徒然日記
2017年6月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


6/30(金)快晴 大曲外来 飯川病院ボランティア
1:00起床、文献検索、新聞チェック,本読み他.5:00可燃ごみ処理、キウリ収穫、撒水等。7:30Taxi駅へ。8:10こまち、9:10-12:00大曲外来。駅往路徒歩、暑くて疲弊した。14:00飯川病院ボランティア、微睡。BR diskながら視聴:「知恵泉:沢村栄治」、「コズミックフロント:木星の謎」、「昭和は輝いていた:昭和の歌関西編」。19:00Taxi帰宅。夕食、20:30就眠。歩数計Σ15599歩。

国民性、国民感情(5) 驚く中国の世論(3) 中国ネット事情
 ネットはだれもが自由に情報をやりとりできる場である。
 少なくとも我が国ではほぼ自由である。自由すぎて私など逆に不安である。もちろん利用する人の倫理的・道義的規制があるのは当然である。わが国ではどんな規制があるかすらも具体的には私は知らない。

 ネット上で個人を標的にした誹榜中傷の書き込みが氾濫している。
 私は幸いその様な対象になったことはない。しかし、小・中・高校生を中心にネットいじめがあり、結果として不幸な転機を迎えている例は少なくない。そんな現実があるのに、これに対する対策は無きに等しいのではないだろうか。

 私は、投稿者を特定するための通信履歴を保存する形式や期問を法律で定め、少なくとも数年間は保存を義務付けるべきだ、と思う。
 私たちは日本国憲法で「表現の自由」を手にした。しかしながら、ネット空間では本来の目的と違った形の「表現の自由」が氾濫している。

 匿名性はネットの特徴であり、その利点は否定しない。とはいえ、書き込みをした人物の責任が最終的に追及され得るという制限があってこそ、ネット上でも本当に意義ある情報交換が展開される、と思う。その上で、機器購入の際、プロバイダーとの契約の際にユーザーに周知すべきだと思う。
 規制は最小限でなくてはならない。私はここまでは規制とは思っていない。

 今月、中国では「インターネット安全法」が施行された。実質的に言論の自由を否定する内容で、従来の厳しいネット管理・統制をさらに強化する内容である。
 習国家主席は、2015年の国際会議で「ネット空間は無法地帯ではない。良好な秩序を築かなければならない」、と述べたが主席の「良好な秩序」は我が国の考え方と意味が違う。ネットにおいても国家の安全・秩序維持を最優先させる考え方だ。

 今回の法律は利用者の実名登録を徹底させ、ネットを通じた「政権転覆」や「国の分裂」の扇動を禁じている。ここまで制限せざるを得ないということは、「政権転覆」や「国の分裂」を強く恐れている、ということの表れだ、と思う。

 世界で重きをなし、積極的な外交に打って出る大国がこんな状況にあるというのは恐ろしい現実である。
 一部の知識人の考え方は発信した情報から知ることができたが、中国の市民達はこんな現実をなんと考えているのだろうか。自由を求める発想はないのだろうか。


6/29(木)快晴. 外来 飯川病院 
 1:00起床、文献チェックほか、資料整理。本読み。畠収穫散水。遅れとったのでバス、菊谷小路まで、7:25徒歩飯川病院。8:45-12:30中通病院外来+ドック判定総括12名分。14:00-18:50飯川病院。入院患者処置、散水。BR disk視聴:「池上:ニュースそうだったのか」視聴。19:20帰宅、夕食、20:30就寝。歩数Σ11747歩。

?国民性、国民感情(4) 驚く中国の世論(2) 中国知識人は抑圧されている
 中国は私の常識的考え方が通用しない不思議な国である。
 中国の知識人はなんと考えているのだろうか?私は常に疑問に思っていた。幾ら何でも文化大革命の頃よりは発言が可能になってきていると思ってきた。

 最近のニュースで、中国の改革派の論客として民主化などを訴え続けてきた北京大学法学部の賀教授(56)が5月下旬、断筆を宣言した。統制を強める習近平指導部の下、これ以上言論活動は無理、と判断した、と言う。

 賀教授は長年、言論の自由や司法の独立を訴えてきた改革派知識人で、体制批判も恐れないことで知られ、人権派や民主活動家の間で大きな影響力を持っている。

 賀教授が自説の発信を諦めるほど言論の自由度はかつてないほど制限されている、と言うことだろう。 最近は改革派を「売国奴などと攻撃する動きもあり、発言を控える知識人が増えている、という。

 言論の自由よりも国家の安全を重視する国家主席は2015年の国際会議で「ネット空間は無法地帯ではない。良好な秩序を築かなければならない」と述べた。
 その後、政府はネット上の規制や取り締まりを強化してきた。新聞やテレピなど既存メディアヘの統制が行き渡った。
 言論上の取り締まりは過剰なまでに強化され、中国の言論界は萎縮している。

 中国政府は6月から「インターネツト安全法」を施行。ネツト上で国家の安全に危害を及ぼしたり、政権転覆を扇動したりする行為の禁止を明記。ネット管理者に利用者の実名登録や当局への情報提供を義務づけた。さらに、ソーシャルメディアでのニュース発信を許可制にした。実際には政府に批判的な言論を一掃するためとみられている。
 
 日本の共謀罪もこれに類している面がある。
     
 賀教授は断筆宣言にあたり、知人らに以下のメッセージを送った。
 『知識人の声を封じても、空は必ず明るくなる。じっと明るくなるのを待とう。少し休むのも悪くない。沈黙も一つの抵抗だ。昔はグーグル、ウィキペディアも読めた。今は鎖国時代だ。今の言論状況は文革以降40年間で最悪だ。
 ネット上の発言を止めても、出来ることはある。専門領域を研究し、その成果を新たな世代に伝えていくこと。政治や国家権力に対し、独立した人格を保つこと。国家の政策、法律、政治家、対象は何であろうが自分の基準で判断し率直に批判すること。政府や党の人間に「権力があれば何でもできる」と思わせないことだ。』

 私は文革後、少しずつでも民主化に向けての動きが進んでいると思っていたが、私が思っている様な民主化や言論の自由は、中国人にとっては異端なものらしい。 
 世界中に散らばっている中国の労働者や知識人はそこで触れる文化から前向きな影響を受けないものなのだろうか?

 理解不能な国である。  


6/28(水)快晴 午前フリー  養老孟司・畑正憲講演会
 0:30起床、文献チェック,本読みほか、新聞データ化。昨日より日経新聞追加購読。午前中早くから外仕事。懸案の灌木類処理開始。11:00暑さのために中断、13:00自転車キャスルホテルへ、養老孟司・畑正憲講演会。14:30帰宅、タネから育てたナスタチウム、枝豆本植え。散水ほか。BR disk視聴なし。19:15夕食、20:30就寝。歩数Σ17229歩。

終活あれこれ(2) 庭の灌木類、「いちい」の撤去作業に着手
 現在住んでいる小屋は昭和54年に現地に新築した。
 敷地に余裕があったので、八重櫻、かえでなどの苗木を植え、クリと柿も植えた。後者は数年後から結実し、秋の味覚を満喫してきた。

 しかし、40年も経ち、柿の木を含む我が家の木々が大きくなり過ぎ、枝が隣家の方まで伸びた。私がいなくなる前に樹木のケア及びその後の方向を指示しておかなければならないが、庭木なんかのことは次の世代や家内はほとんど興味がないらしい。
 だから、まず、できる範囲までは私がやっておく必要がある様だ。

 私の終活の一項目として、昨秋プロの庭師にお願いして八重桜を始め5本以上の樹木を根元からバッサリ切断し、残した木々も大幅に枝を落とした。私は木々が鬱蒼とした環境が好きなのであるが、もはや私の趣味を主張できない。おかげで空が広くなった。これもなかなかいいものだ。

 庭の木々と言えば背の高い樹木だけでない。地を這うような、「いちい」、「ひば」などの灌木類も繁茂している。立木と違ってこれらの灌木類は根が複雑に地表を這い、枝も複雑に絡み合うためにメインテナンスが難しい。しかも、木々の間から笹竹も生えて見栄えも悪くなる。

 庭木に関する終活の第2弾として、今年のGW後はこれらの灌木類を私の手で整理し撤去している。まだ作業は一部だけであるが、灌木類がなくなると立木がすっきり見えてくる。

 これらの灌木類、「いちい」、「ひば」などは義父が我が家のために友人のところから運んで来たもので、手を加えれば加えるほど見応えが増した。平成10年頃までは、義父も元気で我が家の庭のメインテナンスを担ってくれたが平成12年に死去した。その後は、私が担当したが、時間的にも技術力も及ばず、十分対応できなかった。

<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/5e/72b10898a3edb681a5c420e35e3bcc0c.jpg" border="0">
(手入れ不十分な状態の「いちい」。クリと柿の幹の周囲に密集し、足も踏み入れられない。本日の段階で1/3ほど撤去された)

 これらの灌木類は我が家のネコどもの格好の隠れ屋となった。プチたち3兄弟は約一年、他のネコどもは我が家に収容される迄の2ケ月間この「いちい」の下から這いずり出て来た。

 今回はこれらの灌木類のメインテナンスは次世代の家族たちには不可能、と考え、もったいないが撤去することとした。いま「いちい」を処理しているが、実に難しい作業となっている。電動ノコギリで地表の枝を取り除いた後、地中を張っている根を掘り起こし切断する。スコップ、ツルハシで根を掘り起こす。
 
 一つ一つの作業を進める度に、実直で勤勉で、酒好きであった義父を想い、その苦労を偲んでいる。


6/27(火) 雲ひとつない快晴午後曇り 外来 飯川病院
 0:30 起床。新聞、音声データ整理.書類処理、7:30徒歩飯川病院着。 8:45-13:00中通病院外来。混雑ではないが対応困難患者で疲弊。14:00-19:00飯川病院、患者対応、微睡。BR diskながら視聴:「池上:海外との比較」視聴。19:15帰宅、夕食、20;30就眠。歩数計12914歩。

終活あれこれ(1) 終活の対象は驚くほど広い
 生まれた以上、死は遊けられない。
 死をどう迎えるかといったことについて、私はすでに家族たちに意思表示してある。しかしながら、準備に具体的に手を下すのはまだ元気な自分である。

 終活は、家の主役が老年期を迎えたらやるべき前向きな準備作業であり、終活が不十分だと家族が途方にくれる。だから、終活は家族と一緒になって進めておくことが大事である。

 終活の必要性は日本の家族関係の変化などの影響でその必要性が高まっている。すなわち、人間関係・家族関係の変化、高齢者単独世帯の増加、住宅が狭小化、平均余命の延長、世代間の価値観の乖離、物品が軽薄短小で寿命も短くすぐ当世風でなくなる、ことなどが関係している。

 私の代までは、祖父母も父母も終活なんて考えなかったと思う。次の世代に私が控えていて大抵のことは知っていたから、伝言など不要で、安心して旅立っていったと思う。

 ここ数年、私は「もしもではない、近々来るべき時が来る」と前置きし、積極的に準備を進めてきた。まず、とりあえずは物品の整理廃棄からでかなり進めたがまだまだ不十分である。

 私が元気なうちに解決しておかなければならないことをざっと挙げて見た。

 まだ整理過程であるが、以下の項目が挙げられた。

■住宅メインテナンス ■庭木・灌木などなどの整理 ■隣家との境界の線引き ■クレジットカード ■インターネット・メール関連プロバイダー ■各種団体の会員証など ■学会認定医・専門医 ■預金通帳の整理とまとめ ■経過した生命保険の整理とまとめ ■写真 ■蔵書 ■レコード、ミニディスク、CDなど ■延命治療について ■在宅医療の希望について ■死亡時の連絡先など ■葬儀について ■今後の墓の処遇 ■遺影 ■相続 ■各人一人暮らしになった際の生活準備 ■私が一人暮らしになった際の生きるための素養・生活準備 ■私の実母の遺品 ■パソコン関係の整理・廃棄など ■電子データ等の整理、??木工用資材など。
 まだまだありそうである。これだけあると簡単には世を去れない。

 かつては家族内で価値観や情報は次世代の代表者、すなわち跡取り息子との間でかなり共有されていた。
 今はどうか? 

 我が家の場合もまだ不完全である。重要な家の雑務はみんな私任せにして、各人が独立して好き勝手なことをやっている。だから、私が急にいなくなったら、その日から困ること必定である。

 基本的にはかなりのことはデータ化してパソコン内データとしてすでに作ってある。今のうちから見ようとすれば見れないことはないが、誰もあまり関心を持っていない様だ。それなりに独立できているからだろうが、そう甘くはないんじゃないか?

 ところで、今のうちに、何か言いたいことはないか?あれば準備しておくよ。


6/26(月)雨のち晴れ快晴 健康クリニック 飯川病院
 1:00起床、新聞・文献チェック。読書中心。雨にて家内の車に便乗8:25徒歩病院着。9:00-11;00健康クリニックドック。11:30飯川病院へ。微睡、13:00-14;00院内点検のため停電。14:00勤務。BR diskながら視聴:「池上・未来世紀ジパング:英国EU離脱」、「池上が教えたいこと:迫りつつある日本の危機」視聴。19:30夕食、20:30就眠。歩数計7867歩。

国民性、国民感情(3)  和の心
 日本人の心は、端的に言えば、「和と助け合いの心」、「寛容の心」、「おかげさまの心」である。日本人の心は、島国であること、諸国からの侵略を受けてこなかったこと、古くからの自然宗教観を背景に形成されてきた、と思う。

 実際、世界的に見れば、欧米諸国がリードしてきた資本主義、競争社会は自由主義経済を発展させたが、一方で格差社会を招来し、支配する側とされる側という2極化を生み出し、世界の人々の心は一層荒廃してきているようにも思える。ただ、今よりいつの頃の人間の心が良かったのか、明快に応えることはできない。なんとなく、のレベルである。

 国家レベルでも、例として上げやすいのは、トランプに見られる自国の国益や利権だけを考えた「米国ファースト」の考え方がある。確かに、当初は経済が再回転して一見して豊かになったように見えるが、資本主義経済は立場の異なる国家間の取引でGive & Takeがないと、時間とともに立ち行かなくなり、次第に経済に陰りが見え、再度失業者が増えていく。
  「自分だけ」といった弱肉強食の物質尊重のやり方では世界各地でいつまでたっても紛争が絶えない。 「共に生きる」といった発想がないとやっていけなくなる。

 相互扶助が重んじられた日本型経営は残念ながら非効率的とされて衰退した。代わりにグローバルスタンダード、能力主義、合理主義が台頭してきたが、これだけでやっていくと、いずれ立ち行かなくなる。
 そして、より競争力を高めるため、過重労働やリストラ、低コスト化のための仕入れ先や下請け企業への圧迫、企業買収、工場の海外移転などに至っていく。電通の女子職員の過労死問題、ヤマトの加重労働・賃金未払い問題などはその例である。

 このように、現在どちらかと言うともてはやされている平均的考え方の、自由競争、能力主義、合理主義、国際化、グローバルスタンダードなどの考え方でさえ、実際はその通りにやっていくと、他の人々を、周囲の誰かを、他の企業を踏み台にしない限り、いずれ立ち行かなくなるものと思われる。

 そして私なりの答えが、日本古来の和と助け合いの心で「中庸を持って是となす」の考え方に至る。もちろん、そうなると国際的競争力は陰ってくる可能性はある。これからの我が国の行き方は、過剰と思われる部分から不足の部分にシフトさせていかなければならない。何しろ、分配できるパイは限られているのだから。

 「日本人の心」を青てるためには「足るを知って」、自分のことだけを考えず、他の人々に対する感謝の心を忘れないことだろう。
 などなど、夢の一つを語って見た。


6/25(日)快晴、午後から小雨 
 1:00起床、いつもの腹痛、軽度。新聞、文献など。蓄積データ大幅に整理。枝豆本植え。草刈り。キウリ枝固定、初収穫一本。微睡。NHKのど自慢直接見れず、14:00隣の栗の木日照の妨げで枝落とし若干。バラの枝まとめる。草刈り再度、小雨で中止。データ整理中心に。NHKのど自慢録画半分見る。19:30夕食、20:30就眠。歩数計10491歩。 

安倍首相と杉原千畝 
 リトアニアの日本領事館でユダヤ人向けに、ビザを独断で発行し、彼らの命を救った元外交官杉原千畝氏(1900〜86年)の行為は人道的には賞賛に値する。当時、このような行動は自の命、家族の命も危険に晒す状況であった。

 しかし、外交官としての仕事ぶりとして考えれば、私は評価は困難と思っている。結果は素晴らしかったが。

 先日、杉原千畝に関するドキュメンタリー番組を見た。
 その中で、安倍首相は、2015年イスラエルを訪問した際、ホロコースト博物館をおとづれ、面会を求めてきたホロコーストを生き抜いた数名と面会した。
 翌日、記者会見で「かつて、杉原千畝という日本の外交官が、自らの心に従い、6000人ものユダヤ人の皆さんに、日本に渡るビザを出しました。長い旅を経てたどり着いた、日本の港町・敦賀では、町を挙げて、皆さんを歓迎したそうであります。
 時代や世の中は変わっても、人々の中にある寛容の心だけは、決して変わらない。私はそう信じています。こうした日本人がいたことを、日本人として誇りに思う」、と述べた。

 ドイツ軍が追撃してくる西方にユダヤ難民が退路を探すのは不可能だった。最後の逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか残されていなかった。難民たちが、日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。

 当時の松岡洋右外相の本省からは、発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。にもかかわらず、杉原はビザを発行、出国させた。世界が今、それを評価している。?

 しかし、外務省訓令を無視してビザを発給した杉原氏の行為は人道的には賞賛に値するが、外交官としての判断としてはどうなのか?
 私は答えを出せないでいた。

 上記の安倍首相の発言を見て、過去のこととはいえ、外務省の方針に反した行動をとった杉原氏を「時代や世の中は変わっても、人々の中にある寛容の心だけは、決して変わらない。私はそう信じています。こうした日本人がいたことを、日本人として誇りに思う・・・」と言っていいものか、国を統括すべき立場の総理としてどうなのか、ますます疑問に思った。

 せめて「杉原氏の行為は公務員としては責められるべきだが、時代、現場の状況からはやむを得なかっただろう。結果として6000人ものユダヤ人の命を救うことになったことは人道的立場から評価に値する」、と白黒のけじめをつけて欲しかった。

 総理が任命権を持つ閣僚が、総理の意向に反して人道的前向きの決断と行動をとったとき、総理は果たして評価するのだろうか? 今までのところそんな心配は皆無で逆向きの失言閣僚しかないが、総理の意向を確認したいものである。

 杉原氏は、戦後の1947年、外務省を辞めさせられている。外交官としての名誉回復は、実に44年後の1991年であった。
 私は杉原氏の人道的な行為を評価するのには吝かではないが、名誉を回復させたことにも、同様に疑問を感じている。


6/24(土)快晴日差し強烈暑い 
 2:00起床、新聞、文献など。午前蓄積データ大幅に整理。新聞処理、本文読み三昧、枝豆散水。午後微睡、13:00枝切り作業。だだちゃ豆カップに植える。家内講演会Alve往復、19:30夕食、21:30就眠。BR disk視聴なし。歩数計12170歩、外作業のため。急に暑くなった。

企業の社会的責任とは(3)  謝罪会見
 企業の不祥事といえば例の記者会見による謝罪劇である。

 謝罪は直接被害を受けた当事者や関係者に面会して誠心誠意謝罪するのが正しいやり方であるはずだ。ところが最近は企業の業務が拡大し被害者が広域、広範囲に及ぶことが多い。重大な事象を除くと被害個々人に対しては文書でなされることが多い。

 謝罪は特にTV時代を迎えて大きく様変わりした。謝罪は記者会見という形で行われることが多くなった。
 謝罪の場には通常被害者は同席しない。謝罪そのものが形骸化してしまった。
 
 当事者による自体の説明が一旦終わると、関係者は一斉に立ち上がって出席者に向かって頭をさげるが、その瞬間にプレス関係者は一斉にシャッターを切る。まるでメディアはこの瞬間のために謝罪会見に集まって来ているようだ。
 翌日の新聞、その他のプレスは例外なく頭をさげる一瞬がでかでかと掲載される。これは、晒し首以外の何物でもない。
 当事者の誠心誠意の説明、こちらの方が価値があるはずなのに、その説明過程、内容が報じられることは少ない。

 TVによる謝罪劇はニュースで頻回に流されるが、私にとっては謝罪される立場になったことはない。単なる謝罪風景とみなしていればいいが、この謝罪風景を見ているとなんとも居心地の悪さを感じてしまう。

 謝罪会見の説明対象はメディアの背景にいる被害者たちのはずであるが、その姿勢は見えない。メディアに対しての謝罪にしか見えない。私はメディアの悪意、増長を感じ取り、「みせしめ・晒し者」の姿勢を感じてしまう。メディアによる公開処刑といいかえてもいい。メディアは一般大衆の嗜虐嗜好を味方につけて巨大な権力者と変容する。
 謝罪の意義がよく分からなくなっている。一体、謝られるべき方々は誰なのか?

 企業の経営者たちが直接責任を問われることは稀である。そのためか、謝罪する側にも真剣味を感じられない。謝罪記者会見マニュアルに沿った儀式にしか見え見えない。

 謝罪記者会見の報道の中で私の記憶から離れないのは、「私らが悪いのです、社員には責任がありません。どうか社員を応援してやってください・・・」と涙ながらに述べた1997年の山一証券社長の姿勢であった。私はお金を失った被害者の方々の立場には到底なり得ないが、この会見から受けた企業人の姿勢の一端は忘れることができない。


6/23(金)曇り晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
0:30起床、文献・新聞チェック。何時ものごとく、4:30可燃ゴミ出し。7:30Taxi飯川経由駅に、8:10こまち。9:15-12:15大曲外来,13:40-16:00飯川病院散水ほかボランティア。16:00迎えあり帰宅、新聞、文献など電子化。ネコ対応。19:00夕食、21:30就眠。BR diskながら視聴:「i池上:ニュース解説」。歩数計13569歩、久々歩いた。

企業の社会的責任とは(2)
 企業の社会的責任とは最近よく言われる。
 乗客106人と運転士が死亡した2005年のJR宝塚線脱線事故は住民と利用者に多大なの不利益を与えた。企業の社会的責任の欠如による事故の典型と思われる。しかし、歴代3社長の経営責任、監督責任に対しては罪が問われなかった。被害を受けた関係者だけでなく、社会的にも疑問を感じさせる結果であった。

 日本の刑法においては、明らかな故意による事件以外では、経営者を含め。個人の責任は問えないことになっている。
 
 企業の社会的責任とは明快な範囲などは規定されていない、ようである。
 利益を優先させるだけではなく、社会に対する責任や貢献に配慮し、社会での役割を果たさなくてはいけないという経営側、社会側からの要請を意味する。
 社会的責任の範疇は広く、法令順守は当然のこと、従業員の就労衛生環境、環境の重視、社会貢献など多岐に及ぶ。
 消費者・顧客に対しては無欠陥で安全な商品の提供やアフター・サービスの徹底、従業員に対しては雇用の保障や人間性の尊重、出資者に対しては安定配当や倒産回避、取引企業に対しては安定取引や契約遵守、地域社会に対しては環境保全、法令の遵守や納税義務の遂行などである。
 社会的責任の具体的内容は、時代とともに内容が拡大してきている。その理由は、企業活動の多様化と影響範囲の拡大、消費者・顧客の権利意識の拡大である。

 企業にとっても求められるものは多いが、社会的責任を果たすことは、ブランド価値が向上するなど、さまざまなメリットがあると考えられている。
 この数年間、「立派な会社」の信用失墜が大きな社会問題となった。

 最近では電通の過労死問題が話題になった。また原発事故では経営陣の判断に関して強制起訴されている。しかし、企業の経営トップの責任を問うことは難しい。

 もちろん企業の厳しさ、競争社会の厳しさは理解できる。しかし、培ったブランド力の喪失は、時には命取りになる。

 企業の社会的責任とは何か??
 困難な命題であるが、具体的な事故による影響以上に問題なのは、事件や事故な関連して次々に明らかになる隠蔽体質である。

 私は企業の隠蔽体質にこそ深い問題がある、と感じる。
 一見、問題のないように見えた優良企業といえ、何かの問題が露見すると次から次に不都合なことが出てくる。組織の基本は隠蔽による秘密保持ではないのか?とさえ思ってしまう。隠蔽のの内容の中には、もし対策が講じられていればここまで問題が大きくならなかっただろうと思われる重大な内容も含まれる。


6/22(木)雨曇りのち快晴 外来 飯川病院 
1:00起床。録音他各種データ整理。小雨のため7:10バス飯川病院着。8:40-13:00外来+人間ドック総括14名分。13:15飯川病院、午睡。14:00-18:45飯川病院。BR diskながら視聴:「そこまで言って委員会」、「世界は今」、「池上:天気予報、トランプロシア疑獄」。19:30帰宅。夕食、20:30就寝。歩数計8678歩。

内館牧子著 「終わった人」 講談社(2015年9月) 単行本 378ページ(2)
 小説として、ちょっと予想のつかない展開が待っていた。ドラマ仕立ての展開、脚本家である著者の得意分野。

 カルチャースクールの受付の30代の秋田出身の女性スタッフと少しずつ親密な仲に発展する。この際、主人公の盛岡弁と秋田弁が交錯しながら進む。この方言のやりとりが岩手生まれ、秋田在住の私にとっては懐かしい。

 小さな会社の社長になり、倒産して自己資産から9千万円も返済したのもスリリングな内容。後半は主人公の出身地の盛岡での交友関係が中心に語られる。漢字、ひらがな、カタカナで表現される方言は読んでいて歯がゆいが、それでも十分に懐かしい。

 主人公が退職した後、夫婦の価値観が大きく乖離していく。経済的よりどころを失った後修復困難となるが、夫婦は離婚ではなく「卒婚」と言う形で盛岡と東京で別れて暮らすことになる。長命化した日本人の新しい夫婦のあり方の一つだと思う。

 最後どうやって終わるんだろう、と思いながら読み進めたが、最終ページは盛岡駅前の開運橋の上から夫婦で岩手山をしんみりと眺めるシーンで締めくくる。ここから岩手山を望む風景は私もベスト2と思っている。ベストワンは、私が育った家の井戸端からの眺めである。

 会社の中で、社会の中では十分能力を発揮したエリートでも、定年後は地位や役職と無関係で、行き着く先は大差ない。定年退職したらただの人。社会的にはその通り、と私も思う。若い頃に秀才であろうとなかろうと、美人であろうとなかろうと、一流企業に勤務しようとしまいと人間の着地点って大差ない。
 替えの人材はいくらでもいる。むしろ上司がいなくなるのを待っている。その替えにすぐ慣れるのが大企業の一般的姿。非情だし無常でもある。こんな生き馬の目を抜くような環境の中で人はなぜ頑張るのか?

 食い扶持を得る方法として納得できれば良いのではないか、「社会的に終わった人」の一人になった今、私はそう思っている。

 私は還暦の頃、病院のスケジュール通りにワンパターンの医療行為を続けることに限界を感じて退職を真剣に考えていたが、病院の事情で時期を失してしまった。私は、それまでは医師として、組織人としてやるべきことはやってきた、との自覚があった。しかし、結局は、医師免許を利用して比較的安楽な環境の中で3人の子を育てたに過ぎない、それ以外に、何をやってきたのか、大した社会貢献はしていないな、との自覚であった。そのため、医療から完全には抜けれないだろうが、はやく引退して「終わっていない人」として好きなことやりたい、と思っていた。

 昨今、一般的に定年を迎える60-65歳はまだまだ高齢とは言えない。しかし、組織はもう高齢者を必要としていない。残りの20年余、肩書きのないままで歩んで行くしかない。社会的に「終わった人」であっても、それぞれが「終わってない人」としての自分の人生を歩んでいく。
 社会的に「終わって」からの人生の方が、自分の人生そのものとしての価値が大きい、と私は思う。
 
 私は「社会的に終わった人」と自らを評価してからの方がいい人生だなあ、と心から思っている。

 1週間ほど前のニュースであるが、本作品は、監督中田秀夫氏、主演館ひろし氏、黒木瞳氏で映画化が決定し、東映から配給されることに決定した、と言う。盛岡の風景、言葉等がどう表現されるか、楽しみである。


6/21(水)曇り午後より降雨・風 東北梅雨入り フリー   
 1:00起床。データ整理、本読み。6:00軽朝食。7:00洗濯掃除など。枝豆地植え追加。クール便発送、コミセンに書類届ける、レガシー税金サンクスから納付。降雨で外作業負荷。午後は本読み、データ整理、自室でBR disk視聴:「NHKso定期公演:マーラー巨人」、「100分名著:中原中也」観る。19:30夕食、21:00就眠。歩数計7978歩。

内館牧子著 「終わった人」 講談社(2015年9月) 単行本 378ページ(1)
 本書は釧路新聞、岩手日報、四国新聞等8誌に掲載された小説。

 仕事一筋だった男の定年後の姿を描いた小説。
 シニア世代にはさしせまった問題であるが、いずれは現役世代にとっても時間とともに避けられない状況に陥る定めにある。だから、全サラリーマンに普遍的なテーマを取り上げた作品。
 そういう意味で著者の注目点はとても優れていた、と思う。

 「私の社会的使命は終わった」と勝手に自覚し、現役引退を機に外来診療以外から手を引き、引きこもり状態に入った私にとっては興味深い書名であった。
 だから岩手日報誌に掲載されていた時から時折読んでいたが、まとめて読んで見たくなり購入した。

 
 あらすじは以下のごとく。
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 主人公は、大手銀行から子会社に出向させられ、次いで転籍となり、62歳で定年を迎えた。仕事一筋だった彼は「まだ俺は成仏していない。働きたい」と職探しをするが、東大法科卒の肩書きのほかに何もない定年後の男に職などあるわけもない。
 だが、ベンチャー企業の若手経営者と出会い、顧問となった。経営にも手腕を発揮するが、間も無くその経営者は死亡する。結果的に社長に就任することになる。
 順調であった会社は関連会社の倒産のあおりを受け倒産、彼は個人的に多額の負債を負い、ほぼ無一文となる。同時に、妻との間は急速に冷え込んだ。
 彼は郷里の友人たちの誘いによって岩手に帰る決心をする。妻との間は離婚ではなく、卒婚という形で維持する・・・・
――――――――――――――――――――――――――
 今後読み始める方もいるだろうから、これ以上は記述できない。
 
 著者は女性でありながら、定年退職を迎えた男たちの心理を見通したかのように、その心理を次々と白日のもとに晒す。そこは読んでいて痛快ですらある。
 その基本姿勢は帰属組織が欲しいという、会社人間の心理である。

 主人公は会社人生に燃焼不足の悔いが残っており、「終わった人」になっていない。そこに葛藤が生じる。
 「終わった人」という判断は基本的に他人が決めること。それを受け入れできない自分がいる。

 主人公は、退職直後は絵に描いたような定年退職者のコースを歩もうとする。
 歩数計をつけて公園を散歩するが、虚しく楽しめない。
 図書館やカルチャースクールは「ジジババが集まる場所」と思っているからプライドが許さない。スポーツジムもリタイアした人間ばかりの集まりだった。
 ハローワークでの屈辱など、おきまりの失望をひととおり経験。

 私はここまでの記述で定年退職者の心理描写は十分完成し、優れた内容だ、と思ったが、これは小説でありその後に種々の展開が用意されている。


6/20(火)快晴 外来 飯川病院  
0:30起床,いつもと同じ、4:30可燃ゴミ、裁断枝葉初出し、ネコ対応、7:10バス飯川病院着。早朝離院希望の当直医補助。8:45-12:30外来。飯川病院へ、微睡。14:00-18:45飯川病院勤務。入院患者対応。19:00帰宅、夕食、20:15就寝、なぜかダウン、疲労かダイエットか。BR diskながら視聴:「知恵泉:日本野球」。歩数計7,300歩。

TV、新聞、雑誌などの医療情報(2) 医療情報を見る場合の注意点

 iPS細胞が発表されたのが2006年、2014年9月に神戸市にある先端医療センター病院で、世界で初めて眼の難病「加齢黄斑変性」の患者の網膜に移植された。安全性に問題はないというので間も無く2人目の手術が行われる見通しになっている。

 先進的医療の進歩はこんなものである。しかも費用も一人当たり5000万円以上かかるという。

 脊髄損傷、パーキンソン病、心不全、再生不良性貧血などに関しては、メディアでも時折話題になるが、iPS細胞を使った再生医療の安全性が動物実験で検証されている段階である。

 メディアのニュースからはこんな地道な研究の事情は伝わってこない。

 メディアの医療情報に、医学的・科学的な根拠のない誤った内容も少なくない。特にネット上の医療情報は利用する際に注意が必要である。
 私は時にTVの情報番組と言われるものを見ることがある。多くの番組の構成は、例えばNHKの「ためしてガッテン」などは基本的にパロディのレベルである。健康番組で満足できるものはない。

 病気の治療や薬の情報を提供するのは医師にとっても、とても怖い仕事だ。
 病に苦しむ患者や家族はその同気に開する記事を藁にもすがるような切実な思いで読むだろう。そう考えると、信頼性の高い医療情報であっても、どうすれば正しく、そして分かりやすく伝わるのか?と、しばしば筆が止まる。
 私は個別の患者に対する医療情報の提供は、面談の上で、受け取る側の心情、理解度も考慮しなければ、正しく提供することは不可能と思う。

 医療情報を見る場合の注意点をあげれば、
■「健康保険外の自由診療は高額だが最新でいい治療」は誤解。自由診療による治療は、効果が科学的に確立されていない、と考えるべき。
■成功例、成功体験談を集中して掲載している情報は信憑性を疑う。数字のトリックに注意。不成功例がどれだけあるのかの方が大事。
■臨床試験に基づく根拠を示している情報なら少しは評価できる。
■ネット情報の「うのみ」はダメ。
■情報の出どころと監修責任者を確認しよう。医師、医学博士の肩書きだから良いというわけではない。
■最も有効性や安全性が高く、推奨されるのは「標準治療」。
■医師会の窓口などに相談しよう。

 厚労省が2014年に全国の5000人を対象にした調査では、ネツトの健康情報に「いつもまたは時々接している」との回答が75%で、ネットの健康情報を「信用している」という人も56%いた。情報社会、時代の反映だろう。


6/19(月)午前曇り 健康クリック 飯川病院 
1:15起床、いつもの如し。データ整理、一部廃棄。5:00畑に散水。7:25徒歩飯川病院着。9:00-11:00健康クリニックドック14名。11:30飯川病院へ、微睡、14:00から業務、BR disk視聴:「昭和偉人伝:浜口庫之助」、「昭和偉人伝:杉原千畝」、「英雄たちの選択:藤堂高虎」。19:00帰宅、夕食。20:30就寝。8937Km。

TV、新聞、雑誌などの医療情報(1) 全て一般論で個々の患者には当てはまらない

 私は高齢者中心の外来をやっている。思うのは最近の患者はあまり主治医を信じていないのではないか? 情報を集め過ぎて不安に陥っている?とむしろ心配している。
 
 患者の情報源は大部分はTVの医療番組である。次いで新聞が多い。週刊誌は実際買って読ことは少ないようであるが、新聞下段に刺激的に見出しが並んでいる週刊誌の広告から情報を得ているようである。

 加えて、意外と影響が大きいのは友人や家族達からの無責任な提言である。知人の提言でMRI検査を受けたいと言い出したり、不要な検査を希望してくる患者は少なくない。

 何年も診ている主治医の判断はそっちのけである。それでも主治医に相談してくれるならまだいいが、密かに他の病院を受診して検査を受け、密かに治療を受けていることもある。そのことを主治医に報告もしない。主治医は患者の個別性を理解しているし、その判断には責任を負っている。

 一般の方が得ることができる医療情報は、その時点での一般論であり、個別の患者にはあまり当てはまらない。一般論だから必ず自分にも関係がありそうな部分がある。さらに、視聴率を上げるために随所随所を誇張して、見る者の気持ちを引く。新聞も同じである。
 
 医療情報を上手に利用するにはかなりの知識がいる。中途半端に見ると不安が高まるだけである。

 情報に接するのはいい。集めるのもいい。しかし、すぐには飛びつかず、先ず主治医に相談してみるのが原則である。具体的に新聞のコピーなどを持って相談するのがいい。気軽に相談できないような主治医なら、かからない方がいい。

 先進的ニュースという形で報じられる医療情報は、全然実用になどなっていない。だからニュースである。
 例えば、再生医療の可能性が頻繁に報じられるiPS細胞は2006年に誕生した。iPS細胞の臨床応用の可能性はとてつもなく大きいが、臨床応用されたのはまだ一人でしかない、一般的に用いられるには今後10年以上も要する、と私は思っている。

 iPS細胞を用いた治療を例にとると、iPS細胞を用いた再生医療がまもなく実用化も近い、といった誤った期待を与える番組や記事が多い。視聴者の関心を惹くためである。心臓病の他、パーキンソン病や脊髄損傷について、iPS細胞を用いた再生医療の臨床研究が申請される見込みはあるが、まだ緒に就いたばかりで応用化はまだ遠い。

 これらのニュースは患者らにいたずらに夢を与えている。


6/18(日)快晴 外仕事中心に 
1:10起床、随想読み、徒然など。7:30家内ゾンタ山形に。選択など。10:00トマトの支柱追加、散水など。庭のすみの枝葉裁断。のど自慢、微睡、14:00草刈り、枝葉処理再度。16:00文献データ化、整理、インデックス作り。19:00夕食。20:30就寝、歩数計9304歩。

JR宝塚線脱線事故判決を見て 企業の社会的責任とは
 乗客106人と運転士が死亡した2005年のJR宝塚線脱線事故で、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたJR西日本の歴代3社長の無罪が確定した。
 遺族らが割り切れない思いを抱くのも当然である。

 日本の刑法では、過失責任は個人にしか問えない。
 日本の刑法は、違法・有責な行為を犯した人間個人を罰するものであり、会社などの法人を罰することはできない。したがって、今回の刑事訴訟は企業の経営幹部個人に刑事責任を問うことは最初から不可能だった、と思われる。この件では神戸地検は3社長を2度、容疑不十分で不起訴にしたが、検察審査会の議決を経て2010年、指定弁護士が強制起訴していた。

 最高裁によると、事件・事故の強制起訴は2009年の制度開始以降9件あるが、半数が無罪となっている。強制起訴での訴追は一般に見て困難なようである。

 一方、民事訴訟では、組織そのものの不法行為に基づく損害賠償請求をすることができる。会社の従業員が就業中に第三者に対して不法行為を犯した場合、その従業員自身のほか、その従業員を雇用する会社も責任を負う。また、その不法行為が会社自体の組織的な要因によって引き起こされた場合には、会社自体が行為の主体として不法行為責任を負うことになる。

 事故現場は事故の9年前に急カーブに変更されたが、JR西日本が安全装置を付けなかったことが争点となった。最高裁はJR西日本の管内に同種のカーブが2000以上あり、歴代社長の3人が「現場が特に事故の危険性が高いと認識できたとは認められない」として、個人の過失責任を否定した。
 刑事訴訟では初めから限界がある訴訟であったが、各々のカーブには安全運転の許容速度があるはずで、これを超過しないよう万全の対策を施すのは企業として当然のことと思う。企業として過失だったのではないか?

 JR西日本の組織のあり方が原因となって引き起こされたと言えるこの事故について、個人の責任は問えないまでも、英国のように組織自体の刑事責任を問うことのできる制度を導入すべきではないか、という意見がある。私もそう思う。

 企業活動による事故や隠蔽は後を絶たない。だが、捜査や原因調査でも、事故が起きた要因や責任の所在がはっきりしないまま終わることが繰り返されてきた。これでは、社会の安全向上は維持できないし、被害者は納得できるはずもない。

 我が国では、事故を起こした本人に対する処罰感情が強いとされるが、個々人まで責任を追及できるかは必ずしも定かではない。
 しかし、乗客の命を守れなかった企業責任を免じるものではない。

 最近の企業は能率第一主義、利益至上主義に転化した。企業理念、企業の社会的責任感が食い破られた。古いが、近江商人の是訓、「買い手よし」、「売り手よし」、「世間よし」は今も通用する企業の理念である。

 企業の社会的責任とは何か??
 それを一層明確にするために、日本の刑法はこのままで良いとは思えない。


6/17(土)快晴 飯川病院日直 
0:30起床、文献・新聞チェック。データ、本読み。午前は花畑など若干対応。12:00斎場前バス。12:30-17:00飯川病院午後日直、データ整理、入院患者2名対応。BR diskながら視聴:「サイエンスゼロ3本:バーチャルゲーム、8KTV、惑星の巨大衝突」、「ぶらぶら美術館:応仁の乱の頃」、「昭和は輝いていた:昭和歌謡史」。19:30帰宅、夕食、21:30就寝。歩数計10450歩。

家庭菜園・園芸2017(2) ボタン バラ ダリア
 鉢植えのボタン、地植えのバラの管理は家内が主役で、私は従たる立場であるが、結構うるさく指示が出て大変である。両者とも今年も見事な花をつけた。


(鉢植えのボタン)

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=bff1dd209aa43c295781dffe9c361365&p=1&disp=50#
(バラ 名称不明)

 ダリアはきっかけは家内であったが、栽培の主役は私である。
 一昨年に初挑戦した。今季は3季目。

 初年度は、球根は雄和にある国際ダリア園にから10株入手した。このうち8株が成長して開花した。意外と、見事に咲いた。
 霜が降りる前に球根を掘り出した。球根は植えた時の何倍にも増えているだろうと期待したが、予想に反して小さく、弱々しく株分けできるほどのものは一つもなかった。
 これも自己流であったが数日乾燥させ、新聞紙で包み、凍結させない様に書斎の隅で越冬させた。

 2年目は、5月初旬に保存してあった球根を確認したが、乾燥しきった状態の球根は掘り起こした時の半分以下ほどに、大部分は鉛筆のごとくになっており、果たしてこんなので芽が出るか危惧された。しかし、自然の力は大きい。昨年はこれら8株のうち5株が成長し、初年度よりも見事な花をつけた。


(昨年の開花)
 秋に掘り出した球根は初年度に比し2倍ほどの大きさ太さとなっていた。前年にと同様乾燥させ、室内で保存した。

 3年目となる今年は、5月初旬に保存してあった球根を確認したが、そのうちの4株ほどは半分に分割しても良さそうであったので、かねてからダリア栽培を希望していた知人に差し上げた。

 本日の段階では9株中7株が発芽した。まだ芽を出していない2株は諦めたわけでなく、散水しながら発芽を待っている。
 開花も楽しいが、そこに至るまでの成長過程も楽しみである。


6/16(金)降雨のち晴れ 大曲外来 飯川病院ボランティア
1:00起床,新聞文献、徒然など。4:30可燃ごみ提出。7:30Taxi飯川で着替えのち駅に、8:10こまち。8:55大曲中通病院外来。駅病院間はTaxi往復。13:30-18:45飯川病院ボランティア、19:00書店経由Taxi帰宅、夕食、21:00就寝。BR diskながら視聴:「そこまで言って委員会:憲法他」、「いま世界は:イラン情勢」。Σ8537歩。

家庭菜園・園芸2017(1) 今年は成長が遅い 冷夏なのか
 2011年から小規模ながら家庭菜園・園芸をやっている。
 勤務があるので水曜午前と週末に天候と相談しながら適宜世話している。
 私の畑は草ぼうぼうである。腰痛のために草むしりはしない。週末には草刈りに追われる。

 今年は5月17日に私の定番になっているトマト、キウリ、ナス、元蔵ネギを植えた。いつもはGW中に植えるのであるが、腰痛のために予定より2週間遅れた。枝豆はカップに栽培、芽の生育状態を見ながら本植えしている。

 苗は1本も枯れることなく順調に生育している。

 トマトは先年に習い、剪定なるものを行い枝ぶりをすっきりさせた。最初は各株ごとに一本の支柱としたが、成長に合わせて支柱間に横棒を渡して強化した。
 昨年は今日が初めてキウリの初収穫であったが今年は成長が遅い。
 
 5月下旬になってから気温は全般に低く、雨が多く日照時間が少ない。
 例年今頃は全国的に暑く、中高生や高齢者の熱中症が話題になるが、今年は寒さが話題になる。秋田でも一旦仕舞い込んだストーブを出して使っているという患者もいたし、終日前には北海道地方は氷点下まで冷えたという。秋田でも湯沢の方では雹が降って作物にダメージを与えた。私も早朝などガスストーブで暖を取ることもある。

 私の野菜の栽培方法は自己流である。自己流といっても小中学生の頃の経験はある。隣の畑を参考に見よう見まねでやっている。
 肥料を混ぜて適当な土つくりができて、太陽と水があって、大きな間違いさえなければ育つはず、自然の力は大きいのだ、と思ってきたが、実際にはなかなかそうは甘くなかった。今年は追肥、虫の駆除にも工夫してみる。

 畠に関して今年感じている疑問は、植え付けが遅れたが、例年に比して成長が明らかに遅い、ことである。


(今年の畑の様子 雑草の繁茂も少ない)

(昨年同時期の畑の様子 雑草の繁茂も旺盛で、トマト、胡瓜の成長も早かった)

 畠を作っている田舎の婆さん方は、実に幸せそうである。思えば、畑を作っている爺さん方は意外と少ない。
 診察の合間に時に栽培のコツなど教わるが、畠の話題が出るとパッと表情が輝く。同じく今年は成長が悪いと言っていた。やはり5月末以降の寒さが原因なのだろう、と納得した。


6/15(木)快晴 外来 飯川病院
1:00起床,文献整理。4:30レガシー荷物室満杯分の資源ごみ廃棄。気分良し。7:20徒歩飯川病院着。8:45-13:00中通病院外来+ドック判定総括12人分。13:15飯川病院、微睡。14;00-18:30勤務。秋銀スタッフ来訪。BR diskながら視聴:「そこまで言って委員会」、「いま世界は」。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。Σ12310歩。

私はなぜ徒然日記を書くか?(3) 書くこと、余談 
 私は小さな時から文章を書くことは好きだった。
 小学校の時に提出する絵日記などは担任は高い評価をしてくれた。いつも花マルがついて戻ってきた。

 しかし、私には作文に関してミニトラウマが2回あった。

 初回は小学校卒業式でのこと、代表で卒業証書を受け取ったが、来賓や父兄が居並ぶ中で、校長から「君は作文はいいが字が下手である。今後勉強して丁寧に書いてほしい・・・」と私へのアドバイスが読み上げられた。国語、特に作文関係ではちょっと天狗になっていたからこの時とても恥ずかしい思いした。

 2回目は盛岡一高生の時。国語の試験問題で、ある文章に対する感想文を書け、という問いが出た時のこと。インスピレーションが次々と湧いて、さらさらと書き上げて自信を持って提出した。かなり良い評価をもらえるものと期待していたが、成績発表の日に真っ赤に添削された私の答案が「悪い見本」として廊下に張り出された。勿論、私の答案であるかは解らないようにしてあったが、筆跡からすぐに知れてしまった。要するに国語教諭の期待する答案でなかったらしい。その時の心境、戸惑いは、50年以上経った今も忘れていない。
 
 その後は医学の道の勉強を真面目にやり文章書きからは疎遠になった。医学論文は多数書いたが、散文を綴るのとは世界が異なり苦痛な作業であった。なんで文章書きの趣味を自分の武器にしてこなかったのか、今考えるとちょっと惜しいことをした、と思う。

 再度、文章を楽しむようになったのは今から30年前である。長い時間捨てていた宝物を再び拾った、という感じであった。
 
 今は嘱託医としての生活だか、気軽な文章を書き続けて感じるのは、書くことでしかたどリ着けない領域があり、書くことが世界を広げてくれる、というである。早朝、一人パソコンに向かい、文献を参照しながら書き進めるうちに新しい情報と過去の経験が溶け合う不思議な感覚があり、考えているだけでは思い至らない領域に近づけたという実感を何度も体験した。

 新しい領域を探し、今日もまた文章を書く。質を上げる努力はしているが、今更間に合わない。結果を求めずに淡々と書き続ける。これが、今の私のささやかな楽しみである。

 世に名文と言われる文章があるが、私はむしろ下手とされる文章はまとまりがなくても大らかな味かあり、巧い方の文は面白みに欠ける、と感じている。
 自分の文章が巧いとは思わないが、どこが下手なのか、どうすればいいのか分からないのが悲しい。

 それでも、今日もまた文章を書く。


6/14(水)快晴 フリー 
2:15起床,文献読み、整理中心、いつもの如く。7:30畑に出る。10:00明日の資源ごみ関係の集約、準備。花壇に撒水。13:00外旭川地区保健福祉推進員としての初業務で高齢者単独生活者宅2軒訪問。枝豆7-8本畑に移植、カップに新たに花植える。昨年キウリ初収穫、今年は冷夏なのか?成長が遅い。BR disk視聴なし。19:30夕食、21:00就寝。Σ10020歩。
 
私はなぜ徒然日記を書くか?(2) 書くことは自分の考えを確認すること 
 私は読書も、文を書くことも好きである。
 私の幼少の頃は読書は人間形成に価値があるから読め読め・・と半ば脅迫的に教えられてきた。

 最近は若者に読書するよう指導することも少なくなったのだろうか?
 最近の大学生に対する調査で、1日の読書時間がゼロ分と答えたのは49%に達したとのニュースがあった。その背景は紙媒体から電子的文字に移っていることで、文字を読まなくなったことではない、と解説されている。電子的文字に移っただけであっても体系的に読んでいるなら問題は少ないと思うが、ネットサーフィンなどで断片的に文章を読んでいるだけではないだろうか。

 私は購入した書籍は裁断し、スキャナーで取り込んでパソコンやiPadで読む。時には電子書籍も購入する。私はこれを読書そのものと思っている。

 時代がそうなっているのか、と思いながらも、「読書はしなくても良い」と教えることに不安を覚える。本は著者の考え・思考の過程から学ぶ行為と思っているからである。優れた本は読者に強く思索を促す。これが読書の魅力である。

 しかし、いきなり思索せよと言ってもなかなかうまくいかない。
 思索をするのにもっとも簡単な、また確実な方法は「読む」ことではなく、むしろ「書く」ことだ、と思う。さらにいえば「読む」と「書く」を繰り返すことだ、と思う。

 「読む」と「書く」は、何かを「分かろう」とする一つの試みの、二つの側面である。「読む」は吸収、「書く」は表現で、互いに表裏一体であるが、決して同格ではない。だから、たくさん読んで、たくさん覚えることは、それだけではほとんど役に立たない。読書の限界はここにあると思われる。孟子の、悉(ことごと)く書を信ずれば則ち書無きに如かず、という言葉もある。書物を読んでも、批判の目を持たずそのすべてを信ずるならば、かえって書物を読まないほうがよい、ということである。

 私どもは溜め込んだ情報がいっぱいある。私はそれを書くことを通じて整理し、かつ、書くことを通じて理解を深める。一定の理解がなければ文章化などできない。
 
 思っていることを書き留めることはメモに過ぎない。書くことによって自分が何を考えて、どれだけ理解しているかを知ること、それが書く目的である。

 などなど、考えながら徒然を続けている。自己満足の世界であるが、1日一つ、その時々に浮かんだ項目をまとめる作業は実に楽しい。


6/13(火)早朝降雨のち快晴 外来 飯川病院 
0:30起床,新聞・文献チェック、他。5:00可燃ゴミ集積所に。6:47小雨バス飯川病院、8:45-12:45中通外来。書類作成ほか多忙。13:00飯川病院、14:00秋銀スタッフ来訪、入院患者対応、データ整理・新聞チェック。BR disk視聴:「ワカコ酒:シーズン3」、「日本人の3割しか知らないこと2本」、「慢勉:伊藤潤二」観る。19:20帰宅、夕食、20:30就寝。Σ6381歩。

私はなぜ徒然日記を書くか?(1) 生きた証?

 私にとって毎日の小文作成は息抜きの時間である。

 私は会話によるコミュニケーションが不得意である。なのに、会話が重要な内科医になってしまった。失敗した。話すよりも文章で表現する方が好きである。
 中高校生の頃はメモ程度の日記帳をつけていたが、内容に固有名詞も多く、血気盛んな時期でもあり、エッチなことを書いたり、友人の何人かを殺してしまいたい、などと生々しい表現を含んでいたので高校卒業の頃に焼却した。いま考えると惜しい事をした。
 次に生活記録を再会したのはほぼ30年前である。20年ほど前からは電子媒体に記録している。検索が出来るので便利である。

 ■「何故記録をつける?」
 目つきが悪いためか、私は過去に警察の職務質問を3回受けた。3回目はアリバイ調査で「10日前の2日間、夕から夜にかけて何処で何をしていた?」と厳しく尋ねられたが十分には答えられず、連行されるかもしれない、との恐怖を味わった。この時から具体的な時間を付けて生活記録を付け、2001年からはHPにアップしている。幸いその後は職質はない。だから、それ以降はほとんど意味の乏しい無駄な行為なのだが、「継続は力なり・・」、ここまでくればもう止められない。
 
 ■「何時書くか?いつ更新するか?」
 現役時代は、毎朝4:30頃に、家に持ち帰ったドック等の残業、医師会業務等を一段落させたのちに、30分ほどで書き上げ、6:00前には出勤した。予稿を数編作って置き、適宜追記して作成した。不十分な推敲しかできなかった。
 退職後は時間の余裕ができた。書きかけの予稿は数10編あるので連日パソコンで加筆し少しずつ仕上げている。そのうちの一つを選び出して加筆する。時間に余裕ができたが、力不足で満足できる文章にならない。

 ■「誰のために書くのか?」
 自分のため、次いで家族へのメッセージとしてである。私が何を考えて生きていたのかの一片を提示してある。何となれば、私は両親がどんな人間だったのか、ほとんど聞かないうちに死なれてしまい、後悔したからである。
 この徒然日記とミニ随想は「愚痴の記録」であり、「学習ノート」であり、「備忘録」でもある。序でにと言ってはなんであるが、私の随想に興味を持ってくださる方に読んでいただきたい、と思っている。

 ■「光陰矢の如し」に抗いたい。
 時間の経過は驚くほど速い。私にとって過ぎ去ったことの多くは記憶として残っていないから、私が存在しなかったのに等しくなる。この記録を呼び出すと、毎日生きていた事がわかる。そんな効能もあるから記録し続けることに意味を感じている。
 私の記憶保持力は驚くほど退化している。私の過去は、私の脳の代わりにハードディスクがしっかりと記憶してくれている。
 私はネットサーフィンなどしないが、10余年分の徒然日記サーフィンは時々して過去を確認している。


6/12(月)小雨のち晴れ 健康クリニック 飯川病院
1:20起床,いつものごとし。データ整理ほか。小雨にてバス、7:10飯川病院着。9:00-11:00健康クリニック、ドック12名+結果説明2名。12:00飯川病院、微睡、14:00-19:00勤務。入院患者対応。帰宅。19:10夕食、20:15就眠。BRながら視聴:「ありえへん世界」、「サイエンスゼロ:クジラ生態調査からガン治療」、「プロファイラー:ベーブルース」、「昭和偉人伝:古賀政男・服部良一」観る。Σ6185歩。

日本海中部地震34年(2) 冬場の被災も考えた備えを
 地震専門家は余地などの具体的実績はないのにどんどんと発言している。これだけ「起こるぞ」と表明していればどこで地震が起きても後指を指されることはない。専門家の地震予知に関しての保身対策は万全である。

 阪神淡路も、東日本大震災、熊本も予知できなかった。
 また、34年前まで、県民の多くが「日本海で大津波は起きない」と信じていた。結果的に取り返しのつかない被害が生じた。

 日本海中部地震の記憶は薄れかけている。
 1983(昭和58)年5月26日午前11時59分57秒、秋田・青森県沖約100Kmを震源に発生した地震でM7.7。秋田市、青森県むつ市、深浦町で震度5。峰浜村(現八峰町)を14m、八竜町(現三種町)を6.6mの津波が襲った。
 犠牲者は本県、青森県、北海道で計104人。県内の死者83人、79人は津波による犠牲者で、合川南小児童13人、能代港で東北電力能代火力発電所建設の作業員35人も含まれる。
 地盤の液状化現象も広範囲で起こり、建物や港湾、道路、鉄道、大潟村の干拓堤防などに大きな被害が出た。
 住宅被害は全壊132棟、半壊2632棟、一部損壊2875棟の計6639棟。床上床下浸水342棟。

 この時間帯、私は秋大の医局にいた。建物自体に被害はなかったが、医局の本立ては全て倒れた。その時の光景は忘れられない。午後、自衛隊機と思われるヘリが飛び交って緊迫感を与えた。後に津波のことを知ったがこれほどの被害が出たことは夕方まで知らなかった。我が家では被害はほとんどかったが、石油タンクを設置してあるコンクリートの土台に亀裂を生じた。
 当時のライフラインがどうなっていたか、記憶にない。

 日本海中部地震の記憶は薄れかけている。いまや県民の4人に1人はあの地震を経験していない。
 いつ起こるかわからない自然災害から命を守るため何ができるのか。予測できないが、準備を怠らないこと。家庭で、地域で、学校・職場で話し合い、できることから行動に侈していきたい。その中で最も重要なのは地域の対応であろう。
 私の周辺でも高齢者単独世帯が増えている。

 秋田の場合、冬場で大きな地震が生じた際の対応については、より、具体的な対策が必要である。
 暖房器具から火災が生じやすい。一度発生すれば雪もあって消火活動は難渋する。ほとんど期待できないのではないか?寒さから被災者をどう守るかなど、その場合にまず大事なのは町内会レベルの対策であるが、冬場を想定した対策が話し合われたことは無いようである。
 個人で考えるのはもちろん重要であるが、地域で、行政が考えなければならないことは多々ある、と思う。

 大地震直後は、行政の手が十分回らない。だからアテにはできない。最低限5日間ほどは自活できる備えをする必要がある。水と食料備蓄についてはなんとかなるだろうが、秋田の場合は防寒対策がそれ以上に重要となる。

 「県民防災の日」の意味をみんなで考え、個人、地域、社会として危機管理を怠らないようにして行かねばならないが、地方紙の社説やコラムだけの行事になりつつあるのではないだろうか、と心配になった。


6/11(日)曇り午後快晴 三曲演奏会 
 1:00起床、通常の作業、読書ほか。午前、掃除洗濯。新聞記事処理、蓄積データバックアップ作成。家内三曲演奏会へ、送迎する。NHKのど自慢楽しむ、微睡ご天候が回復したのでキウリの棚に風対策。まず一安心。一部草刈り。16:30以降は自室でBR disk視聴:「N響定期:F.ルイジ指揮、メンコン、マーラーNo1」楽しむ。20:00夕食。21:00就眠。歩数Σ9598歩。

日本海中部地震34年(1) 専門家の予想はあてにせず身を守る 最近の地震発生情報
 1983(昭和58)年5月26日M7.7の日本海中部地震が発生した。港湾や道路などが無残に破壊され、全国で104人、本県で83人が亡くなった。本県の犠牲者のうち79人が津波によっている。男鹿半島の加茂青砂海岸に遠足に来ていた合川南小の児童13人も命を落とした。秋田市の震度は5であった。

 県は「5月26日」を県民防災の日と定め、毎年大規模な防災訓練を行っている。

 大規模な地震はその後も、国内外で頻繁に起きている。
 私のファイルにある地震を本年4月末までザッと挙げると、以下の如くである。個人的な関心による収集で、収集の基準も一定していない。だから重大な地震が落ちている可能性もある。

????????????????????????
@ 1983年5月日本海中部地震 M7.7
?????????????????????????-
@ 1995年阪神淡路大震災
?????????????????????????-
@ 2003年十勝沖地震
?????????????????????????-
@ 2004年中越地震
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@ 2007年中越沖地震
@ 2007年能登半島沖地震
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@ 2008年6月岩手・宮城内陸地震
@ 2008年10月中国四川地震
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@ 2009年8月静岡 M6.5
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@ 2010年2月チリ大地震 M8.8
@ 2010年3月福島地震 M6.7
@ 2010年4月中国青海省地震 M7.1
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@ 2011年2月ニュージーランド地震 M6.3
@ 2011年3月東日本大震災 M9.0
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@ 2012年12月宮城県沖 M7.3
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@ 2013年4月淡路島 震度6弱
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@ 2014年4月チリ地震 M8.2
@ 2014年11月長野 震度6弱 M6.7
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@ 2015年5月小笠原沖 M8.1
@ 2015年2月岩手県沖 M6.9
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@ 2016年4月熊本県 M7.3
@ 2016年5月16日茨城県南部 M5.5 5弱
@ 2016年6月16日内浦湾負 M5.3  住家一部破損3棟6弱
@ 2016年10月21日鳥取県中部 M6.6 住家全壊18棟住家半壊290棟
@ 2016年11月22日福島県沖 M7.4負 住家一部破損7棟5弱津波144cm
@ 2016年12月28日茨城県北部 M6.3負 住家一部破損5棟
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@ 2017年1月5日福島県沖 M5.3
@ 2017年1月5日福島県沖 M5.8
@ 2017年2月19日千葉県東方沖 M5.4
@ 2017年2月28日福島県沖 M5.7
@ 2017年3月2日日向灘 M5.2
@ 2017年3月12日福島県沖 M5.3
@ 2017年4月30日十勝地方南部 M5.5
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 日本海中部地震の後34年間、幸い秋田県地方を大きく巻き込んだ地震は生じていない。ここで「幸い秋田では・・」と書いたりすれば、「他の地域ならいいのか!!・・」といったクレームが来そうだが、復興相でもない市井の一員のブログにすぎないから問題にはならん。

 だからこそ危ない。今まで地震が予知された事例はない。いつでも発生しうるという発想で準備しておかなくてはならない。


6/10(土)曇り時々降雨 飯川病院午前外来 午後当直医補助
0:30起床。文献新聞チェック、蓄積データ整理、その他。8:14プリ似て飯川病院、9:00-12:30午前外来、13:00帰宅、データ入力など、15:30-19:15家の車で再度飯川病院、当直医一時業務代行、19:40帰宅、夕食、21-00就寝。BRながらdisk視聴:「ぶらぶら美術・博物館:伊勢神宮」、「昭和は輝いていた:淡谷のり子・ディックミネ」。7557歩。

展覧会2017(4):オランダ2大巨匠展(3)「デルフトの眺望」〜フェルメールの風景画
 秋田県立美術館で5月上旬にオランダ2大巨匠展、すなわちレンブラントとフェルメール展が開催された。展示された作品はオリジナルの作品でなく、全て「リ・クリエイト(再創造)作品」と言われる複製品である。

 フェルメールの全37作品、レンブラントの選び抜かれた珠玉の30作品を「リ・クリエイト作品」であるが、一気に見ることができ、至福の時であった。
 「リ・クリエイト品」は写真、コピーによる複製とは全く異なるデジタル技法を通じて、オリジナルを精密に再構成したもの、「再創造品」と呼ばれている。

 再創造作品と言えども、画集を見る程度で実物を見たこともない私にとって区別できない。だから、その価値に大きな差はない。作品のサイズを確認できたことも大きい。
 美術館とは「本物」を見せる場所である、という認識が強いが、受け手側の多くは、オリジナルと複製画の区別などできない。見る側に謙虚な気持ちがあれば十分楽しめる。

 私は3回会場を訪れた。

 フェルメールの作品は「真珠の耳飾りの少女」を中心にして人物画が有名である。2回は人物画を中心に鑑賞した。

 しかし、数少ないがフェルメールには風景画もある。そのうちの一枚が「デルフトの眺望」で、評価も高い。3回目はこの絵を中心に鑑賞した。

 サイズは1.5m x 1mほど。フェルメールにしては大きい。
 描かれた時代は17世紀、1660年頃のデルフトの風景。
 街は雲の下にあり、手前は光が遮られて暗く、奥の建物は太陽を受けて明るい。光の画家と言われる所以の卓越した表現である。

 川面の表現はもっと素晴らしい。水面は風の影響なのか少し乱れており、建物の影に微妙が揺らぎがある。この川面の小波の表現が素晴らしい。
 手前の人物が会話をしている。風景画に街の生活観が加わった。
 
 私は同画のポスターを購入し、居間の壁にかけている。飾る場所としてふさわしくはないが部屋の雰囲気が変わった。

 その後、「デルフトの眺望」について、フェルメールの生涯について、解説書を購入して読んだり、画集で見直したりして楽しんでいる。

 (参考文献として購入:フェルメール デルフトの眺望 アンソニー・ベイリー著 木下哲夫訳 白水社2002年)


6/9(金)快晴 大曲中通病院 飯川病院ボランティア  
0:30起床,文献本読み、新聞チェックほか。5:15可燃ゴミ提出、7:30中通病院経由Taxi駅に。8:10こまち、往路病院・駅間は歩く。9:10-12:10大曲中通病院外来、13:45-19:00飯川病院ボランティア。岩手銀行スタッフ来訪。散水。19:30Taxi帰宅、夕食、21:00就寝。BR diskながら視聴:「ぶらぶら美術博物館:大阪城」観る。歩数計7931歩。

国民性、国民感情(3) 日本人の心(2) 多神教が持つ寛容さ
 日本人の心は、これを是とする立場から端的に言えば、「寛容の心」であり「和と助け合いの心」、「おかげさま」の心である。日本人の心は、島国であること、諸国からの侵略を受けてこなかったことも大きいが、古くからの自然宗教観を背景に形成されてきた、と思う。

 誰の目に見えるわけではないのに「お天道様が見ている」と世の規範に従う。人に対しつい親切にし、「おかげさま」と感謝してしまう。困った人がいるとごく自然につい助けたくなってしまう。そんな国民だ。

 一方、欧米諸国がリードしてきた資本主義、貨幣経済等により、速やかに効率よく物質文明を発展させることができた。しかし、英、仏、独などヨーロッパの大国で相次いでいる残虐なテロ事件の報道を見て、かの地では歴史的に蓄積された憎しみと恨みの連鎖が現在もなお噴出しているのではないかと思う。

 ヨーロッパの心は、「非寛容の憎しみの心」でないか、と思う。
 11世紀末から13世紀にかけて行われた十字軍は、イスラム教を信じるアラブ民の大量虐殺が目的であった。ユダヤ教の成立とほぼ同時期に出現した仏教、ヒンズー教、あるいは紀元7世紀に登場するイスラム教などの発展の過程にも、この種の宗教間の争いが皆無であったとはいえないが、その独善性、排他性の激しさにおいて、キリスト教のそれは言語を絶するものである。

 キリスト教による異教徒弾圧として上げなければならないのは、合計8回にわたって繰り返された十字軍の遠征だろう。この十字軍の遠征は約200年間続き、犠牲者は何百万人にのぼった。
 その犠牲になった多くのアラブ民たちのヨーロッパに対する憎しみがイスラムやアラブの地に残っている。
 相次ぐテロは、そのような地にしみついた憎悪に根ざしたものと思わざるを得ない。一神教による排他性は怖い。妄信的である。

 20世紀のホロコーストもアーリア民族のユダヤ民族に対する「非寛容の憎しみの心」が背景にあると思う。600万人が犠牲になった。

 我が国の宗教観はゆるい。日常的に仏教やキリスト教の行事に参加していながら、自分は無神教である、と答える日本人は少なくない。しかし、日本人の心理には多神教が持つ寛容さが備わっている。そこには宗教観を背景にした闘争は、もし生じたとしても部分的なものである。
 日本人の宗教観は諸外国人の立場から見て理解不能だそうだ。


6/8(木)降雨午後曇り 外来 ドック総括 外旭川社会福祉協議会 雪音捻挫か?
 1:00起床,新聞チェックほかデータ整理。いつものごとく。5:00ネコ給餌、いたずらっ子の雪音捻挫か?左前足引きずる。このまま経過見る。7:00レガシー飯川病院着。8:45-12:45中通病院外来+健康クリニックドック判定半分のみ。13:30-15:15外旭川社会福祉協議会、コミセンにて。駐車に難渋。そのまま帰宅。データ整理、本読み。風呂掃除など。19:00夕食、20:30就寝。 歩数計8190歩。BR disk視聴なし。

国民性、国民感情(2) 日本人の心(1)  寛容の心
 日本人の心について考えるとき、各々人に個性があり、十把一絡げに論じることはできないが、あえて言えば、対話においては相手の意向を尊重して即座には否定せず、過ちも水に流し、許容し、感謝し合い、助け合う心を持つのが日本人だと思う。諸外国の方々から見れば、日本人は八方美人的、優柔不断とも評される。
 
 日本人はとてもいい民族と思えるのは、みんなに共通している、許せる心、悪い事を忘れることが出来る心、他人や他国から受けた不快なことも、いつの間にか水に流してしまうことができる寛容の心がある。裏を返せば、日本人は加害者意識すらも忘れ去る国民、という辛辣な評価もある。

 なんでも裏があれば面もある。光が強ければ生じる影も濃い。私は日本人の心を是という立場で考えているが、逆の意見も少なくない。

 このような「寛容の心」を持つ民族は世界広しと言えど、それほどあるものではない。
 日本人は懐がとっても広い。たとえ、外から悪いものや悪い考えが入ってきても、いつの間にかそれを良いものに変えて行く。
 古いものを否定せずに大切にし、良い部分をどんどん引き出して、いつの間にか良いものに変えてしまう。つまり、悪いものも生かしてしまうような寛容さが、日本人にはある。

 たとえ意に反するものでも、それを力にものを言わせて無理やり変えようとすると、物事はむしろどんどん悪くなってくることが多い。これは恨みと憎しみの連鎖となるからである。つまり、相手を叩くのではなく、自ら考え方を変えてもらわないと決して解決しない。

 いま、日本と周辺国との摩擦は日本人の心情が通らない国を相手にしている、と思う。加えて北朝鮮も、である。
 もちろん、各国々は歴史も、他者から受けた被害も違う。だから、各々考え方、国民性が異なるのは当然である。
 私が是とする日本人の心は、島国であること、諸国からの侵略を受けてこなかったこと、古くからの自然宗教を背景にして形成されてきたのだ、と思う。


6/7(水)午後降雨  飯川病院ボランティア
1:00起床,新聞チェックほかデータ整理。午前フリーで畑仕事。元蔵ネギとダリアのケア。キウリに支柱、今年はネットを利用してみた。午後、レガシー充電かねDIY店、クリーニング、飯川病院へ。忘れ物届ける。ネコ室の網戸3枚を換気機能向上のためにラテス化。本読み、データ整理。19:10夕食、20:30就寝。歩数Σ7681歩。BR disk視聴なし。

国民性、国民感情(1) 驚く中国の世論 正しい(?)発言が通用しない不思議な国
 米メリーランド大の卒業式で中国人女子学生の、米国の「言論の自由」をたたえたスピーチの動画がインターネツト上に投稿され、中国国内で「売国奴」、「帰ってくるな」などの激しい非難を浴びた。
 「彼女の主張は正しい」と擁護する声もあって、議論が広がっている。
 
 以下は某新聞の記事。一部を改変した。
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 留学生は雲南省出身。5月21日の卒業式で「中国では常にマスクが必要だった」と中国の大気汚染に触れ、米国のきれい空気に驚いたと語った。さらに、同級生が首都ワシントンで米大統領選のデモに参加したことを紹介し、「人権や性差別について、また、政治を議論してもよいのだと知った。権力者だけが真実を規定できると思っていた」と発言。新鮮な空気と自由に話すことができる社会の尊さを強調して、「自由こそ酸素、生きるための情熱だ」と締めくくり喝采された。

 だが動画が投稿されると、中国では「祖国の恥さらし」と非難の書き込みが殺到。中国メディアも批判的に報じ、ネツト上では個人情報がさらされる事態に発展、留学生は謝罪に追い込まれた。
 中国外務省の報道局長は24日の記者会見で「発言には責任を持つべき」と指摘。一方で、擁護派の知識人は「批判意見は、空気の悪さを強調して祖国のイメージを悪くした、といったものばかり。自由に発言ができない社会では、まともな議論ができない」と話している。
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 私はこの記事を読み、中国は未だにこんなものか、と驚いた。
 中国では言論の自由がない、とういことは知っていたが、未だにこれほどひどいものなのか。一人の女子学生の発言に対して全く寛容の様子はない。中国外務省の報道局長の発言は国としての姿勢だろうが、中国メディアもこぞって批判的に報じた、というのにも驚いた。
 一方で、知識人の擁護の意見もあったようで、これが救いであった。

 この記事は反日教育とは異なるが、中国では、韓国もそうであるが、反日教育が幼少の教育から行われている。「人は18歳までに非常識の大部分を身につける」と言われる。中国人の日本観はかなり歪んでいると思われるが、これは反日教育の成果である。しかも、この時期に植えられた先入観、考え方などは容易なことでは覆されず一生続くとされている。

 中国人は歴史的に見ても早くから世界各国に進出している。欧米では大学教授などを歴任している方も多数おられる。また、労働者として働いている人たちも多い。そこで経験することは自国の体制とは大きく異なっているはずであるが、その経験がほとんど表現されていないし、自国にフィードバックされている様子もない。これは何故なのか??単に政府の規制が強いだけなのか?私にはそうは思えない。

 今回報じられた女学生の発言の一件を見ても、日中間の問題、類似の傾向が見られる日韓間の問題も、日本の常識が通らない、理屈が通らない特殊な国を相手にしている、と思うべきだろう。加えて北朝鮮も、である。


6/6(火)超快晴 外来 飯川病院
0:30起床,いつもの如く。徒然など。5:00可燃ゴミ提出。7:25徒歩病院着。8:40-12:50外来、13:10飯川病院、14:00-18:45勤務。新聞、文献読み、19:00帰宅・夕食。20:30就寝。歩数計12534歩。BR disk視聴なし。

地方創生2017(3) 秋田の活力に明日はある
 秋田にとって地方創生策とは農業分野なのではないか?と私は思う。
 秋田の経済を語るときに常に企業誘致が話題になるが、実績は上がっていない。秋田は地域的に不利である。しかも、近年の企業誘致は自動化、ロボット化などのために人手をそれほど必要としていない。企業からの税収は増えるだろうが、経済的メリットはそれほど期待できない。

 秋田の農業には長い歴史がある。豊かな耕地がある。これが秋田の持つ最大の強みだと思う。
 これが後継者不足などのために放置されかかっている。水田にしろ畑にしろ、数年放置されると表面は硬くなって元にもどすのに大変な苦労を要する。実にもったいないことである。
 秋田は食糧生産が県の活力の鍵となる。

 食料問題を考えていくと世界が見えてくる
 今はどこの国も一国では生きていけない。自由貿易が必要であり、その中で食料確保が主軸となる。農業は国の宝である。農業を軽視して栄えた国はない。干ばつとかで国力を維持できない国は少なくない。
 日本にとっては食料問題は国を維持するために重要なこと。食糧自給率40%程度で維持したまま世界に通用していくとは考え難い。世界の人口100億に間も無く達しようとしている。世界の食糧事情はますます厳しくなっていく。食料は奪い合いになる。

 農業が自立していくには環境調整が必要。従来のごとく、種と水があればいいのではない。経験だけでは続かない。科学の知見、経済を背景にし、高品質ものを生産し、流通させることの意義は小さくない。

 国の宝として、秋田の宝として、亜熱帯気候、恵まれた土地、降雨量が多く、十分な水系がある。 
 今日本はコメを作らないようにしている。輸入米は安い。しかしそんなものは満足してはしては良くない。美味しい日本米は世界的に見てまだほとんど食べられていない。だから、地道な宣伝を行えば需要は開拓できる。そうなれば、供給力もある。
 
 まもなく世界の人口は100億になる。アジア、アフリカで年間7−8000万人増える。この状態ではアジア、アフリカは食糧難になり、世界の食糧事情が悪化する。我が国の食糧輸入にも当然影響を与える。

 温暖化が差し迫っている。世界的に火山噴火などの災害で気候変動も起こり得る。これらが食糧生産に及ぼす影響は軽視すべきではない。

 農民と土壌を大切にして生産量を上げ、国内で消費しきれずに余ったもの輸出する。現在の価格競争では太刀打ちできないとすれば、国の補助も必要。日本の食料品は品質は高いから世界に通用するはずである。

 世界的食糧事情から見ても、秋田にとって地方創生策とは歴史と実績のある農業分野なのではないか?と私は思う。
 なのに、今回の知事選でも農業振興策がほとんど話題にならなかった。宝が目の前にぶら下がっているのに、と私は残念に思っている。


6/6(月)曇り小雨午後快晴 健康クリニックドック 飯川病院 
2:00飯川病院で起床。健康クリニックドック蓄積データの整理。本読み。7:00検食、。9:00-11:00 健康クリニックドック。書類処理等。12:00飯川病院、微睡、    14:00-18:20勤務。病院花壇に散水他。BR disk視聴:「ガイア:便利はどれだけ必要か」、「ヒストリア:大奥物語」観る。19:00帰宅・外食、20:45帰宅、22:30就眠。Σ6593Km。

地方創生2017(2) 秋田の活力に明日はあるか?
 少子高齢化やグローバル化による環境変化の中で、経済の低迷が目立つ日本の成長力を再び高めるためには、地方の発展が不可欠だ、と言われる。全くその通りだと思う。だが、日本政府が進める地方創生策は、原理原則主義、ビジョン不明確、依然として地方への予算のバラマキの色彩が濃い。

 しかも、横並び意識が強い日本では、地方振興というと、どの地方も、同じ様なショッピングセンターやコンサートホールなどを整備する傾向がある。
 秋田の政策も正にそうだ。活力低下が著しい秋田の知事選でこんなことで争ったなど、馬鹿な話である。金のない秋田の県民を集めて消費を図る計画など、タコが足を自分で食って腹を満たすようなものだ。ジリ貧政策そのもの。金をかけること自体問題である。

 秋田の政策に必要なことは、秋田がお金を稼がなければならない。はっきり言ってこれしかない。

 秋田が金を稼げるようになると、人口減、高齢化、未婚率、少子化、自殺率、ガン死亡率など、県が抱える問題点の大部分が解決する。

 各地域ごとに個性を発揮して、他の地方とは違う、独自の試みで競い合えるように国は後押しすべきだ。そのためには中央官庁が考えて提示してくる地方創生策はその地元にとっては目新しさはあるかもしれないが地域に根ざした継続性を発揮できるとは思えない。
 効果的な地方振興を推進するには、各地域か自助努力で競争して発展する可能性のある事業が必要である。
 日本の各地域は、長い歴史や伝統、豊かな自然や文化などの資産に恵まれている。各地域には個性があり、強みもあれば、弱みもある。そこで、具体的な振興策を立てる前に、市町村など自治体関係者には、地元の武器になる、手持ちの「資産」を見極めてもらいたい。
 その地方の「資産」を吟味すれば、今後消費が伸びそうな農業・水産業や、技の蓄積がある伝統産業、アイデア勝負のサービス産業など、各地方の個性を生かした有望な振興分野が見つかるはすだ。海外の日本食ブームに着眼するのも一つである。

 秋田にとっては農業分野なのではないか?と私は思う。
 食料自給率117%の秋田には長い間培ってきた食糧生産のための土壌がある。技術がある、人材もある、流通システムもある。これらが高齢化を背景に先細り状態にあるが、実にもったいないことである。

 秋田は少子高齢化が進んでしまった。このままの人口構成、社会的減少、自然現象に任せていては100%ジリ貧である。なんとかして中間層を増やすことが必要である。

 私は、秋田県の値域創世策の具体的内容を把握しているわけではない。中間層を増やす方策にはどの程度の予算を割いているのだろうか。
 中間層の拡大は国の役割で、意欲のある人に対し、税制と社会保障を含む改革で保護する必要がある。そのためにも秋田が何を考えているのかがまず問われる。
 
 秋田に富をもたらす経済成長は、秋田の今後に重要である。
 国は地方の創意工夫を引き出し、経済成長を促すことか求められる。その前に秋田県のビジョンが問われる


6/4(日)終日降雨 飯川病院当直  
0:30やや腹痛残る、午前に自然と改善。本読み、文献チェック。午前家内は三楽園バラ園見学。午後はやって見たかったコンサートに、その送迎。サンデイにて元蔵ネギの苗購入、雨中植える。16:00飯川病院、当直に着く。18:00検食、画像データ大量整理、廃棄など、読書。外来レセプト点検処理。20:00就寝。Σ6344歩。BR diskながら視聴:「コズミックフロント:あいボールアース」、「ガイア:便利はどこまで?」、「プロファイラー:阿久悠」。

地方創生2017(1) 市井の商店、飲食店に明日はあるか?

 通勤の帰りなど、所用があっていつもとは異なるルートを経て帰ることもある。

 その時に目にするのはシャッターを下ろした店舗、さらに更地になり駐車場とかに転用された元商店の姿である。だんだん空が広くなる。秋田の駅近くのメイン道路のようには目立たないが、パラパラと営業をやめた店舗が目立つ。入ったことはないが、結構評判の良かったラーメン屋、小料理店、レストランもたたんだ様だ。
 これら商店の一部にはコンビニが進出している。

 あれほど華々しく政策の一つと騒ぎ担当相まで置いた地方創生策は今どこに行ったのか?一億総活躍社会と名を変えたようであるが今はどうなっているのか?秋田の地にいてどうなっているか、皆目見えない。

 そんな中、秋田県の人口は減少し続け、本年4月1日の時点でついに100万人の大台を切った。戦後100万人を切ったのは東北では唯一である。やむを得ないとはいえ深刻な問題である。さりとて人口減を念頭においた訳ではない。

 4月9日秋田知事選挙が行われ佐竹知事が3選を果たした。
 今回の選挙では無投票になるのかと危惧されたが、元知事の寺田氏、共産党の山内氏が急遽立候補した。私は佐竹知事のお人柄が好きだが、新知事候補の若手の候補の登場を待っていた。が、残念であった。これじゃ老々選挙だ。佐竹氏はあらゆる方面でバランス感覚がよく広く支持されているが秋田県をどうしたいのかよくわからない。
 私は秋田県政を担おうとする次の世代の人材が秋田の将来を何と考えているか、知りたい。安定して波風も立たない秋田の政治環境の中で座して死を待とうとしている、のか?

 今回の知事選は低調であった。置き換えて考えると秋田県政の低調さ、秋田県の活力の低迷が見て取れる。

 私は市井の商店、飲食店など今後の継続は困難だろうと見ている。
 市井の商店こそが地域の中でリピーターによって維持されることがポイントなのに、店舗側の家族関係、後継者はいるのか?今後も継続的に維持できるのか?斬新でなくとも顧客のニーズに応えられるのか? などなど、問題点を抱える。

 また、顧客側の環境も変化する。継続的に地域の商店をリピーターとして利用し続けることができるのか・・・などと考えると、市井の商店、飲食店など今後の継続は困難だろうと思う。

 私にも市街活性化のアイデアがあるわけではない。個人のレベルでは、できるだけ地域の商店で買い物すること、それ以外に考えつかない。
 これを前向きに考えるのは政治家の仕事である。


6/3(土)終日降雨寒い 
1:00起床、文献検索整理など何時ものごとし。午前からいつもの腹痛。家内らは三楽園バラ園見学に。文献整理、読書中心。午後、ネコ室ラティス一枚を網戸を張る。夕方微睡、BR disk視聴:なし。19:00夕食、20:00就寝。Σ8798Km。

千秋美術館 「有田焼創業400年記念 明治有田超絶の美」
 上記の展覧会が秋田市立千秋美術館で開催されている。
 私はどう美術館の年間パスポートがあるし、駅と飯川病院の間に美術館があることもあって、毎週金曜日、短時間ながら会場をおとづれて作品を鑑賞している。
 到底実用品とは思えない展示物に対して、何の為にこのような作品が作られたのか?そこまで突き詰めた熱意は何なのか? 理解できないままに展示品を見て回っている。

 当展では明治期の有田の万国博覧会への出品作品、皇族・華族が使用した洋食器、それらの元となった図案類も展示し、明治有田の超絶の美を紹介している。

 有田焼は佐賀県有田町を中心に焼かれる磁器のこと。
 17世紀初頭、朝鮮人陶工によって泉山で陶石が発見され、日本で初めて磁器が焼かれた。17世紀後半になるとその芸術性の高さが評価され東インド会社が有田焼を買い付けるようになった。そういう背景もあって、有田では、ヨーロッパ各国の王侯貴族を魅了する華やかで精緻な製品を数多く制作した。

 明治時代になると、有田焼は西洋からの技術導入によりそれまでの製法や表現に変化が生まれ、当時の職人たちは巨大かつ細密描写を尽くした新たな作品を次々と生み出した。
 有田焼は明治政府により殖産興業製品として位置づけられ、明治政府作成の新図案をもとに革新的な有田焼が創出された。こうした作品は明治6年(1873)のウィーン万国博覧会をはじめ、世界各国で開催された博覧会で高い評価を受けた。

 作品のサイズは一目瞭然、巨大なものが多い。大きい花瓶は高さ1.8mもある。作風はとにかく緻密で、じっくり見れば見るほど奥が深い。底にまで柄を配し、余白がないぐらいびっしり多種多様な文様を描いている。プリントのような細密な文様が入っているが、全て手描きであるという。

 ひとつひとつの作品は、職人たちの実力に加え、時代の解放感といった空気が乗り移り、相乗効果で生み出されたと思われるほどの力作である。
 私は焼き物などにはほとんど興味がない。焼き物といえば今晩の魚料理を思い浮かべる。陶器と時期の区別もつかない。

 多分、二度と見ることがないだろう稀な展示会に足を運びながら、何か得られるものがあるのではないかと思っている。不思議な世界観をもった作品群、決して各要素はバラバラでなく、色彩といい形といい見事に融合・統一を成し遂げていて、すごい技、熱意と感心した。
 個人的には違和感を覚える作品群である。でも、見事である。
(作品は撮影禁止のため、パンフレットを掲載しました。)
 当展示会は6月18日まで開催されている。私は後2回見に行きたいと思っている。


6/2(金)終日降雨 大曲中通病院 飯川病院ボランティア  
1:00起床。文献、新聞など読む。5:00ゴミ出し、7:30Taxi、8:10こまち。往復Taxi。9:00-12:15大曲外来。降雨で駅から飯川病院Taxi、14:00-18:30飯川病院ボランティア。19:30Taxi帰宅、夕食、21:00就眠、Σ6875歩数。BR diskながら視聴:「あらすじ名作:イソップ」、「英雄の選択:島津久光」、「プロファイラー:阿久悠」。

徒歩通勤2017(7) 旭川のコイ、千秋公園のコイ
 昨日、いつも用意してくるハトの餌を忘れた。私の姿を認めると寄ってくるハトたちに無用な期待を抱かせないよう、ハトたちが待ついつものルートと別コースを通って出勤した。
 
 コイへの給餌は2ヶ所でやっている。秋田北高近くの旭川にかかる久保田新橋の下に集まってくるコイ、千秋公園のお堀にいるコイである。ハトの場合は一年を通して餌をついばみにくるが、コイの場合は春はGW過ぎにならないと餌を摂らない。水温が低いために活動が弱まっているからであろう。

 ハトの餌は乾燥米で、余ったご飯を病院からもらってきて冬の間にストーブの上で乾燥させ、自作の石臼で細かくして作る。すでに一年分ほど用意している。

 コイ用の餌はたまにしか手に入らない。本来、コイは雑食性なので私どもが日常残した食品など、例えば枝豆のさや、魚の骨など何でも良いのであるが、余所の方にその場面を見られると台所の残飯を川やお堀に捨てている変な老人がいる、と通報されかねないので控えている。黴びたパンとか古くなったお菓子とかに限定して与えている。だから、そう頻度は高くない。

 今朝は、冷蔵庫の中で黴びていたパンを細く切って用意した。5月も下旬になったのでコイたちも食欲旺盛になってきた。音を立ててバクバクと食う。ケチるな、もっとよこせ・・・の態度が見え見えである。

 朝、7匹のネコに給餌して出勤する。ネコ、ハト、コイ達の旺盛な食欲を見ると一日良い気分になる。


6/1(木)曇り時々雨 退職7年目初日 外来 飯川病院 
 0:40起床。いつもの如く文献、新聞など。7:25歩行飯川病院着。8:45-13:39外来+紹介状、人間ドック判定総括、6名分持ち越し。14:00-17:50飯川病院、バス帰宅、19:10夕食、20:30就眠、15022歩。BR disk視聴:「アナザーストーリー:北朝鮮拉致問題」後半。「アナザーストーリー:田中角栄」。

退職7年目初日
 本日は退職7年目初日となる。

 今も社会医療法人中通総合病院で週4日嘱託医として働いている。
 月曜午前は法人の健康クリニックで外来ドック、火曜木曜は外来、金曜日は午前午後とも大曲中通病院内科外来を担当している。これは昨年と同じ。

 午後は近隣の飯川病院で月-金の午後18:00頃まで過ごす。このうち勤務は月、火、木。実際には病身の院長の補助の為に水、金もボランティアで診療や院長の趣味である花壇の維持などの雑務を手伝っている。帰宅は当直医の来院を待って19:00前後になる。朝は7:30前後から飯川病院で過ごしてから中通総合病院、健康クリニックに出勤している。
 飯川病院の勤務とボランティア業務は院長と適宜分担しているの私がやるべきことは多くはない。私にとっては至宝と言うべき時間で、大切にしたい。飯川病院の院長には感謝している。

 「組織に年寄りは不要」、「社会的使命は終わっている」と自認している私から見れば、まだ求められるものがあるらしく、恵まれ過ぎている、と思う。

 兄の死去をもって岩手の郷里とのつながりも切れた。私の祖父母、父母の墓が残っているだけである。今後どうするか、思案中である。本心は墓など不要、と思う。私の場合は骨になど一文の値もないから、誰の意識にも残らないよう、人知れず廃棄してもらいたい。

 私は宮古に2年間暮らした。だから、毎月の報酬の20%を岩手県の復興資金に送り続けている。それも7年目を迎えた。私の中では東日本大震災は風化していない。

 患者以外と会話を交わすこともなく、引きこもり状態であるが、とても楽しい日々を過ごしている。診療担当日も少なくなった分、適宜、図書館、美術館、博物館などを訪れている。
 まあ、この調子でこの一年と過ごせれば最高、であるが、何かが起こるかな?

 退職7年目初日、だからと言って大きな話題があるわけではない。ほとんど昨年の記述と同じとなった。しかし、このことに価値がある、と思う。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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