徒然日記
2016年4月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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4/30(土)GW2日目 快晴寒い 
 1:00起床。文献整理,新聞チェックなど。午前は資源ゴミ収集と廃棄準備。ネコ対策網戸修理終了・装着。午後若干微睡、文献整理,データ整理など。午前は資源ゴミ収16:00サイクルショップにクロスバイク改造依頼、書店にて会計、丼丸。バスにて帰宅。19:00夕食、20:30就寝。 BR disk視聴なし。歩行計8502Kmのみ。快晴なるも寒い。北海道では降雪吹雪だったという。

ネコ談義2016(6) ネコの冬対策 2枚のホット座布団の
 いま、全部で7匹のネコがいる。そのうちの5匹は5畳ほどの風除室を専用としているが、ここは3面がガラス張りなので気温の影響をもろに受ける。

 @@今年の暑さ対策
 夏には40℃を簡単に超える。今夏はネコどもにとって2回目に迎える夏である。昨年の経験を生かして風除室の網戸7枚を全部ステンレス製の網に張り替えた。これに扇風機を組み合わせれば、かなり快適に過ごせるはずである。まずは一件落着。
 
 @@昨シーズンの寒さ対策
 昨シーズンの冬はネコどもにとって初めての冬であった。秋田の気温はそれほどではないと思うが、風除室は風はほとんどないものの室温が−5℃ほどまで下がる。寒さ対策をどうするか迷った。

 一年先輩であるプチは兄弟3匹だけで野良の状態で最初の冬を乗り切った。兄の1匹は肺感染と思われる状態で死に、もう1匹の兄は春を迎えてから妹を置いて失踪し、プチが一人ぼっちとなった。弱々しい状態で生き残ったところを見かねて我が家に受け入れた。

 プチの厳しかった越冬条件から見れば、いま風除室に住んでいる5匹は雨風を防げるし、餌をもらえるからダントツに条件はいい。しかし酷寒は厳しい。何か対策しなければなるまい。
 さりとて膨大な電気を消費するようでは困るし、危険でもある。ミニミニコタツを作ろうかとも思った。それも危ない。結論は、ネコ棚の2段に40Wほどの家庭用の電気座布団を敷き、不十分な部分は互いに体を寄せ合うなどの工夫するだろうと期待した。

 日中はなんとか凌げるだろう。夕方16時過ぎから、朝は7時半頃まで、明るさに感応する外灯のスイッチに連結して電気座布団も自動的に on-offされるようにした。これによって電気の消費も抑えられた。

 期待通りにネコたちは二手に分かれてネコ棚で身を寄せて厳寒の時期を乗り越えた。
 生じた問題は、ネコどもが電気座布団をいたずらして齧り、ちぎることであった。早めに、電気系統が露出する前に気づいたので金属メッシュでカバーを作った。これ以降は齧りとることはなくなった。

 風除室の5匹は我が家の飼いネコではない。このレベルの対策で我慢してもらおう。


4/29(金)降雨 昭和の日 GW初日 飯川病院日直 レセプト処理  
0:00起床、文献検索、録音データ処理その他。可燃ごみは少なく次週に。雨にて8:28バス、8:40-17:00飯川病院日直。4月分レセプト処理。14:00某クリニック院長来訪歓談
19:00帰宅・夕食、20:30就寝。歩行計8496Km。BR disk視聴「決断・普代村村長:大津波から村を守れ・15m防波堤」、「昭和偉人伝:高倉健」、「プロファイラー:ゴジラ」、「100分で名名著:司馬(2)」。

ネコ談義2016(5) ネコの夏対策 網戸9枚をステンレス製の網に張り替えた
 いま、全部で7匹のネコがいる。そのうちの2匹、ユーとプチは我が家で正式に認めている家ネコであるが、他の5匹は止むを得ず預かっているネコで、身分は半家ネコである。この5匹が超活発で、さすがに天井は走らないが、床も壁もカーテンもテーブルの上もいい遊び場である。風除室の天井近くに渡してある洗濯干し用の径5cmのアルミのポールの上も歩いている。洗濯物は落とされる。

 この技能はすごい!!! 安くてもいいからサーカスで引き取ってくれないかな?
 同居が続くなら、数々のネコ対策が必要である。

 ネコ専用にしている風除室は5畳ほどの広さであるが、3面がガラス張りでなので気温の影響をもろに受ける。夏には40℃を簡単に超える。そのために網戸と複数台の扇風機も用いて温度調節するが、それでも真夏には簡単に40℃以上となる。こんな時にはぐったりノビて頻呼吸で苦しそう。
 熱中症予防のために、時折居間に入れて過ごさせざるをえない。居間にはエアコンなどないから大同小異なのであるが、やや過ごしやすいようである。秋田にはエアコンは不要、と私も耐えている。秋田のネコなら我慢するのが当然。夜は風除室の気温は急速に下がるから移動させる。

 風除室には7枚の網戸がはまっているが、昨年の間にすべて破られた。網戸は登って遊ぶのに格好の場所である。バリバリと上るのだが2匹で上ることもある。するとバリバリ・・・と裂ける。
 裂けるとそこから脱走する。我が家のご近所はネコ嫌いが多く、時に石が飛んでくるから危険である。

 網戸が裂けたところはガラス戸を閉めたままにするからますます風除室が暑くなる。昨夏はその悪循環であった。何度か注意したが効き目はなかった。自業自得よ、と思っているうちに秋になって解決した。

 4月上旬になって快晴の日が増えた。外の気温は結構寒いのであるが風除室はもう35℃を超えた。今夏は網戸の修理を欠くことができない。今回は網と固定用のゴムを買って自分で張り替えしようとしたが、調べたらネコの力程度では破れないステンレス製の網がある、という。探したが、一般のDIYでは売っていないし素人では張り替えはできないようだ。だから専門店にお願いした。

 張り替えてから2週間ほどになる。
 ステンレス網戸は丈夫さという面では通常の網戸とは一線を画す。確かに、ネコが登っても破れない。じっくり見れば、網目が多少ずれているが、破れなどの問題は生じないと思う。
 あとの2枚は玄関の風除室の網戸で、ここはユーに破られた。

 ステンレス網戸のメリットは他にもあった。視認性が良くて外の景色がよく見えるようになった点である。
 ステンレス網戸のデメリットは5500円/枚と高価なことである。痛かった。


4/28(木)快晴 外来 飯川病院 千秋公園の桜散る
 1:00起床。文献チェックその他いつもの如し。2台のiPhoneのソフトアップデートとバックアップ。録音画像データ処理。8:00徒歩千秋公園経由病院。千秋公園の桜散る。8:45-13:30外来+ドックの総括仕上げる。連休前で混雑。疲弊した。14:00-19:00飯川病院。19:30帰宅・夕食、20:30就寝。BR disk視聴「知恵泉:岡本太郎」、「昭和は輝いていた:ちあきなおみ」。Σ8494Km。

映画 「家族はつらいよ」(2) 今まで見た家族関連の映画作品。
 家族の有り様を取り上げた映画作品は、たとえタイトルに家庭とあっても無くとも、科学系のドキュメンタリーを除くと、いや、その中ですら、人間模様として家族のこと、家庭のことが語られている。だから、題名からピックアップすることはそれほど意味がない。

 そんな前提があることを分かった上で、今までに家族の有り様をタイトルとし、主要なテーマにした映画を挙げてみれば以下の4本見ていた。

2012年 「家族X」吉田光希監督 映画館シアタープレイタウン <a href="http://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/d/20120325">映画(37)「家族X」 会話もない、暗い暗い家庭をあつかった作品</a>
2012年 「家族の庭」マイク・リー監督 映画館シアタープレイタウン<a href="http://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/d/20120428">映画『家族の庭』 私と全く異なった世界</a>
2014年 「東京家族」山田洋次監督 DVD 放送録画
2014年 「東京物語」小津安二郎監督 DVD小津安二郎作品集<a href="http://blog.goo.ne.jp/mfukuda514/d/20140324">映画 2014(2):山田洋次監督「東京家族」、小津安二郎監督「東京物語」</a>
2016年 「家族はつらいよ」山田洋次監督 映画館ルミエール

? @@「東京家族」と「東京物語」のリメイク版的作品。
 両者のテーマ、ストーリーはほぼ同じ。夫婦間の問題より世代間の感覚のズレを取り上げて家族とは何かを提起している。

 @@「家族X 」 会話もない暗い暗い家庭。対外的に必死に体面を保とうとする主婦。家庭という言葉に含まれる、暖かみ幻想を微塵に打ち破きながら、逆説的に家族の有り様を提起した。

 @@「家族の庭」 カウンセラーである老夫婦の家庭には古い友人達がよく集まる。内容的には特別面白くもないが、カウンセラーの目から見た友人達の心理描写に見るべきものがあった。

 この4本の作品を見たからと言って私になにが残ったかというと、ほとんどない。監督の立場で家庭の一面を切り取っただけの作品を見たという事実だけ。家庭、家族の問題はこんなことで何かがわかるといった単純な問題でない。
 
 下重暁子氏の「家族という病」という新書がベストセラーとなった。
 「家族」の問題点を「病」という言葉につなげたことで多少目を引いたが、この本自体は単眼的な視点からの偏見に満ちた平面的な内容であった。些少の問題提起にはなっているだろうが、家庭の諸問題の解決策は提示されていない。複雑な因子が絡み合う問題を単純化してしまうと個別性や個々の人間性が奪われる。家庭問題などは相反する別のストーリーもあり、これもまた事実なのだ。
 注目度が高かったためか、「二匹目のドジョウ」を狙って同様の書籍が次々と出版されている。

 家族の問題は、文学で、絵画で、オペラの世界でも古くから語られてきた。今更いうまでもない最も歴史が長い普遍的な内容である。

 この世に男と女がいる限り、恋だの愛だの家庭だの・・という問題は常に付きまとう。しかも人は次から次へとターンオーバーしていくから、同じようなことが延々と繰り返されるだけで、蓄積も発展もほとんどない。社会的、文化的に修飾を受ける程度である。人間が誕生して以来多少の変化はあれど何も発展していない世界と思う。源氏や枕草子を見ても今の男女関係となんら変わりない。

 家族は婚姻や血縁関係から成り立つ伝統的社会形態であり、利害関係はゼロではないが、それを超えた縁で結ばれている。ここに理屈を持ち込んでも解決しない。だからこそ家族間には互いの配慮が必要である。一定のレベルまで人間関係がこじれた場合には、家族は切っても切れない縁で結ばれていることが仇になってむしろ泥沼化する。DVにも、それ以上の惨劇になることもある。

 家庭について、私も何も言うべき考えを持っている訳ではないが、逃げられない関係だからこそ、各人の立場への尊重、配慮が必要である。これが現時点での結論かな、と思う。


4/27(水)快晴 飯川病院ボランティア 千秋美術館
 1:00起床。新聞・文献・録音データ処理,いつものごとく。午前はフリーでネコ室掃除、ネコのキャッチボール練習、給餌。居間の掃除、洗濯など。11:30-13:00千秋美術館「最後の印象派展」。年間パス購入。13:30飯川病院ボランティア。BR disk視聴「そこまで委員会:日本・世界の指導者たちの評価」、「世界のいま」、「経済フロントライン:地震と経済」。7:00帰宅・夕食。Σ8486Km。

映画 「家族はつらいよ」(1) 山田洋次監督 2016年
 水曜日の、フリーの時間を利用して4月20日午後、アルべの「ルミエール」にて上記の映画を見た。私はドラマ性の強い映画などはわざとらしい展開を毛嫌いしていて見ないのであるが、最近、家族のあり方にネガティブな考え方、風潮、書作が氾濫しており、疑問と問題を感じている。それで、本作は比較的前評判がいいようだし、どのように展開し、まとめられているかを参考のために観に行った。

 山田洋次監督による喜劇映画で、結構、笑えた。家族とはなんぞや、結論はもちろん明快には示してなかったが、家族は良いものだ・・であろう。

 結婚50年を迎えた老夫が突如老妻から離婚届を突き付けられる。訪れた高齢離婚の危機、それをめぐって家族会議が持たれるが、その場で各家族達がため込んできた不満が一気に噴き上げる。それでもばらばらにならない絆があるようだ。そんな家族たちの姿を描く。私なら、自分の心情を吐露した時点で、家族であろうと他人であろうと人間関係は消滅させる。
 主演は橋爪功と吉行和子が夫婦役。いい味を出していた。他に、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、妻夫木聡、蒼井優、丸山歩夢、林家正蔵、風吹ジュン他であったが、私にとっては後に挙げた二人以外は初顔である。

 映画を評するほど私には見る目はないが、喜劇としてみれば面白かったし、いい出来映えのように思う。
 山田監督の映画はほとんど見ていない。寅さんシリーズはTV放映版を1-2本途中まで見た程度、ちょっと入り込めなかった。2012年の東京物語物語は見たような気がするがあまり印象には残っていない。

 本作の設定は東京の郊外で暮らす三世代同居の一家。小さな家に二夫婦7人が暮らしている。狭い家に家財道具がびっしり、小物も多い。家の環境が喧騒であり、人口密度が高すぎ、圧迫感を感じる。東京ではこんな環境は稀ではないだろうが、私なら耐え難い。私なら離婚しないとしても、逃げ出したい環境である。

 亭主、長男は男としても仕事上では勤勉なのであろうが、家での姿はケジメがなくてだらしない。着たものも脱ぎっぱなし、食器はだしっぱなし・・で全て人任せ。少なくとも私はこんなタイプの夫ではない。一方、女性たちは良妻賢母型。人間性の問題であり二世代の夫婦共に妻から離婚を言い出されて当然、と私は思う。

 夫婦、家族なんてものは我慢に我慢を続けている、一発触発の、危なげな、不完全なバランスの中で平静を保っているものだと思う。それだけ個々人がバランスを保つために努力しなければならんのではなかろうか。

 問題のない家族関係、家庭環境なんてないじゃないか?夫婦なんて他人どうし、分かり合えるはずはない。親子といえどへその緒が切られてしまえば独立した個々人。問題があって当然と私は思っている。
 家族間の問題は当事者には見えにくい、ましてや外からはもっと見えにくいものだと思う。家族の問題を取り上げると小説でも、ドラマでも、映画でも、無限に出来上がる。


4/26(火)快晴 外来 飯川病院 
 1:00起床。新聞・文献・録音データ処理,いつものごとく。5:00可燃ごみ提出、ネコ給餌、6:30-7:40徒歩飯川病院着、8:45-13:00外来、微睡、14:00-19:00飯川病院。19:00帰宅・夕食、20:30就眠。BR disk視聴「池上:米国トランプの周辺」、「サイエンスゼロ:電気刺激で脳力アップ」、「オイコノミア:組織で輝く経済学、アイドル」。

ネコ談義2016(4) ネコも教えてくれた一酸化炭素中毒の姿
 昭和20-30年代は我が家では熱源として薪が中心であったが、補助的には木炭を多用していた。本家の大将が岩手県森林組合、木炭組合の会長であって、安く入手できたことも理由の一つであったらしい。練炭、豆炭も用いていた。石油ストーブは昭和38年の冬、私の受験勉強のために初めて購入した。 

 木炭に関連して一酸化炭素中毒、あるいはそれに近い状況は頻回に経験した。
 木炭使用中には頻回に換気するのであるが、それでも危険性は高い。

 第一の体験として、ある夜、居間の棚の上で飼っていた小鳥がことり、と音を立てて止まり木から落ちた。見たらすでに死んでいた。祖父は全窓を開けて換気を指示した。この時初めて木炭による一酸化炭素の怖さを知った。
 これに関連して、我が家の井戸は径2m、深さ10mほどで、年に1-2回掃除したが、その際は点火したろうそくを先に降ろして安全を確認した。親から一酸化炭素がたまっていることもあるからと聞かされていたが、一酸化炭素は空気より軽いから他のガスの貯留のことだと思う。こんなこともあって子供頃からガス中毒には敏感であった。
 田沢湖や湯沢では山のくぼみで何名か酸欠のために命を落としている。

 第二は、当時の我が家の風呂は薪で沸かし、その後木炭で湯温をキープしていた。外の風向きによっては煙突から若干煙が浴室内に漏れていた。ある夕方、入浴していた祖母がなかなか戻って来ないので見に行ったところ浴槽の中で意識を消失していた。家族数人で風呂から引っ張り出した。当時の風呂は縦に深い構造しており、かつ意識を失った祖母の体は異常に重く、グニュグニュし、かつ濡れていたので滑って大変であった。体に帯やロープを巻いて風呂から上げた。
 新鮮な空気のもとで横にしていたら10分ほどで徐々に意識を取り戻した。浴槽内に沈んでなくてよかった。
 全介助状態にある患者の入浴介助の大変さを子供の時に経験した。

 第三は、冬季間は母親が毎朝炬燵の炭火に火を入れるのであるが、最初は不完全燃焼状態で、炎が出て危ないから布団もかけないで様子を見たものである。ネコにとっては暖をとる格好の場所でもあった。初代のネコは炬燵の傍で頻回に意識消失した。いつもは本人が、本人とはネコのことであるが、自分でよろよろと千鳥足で炬燵から離ればったり倒れた。いつもは15分ほどで元気になった。ある時は炬燵の傍で完全に意識を失っていた。呼吸も弱くなっていて死ぬかと思ったが、炬燵から離し、ウチワで顔面に風を送りながら名前を呼んで、体を刺激していたら30分ほどで回復した。

 煙は見えるが一酸化炭素は見えない。だから怖い。
 一酸化炭素検知器があれば問題にならないエピソードである。こんな経験があるから機器を購入しておいた。祖母にも、小鳥にも、ネコにも感謝している。


4/25(月)快晴 健康クリニックドッ 飯川病院 
 0:30起床。新聞・文献・録音データ処理,いつものごとく。6:20角館に出かける家人を駅に送り、7:20飯川病院着。9:00-11:00健康クリニックドック、11:20飯川病院、一時微睡、14:00-18:40勤務、19:00車帰宅・夕食、20:20就眠。BR disk視聴、「NHK BS sp:マネーが狂わせた世界」。「NHK BS sp:中国人が日本を好きな理由」、「未来世紀ジパング:アメリカの危険な男たち」、「久米書店:世界経済の回り方 浜矩子」。

ネコ談義2016(3) いたずらネコらに責任なし 一酸化炭素検知器は有用
 今回、一酸化炭素検知器は有用であった。

#1 なぜ一酸化炭素検知器を購入してあったのか?
 消防法改正で2006年6月から新築住宅へ火災報知器の設置が義務化され、既存住宅も11年までの設置が義務づけられた。私は幼少時に火災を経験したこともあって火災の恐ろしさは身に済みている。だから、一応、対応はして来た。常に消火器は2台以上用意しているが、この法改正を機会に2011年に火災報知器を複数台設置した。

 この時に、一酸化炭素検知器MI-CM70も購入した。この機器は一酸化炭素が「50ppm」の状態が約1時間続くと、警報音とランプが点滅、「100ppm」なら30分程度で、「300ppm」だと約3分で作動するとされている。かつて、木炭が熱源であった時代に一酸化炭素中毒の怖さも体験しているので、迷わず購入した。今回のこともあって、設置したこと自体は慧眼であった。まさかネコが絡んでくるとは、思いもよらなかった。

#2 なぜ初回は誤作動と早合点したのか? 「正常性バイアス」に陥った
 23日早朝、ストーブの点火時の匂いがいつもより強烈でおかしいと思った。それでも一酸化炭素検知器警告を無視したのは、心理学的に言われる「正常性バイアス」に陥ったからと思う。その背景には機器の性能を確かめる方法を思いつかず、半信半疑のままの設置だったからである。それが警報を発し、表示ウインドウに「800ppm」と提示されたので、「こんなバカな値は考えられない」、「こんなことがあるはずがない・・」と、まず機器の誤作動と考えてしまった。電池をチェックし、そのままリセットした。
 この朝は蓄積した画像処理のために、2時間ほどでストーブを消して書斎に移った。もし、そのまま途中まどろんだりしたら危険であった。
 それでも、当日は朝から多少の頭痛が続き、全身倦怠感があった。軽度ながら一酸化炭素の影響はあったのだろう。

 思い込みは怖いものである。今考えれば、身近な一酸化炭素発生器である車のマフラーに近づけて機器の作動をチェックしておくべきだった。この排気ガスを用いる方法は設置したとき思いつかなかった。

 24日早朝、二回目の警告があって検知器外に問題があると悟り、煙突が外れていたことに気づいた。遠因にネコたちが絡んでた。
 
#3 今後の対応 
 @このストーブは使い方によっては危険とわかったが、替えない。無音である価値は私には大きい。
 @煙突の走行は不自然に長くしている。今回の連結部ハズレの一因であるが、風の影響で排気の逆流を小さくするために止むを得なかった。だからこのまま。
 @煙突の固定を強化する。かつ、接合部は多少揺らした程度では外れないよう耐熱性のアルミ製のテープで固定する。
 @いたずらネコ達への教育は諦めている。責任も問わない。ただ、煙突の水平部にネコが乗らないよう、イボイボのネコガードをつける。
 @一酸化炭素検知器MI-CM70に感謝し、その判断を尊重する。
 @・・・などなど。

 反省すべき点は多い。いたずらネコ達から私のストーブセッティングの欠陥を教えて貰った、と考えたい。
 
#3 正常性バイアス
 正常性バイアスは、社会心理学、心理学用語である。異常事態が起こっても、それを正常の範囲内としてとらえ、心を平静に保とうとする心の動きのこと。心が過剰に反応し、パニック状態に陥るのを防いだり、疲弊しないための自己防御の心理の一つである。
 正常性バイアスの度が過ぎると、警報装置が鳴っていても、それを異常と認識せず、対応が遅れてしまう。
 今回、私は正常性バイアスに陥り、ちょっと危なかった。謙虚に反省する。


4/24(日)快晴   
0:30起床。新聞・文献・録音データ処理,いつものごとく。午前は自転車整備、除雪機整備、ガソリン抜き取り、オイル補充など。NHKのど自慢楽しむ。微睡、ガレージ掃除、自宅の階段下の不用品廃棄。冬季間室内に置いた鉢植え屋外に。17’:00-19:00飯川病院、当直医の一時離院の留守番。自転車往復、サイクルショップにて自転車改造予約。20:00帰宅。21:00就眠。Σ8467Km。

ネコ談義2016(2) いたずらネコたち 一酸化炭素中毒になりかけた
 昨年春までは黒ネコのユウ一匹だったが、昨春からプチが、昨夏から5匹の野良の親子が同居始めた。だから、全部で七匹のネコがいる。そのうちの4匹は超活発、超いたずら好きである。
 通常は風除室をネコ専用にしているのだが、3面がガラス張りでなので気温の影響をもろに受ける。そのために時折居間に入れて過ごさせる。このネコどもは、さすがに天井は走らないが、床も壁もテーブルの上もいい遊び場である。だから、居間には貴重品や食品はハダカのままでは置けない。見ていていたずらが過ぎた場合は声をかけて止めさせる。それでダメなら水鉄砲を用いる。要するにしつけがうまくいっていない。集団で飼い始めたからだと思う。養育に失敗した。

 ネコと行動生活するためにいろいろ工夫しているが、3月のひな人形については居間に飾るのを諦め、今年はやむなく飯川病院に外来に飾った。

 一方、私は強度の音のイローゼでもある。だからFF式の暖房機器はモーター音が嫌で用いていない。居間の石油ストーブは自然排気式で太めの煙突がある。この煙突は居間から出た後3mほど風除室の中を水平に通り外に排気となる。この水平部分がネコどもの格好の遊び場となっていた。弱燃焼の際には煙突の遠位部分で暖を取っていたようである。別に実害は無いし、なすがままにしていた。

 23日早朝、0:30amに起床したが結構冷えていた。石油ストーブに点火したところいつもより着火時の匂いがきつかった。突然、煙突の側に取り付けてある一酸化炭素検知器がけたたましく鳴り出した。
 実際には煙突のつなぎ目が外れていたのであるが、この時点では一酸化炭素検知器の誤作動だ・・と思った。思い込みは怖いものである。検知器をチェックしたが異常はなく、乾電池を交換してまたセットした。この頃にはストーブの燃焼は安定し順調であったためかリセット後は検知器は作動しなかった。その後まもなくストーブを消して書斎に移って仕事した。一日中、なんとなく軽度の頭痛があり、倦怠感があったが、風邪かな??としか思っていなかった。

 24日早朝、すなわち本日であるが、やはり0:30amに起床した。石油ストーブに点火したところ、昨朝と同様に検知器がけたたましく鳴り出した。同じ条件下で2回続けて作動したということは検知器の問題ではない。煙突を見上げたら何と!!! 5cmほど曲がりの連結部分が離れていた。

 危なかった。このまま燃焼を続けていたら一酸化炭素中毒になっていた。
 
 風除室の水平部分にネコどもが乗って揺すったために外れたものと考えられた。


4/23(土)快晴 
0:30起床。新聞・文献・録音データ処理。自炊若干。午前はネコ世話、ネコ室掃除。ガレージ2Fの整理。不要費廃棄準備、午後は微睡後文献的考察、蓄積データ整理など。19:00夕食、20:30就眠。

昭和27年4月10日自宅消失(8) 火元のお爺さんは自死した
 乙部の火災は約10mほどの強風の元で生じた。
 その強風の中、家族の反対を押し切って強行した籾がら焼きの火が風で飛ばされて藁葺き屋根に燃え移り,我が家を含む11軒が焼失した。我が家でこの火災で約400坪ほどの住宅兼診療所が焼失した。レントゲン装置など医療器具も焼失したからかなりの損害だったと思われる。

 日本では火災とその類焼に関しては「失火法」という法律がある。
 それには「民法709条で損害賠償責任が発生するような状況であっても、失火に際しては損害賠償の対象とならない。ただし、重大な過失が暑場合はこの限りではない」・・・ということになっている。悪意を持ったような、犯罪的な失火を除き、貰い火による類焼は失火元に損害賠償を求められない。だから、個々の住宅の火災に関しては各々火災保険とかで対策を準備しておく必要がある。

 当時幼少であったから、詳細は知りようがなかったが、我が家では小型の消防設備を擁していたほどだから、多分、火災保険とかには加入していたのであろう。同様に火災にあった農家ではどのような対応がなされていたのか知る由も無いが、火災の後片付けが済んだ頃から、徐々に応急的な、簡素な住宅が建ち始めた。

 この火災の失火元である農家のお爺さんは罪を問われなかった。
 火災の翌日、そのお爺さんは家族と共に被害にあった各家庭を訪問し、深々と頭を下げ陳謝した。目には涙を浮かべ、顔はくしゃくしゃで見る影もなく憔悴仕切っていた。かなりの責任を感じていたようである。その時、どのような会話が交わされたか、私もその場にいたが全く覚えていない。しかし、その爺さんや家族を厳しく問い詰めた家もあったという。

 私は近隣の子供達と徒党を組んで近所の畑や田んぼ回って遊んだが、この爺さんともよく言葉を交わしていた。だから、火災の原因がこのお爺さんの籾がら焼きだと知ってショックを受けた。

 それから約10日後、このお爺さんは水を満たした自宅の風呂桶に頭を下にして入り、自死した。当時の風呂桶は木製で深かった。入浴時に膝を曲げれば肩まで浸かる深さがあった。そうは言っても這い上がってくることは不可能ではない。覚悟の自死であった、と考えられた。私はこの自死の話を聞いた時に、また大きなショックを受けた。

 しかし、この自死の後、部落内の雰囲気は険悪さが取れたような気がしてならない。たとえ公的に責任は問われなかった、といえども類焼した立場の人からはお爺さんの籾がら焼きの強行は許しがたい、という感情はあった、と思う。それが本人の自死という形の死によって、全てではないにしろかなりの悪しき感情が浄化され、その一家の立場を救い、強いては部落内の雰囲気をも救ったのだ、と私は思っている。
 
 私は自死を賞賛しないが、全てを否定しない。私は自死したお爺さんの、日頃の、笑みをたたえた表情を今でも鮮明に思い出す。彼は自死によって解放されたのだ・・と思う。「何も死ななくても良かったのでは・・・」というのは簡単であるが、私は他に生きる道が見つからなかったのだ、と思いたい。彼の自死は多くのものを救った。
 


4/22 (金) 快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア  
 2:00久々遅く起床、メール返事2件、新聞・文献自炊。7:40Taxi病院。8:12こまち、9:00-12:15大曲中通病院外来。14:30-18:55飯川病院ボランティア。19:30帰宅、夕食、20:00就眠。DVD:「世界のいま:熊本地震」、歩数計8461Km。

昭和27年4月10日自宅消失(6) この火災でトラウマに?(3) 火炎による浄化に魅力
 火炎の第四の魅力は、何でも焼きつくすパワーである。強烈な熱の発生にも関連しているが、その焼却力は私にとっては浄化力でもある。焼却は実に潔い。

 火炎による浄化、といえば形もなく焼き尽くす力である。私はこの力に大いに魅力を感じた。小学校3-4年頃から自宅からから出る可燃物を全て私が一手に引き受けて焼却した。あまり余所に遊びに行くことを好まなかった私は、休日になると丸一日この作業をこなすこともあった。幸い、敷地は広く、裏の畑に安全な場所を確保し、深さ1m、直径2mほどの穴を掘り、消火のための水と土も用意した上で、自宅からから出る可燃物を全て焼却した。消火するときにはまず土をかけ、水をかけて煙も出ない状況まで徹底した。火災にあった経験からこそ至った火炎に対する感情であるが、一方では火の始末には神経質であり、慎重であった。

 火炎による浄化、という意味では火災の数年後に、人の死と火葬による死体の処理、結果として白骨化する著しい変化に異様?な興味と感慨を抱くようになった。
 私はそれほど多い経験ではないが、約10数名ほどの方々の骨を火葬場で拾う機会があった。一番最初は小学5年の時の祖父の死であった。初めての経験であって印象深かった。当時は火葬場の火力が弱く、4-5時間ほどかかったような気がする。
 
 病気で弱ってはいたが体格のいい祖父であった。一週間ほど前まで会話を交わしていたが、その後昏睡状態に陥り、やがて死を迎え、全く動かなくなった。この生と死の変化も驚きであったが、さらに、火葬場で白骨化した祖父の姿に対面した時の感動と驚きは忘れられない。

 その後、祖母、両親と実兄、家内の両親と義理の兄の、その他何名かの火葬に参列したが、死を迎え動かなくなった故人の姿に接した時は、その度ごとに私は心から安堵し、感動した。その方々と私の関係は、家族として、人間としての善悪の評価を含め、私との間で人知れず蓄積された親愛の情、憎しみの情を含め、あらゆる感情が全て死の報告を受けた瞬間をもって別物に変わってしまう。相手に抱いていた善悪を含めた感情が一気に別物に昇華した、と言っていいかもしれない。さらに言うと、立体的であった感情が、一瞬にして平面化、モノトーン化してしまう、と言ったような感覚である。
 
 さらに、火葬が済み、白骨にまで変化した故人の姿に、人間の姿として私の前に長く存在していた姿から骨に変わる姿に接するたびごとに、深い感慨を覚えた。それ以上に、骨の白さに感動した。故人に抱いていたあらゆる感情が白一色の実体のない感情に変化した、私との関係はここまで、という区切りの喜びを私は感じてしまう。

 変な感情であるが、私は知人の死の報告に接するのが好きである。どのようなおつきあいがあったとしても死別の感情は生じない。葬送のセレモニーに参加することはないが、知人の最後の姿を予想し、白骨になり、骨壷に納められた過程を私は想う。これで故人と私は、感情を共有しない潔い関係となる。

 火災は全てを灰にした。火炎のパワーは素晴らしい。屍が火炎のパワーによって焼き尽くされ、白骨化していく過程を思いながら、私はその故人との関係をも焼却し、忘却してしまう。
 私自身が生きることが、難しくなっている。だから、他人の死には特別の感慨は抱かない。


4/21(木)晴れ 外来+ドック判定総括 飯川病院 
 0:30起床、書類PDF化、文献読みなど数件。7:20徒歩飯川病院着。8:45-12:40中通病院外来+ドック判定総括。13:00-17:30飯川病院。17:00-18:30中通病院にて患者病状の調査、外来患者総括。18:30-19:30飯川病院、20:00迎えの車で帰宅、夕食、21:00就寝。歩行計8455Km。BR:「世界は今:タックスヘイブン、熊本地震関連」。通勤路の桜は散り始め、千秋公園の桜は満開。

パナマ文書の衝撃(2) 税金逃れ 著名は政治家の周辺でも
 新聞報道によると、パナマ文書に名があったアイスランドのグンロイグソン首相が辞任した。
 同文書を非営利組織「国際調査報道ジャーナリスト連合」が分析したところ、10カ国の現旧指導者12人とその親族60余人の名前が浮かび上がった。その中には、習近平、キャメロン、プーチンらの本人や血縁者、友人らの名前も並んでいる、という。

 どの国も大差ないだろうが、国民の義務の一つとして税務機関が厳しくとりたてていると思われる。国民の多くが税金の負担に苦しんでいるのに、税金を課す側の政府関係者が特権を使って税逃れの手立てを打っている。あきれた話である。政治家として資質が問われ、信頼が地に落ちることになろう。たとえ、取引自体は違法とは言えないかもしれないが、その目的が税金逃れだとすれば、政治家ら公職者には道義的責任がある。
 中国ではこの問題は報道されておらず国民には知らされていない、というが、ネットを通じて徐々に知られつつある。

 アメリカ企業や現役の政治家は関連を指摘されてはいないようだ。しかし、徐々に調査が及んでいるらしい。クリントン氏に近い人も疑われている。対立候補のサンダース氏は証拠を握っているとも言われ、大統領選にまで影響が及ぶことが危惧されている。

 日本も無関係ではない。400人以上、40以上の企業名がリストに上がっているとされる。多分、このようは方々の本来の納税額はわれわれの考えが及ぶレベルではないだろう。このような個人、企業が脱税を測れば、結果として国の税収に影響し、一般庶民に増税という形で反映してくることになる。一般庶民は税軽減などの方策は取り柄ない。常に経済は持てるものの方向に流れるようになっている。

 タックスヘイブン、パナマ文書の今後はまだ不透明な状態である。目が離せない話題である。


4/20(水)晴れ 飯川病院ボランティア 映画:家族は辛いよ
 0:30起床、新聞・文献読み、徒然。自炊本読み。画像データ処理。午前フリーでネコ世話、鳩の餌作り、ステンレス網戸に張り替え注文。12:00バス、ルミエールに。映画「家族は辛いよ」観る。14:30-18:30飯川病院ボランティア。19:00帰宅、夕食、20:30就眠。BR:「そこまで言って委員会:タックスヘイブン関連」見直す。歩数計8445Km。

パナマ文書の衝撃(1) タックスヘイブンとは何か? 税金逃れだ
 今月3日、パナマ文書という初めて耳にする文書が公開され大きな話題になっている。
 内容的には世界各国の税金逃れの実態を示したものであるが、それに、習近平、キャメロン、プーチンらの名前も並んでいたことから国際的に政治経済に問題になりそうである。日本の約400の個人や会社も含まれていた。

 パナマは、北米と南米の両大陸のつなぎ目にある小国であるが、そこに本拠をおく法律事務所「モサック・フォンセカ」の機密文書が大量に外部にもれた。匿名の人物から南ドイツ新聞の記者にデータが渡され、その内容を世界のジャーナリストが共同で分析して、今月一斉に報じた。それで「パナマ文書」とよぱれている。流出した大量の文書量、データ量は史上最大の量という。

 この「モサック・フォンセカ」は、1977年に創設、世界の方々にあるタックスヘイプン(租税の回避地)で、会社をつくる手伝いをしていた。現在600人のスタッフを擁し、世界第4位にまで成長した事務所である。
 この事務所はパナマに籍を置いている。パナマは政府に払う税金がほとんどないか、とても安い。だから、パナマは租税回避ビジネスには理想的な国と言える。パナマに会社をつくり、本国の財産を移せば、本国ではらう税金を大幅に節約できる。秘密を守りながら資金を動かしたい富豪や大企業との取引が多い。設立された会社の多くは実態がないペーパーカンパニーだとされている。会社や個人の情報がほとんと公けにされないのがタックスヘイブンの最大の特徴であった。

 法律事務所は、顧客から依頼があればパナマに架空の会社を作る、銀行口座を作る、架空の経営者を作るビジネスを行ってきた。この取引は秘密厳守で、社長や経営者がだれなのか、そんな基本情報すらも調べることができない。各国の税務署もタックスヘイブンの内容を調べるのが難しい。だから、財産をかくしたり、税金を払わずにすましたい個人や会社から見ればパナマは理想的な地となる。

 タックスヘイプンが成長してきたのは、「モサック・フォンセカ」のようなビジネス自体は国際的に見て違法ではないから、という。ただし、租税回避が主目的であると分かれば、大部分はそのための取引であることは誰から見ても明白であるが、各国で問題となっていく。某国の首脳はこの文書に名前があることが報道され、早速辞任した。

 パナマは産業がなく、資源もとぽしいため、タックスヘイプンで海外の資金を呼び込み、そのおこぼれで自国の経済を回している、と言う。


4/19(火)快晴 外来 飯川病院
0:00起床、新聞・文献読み、徒然といつもと同じ。7:20徒歩飯川病院。8:45-12:20外来。人数の割に時間がかかった。13:00-18:30飯川病院。17:00車帰宅、夕食、20:00就眠。Σ8440Km。途上で見られる桜、千秋公園の桜は2分咲き。BR視聴:「ロダンの芸術」。

昭和27年4月10日自宅消失(5) この火災でトラウマに?(2) 火炎に魅力を感じる
 この火災が、私の心に今に至るまで影響する深い傷を残した。 「 燃え上がる火炎」に今でも異常に固執しする。私は火災が怖いが、むしろ、私は燃え盛る火炎、炎に親しみを感じる。なんでだろうか?
 第一に、美しい。
 第二に、熱を持つ。
 第三に、焼きつくすパワー。
 第四に、浄化するパワー。
 第五に、私を興奮させる何かがある。
 
 第一の美しさ。めらめらと燃え立つ炎。炎自体が空気の対流を作り、小さな炎なら微妙に揺れ動く。中でもろうそくの一筋の炎、見ていて飽きない。心が洗われる。
 大きな火災レベルになると周辺に風が巻き起こり、それに誘発された激しい燃焼が、高い空にまで火の粉を散らす。我が家の火災は火炎の像から見れば恐ろしくも、美しい光景であった。

 第二には炎とともに発生する熱に対してである。自宅が激しく燃え盛っていた時には50mほど離れた場所ですら熱く何度か移動した。大きな火炎が放射する熱は大変なものであった。この程度の規模の火災でもこれほどなのだから、原爆や空襲の時の高熱は予想だにできない。
 生活では熱源として調理や入浴に欠くことができない。私は強度の寒がりであり、熱源として灯油、ガス器具を利用している。最近は炎が見えないファンヒーターなどが主流であるが、私は好まず、炎を直接見るタイプの器具が好きである。居間で私が座る席の傍らには青い炎が見えるストーブがある。美しいが、炎が安定していて面白くない。その点では、めらめらと炎が燃え立つ薪ストーブに興味があるが、機能的でない部分もあり、今の環境では導入できない。

 第三に、何でも焼きつくすパワーに憧れを持つ。住宅兼診療所は強風の中、1時間ほどで焼け尽くされ、表面が黒く炭化した柱だけが残っていた。我が家は全てを失ったと言っていい。
 この何でも焼き尽くすパワーに私は魅力を感じた。小学生時から、生活で出る可燃物を自分で焼却することは私の役割になり、趣味の一つとなった。つい数年前まで我が家で出る可燃物は全て自分で焼却処分してきた。
 ところが、平成11年にダイオキシン対策推進基本指針と、対策特別措置法の2つの柱を基にした県の条例で小規模であっても焼却できなくなった。
 以後は可燃物を含め公的な廃棄ルートに出しているが、本当は今でも自分で出したゴミは自分で処分したい、と考えている。

 私の火災に遭った経験は火炎に対する畏怖の念と、美的な面と、熱、なんでも焼き尽くすパワーには魅力を感じている。


4/18(月)曇りのち晴れ 健康クリニック 飯川病院
0:00起床、新聞・文献読み、自炊など。0:30こまち強風で途中運行停止でバス代替輸送で家内帰宅。いつもと同じ。7:20徒歩飯川病院着、9:00-11:00健康クリニック。12:00件食後微睡。14:00-18:30飯川病院勤務。各種処置。花壇の水撒き初日。19:00帰宅、夕食、20:00就眠。Σ8431Km。BR視聴:「池上:ニュースそうだったのか」。

昭和27年4月10日自宅消失(4) この火災でトラウマに?(1) 卵焼き、麻薬
 近所の家が火だるまになっているのに気づいたのが昼食時であり、私は食卓についていた。大きな厚焼きの卵焼きが目の前にあったが、食べないまま避難した。祖父から麻薬の入った手提げ金庫を託され、その金庫の上に座って家が焼け落ちる過程をずっと見ていた。燃え上がる炎は恐怖感とともに、全てを焼きつくす、浄化する夢のようなパワーに感動も覚えた。
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 この火災が、私の心に今に至るまで影響する深い傷を残した。いろいろあるが、「厚焼き卵焼き」、「麻薬」、 「 燃え上がる炎」に今でも異常に固執し、ふれるたびに心にさざ波が立つ。

 @1 「厚焼き卵焼き」
 手をつけないままに逃げたが、大きかった。実に美味そうであった・・。燃え盛る火事の最中にも卵焼きのことが頭から離れなかった。 
 今でも私は食品売り場に、食卓に卵焼きや出し巻き卵などがあれば心がさわぐ。自宅の食卓であれば、私用に大きめのブロックが用意される。滅多に出かけることはないが寿司店では玉子の握りなど、独占して食べる。足りなければ玉子の握り、または卵焼きそのものをブロックで追加注文する。
 幸い、家族たちはあまり卵焼きを好まないから、集めて食べてもあまり文句は言わない。寿司屋だって卵焼きを注文しても高いものではないから安心である。
 ふわふわの食感、やや甘めのだし巻き卵を好むが、作り方は奥は深いようである。そう難しくはなさそうであるが、自分では料理しない。出された品を淡々と食べる。塩気が前面に出る味のは嫌であるが、大抵は満足できる。その度に火災の際に置いたままにした厚焼き卵が思い出される。あの、表面の焦げ目の模様すら、目の前にチラチラする。
 火事がもたらした幸せの一つかもしれない。

 @2 「麻薬」
 祖父が私に麻薬が入った小型金庫を背負わした時の真剣な表情は忘れられない。当時は小学校に入ったばかりで、麻薬のことなど知る由もなかったが、目の前で自宅が焼け落ちようとしている中でのあの祖父の表情である。私は事の重要性を理解した。
 裏のりんご畑、野菜畑の一角に場所を定め、燃え盛る熱気に耐え難く時折場所を移動しながら金庫に座って自宅と診療所がが焼け落ちる過程をずっと見ていた。
 建物があらかた焼け落ち、鎮火した時に家族らの待つ場所に戻ったが、その時の祖父の安堵の表情は忘れられない。
 
 医師になってから患者への治療上、モルフィネを中心に麻薬を用いる機会は多かったが、使用の手続きは結構煩雑で、使用した後のアンプル、残液も回収されるなど、火災の際の祖父の真剣な表情のルーツが理解できた。しかし、祖父の反応も過剰でなかったのか? 当時はもっと厳しかったのか?? 今になってみればそう思う。しかし、火災の間に私が担った責務を果たし得たことは大きな心の糧にもなっている。
 ここ10数年緩和医療の疼痛管理の普及とともに、麻薬の製剤も増えかなり使用の制限も少なくなってきた。
 いい時代になってきたと思う。


4/17(日)終日雨天強風 
 1:00起床、本読み、文献・録音・画像整理。6:00朝食その他ネコ世話など天候上外仕事は無理、主に本読みとデータ整理に集中。BR視聴:「NHKso定期:ルスラン+ラフマP協奏曲No2+組曲白鳥の湖」、名演にて2回観る。16:00飯川病院へ、患者対策、家族への対応。18:30着予定のこまち、強風のために赤渕駅運行停止。19:00帰宅し夕食、20:00就眠。代替輸送のバスで0:30家内帰宅。Σ8424Km。

九州地方の大震災(2) やはり地震予知はできないのか??
 東海地方の大地震の発生についてはその大きさをの予測を含め、よくマスコミでもとりあげられてきたが、実際に起こったのはそこではなく、東日本大震災であった。
 その後も南海トラフが常に話題になっていたが、実際に巨大地震生じたのは九州熊本地方であった。

 こんなことを見ると、やはり、地震予知はできないのだろうか・・・と思ってしまう。

 我が国の地震を研究する日本地震学会は、地震学の普及と発展を目指す学術団体で、会員は学者ら約2000人で、毎年秋に総会を開催しているほか、専門誌「地震」を発行している。1880年に世界初の地震学会として創設された。
 それまで日本周辺では東海+東南海+南海の3地震か同時発生したとみられる1707年の宝氷地震が推定M8.6で最大と考えられており、M9規模の地震が起きる可能性を指摘する研究者はほとんどいなかったという。観測史上最大級の地震となった東日本大震災は、多くの地震学者にとって「想定外」だった。

 1995年の阪神大震災の後に全国的に地震の観測網が整備され、緊急地震速報がスタートした。しかし、これらの政策に学会の関与は少なく、学会の姿勢を問う声が上がった。

 東日本大震災の後には、地震列島であることから次の地震はどこか・・など非科学的根拠をあげていたずらに恐怖感を煽るような記事などが掲載される事象が増えた。また、「私は予知をしていた」などの意見を掲載した地震学者もいた。後からなら何とでも言える。

 そのために地震予知は可能であるとの期待感が強まっているが、「地震予知はできない」、「政府が発表する地震発生確率は全く無意味」、「地震は不意打ちで、どこでもあり得る」・・・冷めた意見の学者も少なくない。いや、多くの専門家もそう考えているのではないだろうか。

 1965年に地震予知研究が国家プロジェクトとなってから半世紀か過ぎた。観測網を整備し、大地震の前兆を探すという国家プロジヱクトで、5カ年計画が第7次まで続けられ、莫大な予算が計上されてきた。しかし、予知に成功したことは一度もなく、実現への道筋もまだ見えない。
 我が国にはにはわかっているだけで2000もの断層がある。小さな地震は高頻度に起こっており、ときには大きなエネルギーに成長して大地震になることがある。大きくなるかどうかは偶然に左右され、しかも、地下深くにある断層の状態を測定できない、という。だから、地震の予測は非常に難しい。

 阪神大震災の後、計画は抜本的な見直しを迫られ、東日本大震災を経て、ついに名前から「予知」が消え「災害軽減研究計画」となった。

 これが、現在の地震予知の現状である。東日本大震災、今回の熊本の大地震を見れば、そう考えざるをえない。地震列島の日本に住む以上、「想定外の地震」が、「いつ生じるかは予知できないが、身近に起こりうると想定」して、被害を少なくする準備をしておくことが肝要ということになる。

 熊本地方の被災者の方々にはお見舞い申し上げたい。秋田からできることは少ないが、この気持ちをいづれは形にせざるを得まい。


4/16(土)快晴 
0:30起床。本日もNHK-AMラジオはほぼ全て熊本付近の地震関連。TV画像は見るのが辛い。ハードディスク同期とデータ整理等。本読み中心。午前はネコ世話、網戸修理の準備、風除室の掃除、窓の締め切り操作など。台所のカウンター下の機能か。午後はレガシータイヤ購入。午後は画像データ整理。19:00夕食、20:00就眠。歩行Σ8421Km。

九州地方の大震災(1) 大気な揺れを伴う余震が頻回に続く
 予想もしていなかった?地域に、予想していなかった?時期に、激しい地震が発生した。

 14日夜に熊本県で震度7を観測した地震は、同県の中央部を中心に大きな被害をもたらしたが、16日早朝にさらに大きな地震に見舞われた。
 そのために14日揺れが前震に、本日16日のが本震という位置付けになった。
 今回の地震のM値は、14日の前震がM6.5、本震がM7.3とされた。国内で震度7を観測したのは東日本大震災以来で4度目、九州では初めてという。これほどの大規模な地震が立て続けに生じた例はそれほど多くないのではないだろうか。

 今回の地震は震源の深さが約11Kmと浅く直下型地震らしい。内陸の浅い地震は余震が多くなる傾向にあとされているが、今回の地震でも余震は頻繁に発生している。余震と雖も震度6程度の揺れもあり、新たな被害発生も予想される。

 私は熊本には学会の際に一度訪問している。学会の内容は100%忘れたが、学会場に向かう際に垣間見た水前寺公園と熊本城の印象は今でも残っている。熊本城は黒かった。その印象が強い。新聞の写真で見る熊本城の天守閣の屋根瓦がが剥がれ、石垣が崩れ落ちた姿は無残である。
 一般の住宅の被害も甚大で死者の数は当初10人程度であったが、今後も増えそうである。

 私はTVはほとんど見ていない。自宅ではラジオのスイッチを切ることなく聴き続けているが、聴くたびに死者、負傷者は増え、行方不明者も出ている。公共施設などへの避難者も予想以上に多く、自衛隊などが懸命な救援活動を展開している。しかし、救援物質がかなり不足しているようだ。これらの中では赤ちゃん用のミルク、女性の衛生用品、高齢者の排泄用のおむつなど不足しているようだ。公的備蓄はこれらの配慮をしているのだろうか。

 東日本大震災から今年3月で5年となり、その時に一気に高まった防災意識が時間とともに弱まってきた最中の大地震である。東北とは離れた場所での大地震発生で、改めて災害列島上に居住していることを私も再確認した。改めて水や食料の備蓄や家具の固定などを考え直すことにしたい。

 電気や水道といったライフラインはもとより、道路や九州新幹線などの交通インフラを早急に復旧させるためにも激甚災害の指定など国や自治体の迅速な対応をが望まれる。

 今回も、地震発生予知はできなかったのであろうか??


4/15(金)小雨 大曲中通病院外来 飯川病院 
0:20起床。読書中心。5:00可燃ごみ提出、7:30車で大曲に、9:00-12:00大曲中通病院外来。13:00飯川病院着、院長不在でボランティア。18:00検食、20:30就眠。BR視聴:「団塊スタイル:シニアの悩み」,「ワカコ酒:焼き鳥」、歩数計8418Km。14日夜の熊本大地震に引き続き本日も余震が続いている。

秋田県エネルギー産生(4) 原発誘致 県は積極的だった
 秋田県は自然エネルギー産生量が日本第3番に多い。
 比較的電力に恵まれている県であるが、かつては原子力発電誘致に乗り出したことがあった。

 東北6県で原発がないのは岩手と秋田、山形である。山形のことはわからなかったが、なんで秋田県には原発が誘致されなかったのだろうか? 
 あまり知られていないことであるが、秋田県は東北で初めて原発誘致宣言をした県、とされている。
 
 この辺のことは古いことであり、秋田で育ったわけでないから私にはよくわからない。私の手持ちの古い資料、新聞記事をつなぎ合わせると大体以下のようである。

 1960年(昭和35)、秋田県が東北電力の原発を誘致したいと明言した。能代市、秋田市、由利本荘市の河口が候補地と見られたが、検討段階で秋田市は不適とされ、能代・本荘の両市が誘致合戦をした、と言われている。

 1963年(昭和38)、国は原発適地の調査を進め、青森県下北郡、能代市、山形県鶴岡市が適地と認めた。

 1967年(昭和42)、東北電力は宮城県女川町を原発建設の適地と発表した。
 なんで秋田が選考から漏れたのか??東北北部の日本海側は電力需要が大きい仙台から遠すぎることも理由の一つとされ、初めからそれほど重視されていなかったようである。秋田ではそれほど大きな反対運動は生じなかったようであったが、秋田には誘致に熱意を持った政治家がいなかったことも理由として挙げられるようだ。
 秋田に原発が設置されていたら今頃は大変な状況になっていたと思われる。

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 岩手にも原発誘致が話題になったこともあった。誘致の話が持ち上がったのは第一次世界オイルショックの後だった。日本のエネルギー論議が盛んになって、かつ、私もその時期三陸に住んでいたから三陸と原発については関心を持って経過を見ていた。

 1975年(昭和50)、岩手県の三陸海岸にある旧田老町の集落に原発の建設計画が持ち上がった。
 1982年(昭和57)、県が旧田老町を含む4ヵ所を適地として東北電力に売り込んだ。

 地元経済界には賛成論が強かったが、漁民たちは大反対し、三陸の世論は割れていた。白黒つければ禍根を残し、後戻りできない対立に発展する。この頃の首相は三陸地方に大きな選挙基盤を持ち、魚業擁護派の鈴木善幸であったから、原発誘致には消極的で結論を先延ばしにしていた。
 そのうち日本は石油危機を乗り切って原油価格は下落し、電力はだぶついた,岩手県の原発計画は立ち消えになった。

 旧田老町を襲った大津波は約14mの防潮堤を軽々と越え、土地にある住宅や林を全て押し流した。防潮堤の倍近い高さの波であった。この地に原発があったら、無傷で済んだとは到底思えない。


4/14(木)雨のち晴れ 外来 飯川病院 熊本県で大地震発生
0:45起床。新聞・文献チェック他。6:47雨のためバス飯川病院に、7:10飯川病院着,8:45-13:50外来+ドック総括。14:00-18:30飯川病院、院長は内科学会総会で東京に発つ。19:00帰宅、夕食、20:30就眠。BR視聴:「英雄たちの選択:富士山噴火」、「ガイア:町工場の挑戦」、「コズミックフロント:コペルニクス」。歩数計8416Km。21時前後に熊本県で大地震発生した。

秋田県エネルギー産生(3) 風力発電の可能性を伸ばそう
 私の日常の行動範囲はとても狭い。職場と自宅の間だけである。秋田市から出ることは稀であるが、稀だからこそその度に色々な地域に風力発電機が設置されているのに気づく。ただ、群としての設置でなく孤立である。

 日本の自然エネルギーは、国内の全発電量(2009年度は約1兆1462億kWh)に対して、わずか3.36%にすぎない。
 自然エネルギー供給量を都道府県別の割合でみると、大分、秋田、富山がベスト3となっている。意外と秋田は自然エネの供給量が大きい。そうは言っても、地熱と小水力発電がそれぞれ30%以上を占め、太陽光と風力発電は少ない。

 最近注目され、設置が期待されるのは、太陽光発電と風力発電ある。

 その中で、秋田県は国内有数の洋上風力発電の適地とされている。本県の海岸は年間平均風速が毎秒7m以上と風に恵まれている。さらに、秋田の海岸線は水深30m以内の地域が多く、風力発電機設置に都合がいい、という。

 秋田県は2014年度、洋上風力の導入を促そうと、秋田、能代両港湾区域内で洋上風力を行う事業者を公募した。県外2社から応募があり、そのうち東京の大林組が環境影響評価の手続きを始めた、という。 もし実現すれ世界的にも有数の規模となる。2020年度の着工、23年度の稼働を目指している。

 これは朗報である。秋田県の再生エネルギー産生事情が大きく変わる可能性がある。ぜひ実現して欲しいものである。

 洋上風力発電は陸上に比べメリットが多く、四方が海に囲まれた日本にとっては有望である。大林組の計画では、能代市から男鹿市にかけての沖合に出力5千Kwの風車を91基設置するという。合計出力45.5万Kwは洋上風力として世界有数の規模となる。

 ところが残念なことがある。風力発電の機材はほとんどが外国製である。
 国内企業がなぜ生産しないのか?これからの我が国のエネルギー事情からして、諸外国の事情からして輸出機材になりうるし、十分にペイできる産業になるように見えるのだが、国産では安くできないからなのか?

 秋田県が風力発電の導入に力を入れるのは、産業としての魅力があるからである。立派な企業誘致である。県はメンテナンスなどを県内業者が担えるようになれば経済効果は1千億円規模に、1万人以上の雇用が創出できると試算している。

 また、秋田港と能代港の港湾区内の洋上風力発電計画があり、18年度着工、21年度稼働が予定されている。

 これらの発電が実現すると秋田県のエネルギー事情は一変する可能性がある。

 秋田の魅力は自然が豊か・・などとよく言われる。確かである。しかし、美しい自然があってもそれだけでは県民は生活できない。その意味では、豊かな自然が生む産業として、洋上風力発電は観光とともに注目すべき新しい産業になりうる。期待している。


4/13(水)曇り降午後から雨 当直明けでフリー
1:30起床。文献検索、徒然ほか。7:00朝食検食、9:00繁田園で茶、通町でコーヒー購入、通町からバス帰宅。10:45ネコ掃除+給餌+捕球訓練。台所棚引き出し修理など。一時午睡、新聞チェック、本読みなどゆっくり過ごす。19:00夕食、20:45就眠。RD視聴:「そこまで言って委員会:こんなこと有りか無しか?」、「世界は今:パナマレポート他」、「名曲探偵アマデウス:ラプドディインブルー、モルダウ」。歩数計8406Km。

昭和27年4月10日自宅消失(3) その時、家族は何をしていたのか、どう行動したのか
 火災に気づいたのは正午頃、ちょうど昼食の時間であった。

 私と祖父母、母、お手伝いさん、見習い看護師2名で食卓を囲んでいた。父は1Kmほど離れた役場に出勤していて不在、兄は盛岡の親戚宅に下宿しており不在であった。

 風が強かったが快晴であった。しかし、時折日差しが短時間遮られ、不思議だと思っていた。それに何となく外が騒がしいような気がして、私は勝手口から外に飛び出した。見えた近所の数軒の屋根は既に全体が火にくるまれていた。初めて見る恐ろしい火災の光景であった。我が家は奥まっていたこともあって気がつくのに遅れてしまった。
<a href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/82/33372f9a6b89c56130907a50b1c7841d.jpg"><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/56/82/33372f9a6b89c56130907a50b1c7841d_s.jpg" border="0"></a>
(在りし日の祖父。この姿で往診をしていた。その背景に映るのは道路を挟んだ民家。気づいた時はすでに火の車になっていた。焼失を免れた貴重な写真の一枚)

 その日は私が好きな特大の卵焼きが目の前にあった。卵焼きに未練があったが、すぐに皆外に飛び出した。
 我が家では小規模な消防器具があった。リヤカーの上に固定され、大人二人掛かりで動かすもので、移動が可能であった。ホースは径4-5cm、専用の小屋に鎮座していた。祖父の指示で井戸端に運び運転を試みたが、非力な女の力では水はチョロチョロとしか出なかった。明らかに非力であったが、祖父はこれにかなりの経費をかけ準備したのであろう、危機管理の発想は大したものであったと思うが、あまりにもこれにこだわった。結果として貴重な時間を浪費し、火はどんどんと大きくなっていった。

 父は役場から駆けつけたが、二日酔い状態にあったらしく、何ら役立つことはなかった。
 この設備があったために、生活上の貴重品などを持ち出すことは出来なかった。仏壇を持ち出せたのは朗報であった。この焼失の危機を免れた記念すべき仏壇は現在も私の自室に鎮座している。
<a href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/48/e466cec52bb6024e6f6d1f454149f37f.jpg"><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/17/48/e466cec52bb6024e6f6d1f454149f37f_s.jpg" border="0"></a>
(この当時の消防ポンプ。画像は隣町の消防所に備えられたもので昭和28年製。我が家のポンプはこれに類似した形であったが、これより小型であった。http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R208&ac2=&ac3=1559&Page=hpd_viewから借用した)

 診療所の方には火の回りが遅かったために、消火を諦めた祖父の指示でカルテはなんとか外に運び出され、類焼は免れた。もう一つ貴重品が運び出された。麻薬金庫である。サイズは小型のトランク程度で、私でも持ち上げられる重さであった。
 祖父は私の背中に金庫をくくりつけ、これには貴重な麻薬が入っているから、遠くに逃れて絶対に紛失しないよう厳命した。当時、麻薬の紛失は重大な犯罪行為(?)だったらしく、祖父の目は真剣であった。私はその命に従って裏の畑に逃げ、金庫に座って我が家全焼の過程をつぶさに見届けた。
 のちにカルテが確保され、麻薬の紛失がなかったことは保健所(?)から大きく評価された、という。

 火災のクライマックスは二階部分、あるいは屋根の崩落であった。壁や柱が焼け落ち、重量に耐えかねて火がついた状態で一気に崩落、その度ごとに激しい火の粉が舞い上がった。

 そのときの光景は今でも鮮明に覚えている。この火災で形ある物はほぼ全て失い、我が家は大きな転機を迎えた。
 地域の人たち、家族の心に大きな傷を与え、様々な人間模様に触れながら私は育った。今ここに自分があるのはこの火災の経験による部分が大きい。


4/12(火)快晴 外来 飯川病院 飯川病院当直
0:20起床、新聞・文献・本読み他、蓄積データ整理、徒然。5:00可燃ゴミ提出。6:30−7:30徒歩飯川病院。8:45-12:45外来、疲弊。14:00-17:00勤務、17:00飯川病院当直。ウイークデイの当直は稀だが本日は医局の感想外科医だという。18:00検食、文献処理等、20:30就眠。歩行計8395Km。BR視聴:「100分で名著:司馬遼太郎(1)」。

昭和27年4月10日自宅消失(2) わずか1時間ほどで我が家が全焼した
 私が小学校に入学して間もなくで、未だ毎日が緊張感で一杯であった。
 
 4月10日の正午頃、風速10mほどの強風の中、近所の農家のお爺さんが田植えの時に用いる籾殻焼きを強行した。
 籾殻焼きは籾殻を田んぼの真ん中付近の広い場所で直径2-3mほどの円錐形に積み上げ、その中央に火種を置き、煙突を差し込んでゆっくりと炭化させるもので、当時はどの農家でも行っていた。くん炭焼きとも言われる。通常ならのどかな田園の春の風景ということであるが、そのお爺さんは自宅のそばの畑でやったらしい。

 当日は晴天で天候は良かったが風が強かった。火がついた籾殻が風に飛ばされ、自宅の藁葺き屋根に燃え移り、次々と隣家の藁葺き屋根に燃え広がった。それがもとで我が家を含めて11軒が全焼した。道路脇の民家、我が家を含めて集中して焼けたが、100m以上も離れて田んぼの中にポツンと建っていた一軒家にも類焼が及んだのには今でも驚いている。それだけ強風であり、時期的に乾燥していたためであろう。

 我が家は総瓦屋根であり、建物が道路からは奥まって建っていて隣家とは離れていたために簡単には火がつかなかったが、私どもが火事と気づいて外に飛び出して間もなく、白壁と屋根の間から、1-2か所火がつき始めた。一旦火がつき始めると強風にあおられて燃え上りは早かった。

 近隣の消防車に加え、盛岡からも消防車が集まってきたが、十分な水源がなく、農業用ため池、数100m先の乙部川から、ポンブ車を連結して水を得たとのことである。私は祖父に託された麻薬の入った家庭用の中等度の金庫を背負い、50mほど離れた畑のに座り我が家が燃え落ちるのをずっと見ていた。その距離であっても耐え難いほどの熱気があり、時々場所を移す必要があった。多分、建物の屋根が燃え落ちるまでに1時間余しかかからなかったと思われるが、その記憶の中に、消防車からの放水・散水があったとの記憶はない。消防車が水を得るのに難儀していたためと考えられる。
 私の印象では、燃え盛る火勢の中、なすすべなく燃え尽きるのを待っていた・・だけだった、と思う。

 見ていて感じたのは、もともと風が強かったが、炎上が激しくなると共にと一層風が強まり、火の粉が上空まで舞いあがり、私のそばまで落ちてきた。とても怖かった。火災による上昇気流の発生が風を強めた、と思われた。

 もう一つ鮮明な記憶があるのは、火災の最中、米軍か自衛隊かわからなかったが、2機のF-86Fジェット戦闘機が、普段見ることができないほど低空で通り過ぎたことであった。


4/11(月)降雪・曇り・寒波 健康クリニックドック 飯川病院 
 0:30起床。いつものごとく。夜間うっすらと降雪。7:30徒歩千秋公園経由で飯川病院着.9:00-11:00健康クリニックドック業務14名とペース戻る。11:30飯川病院に。微睡、14:00-18:45飯川病院。19:10帰宅・夕食、20:40就眠。BR視聴:「この差は何か」、「探検バクモン:陸前高田」、「災害:教科書では学べない」、「知恵泉:岡本太郎」、「プロファイラー:アベベ」。

昭和27年4月10日自宅消失(1) もう誰の記憶にもない乙部火災
 昭和27年4月10日、私が6歳、小学校に入学して間もなく、自宅兼医院が火災にあった。当時は家族3世代が一緒に暮らしていた。60代後半の祖父母、40代の両親、それに我々兄弟二人であった。この火災は私たち家族に、特に兄と私のその後の道に大きな影響を与えた。
 
 あれから64年経過した。当然、祖父母、両親は死去した。さらに、昨年1月兄も死去した。だから、乙部火災のこと、火災が我々に与えた影響を直接知る者は私一人になった。私はひとりでこの日を我が家の防災の日、と捉えていつも意識している。昨日この日を迎えたが、未だに心引き締まる思いがする。

 もう、私以外の誰の記憶にも残っていない乙部火災について、私の日記には時折登場してきたが、そろそろ最後のまとめをしてみたい、と思っている。誰のためではない、私自身のためである。

 兄の家族、私の家族はつい数年前までの約20年間、年に一度盆の時に盛岡郊外にある江岸寺に祖父母・両親の墓参のために集まった。その後は兄の体調不良もあって、墓参は私の家族のみとなった。それでも昨夏は総勢11人であった。

 私は墓参のたびに、雄峰岩手山、乙部周辺の地形・自然に、かつて自宅であった場所にかけがえのないほどの懐かしさを感じるが、同行する家内や3人の子供達、孫たちにとっては恒例の盆前後の家族小旅行の際に通過する場所の意味しかないだろう。

 この火災は私をはじめ、祖父母両親に及ぼした影響について、私も大きなショックを受けたが、私は全てをネガティブにとらえているわけではない。過去を論じるのに「もし・・」という仮定はそれほど価値を持つと思っていない。この火災に遭って私の道も大きく変わった、と思う。私は火災にあってむしろ良かったのではないか、とさえ思っている。

 自宅は盛岡の南約20Km、今のJR矢巾駅から東側に位置する山沿いにある中規模の集落の中にあった。近隣に第二次大戦まで採掘されていた大ヶ生金山の廃坑がある。当時は紫波郡乙部村であったが、合併にて紫波郡都南村乙部となり、今は盛岡市都南乙部となっている。乙部小学校に接した場所に祖父が「福田医院」を開いていた。この小学校も盛岡市立乙部小となって続いていたが、1994年大ヶ生小と統合し盛岡市立都南東小学校となった。

 小さかったから細かいことは良くわからないが、敷地は1000坪ほどあり、約400坪ほどの医院兼住宅が建っていた。住宅の詳細はよく覚えていないが実に広々としていた。

 昭和27年4月10日、貰い火によって全焼した。


4/10(日)快晴 昭和27年郷里で大火で自宅消失:私だけの記念日
 1:00飯川病院で起床。本読み、微睡、音楽、落語など楽しむ。9:00-10:10徒歩にて帰宅。奥羽本線脇の桜が開花。初観察。ネコ室掃除、給餌、捕球訓練。網戸ほか修理。午後タイヤ購入に。園芸用給水修理・調整。次男と孫来訪、プリウスタイヤ交換。19:00夕食。20:45就寝。歩行通勤計8385Km。DVD視聴:「NHKのど自慢:久慈市」。

速報 奥羽本線脇の桜が開花した  
 今朝は雲ひとつない快晴に恵まれた。

 昨日は飯川病院日当直であった。今朝9:00、業務明けを待って徒歩にて自宅に向かった。ネコが腹を空かして私の帰宅を待っていると思われるが、休日なので保戸野付近のコースは多少脇道を通ってみた。数軒の空き家があった。昨年に比して空き家が増えたような気がする。

 コースの後半分は奥羽本線に沿っての歩行者道路であるが、ここには比較的若い桜の並木がある。
 見ると中でも若い桜の枝にはチラチラと桜が開花していた。私にとっての今年の初観察日となった。昨年は4月8日であった。日にちで比較するとわずか2日の差であるが、今年は閏年で1日多かったから、昨年よりもちょっと遅い、ということか。

 千秋公園他の桜の名所も通過してきたが、これらはまだでつぼみは固い。
 仁賀保の公園、本荘の公園は県内でも有数の桜の名所であるが、3日ほど前の地方紙に「桜開花始まる」との見出しの記事があった。

 ついに、桜の季節が訪れた。この並木の中でもまだ数本だけの開花である。咲いていない桜の木との違いは若い木であるということ。陽当たりとかには関係ない早咲きである。多分若い木だから「青春期」にあって活力旺盛だからでないのだろうか。沿道の老木はまだ開花に遠い状態にある。

 秋田市内に桜の名所は多い。その一つの千秋公園を毎日通るが、まだ開花ゼロである。ここは老木が中心である。
 本日以降約2週間、コースを変えれば桜を楽しめる。
 いい季節になった。


4/9(土)午前雨午後晴れ 飯川病院日当直 
0:30起床。本読み、微睡、音楽、落語など楽しむ。データ整理。5:00ネコ世話、給餌、など。午前は雨で書斎。11:30病院見舞いの家人に同乗、飯川病院に、12:00検食、日当直勤務に就く。院内は平穏。データ収集・整理。BR視聴:「久米書店」、「林先生関連番組」、「孤独のグルメ2話分」。18:00夕食、20:30就眠。歩行計8376Km。

ハンセン病(4) 差罰化の背景に学会や専門医が果たした役割は大きい 
 私は我が国のハンセン病隔離政策は重大な人権侵害であり、その背景には閉鎖的であった医学界、専門医が関わってきた、と思う。その重大性を思うとき、当時その道にあった方々には重大な過誤があったいわざるをえない。

 ハンセン病の非人道的隔離政策について国に対して反省を求める声は大きいが、国の政策決定に深く関与していた医療人の誤りを指摘する声は以外と小さい。
 また、らい予防法が廃止されてから20年になるが、この間、医療関係者からのコメントは僅かしか見られない。ハンセン病問題は一般の医療人にはほとんど関心を持たれていない。

 私は予てから、いや、今でもこの点を不思議なことと思っている。

 1995年4月22日、日本らい学会会長中嶋弘氏は検討委員会の結果を踏まえ、学会として絶対隔離政策に対する過ちを認め、患者、家族に陳謝している。
 この中にハンセン病に関して学会が果たしてきた経過が述べられているので、短くまとめてみる。表現は適宜改変した。途中でらいからハンセン病に名称が変わったが、双方が用いられており、ここではそのままとした。

――――――――――――――――――――――――――――――――-

 @ わが国のらい対策には、第1回国際らい会議(1897年)が大きく影響している。この会議の結論は、らいの予防には隔離を最善としたが、無差別強制隔離を推奨していない。

 @ 法律「癩予防ニ関スル件」(1907年)は3回の改正を経て絶対隔離法となった(1931年)。

 @ 絶対隔離を強行したのは、らいの伝染力は弱いものの、家族内においては患者は伝染源となる可能性があり、しかも発病すれば生涯不治という認識があった。加えて、当時の社会的背景、例えば、らいを国辱病と考える国粋主義や、隔離を正当化する社会防衛論などにも支持され、伝染源の社会からの完全な排除を目的とした対策が、強力に推し進められた。

 @ 徴兵検査の際に発見されたらい患者の統計から見て、わが国のらいは隔離とは関係なく終焉に向かっていた。社会の生活水準の向上に負うところが大きく、伝染源の隔離を立法化する必要はなかった。この頃はプロミンの効果は明らかで、国際的には患者の隔離は否定されていた。

 @ 治療は、当初から外来治療が可能であり、隔離治療は不要であった。

 @ ハンセン病医学の知見からをみると、一般の細菌感染症と区別して特別の感染症として扱うべき根拠はまったく存在しない。

 @ 1955年には全体の91%余りの隔離が終わり、新発生患者が激減したが、療養所中心の対策を依然として続けてきた。

 @ 社会との共存を訴えるWHOとは相容れず、ハンセン病に関しては世界から孤立した。

 @ 国内においても、療養所中心という閉鎖性がわざわいして、ハンセン病に対する関心を薄めた。

 @ 日本らい学会が、法の廃止を積極的に主導せず、ハンセン病対策の誤りも是正できなかったのは、学会の中枢を療養所の関係会員が占めて、学会の動向を左右していたからである。

 @ 患者の救済・治療のために隔離を最善と信じた先人の思いを、踏みにじる権利は私たちにはない。

 @ 無謀な強制隔離によって、患者と家族の方々の悲痛な叫びを黙視したことに対し、日本らい学会には厳しい反省が求められる。さらに、らいへの恐怖心をあおり、隔離の強制を容認する世論の高まりを増長する役を果たしたことは、まさに取り返しのつかない重大な誤りであった。

 @ この誤りは、日本らい学会はもちろんのこと、日本医学会全体も再認識しなくてはならない。
――――――――――――――――――――――――――――――――-

 以上がハンセン病の医療に深く関与し、国の隔離政策をバックアップしてきた専門家集団の見解である。


4/8(金)雨 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア+歓送迎会
 0:30起床、新聞、文献などいつものごとく。徒然、大曲中通病院外来。5:50可燃ごみ提出、7:40Taxi駅に、8:10こまち、9:10-1210大曲中通病院、13:30飯川病院ボランティア、院長私用で不在。BR視聴:「未来世紀ジパング」、「日本人の30%にしか知られていない事実」、「サイエンスゼロ:記憶のミステリー」。18:00飯川病院婦長交代の歓送迎会。初出席。20:30Taxi帰宅、21:30就眠。歩行Σ8373Km。

秋田県エネルギー産生(2) 自然エネルギー発電の中で秋田県が占める割合。
 日本の自然エネルギーは、国内の全発電量(2009年度は約1兆1462億kWhに対して、わずか3.36%にすぎない。1990年からの20年間でみても約1%しか増えていない。国による自然エネルギー導入は鈍いまま推移してきた。

 自然エネルギー供給量を都道府県別の割合でみると、大分(地熱発電が70%以上)、秋田(地熱+小水力がそれぞれ30%以上)、富山(小水力が95%)がベスト3となっている(資料:2009 年、永続世帯 2010 年報告書:NPO 法人環境エネルギー政策研究所)。

 最近注目され設置が目立つのは、太陽光発電と風力発電ある。日本はかつて太陽電池の生産量が世界一で、累積導入量の約8割が住宅の屋根に設置されていることにある。しかし、自然エネルギーの発電量の内訳を見ると、1位は小水力で46%。太陽光発電は7%で、世界的に導入が進んでいる風力発電と合わせても20%にすぎない。

 秋田の再生エネ発電量は日本では第3位にあるが、地熱と小水力発電がそれぞれ30%以上を占め、太陽光と風力発電は割合としては低い。今後、地熱と小水力発電施設が増える可能性は少ない。

 その中で、秋田県は国内有数の洋上風力発電の適地とされ注目されている。
 洋上発電の仕組みは発電機のポールを外底に固定する方法と、フローティング方とがあるが、本県沖は水深30m以内の砂地が沖合5Km以上まで広がっている地域が多く、年間にわたって平均風速が毎秒7m以上と風に恵まれている。

 風力発電は低周波騒音による健康被害の原因となるとされ、設置場所が限定されるが、洋上風力は陸上より騒音や景観への影響が小さい。資源エネルギー庁によると、国内の洋上風力は現在、福島県や長崎県の沖合など数カ所で実証試験が行われているが、本格的な商用化はこれからである。
 
 国は洋上風力の導入を後押ししようと施策を講じている。
 秋田県は2014年度、洋上風力の導入を促そうと、秋田、能代両港湾区域内で洋上風力を行う事業者を公募した。県外2社から応募があり新たな展開が期待される。


4/7(木)風雨  外来 飯川病院 
 1:00起床、文献チェック、徒然他いつものごとし。紙中心の資源ごみ大量廃棄。6:47天候の関連でバスにて出勤。8:45-12:30外来、入院患者見舞い。14:00-18:45飯川病院、19:10車帰宅、夕食、20:30就寝。BR視聴:「そこまで委員会NP:(後半)」、「経済フロントライン」、「世界は今」Σ8367Km。

秋田県エネルギー(1) JR秋田支社秋田市泉のメガソーラー稼働
 JR秋田支社が昨年9月から建設を進めていた秋田市泉のメガソーラー発電所が3月
24日、稼働した。
 今回稼働したメガソーラー発電所は私の通勤路の脇にある。奥羽線の上下線は普通ペアで走っているが、この上下線の間に広い空き地があった。この場所に秋から何らかの工事が始まっていて、私は老朽化駅舎の建て替えなのか、と思っていた。
 何が作られているのか不明のまま降雪機を迎えた。本年3月8日徒歩通勤を再開したが、その時に初めて太陽光パネルの設置工事であることに気づいた。意外な印象であった。

 3月25日に地方紙である秋田魁新聞に稼働開始についての報道があった。

 前日稼働したのは「秋田泉太陽電池発電所」。出力は計1300Kwで、年間発電量は約170万Kw時。一般家庭約470世帯の消費分に相当する。面積は約2万5千平方Km、約8500枚の太陽光パネルを設置した。設置された場所は、1993年まで機関車の待機場所などとして使われていた旧秋田運転支所跡地。使われなくなったレールを太陽光パネルの基礎として再活用するJR東日本の新技術か初めて導入された。
 発電した電力は4月以降、東北電力に売電する。

 私は最近まで知らなかったが、JR秋田支社の太陽光発電は3ヶ所目なのだそうだ。

 2015年3月27日秋田県潟上市天王地区にて太陽光発電設備を運用開始した。天王地区には2け所で設置された。

(1)男鹿線追分・出戸浜間(秋田県潟上市天王) 秋田天王太陽電池発電所 定格発電出力 約1,800kW設置面積 約41,000m2
(2) 奥羽本線追分・大久保間(秋田県潟上市天王) 秋田追分太陽電池発電所 定格発電出力 約1,300kW設置面積 約25,000m2
 両者で想定年間発電電力量 約400万kWh、一般家庭約1100世帯分に相当。

 秋田県は経済的には農業国である。エネルギー問題については決して先進的な立場ではなかったが、秋田・能代には火力発電所を備え、東北電力管内では大きな位置付けを果たしてきた。それが20年ほど前から旧秋田空港敷地、本荘地区などに風力発電装置が設置されてきた。最近は秋田市内にも次々と風力発電機が設置されている。


4/6(水)快晴 終日飯川病院ボランティア 
 0:15起床,文献検索と本読みetc.本日はフリーなれど飯川病院院長私用で外出あるために車で出勤、8:40病院着、ボランティア。この間に蓄積画像データ大量に分類処理、廃棄。18:50帰宅、19:00夕食、20:30就眠。 BR視聴:「そこまで委員会NP:世界の指導者達は何を考えているのか(前半)」。Σ8363Km。

映画2016:「望郷の鐘」満蒙開拓団の落日(2) 和田登作 監督:山本火砂子
 児童文学作家・和田登のノンフィクション「望郷の鐘 中国残留孤児の父・山本慈昭」をもとに山本慈昭の波瀾万丈な人生を映画した作品。

 1945年5月。長野県下にある寺の住職兼国民学校の教師の山本慈昭は、満蒙は「空襲も無く食べ物にも困らない理想郷・・・」と村長達から説得され、信じ込まされて1年間だけという約束で家族や教え子たちを引率して満州へと渡る。現地に到着した入植地は聞いた状況とは大違い、自分たちを警護してくれるはずの関東軍の姿はなく、食料の確保すらもままならない状況に置かれた。

 着任3カ月後にソ連軍が侵攻を開始し、身柄を拘束され、慈昭たち16歳以上の男性はシベリアへ連行された。約1年半の過酷な強制労働を経た後突然解放された。奇跡的に帰国できた慈昭は故郷へと戻るが、妻と子どもたちは過酷な逃避行の最中に、亡くなったことを知る。
 慈昭は満蒙開拓団の名簿すら整っていない実態に驚き、それを完成させるが、その過程を通じて、国策と言いながら国の無責任な姿勢を痛感し、問題を指摘続ける。
 10数年後、中国残留孤児からの一通の手紙をきっかけに、日本人孤児が多数中国にいることを知った慈昭は、彼らを日本に帰国させるべく奔走する。中国残留孤児の捜索を続けた主人公の姿を通じて、問題の本質を浮き彫りにしています。

 敗戦直前の1945年5月に、国策により満蒙開拓団として満州に渡った24万人にものぼる人々の悲惨な真実と、そこから今なお残る中国残留孤児の問題を取り上げている。
 実際にはソ連軍、中国人との間で悲惨・残虐な状況が繰り返されたという。一部の映画ではそれらを強調し観る者の心を傷めるが、この映画はそれらの描写が一切無く、年齢にかかわらず静かに現実を考えることができる構成となっている。

 私はまだ不勉強な部分があるが、満蒙開拓団の派遣は国策として行われ、悲惨な結果をもたらしたが、非戦闘員を配置して周辺を安心させ、その間に関東軍を逃亡させるという策略であった、と思う。終戦直前にこれだけの策略を行えたのは、軍上層部が関与して多方面に根回ししてシステマチックに進めた、と思わざるをえない。国民の命の軽し、欺瞞である。これに関して日本政府の総括や謝罪や補償はない。

 映画の冒頭では「国家の政策に純粋に協力しただけだったが、満蒙開拓の現実は加害者としての責任を問われる内容もあり、国家に尽くした日本国民は加害者であって被害者でもあった」という言葉に集約される。

 この作品は主人公・慈昭をベテラン俳優の内藤剛志が演じ、他の出演者も含め内容の深い作品となっている。画像の構成力も秀逸で、語るべき主張が十分伝わってきた。

 上演に先立って山田火砂子監督の舞台あいさつがあった。舞台には杖をついて登場された。80歳を超えられているようにお見受けした。また終演後、受付で著書を購入し、次作の小林多喜二関連の「母」の製作に役立つよう多少カンパした。その際、直接2、3の言葉を交わすことができた。いい記念となった。
<a href="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/9e/d44c6a88f732104f8d0540d0c66cf098.jpg"><img src="http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2c/9e/d44c6a88f732104f8d0540d0c66cf098_s.jpg" border="0"></a>
(映画の配布資料と購入した山田火砂子氏の著作)


4/5(火)快晴 外来 飯川病院 
1:00起床、文献、新聞チェック。3月分の録音データ整理。5:10可燃ゴミ提出。7:35徒歩飯川病院、8:45-12:50外来、14:00-18:45飯川病院、秋銀スタッフ来訪。19:10帰宅、夕食、20:30就眠。BR視聴:「歴史列伝;三浦按針」、「池上:ニュースそうだったのか」。Σ8358Km。

映画2016:「望郷の鐘」(1) 秋田県「○○を上映する会」主催映画を振り返った
 4月2日(土)は特にデューティはない休日。秋田県の同名映画を観る会実行委員会から前売券を得ていたので、14:00から秋田市文化会館大ホールで、映画「望郷の鐘」を観た。

 私は近代日本史を学び直しているが、満州国に関する部分は特別理解し難い。何らかの理解のヒントが得られないか、と思いつつ「望郷の鐘」を観に行った。結果としてかなり前向きに満州開拓団についての理解が進んだ。画像の質も良く、なかなかいい作品であった。

 時折「○○を上映する会」が模様されるがこれらの映画にはいつも興味が湧く。興行的にペイしないだろう、と思われるようなテーマの作品ながら、伝えたい主張が明確で、上映に共感した方々や団体が主となって上映している。年に2-3回ほど開催され、私は万難を排して観に行っている。

 私が観た「○○を上映する会」の映画をこの徒然のメモからざっと抽出してみた。

―――――――――――――――――――――――――――――――-
■「カンダハル」ーー米国の攻撃で荒廃するアフガニスタン、貧しく逃げ惑う国民達。
■「里湖〜八郎潟物語」ーー食糧増産政策で埋め立てられた八郎潟の現状。
■「しっこ」ーー米国の医療の現状、貧乏人は治療を受けられない。
■「ジョンQ・最後の決断」ーー同じく、米国の医療の現状.勝手に切られた健康保険。
■「アンダンテ・稲の旋律」ーー家庭崩壊と農業振興に音楽を絡めて。
■「ふたたび swing me again」ーーわが国のハンセン病行政と犠牲者達。
■「いのちの山河」 ーー沢内村の医療費無料化対策
■『フクシマ2011」ーー被曝に晒された人々の記録
■「ひまわり--沖縄は忘れないあの日の空を」 沖縄復帰40年企画作品
■「アオギリにたくして」 アオギリの語り部・故沼田鈴子氏の人生
■「道ー白磁の人」ーー日韓の歴史関連日韓の歴史
■「純愛」 ーー満州開拓団関連
■「ソ満国境・15歳の夏」
■「望郷の鐘」
―――――――――――――――――――――――――――――――-

 上記一覧の中の最後の3作が満州開拓団関連の作品と言っていい。

 「純愛」の場面設定は1945年夏の中国。中国の東北地方の村の実話に基づいた作品とのこと。中国大陸に渡った日本の若者達や開拓団は、国の庇護もなく厳しい環境の中で何とか日本に帰りたい一心で放浪し、生死の淵をさまよう。
 逃避行等の極限状態における病人の発生や妊婦達の苦難、貧しい山村における妊娠出産などがいかに大変で命をかけたものであったのか・・等は十分に伝わった。
 映画(33)秋田上映する会主催映画「純愛」

 「ソ満国境・15歳の夏」は田原和夫氏の同名の著作の映画化。終戦間近の昭和20年5月、勤労動員としてソ満国境付近に送られた新京第一中学校の三年生たち120名は敗戦直後、ソ満国境に置き去りにされた。故郷へ帰るまでの過酷な実体験を、生存者の一人が綴った記録の映画化である。撮影は日中関係の悪化で至難を極めたという。
 映画:「ソ満国境・15歳の夏」 田原和夫原作 監督:松島哲也


4/4(月)降雨・夕方から快晴 健康クリニックドック休診 飯川病院
23:00起床、文献、新聞チェック他。体調はかなり改善、幸いなことに健康クリニックは年度始めで休診。車にて飯川病院に。12:30飯川病院、14:00-18:30勤務。19:10帰宅、夕食、20:30就眠。 BR視聴:「世界は今」。Σ8352Km。

ハンセン病(3) なんでこれほどの差罰化が行われ、現在まで続いていたのか
 ハンセン病の歴史を語る際に重視すべきは、疾患に対する医療界の無知と患者や家族に対する社会的な差別である。多くの医療人がハンセン病を知らず、一部の医療人が古い考え方から、差別に加担する立場を取り続けていたことが大きい。

 その要因を思いつくままに以下に並べてみる。

(1)歴史的・宗教的要因、社会的要因
 @ 日本の社会には、もともと多様性を認め難い社会心理学的背景がある。そのためにハンセン病に限らず差別が生じやすい環境にある。村八分、部落問題などに示される。
 @ ハンセン病は顔面を中心に外見上でも容易にわかる病変を生じる。汚れ思想を背景に宗教観に基づく差別があった。軟骨が侵され鼻根部が陥没した状態や耳の変形を生じることもある。
 @ 感染時期は小児が多く、大人から大人への感染及び発病は極めて稀である。幼児期の感染を疑わせる患者が多いことからから性的虐待や近親相などを連想させた。
 @ 潜伏期が時に10年近くと長く感染症とは考えにくかったことと、国が優生学的政策を掲げたことで、遺伝病との誤認・誤解が広まった。

(2)知識不足から
 @ 伝染力濃密な感染環境下に置かれる等の特殊な条件が必要であり、感染力は非常に低い。らい菌と接触する人の95%は自然免疫で感染・発症はない。
 @ ハンセン病神経障害を生じるために、二次的に様々な症状が出現する。たとえば眼症状、神経因性疼痛、脱毛、変形、うら傷などの皮膚疾患、筋萎縮・運動障害等が知られている。
 @ 疾患のタイプによっては、梅毒と鑑別し難い病変を示した例があり、梅毒と同じ、と信じられた時期があった。
 @ 日本では1970年前後に制圧を達成している。近年の日本国内の新規患者数は年間で0〜1人に抑制され、現在では稀な疾病となっている。
 @ 日本では長く「癩」、「癩病」、「らい病」とも呼ばれ差別扱いを受けた。「癩」という呼び名は、社会から忘れられていない。
 @ 民間と国の病名呼称姿勢に差があった。全癩患協は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会に改称したが、厚生省や専門学会は「らい病」の病名を長期間使い続けた。
 @ ハンセン病治療薬の1つであるリファンピシンで治療されている患者は感染源にはならない。早期治療を受けた感染者は合併症や後遺症をもつことはない。
 @ 患者から医療関係者への伝染がないにも関われず医療界では不要に恐れられていた。
(3)最近まで続く差罰
 @ 家族や近親者に患者がいることが結婚などに支障が及ぶケースの報告がある

(4)国や医療界、法曹界までも加担した差別化
 @ ・・・・


4/3(日)降雨 体調不良二日目
1:00起床、午前まで文献、新聞チェック、読書他。途中微睡。午前中はデータ整理と微睡と緊張なく過ごした。BR視聴「ベートーヴェンVn協奏曲」、「NHKのど自慢」。19:00夕食。20:30就眠。Σ8348Km。

ハンセン病(2) 私も疾患について再勉強してみた
 私の年代の医師はハンセン病について病理学、皮膚科学で学ぶ機会はあったが、実際の患者に接したこともなく、接する可能性もないことから通り一遍の知識しかない、と考えられる。少なくとも私はそうであった。

 また大学教育の中では、患者が社会の中でも差別され、非人間的な生活を強いられてきたことなどは講義の対象にすらなかった。大学での医学教育は社会的な視点はほとんど欠如していた。

 私は1971年に医師となった。このころにはハンセン病への理解が進み、治療法が確立され、医学的視点、疫学的視点から隔離政策は不要とされていた。1952年にWHOは隔離政策不要との勧告をしているが、1996年、「らい予防法」が廃止されるまで国の隔離政策、非人道的政策は続いていた。この間約半世紀を要した。このプロセスを見ると、医学界の権威主義、医師の社会的視点の欠如が改革を邪魔してきた現実が浮かび上がってくる。

 日本ではこの疾患は長い間、癩病、らい・・などと呼ばれていた。らいの呼び名は差別の一因として1953年(昭和28)に「全国国立癩療養所患者協議会」は「全国国立ハンセン氏病療養所患者協議会」に改称した。しかし厚生省は「らい」を使用し続け、専門学会である「日本らい学会」も改称されなかった。1996年(平成8)のらい予防法廃止後は「ハンセン病」が官民ともに正式な用語となった。
 この改称にも約半世紀を要した。

 ハンセン病に関する世界最古の記述は、紀元前2400年のエジプトの古文書に、中国では『論語』に記述があることから、人類を古くから悩ましてきた疾患ということになる。
 日本の最古の記述は720年頃、日本書紀に残っている。

 長い間感染症とは分からずに遺伝病と思われていて、世界的にも患者の一族は社会から差別を受けてきた。1873年にノルウェーのハンセンがらい菌を発見し感染症と決着した。しかし、主たる病巣が顔面付近の皮膚に現れ、顔ぼうが変わるることから差別は治ることはなかった。

 感染経路は、経鼻・経気道によるが、感染力は非常に低い。たとえ菌を大量に排出する患者と接触しても、病原菌と接触する人の95%は自然免疫で感染・発症を防御できるため容易には感染が成立しない。 感染から発症までの潜伏期間は3-5年とされているが、数10年に及ぶ例もある。この自然免疫による感染防御とに対する知識が欠けていたことと、潜伏期の長さが社会に恐怖感をもたらし、差別に繋がってる。

 医療関係者に伝染発病した事実はない、と言われている。ただし、流行地で幼児期を過ごした人が成人になって発病する可能性がゼロではない。
 ハンセン病に有効なワクチンは開発されていない。

 治療薬は1943年プロミンが開発され全世界で使用された。有効であったが、注射での投与で不便であった。現在は抗結核剤のリファンピシンを中心とした3種の経口薬品を用いて一年間治療する。

 治療中の患者数は全世界的には2008年で22万人、わが国では国内の療養所入所者数は2008年現在2717人、治療中の患者はほとんどいない。
 近年の日本国内の新規患者数は年間で0-1人、現在では我が国ではほぼ根絶された稀な疾病となっている。


4/2(土)雲ひとつない快晴 映画「望郷の鐘」 体調不良
 0:00ちょっと早めに起床。新聞チェック、本読み、録音データ整理他。530-7:00休息就寝。午前はネコ相手に過ごす。ネコ室掃除。14:00-16:20映画「望郷の鐘」、市文化会館。18:30車帰宅、19:00夕食。20:30就寝。食後急に体調不良に。発熱あり身の置き所なし。ひたすら休む。徒歩Σ8345Km。

ハンセン病(1) 問題の根源は医学界にあった
 ハンセン病は感染症である。
 感染はおもに皮膚や粘膜の傷で、菌自体の感染力は弱いものの、家族内に病人がいると菌との接触が濃厚になり、感染しやすくなる。感染力は決して強くない。

 しかし、国の政策の誤りから1907年に患者を強制隔離したが、これが契機となり社会の中に強い差別や偏見が生じた。患者の自死、一家離散家族、結婚や就職を拒否された家族なども数多く、その偏見は現在も解消されていない。
 
 それに苦しんできた患者の家族59人が、国に1人500万円の損害賠償などを求め、2月に熊本地裁に集団訴訟を起こした。来月には原告数は150人を超えそうだという。

 もう一つの話題がある。ハンセン病の患者はかつては療養所の特別法廷で裁かれたが、この特別法廷自体が違法でなかったか、最高裁が内部調査に乗り出した。ハンセン病の患者は法的な人権すら守られていなかった。

 国は1907年、「らい予防法」という法律を制定して患者の隔離政策を始めた。熊本や鹿児島など全国13カ所の国立療養所に患者らを強制収容し、感染の広がりを絶つために堕胎、断種さえ強いた。

 ハンセン氏病の隔離政策他について概観する。
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 1907年、国は「らい予防法」を制定、全患者を国立療養所に収容した。
 1952年、WHOは隔離政策の見直しを提言。
 1960年、WHOは外来治療を提唱した。WHOの提言にも関わらず隔離政策は継続した。
 1996年、「らい予防法」廃止。隔離はこの年まで続いた。
 2001年、熊本地裁判決が隔離政策の違憲性を認め、国は元患者に謝罪し、補償を継続。
 2009年、ハンセン病問題基本法が施行され、国には元患者の名誉回復が義務づけられた。
――――――――――――――――――――――――――――

 患者本人に対する国の補償、支援金制度、名誉回復は図られることになったが、取り残されたのは家族たちである。今まで謝罪も被害補償もされていない。

 昨年、鳥取地裁で、元患者の子息が、親ともども差別され、苦痛を受けたとして慰謝料などを求めた裁判があった。賠償請求は棄却されたが、地裁は偏見や差別があったと指摘した。この判決もあって損害賠償請求の提訴への後押しをした。
 
 国が犯した過ちとそれを許した社会の人権意識を、この訴訟を通して私も考えたい。
 私は医師としてハンセン氏病そのものについて感染症の一項目として学んだものの、患者や家族たちがいかに理不尽な扱いを受けてきたかを1996年の「らい予防法」廃止までほとんど知らなかった。今はそのことを恥じている。

 ハンセン病の歴史の中に、古き医学界の、ハンセン病専門家たちの権威主義が見え隠れする。真に、謝罪すべきは医学界なのではないかとさえ思う。偏見は現在も解消されていないが、その因はハンセン病に関心を持たない今の医師たちにもある。


4/1(金)快晴夜間は強風 就業契約更新日 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 
 1:00起床。新聞、文献関連整理他、5:30可燃ゴミ少なく出さず。7:30Taxiで駅、8;10こまち、徒歩病院、9:10-12:25大曲中通病院外来。こまち、飯川病院ボランティア。BR視聴:「そこまで委員会:後半」。18:30Taxi帰宅、19:00夕食。20:30就寝。徒歩Σ8344Km。

新年度スタート 今年度の就労予定  
 新年度スタート日。病院も県内の各企業も若手新入職員を迎える。私はこの時期がとても好きである。しかし、もうフレッシュマン達とふれあう機会はない。

 本日から私の就業契約も改訂になった。本年度も明和会の嘱託として、飯川病院の応援医として働くことになった。ただ、本年1月から水曜の勤務がなくなったがそれに準じた勤務となった。

――――――――――――――――――――――――
 月曜 午前は健康クリニック、午後は飯川病院勤務
 火曜 午前は中通総合病院外来、午後は飯川病院勤務
 水曜 勤務なし(依頼があれば飯川病院ボランティア)
 木曜 午後は中通総合病院外来、午後は飯川病院勤務
 金曜 午前・午後は大曲中通病院勤務 飯川病院ボランティア
 土・日曜日 月3-4回飯川病院日直または当直
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 私は、かねてよりもっと広く勉強する時間、考える時間が欲しい、と考えていた。加えて最近は体力低下を自覚している。そのために隔日程度の勤務にしたいと思っていた。1月から水曜日が休日となり希望の一部が実現した。いままで疎かった領域に触れる時間が持てて実に楽しい。

 新年度初日、新しい気分でのスタートになる。いい季節である。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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