徒然日記
2015年10月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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10/31(土)曇り 庭仕事中心に 
1:30起床、新聞文献チェック。文献その他整理、廃棄。10:00ダリアの世話、庭の枯れ葉を土に戻すために収集、積み上げなど。プランター屋内に移す。13:30-15:00午睡。以後読書、文献読み。19:00夕食、20:30就寝。 Blu-ray視聴:「N響定期演奏会No1804、R・シュトラウス作品2曲、モーツアルトP協奏曲25番」など。

四季2015(7) 紅葉が美しい
 ついに秋たけなわ、となった。私は秋はそう好きな季節ではない。私にとって大好きな夏と、除雪を要する厳しい冬の端境期の季節だからである。それでも、深夜から起き出して早朝までの、誰にも邪魔されない貴重な時間、秋の夜長朝長の日々は楽しい。味覚の秋でもある。紅葉の季節でもある。

 最近は6:30amに徒歩で病院に向かう。その時間はまだ陽が昇らず薄暗い。徐々に明るくなっていくが、途中で見える山々の紅葉が朝日に映え、刻々と様相を変えて実に美しい。

 秋は行楽にふさわしい時期とされている。私は行楽に行く趣味はない。紅葉狩リは秋の代表か? 紅葉ならば身近なところでも十分に味わうことができる。

 厳しい、冬を前に赤く変色しながら枯れて散る葉を無常と受け止めたのは平安の世。
 紅葉は晩秋の風物詩である。そこには無常観すら漂う。散る葉を惜しみ、人生の黄昏を歌った名歌も多い。京都を中心とした静かで優雅な雅の文化である。

 千早ぶる 神代もきかず竜田川 唐紅に水くくるとは(在原業平)
 奥山に 紅葉ふみわけなく鹿の 声聞くときぞ秋は悲しき(詠み人知らず)

 しかしながら、紅葉の風情を大いに、積極的に、明るく楽しむスタイルを確立したのはやはり天下泰平の江戸時代だった。
 江戸中期から後期にかけて絵入りのガイドブックが人気で、神社・仏閣など紅葉の名所か紹介されると大勢の老若男女が押し寄せるようになった。商業が栄え町民文化が華やぐようになると、人々は行楽を楽しむようになったことが、その頃の文献から知ることができる。日本人の、普通の人が、自ら自然の移ろいを楽しもうとする、当時の人々のバイタリティー、審美眼に感服するばかりである。

 日本の文化は桜も紅葉も見るだけに止めない。秋の情景をえがく和菓子にも銘菓がある。味わう時は紅葉の情景を思い浮かべてみれば一層美味に感じられる。

 ところで、ヨーロッパの山々には紅葉する樹種がほとんど見られないとのことである。私が訪れたのは9月下旬でかなりの高地も通過したが、確かに紅葉した木は見られなかったように記憶している。
 江戸時代に来日したシーボルトは日本の植物の美しさに感嘆し、ユリやあじさいの球根をオランダに移出した。また、カエデの仲間の紅葉にも魅せられ、種子や若木を持ち帰った。それらは紅葉の乏しいヨーロッパで大反響となったという。オランダは紅葉する木々を用いた園芸でも世界をリードしていると言うが、その木々の大部分が日本から移出され、増やされたものである。

 奥深い山の紅葉はどこか神秘的で捨てがたいものがある。しかし、何も有名な観光地を訪れる必要はない。自然は懐が深い。周辺にある木々にちょっと目を向ければ、素晴らしい自然の営みの一面を感じ取れることができる。
 日本の自然は素晴らしい。


10/30(金)時折雨 大曲中通病院外来 飯川病院 
1:10起床、新聞文献チェック。文献その他整理、廃棄。5:00可燃ごみ処理。7:40タクシー駅に、8:10こまち。駅から徒歩、途中で降雨。銀行から傘借用。9:10-12:10外来。13:30-18:30飯川病院。19:00帰宅、20:30就寝。 歩数計7511Km。Blu-ray視聴:「団塊スタイル:筋力アップ健康寿命」、「池上ニュース:そうだったのか」他視聴。

医療の時代と死生観2015(22) 尊厳死という言葉(2) 「尊厳」は権利以上の哲学的言葉
 「人間の尊厳」について明快な定義はないようだ。
 私は哲学的言葉として権利以上の高次の言葉として、大切に扱っている。
 
 調べてみると「個人の権利、尊厳」について日本国憲法でうたわれている。また、国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約にも「個人の尊厳」が記載されている。それぞれどんな定義で用いているのだろうか??それが明快でないと単なる美麗な言葉にしかならないのだが。

 (1)1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法13条に「すべて国民は、個人として尊重される。」、24条2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」と規定し、「個人の尊厳」と人格価値の尊重を憲法の基本原理に据えた。

 (2)1945年(昭和20年)に発効した国際連合憲章は、「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認」するとして、人間の尊厳(個人の尊厳)を基本原理としている。

 (3)1948年(昭和23年)に世界人権宣言も、前文で「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎」、「国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認」する、としている。

 (4)1976年(昭和51年)に発効した国際人権規約も、前文で、「・・これらの権利が人間の固有の尊厳に由来することを認める」としている。

 「人間の尊厳」が上記の憲章とかにうたわれているということは、「ゆりかごから墓場まで」人間として尊重されなければならない、ということらしい。しかし、尊厳が日常的言葉として用いられることはほとんどない。頻用されるのは医療や看護、福祉の業界である。「介護・看護、人生の尊厳のために」、「尊厳ある死について」、「社会保障と尊厳」・・・と枚挙にいとまがない。何でこの世界だけ?と思う。

 一方、「権利」という言葉は分かりやすく多方面で頻用される。「権利」と対をなす言として「義務」も頻用される。しかし、今のご時世では義務を果たさずに権利だけ主張しする傾向があるようだ。一方、「尊厳」と対をなす言葉を探してみるも、私の中では不勉強ながら浮かんで来ない。要するに、この世に人間として生まれて来るだけで尊厳が保障されているということなのだろう。この重要な言葉を人生の終末期にのみ使うのは実に勿体ない。

 憲法にも保障されているから日常的に「尊厳」、「尊厳」と騒げばいい。しかし、「権利」と違って「尊厳」をいう言葉は使い難い。使うのに気恥ずかしさを伴う。実体がないからである。

 上記のようなことをつれづれと考えている。

 「尊厳」という言葉を思い浮かべれば、安易だが「尊厳死」という言葉が浮かんでくるが、私は尊厳死なる扱いはされたくない。私の人生には尊厳という言葉は似つかわしくない。死ぬ時は放っておいてくれ、というのが私の本心である。
 


10/29(木)早朝雨午前晴れ午後雨 外来 飯川病院 
 0:40起床,新聞・文献チェックほか。7:30徒歩飯川病院、8:45-12:45外来。14:00-18:30飯川病院。19:10バス利用帰宅、夕食、20:00就寝。歩行計Σ7505Km。Blu-ray視聴:「100分名著:斜陽(3)」、「英雄たちの選択:蝦夷共和国」、「ガイア:タクシー頂上決戦」、「コズミックフロント:衛星から見た気象」、「林修:罪と罰」視聴。

医療の時代と死生観2015(21) 尊厳死という言葉(1) 私にも尊厳なんてあるの?
 高齢化社会を迎え死について語ることが不自然でなくなってきた。私が講演活動を始めた1980年代はまだ死に関してなかなか言及し難い時代であった。

 1991年に東海大学病院で塩化カリウム静注で死期と早めた安楽死事件が生じた。これを機会に安楽死という言葉が一人歩きし、この事件を機に終末期医療における治療のあり方が社会問題化した。私も講演の中で死を話題にしやすくなった。また、講演の中では安楽死の対岸にある言葉として尊厳死という言葉について強調しその意義を説明してきた。
 時代も変わって、現在では、今はもう安楽死という言葉を使う患者はほとんどいなくなった。病院でも延命治療に対する意思を患者に聞くようになった。隔世の感がある。
 安楽死が消えてしまえ尊厳死という言葉も意味を失ってくる。だから、最近、私は、一切尊厳死という言葉を使わない。

 人間の尊厳は生涯において重要である。それがなんで死に際にだけ強調されなければならないのか?
 
 日本には尊厳死協会という組織がある。かつては安楽死協会と名乗っていたが、死期を積極的に早めるような措置をも含む、と誤解されやすいことから、現在は、尊厳死協会と名称を変更している。そこでは「不治かつ末期になった場合延命措置を拒否する。苦痛を和らげる措置は最大限実施してほしい。回復不可能な意識障害になった場合は生命維持措置をしないでほしい」と明記した意思表示の登録を管理している。

 私は尊厳死協会に登録する気持ちはないが、各自が自身で死に方を検討しておくべきであって、そのことが、自分自身を、家族を、医療を、国を救う唯一の方法と思っている。少なくとも私にはそう思えてならない。その意味で日本尊厳死協会の活動が一層普及して欲しいと思っている。

 そもそも尊厳とは何か??これの定義は難しい。尊厳とは何と立派な言葉であろうか。自分に尊厳があるのか??甚だしく疑問である。
 尊厳という言葉は主に終末期の医療に関連する言葉として用いられることに私は大いに違和感を覚える。

 尊厳については明快な定義はないようであるが、日本国憲法において「個人の尊厳」がうたわれている。また国連憲章、世界人権宣言、国際人権規約にも記載されている。


10/28(水)早朝雨、午前曇り午後快晴 外来 健康クリニックドック判定 飯川病院
 0:40 起床,文献チェックほかいつものごとし。7:30徒歩飯川病院着。8:45-13:00外来+ 健康クリニックドック,13:30飯川病院、14:00-18:30勤務。19:30夕食、20:30就寝。歩数計Σ7493Km。Blu-ray視聴:「林初耳学」、「柳亭市馬演芸図鑑:2回分、中村美律子」、「オイコノミア:転職時代の天職」、「NHKsp:女たちの太平洋戦争ー従軍慰安婦」、「昭和は輝いていた:越路吹雪」、「アナザーストーリーズ:世界を動かしたハプニング」視聴。

本:「怖い絵 - 死と乙女篇」 中野京子著   角川文庫  2012 (2)
 この著作は幅広い知識に裏付けられた深い記述が展開される。当時の時代背景や風俗と巧みに絡め、厳しい観察眼を発揮し綴られていく文章は読み易いし、深い。
 絵画そのものの迫力もさることながら、その絵が描かれるに至った背景を知る事によって、人間性の深淵をもえぐり出す。

 各絵画のそれぞれ時代背景なんかも詳しい。画家の生い立ちとか画家の事についても教えてくれる。

 怖い、という感情は万人に共通の感覚である。この怖いという共通の感情に訴えた絵で著作をまとめた着眼点は評価されるべきである。

 しかしながら、この本の中で「怖い絵」として取り上げられている22種類の絵は決して決してグロテスクな、猟奇的作品が選ばれているわけではない。むしろ、
作品そのものが怖いのではない。その時代背景が怖い。

 作品1として紹介されているレーピン作の「皇女ソフィア」はこの本の表紙にも使われている。この作品は「皇女ソフィア」の表情はちょっと怖い。堂々たる王者の風格を備えているが、髪はざんばら、目は血走り、奥には恐怖におののく侍女、窓には親衛隊長の死体も。
 この絵には見た目の怖さもあるが、著者の解説を読むと絵が持つ怖さは軽減され、むしろ、真の怖さは怖さ「皇女ソフィア」が生きた時代そのもの、彼女の権力闘争で右往左往させられた国民が感じたであろう恐怖感あることがわかる。
 
 作品2として紹介されているのはボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」である。見る者に春の訪れのような明るい幸せ感をもたらすこの作品はなんで「怖い絵」の中に収められているのか??私はその理由を記述を見るまではわからなかった。「ヴィーナスの誕生」秘話は、おぞましい愛欲をめぐる戦いの中、海に投げ捨てられた男性の血液が海水と混じり合い、その泡から類い稀な美と愛の化身が生まれた。だから、このヴィーナスの顔には幸せを享受するような笑顔はない。あるのは迷いの表情である。この絵にもおぞましい事件が隠されていた。

 私どもは怖い、という感情を抱くのは相手の素性を怖さ知らないことから生じてくる。相手を知れば知るほど怖さは軽減されていく。絵画の場合は逆と言っていいようだ。知れば知るほどその怖さを知ることができる。
 歴史画の背景には権力者の末路としての精神が崩壊していく怖さなどが表現されている。だから、絵を素直な感覚で見るということは正しくなく、その絵が描かれた時代背景、歴史を知った方がはるかに良いと気がついた。その歴史の中にこそ怖さがあぶり出されてくる。

 例えば、ドガの作品「踊り子」であるが、踊り子の表情には笑いがない。当時、オペラやバレエのメンバーは娼婦的な扱いしか受けていなかったためであろう。当時の天と地ほどの身分差、差別意識があったことを知らないで絵を見ることは罪深いことだと私は納得した。そのため、最近は画集の購入は控え、観賞用の文献を集めている。

 私はルーブル美術館を訪れた際、ヴェルサイユ宮殿を含め見事な絵画群に度肝を抜かれた。個々の作品は素晴らしいものであった。今でも心からそう思う。
 しかし、壮大な、美術館、宮殿を去る頃には私は深く落ち込んでしまった。王家の搾取におののく貧しい農民、市民とかの生活状況の方が濃厚に私の頭を占拠したからであった。

 中野氏の著作を通じて私が得たことは、何も知らないで見る絵はつまらないだけでなく、真価、本質を理解することができない、ということである。


10/27(火)午前曇天午後快晴 外来 飯川病院 
 0:40 起床,文献チェックほかいつものごとし。6:00可燃ゴミ提出、7:30徒歩飯川病院着.8:45-13:00中通外来、混雑。13:30飯川病院、14:00-18:30勤務。18:50車帰宅、夕食、20:30就寝。Blu-ray視聴:「映像の世紀:デジタルリマスター(4)ヒトラー」、「久米書店:舞の海」、「ガイア:新ベンチャー企業」、「Cool Japan:可愛い2015」、「林、世界の名著:古都」、「チョイス:健康寿命伸ばす運動」、「サイエンスゼロ:オートファージ」視聴。昨年居間のストーブを今季初使用。歩行計7484Km。

本:「怖い絵 - 死と乙女篇」 中野京子著   角川文庫  2012 (1)
 私は絵画鑑賞は好きである。ただし、実際は鑑賞なんてものではなく、ただなんとなく、美しさ、画家の技能を眺めていただけであった。画集も数種類持っていて時折見ているが、最近はちょっと見方が変わった。

 かつて、と言ってももう20年も前の話であるが、パリ、ハンブルグ、ミュンヘン、ウイーン、ポーランドなど訪問の際、目的を主にオペラ鑑賞に中心を置いていたが、時間を見つけては積極的に美術館を回ってみた。ルーブル美術館、オルセー美術館、他の著明な美術館も回った。モナリザ、晩鐘、ナポレオン戴冠式などの有名な作品をはじめとして、壮大な作品群に圧倒され感銘を受けた。
 国内でも大原美術館、サントリー美術館ほか、学会出張時に機会があれば地方の美術館も回ってみた。秋田でも県立美術館、県立近代美術館など、時折の企画展は見に行っている。

 ただ、私の絵の鑑賞は、つい10数年前まではろくに勉強もせず、単に芸術品として「美を、作者の感性や技能を感じとる」だけであって「絵そのものの存在意義を理解する」こととはほど遠かった。実に薄っぺらな鑑賞眼であった。世界的に有数の美術館を訪れるというせっかくの機会を得ながら、実に無駄な見方をしたものである。できればもう一度、と思っているが、叶えられる可能性は少ない。

 最近、中世以降の歴史を勉強するにつれ一枚一枚の歴史画が表現しているものの重大性、意味を知るようになった。

 私の絵の理解に大いに役立っているのが、早大講師でドイツ文学者、西洋文化史家である中野京子氏の著作である。氏は絵画に造詣が深く名画に関連した解説書など多数執筆されている。私が購読している文藝春秋にもグラビアを受け持たれ、毎月名画を紹介し続けている。

 氏の著作は多数あるが、その中では「怖い絵」として3編まとめられている。その中でこの「怖い絵 -死と乙女篇」はシリーズ3作目である。歴史に残る名画を紹介しながらその名画の背景を史実と主観と批評とを交え読み解いていく 。

 本書では22作品取り上げている。絵やその存在意義の解説の文章は読みやすく、絵の空気感が伝わってくる。絵に関しての解説、その絵が生まれた時代背景、その絵が描かれなければならなかった背景などについて、氏の解説を読みながら絵を見なおすと全く違った見方ができるようになる。

 結局、「怖い絵」シリーズとして取り上げられている絵は作品そのものが怖いのではない。決してグロテスクな作品が選ばれているわけではない。
 真に怖いのは描かれた背景、絵にまつわる逸話、その時代の恐怖であり、著者はそのことを強調したかったのではなかろうか。
 本書の中で改めて見直し感銘を受けたのは、ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」、アンソール「仮面に囲まれた自画像」、ドラクロワ「怒れるメディア」、レッドグレイブ「かわいそうな先生」などである。


10/26(月)曇りのち晴れ 健康クリニックドック 飯川病院
0:30起床、文献新聞他チェック。この時間からだと余裕あり。7:30徒歩飯川病院、9:00-11:00健康クリニックドック14名+結果説明3名。紹介状その他書類関連病等業務。12:30飯川病院。14:00-18:30勤務19:00帰宅、夕食。20:45就寝。歩行計7475Km。Blu-ray視聴:「100分名著:斜陽(2)」、「ヒストリア:鑑真と弟子」、「ガイア:新ベンチャー企業」、「林、世界の名著:古都」、「映像の世紀:デジタルリマスター
(3)(4)」視聴。

転倒防止(3) 転倒時に私を助けてくれたディバッグ
 今まで何度か激しく転倒したが、今までのところ大事に至っていない。
 転倒時に私を守ってくれたのが今用いているディバッグである。これを背負っていなければどんなにひどい怪我をしていたのか、思っただけでもゾッとする。

 ディバッグには、iPhone、iPad mini、Hard diskなどの電子機器とこれらを守る緩衝袋、切り抜き用の日刊紙が4紙、他に雑誌、レインコート、手袋、襟巻き等の防寒具を入れてあり、格好悪く膨らんでいる。これらがクッションとなり衝撃を緩衝してくれた。
 ディバッグは布製でもうボロボロになり、ところどころに穴も開いているが補修しながら使い続けている。

 この2年間の転倒について思い出してみた。

 #1 2013年10月9日6:30am、自転車で通勤途上、手形陸橋付近の交差点で対向してきた高校生の自転車と接触した。私の方はかなりスピードが出ており、10mほど走って歩車道を分けているブロックに前輪を引っ掛けて舗道側に転倒、左側半身を強打した。高校生には怪我はなかった。
 私も体表上には怪我がなかったが、一週間ほど激しい左胸痛に悩まされた。ヘルメットとディバッグが衝撃を吸収してくれた。

 #2 2013年12月3日7:20am、徒歩で病院に向かっている途中、千秋公園下の、板敷きの歩道で両足が同時に滑ったために身体が浮き、仰向けに転倒、臀部と背部を強打した。四肢は通常に動いた。この時の衝撃も背負っていたディバッグが吸収してくれた。

 #3 2015年8月16日9;30am、花巻温泉郷志戸平温泉近郊の「薄衣の滝」を見に行き、濡れた石に足を取られ右背面を下にして石の河原に仰向けに落下、右側頭部と右側腹部、臀部を強打した。
 下は石の川原である。滑っている最中、最悪の事態も覚悟した。右上半身は頭部からの出血で真っ赤に染まっていた。意外にも四肢は無事動いた。200mほど歩き下山、救急病院受診した。頭蓋内に出血なかったが、のちに腰部臀部が腫脹し始めた。今から見れば深部の腫脹と出血のためで結構危険な状態であった。
 1ケ月かかって出血は吸収された。2ヶ月以上経過したが、今でも右背部・臀部の触覚は鈍い。ディバッグにはミニ旅行中に読もうと書籍が数冊入っていて転倒の衝撃を大幅に和らげてくれた。1-2か所新たに穴が開き、表面は血だらけであった。

 #4 その他。昨冬から春までの間、路上で雪に足を取られ、3回後ろ向きに転倒した。後ろ向きの場合、自分で防御姿勢はほとんど取れない。これらの時、背負ったディバッグが衝撃を和らげてくれ、いずれも大事に至らなかった。この転倒から防寒靴の滑り防止機能はあてにならないと悟り、今季はスパイクを履きたいと思っている。

 ディバッグで助かった。
 後ろ向きの転倒であったが#3の転倒以外は直接頭部は打撲していない。ディバッグで作られた地面と身体の間の空間が頭を守ってくれた。しかし、頸部の筋肉は最大限に緊張して頭が地面につくのを防いでくれたためか、転倒の後は2週間ほど頸部痛に悩んだ。さらに、首の左右への回転が狭くなって来たように思う。

 徒歩通勤していると足下が滑る場所は沢山ある。特に雪の歩道、凍結した路面、濡れた路面、濡れた落ち葉、マンホールの蓋、橋の上などは特に危ない。これからの季節、連日冷や汗ものである。


10/25(日)曇天・寒い 冬支度進める 居間のストーブ初使用   
1:00起床。新聞チェック。資料、種々こなす。朝方微睡、最近早朝に一時休息が必要になってきた。歳か。午前居間のストーブ試験着火、難渋したが問題なし。昨年は2日後であった。書斎に冬用にパーテーションカーテン装着。これで早朝の暖房効率が上がるだろう。外のプランターの一部を屋内に移す。19:30夕食、20:30就寝。7467Km。Blu-ray視聴:「日本センテュリー交響楽団:飯森範親指揮、ハイドン作品集」、「NHKのど自慢」など。

転倒防止(2) 足底は高感度センサー! それを何故使わないか!
 なぜ高齢者は転びやすいのか。視力の低下による遠近感の把握がうまくいかないことや筋力の低下が原因と思いがちであるが、股関節をはじめ体のあちこちにある「感覚受容器」の衰えが重要な働きを持っている。

 その中でも足首から先の踵、足指の付け根、親指には多くの受容器が 存在している。これらは地面や床の性状、微細なでこぼこ、傾斜や段差などを感知し、その情報を脳に送る重要な役割を担っている。そして脳から動作指令が全身に出る。だからふらつきの予防には「感覚受容器」の機能を高めれば良いということになる。

 もともと足裏の感覚は鋭い。手のひらとの対比において知覚神経の分布は足底の方が緻密との報告もある。
 足裏感覚は繊細である。なんで繊細なのか。それは、二本足歩行だからだろう。

 足裏は厚い表皮で覆われ知覚終末は存在しないが、乳頭層内には多数の知覚終末が認められている。また踵部と外縁部には脂肪小層が存在し、地面の、硬い、軟らかい、湿った、乾いた、すべりやすい、凹凸地面、体重負荷や応力により変形する事が情報源となる。
 二本足で活動する人間にとって足底は唯一地面と接し、地面の状況変化とそれに応じた姿勢制御のための感覚を収集し中枢に向けて発信する部位である。すなわち、姿勢制御や運動時の高感度センサーであるといってよい。

 足底感覚は我が国の文化とも切り離せない。
 剣道は足裏感覚を重視し攻防を決める。相撲界では足で砂を噛むと称されるほど足底感覚が重要視される。伝統的な歌舞伎や能、日本舞踊での美は足部と足底のこなしが原点である。さらに、日本の生活様式の中で長い間用いられてきた、草履、わらじ、下駄、足袋などは靴文化によって衰退したが、日本人は例外なく屋内では靴を脱ぐ。日本人には出来るだけ裸足で過ごしたいという文化、考え方が働いている。靴は不快である。

 私はリハビリテーション医療の中で訓練中は極力裸足で過ごさせてはどうだろうか、と思っている。すでに現役ではないから積極的介入はできない。私自身はふらつき症のリハビリテーションして医局や外来の診察室では裸足で過ごしている。

 つい先日、病院あてに私の診療時のスタイルについてクレームの投書が来た。私は反応しなかったし、その後も続けているが、病院としてこの投書にどう返事したのであろうか。


10/ 24(土)曇天・降雨 孫と留守番に
 1:00起床、新聞・文献、徒然、その他、ゆったりと。貴重な週末。午前はバラ関係若干、データ整理。14:00-19:30孫と留守番することに。Blu-ray視聴できず。19:50夕食、21:15就寝。歩数計7462Km、2日間でわずか12Km。

転倒防止(1) 加齢によるふらつき防止に足裏感覚が大事 裸足礼賛
 間も無くまた雪の季節がくる。
 ここ数年、雪道を歩いていて滑って転ぶことが多くなってきた。身の危険を感じる。滑り防止に良い防寒靴を購入したがそれでもダメだった。雪の歩道上で転ぶ場合、突然だから対処の方法がなく、無防備な姿勢で転ぶことが多い。特に、現在の道路事情は危ない。結構凹凸はある。身を守るために何らかの対応が必要である。
 今年は雪道用にスパイク底の靴、または雪靴に装着できるスパイク状のアタッチメントを用意しようと思っている。多分これで転倒はかなり回避できるのではないか、と考えている。

 また、最近気づいてきたが、玄関先で靴を履こうとした時にバランスを崩して転びそうになり周囲のものに掴まって難を逃れることが増えた。このことを合わせてみると雪道の転倒も単に靴底が滑りやすいことだけが要因ではない、と思うようになってきた。

 高齢者の転倒は室内の絨毯のめくれや玄関先の段差など、ちょっとしたことで生じる。骨折にも直結し、健康寿命の維持にも影響する。寝たきりの原因として骨折や関節の障害が20%ほどを占めている。転倒防止策として筋力強化などさまざまなが方法が紹介されている。
 しかし、私の場合、週に4-5日は歩いて通勤し、千秋公園のお隅櫓脇の階段を200段ほど上り、公園を横切って降りている。大体10Kmほどを歩いているからそう筋力が落ちているわけではない、と思う。にもかかわらず段差などでふらつく。

 だから、このふらつきは筋力ではなく平衡感覚の衰えに起因するとの考えに立った。
 加齢によって増えるふらつきの防止には平衡感覚に最も重要な耳の機能の維持と、それを補充する視覚と下半身を中心とした関節のセンサーと足裏のセンサーを生かすことである。

 目の機能の保持は、老視、白内障、緑内障などの視覚の衰えに直結する病気を治療すること、平衡感覚の維持には片足立ち、路上の白線上を歩く訓練、横になって身体をぐるぐると回転させる運動などが役立つ、とされている。

 下半身の関節のセンサーの機能保持には可動性の維持、歩くこと、関節疾患の治療を行い痛みがないことが条件となる。

 足裏のセンサーは、床面の性状や状況を察知して滑りやすいか否かを判断したり、身体の傾きを敏感にキャッチして、全身の深部感覚に情報を与える重要な役目を負っている。ところが現代の生活様式は靴下とか靴を履くことで足裏感覚を生かしきっていないように思える。

 私は基本的に素足を好むのだが、さらに診察室では裸足で診療している。これがまた実に気分がいい。


10/23(金)超快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア  
 0:30起床、新聞チェック他。歴史関連本読み、5:30ゴミ出し準備。7:40Taxi。8:10こまち、9:10-13:00大曲中通病院外来。駅病院間徒歩。14:30-18:30飯川病院ボランティア、7:00Taxi帰宅,19:00夕食、20:00就寝。Blu-ray視聴:「バクモン:超高層マンション」、「オイコノミア:副業の経済学」,「アナザーストーリー:山口百恵」、「昭和偉人伝:仰木彬」。

人はどこまで信じられるか(4) 自分をも信じられない。ましてや・・・

 秋田県内の公金をめぐる不祥事はたびたび起きている。
 私のファイルにも以下の件が記録されている。
(1)能代市の女性職員が09-13年、納税証明書の又付手数料など約400万円を着服。
(2)横手市の男性職員が07-09年、窓口で納税者から徴収した市税約600万円を着服。
(3)秋田市で昨年、上下水道局発注の配管修繕工事をめぐる贈収賄事件が生じた。背景には随意契約があった。
(4)男鹿市の税務課長が、09-15年税金を着服、この6月懲戒免職になった。
(5)仙北市のごみ最終処分場の係長が、2015年9月収賄容疑で逮捕された。

(4)の男鹿市の場合、係長が約500万円の着服を認めているが、不適切な税金処理は6年間で2700万円を超えている、という。元課長は正規のものとは別の領収書を発行するなどして隠蔽していた。元課長は07年度以降同じ地域を受け持っていた。現金の受け取りは1人で行わない、同じ地域を長く担当しない、などのルールがありながら、守られていなかった。生活費や妻の医療費の支払いに充てたという。

(5)仙北市の係長はある業者に処分場の水処理施設管理業務を受託で便宜を図った。係長は計140万円相当の旅行接待を受けたらしい。自治体の公共事業は、競争入札が原則で、特定の社を対象とする随意契約は例外的である。係長が作成した起案書は、上司や担当部幹部、副市長、市長が決裁した。内容は深く吟味しなかったという。係長はほぼ同じ業務を10年も担当していた。

 各市ともに内規やガイドラインがあった様である。なぜ、ルール無視が同僚や上司によって見逃されてきたのか。公務員特有の緊張感の欠如と互いの仕事に口を挟まない慣習など、体制に甘さがあると思われる。

 上記は公務員の関与したものを集めた。こんな事件は私企業では生じ難い・・と言いたいところであるが、高額の横領事件は金融機関を中心に結構見られる。表沙汰になるのは少ないと思われ、実態はつかめない。事件のほぼ共通点として、同じ業務に長く従事したことが背景にあることが多い。

 一人一人が業務に誠実に向き合っている、と思いたいが、時に裏をかかれる。業務に不適正な点が疑われたら、即座に情報をすくい上げられるような機構が必要である。

 私は金銭を扱う仕事に就いたことがない。誰も見ていないところで少額の現金を拾う機会くらいはあるだろうが、私ならどうするか。無視するか、ネコババするか、届けるか、その時になって見なければ分からない。恥ずかしながら私の倫理観もその程度である。他人のことは分からない。


10/22(木) 早朝降雨あったが秋晴れ  外来 飯川病院
 0:30起床。文献・新聞他。7:30徒歩飯川病院、8:45-13:00中通外来。14:00~19:00飯川病院。 新聞・文献スクラップ入力。19:00帰宅、夕食、20:30就寝。歩行Σ7450Km。 Blu-ray視聴:「そこまで言って委員会NP」、「世界の今、今世界は」。

人はどこまで信じられるか(3) よき父、よき夫も組織人としては別感覚に陥り易い
 組織的悪を容易には組織的な監視のシステムが必要である。その意味では日本はまだ近代化していない。このネット社会では隠そうとすれば不利になる、という社会的制裁も待っている。

 組織の安全を維持するためには、隠そうとする誘惑を打破するような制度を作らなけれぱならない。
 それには監視機構をいかに構築するかにかかっている。

 欧米、特にアメリカでは内部監視制度を必須のもの考えている。仲間同志で問題を指摘し合う制度である。日本では特に、仲間や上司の過ちや失敗を指摘するのはタブーとされてきた。そういうことをすると問題人として嫌われてきた。
 ところがアメリカでは、多民族国家なので組織運営は最初から困難であった。その中で、仲間の過ちを指摘するのは結果的にはお互いのためであり、組織のためであるということを早くから気づいた。そして、過ちをすばやく軌道修正することが組織に不可欠のものだと認識している。告げ口とは発想の原理はまったく反対である。この辺の呼吸を的確に使い分けるようにしないと、これからの組織は発展しないだろう。

 かつての日本の企業は個人を組織の中に取り込み、ギブ&テイクの関係で組織を維持してきた。これまで同族感覚、家族感覚でそれなりに成功してきたが、今後はどうであろうか。就労環境も労働条件も変わった。東京電力の隠蔽事件などを見れば、もうとても昔の意識ではグローバリゼーションに対応できない。

 公益通報者保護法の施行から間もなく10年を迎えようとしている。
 これまで組織の不正行為を数多くの方が通報してきた。

 しかし、この法は、実際には通報者が嫌がらせや不利な扱いを受けた場合の罰則がないなど、通報者を保護するという、本来あるべき法の役割がアンバランスとされている。
 労働者は労働契約上、通常は組織への誠実義務等を約する。外部への通報がこうした義務に違反するとみなされ、懲戒や解雇の対象となるという認識も根強い。

 もともとこの法は、通報によって消費者の安全、ひいては社会の利益を維持・向上させることを念頭に生まれた。通報後の嫌がらせや不利益を気にせずに通報できるシステムこそが求められているが、まだ社会的に周知不十分なようである。
 
 組織は基本的には持続性が必要である。更に社会からの信用をえるために右肩上がりの成長が期待される。そのためのエネルギーの保持は大変である。マイナスの要素は何としても排除しなければならない。そんな事情があるから、本来組織には隠蔽体質がただよう余地があると私は思う。特に企業のトップにいるものはその感覚に陥るやすい。何となれば、集団での不正行為の場合、個人が責任の所在が問われることは稀だから、である。

 東電にしろ、東芝にしろ、VW社にしろ、経営のトップ陣にいる人は個人的にはそうずる賢い人間でないと思う。家庭に帰ればいい父親であり、夫であるはずだ。それが、組織の人間として動く場合なんでこう判断力を失うのか。組織は人を豹変させることもある。何故なのか?私の興味はここにもある。

 だれもが組織の不正を何のためらいもなく通報できる社会へ変えていく。公益通報者保護法施行10年を迎えようとする今、法のあり方や通報の社会的意義を改めて考える時期に来ている。


10/21(水)秋晴れ 外来 ドックデータ整理 飯川病院ボランティア   
0:30起床。読書、録音データ整理と処理、分類など。歴史関連本読み。7:30バス徒歩飯川病院着、8:45-13:00外来+ドックデータ整理。13:45-18:30飯川病院。19:10バス帰宅、夕食、20:15就寝。Σ7440Km、Blu-ray視聴:「林先生初耳学」、「世界一受けたい授業:東大異彩発掘」、「日本視察団:冷凍食品」。

人はどこまで信じられるか(2) 権力者、組織人、個人・・・どれも信用ならない
 政治に不肖事はつきものである。権力と経済力は人を狂わせる。これは人間の弱点でもある。しかし、最近では官のみならず民にも不祥事が絶えない。

 日本社会には自浄作用が弱いのではとさえ言われている。
 例えば2002年に発覚した東京電力のデータ隠しであるが、原発の安全に関わる検査結果データを改ざんしたり、隠匿したりした事件が大問題となった。
 その発端は内部告発であった。 当時の社長らが引責辞任した。原発炉等規制法は、自主点検でトラブルが見つかった時も程度に応じて国に報告するよう義務付けられているが東電はそれを怠ったばかりかデータを改ざんしていた。点検作業を行ったアメリカ人技術者の内部告発が切っ掛けで表面化した。しかし東電側は「記録にない、記憶にない」と非協力であったため調査は難航した。

 東京電力の隠蔽体質は当時から問題であった。それなのに、大騒ぎした社会もすっかり忘れていた。それが全然改善されていなかった。10年後、原発事故として再び問題になったが、前回と同様、隠蔽に次ぐ隠蔽であった。

 当時、内部告発があった際、当局もすぐには腰を上げなかった。そればかりか、告発者名を電力側に通報したとされている。当局も東京電力側もことの重大性から、なんとか隠便に済ませようとしたのであろう。

 隠便に済ますというのはごまかすこと、隠蔽することと同じである。その結果、東京電力は社会から激しく非難され、信用はがた落ちとなった。

 都合がが悪いことは誰でも隠したい、と言う意識が働く。
 これは人間の弱さであり、当然の心理である。しかし,隠すと発覚した後で問題が大きくなる。2002年に発覚した東京電力のデータ隠しは、福島第1原発3号機、柏崎原発で計画されていたプルサーマル計画の凍結を発表するなど、原発政策全体をゆさぶる大間題に発展した。

 最近の企業の不祥事をあげるにも事欠かない。フォルクス・ワーゲン、旭化成のマンション基礎工事の手抜きとデータ改ざん、東芝の粉飾会計、東洋ゴムの免震装置データ改ざんなどなど。

 こういう不祥事が頻発する現状をどう考えたらいいのだろうか。
 私は、背景には人間の性質上、当然の現象、当然の帰結なのだ、と考える。権力者はあてにならない、過剰な経済力を持つ人間はあてにならない、組織人はあてにならない、個人とてあてにならない・・・は私の感覚である。だから、私は基本的に人を信用しない。私だって本音を隠して外面はほぼ100%装った建前で生きている。だから、信用されても困る。

 人間は社会的動物である。社会を形成しなければ生きていけない。こんな人間で構成するのだから反社会的行為に走らないよう、監視するシステムが必要である。

 私が信頼してやまない人間もいる。
 それは、新生児。彼らには打算がない、嘘がない。欲求のおもむくままに正直に自己を表現する。天使そのものである。これ以降の人間は軽重様々であるが、すべて疑ってかかかるべき存在に仕上がっていく。


10/20(火)晴一時雨 外来 飯川病院 日赤に見舞い
 0:30起床、歴史、新聞切り抜きと入力などいつものごとし。5:00可燃ゴミ廃棄、7:20徒歩飯川病院へ。8:45-13:00中通病院外来。13:30-18:00飯川病院。日赤に孫見舞い。 19:10帰宅、夕食、20:00就寝。Blu-ray視聴:「久米書店:帝国データバンク関連」、「混迷ギリシャ」、「ザイエンスゼロ:耐塩生植物」。Σ7433Km。

今年度の就労(3) 来春から私が担当する水曜午前外来を閉める  
 半年前の話であるが、新年度スタート日である本年4月1日から、私は中通総合病院の水曜日の外来から外れることになった。ただしこのプランは1日だけで頓挫した。
 3月中旬に外来担当医師の充足が得られたので、自分から申し出て急遽水曜外来から外れることにした。かねてからの希望でもあった。その日、多少外来の様子は気になったが、天から頂いた休日と考え、自宅で過ごした。

 結果的に4月1日の外来は患者も、大学からの派遣医共とても困ったようである。
 この、私が急に外来から抜けるというプランに無理があったようで、翌週から、すなわち4月8日から元に戻し、現在まで続けてきた。

 それ以降、毎週2−3人ずつ派遣医に紹介してきた。今まで30名以上移っていただいが、それでも水曜日に通院している患者は目に見えて減ったわけではない。これ以上こんな方法を続けていてもラチがあかない。それで今回は準備期間を3ケ月設けて水曜日の外来を閉鎖することにし、外来に提示した。

 私が診ている患者の通院サイクルは14日から最長90日であるが、大部分は28日または56日である。だから、準備期間を3ケ月設ければほぼ全員に浸透する。これだと混乱はないはずである。
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=92a7bf93ce82983ddeba9862fb8fb821&p=1&sort=1&disp=50&order=0&ymd=0#

 私は70歳になって医師として能力的に急性期病院には相応しくないレベルになった。このことは自覚している。いつ診療契約が切れてもおかしくはない。健康上の問題もある。その準備として血液免疫関連の患者は2年ほど前から若い専門医に紹介し、ほとんど残っていない。
 私が外来から抜けるにはやんごとない事情が起きて消えるのが一番、と思うが、今日までそんな機会はなかった。8月の滑落受傷はいい機会だったがそこまで至らなかった。だから、次善の策として3ケ月かけて準備することにした。

 私が担当している外来に通院している方は大部分は高血圧、高脂血症等の生活習慣病、あるいは老年症候群等、である。結構遠方からも通院してくる。なんで通院しているかを確認しながら紹介作業を進めているが、「長い間診ていただいているから」、「話しやすく、よく話を聞いてくれる、希望にも対応してくれる」、「処方にあまり頼らない診療だから」、「先生に看取られたい」、「・・・」などと様々である。要するにどんな医師でもできる仕事である。大した技能もいらない。「いつも慰め、時に治療する」程度で、急性期病院の仕事としては必ずしも相応しくない。

 患者への私からの説明は「互いに長生きし過ぎたようで、私の方が先に限界がきました。今回、より長く診療していただける若い先生に紹介します。お元気で・・」、である。多くの患者は火曜、木曜日の外来への通院を希望するが、それを受け入れればその曜日が患者で溢れる。それに、火曜、木曜日の外来だって次年度のことはわからない。

 いろいろな声が聞かれるが、この際、バッサリと割り切る。
 まだ先のことであるが、水曜の、空いた時間のことを考えるとワクワクしてしまう。


10/19(月)秋晴れ 健康クリニックドック 飯川病院
1:00飯川病院で起床。いつもの如く持参のデータ整理、読書とか。9:00-11:00健康クリニックドック。11:30飯川病院へ。14:00-18:30勤務。
19:00夕食、20:00就寝。Blu-ray視聴:「そこまで言って委員会NP:安全法案強行採決」、「世界の今:北朝鮮の今」、「経済フロントライン:TPP」。

ジジババ・孫論2015(4) 背中を見せられないジジにはしつけはできない 
 次男一家が秋田に移ってきてからはジジと孫たちの関係が若干薄くなった。

 多くの親もジジババも、孫たちには「当たり前」のことを「当たり前」に出来る様になってほしいと願っているはずである。そうは思っていても外孫の場合、親たちがどんな方針でしつけをしているのかよくわからない。だいたい初めからしつけなどをジジになど期待していないのではないだろうか。少なくともきちんと説明されたこともない。ただ孫たちの様子を観察し、その折々親が、特に父親がどうアクションするのかを通じて知るしかない。

 娘方の孫は2歳ちょっとであるが年に数回我が家を訪れる。両者の親のしつけ方針は微妙に異なっている。叱り方も違う。違っていて当然だと思うが、そのニュアンスはたまに会う関係からは分からない。

 他人の子育てに口を出すつもりは毛頭ないが、自分の孫のしつけについてもジジが近づくことは到底できない。ジジとしてはこんな場面ではもっと厳しくして欲しいと思うことは少なくないが、両方の夫婦とも子育ての方針は話し合っているのであろう。ならばジジなど割って入るべきではない。
 私が得た結論は、「生活を共にしていない孫のしつけはジジには無理・・・」、ということである。

 私が育った環境は昭和20~30年代で家族構成は祖父母、両親と私、それに住み込みの看護婦が1〜2名、お手伝いさんが一人いた。私が記憶にある限り私のしつけはほぼ100%祖父母によって行われた。家父長としての祖父及び祖母の前では両親、従業員とも一切口を挟むことはできなかった。こんな環境は両親にとって気の毒と思ったが、当時はそんなものだったかもしれない。

 祖父母は将来道を継ぐ可能性があることから私を特別目をかけてくれたと思うが、そのしつけという面では厳しかった。起床の時間厳守から、食事のマナー、訪問客への対応のマナー、言葉遣いなど徹底して叩き込まれた。直接の体罰はそれほどなかったが、祖父との約束を反故にした際など、日本刀を片手に追いかけられたり、外の食料品庫件物置小屋に一晩放置されたりした。祖父母の前ではいつも縮みあがっていた。母や従業員は暖かかった。私はしつけを通じて改造されてしまったように思う。
 そのことがつい先日までの社会生活の中でとても役立っていた。祖父母には感謝しているが、今はその束縛から解放され、本来の自分に戻ったような気がしている。祖父母に対しては、当時は恨みを抱いたこともあるが、今は尊敬の念を抱いているから不思議である。

 そんな厳しいしつけに耐えられたのは、祖父母の謹厳な生活態度、背中を毎日毎日見ていたから、と思う。そこには手本となる人間がいた、ということ。

 こんな幼少期を過ごしたため、私が子供を見る目、とりわけ孫たちをは見る目は甘くない。しかし、時代は異なるし、長女や息子たちとも考え方が異なっている。ましてや孫たちとはたまにしか会わない。私の背中なんてその目では見たこともなかろう。だから、ジジの立場ではしつけは出来ないし、すべきでない、と思っている。

 のびのび育っている孫たちはとても可愛い。半ばしつけを放棄しているから私は気楽な気持ちで彼らの成長を見守っている。


10/18(日)秋晴れ 飯川病院当直
 1:00起床。文献チェック他。何時ものごとし。8:27バスにて飯川病院に、8:45日当直に就く。新聞切り抜き他。11:50、18:00検食。20:30就寝。Blu-ray視聴:「歴史列伝:榎本武揚」、「慢勉:東村アキコ」、「団塊スタイル:目の病気」。「池上:ニュース解説」、「池上世界を変えた本:ケインズ経済学」、「映像のデジタルリマスター(1)(2):第一次世界大戦前後の映像」。歩行計Σ7416Km、ほとんど机上作業で歩行の機会はなかった。

ジジババ・孫論2015(3) しつけにおけるジジの責任 
 今夏、息子一家が秋田に転居してきた。借家であるが市内に居を構えた。今春子供が生まれ3人になり、さらにボーダーコリーの親子3匹と大家族である。息子夫婦は私から見ててんてこ舞いの毎日である。私どもとは別世帯で5Kmほど離れて住んでいる。

 息子一家との関係は、盛岡にいた時の方が濃厚であった。8人が揃って来るときは来秋した、というより来襲で、2-3日泊まっていくことがあった。秋田に移ってきてからは顔を出す機会は増えたが数時間程度である。ちょっとジジと孫たちの関係が薄くなった。
 先月、上の孫二人の通っている幼稚園の運動会にジジババとして見に行った。孫たちに、何かの行事のときにはジジババが来てくれるということで、ジジの存在感を示しておく必要がある。実際には30分ほど見た後私は車の中で寝込んでしまいほとんど見なかった。

 上の孫二人は、自我が発達して親の言いつけはなかなか守らないが、口だけは達者になり、親の言い方をしっかりまねしながら二人が互いに言い合っている。
 子供は身近な人を模倣しながら身につけていく。だから、しつけは親が「口で言うより、日常手本を示していること」が肝要である。そのためには、夫婦間の間柄、別居のジジババ世代との人間関係、外では少なくとも隣近所あたりとの人間関係が良くなくてはならない。両親はこれらとの人付き合いに模範を示さなければならない。特に、ジジババとの関係はでは互恵関係を保たねばならない。要するに「親孝行」の姿を見せること、これが次世代の育成のためには重要なことである。もちろん、逆も同じ。

 多くの親は、子どもには「当たり前」のことを「当たり前」に出来る様になってほしいと願う。そのためには、まず親自身が「当たり前のことを当たり前にする姿勢」を身につけ、それを子供達に示し続けることが重要である。しかも、その姿勢は一貫性がなければならない。これは大変なことである。さらに、言って聞かせて分からないときには会津藩の家訓にある「ならぬものはならぬのです」と毅然とした態度でコントロールすることが必要がある。

 少なくとも自我が発達して親離れが始まってくる年代に至る迄は親はそういう視点でしつけをして欲しい。

 巷で見聞きする親子の姿を見ていて、私は「これでいいのか?」と疑問に思うことは多いが、所詮他人のことである、「他、我にあらず」と思うしかない。
 私も初期の頃のジジ感覚と今とでは孫を見る目、育てている親たちを見る目、しつけにおいて自分がどう関わるべきかについて考えが変わってきている。多分ジジとして私自身の成長なのであろう。

 しつけに関してジジが最近至った結論は、「生活を共にしていない孫のしつけはジジには無理・・・」である。


10/17(土)快晴 居間・ネコ部屋整理など  
 0:30起床。昨日で講演終了、解放感あり、ゆったりと週末の解放感味わう。午前は居間の冬支度でサッシ関連の修理、夏場活躍したヨシズ外し、ネコ居室のレイアウト変更。午後は本読み、その他。Blu-ray:「のど自慢」、「N響定期:ブロムシュテット 皇帝、交響曲2番、未完成」、「ラララ・クラシック3回分:ウエーバー、コルサコフ他」19:00夕食、20:30就寝。Σ7412Km。

マルクスとマルコス、チャウシェスク 富と権力は人を狂わせる
 マルクスは、『資本論』において、「生産手段を私的所有する資本家」が強大な権力をもつことが資本主義社会の問題点としてあげている。マルクスの理論・主張自体は優れていたが、マルクスは人間そのものの読みを誤った。

 資本主義社会はこの点に注目し、様々な制度的規制を行って資本主義社会を延命させてきた。一方、社会主義社会は、英雄やその姻戚者たち、あるいは取り巻きの官僚達が社会の実権を握り、自己養護能に長けたエリート層を形成することで、マルクスが理想とした平等な社会の実現に失敗した。

 国民の父と言われたチャウシェスク大統領が、夫人とともに捉えられ銃殺刑に処されている。チャウシェスク夫妻はそれまで絶大な権力を誇り、国父、国母と敬まわれ、荘厳な宮殿に住み、私兵まで持っていたという。
 人民の国、労働者の国であるはずの共産主義国家にこんな実態が隠されていたとはこ、と当時驚いたものである。

 同様に想い出されるのは、フィリッピンのマルコス大統領夫妻である。フィリッピンは自由陣営の国、キリスト教の国であるが、マルコス大統領の絶対権力と栄華は、チャウシェスク大統領夫妻のそれと酷似している。そしてその最期もよく似ている。民心が離反し、銃殺は免れたが、国外に放逐されている。

 一体、どうしてこうなるのか。政治の要職にある者は、権力に馴れて堕落するのか。
 マルコス氏は若くして権力の座についた。初期の頃は極めて有能な政治家だったと評価されていた。おそらく、理想に燃えてフィリッピンのために働いたことであろう。チャウシェスク大統領も優秀な政治家で初期の評価は高い。共産主義のユートピアを、ルーマニアの地に実現しようと、日夜精進したに違いない。若い夫人も、手をたずさえて奮闘したことであろう。

 それが、どうして、こういうことになったのか。
 強力な権力集中は人を腐敗させる麻薬なのか。それとも取り巻きが権力者を囲んで、次第に神格化して行くのか。
 統治はカリスマ性を備えないと、統治はうまく行かないのかも知れない。取り巻きが絶対者の余得に頼り、体制の安定化をはかるために一層の絶対化を図るのかも知れない。

 人間の社会は歴史的に見て、勿論例外はあるものの、いずこも同じように見える。
 マルクスとマルコス、名前が似ているので古い例であるが引用させていただいた。チャウシェスクの例も含め、富と権力は高まいな主義主張があっても次第に人を狂わせるものである。

 人間は理想社会を建設するためには、権力者の権利の抑制と監視、権利保持期間を限定することが必要である。しかし、ここまで至っていない、主権者が国民ではない国が近隣を含め、まだまだ沢山ある。


10/16(金)曇り 大曲中通病院外来 飯川病院ボ 秋田県社福法人連絡協会講演
 0:30起床、いつものごとし。5:00可燃ゴミ廃棄、7:45Taxi駅に、8:10こまち、8:50-12:00外来、駅?病院歩行、帰路はできず。13:30-15:20飯川病院ボランティア。15:30-19:30秋田県社福法人連絡協会講演+懇親会。19:45帰宅、20:30就寝。、Blu-ray:「土曜スタジオパーク:滝本美織・福田彩乃」、「受けたい授業:進学校へ」。

新潟大学46会同級会2015(4) 瑞巌寺参拝 60年振りだが結構覚えていた
 同級会の翌日には近隣のミニ観光が組まれている。今回は奥松島・松島・瑞巌寺拝観のコースが予定された。

 昼食後、松島海岸に向かったが道路は超渋滞、駐車場に3台入れるのに30分以上費やした。さすが日本3景の一つ、しかも3連休とあってはこの程度の渋滞混雑は、私には耐え難いことだが、やむをえないことかもしれない。

 パンフレットによると、国宝瑞巌寺は松島海岸の近くにある臨済宗の寺。その歴史は9世紀に天台宗の円仁が建立、鎌倉時代に北条時頼が禅宗寺院とし円福寺とあらためた。更に、伊達政宗が1604年から再建、瑞巌円福寺と改称した。以降、伊達家代々の菩提寺として栄えた。庫裏回廊は桃山文化を代表する建造物で国宝に指定されている。

 私は瑞巌寺は小学6年時の修学旅行以来だから60年ぶりとなる。現在大規模な修復工事が行われており全体像を見ることはできなかったが、本堂へ続く杉の並木、脇の岩盤に彫られた岩窟群の石仏の数々ははっきりと記憶に残っていた。岩肌が深く、時に浅く彫り込まれその中に何体もの石仏が祀られている。修行僧によって彫られたのであろう、その苦労は並大抵のことではなかったろう。
 松島海岸の名所の中心である五大堂は瑞巌寺の奥ノ院である。

 修復工事は平成20年から10年間かけて行われていて、今のところ本堂、中門、御成門等は拝観できない。
 宝物館は見応えがあった。数々の仏像、位牌を始め、障壁画など重要文化財の収蔵品の展示が行われていた。
<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/b2/778a01eb7f05db186a1ca6f362be714c.jpg" border="0">
(宝物館に納められている比較的近作の像。フラッシュなしでの撮影が認められていた。作者等のデータをメモするのを忘れてしまった)

 それにしても壮大なスケールの寺院である。北条時頼にせよ、伊達政宗にせよ、医療が未発達の中、諦観と来世での安寧を求め、それを権力と財力を持って形に表し遺して行ったものである。財力を兼ね備えた権力者が全世界的に見てほぼ同じ様な行動をすることは何故なのだと思ってしまう。

 一方、参拝している人々は結構若い年代の方が多かった。医療・科学が発達し、死後の世界などについての期待感などが乏しくなっている若い現代人が、この様な遺跡を詣でる心理は何なのだろうか、とも思う。単に歴史をかいくぐった建造物としての価値なのだろうか。やはり、それだけでなく敬虔な宗教観が背景になっている、と思いたい。


10/15(木)晴れ曇り 外来 飯川病院
 0:30起床、歴史、新聞切り抜き入力・整理。録音データ整理などいつものごとし。7:40バス利用飯川病院着。8:45-12:20中通外来、13:00-18:30飯川病院。19:00夕食、20:00就寝。Blu-ray:「アナザーストーリー:タイタニック」、「100分で名著:斜陽」、「ネコサムライ南の島に」、「ガイア:日本の本物の味」。歩行計Σ7404Km。一昨年書斎で足温器使用開始、昨年今年は未。

本 「養老孟司の幸福論- まち、ときどき森」   中公文庫 2015年7月
 たまたまちょっとした空き時間があり大曲駅売店の書籍コーナーで手に取った本。薄い文庫だから帰路の新幹線の中で斜め読みしようか、と思ったがなかなか深い内容で簡単には読みきれなかった。

 何でも揃う豊かで便利な生活、でもこれが本当の幸せなのか、と養老流に真の豊かさとは何かを論じた幸福論。
 氏は解剖学者であるとともに昆虫学者でもある。本書は前者の視点で人生を論じ、後者の視点から自然や森の大切さを論じ、地球の環境保全を考える。

 氏によると、現代の日本人は自分の生存のために身体が生きるために生産する熱量の40倍ものエネルギーを消費している、と言う。しかも、街に集中する人と物。このままで本当に良いのだろうか、と警鐘を鳴らす。地球の自然破壊の主因は過剰なエネルギーの消費にある。

 「都市と田舎を参勤交代」、「花鳥風月をとりもどす」視点で暮らしてはどうだろう、更に、「自分の人生は自分のものではない」・・などユニークな視点で豊かさを考え直す事を進めている。

 最近では自分の人生は自分のもの、という考えが主流で、死すらも自分のものと思っている方が多いが、死は本人と、全くの他人にとってほとんど意味がない。親子関係とか親しい人にとって若干問題であるだけ。ただ、自殺は特別で、関連する人々に一生消えないような大きな傷を残す。決して一人の人間の人生は自分一人のものではない、と論じる。

 検診については、身体という自然は意識や知識、科学でコントロールしきれるものでないのに、それをなんとかしようと思っているから悲喜劇が生じる。だから、自分は健康診断を受けない、というが、前半の理屈は納得できるが、だから検診を受けないという結論は問題がある。

 私自身は物質的な豊かさを否定はしない。私もそれなりにその恩恵を享受している。人のことは分からないし、知りたくもないが、私は比較的環境への負荷は小さい方でないのかと思っている。自然を楽しみ、心で遊ぶ方を重視する。花鳥風月を大事にしたい。「空に聴き、星に聴き、木に聴き、花に聴き、鳥に聴く、・・・心すませば道が見えてくる」。私は講演とかでこのことを主張している。 

 本の後半には、京大名誉教授竹内氏、作家の天野礼子氏との鼎談で森について論じている。
 養老氏は「都会が家なら庭は森。なんで国民はもっと自分の庭を大事にしないのか」と論じている。共感できる部分である。


10/14(水)快晴 外来 飯川病院ボランティア
 0:30起床、歴史、新聞切り抜き入力・整理。録音データ整理などいつものごとし。7:30徒歩飯川病院着。8:45-11:50外来、12:30-18:10飯川病院ランティア。Blu-ray:「未来世紀:エチオピア」、「久米書店:沖縄の米軍基地」、「サイエンスゼロ:驚異の泡」、「知恵泉:伊那忠次」、「英国一家:寿司の源に」観る。自宅で本日からはフリース着用。歩行計Σ7394Km。

東京裁判の見直しに賛成(3) せめて為政者・軍部のいのちの軽視の検証をしてほしい
 10月7日、「経済最優先」を掲げて第3次安倍改造内閣が発足した。
 第3次安倍内閣は菅官房長官、麻生副総理・財務相らは留任。党執行部も稲田政調会長を含む党四役の続投を了承した。来年夏の参院選を意識した布陣と考えられる。

 閣僚メンバーの中では行政改革担当相への河野氏の起用が注目される。安倍内閣が原発再稼働の方針を持っている中で河野氏は「原発ゼロの会」を立ち上げた。氏は最近まで続けてきたブログの公開を止めた様である。今後脱原発どんな言動をしていくのか注目される。

 内閣、党人事の中で私は稲田政調会長の続投に注目している。
 氏は6月中旬に、連合国が日本の戦争指導者を裁いた東京裁判を検証する組織を党内に立ち上げたい、との意向を述べた。安全保障関連法案成立後に検証する機関を発足させ、東京裁判で裁かれた満州事変以来の歴史について、政治家自身で総括、検証し、反省すべき点をしっかり明らかにして将来に生かしたい、とのことである。しかし、まだ具体的に進めているという報道には接していない。どうなっているのだろうか。

 日中戦争、太平洋戦争を日本人が客観的に総括することは歓迎すべきこと、と思うが、東京裁判については日本人の手になる公式の総括はない。もう70年も経った。新しい情報も公開されている。もう歴史を見直す時期である。
 私は歴史の評価と政治的判断を分けて考えればいいと思う。平和条約で東京裁判を受け入れた問題点を蒸し返すのではなく、より納得いく検証と評価である。

 新聞報道によると、稲田氏の東京裁判再評価の動きに対して与党内では「近隣諸国から歴史を修正する試みだと疑念を招く恐れが拭えない」との見方が根強い、と言う。またまた関連諸国への異常な配慮、遠慮の考えである。この姿勢こそが問題なのだと思う。

 稲田氏の今後の動きに期待している。
 もし、東京裁判についての再検証が足元からの反対で困難なのであれば、100歩譲って「当時の日本の為政者、軍部が如何に国民のいのちを軽視してきたのか」、この点についての検証から始めてはどうだろうかと思う。

 私はこの時代の歴史を学び直しているが、戦争開始から、終戦に至るまで、兵士を始め国民のいのちが大切に扱われた、という事象を上げて例示する事はほとんど不可能である。


10/13(火)曇り雨模様 外来 飯川病院
 0:30起床、歴史、新聞切り抜きと入力など。5:00可燃ゴミ提出、7:10バスにて飯川病院。8:45-13:15外来、14:00-18:30飯川病院。19:00夕食、20:00就寝。歩行計Σ7383Km。Blu-ray:「団塊スタイル:平尾昌晃」、「歴史列伝:乃木希典」、「歴史ドラマ:高橋是清(1)(2)」、「100分で名著:種の起源(2)」観る。

新潟大学46会同級会2015(3) 東日本大震災後4年半、何も残っていない爪痕
 同級会の翌日には近隣のミニ観光が組まれている。今回は奥松島・松島・瑞巌寺拝観のコース他が予定され、16名ほど参加した。
 当日朝は雲ひとつない快晴。数日前の天気予報では荒れるとのことであったが、不安定な天候は昨日のうちに通り過ぎたようだ。

 9:30、ワゴン車を含む車数大つらねてまず東松島市の奥松島に向かった。奥松島は観光で有名な松島より数10Km北側の岬にある。外洋に面しており、小島も少なくて必ずしも風光明媚とは言えない。観光客と思しき人影もほとんど見られない。

 奥松島の「ちっちゃな船旅。嵯峨渓巡り」と称する定員10名程度の小さな遊覧船に二手に分かれて乗船、湾内を一周した。屏風岩、メガネ埼、日本地図、天狗岩、かえる島など観光のためにこじつけたような名前の小島や岬があったが 、素直に認めてみるほうが楽である。津波にて形の変わった小島もあり、岸壁の姿は痛々しかった。

 奥松島で見るべきは東日本大震災の津波の住宅やそれに伴う人的な被害状況であった。現在かさ上げ工事されているが、堤防は低く、海面とほぼ同じ高さの土地に住宅が密集していた、とのこと。案内された地域は殆ど全ての住宅が根こそぎ流された地域が中心であったが、既に大部分がススキや雑草に覆われ、建物の土台、敷地の区分けのなどの構造物すら見えない状況であった。所々に重機やクレーンが並び復興作業が進んでいると思われた。

 この一面の荒れ地、草地は震災前は住宅が密集しており、巨大な波で壊滅的被害を受けた住宅地の名残である。人影もなく、やや山際に住宅がパラパラと立ち始めている。津波によって破壊された住宅はもう撤去されたか修理されたかでその面影を残していない。
 私は震災の年の9月、翌年8月に岩手の三陸を訪れたが、その際には破壊された住宅、瓦礫等が残っており、被害の甚大さを直接目で見ることができたが、奥松島の状況はその名残すらも見えない異様な静けさに覆われていた。4年半の歳月を経ても住民が戻ってきていない現状の厳しさが表れていた。

 今回の奥松島訪問で見た海は、静かで美しかった。これが4年半年前に突然牙をむき、市街地を破壊し尽くしたあの海だとは思い難かった。

 ちょっと気持ちが沈んだが、正午頃に松島に向かった。松島に近づくにつれ渋滞がひどくなり、予定を変更して13時頃から昼食をとった。この昼食がまた豪華なもので、唖然とする見事さであった。ここでもまた、私は完食しなければなるまいと考え事実その通りにした。満腹以上の満腹であった。昨日の夕食のメニューを含め、今回の幹事のA氏は超美食家なのか??と思ってしまった。


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(予めテーブルに用意された山海の珍味。この後、汁物、煮魚、茶碗蒸し等が並べられ、最後はトコーヒー、果物、シャーベットであった。)


10/12(月)体育の日 松島快晴・秋田降雨 同級会二日目松島観光 
2:00松庵にて起床、本読みなど。実際には何度か微睡繰り返す。7:30朝食会。9:30-16:00松島観光。奥松島は東日本大震災の被害と海からの景観中心に。昼食後は松島瑞巌寺中心に。16:50こまちにて帰秋。飯川病院によって20:00帰宅。21:00就寝。歩行計Σ7377Km。 昨年歩行シューズ、 iPhone6プラスを購入。

新潟大学46会同級会2015(2) 面白い講演と豪華夕食の会
 新潟大学46会同級会の前日にはゴルフもセットされている。出席者の多くはこれにも参加するのも楽しみにしているようであるが、私はゴルフは出来ない。出席者が一堂に介する宴会に出てもすぐに酔って早々に中座して寝てしまう。だから、何のために出席しているか分からないようなものである。しかし、それでも年に一回、私ども夫婦の生存報告を兼ねて同級生と挨拶を交わすだけで十分意義はあると思っている。 更に、最近ではどうせ行くならきつい予定を立てずに、開催場所周辺への小旅行を楽しむ事としている。

 特に、昨年の佐渡での会は出席直前になって家内が急遽腹部の手術を受けることとなりドタキャンしたので、今回はやや意気込んで出席した。

 今年は近場の松島での開催で、出席者は30名であった。みんな老けてきたが、見る限り元気で良い表情していた。
 今年は物故者は一人おられた。犬山での同級会を主催してくれたY氏が亡くなったという。詳細は聞かなかったが、何でもヨットの外壁の掃除中にお亡くなりになったとのことで事故と考えられているらしい。明日は我が身かもしれない。謹んでご冥福をお祈りしたい。

 今回は、まず浜松市で手広く眼科クリニックを運営しているK氏による「加齢と眼疾患-特に白内障と老人性黄斑変性症」の講演を1時間ほど拝聴した。おかげでが、両疾患についての理解が進んだが、古希を迎えての仕事に対するK氏の熱意にも感心した。氏は地元ではかなりの名士らしく、厚い人脈もうかがい知ることができ、何事にも消極的な私とは別世界の人生を送っているように思えた。

 引き続き恒例の宴会に移ったが、会場は鰻の寝床の様に、と言えば語弊があるが、宴席は縦に一列に並べられた。だから、両隣と向かい側の数人としか会話できなかった。
 驚いたのはテーブルに並べられた料理の数々である。海の恵みを中心に、質量ともに十二分であった。幹事のA氏が特別に注文しただけでなく、マグロの刺身は自分で調達されたという。私はこの料理を見た瞬間、何としてでも完食しなければ罪を犯すに等しいと感じた。で、もともと飲めないアルコールには手をつけず、会話を楽しみながらひたすら食事を楽しんだ。お開きの頃までかかって私は完食し得たが、近くのテーブルを見る限り結構残っていて、ケチな私にとっては至極残念におもえた。尤も、アルコールがかなり飲まれていたからやむを得ないだろう。
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 二次会場も用意されていたが、私は満腹で意欲がわかず部屋に戻り早々に布団に入った。

 今回の同級会は出席者と会話を交わす機会は少なかったが、全員とても元気そうであったのを確認できただけでも十分である。さらに加えて評価すると、面白い講演と超豪華な夕食の会であった、といえよう。


10/11(日)秋田曇り・仙台降雨後曇り 松島にて新潟大学46会同級会 
0:30起床、新聞、医学文献、録音データチェックなどダラダラと整理。10:00飯川病院、13:06こまち仙台に、東北本線松島駅。16:00松庵着、17:00眼科関連公演、18:00新潟大学46会同級会。たらふく食べ、一次会だけ。20:30就寝。

新潟大学46会同級会2015(1) 思い出の松島、60年振り
 ここ10年ほぼ皆勤状態の新潟大学46会同級会の出席記録は2003(H15)年から残っている。私にとっては今年は11回目となる。
 実際にはその前からほぼ定期的に開催されていたらしいが、私は人の集まりの場が嫌いなので出席せず家内だけが出ていた。何回か付き添った娘の話によると私が一緒に出席しないことで家内がかなり憤慨していると聞いたので折れて出席することにした。出てみればそれなりに楽しい。最近では各々健康に問題を抱える我ら夫婦の生存報告を兼ねて出席している。

 今年の同級会は仙台在住のA氏のもと、松島で開催され、本日出席している。
 新潟以北での開催は2012(H24)年の秋田以来2回目である。

 私にとって松島は小学校6年の修学旅行以来の訪問である。多分2泊3日だったかもしれないがよく覚えていない。村内の近隣の3つの小学校の合同での旅行であった。当時、私は健康状態がすぐれず出席が危ぶまれたが、担任や学校の配慮で我が家のお手伝いのハツさんが同伴して身の回りの世話をしてもらう条件で出席が決まったものである。付き添い付きで修学旅行に参加するなど、子供の立場でも恥ずかしかったが、実際には修学旅行の間は体調が良く、手を煩わすことはなかった。
 1957(S32)年のことで、当時は何合かのお米を持参して宿屋に収め、夕朝食および昼食用の握り飯弁当になった。握りは2ケで梅干しが入っていて、おかずは2枚の味噌漬けのみであった。それでもみんなで食べる握りは美味であった。
 宿屋での枕投げは実に楽かった。
 私はこの時初めて海を見た。その時の驚きは忘れていない。

 60年振りの松島訪問である。
 本日13:06のこまちにて仙台に向かった。仙台付近で激しい降雨に遭遇し先の天候が思いやられたが、仙台に着く頃は雨があがり青空が見えるようになった。仙台駅から東北本線小牛田行きの普通列車で松島駅に移動した。その時に駅構内以外の本線が単線であったことに驚いた。1982(S57)年6月に盛岡-大宮間の新幹線が開通するまでは日本の幹線鉄路の一つであったが、それが単線であったとは・・今更ながら驚きを禁じえない。

 松島駅からはTaxiにて同窓会会場である松庵に向かった。その間、ドライバーの説明では東日本大震災では松島湾も巨大な波に襲われたが、松島湾の場合風光明媚な場所は多くの小島が自然の防波堤となって津波波のエネルギーが弱められ、大人の背の高さほど浸水はしたものの壊滅的は被害が生じなかった、という。一方、外洋に面した浜では破壊的エネルギーを持つ津波波で壊滅状態になった、とのことである。

 会場となった松庵は松島湾の水際に立つ老舗旅館である。にもかかわらず、松庵には津波被害の後は一切見られなかった。
 松島は立地条件で津波の被害には天と地の差がある。各地の防波堤が根こそぎ破壊され被害を防止できなかったのに対し、自然の小島が防波堤として果たした役割は実に大きかった、ということ。


10/10 (土)快晴 晴耕に集中
 0:30起床。腰痛かなり改善。天気がよければ外仕事可能に。何時もと同様、書類・録音データ整理、新聞、医学論文などチェック。8:30から、庭掃除、枯葉回収土に返した。ネコいたずら防止用に居間・台所間にラティスで扉作成。午後は園芸、腰痛でしばらくやっていなかったダリア関係のメインテナンス。16:00Blu-ray、「N響定期公演:ベートーヴェン交響曲No2 & 3」、ブロムシュテット、名演だった。19:00夕食、20:00就寝。Σ7365Km、庭仕事のみで7Km分歩いた。

iPhone5 iOS9.0へのアップデートに失敗(4) 音声入力(2) 実に便利だが・・
 iPhoneのOSアップグレードに失敗したが、そのことは結果的に私を一歩ITに誘ってくれた。(1)iCloudを利用できる様になった。(2)2013年11月の段階までバックアップできた。(3)音声入力Siriを利用できるようになったことである。

 音声認識は今初めて利用してみて圧倒的に便利だ、と思う。
 iPhoneのOSアップグレードに失敗したが、そのことは結果的に私を一歩ITに誘ってくれた。
 (1)iCloudを利用できる様になった。(2)2013年11月の段階までバックアップできた。(3)音声入力Siriを利用できるようになった、ことである。

 音声認識は今初めて利用してみて圧倒的に便利だ、と思う。遅ればせながら、もう止められない。
 ただ、10年以上も前に医師会の役員がウインドウズで音声入力を利用していることを聞き興味を持ったが、その方が今でも使っているのか不明である。私は、おそらく日常的にパソコンの入力には用いられていないのではないか、と思っている。

 パソコンで文字入力をするときに、音声で入力できれば便利だと誰しもが思うだろう。だが、音声入力システムが広く一般に普及したとのニュースには接したことはない。

 音声認識システムが普及しないのにはそれなりの理由がある、と思う。私もやってみたが、音声入力は長文とか、改まった文章作成には向いていないように思う。音声入力にはそれなりに相応しい環境があるように思われる。

 例えば、私の場合にはキーボード入力しながら文章を考えている。内容が決まるとキー入力を再開する。だからキー入力している時間は間欠的で、全体の1-2割もないだろうと思う。だから、キー入力を音声に替えて効率化したところで、全体の仕事量は殆ど減らないし、むしろ煩わしい。また、私の場合は15年間の文章の蓄積の中から、それを適宜コピー & ペーストして利用するから、音声で入力をし続けるというのは私にとっては難しい。

 蛇足であるが、太宰治は中期の作品は妻に口述筆記させた作品が多い、と言う。彼ならば音声入力は便利だったかもしれない。

 私の場合はメールの返事などは長文はほとんどなく短文で済ませるから、考える時間はあまり要らない。従来は大部分がキー入力に費やされた。だから、音声入力で大幅に時間短縮ができる。全く煩わしさがない。簡単な返事なら2〜3秒で返信することができる。
 
 私の場合はキーボードと音声入力のどちらが効率的か?心地良いか?の視点で決まっていく。

 音声入力システムは人とコンピューターを音声で結ぶ画期的なインターフェイスであるが、実際には時と場所を選ぶ。携帯電話だって街頭で傍若無人に使われるとうるさくて迷惑である。
 音声入力が普及するとますます喧騒になる? 嫌音権を主張している私にはちょっと困る事態となるかもしれない。


10/9(金)午前降雨午後快晴 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア
0:50起床、早朝短時間ながら突然の降雨。新聞その他文献チェック何時ものごとく。7:40Taxi駅に。8:10こまち、9:00-12:10大曲中通病院。徒歩できず。13:30飯川病院ボランティア。19:00バス徒歩帰宅、夕食、20:00就寝。Σ7358Km。Blu-ray、「柳亭市馬演芸図鑑:U字工事、米介」、「知られざる陸軍終戦工作」、「英国一家:日本酒危機」、「ガイア:意外なコラボ」。

iPhone5 iOS9.0へのアップデートに失敗(3)前向きの収穫 クラウドと音声入力(1)
 12年11月からiPhone5を用いているが、たまたまシルバーウイークで日直が続き時間に余裕があったのでOSのアップグレードを試みた。
 その際、馬鹿な話であるが、途中でフリーズすることなどあり得ないだろうと考え、iPhoneのバックアップを省略した。それが元凶の始まりであった。

 iOS9に無事アップグレード済みの画面表示が出たので無事終了、と思ったがその後がっちりとフリーズした。アップルのサポートセンターの指導で工場出荷レベルまで機能が戻った。その後、わずか10日でiOS9.01が、さらに10日後iOS9.02がリリースされた。アップグレードソフト自体に問題があり、iOS9.01で改善された。

 購入したアプリケーション、iPhone5へ溜め込んだデータ類は全部失ってがっくりきたが、私には電話機能、メール、ショートメールが使えるだけでも良かった。後はまたコツコツとデータを再構築すればいい。
 
 今、再構築の過程にあるが、前向きに2、3の収穫があった。

 (1)iCloudを利用できることになった。
 これまで使用を忌避していたが、これを機会に前向きに考えることとした。まだまだ使い方に習熟してはいないが、これで自宅のパソコン、iPhone、iPad間の連携がとても取りやすくなった。iPhoneのバックアップもiCloudに任せてみることとした。

 (2)2013年11月の段階までバックアップできた。
 iOS9からiOS9.01に、さらにiOS9.02に立て続けにアップグレードした。その際にはバックアップを取って行った。その過程で、平成13年11月に一度バックアップを取っていたことが判明した。早速そのデータでiPhoneを復元した。それ以降の2年間のデータは復活できなかったが、少なくとも工場出荷時の状態ではなくなった。わずか1年間のデータの復活とはいえ助かった。今、データを追加して再構築中である。

  (3)音声入力Siriを利用できるようになった。
 これまでの音声入力は各携帯の中で処理していたためにとても能力が低かった。私も一度試してみたが到底実用的とは思えなかった。だが、より多くの言葉を認識させるために改良されクラウドサーバー型処理となり、ユーザーが話した音声データはそのまま通信回路を使ってクラウドに送られ、サーバ内で処理されてテキスト化され、それが再びiPhoneに戻ってくる仕組みとなってからは機能が大幅に向上した。
 今まで2週間ほどこの音声入力を用いてみたが、iPhoneのメール、ショートメール、メモ作成にはとても便利でもう画面上にあるミニキーボードをタッチしての入力は必要がないほどである。特に歩行中にちょっとしたメモを取りたい時、メールが来た時などミニキーボードで入力する場合には立ち止まらなくては不可能であるが、Siriの場合は歩みを止める必要がない。これは便利である。また、運転中は違反であるが、同乗中の車中でも通常に入力できる。
 ただ不便なのは静かな環境で、一人の時は良いが傍に人がいる時はいささか躊躇する。しかし、iPhoneを近づければ独り言程度の小声で話しかけても十分入力できるから、多くの場合は問題がない。乗客のいるバスでも試したが振り返った人はいなかった。

 iPhoneのOSアップグレードに失敗したが、そのことは結果的に私をITの世界に一歩誘ってくれそうである。転んでもタダで起きなかった、ということになるのだろうか。 


10/8(木)強風、時に降雨 外来 飯川病院 
 0:30起床。文献・新聞他。7:35徒歩病院、8:45-12:40外来、13:00飯川病院。14:00-18:25勤務。19:10バス利用帰宅、19:00夕食、20:00就寝。。Blu-ray、、「バクモン:祈り仏様、奈良国立博物館」、「ニュース英会話:首相70年談話」、「受けたい授業:エチオピアと中国」。

ノーベル賞 スタチンの遠藤博士 徐々に厳しくなってきた
 スタチンの遠藤博士、今年もノーベル賞の受賞ならなかった。実に残念である。

 今年のノーベル医学生理学賞は大村智北里大特別栄誉教授に、物理学賞が梶田隆章東京大宇宙線研究所長に決まった。

 梶田氏は素粒子ニュートリノの正体に迫った。質量ゼロを前提にしていた物理学の常識を覆した、と言う。人類に確実な一歩をもたらしたとの評価もあるが、私には理解不能。

 大村氏は土や木の葉を集め、その中にいる微生物が作るさまざまな化学物質から、薬になるものを探すことを地道に積み重ね、イベルメクチンを確立した。アフリカや中南米で失明の主要な原因となっている河川盲目症という寄生虫病に効く。WHOが無償提供を始め、年に約3億人が服用し、年4万人もの失明を防いでいる。先進国での研究が多くの途上国の人々に光明を与えた点でさらに光る。無償提供が可能だったのは、家畜の寄生虫駆除薬としての大ヒットがあったから、という。

 一方、遠藤氏が中心となって開発したスタチンは動脈硬化の進展と予防する画期的作用のある物質で、世界中で数億人の方が恩恵を受けている。それを開発した中心人物が遠藤章氏である。2008年遠藤氏はラスカー臨床医学研究賞を受賞した。この賞はノーベル賞受賞に一歩近づいたとされるほど権威のある賞である。

 私はそれ以降、今日に至る迄ノーベル賞の医学・生理学賞が発表される時期になると遠藤氏が受賞することを期待していた。
 2012年のノーベル賞の医学・生理学賞は、iPS細胞の先駆者、京都大学の山中教授が受賞した。山中氏の受賞は当然かとも思ったが、遠藤氏が選考から漏れたのにはがっかりした。
 以降、2013年、2014年、今年もである。残念なことであった。

 遠藤氏は81歳と高齢である。ノーベル賞は生存中の研究者に贈られることになっている。今後もご健勝であることを願いつつ待つしかない。遠藤氏は由利本荘市出身。私は氏の講演を2度拝聴し感銘を受けた。昨年、さきがけ新聞には「私はもう賞味期限が切れたから・・」と冗談を言っていたと報じられた。氏もちょっと気弱になっているようである。
 私も、そのような感じを受けた。突然ダークホースが現れてくる。それだけ日本の知能が優れているよいうこと。
 徐々に苦しくなってきているが、来年に期待したい。ご健勝でありますよう、願っている。


10/7(水)晴天 外来 飯川病院ボランティア 
 1:00起床。読書、録音データ整理と処理、新聞データ化、データ分類など。歴史関連本読み。7:30徒歩飯川病院着、8:45-12:40中通外来。13:00-18:45飯川病院、19:00車帰宅、夕食、20:00就寝。Σ7345Km。Blu-ray、、「知恵泉:阿部正之」、「オイコノミア:おじさん経済学」、「英国一家:日本酒危機」。

秋の全国交通安全週間2015(2)車のフロントにもブレーキランプが欲しい
 秋の交通安全週間が終わった。成果はどうだったのか?

 私はその間も交差点で直進する際に、停止していた対向車に急に右折をされて接触しそうになったり、2〜3回ハッとすることがあった。かつて、十字路で青信号で進行中、赤信号を無視した車に側面に突っ込まれた。相手がブレーキをかけていないことを勘で知り回避しようとしたしたが間に合わなかった。

 フロントに第4のブレーキランプがあればいい、と思う。車は自由に動くものである以上、その運転者の意図は周囲から確認できる構造にすべきと思う。すなわち、対向車や右折車がブレーキを踏んでいるのか否か分かれは不安感はかなり減る。

 平成26年の全国交通事故死者数は4,113人で平成13年から14年連続して減少している。ただ、これは24時間以内の死者数であり真の交通事故死者数とは異なるが、昭和45年は16000人も死亡していたことから見ると大幅減で、実に喜ばしい。 
 道路も整備され、道路交通法も運転の禁止事項も徹底され、運転者のマナーも向上している。さらにシートベルト、チャイルドシートの義務化なども交通事故死の減少に寄与している。いま、自動車の自動ブレーキ装置なども開発されている。
 
 私は比較的簡単に交通事故を減少させる方法はあると思う。
 私はかねてからフロントをつけるべきだと思ってきた。1992年に当時の運輸省に提言したこともあった。
 
 フロントの第4のブレーキランプは歩行者や自転車、バイクなどの交通弱者を守るために、また、交差点での右左折時の衝突事故を避けるために必要だと考えている。面識もない者同士、相手の性格や運転能力も分からないまま、あうんの呼吸で、紙一心の判断で安全がなんとか保持されているなんて恐ろしい。

 国土交通省は2002年、RVや乗用車リヤに第3のブレーキランプを義務化した。視認性を高め、追突防止が目的である。確かに、追突防止方策は重要だが、車同士の事故はもとより交通弱者を巻き込んだ事故ははフロント部で生じる。かつ、傷害を被るのは常に弱者の方である。最近の車はドライバーの表情が見えがたい。弱者にとって自分を認識して対応してくれているか否か、を判断できる。
 リヤに付けるなら一緒にフロントに第4のブレーキランプつけるようにすればよかったと思う。単純に考えればランプと配線だけ済む問題である。

 関係省庁は、全車両の前部に第4のブレーキランプ装備を義務化してほしい。


10/6(火)超快晴 外来 飯川病院
 2:00起床、新聞・文献チェック、徒然など。5:10家庭ゴミ出し。7:10バス飯川病院着、8:45-13:40中通病院外来、混雑、疲弊。14:00-18:30飯川病院、19:00帰宅、夕食、20:30就寝。Σ7336Km。Blu-ray、「旅客機:進化する翼」、「NHKsp:新島誕生西ノ島」。

徒歩通勤2015(6) 福井県を通過、京都府海岸線を歩行中
 平成13年4月から始めた歩数計「平成の忠孝」の積算開始、約2.5年かかって先日Σ7345Kmに達し、福井県を通過し、いま京都府の海岸線上を歩行している。

 北海道海岸線には約1年、秋田は37日、山形は10日で踏破した。福井県の海岸線403Kmを通過するのに70日かかった。平均5.7Km/日であっ た . 回師と仰ぐ伊能忠敬は40Km/日ほどだったという。
 通常は平均9Km/日ほどであったが,今回6Km/日にも達しなかった。のは8月16日の花巻で滑落して受傷し、腰痛臀部痛が激しく、約ひと月徒歩通勤はできなかったことと、シルバーウイーク中に自転車の修理をして再度腰痛を悪化させ昨日まで全コースの徒歩通勤ができなかったためである。それでもなんとか、病院自宅周辺でできるだけ歩いた。実際にはまだ腰痛は残っている。

 福井県は私にとって馴染みの薄い県であった。
 日本内科学会総会、あるいは血液学会で1度訪れたことがあっただけで、その時の印象、記憶はほとんど残っていない。

 福井県と言えば第一に浮かぶのは曹洞宗の大本山永平寺である。もちろん訪れたこともないが開山した道元の足跡とともに印象深い場所である。

 福井県の海岸線上に4つの原発がある。まず敦賀湾、敦賀半島を通過するが、半島の先端には原子力発電所があり、高速増殖炉もんじゅがある。比較的近くに美浜原発が、大島半島には大飯原発が、京都との県境の高浜町には高浜原発がある。いづれも現在稼動していないがこんな時の町の活性など、実際はどうなっているのだろうか。
 九州電力高浜原発が再稼動したが、次の再稼動候補はこの高浜原発が予定されているようだ。

 京都の海岸線は302Kmである。腰痛が完治しないまま天候が不安定な時期にさしかかった。歩行通勤の機会は減っていく。次の兵庫まではかなりかかるだろう。


10/5(月)曇り時折降雨 健康クリニック 飯川病院 
 0:50起床。いつもの如く。6:30徒歩にて飯川病院に向かうも途中降雨、千秋久保田町からタクシーで病院、9:00-11:00健康クリニックドック業務。12:00飯川病院勤へ。新聞チェック、歴史本など。14:00-18:00添川線初乗り帰宅。19:00夕食、20:00就寝。Blu-ray、「昭和偉人伝:伊藤博文妻梅子」、「100分で名著:種の起源(4)」、「昭和偉人伝:やなせたかし」、「昭和は輝いていた:S39年グラフィティ」。Σ7330Km。

医療の時代と死生観(20) 長命の秘訣
 健康であることは大事な条件の一つであることは論を待たない。しかし、健康追求が人生の主目的では悲しい。健康は大切だが、それが目的になってやりたいこともやらず、食べたいものも食べずに窮屈に暮らすのでは本末転倒だろう。

 確かにわれわれの身の回りには健康に影響がありそうとされているものがたくさんある。
 食品添加物、大気汚染、仕事や人間関係のストレス、放射能、アレルギー物質、残留農薬などなど、気にする方は気にする。しかしながら、各種の食品添加物を含む食品を食べ、この日本の空気を吸って生きてきた人のほぼ全てが、元気に長生きしている。だから心配ない。多くは杞憂である。何しろ80歳以上の高齢者が1000万人超、100歳超の方が1万人もいる国である。

 日本は世界に名だたる長命国である。戦後に我が国が果たした生活環境の改善から加齢による身体の機能低下はどんどん遅くなってきている。もう誰でも、それなりに注意をはらいながら、肩の力を抜いて大らかに暮らすことでも結構長生き出来るのだ。
 もし長生きしたければ、払うべき注意というのは以下である。
 ■検診を受けること、
 ■疾患は治療する、
 ■生命短縮因子を徹底排除していく。

 生物の生命は基本的には遺伝子の支配下におかれているが、高齢者は関係ない。加齢とともに遺伝子の影響は薄まり、周囲環境や生活習慣の影響が主になってくるからである。

 人間は上記のごとく100歳以上までは長生きできるが、122歳の記録があるから120歳までは生存する可能性を秘めている。どうすれば、生きられるのか。
 老化は避けることのできない自然の摂理である。日本の生活環境が十分アンチエイジング効果を果たしている。だから、個人的なアンチエイジングは無駄である。自然の摂理にはかなわない。もちろん化粧とか服装とかでごまかすことはできる。

 長寿達成のために用いることのできる薬品、サプリメントなどは存在しない。
 短命化因子の除去を第一に考えることである。大集団としてみて短命化因子には、戦争・飢餓・天災・環境汚染、感染症などがある。
 個人レベルの短命化因子は、以下が挙げられる。
 ■喫煙、過度の飲酒
 ■過食・肥満
 ■運動不足
 ■男性

 個々人がより長命を願うなら、短命化因子を徹底して排除して・・・天命を待つことである。勿論、肥満体でタバコを吸い、ろくに運動しない男性も稀ながら100寿者にもいるようである。最後はその人の持って生まれた運である。

 ただ、80歳以上が1000万人超、100歳超が1万人もいるというものの生活の質は総じて低い。中には寝たきり状態にある方も少なくない。
 「寝たきりを 増やして今年も 世界一」、どなたの作だろうか。


10/4(日)晴れ 飯川病院日直
 0:30起床。新聞チェック、電子化。文庫本自炊など、いつものごとし。読書、歴史本など。8:45バス利用で飯川病院日直。入院レセプト点検処理、主治医意見書作成、回診等多忙な日直であった。18:30バス帰宅。19:00夕食、20:00就寝。Blu-ray、「ガイア:新ロボット革命」、「アナザーストーリーズ:日航機事故」、「昭和偉人伝:鈴木貫太郎」。

医療の時代と死生観(19) 健康添加物
 健康は大切だ。健康であってこそ充実した人生を送ることかできる、と考えることはより常識的だろうが、そうだろうか。健康でなくなれば人生の意義は乏しくなるのだろうか。
 私はそんなことはないと思う。一度しかない長い人生、健康でない時もある。

 ところで健康とは何か。これを定義しなければならない。
 もっとも代表的なのはWHOの定義だろう。WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます(日本WHO協会訳)」とある。

 私はこの定義は納得できない。この定義によると健康な人はいなくなってしまう。人生は生老病死の苦労がつきものであって、すべてが満たされた状態などあるわけはない。
 私は「健康とは、病気とか、障がいとかのハンディキャップがあっても、それを乗り切る気力が充実している状態にあること」、と定義したい。

 今、新聞、雑誌、TVなどのメディアは健康に関する記事、番組を積極的に取り上げている。
 健康にいい食品にせよ、生活習慣にせよ、あれが悪い、これはよくないと、健康のことを取り上げる。健康ばかり気にしていると、生きるのに窮屈になってしまう。
 さらに、健康食品会社、製薬会社、サプリメント業界、室内運動器具のメーカーは巨大な広告費用をかけて売り込みを図っている。この業界はかなり景気がいいのだろう。

 多くの人が懐く漠然とした健康への不安、弱みをついて、あやしい説をとなえる本や高価な「健康食品」、「健康器具」を売り込む商売が盛んである。新聞の全面広告、あるいはTV番組をしつこく頻回に流すということはかなり需要があることを示している。街には「健康器具」売り込みのセミナーも開催されている。

 私が外来で「楽して健康を維持する方法はない」と指導しているが、足腰が弱り始めたある70代の一人暮らしの女性患者の言動に引っかかるものがあったので、ある時に探りを入れたら健康器具、健康布団など300万円近く購入、毎月のサプリ代が6万円ほどという。さらに、「私は健康のことしか興味がありません」という。私の外来のほか、整形外科を始め3ヶ所のクリニックを受診、服用中の薬品が12種類、外用薬が3種であった。

 この方は重症の「健康追求病」である。しかも頑固、今後どう指導していくか悩んでいる。10年前からだ、という。こんな状況で10年も生きているのだから効果も実害もないだろう。「マア、いいか」とするか。


10/3(土)降雨時々晴れ 秋田「生と死を語る会」講演  
 1:00起床。文献チェック他。何時ものごとし。週末の大切な時間。本日の講演準備。8:00急に降雨あり、プリウスにて飯川病院、10:00-12:00にぎわい交流館AU生と死を語る会講演。健康食品のタニタレストランで昼食、塩分はいいが内容と値段でちょっと不満。13:00-16:00飯川病院散水他。16:30帰宅・夕食、20:00就寝。Σ7318Km。

ジジババ・孫論2015(2) 孫は小さいほど愛しい 
 私は、基本的に人嫌いである。人間としての付き合いが面倒だからである。相手を尊重しなければならない。それは子供でも同じである。他人の子ならもし同じ状況にあることは到底耐え難いが、血の繋がった孫だと思うと大きく違う。

 生まれたての新生児、他人の子ははっきり言って可愛くない。それは孫とて同じ。

 この世に生まれた瞬間から、自力で呼吸を始めた姿は、当たり前の現象であるが素晴らしい。水の世界から空気の世界への移行が自動的に行われた、という現象を発達医学的知識を動員して理屈で考えてみても、素晴らしいメカニズムの連携の結果であり、私は大いに賞賛する。神秘性すら感じ、その移行を見事に果たした新生児には素直に頭を垂れたい。
 新生児を見せてくれる、あるいは写真を見せてくれる、なりたての親は少なくないが、私は褒め言葉を探すのに苦労する。私は新生児には常識的な言葉をかけ、新しいいのちを産みあげた母親への賛辞とこれからの子育ての苦労に対して激励するのみである。

 傍らでは同僚とかの女性方が集まって大騒ぎとなるが、その気がしれない。まあ、女たちにとってはその時点で出産経験の有無は別にして、過去のあるいは将来の自分の問題になりうるから、男の私とは同じでありえない。
 女性にとっては赤ちゃんは自分の腹から出てきた肉塊の一部なのであろう。この感覚は私にはない。女になりたいという願望は全くないが、胸に房々をした脂肪の塊が二つあるという事を例にあげて考え、立ちションができないことを合わせて考えても、一瞬たりとも女の心理を理解すら出来ない。XとYの果たす威力は深い。これが同じ人間かと思うほどである。

 ある程度目鼻立ちがはっきりし始め、新生児特有の微笑をする頃から孫は愛しい、と思ってくる。やがて2ヶ月ほどになると私を見つめ表情を伴った本当の笑顔を作るようになる。そして、呼びかけに反応して笑顔を作る、手足を動かし、声を出す。まるで対話をしているような感覚を伴う。私はこの時期までは無償の(?)可愛さを感じる。ただ、スキンシップは苦手である。だから抱き上げる頻度も少ない。孫との入浴は今6歳の初孫と一回だけ、後は一切やっていない。その希望もない。

 やがて、ハイハイする。立ち上がる、離乳食を食べ始める。そこら中をいたずらする、散らかす、意味不明の言葉を発するようになる。これらの成長はジジにとっても驚きであり、喜びである。

 ところが、ジジの目から見て自我が発達し始めた頃、その一つが、生後6〜7ヶ月頃に始まる人見知りであるが、この時期はジジがいかに親しみっぽく近づいてもあやすのは無理で何とも出来ない現象だと分かっているから、私は無理をしない。あやさなければならないのだ、と言う義務感から解放され、私は存在は目で追うが、孫の存在を無視している。
 この人見知り現象をいうのは同居の場合と時折会う別居の場合では異なるのであろうか?私はいわゆる内孫がいないのでこの点の観察はできない。


10/2(金)大曲中通病院外来  飯川病院ボランティア
 0:30起床、いつもの如く。まだ多少腰痛。昨年書斎の石油ヒーター初点火。7:30Taxi駅に。8:10こまち、徒歩病院、9:00-12:00大曲中通病院外来。駅までTaxi。13:45飯川病院ボランティア。Blu-ray「英雄たちの選択:沖縄官選知事島田あきら」。19:10帰宅、夕食。21:00就寝。Σ7314Km。

ジジババ・孫論2015(1) 男の孫、女の孫
 私は昨年、孫の観察記としてジジババ・孫論2014を何度か記載した。孫はかわいい。それ以上に成長過程に興味が持たれる。同居している孫でないから何ヶ月かごとに会う度に体は大きくなっているし、言葉も立派になるなど、成長過程を確認できて面白いし、驚きでもある。

 ジジババ・孫論2014を一段落させてから約1年経った。その間孫が更に一人増えて4人となった。6歳から0歳までで、私共もまだジジババ6年未満初心者である。家内がどう考えているかわからないが、私も初期の頃のジジ感覚と今とでは孫を見る目、育てている親たちを見る目が変わってきている。多分ジジとして私自身の成長なのであろう。

 ここで、私どもの孫たちの性別を考えてみる。今の所男女比1:3である。
 ところが家内の家系は、家内の親を中心に考えると子供は男女比1:3と女が多く、17人の孫と曾孫がいるが、そのうち15人が男子である。私の家系は私の両親は子供は男2人で、6人の孫のうち5人が男子である。従って、私どもの親の世代から見ると、子供に関しては差はないが、孫と曾孫に関しては著しく男子が多かった。

 一般的には、ヒトの出生性比は、女児100に対し 男児105、地域や時代にかかわらず、男児の方が多く生まれるが、ほぼ同数と言って良い。なのに、この私どもの両親の世代から見て著しい差は何だったのか??と思ってしまう。考えてもわかる話ではないが、私ども親族間で面白い現象が起きていたと思う。

 私ども夫婦から見れば、男子の孫は4人中一人だけで、一転女子優位となっているから面白い。
? 世には産み分けの方法があるらしい。著しい男尊女卑の制度があるインドでは市販品のキットもあるらしい。産み分けなど私は信用していないし興味もない。

 マア、子供や孫の性別なんてどっちでも良いのだ。私ども親族間で面白い現象が起きていたが、大きな集団としてみればバランスが取れているはずである。


10/1(木)秋晴れ 外来 飯川病院
 1:00起床、新聞、医学文献他読む。徒然。7:10バス飯川病院着。8:45-12:45外来。13:20飯川病院。講演資料終了。Blu-ray、「報道ステーション:御巣鷹山」、「NHKsp:あの日僕らは戦場で」視聴。19:15帰宅、夕食、20:00就眠。Σ7308Km。

自然の脅威、自然災害(2) 狭い地域の都市化は危険を孕む
 今回の豪雨はいずれも特別の凄いものであったとされるが、このような堤防の決壊や、鉄砲水や土砂崩れなどは程度の差はあれ日本全国で毎年のごとく繰り返されている。
 これまで被害を防ぐために国によって、自治体によって堤防が、護岸工事が行われ、大きなダムも多数建設されてきた。しかし、やはり自然の威力の方が大きかった。

 「黄河を制する者は天下を制する」という言葉もある。人間社会にとって治水は大変な問題であった。大洪水の記録、水争いの記録は各地の郷土史に刻まれている。
 このような地域で共有していた自然観は、明治以降の中央集権による采配で徐々に地域の問題でなくなった。
 近代化を進める国にとっても、自治体にとっても地域の水管理、洪水対策は重要課題であり、河川の管理は国や県が担うことになった。その対策対象とすべき地域が多数、多岐にわたっていたために随分時間がかかったが、それによってより大きなリスクを管理することが可能になり、住民は安全を享受するようになった。

 ただ、国や県に河川管理が委任されたことで、それを自らの共同体の問題と見なす意識が希薄になっていった。本来、川には個性があり、長い歴史に基づく地域の考え方ノウハウはがあったが、それらの蓄積や、水に対する住民の意識が希薄になった。
 今回の様な堤防決壊の可能性を自治体や住民たちは予め考慮されていたのだろうか。
 
 堤防をより高く強固にして安全を確保する方法は、被害の頻度を減らすだろうが、堤防の能力を超えた降雨等でいったん川が氾濫してしまうと、その被害の大きさは対策以前より一般的に大きくなる。
 「自然の威力を人間の知と力で押さえ込む」というやり方は、常に検証を積み重ねていかなければより大きなリスクを包含することになる。

 結局、人間は自然の脅威を凌駕できるのだろうか。歴史には何かのヒントはあるはずだ。千年に一度という大震災をすでに経験し、南海トラフによる大地震や津波の予想、頻度を増す火山爆発など、日本列島の自然は急に活性化しつつあるように思える。
 名案はないが、自然の脅威を意識した住み方を考えなければならない、が結論の一つとなるだろうが、日本は土地が少ない。一点集中による都市化は危険を含む。都市機能を拡散させ、より安全な場所を得なければなるまい。

 住民が生活できる環境を備えた地方創生策が解決のヒントになりそうである。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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