徒然日記
2013年7月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


7/31(水)終日降雨 外来 
1:00起床、新聞・文献・本読み。7:40Delsor病院着。回診、8:45-13:00外来、15:10 車帰宅。新聞、歴史本に集中。19:00夕食、20:30就眠。歩数計1039Km.

先人の言葉から学ぶ(3) 「継続は力なり」
 私は「継続は力なり」と言う言葉が好きである。
 実行できるか否かは別として、誰でも言えることだから出典など無いのかと思ったのだが、大正から昭和初期にかけて活動した宗教家住岡夜晃の詩、と言いう説もある。

 「コツコツと続ければ、積み重ねが力となっていく」という意味であるが、軽すきる解釈だと思う。積み重ねは力になるとは限らない、壮大なムダ、にもなりうる。私は「何事でも継続するには大変な努力が必要」と言う解釈をとりたいし、質も問わねばならない。
■いい「経験」、「体験」は蓄積される。悪しき経験、体験を生かすの自分次第。
■継続できた長さと質が自身の自信につながる。

 確かに、言うは易しいが、継続することは難しい。だからこそ私はこの言葉が好きだ。というか、私の場合には好きのレベルを越えてこの言葉に追いかけられ、苛まれている、と言っていい。思い立って何かを始めた際、一定期間続けてしまうと、「継続」することが主たる目的となってもう止められない状況に陥ってしまう。主客転倒であるが、私にとっては自分に対する励みにもなっている。

■ 早寝早起き励行、惰眠せず(1965〜継続中)
■ 岩波100冊の本(1966〜ほぼ完遂)
■ アリバイ用生活記録を書く(1968〜 継続中)
■ モーツアルト大全集(小学館フィリップス原盤LP170枚)通聴(1968〜完遂)
■ 徒然・ブログ(2001〜 継続中)
■ 岩手へ復興資金として収入の20%寄付(2011〜 継続中)
■シアタープレイタウンの上映映画をすべて観る (2011〜12同館閉館まで継続)
■ クロスバイク (2011〜走行距離5000Kmで頓挫)
■ 徒歩通勤(平成13年〜現在1000Km)

 同義の言葉
■涓滴岩を穿つ(けんてきいわをうがつ)」、■「千里の行も足下に始まる」、■「ローマは1日にして成らず」 、■石の上にも三年、など。


7/30(火)晴れ・夕方から降雨  外来 
0:00起床、文献読み楽しむ。5:45家庭ゴミ収集日、7:40バス利用病院着。回診、8:45-13:00外来、15:10徒歩帰宅。新聞、歴史本に集中。19:00夕食、20:30就眠。歩数計1039Km.

歌謡曲の魅力(6) 日本の歌のミニ歴史 「ラジオ歌謡」 
もう一つ、挙げていかなければならないのに「ラジオ歌謡」がある。ラジオ歌謡は1946-62年に放送された歌番組の名称であるが、今はこの番組で取り上げられた歌曲を指している。

 唱歌や童謡は戦時下に世相を反映してしまった。
 ラジオ歌謡は荒廃した日本人の心に夢と希望を与えようと、国民歌謡の初心に戻るような歌を創作しようと企画された番組で、これを通じて800曲近い曲が作曲され、放送された。第1作は1946年の「風はそよかぜ」で、その後、「朝はどこから」、「「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎の灯」、「さくら貝の歌」、「夏の思い出」、「白い花の咲く頃」、「山の煙」、「森の水車」、「チャペルの鐘」「雪の降る街を」などなど、現在も親しまれている多数の作品が発表された。

 ラジオ歌謡は必ずしも児童に歌ってもらうために作曲されたのではない。しっとりとした情感を大切にした曲が多く、より年長の人々に愛された。

 ラジオ歌謡を論じる際、秋田市在住の工藤氏の役割が大きい。
 2000年、自身のコンサートで会場の参加者とともに「山の煙」を歌ったのを機にラジオ歌謡が多くの人たちに好まれていることを痛感。ラジオ歌謡の資料を整備し、後世に残すために普及活動を促進するために、2002年秋田ラジオ歌謡研究会を発足させた。散逸していた資料を収集「思い出のラジオ歌謡選曲集」第3巻まで出版している。2005年に名称も日本ラジオ歌謡研究会と全国規模となった。事務局が秋田市に置かれている。会員は各都市で中心になり、ラジオ歌謡の研究会、コンサート「ラジオ歌謡を歌う会」などを開催している。毎年「全国ラジオ歌謡音楽祭」が秋田市で開催されている。

 6月16日秋田なまはげオーケストラの演奏会のアンコールで「花が咲く」を演奏したが、客席最前列に陣取っていた60-70名ほどが突然立ち上がって舞台下に並び合唱したが、この方々が「ラジオ歌謡を歌う会」のメンバーであった。

 ラジオ歌謡には私も好きな良い曲が多い。ラジを歌謡は日本歌謡史に燦然と輝く作品群である。ラジオ歌謡の発掘、普及に秋田の工藤氏を始め「ラジオ歌謡を歌う会」が果たしている役割は大きい。


7/29(月)晴れ 蒸し暑い 外来 
1:30起床、新聞、文献収集その他。7:30バスと徒歩病院、回診その他病棟業務。8:45-13:00外来。秋田銀行スタッフ来訪。15:00徒歩帰宅、新聞・歴史本読み、PDF化。19:00夕食、20:45就寝。歩数計1025Km。

大阪府警の誤認逮捕(2) 機器の時間表示を疑わなかったのか?
 多くの機器には時間設定がなされている。この時間は疑ってかかる必要がある。

 私も最近、電波式時間補正装置付きのPHSを過信して失敗した。その時計に基づいて記載した患者の死亡時間について、家族から実際は10分早いはずとクレームが出された。その理由がわからなかったから一悶着あるかなと思って対応を考えていたが、その過程で、私のPHSが10分進んでいたことに気付き、書類を修正して事なきをえた。
 私はこの件を契機にいかに「高機能の時計付き」と言う触れ込みであっても疑ってかかる必要がある、ことを体験した。

 この誤認逮捕に関しても、警察も資料に記録された時間を疑っていなかったと言う初歩的なミスをおかしている。これに気づいた弁護人は立派である。また、容疑者もよくぞ給油後にETCを通過したものだ、と思う。もしETCを利用せず現金払いだったら、もし有料道路に入らなかったら比較検討する資料がなく、容疑否認のまま有罪とされていた可能性が高い。人の運命は偶然が決めているものだと思う。また、監視カメラの映像の証拠能力は十分な裏付け、物証を伴ってこそ成り立つと思う。

 何故、85日間も拘束されたのか? これは法が絡むので私にはよくわからないが、無実を主張する姿勢が捜査にあたった担当者の心証を害した可能性は無かったのだろうか。心証で延期されたらたまらないが、この点に弁護人はどのようにアクションしたのだろうか、興味を持つ。

 なぜ私が日々の行動記録を作っているかと言うと、30年ほど前の事であるが、私にとって3回目の職務質問を受けた際に、刑事の質問にうまく答えられず、誤認逮捕されるかもしれないと思った事がルーツとなっている。簡単な日々の記録であるが無いよりは良いはずである。ホームページ上に記録しているのは改ざん等しないためである。これにコンピューターの更新記録などを組み合わせれば何とかなるのではないかと考えている。そのために日々のパソコン使用状況はタイムマシンを用いてバックアップをとっている。

 私どもが監視を受けているもう一つの機器がある。携帯電話・スマホの利用記録である。GPSつきの場合は移動範囲もサーバー内には記録が残っている。これを引き出すにはは手続きが必要であるが警察の捜査には威力を発揮している。

 誰でも犯罪に巻き込まれる可能性がある。たとえ容疑が晴れても取り返しのつかない事態に落ち込む。そのために何をすべきか、しておくべきか、私どもは日常から考えておく必要がある


7/28(日)快晴 
0:30飯川病院にて起床。新聞チェック他。歴史勉強。文献整理他。7:00健食、9:00当直業務終了。9:30自転車帰宅。何と丹誠込め育てていた蓮が枯れかかっていた。ショックである。花壇・畠対応。本読み、データ整理。19:00夕食、20:00家内迎え駅に。21:00就寝。

大阪府警の誤認逮捕(1) 監視カメラの証拠能力を過信
 大阪府警はガソリンの窃盗容疑で逮捕した男性会社員(42)について誤認逮捕の可能性が高いとして7月20日に釈放していた。拘束期間がなぜか85日にものぼっていた。事件の概要は以下のごとくであった。

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 この男性はガソリンスタンドの防犯カメラに写っていた画像をもとに窃盗容疑で逮捕され、容疑を否認した続けたが起訴された。弁護人の検討でこの男性は給油後に6Km離れたETCを通過したが、両者の時間が正しければ男性はこの間を時速360Kmで移動したことになることから、犯行は不可能であることが照明された。カメラの設定時刻が実際の時間より8分進んでいたからであった。府警もこの事実から捜査の杜撰さを認めた、と言う。
 さらに、この男性は何故か85日間も拘束されていた。結果として仕事関連をはじめとして家族や親戚、知人などの人間関係でも大きなダメージを受けた。
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 この事件を通じて以下のように感じた。
 ■身に覚えのない人とであっても監視カメラの映像等から犯罪の容疑者になる可能性がある。
 ■機器の時間表時は疑う必要がある。
 ■容疑者として逮捕拘束は、たとえ容疑が晴れても社会的に大きなダメージとなる。

 今、業界団体によると全国で400万代の監視カメラが利用されている、と言う。JR新宿駅周辺には80台あり、国交省によると駅構内で6万代が設置されている。監視カメラは機能的にも進化して音声も録音出来る機器、データを警察に転送するタイプ、顔の自動解析機能付きもあると言う。
 犯罪捜査協力の名目で無差別に撮影された人物像のデータが令状もないままに警察に利用される違法状態が横行している。
 カメラの映像によって容疑を免れる例もあるだけに痛し痒しであるが、私どもは常に常に監視されていると言う意識を持たなければならない。ある事件の現場周辺にたまたま居ただけで、その映像によってあらぬ嫌疑をかけられる可能性がある。
 そういえば、山口県の某集落で起きた5人を殺害した事件の犯人の家にも監視カメラが周辺の民家に向けられていたと言う。



7/27(土)快晴へ 飯川病院日当直 家族横浜に 歩数計積算1.000Km到達
0:00 起床。文献・新聞チェック他、貴重な週末を楽しむ。トマト初収穫。5:40横浜に向かう家内を駅に送る。家内の飛行機嫌いが再発。8:40空路横浜に向かう人間を空港送る。今回もB787。約2年ぶりであるが空港ビル大幅に改修されていた。10:30帰宅、12:00自転車飯川病院に。12:30翌朝まで日当直。12:30、18:00検食、20:00就寝。歩数計積算1.000Km到達。

徒歩通勤(17) 歩行距離1.000Kmに到達
 今春、私は徒歩通勤にするための準備を重ねていたが、秋田は降雪量が多く歩道がの除雪、排雪が進まなかったために、実際に歩き始めたのは、予定より20日も遅れて3月19日からである。往復で12Km、だから運動のためにも適当な距離と言える。
 全コースを連日歩くと決めてしまうと、これもまた心理的な負荷になる。だから、適宜バスも併用することとした。

 バスは35年振りの利用となった。片道300円である。秋田市では68歳以上の高齢者は証明書携帯で100円でバスを利用できるようになり、10月1日から私も対象になる。年金に次いで二つ目の福祉の恩恵である。歳はとりたいものだ、と思う。

 私の徒歩通勤のルートはバスルートとは異なり、バスルートの方が2Kmほど遠回りになる。天候、体調も良く時間的余裕があるときは通常の通勤ルートを歩き、ちょっと不安なときはあえて遠回りしてバスルートを歩き、バスに追いつかれそうになったら近くの停留所からバスに乗る。

 当初はiPodの万歩計を用いていたが連日の記録が面倒である。約200Km歩いたところで、4月7日以降、伊能式の歩数積算計にした。これは日々のデータが自動的に積算されるから便利である。

 700Kmの頃から右膝に違和感があり、先々のことを考えてバス利用を増やし、歩行距離を減らした。だから歩行距離のペースは落ちている。積算計を用いてから107日で1.000Km歩いたことになる。10Km/日のぺーすである。

 膝痛は大部改善してきた。徐々にペースもあがってきている。 何で歩くのかと言うと、■何らかの運動をしたい、■ひとりで出来る、■時間ができた、■周囲を自然を観察できる、■蓄積した録音を聴き直す時間をとなる、■データの蓄積が楽しい、■エコにも寄与、■継続は力だから・・・などであろうか。体重が増加傾向なので痩せたいという目的もあったが、私の場合は痩せない。

 次の目標はとりあえず積算で2.000Kmである。4ヶ月ほどかかる予定である。


7/26(金)快晴 大曲中通病院外来 
 1:00 起床。文献など読む.録音データ整理。ゴミ処理後、7:40Taxi、8:02こまち、8:45-15:00大曲中通病院外来。16:30帰院。歩数計忘れて歩く気がしなかった。文献読み、新聞チェック。19:00夕食、20:00就寝。

書評:伊藤比呂美著「読み解き般若心経」朝日新聞社 (2) 2010年 1600円 
 般若心経は僅か300字足らずの本文である。複数の宗派におい読経経典の1つとして広く用いられている。
 この般若心経だけで210ページもの本を書くと言うのは信じがたかったが、入手して内容を見るといろいろなお経が紹介されている。12章のうち般若心経に触れているのは2章だけである。あとは著者によるの現代語訳で宗派を超えたお経が紹介され、 法然や親鸞の説法などもエッセーの合間に挿入されている。
 従って、般若心経というタイトルに惹かれて手にすると納得いかない場合もあるだろう。実は私もそうだった。勿体ないからめげずに読み続けていくと、般若心経以外の記述も素晴らしい。むしろのこのような構成が良かったと思われる。
 著者のこの本の主眼はお経の解説ではなく、洗練された「言葉」による置き換え、翻訳だ思う。詩人による「言葉の力」はすごい。見事な詩に置き換わっている。原文と比較してみると、お経というのははじめから詩の体裁を持っているのだと理解できた。

 気に入った訳語を具体例としてあげる余裕はないが、とくに良いと思ったのは、2章の香偈(こうげ)四奉請(しぶじょう)、4章の般若心経、5章の発願文、8章の和讃の「白骨」訳語である。

 6章では孟浩然と王維の詩を素材にしたとされるマーラーの「 大地の歌 告別」の日本語訳と、王維と仏教のつながりについても述べている。この本でマーラーが出てくるとは、意外であった。

 著者が両親の介護を通じて考えた生や死についての随想もこの本の魅力である。著者がひもといた訳文を読むと、お経は死んだひとのためにあるのではなく、生きているひとのためにあるのだ、と実感できる。死とは何か、どうやって死と向き合えばよいのか。その答を求めて著者はお経にたどり着いている。著者によって現代詩へと「翻訳」された経典の言葉は、このうえなく明快で、読むものの心にすっと入ってくる。 小難しいことはなにもない。明るい。私は高齢者の方にぜひ読んでほしいと思う。

 お経は声に出してみることが重要であるが、私などには到底無理である。幸い、CDとかで読経の録音を入手する事が出来る。私は日本仏教普及会のほか8種類の般若心境の録音を聴いているが、複数の男性の声が織りなす和音、多重音はグレゴリオ聖歌と共通の心地よさがある。西洋東洋を問わず人間の宗教観は共通しているのかもしれない。

 この「読み解き般若心境」を読みながら、読経の音声を聴くことをお勧めする。目と耳からスッと入って来るから、般若心経が何となくわかったような気がして来る。


7/25(木)雨午後晴れ 夜半から大雨 外来 ドックデータ処理
0:30起床。新聞・文献等。7:00車病院着。回診他病棟業務。8:45-13:00外来。 ドックデータ処理。15:00帰宅。16:00自転車北インター往復、DVD「八甲田」観る。19:00夕食。20:00就寝。 歩数計987Km。

書評:伊藤比呂美著「読み解き般若心経」朝日新聞社 (1) 2010年 1600円 
 久々般若心経を手に取った。
 今までも解説書は水上勉氏の作品をはじめ数冊を手にとって2-3回挑戦した。完読した事はない。これに懲りて今回は難解な解説書ではなく、詩人の伊藤比呂美氏が読み解いたエッセイ的内容、とされる本にした。

 著者の伊藤 比呂美氏1955年は詩人。この本の巻末にある著者の経歴を参考にすれば、1978年『草木の空』でデビュー、性と生殖、そして死に関する方面に、女性による視点で詩やエッセイ等を発表した。 のちに小説にも進出し、『良いおっぱい悪いおっぱい』で子育てエッセイという分野を開拓した。『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』で、独自の語りものの世界も確立する。1997年より米国在住、親の介護のために熊本とカリフォルニア間を2ヶ月ごと往復する生活だと言う。2011年より熊本学園大学招聘教授に就任。

 なんでまたこの時期に般若心経かと言うと、古典や純文学にちょっと飽きたからである。幸い、最近読書に割ける時間が増えたので、かつて読んだ本を書棚から取り出してつらつら読んでいる。太宰は良い。新しい分野の本も手に取ってみるが、最近の日本や世界の動きを取り上げて急遽出版された政治や経済の本は、広告の派手さにの割には中身がない。

 そこで再び般若心経を読んでみようと思ったわけである。この本を選んだのは3年ほど前にラジオ深夜便に著者が登場して般若心経の他、作家・詩人に就いて、両親の介護について語ったのを聴いていつか読みたい本のリストに入れておいた。彼女の本なら読み切れるのかも、と期待して購入した。

 著者の伊藤氏は若い頃はエロスの詩人と呼ばれた。みずからを「女ひとり、海千山千になりはてた女」と表す。何度かの離婚歴あり、家庭持ちの男性との浮気歴など重ねる。隠すことがない。今は30歳ほど年上の夫と米国にくらし、母を看取り、父の介護のために2ヶ月ごとに日米間を往復する。著者の周辺は次々と関係者が死に「死屍累々」の状況と言う。こんな中だから何か頼るべき指針、言葉が欲しく、その結果お経にたどり着いた、と言う。

 本書は12章からなる。
 第一の章は懺悔文である。華厳経と言う経の一部。これを引用しながら自らの足跡を示し懺悔している。ミニ自伝である。濃厚な内容である。この章を通じ、私は筆者についていたく興味を抱いた。
 章の文末は「こころを きりきざむようにして 悔いていきます」と結んでいる。


7/24(水)曇り 外来 ドックデータ処理
1:30起床、3:00頃より雨となる。7:40バス病院着。回診。8:45-13:00外来、入院患者検査等。15:00バス利用帰宅、新聞チェック、CVD映画「八甲田』観る。19:00夕食、 20:00就眠。歩数計980Km。

書評:「ビクトール・フランクル 絶望の果てに光がある」諸富祥彦著 KKベストセラーズ 2013年 648円
 ビクトール・フランクル(1905-1997)は名著「夜と霧」の著者である。オーストリア生まれのユダヤ人で、「生きる意味とは何か」を求めて精神科医となる。1943年フランクルは強制収容所に送られる。
 想像を絶する過酷な環境にあっても希望を見失わずに、人間を観察、その中に人間の気高さを観察した。その時の体験を記録したのが「夜と霧」である。その他多数の著作があるが邦訳されているのは、「死と愛」、「それでも人生にイエスと言う」、「苦悩する人間」がある。

 著者の諸富氏は1962年生まれ、現在明治大学文学部教授。専攻は、カウンセリング心理学、心理療法・臨床心理学。フランクルなどの人間性心理学を専門とすしている。フランクル関連の著書は『フランクル心理学入門ーどんな時も人生には意味がある』1997年がある。

 10数年前、私はポーランドを旅行した。最も関心があったのはアウシュビッツの捕虜収容所への訪問であった。フランクルの「夜と霧」はその前に一度通読し、ショックを受けたものの実感がわかなかった。国立博物館記念館の犠牲者の遺品、広大な平原に作られていたと言う収容所跡地、多数の銃殺が行われた死の壁、ガス室をみた。人はどこまで非常になれるのか?戻ってから「夜と霧」を読み直し、はじめヒトラー、ナチス関連の文献を大量に購入したが、まだ積んどく状態である。

 そんなことが背景にあってフランクル関連の書籍、ホロコーストの文献がでると目が引かれる。
 本書は220pの新書でとても読みやすい。内容はフランクルを研究して著者がフランクルが発しているメッセージを18の項目にまとめて紹介したものである。 すべてを紹介したいのであるが抜粋した。
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02幸せは求めるほど逃げていく。
03我を忘れて誰かのために何かを行う。そのことで人間は真の自分を発見する。
04苦悩そのものが問題なのではない。何のための苦悩かに答えないことが問題。
10人生の意味を疑うのは高い精神性の証である。
11あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない。
14人に喜ばれることが生きる意欲につながる。
16幸福を追い求めるから、人生からの問いかけに答える生き方に変換を。
18悩んで悩んで悩み抜け。絶望の暗闇にこそ一条の光が届けられる。
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 上記と類似の項目を挙げて生き方を論じている本も少なくない。

 私たちは連鎖して悪いことが生じた際などに天を仰ぎ不運を呪いたくなることも少なくない。しかし、自分の不幸を運のせいにしていては何も変わらない。こんな時に「自分の運命に対してどういう態度を取るのか、それが重要である」とフランクルは言う。上記に挙げた項目について、アウシュビッツで、極限の苦痛・苦悩を味わい奇跡的な生還を果たしたフランクルの言葉には重みがあり、深みがある。

 お勧めしたい一冊である。


7/23(火)曇り後晴れ 外来 
0:30起床、この時間帯だと時間がリッチ。5:15ゴミ収集日で廃棄。雨模様、7:30バス利用で病院病院着。8:30回診、8:45-13:20外来、15:30バス利用帰宅。ドヴォルザーク、コルサコフの作品を検討。17:15-18:00軽くポタリング。新聞、歴史本に集中。19:00夕食、20:30就眠。

歌謡曲の魅力(5) 日本の歌のミニ歴史 「童謡」
 「童謡」は子供向けの歌を指すが、一般的には大正後期以降、子供に歌われることを目的に作られた歌曲をのことである。
 わが国では子供の歌といえば昔から「わらべ歌」があった。
 明治以降西洋から近代音楽が紹介され、学校教育用に文部省唱歌が多数作られた。これらは情操教育を目的に日本の風景訓話などを歌ったものである。

 童謡の普及に尽力した鈴木三重吉(1882-1936)は、童謡の定義として「子供に向けて創作された芸術的香気の高い歌謡で、芸術味の豊かな、子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけない、これを優しく育む様な歌と曲」とした。

 私は数年前まで唱歌と童謡の区別を知らなかった。今でも個々の曲を聴いても区別は容易でないが、私は唱歌は子供のための官製の歌、「童謡」は民製のそれと言っていいと思う。個々の曲がどちらであるのかは作曲された背景を調べないと厳密には分からない。

 「童謡」の誕生は大正19年の『カナリヤ」が最初だと言われている。西条八十の詩に秋田出身の成田為三が作曲した曲である。成田為三は「浜辺の歌」や 「赤い鳥小鳥」などが有名であるが、多くの管弦楽曲やピアノ曲などを作曲しており、日本の音楽界で果たした役割の大きさが再認識されつつある。秋田県から偉大な作曲家が輩出した事はもっと知られて良い。

 1940年頃を境に唱歌も童謡も戦意高揚、思想統制の道具とされ、「隣組」や『戦争ごっこ』のような戦時童謡と呼ばれる歌が作られた。
 終戦後は、ベビーブームもあって童謡への関心が高まった。『ぞうさん』や「犬のおまわりさん」など、現在でも歌われる多くの歌が作られた。

 童謡は時代とともに考え方が変化したが、現在では「童謡」=「子供の歌」として広くとらえ、唱歌、わらべ歌、抒情歌、さらにテレビ・アニメの主題歌など、ジャンルを問わず子供の歌を全て「童謡」と括ってしまう傾向があるようだ。テレビ・アニメの主題歌を童謡に含めるには私は若干の抵抗がある。

 最近は若いお母さん方の関心がうすく、古くからの童謡が家庭で歌われることは少なくなっている。
 童謡・唱歌を積極的に取り上げている由紀・安田姉妹の活動は意味があると思う。私も好きで数回聴いている。懐かしい、ほっと和むような時間が味わえるが、会場には子連れのお母さん方の姿はとても少ない。


7/22(月)雨 健康クリニックドック 患者関連書類処理
1:30頃起床、新聞、文献収集その他。7:20Delsor車病院、回診その他病棟業務。健康クリニックドック15名+結果説明。 書類処理。15:00車帰宅、DVD「クライマーズハイ」観る。日航123便墜落を新聞社の側から追ったドキュメント。歴史本に集中。夕食、20:45就寝。

歌謡曲の魅力(4)日本の歌のミニ歴史 『唱歌』
 世界中で人のいるところに歌のないところはない。
 舌が発達しているのは人間の特徴の一つで、舌は咀嚼、嚥下に重要である他、感覚器としても、声の発生にも重要である。人まねの出来るオームやインコは舌の機能が飛び抜けていいことで物まねが可能になっている。

 人間は感情がある。加えて比較的自由に声をコントロール出来る。だから、いろいろな声を出せる。人類の発達とともに何時しか声に感情がこもり、一定の気持ちをあらわすための抑揚とかが共通の表現法が決まっていったのだろう。さらに、言葉を獲得すると言葉で感情を表現するために一層ふさわしい表現が確立していったのだろう。これに原始的な打楽器が併用されたことは容易に想像され、音楽が形成されていった、と思われる。単純な打楽器は8000年ほど前のものが出土しているから、歌の歴史はもっと長い。だから、音楽にとっては声が楽器であり必ず歌が伴っていた。楽器が発達してから声を伴わない音楽も発達した。

 私は中学生のときに突然クラシック音楽に目覚めて現在に至っているが、ベートーヴェンの交響曲から入って徐々に輪を広げて行ったので、好みの中心が交響曲、器楽曲で、西洋音楽の中では声楽が入った曲は好まない。声楽の入った交響曲、オペラなどはあまり抵抗がなく聴けるが、歌曲は殆ど聴かない。

 日本の音楽は逆に民謡、歌謡曲、浪曲、浪花節、長唄まで含め声が入ったものを好む。明治以降発展してきたいわゆる和製クラッシック畑にも良い曲があるが、滅多に聴くことはない。

 我が国に特有な歌や音楽もそれなりの歴史を踏んで発展したと思われるが、長く鎖国をしていたために西洋音楽に触れる機会はペリー来日までなかった。

 我が国の近代の音楽は明治政府のてこ入れで政策的教育として作られていった。1872年(明治5年)に学制が発布され、小学校の教科書に「唱歌」が記載された。この頃日本人による曲は殆どなく、大部分は西洋の曲に日本の詩を、半ば無理矢理当てはめた曲であった。「蛍の光」、「あおげば尊し」、「庭のちぐさ」などである。

 私は何故このような日本的叙情を見事に表している曲が、原曲が外国の民謡などであったのか長い間疑問に思っていたが、明治政府の方針として作られた唱歌の歴史を見ると通るべき道だったと思う。その後、作曲された唱歌として「故郷」、「春の小川」、「おぼろ月夜」などがあり、今も広く愛唱され続けている曲も多い。

 唱歌の定義は「 主として明治初期から第2次大戦終了時まで学校教育用作られた歌で、童謡等も含む」とするのが一般的である。


7/21(日)曇り午後降雨 土崎港曳山祭り
11:30起床、新聞チェック・文献検討等など。自室の小物整理。11:00自転車10Km。文献など整理。除草、ガレージの掃除、午後は雨で歴史勉強その他データ整理。17:00夕食、 20:00就寝。歩数計963Km。福島を抜け宮城に到達。

徒歩通勤(16)偉人伊能忠敬(7) 福島県を通過宮城県に入る 膝痛軽減
 私は4月7日以降、伊能忠敬が歩いたルートを辿って歩いている。現段階で伊能式積算歩数計は963Kmで、本日福島県を通過し宮城県に入った。
 福島県の海岸線は思ったより短く、最近膝痛で歩行のペースが落ちたが、155Kmを約20日で通過したから、一日7Km前後歩いている事になる。
 私は6月上旬までは一日平均2時間程度、1万3千歩、12Km程度歩いていたがその頃から右膝に違和感が生じ始め、膝の安静のためにバス通にして膝の安静を保っていた。そのために歩行のペースが遅くなっている。問題がなければ再度往復とも歩行通勤にしたい。

 福島県通過中は福島県に着いて地図上で勉強した。
 私にとって福島県もあまり親しみがない。ただ、新潟大学在学中には盛岡→仙台→福島→郡山→会津若松→新津→新潟と磐越西線を利用して6年間、30回ほど往復したが、福島県内は通過するのみで一度も下車したことがない。社会に出てから福島市には学会や医師会の出張で5回ほど訪れたことがある。名所など一切訪れたことはない。会津若松市には2009年10月に同級会で訪問し、大内宿など周辺を若干観た。

 私が地名として知っているのは主に内陸で沿岸地方で知っていたのはいわき市だけであった。今回の原発事故を通じて知った地名は多い。今回の通過で位置関係などやっとわかった。

 各県の海岸線の長さは、東京56.7、千葉550.58、茨城181.53、福島178.06Kmであった。宮城と岩手はリアス式海岸となるために長く、前者552.68、後者649.22Kmである。ペースが落ちるだろうが、宮城は何時通過出来るのか、楽しみである。  


7/20(土)晴 飯川病院日直 土崎港曳山祭り初日
1:00起床、録音データ他整理。午前は畠、花壇と外仕事、休宝寺にミズ届けに自転車往復。そのまま飯川病院、12:45-17:00飯川病院日直。新聞チェック、録音データ整理、読書。18:00家内の車で遠回り帰宅、生牡蠣処理。19:00夕食、20:00就寝。歩数計954Km。

秋田新幹線(6)こまち脱線事故 事故調査には何でこんなに時間がかかるのか  
 秋田新幹線こまちは3月2日(土)の夕方に大仙市で脱線した。1997年3月の開業以来初の脱線事故。事故原因は運輸安全委員会で調べているが、1年ほどかかる、という。私は、何でそんなに時間がかかるのか、と不思議に思う。

 報道された事故の内容、調べた情報を元に事故の数日後に脱線事故の原因を私なりに考えてみた。
 ■秋田新幹線独自の三本のレール区間で、■広軌線路を先行こまちが1時間前に異常なく通過、■6分前に狭軌線路を在来線列車が異常なく通過、■除雪後に異常なく通過できた、ことから、「6分前に通過した狭軌列車のスノープラウが外側に排除した雪が広軌のレール上に厚く積み重なり、こまちがそれに乗り上げたもの」と思っている。鍵は6分前に狭軌線路を在来線列車が異常なく通過した、ということにある。

 運輸安全委員会はこの7月19日、「雪の吹きだまりが事故の一因になった」として再発防止策として防雪柵を設けることにした、という。結論はまだ出ていない。防止策は三線軌条区間の600mと言う。防雪柵は高さ4mで12月完成予定で10数億円かかるらしい。

 秋田新幹線は田沢湖線、奥羽本線では地上を走行する。また、奥羽線では一部の区間であるが、広軌と狭軌が共用する三本軌区間がある。このための特殊な事故だったと思う。三本軌は降雪区域には向いていない。雪対策、除雪についても見直しされるとのことで、そうであれば同じ事故は2度と生じないだろう。

 ところで、航空機にせよ、船舶、鉄道事故、医療事故でも重大な事故があれば各部門の安全委員会が事故調査を行う。何でこれほど時間がかかるのだろうか。

 今回のこまち脱線事故にも1年を要すと言うが、信じられない。1966年2月の全日空B727の羽田沖事故は報告書の決定までは約4年、1985年8月の日航御巣鷹山墜落事故の場合は比較的早かったが、それでも2年を要している。2008年2月の自衛隊のイージス艦と漁船との衝突では裁判が結審するのに5年を要した。わが国の裁判も随分時間がかかる。比較的単純と思われる離婚訴訟でも数年かかるのはざらで、本人達にとっては堪え難い日々であろう。8年を要した判例もある。

 この間、何しているのだろうか。確かに、羽田沖事故、御巣鷹山事故では残骸の回収に数ヶ月を要しているが、報告書の決定までは約4年、1985年8月の日航御巣鷹山墜落事故の場合は2年とかかっている。比較密に検討が進められているなら納得せざるを得ないが、次々と先送りされているのではないだろうか。こまち脱線事故では判断に必要な情報がまだ集められているのだろうか?
 理解しがたい実態である。


7/19(金)快晴 大曲中通病院外来
1:30起床、文献・新聞チェック他。7:40Taxi、8:02こまち。8:45-14:50大曲中通病院外来。駅病院間徒歩、16:40Taxi帰宅、17:30買い物と北インターへ自転車、ローソンで外来スタッフと会う、花壇、畠などチェック、撒水。19:00夕食、20:00就寝。歩数計937Km。

歌謡曲の魅力(3)歌謡曲の多極化、演歌の衰退 
 歌謡曲は昭和という時代と並走し、戦後の窮乏時代を支え、その後の復興繁栄の時代の喜びを享受するなど、時代を濃厚に映してきた。
 戦後の厳しかった生活は明るいコミックソングが、高度成長期にはサラリーマンの苦悩や喜びの心情を歌った歌が、集団就職で故郷を離れた若者には郷愁をさそう歌が、自由な恋愛の時代を反映した愛の歌・恋の歌が、国民の支えになってきた。

 高度成長期を迎えて、TV、ステレオ装置が家庭にも普及し歌謡曲の発展に大きな役割を果たした。ヒット曲はマスコミに乗って短期間に全国的津々浦々に流行し、レコードの販売量も飛躍的に伸び、100万枚を超える売り上げを記録した曲も多い。
 歌謡曲の業界も著しい成長を遂げた。レコード業界は有能な作詞家、作曲家、歌手を抱え、次々と新人歌手を発掘しデビューさせ市場を拡大し、一大産業に成長した。

 当時、音楽は応接室、居間とかにどっかとステータス的に鎮座した比較的大型の再生装置で家族で楽しむものであったが、昭和40年ころから住宅事情の変化などから装置は小型化、カセットテープが普及しTVやFMから録音して個人で楽しめる様になった。
 さらに、ソニーのカセットウオークマンが果たした役割は大きい。音楽はTPOに関わらず一人で楽しむ時代になり、ジャンルがユーザーの思考にあわせて次々と分散化していった。

 昭和30年代後半は歌謡曲の全盛期だった。歌謡曲はそのまま末永く続くかに思えていたが、昭和から平成に移る頃から若者を中心としたライフスタイルの変化と共に急速に衰退していった。この流れの中で、会社専属の作詞家、作曲家、歌手達による古き良き時代の歌謡曲、特に演歌の分野はマンネリ化し徐々に衰退していった(なかにし礼)。

 いわゆる流行歌は廃れた訳ではない。分散化である。その背景にフリーの芸術家達の台頭、歌手が自分で曲を書くシンガーソングライター達の活躍、ボーカルグループの出現、グループサウンズの隆盛と続いた。

 私などはどちらかと言うと平成以前の伝統的な、古き良き時代を彷彿とさせるゆっくりした曲想の曲を好むが、多様なジャンルにわたって良い曲が沢山ある。昨年来ラジオ深夜便の日本のメロディを連日録音しているが、それらの中から良い曲を探し出し、味わうのは楽しい作業である。


7/18(木)降雨後快晴 外来  
1:00起床。文献,新聞、録音データなど処理。7:20Prius病院着。7:30回診。8:45-13:10外来、15:30帰宅。新聞PDF化、片付けなど、17:00ポタリング北インター往復10Km。19:00夕食、20:00就寝。歩数計937Km。宮城まで30Km。

異境の地ブータン(4) 国の苦悩(2)幸せ観に揺らぎ
 ブータンは長い間の鎖国政策をとって来たが、開国後は世界のグローバル経済に徐々に飲み込まれ、情報化とともに若者の幸せに対する価値観は大きく変化しつつある。

 教育は無料、 就学率は小学校が95%、大学で35%程度と国力の割には充実している。しかし、教育を受けた若者は農村を去っている。都市と農村部の経済的格差は徐々に拡大している。高学歴者は現場の労務に就きたがらず、それらはインドからの出稼ぎ者でまなわれている。結果として、若者の失業率は25%にのぼっている。

 ブータンの外貨獲得は水力発電と観光のみ。若者の失業率が示すごとく 産業は未熟である。にもかかわらず、若者はより良い生活を求め始めていて、自国で作れない自動車や携帯電話の輸入が増え、高価なものだけに外貨はほぼ底をついている。

 ブータンの民主化は国王が先鞭をとったと言う特異なプロセスをたどっているが、民主主義は意見の違いから対立を生み出すことから、女性や高齢者はかつての王政を懐かしんでいる。ブータンは国民総幸福量の追求を国是としてきたが、今回の総選挙では、若者の失業、農村と都市部の格差拡大などが争点となって野党が国民の不満を吸収する形で票を集めて勝利し、政権交代が行われることになった。
 ブータンはインド、中国の2大国に挟まれている。最近、前首相が中国よりの政策をとったとしてインドからの燃料などに対する補助が削減されて国内では燃料が高騰している。新政権は外交面で難しい舵取りを求められる。

 人類は欲求、欲望を背景に発展を遂げてきた。その一例がわが国の今である。わが国がたどった過程は、人間がたどる過程だった。ブータンが辿った路は今までは良かったのかもしれないが、国民が人間である限り,国民の欲望を満たす方向を完全にはコントロールできないだろう。
 ブータンは変わりつつある。国民の意識が変わりつつある。この国の舵取りは困難を増していくだろう。今後どのような変遷を遂げていくのだろうか,私は注目している。



7/17(水)快晴 外来
1:00起床。新聞・文献チェック、歴史関連書籍他。7:30バス利用病院着。回診、病棟業務。8:45-13:20外来。15:45徒歩帰宅。若干重い感じなるも膝痛ない。新聞・歴史勉強、畠に散水、トマトにカラスよけの光沢テープつける。19:00夕食、20:00就眠。

異境の地ブータン(3) 国の苦悩(1)
 2011年ブータン王国のワンチェク国王がペマ王妃を伴い初来日した。まだ記憶に新しい。
 お二人の様子はTVとかで頻回に報道された。各国の元首が来日してもこの様にホットに人々と交流することも、報道されることも希である。
 マスコミが取りあげたのは単にお二人の資質だけでなく、現代の桃源郷とも称される夢のような未知の文化を持つお国から来られた新婚の国王夫妻、という物珍しさ、興味本位の立場だったからあろう。しかし、お二人は私に大きなインパクトを与えて下さった。

 ブータンは標高2.300mほどの高地にあり、九州程度の国土に人口70万人ほどの貧しい小国である。
 英国レスター大学のホワイト教授が 2006年に発表した「世界幸福ランキング」の中で日本は90位であったが、ブータンが8位にはいり話題となった。6年前の自国の国勢調査では国民の97%が「幸せ」と答えたというが、信じ難い。これほどの結果がでると言うこと自体不自然である。統制か、強要か、はたまた鎖国政策のために国民が井の中の蛙的状態にあったため、ガラパゴス的環境下の無知だったのか。

 ブータンも内憂外患は少なくない。

 報道から拾った知識であるが、10年ほど前までTV放送もなかったし今もインターネットは許可制とのこと。30年前まで鎖国し、今も出入国の管理は厳しく制限されている。王制から立憲君主制に移行したのは3年前で民主化は緒についたばかりである。外交面では国交は20数ヶ国だけで、中国、米国などの大国とは国交はない。小水力発電を最大の産業とし、仏教的伝統文化の維持を国策としている。

 この国が今後どのような変遷を遂げていくのだろうか,私は興味がある。これは,国としてと言うよりも人間の在り方の問題でもある。少ない富をうまく国民に配分し、現段階では成功しているようであるが、これは人間の本性に反する状態である。人には欲があり,欲望はどんどんと膨らんで行くのが通常の姿である。

 ブータンと言えども国民が人間である限り,国民の欲望を満たす方向を完全にはコントロールできないだろう。

 ブータンはこのたびの選挙で初の政権交代が行われることになった。


7/16(火)快晴 外来 
0:30起床,新聞、文献読み、その他いつものごとく。家庭ゴミ。7:40バスにて病院着。回診。定期的入院一名、8:45-13:00外来。15:30通町書店に立ち寄り8割り方徒歩、途中バスも利用帰宅、膝痛生じず。畠若干、撒水。新聞PDF化。19:30夕食、20:15就眠。歩数計916Km。

クロスバイク2013(2) ルートを限定して走り始めた
 秋田は冬季間自転車は走れない。クロスバイクは秋以降、室内用のトレーナーに設置して、居間でDVDで映画を観ながらが時折ペダルを踏んでいた。

 本当は自転車が好きで走り回りたいのであるが、昨年秋以降、脳塞栓防止のために血液凝固阻害剤を服用をしているので、外傷の際に不測の出血を来す可能性があること、右下腹部に術後の腹壁ヘルニアが時に痛む様になってきたことである。

 歩道の雪も融けたから3月19日から徒歩通勤を始めてた。往復で12Km、ちょうどよい距離である。200Kmほど歩いたところで伊能忠敬の足跡をたどる歩数計を購入し以後はそれで積算し現在900Kmほど歩いた事になる。だから全歩行は1.100Kmとなる。毎日全部歩くと決めるのは気持ちの上で負担になるので天候等に応じて適宜バスも利用してきた。

 6月に入ってから徐々に右ひざ痛が生じるようになって全コース歩行は困難となったのでバスを中心としてみた。しかし、バス停まで往復3Km歩くのも疼痛の誘因となった。今後のことがあるので整形外科を受診、高負荷による軽い炎症とのこと。診察を担当した医師には呆れられた。

 膝関節の負荷軽減が必要、移動には体重負荷の少ない自転車が良いだろうとのアドバイスを受けた。それで、しばらくマウンテンバイクまがいの自転車にした。やはり自転車は良い。行動範囲が広がる。

 自転車だと、やはり、クロスバイクの味が忘れられない。さりとて出血の危険は回避しなければならない。幸い、私の住居の近くの横山金足線、次いで北インターに至る道路は歩道が広く、滅多に歩行者もいないから安全である。この道路と同じく歩道が完備されている小泉潟に至る国道に限定して走ることとした。距離は10Km程度と帰宅後に走るののちょうどいい。

 まだ2-3回であるがいい気分で走っている。やはりクロスバイクは楽しい。
 膝は徐々によくなっている。片道歩いてみたが大丈夫である。大事を取って今しばらくは通勤は適宜バスを利用しつつ徒歩通勤に戻す。歩数計のデータでは間もなく福島を抜けて宮城である。こっちの方も一層伸ばしたい。 


7/15(月) 海の日 快晴 
 1:30起床、歴史本医学関連文献等など中心に読書、録音データ整理。孫の相手若干、昨日からの草刈り、今週分は終了。13;00ポタリング8Km。文献、新聞チェック他。書庫整理、撒水。17:00息子一家離秋。19:00夕食。20:30就眠。

こころの赴くままに(2) 私はもう成長なんかしない
 人は加齢によって記憶力等が衰えても知的には成長し熟成していくものだ、と言われるが、私の感覚で自身を見ても、他人を見てもウソだと思う。中高年というのは年齢にふさわしく成長することではなく、もう変わり様のない自分の感覚で、社会との葛藤を繰り返しながら残りの人生を過ごすことだろう、と思う。だから、私は身勝手な老人と話すのが嫌である。

 会話が苦手をいえども現役のときには他人から、会話から学ぶことは多かった。社会生活の中で円熟した判断は、因習的な定型的判断のことが多く、組織や共同体の中で生きていくための賢い判断ということである。その目的では、日々の対話は重要な情報源であった。
 同時に、相手を大事にするのであれば会話を真摯に聴かねばならぬという義務、会話の中で提起された事項については真摯に考え判断をしなければならない、という義務を負う。さらに下した判断が、それが正しかったとしても、私は本音を言うことは少なかったからそれによって長期的に苛まれる、というストレスを負った。しかしながら、一線を退いた今はもう自分の心のままでいい。無理して会話する必要もない。

 私は日常的な会話は苦手である。会話を維持出来ない。用件そのものだけで良い。時候の挨拶などない方が良い。
 孤独に徹するのは良いが、多彩な人との付き合いは人生を豊かにしてくれる、と一般的に言われる。それは正しいと言いたいが、齢を重ねるということは感受性も思考も凝り固まっていくことでもある。会話を通じて自分にそれを感じることはしょっちゅうである。わかっていてももう自分自身を変えることはもう出来ない。だから、一般的な会話は私にとって不要である。

 アインシュタインは「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」と言った言葉を残している。いくらなんでも18歳は早すぎる。私にとっては組織で働いていた期間を社会的常識の獲得期間、すなわち勉強期間であった、と言いたい。

 もう一つ偉人の言葉を引用する。福沢諭吉は「独立の気力なき者は必ず人に依頼す。人に依頼する者は必ず人を恐る。人を恐るる者は必ず人にへつらう」と言っている。私は人と交渉することも苦手なために人にものを依頼することを好まない。物事に他人が介在することを嫌う。しかし、自分の器を超えた領域に関してはそうは言ってはいれない。その道に優れた方に依頼せざるを得ない。そうすると福沢の言葉の後半に近い気持ちになった。私は他人が恐い。

 診療時の会話についてはワンパターンで済むからあまりストレスはない。それでも私の歯の治療を担当してくれている主治医が羨ましい。受診頻度は少ないが40年にわたってお世話いただいているが殆ど会話しない。ほぼ単語+αで、治療について具体的に話し合ったという記憶はない。40年分あわせても私の外来一日分にも満たないやり取りしかない。これで済むなら理想である。


7/14(日)曇り晴れ時折雨 息子一家来訪
 1:00 飯川病院にて起床、新聞、文献チェック。録音データ整理。9:00病院に戻り回診、オーダーだし。10:00Priusで帰宅。久々晴天となるが不安定。ポタリング8Km。花壇畠の草刈り、メインテナンス。15:00息子一家来訪。孫の成長に驚く。17:55外で焼き肉、花火など。20:00就眠。

こころの赴くままに(1) 誰からも必要とされない存在になる
 現役を退いて2年が経過した。家族以外の誰からも必要とされない存在になる事が私の目標の一つであり、これに向かって着々と進んでいる。
 1971年大学を卒業して病院組織の中で40年働いて来た。これが自分にとってベストではないまでも適正な道の一つだと思ってきたが、還暦を迎える年齢になって急に疑問がわいてきた。如何に自分にとって無理を重ねた人生なんだろうか、本音を吐き難い環境が嫌になってきた。私は一度も迷いも疑問も抱かずに医師になったものの、今から考えるとそれほど適正がないのでは?とも思っていた。
 還暦の頃、退職し別の生き方を求めようかと真剣に考えていた。大体方向性が固まってきて退職願を出そうかと考えていたときに、思いがけず、というか、運が悪くというか、院長のポストが回ってきた。院長職など、私にとって最もふさわしくない職種であることは自明の理であった。辞退したがしきれなかった。

 最終的にはお引き受けしたが、法人との雇用関係が切れる65歳までの間、私の道は一時棚上げとした。カウントダウンしながらその日を待っていたが、職務は誠心誠意つとめてた。

 その日、2011年6月1日を迎えたときには実に大きな開放感を味わった。もし、還暦前後に、道をかえるために退職していたならむしろ迷いや後悔の方が強かったのではないか、と思われる。在任中に迎えた困難な日々が私の人生を、結果的に豊かにしてくれた。その果実をたくさん得たからこそ、多くの事を学ばせてもらったからこそ、私の満足感はとてつもなく大きかったのだ、と思う。
 何が嬉しかったのかと言えば、一言で言えば人間関係と義務からの解放であった。本来人間嫌いであったが、なんとか努力して破綻なく維持してきた。もう無理して会話する事もない。家族間の会話、業務上の会話をのぞけばほぼゼロである。

 業務上の義務から解放という事は、社会的にはもう必要とされなくなった、とみていい。勿論、世の中の一般的な義務、納税とかを負うのは当然である。この年代の男性が書いた随想などを読むと開放感以上に疎外感を抱く人も居るようである。しかし、私は違う。誰に気を使う事もなく、自由に生きられる喜びで一杯である。


7/13(土)夜半降雨、午前から快晴 クロスバイク整備 飯川病院当直
1:15起床、新聞文献チェック他いつもの如し。録音データ整理。晴れ始めたのでミニポットで発芽させた豆苗を畠に移植。10:30クロスバイク室内から外に。安全第一で乗る事とした。ポタリング8Km。午睡若干、文献PDF化。家の中の掃除整理、修理他。16:00バス利用飯川病院に。17:00当直に就く。18:00検食。20;30就眠。歩数計893Km。

参議院選挙(2) 社会保障費の抑制のためにどうすれば良いのか
 いま、日本の医療費は年間40兆円。今後も毎年3兆円ほどの一途をたどる。少子高齢化が進むなか、これらの財源を確保のをどうするかは日本が直面する大きな課題である。しかし、今回の参議院選挙に於いて社会保障に関しての論争は概して低調である。

 自民は今まで医療福祉の分野について、以下のような懸案事項が目白押しであるが、安倍首相の演説ではアベノミクスの前向きの姿勢については精力的に語っているが、以下の点などについては殆ど触れられていない。

■介護保険軽症者の除外
■年金支給開始年齢の引き上げ問題、給付額減の問題
■70-74歳の医療費窓口負担の1割の据え置き
■混合診療問題
■消費税増税論議
■財政健全化論議

 野党各党の選挙公約および党首の演説の中でも上記の論点はぼかしたままである。
 候補者はそんな事では総論的な方針を票を集める事は出来ない。新聞に掲載されている候補者の意見表明、TVで流される意見表明はさすがに所属政党の記載を大きく超えることはないが、街頭演説では力強く持論を述べている方もおられた。私が聴いた2候補であるが、社会保障の分野では、規制改革、混合診療の導入、ジェネリック医薬品の導入などより具体的に述べていた。
 演説は多岐にわたるのでこの分野に割いた時間は少なかったが、当選した暁には自分の言葉が足かせになって活動に影響受けるのではないか?と心配になった。が、そんな事に影響を受けないのが政治家かな?と言う気もした。

 私も社会保障の分野をどうすれば良いのか、実のところわからない。ただ言える事は、国民の負担も限界、国家の負担も限界、医療機関側の我慢も限界、を迎えている事は明らかである。ここでどちらかに偏ったドラスティックな改革は出来ない。小泉首相が掲げた三方一両損の考え方が思い出される。小泉首相の時は患者と医療機関の二方損で終わったために医療崩壊を来した。


7/12(金)降雨 大曲中通病院外来
 1:00起床。文献読みなど。録音データ整理、7:30Taxiにて駅に向かうも降雨で渋滞、予定のこまちに遅れた。コーヒーショップで本読み、8:56こまちへ。9:40-15:00大曲外来。16:30Taxi帰宅。 DVD映画「はげたか」続きを見る。新聞他チェック。19:00夕食、20:30就寝。歩数計880Km。

参議院選挙(1) 医療・福祉関連で候補者は夢を語りすぎる
 参議院選がたけなわ。6月22日審判が下る。自民党はアベノミクスを背景にかなり優勢に進めている。アベノミクスは将来的にどう評価されるか明らかではないが、今のところ数々の経済指標は一定の効果を上げている。そのために野党側は対案は出しがたい状況にある。
 
 いま、日本の医療費は年間40兆円。 日本の医療費は、年3%ずつ増えている。医療の高度化、高齢化社会が主たる要因である。これが2025年には60兆円を超える。そうなると医療費の財源をどうするのか。少子高齢化が進むなか、これらの財源を確保のために税金や保険料などの負担増は避けられない。
 日本が直面する大きな課題として、今回の参議院選挙は重要な位置づけにある、と思う。しかし、社会保障に関しての論争は概して低調である。
 かつて民主党が政権を取った時、財政問題が提示されにも関わら夢の様な政策が挙げられていた。民主政権が崩落したのは素人的政権運営の他、財政問題も大きかった。

 今回の参議院選でも社会保障の財源は提示されておらず、政権交代直前の選挙時と同様に有権者は騙されてているように思えてならない。国が当面している大きな問題なのに、早く手をうたなければならないのに。 
 
 選挙を戦うにあたって各党は率直に現状の厳しさを語っているだろうか。高齢者の反発を恐れ、財源問題には口をつぐんでいる党が大半だと思う。社会保障に関しては下手に提起すれば選挙の結果に直結する。だから、この問題は参議院選挙が終わった後に踏み込もうという魂胆のようである。

 代わりに、医療分野を発展させて経済成長をめざそうという夢のような主張が目立つ。
 自民は「医療関連産業の市場規模の拡大」を掲げている。現在の12兆円から16兆円へ拡大させることを掲げた。その方向のもと、iPS細胞関連にかなりの予算を割いている。ノーベル賞関連の技術として、人類の将来に大きな影響を与える技術として注目されて当然だが、iPS細胞技術の恩恵を得た患者はまだ一人もいない。しかも、臨床応用が広がったとしてもこんな先端医療の恩恵を受けるのはホンの一部の患者のみである。

 日本維新の会は「医療政策を拡充」、みんなの党は「医療・介護の大改革」、民主党も革新的な医療技術の開発を盛り込んでいる。しかし、具体的にどうするつもりなのか、候補者の意見から読み取ることは出来ない。夢を語っている様にしか見えない。


7/11(木)降雨 外来
0:30起床。新聞チェックし文献、歴史書を読む。6:50車病院着、7:30回診ほか、8:40-13:10外来。健康クリニックドック総括。15:00帰宅。医学文献整理。DVD映画「ハゲタカ」を見る。 19:00夕食、20:30就眠。歩数計875Km、

3人めの孫誕生(10) 父親は娘のことを何も知らんもんだ
 私は一線退いてからは診療をのぞけば余所の方と会話することはなくなった。そんな私でも家では親子間の対話などは比較的リッチな方だと思う。私のブログについても賛否両論会話が弾む。なかなか厳しい意見もでる。

 娘は大学進学を機に親元を離れ、家庭も持ったが、帰巣本能がたかく2ヶ月に一度ほどのペースで帰省していた。今回、里帰り出産前後4ヶ月親元で暮らした。
 それでも父親は娘のことをあまり知らんもんだ、と自認した。

 ■娘の飛行機嫌い
 話題を集めているB787が6月から定期便として秋田・羽田間に就航している。孫の週末パパが毎週利用して来秋した。里帰り出産した長女は我が家で3ヶ月過ごし、一家で空路横浜に戻った。そのときの機種も787であった。
 長女は航空機利用を嫌っていつも新幹線にしていたから国内便に乗るのは初めてかと勝手に思ったのであるが、横浜に戻ってからメールが来た。国内便は今回が初めてではなく、新千歳、秋田、大分、福岡等に出張時に利用したという。海外はYNに何度か往復しているし、他にもクアラルンプール、ペナン島、フィジー、タヒチ、ボラボラに行ったという。今回も嫌だ嫌だと深刻な表情してたが赤ん坊のために我慢せよ、などと力づけたが結構経験あったじゃないか。

 ■不妊治療
 私は産婦人科など生殖医療分野については医師として最低限度と思われるレベルの勉強しかしていない。総合病院内では問題を感じればその道のプロに相談すれば良いのでそれほどそれでもあまり困ったことはない。
 不妊治療についてはもっと疎い。生命に直結しない分野だからである。不妊治療についてはそれほど期待していなかったし、自分の娘がどのようなプロセスを経て出産にこぎ着けたのか、腹が大きくなり始めてから急遽勉強した。治療の内容まで出産後の初めて教えてもらった。全体的視点からサポートをしていたつもりであったが、娘がこれほど苦労を重ねていたのか、と改めて感じ入った。家内にはそれなりに報告はしていたようであったが、父親の無力感をも感じた次第。

 ■乳房
 娘の胸に杯を伏せたようなちっちゃな盛り上がりが出始めた頃からもう見ることがなかった胸を、赤子の授乳中に約30年振りに見た。授乳している乳房はさすがに立派であった。本人は普段からでかい方だとは言っていたが、確かであった。形もいい。それにしても男親の目からよくまあ隠し続けたものだと感心した。私は何ら隠すものはないが、娘は親子とは言えこんなところではかなり警戒しているということ。
 ただ考えてみると日常の生活の中で娘の裸は見たことはないのはほぼ当然としても、息子たちの裸も見たことはない。年に一回ほど温泉に集まることがあり、時に風呂でであう。チラチラと覗き見しているが、どこをとってもかつての私よりは立派である。息子については付け足し。


7/10(水)雨 外来 ドックデータ処理
 1:00 起床。文献・新聞チェックなど。7:30自転車病院着。回診、8:45-13:00外来。 13:00-14:00健康クリニックドックデータ処理。15:00帰宅、障子張り替え準備。新聞PDF化、DVD映画「ハゲタカ」を見る。経済問題の勉強にもなる。19:00夕食、20:20就眠。 歩数計868Km、

ABS秋田放送開局60周年記念「笑点」収録(2) 放送ではクリアに聴こえた
 ABS秋田放送開局60周年記念で人気番組「笑点」の収録が6月7日12:30から秋田県民会館で行われ、6月30日と7月7日に放送された。
 私はABS特選落語会会員で招待という事でペアの入場券が手に入った。貴重な機会なので職場のスタッフを誘って出かけた。

 席は2階席の中段で視覚的にはバードウオッチング用の双眼鏡が役に立った。

 大切りではそれほど感じなかったが、前座の漫才2本は早口で言葉が聴き取り難くよう楽しめなかった。漫才はスピード、鋭いつっこみ、アクション等が求められるためにやむを得ないとは思うが、会場の音響調整の問題である。低域をカットするなど、音響の調整で何とかならないものか。放送ではマイクで採っているためにクリアに聞こえ、まずまず楽しめた。

 一般的に多目的ホールを講演や演芸に用いるときに音響が問題になる。どうしても台詞とか、話し言葉が聴き取り難い。

 数年前に男性5人のボーカルユニット「Legend」のコンサートがアトリオンホールで行われた。前半の歌は見事なハーモニーを聴かせたが、ミュージカル仕立ての後半は台詞のうちの9割方は聴き取れなかった。プロ歌手特有の低域のきいた話し方のせいもある。加えて豊かな会場の残響のために言葉がかぶったからである。同じことはこの会場の講演会でも言えた。この会場では、私はあらかじめノイズキャンセリングヘッドフォンを用意する。言葉がとても聴き取りやすくなる。ただ、何となく居心地は悪くなる。コンサート会場でヘッドフォンを用ていると録音でもしているのでは?と誤解されるようだ。そんな視線を感じてしまう。

 県民会館の場合はそれほど残響は大きくない。ただ、聴く場所によってかなり差があるようだ。10年ほど前に改築が行われて音響効果も改善したと言われているが不十分だったのか。昨年9月に小林研一郎指揮で東京都交響楽団の演奏会が行われた際、音が届き難くピアノの位置などを細かく調整したという。そして演奏会終了後、「残念ながらこのホールでは伝えたい音楽が十分に聴衆に届いていない」とコメントを残している(魁新聞)。

 司会の桂歌丸師匠は77歳で、枯れているが、声はハイトーンでしわがれているだけ言葉はメンバーの中では最も聴き取りやすい。私は県民会館で独演会も聴いているが言葉がはっきり聴き取れた。

 ただ、音響について細かいことは私に言う資格はない。概して私は違いがわからない人間である。多分、私の聴覚は高音域がかなり落ちているように思う。ただ、同伴した女性(20代後半か?・・女性の歳もわからん)も聴き取り難かったと言っていた。私の音響に対する感覚は半分ほどは正しいと思う。


7/9(火)降雨 外来
 1:00 起床。文献など読む.蓄積データ整理。7:40車病院、回診。8:45-13:00午前外来。15:00車帰宅、DVDにて映画鑑賞。歴史と年金関連文献、新聞読み。19:00夕食、20:00就寝。 歩数計868Km、

エリア「なかいち」満一年 来訪者は予想以上だったという
 秋田市の「エリアなかいち」が7月5日に満一年を迎えた。
 「なかいち」は衰退した中心市街地の活性化を目指して作られた施設で総事業費は約135億円。
 「エリアなかいち」のある広小路周辺はかつては代表的な商業地域だったが、1998年に秋田赤十字病院が移転して以降その活力は徐々に失われていった。「なかいち」は市の中心部の活性化を取り戻す施設として期待を一気に背負って建設された。

 私は近隣に類似の機能を持つ施設があることから、長期的な運用については難しいのではないかと思っていた。しかし、この一年間の商業施設と市にぎわい交流館の来場者数は予測を上回り250万人に達したという。まずは良かった、と思う。しかし、最初の3ヶ月ほどは15-20万人/月ほどであったがそれ以降は12万人程度と低迷が続いている。来訪者は多かったが商業施設の売り上げは目標に達しなかったという(数値は魁新聞より)。

 当初はオープン効果で賑わったであろうが、市の一等地にあると言えど、箱ものとして鎮座し、客の訪れを待っているだけでは入場者数を確保する事は困難であろう。常に県民・市民が興味を持ち、注目するような企画を官と民で提示し、リピーターを確保しなければ期待したレベルを維持するのは困難だと思う。 

 私は通勤路の途上にあるからいつでも立ち寄る事が出来る。バス利用の際は停留所に向かう途中この施設の広場を横切るが、私は今まで商業施設に一度、にぎわい交流感での竹下夢二展に一度立ち寄っただけである。前者は品揃えはかなり充実していると思われたが、近隣のアトリオン地下の物産販売所とどう違うのか?とおもった。特色を出すためにより廉価な物品を扱う必要があるのではないか、と思った。後者はあまり魅力を感じる企画がなく足を踏み入れる機会がなかった。

 広場の入り口に設置された与次郎像のヒゲが何度か折られ、話題を提供した。数週間ごとに広場では何らかの催しものが開催されているように見えるが、何なのか私にはわからなかった。

 この施設は若者へのアピールが鍵を握るが、年余にわたる企画は出来ているのだろうか?私は新美術館には興味がある。正式オープンは9月28日に予定されている。かなり後になるだろうが、いずれ、行ってみたい。
 秋田市中心街がこの施設でどう変わっていくか、今後の動きに注目したい。


7/8(月)小雨・曇り 健康クリニックドック担当   
 0:30起床。文献処理。新聞チェック。録音データ整理。7:40車病院、回診、入院患者対応と書類処理、9:00-11:00健康クリニックドック担当。ドック診察15名、結果説明5名と過剰。書類記入数件 15:00雨、車帰宅、録音データ整理と新聞チェック。19:00夕食、20:30就眠。歩数計860Km、福島第一原発付近を通過中。

歌謡曲の魅力(2)歴史の変遷を映し出す鏡
 私が歌謡曲を聴き始めた背景の一つは、近代日本の歴史を再勉強中と言う事も関連している。
 政治、経済、社会等の記録から学んでいると芸術面ではどうだったのかと言う興味もわく。文学、絵画、演劇、映画等、どの分野も政治、社会、国際情勢等の影響を大きく受けている。これらの分野の変遷を近代日本が辿った足跡に重ねて見る事で一層興味がわく。

 その中でも、流行歌、歌謡曲は世相を濃厚に反映している。
 「流行歌」とは「歌詞・曲・歌い手」をセットとして売られる商業的歌曲のことを言う。商業的歌曲が誕生したのは大正3年に松井須磨子が歌った「カチューシャの唄」とされる(なかにし礼)。当時は、まず、口コミで広がり、新聞に取り上げられることでさらに流行、更に、レコードと楽譜も発売され大ヒットとなっていった。 この当時は新聞の果たした役割は大きい。

 昭和の時代を概観すると、大正から昭和にかけては大正デモクラシーの時代、昭和初期は一層自由を求める革新思想の時代、中期は戦争の時代、戦後の窮乏時代とその後の復興繁栄の時代と分けられる。
 流行歌は昭和初期から歌謡曲と呼ばれることとなった。この呼び方にNHKが関与したという事はラジオの普及と共に歌謡曲は日本の津々浦々で聴かれるようになり、次々と国民的ヒット曲が生まれるようになる。

 歌謡曲は昭和という時代と並走し、戦後の窮乏時代を支え、その後の復興繁栄の時代の喜びを享受するなど、時代を濃厚に映してきた。この時代、TV、ステレオ装置の普及が歌謡曲の発展に大きな役割を果たしてきた。
 
 歌謡曲はそのまま末永く続くかに思えていたが、昭和から平成に移る頃から若者を中心としたライフスタイルの変化と共に急速に衰退していった。歌謡曲の分野からジャンルが分散化し、楽曲も分散化していった。この流れの中で、古き良き時代のからの歌謡曲、特に演歌の分野は衰退した。
 この変遷にソニーのウオークマンが果たした役割は大きい。


7/7(日)曇り、快晴 早朝サンフランシスコ空港で事故のニュース
1:30起床。本読み、文献整理。10:00家内盛岡に。以降ずっと家の内外の整理、畠・花壇の草刈り、風で倒れたキウリの棚の修理など。蓄積データ大量に整理。17:00バスでアトリオンに。盛岡から戻った家内と合流、外食。20:45帰宅、21:30就眠。 サンフランシスコ空港で着陸失敗、死者は2名だけと。 歩数計851Km。

歌謡曲の魅力(1)録音データ5.000曲をデータ化 
 ここ2週間ほど私はいわゆる歌謡曲を集中的に聴いている。
 私が楽しむ音楽はクラシックと言われる分野の曲が中心であるが、民謡、ポップス等を含め広くあまりジャンルを問わない。ただ、ジャズはちょっと遠い。この数ヶ月はクラシック分野で最近頻度が高いのはブルックナーの交響曲と同作曲家の教会音楽、ビバルディを中心としたバロック音楽、レクイエム等の宗教音楽が大部分である。何故か敬けんな気分を求めている様だ。

 これに突然、歌謡曲が割り込んできた。私はもともと歌謡曲が大好きである。

 突然歌謡曲を聴き始めた理由は、録りためた録音のデータベース化、インデックス作りである。
 私はラジオ深夜便の午前3時から4時までの「日本の歌・こころの歌」をかつては放送予定表を見ながら適宜録音していたが、面倒なので2011年7月からはハードディスクに自動録音し、適宜iPodに落として通勤途上などで聴いてきた。気がついてみると自動録音化してからちょうど2年になる。連日約8曲前後流されるから5.000曲ほどが蓄積されている。今も毎朝録音されている。毎日の放送テーマ、例えば「 60年代女性歌謡ポップス 集」とか「 テレサ・テン集」などと、その中の1-2曲の曲名は既にインデックスにしてあるが、放送された全曲はデータ化されていない。それで今それらのデータ化をはじめた。

 今更データベースを作ってどうするのか?残り少ない時間の中で、果たしてデータとして利用できるのか?もう一度聴く機会はあるのか? 私自身もそう思い呻吟している。が、これだけの量の蓄積があるからこそデータ化しないと探し出すことは不可能だからこのままでは100%無為な蓄積なってしまう。それと、じっくり聴くか否かは別として、データ化する過程で一度は聞くことになる。だから私にとっても楽しい作業となる。出来上がった分から検索をかけると一発で探し出すことが出来る。だからデータ化しない手はない。本日の段階で1.300曲ほど処理が住んだ。

 歌謡曲は昭和7年にNHKによって命名されたという。それまでは「流行歌」と呼ばれていたが、流行という言葉をNHKが嫌ったからだとされている。「流行歌」とは「歌詞・曲・歌い手」をセットとしてヒットを狙って売り出される商業的歌曲のことを言う(なかにし礼)。それが昭和初期から歌謡曲と呼ばれることとなった。
 私はほぼ戦後時代に育ったが「流行歌」と呼ぶ方が自分の感覚に合っていると思う。このジャンルの曲は昭和の時代・世相をを濃厚に反映していると思うからである。


7/6(土)雨のち曇り 港北診療所 
 0:00起床、各種データチェック、新聞文献PDF化。8:45Taxi港北診療所着。退職した療養病棟の看護助手来訪、歓談、12:45帰宅。雨読の継続で読書他、録音データ整理。DVDでドイツのロシア侵攻関連の映画鑑賞。19:00夕食。20;40就眠。 歩数計845Km。

スポーツ界で鉄剤信奉!!(2) 関与した医師は何を考えているのか
 長距離陸上を中心にスポーツ界で「鉄剤」への信奉があったらしい。
 記録を重視する分野ではドーピングは論外として、藁をもすがる気持ちで記録更新に有効なものを探し求めていると思うが、「鉄剤」への過剰な期待は論理的に意味がないばかりか過剰投与は副作用のために緩徐に健康を害する事になる。 

 サプリメントでも問題はない訳ではないが、「鉄剤」の経口投与、静脈内投与は鉄欠乏性貧血でなければ治療薬としての適応がない。しかも、「鉄剤」は医師の処方箋が必要である。従って、この件についてはバックに医師が関与していたはずである。医師の指示がなければ違法行為である。指導者、医師は一体何を考えているのか理解に苦しむ。

 ただ、ジュニアレベルにある青少年、特に女子の陸上選手には高率に鉄欠乏性貧血を発症しているし、貧血に至っていないものの赤血球が小型になり、血清中のフェリチン値が著しく低値であるなど鉄欠乏状態にある場合には「鉄剤」による治療の適応がある。このようなケースでは治療として「鉄剤」を用いることは問題ない。

 恐らく鉄欠乏性貧血にあった選手やその準備状態にあった選手は「鉄剤」で貧血あるいは鉄欠乏状態が改善することで運動能力は回復するだろう。ただし、鉄の効果はそこまでである。体内の鉄量と運動能は相関しない。だから、治療としての「鉄剤」の投与をいつ中止するかが重要である。特に静脈注射または点滴による治療を受けた場合は過剰投与になりやすい。    
 私の場合は基本的に治療薬は経口剤を用いる。静脈内投与は滅多に行わないが、その際には鉄としての2gを超えない様にしている。これ以上になると肝臓、心臓、膵臓、骨髄とかに沈着して機能障害を来しうる。経口剤の場合は吸収が悪いので年余にわたって投与することもあるが、この場合もいつ中止するかを念頭に置く。

 陸上の指導者が「鉄剤」を安易に考えているとすれば勉強不足であり問題であるが、これに協力している医師の方が遥かに問題である。

 それに、スポーツ界では別な種類の鉄も用いられてきたようである。ここ1-2年その実態が明らかになりつつある。こちらの鉄も用いてはならない。その鉄は「鉄拳」という名で呼ばれている。


7/5(金)雨・曇り 大曲外来
1:00起床、文献検索、新聞チェック他.7:45Taxi駅着。8:02こまち、8:45-15:00大曲外来。17:00帰宅。外仕事出来ず。映画「バルトの楽園」観賞。歴史探訪。新聞等データチェック。19:00夕食、20:30就眠。歩数計839Km。

スポーツ界で鉄剤信奉!!(1) 鉄欠乏性貧血でなければ鉄剤は害ある 
 昨日の朝日新聞社会面を見て驚いた。長距離ランナーを中心にスポーツ界で鉄剤を不適切に投与されていたという記事である。社会面に大きく取り上げられた。

 私はこの事実について殆ど知らなかった。
 記事を要約すると以下のごとくであった(一部改変)。
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■陸上の長距離選手、特に女子選手に見られる貧血対策として、「鉄剤」が用いられているが、その効果を過信し、ジュニア時代に大量投与を受け、副作用のために引退をせざるを得なかった例が出ている。
■2000年ごろから「鉄剤」使う学校が増えた。
■貧血治療の「鉄剤」は内服薬、静脈注射がある。特に「注射」は問題の大い。
■目先の試合を重視し、指導者が「鉄剤」の注射を勧める。選手も依存し始める。
■貧血の診断がないまま、点滴で「鉄剤」を注射すれば「医療行為」とは言えない。
■サプリメントや錠剤も過剰摂取にならないよう管理が必要。
■体験談
(1)大学では指導者の指示で「鉄剤」注射を打ち始めた。日本女子駅伝や日本選手権など大会の約2カ月前から週3日程度、ビタミン剤に鉄剤を混ぜて点滴を受けた。
(2)ある選手は高校で貧血になったとき、「鉄剤」の注射を先生から勧められ、その効果から以後は注射を打たないと走れないと思い込んでいた。鉄剤を常用し「ほぼ毎日、1日2〜3回飲んでいる。
■ 「鉄剤」の安易な背景に駅伝人気の過熱がある。
■「鉄剤」の弊害を、日本の女子マラソン低迷の一因に挙げる指導者もいる。
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 たとえスポーツ界で上記のごとくの誤った「鉄剤」信奉があったとしても治療薬としては鉄剤の処方、注射は医師でなければできない。この件の背景には医療機関、医師が関与しているはずである。もし、上記のような鉄剤の投与が行われてきているとすれば問題である。

 鉄欠乏性貧血は女性では8.%程度もみられるので、診療科を問わず医療機関で日常的に遭遇する。そのために 臨床医の関心も薄く、貧血=鉄投与という安易な治療法がまかり通ってきた。今日では確定診断も難しくないのに未だに不適切な治療がなされている例も多い。


7/4(木)降雨午後快晴夜半に再度降雨 外来 
 1:00起床、文献チェックほか、資料整理。7:05車病院。回診他病棟業務、8:45-13:45外来、混雑し疲弊。15:00車帰宅。「ヒトラー最後の12日」観る。歴史の勉強、19:30夕食、20:30就寝。歩数計830Km。

先人の言葉から学ぶ(2) 「少年よ大志をいだけ」
 札幌農学校の初代教頭であったウィリアム・スミス・クラーク氏(1826-1886)の言葉。
 多分、知らない人はいないのではないかと思われる有名な言葉である。

 当時、クラーク氏はマサチューセッツ農科大学学長であったが新島襄の紹介により、日本政府の要請を受けて大学の休暇を利用して1877年7月に札幌農学校副学長に就任し、翌年5月に離日した。在任期間わずか8ヶ月であった。

 この言葉は離日直前に学生たちに向けて発した言葉である。通常、「少年よ大志をいだけ」とされているが、これに続く言葉がある。正式な記録が残っていないために文章や解釈に諸説がある。私が持っていた小冊子には以下の様に記されている。

 ■少年よ大志をいだけ。しかし、金を求める大志であってはいけない。利己心を求める大志であってはいけない。名声を求める大志であってはいけない。人間としてあるべき全てを主張する大志をいだきたまえ。少年よ、紳士たれ。

 「Boys be ambitious,like a old man・・』と続けたと言う説もある。クラーク氏は自身が発した言葉通り、その当時自分でも大志を抱いていたらしい。『 like a old man・・』 というのが意味深である。自分のことを話したのではないだろうか。

 氏は帰国後にマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学の企画や鉱山会社を友人らと共同経営した。いずれも失敗し後者については破産のドタバタをめぐって訴えられ裁判で苦労したと言う。
 その後、氏は心臓病のために寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日59歳で失意の中でこの世を去っている。
 クラーク氏のその後の人生を知ると「Boys be ambitious』は一層味わい深くなる。


7/3(水)早朝から降雨 外来 飯川病院
1:00起床、文献チェックほか、7:25車病院。回診他病棟業務、8:45-13:45外来、14:00-17:30飯川病院。。18:20帰宅。新聞処理。19:15夕食、20:20就寝。歩数計820Km。

先人の言葉から学ぶ(1) 求めよさらば与えられん、叩けよさらば開かれん
 私は自分の信条とか、座右の銘としての良い言葉を持っている訳ではない。せいぜい、「継続は力なり」くらいだが、それだけに先人の言葉などに感じやすい。良い言葉など見つかれば、そのたびごとに記録して置く。

 ■「求めよさらば与えられん、叩けよさらば開かれん」は『新約聖書 マタイ伝』の山上の垂訓にある言葉で、簡単な解説書によると、ひたすら神に祈れば、神は必ず正しい信仰心を与えてくれるだろう、という意味とある。転じて、一般的には何事も進んで努力する姿勢が大切だという意味に用いられている。

 実際には世の中そんなに甘くない。希望したものが簡単に与えられる、あるいは手に入ると考えるのは甘すぎる。しかしながら、希望したものが得られないとしても、副次的な収穫は必ずある、ということを教えているのだろう、と私は思う。

 類似の言葉に
■「千里の道も一歩から」。何事もまず一歩踏み出さなければ始まらない。
■「チャレンジして失敗することを恐れるよりも、何もしないことを恐れろ(本田宗一郎)」。これは有名な言葉。
■「私がもっぱら虐待しているのは自分自身だよ 苦労なしには自分の道を究めることはできない(カラヤン)」。楽団の帝王も人知れず努力していたんだ。初めて知った言葉。
■「事を成し遂げる秘訣は、一時に、ただ一つをなすことだ(リンカーン)」。
■「我らが得た最大の光栄は、一度も失敗しないことでなく、倒れる毎に起きあがったことである(ゴールドスミス)」。

 ただこんな前向きな言葉だけでは息苦しくなる。偉人はやはり違う。私は次のような言葉で、ほっとする。
■「真面目になりすぎたくない(サイモン・ラトル)」。カラヤンの2代後のベルリンフィルの音楽監督。育った年代の相違かも。
■昇進を捨てて人間幅が出き(サラリーマン川柳)。
■人が単純に真面目に人生を受け入れ、高望みしないなら、人は楽園に住むことも出来るだろう(シューマン)。


7/2(火)晴れ 外来 
 1:30 起床。新聞、音声データ整理.書類処理、7:40自転車病院着、回診。 8:45-13:15外来、人数の割に時間がかかり、疲弊した。16:15古書店によって帰宅。枝豆発芽率が3割と低く、本日はミニポットに培養土に入れ発芽させ、しかる後に植え付けることとした。窓のよしず修理、畑、花など。新聞PDF化、19:00夕食、20;15就眠。歩数計815Km。

植物から学ぶ(5) 鬱蒼とした森の快適さと環境保全機能 
秋田地方は18日に梅雨入り宣言があった。
 秋田地方気象台によると秋田市の6月の降水量は19mmで、1883年の観測開始以来最も少なかった1937年の21mmを下回っている、という。県の降水量はおおむね例年の3割、秋田市に関して言えば2割程度と少ない(データは魁新聞)。

 水田は水を抜く時期でもあり影響が少ないとされるが、野菜作りの農家にとっては心配の種になっている。私も初心者レベルで家庭菜園を行っているし、花壇の草木を世話している。ここ一ヶ月は夕方の散水を欠かした事がない。いや、欠かす事が出来ない。日没になると、彼らが、彼女らが私を求めている、といても立ってもいられない。
 この2週間ほどは歩きすぎて膝痛を来したので自転車通勤にしている。自転車の良さは行動範囲が広がる事である。一昨日、帰りしなあまりにも日差しが強く、気温も高かったために太平山三吉神社に寄って見た。神社巡りも私の趣味の一つである。

 平地にある神社もあるが、一般的に由緒ある神社は小高い山の中腹にあり、鬱蒼とした樹々によって、また一面の草木に守られている。そのような中に一歩踏み込めばひんやりした空気に包まれ、空気もうまい、ような気がする。
 この快適さは何なのだ!! と思う、アスファルトの路上とは一線を画している。

 樹々の枝葉によって直射日光が遮られ、さりとて明るすぎず暗すぎず、これだけでもほっとする。
 この冷え冷えとした涼しさは、おそらく樹々、草木も盛んに地下から水をくみ上げて葉っぱから蒸発させて樹木温を下げているためだと思う。クマザサなどの密集している薮の中の落ち葉はちょっとつついて見ると、表面は乾燥しているがしっとりと濡れている。藪の中の落ち葉のつもった土壌の保水力はかなり大きいことを伺わせる。これらからの気化熱も関与しているだろう、と思う。 

 40年ほど前、8月上旬に名古屋に出張した事がある。強烈な日差し、舗装道路からの照り返し、高気温の中でめまい、不快感を来たしタクシーに逃げ込んだ。今考えると緑の少なさも関与しての高温だったと思う。鶴前公園の樹木の下は炎天下でも比較的過ごしやすかった。

 空気がうまいのも木々樹木の新陳代謝の結果であろう。
 草木、樹木が自然環境の維持のために深く関与している事を改めて自覚した。


7/1(月)晴れ 外来 保険会社スタッフ来訪
1:00起床、新聞・文献チェック。読書中心。ハトに餌撒き7:30車病院着。回診他.8:45-13;00外来。13:00-14;00保険会社の調査員来訪。15:30書籍購入、帰宅。DVD映画見る。新聞他。降雨少なく花壇畠ともに散水欠かせない。19:10夕食、20:30就眠。歩数計808Km。

徒歩通勤(14)偉人伊能忠敬(6) 茨城県を通過福島県に入る 膝痛あり
 私は4月7日以降、伊能忠敬の指導のもと、師が歩いたルートを辿って歩いている。本日の段階で伊能式積算歩数計は808Kmで、一昨日茨城県を通過し福島県に入った。

 現在小名浜港の脇を通過中であるが、福島県の海岸線は思ったより短く、次の宮城まで155Kmである。

 今回、よりカレントな地域の情報を得るために「今がわかる、時代がわかる」と副題がある成美堂版の日本地図を購入した。なかなかいい地図帳で付随するデータも豊富である。地図帳を開くのが楽しみである。

 私は6月上旬までは一日平均2時間程度、1万3千歩、距離は12Km程度歩いてきたが700Kmに到達した頃から右の膝に違和感を覚えるようになった。1−2Km歩いただけで膝が重くなるので、中旬以降は全コースを歩くのをやめてバス通にして膝の安静を保っている。歩行はバス停までの往復薬2.5Km、病院内の移動、我が家での雑事処理の時だけとなる。それでも7-8Kmになる。

 6月20日に整形外科受診し、レントゲン撮影を行った。過剰負荷による滑膜炎との診断で運動量を減らすよう指示があった。体重がかからないために歩行よりは自転車が良いとのことで、今はマウンテンバイクまがいの自転車を引っ張りだして通勤している。だから、歩行のペース一層落ちている。

 各県の海岸線の長さは、東京56.7Km、千葉県550.58Km、茨城県181.53Kmと千葉県が長かった。今後、福島県178.06Km、宮城県552.68Km、岩手県649.22Kmと長い距離の県が続く。ペースが落ちるだろうが、今年は何処まで行けるか、楽しみである
で行けるか、楽しみである


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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