徒然日記

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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5/31(月)快晴 管理会議 長副会議 
2:00起床、ドックx2他。いつもの如く淡々と業務処理、5:00出勤。回診、紹介状作成。8:00-8:50管理会議、9:00-13:00外来、内容的にはガラガラ。連休から4週間目と言うこと。外来やりながら書類処理若干出来た。評価機構中心に処理、16:30-18:30長副会議、懸案事項多数。回診、紹介状作成。20:30帰宅。21:00就眠。

研修医諸君へ(1)救急医の第一の任務は患者のグローバルな評価と振り分け
 本年は初期研修制度の発足の特筆すべき年である。当院でも実りある研修制度にするためにいろいろな新しい対応をしてきた。その一つが救急医療支援チームの発足である。このチームは少なくとも私が期待していた以上の活動計画を作り、2週間ほど前から実行に移しはじめた。その一つが8:15amからの救急患者カンファレンスである。観察室でオーバーナイトで経過を見た患者を中心に手短に提示し検討するというもの。
 
 私のような定年間際の医師が救急医療に関して現役の医師達をさしおいて指導出来ることは何もない。枯れ木でも居ないよりは居る方が制度に花を添えるかもしれないし、自分自身のためにもなるだろうから、と考えて先週木曜日から出席してみている。金曜朝などは救急室に入りきれないほどの若手医師、外来看護師等が集まり驚くと共に、救急医療支援チームが当院の救急医療の問題点を良く理解し、良いことを始めてくれたといたく感心した。この時間を是非有効に使って良い体験、良い研修をして欲しい。自分の半生・・なのか終焉の時期に自分を振り返る事になっているのか分からないが、・・・分からないから面白いのだが、をHP上で振り返っている最中で、私が駆け出しの医師になった頃のことに差し掛かっているので、若い医師達をみていると30数年前の自分をみるようで懐かしさがこみ上げる。

 3人の医師のプレゼンテーションを聞いたが、各人の性格が反映され三様で面白い。22:00pmからの徹夜勤務の後のことだし、診療に追われて十分に考える余裕はなかっただろうから細かいことは問題に出来ない。
 ただ、救急時間帯の中で診断・検査・治療を完結させる必要は殆ど無いのだと言うことだけは言っておきたい。必要なのは大きな意味からの患者の分類である。それによって今自分が何をすべきかが自然と明らかになってくる。

 救急担当医として最も大事なのは、来院した患者が現時点で絶対的超緊急状態にあるのか、緊急状態なのか、非緊急状態なのか、救急時間帯の対症療法だけで帰宅させて良いのか、この時間帯に来るべき適応がある患者なのか否か、の判断が重要であり、この判断に検査等は必ずしも必要でない。まず患者をみて大凡の見当をつけることである。更に、近時点で変化しうる可能性がある状態なのかの判断も含まれる。具体的病名などはその後に考えればいい。

 ただ一つ、当院では急患であるか否かの判断は受付の段階でするのではなく、患者本人あるいは家族が自ら急患だと判断して来院すれば急患と見なしてまず診療をし、それから判断すると言うことである。このことの是非は別にしてそうやってきた。いろいろな考えがあるが、私は間違っていないと思っている。患者の状態の連絡からだけで判断して通常時間帯に来るように言ったり、診療を断ったりお説教してはいけない。なんでも、まず診てからと言うこと。

 その際、どう見ても救急時間帯に来院の要のない患者も沢山混じっている。その方々には受診について、医療の受け方について指導をする必要があるが、自分の診療が患者に満足を与えていない、納得されていない、と感じたときは指導はしない方が良い。こんな時にこそ説教したくなる気持ちは誰にでもあるのは理解するが、容認は出来ない。何となれば、この状態での指導はあらぬ誤解を生み、後々大きなトラブルの因になるからである。そんなときは、「後で再来等を受診した際に、救急受診の仕方についても指導下さい」、とメモでもしておけばいい。


5/30(日)降雨 病棟拘束 FF tennis(中止)
1:00リハビリ当直室で起床、ドックx1他。養老孟司「死の壁」を読む。面白い。深くないのが良い。友の会の講演に参考に。医師会作文、院内の作文など。書評「ラジオ深夜便」を書く。今朝の担当は偶然にも宇田川清江氏。早朝から雨あがる。8:30病院へ、回診など。11:00帰宅、Vn練習多少、etc。家内は6:00過ぎに帰宅し起きたばかりと。私が不在なので総括とか、処理してきたと言う。これでも日頃はなるべく早く帰るように気遣っているらしい。13:00-16:00FF tennis、6人で入り乱れて楽しむ。 FF間の勝負では6-3。家内の膝も何とか良いらしい。読書など若干・・・。21:00就眠。

自伝  宮古病院時代 1971〜73 (4)
消化管検査:消化管暗室透視→遠隔操作透視装置に 胃カメラ→胃ファイバースコープに
 内科系医師にとって最も頻度の高い検査の一つが消化管の透視や内視鏡である。2年間を通じて随分多数の検査を行い、いろいろ経験出来た。昭和46-48年は消化管検査は丁度古い機器から新しい機器に移り変わる端境期にあった。数回先輩の側に立ち見せてもらった後に直ぐに独り立ちして担当した。

 まず透視。
 当時は透視室は完全な暗室。暗順応用の赤メガネをかけて目を慣らし、厚い鉛入れのX線防御服を着て、患者と共に透視室に入り薄暗いイメージ像を見ながら鉛入りの手袋を介しての圧迫とかによる操作で撮影した。レントゲンフィルムも一枚毎に医師が取り替える必要あった。上部消化管は良いとして大腸の透視時は用いる道具も多く、時には造影剤を漏らす患者さんもおり、暗闇での検査は大変であった。1年目後半には別室で遠隔操作出来る現在の透視機器の様な装置に変わり状況は一変し若手医師はほぼ全て新装置に移行した。古くからの医師達はそれなりの大事にしてきたノウハウがあるためかずっと暗室を使い続けていた。

 胃の内視鏡は三機種を経験した。
 始めは、所謂胃カメラと言うべきもので先端に光源とカメラが付いており操作医は薄暗い内視鏡室で胃の中からの光を腹壁を通じて読みとり、適正な方向を向いているか、胃壁との距離は適正かを解剖学的知識と直感を駆使して撮影するものであった。10数枚のフィルムのうちで役立つのが全くないなど、悲惨な結果も時にあった。勘に頼らない何か客観的な方法はないかと考え、透明なガストログラフィンという造影剤を少し服用させ、レントゲン透視台の上で胃とカメラの位置関係を確かめながら検査をしたこともある。これは良いアイデアであり写真の成功率は格段に向上した。内視鏡担当の看護婦等のスタッフ、レントゲンのスタッフ達の顰蹙をかったが、若い医師の申し出に良く協力してくれた。

 二種目は胃ファイバースコープでカメラは先端に付いているがファイバーを通じて胃の中を直接見ることが出来るタイプ。これは画期的であった。当時のは側視型であったために視野はそう広くなく広く見るためには胃の中で反転させる必要があったが誰もその技術が無く、先のごとくの工夫をし透視台で位置関係を確かめつつ練習させていただいた。食道や十二指腸は観察出来なかった。

 三機種目は生検用の胃ファイバースコープでカメラは手元に付いている現機種の原型のようなもので太く固いと言う欠陥があった。ファイバーを通じた画像の解像力も今一つであったが生検という技術の導入は消化器の臨床にとって大きな意義があった。術前にガンの病理診断が出来るということで外科医からも重宝がられた。

 上部消化管の検査は随分沢山やったと思う。週2回担当し5-10例ずつやっていたので多分1500例程度経験出来たと思う。
 直腸大腸の内視鏡は直腸鏡があったが主に外科で用いていたために私は経験がない。透視のみである。


5/29(土)降雨 病棟拘束 法人第1回管理職会議 リハビリ当直
2:00起床。ドック判定総括x1,友の会講演準備の準備他。5:20病院着.回診とか。8:45救急カンファ。9:00ドック結果説明。書類処理。10:30-12:30外来。13:30当直準備し管理職会議会場に。14:00-16:30法人第1回管理職会議。療養関連で発言少々。懇親会は欠。17:00リハビリ病院へ当直に。書類処理、検食他。22:30就眠.

眠れぬ夜のラジオ深夜便    新潮新書 価格: ¥714 (税込)
宇田川 清江 (著)
 私はTVよりはラジオ
絶対的に好む。小学生の頃から鉱石ラジオを組み立てていつも聴いていた。ソニーのトランジスタラジオの出現はサイズ、価格共に驚きであった。受験勉強の頃もいつもラジオを置いてのながら勉強であったが、私にとってのながら勉強は怠惰なことでもない。集中するとすっと聞こえなくなるから能率も落ちていないと思う。この点はTVは遙かに劣る。画面に眼を奪われるから仕事にならないし、音だけ聞いていてもがなり立てるからうるさい。内容がくだらないのが多いので別に無くとも実害はない。
 私は年間を通して朝1:00-2:00頃からその日の活動を始めるが、やはりながら仕事をする。4:00迄は主にCD,MDをかけ、4;00はNHKラジオ深夜便「こころの時代」にダイヤルを合わせる。内容によってはまた音楽に戻すこともあるがほぼ連日聴く。聴きながら徒然日記を書き、風呂に入り、出勤の準備をする。私にとってNHKラジオ深夜便は身近な存在である。

 そう言う背景があるからか、先日仙台出張時にふと立ち寄った書店でこの本が直ぐに目に入り、帰りの新幹線で読み切った。

 著者の宇田川氏は1990年4月28日の番組開始からのキャスターとのことで今でも時々出演している。私はこの方の声は高校生の頃から知っていた。当時FM放送はまだ無い時代、NHKは二つの放送電波を利用して週一回日曜日午前11;00に「NHK立体音楽堂」というステレオ番組があった。二台のラジオを用意し右を第一放送、左側を第二放送をかけるとステレオになると言うもの。心ときめかして聴いたものだが、この番組のナレーションを彼女が担当していた。勿論、アナウンサーの名前なんか知らなかったが、そのことも本の中でちょっぴりと触れており、実に懐かしく思いだした。
 
 この本では放送開始にまつわる種々のエピソード、苦労話、「ラジオ深夜便の集い」、15年の放送を通じての思い出話などが淡々と紹介されている。我が国も高度成長期に入って次第に夜型の生活になっていき、TV時代となり、レンタルビデオ時代、更にパソコン時代となってラジオは地味な存在となった。当時、NHKのラジオ放送は0;00で終了、深夜放送はニッポン放送が昭和30年代からやっていたが、だんだん運転業務とか受験生とか一部の人にしか聴かれなくなっていった。私が時々聴いていたのもこの放送である。
 NHKの深夜放送開始の切っ掛けは昭和天皇の病状容態の放送のためにつなぎとして一晩中音楽を流した時に遡るという。深夜の音楽放送が耳に心地よかったという反響に始まるとのことで、昭和天皇の間接的置きみやげの一つと言い得るようである。今はお年寄りを中心に200万人が聴いている人気番組にまで成長した。
 
 番組の大枠として(1)対象は大人(2)ゆっくり話す(3)NHKアナのうちOBによる(4)歌詞のない静かな曲を流す・・と決められたとのこと。現在の構成は、放送時間は23;10-5;00迄で一人のキャスターがこの長丁場を担当している。最初は「ワールドネットワーク」「ラジオ歳時記」などで始まり1;00台は「演芸特選」3;00台は「名曲・・主に日本の歌曲や歌謡曲」4;00からは「こころの時代」で多くの方が登場し対話形式での話や講演会の模様等が放送される。なかなか聴けないいい話がふんだんに登場する。この6時間の間、聴取者からの手紙も数多く紹介されるから聴取者にとっては親しみやすい番組になっているのだろう。この番組を聴いていると日本は本当に高齢化社会なのだと実感するし、お年寄りの、趣味、生き甲斐、日常感じていること、静かな心境、悩みの一端などがよく解る。

 この本は「ラジオ深夜便」の愛好者、ラジオ番組に興味のある方、NHK、アナウンサーに関心のある方々にはお勧めである。


5/28(金)晴天→雨 秋田県主催院内感染対策研修会 医師会打ち合わせ(欠)
1:30起床。ドック判定総括x1,総括、紹介状、医師会館連業務。家内ついに帰らず、大丈夫かね。ならば・・とベートーヴェン「エグモント序曲」ハイティンク指揮のを10数回リピートをかけて大音響で聴く。活力が沸いてくる。5:20Taxi病院着.回診とか。退院患者総括他、10:30-13:15外来、13:30ドック説明x1、14:00ドック診察x5。14:30-17;00院内感染対策研修会、県庁第二庁舎8F、国立感染症研究所荒川氏の講演「院内感染を防止する上で考慮すべき薬剤耐性菌」。半分は微睡む。医師会打ち合わせは物理的に不可。19:30病院着、回診とか、20:45帰宅21:30就眠.

あやふやな医療現場でのコミュニケーションを考える(2)
 命に関わる医療現場では、特に、この「阿吽の呼吸」「一を聴いて十まで知る」の「ハイコンテキスト・コミュニケーション」は100%通用しないとの認識が重要。場合によっては「15まで、あるいは20まで言い説明して、何とか10を解ってもらう」と割り切ることも必要。更にコミュニケーションを円滑にするためには、パソコンなどの小道具、パンフレット、説明書等の用意も必要になる。
 
  情報共有のプロセスというのは情報の間に横たわる不要のノイズを如何に少なくし、如何に乗り越えてコミュニケーションするか、と言うことに尽きる。だから、互いの間に横たわるノイズをいかに認知し、理解し、解決するか、という努力を欠いてはならない。

 医療コミュニケーションは、健康を維持・増進し、害した時はそれを取り戻す際の活動、という意味で「健康コミュニケーション」といえる分野に情報が集簇していくものである。従って始まりと終わりの間には一定の方向性があり、誰にでも共通の話題であり、それ自体は単純なプロセスなのであるが、それらの間にはいくつかの段階・種類のノイズが存在する。

 第一は個人的内面的・感情的ノイズである。患者はまず「気難しそうな医師だ!!」「どんな検査や治療をされるのか??」と瞬時に思うし心配する。こうした内面の不安や期待、喜び、驚き、といったノイズはその後のコミュニケーションにかなりの影響を与える。
 第二は対人ノイズであり、医療スタッフと患者及び患者家族の間の1対1のコミュニケーションの中で相性などの善し悪しから発するノイズを指す。
 第三は組織ノイズと言えるものである。病院内、官庁との関係、医師同士、医師と看護婦、コメディカル間、事務との立場の違いなどから発するノイズ。このノイズを減らすにはなによりも組織内で命令系統がうまく機能していなければならない。
 第四はマスメディア由来のノイズである。メディアを通して入る健康・医療の情報も多く、患者もかなりの医療の知識を持つようになった。これは新たなノイズの原因になっている。従って、メディアを通して最近どんな情報が普及しているのか、医療スタッフも把握していなければ、患者との間でギャップが生まれる。このギャップ対策は患者が一方的に深く思いこんでいるために、一般に困難である。
 第五は異文化ノイズと言うべきもの。外国の文化は勿論であるが、国内でも地域差があり、性や年齢層の違いによっても背景の文化が異なりノイズになる。社会的常識を身につけた日本人と在日日本人と評される医師との間にもこの異文化ノイズが大きく存在している。

 円滑なコミュニケーションはまずこれらノイズの認識と対策から始めなければならない。


5/27(木)快晴  総合内科診療部会   緩和ケアチームと懇談  療養病棟診療部会議  講演:「医師とMR」 
2:00起床。家内帰宅し直ぐ就眠。この方が私は安心出来る。ドック判定総括x1。5:20病院着.回診・紹介状関連書類他.9:00-14:00外来.14:00-15:00総合内科診療部会に後半参加。16:00-17:00緩和ケアチームと長副会議メンバーとの懇談、今後のチームの活動について意見交換、17:00-18:00療養病棟診療部会議。18:30-20:20ファイザーにて講演「医師とMR」。20:40帰宅21:00就眠.

あやふやな医療現場でのコミュニケーションを考える(1)
 医療現場で医師や医療スタッフ  vs  患者、患者家族のコミュニケーションが上手く行われていない。これはもともと両者は立場が異なる関係にあるからである。だから「vs」なのだ。医療においては医療者側と患者側とが情報を共有して、同じ方向性を持ち、共同の営みとして病魔と闘う・・などとよく言われる。そんな理想論、屁理屈なんてどうでも良い。実際はそんな生やさしくはない。川の流れに身をまかせて流れる筏を上手に繰るのではなく、川をさかのぼる動力付きの筏をお相手しなければならないこともある。意外ととこちらの方が多いかも知れない。

 ヒト同士のコミュニケーションをまともに論じれば、社会学、心理学、文化人類学といった社会科学の分野と、哲学、芸術、演劇、文学といった人文科学の分野の経験や知識までを借りてこなければならない。私には荷が重く、そう簡単には出来ないが、言ってみれば、コミュニケーションを考えることはヒトが人間として生きる意味や意義を考えるための取っかかりとなる総括的な分野を考えることだと言いうる。

 医療スタッフと患者のコミュニケーションだけではなく、今、先生と生徒、親と子といった各所の関係が乱れている。医療スタッフと患者のコミュニケーションの関係を考え、改善の方向性を探ることによって、日本社会に問題提起をすることが出来るかもしれない。

 日本社会では、従来「一を聞いて十を知る」「以心伝心」「阿吽の呼吸」など、所謂「ハイコンテキスト・コミュニケーション」で、相手に十分察してもらえた。これは、組織の長や長老をオピニオンリーダーとしつつ、その構成員が情報や状況を皆が共有していたから可能になったと言いうる。
 しかし、多くの情報が飛び交い、皆が各々の価値判断で物事を考えるようになると、「言わなくてもわかってもらえるだろう」という考えを持つことは甚だ危険である。「言わないとわかってもらえない」という、所謂「ローコンテキスト・コミュニケーション」時代になったと考えなければならない。それ以上に「全部言わないと理解しようとしない」「言ってもわからない、理解しようとしない、理解出来ない」時代かもしれない。TVを中心とした映像文化はヒトから考えることをすっかり奪ってしまった。寧ろ、この重要な情報伝達のためのツールが人間同士のコミュニケーションを困難にしてしまった、と私は思う。


5/26(水)快晴 県民防災の日  T薬品スタッフ来訪 医師会常任理事会 法人評議員会(欠)
2:00起床。ドック判定総括x1,他。2時間ほど食卓で微睡んでいた家内も起き出し朝までパソコンに向かう.5:10病院着.回診、書類他。9:00-13:30外来。ドック診察2名。15:00-15:45 T薬品スタッフ来訪歓談。病棟患者対応、17:30-19:30医師会常任理事会+α。法人評議員会は常任理事会と重なり欠席。20:00帰宅、22:30就眠。

県民防災の日。昨年はこの日岩手・宮城中心の地震で仙台出張中止した
 本日は県民防災の日である。21年前の昭和58年5月26日の本日、県内は日本海中部地震にて甚大な被害を被った。当時私は秋大の第三内科で勉強中であったが、その時の状況は今でも思い出す。丁度昼食時であり、医局には私しか居なかったが、本棚は倒れ悲惨な状態になった。隣の実験室ではガラス器具が大量に飛散し、炭酸ガスボンベが倒れてガスが吹き出すなど、大変な状況であった。人的被害はなくホッとしていたが、この時間帯に男鹿や能代の海岸では襲ってきた激しい津波が、悲劇をもたらしていた。
 この時の記憶を、秋田県民は決して風化させてはならない。

 しかし、実施には日本海中部地震の記憶はかなり風化しはじめていた。地震は全く前触れもなく生じる。だから恐ろしいのであるが、逆に、このことが理由の無い安心感をもたらしているからである。頭では解っているのだが、心では忘れかけているのだ。

 昨年の5月26日は日本海中部地震から20年のその日であったが、18:24東北地方を大型の地震が襲った。この時間丁度県医師会の会議室で会議の準備をしていた。あたかも、県民に注意を喚起するために??と思われるほどのタイミングであった。幸い、秋田では大きな被害はなかったが新幹線が不通となり、翌日仙台で開催されたSARSの協議会への出席は取りやめた。

 21年目の記念日である本日は
男鹿市や能代市など11市町村、学校、病院、企業など332団体29000人が防災訓練に参加したというニュ-スが流れていた。良いことである。県も第二庁舎の災害対策本部で情報伝達訓練を行ったと言う。

 昨年感じたのは電話・携帯電話等の通信網がダウンすることによる情報不足である。一昔前と違って今は数分にして繋がらなくなる。これは各人が一斉に安否確認のために電話機に飛びつくから回線がダウンするからで、大規模災害時の電話使用のガイドが住民に徹底される必要がある。そのために私はいつもポケットラジオを持ち歩いている。今までの経験の中では双方向性ではないが、ラジオによる情報が一番役立つと思っている。自宅には電池すら要らない発電器付きのラジオも用意している。


5/25(火)快晴 医師会打ち合わせ No5医療評価機構受審委員会 医局カンファ
1:00やや早めに起床,ドック判定総括x1,医師会・病院書類、画像変換処理.やや眠い.5;10病院着.マックPB5300一式病棟用に運搬。回診、紹介状ほか.9:00-13:30外来.14:30-15:30医師会打ち合わせ。16:00-17:30No5医療評価機構受審委員会.17:30-18:30医局カンファ、診療所における肺ガン発見の試み。病棟業務。20:30帰宅。21;00就眠.

ハーレー(2)隣のシロネコがマフラーで足やけど。が大事に至らず良かった
 今年は4月上旬にハーレーを乗り始めたが、そのころはまだバイクには寒い季節である。乗っている自分も凍えてしまう。乗り始めて二日後、その日も寒い日であった。隣の老ネコが私の観ている前で帰宅直後のハーレーに飛び乗り、マフラーで足を火傷した、らしい。更に、2-3日後には通常に近い状態で歩いていたから大事にならずに済んだのだろう。

 我が家に1匹、賄いの石井さんのが1匹、隣の義姉宅にもネコ2匹の都合4匹が我が家の敷地内で暮らしている。これに野良とかも混じることもありちょっとしたネコ屋敷である。隣の長毛種の「シロ」は年齢不詳だが老猫である。何故か家に入れて貰えないらしく外にいることが多い。毛も薄汚く汚れている。
 寒い季節は「シロ」にとっては大変な季節のだろう、私共が帰宅すると間もなく何処からと無く現れ、スキを窺ってボンネットの上に乗ってエンジンの余熱で暖をとっている。そのために私の車の屋根とボンネットはネコの足跡、爪の傷跡が絶えることがない。結構傷になるものだが、私なんかもう諦めムードである。雪の季節で車が濡れていたり、雪が上に積もっているときは車の下にもぐって暖をとっている。
 バイクで帰ってきた二日目、何処からとなく現れたので、もしかすればバイクにも乗るんでないかと思い離れたところでしばらく見ていた。矢張り飛び乗った。飛び乗ったのは良いが、その先はなんと座席ではなく二本のうちの上部の方のマフラーである。座席の上にはヘルメットを置いていたことも関係しているだろうが、老猫の為に体力的に無理でマフラーを狙って飛び乗ったものだろう。車体が斜めになっていることからマフラーは丁度飛び乗りやすい、好い位置とも言えるし、太さもネコにとっては十分な太さである。   だが、この辺のことは本人に聞いてみないと解らない。
 診ていた私も驚いたが、飛び乗った本人はもっとショックだったのだろう、1-2秒後に「ギャッ」と悲鳴を上げ2-3メートル飛び跳ね、その場で後足を盛んに舐めはじめた。エンジンを止めたばかりのバイクのマフラー、しかも大排気量のバイク。多分、卵焼きぐらいは出来るんではないかという熱さである・・・。
 その後は、私はシロが飛び乗りやすいように座席にヘルメットを置くのは止めた。朝、座席はネコの汚れた足跡が付いているから今はうまく余熱を利用しているようだ。役に立っているのを感じて私の心も温かくなる。

 いつもバイクに乗りながら浮かぶのは、転倒したときに自分が車体の下敷きになり骨折などを負い、更にエンジンまたはマフラーでジワジワと火傷を負うイメージである。300Kgほどの重量もあるし、洩れた燃料で火達磨の構図も浮かぶ。その時はもう私は駄目だろう、と思う。バイクは何処から見ても恐い乗り物である。だから、私は、可能性を否定出来ない事故死、障害の危険性を意識しつつ、今日も乗る。降りたとき、ホッとする。いい一日を意識し味わうことが出来る瞬間である。


5/24(月)快晴→雨 管理会議 長副会議
1:00早めだが起床、ドック判定総括x1,主治医意見書、紹介状返事など。4:30ハーレー調整、何とか復帰、5:15病院に。回診、8:00新体制での3年目になる管理会議。9:00-13;50外来、外来のマック好調能率アップ。病棟、書類対応。16:30-18;00長副会議、20:20帰宅、21:00就眠.

ハーレー(1)走行中に突然
マフラーから火を噴いた
 2-3日前にハーレーが走行中、自宅へあと1Kmほどのところで突然エンジンが不調になり、パン・パン・・と大きな音を立てながら頻回にマフラーから火を噴く様になった。所謂アフターファイアと言われる現象である。エンジンで燃焼出来なかったガソリンが高熱になったマフラーの中で自然発火し先端から火を噴くもの。私のバイクはショットガンマフラーと言われるような構造しているが、本当にショットガンのように連続的な爆発音と火を噴いた。道路を歩いていた人や後続の車などさぞや驚いたことと思う。こんな状態でもエンストさせずに、何とかヨロヨロと自宅まで到着出来た。しかし、エンジン周囲が通常よりも遙かに熱くて手が付けられないために点検は翌朝とした。
 翌朝もエンジンを回してみたが、同様の状態であり、マフラーも短時間で高熱になり、エンジン周辺のオイルが焦げはじめて煙が上がってきたのでこれ以上では火達磨になる危険があるのでその日は諦め、原因をいろいろ考えた。

 今朝、4:30から何とか時間作り、障害部位の見込みを付けて点火系、燃料系、吸気系を点検し、部分をちょっとばらしてみたが、予想通り主因はプラグのカブリで、丹念な清掃で結果的にはエンジンは復調した。カブリの原因は燃料と吸気との間に生じたアンバランスと考えられたが吸気系には特に問題はなかった。恐らく私がエンジンを低回転で使いすぎたためであろう。

 ハーレーは2気筒エンジンで適当な振動を楽しむためにV字形に配列され、総排気量は1430ccである。一つのシリンダーが700ccもあって特に始動時のチョークの調整が難しくコツが必要である。単純なエンジンの造りの割りには神経質なところもある。エンジンが不調になるとこの構造からものすごく振動が大きくなって全体を駄目にしてしまうのではないか?とまで思ってしまうほどである。しかし、エンジンを止めたが最期300Kgの鉄の塊に化して重くて手が付けられなくなり人様に迷惑をかけることにもなりかねない。不調になると停めるべき場所まで何とかしなければと焦ってしまう。今回は何とか家まで着けて良かった。

 購入時の数ヶ月は種々の故障に悩まされたことが私に一端の判断力と簡単な修理をする能力を付けてくれた。今回もそれが役に立ちデーラーに持ち込まずに済んだ。 不調のハーレーも私をいろいろ導いてくれた。


5/23(日)快晴。病棟拘束  FF tennisは中止 秋田パートナーシップ講演 
0:30こむら返りあり覚醒、起床して歩行改善。家内・長男共に風邪気味、発熱・咳嗽などひどい様子。やや寝不足感あるが本日の講演準備不足もあり起床、ドック判定総括x1.講演準備、10:00病院に、最終的に画像取り込み午前中何とか完成。13:30-15:30ジョイナスにて秋田パートナーシップ講演「医療は生老病死にどれだけ役立っているか」。終了間際に入院患者吐血との連絡、病院に。対応、18:00帰宅。残務処理若干。強烈な睡魔あり、夕食も摂らずに19:00就眠。

自伝  宮古病院時代 1971〜73 (3)

宮古病院に内科医として勤務(3)救急対応
 成り立て医師にとって救急患者への対応はとても勉強になる。宮古病院は地域の中核病院だからほぼ全ての救急車が搬入されると言っていい。最初の頃は先輩医師の補助を中心に参加していたが1ヶ月過ぎ事からは単独でも診るようになった。とは言っても救急室と医局とは通常のルートでは若干距離があったがつい目の先にある。救急車が来るたびに通用口から、そこが閉まっているときには窓から飛び出せばすぐ行けるから他の仕事に就いている時以外は全部診に行ったと言っていいほどである。又、各課の診察室の並びにもあったので外来診察中の各科の医師も顔を出す。とてもいい環境であった。

 交通事故、列車事故、業務中の怪我など外傷系もよく診た。希には外科系の医師がいないときもありその時にはかなりの外傷の応急処置をした。日本刀で腹部を横に切られ一部の腸が飛び出した患者などは今でも鮮明に思い出す。幸い出血は多くなく応急的に縫合、翌日のこの患者は手術を受けていた。私が縫合した顔面の傷などは翌日外科で再縫合したなどは枚挙にいとまがない。それでも良いのだ、初期対応の責は十分だったよ、と外科医が慰めてくれるのが救いであった。

 一人で対応出来ないときには同期の医師が手伝ってくれたほか、医局で教科書や文献を調べて届けてくれるなど互いに助け合う連携もあって助かった。
 救急車搬送または救急室を訪れるような内科的な疾患も大抵経験出来たと言えよう。今から見て冷や汗ものもないわけではなかったし、経験をうまく体系化出来たとまでは思っていないが2年間を通じて良い経験が出来たと思っている。

 今の中通病院の急患関連の診療体制を新卒医師にとってどうなのかと思ったとき、医局が遠くて救急車搬入の様子が分からないことが第一の欠点のように思えるし、その日の担当がスケジュール化されていることが寧ろマイナスになっているように思える。
 救急の経験は足で、耳で、手で一例でも多く見ること、診ることが大切でまず先輩の技術を盗み取り、理論武装はその後でゆっくりすれば良い、と思う。時代がらなのだろうか、古い医師の一人として、最近は考える前に安易に検査に頼りすぎの傾向も感じないわけでもない。


5/22(土)晴れ  病棟拘束
2:00起床。ドック判定総括x1。講演準備、データ集め、他。4:50家内帰宅、5:30Taxiにて病院着、回診ほか。昨日届いたNEC液晶と共に病棟のパソコンを外来にセット。これで予約と共に診察机で通常の業務の継続が可能となった。9:00人間ドック説明x1。主治医意見書x2。10:30-13:00外来。病棟対応.講演準備.19:00帰宅、Vn他。20:30就眠.

我が国の医療史と命の価値観の変遷(3) 明治・大正・昭和の医療は富国強兵の一環
 明治維新によって我が国の医療史は激変した。すなわち、我が国の医療史において特徴的であった古来からの東洋的医療観に真っ向から対抗する立場の西洋的医療観の積極的導入策である。
 激動期の我が国の医療のなかで明治時代ほど医療の「制度」創設に政策的力点が置かれた時期はなかったという評価もある。しかし、その過程は決して順調ではなかった様である。

 長与専斎によって起草された「医制」は近代日本の医療制度の基礎となるはずであったが、当時、資本主義的政策 と立憲君主制の確立とが重視され、国の責任としての医療機関整備計画は途中の段階で頓挫した。そのために、1886年(明治19年)には衛生行政は内務省から警察に移行され、更に1938年には、それまで警察行政の管理下におかれていた医療関係行政を「富国強兵」の政策方針のもとに強化すべく、厚生省が独立設置される事となり、我が国の医療供給体制の確立は国を挙げて取り組むべき最重要政策課題となり第二次世界大戦に突入することになった。

 日本の医療のあり方は第二次大戦後、GHQの「ワンデル勧告」によって、大きく軌道修正された。すなわち、1948年に出された「ワンデル勧告」は●病院は国民に奉仕するという認識を深めること●計画に基づく病院の建設費は公的財源によるものとし、主として国庫から支出されねばならない、と指摘した。これを受けて政府は「社会保障制度審議会」を設置し「基幹病院整備計画要綱」(1951年)を決定し、国立・公的病院・診療所等の医療機関の拡充整備を行った。 しかし、日本の財政上の理由などから、国の対策は不十分で、それ以降民活路線導入の傾向が現在まで続くことになる。

 こうして我が国の医療史を概観すれば、明治以降に急速な西洋化がなされ、結果的に人間の尊厳そのものまでが「西洋的近代医療」の管理下におかれるという矛盾を呈しており、今の医療に必ずしも満足出来ていない。そのために国民は健康不安が高まる一方で、代替医療とかにかなりの支出を割いている人も少なくない。

 何で医療がしばらくの間警察の管理下に置かれたのか、再度時間をとって調べてみたいと思っている。確かに医療法自体がわが国の刑法にそのルーツがあるとされ、不思議に思っていたがそのためであったのかと一部納得した。 また諸外国の医療の近代化の過程は国民や労働者の立場からの発展であったが、我が国の近代医療制度は国民の健康のためではなく、軍国主義政策の一環としての人員確保の目的で整備されていったことも驚きである。厚生省、現在の厚労省の官僚ぶりが理解されよう。


5/21(金)曇 医師会打ち合わせ 法人理事会 医局歓送迎会
2:00起床。ドック判定総括x1、 週刊アキタ用原稿最終校正、5:20病院着。回診他、 9:30-13:30外来 。14:00入院患者家族と面談。17:30-19:50法人理事会、管理職会議をひかえて長丁場。19:00からの医局歓送迎会(Casles)に合流。寝る時間だし・・と21:30途中で切り上げ帰宅.22:00就寝。

イラクNGO拘束女性の会見は何のために??集団のいじめに等しい
 百聞は一見に如かず、というのは嘘である。特にTV画面での一見は寧ろ無い方が好い場合も少なくない。
 私はTVに対してはあまりポジティブな意義を感じる事が出来ないために殆ど観ることはない。編集された画像=編集者の作為が見え見えだからである。自分からスイッチを入れ、真面目に観るのは年間数回程度かと思う。一方、賄いの石井さんはTV人間であり我が家で仕事中はほぼTV映像と共に居る。従って、私は帰宅して夕食を摂って寝るまでの30分ほどは受け身的であるがTVをチラチラと見ながらと言うことになる。私が帰ってくると気遣って慌てて娯楽系からニュース系番組に変えて、音量を最小限まで絞っている。この配慮は実に嬉しい。ホントは消して欲しいのであるが従業員福祉のために耐えている。彼女にでて行かれたら私どもの生活は成り立たないから、私はひたすら耐えるのみ。

 昨日、私は例のイラクで拘束されたNGO女性の会見の放送を垣間見て義憤を感じた。本人の希望で映像なしで音声だけの会見であった。彼女の声や話しぶりからまだ心的トラウマから回復していない様子が窺われた。
 この記者会見は何のために??私から見て集団のいじめに等しいとしか言えない。彼女は軽率ではあったが、行動力はたいしたものだと思うし、高邁な気持もあっただろうと思う。その点では評価する。
 番組で彼女が実際何を話たかなどは興味はないが、会見は音声だけということからその間はかつて収録されていた資料映像が流されていた。
 彼女は公人でもなく特別の資格もない当たり前の一人の私人であって、今回の事件では被害者に過ぎない。救出のために国、政府が動かざるを得なかったが、場合によっては殺害されていても不思議でない状況にあった。それでも国は方針は変えることはなかっただろうと思う。彼女はこんな形で自己を説明する義務もない。

 結果として悪しき結果が出たからと言って、意思と決断と行動力を持った一人を、それらを一切欠いていて何もしない、する気さえない、野次馬根性の人たちの前にさらして何になる??一人対数100万人、または一人対数千万人のバッシングの意味しかない。あの番組を見て溜飲を下げた人がいたら、自分の方が加害者の一人なのだと自認すべきである。
 報道関係者の方々の言い分は飽きるほど聴いているし読んでいる。報道によるネガティブの効果についてもしっかりと総括すべきであるし、公表すべきである。


5/20(木)曇り→雨、 患者サービス改善委員会 
2:00起床。ドック判定総括x1、主治医意見書等書類整備。ハーレー不調、マフラーから火を噴く。急遽250ccのバイク、ヤマハビラーゴにて5:20病院着。回診他, 9:00-13:30外来 。14:00-14:30
医局会に一部参加。16:00-17:20第2回患者サービス委員会.20:30帰宅.21:00就寝.

BOSE クワイアットコンフォート2余談  メリット&デメリットも
 BOSEのノイズキャンセラー機能付きヘッドホンを購入して2週間になる。
 私はもう手放せなくなってしまった。生活圏の雑音、市井のノイズ、病院の空調、換気扇、コンピューター等が発するノイズを無音とまでは行かないが、実に良く低減してくれるからである。

 まずメリット。バイクではヘルメットの関係上で使用出来ないが、車での出勤時は使用している。私の車は13年目、10万キロを超えた中古のボロ車であるが、エンジン音は軽減し、先進的なハイブリッドにでもなったかの如くとなる。それでも、緊急自動車の警報、カーラジオは鮮明に聞こえるから良く出来ている。問題は道路交通法上でどう解釈されるか、である。
 
 タクシー乗車時、この季節ドライバーは窓を開けているが、すれ違う車のノイズは私にとって拷問だが、これも軽減、それでも会話は通常に出来るからいい気分。
 市街歩行時、自転車移動時には、車の往来も静かで、この時代ついに電気自動車の時代になったかの如くに思える。

 全て、これらのメリットはこの製品の機能が良い事と、その機能が私の最大の弱点の一つ、騒音ノイローゼを著しく軽減してくれることに由来している。

 デメリットも感じ始めた。●勤務中に音楽でも聴いている、サボりだ・・と職員に誤解される。実際は集中力を高めて仕事での能率を上げているんだが●小さい方だがそれでも目立って格好が悪いらしくジロジロ見られる。しかも、いい年して・・と言うようなバカにしたような表情で見られること。これについてはそう思う方が当然であって、私はそれほど気にしていない●自分の心臓の鼓動が聞こえる。不整脈が生じたときは二重の不快感となる●歩行時、骨伝導と思われる体内からの軋みのノイズが聞こえること●むしろ、装着しないときに、ノイズに対してより敏感になった??・・・等々次々と挙げられる。

 それは何ですか、と興味をもって声をかけた方々にはちょっと試用してもらっているが、最初はみんな怪訝な表情をする。ヘッドフォンだから美しい音楽が聴こえるものだ、と思いつつ頭に乗せるだろうから当たり前だね。蹄の音がしたときにまさかシマウマが歩いていると思わないのと同じ。説明しなければ誰もこの機能は分からない。説明しても興味を持つ人は少ない。生活上のノイズは当たり前のこととして殆ど気にしていない人が多い事が良く分かる。

 自分の担当するナースセンターの白板には以下の如くにメモ書きした。「私は静寂を聴いているのです。声は普通に聞こえますから遠慮は不要です。ここで一句、『しずけさや 耳にしみいる ナースの声』」・・・。福田はやっぱりバカか異常者か、と言われそうですね。

 ソニーの耳栓タイプのノイズキャンセラーは実際どうだろうか??と興味も覚え始めた。


5/19(水)曇り 医師会理事会  
2:00起床。ドック判定総括x1、講演データ集め。家内はついに帰らず。緩和ケア講義準備のため?とは思うが、健康が心配である。5:10病院着。回診他紹介状など。 9:00-13:30外来+ドック診察 。14:45-16:00病棟関連処置,16:30-18:45医師会理事会.協議事項が多数。再度病棟へ。20:30帰宅。21:00就眠。忙中座閑無。

我が国の医療史と命の価値観の変遷(2) 宗教・儒教と密着した自然哲学であった
 大宝律令 (701年) や養老律令 (718年) には医疾令 が示され、医術や薬術の面からの病気の治療法が一応は規定されたとされ、驚かされます。そうは言ってもこの頃はやはり呪い・加持・修法が中心で、 平安時代においては薬や医術よりも、体に溜まった穢れを追い出す呪いや祓えが優先され、その様な施術を行う祈祷師等が活躍していたとされます。
 鎌倉時代以降の疾病観にはアジア大陸からの東洋精神的な価値観・思考様式や仏教 (禅宗) の因果応報観等の思想が中心で、江戸時代になると仏教よりも儒教の影響が強くなり、次第に実証主義的傾向が強まっていた。

 ここで医史上で大きな変革がくる。すなわち、1754年の山脇東洋の刑死の剖検、さらに1771年の杉田玄白らによる江戸小塚ヶ原刑死体解剖である。これによって我が国の医療観を絶対的に方向付けていた中国医学由来の五臓六腑説は否定され、我が国の医療はより実証的なオランダ流の思考様式を取り入れる事になり、初めて科学的アプローチの方法論を習得していくことになる。
 要するに西洋的思考流入前は、わが国にの医療は封建主義的思想と仏教・儒教等の宗教的精神を融合させ、自然哲学の一部として発展していたと考えることが出来る。そこでは疾病は殆ど実証的に扱われるは無かったとされる。
 この様な歴史を見直すとき、当時の医師・薬師がどんな程度の判断力を持っていたのか、大衆の医療は実際にどう行われていたのか興味を感じるところである。しかし、それらを詳細に述べた文献を私はまだ知らない。小説「赤ひげ」は山本周五郎の大作であるが、医史から知りうる当時の医療の状況と小説の中で描かれた状況との間にはかなり乖離があるように思えてならない。
 
当時の人達にとって死は常に身近であり、常に脳裏から離れることはなかっただろう。生きることも厳しかったであろうが、それだけ一日一日の持つ意義は大きかったのかも知れない。人生は長さではなく、中身なのだろうし、当時の人達にとって死によって安息を迎えられるといった救済の意味もあったように思える。いま、話すことも動くことも出来ない状態で生き続けている高齢者のお世話をしているが、救済の世界に入り難い現代医療のジレンマを、私はひたすら感じながら過ごす日々である。


5/18(火)曇り-晴れ  医師会打ち合わせ(中止) 公開医局カンファレンス
2:00起床、家内帰ってきたばかりらしい。疲れはてた様子で遅い夕食?摂り就眠。ドック判定総括x1、 紹介状返事、総括x1。5:20病院着。6:30患者家族と面談、回診他,9:00-1400外来 。14:00療養病棟患者若干持ち直し、患者家族と面談。18:30-20:30公開医局MC。爪白癬の治療、鬱の紹介の機会について、糖尿病の食餌指導の意義について。開業医他10名ほど参加。21:15帰宅。21:30就眠。

我が国の医療史と命の価値観の変遷(1)
 今度の日曜日、NPO法人秋田パートナーシップの第2回目の講演として「医療は生老病死にどれだけ役に立っているか」について話すことになっており今準備中である。その中で我が国の医療史を大まかに振り返る必要があり、業務の合間をぬってただいま勉強中。もっと時間が欲しい。

  日本の医療の歴史は、古くからの加持祈祷や薬草、経験的医療が主であったが、4世紀末頃、朝鮮半島から「朝鮮医方」が、奈良時代には仏教と共に「インド医学」、平安時代には「唐の医学」が伝播してきており、平安貴族を中心に次第に我が国独自の医方が形成されるようになってきている。
  平安時代初期の808年 (大同3年) には、平城天皇の命によって医書「大同類聚方」が完成しているが、これは日本最初の医学書と言うことになる。
 医学書と言えば「蘭学事始」くらいのものしか知っていなかったが、この様な医書がこんなに古くからある事を知り、改めて自分の無知に恥じ入った次第。
 この書以降、我が国では医学事典「和名類聚抄 」、絵巻物「病草紙」等の医学関係の書籍が次々に編纂された。これ以降、我が国の医療は従来の呪術的・原始的な経験医療から、科学的な合理性と客観性を持つ「医師の医療」へと徐々に変容してきた。

 この中で、我が国の医療の黎明期に大きな役割を果たしたのが、984年 (永観2年) に丹波康頼によって編纂された医学全書「医心方 」であったとされる。 この本は胸部・消化器等の様々な疾患を、陰陽五行説に基づく相生・相克によって捉え、仏教及び儒教思想から独自の東洋的疾病観を構築し、同時に薬草や、軟膏の使用、食餌等を用いた治療の実践的体系としても注目に値するものであったと評価されている。
 実はこの本は学生の頃一部を購入読んでみたが、当時はその価値にも気づかず、興味半分だけで読んでいたが、度重なる引っ越しの中でどこかに紛失してしまった。機会あれば再度読んでみたいものである。

 この様な医史に触れる度に、当時は本当に低レベルの医療的なことしかなかったわけだが、厳しい生活環境、生活苦の中でも、豊かな感性が人々の中にあり、ある意味では、諦観に根ざしたと言うべき見事な死生観が確立していた様に思える。当時の人々の日々の生活は、感性を失い「脳だけ」で、「視角だけ」で生きる現代人に比較してむしろ豊かに暮らしていたように感じられてならない 。
 このような世界が私は大好きだ。何とか近代医療と豊かな感性に立脚した死生観を両立させられないものかと思う。そうなれば医療の一端を担った一人として最高だ、と思う。

 多くて挙げきれないが、代表として二句・・・
● ねがわくば 花の下にて春死なん そのきさらぎの もち月のころ (西行)
● 散る桜 残る桜も 散る桜  (良寛)


5/17(月)雨→曇 管理会議 友の会理事会 長副会議 薬剤師会有志の方々と懇談 
1:30やや早めに起床。業務はいつもの如く処理。途中にして5:20病院着。回診他,8:00管理会議.9:00-13:30外来。入院対応、14:00-15:50中通病院友の会理事会、挨拶他。16:30-18:00長副会議、この間病棟患者重症肺炎、対応。19:00-21:00「入船」薬剤師会有志の方々と私的に懇談。医薬分業、両師会間の連携等について懇談、21:25帰宅,夜半病棟に呼ばれる可能性高く、直ぐに就寝。

59歳誕生日余話、退職はしませんからご安心を、他
 5月14日は私の誕生日で、無事迎えた感慨を日記に書きましたが、ここ数日いろいろなメール他があり、思いがけないプレゼントもいただきました。

 その中で私は、芭蕉の辞世の句「旅に病んで・・」を引用し、60歳は自分で定年、人生の区切りと設定しているから、無事60歳を迎えたら発想や立場を変えてかねてからやりたいと思っていた目標にチャレンジしようか、と考えている旨を記載しましたが、3名の患者さんが私が来年病院を去る・・と解釈したらしく驚きとそうあって欲しくない旨の心境を書いたメールがありました。
 ご安心下さい。私は60歳を迎えても病院を退職する意志は今のところ全くありません。むしろ長居させていただいたがために年々患者さん方に対する責任が大きくなってきたことを自認しています。だから、私自身の責任をまとうするために、また、患者さん方が私を必要とし、病院も私を必要とするなら診療は続けていく、そのことを変えるつもりはないのです。ただ、自身のあり方を変えたいと言うことです。それに、この話は私の夢を表現したので、実行出来るか、全く未知数です。

 年をとってきたら家内や子供達が誕生日プレゼントをしてくれるようになりました。私の育った環境ではそんな習慣はなく、誕生日を意識したり、口にすることも殆どありませんでした。だから、つい最近まで家内や子供達の誕生日すら覚えてなくて、何度か本人から指摘されて気付くこともありました。みんな元気に過ごせたらそれで良いのだと思っていましたが、今年はじめて発想を変えて年間スケジュール表に家族全員の誕生日を入力しました。

 横浜にいる長女からは見事な花束が、長男からは千住真理子のVn小品集のCD、次男からはウインドブレーカー?でしょうか、ジャケットを、家内、まかないの石井さんからもそれぞれ。その他にも数人の方から心温まるメール、絵はがき等をいただきました。

 気恥ずかしいですが、感謝の気持ちで素直にいただきました。ついでに、ちゃっかりと自分にはBOSEのヘッドフォンを買いました。


5/16(日)曇→雨 FF tennis(中止)病棟拘束  
2:00リハビリ当直室で起床、ドック総括x1。新聞チェックほか種々、講演準備、検食。8:30病院に、回診他11:30帰宅。Vn、ドック総括x1。家内の緩和ケア用のミニ講演準備、パワーポイント初使用で、その手伝いに本日の日中の時間殆どとられ自分のが不十分であった。13:00直前から降雨ありFF tennis中止となり時間に若干余裕が生じて良かった.Vn練習数回、19:00私の誕生日記念としてそば屋で外食、20:30就寝。

自伝  宮古病院時代 1971〜73 (2)
宮古病院に内科医として勤務(2)かけだし医師として
 医師国家試験申請後は実力は無きに等しいものの、正式な内科医としてみなされ、それなりの仕事が与えられた。
 まず病棟の受け持ちは6人部屋が3室で18人が基本、結核病棟も同様に3室であった。今から見ても始めから随分と多かったものだと思う。しかし、当時の入院患者は勿論救急患者とか重症者もいたが、経過観察入院、長期入院患者も少なくなかったので医師として歩み始めた私でも何とかやって行けたのではないかと思う。
 各医師は病棟では「◎◎内科」とあたかも互いに独立したしたような印象で呼ばれた。私が担当する病棟は例えば「二病棟の福田内科に入院・・・」というふうな感じで呼ばれるたびに歯がゆい感じであった。
 医師として出勤して最初に書いた注射伝票は進行胃ガン患者の抗ガン剤のオーダーであったように記憶する。最初の1ヶ月ほどは入院患者と救急患者の初療のみで、一般病棟は当然連日回診したが、結核病棟は週一回程度の回診とした。若干慣れてきた頃から消化管透視、内視鏡検査、外来にも割り当てられ、徐々に担う範囲も増えていった。

 解らないことは先輩医師に聞きまくり、本を読み、文献を読み、同期の医師にも手伝ってもらい随分頑張ったような気がする。
 朝の出勤はいつも寝不足で始業時間ギリギリの出勤であったが、夜は決まった帰宅時間はなく、午前帰りは当然連日、帰るのも面倒で医局のソファや外来の診察ベットの上で朝を迎えるのが半分くらいはあった。朝出勤時には全職員が出勤簿に印鑑を付く必要があり、その台帳のある場所の脇の机にはいつも院長が陣取って全職員と一言ずつ挨拶を交わしており、前夜の救急や病棟の様子もかなり把握しいて、ねぎらいの言葉やコメントもあった。矢張り院長クラスはたいしたモンだと感心したものである。


5/15(土)晴れ リハビリ病院当直   患者家族と面談
2:00起床、ドック判定総括x2、その他講演準備の資料集め。5:40バイク病院着.回診,書類処理。10:30-13:00外来。紹介状返事、病棟対応など懸案処理他。16:45リハビリ病院へ当直に。そのまま業務継続,18;30入院患者家族と面談、病状説明他。20:30就眠。

予想通り首相にまで飛び火 年金未払い問題
 5月6日に閣僚の国民年金保険料未納問題を取り上げたがその日に福田官房長官が辞任し、数日前には管代表も辞任し、思いがけない方向に進展している。

 政治家の未納問題は深刻かつ呆れた問題だ。年金制度を構築し維持する責任が重い政治家に未納者が多数いる状況は、義務をコツコツと果たして来た一般国民の気持を一気に萎えさせる効果は立派に果たした。安易に容認すべきではなく厳しく追及すべきである。
 
 しかし、その後のニュース、年金の機構を見ていてこれは個人の問題ではないと考え、何れは首相にまで矛先が向かうだろうと予想していたので私は今はあまり驚いていない。
 秋田県でも寺田知事、小畑大館市長も未納があったという。テレビ局のキャスター数人も同様であったと言うこと。これでは調べれば次々に出てくるだろう事を予想させる。政治家を始め、自由業の方々、一時期自由業であった方、新しく自由業になった方々にはおしなべて未納になっている可能性がある。これは未納者対策を含めて納入制度自体に問題があるからだ。

 国民年金は公的年金制度であるが、2002年度の未納率は37.2%にもなる。一般会社員の厚生年金、公務員の共済年金、自営業者等の国民年金制度間の受け渡しの機構がうまくいっていない。未加入問題は前二者では生じ難い。国民年金部分には根本的に未加入、未払い問題が生じうる構造的欠陥がある。対象者を把握していないようだし、督促のシステムもうまくいっていない。しかし、今回の年金制度改正法には一番問題である未加入、未払い問題が含まれていない。この問題を欠いては年金制度はうまく運用されるはずがない。直ぐにこの点の改善に着手すべきである。この意味では社会に制度の欠陥をさらけ出した政治家の未納問題、マスコミの取り上げには価値がある。

 福田官房長官にせよ首相にしても公表方法には問題があった。こちらの方が意義は大きいのかも知れない。これからの政治家に国民の目はもっと厳しく向いていく。是非心して欲しいし、ことの顛末をハッキリさせて欲しい。
 しかし、未納・未加入に対して、何でも辞任、辞任と騒ぎ立てるのは問題がある。クリントン大統領の女性問題の行方を当時関心を持って見ていたが、こちらは100%個人の問題なのだが、辞任の声は挙がったが結果的には任期をまとうした。日本なら100%辞任だろう事を思うとこの違いは大きい。何だろうか。

 私は首相には仕事を続けて欲しいと思う。私は医療・福祉の分野での対応には不満があるが、彼を55%の気持ちで支持している。今回の問題では55%に変化はない。他の人??現状では彼をしのぐ人はまだ一人も思い浮かんで来ない。


5/14(金)曇り→晴れ 私の誕生日 医師会打合せ 法人理事会 
2:00起床、ドック総括x1。紹介状返事。5:20病院。回診他。患者関連書類処理に連日追いかけられ、かなりの時間をとられている。やりたいこといっぱいあるがなかなか出来ない。10:30-14:20外来+ドック説明2名。入院患者家族と面談、16:00県医師会打合せ、17:30-19:00法人理事会,ドック処理など、20:45帰宅,21:30就眠。

59歳、感謝の日 「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」
 本日は私の誕生日。大勢の・・と言っても10人ほどの方々から祝福のメールをいただきました。有り難うございました。心から感謝申し上げます。多くの人たちに助けられながら、とにかく今日まで、とても有意義に過ごすことが出来ています。こんな幸せなことはありません。今日までの、全ての関わりあった方々に対して感謝したいと思います.

 本日は、この一年無事生きたと言う感慨、いや59年もよく生きたな、と言う感慨に若干ですが浸れた良い日だったと思います。
 今日一日、私の頭を何度も過ぎったのは松尾芭蕉の辞世の句、「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」でありました。何でなんでしょうね。この句は、彼が死を迎える3日前に、弟子の呑舟に墨をすらせて書き取らせたとされ、死を覚悟した彼の心境がうまく表現されています。彼の駄作の一つなのだ、という説がありますが、こんな時期に何を彼に望むんですか。無理ですよ。健常者の感覚で死に逝く人の心境を論じるまでは許されるとしても、その感覚を押しつけてはなりません。私はこの句が大好きですね。

 実際に死を迎えた患者さんの最期の様子を見ながら・・、だいたい人が死ぬときに、もう医療なんて、何も価値もありませんから、この時側にいる私はもう医師なんかではありません。人生の最後のホンの一時期ですがお世話した友人、知人、同胞の一人のとして、この方の生を終える大切な時を、見送るために側にいるのです。この方の心はもう既に幽界をさまよっているのだ、この世の苦しみから解放され、真に幸せになる瞬間を待っているのだ、と、患者さんの傍らでいつもこの句を思い出しながら、実は喜びの心境で側にいるのです。そして、診断書を書くとき、医師に戻るのです。

 実は、私はここ数年、ずっとこの句の心境にあります。勿論、芭蕉とは違います。私の「枯れ野」とは、私にとっての、未知の世界、世のしがらみ、立場、その他から一切から解放された自由の世界・・・のことなんです。私は、自分で設定している人生の定年60歳を迎えたら、何にチャレンジしようか、と考えています。その何はもう既に決めています。人類の文化的遺産、歴史的蓄積など、に出来るだけ触れたい、それを通じてヒトとはナンゾヤ・・・とか、いろいろ考え直してみたい・・・そんな夢です。こんな良い時代、こんなにいい環境に恵まれていながら、一介のヒトとして考えれば「旅に病んで」いるような今の生活、もう残りはそんなに多くはありませんから、早めに「枯れ野」に踏み出したいと願っているのですが・・・。

 59歳、定年まで後一年、この一年、多分いい年になるでしょう。人生、なかなか良いもんだ、と思います。有り難うございました。


5/13(木)曇り。ABS記者来訪面談
2:00起床、医師会医報原稿校正。週刊アキタ原稿着手。主治医意見書、紹介状返事その他等.起床時家内帰っていたが看護師さん方に緩和治療の講義をするとかで徹夜で準備している。翌日のことなど考えないマイペース人間、ただ感心し、あきれて笑うだけ。5:20病院。回診そのほかいつもの如く。9:00-13:30外来+ドック説明2名。病棟処置数名。書類はじめ懸案処理、院外医師も数人来訪歓談。18:00-20:00ABS記者来訪面談。20:50帰宅、21:30就眠。

音ノイローゼの私の宝物。BOSE クワイアットコンフォート2 
 オーディオメーカーのBOSE社は常に新しい試みを製品に問うてくる面白い会社で業界の中でも異彩を放っているイメージがある。製品を何度か試聴もし、感心もしたが今まで実際に購入したことはない。
 連休前に思い立って「クワイアットコンフォート2」と言う名のヘッドフォンを購入した。これは「周囲の騒音を低減し、圧倒的な静けさ」を想像するノイズキャンセラー機能付きヘッドホンで、20年以上にも及ぶ研究のもとに開発された製品だという。耳の前でノイズと逆位相の音を作り出して放射することによって、例えて言えば酸とアルカリを混ぜて中和する様な方法で、ノイズを中和する機構。確かに装着してみると私にストレスを与える騒音環境を、一瞬のうちに静かな環境に置き換えてくれる。プールとかで水中に潜った時のあの感覚、一瞬に別世界にいるような世界に誘ってくれる。いかに日常、ひどい騒音の中で暮らしているのかよく解る。

 全くの無音状態になるわけではなく、ストレスのもととなる低周波ノイズを主にキャンセルし、人の話声等の帯域はキャンセルしていない。換気扇の音、コンピューターの作動音、町の騒音など持続的な音は特に効果的に低減するが、通常の会話は普通に出来るからすごく良く出来ている。突発的な音には効果は少ない。先日の山形往復ではJR車中でずっと利用していたが、騒音が減衰しいつもの疲労感からかなり開放された状態であった。

 ノイズキャンセラー機能だけならワイヤレスだから動くのも自由。机上でも気が散る原因となる雑音をカットし、集中力がアップする。病棟はせっかく早朝の静かな時間帯に回診するのだが、結構室内の空調や冷蔵庫等の騒音等が騒いからとても効果的で、カルテ書きやオーダー簿チェック時には重宝している。

 ノイズキャンセル機構に加えてヘッドフォンとしての能力も並以上。CD、MDとかの音源をつなげば、ノイズキャンセルによって作り出された静けさに通常よりもずっと低い音量で十分に音楽が楽しめる。
 このノイズキャンセルの理論は音響学の本を通じて知っていたが、実際に市販されていたのに気付いたのはつい最近のこと。ヘッドフォンとしては決して安くはない(4万円)が飛びついてしまった。使ってみて、もしも、10年いや20年も前から使えていたら私の対人間関係、人生観、嫌音権主張、その他にもいろいろ良い影響を与えてくれていたのではないか・・と思った次第。ちょっと表現がオーバーかなとも思うが、ホントです。
 今度は更に一歩進めて
クワイアットコンフォートルームなんて出来ないかな、とさえ思っている。

http://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20030822/dev037.htm


5/12(水)晴れ 県医師会常任理事会
 
1:30起床。紹介状・返事x2、退院時総括等.今日も家内帰らず(笑)。何しているのか??ここまで来れば笑うしかないね。今朝はラフマニノフ・ピアノ協奏曲全集を壮大に鳴らした。良い曲ですな、やはり。5:00病院着、回診など書類処理多数あり記載。入院患者は何とか落ち着いている。9:00-14:00外来、書類処理多数。病棟患者処置。17:30-20:20秋田県医師会常任理事会懸案事項多数で討論盛り上がる。20:40帰宅,21:10就寝

ウグイスのさえずりで邪魔される恵まれた休日の朝
 休日の朝は私にとっては比較的ゆっくり出来る貴重な時間帯である。Vnを弾いたりFM、CDなど流しつつ過ごす。ところが最近それらが6:00-10:00頃までウグイスによって邪魔されている。私にとっては実に貴重な時間ではあるが、あきらめて全ての音を消して静かに聴き入る。

 ウグイスは通常は
林の下層の茂みで行動し、声はあれどもなかなか姿を見せない鳥とされる。毎週行くテニスのコートがある梅林園では毎年この季節には当たり前の如くウグイスのさえずりが聞こえるがそこでは鳥の姿が見えることはまずない。
 居間から覗いていると、スズメを一回りスマートにした茶褐色の小鳥が我が家の庭の木々の間を世話しなく動いている。あれだな!!!と思いつつ見入る。何でウグイスが茶褐色でウグイス色でないんだ??とも思う。1回/分程度、結構大きな声で「ホーホケキョ」とさえずる。何であんなに小さな鳥があんなに大きな声で鳴けるのだ??肺活量は??声帯の構造は如何に??

 ウグイスは学習しながらよりだんだん上手に啼くようになるのだと言うが、我が家で啼いているのはその点はまだ不十分にも思える。これじゃまだパートナーはみつからんじゃないか、だいたいこんな場所で鳴いてもメスが来る可能性は少ないだろうにね、バカだね・・・なんていろいろ話題を提供している。

 桜、ウグイス、ヒバリなど、日本人の心の中に単にある樹木、一種の小鳥としての価値以外のものを十分に感じさせるものを持っている。桜には真の春の訪れの喜びを感じさせるものがあり気分を高揚させるものがあり、散るときの「いさぎよさ」は日本人の人生の「散り際」について何かの示唆を与えている。ウグイスは梅とのセットで何か優雅なイメージ、和歌、短歌の世界を連想させる。

 だから、ウグイスに鳴かれると私の心は傷が付く。まさか私の下手なVnを鳴らすわけに行かないな、電気的音楽なんて鳴らせないな・・・と。 自宅でウグイスの声を楽しむことが出来るなんて本当に恵まれて居るんだ、と思うことにした。


5/11(火)晴れ  医師会打ち合わせ(欠) 医局会 医師会委員会
2:00起床,家内疲れ果てた様子で帰宅。連日ご苦労様。ドック、紹介状、退院総括ほか.3:40入院患者さん呼吸停止というので出勤。4:00死亡確認、5:50見送り。3ヶ月ほどお世話した癌末期の高齢の方。一度も苦しいと言うことなく静かに、静かに死去された。高齢者、ヒトの最期はかくあるべしと満足。6:00定期処方箋発行40数枚発行、回診他、9:00-14:00午前外来混雑+ドック説明1名.14:00入院患者家族と面談。医療評価機構関連業務。17:30-18:00医局会一部出席。18:00-20:20医師会委員会。懸案3件、時代の変遷を感じる内容。20:40帰宅、21;00就眠.

老齢症候群と言う言葉、考え方、診断名をもっと普及させよう
 高齢の患者さんには青壮年者には見られない特徴が数多くある。ところが、まだ高齢者の方の医療の考え方は若い人そのままの延長線である。大学の老年科なんて老年学なんてやっていない、単なる名称だけ。これはヒトとしての生老病死の一連の経過を考えれば、医療上でも極めて異常なことである。
 高齢者の診断、病状評価を若い人の概念を導入すると、苦労するのは患者本人であり、費用は目が飛び出るほどかかるだろう。高齢の方は検査すればするほど異常値は次々と得られてくる。当然である。今の検査とかの基準値とか正常値、正常範囲の多くは若い人達のサンプルから算出しているから。高齢者の検査データの基準値は人間ドック学会等での蓄積から若干得られているがそれほど体系だっていない。

 心ない医師は若い人達の基準値を標準にものを考えるから「あれも異常、こっちも異常」とピンピンと元気に暮らしている高齢患者達を脅し、脅迫にかかる。ところが異常を指摘しても誰もその異常を治せないのだ。当然のこと、治るはずもないし治す必要もない。

 加齢とともに現れてくる身体的および精神的諸症状・疾患を老年症候群と言う動きが徐々に老年医療専門医達の間から主張されるようになってきた。とても良いことである。老化による多くの臓器や組織の機能低下が影響しあって高齢者という一個人を形成しており、医療的考えを導入すれば病的症状などを表すことになる。だから、高齢者の医療においては分析的考え方は意味がなく、むしろ統合する方向こそ大事。

 痴呆、譫妄、うつ状態などの精神方面の症状、脱水、発熱、低体温、むくみ、頭痛、意識障害、呼吸困難、寝たきり、廃用症候群に付随する失禁、褥瘡、誤嚥、便秘、転倒骨折、腰背痛・・・と高齢者に出てくる現象は挙げてもあげても暇がない。何しろ70年も80年も使い続けてきた身体である、各々の高齢者が一様であるはずもない。

 対策はさまざまな病態を統合して現状を把握し、高齢者の生きざま、精神機能、社会における環境・・・の影響の中、臓器ではなく、人間として、高齢者の全体像を評価することが重要である。この意味からも、総合機能評価をすることが高齢者医療には求められている。その統合の方向性を表すに丁度好い言葉が「高齢症候群」である。
 
 ここ数年、私の書く診断名に「高齢症候群」と言うのが増えてきた。


5/10(月)曇り-雨 管理会議 長副会議 他
2:00起床。結局家内は帰って来なかった。心配である。一人を良いことにR Strausの管弦楽曲選集カラヤンBPO盤で、大きめの音量で数曲堪能。ケンペ盤とは異なる流麗さが良い。総括書他、施設入所申し込み書類記入.4:40早めに病院に出勤。机上業務、回診ほか。8:00管理会議.9:00-14:00外来、混雑。14:00生保会社来訪。机上事務的処理。16:30-18:45長副会議。17:00某医療機関のMSW来訪歓談。20:30帰宅21:00就眠。

マックは最近尻すぼみ??ソフト会社「シマンテック」も撤退するらしい
 私がワープロからパソコンのマッキントッシュに本格的に移行したのは1994年頃なので丁度10年になる。私のマックはどちらかというと不安定なマシンでソフト的に修復を必要とする機会は少なくない。マックのOS自体にも修復ソフトが入っているが応用範囲が狭い。

 最終的にはOS入れ替えと言うことになり、今まで多くの機種でOS 入れ替えを20-30回はやっただろうと思う。10数台のマックがあちこちで稼働しているが、OS入れ替えを経験していないのは自宅のG4一台だけである。OS入れ替えはマシンがリフレッシュするのでやり遂げると実にすっきりするが、時間がかかって嫌な作業で、なるべく避けたいものである。この入れ替え直前の危機的状態を数多く救ってくれたのが「ノートンユーティリティ」という修復ソフトで、私にとって必須で、この10年間何回となくバージョンアップもしてきた。最近ではウイルスソフトも含まれるようになり重宝していた。

 数日前マック関連の月刊誌をぱらぱらと見ていたら、何と!!  マック版の「ノートンユーティリティ」が市場から消えるという。シマンテックと言う会社から出ていたのであるが、経営上のメリットが少ないと言うことらしく、セキュリティ関連の一部の機能のソフト以外は継続開発はしないのだという。

 先にもPaperPortと言うソフトの件で数年分の蓄積データの活用の道が大幅に閉ざされたという苦い経験したが、またか、と些かガックリ来た。些か・・というのは他にも類似のソフトがないわけでないから、修復ソフト自体は何とかなると言うことであるが、ガックリ来たのは、最近のマック関連のニュースはなかなか良いものはなく、またか・・・の感覚である。
 世界的にもシェアが8%程度と低迷していると言うことは別にしても、私の周辺でもマックからウインドウズに買い換えている医師が少なからずいるのも現実である。我が家でも嫁いだ娘も入れて家族5人ともにパソコンは必須の道具となっているが、マックは私と次男だけと少数派。

 今更マックと縁が切れないほど深入りしてしまい、病棟での診察時間帯を除くと、大部分の時間をマックと共に過ごしている私にとって、尻すぼみ的ニュースが届くとなんかもの悲しい気分になりそうになる、・・が、ぐっと耐えることにしよう。たかがパソコン、マックが消えても結局は何とかなるさ、の諦めに近い心境も若干芽生えてきた。


5/9(日)晴れ-小雨 FF-tennis中止
2:00起床、退院総括書、次回の講演準備に着手、9:30Vnなど,Honda Delsor 夏タイヤ危険域に摩耗、加えてラジオ故障で購入。FF-tennisは先方の体調不良で中止。14:00-19:00病院、回診他評価機構関連、机上の懸案数編処理。家内は午前から病院、一時夕食に帰宅するも救急から呼ばれて出勤。19:30夕食, 21:00就眠。

自伝  宮古病院時代 1971〜73 (1)
医師国家試験合格、晴れて岩手県立宮古病院に内科医として勤務
 4月幾日かに医師国家試験の発表があり、予定通り合格、保健所に医師免許の申請を済ませ晴れて岩手県立宮古病院の内科医師として採用された。
 同期生として東北大学卒業者が2名着任、その内の一人は私が育った村の郵便局長の孫だったか甥と言うことで、幼少の時から名前だけは時折聞かされていた人であり、すぐにうち解ける事が出来た。最初の1年間は私を含めての3人、2年目は女医1名を加えての4人で互いに助け合いながら業務をこなしていった。
 
 私の医師としてのスタートは宮古病院という医療機関、副院長を始めとする内科系、外科系の上司、東北大学、県立中央病院からの派遣医師・・の方々から受けた薫陶も随分役に立ったが、同期生間で体得したことを教えあったり、相談しあったり、補助が必要な検査や救急患者の診療では互いに助け合ったり・・がとても良かった、と言いうる。何事にも代え難い価値があったと思っている。
 学びあった同期のうちの二人は現在岩手県立中央病院で循環器科、外科医として大活躍中と聞く。二年目から加わった女医は家内である。

 岩手県は日本で一番面積の大きい県であり、経済的にも厳しい地域であった。人口密度は低く、散在する市、町村は国道4号線、東北本線の地域を除くと面積だけは大きいが人的には極端に小規模で、保健・医療・福祉面の維持は極めて困難であり、私的病院はあっても小規模でしかあり得ない。そのために岩手県は県庁内に医療局を置き、県立の医療機関を多数経営している。当時は全県内に県立病院が当時32箇所あったように思う。現在は統合されて一般病院が26箇所、精神病院が1箇所、診療所が6箇所と言う。
 県立宮古病院は沿岸地方では最大規模の総合病院で、昭和34年4月1日県立宮古共済病院と合併し岩手県立宮古病院と改称し、一般314床 結核105床 伝染20床の計439床の地域のセンター的立場の病院であった。国鉄宮古駅の直ぐ前にあった。
 
 設立母体が一つと言うこともあって、県立病院間の交流は豊で、県立病院の中でもセンター的立場の県立中央病院からは脳外科の専門医を始めとして定期的に各科の専門医が診療応援に来ていたし、中央病院を会場に各種のセミナーが開催され、月に1-2度は週末は出席して勉強した。


5/8(土)晴れ 山形出張東北医連総会打合会
2:00起床、ドック関連処理、紹介状他、5:00バイクで病院へ.回診ほか、紹介状作成。
9:42普通列車にて11:52新庄着、11:56「つばさ」にて12:38山形着、14:00山形国際ホテルにて東北医連の総会の打ち合わせ「緩和医療」。懇親会中座して16:50高速バスにて18:00仙台着。本数冊購入。18:38こまちにて21:00頃秋田着、21:30帰宅。22:30就眠、秋田-山形間は極めて不便であった。東北南三県での会合は矢張り仙台にてお願いしたいものだ。

職業倫理とは何か、について考える(2) 企業ぐるみの怖さ
 
三菱自動車の元幹部7人が逮捕された。大型トラックの車軸の安全管理、トラブル隠し、これによる死傷者の発生に対する容疑である。東京電力では先に社長ほかトップ5人が総退陣した。
 最近の企業くるみの不祥事は枚挙に暇が無いほどである。
 
日本ハムによる輸入肉偽装事件、東京電力による原子力発電所の事故隠し。丸紅による脱税事件、三菱、更に言えばトリインフルエンザ関連の農産会社のこれに相当する。
 まだまだどれだけ出るかわからない。

 資本主義社会では、私企業はその時点時点で最大の利益を追求する姿勢はやむを得ないが、そのために資源やエネルギー他さまざまなものを大量に消費している。環境維持の問題などの論理を持ち込めば心安良かでないものを感じるが、最もショックだったのは、大企業は一般の消費者という存在、つまり社会全体を軽視し、食いつぶしの対象にしてきたのではないかと言うことを感じ取ったときである。要するに、一部の大企業は自分たちの利益のために消費者をだまし、利用してきたのだ。更に、モラル、倫理上の歯止めすらをも、食いつぶしにかかった事実が明白になってきた。しかも、誰一人として大きな罪の意識を感じることなく・・・。

 一般の消費者は、実は自分たちが購買の主役だと思ってきたのが、実は企業に利用されている存在だった。騙されたと気付いた消費者の反応は、昔は極めて穏やかだったし、今でも安ければ買う、モラルの高低は問わない、という種類の人たちも沢山いる。近年、インターネットの普及などで一般大衆は声を出す機会を、情報を、不満を発信する手段を得た。もう消費者は黙っては居ない。だから、企業も注意していかなければならない時代を迎えている。企業はかなりの部分を一般大衆がいだく信用、イメージで維持されている。従って、イメージダウンは企業そのものの存亡にかかわってくる。そのことがやっと解ってきたのではないか。

 職業人意識や企業倫理をめぐって、われわれのような医師をはじめとする専門職は、一般のサラリーマンや公務員からは考えられないほどの「自由度」や「自律性」が保証されている。これは、専門職という仕事に内在する満足すべき局面である。しかし、そのためには、ストイックなまでの厳しい自己管理が要求される。ここでいう自己管理とは倫理やモラル面も当然含んでいる。

 勿論、医師だけではない、中通総合病院の各職員の医療人としてのプロ意識の根底を支えるものは、各人の職業人意識、あるいは職業倫理の自覚の強さにほかならない。今、私はそれを成文化して外に発信しようとしているが、困難な仕事である。


5/7(金)晴天 医師会打ち合わせ 健康対策課と打ち合わせ
1:30起床。退院総括2名分。5:10バイク病院着、早朝のバイク通勤は実に気分良し。回診,種々処理。評価機構関連進める。10:30-14:10外来+ドック診察5名。15:00病棟2点セット交換そのほか。16:00-17:10健康対策課と打ち合わせ、医師会打ち合わせ、書類チェック。20:30帰宅、21:00就眠。

職業倫理とは何か、について考える(1)
 医療評価機構を受審するために現在誠意準備中である.中通総合病院職員の職業倫理について倫理観は相当高いとは思うが、成文化したものがなかったために受審準備の一環として成文化を試みている。しかし、言葉にするには実に困難な領域である。
 職業倫理について、私は最近勉強し始めたばかりであるが、長い歴史もあり、文献も多い。難しいが、いろいろ学ぶ事が出来て面白い分野でもある。

 日本と異なり、西洋社会においては肉体労働は奴隷の行うべき仕事とされ、永らく蔑視の対象でさえあった。だから奴隷制度など古くから発達してきたと言う歴史がある。しかし、労働についての考え方の変化はローマ帝国の崩壊頃に教会の中で始まった。職業人意識あるいはプロフェッショナリズムの原型は、6世紀の『聖ベネディクトの戒律』にその萌芽が見られる。同書には「聖ベネディクト以前の修道僧たちは、罪を贖うためにつらく厳しい労働に従事したが、聖ベネディクトは肉体労働に対してより積極的な精神的意味づけを行った」、とあるという。ベネディクト修道会は、禁欲的な共住生活の決まりごとを『戒律』によって規定し、自らの労働自体に積極的な意味を与え、就業時間などの勤労観や、仕事への真摯な取組み姿勢の重要性を指摘しているという。以降1000年ほどの歴史を経つつ労働の価値は高められ、労働の倫理論も発達してきた。

 日本人の職業倫理、労働重視の考え方は士農工商の階級が明らかにされた江戸時代に形成された。武士道などはその中の一環として考えると理解しやすくなる。日本人の職業観歯それ以降、明治・大正・昭和と近代日本の社会に形を変えつつ生き続けてきた。伝統的に終身雇用制とか日本特有の労働文化が発達し、労働の意味は単に生活費用を得るばかりでなく社会の階級の中における自己の擁護であり、地位の発現でもあった。更に上の階級への昇進の意味は単なる仕事上の問題でなく社会的立場の表現ともなっていた。要するに、勤労とは、単に生計の手段ではなく、人生に意味を与える重要なものと考え、働く事を自己の修行の道として倫理的に自己を律してきたのが日本人の労働観の伝統であった、と言えるのでないか。

 しかし、日本人の勤労観、職業観はこのところ急速な変化を見せている。終身雇用制は崩壊しつつあり、転職が抵抗なく行われるようになってきたし、フリーターといった働き方も珍しくない。若年層では、会社中心・仕事一辺倒は嫌い、肉体労働は敬遠している。
 このような状況を、単純に時代の風潮とかと安易に片付けることは、これまで築いてきた勤労哲学や職業倫理まで失う事に他ならない。これは現代社会の基盤をなす重要な観念なのだ。


5/6(木)晴れ、 新卒医師入社式 奨学生と面談  
2:00起床、紹介状、退院総括。5:20バイクにて病院、種々処理。9:00-13:00外来、超混雑。13:30新卒医師6名入社式。実にフレッシュ良い感じ。14:00新患1名、頚部リンパ節腫大のセカンドオピニオン的受診。15:00病棟3点セット(気管切開+鼻胃管+尿路留置カテーテル)数人分交換。これが結構大変なのだ。16:00奨学生と面談、救急医療チーム担当者と面談。医療評価関連若干、20:30帰宅、21:00就眠。

「同じ土俵に立っていない」もどかしさ。こんな人達が国を、法をつくる??
 公的年金制度を支える基盤が、政治家の怠慢によって一層崩壊への道を辿りかねない深刻な状況になっている。閣僚の国民年金保険料未納問題は、呆れた問題だ。7人の閣僚に未納があり、民主党の菅代表までが10カ月間未納とは。深刻だ。
 国民年金は20-59歳の自営業者らが保険料を納める公的年金制度。2002年度の未納率は37.2%にもなる。これではどんな理屈を付けても成り立つ訳がない。国民の生活の実態に合わない年金制度であることと、未納者対策を含めて納入制度自体に問題があるのだろう。制度をつくり、維持する責任が重い政治家に未納者がいる状況は、コツコツと納め国民の義務を果たして来た一般国民の気持を一気に萎えさせる効果は立派に果たした。

 問題は、国の大事な政策が国民と同じ土俵に立っていない人達によって牛耳られていると言うこと。国会議員は所詮は選挙の時にだけ地上に降り立つ天上の人達なのさ。この様な人達が老人問題を語り、年金問題を語り、医療問題を語るのだから問題。彼らにはどんな法が通過しようと実害はないのだ。あるのは次の選挙の際に票を集められるか否かの関心事が中心。

 医療面でも福祉面でもそうだ。厚労省の役人、法の立案者は殆どが40代のエリート族。彼らに行き場のない高齢者の立場、在宅医療の厳しさは解るのか??解るのは経済面の数式処理だけ。だから、常に現場をあずかる立場のものが異議を、情報を発信しなければならないのだ。
 そう言った意味でも、医師も大人し過ぎるよ。発言するのはほんの一部だけ。危機が目前迄迫ってきてないから。もっと状況が悪化すれば変わってくるだろう。それとも医師はは食わねど高楊枝か?「患者の立場に立った医療なんて本当に出来るんですか?目指してるんですか?」と患者に問われたら、私は心の中を見透かされたような気分になって言葉に窮するであろう。
 「立場が違えば同じ土俵には絶対に立てない」と私は思う。しかし、対策がないわけではない。沈黙せずに、騒ぐことだよ、お互い。それしかないね。


5/5(水)子供の日 晴れ 日直 病棟拘束
3:00起床、3時間少しではさすがに眠い。ドック再検査結果等.転院患者の紹介状。医報巻頭言に呻吟、80%ほど。そのほか種々処理。8:00日直のために出勤。9:00病棟回診他拘束の対応。巻頭言は午前中に脱稿、関係者に送付、意見収集。医療評価機構に再度着手。18:15帰宅、20:30就眠。これで金週間は終了。良い数日を過ごし得た。

わが家のゴールデンウイーク2004
 子供達はそれぞれが独立したので特に何を計画すると言うわけでもない。夫婦共にいつもよりは朝だけは若干余裕ある生活であるが,家内は殆ど通常勤務とほぼ同じで夜半まで病院で過ごしているし、夕食に一旦帰宅しても再び出て行ったりしている。私は連休を当て込んでため込んでいた仕事を病院と家で淡々とこなしているだけ。それでもこの開放感は大きな心の余裕となる。

 見直してみると,医報のモニター会議記録の校正、「すこやかさん in  Akita」の解説文、医報巻頭言の三文章で呻吟し続けた数日であった。そのほか医療評価機構関連、紹介状、総括など、すいぶんこなした。
 連日の病棟拘束、憲法記念日、子供の日と日直勤務であったが、その合間を縫って自宅や医局のオーディオの改変など前からやりたいと思っていた細々としたことがいろいろ出来た。二人の息子も戻ってきて一人は北海道に出かけたが、一時はにぎやかに過ごした。
 遠来の客人迎えてのアンサンブルは久々に四重奏まで出来て満足した。私は気力十分、もっとやりたかったが、みんなばててしまったのが残念。アンサンブルに関しては私はどん欲だと再確認した次第。満足度のレベルが低いから、合わせているだけで楽しいから、なのかもしれない。合ってなかったぞ、と言われそうだが・・・。

 今日、日直の外来、病棟の看護師さん,患者さんからゴールデンウイークはどうでしたか??と頻繁に聞かれたが,私からは答えるものは何も無し。質問者は不可解な顔をしていた。この点は例年と同じ。

 ほんとに私は働いた、おかげで音楽も随分聴けたし、Vnも楽しんだし・・・と思うし満足である。 休み明けからの外来は地獄の日々になるだろう。楽あれば苦ありさ。


5/4(火)国民の祝日 雨、強風→晴れ  病棟拘束
1:30起床,ドック総括x1。秋田医報巻頭言に呻吟する。重すぎるがテーマを選んでしまった。今更交換無理。Vnほか若干楽しむ。10:00病院脳外科医より患者相談あり、11:00病院へ。患者対応、病棟対応その他。病棟患者さんお一人今晩あたりか?苦しまず静か。最高の経過だ。18:00帰宅。誰もおらずネコが迎えてくれた。20:30夜半に呼ばれるだろうと早寝。矢張り起こされ病院に。22:00-1:00死亡確認、見送りなど。1:30帰宅、就眠。

医療行為が関連した、病死でない死亡の扱い方について(2)
異状死体、警察へ届け出についての代表的団体の見解を以下に紹介する。

A日本法医学会の異状死の定義(1994年)
●外因死及びその疑い。
●外因による傷害の併発症や後遺傷害による死亡及びその疑いによる死亡。
●診療行為に関連した予期しない死亡およびその疑い。この場合、診療行為の過誤か過失の有無を問わない。
       a診癖行為中または比較的直後の死因が明らかでない急死や予期しない死亡。
       b診療行為自体が関与している可能性がある死亡。
●死因が明らかでない死亡。

A外科関連学会(2001年)
●十分な説明と同意を得て行われた外科手術で予見された合併症による死亡は届け出の必要はない。
●診療行為中の、合理的な説明ができない予期しない死亡、及び、その疑いがあるものは異状死としてよい。
●診療行為の合併症として予期される死亡は異状死ではない。
●医療事故の届け出については事件性のあるものは警察へ届け出る。
(提言:医療過誤の疑いがあり、患者に被害が発生した場合に報告を受け、必要な措置を勧告し、医療の質と安全性の問題を調査し、国民一般に必要な情報を公開する新しい専門的な中立機関の創設が必要)

G法律家の見解
●検察官:病死及ぴ自然死以外はすべて届出が必要、と解されている。
●弁護士:医師の医療過誤によって死亡したと見られる場合、その医師に届出の義務があるかどうかについては原則として義務はないとの意見もある。

 上記の如く、法医学会では臨床医が確実に診断した内因性疾患での死亡が明らかである以外の全ての死を異状死と定義したが、後日外科学会は手術中の予想される合併症による死まで届け出て捜査の対象になるのは不合理として法医学会を批判している。法律関係者の解釈は「自然死以外は全て届ける」から「過誤があったとしても医師に届け出の義務はない」というものまであるが双方とも極論でこんな状態だとわれわれには役立たないどころか一層混迷するだけである。

 法医学会の定義は「異状死の定義」が明快で判断しやすいが、臨床医の立場からは日常臨床の場に適応は出来ないと思う。これが適応され警察に届けるとしたたら大変である。警察との対応で心身共にすり減るだろう。それ以上に、このことから何もメリットは生じてこない。私は内科医であるが外科学会の考え方に近い。警察に届けるべき時は、自分の行った医療行為に重大な過誤があり、それが死に結びつき刑事事件として取り扱われてもやむを得ないと判断したときである。要するに自首である。この時、ご遺族がそこまでは・・とのことであれば届けなくても良いのではないか、とすら思う。医療は診療契約に基づき、患者さん側と医療者側が納得して行われる以上、本来は刑事事件として扱われるべきものではない、と思うからである。


5/3(月)憲法記念日 晴れ→雨  日直 病棟拘束
1:30起床。ドック総括x1他。書類2,3処理.「すこやかさん」脱稿送付。8:00軽く朝食採り日直勤務で病院に。日直業務は外来数人、入院一名受け持つ。ドック総括x1,紹介状,レセプト関連書類10枚ほど処理.秋田医報巻頭言に着手。ちょっと重すぎるが医療事故についてにした。19:00帰宅、家内も病院らしい。自宅には誰もおらず。早寝すべか・・と、20:30ネコと就眠。

医療行為が関連した、病死でない死亡の扱い方について(1)
 昨日まで「すこやかさん  in Akita  」の医師会活動の解説文で呻吟したが何とか投稿した。5/6の連休明けはもう一本、秋田医報「巻頭言」の締め切り日である。私には些か荷の重い話題であるが準備途中の蓄積もあるので県医師会感染症等危機管理担当の立場で考察を試みた。
 
 最近医療事故の報道が喧しい。マスコミへの発表も困難な判断であるが、医療事故が生じた場合に警察への届けるべきか否かについては明確な規定が無く、われわれ医療関係者を悩ましている。
 医師法21条には「医師は、死体または妊娠4ヶ月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、24時間以内に所轄警集署に届け出なければならない」と規程されている。しかしながら、この条文は公安の維持を目的とした戦前からの条項を引き継いだもので、社会の安全維持のための犯罪の発見の為のものと考えることに疑問の余地はない。

 しかしながら、異状死体の定義が一切無く、ほかに類似の条文がないことから、犯罪とは全く異質であるはずの医療に関連した「自然死以外の死亡」もこの条文の対象になっている。患者の安全を求めて行った医療行為がもたらした結果について、警察に届けるべきか否かは医療関係者にとって大きな問題である。
 そのため関連する医療や法関連の団体がおのおのの立場で異状死、異状死体について定義している。われわれにとって若干の参考にはなるが、内容が立場によって大幅に、あるいは微妙に異なっているため、決定的解決にはつながらない。

 得られた結論は、以下の3点である。
(1)医師は医の倫理に照らして適切に判断し、医療過誤が明らかで、それが死亡と直結した可能性が濃厚な場合には、家族の同意を得て警察へ届ける。
(2)医療過誤が疑われ、それが死亡と直結した可能性がある場合は保健所には届ける。
(3)県医師会に相談窓口を設置する。


5/2(日)晴れ・風強 病棟拘束 FF tennis(中止) アンサンブル
2:00起床、ドック総括x1、紹介状返事等.事務処理、「すこやかさん in Akita」原稿に呻吟する。10;00-14;00Fl のDr  F.T迎えてアンサンブル、休憩挟みつつMozart ピアノ四重奏、ピアノ協奏曲・・楽しむが、全員が疲れ果てた様子で終了、いつものMozart 談議に花が咲いた。私はまたもアンサンブルを乱したがいい気分で終了。昨秋購入したメガネの効果で楽譜がよく見えたこと、メンバーに注意されつつ音量を落としたことが良かったのかな。15:00Dr  M離秋。15:00-19:15病院、回診ほか。20:30就眠。

自伝 新潟大学卒業 岩手県立宮古病院に勤務、医師国家試験
 1971年3月上旬、岩手県立宮古病院に内科医予定者として赴任した。勿論、卒業は決まったとはいえ国家試験すら受けておらず身分的には中途半端なもので、仕事は二人の副院長の助手的なことをした。時間はたっぷりあってその時間は国家試験の勉強に充てた。聞くところによると後日東北大学卒の2名が赴任してくる予定だという。

 当時は医師国家試験は3月、9月の春秋2回あり、二日間で初日が筆記試験、二日目が口頭試問となっていた。当時は必須の主科目のほかに2科目ほどの指定科目があり、われわれの時は公衆衛生であったのではないかと思うが、すっかり忘れてしまった。合格率は95%ほどはあったのではないかと記憶する。従って、当時は卒業が無事決定したと言うことは、形式的に春の国家試験を受けなければならなかったが、殆ど医師になれることを示しており殆ど緊張感はなかった。卒業試験後新潟を去るまでの間にもある程度国家試験の準備をした。

 赴任1-2週間後に、私は新潟で医師国家試験を二日間受けた。初日は筆記試験で午後までかかった。内容的にはそれほど難関でなく、大部分はあまり呻吟することもなく答えを記入出来た。問題は二日目の口頭試問である。一人一人が小部屋に通され、3人の試験官、私の場合には東京の私大の外科学教授を中心の方々だった。医師として何をやりたいのか・・などの質問の後、「腹腔動脈等の大動脈から出ている動脈の名前と解剖学的位置関係、臓器との関係に付いて述べなさい」というものであった。この辺は重要な部分でありよく知っていたのであまり難渋せずに答えられた。国試も無事終わり、これで私の人生における試験は最期だ・・と大きな開放感を味わった。実際には約10年後もう一つの試験が待っていたが・・

 F嬢は秋田市にある秋田組合総合病院に小児科医として赴任予定で私より数日送れて秋田に引っ越した、と言う。後日の再会を約してそれぞれ秋田と宮古に戻った。


5/1(土) 晴天 病棟拘束 アンサンブル 
2:00起床、ドック総括x1、医報校正、 紹介状返事等.持参の事務処理。5:20病院、6;30ころから回診。9:00ドック説明、10;30-12;00外来。昨日とは一変、外来は少ない。15:00迄業務処理、Dr  M迎えて16;30-19;00アンサンブル。21:30就眠。

日本の古い車は何故ダサイのか 先端デザイン採用の弊害だろう
 本日客人を迎えに駅に行った駐車場に10数年?は経過したと思われる古いジャガーが停車していた。錆も浮いてかなりの年代物と分かるもの。しかし、私の如く車音痴でも直ぐにジャガーと解る代物。そう言えば、ベンツ、BMW、・・・諸外国の車はどんなに古くとも一見してそう解る。何故か、と言えばフルモデルチェンジしても必ずデザインの骨子は残しているからである。これは、固定したユーザーを確保するために大事なことだと思う。

 日本の車と言えば、巨額の経費を用いて数年事にフルモデルチェンジが行われるが、本当にフルである。前機種と名称は同じでも完全に新機種と同じほどの変化である。その代わり発表されたときの衝撃、インパクトは相当なものがある。時代の最先端を随所に取り入れたデザインとなっている。外車のフルモデルチェンジなど日本ではマイナーチェンジに相当する程度である。最先端というと、言葉を返すと直ぐに最先端ではなくなる運命にあると言うこと。発表直後には相当売れるらしい、が実際の処、数ヶ月が勝負。街にその新車がチラホラと見え始める頃にはもう別会社の新車もでるし、最先端のデザインとしての魅力は乏しくなり始める。特に、購買層の多くを占める若者達の心を長くとらえておくことは至難の業らしい。

 古い日本車は実に格好が悪い、ダサイ。しかも、車種がやたらに多くなってきているから車名は後部のエンブレムを見ないと分からないものが多いし、何処の会社の製品なのかすら解らなくなっている。それの最も最たるものは日産車だと思う。「技術の日産、デザインのトヨタ」などと言われた時代もあったようだが。私には逆のように思える。旧日産車は発表当初の印象は悪くないが前機種、全機種間に共通の印象を全く持てないものが多い。コンセプト欠如と言っていいかも知れない。これでは固定ユーザーを確保出来ないだろう。
 ゴーン会長はデザイン担当者を新規採用し、権限を大きく持たせたという。最近の日産車は確かに顔が共通になりつつある。

 企業が長く存在するには企業イメージがとても大切。医療機関だって同様だ。中通病院と聞けば市民はパッと何をイメージしたのか、それが大事だし、継続的に発展させなければならないのだ。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
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