2021年12月分
日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。
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先月の日記 来月の日記
12/31(金)大晦日 暴風雪 年末休暇三日目 飯川病院日当直
1:00起床。データ整理、歴史の本読み、新聞入力中心。読書、微睡で過ごす。8:30課内に同乗、飯川病院へ、9:00日当直に就く。ラジオの録音数件。データ整理、読書、微睡、また読書・・・・18:00検食、20:00就寝。歩数計Σ3561歩。
2021年大晦日 雑感+豪華な検食 私は外からの評価よりも自分自身の評価を重視し自己満足を楽しむ。
今年最大の喜びは、家族を含め無事生きられた、ということ。 昨年は地域の敬老会から初めて招待いただいた。
また後期高齢者にも加入させていただいた。
運転免許証を返上した。
今年は秋田市医師会から喜寿のお祝いのご招待を受けたが、目下引きこもり中として辞退させていただいた。
自分を鼓舞しながら、達成感、満足感を楽しんできたが、70歳台になってその意欲は全般に低下傾向にある。
最近やたらに睡魔が生じてくる。身体が求めているのだから・・と、業務の隙間があればできるだけ応じている。21:00pmに就眠し1:00am前後に起床するという変則的な生活の歪みが関係しているのかもしれない。
私の好きな言葉は「継続は力なり」であるが、ここ数年来、「もっと無計画に、適当に生きてみたい・・・」と思い、徒然日記にも書いてきたが、まだ実行できていない。徒然日記に関して言えば、今年も更新できなかった日はなく、期せずして「継続は力なり」になってしまった。 来年こそは途切れてもいいから、無理せず自然体でいきたい。 私は我が家の仕事の分担として、食事・掃除洗濯以外のかなりの部分を担っている。これらは手抜きしても大きく非難されることはないが、家の内外がゴミだらけになってしまう。そうそう、ネコどもの世話は生き物が相手だけに手を抜けない。
意欲の高揚を要する仕事はすべてやめる、など選択ができればいいな、と思うが、私が手抜きすれば誰かが担わなければならない。面倒くさいからといって、やりがいがないから、とやめるわけにはいかない仕事がまだまだ一杯ある。
今年は除雪が増えるだろう。
でも、手を抜けるところは抜きたいものだ、とウジウジ考える。 あらゆることに感謝の気持ちを抱きながら新年を迎えよう・・・などなど、思いながら今年も無事終わりそう。
(超豪華な本日の夜の食事。左側のフルーツとローストビーフ握りは家内からの差し入れ。右は病院の検食、メニューは一口蕎麦、海老フライ、三色きんぴら、付け合わせ、フルーツ 他)
この一年、ありがとうございました。
12/30(木)比較的温暖降雪殆どなし 路上は大変 年末休暇二日目
1:20起床、オリンパスPV-10不調、初期化するも改善なし、廃棄か??医学文献、新聞などチェック。座学、データ移行。11:30バス飯川病院。融雪ザラメで歩行難。膝には悪い。微睡、本読み、その他。入院患者対応、19:30帰宅、蕎麦屋のうなぎで年越しの夕食、美味、ネコ相手して21:00就寝。歩数計Σ6450歩。
年末恒例のまとめ2021(5) 私自身の出来事
時間の経過は実に早い。本年も晦日を迎えた。 私としては淡々と過ごし得た一年であった。
私は、先に勤務していた法人の嘱託医として、また、家内が傭われ院長している飯川病院の補助医、作業員として診療や花々の世話を細々と続けているが、それ以外は外との接触・交流・対話は一切ない。
今年も同様、家族とネコ、自分との対話を中心に引きこもり状態で過ごした。 ずいぶん本を読んだ。 野菜を作った。
ダリアを育てた。 毎日の新聞、読書、文献整理その他などを通じていろいろ情報を仕入れ勉強し、データとしても蓄積した。無知であった自分を恥じながら新しい史実、事実を学んで日々一人で感激している。
この一年間は、私は健康上のトラブルはほとんど無かったが、12月6日、当直明けで時間的余裕があるために健康のために、と思い久々徒歩で帰宅した。路面はうっすらと雪が積もっていた。あと自宅まで200mほどの路地を歩いていた時に、全く予想外に右足が滑り、後方に激しく転倒した。左膝に一瞬の強い疼痛が走った。左膝をひねったようだ。時間が解決してくれる程度と判断したが、ほぼ3週間にもならんとしているがいまだに痛いのが気掛かりである。
最近、体力・気力の衰えが顕著である。バランス感覚の衰えか筋力低下か、ふらつく。徒歩通勤は健康に自信なく一度もできなかったが、最初の試みで転倒するなどついていない。
まだまだ読書欲は衰えていない。この一年間に新しく購入した書籍だけでも100冊に近い。全部解体しデータ化している。よく読んだものである。
家内はいろいろ病気を抱えているが今は元気で実に嬉しい。
私自身はそろそろ引退を希望するが、家内が働いている間は補完的に、補助的に手伝わなければなるまい。引退するなら同時だろう。
我が家のネコたちのうち「グリ」が病死した。他の若手はとても元気、毎日話題を提供してくれている。横浜で拾われた16歳の老ネコの「ユー」もなんと頑張っている。 私がこうして無事年末を迎え得たのは、やはり多くの方々のお陰である。
私が最近よく口にする標語は「寛容」、「忍耐」、「感謝」であるが、この一年、まだ一日あるがいつもより深い「感謝」の気持ちを込めて締めたい。
12/29(水)終日小雪積雪若干除雪なし 年末休暇初目 ダリア球根処理 1:30起床。静かに朝を迎えた。昨夜購入の本読み、徒然など。本日から天候は荒若干改善予想。新聞雑誌類データ化など。午前はダリアの球根処理、乾燥した球根を箱詰め2Fの空き室に収納。これで全コース終了。13:30バスにて飯川病院に、ボランティア。データ移行に費やす。19:15帰宅、夕食、読書など、21:00就寝。Σ7255歩。年末恒例のまとめ2020(4) 我が家の出来事 時間の経過は実に早い。本年も晦日を迎えた。 この一年間は、我が家では全員健康上のトラブルはほとんどなく平穏に過ごした。 家族達は、総じて元気に過ごしている。
孫5人、何れも個性豊かにすくすくと育っている。
賄いの石井さんも弱ってきたがなんとか頑張っている。 COVID-19のために横浜在住の長女一家がこの2年間一度も帰省できなかった。そのために横浜の孫とは会っていない。家内とはネットを通じた動画サイトを介して時折話しているようだ。長女はもともと帰郷願望が強く年に数回は帰省していた。この2年間一度も帰省しなかったのは初めて。COVID-19緊急事態宣言が解けた後には帰省することも不可能ではなかったが、迎える方が医療帰還関係者で蔓延地区からの来客の受け入れなども厳しく制限されていたために受け入れられなかった。娘一家は元気なようである。 毎年年末には家内が主催して、休宝寺で餅つきパーティを行い、親戚の子供たちを中心に懇親会をするのであるが、昨年は中止したが今年は無事できた。参加者は20人ほどと少なかったのが残念であった。 私供がこうして無事年末を迎え得たのは、やはり多くの方々のお陰である。私自身は引きこもり中であるが、多くの方々に直接的、間接的にはお世話になっている。心から感謝申し上げたい。 私が最近よく口にする言葉は「寛容」、「忍耐」、「感謝」であるが、この一年、まだ2日あるがいつもより深い「感謝」の気持ちを込めて締めたい。
12/28(火)曇り小雪 中通病院外来 飯川病院ボランティア 積雪4cm
1:00起床。新聞入力準備。本読み、徒然などゆったり過ごす。除雪なし。6:00可燃ゴミ集積所に提出。本年最後。市の依頼を受けた業者のスタッフの方々ご苦労様。6:40バスで飯川病院に。8:45-12:00中通病院外来、今年最後、混雑なし。12:30飯川病院ボラ、微睡後、午後は読書、15:30中心に。19:00通町書店経由帰宅夕食。21:00就寝。Σ9742歩。
年末恒例のまとめ2021(3) 医療界の出来事 医療界のキーパーソン
昨年は新年早々から中国・武漢を中心に肺炎患者相次いだという不穏なニュースが飛び込んできた。
このウイルスは世界各国に広まり、年末までの2年間途切れることなく報じられ、今でも右肩上がりに感染者は増加を続けている。世界的に500万人が死亡したとされ、過去のスペイン風邪を思わせる状況にある。
その中での朗報としてはワクチンが数種完成し接種が始まった。
そうこうしている間に恐れていた変異株「オミクロン株」が発生し、新たな脅威を迎えている。
2021年もコロナで開け、コロナで暮れることになるが、コロナとの戦いはまだまだ続く。
(1)医師が選ぶ2021年30大ニュース
大部分COVID-19関連で占められた
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1 COVID-19 ワクチン、日本国内で医療従事者から接種開始
2 COVID-19 各国で「オミクロン株」発見、VOCに
3 COVID-19 第5波、デルタ株で感染急拡大、各地で最多更新
4 COVID-19 第3波、2回目の緊急事宣言を発出
5 旭川医大、学長と対立した病院長を解任
6 COVID-19 感染後も入院できず自宅で死亡する事例が相次ぐ
7 COVID-19 厚労省、ファイザー製ワクチンを薬事承認
8 COVID-19 東京都に4回目の緊急事態宣言、宣言下でのオリバラ開催に
9 HPVワクチン、積極的動の再開を決定
10 COVID-19 第4波、関西を中心に医様が逼迫
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11 COVID-19| 全国で医療従事者へのワクチン接種が進む
12 東京五輪開幕、開会式に医師も登場、大半の会場は無観客に
13 COVID-19 「高齢者へのワクチン接種開始、予約殺到で混乱も
14 COVID-19 国内感染者数が急減、緊急事態宣言を解除
15 COVID-19 「抗体カクテル康法」特例承認、重症化予防に期待
16 ラグビー福岡堅樹選手、順大医学部に合格
17「岸田内閣生、厚労相に後藤氏、菅内閣は1年で退陣
18 旭川医大、パワハラなど報じられていた学長が辞任
19 COVID-19 「ワクチン、国内でも3回目接種を決定
20 COVID-19 「自衛隊によるワクチンの大規模接種センター開設
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21 COVID-19 13回目の緊急事態宣言、全都道府県の解除まで5カ月を要した
22 乳腺外科医事件、最高裁で弁論へ、二審有罪判決見直しも
23 COVID-19 厚労省、モデルナ・アストラゼネカ製のワクチンを承認
24 衆院選で自民勝利、立民は議席減らし新が躍進
25 COVID-19 ワクチン接種のミスや募集が相次ぎ報道される
26 COVID-19 ワクチンの接種開始、申し込み殺到で一時受付停止も
27 COVID-19 2回接種後の「ブレイクスルー」相次ぐ、重症リスクは低減も
28 COVID-19 国内初の接種後死亡事例、接種との因果関係は評価できず
29 医療機器入巡る汚職で三重大院元教授を逮捕
30 COVID-19 WHO査察チーム、武研究所からの新型コロナ流出「可能性低い」
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(2)医師が選ぶ2021年キーパーソン
やはりコロナが関連している。
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1 尾身茂氏(政府新型コロナ対策分科会会長など)
2 忽那賢志氏(阪大教授)
3 山中伸弥氏(京大iPS細胞研究所所長)
4 岸田文雄氏(首相)
5 西浦博氏(京大教授)
6 中川俊男氏(日医会長)
7 河野太郎氏(前ワクチン担当相)
8 本庶佑氏(京大特別教授)
9 菅義偉氏(前首相)
10 Aファウチ氏(米 NIAID 所長)「われわれは間違った方向に進んでいる」
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(m3comより引用 一部改変)
12/27(月)降雪荒れ模様 積雪20cm除雪3回目 健康クリニック 飯川病院勤務
1:30起床。餅つきで今年の行事は終了。本読み、本、書類自炊、徒然などゆったり過ごす。5:00-6:00除雪3回目、バスが定時に来たのでびっくり。9:00健康クリニック、12:30飯川病院。データ整理など。14:00-19:00通常勤務。入院患者対応。微睡など読書、新聞チェック。15:30秋銀スタッフ来訪。19:30帰宅、夕食。21:00就寝。Σ9468歩。
年末恒例のまとめ2021(2) 国内の動き、世界の動き年末恒例のまとめ。備忘録として毎年記述。
今年は新年から全世界的に新型コロナ対応に追われた。日本も同様であった。
(1)2021世界の動き
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1 バイデン米政権発足2 アフガン米軍撤退、タリバン政権に
3 大谷二投流大活躍 初のMVP
4 世界のCOVID-19死者500万人5 ミャンマー軍事クーデター
6 香港リンゴ日報廃刊7 トランプ支持者議会襲撃一時占拠8 中国共産党歴史決議 習近平3期目に
9 松山英樹がマスターズ優勝 日本人初
10 G7首脳生命に台湾明記
次 G20今世紀半ばに温室効果ガス実質ゼロ―――――――――――――――――――――――――――(朝日新聞の記事を参照し、一部改編)
(2)2021国内の動き
1 東京五輪・パラ 無観客開催
2 新型コロナで度重なる緊急事態宣言
3 菅首相退陣、岸田政権誕生
4 新型コロナ「第5波」で医療崩壊
5 衆院選で自民絶対安定多数
6 東日本大震災10年
7 眞子さん、小室圭さんと結婚
8 記録的大雨で土砂災害、熱海土石流
9 新型コロナワクチン接種率7割超
10 藤井聡太さんが竜王位獲得で最年少四冠
次点 小田急線、京王線で相次ぐ刺傷事件
番外 大阪ビル火災25人死亡、放火疑い
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(3)2020世界の動き 国内の動き 光陰矢のごとしの感、より一層思う
――――――――――――――――――――――――――1 コロナ世界的蔓延2 バイデン氏勝利 トランプ氏認めず3 香港で民主化弾圧4 黒人差別デモ世界に5 英国EU離脱6 米中対立激化
7 核兵器禁止条約発効8 コロナワクチン接種開始9 副大統領初の女性10 イスラエルアラブと国交正常化11 日韓関係元徴用工で関係悪化
―――――――――――――――――――――――――――(朝日新聞の記事を参照した)
(4)2020国内の動き―――――――――――――――――――――――――――-
1 コロナ蔓延 政府が緊急事態宣言2 東京五輪・パラ延期3 歴代最長の安倍首相辞任 菅首相に
4 安倍首相 小中高に一斉休校5 移動自粛・休業要請・GoToトラブル6 7月豪雨80人死亡7 国民一人当たり当たり10万円 マスク8 河合夫妻 9 学術が異議 会員任命拒否10 安倍前首相不起訴11 鬼滅の刃
番外 はやぶさ帰還
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先には自分で重要事項を書き出していたこともあったが最近はその意欲、時間がなくなった。今年は新聞記事を参照し、若干改変して作成した。
12/26(日) 寒波暴風 除雪2回目 恒例の餅つきと懇親会
1:00起床、いつものごとくデータの更新・整理、コンピューター関連読書、徒然ほか、微睡。午前はデータ整理等で過ごす。午後は14:30-15:30除雪2回目。16:30-20:00休宝寺にて恒例の餅つきと懇親会。20:30帰宅、就寝。Σ9500歩。年末恒例のまとめ2021(1) 秋田県の動き年末恒例のまとめ。備忘録として記述しておく。
2021秋田県の動き
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(1)本県出身の初の総理大臣退陣ーーーーーー突然秋田人になった政治家
(2)大雪暴風雪ーーーーーー県南中心雪害(3)COVID-19ワクチン接種ーーー結構大変でした
(4)縄文遺跡世界遺産に
(5)新品種米サキホコレ先行販売ーーー秋田こまちを越せるか?
(6)COVID-19急拡大ーーー都道府県別では少ない方から3番目
(7)佐竹知事4選ーーー多選は良くない
(8)横手で鳥インフル発生ーーー気の毒なことに
(9)聖火リレー県内走破
(10) 東京五輪パラリンピックに県勢活躍
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(11)秋田市立秋田総合病院で1月にCOVID-19のクラスターが発生。その後、他の医療機関でも相次いだ。
(12)JR奥羽線の新駅「泉外旭川駅」が3月13日、秋田市泉菅野に開業。20年ぶりの新駅設置となった。
(13)プロ野球日本シリーズでヤクルトの石川雅規、石山泰稚両投手が活躍。オリックスは中嶋聡監督が指揮した。
(14)コロナ禍で「秋田竿燈まつり」や「土崎神明社祭の曳山行事」などが2年連続中止。
(15) 第49回衆院選の本県3小選挙区は、2区で自民党が敗れ、過去3回続いた自民の議席独占が崩れた。落選候補が比例で復活はおかしい。
(16)仙北市のわらび座は、秋田地裁から民事再生手続きの開始決定を受けた。
(17)プロ野球ドラフト会議でソフトバンクが明桜高校の風間球打投手を1位で単独指名した。TDKの小木田敦也投手はオリックスが7位指名。
(18)バドミントンの全英オープン各種目の決勝で、女子ダブルスで永原和可那、松本麻佑組(北都銀行)が初優勝。
(19)県警は5月8日、県発注工事の入札で最低価格の基礎となる情報を業者に漏らした疑いで県幹部を、入手した情報で落札したとして業者の元相談役を、それぞれ逮捕。
(20)7月11日夕から12日午前にかけて大雨に見舞われた由利本荘、秋田両市は一時、計646世帯1443人に法改正後初となる「避難指示」を発令。
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2020秋田県の動き 光陰矢のごとし
(1)本県出身の初の総理大臣誕生ーーーーーーどこの出身でも政策が問われるのだ
(2)新型コロナ 一斉休校や休業要請ーーーーその頃は国県とも過剰反応
(3)地上イージス計画撤回 ーーーーーーーーー防衛省自滅(4)新品種米サキホコレ ーーーーーーーーーーあきたこまちに不満はないが
(5)新型コロナ 夏の行事軒並み中止に
(6) ブラウブリッツ秋田J2昇格(7)漫画家矢口高雄氏他界ーーーーーーーーー貴重な作品を遺した方
(8)新型コロナ感染拡大 中高生の部活動に影響(9)クマ襲撃 藤里町の女性死亡
(10) ナガマツペア東京五輪確実――――――――――――――――――――――――――――
(11)昨年引退した元関脇豪風噺髪式(12)記録的な暖冬少雪。冬の行事やスキー場などに影響
(13)秋田市出身の佐藤監督の映画「泣く子はいねえか」が国際映画祭で最優秀撮影賞(14)高校バスケの名門能代工業の名称が来春消滅する
(15)世界ミスワールドの日本代表に大館市出身の金谷さん
(16)2019年に県内誕生新生児の数が5千人を下回った
(17)洋上風力発電施設を整備する区域として秋田沿岸が指定(18)東京渋谷駅のハチ公前広場に置かれていた鉄道車両青ガエルが大館駅前に移設
(19)1953年のボストンマラソン優勝の大館市出身の山田敬蔵氏死去(92歳)
(20)県内小中高校特別支援学校の2019年度のいじめが過去最多となつた
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2017-2019年は昨年記述した(秋田魁新聞より引用。読者アンケによる。一部改変
12/25(土)曇りやや荒れ模様 積雪6-7cm 今季初除雪
2:00起床、いつものごとくデータの更新・整理、コンピューター関連読書、徒然ほか。ここ数日は記録的寒波好転が予想される、という。積雪6-7cm、9:40-10:00今季初除雪。午後微睡後継続作業。16:00座学、読書、新聞チェック。19:00夕食。21:00就寝。Σ8020歩。寒くて書斎使用不可。
ジェンダー論2021(8) 皇位継承(4)ジェンダー論を重ねれば
安定的な皇位の継承のあり方を検討する有識者会議の最終案がまとまった。
皇族数が減るなかで、皇室制度をどう維持するか。これは喫緊の問題のはずなのに危機感が乏しい結果であった。
2017年6月、天皇の「退位特例法」が成立した際の国会の付帯決議で、政府は「安定的な皇位継承を確保する諸課題」、「女性宮家の創設等」などを速やかに検討するよう求められた。この間4年経過し、眞子さんが皇籍を離れてしまった。
有識者会議の初会合は付帯決議から4年も経た本年3月であった。その途上で報告された中間報告を見て、悠仁さま以降の皇位について「具体的に議論するには機が熟していない」などとしていたし、国民に一定の支持がありつつも、国論が二分される恐れのある女性天皇、女系天皇の議論は避けていた。
全然危機感と責任感がない無能委員会でないか!!! 私はこりゃダメだ、と思った。
大体、委員たちは皇位継承者が「いのち」も「感情」もある「生身の人間」であることを分かっているのだろうか??
<a href="https://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/d/20210502">皇位継承(1) 人間と認めるなら皇室に人権を認めよう</a>
12月に岸田首相に手渡された報告書を見ると、有識者会議は、まず、現在の天皇陛下から秋篠宮さま、さらには悠仁さまという皇位継承の流れを前提とした。これもおかしい。このままでは、皇統の維持ができるか心もとない。
世論調査では、女性天皇や、父方に天皇の血を引かない女系天皇を肯定的に受け止めている。ただ、後者には保守層から強い反発もあり、戦後に皇籍を離れた旧宮家の男系男子の復帰に関しても疑問の声も根強い。
委員会は皇族数の確保策は喫緊の課題として3案を示している。喫緊の課題と本当に考えているのか??
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■未婚の女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持する案、
■戦後、皇籍を離れた旧宮家の男系男子を養子として迎える案、
■旧皇族の男系男子を法律により復帰させる案、
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である。
この3案が国民の納得を得て実現するにはことがことだけに予想できないほどの時間がかかると思われる。
こんなことより、皇族方が生身の人間であり、皇位継承者も健康を害する可能性を考えないのか??と思う。
<a href="https://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/d/20210510">皇位継承(3) 生前退位 人間天皇ならば老化するのも当然</a>
私は日本の皇室は女性天皇の時代を迎えた、と思っている。
<a href="https://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/d/20210509">皇位継承(2) 人間天皇ならば性別で規定するのはおかしい</a>
日本が現在の男子のみの皇位継承にこだわっていたら国際的に笑いものになるだろう。
今後は最終報告の内容をもとに、国会の場で皇室典範の改正などの議論が進むとみられるが、うまくできるかな?先が思いやられる答申案である。
12/24(金) 曇り 大曲中通病院 飯川病院ボランディア 積雪2-3cm
0:00飯川病院で起床。データの更新・整理、読書、徒然ほか。7:45早めに出勤した家内に送られ秋田駅。8:11こまち、8:50大曲中通病院。今年最後の外来。左膝痛のために往復ともTaxi。15:10ブックオフ土崎店、先日置き忘れたiPad miniをとりに。16:30飯川病院。微睡など。19:00帰宅夕食、21:00就寝。歩数Σ6991歩。
ジェンダー論2021(7) 女が悪い、男も悪い 私を含め高齢者も悪い
「ジェンダー・ギャップ指数2021」の日本の順位は156か国中120位で、先進国中最低レベル。アジア諸国の中でも低い。
初年度の2006年は80位だったが、調査の度にどんどん低下し史上最低のランクとなった。日本の順位の上昇を妨げているのは、「経済」、「政治」の分野への女性参加が少ない点。それは統計の指標を見ればわかる。
そんな統計上のことを問題にする前に、日本のジェンダー文化の歴史、日本の男女、高齢者に染み付いたジェンダー観があり、改善を妨げている。
「女性の活躍を推進する」や「男女平等社会を目指す」という言葉が近年よく見受けられ「男女機会均等法」なる法律も成立したが、ジェンダー格差の解消はなかなか進まない。
日本が抱える課題とは一体何なのか いつまでも改善しない、改善できない背景は??。
それは、日本の社会が持っている保守性のため。理屈で言えば「経済」および「政治」の分野に女性がしっかり進出してくることはいいことなのだが、日本の男女が持つジェンダー感覚がそれを素直に許さない。
男性にとって女性の社会的進出の意義は認めざるを得なくとも、女性の社会進出は男性社会への侵食であり、男性の既得権限、立場を奪う。男性にとって女性解放運動家は敵である。
女性にとっても地位向上は前向きに考えたいところであるが、男性に依存してきた長い被・庇護的状態を失うことに対する不安があるように思う。女性にとって女性解放運動家はありがたい存在と共に迷惑な存在でもある。女性は今後何を求められるのか不安でもあるのだ。
しかしながら、家庭の収入が減少してきて女性もパートなどで家計を助けなければならなくなった。ここで多くの女性たちは改めて社会の中で置かれている厳しい立場を自覚し、ジェンダー論の底辺は広くなったが、まだ深くは浸透していない。
女性がなかなか要職に付けない背景には、日本社会に年功序列の考え方が根付いており、勤務歴に比例して男性が役職につきやすいことがある。
一方、女性には月経に伴う痛みや不快感、月経困難症に伴う気力の低下、労働力の低下がある。更年期障害もある。加えて、育児や介護などの負担が女性にかかりやすい日本では、必然的に子育てや介護の分野で女性の労働時間が長くなり、キャリアに空白期間ができ、年功序列から外れてしまう。これに対し、医療や薬品の提供で生理とか更年期障害のギャップを埋めてあげようようという考え方もあるが、私は不自然なことで正しくない、と思う。
制度上の変革は絶対に必要であろう。ジェンダーギャップを埋めようとする取り組みは多くの話題を呼んだ。
ジェンダーギャップを解消するためには社会全体での取り組みが必要だが、さりとて議員の一定数を女性に割り当てる、という考えは良くない。男性を凌げばいいのだ。
こうした課題を解消するためにも、進歩的な企業のみが働きやすい制度を採用するのではなく、社会で広く導入することで、荷重になっている女性の負担を分ち合うべきである。
ジェンダーギャップを解消するための様々な改革を取り入れることははじめは負担が大きいが、少子高齢化で労働力不足が続く昨今、継続的に取り組めば、女性の労働力を最大限に活用することもでき、結果的に社会的利益にも繋がっていくと考えられる。
改革に阻害因子となるような古い感覚の年寄りは放っておこう。間も無くいなくなる。
ジェンダーギャップと言うとネガティブな言葉に聞こえるが、我が国ではまだまだ改善する余地が大きいという意味で楽しみな分野なのだ。
12/23(木)曇り 飯川病院勤務+当直 健康クリドック判定
1:00起床。いつものごとく、文献読みデータ整理。自炊を含む座学中心。明朝可燃ゴミ提出できないためにまとめだけ済ます。座学、玄関の靴入れ角のとって修理。11:30土崎ブックオフへ。10冊購入、12:58バス飯川病院、文献整理など。14:00飯川病院勤務、14:30-15:30健康クリドック判定。17:00当直勤務に、検食。21:00就寝。歩数Σ5790歩。
ジェンダー論2021(6) 女性解放運動 フェミニズム運動 ウーマンリブ運動
各国の人々のジェンダー意識はどうなっているのか??
これに関しては電通総研が1990年から参画している世界価値観調査が参考になる。
世界価値観調査は、1981年から100を超える国・地域で実施されている調査。調査の方法の詳細はまだよくわからないが、調査に協力した日本国民の8割が「女性が男性と同じ権利を持つべき」と答えており、社会、国民がジェンダー平等を肯定していることがわかる。しかし、この内容を国別にランキングにしてみると、77カ国中45位に位置している。
要するに日本のジェンダー・ギャップ指数 (GGI)は120位と低いが、国民のジェンダー平等への要求度は必ずしもそれほど高いわけではない、ことを示している。
結局日本人はジェンダー問題に関しても保守的だ、ということ。
■日本の女性解放運動
女性解放運動家家を称される方はたくさんおられる。枚挙にいとまはない。代表として歴史的には、「平塚らいてう」、「市川房枝」、「奥むめお」、「伊藤野枝」、「福田英子」の名前を挙げておく。彼女らは大正時代を中心に、時に激しく、あるいは地道に、周囲の無理解、差別に耐えながらその活動を進めてきたが、その成果が上がったとは言えなかった。時代が、社会が彼女らに追いついていなかったことを示している。
最近の活動家としては、「上野千鶴子」氏、「田嶋陽子」氏等を挙げておく。
多分、女性解放運動家は、遅々ながら確実な成果が見られるものの、総じて日本の国民の、特に女性の反応が乏しいことを自覚し、内心忸怩たる思いであろう。
■フェミニズム運動とは、女性たちが男性と同じ社会的・政治的・経済的権利を得られるべきだという思想や、性差別のない社会の実現を目指す運動を指す。その発生は19世紀終わりごろのこと。それから20世紀初頭にかけて、女性たちはその能力を伸ばし、より自由に生きるためのさまざまな運動を展開し、女性たちが求めた参政権や職業選択の自由は、多くの国で20世紀初頭に実現し始めた。
■ウーマンリブ運動は、1960年代から1970年代にかけて新たに発生した運動で、女性たちは自己実現や、性別による役割分担からの解放を目指した運動である。ウーマンリブはフェミニズムの流れの一つであるが、内容的に同一ではない。
■現代における女性の社会的立場
フェミニズムの時代やウーマンリブの時代と比較して、現代の女性の社会的立場は格段に向上している。参政権や自由に職業を選ぶ権利は、男性と平等に与えられている。女性解放運動から100年以上が経過したいま、こうした女性の権利の拡張について疑問を抱く人はいない。現代女性のライフスタイルは多様化し、厳しかった時代と比較して、より「自分らしい幸せ」を追求できる時代になっている。 だからといって、現代女性の社会的立場が、男性のそれと完全に平等になったわけではない。セクシュアル・ハラスメントなどの性暴力にさらされる女性は、まだまだ多い。2017年に盛り上がった「#MeToo運動」は、そうした事実を端的に表している。
共働き家庭が増える一方で、「家事や育児・介護は主に女性が担う仕事」とみる風潮は、まだまだ根強く残っている。そのため「ジェンダー平等の実現」は、2030年までに世界全体で取り組む課題(SDGs)の一つに挙げられた。現代女性たちの社会的立場が今だにの低いことをうかうことができる。
過去から続く女性解放運動によって、女性たちはさまざまな「自由」を手にしてきたものの、まだ十分ではない。完全なる解放を成し遂げて男女平等を実現するためには、より一層の努力や工夫が求められる。
12/22(水)冬至 曇り ダリア球根掘り出し 飯川病院 サンタ姿で病室訪問
1:20起床、本日は嬉しい冬至。明日から夜明けが早くなる。左膝まだ疼痛残る。いつもより遷延。新聞電子化ほか、ほぼいつもと同じに過ごす。8:00-11:00全てのダリア球根掘り出し、種分け乾燥。ちょっと疲れた。12:12バス飯川病院、ボランティア、検食に小豆カボチャ、微睡、15:00サンタ姿で病室訪問。再微睡、19:30帰宅、夕食は我が家も小豆カボチャ。風呂にはゆず。21:30就寝。Σ10126歩。
冬至2021 私には大きな喜びの日 柚子湯・カボチャ小豆粥考 本日22日は冬至であった。
勝手な私的分類では私はまだ秋の最中にある。 冬至は1年のうちで日の出の時刻が最も遅く、日の入りの時刻が最も早い日。今後、朝が明るくなるだけでなく、朝の日差しが徐々に力強くなって行く。私にとっては希望の初日でもある。
我が家では家事分担として掃除、洗濯、料理関連は一切しないし、一切口を挟まない。代わりに、外仕事、家のメインテナンスは私が担っている。コンポストを含めゴミ処理も全て担う。私は分担している分野に家族であろうと中途半端な関与を許さない。発言も基本的には受け付けない。
私は1:00頃起床し、6:20に出勤する。そのために5:00過ぎになると朝の作業の準備にかかる。火曜金曜は可燃ごみの提出日なのでゴミを集め5:30頃に集積所に向かう。10月末から1月末までは真っ暗闇の中の作業になる。自転車用ヘルメットを改造して自作したヘッドランプの灯のもとで作業を進める。そして一輪車またはそりで集積所に向かうのであるがこの時間帯の道路はとても危ない。積雪が凍っている場合もあるし、夜間降った雨が凍りつきブラックアイスバーンになっている場合があり、灯りがないと判断できず危険である。
秋田では通常は冬至は積雪状態で迎え、寒さはとても厳しい。本年の冬至は積雪が1-3cmと少なくまだ除雪機は動かしていない。昨年は2回除雪していた。
実際の気温や天候は日照時間とは約二ケ月のズレがある。だから、冬至を迎えたとは言え秋田ではこれからが本格的な雪の季節である。
今後、一週間単位で見れば夜が明けるの早くなることが実感できる。これが私にはとても嬉しい。
冬が長い北欧ではこの日を「太陽の力が再び力を持って来る日」として祝う、祭りが今でも盛んだという。
我が国でも、古くは冬至が1年の始まりの日だつたと言う。その気持ちはよくわかる。
除雪のストレスに悩み、春を待つ心が誰よりも強い私にとって冬至は新しいスタート日でもある。
冬至といえば食卓には「カボチャと小豆」、風呂には「柚子」である。 柚子湯は身体を温めて、風邪知らずに。柑橘系の芳香成分による保温効果や、沈静効果が期待できるという根拠も上げられている。 冬至にカボチャを食すと健康によいといわれている。カボチャは16世紀に日本に伝わった渡来作物であり、一般に晋及したのは江戸時代とされている。だから、この風習は江戸時代以降に始まつたと考えられる。現在と違つて冬場は野菜類が少ないため、保存がきく、食昧などの点から珍重されたのであろう。ただ、この時期まで保存されたカボチャは皮が硬く簡単には刃物が通らない。かつてはマサカリなどで破壊してから料理したものであるが、最近は私が電動のこぎりで裁断する。
私たちにとつては暖かさの実感はまだまだ遠いが、小さな植物のなかにはいち早く太陽の恩恵を受けているものがある。ボタンの枝先には来春のための芽が硬く準備され、春の訪れを待っている。
日が長くなリ始める毎日、来春への準備を怠らない植物たち、私も一緒に春までの日々を歩んで行く。
12/21(火)曇り時に晴れ 中通病院外来 飯川病院ボランティア 積雪なし
1:30起床、文献読み。データ整理、5:30可燃ゴミ出し、コンポスト処理。6:40バス飯川病院。8:45中通病院へ。12:30外来、疲弊した。14:00-19:00飯川病院ボランティア。十分睡眠とる、入院対応は院長に依頼する。病院のダリア球根堀理、乾燥へ。19:30帰宅、21:00就寝。Σ7890歩。
ジェンダー論2021(5) ジェンダー・ギャップ指数 (GGI)120位の意味と衝撃
社会の女性への扱いには理不尽さが残る。
大学入試では、女性であるだけで減点されていた。
COVID-19の不況下では、女性が職を失っていく。
なぜ医学部の入試では女子が不当な扱いをされてきたのか?当時はあまり問題になっていなかったが、私大医学部の運営に深く関わる問題があったから。大学医学部の使命は「教育」「診療」「研究」にあるのだが、そのためには有能は多数のスタッフが必要である。女子学生は卒業後も大学に残り、研究者としてあるいはスタッフとして技能を発揮する可能性が少なく、現実的に私大医学部はアカデミックな活気の維持などが困難になっていた。
私大教授の多くは国立の有名大学から選抜されて赴任してくるが、それまでの研究の業績を継続することは実質困難になることが通常であった。教授の研究を支える有能なスタッフが集め難いからである。
これでは寄付が集まらない。国の補助だけでは到底運営できない。巨大な運用経費がかかる大学にとっての死活問題であった。
この問題を女子学生にのみ押し付けることはできないが、私大にとっては頭が痛い問題であった。この問題は「男女平等論」「かくあるべし・・」「許し難い不当なジェンダー問題だ」という正当論のみで押し切られたが、その後の大学側はどんな状況に陥っているのだろうか。
確かに、我が国ではジェンダー問題では理不尽なことばかりが起きていた。
そしてさらにおかしいのは、そんな問題が昔から露呈してもなお、遅々として正されないことにある。
世界経済フォーラムがまとめる男女格差の報告書、すなわち「ジェンダー・ギャップ指数 (GGI)」が今年も、日本の後進ぶりを示した。156カ国中、120位だった。過去最低だった前回の121位とほぼ変わっていない。
ジェンダー・ギャップ指数 (GGI)構成要素と各項目のランキングは以下の如く。
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■経済分野(115位) :
労働参加率の男女比、同一労働における賃金の男女比、推定勤労所得の男女比、管理的職業従事者の男女比、専門・技術の男女比
■教育分野(91位) :
識字率の男女比、初等教育就学率の男女比、中等教育就学率の男女比、高等教育就学率の男女比
■保健分野(40位) :
出生時性比、平均寿命の男女比
■政治分野(144位) :
国会議員の男女比、閣僚の男女比、最近 50 年における行政府の長の在任年数の男女比
―――――――――――――――――――――――――――――
憂うべきは、そうした国際的評価そのものよりも、改善に腰を上げない日本の内なる硬直さである。
明白に遅れをとっているのが、政治分野である。国会議員と閣僚の女性比率は、世界最低レヴェルである。
では、各国の人々の意識はどうなっているのか。これに関しては電通総研が1990年から参画している世界価値観調査が参考になる。
世界価値観調査は、1981年から100を超える国・地域で実施されている調査。「女性が男性と同じ権利を持つべき」に肯定的な考えは国民の8割で、社会、国民がジェンダー平等を肯定していることがわかる。しかし、これを国別にランキングにしてみると、77カ国中45位に位置している。
要するに日本のジェンダー・ギャップ指数 (GGI)は120位と低いものの、国民のジェンダー平等への要求度は必ずしも高いわけではない、ことを示している。
12/20(月)曇り小雪 健康クリドック 飯川病院 積雪4cm除雪なし
1:20起床、徒然、文献読み。6:40バス飯川病院。9:00-11:30健康クリニックドック。14名+結果判定15名。11:45飯川病院へ。データ処理とか微睡とか。14:00勤務、入院患者対応。以降座学、ラジオ録音、19:30帰宅夕食、21:00就寝。Σ5952歩。
ジェンダー論2021(4) 男尊女卑を形成した文明論
女性は立場をわきまえよ、昔からそういわれて何かと制限されてきた。これは日本の歴史や文化に関連してきた。女性蔑視の文化である。日本の女性蔑視の根は深い。
現代日本で男尊女卑を口にする人は、少なくなった。しかし、1945年に日本が第2次世界大戦に敗北し、民主化するまで、日本では男尊女卑が制度化されていた。
すばらしい文化や伝統は大切にしたいが、男尊女卑の伝統は引き継ぎたくない伝統である。
私は戦前戦後の家父長制について具体的な制度は知らないが、わが家の雰囲気を通じて伝統の一部は体験してきた。私は育つ過程で男尊女卑的考え方を身につけてしまった。それを隠しながら女性を敬う姿勢をつらぬくのが実に大変であった。
生まれ出でた人は感知できるまわりの文化や雰囲気を学びつつ、自分を成していくことになる。私たちにとって、伝統のどこをとるか、そこはとらずここをとるという、個人としての判別が必要となるであろうが、それは簡単なことではない。
国によってもたらされた知識文化は、国民に対してボディブローのような力を持って浸透することなった。しかも、それは男性にとって好都合なものであった。
福沢諭吉も男女同権論者であった。男尊女卑は過去のものであり、文明開化によってそれは消滅すべきものと考えていた。
もちろん、私たちが、最近のフェミニズムやジェンダー論議によって気づかされた男女平等論が論じられていたわけではない。
自由の民権運動で突出した仕事を残した植木枝盛氏(1857-92年)は、男が持つ武力・腕力・戦争と、仏教と儒教の教えが男女差別を支えてきた、とした。また、男尊女卑の考え方が綿々と存在し続けるの理由については、知識が進まず、文明が進まず、野蛮ゆえ、だとしている。
ちょっと古い内容であるが、植木枝盛氏の議論は体系的と思われるので彼の主張を確認しておく。
氏は男尊女卑の風習の所以を次のように分析、説明している。
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■第1に、男尊女卑は封建制の産物。封建下の武家では、男子のみが家を継ぐことができた。何故なれば武に在り
■第2に、男尊女卑は戦国時代による。武事軍事ばかり重視し、文事が衰退した。女が価値をさげ、地位を落とし、勢力を失った。
■第3に、男尊女卑の風習をもたらしたものは、腕力重視である。未開、野蛮の社会では、魔獣社会の弱肉強食が支配的であり、女の真の価値が顕われない。
■第4に、男尊女卑の風習にも地域や階級による違いがある。夫婦の不同等は、武士が最も激しい。男女の間、夫婦の間に不同等をきわむるは士夫婦>>農民>>商人に至っては左程にしからず。
■第5に、男尊女卑を正当化したイデオロギーとして儒教がある。女性は父、夫、息子に隷属するものとした。
■第6に、男尊女卑を支えるイデオロギーとしても機能してきたのは仏教と指摘。仏教は女は罪深いとか、不浄とか主張した。
■第7に、専制主義である。一方を非常に尊きとし、一方を非常に卑きものとすることで成立する。
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(参考文献) 栗原るみ ジェンダーの近現代史(2)
12/19(日)小雪曇り終日 膝受傷2週間まだ疼痛あり 積雪3cm 除雪なし
1:00起床、本読み、新聞PDF化、徒然。午前は読書、データ整理。NHKのど自慢、微睡微睡。15:00回診に行く家内に同乗、花徳経由飯川病院。玄関前のダリアの鉢を訓練室に回収、明日球根作業。宗教の時間録音。19:30グランマート経由帰宅、夕食、21:00就寝。Σ4214歩。
ジェンダー論2021(3) 女性が「ダブル・スタンダード」から抜ける時代が来た
女性が著しい業績を上げ、高い評価を受けた際に、我が国でもつい先日まで、「優れた科学者である前に良妻賢母であるべき」いう「ダブル・スタンダード」的な報道が続いた。
小さな例は数多いが、卑近な例は「STAP細胞」を発見した小保方晴子氏に関する報道であった。
将来ノーベル賞の候補にもなりうるという画期的新発見とのニュースの熱気が一段落した後の氏に関する報道は、実験室では祖母からもらった「かっぽうぎ 割烹着」姿で仕事をしている写真など、また家ではケーキを焼いたり、料理をするなどの「家庭的な良き娘像」が多数報道された。その周辺の記事を今読み返すと「男のやっかみ」が見え見えである。
結果的に彼女の業績は盗作とか改竄とかで間も無く地に落ちたが、それからの報道は男性側からの羨望ややっかみが消え、男尊女卑的視点からの「だから女はダメなのだ」と言ったバッシング論調の記事が主流となった。氏が男性であったらその報道は別の姿をとっていただろう。私はメディアの取り上げ方に当初から問題を感じていた STAP細胞(2) 異様な報道合戦の末に。不思議なことに氏に関する報道は地味ながら今に至るまで報道され続けている。それだけ大きなインパクトのある事件だったし、人物だったのだろう。
同じことは最近の芥川賞、直木賞の受賞ニュースでも顕著である。最近これらの賞は比較的若い女性に与えられることが多くなったが、作家像に加えて「良き妻、良き母」としての姿が強調される。
ノーベル賞の女性受賞者が「ダブル・スタンダード」から抜ける日が来た。
バーバラ・マクリントックが独身女性初のノーベル賞を受賞したのは1983年であり、一流の科学者が「良き妻良き母」であるべきとする制約が解消されるまでに第2世代といえる受賞者の後20年もの歳月が必要であった。
1980年代に受賞した3人は、奇しくもみな独身であった。3人は生理学・医学賞の受賞であったが、受賞年齢が、81歳、77歳、71歳という高齢であった。彼女たちの受賞が過去に差別を受け見送られてきた可能性は否定できない。1980年代に入って独身の女性たちに受賞の機会がもたらされたことは、フェミズム運動の影響が少なからずあったのだろう。
こうして女性受賞者を中心にノーベル賞の120年を通覧し、彼女たちを3人ごとに世代を区切って見てみると、女性科学者を取り巻く社会的な環境変化が濃厚に反映していることに気づかされる。
確かに彼女たちは特別な女性ではあるが、それぞれが教育や研究の時代的制約の中で奮闘してきた様子が窺える。辛酸を舐めた経験は数少なくあっただろうが、彼女らはその状況にめげずに意思を貫いた、と言える。
ジェンダーギャップに負けた女性研究者はノーベル賞受賞女性の何100倍もいるであろう。それを考えると、ジェンダー論が正面切って討論される時代を迎えて、今後は女性たちの科学的分野の業績が正当に評価されていくのだろう。楽しみである。
(参考文献) 小川真里子 『學鐙』2003年3月号
12/18(土)曇り寒波 除雪機整備など 積雪2cm除雪なし
1:30起床、新聞チェック、医学系論文読み、徒然ほか。9:30車の冬支度、クレッパーなど、除雪機2台整備。クロスバイクガレージ2Fに仕舞う。微睡、座学、読書三昧。データ整理、19:00夕食。21:00就眠。歩数Σ7940歩。
昨年積雪10cm初除雪、今年は未。
ジェンダー論2021(2) 女性は「ダブル・スタンダード」で評価された
最近我が国では理系の女子学生が少ないこと、女性研究者が少ないこと、学問的指導的立場の女性が少ないことが話題になっている。また、IT業界や理工学分野のジェンダーギャップは著しい。日本の工学系の大学で学ぶ女生は全学生中の15%に過ぎない。「女性は理工系には合わない」という偏見も根強い。果たしてそうだろうか。
日本の教育環境が閉鎖的で遅れていたことは自明の理である。今はかなり改善していると考えられるが、今ですら理工系の専門分野に学ぶ学生や専門職に就く若手は妙な、変わり者的レッテルを貼られている。我が国の女性の専門職を育成する環境は良くない。その背景には女性蔑視、差別感の存在は大きい。
欧米でもそうであった。当時の理工系の研究者は言われのない差別を受けていたことがわかる。ノーベル賞受賞した女性たちはその艱難に苛まれつつ研究を進めた稀な方々である。
マリー・キュリーは、ノーベル賞120年の歴史の中、科学部門で二度ノーベル賞に輝いた稀有な三人の研究者の一人である。
しかし彼女でさえ、1911年2度目のノーベル賞受賞直前にもフランス科学アカデミーへの入会を拒否された。彼女の娘イレーヌもノーベル賞受賞しているが会員にはなれなかった。同アカデミーが初めて女性の正会員を選出したのは1979年のことであった。
またイギリスの最も格式ある王立協会が、女性の正会員を認めたのは第二次世界大戦後の1945年のことであった。
人は誰も天才的能力を秘めて生まれる、という意見がある。教育の機会と、十分な環境が得られなければ、優れた成果を成し遂げることは誰にとっても不可能である。
なにゆえに女性科学者は少数なのか 女性に課せられ続けている「ダブル・スタンダード」であることに違いない。
ノーベル賞受賞女性5-7人目は夫と共同研究をしていたわけでなく、それぞれ独立の研究を遂行してノーベル賞を受賞した。
1963年に5人目のマリア・メイアーはドイツで学位を取得した後、夫について渡米したが、第二次世界大戦後にシカゴ大学に職を得るまでおよそ16年間満足なボストに就けなかった。
1964年に6人目としてイギリスのドロシー・ホジキンがノーベル化学賞に輝いた。
1977年に7人目としてアメリカの核物理学者ロザリン・ヤーロウに生理学・医学賞を受賞している。
ノーベル賞受賞の女性延7人は、例外なく結婚し子どもを持っている。おそらくは、その頃までは女性のアイデンティティはまず「妻であり母である」ことを前提としており、優れた女性科学者と評価されるためには、それを先に確立している必要があったようだ。
このような女性科学者に対する「ダブル・スタンダード」は、ノーベル賞受賞時の彼女たちの報道にもよく表れていた。
男性の受賞者は能力の非凡さや研究への没入や集中力が賞賛されるのに対し、女性の受賞者には、世界的な科学研究の成果のみならず「普通の女性としても有能である」ことが強調されてきた。
男性科学者が実験室や研究室で写真に収まったりするのに対し、女性科学者は台所で写真が撮られたりする。新聞の見出しも、メイアーのときは「サンディエゴのお母さんノーベル賞受賞」、ホジキンのときは「イギリスの妻、ノーベル賞受賞」、1977年のヤーロウのときも、「彼女は料理し、掃除し、ノーベル賞をとった」という見出しが紙面を飾った。ちなみにメイアーとヤーロウは二人の、ホジキンは三人の子どもの母親であった。
(参考文献) 小川真里子 『學鐙』2003年
12/17(金)小雨終日寒波 大曲中通病院 飯川病院
1:20起床、徒然、文献読み。6:00可燃ごみ2袋提出。7:35Taxi駅東に。8:11こまちで大曲。8:50外来業務、駅病院間は往復Taxi。15:30飯川病院。花壇が乾燥気味、散水。微睡など。19:30通町書店経由帰宅、夕食、21:30就寝。歩数計Σ7201歩。
ジェンダー論2021(1) 女性ノーベル賞受賞者の推移から見る女性の地位
今年もノーベル賞受賞者が発表になり、わが国関連受賞者として米国国籍の真鍋氏が受賞した。
戦前は日本人受賞者はゼロだった。戦後の受賞者数では日本は第4位、今世紀(2001年以降)は、米国の76人に次ぐ18人と世界第2位。ただ、女性の受賞者はまだいない。
総じて女性のノーベル賞受賞者は少ない。
受賞した最近の女性は、2021年のマリア・レッサ(平和賞)である。2019年までの受賞者は男性が866人、女性が53人で女性は全体のわずか5%である。科学分野に限定して女性の受賞者をみると23人である。
この歴史から、先進国の女性が置かれていた厳しい地位が伺いできるように思われる。
ノーベル賞を受賞した最初の女性はマリ・キュリーである。 彼女は1903年に夫のピエール・キュリーとアンリ・ベクレルとともに物理学賞を受賞した。その後、1911年単独で化学賞も受賞し、唯一の2度受賞した女性となる。マリの娘、イレーヌ・ジョリオ=キュリーは1935年に化学賞を受賞し、ノーベル賞を受賞した唯一の母娘ペアである。
科学分野のノーベル賞には、物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の三部門があり、それぞれの部門で受賞は最大3人までとされている。
女性が占める割合が5%ということは、女性の科学者や技術者の少なさを論じるにはいいとしても、唐突にノーベル賞受賞者を引き合いに出してみても、あまりの少なさから、女性科学者が置かれている普遍的状況を考えるには無理がありそうに思われる。
ところが、わずかの女性受賞者の人生を通して見えてくる事柄は、女性科学者達が置かれてきた社会的困難を時代ごとによく反映しいる。
従って、なにゆえ女性科学者・技術者が少ないのだろうという問題を考えるのに案外よい事例ではないかと思われる。
女性受賞者1人目、2人目はマリー・キュリーである。彼女は1903年に夫とともに物理学賞を受賞し、その8年後には化学賞を単独受賞している。
女性受賞者3人目は、マリーの娘、イレーヌ・ジョリオ = キュリーである。彼女は1935年に夫とともに化学賞を受賞している。
女性受賞者4人目はチェコスロヴァキア出身の生化学者ガーティ・コリで、夫とともに渡米して研究を続け、1947年夫婦でノーベル生理学・医学賞に輝いた。
彼女たち延4人がいわば女性ノーベル賞受賞の第一世代といってよいだろう。
最初の4人は、マリーの2度目の受賞を除き、すべて夫と一緒の受賞である。このことは、女性一人で科学分野の研究者として立つには、相当に困難な時代であったと推測できる。
この第一世代の女性たちの人生から、なにゆえ女性科学者・技術者が少ないのだろうという問題を考えるのによい事例ではないかと思われる。
この第一世代の女性たちの青春時代には正規の高等教育が十分に整えられておらず、大学教育の前に花嫁学校に入るという回り道を余儀なくされたり、大学入学資格取得に苦労したり、あるいはマリーのようにポーランドから教育の機会を求めてパリに出たりしなければならなかった。
実際のところ人並みはずれた才能も、特別の機会を得て育てられなければ凡庸のまま終わる。女性の天才が少ない原因は、優れた才能の多寡というより、教育、さらに研究の機会などの社会的問題として考察されるベき事柄なのである。
(参考文献) 小川真里子 『學鐙』2003年
12/16(木)終日曇り小雨 終日飯川病院
1:50起床、左膝痛20%ほど続く。改善なし。新聞、文献読み。徒然ほか。8:30院長大学受診のために同乗、飯川病院へ。9:00勤務、外来患者なし。入院患者対応。19:30帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計Σ43720歩。
日米開戦80年(6) 帰還兵はなぜ多くを語らなかったのか
少なくとも、私が見聞したその当時の状況からすれば、日本国内の庶民は日米開戦を望んでいたし、この戦争が悲惨な末路をたどるとは想像すらしていなかった。
兵士として、徴兵され、故郷では貧しい生活があるのに、大切な家族に、生まれたばかりの子供に別れを告げて出征した。おそらくは故郷に大きな未練を残しながら出征したのだろう。
にもかかわらず、入隊した後、下級兵士は上級兵士に殴られ、いじめられ、差別された。しかも、その上官は戦闘に対して思想や技能は乏しく、軍部中枢から伝えられる戦闘方針を下達するのみであった。
しかも、作戦本部の不味い判断から兵士は戦場にも着けず、海の中に消え、感染症に倒れ、戦死し、住民に虐殺され、人肉を喰らうところまで追いつめられ、また食われた人々も少なくない。
たとえ若く、鍛えた身体でも、衰弱すれば何もかも不可能になる。そのような中で迎えた非業の死、彼らに「安らかに眠れ」とは言えない。
その中では純粋な国を守るという意識は乏しくなり、ただ無批判に上官の命令に従うようになった。敗戦色が濃厚になるにつれ、兵士たちは戦闘どころではなく、生きることに必死だった様子がうかがわれる。
敗戦の、原因と責任者の究明は、未だ終わっていない。しかし、それをしなければ、非行の死を遂げた多くの兵士の魂は浮かばれないだろうし、また地獄を見る日が来るのではないか。
海軍陸軍の不協力のもあったが、大本営にいた高級上官の人間的資質すらも、戦術すらもは洗い直さなければなるまい。
約310万人の日本国民が犠牲になった。そのうち約240万人は日本の本土の外で絶命した。その半分は骨すら拾われずにいる。食糧や武器が補給されないために起きた飢餓地獄の中での死。
餓死の一字をとって「餓島」と呼ばれていたガダルカナル島では、死者2万人のうち1万5千人が餓死。東ニューギニア戦線では9割、インパール作戦では8割、50万の死者を出したフィリピンでは40万人、中国本土では半数が餓死したとの推計もある。
戦地における兵士の実態を、数字に基づき客観的に描写した文献では「戦闘」場面はほとんどなく、描かれたのは、重い荷物を背負っての行軍、食料不足による栄養失調、私的制裁という暴力、兵士の逃亡・自殺・奔敵、戦争神経症に苦しむ様子である。飢餓が激しくなると、食糧を求めて、日本軍兵士が同志を襲う事態まで発生した。食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行した。
日本人死者は、310万人(軍人・軍属が230万人、民間人が80万人)に達し、その9割が1944年以降の戦争末期に集中して亡くなったと推算される。
戦争指導者の無謀な作戦の結果、連合軍の攻撃による輸送船の沈没で陸軍だけでも約20万人が溺死した。
帰還兵はさらにショックを生けたのは世の中がすっかり変わってしまったことで、自分達の身の置き場がなくなった。こんな状況の中では戦争の実態を語っても通用しなかった。
それが戦争体験の記述が少ない原因だと思う。辛酸を舐めた兵士ほど何も語らずに、心に秘めたまま鬼籍に入っていった。彼らを軽視したのは戦後の我々である。
(参考文献)
藤原 彰著『餓死した英霊たち』青木書店 2001年
吉田 裕著『日本軍兵士』アジア太平洋戦争の現実 中公新書 2017年
12/15(水)終日小雨 午後飯川病院
1:30起床、新聞、文献読み。自炊5冊ほど準備。徒然ほか。午前は座学。合間を縫ってダリア紫掘り出す。11:00家人に同乗、ブックオフ広表店、漫画含め19冊購入、12:30飯川病院、14:00-19:00勤務、外来患者対応。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計Σ5312歩。
日米開戦80年(5) 現場からの指摘、敗因21箇条
小松 真一氏(1911-1973)は日本の実業家で、戦時中の第一次資料をして貴重な『虜人日記』の著者。
戦地では生死の狭間を生き抜き、敗戦と共にフィリッピンで捕虜になる。 一年半の収容中に、戦争体験を絵と文章により記録。 10数冊に及んだこのドキュメントを友人の骨壺に隠して日本に持ち帰り、それが1974年に私家版として出版された。翌年筑摩書房から出版され公のものになった。
小松 真一氏がまとめた敗因21ヶ条配下の如く
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日本の敗因、それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきるが、それでもその内に含まれる諸要素を分析してみようと思う。
01、精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求されることは、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ、未訓練兵でもできる作戦をやってきた
02、物量、物資、資源、総て米国に比べ問題にならなかった
03、日本の不合理性、米国の合理性
04、将兵の素質低下 (精兵は満州、支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
05、精神的に弱かった (一枚看板の大和魂も戦い不利になるとさっぱり威力なし)
06、日本の学問は実用化せず、米国の学問は実用化する
07、基礎科学の研究をしなかった事
08、電波兵器の劣等 (物理学貧弱)
09、克己心の欠如
10、反省力なき事
11、個人としての修養をしていない事
12、陸海軍の不協力
13、一人よがりで同情心が無い事
14、兵器の劣悪を自覚し、負け癖がついた事
15、バアーシー海峡の損害と、戦意喪失
16、思想的に徹底したものがなかった事
17、国民が戦いに厭きていた
18、日本文化の確立なき為
19、日本は人命を粗末にし、米国は大切にした
20、日本文化に普遍性なき為
21、指導者に生物学的常識がなかった事
順不同で重複している点もあるが、日本人には大東亜を治める力も文化もなかったことに結論する
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これらの21項目は山本七平氏の著作で詳しく紹介されている。
私は大戦を知るために教科書や歴史本、記録、手記などをよく読む方である。のちに識者とか評論家がまとめた記述、これらは二次三次資料とされる。これらからも知ることは少なくないが、現場で苦労された方々が小松 真一氏がほぼリアルタイムに記録した資料は一次資料として貴重である。
出兵された方々は大なり小なり上記の項目について憤怒を感じていたことであろう。私も当時の軍部の状況には義憤を感じることが多い。その際たるものは兵の命の軽視である。
(参考文献)
小松真一 小松 真一の虜人日記 (ちくま学芸文庫) 1975。
山本七平 日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21) 2004.
12/14(火)寒波強風若干弱まる 中通病院外来 飯川病院ボランティア
1:40起床、文献チェックなど。寒波来ているが除雪不要でうれしい。5:30可燃ごみ処理、落ち葉などの二袋提出。7:45バスに遅れ家内に同乗飯川病院。8:45-14:00中通病院外来。14:10飯川病院ボランティア、入院患者対応。微睡読書、19:30帰宅、夕食、20:45就寝。歩数計Σ6860歩。
日米開戦80年(4) 日本人の歴史観、組織観
歴史は連続性があり、継続的に経過していくものであり、戦前・戦中・戦後などの人為的区切りはそれほど意味はない。憲法9条はとても重要な条項であるが、日本人の歴史観を分断してしまった。そして日本人の歴史を学ぶ姿を変えてしまった。太平洋戦争は特別な悪しき時代であり特別であった。これからは憲法9条があるからもう再び戦争は関係ないのだ、と。
憲法に条項があって、国民に平和希求の願望があろうともそれだけで平和は維持できない。日本人はもっともっと歴史を、近隣国、米国を、国際情勢を学ばなければならない。
憲法9条が日本人をむしろアホにした?とも言いうるのでは。
それに、日本には独特の組織観がある。
この日米開戦80年を学ぶ中で日本の特殊性を再確認したが、それが現在にまで面々と続いていることを認識できた。
卑近な例を挙げれば、安倍長期政権時代の物言い難い雰囲気、安倍後にも続く遠慮と忖度など。
また、数多くの組織の判断ミス、犯罪など。日大の理事長の不正問題でも誰も意義を挟めなかった、とされる。
日本にある独特の組織観、その特徴を上げれば
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■空気を読むことが求められる、同調圧力がある
■異論を挟むことは異端
■個々人は一見わきまえた行動をとる
■誤った判断が出された際にも修正できない
■結論をせっかちに決める
■思いつきの提案
■過去の検証ないまま次へ進む
■事実に基づかない主観的意見がまかり通る
■科学的客観的データを公表しない、あるいは重要視しない
■・・・・・・
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私たちには言論自由があり、自由に思考し発言していると考えているが、実際のところ、見えない圧力に強く影響を受けている。同調圧力、忖度など日本では、言論の自由はタテマエで、実際には種々の制約がある。
そんな状況の中で無理矢理合議が作られ、太平洋戦争に突入した。
なぜ日本には言論の自由がないのか?「合理的な思考をゆがめる強力な力」=空気の存在である。
「空気」とは、ある種の前提を持つ強い圧力で、強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、「この考え方に従え」「これを疑うな」「この前提をそのままのみ込め」といった強固な圧力を生み出し、抑圧する。
この「空気を読む」という日本人の特有の感覚は時に集団を致命的な失敗に導く。約300万人の日本人が命を失った太平洋戦争は、大衆が空気に導かれてしまったことが大きいと指摘される。 経済力、国力から国家の破滅と敗北がほぼ間違いない日米戦に日本は突入しが、戦争は避けられないという前提を国民が押し付けられた結果の決断と考えることができる。
日本は厳しい国際情勢の中にある。日本人は日本的「空気」と対峙して、その正体を見抜き、打破すべきときを迎えている。もし私たちが今、空気を打破する方向を明確にしなければ、「次に日本を滅ぼすのも空気」となってしまう。
(参考文献:鴻上尚史・佐藤直樹「同調圧力」日本社会はなぜ息苦しいのか 講談社現代新書2579 2020年)
12/13(月)暴風雨 健康クリニック 飯川病院
1:00起床、降雪若干、積雪は1cm。文献読み。PDF化書類。自炊4冊。6:40バス飯川病院。初冠雪なるも遅延渋滞なし。
9:00-11:50健康クリニックドック業務、14名+レ線判定15名。12:00飯川病院、道路は凍結。本読み、微睡、14:00-18:30飯川病院勤務、入院患者対応。19:30帰宅、夕食、21:30就眠。Σ歩数計Σ7709歩。
日米開戦80年(3) 日本が口火を切ったのは事実だが、12月8日にはまだ交渉の余地が?
確かに日本が開戦の口火を切ったが、開戦時にも両国間には相互の置かれている事情に対する無知があり、複雑な国際情勢、日本の経済情勢が後押しして、結果として思いがけない方向に焦ってコマを進めてしまったと言えるのではないか?
12月8日の時点ではまだ開戦を回避する余地があったのでは?
その過程の一部、
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■41年4月にハル米国務長官から野村大使に示された「日米了解案」では米側の強固な原則論を前提としながらも、日本の立場に配慮した内容ともいいうるものであった。米国の対日石油供給再開と引き換えにインドシナ南部から日本軍を引き揚げるとする「ハル・ノートの乙案」もあった。
■同年夏には近衛首相とルーズベルト大統領の首脳会談が模索された。
■11月に米国が示した「ハル・ノート」も最後通告ではない
中国から日本軍は全面撤退せよというときの『中国』は満州を含むか否かなど交渉の余地があり、回答期限もなく、交渉を続ける道が残されていた。にもかかわらず日本側は一気に硬化してしまった。
■当時の国際情勢のうち、2041年6月に突如始まった独ソ戦に大きく左右された。ドイツと同盟を結んでいた日本は、ドイツが劣勢になれば日本の立場は不利になり米国が要求水準を上げてくると想定した。やるなら勝ち目が少しでもあるうちに、という発想に賭けた?
■世界恐慌も開戦に影響を与えた。格差や貧困が広がり、政治家も対策が必要だと認識していた。戦争には大きな犠牲が伴う一方、経済が活性化する作用がある。戦争による経済活性化で社会的懸案の解決に期待した?
■世論と国際情勢のはざまで政治家や外交官は難しい立場に置かれた。
■41年10月東条内閣発足、この内閣はこの頃には戦争回避の意識を保っていてその努力を続けていた。
■世論と国際情勢が政治に大きなを及ぼした。東条首相も対米開戦まで弱腰政策と言われたが、開戦と共に支持が高まった。
■・・・・・
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現在、東アジアは米中対立の舞台となり、中国の拡張政策により台湾海峡の安全保上のリスクも高まっている。戦前の日本の姿勢を見ているようで辛いところがあるが、中国の国力は米国に迫りつつある現在、内容的には一層複雑化している。
日本はその歴史の経験と地理的要件から「米中対立の緩衝地になりうる存在」であり、日米同盟を背景に親米政策に追従することなく、米中の外交修復を促す存在として我が国独独自の技量を発揮すべき、と思う。
この場合、必要なのは、「相手国の実像をしっかり見極め、自国の長期的戦略をしっかり説く」ことであろう。
厳しいアジア情勢の真っ只中にある中、私は歴史問題、国際問題についての一層の勉強が必要である、と認識している。
12/12(日) 祖父耕陽命日 寒波、終日降雨風夕方から強風大荒れ
1:00飯川病院起床、新聞チェック、そのほか文献読み等淡々と処理。PDF化書類、ラジオ深夜便のMP3データを整理。9:13降雨の直前バス帰宅できた。午前もデータ整理など、居間のパソコン周辺整理、機能強化。12:30NHKのど自慢途中で関東地方で地震、ch中継中止。作業継続、微睡。16:00書斎にて音楽関連の録画確認。N響定期公演:ブロムシュテット、ペールとドヴォルザークNo8。19:00夕食、20:30就眠。歩数計Σ10183歩。
日米開戦80年(2) 日本が口火を切ったのは事実だが、12月8日は勇み足だった?
日米間には土地や植民地をめぐる争いなど、国際政治の中で戦争という外交手段に訴えないと解決でき難い問題は存在しなかった。
だから、日米間にはいくつも問題点が存在したが、直接戦争をする必要はなく、従って、太平洋戦争は回避できる機会がたくさんあった。
確かに、我が国の軍拡、対中、東南アジア政策は国際的に批判の的になり、特に強く米国を刺激した。結果的に米国はさまざまな方法で我が国を締め上げつつあった。
1941年になっても日米交渉が続いており、徐々に熱気を増してきたといえども開戦直前まで戦争回避の可能性は小さくなかった。
第一、米国にとって日本の行動は黙認し難いものであったが、遥か極東の小国の軍事行動に対し武力抗争にて解決を図るには無理があった。当時米国は厭戦的空気が支配していた。ルーズベルト大統領は好戦的と言われるが、いかにして世論をまとめ上げるかに苦慮していた。
突然、大統領にとって国内世論をまとめ上げるには最良の機会が訪れた。真珠湾の奇襲攻撃である。 1941年12月8日、米ハワイ・オアフ島の真珠湾にある米軍基地や艦隊を戦闘機などで攻撃し、米側は戦艦アリゾナなどが沈没、約2400人が死亡した。米国は日本に宣戦布告し、「リメンバー・パールハーバー」を掛け声に反撃した。この言葉は現在に至るまで生きており、トランプ大統領もアリゾナ記念館を訪れた際にTwitterに投稿した。
日本人の多くは米国について知らなさすぎた。だから、米国に対してして誤った印象を抱いていた。
近年の中国の軍拡、南シナ海への進出、台湾問題、領土問題、米中摩擦などに眉を顰めない日本人はいないと思われるが、私はこの中国の姿勢に過去の我が国の姿の一部を重ね合わせて考えることが多い。しかし、こういった見方はほとんど見ることはない。
私は戦後の日本人は歴史に対してとても不勉強だ、と思う。終戦とともにそれまでの歴史上の概念は否定された。それにはGHQの洗脳策があった。GHQは戦前の日本の文化、考え方を否定することに成功した。飴と鞭を与えながら、第二次世界大戦は悪しき政治家、軍部によって指導された悪しき行動の歴史であり、国民はひたすら犠牲になったのだ、と説いた。それを日本人の多くが無批判に受け入れた。
すなわち、日本には軍国主義で牛耳られたの戦前があり、それによって大戦がもたらされ、敗戦とともに米国によって新しい文化文明がもたらされたということで、近代日本の歴史は、戦前・戦中・戦後の3つに分断された。
私は現在の日本人は戦後の新時代にしか興味が向いていないような気がしてならない。歴史教育も変わったこともある。特に憲法9条の存在が日本人に悪き時代と良き時代の区別を作ってしまった。
しながら、歴史は連続性があり、継続的に経過していくものであり、戦前・戦中・戦後などの人為的区切りはそれほど意味はない。この区別を廃して近代日本の歩みを正しく鳥瞰する必要がある。
12/11(土)快晴 飯川病院日当直
1:00起床、本読み、医学文献読みなど。午前は座学、本読みなど。10:00白色のダリアの球根ほり。水でざっと洗浄し乾燥に。12:00家内の車に同乗飯川病院、午後日当直に就く。検食、文献整理自炊準備。患者落ち着いており読書三昧の午後。18:00検食。20:45就寝。ほとんど歩行せず。歩数計Σ4435歩。
日米開戦80年(1) 日本が口火を切ったのは事実だが、両国ともに問題
今からちょうど80年前の1941年12月8日ラジオから開戦の第一報が流れた。真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまったことを報じた。実際には真珠湾の2時間前に南方で侵攻が始まっていたが知られていない。
奇襲攻撃の成功は国民を高揚させた。識者の回顧録などを見ると、当時我が国は「ABCD包囲網」と言われる状況で軍備、貿易など八方塞がり状況にあったが、これを打ち破り、局面をかえるきっかけになる、と多くの人が思ったのは事実のようだ。
ただ、当時新聞をはじめとするメディアで国民が適正な情報を提示されていたのかは疑問である。
今となってみれば、国力に大きな隔たりがあってとても勝ち目のない戦争になぜ突入したのだろうか。指摘されているのは政治の側面だ。近衛、東条ら政治指導者の資質、明治憲法下で権力が多元的で統一性を欠いた統治構造などの問題である。それに軍部の介入である。
経済力は英米と日本が「20対1」で開戦後2年間は抗戦できても、持久戦は無理というものだった。当時の指導層にとってもそれは自明のことだったと言われている。
ではどうして、客観的で正確な国力判断にもとづかずに、短期的に戦えるという楽観的で冒険主義的な選択になってしまったのか。終わりにすべき状況をどう設定するかも検討されていなかった?
たとえ確率が低くても局面転換の可能性があると踏めばリスクの高い選択をしてしまう行動パターンがまたしてもあらわれた。万が一の僥倖に賭けた、とも言える。過去の日清、日露戦争における薄氷を踏みながらの勝利の歴史も判断を狂わせた可能性がある。元寇の時の神風もある。
私は開戦に関して非力ながら勉強中であるが、開戦決定に実質的役割を果たしたキーパーソンの存在が見えない。集団合議制であったとされるが、集団で意思決定する場合は、個人で決めるときよりも、結論が極端になる傾向がある。責任の所在は不明確となることから、リスクを冒す方向に意見が偏っていくという。
また、新聞雑誌が誤った情報のもとに対米強硬論を展開、米英戦争辞さずのムードが広がっていったとみられる。世論の高まりは当然判断に影響しただろう。
開戦に当たっては日本側にも問題はあっただろうが、それがよく見えない。総括されていないのではないか?
ただ、同じことは米側にも言える。
今みれば開戦回避の方法は両者にあったと思われる。
12/10(金)快晴 大曲中通外来 飯川病院ボランティア
1:20起床、左膝痛横ばい。腫張感あり。本読み他いつもの如く、自炊6冊準備、新聞入力。6:00家庭ゴミ処理、2袋提出。7:35Taxi駅に、8:11こまち。9:50大曲中通病院外来。往復膝守るためTaxi。秋田もTaxiにて病院へ、15:25飯川病院ボランティア。19:30帰宅、21:30就寝。歩数計Σ6538歩。
音楽談義2021(9) 本 中川右介著 「巨匠たちのラストコンサート」 文春新書 2008年(2)
引退してもおかしくない高齢の指揮者をそこまで活躍させるのは何なのだろうか。過去の名声、人気があり集客力があるという運営上の理由? 楽団員の共演の喜び? 聴衆の求め? 指揮者にとっては高価な報酬? などなど・・・?
本書を読むと個々の事情が見えてくる。
以下に本書の内容を抄述した。
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■トスカニーニ
死去は90歳。
「ラストコンサート」はニューヨークカーネギーホール。記憶力の減退でマイスタージンガーの途中で指揮をやめ片手で両眼を覆いステージを去る(87歳)。
■バーンスタイン
死去は72歳。病死 肋膜腫瘍と肺の感染症の併発
「ラストコンサート」は1990年8月19日、呼吸困難に陥りながらボストン交響楽団とタングルウッドの演奏会に臨み、ベートーヴェン交響曲No7第三楽章で指揮棒が止まった。そのまま引退公表。3ヶ月後に死去。
■グールド
死去は50歳。1982年9月27日、脳卒中によりトロント総合病院に緊急入院。10月4日、父親の判断により延命措置の停止が決断され、同日死亡。
「ラストコンサート」は32歳、何も問題がなかった。コンサートを否定し次々とキャンセル、シナリオに書かれていたかのような人生を送った。
■フルトヴェングラー
死去は68歳、1954年11月30日肺炎により死去。
「ラストコンサート」は同年9月20日ベルリン。交響曲史の「始点」と「終点」を求めた音楽家。耳介精神性と言われるも「演出過剰」にしか聴こえなかった。ドイツ・オーストリアで最高の地位。絶賛も酷評もなかった自作交響曲にショックを受ける。晩年は聴覚障害に悩む。死に望んで「ありがとう。みなさん、もう充分です」、担当医は「生さる意思のない患者を助けることはできない」、と記録を残している。
■リパッティ(33)
死去は1950年、33歳、病死 白血病。
「ラストコンサート」は1950年9月16日ブザンソン。主治医も反対したブザンソンのリサイタル。弾けなかったショパンワルツ第二番。夭逝した天才ピアニストとの評価。
■カラヤン
死去は82歳、1989年心臓病にて死去。
「ラストコンサート」は同年4月23日ウイーン楽友協会ホール。ブルックナー交響曲No7。ソニー社長との商談中に死去。最後の言葉は「まだ、今ではないのに」。
■カラス
死去は53歳、1977年心臓病にて死去とされている。
「ラストコンサート」は1974年11月11日札幌厚生年金会館ホールでのリサイタル。最初で最後の日本公演であった。恋多き女性でスキャンダルの女王でもあった。引退同然の隠蔽暮らしの中で死去。
■クライバー
死去は74歳、2004年前立腺癌死とされている。
「ラストコンサート」は1999年2月26日イタリアカリアリのコムナーレ劇場。
終生ポストに就かず、1980年代後半から指揮の回数が2,3年に数回のペースに。スケジュール表が真っ白だったという。主にバイエルン国立歌劇場管弦楽団、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルなどを振ったが、クライバーがどこかで指揮するというだけで大きなニュースになり、多くのファンが彼の演奏会を待ち望んでいた。インタビュー嫌い、公演嫌い、レコーディング嫌いの理解できない指揮者であった。
■ロストロポーヴィチ
死去は80歳、2007年4月27日、モスクワにて死去。80歳没。
「ラストコンサート」指揮者としては2006年12月日本フィル、チェロ奏者としては2005年6月ウイーンフィルと共演。しかしながら、著者はモスクワ市民権を奪われ出国する直前の1974年05月10日モスクワ音楽院大ホールでの演奏会をあげている。
西側の諸国は氏を演奏家としてより「自由の戦士」として「反ソ」の象徴として扱った。
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上記の演奏家が残した録音は質的にはレヴェルが高い。従って、普段音楽を鑑賞する際には上記の如くの情報は不要である。
彼らは才能はに恵まれているが、同時に当たり前の人間である。喜怒哀楽も欲望もそれなりに強烈である。本書には知らない方がよかった、と思われる内容も含まれるだが、彼らの音楽にはいささかも傷が付くことはない。
これらの音楽家の生き方に興味を持ったときには本書は貴重な資料の一つとなる。
この項は、82歳で死去したカラヤンが同年ウイーン楽友協会ホールで録音したブルックナー交響曲No7を聴きながら記述した。あまりにも美しい完成度の高い録音で、私が同曲を聴きたくなった時に最初に選ぶ盤である。ただ、これほどの完成度の高い表現をひたすら求め続けたカラヤンの人生はなんだったのかとも思ってしまう。高度の録音を残せる時代になって音楽のありようはあまりにも先鋭化しすぎたように思う。私はスタジオ録音盤よりもライブ盤を好むが、完成度に多少傷があっても、観客の咳が入っていても、それらが一体となって醸し出す雰囲気が好きである。
12/9(木)快晴 飯川病院
1:00飯川病院起床、膝若干改善。徒然、文献・画像・録音データの整理・処理など。9:40迎えあり畑作業のために帰宅、入浴、ネコ対応。里芋3株掘り起こし。これで残るはネギだけ。ダリア掘り出し準備。12:50バス飯川病院、外来入院とも処置者なし。微睡、新聞、文献読みなど多数。19:30帰宅、夕食、21:00就寝。歩数計Σ7963歩。
音楽談義2021(8) 本 中川右介著 「巨匠たちのラストコンサート」 文春新書 2008年(1)
音楽家、とくにクラシック音楽の演奏家は現役時代が長く、70歳を過ぎても現役として活躍している方は数知れない。その中では指揮者は特に長く、N響桂冠指揮者のブロムシュテット氏は現在94歳で、いま来日中でN響定期を指揮している。指揮台に歩む姿も問題なさそう、2時間近く立ったまま指揮され、表情にも衰えを感じない。矍鑠とした姿で、驚くべき活力である。
指揮者の場合、音楽表現の芸術面の総合的ディレクターである。自分では音を出さず、他力本願で音楽を表現する。だから老化しても「音楽の真髄の表現は可能である」、と考えているのだろうし、周りもそれを支持しているようだ。
周囲から「まだやれるのに」と惜しまれながら引退する指揮者はあまりいない。むしろ指揮者の場合は、60歳頃までは若手と称され、それ以上の高齢になるとやっと「円熟しつつある」、「古潭の味わい」などと理解できない形容詞をつけて尊重される傾向にある。だから、指揮者の芸術上の「引退」と生物としての「死」は限りなく近くなる。中には指揮台の上で最期を迎える超幸せな方もいる。
「引き際の美学」という言葉が、クラシック音楽の演奏家たちには、ほとんど当てはまらない。その中で比較的早めに引退を決意するのは自分の体を楽器とする声楽家である。どうしても声帯に加齢の影響が出やすく音域が狭くなり表現力が落ちる。器楽奏者もいずれその時期を迎える。
多くの指揮者は自らの肉体の衰えを超えて、音楽と共に生きようとする。指揮者の衰えは演奏家がカバーしてくれるから演奏に大きな傷は出ない。ある文献には、ウイーンフィルで某名指揮者のもとでの演奏はほとんど指揮者をあてにしていなかった、指揮者が演奏に合わせて棒を振っていた、と団員の回想録にある。
これは極端な例であるが、高齢の指揮者をそこまでさせるのは何なのだろうか。過去の名声?楽団や聴衆の求め?高価な報酬?・・・?
私は高齢の指揮者が指揮する姿を見るのは嫌いではないが、音楽をあまり評価しない。加齢とともに自らに備わっているリズム感が狂い始めているのではないか? だから一般的に高齢指揮者の表現は若いときに比してテンポが遅くなる。人は20歳頃から高音域が聞こえ難くなる。楽器の音量バランスなど的確に指示しできるのか?などなど、
彼らは自分の体調から時をおかず「最後のコンサート」を迎える準備はできているだろうし、聴衆はいつまできけるのだろうか、今回が最後の機会かもしれないと思いながら聴くのだろう。
この本は、以下の10人の著名な音楽家をピックアップし「最後のコンサート」または晩年の様子を、物語として描いたものである。
これらの方々に、演奏に関心のある方には貴重な資料となりうる。
普段は知ることができない芸術家の生の姿が詰まった貴重な資料である。
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●トスカニーニ ● バーンスタイン ●グールド ●フルトヴェングラー
●リパッティ ●モーツァルト ●カラヤン ●カラス ●クライバー ●ロストロポーヴィチ
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私はここに取り上げられたすべての方々の演奏を味わってきた。バーンスタイン、カラヤン、クライバーは来日公演を聞くことができた。
だから興味を持って読んだ。
12/08(水)曇り 太平洋戦争開戦日 飯川病院+当直
1:15起床、文献読み。いつもの座学中心。午前はダリア対応したいのであるが左膝の安静のために延期。10:30散髪とブックオフ土崎店へ。10冊購入、13:30バスにて飯川病院、14:00勤務。15:30秋銀スタッフ来訪、カレンダー、歓談。17:00当直、18:30検食、20:30就寝。歩数計Σ3833歩。左膝痛で歩くのを控えた。
音楽談義2021(7)NHK音楽番組 なぜ古い音源を使うのか(2)
なぜ古い音源を使うのか(1)で記載した音源の多くは名盤と言われている歴史的価値はある。しかし、半世紀も前のモノラル盤あるいはSPからの復刻版で、現在の放送に載せるには音質的に聴くに堪えない。
好事家がレコードやCDを購入して楽しむには良いだろう。
こんな音源を名盤として公共の電波で紹介する音楽評論家の方々、あるいは放送の選曲を担当するスタッフは、「古き良き時代で進歩が止まっている化石の様な方」、「古きを好み、心が狭い名盤主義の方々」に違いない。あるいは、ラジヲ深夜便を聴く方々は高齢者が多いからそれに合わせた??とも考えてあげたいのだが、高齢者を馬鹿にしてはいけない。私を含め高齢者こそ現代の表現を聞くべきだ。
今はすぐれた演奏、録音の音源が沢山あり選択に困らないはずである。
評論家と言われる方々は常にすぐれた演奏や録音を広範な資料の中から発掘して紹介して欲しい。それが責務なはずである。何時までもリパッティ、ハイフェッツ、グールド、フルトベングラー、カラヤンではないはずである。
私にとってこれらは名盤としての評価が高い録音だとしても「死んだ音楽」、「文献的価値」でしかない。
2021年12月6日、二日前のラジヲ深夜便の2:00-3:00に「クラシックへの誘い:モーツアルトのしらべ」という特集があった。モーツアルトの交響曲のうちから楽章を選んで放送するものであった。交響曲No1、No25、No29、No35、No40、No41が取り上げられた。
ところが、演奏を聞くとLP初期の1960年頃に録音された古い音源が使われており、私はがっかりした。
これらの盤の指揮者を挙げると、マリナー、ベーム、セル、クレンペラーなどなど、確かに名盤の誉が高かった。全て私が所持していた盤と同じであるが、私はゴミとして廃棄した。
音楽を聴くなら演奏会に勝るのもはない。それらは呼吸し、拍動している、生きた演奏だからである。聴くものも生きている。
そろそろ第九の季節である。1824年に初演されてから今までこの曲は進化し続けている。だから価値があるのだ、と思う。今年はどのように表現されるのだろうか。
私は大勢の中で音楽を聴くのも苦痛になったので、今はNHK交響楽団の定期演奏会を中心に録画で楽しんでいる。全てライブ録画で全て3ヶ月以内に録画されている。演奏家は全て現役なのがいい。
12/7(火)曇り 比較的温暖 中通病院外来 飯川病院
1:00起床、データ処理。6:40バス飯川病院。8:45-13:30外来混雑疲弊。西村書店日本医事新報1年分更新。13:45飯川病院、14:00-19:00ボランティア。疲れ果てて微睡1時間余、入院患者対応なし、19:20帰宅夕食。21:00就寝。歩数計Σ8688歩。左膝疼痛最悪時の8割程度と改善。
音楽談義2021(6)NHKラジオ音楽番組 なぜ古い音源を使うのか(1)
私は音楽が好き。ジャンルはあまり問わないがいわゆるクラシックから歌謡曲、演歌など、ほぼなんでも聴く。
しかし、音楽鑑賞などという、真面目くさった聴き方はしない。いや、例外的には、気が向いた時にはヘッドフォンで、楽譜を見ながらじっくり鑑賞することもある。これによって通常聞き取れていないかすかな楽器の音、微妙な表現までを聞くことができる。
日常的には主にラジオで気楽に、ながら聞きをしている。最近はNHKのネットラジオで聴き逃しサービスというのがあって、最近1週間ほどの間にNHKで放送した番組の一部をインターネットを介して聞き返すことができるが、これがなかなかいい音で頻回に利用している。
NHK-FMは音質が良好なので音楽番組が多い。一方、NHK-AMの第一放送はより生活に密着した番組が流される。私は近年は情報収集のためにNHK第一放送を音量をしぼって常に鳴らしている。
NHK-AMでもクラシック音楽を流す番組がある。日曜am8:00他、ラジオ深夜便にも適宜番組が組まれている。
前者では評論家が登場し解説等行う。最近代変わりして比較的新しい録音を取り上げてくれるが、前の担当者は酷かった。後者では頭の硬い選曲担当がディレクターがおられるのであろう、古い録音が用いられる。あるいはディレクターの個人的好みによる選択と思われるのもある。
下記は2012年12月6日のラジヲ深夜便の2:00-3:00に「クラシックへの誘い:バイオリン名演奏家の調べ」として放送された曲と演奏家である。
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■ディニーク:ホラ・スタッカート 「ヤッシャ・ハイフェッツ」
■クライスラー:ウイーン奇想曲 作品2 「フリッツ・クライスラー」
■パガニーニ:協奏曲 第2番から 第3楽章 「ルジェーロ・リッチ」
■ベートーベン:ソナタ 第7番から 第1楽章 「アドルフ・ブッシュ」
■モーツァルト:ソナタ 第40番 第3楽章 「エリカ・モリーニ 」
■ファリャ:スペイン舞曲 第1番 「イダ・ヘンデル」
■エルガー:気まぐれ女 作品17 「ヨゼフ・ハシッド」
■チャイコフスキー:ヴァルス・スケルツォ 「ダヴィド・オイストラフ 」
■ヴィエニャフスキ:協奏曲 第2番 第2楽章 「ヤッシャ・ハイフェッツ」
―――――――――――――――――――――――――――――――――
なぜ古い音源を使うのか
これらの音源の多くは半世紀も前のモノラル盤あるいはSPからの復刻版で、音質的に聴くに堪えない。歴史的価値はあるが骨董品である。
音楽は生きている。音楽家も生きている。愛好家も生きている。
それを忘れては困る。
12/6(月)曇り時々晴れ 健康クリニックドック 午後飯川病院
2:10起床、歩行はできるが左膝がかなり痛い。文献・新聞チェック、読書。7:30昨日の転倒で歩くのは困難、家内に頼ん同乗し飯川まで。9:00-11:20健康クリニックドック、クリニックまでは歩けた。ドック15名、結果判断15名分。11:20飯川病院、11:30明和会本部スタッフ来訪飯川病院の今後について打ち合わせ。午後微睡など。14:00-18:45勤務、15:00入院患者対応。19:15帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計Σ4492歩。
季節の話題2021(28) 今季初転倒 路地にプラスチック板!!!!
昨日朝、当直明けで時間的余裕があるために久々徒歩で帰宅した。路面はマダラにうっすらと雪が積もっていた。あと自宅まで200mほどの路地を歩いていた時に、全く予想外に右足が滑り、後方に激しく転倒した。左膝に一瞬の強い疼痛が走った。左膝をひねったようだ。
路面は凍結もしておらず全く予想外の転倒であった。
見るとその路面に1m四方ほどの厚手のプラスチック版が敷かれていてうっすらと積雪があり、私としては全く予想外の状況であった。私がそれに気づかずに足を乗せたことになる。
考えるに、こんな状況ならば華麗に氷上を舞うフィギアスケート選手でも転倒するのではないだろうか。
頭は打っておらず両脚とも痛みはあったがなんとか動かせ、なんとか立ち上がることができた。今回も骨折とかはしていないようでホッとした。
滑って転倒しやすい道路は、以下が多い。
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■ブラックアイスバーン。さらにその状態にうっすらと雪が積もっている場合は予想外に滑る。
■金属製マンホールの蓋、側溝の排水用の金属製カバーも滑る。
■雨の日の道路の白線。
■綺麗に圧雪状態になった平坦な道路、特に、大型の除雪機による除雪後の道路も危ない。
■道路工事で路面に敷かれている大型の金属板も。
■・・・・・・・
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今回の転倒の原因になった厚手のプラスチック版は初めて見た。近くで住宅の新築工事があり、その関係のものかもしれない。自由に動けるようになったら確かめに行きたい。
私は特に冬道で転倒しやすい。その自覚があるから降雪の季節、凍結の季節には転倒を予想して歩き方も慎重にしている。防寒靴も慎重に選び、危険が大きい道路では足底にスパイク状のアダプターを取り助けている。
転倒を予測して若干前かがみにそろそろと歩く。それでも滑った瞬間に体が宙に浮き路面に激しく叩きつけられる。頭を打たないように、腕で身を守るために両手には荷物を持たず、手には厚手の手袋も欠かせない。暗い時期にはライトもいる。
今回も背中のディバッグが衝撃を緩和してくれた。8年も使っておりボロボロであるがほぼ全ての転倒時に私を守ってくれた。感謝と共に今後も使い続けたい。<a href="https://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/e/a34b572cc702c5b52ee68b7f63b7d501">転倒防止(3) 転倒時に私を助けてくれたディバッグ</a>
背負っているディバッグにはいつもiPadやハードディスクなど電子機器があるが、それらは無事であった。前日当直であったので小さな薬品入れの缶を持っていた。見ると完全に変形し完全に蓋と身が重なり合っており開けることができずやむなくカットした。これが中心となって衝撃を吸収してくれた、と思う。前回はバッグの中の蜜柑が助けてくれた。<a href="https://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/e/c6ee17d1d1769a70e46a6eac4e5c35a5">徒歩通勤2021(2) 2回目の転倒 今回もディバッグに助けられた。</a><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/d9/40f2227a4734ffb56ab733e97a7a7321.jpg" border="0">
転倒二日目で、今日になって全身の筋肉痛が生じてきた。転倒時に身を守るために全身の筋肉が緊張したためであろう。
【追記】受傷当日(12月5日)は疼痛のために詳細は確認できずヨロヨロと歩いて自宅に帰った。若干改善した9日に自転車で現場を確認に行った。敷いてあったのはプラ板ではなく工事現場でよく眼にするゴム版の小型のものであった。道路と工事中の場所に若干の溝ができたために歩行者の安全のために置いたのであろう。工事関係者は雪でゴム板が見えなくなる事態は予想していなかったのであろう。工事関係者はいなかった。
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/c1/f903ee78f017682b7cb870dfd8a9b0f7.jpg" border="0">
(自転車は私が乗って行ったクロスバイク)
12/5(日)寒波、曇り、うっすら冠雪 今季転倒第1回目
1:15起床、新聞電子化、読書など。9:00徒歩で家に向かう。10:00頃自宅近辺の道路に敷いてあった()1m四方ほどのプラスチックの板に気づかずに足を乗せ滑って転倒。左ひざを痛めた。痛み中心で機能障害はなさそう。除雪機準備、ダリア球根堀など予定全て中止。午前はデータ整理。のど自慢見ながら新聞チェック、電子化。微睡。19:15家内帰宅し夕食。21:00就寝。 歩数計Σ9023歩。
私は馬が好き(7) 馬と人間の関わり(6) 何故馬の顔は長いのか 私にとって羨ましい限り
馬の顔は長い。しかし馬の先祖は初めからこんな長い顔ではなかった。出現当初はウサギの仲間と間違えられるような小さな動物で丸顔であったが、長い長い月日をかけ、食生活も変わり、足が速くなり、体が大きくなり、私たちが現在知っている馬に進化した。
馬の進化は蹄の変化で語られることが多いが、顔の変化は馬の食生活の変化、身を守るための変化に伴うものだけに重要である。
2000万~2500万年前には、木の葉などを食べる葉食性からイネ科の草を主食とする草食性に変わっていった。イネ科の草は固く栄養価が低い。だから大量の餌を摂る必要があった。それに伴い歯が変化し、歯冠が高くなり歯そのものも大きくなり、大きくなった歯を収めるために上顎下顎骨が上下に伸び、広くなり、とても丈夫になった。結果的に顔が長くなった、とされる。
さらに、なんら攻撃の武器を持たないために敵と遭遇したらひたすら逃げることしか能がなかった。そのために視覚と聴覚が発達し、目の位置が正面から進化の過程で顔の側面に移動し耳介が発達した。
目が顔の側方に移動したことによって視界はほぼ360度の広さでになり、屹立する耳介によって微弱な音を聞き分けることができる様になった。
さらに、馬は進化の過程ですべての足の指がまとまって1本となり蹄となった。これで長い肢を持ち、速く走ることが可能になった。足低でクッションの働きをする蹄叉もそなえさらに機能がました。
この「1本指への進化」は馬の進化の過程の中で、早く走って身を守る上で最も画期的なものだったと考えてもいい。この変化はバレリーナのトウシューズを履いた下肢に例えられよう。
しかし、人間たちはさらに馬の四肢機能を高めるために蹄鉄を発明して装着した。
ところで、私は下顎骨後退症という病気らしい。私の下の歯は子供の頃は綺麗に並んでいたが成長するとともに歯並びがとても悪くなった。下顎骨後退症のためと考えられる。歯の治療2014(1) 私は歯並びが劣悪、下顎後退症のためだろう。
今回馬の歯の勉強をして羨ましいと思った次第。
12/4(土)終日曇り小雨小雪 井川病院日当直 レセプトチェック
1:10起床。文献検索、徒然他何時もと同じ。新聞チェック、データ整理中心。10:30患者死去で出勤する家内に同乗飯川病院、12:00日当直、検食、新聞チェック、15:00-16:00レセプトチェック、読書、微睡。アマゾンアレクサ新規登録、なかなか上手くいかない。18:00検食、20:00就寝。歩数計Σ3010歩。
私は馬が好き(6) 馬と人間の関わり(5) 馬は人と生きる様に出来ていた??(2)
馬と人間の関わりは馬の以下の性格によることが大きい。
■食べ物に融通性があり飼う側が餌を用意しやすいこと。
■縄張り意識が稀薄なこと、人間に対する凶暴性がないこと、
そのほかに
■人間に好まれるソフトな性格であること、飼い主の行動に関心を持つ知能と好奇心()があること
馬が縄張り意識が稀薄なこと、攻撃性凶暴性がないことは結果として、人間と同じ世界で生きられる穏やかな特質を備えることとなった。加えてソフトな性格と比較的高い知能を持ち、周囲にいる人間に対し敵対心を持たないこと、それ以上に人間に関心を抱く高い知能を備えていることが挙げられよう。ただ、馬はその非力のためにとても神経質であることを理解しなければ付き合えない動物である。特に不用意な音をそばで立てるのは危険と言われている。
■飼い主が好むような、甘えや訴えかける表情や仕草を持つこと、
馬は表情豊かな動物である。我が家の馬は馬小屋に遊びに行くと嬉しげな表情をした。とりわけ優しげな目の表情が好きだった。
■人間の要求に対応する知能と適応力を備えていること、
私はサラブレッドなどのエリート馬についてはほとんど知らない。幼少の頃は農耕馬が大抵の農家に飼われていた。
春になれば硬くなった田んぼの土を掘り起こす田起こしに力をふるい、次いで水を張った田圃に入って代かきをした。代かきは土をさらに細かく砕き、何度も何度も往復し、丁寧にかき混ぜて、水漏れを防ぐとともに、田んぼの表面を苗を植えられるよう平らにする重要な作業であった。馬は水を張った田圃をモノともせずに足を踏み入れ代かきを黙々とやっていた。
夏や秋には荷車を曳き、厳寒の冬には馬橇をひいた。この季節を問わない対応力には驚く。
稲作地帯の農家の仕事には馬の存在は欠かせない労働力であった。
■人間に餌をねだる依存性があること、その背景には自分の運命を自覚し、人間と共生するために労働力を提供しながら生きるのだ、という達観めいた自覚があるような気がしてならない。だから馬は素直に飼い主に従った。私は興奮した馬が飼い主には向かったのを見たことはない。
■日暮れどき、一連の働きを終えた馬は部落の馬洗い場に集まり汚れを落とす。その時にブラシをかけてやると本当に嬉しそうな表情をする。飼い主に曳かれトボトボと家路に向かう馬の満足げな表情も忘れられない。私の家は診療所で農家ではなかった。しかし、小学生頃時折近所の農家の手伝いに行ったがその時いつも馬がいた。またその時の経験が今の園芸、畑作業に生きている。
馬に関する思い出、幼少の時に限られるが、とてもいい思い出でとして記憶に残っている。
12/3(金)曇り小雨など 大曲外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。文献検索、読書、医学文献読み。自炊数冊。5:00家庭ゴミ+落ち葉の袋収集所に。7:35Taxi駅、8:11こまち。9:00大曲中通病院外来。駅病院間は往徒歩。復と秋田はタクシー、15:30飯川病院ボランティア。患者対応なし、微睡、読書。19:30帰宅。21:00就寝。歩数計Σ9604歩。一昨年、秋田は積雪数cm、大曲は30cmほどの雪、隣の横手は1m近かったという。昨年、今年はまだ積雪はない。
私は馬が好き(5) 馬と人間の関わり(4) 馬は人と生きる様に出来ていた??
自然界の動物同士が互いに助け合って生きる関係について考えれば、人間と家畜、ペットなどとしての関係がある。しかしながら、特殊な例外を除くと、家畜、ペットとして身近にいる動物はイヌ、ネコ、馬、牛、豚、羊、ロバ、ラクダくらいだろう。
人間側では、餌を与え、安全の確保をするなどで色々努力したであろうがほとんどうまくいかなかった様である。動物側に、他の動物にはなつかずに、単独の種で、厳しく生きる術が遺伝子レベルで備わっているのだろう。
例外的に人間に適応する動物には共通する何かがあるはずである。
10月17日の再掲であるが、ざっと上げれば以下の様な特質であろう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――-
■人間に餌をねだる様な依存性があること、
■食べ物に融通性があり飼う側が餌を用意しやすいこと、
■人間に対する凶暴性がないこと、
■縄張り意識が稀薄なこと、
■人間に好まれるソフトな性格であること、
■飼い主に関心を持つ好奇心()があること、
■人間の要求に対応する知能と適応力を備えていること、
■飼い主にが好むような、甘えや訴えかける表情や仕草を持つこと、
■・・・・。
―――――――――――――――――――――――――――――――――-
現在ペットとしての代表はイヌ、ネコであろうが、上手く飼い慣らされた個体は全て上記の性格を兼ね備えている。
しかしながら、馬ほど人間の世界に深く溶け込み、人間の在り方、文化にまで広く寄与した動物はいない。
太古には人間の栄養源と寄与した。やがて車を引き、人を乗せ、武器や戦車となり、人間の生活に深く入りこんだ。馬が存在しなかったら人間の文明は大きく遅れをとったと思われる。馬の労働力は化石燃料の発達で今では殆ど期待されなくなったが、今ではスポーツ競技種目の中で、とりわけ競馬は多くのファンを熱中させている。
何故、馬と人間との関係がこれほど密接になったのか?
上記の特質に沿って考えてみる。
■食べ物に融通性があり飼う側が餌を用意しやすいこと。
馬は自然界において他の動物たちとの競合を避けるために、餌が豊かな森林地帯からより低い草原地帯にに移動して歴史を重ねてきた。草原の草はイネ科の植物が主であるが、これは木の葉に比べると栄養価は乏しく、繊維は硬く、消化しにくい。そこで、硬い繊維を効率よく消化するには、必然的により頑丈な顎、より機能的な歯へと進化した。
結果として、馬は人間と同じ稲科の植物で生きることができ、人間はなんら困難なく馬に餌を与えることができ、同じ世界で生きられる共通の特質を持った。
■縄張り意識が稀薄なこと、人間に対する凶暴性がないこと、
馬は他の動物たちとの生存競争を避け、より平地に移動して発達した。馬にはなんら攻撃的武器となる術を持たなかった。馬の自己防衛は、ほぼ360度をカバーする視野をもつ目と、優れた聴力で敵の存在を素早く察知して優れた脚力でひたすら逃げることであった。したがって凶暴性は乏しかった。また、集団で暮らすことで身を守ったから縄張り意識も乏しくなった。
結果として、人間と同じ世界で生きられる穏やかな特質を備えることとなった。
12/2(木)終日天候荒れ雨風 飯川病院勤務 インフルエンザワクチン接種
1:20起床、新聞電子化。医学文献読み。午前は防寒対策。最近は寒い、バス待ち時の寒さに備え、衣服関連の冬支度。上は作業服からいつものスキーウエアに。薄手のサマーセーターから毛糸のトックリセーターに、手袋用意、靴はウオーキングから防寒靴に。ズボンは薄手の作業服のまま。11;50バス、飯川病院。読書、文献読み、微睡。14:00勤務、インフルエンザワクチン接種。文献読書。19:30帰宅。夕食、20:20就眠。歩数計Σ6613歩。
師走2021(2)師走雑感 心身が求めるままに過ごしたい
そんな中、いま集中しているのは読書である。これは体力を使うことはないが、運動不足になるのが辛い。高齢者の運動不足は重大な結果を生みうる。内臓疾患でコケるのはやむを得ないが、四肢機能低下で自活できなくなれば人様に迷惑をかける。 私には濃密でない時間がもっとあってもいい。これからは時間を大切にすることは勿論であるが、静かで豊かな時間の中に身を置くことが多分最高の贅沢になるだろう。
特に私は、自分中心主義であるから心の中に絶えず「歪み」、「毒」、「葛藤」が形成される。私は生きるためにウソを重ねて社会に適合、他人に迎合してきた。心の中に常に社会に対して、他人に対しての「毒の感情」を発生させてきた。
最近、心理学関連の書籍文献を読む機会が増えてきた。自分の「毒」感情について考えるためである。
人には五欲があると言う。このうち、流石に「財・色・名誉」に関しては萎えてしまった。代わりに読書欲が頭をもたげてきた。今問題になっている日大理事長(74)は巨額のリベート受領で逮捕されたが、「財・色?・名誉 」にこだわる姿勢は実にお若い。感心する。
私も大なり小なり五欲に追い立てられてきた。
私はネクラで無気力人間で、生きる意欲も乏しかった。厳しい弱肉強食の世界に投げ込まれたら生きてはいけなかった。たまたま恵まれた世界で生きれたからなんとかしがみつけた。この弱さもコンプレックスの一つになっている。
チャチなレベルであるが人間の五欲から逃れられずミニ悪行を重ねてきた。 私は年齢を重ねて自らの業の深さに思い至り、自らの過去を反省し、現役引退を機会に「終わった人」と、自身を否定しながら生きている。内容を具体的に明かすことはないだろうが、これ以上罪を重ねない様に社会、他人との間に距離を置いている。自称引きこもりである。 もう私には大きな目標はない。
唯一、家内には一生付き合ってもらった。私と一緒になって失ったものは小さくなかろう。感謝を込めて、良き人生を纏うしてもらいたい、と思っている。そのために、「寛容」・「忍耐」・「奉仕」に徹して支えている。 ボランティアとして彼女の仕事を手伝っているが、評価は低い。「外来には出したくない、患者が減るから」、「病棟は任せられない、患者が死ぬから・・・」と手厳しい。花壇の世話は略合格か? 運転技能も否定され続け、ついに免許を返上した。
もちろん、私にもプライドが若干残っている。私は彼女が言うほどひどい、役立たずの人間ではない。それが私を支えているが、口には出さない。
長年連れ添った間といえ、まだ駆け引きは続く。
年の暮れになるといつも同じ思いをくり返しているが、中身はちょっとだけ良くなっているようだ。
12/1(水)終日降雨風つよし 飯川病院ボランティア Fit冬タイヤ購入
1:10起床。医療文献PDF化、書類整理淡々と処理。文献・新聞読み。8:30降雨風のためにバスは辛く家内に同乗飯川病院。午前は自主的ボランティア、微睡、新聞チェック。14;00から勤務、主に座学、微睡。Fit冬タイヤ購入、タイヤ関係は済。19:20帰宅、夕食、20:50就眠。歩数計Σ4488歩。一昨年防寒靴に。
師走2021 (1)師走雑感 心身共にゆったりと過ごしたいものだ
ついに師走となった。早いものだ。2021年を迎えてからはや11ケ月経過した。
師走の雑感は毎年似た様なものとなる。
この月は法師が忙しく東西に走り回るから師走と言った。年の暮れの慌ただしさを絡めて、12月の異称として親しまれている。
歳とともに時間が過ぎるのが早い。自分自身の心身のテンポが遅くなって物理的時間に追いつかないため。例えて言えば新幹線から鈍行に乗り換えた様なもの。時間だけかかって余力を失うからである。
すべての動作が遅くなっている。とりわけ歩く速度が遅くなっている。
そのために忙しく感じるのだが「忙」は「心を亡くすこと」、昔の人はよくぞふさわしい文字を創ったものだ。それから見たら現代人などなんでも横文字化である。最近、視力障害を「アイフレール」と呼ぶそうだが、視力障害なら自然とわかるが、これではなんだかわからない。なんでも横文字化する安易な医師もバカだが、すぐ乗ってくる無批判なメディアもバカである。
ここ数年、業務から解放され、かなり自分を取り戻している。そうなると新しく見えてくる分野が広くなる。意外と自分を「勤勉でない」のだな、と思い直した。
私は師走の慌ただしさがあまり好きでない。師走になると世の中が喧騒になってくる。
通勤路にはイルミネーション、商店街がクリスマスセール、お歳暮セールと、目や耳にうるさい。半ば親切、半ば脅迫である。
私は中元や歳暮など、意味の無い物品のやり取りは嫌いである。嬉しさよりも負担感で心に傷つくからである。私は頂き物があれば必ずハガキで礼状を出すがそれも面倒である。 ただ、経済的活力の維持は社会にとって生物の「いのち」に劣らず重要であることがこのCOVID-19禍で示された。だから、私は御託を言わずに静かに見守ることにしている。
私も後期高齢者に入った。体調はそう悪くはないが加齢に由来する小さな不具合はある。だから、今年はできるだけ心身に相談し、無理せずに、休息を適宜とりながら生活するよう心がけてきた。
今後は・・・、ホントはちょっと残念なのだが、「心身」の求めに沿って生きて行こうと思う。
年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。 日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。 |