅どころのスタッフから「先生は何故、患者にお大事に、と言わないでご苦労様というのですか? 違和感を覚えます」という質問があった。良い着眼点であった。傍らの看護師は「お大事に」と声をかけている。「お大事に」と言わないのは私の医療観の一つの表れである。傍らの看護師は「お大事に」と声をかけているが、それは構わないと思っている。患者への接し方の違いである。

 私は医師になってずっと患者の病状によって「ご苦労様」と「お大事に」を使い分けている。「お大事に」は病状が不安定でいろいろ訴えのある患者に対して、病状を説明した後、「よく自分で体調や症状の変化を見て不調・不安ならまた来て下さい・・」と言う気持ちを込めて用いている。

 「ご苦労様」は具合が悪いわけでもないのに、患者によっては2時間もかけて来院し、予約時間があると言っても長時間待たされ、僅かな診察時間、時には変わらない生活スタイルに対し私から嫌みを言われ、更に待たされた後採血などで痛い思いし、また待たされて会計でお金を取られ、院外薬局でまたまた待たされ・・・と並べれば「お大事に」より「ご苦労様」が何倍も相応しいからである。
 もう一つ、「ご苦労様」は医師ながら、医師らしくない仕事をひたすらこなしている自分自身への、自嘲を込めた労いの言葉でもある。


3/18(日)晴れ・寒波緩む 
 2:30飯川病院当直室にて起床、新聞チェック。関連文献検討ほか。7:00検食、8:30中通病院に寄り自転車帰宅。途中旭川の鯉探すも姿無し。次男一家来訪、孫対策で書斎、書庫整理。本読みなど。私共の40年記念、ルビー婚と言うらしいが、の夕食会、21:00バテて就眠。

ブリタニカ百科事典の書籍版発行終了 時代の流れで電子版のみに移行
 百科事典の代表格で244年間にわたって出版されてきた「ブリタニカ百科事典」の書籍版が無くなり、今後は電子版だけになる。「ブリタニカ百科事典」はスコットランドで発行が始まったが、現在は本社を米国に移している。本社が3月14日に明らかにした。2010年の最新版は全32巻で、でか過ぎる、重過ぎる、高価過ぎる、と言うこともあり、インターネット検索の普及によって売れ行きが急速に落ち、最近はピーク時の1/15程度にまで減っていた。

 来るべき時が世界的な老舗にも及んだ。コダック社もそうであったが、伝統的な手法が通用しないほど社会が、情報処理が、ユーザーが変わったと言うことである。データや情報の電子化は時代の流れであり、「ブリタニカ百科事典」を利用していなければ、私もそれほど感心を持たずに聞き流していただろう。

 「ブリタニカ百科事典」はかつては百科事典の代名詞的存在で、2年に一度出版され、どういう数え方か分からないが、第15版は1974年に翻訳され、「ブリタニカ国際大百科事典」としてTBS出版から発売され、1983年に改訂されている。 しかし、2003年以降、日本語の書籍版は発行されていない。

 私が購入したのは多分この83年版だったと思う。既に手元にないので調べようがない。20数万円ほどで、高価であったが、知識の宝庫を身近に置いて私自信が賢しくなった気がしておおいに満足した。日常的に、機会ある毎に適宜引っ張り出して利用した。昨年の退職時に職場から大量の書籍を自宅に運んだが、スペースの問題からこの年鑑が私のもとを去った。私は自分の所持品は自分で分解あるいは裁断して廃棄するが、この百科事典もハードカバーの表紙と冊子部分に分け、更に後者は3分割して廃棄した。再生紙として役立っていくことを願っている。

 「ブリタニカ百科事典」の記載内容はどんどん古くなったが、基礎知識を得るためには結構役立っていた。本体よりも役だったのは「ブリタニカ国際年鑑」の方であった。「ブリタニカ国際年鑑」には一年前の世界的出来事の詳細が記載されているだけでなく、著明な方々の解説記事、評論を読むことが出来る。一年ごとの世界の動きを再現できるのが良い。年鑑に盛られたデータやテーマは私にとって、過去と今をつなぐ重要な役割をはたしている。「ブリタニカ国際年鑑」についてのニュースは無いが、これも多分発行されなくなるだろう。

 今後、電子版を購入するか、と問われれば多分購入しないだろう。「ブリタニカ百科事典」を購入したときと今は時代が異なり、これが無くてもそれほど不便しないからである。「ブリタニカ国際年鑑」の電子版が出ればこれについては検討したいと思う。本心は書籍版として欲しい。

 ブリタニカ社は人間社会の知的文化を集大成して大きく貢献したと思う。今回アナログから電子化へ大きな転換をしたことになるが、今後の存在についてはちょっと心配である。


3/17(土)曇天 パンク 散髪 飯川病院当直
2:00起床、新聞・文献・資料検討。7:30微雨の中ポタリング,添川・北インターへ途中で5回目パンク、自宅まで40分ほど歩く。10:00修理に,予備テューブ、携帯エアポンプ購入。病院へ寄り入院患者対応と散髪。14:20帰宅、16:30飯川病院に。17:00当直へ。検食後音声データ、新聞、文献整理。21:00就寝。


人体の不思議展 日本医師会生命倫理委員会が見解発表 仏では禁止
 2008年の夏、墓参に行った際に岩手県民会館で「人体の不思議展」を見て、この日記に「人道上、いろいろ問題のある企画」と記述した事がある。私はてっきり精密な模型が展示されていると予想していたが、遺体をそのまま標本にしており、この様な展示は人道上許されて良いのか、と思った。 

 私は職業柄とても興味深く見たが、その立場を離れば、グロテスクな物体でしかない。この企画に岩手県教育委員会他の教育団体、県や盛岡市医師会等の医療関係団体が後援していたのが理解できなかった。人体の仕組みを見て戴く事に何ら問題がないが、ヒトの遺体をそのまま用いる必然性はゼロである。今なら精密な模型で、あるいはCGでより正確に表現出来る。後日、岩手県医師会の事務局に私的な立場で意見をのべ、後援について再考戴くよう提言した。その後、この件についての顛末は知らなかった。

 この2月、日本医師会(日医)の第XII次生命倫理懇談会は「移植医療をめぐる生命倫理」の答申まとめたが,巻末に「人体の不思議展」に関する見解も付記し、その中で、人の尊厳に反する同展は倫理的に認められない、とした。更に、死後の人体の扱いについて明確なルールを定める必要があると指摘、日医に対しては,会員や医師,医学生などに対し,人の尊厳のあり方について啓発や教育を進め,同展の営業等に関わらないよう訴えていくべき、と提言している。
 日医の2010年度の定例理事会において、「人体の不思議展」について、日医で適切な対応をして欲しい旨の問題提起がなされ、これを受け日医は本懇談会に検討を委嘱し、今回の答申に結果を付記したものである。

 答申書によると、本展は日本で1996年から1998年にかけて開催され、その後、2002年頃から全国各地で断続的に開催されるようになった。主催者側によると、全国35会場で650万人超の入場者があったという。一方で、遺体を興味本位の見せ物にして金儲けの道具にし、死者の尊厳を冒涜しているとの批判もあり、2006年8月仙台での開催を機に「人体の不思議展に疑問を持つ会」が設立されるなど、反対運動も起こった。
 日本医学会は、2006年8月本展への後援を取り下げ、各医師会もこれに倣った、とある。その後、2010年には金沢市での開催に対し石川県医師会・金沢市医師会が、また京都市での開催に対し京都府医師会が、それぞれ中止を求める要望書を出したが、両市とも予定通り開催された。その後のわが国の反対運動の経緯についても答申書に記載ある。
 更に、フランス事情についても言及している。フランスでは「人体の不思議展」に対し倫理基準を立法化し、2010年国内での展示が禁止された、と言う。

 私が本展を見たのは2008年であるが、2006年に既に日本医学会は本展への後援を取り下げ、各医師会もこれに倣った、とあるが、徹底されておらず、主催者側もそれを読んで地方医師会に後援を依頼し続けていたと言うことであろう。
 私はこの答申を読んでホッとした。
 答申書は日医のホームページで読むことが出来る。


3/16(金)快晴・寒波 書類処理
1:30起床。文献、徒然他情報収集、データ処理。6:55車病院着、路面が凍結して自転車無理、残念。回診ほか。11:00銀行スタッフ来訪。患者関連書類の処理に集中。16:00帰宅、夕食、21:00就寝。

東京都交響楽団演奏会(2) 曲、演奏者、会場の雰囲気共に心から楽しめた演奏会 
 3月10日(土)18:00から秋田県民会館で東京都交響楽団(都響)の演奏会があった。
 10分ほど前に会場に着いたが、驚いたことに雨降りの中、玄関先から外に2-300人ほどが2列に並んでいて、最後尾を示すプラカードの職員まで出ていた。私にとって、秋田で、県民会館では初めての経験である。私は並ぶ趣味は無いので玄関先で雨をしのぎながら最後尾の方が入るのを待った。小雨とは言え外に並んだ方々にはお気の毒であった。雨なので開場時間を予定より早めれば良かったのではないか,と思った。会場はほぼ満席、実際には1階後部に若干の空席があった。一応、希望通りに最後部の席が確保でき、曲や演奏の詳細をコメントする力は私には備わっていないが、ゆったりと心底から楽しめた。

プログラムはチャイコフスキー『エフゲニー・オネーギン』より「ポロネーズ」、ピアノ協奏曲第一番、交響曲第5番。アンコールは『ダニーボーイ』。

 『エフゲニー・オネーギン』はこの作曲者の代表的歌劇で、私にとっては決して身近な作品ではないが、「ポロネーズ」はその中の比較的聞き慣れた小品である。10年以上前にウイーン国立歌劇場で聴いたが、それ以来でその時の舞台を思い出した。
  ピアノ協奏曲協奏曲、 交響曲第5番 は演奏会で何度も聴く機会があったが、私はそれほど好きと言うわけではなかった。今回の演奏を聴いて曲自体の構築,緻密さと,迫力と、こんなに素晴らしい曲だったのか・・と私にとって新発見がいろいろあった。独奏の小山実稚恵氏は力強いかつ繊細な演奏であったが,盛大な拍手に応える姿は少女を思わせるはにかみ調であった。鳴り止まない拍手に応えアンコールを奏したが何という曲か分からない。ドビュッシーか?
 交響曲第五番は絢爛豪華な演奏で実に素晴らしかった。
 
 指揮の小林研一郎氏はレパートリーはそう広くないようだが演奏の評価はすこぶる高い。今回の演奏のコントロールも,都響の演奏も見事であった。人柄なのか氏は演奏の前後にオーケストラのメンバーに良く頭を下げていたし、さらに演奏終了後、拍手が鳴り止まない中、各パートのもとを訪れ首席演奏者から順に立たせて全員に労をねぎらった。確かに,楽団員をねぎらいたい気持ちが見てても満ちあふれていたが、私的な感情であるから聴衆の前でやるのはちょっとしつこい。演奏のもう一人の責任者であるコンサートマスターだけにでも良かったし、あえて挙げるなら導入部から見事なソロを聴かせたバスクラリネット奏者の糸井氏くらいで良い、と思う。

 小林氏はその後鳴り止まない拍手を制して「明日、一年を迎える、忌まわしい大震災で犠牲になられた方々に・・・」とコメントしてダニーボーイを静かに演奏した。私はこの曲の後、早々に会場を後にした。その後、何か演奏されたのかは知らない。


3/15(木)積雪、ベト雪で7cm 外来 
1:20起床。文献新聞など、徒然。7:00病院着。回診、机上書類処理。8:45-13:50外来。16:00帰宅、寒波で今朝の雪が残っている。夕食、20:30就眠。

東京都交響楽団演奏会(1) 絶滅品種、厳しいオーケストラの現状
 3月10日(土)18:00から秋田県民会館で東京都交響楽団(都響)の演奏会があった。秋田県民会館開館50周年記念の企画なのだそうだ。指揮・小林研一郎、独奏・小山実稚恵と豪華な組み合わせであった。

 都響は東京オリンピックの記念事業として設立された楽団。私は聴いたのは2回目か,と思うが一回目のこと記録にも記憶にもない。
 私が都響について興味を感じているのは演奏内容のことではなく、その特異な雇用契約においてである。

 都響ではコンサートマスターを除く約90人の団員は、契約雇用と終身雇用団員より成り立っている。契約雇用の場合、契約は3年ごとに更新される。終身雇用の方を選んだ場合、契約団員より給与が年に70万-100万円ほど低く,双方とも退職金は無しと言う厳しさである。同じ都職員と思うが、他の職員との関係はどうなっているのか,外からは理解できない。約8割の団員が契約制を選択したと言う。この制度の背景は都の財政再建・合理化で、解散も含めての条件提示だったと言う。尤も、これは私の知る2006年時点の話でその後改訂されたかも知れない。

 在京楽団のうち都響、N響、読響は母体がしっかりしており、運営面で安定している、と思ってきたが都響の現実は実に厳しいものがある様だ。
 一方、本日の新聞記事によると、今回市長が橋下氏に替わった大阪市では大阪フィルハーモニー公共楽団への1.4億円余の補助金をカットする事になり楽団は存続の危機にあるとのこと。そういえば、地元でも秋田のアトリオン室内オーケストラが県の補助金カットで存続できなくなって活動を休止している。

 我が国では、バブル期に一気に公立劇場・ホールが建設されたが、その運営の多くを支えてきたのはもっぱら民間の芸術活動であるる。
 オーケストラの場合、設立母体は地方自治体立が都響、京都市響、 放送局・新聞社立がN響、読響である。以下に挙げる団体は個々については不明な点もあるが、名称に地方の名前を冠しているために設立母体が分からなくなっているが、多くは民間団体といって良いようである。名称は自治体からの補助金の問題がある。仙台フィルはかつての宮城フィルで最近名称を変えたが、背景はより補助金を受けるためである。名称が変わるときはより広域の呼び名に変わるの一般的でありが、逆である。会長は奥村仙台市長が就任しているから財政援助とかの問題と考えられる。

 オーケストラの運営は極めて非効率であり,一般的にみて聴衆からの収益は運営費の半分にも満たない。だから多くは県、市、民間企業など複数からの補助で運営が成り立ってる。2005年頃の年間の総経費は「日本のオーケストラ2007」で見ることができるが、大阪センチュリー交響楽団(7.2億)、札響(10.1億)、山形響(4.3億)、群響(7.6億)、仙台フィル(8.8億)、神奈川フィル(6億)、名古屋フィル(11.3億)、広島響(7.1億)、九州響(8.6億)となっている。これらのオーケストラの運営は総じて火の車であり,景気の低迷と共に補助金は減額されつつあり、常に存続の危険にさらされている様である。

 橋下市長は文化や芸術の育成、維持は政治とは無関係である,と明言している。今のところこれに追従する動きは無いであるが、首長がこの様な考えに立つと全国のオーケストラは崩壊消滅していく。それは困る。流行りの語句で言えば絶滅品種である。


3/14(水)3cm降雪、朝雲一つない快晴→曇り降雪・寒波 外来
 1:30 起床、文献など。7:00病院、回診・病棟業務。8:45-14:30外来、予約数は少なかったが時間がかかって疲弊した。16:10帰宅。この頃からかなりの降雪。データ整理、夕食、20:20就眠。

東日本大震災(36)福島原発事故は原発推進国にむしろ自信をもたらした
 福島原発事故は原発の問題点を世界に提示したが、この事故は世界の原発建設に、あるいは将来のエネルギー確保にどのような影響を与えたのだろうか?
 国際原子力機関(IAEA)のデータでは、実際には何ら影響を与えていない。どうしてなのだろうか?私は、わが国の原発技術がバカにされたからだ、と思っている。

 ドイツは早々に脱原発を決定した。イタリアも原発の運転再開を断念した。また菅首相も記者会見で脱原発の方向を提示した。この様に、福島の事故後、各国の政治家が原発の稼働停止に言及した。また、中国やインドなど新興国を含む原発推進国でも市民や地方政府レベルで原発に対する懸念は強まり、大規模な抗議活動も起こっている。しかし、実際には原発の建設は福島と関連なくほぼ予定通りに進んでいる。

 IAEAの報告によると、現在の原発は30ヶ国で436基である。そのうち、日本には1割強の54基の原発がある。だからわが国は原発大国である。
 現在、建設中の原発は15ヶ国で63基で、そのうち40基は中・ロ・印の3ヶ国で占められている。新たに着手する国もある。各国の構想を集約すると、2030年には528基となり、総発電量は現在より36%以上増加する。

 要するに、事故後も大多数の国で原発への方針は変えていない。特に、中国やインドなどは、経済発展に伴って急増する電力需要に備え積極的である。米国も地球温暖化対策などを背景に原発推進政策とり、34年振りに新規の原発を認可した。先進国、途上国の中でドイツは例外的存在である。菅首相の脱原発の意気込みはその後消沈し、私見のレベルにまで後退した。現在わが国では2/54基のみが稼働中であるが、野田首相はストレス検査をクリアした原発から順次再稼働の方針を明らかにしている。各国とも自国の経済・活力の維持のためにエネルギー確保は最重要課題だから、と言う事情がある。

 福島原発事故で明らかになったのは、暴走し始めた原発は手がつけられない状況に陥り、その被害は国を揺るがすほど甚大、廃炉までは20-30年もかかる、と言う事実である。
 にもかかわらず諸外国の原発建設の方針が変わらないと言うことは、今回の福島の原発事故は、■地震多発国であるにもかかわらず、災害予想を低めに設定して建設し、■根拠のない安全神話を楯にして安全対策の推進を欠いていた。■ここまで至ったのは日本の危機管理対応に問題があったための特異な事故で、■原発は最先端の技術を的確に取り入れれば十分制御できる。■だから、原発自体の安全性を揺るがすものではない、と見なされていることである。

 わが国の原発は「非の打ち所もないほど安全で、技術は世界最先端にある」、と喧伝されてきた。国民の殆どもそう思ってきたが、次々に明らかになってきた事実は驚くばかりで稚拙であった。だから、逆に原発推進国を力づけてしまった、と言える。私はこの様に考えている。


3/13(火)小雪のち晴れ・寒波 外来 
 2:00起床、文献・新聞関連など。7:00車病院、回診・病棟業務。8:45-14:15外来混雑し疲弊した。途中患者死去。17:10帰宅、寒くてポタリングの意欲湧かず。新聞・本読み、夕食、8:20就寝。

映画(36)『マーガレットと素適な何か』 家内と初めて映画館に入った
 

 映画評

 

3月11日に観たフランス映画。監督・脚本:ヤン・サミュエル。出演:ソフィー・マルソー他
 主人公は40歳のキャリアウーマンであるマーガレット。辛かった幼少期の生活など、全てを忘れて仕事一筋に邁進し、最先端の企業の中でエリートとして昇り詰めつつある。突然、彼女の元に思いがけない手紙が届きはじめた。不遇だった7歳の頃に、将来の自分宛に書き、誰かに託していた手紙であった。
 彼女はそんな手紙を書いた事実をすっかり忘れていたのだが、その手紙に触発されて、両親の離婚や初恋、早く大人になってしまいたいと思っていた頃の過去の記憶を思い出す。彼女は戸惑いながらも、やがて頑なに閉ざしていた心の扉をゆっくり開き、今ある姿は本来の自分ではない、人としてのあるべき姿ではないのだと気づき始め、自分を取り戻していく、と言った内容の設定。

 この様なドラマ仕立てに私は乗れない。だからストーリーとしてはあり得ないことではない、まあまあだなと思いつつも入り込めなかった。その意味ではこの作品もいつもの如く何だかよく分からない映画であった、というのが私の結論。

 私はここ半年ばかり週1本の映画を見続けてきているが、回を重ねてきて自分で気づいたことは、映画のストーリーやドラマ性を楽しんでいるわけではない事である。大抵の映画のストーリーに対して没頭できない。
 一方で私は小説を読むのが大好きである。本の小説が画く世界ではドラマやストーリーを十分楽しむことが出来る。この違いは何なのだろうか、と思うと映画は私に画像を押しつけてくるからなのだろうと思う。ただ、描かれる私にとっての未知の世界が魅力的である。

 『マーガレットと素適な何か』について感心した点は、第一は、主演女優のソフィー・マルソーのスタイル、表情、動作であった。この女優については何かで名前だけは聞いたことがあるような・・と言うレベルで初めて見たのであるが、容姿端麗であるのは当然としても、動作がとてもきびきびしていて鈍調な感じが全くなかったということ。キャリアウーマンが肥っていて鈍であったら身も蓋もないが、ソフィー・マルソー自身が、商品としての自分に投資をして身体を鍛えているのであろう。こんなパーフェクトな女性の上司がいたら逆に耐えられないな、と思う。

 第二はビジネスの場面の緊張感である。会議や役員との会話が洗練されていて無駄ない。「その内容は1分で報告して!!」と言った言葉が飛び交う過緊張状態が心地よかった。
 第三はフランスの先端ビジネスのオフィスの環境である。空間に余裕があった。会議室など装飾など何もないのだが、豊かな広さがあり、これだと自然と発想も豊かになりそうな気がした。
 この日は家内と二人で映画を見た記念すべき日となった。



3/12(月)降雪3cmほど 寒波 曇り 外来  
1:30起床。新聞・文献チェック。7:00車病院着、回診、8:45-14:10外来、混雑し疲弊。16:00帰宅、8Kmほどポタリング、寒かった。新聞と格闘、PDF化す。夕食、20:30就寝。


東日本大震災(35) 復興・復旧(1)「人災」の余地のない、新らしい発想で
 昨日、東日本大震災はまる1年を迎えた。
 今回の不幸を何時までも嘆いていても仕方がない。 被災地はもとより、全国各地で地震や津波の被害想定や避難計画などの見直しが進んでいる。被災一年が過ぎた本日を新しい発想の復興・復旧のスタート日にしたいものである。

 そのキーワードは「温故知新」である。今回の大震災は、今後はM9規模の地震を基準にした対策が必要であることを教えてくれた。
 東日本大震災を機にわが国の周辺の地殻の変動は一気に活性化している。恐らく地震の頻度は数100倍に増えている。震源地の多くは関東から岩手県沿岸に集中しているし、とりわけM6以上の規模の中規模以上の地震が増えている。
 私は早朝1:00から6:30amの間はほとんどNHK-FMのラジオ深夜便、それに続く放送をを流しつつ机に向かっているが、この一年、ほぼ連日放送が中断し、地震情報が流される。それは今でも変わりない。これを記載している時点でも2度放送が中断した。

 だから、今後も巨大地震が起こり得るという前提で対策をしなければならない。今後はM9級の地震に対し「想定外だった」と言う言葉は使えない。M9級は新基準になった。被災地の復旧・復興についても同様で単純に元に近くまで戻せばいいと言うことではない。だから大変な事業となる。

 今回の大震災は、「温故知新」の発想を欠いていたための「人災」の因子が大きい。
 今回飛び交った「想定外」という言葉は、史実にある貞観地震や津波が一部の関係者にしか知られていなかったことと、二度とあり得ない、特別な災害として見なして来たためである。その判断からまず「人災」であった。関東以南の東海、東南海地震の予知はかなり話題になっていた。しかし、傍の三陸沖で大地震が迫り来ていたのに、誰もまともに予知できていなかった。学者達は一体何やっていたんだ?学問の限界だったのかもしれないが、ならば、東海地区の地震予測は本当か?これも「人災」と言うべきだろう。

 原発に関しては、自然災害の可能性を軽視して立地から安全管理において完全に誤った「人災」であった。更に、福島原発は1971年の稼働以来40年間一貫して「安全」を前面に押し出して拡張してきたが、そのために平衡して充足すべきであった事故防止、危機管理対策が全く出来ていなかった。だから、設計初期段階で「人災」、安全管理の設定過程で「人災」、事故後の対応の稚拙さで「人災」であった。

 更に、東日本大震災の直後から今日に至るまでの政府・政治の混乱、それによる復興の遅れ、これを「人災」と言わずして何と表現すべきなのだろうか。
 まだまだあるが、もう人災と並べ立てるのはこの程度で十分であろう。今後は「人災」の余地のない、新らしい発想で復興・復旧をして欲しいものである。その中でいま責任が最も大きいのが現政権と責任野党である。


3/11(日)降雪・曇り 東日本大震災1年 映画「マーガレットと素的な何か」 休宝寺落成会
1:30 起床、新聞・文献チェック、本読み。13:20-15:00映画、15:15-16:30病院、重症者回診回診ほか、17:00-20:00休宝寺増改築落成会。帰宅、20:30就眠。
 本日は3.11で何を見ても東日本大震災関連特集が組まれており、見るのが辛く、TV、ラジオ、ネット、新聞他すべての情報源をつながずに過ごした。

東日本大震災(34)大災害から一年
 昨年3月11日の東日本大震災から一年の本日、お亡くなりになられました1万5854人の方々、行方不明の3167人の方々に、心から哀悼の意を表し、ご冥福をお祈り申し上げます。

 また、原発事故で故郷を離れておられる34万人の方々に、心からお見舞い申し上げます。


3/10(土)晴れのち雨 回診 映画「アメリア 永遠の翼」 東京都交響楽団演奏会
4:00起床、寝不足感あり。文献新聞チェック。10:00自転車病院、回診他。13:50文化会館会議室。秋田ゾンタクラブ映写会「アメリア 永遠の翼」。帰宅途中で降雨若干濡れる。18:00県民会館東京都交響楽団演奏会,21:00帰宅、夕食、21:30就寝。

映画(35)『アメリア 永遠の翼』 秋田ゾンタクラブ映写会
 本日、3月10日秋田市文化会館会議室で秋田ゾンタクラブ主催の映写会があり、米国映画「アメリア 永遠の翼」を観た。国際ゾンタデー・ゾンタローズデー記念映画鑑賞会とのこと。何で秋田ゾンタが飛行機の映画など上映するのか疑問であったが、アメリアとゾンタの関係などは後で資料を見て納得した。

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 1930年前後は大恐慌によって米国全体が疲弊していた時代であるが、この映画は当時人々を元気づけた女性パイロットの第一人者、アメリア・イヤハート(1897-1937)の半生を描いた作品である。主演はヒラリー・スワンクで、かなり有名な女優とのことであるが、初耳である。アメリア本人と驚くほど似ている。監督はミーラー・ナーイル。

 アメリアは近年の日本においては知る人が少ない存在ではあるが、米国では今も代表的国民ヒロインの一人である。
 1927年にリンドバーグは単独で大西洋横断飛行を成功させたことは今でも良く知られている有名な史実である。1932年アメリアは女性として初めての大西洋単独横断を達成する。
 彼女は容姿端麗かつ知的であったこともあってその名声は海を越え、全世界が彼女の発言、行動、私生活にまで注目していた。その後も大陸横断、太平洋横断と次々に飛行実績の記録を塗り替えた。1937年7月、アメリアは世界一周飛行に飛びだったが、給油地のハウランド島に到達できなかった。詳細は不明であるが、恐らくはガス欠が原因で南太平洋上で飛行能力を失ったものと予測されている。

 映画の中に頻繁にモノクロの映像が挿入されていたが、これは当時の実録画像が使用されている。それらと、名機エレクトラを復活させて飛ばしたとされるこの映画を通じて、飛行機の美しさと、数々の飛行状態の画像、1920〜30年代の米国の文化や風景が再現されており、私はこれだけで十分堪能できた。
 
 ドキュメンタリーではなく物語映画であるから当然ドラマ仕立てがあり、アメリアの結婚生活やその後の男女関係、飛ぶための費用を稼ぐために講演や著作等の仕事も我慢してやらねばならない葛藤なども描かれている。その流れをこなしつつ、彼女はアメリカ社会における女性の地位向上のシンボルとなったのであるが、ドラマ嫌いの私にとってはそんなドラマの部分はどうでも良い場面であった。

 アメリアは女性の地位向上に熱心な活動を行ない、ゾンタクラブの主要メンバーとして活躍していた。今もアメリアイアハートの名前を冠した奨学金があり、大学院課程で航空関連の科学や技術を学ぶ女性を対象に支給されている。

 アメリアは冒険家である。意欲と決断はすごい、と思う。冒険家は冒険をしなくなっても決してただの人ではないと思うのだが、冒険家は自他によって常に新しい挑戦と成功を求めていかねばならない負荷を背負っているようである。
 そのようなアメリアの心理状態も良く描かれていたと思う。嵐の中での危険きわまりない飛行、空港における事故、墜落直前の様子もリアルに描かれているから見ていて辛いところもあるが、一見の値はあると思う。


3/9(金)晴れ 内科外来代診 新潟大46同窓会打合会 患者死去
2:00 起床、新聞、徒然。7:00自転車病院着、回診+関連業務他。8:45-14:00内科外来代診。質量共に厳しかった。入院2名。重症化2名あり。16:20帰宅。病棟より連絡17:30病院へ。18:30-20:50 新潟大46同窓会打合会、久々ビールなめる。21:20帰宅。就寝。22:45連絡あり病院へ、患者死亡。2:00帰宅、就寝。

昨年、秋田で深度4ほどの地震 津波60cm あれが予震だったのか?
 昨年の本日、3月9日午前11時45分ごろ、三陸沖を震源とした地震が生じた。この2日後に東日本大震災が生じ、すっかり埋没した地震であるが、その日のことを徒然に書いたこともあって、私のメモには結構細かく記されている。

 震源地は宮城県北部牡鹿半島東沖約160Km、震源の深さは8Km、M7.3、宮城県栗原町付近の一部地域では震度5弱、秋田で震度4ほどであった。気象庁は岩手、宮城、秋田、福島、一部の青森海岸地区に津波警報を発令し、実際に大船渡港で60cmの津波があった。同警報は14:50分に解除された。

 気仙沼や大船渡市では牡蠣や昆布の筏が流されるなどの被害がで、JRは秋田新幹線他で徐行運転を行った。人的被害としては大船渡市で89歳女性が頭に軽傷、栗原市で14歳女性が足首を捻挫したことが報じられた程度で済んだ。

 大船渡市は2000所帯5千人余に避難勧告を出した。政府は官邸危機管理センターに情報連絡室を設置、秋田県は災害警戒本部を設置した。気象庁はまた「今回の地震は震源の位置から見て、将来に想定されている宮城県沖地震と直接の関係はないだろう」との見解を発表している。
 それが、二日後の3.11東日本大震災の発生である。今から見ればこの見解でよかったのだろうか? また、この地震で津波警報が発令されたが地域ではどのような受け取り方がされていたのか? など気になるところである。またこの地震に関しては被害状況や住民の避難の状況はあまり大きくは報道されていなかったが、このことも二日後の大地震発生時の住民の避難行動に影響を与えたのではないか? と今振り返ってみれば思う。

 私が感じた揺れはいつものガタガタではなく、ユーサユサ・・という感じの今まであまり経験のないユックリした動きで時間も長かった。1分以上はあったのではないだろうか。今となってみれば、3.11の未曾有の大地震の予震だったのだろう、と私は考えている。徐々に揺れが大きくなって周辺の人達が騒ぎ始めたが、時間が経ってもこの程度ならこれ以上は大きくならないだろうと思いそのまま揺れに身を任せていた。
 
 その初めて経験した揺れのことを当日の徒然に素直に記載したのであるが、二日後に死者・行方不明者1.9万人にも及ぶ大災害が生じたので、不謹慎な記載だったと思う。ただ、「宮城県沖地震」はいつかは来るとされていたが、「自然災害の発生は年単位で考えていれば良いさ」と甘く思っていた。まさか二日後に、である。一切予想など出来なかった。


3/8(木)晴れ 外来 
2:00起床。新聞他、文献読み、PDF化。7:00自転車病院着、回診。8:45-15:00外来、大混雑。16:15秋田大学、秋田温泉脇、横山金足線経由で帰宅。車道の状況かなり改善。室内トレーニングセットからクロスを外す。文献他対応、夕食、20:30就眠。


TVの料理関連番組で私が受ける不快感4点(2)料理を前にぺらぺら喋る無神経さ 
 第三は、放送で用いられた食材など、有効に利用されているのだろうかという心配である。
 料理番組は時間的に全行程を放映出来ず、各段階まで作り置きされた食材を次々に登場させて展開していく。この間に用いられる食材はその後どういう運命をたどるのだろうか。かなりの高級品を用いているように見えるだけに心配である。まさか廃棄されないだろうと思う一方、収録が終わるとゴミとしてサッと片付けられているのでは、と危惧している。もし、そうなら実に勿体ない事である。

 第四は、調理の過程での料理人もそうであるが、出来上がった料理を前にキャスター達が大声でぺらぺらと喋ることによる不潔感である。 調理場では何故マスクをしないのか、話す度毎に唾が飛ぶだけに不思議でならない。
 咳やくしゃみにともなって大量の飛沫が飛ぶことはSARSやインフルエンザの際の飛沫感染に関連してよく知られているが、会話だけでも口から唾液が飛散することも証明されている。だから、医療機関の調理場や製薬関連、試薬業界、ICや精密機械や業界では必ずマスクを着用する。咳・くしゃみの場合の飛散距離は2m程だが、会話の場合は1m以内である。だからちょっとした心配りで良い。

 私は患者と近接して会話をする場合が多いが、咳やくしゃみがなくとも唾液が頻回に飛んで来る。多数の患者と対面する私共は常に感染のリスクにさらされているのだが、私は感染症という意味でなく、不潔だから嫌なだけである。不特定多数が使う電話を使うのも嫌で業務でもファックスを用いるのもこのためである。ましてや共用の聴診器を用いるのも嫌、備え付けのスリッパだって嫌である。舐めるように使われているマイクは不潔と思わないのだろうか。

 料理に唾液が付くような状況はあまりにも無神経で見るのは辛い。家でも時々言うのだが家族達は私の方が異常だ、と私は劣勢である。


3/7(水)雨  外来 
2:00 起床。文献・新聞チェック。7:00車病院着。回診他。 8:45-14:00外来、今週は混む。重症患者家族面談。16:00帰宅、新しく入手したディバッグを自転車向きに改良、文献読み。夕食、20:30就眠。

TVの料理関連番組で私が受ける不快感4点(1)出演者の食事マナー
 好むと好まないにかかわらず、自宅で過ごす時間が長くなって家族や賄いのおばさんが見る番組に付き合う機会が多くなる。ドラマ、殆どのバラエティ番組は受け入れ難いが、さすがにニュース、ドキュメンタリーに映像の果たす役割は大きい。その点は多いに認めたい。

 最近はグルメ番組、その他の食材・料理に関連した番組が増えているようである。未知の世界の、あるいは日本の各地の料理、食材、手の込んだ料理を見るのはとても楽しいし、感心する。しかし、そこまでであって、私は立派な料理に興味はないと言うとウソになるが、あまり食べたいとは思わない。それ以上に映像よって時には不快な感じを受けてしまう。

 私は食事に関しては比較的淡泊な方で基本的には夕食のみで良い。出勤時間が遅くなったので家内が朝食を用意する機会が増えたのが悩みでもある。食事には感謝が一番と思っているので、変質していなければ、塩気が強くなければ、食材そのもの、関連した方々に感謝しつつ何でもいただく。食品が無駄に廃棄されるのは許せない。表示されている賞味期限などはどうでも良く、わが家では私が食べるか否かの判断が賞味期限であり、たいてい表示よりはるかに長い。だから、私は人間コンポスト的立場も果たしている。それでも廃棄品がでる。その際は庭先のコンポストで肥料化し、花壇などで用いる。

 毎日の食事は近場で採れた当たり前の食材で作った、当たり前の家庭料理が一番である。そうは思っていても、実際にはかなりが輸入食材であるのが残念である。

 料理番組を観ていて私は4点ほどで不快な感じを持つ。
 第一はキャスターが試食する場面である。時間もないのであろう、口に入れて直ぐさま、あらかじめ用意された言葉を発する。語彙がとても狭いし、番組上当たり前であるが、全て賞賛の声である。あまり美味しくないという意味の発言を待っているのだが、そんな放送にまだ一度もあたったことがない。
 第二は出演者の食べるときの作法で、特に箸の使い方が気になる。多くのレポーターがまともな箸の使い方が出来ていない。比較的美人のタレントを登用しているがそこまでは気が回らないらしい。食事のしぐさも含めて一定程度のレベルのタレントの起用が望まれる。料理が素晴らしくとも、レポーターのしぐさを通じてしらけることも多い。


3/8(火)雨 外来 
2:00 起床,文献読み、新聞チェック、徒然ほか。6:50病院着、回診+病棟業務、8:45-14:00外来、16:00帰宅、文献整理、新聞チェック 、夕食、20;30就眠。

映画(34)やがて来る者へ マルザボットの大虐殺を知る 
私が行きつけとして選んだ秋田市の映画館シアタープレイタウンは原則的に週末の金から日の3日間開館する。約半年間毎週通ったのだが観客はいつも2-20名程度である。1-2月は更に観客が少なくなるためか休館であった。
 私は昨年秋口から、知り得ていない世界、分野を映画を通じて垣間見ることが出来ることに意義を感じ、この映画館の上映作品を選択せずに全部観てきた。週末に2.5時間ほどの時間を作ることは決して容易でない。この1-2月の休館でホッと一息ついた。
 この3月から再開館した。今年もいつまで実行できるか分からないが、同じように全作品を見てみようと思う。費やした時間以上に得るものがあるからで、映画を楽しみに行くと言うよりも映画を通じて学びに行くという感じである。


 
 今年の第一作目がこの『やがて来る者』である。この作品は、1944年にナチスドイツ軍が、マルザボット、グリッザーナ、ヴァド・モンツーノ、などイタリアのモデナ近郊の村で1.830人に上る村人を殺した「マルザボットの大虐殺」と言われる史実を描いた作品でイタリア・アカデミー賞の主要3部門で受賞している評価の高い作品である。

 歴史に弱い私にとって知らざる世界が強烈に描かれていた。

 筋書きは、ボローニャに程近い山間の村に住むある一家の8歳になるマルティーナと言う女の子の目を通じてみた村民虐殺である。彼女は生まれて間もなく弟が死んだことを機会に言葉を失った。イタリアは連合軍に降伏してドイツの敵国になった。この静かな山村にも1943年冬頃からナチスドイツの手が伸びてきている。これに対し若者を中心に抵抗するが次第に状況が悪化する。
 幼いマルティーナは、ナチス兵によって目の前で繰り広げられた残忍極まりない殺戮を、その意味も分からずにただひたすらに見つめ続ける。奇跡的に生き延びたマルティーナは生まれたばかりの弟を助け出し育てようと右往左往する。その過程で彼女は声を取り戻して行く。

 8歳の少女を演じた子役は、まだ10歳にも満たないと思われるが、困難な役を見事に演じきっている。外国映画には子供がよく登場し重要な役割を与えられているのだが、見事な演技にいつも感心させられる。

 私にとって見続けるのが辛い映画で、見終わったあとも不快な気持ちになったが、近代史の中に「マルザボットの大虐殺」を始めとする史実が多数埋もれていることを知った。近代史を学びなおしている積もりでいる私にとって、ファシスト、パルチザン、反乱軍、ナチスなどを知るのにも参考になるだろう。


3/5(月)小雨 書類処理 
2:00 起床、文献、徒然、その他。7:00自転車病院着。小雨と後輪の泥跳ねで背から腰部にかけビショ濡れ。回診、重症者対応。16:00雨で家内の車で帰宅。新聞、データ整理、夕食、20:30就寝。

東日本大震災(32)復興・復旧は歴史も踏まえて論理的に
 東日本大震災後、間もなく1年を迎える。
 いやな記念日であるが、間もなくである。大震災、原発事故関連では起こってしまったことはもう元に戻すことは出来ないが一年も経過しても原発事故の処理は順調に進んでいるようには見えないし、がれき処理、放射能汚染、風評など、ジクジクと未解決のまま燻っていて問題が山積みである。
 一年迎えたこれからはどうどう巡りの議論でなく、復興・復旧を主眼にした論点で前向きに進めたいものである。
 
 私など大震災で被った被害は直接被災された方々に比べれば、結果として微々たるものであったが、混乱の最中では患者と病院の安全、医療供給体制の維持に集中していた。
 そんな立場だから無責任な意見になるかもしれないが、復興・復旧は自然のパワーに逆らわないことと、原発に関してはスリーマイルやチェルノブイリ他の大規模事故、今回の事故のほか、繰り返してきたあらゆるレベルの経験を有効に生かした対策にしていく必要がある。

 大地震は防ぎ得ない。その様相に応じて津波が発生する。しかも、その規模に関しては今回以上のレベルのが生じうる。今回の大震災は地震でも被害があったのであろうが後に続いた大津波のためにその実態は分かりがたい。ただ、直接的に建造物が破滅的被害を受けたという実態はないようである。ただ、かなり離れた関東方面でも、東京湾岸、埼玉県、栃木県でも液状化現象で被害を受けている。それでもわが国の建築物は今回の地震にはよく耐えたと言いうるのではないだろうか、と言うのが私の印象である。それでもより一層の厳格化、耐震・免震の研究と実行が必要である。

 津波に関しては貞観津波が有名になった。過去にも今回と同規模の津波があったことが判明したのは地震から1.000年以上も経ってから、つい最近のことで、1980年後半に女川原発造設に向けて東北電力の地質調査で分かった。
 原発に関連した調査で判明したというのも何か示唆的である。小名浜ではこの知見の一部を発電所建設の際に参考にしたとされているが、一方ではこの知見を知りながら東電及び国の機関は無視し続けた。そのことが今回の大事故につながっている。
 
 自然災害の史実は将来的に起こりうる可能性の最小の基準と言うことになる。「想定外」という言葉が飛び交ったが史実からは想定すべきだったことを示している。東電と関連機関にとって、無知がもたらした「想定外」だっただけである。
 
 津波被災地区の復興は「温故知新」で行わなければならない。復旧では同じ悲劇を繰り返すことになろう。


3/4(日)晴れ 映画:やがて来たるもの
1:30 起床、文献関連、新聞チェック。録音データ、雑誌や本の整理。13:30-15:45映画「やがて来たるもの」。パルチザンによる村民虐殺がテーマで、事実に基づいたということで後味の悪い作品。帰路わが家の路地で前後輪が滑り転倒。脇の雪がクッションになって実害なく、教訓になった。19:00夕食、20:30就寝。

東日本大震災(31)3.11の日を迎えるのが辛い
 東日本大震災後、間もなく1年を迎える。
 私は震災直後は大地震・大津波・原発事故関連のデータ、情報を画像も含めて大量に収集した。また、少しでも被災地の状況を知りたくて被災三県の地方紙も購読し、被災者の方々の声にも触れてきた。新聞から情報を連日集める作業は時間的にも結構大変であるが、それだけの意義はある。また、私の立場で出来る援助として、収入の20%余を岩手県の復興資金に送っている。 

 そんな立場から言うのはちょっと僭越であるが、私は被災地の方々と共にいる、と言う意識を持っているつもりである。だからこそ、出来ることであれば、3.11を中心に報道される、安易な特集、ドキュメンタリーやニュースなどは見たくない。とりわけ画像は見たくもない。大震災記念日特集として大がかりな番組や紙面を作って欲しくない、その日を静かに迎えたい、と言うのが本音である。

 しかし、その日が近付いて来るにつれ、もうマスコミは徐々に特集を組み始めている。私が連日聞き逃すことのないラジヲ深夜便でも数日前から震災関連特集として各界の方々を登場させている。マスコミは多岐にわたる報道、情報を記念日を機会に、他者に負けじとばかりまとめるだろう。

 大震災そのもの衝撃もさることながら、大津波ですべてを失った方々、原発事故で避難を余儀なくされた方々、風評の被害を直接的に、間接的に受けている方々にとっては、時間の経過と共に労苦が軽減するどころか、より一層重くのしかかっている。その中でも福島を中心に被災地への風評被害は後を絶たない。今のままの報道や対応では、福島への、特に食品、農作物とかを通じての風評は恐らく10数年も、あるいはそれ以上に及ぶと思われる。

 私はそれらが関心の乏しい方々を対象に興味本位に報道されることを思うと辛く、落ち込んでしまう。出来ることであればその日の前後1週間ほどは新聞からもTVニュースからも、ラジオからも離れたいと思うのだが、現実には他の目的もあるからそうは出来そうでもない。

 私は報道に望みたいのは、論理性に基づいた事実を淡々とまとめて、より正確なデータを提示して欲しい。今ここで被災者の生の声などはそぐわない。この一年間、被災地のために何をしてきたか、何が分かったのか、これから復興をどのようにすべきかについて、しっかりとまとめて欲しい。

 あと一週間である。私は出来るだけ静かにその日を迎えたいと思う。


3/3(土)快晴 ひな祭り 飯川病院日直 
2:30起床。新聞、文献、徒然など。11:15自転車病院へ、書類処理他。12:30-17:00飯川病院日直。18:00帰宅。19:00ひな祭りの寿司で夕食、20:30就眠。

雛祭り 雛人形   
 今、わが家では二組の雛人形がピアノと棚の上に鎮座している。

 雛人形と言ってもフルバージョンではなく内裏雛だけの2セットである。古いセットは長女のために某病院副院長夫人がキットか何かで組み立てて下さったもので、30年以上にもなるので、徐々にセピア色に変色しかかっている。もう一つは2007年に家内が突然自分のためにも雛人形が欲しいと言いだし、京都で仕入れてきたもの。女雛の衣装は末広がりに長く後方に伸びているので、低目ところに置き上から見て楽しむのが良いようである。私はこんなタイプの雛があることを初めて知ったが、双方の雛を気に入っている。前者の女雛はふくよか、後者のは清楚な顔立ちでとても良い表情である。

 ひな人形と言えば一般的には5段から7段のが一般的である。私が小学校に上がるまでは座敷に7段の立派なセットが飾られた。付属品も並べると座敷の半分ほど占拠するサイズであったが、衣装などは若干セピア色に変色しかかっていた。 勿論、私のために用意されたものでなく、他所に嫁いでいった父の姉妹達のために購入されたのもので、本体は焼き物で出来た立派なものであった。 祖父母は私のために飾っている、と言いながら実際には娘を育てた頃のことを懐かしんで飾ったのであろう。このセットは昭和27年わが家が全焼した際に消失した。数日後、まだ熱かった焼け跡を片付けていたときに陶器製の雛の頭部を10数個、手足を多数回収したが、変わり果てたその姿に涙を流したことを今でも思い出す。

 そんなこともあって、私は今でも節句の季節に雛が飾られると、その時のことを鮮明に思い出し、私はちょっとだけ感傷に浸る。
 雛人形については若干関心がある。展示されていれば覗いて見るが、フル仕様の雛人形は良い造りのが少なく、ごちゃごちゃしていて目にうるさい。かつあの緋毛氈が目に痛い。だからじっくり造られた内裏雛だけのセットで十分と思う。
 一月ほど前、家内が盛岡にいる孫のために雛を買った。私はまだ見ていない。もう仕舞われるだろうから見ることが出来ないのが残念である。

 最終的には「雛よりダンゴ」である。夜は、手巻き寿司、稲荷寿司、その他を楽しみつつ、わが家の女性陣達に幸あれと願った。


3/2(金)寒波降雪曇り 歯科受診
2:10 起床。文献・データ整理。7:00病院着、回診と病棟関連業務。11:00銀行スタッフ来訪。書類処理他、16:00帰宅に、16:30-17:00歯の治療、17:30帰宅、本読み。夕食、20:15就寝。

放浪の画家「山下清」展  はじめガックリ、その後深く引き込まれた 
 放浪の画家といわれる「山下清」展は2月4日から秋田魁新報社の主催で秋田市のアトリオン2階美術展示ホールで開催されている。一ヶ月も前からの開催であったが、雪が多く車で通勤ではなかなか立ち寄ることが出来なかった。
 入場料は1.000円、振り返ってみれば、とても安い。

 氏に関しては、名前と放浪の天才画家、緻密さが特徴の貼り絵などの代表作数点を画集とか絵はがきで見て知っているだけで、私は殆ど知らなかったと言って良い。強い関心があって積極的に見たいという訳ではなく、たまたま近くで開催されていたからみたというレベルであった。

 展示室に入ると、先ず、昆虫等を貼り絵で描いたちゃちな作品から始まる。それも、多数の作品の陳列である。展示の全体像が分からない中でのこれらの一見稚拙に見える作品群を見て回っている間は、何か場違いのところに来てしまった、こんな程度の展示会なのか、と言うのが感想であった。説明を見ると1934年12歳頃の作品であった。これらは習作品と言うことだろうが、よく廃棄もされず保存されていたものだと思う。母親の気持ちの表れなのだろう。

 1937年15歳頃からの作品になって、徐々に目を引くような作品が増え始めている。作風は次第に緻密になり始め、以降この緻密さが一つの個性で、彼固有の芸術の世界を持つようになったようだ。18歳頃から放浪をするようになったがそれを機会に表現の幅が広がり、それまで中心であった貼り絵の他、ペン画、油彩、水彩画と多彩となった。しかし、画具が何であれ作風は一貫しており、作品の側により確かめなければ判断できない。 展示は貼り絵の代表作「長岡の花火」のほか、ペン画「秋田の竿灯」「秋田にて」といった秋田ゆかりの作品など含めて約140点と多数であった。その中では晩年の作品群、特にヨーロッパを訪ねたあとに生まれた作品に目を奪われた。

 氏の作品は丁寧な描写と緻密さに特徴がある。特に貼り絵の緻密さは本当に驚くばかりで、見ていて気が遠くなる。これをした絵も描かずに端の方から取りかかるのだという。彼の頭の中にはバランス、全体像が出来上がっているから出来るのだ。一方、パンフレットなどによると、彼はナイーブ画家に属すと言われているらしい。ナイーブ画家とされる画家達に見られる共通点として、作品が稚拙に見える、芸術性が高い、個性的という点が挙げられるとのことであるが、この作品群を見てその特徴を十分に味わうことが出来た。

 氏は何らかの発達障害を持っていた方のように感じる。さらに、幼少の頃の病気で言語が不自由になりいじめとかを受け、自閉的となって貼り絵に喜びを見いだした、とされている。いまヒトは例え同じところで生きていても全く別の世界を見ているものだと思っているが、彼の作品を見て全くその通りだ、と感じ入った。

 私にとっては期待以上の収穫があった。行ってみて良かったと感じた。主催した関係者に感謝である。


3/1(木)快晴 放射冷却で底冷え 今年初自転車通勤 外来 
2:00 起床。新聞PDF化、徒然送付など。6:45マウンテンバイク病院着。回診、8:40-13:10外来。カルテ総括他。16:00アトリオン山下清展-山王にバッグ修理店立ち寄る。17:15帰宅、新聞チェック、夕食。20:30就眠。


自転車通勤再開 今年は7.000Km程度は走りたい 本日から自転車通勤にした。昨年より3週間早い。
 昨年は自転車通勤は12月6日が最後となった。天候不順で走れる日が少なくなったことと、室内用のトレーナーが届いたことで外での走行を諦め、自転車を居間の隅にセットした。この時点で10月1日からの総走行距離は1.835.2Kmであった。
 以降は時折トレーナーの上の自転車に跨って回したが、これがなかなかきつくて辛く、なかなか連日とは行かなかった。本日まで僅か58.8Km分しか回せなかった。一日最低2Km分は回したいと考えていたから目標に遠く及ばず、自分に対し恥ずかしい結果となった。

 室内での走行が不十分で何とかしたかったこと、自転車で走り回る意欲は衰えていないこともあって、天候が春めいて若干良くなり、雪も溶け始めたのを機会に自転車通勤を再開した。
 若干暖かくなりつつあると言え、実際には早朝はまだ寒く外で走るには厳重な防寒対策が必要である。車道の両側には積み上げられた雪がまだ大量に残り、道幅は狭くなっている。路地はまだわだちが残っていて走行は困難である。更に、大部分の歩道はまだ雪が厚く残っており、しかも凍結している。だから、車道を走っていて車との間で危険を感じたときに逃れることは出来ない。などなど、路上走行はまだちょっと危険である。だから、低速走行時、停止時に不安定になりやすいロードバイクではなく、旧いマウンテンバイクを出して利用している。

 私は前から車道を走行してきたが、時折無理解の車の妨害など無かったわけではない。昨年来、自転車は車道を走るべきと言うキャンペーンがあったので今年は若干は走りやすいのではないか、と期待もしている。

 昨年は10-11月の2ヶ月で約1.800Km走行した。今年は7.000Kmほどは走りたいものだ、と思う。ただ、歳だし、不整脈が悪化傾向にあるので今年は手形山の坂道走行を外すとか、無理はしないこととする。昨年は4回パンクし、タクシーや自宅の車を呼んで帰宅したが、パンクを心配しては遠回りは出来ない。今年はテューブ交換を自分でやる方向で準備したい。

 自転車は良い。どこにでも行ける。本日は早速アトリオンに立ち寄り放浪の画家といわれる「山下清」展を見て、革製品の工房にて劣化したディバッグを修理に出し、更に、書店に立ち寄って帰宅した。久保田新橋によって旭川の鯉を探したが、まだ一匹も見られなかった。などなど、車から自転車に替えると生活の幅が広がる。今年も楽しみである。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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