徒然日記
2012年11月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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11/30(金)午前快晴夕方雨 大曲中通病院外来
1:30起床、新聞文献チェックPDF化、徒然他。6:45車病院着、回診。8:05こまち、8:45-15:00大曲中通病院外来、16:20病院着、クリーニングや3ヶ所に立ち寄り帰宅。19:00夕食、20:15就寝。

落語(4) 桂歌丸・三遊亭小遊三 落語二人会
 
秋田市文化会館で11月29日に桂歌丸・三遊亭小遊三 落語二人会を聴いた。

 私は最近録画で日曜夕食事に笑点を楽しんでいる。出来ることであればこのメンバーの落語は一度はきいてみたいと思っている。
 今まで、2011年5月12日春風亭昇太を、5月18日には桂歌丸と林家たい平を, 2012年7月4日には春風亭昇太、林家たい平を聴いた。
 今回は桂歌丸と三遊亭小遊三を聴くことが出来た。 これで残りはあと3人である。

 会場は満席。
 前座として大曲出身の三遊亭小曲が登場した。大曲農業高校で三遊亭小遊三が講演をしたときに直接弟子入りを願ったのだ、と言う。よどみの無い完璧な話しぶりであった。早口であったが、言葉はとてもシャープで聞き取りやすくかった。 若手の高座はわかりやすくて良い。 いわゆる「間」や「味」が不足していた、と思うがこれからであろう。

 その後、三遊亭小遊三が高座に上がった。笑点でのイメージとは異なり今回の高座は彼の味なのか分からないが、結構言いよどみと思われる場面もあって今日は不調でなのかなという気がした。ただ、私は初めて聴いたので即断は出来ない。

 次いで歌丸である。極度に痩せて、背中も丸く、小さく縮こまり、弱々しい雰囲気の方であるが、ひとたび話し始めるとは背は伸び、姿勢も良く、これを含め名人の域というのだろうか、時に政治の風刺を入れたりして、よどみもなく一気に聴かせてくれた。

 来年6月には笑点の収録が秋田で行われるという。前回は、もう二度と歌丸氏の至芸に触れる機会がないだろうと考えたが、今回も至芸を味わうことが出来た。この調子だとまだまだ活躍されるだろう。

 演目とかはメモしてこなかったので残念ながらはっきりとは記述できない。


11/29(木)曇りのち晴れ・寒波  外来 映画「アルツハイマー」 桂歌丸・三遊亭小遊三落語会  
 1:00 起床、文献処理、徒然。7:00車病院着。7:15回診、病棟業務。8:45-12:50外来。秋田銀行、本部スタッフ来訪。16:30文化会館、映画「毎日アルツハイマー」、18:30 桂歌丸・三遊亭小遊三落語会、21:00帰宅、夕食、 21:00就寝。

「いじめ」(6)学校を閉鎖社会にしてはならない
 私の感覚から言えば、「いじめ」にあった被害者がなぜ学校を休学したり、転校したり、止めたりしないで死を選ぶのか、これも理解出来ないことである。死を選ぶほどの深刻な悩みであれば保護者や担任に相談すればそのような道をとることもやむなし、と緊急的回避策として恐らく反対はしないはずである。

 この点については元電通大教授の中島義道氏は著作の中で日本人の画一主義に問題がある、と述べている。
 学校ではあらゆる事柄に集団的行動を要求され、そこからはみ出すものは厳しく指弾される。「いじめ」の加害者側に協調性の欠如があり、被害者は従順な性格であり問題はない、と言う。協調性欠如や画一的でないことは何ら教育的、道義的価値はないのに彼らへの締め付け行動が「いじめ」行動につながっていく、と論じている。

 しかしながら このような画一主義は被害者にも深く浸透しており、学校という集団からドロップアウトすることは敗北者であり、もはや生きていけない、と言うことになる。だから、「いじめ」られても「いじめ」られても登校するのであり、思いあまって自死を選ぶ事になる。

 中島氏が言うがごとく、学校以外の道を模索してやればいい。保護者にとっては辛い選択になると思われるが死を選ぶよりは良いし、それで人生がだめになるわけでもない。

 「いじめ」は人が集まるところには必ずあるだろう。学校現場では「いじめ」は存在しないと長い間言い続け、隠蔽もしてきたが、これからは発想を変える必要がある。今まで学校は閉鎖社会でありすぎた。「いじめ」情報をは出来るだけ公開し、教師と保護者及び地域で共有し、学校現場にいじめを許さないという環境をしっかり構築する必要があるだろう。保護者と教師の交流も必要である。

 大津市の事件を契機に「いじめ」問題がクローズアップされている。「いじめ」問題は学齢期にある子供を持つ保護者にとっても、家族にとっても無関心ではいられない問題である。また、「いじめ」を受けた経験がトラウマになっている大人も多数いるとされる。
 だから「いじめ」問題は誰にとっても無関心でいられない重要な課題である。


11/28(水)曇り・雨 外来 講演:秋田県年金受給者中央地区研修会
1:00 起床、新聞・文献読みとPDF化、他諸々。本日の講演準備。7:00車病院着。回診、8:45ー11:30外来。13:30-14:30秋田県年金受給者中央地区研修会で講演、16:55帰宅、文献読む、20:00夕食、20:45就寝。

「いじめ」(5)何故誰にも相談なく死を選ぶ? 何故傍観するのか?
 「いじめ」によって死を選ばざるを得なかった子供達たちの辛い気持ちは到底推し量ることは出来ない。保護者の気持ちも推し量れない。
 何故、被害者は誰にも相談なく死を選ぶのか? このことがよく分からない。担任や他の教職員も子供達にとっては意外と話しづらい相手なのかも知れない。何分にも教師は多忙で十分相談に関わっていられないという。両親ですら多忙でじっくり相談できない存在なのかも知れない。

 「いじめ」にあった子供達は最初のうち保護者や担任には相談している。先日の文科省の統計によると、相談した相手は、担任が7割、担任以外教職員が1.5割、保護者3割、友人1割、誰にも相談しないが1割であった。しかし、あまり親身になって貰えず、大人の感覚で軽く扱われることで次第に一人で悩みをかかえる様になるという。この初期の時点での対応のあり方がポイントになると思われる。

 「いじめ」問題から読み取れることは今の子供達は孤立していると言うことである。

 「いじめ」は、加害者側は遊び感覚、楽しんでいる様子で、多くの場合「いじめ」の感覚はないという。そのために教師が関わろうとしても初期の段階で頓挫してしまう。また驚いたことに被害にあった子供達も「いじめ」を否定することが多いと言う。これはどうしたことか。これも大人に話しても理解して貰えない、何もして貰えない、と言う世代間のギャップなのだろうか。

 なぜ子供達は同級生や学校の「いじめ」を見て、見ぬふりするのだろうか?これも分からない。子供達は絶えず空気を読みながら友人との間にいさかいを作らないように緊張している、らしい。次は自分なのかも知れない。メールの返事が遅れただけで仲間はずれになることもある、と言う。だとすれば、「いじめ」られている友人の存在は自身にとっては都合が良い、とも言いうる。
 子供達が一番情報を持っているはずである。陰鬱な「いじめ」に至らぬようにするには、子どもたちから如何に情報を集めるかにかかっている、と思う。


11/27(火)曇り・降雪 寒波 
 外来0:15起床、新聞・文献読みとPDF化、本読み、他諸々。7:00車病院。回診、8:45ー13:00外来。16:00車帰宅、新聞PDF化、日本語関連文献読む、終日降雪、されど冠雪はせず。レガシー不調で調整、家内迎えに。18:45夕食、20:30就寝。

「いじめ」(4)「いじめ」に対する素朴な疑問
 「いじめ」問題を考えていくと子供達の行動に理解しがたい状況に突き当たる。また、学校は教育の場として専門家集団が担っていて、セミクロースドの近づきがたい存在でとなっているように思う。ひとたび「いじめ」事件等が生じると、いままでのケースではその壁を越えるのは一般的には至難の業のようである。

 わが家には3人の子どもがいる。今とは、時代も異なっているが、わが家で「いじめ」が深刻な話題になったことはなかったと思う。しかし、次の世代の孫たちがいる。まだまだ学童期ではないが、「いじめ」問題は私にとっても看過出来ない問題である。

 最近の「いじめ」問題の報道を通じて以下の疑問がわいて来た。

■なぜ、学校側・教育委員会は事実をこれほど隠すのか?
■学校は危機管理の面で組織的機能を果たしていないのではないか? 
■学校と教育委員会間の関係は過度に緊張関係、上下関係にあるのでは?
■教職員、教育委員会に人間をあつかっていると言う感覚が乏しくないか?
■何故被害者は誰にも相談なく死を選ぶのか? 
■なぜ子供達は同級生や学校のいじめを見て、見ぬふりするのか?  
■加害者側は遊び感覚、楽しんでいる様子で、多くの場合「いじめ」の感覚なし。
■一部に名誉毀損、強要、恐喝、暴行などを伴うことがある。これはほぼ犯罪行為であるが、被害者はそれでも隠し通そうとするのは何故か。
■ほぼ犯罪行為と言って良い「いじめ」もあるが、この場合には学校組織だけでの対応は困難だろう。 
■被害者は尊厳がずたずてにされる。大人になっても深いトラウマとして残っている様である。
■一定以上の身体的障害を伴った場合は警察に届けるべきと思う。


11/26(月) 雨時々止む 看護学院講義 年金機構手続き終了
2:00起床。文献・新聞等処理、徒然といつもの如く。7:00車病院、回診。8:50-10:20第一回中通看護学院講義、内科受診、眼科受診、採血。16:00メガネ修理、16:30-17:30年金機構にて最終手続き、帰宅、新聞処理、19:00夕食、20:30就寝。


年金の手続きを本日終了した
 私は年金制度そのものには興味があり若干勉強しているが、自分自身の年金の手続き等は一切行っていなかった。

 2年ほど前、家内が退職して自分の年金の手続きが必要になった際に、私の分の資料も何とか集めてくれていた。岩手県医療局の分、秋田大学の分の資料を集めるのにかなり難渋したとのことであったが、有り難いとことに一式揃っていた。納付期間に数ヶ月間のブランクがあったがやむを得ないらしい。

 後は自分で年金機構に出かけて手続きが必要と言う事であったが、放置していた。本来ならば60歳時に手続きが必要とされていたが、その重要性も分からず無視していた。退職時にも手続を勧められたが、どうせ給付停止になるから、と無視してきた。

 ここ2ヶ月余りの間、2回も体調を崩した。第3回目もあり得る。3回目はもうダメかもしれない。その前提でいろいろ終わりの準備をし始めることととした。その際、急がなければならないのは両親が残してくれた少しばかりの盛岡の不動産の処分、これは私が生きているうちに行わなければ、かなり面倒な手続になる、と言う。その他にも退職に関連した共済会の手続、生命保険関連の諸手続、それに年金関係の手続きも急ぐ必要がある。

 本日、必要な書類を揃えて年金機構で最終的手続をしてきた。いつまで生きられるか分からないから前倒して春から一部の年金給付を受ける事とした。あとは厚労省の決定通知を待つことだけとなった。 
 窓口で対応してくれた機構の女性職員は、やるべき手続を怠ってきたことにあきれながらも実に親切に説明してくれ、諸手続を進めてくれた。何だ、やってみれば意外と簡単に済むではないかとは思ったが、実際には家内が集めてくれた資料のおかげで、とても助かった。

 私はANA、JALマイレージの蓄積もかなりあったが面倒で全て捨ててしまった。アキレス腱の手術の際にも保険からの給付を失効させ、家族に呆れられた。

 現在勤務している法人の共済会には療養給付金と言う制度があるという。今回は初めて申請してみることとした。


11/25 (日)曇りのち晴れ タイヤ交換 除雪機試運転
 1:30起床.新聞チェック、医学論文読み,整理、PDF化。来週の講演準備。11:30家内を迎えに駅に。午後タイヤ交換2台、十字レンチ購入。新旧の除雪機試運転。庭の枯葉掃除、カキもぎ。16:00明日の看護学院講義準備。19:40夕食、20:30就寝。

映画評(59):「ニーチェの馬」 核家族の行く末を彷彿とさせる 



 ニーチェは興味深い人物である。私はそれほど読み込んでいるわけでないが、いつかは必ず・・と思っている。R・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」は愛聴曲である。ニーチェ関連の作品と言えば私は観ざるを得ない。

 「ニーチェの馬」はハンガリーのタル・ベーラ監督の作、この方は一つのシーンを長撮りすることで有名であるが、哲学者ニーチェの逸話からインスピレーションを得て製作したとされる。2011年公開された作品。第61回ベルリン国際映画祭で銀熊賞と国際批評家連盟賞をダブル受賞している。

 ニーチェは、1889年、トリノで馬車馬に駆け寄った際に卒倒し精神が崩壊したといわれている。このエピソードをもとに、荒野に暮らす貧しい父娘の最期の6日間を描き出している。

 強烈なコントラストのモノクロ映画である。しかも、セリフは極端なまでにそぎ落とされている。いつ止むとも知れない風が重要なテーマでとなっていて、世界の終末を感じさせる不穏な雰囲気を演出している。貧しい農夫と娘と、疲れ果てた馬の6日間が描かれる。この貧しい三者の暮らしを通じて「世界の終末」を描写している事は理解できたが、難解な映画であった。

 あらすじなど、無きが如しで、映し出されるものは、暴風が吹き荒れる荒野の家と井戸、鞭で打たれても歩き出さない馬、単調な日課だけ。
 第一日目、父親が強風の中で家に帰ってきて娘とジャガイモだけの貧しい食事をする。男の右腕は不自由なようで、ジャガイモを食べるのもままならない。左指でほじくって食べる。ナイフもない。食事以外は窓のそばに座ってじっと風が吹き荒れる景色を見ているだけ。外は風が吹き荒れ、木の葉が舞う。
 ところが四日目、突然井戸が枯れる。一方、馬がえさを食べなくなっていく。どうしようもなくなった父娘は家を出るべくいったん荷物をまとめ、馬と共に旅立つがそのまま戻ってくる。行くところもなかったのだろうか?それとも覚悟を決めたのか。
 五日目、今度はランプに火がともらない。この家にとって大切な種火も消えてしまった。そのまま終末へと進む。六日目、二人が食卓に座るシーンが移るが、すでに煮ることもできなかったジャガイモは硬く、二人は食べることもやめてしまう。この父娘にとってこの世の終わりを意味している。
 
 私はこの作品を観て、実際にはもっともっと深いところを画いているのだろうが、核家族社会における家庭の崩壊と命の終焉をイメージしながら観た。今、鮭が遡上して来る季節であるが、疲労しきった親鮭は最後の力を振り絞って子孫を残し、自らはぼろぼろになって力尽きてしまう、そんなイメージで観ていた。それにしても、どぎついカラー映像に囲まれている中、モノクロで画かれる映像の新鮮さはタル・ベーラ監督の長撮りの効果もあって特筆ものであった。


11/24(土)曇り時に雨  飯川病院日直
1:00 起床。新聞・文献PDF化。各種の録音資料再検討。1:30遅れて飯川病院半日直に。17:30帰宅。19:00夕食、フィギアスケート大会TVで観る。21:00就寝。

わが家の第3番目の飼いネコ、ミーシャ、13才
 

今はわが家のネコとなったミーシャが徒然に初めて登場したのは2002年である。推定1才ほどのネコであった。私から見てミーシャは黒っぽくておなご振りも良くないが、珠を転がすような美声の持ち主である。
 今年夏まで働いて貰っていた賄いのおばさんの飼い猫であったが、とても謙虚なネコであった。北海道では飼育困難とのことで、我が家の住人の地位を今年になって獲得してたばかりである。

 私は特別にネコ好きというわけではない。昔、小1から高校卒業まで一緒に暮らしたネコ、これは私にとっては別格のネコであった。2匹目は時折徒然の表紙を飾った通称ナンナン、 2010年5月に20才ほどで死んだが、美しい表情を持つネコであった。 私は他所のネコも抱き上げることは一切ない。だから、抱き上げたネコは今まで2匹のみで、残念ながらミーシャは対象外であった。膝にも乗せたことはない。もう一匹、2005年に浜で日問われたクロ猫も同居しているが対人間関係は余り良くない。エサを求めて戻ってくるだけの下宿人の様なものだから、殆ど抱き上げることはない。


 そのミーシャが右耳に感染症を発症してからこの3ヶ月余り、急速に弱ってきた。今は殆ど餌を食べなくなったし、水も少々である。やせこけて気の毒、歩行もままならない状態まで弱ってしまった。今月中旬までは台所で、寒くなってからは居間のストーブの前でほぼ寝たきり状態にある。
 しかし、一日数回、何度も何度もコケながらトイレに行こうとする。途中で間に合わず粗そうをすることもあるが、自力で何とかトイレに行こうとする姿には感心させられる。大事をとってトイレまでのルートには尿吸収パッドを敷き詰めている。私が家にいて、起きている時間帯には追いかけて、時に失敗する排泄を受け止めている。

 私は、それほど深くミーシャと関わってきたわけではない。しかし、この晩年、必死に生きようとする姿、人手を借りないでトイレまで何とか行こうとする姿には深く感動している。



 恐らくはここ1-2週間ほどの命かも知れない。その間は出来るだけ清潔を保持し、暖かくしてあげようと思っている。


11/23(金)勤労感謝の日 曇り雨時々
 1:30起床.新聞、文献PDF化、読書。徒然他何時もの如く。7:00東京へカレンダー購入に行く家内を送り、駅に。ほぼ終日本読み、一部書庫と小屋整理。午睡。MP3録音データ書整理、新聞読み。17:00夕食、20:30就寝。

「いじめ」(3)そもそも文部科学省が定義している「イジメ」とは?
 2007年に文部科学省は「いじめ」の定義を変更した。
 「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。そして、いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」、となった。
 それまでの定義は、「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」であったが、「一方的に」、「継続的」、「深刻な苦痛」などの相対的言葉が含まれ曖昧なものにしていた。この定義では本人が「深刻な苦痛を受けていない」と被害を受けた側が言えば定義から外れてしまう。

 先日22日に文科省が緊急の「いじめ」調査結果を発表した。
 それによると、「いじめ」の把握件数はこの半年間だけで昨年後の約2倍の14万件ほどとなった。都道府県別の発生件数では160倍もの差がで、14万件の内の1/3強が鹿児島県が占めた。恐らく、調査自体の絞り込み条件が甘くて調査する現場に混乱が生じたことが伺われる。そうは言えども、出来るだけ軽微な「いじめ」も掘り起こそうとする意図が見え、従来の「いじめ」を隠蔽する体質に変化が見えてきたことを示している。

 秋田魁新聞によると、秋田県内の学校では1020件で、昨年一年間の2.6倍であった。小学校が398件、中学校318件、高校303件、特別支援学校1件となっている。

 この調査で分かることは、学校では集団がある以上「いじめ」があって当たり前、と言う前提に立たつべきと言うことである。従来は「いじめ」 の存在をひたすら隠蔽し、否定してきた学校や教育委員会は発想の転換を迫られるし、過去の姿勢は何だったのかと問われることになる。

 同時に、学校が今の体制で良いのかについても考慮しなければならない。超多忙とされる教員に「いじめ」対応は出来るのだろうか、教員の増員、養護教員に加えて「いじめ」に対応するために訓練を受けたスクールカウンセラーの配備なども検討すべきだろうと思う。


11/22(木) 終日雨 外来 
2:00起床、新聞、文献PDF化など。7:00車病院着、回診他。8:40-14:30外来、混雑。20:30自転車16:00帰宅。 新聞、文献PDF化進めた。夕食、20:10就寝。

「いじめ」(2)集団があるところに「いじめ」がある
 ヒトは社会的動物とされるが、実際には好戦的な動物なのだろう。というよりは動物共通の縄張り争い、生存競争、メスの獲得等の本質的性質なのかも知れない。

 人は社会的教育を受けずにほったらかしにして置かれると、徐々に野性化していくとされる。それを抑制しているのが教育その他であろう。それでも、人はパニック状態、極限的状況に陥るといつでも野獣化する。数多くの犯罪行為がそのような状況下で行われている。

 野生化した状態では社会など成り立たない。人類はそのために、ヒトの野性化という串態を回避するために、いわば大人しくするために、社会的良識を備えるために、文化的システムを開発してきたのだと思う。

 もっとも普遍的な意味で重要なのが家庭教育であり、「学校」という教育の場である。特に、学校は思春期に達する前から子どもたちを長い間かけて統合された価値観と人生観をビルトインする場だからである。それと、宗教活動もこれに相当するかも知れない。個々の人間に対してはいのちの尊さ、人の尊厳、社会の規範を教えてくれる。ただ、集団となると宗教戦争というものがあるから、判断は難しい。

 闘争本能を中和するのに「スポーツ」も有用と考えられる。スポーツは自分がやるか否かは別にしても、野性化するエネルギーの中和や昇華するのに欠かせない。一定のルールの中でのエネルギーの昇華になるだろうが、闘志むき出しの選手の姿に自らをかさねあわせるファンも少なくないだろう。いっぽう、武道など精神統一を厳しく求めるものもある。

 その教育の場で「いじめ」が行われていることは問題である。
 ところが「いじめ」は大人の世界にもあるし、学校の場合より根が深い。職場で精神的に追い込まれてうつ病などの精神疾患を発症するケースも少なくない。高齢者の集団生活の場にも「いじめ」がある、とされる。家庭にだってDVがあり、幼児虐待、育児放棄もある。

 こう考えると集団があるところには必ず「いじめ」があると考えて良い様である。


11/21 (水) 曇り・雨  外来
1:30起床、文献チェック。徒然他。7:00車病院、紹介状その他処理。8:45-13:30外来。16:15帰宅。新聞PDF化。19:45夕食、20:30就寝。

「いじめ」(1)人間に備わった本質的性格に由来しているのか
 「いじめ」の報道があとを絶たない。特に大津市の事件以降報道が加熱していることもあるだろう。ただ、「いじめ」に関する有用な統計はないようである。実際には、粗い統計はあるのだが、「いじめ」そのものの判断基準が確立されたものはない。だから、それほど有用な統計にならない。
 文科省が平成12年2月発表したデータによると平成10年度の統計ではいじめと認知された件数は7万7630件で、6.7%の増加としている。これは、遅ればせながら現場での実態把握が進んだためと考察されている。しかも、最近、「いじめ」の判断基準が一層幅広くなっている可能性もある。

 「いじめ」は恐らく人間と言う生物が持つ野蛮な闘争的意識に由来するものであって、歴史的にも長いだろうと思われる。私の子どもの時もあった。しかし、私が経験した「いじめ」などはそれほど深刻なものではなかった。私の場合は、ちいさな小中学校であり、環境因子も大きかったと思う。最近の例では海上自衛隊の「いじめ」事件もあった。「いじめ」は決して子供達の問題ではない。

 「いじめ」が陰湿となるなど質的に大きく変わっているようである。この陰鬱になった背景は、恐らくは、子供達が時代の変化について行けないからではないか、と私は思うのだが、それを含め、枚挙にいとまがないだろう、と思う。

 中にはほとんど犯罪にと言って良い「いじめ」もある。
 はっきりしているのは傷害事件の範囲である。かつて、マットに簀巻きにして死に至らしめた例もある。

 問題は、「いじめ」を介して自死に追い込んだケースである。学校側、教育委員会側は、恐らく箝口令もあるのだろうが、総じて「いじめ」の存在を否定してかかっている。最初から認めた例などは殆どないように思う。一人一人の教師のホンネを聞けば別な意見も、別な解決法も出てくると思う。こんな状況の中、果たして「いじめ」は、学校という閉鎖社会の中で対応できる問題なのだろうか。今までの事件を並べて見ると、私にははなはだ疑問に思われる。

 最近、学校側は加害容疑者を司直の手に渡して取り調べも行われるようになってきた。大津市では生徒たちから事情聴取が行われた。47都道府県のうち10の教育委員会が地元の警察を交えた会議を開催している。
 他方で「いじめ」の現場、すなわち学校から被害者を逃げがせば良い、という提言がしだいに大きな輪がひろげがり始めている。緊急避難のすすめであるが、危機回避のためにはそれしかない、という半ば絶望的な解決法である。ただ、これとて無制限に、長期的に出来る問題ではない。

 「いじめ」は人間の本質に関わる問題である。対策に特効薬はあるのだろうか。


11/20(火)午前雨・夕方曇り 外来 
1:45 起床。文献・新聞等処理、徒然。7:00車病院。8:45-13:55外来。16:00帰宅。新聞、医学論文チェック、夕食、 20:15就寝。

マスコミは誤写真報道にどのように対応するのか (2)秋田魁のコラム記事から  
 2月1日の秋田魁新聞の「地方点描」というのコラムに掲載された記事である。ちょっと興味を感じてスクラップしておいた。内容は一部変えてあるが以下のように記載があった。

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 パチンコ店で財布を置き引きしたことで61歳の男が警察に逮捕された。翌日の新聞記事を見た同じ町の女性が沈んだ声で当支局に電話してきた。「私と同姓同名、年齢も一緒です」という。従業員も肩身の狭い思いをしている、ということで窮状を訴えてきたとのこと。
 記者としては深い同情を示しつつ記事の真意を丁寧に説明するしかなかった。微罪の掲載基準は様々な曲折や社内論議を経て現在に至っていること、実名報道はメディアが公権力を監視する上で欠かせないと言う事、住所表記は町内までは同じであったがそれ以下は全く別であること・・。
 後日女性にお会いして再度話を伺った。仕事を休み関係先への釈明に負われている毎日だという。商売柄、長年かけて培った社会的信用は何よりの財産だろう。男は有罪が確定しているわけでなく、いわゆる推定無罪の原則が適応される立場だ。誤解を解きたいと思うが被疑者の人権を考えればこの場での実名の再掲は控えざるを得ない。
 伝える仕事の重さを改めて感じている。
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 私はこの記事を直接見ていないが、恐らく容疑者の性別の記載が無かったことで、同年齢、同性同名、同じ町内の女性がこの記事のために煽りを食らって迷惑した、と言う事だろう。確かにこれは尼崎市の連続変死報道における顔写真の誤掲載とは全く意味が異なる内容である。この女性にとっては寝耳に水と言って良い話しであり、新聞社にとってもまさかこの様な女性が町内に実在しているなど思いもよらなかっただろう。

 魁新聞の記者は真摯に対応した、と思う。しかも、このコラム欄で女性の誤解が解けるように配慮している。

 しかし、疑問に思う点もある。 微罪の掲載基準は様々な曲折や社内論議を経て現在に至っていること、実名報道はメディアが公権力を監視する上で欠かせない、などの新聞社の一方的高圧的姿勢は疑問である。
 もう一つ、男はいわゆる推定無罪の原則が適応される立場にあり被疑者の人権を考えればこの場での実名の再掲は控えざるを得ない・・と言う点である。推定無罪の可能性がある被疑者を実名報道して果たして良かったのだろうか?

 福島民報2月26日に載った小さな記事にも目がとまった。郡山署は別の交通事故で同じ医療機関で運ばれていたけが人を死者として報道機関に発表した。検視の過程で誤りに気付き、約4時間後に訂正した。同所は確認不足を認め、再発防止に務めるとしている。
 実際に記事にはならなかったらしいが、死亡と報道されかかった方はさぞや驚いた事であろう。


11/19(月)終日曇り、時に晴れ間 外来 年金機構に手続きに
 1:45 起床。文献・新聞等処理、徒然。7:00車病院。8:45-13:55外来。16:00年金機構に各種の相談、手続きに。4:45帰宅。新聞、医学論文チェック、19:00夕食、 20:15就寝。

マスコミは誤写真報道にどのように対応するのか (1) 尼崎市の連続変死報道 
 尼崎市の連続変死事件は極めて異様な事件だと思う。
 事件そのものに関心はそれほどないが、この事件と関係しない女性の写真が報道各社によって何度も掲載されたり放送された事に関して、マスコミ関係者はどう対応したかに対しては興味がある。

 事件の性質上、犯人の顔写真や人物像に興味をもつのが一般的なのかもしれない。
 ただ、実際には顔写真がどれだけの意味あることなのが、私は疑問に思う。殆どの視聴者や読者にとっては単なる傍観者のレベルであってそれほど価値があるとは思えない。誤掲載や放映などあってはならないことであるが、多くの人にとっては別人であっても別に構わない。単なる画像に過ぎないし、第一、当事者を知らない一般人には本人か否か区別など出来ないからである。

 この事件で容疑者の写真として別人の写真が掲載された。
 複数の新聞社やTV局は10月20日前後から「犯人の顔写真」として掲載始めた。30日になって事件とは無関係の50歳代の女性が「写真は私」と名乗り出た。各報道機関は10月30日深夜から昼にかけて「おわび」を掲載した。読売、毎日、共同通信など、TV局ではNHK、読売TV、朝日放送、関西TVなどがニュースで陳謝した、と言う。その他週刊誌でも何誌かが掲載している。

 これに対してマスコミ関係者はどのように総括し陳謝するのか、私はそちらの方に興味を抱く。各社は誌面や放映を通じて「おわび」したと言う。勿論、本人に対して直接陳謝しているとは思われる。私は本人への陳謝はさることながら、本人への名誉回復をどのようにして行うのか、それを明らかにして欲しい、と思う。この件については、本人に対して誤ればいいと言うものではない。社会に対する道義的責任が問われる問題である。

 私はマスコミの横暴に対して、過剰報道に対してつねづね不満を持っている。一般的にマスコミの姿勢に対して判断が甘いのではないかと思う。
 私は写真を掲載した報道各社が連名で訂正記事と今後繰り返さないような対策まで含めた記事を掲載すべきと思う。これは一社だけの責任ではなくマスコミ業界の責任だからである。

 誰でも間違えることはある。問題は間違いであることが判明してからの姿勢が大事である。


11/18(日)曇り・夕方ミゾレ 映画「ニーチェの馬」
 1:30起床、新聞、文献チェック。医学雑誌のPDF化、録音データ整理など。午前は居間の掃除、不要品廃棄。16:00ー18:50映画「ニーチェの馬」を観る。帰宅,20:00夕食、20:45就寝。

携帯電話をauのiPhone5に替えた
 2008年、携帯電話に関して別に不便を感じてはいなかったが、携帯電話の電波の周波数が変更になることから旧式の携帯は使えないことになった。実際には時間的に余裕があったのであるが、どうせならiPod等多彩な機能を持つiPhone3Gが良いだろうと子供達に薦められ、当時まだ少なかったスマートフォンを持つことになった。

 販売店窓口で交わされた店員とのやり取りの大部分は私にとっては理解不能であり、長女が全てを代行してくれた。月々の支払いは突然6500円ほどになったが、機器の代金が分割で含まれているという。

 購入して半年経ったころから、電話としての他にメール、カメラ、メモ帳機能、スケジュール、ボイスメモを始めとして、その持っている機能を徐々に利用し始めた。確かに便利な機器であった。インターネットを通じれば私のパソコンのデータにもアクセスできた機能が特に有用であった。

 ところが、スマートフォンとしての機能の発達は早い。Apple社は2010年6月にiPhone 3GS、次いでiPhone4を発売した。この辺までは私の持っている機種とソフトの互換性は保たれていたが、2011年夏に発売されたiPhone4Sあたりからはソフト的にも互換性はなくなり、デザイン的にも、機器としての処理能力も明らかに見劣りし始めた。

 Apple社は9月中旬、一層進化させたiPhone5を発売した。一層薄くなったし、デザインも洗練された。基本ソフトもVer6.0に進化した。この際、買い換えることにした。その際、通話エリアがやや狭いのでソフトバンクからauに変更した。
 3週間ほど待って、11月3日にiPhone5が届いた。だから、まだ2週間しか経っていないので、まだ機器の新機能になれることと環境設定中であるが、処理能力はかなり早く、殆ど待ち時間がないのはストレスなくて便利である。また、子供達との間でリアルタイムにfacetime機能、ずなわちTV電話として用いる機能事も出来るのでとても便利である。

 ついでながら、家内の携帯もiPhone5にした。わずか一ヶ月の注文の差であるが、家内の場合は予約なして直接入手できた。彼女はいま慣れない機器の操作で頭を悩ましているが、そのうちスマホの便利さに目覚めていくだろう。


11/17(土)終日雨  
 2:00起床、新聞チェック、徒然他いつもの如し。カゼ気味か?若干体調不調、微睡、PDFデータ整理、夕方は体調若干改善。居間の冬支度、模様替え若干、19:00夕食、20:00就寝。

映画評:「キリマンジャロの雪」と 「プリンセスカイウラニ」
「キリマンジャロの雪」 
 


 10月10日勤務明けの時間を利用してみた映画。

 私は作品についての情報を得てから行くことは殆どない。パンフレットも見ない。この映画「キリマンジャロの雪」はてっきりヘミングウエイの同名の小説がもとになっているものと思っていた。しかし、全く異なっていた。題名は1966年に仏でヒットしたシャンソンの曲名からとられたという。2012年作のフランス映画。 監督は「マルセイユの恋」などの作品で知られるロベール・ゲディギャン。

 30年近くも真面目に働いてきた労働組合委員長の初老の労働者は勤務先の経営状況が悪化して人員削減を迫られ、自分もくじに参加し退職者の一人となる。
 かねてからの望みであったキリマンジャロへの記念旅行を夫婦で計画していたが、強盗に押し入られ多くの蓄えを失った。犯人は主人公と一緒に職場をリストラされた青年で、ほどなくして逮捕された犯人を知り、彼は大きなショックを受ける

 事件の背景が明るみになるにつれ、怒りよりも寛容、憎しみよりも愛に目覚めていく、と言う内容。犯人は弟2人の面倒を見ていたのに、クビになって弟たちに満足な食事を与えられない状況にあった。映画は不況による失業者の増加が犯罪を生んでいるという事実、さら厳しい子育て事情にもスポットを当てる。
 彼は妻と共に逮捕された犯人の弟たちの世話を始める。先の短い自分たちよりことよりも、子供達に未来を託そうとする。そんな二人の生活が描かれたフューマンドキュメントであった。


プリンセスカイウラニ 



 11月3日に観た映画。
 ハワイにかつて王朝があったとは不勉強にして知らなかった。その歴史、王朝崩壊を取り上げた作品で、勉強になった。

 カラカウ ア王朝の王女プリンセス・カイウラニは当時イギリスに留学していた。王が死去し王位継承権第1位を指名された。しかし、米国の謀略によってハワイ王朝の崩壊のしらせが入る。
 ときの大統領はクリーブランド。カイウラニの依頼で発足した大統領による調査団は「米国公使スティーブンスがハワイ王朝の崩壊に関して国際犯罪を犯した。米国は国の名誉と威信をかけて誤りを正さなければいけない」と結論を下した。

 1897年11月、カイウラニは8年ぶりにハワイに帰国、一見王朝は順風満帆に見えたが、1898年に合衆国とスペインの間で戦争が勃発し、太平洋防備を焦った米国は急遽ハワイ併合を決意した。翌1899年、カイウラニはわずか23歳5ヶ月の生涯を閉じた。その辺の事情は映画では明らかにされなかった。

 ハワイ併合に関しても米国の歴史の中で長い間汚点になっていた様である。
 クリントン大統領はハワイ王朝転覆について非を認め、正式に謝罪している。


11/16(金)雨 冷えた 大曲中通病院外来 
2:30起床、MP3録音、PDFデータ整理。新聞処理。7:00車病院着、回診他、8:01こまち、8:45-15:00大曲中通病院外来。17:30帰宅。文献チェック、夕食。20:00就寝。

脳梗塞体験記(5)再発防止に心がけるのみ
 退院後は3日間の自宅療養を戴き、13日の外来から復帰した。4日の発作だから9日目の復帰と言うことになる。こんなに短期間に復帰できるなど、当初は医師としての復帰も危ぶんだだけに、全く考え難いことであった。

 この3日間は中通総合病院の外来業務から復帰したが、殆ど障害は感じなかった。ただ、輸血関連の書類の準備に関してはいつもよりは時間がかかったかなとおもった。立ち番の看護師も特に異常を感じなかったという。本日、金曜日は60Kmほど離れた大曲中通病院の外来であった。患者が多くて閉口したが、カルテが紙ベースなので特に処理上は問題はなかった。

 今回の脳梗塞は主治医によると、病態的には一過性脳血発作(TIA)と言って良い状況だったという。TIAの場合は定義上は神経症状が24時間以内に改善するとされている。右の半身不全麻痺は数時間で消失したと思われるが、言語障害だけは36時間ほどかかって改善した。キーボードの入力困難は未だに続いているから、この経過を見れば、神経症状が24時間以上続き、3週間以内に消えるとされる可逆性虚血性神脱落症状(RIND)という状況に近い様な気がする。

 病態の分類はそれほど大きな意味を持たないだろうが、TIAもRINDも将来的に脳梗塞を生じる危険性が高いということなので、予防対策が重要とされている。この3週間ほどのあいだに重大な病を経験したが、2度あることは3度あるともされる。次の機会にはどうなるか分からないと、心して置かなければならない。

 それにしても今回の脳卒中は本当に運が良かった。初発症状としては結構厳しかったと思う。塞栓による症状発現は状況よって半身不随や四肢麻痺とか、あるいはそれ以上の重大は合併症が生じつうる可能性もあっただけに、自身の運の良さに驚くばかりである。

 キーボード入力がどうなるか興味が持たれるところであるが、心配して下さった多くの方々に、ぼほ改善して仕事に復帰できたことを報告し、感謝して脳梗塞体験記を終了したい。


11/15(木)曇り時々晴れ 外来
1:30起床、文献・新聞チェックなど。7:00車病院着、回診他、8:45-13:50外来。15:45帰宅。病気以降ものに対する執着が一層なくなって廃棄物が増えた。17:00夕食、20:20就寝。

脳梗塞体験記(4)言葉も順調に改善したが・・
 言語障害はなかなか厳しいものである。言いたいことは明らかに準備できているのだが表現の仕方が分からない状態である。例えて言えば、日本語では十分に文章が出来ているのであるが肝心の単語が分からずに何としても英語で表現出来ない、状態に近かった。

 本人にとってもショックであったが、特に、家族にとってはショックは大きいようであった。

 ICU入室後に面会に来た家内に、午後に急遽孫が来るらしいからパソコン周辺の電源を抜いてくれるようにと頼んだが、これだけ言うのに、「あのその・・」とか、「ネコ」と言ってみたり、別の思いもしない単語が出てくるなど、なかなか目的の名詞がでず、数分かかった。家内はベット上で介護を要する状態になるのではないか、と思ったそうである。

 また、午後に息子が来たが、この時にも十分対話がなりたたなかった。息子の判断では「もう医師としては役立たないだろう・・」との評価であったらしい。

 この時、私が表現に苦慮しているのを見るのが辛かったらしく、目を合わせずに、あっちを見たり、周りを見まわしながら、私の言葉がでるのを待っていた。日常の姿からは予想できず、目のやり場に困ったのであろう。
 横浜在住の長女は6日の夕方到着したが、このころには自分では多少の不便はあったものの、殆ど会話に支障がなくなっていた。長女は言語障害には恐らく気づかなかったはずである。

 11月6日からダビガドランが開始となり、ヘパリンは中止となった。後は一日2回のエダラボンだけであと3日間ほど続けるらしい。24時間維持されていた点滴からも解放されたので夜半から数時間医局で過ごすこととした。

 11月7日早朝からパソコンに生活記録を入力し始めたのであるが、キーボードのブラインドタッチが上手く出来ないことに気づいた。ミスタッチも多くなったほか、変換キーを勝手に押したり、エンターキーを不用意に押したりなどしてミスが多く入力に難渋した。言語障害があって適正な言葉を選べなかったときに、関係ない言葉が浮かんできたりした感覚に近い状況であった。この現象はまだ改善していない。

 11月7日以降は会話はほとんど困難せずに可能となった。8日でエダラボンも中止となり、9日に凝固能検査し退院した。


11/14 (水)曇り雨、晴れ間若干 外来
1:30起床。新聞・文献・録音データ編集他。6:00ゴミ出し、7:00車病院着、かなり寒い。回診他病棟業務。8:45-13:30外来。16:00帰宅、医学論文PDF化など、auの家族割引手続き進める。17:00夕食、20:20就寝。

日本の経済の指標の悪化は打つ手はあるのか?(2)TPPは疑問
 オバマは経済低迷にの打開のためにTPPに関しても重大な関心を寄せている。オバマはリーマンショックで落ち込んだ景気を立て直すために、急成長するアジアに輸出を増やしたいとしている。

 関税は無くなるとは自動車等の輸出がしやすくなる。経済界はこぞって歓迎している。しかし、外国産の安い米や乳製品等が入って来る。安ければいいと言うものでもない。国それぞれに経済的な文化がある。
 農林水産省はコメは約4割が外国産にかわり、乳製品は約5割減、牛肉は約8割減となり、農業関係者約207万人が失業すると試算している。それなのに交渉に参加するのだろうか。

 国民を犠牲にするべきでない。TPPに日本が参加すれば世界のGDPの4割を占める巨大な経済圏が出来る。それを喜ぶのは誰か、米国に追従するのは危険だ。

 オバマだけでなく、経済界ではアジアの安い賃金、豊かな労働力が注目されている。
 欧米の経済が不安定な中で、これから経済的に発展していくのはアジアと考えられている。中国は経済格差が問題となってきており、豊かさの再分売がないと少しずつ弱まっていくと考えられる。それと、特に日本に関しては胡耀邦時代の愛国教育の歪みによって関係の修復は可なりの困難が予想される。

 わが国の投資は今後はインド、ベトナム、ミャンマーが中心になっていくだろう。

 結局は、先進国と言われる国々による投資と言えば聞こえが良いが、労働力の搾取の方向がこれらの国に向いてきたと言うこと。実際には各国の民間企業の能力や既得権や行政機構の問題などが複雑に絡むからそう簡単ではないとおもわれるが、外国からの投資は決してバラ色とは言えない。国独自の農業文化もあるだろう。

 これらの諸国に於いて、経済的発展の重要性は理解出来るものの、労働力があるからと言って、異文化の導入に関しては拙速であってはならないと思う。


11/13(火)曇り・雨・雷雨 外来復帰
1:30起床。文献、新聞・徒然。7:00車病院着。回診他。8:45-14:00外来。久々で疲れた。15:45車帰宅。文献PDF化、19:00夕食、 20:00就寝。

日本の経済の指標の悪化は打つ手はあるのか
 東日本大震災の打撃から若干は持ち直し始めていたとされるが、日本経済の指標が軒並み悪化しつつある。
 1990年代のバブル崩壊後、日本の経済は「失われた10年あるいは20年」と言われ、諸外国から日本の轍を踏むな、と注目されてきた。それが、 ここ数カ月の経済指標の悪化は日本経済の深刻さをあらためて浮き彫りにしている。「日本の経済は改善することなく、新たな30年に入りつつある」ともいわれている。

 9月の鉱工業生産指数は前月比1.3%減、大震災の影響を受けていた昨年同期に比しても4.3%の減となった。8月の貿易収支も2カ月連続で赤字となり、その赤字幅は昨年に次ぐ史上2番目となった。政府の景気判断も9月は「緩やかに回復」から「足踏み状態」に変わった。などなど指標は厳しい数字が並ぶ。

 経済の仕組みはまだまだ私には難しいが、私は資本主義の行き着く先として、成長期の右肩上がりの長期間の維持はあり得ない、あるいは困難だと思っている。要するに、経済大国は「不均衡な経済バランスの中で行われる搾取による資本の蓄積」が基本であり、私には爛熟した日本の経済の中で「失われた10年あるいは20年」と言われるなかで模索しつづけたものの、解決策がないままに「次の30年に入りつつある」のではないかと思う。基本的に解決策はないのだ、と思う。デフレ、少子高齢化なども大きな要因となる。

 あるとすれば、右片上がりの成長路線に頼らないで済む経済の仕組みに変更していくしかないように思う。
 同じ事は米国でも言い得ることである。
 米国大統領にオバマ氏が当選を果たしが、あの4年前のフィーバーからみると信じ難い選挙戦が展開された。それだけ、米国の経済が低迷していると言うことでもある。先に問題となった99%の国民にとっては、理念とかビジョンとかの前に当面の生活の維持が問題であって、 パンが必要だということである。

 オバマ氏が苦戦した最大の原因は経済の低迷であった。失業率は8%を超え、就任時に約10兆ドルだった財政赤字の累積は約16兆ドルに増えた。更に、前政権の所得税軽減などが年末に期限切れを迎える。この減税打ち切りは32兆円規模になるり、失業率は9%にも達する深刻な景気後退に陥るとされる。米国の経済規模は世界のGDPの20%も占めている事から世界経済への影響も懸念されている。

 米国といえどももう右肩上がりの経済成長も出来なくなっているのだ。


11/12(月)風雨 自宅療養4日目
1:45 起床。文献・新聞等処理、徒然など。午前中は物置とかの整理と御所野の環境センターに不要品廃棄に。13:30夏に予約していた除雪機届く。書斎にしていた部屋の整理・整頓・・と体調は良好。力仕事も通常に出来た。20:00就寝。居間のストーブ、昨年は初点火したが今期は一週ほど早い。

脳梗塞体験記(3)言語障害のみが遷延  
 ICU入室後は点滴交換等の2-3言のみで、会話する機会はあまりなかった。
 意識障害は全く無さそうであった。夕方の神経内科の主治医の回診時に、「これを機会にリタイヤせざるを得ないと考えています・・・」と言うことを、数分かかって何とか表現出来たが、これぐらい会話しかできなかった。この時点では社会復帰は無理だろう、と考えていた。 これに対して主治医は、「この経過なら、必ず改善します・・・」と力づけてくれたが、大きな救い、希望となった。

 ICUは暇である。ラジヲを借用して聴いていたが、しゃべれないにも関わらず放送番組を聞きとる分には全く支障がなくかったのも不思議であった。
 
 ICU二日目の朝はMRI検査から始まった。この時にはストレッチャーによる移動であった。付き添ってきたスタッフに対して昨日よりは少しは会話できた。自分でも驚くほどの変化であった。まだ思ったことは表現できるとはいい難かったが、この調子で改善するならば・・と昨日と異なって、かなり希望を持つ事が出来た。

 ICUから一般病棟への転出は午後となった。何と主治医は車いすでの移動を指示してきた。自分でもベット上で体位変換にも不自由なく、食事時には座位保持も可能であったし、四肢に時々力を入れて運動のようなことをしながら、麻痺が完全に消失していたと思っていただけ嬉しい指示であった。車いすへの移乗も点滴ルートなどが絡むために多少の援助は必要であったが、ほぼ一人で可能であった。

 病棟の看護スタッフから簡単な病歴とかを聴取されたが、目的とする単語は出がたいものの、回りくどい表現をつかえば意思の疎通が可能となった。
 看護師が席を外したあと、私は勝手に病室のトイレに立った。

 実は、誰にも話していなかったのであるが、ICUで過ごした一日余の時間帯で尤もつらかったのは夜半からの便意であった。10月中旬に私は腸閉塞の腹腔鏡による手術を受け、その後腸機能の維持のために大建中湯なる漢方薬を服用していた。ICUにはトイレがない。果たして病棟のトイレまで耐えられるかが私にとっては当面の大きな問題であった。あと何時間で転出できるのか?言語障害もさることながら、感覚的には私は「全身直腸人間」といった状況に陥いった。なんで、ICUにはトイレがないのか、マア当然だろうけど、呪ってしまった。それが、何とか間に合いそうだと分かったときの安堵感は何とも言えないものがあった。
 で、勝手にトイレに歩行した。私は直腸人間から解放された。後は、言語障害のみである。
 看護師はその後、室内歩行可などの指示をくれた。

 夕方、主治医の回診があり、けさのMRIの所見の説明があった。
 私は詳細な読影など出来ないが、L-MCA領域の、比較的広範な急性期の梗塞巣が認められた。数多くの可能性がある中、言語障害は残ってはいるものの四肢の麻痺も残っておらず、不幸中の幸いであった。実に幸運であったと思う。


11/11(日)快晴のち一変して強風、小雨 自宅療養3日目
3:00起床、新聞・文献チェック,徒然その他。軽食、午前中は居間の整理、午後は書斎の整理。不要品の廃棄など。19:30夕食、20:15就寝。

脳梗塞体験記(2)当初は何が生じたのか理解出来なかった
 11月4日午前9:00ころ、洗濯の途中で洗濯機に水を満たし、洗剤を入れようとしていたときに、前触れもなく、激しい目まい感、脱力感が生じた。当初は何が生じたのか分からず、地震か、とさえ思ったのであるが、世の中が揺れているわけではなく、無音状態に近かった。そのうちに、自分の体調に変調を来したためと理解出来た。この時点では目まい感は持続していたが、何とか居間まで歩いて行けたようであったが、意識がもうろうとしていたのであろう詳しいことは記憶にない。

 気がつくと居間の床に座っており、驚いた家内が血圧を測っていた。この時点で右片麻痺が生じ始めたことを自覚し、家内は脳卒中と判断したようである。この時点ではまだ力が入ったのであろう、居間のベットに自分で横になったことを覚えている。家内が救急車を要請したらしい。この間の記憶はない。

 救急隊が到着した時点で再度気がついた。若干の質問に答えたように思うがことばにならなかったらしい。救急隊の簡易担架で救急車内に収容された。

 途上で秋田脳研に運ぶようなことも話題になっていた様であるが、中通総合病院に搬送されることになった。その後の救急車内の様子については記憶がない。

 救急室到着時は疼痛に対しては若干の反応があったらしいが、右片麻痺を伴っていたと言う。
 血管確保され検査用採血が行われたころから意識状態がかなり改善したようである。神経内科医師、循環器科医医師、放射線科医師等の姿を確認することが出来た。何と幸運なことか、と驚いた。

 次いで、恐る恐る右上下肢を動かして見たところ動かすことが出来た。麻痺の改善傾向は著しく、CTの検査用ベットへの移動はかなり自由に出来た。ただ、発語に関しては、 簡単な会話は理解出来たが、 返答は困難で、伝えたい内容はあるのだが、ことばが見つからず、何としても話すことは出来なかった。自分が思っていることを何としても表現出来ない感覚は実に不思議であった。

 緊急CTにて脳出血は否定され、不整脈を背景にした脳塞栓の判断であったが、神経内科医の判断では来院時のNIHSS臨床指標は9点であり、tPA療法(組織プラスミノゲンアクチベータ)療法が準備されたが、来院後の意識状態、麻痺の改善傾向が著しいためにtPA療法でなく、ヘパリンと「エダラボン」療法が行われることとなった。

 経過観察のために一晩ICUに入室することとなった。家内も体調が不調であり早めに帰宅させた。
 午後に、山形出張から息子が急遽駆けつけてくれた。しかし、この時点では殆ど会話らしい会話にならなかった。彼は家族たちには、「医師として患者の前に出るのはもう無理だろう・・」と話したそうである。
 実際に、その時点では、私もそう思っていた。


11/10(土)久々快晴 自宅療養2日目 
2:00起床、何時もと同じ.読書中心。8:00軽く朝食、文献・新聞読み。家内のバザー用の品目準備。午睡若干。午後は電動ベットの修理。BSアンテナ一機増設など。散髪など。20:00仙台物産展?で購入の牛タン弁当にて夕食、21:30就寝。

脳梗塞体験記(1)不整脈を軽視した当然の帰結
 約一ヶ月前、10月15日に腸閉塞に対して腹腔鏡による手術を受けた。経過は順調で10月30日から職場復帰した。ところが復帰5日目の朝に今度は脳梗塞に罹患した。

 最近、疾病体験記ばかり書いているような気がしてならない。
 私は脳梗塞の再発に関してはまだまだ危険域にあると思われる。再発作が来ないことを願いつつ、参考までにその経験を記しておく。

 まず、今回の脳脳梗塞発症は自分で不整脈、発作性の心房細動を軽視したことによる当然の帰結であった。医師である立場上、全て自己責任の範囲であった。

 ここ数年来、不眠とか疲労の際に脈が不整になることは自覚していた。2007年の泌尿器科的手術の際には24時間心電図を記録してみたが、上室性期外収縮が3発記録されていただけで、自覚症状との乖離に驚くと共に安堵していた。

 実際にはその後も不整脈は時間的にも、自覚症状からも増悪しつつあることは自覚していたが、体調は悪くなく、年2回の健康診断ではせいぜい上室性期外収縮、心室性期外収縮が記録されていたのみであった。自覚症状から見て、多分、時々は心房細動も生じていたのではないかと思われる。

 本年2月の検診で初めて発作性心房細動が記録された。心房細動となると軽視できない。5月から循環器科の指導の下に抗不整脈剤を開始した。服薬前の24時間心電図では夜間帯を中心に心房細動が記録されており、服薬一月後ほどの24時間心電図では明らかに効果が表れており、私も安心して服薬を定期的に続けていた。その際、抗凝固療法に関しては自転車による外傷の可能性も考えて、希望しなかった。これも自己責任である。

 その後も、実際に時折心房細動になっていたらしいことは感じていたが、服薬の効果はあきらかだったので、具体的に検査は受けていない。だから、服薬開始以降、どれだけ心房細動が生じていたのか把握していなかった。これも自己責任である。

 腸閉塞の入院期間は自覚症状もなく、時間的にも余裕があり、循環器科的に再精査を受ける良い機会であったのに、持ち前のものぐさもあって貴重な機会を失ってしまった。
 この時の判断はおおいに悔やまれるところであった。

 11月4日前触れもなく、脳卒中と思われる症状が表れた。当初は何が生じたのか、理解できなかった。


11/9 (金)快晴 本日退院 自宅療養は19日まで
2:00起床、2:30-6:00医局で過ごす。7:00朝食問題なし。採血他、本読み。14:00退院。自宅療養に入る。郵便物他、本の片付けなど。19:00夕食、 20:30就寝。


医師法第20条の解釈の通知(3)改めて疑問も生じた
 ここで2.3の疑問点が生じた。

■24時間以内に死亡した患者の状況を確認せずに、その病気で亡くなった否か、どうやって判断するのだろうか?
■医師法第20条から、最終診察後24時間以上経過した場合でも、改めて診察を行い、生前に診療していた傷病に関連する死亡であると判定できる場合には、死亡診断書を交付することができる、とどうすれば読み取れるのか?
■昭和24年に解釈を示したとされる。そのごも過った解釈がなされてきたのに、何で平成24年に至る迄放置していたのか。
■死体の観察も診察と言って良いのだろうか?

 24時間以内に死亡した患者が死亡した旨の連絡があった場合、死亡に至る状況を確認し、かつ屍体の状況を確認せずに、その病気で亡くなった否か、主治医はどうやって判断するのだろうか?他の可能性が入り込む余地はいくらでもあり得ることである。私は必ず患者の元を訪れて状況の確認を行ってきた。

 医師法第20条の条文から、最終診察後24時間以上経過した場合でも、「改めて診察を行い、生前に診療していた傷病に関連する死亡であると判定できる場合には、死亡診断書を交付することができる」などとは何処にも書いていない。どうすれば、上記の如く読み取れるのか?日本語としておかしくないか?

 昭和24年に解釈が示されているが、その後も過った運用が成されていたことは明らかなのに、何で平成24年に至る迄、63年間も放置していたのか。

 屍体の状況確認も「診察」と言って良いのか?私は違和感を覚える。1978年発刊の吉利和の内科診断学テキストに「診察の定義」がある。それには、診察は患者の情報把握の為に重要な医療行為であり、健康保険点数の算定対象とある。
 医療行為とみなされるためには、以下の要件が必要としている。
■治療を目的としている
■承認された方法で行われている
■患者本人の承諾がある
但し、上記条件を満たさない例外的医療行為として、以下のようなものを挙げている。
■輸血用血液の採血
■実験的治療行為
■先端医療
■幼児、精神障害者、意識不明者など患者本人の承諾がとれないとき
■緊急時の医療
 屍体の状況確認はすべて検案というべきでないのだろうか。

 今回の通達は在宅医療、老健施設等における死亡とその診断書の発行について、一部に誤った解釈がなされてきた。問題点の整理に役立つと思われる。私も長い間誤解してきた。勉強不足であった。


11/8(木)曇り 入院5日目 
2:00起床。入浴ご医局に。文献・新聞チェック。徒然ほか。三食摂取状態良好。午前中医局にて次週入院の患者のオーダー処理、午後もしばらく医局で過ごす。点滴療法本日までで終了。読書三昧。明日検査後判断であるが明日退院予定となる。20:30就寝。


警察、検察、裁判官は何故業務上過失が問われない?(9)冤罪をつくる日本の検察

 東京電力の社員が殺害された事件で12年前に東京地裁は現場に第三者がいた可能性があり無罪判決を出していた。しかし、東京高裁は有罪と認め、最高裁もこれを追認した。今回のネパール人のマイナリ氏の再審無罪は裁判所にも、検察にも重大な課題を突きつけた。
 私は結果として冤罪を判断した裁判官に対して何故罪が問われないのか、不思議に思う。

 私は最近のパソコンの遠隔操作による逮捕にも自白強要があったと思う。4人が逮捕され二人は罪を一度は認めたという。やってもいないのになんでこの様な事が起こるのか、どんな取り調べを受けたのだろうか。早く自白すれば罪は軽くなるなどと言われたらしい。検察は4人の被疑者について捜査の誤りを認め謝罪したと言うが、捜査の段階について自ら検証して公表すべきである。それ以上に、この様なとりしらべは結果として偽証だったのだから、検察は偽証罪に当たらないのだろうか。

 最近の冤罪として足利事件もある。
 厚労省の局長が逮捕される事件があった。この場合には検察庁の証拠隠しもあって関係者が逮捕されている。

 人は誰でもいつ犯人に仕立て上げられるのか、私は空恐ろしい気がしてならない。最低限、警察の取り調べの可視化は重要であろう。4人の被疑者の方々には是非とも、取り調べの際に行われた自白強要に関する体験談を公表して欲しいと思う。4人の方々は社会的立場はどうなったのだろうか。心配である。場合によっては損害賠償、社会的地位保全の訴えを起こしてもも良いのではないかと思う。

 私はかつて職質を受けたことがある。と言っても30数年前のことである。
 向浜の遊園地で子供を遊ばせていて、車で本を読んでいた時のことである。私の車を二台の覆面パトカーで挟み、人相の悪い人物が警察手帳をみせて免許証提示を求められ、ついで、10日前のアリバイについて質問された。 結果として誤認であったことが無線で問い合わせていたスタッフから伝わったのであろう、私は無事解放された。失礼しましたの一言もあったか否か忘れたが、刑事のすごい迫力に圧倒された。10日前のアリバイなどそう簡単に分かるわけはない。私は取り調べのために秋田警察署に同行を求められるのではないかと恐怖感をいだいた。こんな刑事達に毎日取り調べされたら、とおもうと耐え難い。

 米国では拘留4日目の以降のとり調べは別扱いになるを言う。実際には事情はよく分からないが、日本の取り調べは密室で連日行われ、弁護士の同席も許されていない。実際には疲労のために、根負けしてやっていないことまで認めてしまう事もあるという。
 調書にサインした場合には、裁判を通じてそれを覆すことは至難の事だという。


11/7(水) 曇り雨 入院4日目 
2:00起床、5:00まで医局で過ごす。新聞・文献など、本読みなど。キーボードのミスタッチが増えた。後遺症なのか。食事などはスムーズにとれている。発語は殆ど支障ないレベルか。レントゲン撮影など。午後も医局で過ごす。今回も十分本読みが出来た。2回目の点滴。20:20就寝。

田中文科相、 一夜にして方針転換
 田中文科相は、またまた、一夜にして方針転換し3大学を認可する方針にした。輿石氏の説得や首相や藤村氏の説得もあったとされる。
 今回の問題による混乱の傷は深い。田中文科相は持論を曲げていない、と言うか、たいした考えもないのに意地の張り合いのれべるの論戦を展開している。3大学にとってはいい宣伝になったでしょうととんでもないことを会見で述べたらしい。あきれた話しである。

 自民党は田中氏の罷免を求めるとともに、野田首相の任命責任も追及する方針という。こんな閣僚がいるからまだまだ政治的混乱がつづいていく。


オバマ氏当選
 米大統領選で民主党のオバマ氏が再選された。何ともすごい大接戦となった。あの4年前のオバマフィーバーからみると信じ難い選挙戦が展開された。それだけ米国の経済が落ち込んでいると言う事だろう。ロムニー氏の追い上げはオバマ政権に大きな影響をもたらすだろう。

 米国経済はまだまだ余力はあるとはいえ、実際には市場経済の限界なのではないかと思う。

 オバマ氏が苦戦した最大の原因は経済の低迷であった。失業率は8%を超え、就任時に約10兆ドルだった財政赤字の累積は約16兆ドルに増えた。選挙の直前になって、失業率は2カ月続けて7%台に下がり、9月の住宅着工件数も4年2カ月ぶりの高い水準だった。回復の軌道に乗りつつある、との見方が強く、これもオバマ氏の票を押し上げたが、米国では来年初め、政府の支出が大きく減らされ、ほぼ同時に増税される大変な事態を迎える。これは国内総生産(GDP)を5%も近く押し下げるとされ、世界経済に与える影響も大きい。その難関をどう乗り切るかも問われるところである。

 財政的な制約もあり、米国が外交・安全保障でどういう役割を果たすのかも問われている。
 イラン核問題も緊迫している。アジア太平洋重視を打ち出しているオバマ政権にとって、新体制の中国とどう向き合うかも問われる。大国化した中国が周辺国と摩擦を起こす場面が増え、米国は警戒を強めている。

 尖閣諸島をめぐって中国との緊張が続くわが国も、オバマ政権の対中政策を見極わめる必要がある。多分、わが国にも厳しい要求がつきつけられる事も考えられる。


11/6(火)曇り・雨 入院三日目
1:30起床,持参の新聞整理。本読みなど。三食はスムーズに摂取可能。言語の発生はかなり改善。本日よりタビガドラン内服、ヘパリン療法今晩22:00まで。以降点滴療法は一日二回のみ。22:00過ぎに風呂に入る、後医局にて若干過ごす。3時半就寝。

あきれた田中大臣 大学新設不認可問題 
 田中真紀子文部科学相は秋田公立美術大学など3大学の新設を不認可した。それが急展開をみせ、新しい認可基準を設け、この基準に照らして3大学を再審査する意向を明らかにした。

 バカによるバカな話しである。
 取って付けたような、文科相のメンツを立てただけの無駄なプロセスがまた行われようとしている。

 文科相は潔く過ちを認め、不認可の決定を即時撤回するべきである。その潔ぎよさが唯一罷免を防ぐ道であろう。

 私は野田首相、藤村官房長官にあらかじめその意志を伝え、許可を取ったと言うが、呆れる対応である。両者のコメントには殆ど深く配慮した様には見えず丸投げである。さらに、他の閣僚も容認する意見だという。これは、閣僚そろって無責任体制、辻褄合わせでしかない。

 3大学の認可基準には全く来春の開学は、問題はなかったという。
 新たに設けられる検討会議が定める新基準で再審査するという。そんなことをする余地はない。新基準は1カ月程度で設定、年内には再審査を終える見込みというが、急増の新基準などは何ら解決の糸口にはならない。
 後付けであわててルールを作って、それに合わなければ駄目などという考え方はありえない。法的には認可の権限は大臣に属するが、不認可が過去30年間ないかったという。文科省もつじつまあわせで口を揃える。いい加減なものである。

 「大学が多すぎるから」などと理由は実に乱暴である。大学教育の問題点の見直しは必要であろうがそれとこれは別問題である。秋田公立美術工芸短大の新入生の募集や、新規採用が内定していた教員の処遇をどうするかなど、もう後戻りは出来ない。

 田中氏は「教育の質を向上させたいというのが私の真意」とあらためて強調した。そんなコメントすらむなしくきこえる。大学教育に関して語る資格があるのだろうか。
 田中真紀子氏は、小泉首相時代に外務大臣として官僚と衝突を繰り返して更迭された過去がるが、私はそれを問うてはならないと思う。ピュアに文科相としての資質を問えばいい。文科相としての見識があるかいなかだけである。多分、だめだろう。

 野田首相の任命責任もまた問題となる。


11/2(金)風雨 大曲中通病院外来 
1:20起床。文献、新聞チェック、徒然。6:45車病院着、回診他。患者家族面談1件、8:01こまち。強風にて不通かと思ったが数分遅れで到着。8:45-15:00大曲中通病院外来。3週間ぶり。17:10帰宅、居間の整理、冬支度他。19:00夕食、20:00就寝。

医師法第20条の解釈の通知(2)厚労省「条文ただし書」の新解釈
 平成24年8月31日厚生労働省医政局医事課長から各都道府県医務主管部(局)長あてに「医師法第20条ただし書の適切な運用について(通知)」という文書が配布された。

 内容は抄述すると以下の如くである。

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 第20条ただし書の解釈については、「医師法 第20条但書に関する件」(昭和24年4月14日付け医発第385号でお示ししていますが、近年、在宅等において医療を受ける患者が増えている一方で、医師の診察を受けてから24時間を超えて死亡した場合に、「当該医師が死亡診断書を書くことはできない」又は「警察に届け出なければならない」という誤った解釈により、在宅等での看取りが適切に行われていないケースが生じているとの指摘があります。こうした状況を踏まえ、医師法第20条ただし書の解釈等について、改めて下記のとおり周知することとしました。
                  記
(1)「医師法第20条ただし書」は、診療中の患者が診察後24時間以内に当該診療に関連した傷病で死亡した場合には、改めて診察をすることなく死亡診断書を交付し得ることを認めるものである。生前の診察後24時間を経過した場合でも、死亡後改めて診察を行い、生前に診療していた傷病に関連する死亡であると判定できる場合には、死亡診断書を交付することができる。

(2)診療中の患者が死亡した後、改めて診察し、生前に診療していた傷病に関連する死亡であると判定できない場合には、死体の検案を行う。死体に異状があると認められる場合には、警察署へ届け出なければならない。
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 要するに、最後の診察から24時間以上経っていても、「診察」して異常がなかった場合には死亡診断書が書ける、と言うものである。確かに、昭和24年4月14日付け医発第385号は「死亡診断書は、診療中の患者が死亡した場合に交付されるものであるから、苟しくもその者が診療中の患者であった場合は、死亡の際に立ち会っていなかった場合でもこれを交付することができる。但し、この場合においては法第二十条の本文の規定により、原則として死亡後改めて診察をしなければならない。」

この項は今迄の解釈とは大きく異なっている。

 ここで改めて三つの疑問が生じる。


11/1(木)曇り・降雨 外来 早退し荷物搬入の指示
 1:40起床,新聞・文献チェックほか。6:50車病院.回診、書類処理、8:45-13:00外来。早退、マック関連書籍読む。午睡若干、19:30新潟名物たれかつ夕食、21:00就寝。

HP「これからの医療の在り方--徒然日記」 おかげさまで満11年 
 当ホームページ、「これからの医療の在り方----徒然日記」は、昨日で開設後満11年を迎えました。本日は12年目のスタートです。見て下さった方々,コメントを下さった方々に心から感謝致します。なお、匿名の方からの御意見は参考にさせて戴いていますが、原則として返事をしないことにしています。ご了承下さい。

 今まで通り続けるつもりです。今後ともよろしくお願いします。

 この11年間、よくまあここまで続いたものだ、悦に浸っている。本日まで自分の気力が何とか維持されていると言うバロメーターでもある。
 昨年5月末日に退職し今は嘱託医として週5日間働いている。最近は第一線から離れたために医療・福祉関係の話題が減ってきている。今となっては相応しい表題と言えなくなってきていて焦りを感じている。時折、ちょっと距離を置いた立場から医療面についても考えたいと思う。

 月並みな日々、記録をつけていないと全て忘れてしまう。良い人生だと思って満足しているが、忘れてしまえばほぼ無になってしまう。検索にて何月何日に私が何をしていたか、何を考えていたかを知ることが出来る。貴重なデータであると共に生きてきた証しでもある。

 今日は例年もより感慨深く迎えた気がする。自転車で激しく転んだが、幸い無傷であった。転倒時の体制が悪ければ、路上に突起物でもあったらただ事では済まなかったと思う。その後発症した腸閉塞も外科チームのおかげで思いがけず軽く経過し済んだ。この幸運を無駄にせぬよう、発想の転換しながら残りの時間を大切にしたいと思う。

 この「徒然日記」は今後も自身の記録のために、自己満足のために続けて行く積もりです。
 今後ともよろしくお願い致します。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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