徒然日記
2012年10月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記


10/31(水)曇り・雨 外来 
1:40 起床,文献チェックほかいつものごとし。7:00自転車若干遠回りで病院着.回診他。8:45-13:45外来,途中で入院患者家族面談。16:35若干遠回り帰宅。帰宅後廃棄新聞・雑誌等梱包ほか。19:30夕食、20:00就寝。

医師法第20条の解釈の通知(1) 有り難いが、今更何だ?!!!が実感 
われわれ医師は求めに応じて診断書交付を求められるが、死亡診断書に関しては医師法第20条に従って記載している。しかし、法の解釈に変遷があり、悩まされている。

 以下は医師法第20条の条文のうち死亡診断書、死体検案書発行に関する部分である。
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 医師法第20条:医師は、自ら診察しないで治療をし、若しくは診断書若しくは処方せんを交付し、又は自ら検案をしないで検案書を交付してはならない。但し、診療中の患者が受診後24時間以内に死亡した場合に交付する死亡診断書については、この限りでない。
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 上記条文において、前半部分で医師は診察せずに治療、診断書や処方せんを交付してはならないし,自ら検案をしないで検案書を交付してはならない、と厳しく戒めている。一方、後半においては、診療中の患者が受診後24時間以内に、診療中の病気で死亡した場合に限って「診察なしで診断書を発行できる」と例外規定を示している。

 この条文は長い間、受診後24時間以上経った死亡患者には死亡診断書でなく、死体検案書になる、と解釈されてきたし、私もそれに従って来た。ただ、私の場合、多くの看取りは病院内で行われて、外来患者が自宅で死亡したとか、入院患者が退院あるいは一時帰宅中に死亡したという頻度は40年の経験の中で僅か10数例と多くない。実際には、自宅で急変すると救急車で搬送されてくるからである。例外的に自宅で亡くなった場合には、患者の元を訪れて状況の確認や外表面の異常の有無の確認をしてきた。

 受診後24時間以内の死亡であっても、診療中の病気で死亡したか否かは状況を確認しないと分からない。

 だから、 医師法第20条はもともと変な条文である。

 今夏、厚労省から診療中の患者が受診後24時間以降に死亡した場合にも死亡診断書を交付できるとした解釈が示された。驚いたが、「今更何だ?!!!」が実感である。


10/30(火)晴 外来 職場復帰
1:40 起床,文献チェックほかいつものごとし。コイ・ハトにエサ。6:50自転車病院着.回診他、必要部所に職場復帰のFax送付。8:45-13:00外来、2週間ぶり。 16:10最短距離で帰宅。筋力・体力の低下を自覚。午睡若干、文献整理他、19:30夕食、20:30就寝。

野田首相(8)混迷政治 国会議員は職務怠慢でないか
 民主、自民双方の新執行部の発足後も党利党略の駆け引きに明け暮れ、1ヶ月近くも臨時国会の開催も出来ないような、あきれた状況が展開されてきた。とてもまともな政治と言えない。国民生活に直結する法案が目白押しだというのに、また、野党の自民総裁に首相経験がある安倍氏が就いたことで良識ある対応が期待されたが、前総裁と変わらず「解散・総選挙」の連呼である。

 10月29日、やっと臨時国会が召集され、衆院本会議で首相の所信表明演説が行われた。所信の総論的な部分では「明日への安心、明日への責任」、と20回近くも連発し、「一体改革のための消費税増税は大きな成果」と自賛し、更に「赤字国債法案を駆け引きに使わないで欲しい」と訴えた。崖っぷちにいる首相の苦しさが伝わってくる内容であった、

 赤字国債発行法案の重要性は与野党にかかわらずその重要性は分かっているはずだ。この法案が通らなければ当面は予備費を切り崩すしかない。これは国の運営にとって危険でもある。
 現に地方交付金や大学の助成金などは交付が遅れ、減額されている。財政基盤が弱い自治体は資金繰りに困惑し、ある大学は金策に奔走しているという。こんな状況を迎えているのに、今後も駆け引きの材料とするなら野党の責任が問われよう。
 
 一方、参議院は首相の所信表明演説を拒否し、代表質問も行わないという例のない事態に陥っている。参院は先の通常国会で首相の問責決議を可決した。過半数を占める自民党など野党からの要求という。自民党としては、野党が多数を握る参院で政権を揺さぶり、衆院の早期解散を迫るのがねらいだろう。
 問責決議を可決した事の意義は小さくない。しかし、問責決議には野田首相の職務を制限する権限など無いはずである。どんな問題があろうとも、問責を決議したと言っても、現状では野田政権が政治を担ってことには変わりない。問責決議を理由に法案審議を拒んだりすれば政治の混迷は深まるばかりである。
 
 国会議員の職務は法案の審議であり、「Law maker」とも称されている。審議すべき法案をそっちのけにして党利党略に動くのは職務怠慢、職場放棄である。議員の職責はこれで果たしていると言えるのだろうか。こんなことで報酬が貰える議員って何なんだ。野党側は審議に応じ、論戦を通じて主張を展開すべきである。

 今回の臨時国会には、予算執行に不可欠な赤字国債発行法案や、衆院の一票の格差是正の「0増5減」法案などが上梓されており、これらの処理は喫緊の課題である。 また、領土外交のあり方も、政権が9月にまとめた「2030年代に原発ゼロ」の方針についても、まだ一度も国会で論議されていない。野党側が厳しく追及できる議案に事欠かない。

 民主党では昨日2名が離党した。あと6人離党すれば民主は単独過半数割れとなる。民主党の惨状は目を覆うばかりで、解散総選挙となると再び自民党が政権奪還する可能性があるが、安倍総裁は次の政権の担当を前提に日本をどうするのか語って欲しい。そうでなければ前回と同様、与党の自滅による政権交代になってしまう。


10/29(月)曇り・晴れ 自宅療養最終日
1:30起床、文献新聞他チェック。この時間からだと余裕あり。本日からの復帰を期待するも了解を得るのに時間がかかり明日からとなった。自宅療養最終日となる。午前から夕方まで、本読み、文献読み等に集中。19:30夕食。20:45就寝。

腸閉塞体験日記(9)入院雑感(3)自宅療養期間を短縮する
 入院後、特に術後は体調良好で、豊かな時間をもてた
 術後は翌日から若干の倦怠感はあるものの疼痛もなく、退院したいほど体調は良好であったが、主治医は術後10日間ほどは入院の継続の要があるという。ならば時間を有効に用いるしかない。今回は、読書、DVDで映画、文献新聞のPDF化、蓄積した新聞等の電子データの整理、録音データの整理等に当てることとした。術後3日後からは早朝医局で過ごしたので、書類処理等の業務も処理できた。
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(1)書籍、
■池上 彰ー日本語の大疑問、■昭和10年以降の近代日本の歴史関連書籍数冊、■日中・日韓関連の歴史、領土問題関連書籍、■太平洋戦争関連 武器兵器編 戦略編 真珠湾以降の激闘の記録など、■團 伊玖磨著 パイプのけむり 4巻、5巻 ■死刑絶対肯定論 ■詩集 病者・花 ■在宅ホスピス物語
(2)専門誌関連、
■日本医事新報4615-17号、■西村書店 カラー版内科学の総論部分 ■Infectin Front2冊
(3)DVDによる映画
■剣岳 ■硫黄島からの手紙 ■父親たちの星条旗 ■男達の大和 ■雨に唄えば ■サウンドオブミュージック
(4)その他
■ラジヲ深夜便『こころの時代」 2007年2ヶ月分 ■NHK落語選集 ■ブルックナー交響曲6−9番
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 振り返ってみれば、随分一気に読み、観て、聴いたものである。今迄、これ程集中して読・視聴出来たことは無かった。それだけ症状がなく元気だったという事。貴重な時間を得たと言う喜びが大きかったが、それだけに私の代診をしている同僚医師に申し訳ないという気持ちも大きかった。
 昨日28日には近隣の飯川病院の日直を行った。他院の仕事をこなしていながら本業を休み続けることは出来ない。主治医から29日から出勤の了解は得たが時間的に中途半端になったために翌30日から復帰することになった。
 家族を始め多くの方々にご心配ご迷惑をかけたと思う。上記の如く明日から復帰するので腸閉塞体験日記は本日で終了とする。お世話戴いた方々に心から感謝申し上げます。


10/28(日)風雨  自宅療養五日目  飯川病院日直   
2:00起床。新聞チェック。資料、種々こなすが、寝不足感あり5:00頃から微酔1時間。8:00車飯川病院着。日直、18:00帰宅。夕食、20:30就寝。

コレクション(2)私は書籍、文献、新聞のPDFデータ、ラジオ深夜便のMP3データを蓄積している
 私は物品を集め、眺めて愉しむ趣味は無い。だから、コレクションと言えるものはない。あえて挙げれば以下の如くである。

 ■材木、木片、木箱などを集めておくことで、自分の領域に整理はしているが、それでも邪魔になるらしく家族のひんしゅくを買っている。私は比較的木工細工が好きなので適宜取り出して使っている。家族にとっては無価値である。私の活力に応じて適宜処分予定。
 
 ■30年ほど前まで平均して月に10枚程度レコードを購入していた。集めることが目的ではなく聴くためであった。かなり減らしたがまだ2.000枚程度はあるだろうか。一部は今も時々取り出して聴いている。多くは死蔵になっているからコレクションと言えるかも知れない。いわゆる掘り出し物や希少のレコードはない。私にとっては大事だが、家族は興味すら示さない。 適宜処分したいが、何とすればいいのか。材木と合わせ、いずれ御所野の処分場へ運ぶことになるか?


 私が比較的こだわっているのは、書籍の自炊データ、文献、新聞のPDFデータ、ラジオ深夜便のMP3データ、それに自分のHPの蓄積である。これらは大容量のハードディスクにまとめてあるほか、分野別にも独立したディスクに保存して大事に扱っている。

 ■書籍の自炊は2年ほど前から始めた。人手も借りているが、まだ千冊分ほどしか進んでおらず、まだまだ書棚に本が一杯である。現状ではパソコンで読んでいるが、いつでも何処ででも検索して読めるからとても便利である。これらのデータは近い将来タブレットで読めるようにしたいと思っている。

 ■文献・書類・新聞スクラップのPDFデータは2000年以降分をとってある。それ以前のはソフトの関係で読めなくなって廃棄した。ほぼ連日コツコツと作業をしている。検索をかけると10余年分のデータが数十秒で経時的に並ぶのは壮観である。

 ■2004年ほどからラジヲ深夜便「心の時代」「明日へのことば」ほかを聴きながらMP3で録音している。これらにはインデックスを付けているから気に言った内容のは適宜呼び出してiPodで聴き直している。

 ■2001年秋から徒然日記を継続している。検索にて何月何日に私が何をしていたか、何を考えていたかを知ることが出来る。我田引水であるが貴重なデータである。

 これらのデータは毎日時間をかけてコツコツと蓄積し、分類してきた。私にとっては宝物あるが、家族は興味も示さない。 毎日活用しているからコレクションとは言えない。一番気軽なのは、その気になれば誰にも迷惑かけずに一瞬に処分できるから気が楽である。


10/ 27(土)快晴・風強し 自宅療養四日目
2:00起床、新聞・文献、徒然、その他、ゆったりと。前輪パンク修理、風除室、庭灯の電線が劣化しており、交換、修理。午睡、戦前の近代日本史中心に本読み他。19:30夕食、20:15就寝。

コレクション(1)傍からは理解しがたい個人の蒐集趣味
 医師会関連の出版物や製薬会社とかがつくる医療関係の小冊子には気楽に読めるコラムがあって、医師達のいろいろな趣味が紹介されている。

 時にはいろんな物品の蒐集を趣味にしている方もいる。
 人には大なり小なり蒐集癖があるらしい。動物にもエサを集め保存しておこうとする本能がある。精神病学では身近な物を捨てられず溜め込んでしまう症状を「蒐集症」と言い、強迫神経症的背景を持つ患者、認知症や統合失調症の患者に見られるとされている。

 中には芸術品などの高価なものを蒐集している方もおられるようであるが、多くは本人以外は見向きもしないようなガラクタが対象となっているから面白い。切手、玩具、ミニチュアカー、洋酒のミニテュアボトルなどなど人それぞれで、紹介する本人は実に楽しげである。しかも、本人があえて価値を封印して集めている。切手は使うことはないだろうし、ミニテュア・ポトルの酒は飲まれることは無かろう。ミニテュアカーも遊ばないだろう。この辺のところは私には理解出来ないところである。

 歴史家のクシシトフ・ポミアンは、コレクションは3つの条件を挙げている(Wikipedia)。
●コレクション品が一時的あるいは永久に、営利活動の外に保たれている。
●コレクション品が特別な庇護のもとに置かれている。
●コレクションが視線にさらされている。

 上記は公的なあるいは大規模なコレクションの条件であろうが、文化的に価値の高いものを個人的に所有して密かに愉しむのは勿体ない。私は個人の蒐集趣味の条件として以下の2点を加えればいいと思う。
■往々にして家族とか身近な人のひんしゅくを買っている。
■本人にとっては宝物、他人にとってはゴミ同然でしかない。

 集められるものは有形のものに限らず、知識や言い伝え、なども蒐集の対象となるらしいが、医師がそのような趣味を紹介した記事に接したことはない。


10/26(金)快晴・風強し 自宅療養三日目   
 2:00 起床、新聞チェック他。近代日本の歴史勉強、ゴミ出し他。8:05軽朝食、 新聞チェック。近代日本の歴史勉強続ける。14:00庭掃除後にポタ兼ねて県立博物館目指すも前輪パンクで戻る。17回目。自動精米機脇から米糠大量に貰いコイ用のエサ作り。15:30鯉にエサ与えて買い物若干し帰宅。医療関連文献など。夕食、20:00就寝。

映画(57)『フクシマ2011」被曝に晒された人々の記録
  

原発の爆発シーン。
爆発シーンは初めて見たが、キノコ雲様に見える。

 10月25日19:00から秋田市文化会館小ホールにて映画「『フクシマ2011』被曝に晒 された人々の記録」を観た。
 私はフクシマ原発事故について新聞を中心にずっと追っているが、記事や解説も断片的であり、読んでいる分には理解できるが全体像はよく理解できていない。そんな中で、原発事故後のフクシマの現状を知る良い機会と、観に行った。

 主催は映画『フクシマ2011」を上映する会。入院中に新聞で上映を知って、可能であればこの日までには退院したいと考えていた。実際にはその二日前に退院出来た。観客は100人ほどだったろうか。

 監督は稻塚秀孝氏で、広島・長崎で二重に被曝した被災者を追った「二重被曝〜語り部・山口彊の遺言」を監督した方。ナレーションに仲代達矢氏、慰問に訪問した加藤登紀子氏も登場している。
 2011年3月11日、マグニチュード9.0の巨大地震が東北地方を襲い、その後大津波が発生。死者と行方不明者合わせて約2万人という大災害となった。その大惨事だけに終わらず、福島第一原子力発電所の炉心融解、爆発事故まで起きてしまい、莫大な量の放射能と放射性物質が飛散した。あれから1.5年、状況は何ら改善に向かっていない。

 映画は3月11日、地震がどんなふうだったか、津波がどうだったかのインタビューから始まる。南相馬市と飯舘村を中心に福島第一原発の事故によって傷つけられた人々を多数登場させ、今の自分たちの状況や考えをそれぞれ口にさせることで被災者の心と生活を描いた。

 飯舘村は美しい農村である。住宅も総じて立派である。恐らく、豊かな村だったのであろう。飯舘村は海に面していないのに、見えない放射線のために誰もいない場所になってしまった。今も一時的に入村することはできるけど住むことは許されず、全村避難となっている。「死の山村」である。
 南相馬市は人口の3分の1弱が避難で去り、家族や地域の絆が断ち切られてゆく。そんな中、残った住民はこの町で暮らすことを選び、放射能汚染に向き合いながら、町の再生・復興に挑み続ける。ここに登場するのは、子を思う母親や農業を営む男性、スナックのママ、保育園の副園長などごく普通の人たちばかり。被曝の危険に晒されながらも必死に明るく生きようとする住民たちのリアルな声に、表情に言葉を失う。

 ただ、大部分を地元の被災者等のインタビュー,活動状況を通じて生の声と映像で伝える手法で進めていたので、時間ばかり食って私には物足りなかった。副題に「被曝に晒された人々の記録」とあり、この視点でまとめられているからやむを得ないだろう。この方法も数多くの中の一つであろうが、私は別な視点からの切り込みを期待していた。だから、見終わったとき些か不満であった。

 もう少し問題点を濃縮し、情報として国民に広く発信していく手法もありだな、と感じられた。『フクシマ2011』に関してはもっと多くの視点からまとめられる必要がある。


10/25(木)終日降雨 自宅療養二日目 映画『フクシマ2011」
2:00起床。新聞チェックその他、日本医事新報等。8:00軽朝食。近代歴史中心に読書。12:00微睡、近代日本の歴史、他読む。17:30パークH外食、19:00市文化会館で映画『フクシマ2011」観る、21:00帰宅、就寝。

腸閉塞体験日記(8)入院雑感(2)接遇・名前確認など

■看護師達の接遇 余りにも丁寧すぎて気恥ずかしい

 今回は約5年ぶりの入院であったが、看護師の接遇に関しては随分改善されていた。尤も、前回も今回も入院したのは時折私も患者を受け持つことのある内科病棟なので業務を通じてスタッフとは知り合いである。
 それが、そうとも思えないほど丁寧な言葉遣いと笑顔で接してくるものだから、他人行儀を感じて気恥ずかしくなった。日常の業務上のやりとりの中で私はこんなにも丁寧に扱われたことは無かった。マア、それは当然である。私の回診は早朝なので会うのは疲れ切った深夜勤務の看護師である。挨拶はするが、多くは無言である。

 医療関係者の患者接遇に対する患者や社会の目は厳しい。マニュアルに沿って繰り返し訓練され、それなりに底上げされたのだろう。業務を通じて個々の看護師にいだいていた印象とは異なった看護師が日替わりで担当になった。
 ただ、私のこの印象は一般的でないだろう。恐らく、患者の多くは看護師達の接遇に満足しているのではないだろうか。
 問題はマニュアルにない状況を迎えた時、例えば、対応が難しい患者や家族に対してどのように対応できるのかである。

■安全確認のための名前確認がしょっちゅうで煩わしい

 1999年、20数名のスタッフが関与していながら誰一人として患者取り違えに気付かず、肺と心臓の手術が開始され、切開後に間違いに気付いた信じ難い事件が発生した。患者取り違えは確実な確認作業で100%防げただけに、この事件以降マスコミの扇動もあって医療関係者に対する社会の目は一気に厳しくなった。

 患者確認は医療安全の要である。いろいろな方法があるが、各検査や処置毎に名前を確認するのも一方法である。私は手術が予定されていた患者だったから名前を記載したリストバンドを着けていた。これは切断しなければ外すことも出来ない。バンドに操作することは自身が被害者になるだけにそんな患者はいないだろう。
 
 私は点滴交換、採血等の度に名前を名乗らせられるのが辛く、途中から返事の代わりにリストバンドを示したが、看護師は不満気で、それでも名を名乗らせられた。よく知っているスタッフも同様である。聞くとマニュアルでそうなっているから、と言う。術後バンドを外しても良いと言われたが、自宅に戻ってから切断した。

■室内灯、空調等のスイッチが何故入り口にあるのか?

 今回は入院経過を通して私は元気だった。手術翌日も動くことも自由に出来たから家族の援助は不要であったが、それだけ自分で動かなければならなかった。照明、空調のスイッチは何で手元になく、入り口のドア付近にあるのだろうか。私は照明、空調とも殆ど使うことはなく余り困らなかったが、動けない患者は何とするのだろうか。部屋の主役は誰なのかなァ。


■備品の清掃等は臥位の患者の視線で確かめよう

 天井、天井付近の壁の汚れは何でついたのか?サイドテーブルの裏は?・・など気にならないと言えばウソになる。スタッフはたまには臥位で低い目線で周りを見渡してみることも必要である。
 これは汚れのことだけの問題ではない。患者の立場になって見る、聞くことで、通常気付かないことに気付くことも少なくないだろう。


10/24(水)曇り晴れ・寒い 自宅療養初日  
1:30起床。いつもの如し。新聞・文献,蓄積した録音データ整理など。8:00軽く朝食。11:00自転車でハトにエサ後通町書店,うどん昼食。14:30庭掃除、ガレージ整頓など若。文献整理。19:00夕食、20:00就寝。


腸閉塞体験日記(7)入院雑感(1)
 ついに本日午後退院した。診断書上の予定退院日は25日であったが、経過が良いこともあって繰り上げ退院である。

■発症から退院までのミニ総括
 受診前の1日半こそ上腹部の通過障害に由来する症状があったが、入院後から手術までの2日間は経鼻胃管による減圧が奏功し症状は殆ど消失、入院3日目に全身麻酔下で腹腔鏡による腸閉塞修復手術を受けた。

 麻酔から覚醒した後も全く疼痛もなく、術後4日目から流動食から始まり、一日ごとに三分、五分、七分粥、全粥と徐々に食事内容が固形化してたが、腹部症状全くなし。
 術後4日目ほどから自分としては体力気力共に退院可能状態と感じたが、腸管の浮腫とかの改善のためにも一定の時間が必要、と言うことなのだろう。主治医グループは食事による合併症の発症について慎重に経過観察している、と理解しじっと時期を待った。
 経過が良かったためか処置も検査も無く、主治医グループとの対話数分、看護師チェック数分、三食摂るのに10分ほどだけだったから、時間を有効に用いることが出来た。
 入院10日、術後8日目で朝全粥、昼から普通食となり、許可を得て退院した。
 関係された全スタッフに感謝である。

■ダブルの「不幸中の幸い」で済んだ幸せ
 詳細は不明であるが、先天性と思われる腹膜の欠損?による小穴に小腸の一部が嵌頓したための腸閉塞だったらしい。病変部の小腸に浮腫はあったものの血流障害等による強い障害は無かったらしく、腹腔鏡下で修復出来たと言うことで、全経過とても幸運であった。

 私は10月中旬、自転車で交差点を右折するために走行中に不注意で自転車の高校生と接触した。スピードが出ていたのですぐには転倒せず、右に大きくカーブしながら90度曲がったところで車道と歩道間のブロックに前輪を引っかけ、はずみで外側の歩道に投げ出された。左半身中心に全身を強打したが頭部や手足は何ともなかった。その際、かなりの衝撃だったから、かなり強い腹圧が一瞬かかった、と思われる。

 このことと腸閉塞発症との因果関係は多分あるのではないか?と今にして思う。転倒時、よく大怪我しなかったものと、思い出す度に冷や汗ものである。
 ダブルの「不幸中の幸い」で済んだ幸せ、をじっくり噛み締めながら退院した。
 いい歳していい気になっていた。これが転倒の遠因である。これからも通勤時を中心に自転車には乗る積もりであるが、背伸びすることなくスピードを控え、慎重に走ることとする。 


10/23(火)終日小雨 入院10日、術後8日目で朝全粥、昼普通食 退院  
 0:30起床、入浴。1:00-5:00医局、新聞チェック文献等いつもの如し。朝全粥、回診時検査に異常なかったとのこと。退院となる。昼は普通食摂取、問題なく14:00退院、数日の自宅療養に入る。10日振り、自宅パソコン周辺を感慨を持って整理した19:00夕食、20:00就眠。

腸閉塞体験日記(6)患者とは何か?(3)「医療関係者の攻撃に耐える人」

 何で患者に「耐え忍ぶ」と言う意味のpatientと言う文字を当てたのか,とても興味深い。当然、「病魔と闘っている辛抱強い人」という意味で用いられたのであろう。

 私は患者が堪え忍ばなければならない相手は病魔だけでない,実は医療機関、医療関係者からの攻撃にも耐えなければならない存在なのだ、と言うことに興味があってかつて調べてみたことがある。
 
 医聖ヒポクラテスは医の倫理について言及しているが、医療の聡明期である紀元前400年頃から患者は「病魔と闘う」だけでなく「医療関係者の攻撃に耐える人」と言うもう一つの側面があったことを読み取ることが出来る。
 よりよい医師患者関係のために、貝原益軒等、多くの著名人が提言しているが、それは医師患者関係には問題が常にあったことの証明でもあるが、提言はあくまでも倫理観の強い一部の医療者側から発せられた諫めであった。

 受療者からまとまった動きが形として見られる様になったのは、1972年に米国病院協会の「患者の権利章典に関する宣言」を嚆矢とする。

 患者の権利がはっきりと語られ始めたのは意外と新しく、まだ半世紀しか経っていない。最も医師患者関係がオープンで良好であったと思われた米国で台頭してきたのは驚きであったが、半ば当然でもあった。当時の日本はまだパターナリズムの時代であって、「患者は一方的に医師に支配されてきた弱者」で声も出せない存在であったからである。

 1981年世界医師会総会は「患者の権利に関するリスボン宣言」を発表した。以下の11項目からなる(表現は改変し短縮した)。
 ■良質の医療を受ける権利、■選択の自由、■自己決定権、■意識喪失患者の権利、■法的無能力者の権利、■患者の意思に反する処置・治療の拒否権、■情報に関する権利、■秘密保持に関する権利、■健康教育を受ける権利、■尊厳性への権利、■宗教的支援を受ける権利。
 これらの項目で、患者側からみて権利が大きく侵害されて来ていたことを示す。
 やはり、患者とは「医療関係者の攻撃に耐える人」でもあったと言うことである。

 この「リスボン宣言」に日本医師会は棄権した。その背景は以下の如くと推論できる。 
 ■まだ日本の医師患者関係はパターナリズムで、日医執行部の頭も固かった、■医師・医療関係者は業務上で多くの権利を有しているが、その自覚が乏しかった、■有資格者・有識者の多くは患者側から発せられる権利・義務という言葉に強いアレルギー感情を有す、■自分たちは奉仕の精神で、自らを犠牲にして医療を行っているのだ、と言う高邁な意識にあった。 
 従って、当時の日本の患者は米国の患者に比し、一層の忍耐を強いられてきた、と言える。現代の日本の患者は随分恵まれていると思う。

 今回の10日間の入院生活で、病院とか医療関係者から何らかの「攻撃」を受けた、と言う感覚は私には一切ない。あえて言えば、求められるちょっと厳しい病院の規則、それに対する同意、ちょっと逸脱した希望を出した際の対応法、苦しい中で読む気にもならない分厚い説明文・・、程度だろうか。

 ただ、私は長くこの病院のスタッフであったから、と言う事情は大きいから一般論とはなり得ない。もし、他の病院に入院していたらどうだったのだろうか。別の受け止め方をしていただろう、と思う。  


10/22(月)曇り 入院9日、術後7日目で七分粥
2:10起床、6:45まで医局で過ごす。7:00七分粥朝食、食後DVDにて映画『男達の大和」を観る。大作である。昼食後若干安静後17:00まで医局で過ごす。18:00家人来訪、夕食、1500Cal/day。DVDにて映画『雨に歌えば」を観る。古きハリウッド喜劇映画。タレントの技能は高度、されど乗れず。20:00就寝。

腸閉塞体験日記(6)患者とは何か?(3)「医療関係者の攻撃に耐える人」
 何で患者に「耐え忍ぶ」と言う意味のpatientと言う文字を当てたのか,とても興味深い。当然、「病魔と闘っている辛抱強い人」という意味で用いられたのであろう。

 私は患者が堪え忍ばなければならない相手は病魔だけでない,実は医療機関、医療関係者からの攻撃にも耐えなければならない存在なのだ、と言うことに興味があってかつて調べてみたことがある。
 
 医聖ヒポクラテスは医の倫理について言及しているが、医療の聡明期である紀元前400年頃から患者は「病魔と闘う」だけでなく「医療関係者の攻撃に耐える人」と言うもう一つの側面があったことを読み取ることが出来る。
 よりよい医師患者関係のために、貝原益軒等、多くの著名人が提言しているが、それは医師患者関係には問題が常にあったことの証明でもあるが、提言はあくまでも倫理観の強い一部の医療者側から発せられた諫めであった。

 受療者からまとまった動きが形として見られる様になったのは、1972年に米国病院協会の「患者の権利章典に関する宣言」を嚆矢とする。

 患者の権利がはっきりと語られ始めたのは意外と新しく、まだ半世紀しか経っていない。最も医師患者関係がオープンで良好であったと思われた米国で台頭してきたのは驚きであったが、半ば当然でもあった。当時の日本はまだパターナリズムの時代であって、「患者は一方的に医師に支配されてきた弱者」で声も出せない存在であったからである。

 1981年世界医師会総会は「患者の権利に関するリスボン宣言」を発表した。以下の11項目からなる(表現は改変し短縮した)。
 ■良質の医療を受ける権利、■選択の自由、■自己決定権、■意識喪失患者の権利、■法的無能力者の権利、■患者の意思に反する処置・治療の拒否権、■情報に関する権利、■秘密保持に関する権利、■健康教育を受ける権利、■尊厳性への権利、■宗教的支援を受ける権利。
 これらの項目で、患者側からみて権利が大きく侵害されて来ていたことを示す。
 やはり、患者とは「医療関係者の攻撃に耐える人」でもあったと言うことである。

 この「リスボン宣言」に日本医師会は棄権した。その背景は以下の如くと推論できる。 
 ■まだ日本の医師患者関係はパターナリズムで、日医執行部の頭も固かった、■医師・医療関係者は業務上で多くの権利を有しているが、その自覚が乏しかった、■有資格者・有識者の多くは患者側から発せられる権利・義務という言葉に強いアレルギー感情を有す、■自分たちは奉仕の精神で、自らを犠牲にして医療を行っているのだ、と言う高邁な意識にあった。 
 従って、当時の日本の患者は米国の患者に比し、一層の忍耐を強いられてきた、と言える。現代の日本の患者は随分恵まれていると思う。

 今回の10日間の入院生活で、病院とか医療関係者から何らかの「攻撃」を受けた、と言う感覚は私には一切ない。あえて言えば、求められるちょっと厳しい病院の規則、それに対する同意、ちょっと逸脱した希望を出した際の対応法、苦しい中で読む気にもならない分厚い説明文・・、程度だろうか。

 ただ、私は長くこの病院のスタッフであったから、と言う事情は大きいから一般論とはなり得ない。もし、他の病院に入院していたらどうだったのだろうか。別の受け止め方をしていただろう、と思う。


10/21(日)雨・嵐、午後快晴 入院8日、術後6日目で五分粥
 2:00起床、2:00-5:006Fの医局で過ごす。外は強風、竜巻注意警報発令。体調は良好なるも倦怠感を伴う。術前後の状態、全麻の関連か。初入浴、朝食から五分粥で1300Cal。10:00-12:00、16:00−18:00医局でスクラップの電子化で過ごす。 午後、一家来訪、離秋した。家内来訪、家内は体調不良と。夕食、20:00就寝するもなかなか寝付かれず。

腸閉塞体験日記(5)患者とは何か?(2)「病魔からの攻撃に耐える人」
 私の手元には簡単な辞書しかないが、国語辞典で「患者」を引いてみれば、一行「(医師から言う語)病人」とあるだけで素っ気ない。和英では、 病人はa sick person、患者はa patientである。

 Collage Crown英和時点で「patient」を引いてみると以下の如くである。
1  しんぼう強い、しんぼう強そうな、がまんできる、根気のよい,勤勉な、持続的な
2  許す  許容する
3 (医者にかかっている)病人,患者 受動者.

 1 、2に関して例文等もあり18行も記述、3についてはたったの1行だけである。語源辞典とか広く引けば由来等が分かるかも知れないがそんな機会は得られないだろうから推論する。1と2は古くから使われ続けてきた日常的言葉であろう。3は近年,医療が発達してきて以降に「(医者にかかっている)病人」の意味で用いられる様になった?と推定出来る。

 何で患者にpatientと言う文字を当てたのか興味深い。当然、「病魔と闘っている辛抱強い人」という意味で当てられたのであろう。そう言う意味では良い文字を当てたものである。

 病魔との関連については東大第一解剖学教授で若くしてガンで逝った細川宏氏(1922−1967)の遺稿集の冒頭を飾る「病者(ペイシェント)ーPatients must be patientー」という長い詩に的確に表現されている。英語部分はこの詩集の編者は「患者は辛抱が肝心」と訳している。日々次々と襲いかかってくる病魔の攻撃、迷い、悩み、疲労困憊する患者,不安の心理が綴られている。

 知ったかぶりして細川氏について紹介したが、今回私の入院を知ったある若き女医さんが、「お暇なら・・」とソッとベッドサイドに置いていった本とDVDの中の一冊である(小川鼎三ほか編 詩集病者・花 小川宏遺稿集 現代社 1977)。私も早速一冊購入した。この種の書籍の購入は私にとって初めてであるが、この巻頭の長編詩「病者」に動かされた。

 患者の悩み,入院患者の心理を綴ったもう一作に遠藤周作氏の「満潮の時刻」も参考になる。この作品はご自信が37歳の時に体験した結核の再発による入院生活を基に書かれたとのことでいろいろ参考になる。途中ではいろいろな考えが頭をよぎり,時には主治医を恨んだりしたが、最後は「多くの人が自分の治療に総力をあげてくれる。感謝に堪えない」と言う心境に達して退院する(新潮文庫 2002)。この作品は作者の死後に出版された作品でそれほど知られていない。しかし、私はもっと読まれてしかるべき作品と思っている。


10/20(土)曇り 入院7日、術後5日目 三分粥 点滴終了 
 0:30起床、1:30-4:30間6Fの医局で過ごす。若干疲れて早めに戻る。やはり体力がかなり減弱しているようだ。7:00朝食。本日から三分粥。これで1000Calとは信じ難い。 11:00自宅に溜まった5日間ほど新聞スクラップ化第二段。医学雑誌抜粋記事のスクラップ化とPDF化。これで溜まった分は処理済み。午後は微睡を交えながら蓄積した録音、文献等のデータ整理、DVD鑑賞中心に過ごす。20:00点滴終了。20:30就寝。

腸閉塞体験日記(4)怪我人、病人とは何か、患者とは何か
 私は10月中旬、自転車で転倒、「怪我人」となった。大きな外傷は無かったがいまでも左胸痛が続いている。
 その数日後に腹部症状をかかえた「病人」となり、受診・入院によって「患者」となった。病気そのものは内ヘルニアによる腸閉塞で腹腔鏡的修復手術にて改善した。幸い経過は良好で今のところ困るような後遺症状はなさそうである。

 入院すると非日常的生活になる。経過が良く自覚症状が乏しいと見・聞・読・観・考に使える時間が豊かになる。それで、徒然なるままに「怪我人」、「病人」、「患者」とは何んなのか、と考えてみた。

 これらの三者は辞書的な意味で言うならば極めて簡単である。
 即ち、 「怪我人」と「病人」は、何かしらの外傷や病気を持っている人のことを指す。傷病者ともいう。傷病者が専門の医療関係者の診断や治療、助言を受ければ「患者」になる。更に受ける医療によって患者の立場は変わってくる。通院や在宅医療は主役はあくまでも患者であるが、入院すれば主役は患者なのか医療機関なのか、医療制度なのか、バランスが微妙に変わって別の意味でも患者になる。受ける医療によって同じ患者でも別な意味の患者になってしまう。

 人は社会的存在である。個々の人は社会的メリットを享受する一方、社会人としての義務を果たす必要がある。わが国では国民皆保険制度、福祉制度が高度に発達しており、社会の仕組みから逃れて存在することは極めて困難である。
 
 だから、傷病者,患者のことは社会的立場からも考える必要がある。
 社会学的立場に医療の分野にが関わってきたのは、社会保障の制度が出来はじめたたかだか1世紀ほど前からとされている。しかし、農耕的文化の中で社会を営んできたわが国においては各々のコミュニティの中における傷病者の立場、それを援助する立場は古い時代からあったと考えられる。

 社会人として、人は社会で享受しているレベルに応じた役割を果たすことが求められる。傷病者は社会的義務が軽減ないしは免除される代わりに、医療関係者の助言等を得て治癒を早める社会的義務を持つ、とされている。医療は、傷病者個人、医者と患者という個人間の関係だけに止まらず、患者は社会的義務と巨大な医療組織との間にサンドイッチ状態の中にはめ込まれる。これによって、患者の立場はきわめて弱くなるのだが、多くは傷病者の直りたいと言う意欲と一致するから余り大きな問題にはならない。


10/19(金)曇り、雨 入院6日、術後4日目 流動食開始 硬膜外テューブ抜去
1:00起床、1:30-4:00まで6Fの医局で過ごす。微睡、7:00流動食開始、何ら障害無く2分で摂取終了。これで1000Calもあるとは信じ難い。下膳したらまだ配膳途中で,余りの早さに驚かれた。 10:00デイルームで自宅から届いた新聞5日間ほどスクラップ化。これでも半分。 午後は新聞のPDF化、DVDにて映画『剣岳」を観、読書等夜までマイペースで過ごした。

なんか変だが,まあいいか(14)「生活保護基準引き下げ」 vs「 生活保護給付額引き下げ」  
最近の新聞記事で門外漢には理解出来ない表現が目につく。その中に私にとって意味が逆に思えてならない記事もある。
 その一つが某誌にあった「 生保給付基準引き下げ」と言う表現である。

 本年5月、お笑いタレントの親族が生活保謹を受けていたとして、メディアで批判にさらされた。十分な収入を得ている人物の親族が生活保護を受けていることの問題点をことさら強調した論調であった。しかし、あの様に社会的にバッシングされるべき問題だったのか、ロクに検証もせずに大騒ぎしたメディアの方がむしろ問題であった。メディアはその責任を「ネット世輪」のせいにして自らの責任を放棄している。しかも、ネット世論が、既存のメディァよりまだまだ未成熟だ、とまで批判した記事も認められる。この問題は「生保の不正受給」として国会でも取り上げられ,国民の間に妙な感情的しこりを残している。

 この事件との関連性は不明だが、厚労省が「生活保護基準額の引き下げ」へむけた検討を本格化させていることが某紙で報じられた。私はこの記事を見て「消費税増税法案が成立したので社会保障の改革がもう始まった」と早合点した。
 「 生保基準引き下げ」と言うタイトルを見て、私は今以上に生活保護が受けやすくする様に判定基準の閾値を引き下げるものだ、と思ってしまった。給付の受付基準を一層厳しくし,給付額も下げようといういままでの国の方向性と逆で、驚いた。
 ところが、この記事を読んでみると内容的には「生活保護を受けるための認定基準の引き下げ」ではなく「給付額の引き下げ」で,現状より厳しくなると言う内容であった。この紙はこの様な改悪には反対という明快な立場を取っているが,この記事に関して言えばタイトルがおかしいと思う。「 生活保護給付額引き下げ」とすべき、と思う。

 「生活保護給付額引き下げ」は、2007年の自公政権時にも話題になったが、民主党も反対して実現しなかった。いま、その民主党の政権によって「生活保護基準引き下げ」ならぬ「 生活保護給付額引き下げ」が論議されている。

 「消費税増税法案」が成立したが社会保障の今後のヴィジョンはまだ一切示されていない。にもかかわらず個別には締め付けの方向で対応が始まっている。これはおかしいのではなかろうか。


10/18(木)曇り、雨 入院5日、術後3日目 酸素吸入中止・尿カテ抜去
1:00起床、体調良好で朝まで 読・聞・観・微睡。回診時、酸素吸入中止・尿カテ抜去となる。だいぶ自由になった。だから、この部屋で過ごすのは辛い。明早朝医局で過ごしたいと希望するも主治医グループ、担当看護師はあくまで慎重、明快な許可無し、否定もされず。20:15就寝。

なんか変だが,まあいいか(13)「無安打無得点試合」vs「無安打無失点試合」
 最近、新聞記事で門外漢には理解出来ない表現が目についた。私にとって意味が逆に思えてならない。その一つが「無安打無得点試合」と言う表現である。

 野球はリーグ戦が終わりクライマックスシリーズに突入している。私はスポーツ欄,特に日本の野球に関しては、よほど見だしが大きくなければ記事を読むことは殆ど無い。現役の野球選手のことは殆ど知らない。監督とチーム名が一致するのは巨人くらいである。イチローやダルビッシュに関する記事があると目を止める。こんな程度である。

 2週間ほど前に,オリックスの21歳の新人西勇輝投手が「無安打無得点試合」を達成したと報じられた。見だしが大きかったから目に停まった。私の理解では、無安打で無得点の試合ということは、なんとか出塁はしたものの得点に結びつかずに完封された、という敗戦チームのことを表現している、と思う。
 それが、記事を読むと西投手を賞賛している内容である。気になって数紙を比較してみたが、全部同じであった。私の疑問が高まった。投手を賞賛するならば、「無安打無失点試合達成」とすべきではなかろうか,と思う。

 疑問だらけであった私は10月10日の魁新聞のコラム「杉」を読んでちょっと溜飲をおろした。その記事は今期を持って引退する小久保選手を讃えた内容で、「・・・ソフトバンクの小久保選手にとって最後のゲームは無安打無得点試合を喫したものの多くのファンに見送られてバットを置いた。」とあったからである。
 要するにノーヒット・ノーラン試合ということだろうが,このまま表現する方がずっと意味が通る。野球用語の中ではこれを無安打無得点試合と表現するよう決められているのだろうか。どなたかご存じならお教え頂きたい。

 西投手の偉業は史上76人目,今期3人目とのこと。一シーズンに3投手が達成したのは17年ぶりなのだそうだ。やはり、「無安打無失点試合達成」である。


10/17(水)曇り雨模様 入院4日、術後2日目 一般個室に 経鼻胃管抜去 
 0:30頃起床、経鼻胃管廃液無し、疼痛全くなし。持参の本読みに集中。11:00 ICUから元の一般個室に。午後経鼻胃管が抜去され、鼻咽頭の刺激痛からやっと解放された。体調は良好で疼痛など殆ど無し。硬膜外麻酔が効いているためであろう。夜にかけてDVDにて映画『硫黄島からの手紙」を観る。地上戦の悲惨さが強調されている。読み・聞き・観・微睡と繰り返しつつ過ごす。

腸閉塞体験日記(3)ヒゲよさらば 手術室入室からICUを出るまで                 

ヒゲよさらば:
 全麻とすれば約一年間伸ばしたヒゲが邪魔になる。気管内挿管のテューブを固定できないからである。剃らなければならない。
 私にとって重要な会であった昨年の10月22日の秋大第三内科同窓会を最後に対外的、対社会的行事には一切参加しない予定でいたので、私は嫌いなひげ剃りの要がなくなった。

 手術当日の朝行きつけであった院内の理髪店に依頼して病室で剃毛した。 1年間の蓄積は10分間で消滅した。当初は剃るのが嫌だっただけで伸ばし始めたのであったが、伸びるにつれてどんどん容貌が変わっていくのが面白かった。カミソリもハサミも一切入れたことがなかったから恰好は最悪であったが、私は楽しんでいた。不思議なのは、くち髭、あご鬚、ほほ髯共にバランス良く伸び、食事などに邪魔にならない様に伸びる方向が決まっており、食事等の邪魔に一切ならない事であった。上手くできているものと感心した。本日以降、再びヒゲを剃ることは無いだろう。

手術室入室からICUを出るまで:
 10月17日15:20車いすにて手術室に入室。前回挿管に手こずったこともあって今回は前投薬は手術室で行われた。これ以降直ぐに意識を失ったから以後のことは全く不明。18;00手術終了の声かけあり、ICU入室。
 主治医グループによる説明は、■内ヘルニア、■内視鏡下腸閉塞解除、■裂孔縫合、■癒着剥離、であったように記憶している。開腹にまで至らずに閉塞が解除されたとのことで安堵した。これで術後はかなり楽に推移するはずである。半ば開腹を覚悟していただけに、主治医グループの技能に改めて感謝した。

 入室後数時間は眠ったようであるが夜半からは覚醒、時間をもてあました。病棟から書籍とラジヲを取り寄せ、読み・聞き・微睡と繰り返しつつ転出を待った。手術直前まで経鼻胃管を通じて続いていた廃液はゼロだったから、通過障害が解除された事が実感された。

 前回もそうであったが、今回も口渇がひどく口を潤す水分が欲しくなった。恐らく、大量の酸素が吸入されているためもあろう。氷のかけらを求めたら応じてもらえた。経鼻胃管が入っているため水分負荷にはならないはずである。転室まで数回もらった。ただ、氷片は頬張るには大きすぎる。小さくなると誤嚥が心配になる。アイスキャンデーの如く棒が付いた氷が欲しいものである。

 静かな一夜であったが満室だったという。 ICUは喧噪なものと思っていただけに驚いた。9:00頃からスタッフの出入りが急に増え、転出・転入準備業務でスタッフ間で大声も飛び交い、一気に喧噪となって私のイメージに一致した。11:00病棟に転出した。


10/16(火)曇り雨模様 入院3日目 腹腔鏡的腸閉塞解除手術 ICU入室
 2:30起床、経鼻胃管挿入後は自覚症状かなり改善。廃液は昨日も2L以上。体調は不良ならず。持参の本読みに集中。9:00院内の理髪店に病床でのひげ剃り依頼。15:00手術は2時間遅れて開始。覚醒後、そのままICU入室。腹痛無し、体調不快ならず、眠くも無し、病棟よりラジオと本を取り寄せてゆっくり過ごした。

ヘルスチャレンジ2012(2)残念!! 病気で頓挫した
 9月1日-10月末日は共済会主催で「ヘルスチャレンジ2012」と称する2ヶ月間の健康増進キャンペーンが行われている。「ヘルスチャレンジ」(ヘ・チャ)は会員の健康増進のために会員が目標を選択し挑戦するもの。 

 私は「ヘ・チャ2012」に「スリム3Kg作戦」と「サイクリング1000Km」の目標を掲げてエントリーした。

 10月13日までは前者は達成困難かと半ば諦めかけていたが、後者の方はほぼ順調に走行距離を蓄積していた。しかし、今回の腸閉塞発症で両者とも以後の努力を放棄した。

 前者についてはエントリー直前の8月下旬の測定で体重が2月に比して既に3Kg減の67.1Kgになっていた。だから更に3Kg減量は無理だろうとは思っていたが、それでもあえて挑戦することとした。しかし、人生って分からないものである。今回、一時的ではあったが、達成してしまった。腹部症状が出てから二日間で摂取したのは150mlほどのミネラルウオーターだけであったから、強度の脱水状態に陥ったためである。救急外来受診前の体重は64.0Kgだった。マア、これは不健康状態で一時的に数字的に目標値に届いたのであってヘ・チャの理念にあわない。10月16日の手術室に入室する直前の体重は脱水が改善し66.5Kgと戻っていた。今回は手術後の健康維持のために達成努力を放棄した。要するに、「スリム3Kg作戦」と言う健康のための努力目標を、健康のために放棄すると言う、皮肉な結果となった。

 他方、「サイクリング1.000Km」の方は10月10日の時点で778.5Kmに達しており、ほぼ順調に距離を蓄積していた。達成のための目標は10月15日時点で750Kmだから、1週間ほど前にこの目標はクリアしていたことになる。今迄のペースを維持していると自然と「サイクリング1.000Km」はクリア出来る予定になっていた。しかし、13日以降は健康状態が自転車で走れる状態になく、体調は改善しつつあると言っても、私の体力・気力共に消耗状態にあるから、退院できたとしても直ぐには自転車に乗れないだろう。だから、目標達成は無理である。

 私にとっての「ヘ・チャ2012」は上記の如く、思いがけない状態で、期限を待たずに終了した。病気になった以上は健康増進よりは健康回復に向かうべし、と言う考えのもとでの積極的離脱である。


10/15(月)晴れ 入院2日目 経鼻胃管減圧・点滴 上部消化管内視鏡検査
1:30起床、経鼻胃管で減圧後は自覚症状はかなり改善。廃液多量。思いがけない経過であったが天が与えてくれた休暇と割り切り、本読み、蓄積データ整理等に集中。10:00上部消化管内視鏡検査、悪性所見無し。明日手術となる。体調は不良ならず。

腸閉塞体験日記(2)入院から手術まで
 10月15日、経鼻胃管挿入後かなり自覚症状は改善した。体動時の経鼻胃管の刺激はかなり強く、鼻・咽頭部は辛いが、やむなし。廃液は入院当日4100ml、尿量250ml。CTにて閉塞付近に不明の腫瘤陰影は否定的であったが胃がんは否定しておく必要がある。午前に上部消化管内視鏡検査を受けた。結果は胆汁性胃炎、噴門部の線状潰瘍のみであった。

 10月16日、自覚症状は殆ど無かったが、血圧は90/50程度と低下し、データ上でも脱水はむしろ悪化した。その後、点滴は尿量を勘案しながら3.5Lから5.5L以上に増やされたようである。入院翌日の廃液は2500mlであったが、尿量は徐々に増えて1500mlであったから脱水状態からは脱し得たようであった。

 明日手術と告げられる。手術は全麻下でまず内視鏡的に腸閉塞の修復を試み、不可あるいは困難であれば開腹手術に移行する、とのことであった。

 手術が決定した時点で主治医は今月一杯は休業すべしとの意向であった。過去のアキレス腱断裂修復手術、膀胱頸部硬化症手術の際には如何に業務を休まないで過ごすかを考えたのであるが、今回はかなり消耗した上に全麻手術になるので、素直に受け入れることとした。 嘱託医と言う立場だし、歳をとって気力も乏しくなった、と言う事だろう。診断書には25日退院、31日まで自宅療養、11月1日から職場復帰可能であると記載されていた。

 通常の外来診療、大曲の外来は内科医師グループで代行して戴くうこととした。問題は10月18日の社会福祉法人連絡協議会での「院内感染関連の講演」であったが、事実上不可能であり、その旨連絡して戴いた。会の方から代理に関しての問い合わせがあれば2,3候補は推薦出来たが特に対応は求められなかった。10月29日の看護学校の講義は2週遅れで行う事とした。

 上記のごとく業務上の整理がつき、療養に専念することとした。


10/14 (日)快晴 救急外来受診 腸閉塞で緊急入院
 2:30起床、症状改善せず。新聞、医学文献、録音データチェックなどダラダラと整理。午前、自己誘発嘔吐にても改善無く帰省中の息子を伴って救急外来受診。検査では強度の脱水、レントゲン上は腸閉塞であった。CT撮影後、経鼻胃管で減圧開始、13:00入院となる。入院後は腹部症状は消失、脱水治療のために24時間持続点滴となる。

腸閉塞体験日記(1)症状発現から入院まで
 10月13日早朝から上腹部痛と通過障害?と思われる自覚症状が出た。
 ここ数日来、単純ヘルペスが口唇に出て微熱感があるなど若干体調が良くなかったこともあってそのための消化管機能障害か?と考え、何時もの如く絶飲食で経過を見た。

 通常なら一日程度で快方に向かうのであるが今回は改善の兆しがない。胃が全く消化排出機能を失ったような感じで過伸展している様子である。胃にかかっている負荷を減ずるために午前午後と2回自ら嘔吐してみたがそれでも改善乏しい。
 
 この時点での状況をまとめると、■上部消化管の機能的閉塞はあるだろう、■症状が乏しく、少なくとも腸閉塞ではなさそう、■排ガス排便は通常、■自然嘔吐無し、■腹痛無し・・で「機能的な上部消化管閉塞状態が疑われる、■自然治癒の可能性はあるだろうが全身的に見てこのまま経過観察では脱水が進行して危険、■さりとて急性腹症ほどの緊急性もない、■症状が続けば翌日に救急受診とし、終日だらだらと過ごした。

 この間摂取したのは口を潤す程度のミネラルウオーター50mlほどだけ、尿量は減少し始め、体重は一気に3Kg減少した。思った以上の脱水であろう。

 10月14日自覚的に悪化傾向はないものの改善傾向もない。
 タイミング良く帰秋中であった外科医の息子を伴って救急外来を受診し、症状に応じた一般検査施行した。検査結果は強度脱水、レントゲン検査は私自身の予測に反して明らかな腸閉塞の像であった。

 続いてCT検査を行った。所見は、■トライツ靱帯付近に空腸の壁肥厚を伴う閉塞病変、■過去の手術との関連、悪性疾患の有無については不明、■空腸に虚血病変はないが口側空腸に浮腫、と言う所見であった。

 救急外来で経鼻胃管を挿入した時点で廃液600ml、入院後も大量の廃液があった。外科グループが担当となったが、緊急手術を要する状況とは判断していないようで、大量の補液が開始された。経鼻胃管で上部消化管が有効に減圧されたためか胃の膨満感、圧迫感は大きく軽減した。

 高齢者の腸閉塞は悪性疾患に伴うのが多いが、CTにて閉塞付近に不明の腫瘤陰影はなさそうで若干安堵した。


10/13 (土)快晴 上腹部違和感二日目  
1:30起床。何時もと同様、書類・録音データ整理、新聞、医学論文など一部チェック。3:00頃からシクシク程度の軽い上腹部痛が始まり再度就寝した。消化管の機能障害が疑われるので何時もの如く絶飲食とし経過を見た。午前午後2回嘔吐を誘発したが改善乏しく、「自然治癒のレベルでないが緊急性もなさそう」と判断し、翌日救急受診とし終日だらだらと過ごした。


山中京大教授にノーベル賞(2)世界を変える山中氏、既に億単位の命を救った遠藤氏
 iPS細胞の先駆者、京都大学の山中教授が今年の医学・生理学賞を受賞した。当然の結果であって疑義を挟む方は殆どいないだろうと思う。しかし、私はノーベル賞の選考には問題があるように思えてならない。

 山中教授の業績は素晴らしい。ただ、現時点での山中教授の業績は何だろうか。ハッキリ言って山中教の研究は未来への確実な進歩への確約であって私が知る限りにおいて iPS細胞によって病気が治癒したり改善した患者は殆どいないはずである。
 一方、スタチンの遠藤氏の業績は数十年にわたって高脂血症、循環器系のリスク因子を持つ多くの患者に投与され着実な臨床効果を上げている。その恩恵に浴している方々は億の単位を越えるはずである。
 
 その意味で今回の山中教授の受賞は2009年にオバマ大統領がノーベル平和賞を受けた時と同様のショックを受けた。
 一体、ノーベル賞の受賞判定基準は何なのか。

 オバマ大統領がノーベル平和賞を受賞したのは「そう長くない将来、核兵器、核戦争のない世界を目指そう」と今迄の主要国の大統領が踏み込めなかった重要な話題に鋭く切り込んだことが評価されたのもである。言葉だけで実績ゼロなのに、オバマならやってくれるだろうという世界中の期待を込めた受賞であった。「そう長くない将来、核兵器、核戦争のない世界を目指そう・・・」という言葉は私だって言ってきた。世界の著名人も大勢言っている。なのにオバマなら受賞、他の人なら無視、これはおかしくないか。誰が言っても正しいものは正しいのだ。
 オバマの受賞は世界の核事情に何をもたらしたのか。3年経っても殆ど実績を上げていない事が分かる。

 山中教授の業績はオバマの言葉だけの業績に比較できないほど素晴らしい。現時点で臨床応用がまだ不確定だが、末広がりの可能性を持っている。再生医療の分野の対応は新しい理論で書き換えられるだろう。
 一方、遠藤氏が開発したスタチンは心筋梗塞、脳卒中の予防のために「奇跡の薬品」の評価のもと世界中で約4.000万人に投与されており、人類が受けているその恩恵は計り知れない。

 私は夢の開発に賞をあげる事も大事だが、「どれだけ人類の健康に寄与した研究なのか」、と言う実績に対して授与して欲しいと思う。


10/12(金)曇り 大曲中通病院外来 胸痛に加え上腹部違和感発生
1:50起床、新聞その他文献チェック。ハトに給餌後7:00自転車病院着、重症患者家族面談。 回診そのほか。 8:01こまち、8:45-15:30大曲中通病院外来。途中、9日早朝に転倒した後左胸痛が増悪するために胸部レ線撮影。幸い肋骨他に異常はなかった。それにしても痛い。17:30自転車帰宅、読書、息子一家来週、夕食、20:00就寝。上腹部に違和感あり早めに就寝。

新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(5)男鹿一巡り(2) 主役は青空と太陽
 10月8日の男鹿観光は適切なガイドもお願いしたこともあって大成功であった、と総括する。男鹿観光を担当してくれた幹事の頑張りが生きていた。代表幹事としても思った以上の出来であった、と思う。

 幹事の思い込みがあって、船が来なくてガックリさせたり、空腹に耐えさせたり、新幹線に遅れそうになったなどポカもあったが、誰からもクレームは出なかった。それ以上に、全メンバーが空いた時間、北の日本海でさわやかな海風と共に、太陽の光を全身で浴びているという幸せを思い思いに味わう事が出来たと思う。

 男鹿巡りの日は早朝から夜にかけて本当に雲一つ無い快晴であった。
 折しもこの体育の日は昭和39年の東京五輪の開会式の日である。当時は10月10日であった。私はその日を岩手の片田舎でモノクロTVの前で迎えた。東京は雲一つ無い快晴と報じられた。モノクロでも十分味わうことが出来る快晴で、500Km離れた岩手も同様に最高の秋晴れであった。その日の細かいことは忘れたが、開会式の熱気と大歓声、自衛隊機が上空に作った見事な五輪マークは忘れたことはない。

 この日、開会式の実況中継を担当したNHKのアナウンサーは放送を『・・・、本日のこの東京五輪の主役は、選手でもありません、大会関係者でもありません、大勢の観客でもありません・・・「それは太陽です!!!!・・」』、と奇跡的に晴れ上がった天空ときらめく太陽を賞賛して感動豊かに表現した。世界的大エベントの五輪の主役を、選手でもない、役員でもない、観客でもない・・と否定する事から始めたこの名導入部は当時浪人中であった私の脳裏にしっかり記憶されていた。何しろ、前日まで天候ぐずついており、大会関係者をヤキモキさせていたからである。

 私は男鹿巡りの間中、太陽の光をさんさんと浴びながら、昭和39年のこの日の秋の様子を思い出しながら「・・・、本日のこの男鹿巡りの主役は、太陽です!!!!ホントです。太陽です・・」、と評価したい。この太陽があったからこそ担当幹事のポカも誰からも苦情も出なっかったのだ。

 私のこのブログにも2003年以降10月中旬には新潟大学46卒同期会を取りあげてきた。今回の秋田版は出席者も少なかったこともあり、出席できなかった同期会メンバーに報告のつもりで秋田の良いとこを紹介しながら、5回にわたりちょっとばかり詳述した。


10/11(木)雲一つ無い超快晴 外来 新屋・向浜経由  
1:30起床。文献・新聞他。6:50自転車病院、回診ほか、8:45-14:00外来。16:30胸痛増悪のためにゆっくり最短距離で帰宅。机上の雑務処理。夕食、20:30就寝。

新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(4)男鹿一巡り(1)男鹿も観光地として深い魅力
 10/8(月)は体育の日である。東京五輪の記念日としてかつては10日であったが休日法の改正で10月の第2月曜となった。幹事の一人の深い思い入れでエキスカーションとして男鹿巡りを行う事になった。参加者は現地のガイドを含め10名。私は助手として朝から飲み物、果物、氷の用意など結構大変であった。

 早朝から雲一つ無い快晴で一日の楽しさが予感できた。

 9:00前から私はホテル前で待っていたが予約のマイクロバス卯がなかなか来ず私をヤキモキさせたが、全員無事ホテル前に集合、予定通り出発できた。

 私は観光バスの相場などはよく分からないのであるが定員29名のマイクロバスで運転手付き、7時間で5万円程度だという。私は倍以上を想定していたので驚いた。バスは内装も良く、定員の1/3の利用だから実に快適であった。

 男鹿は景観は悪くない。でも売り物がなまはげ一辺倒であるのが気になるところである。幹事とガイドは海の側から男鹿の景観を楽しんで貰おうと観光船を予約していた。ところが予約の港について船を待てども来ない。ホントに来ない。確かめたら、私共が待った港は下船する港であった。これが担当幹事の一つ目のポカである。マア、この幹事ならのの程度のことは起こってもおかしくない。乗船する港に先回りして待っているバスを呼んで男鹿の景観を陸上から楽しんだ。そそり立つ断崖絶壁と紅葉の始まりは青空と太陽の下、満足すべき景観だった、と言えよう。

 さて、次は昼食である。今日の予定のコースは男鹿名物「石焼き料理」である。漁師達が一日の疲れを癒すために捕れた魚に野菜をたらいに入れ、そこに真っ赤に焼けた石を投げ入れることで煮上がるという豪放な料理である。観光船キャンセルしたのでやや早めにレストランに到着したのであるが、まだ客が一杯でここでも45分ほど待つことになった。幹事とガイドは恐縮していたが誰一人からもクレームが生じなかった。第二のポカとしておこう。

 私は昔一度だけ石焼き料理を経験したが、あまり良い印象でなく、今回もあまり期待していなかったが、今回は食材が中型から大型の真鯛で味、質共に一級品で私は十二分に満足した。思い出すと前のはアイナメとかの魚が主だった。その差は歴然である。昔のは釣り宿での料理であって経費を絞っていたから当然だろう。男鹿の推奨料理として私のリストに入れることとした。

 帰路、男鹿真山の神社で当時のなまはげ行事の再現を見た。これも、目からウロコであった。住居から服装まで昔の男鹿の山漁村の雰囲気十分、家の主人となまはげの鬼達のやり取りも見るべきものがあった。私は男鹿のなまはげは「恰好だけでつまらん」と思っていたが、その地域の文化の一部に駆け足ながら触れられたことを喜びとして帰路についた。なお、ボランティアでガイドを申し出てくれた女性はこの真山の神主の新婚の奥さんであった。

 第三のポカは千葉に帰る同期生が乗る新幹線を幹事が16:56発と頑なに思い込んでいたこと。実際は16:42発でこの14分は大きかった。途中で間違いに気づき男鹿街道、高速道を含めカーチェイスの如く走り、何とか間に合った・・と思う。その後何も連絡無いから多分間に合っただろう。多分発車まで1分もなかったのでは無かろうか。
 この幹事にとって新幹線に遅れるなど日常茶飯事であって、9月29日に花巻に発つ時も一列車遅れて出発したはずである。


10/10(水)晴れ 外来 映画「キリマンジェロの雪」
 23:30胸痛にて眠られず早めに起床。起きた方が痛みが軽減し楽である。それにしても、夕方まで何ともなかったのが半日も経ってから急に症状が出るのか。新聞・文献・本読みなどいつもの如く。ヨタヨタと自転車でハト給餌後、7:00病院着、回診、8:45-13:30外来。15:40映画鑑賞。シアタープレイタウンは今年一杯で閉館するという。18:15帰宅、夕食、20:30就寝。

新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(3)秋田での会に満足いただけた様だ
 次いで懇親会に移ったが、途中で浅野梅若社中の4名による秋田民謡4曲と踊りが披露された。
 先代の梅若氏は外来でお世話したこともありちょっと身近に感じた。見事な音色の三味線と太鼓をバックに若手の歌手3名が唄ったが、何れの方々も全国レベルの大会で数々の入賞歴があるとのことで、張りのある見事な声量の歌唱ときびきびした所作の踊りで私は圧倒された。
 今迄、良いメンバーに直接触れたことがなくて秋田民謡の素晴らしさを知らなかっただけだったのだ。同期生達もほぼ一様に驚きと感心の表情を浮かべていた。

 10人で一つのテーブルを囲んだ。マアこのくらいの人数の会が適当かと思われるが、同期会が何時もこれではまずいだろう。先の新潟の会は倍以上の出席者がいた。
 各人がスピーチ行ったが、年々言うことが変わってきている。政治のことしかり、中には政界に出るのでは?と思わせるような熱弁をふるった方もいた。かかえている持病の話も出て「なんぼ迄生きるか・・・」と言うことが何人からか話された。80歳位を一つの目途にしているようであるが、私は「食べられるうち、動けるうち・・」と何時もの意見を述べた。

 話題豊富で盛り上がった会を、中断するのは忍びなかったが、21:15で中締めにし、ほぼ全員同じホテルに用意した二次会場へ移った。
 ここでは気に入った仲間同志で言いたい放題、いろいろ楽しめた。私も雰囲気に誘われて飲めない水割りをあたかもジュースのように三杯飲み干した。酔い始めたので明日のオプションのことも考え一人会場を抜け出した。歩いている間に酔いが回ってホテル前のタクシーにたどり着くのが大変であった。

 始まる前までは心配であった同期会、多くの方々が満足されたことが実感され、代表幹事として心から安堵した。これも秋田、能代で地道に医療活動を展開している院長達のアイデアと采配に依るところが大きい。

 問題は明日のエキスカーションの男鹿観光である。担当幹事の性格上、何かが起こるかもしれない。


10/9(火)晴れ 外来 高校生の自転車と接触、転倒
 1:00起床、新聞・文献チェック、徒然など。ハト給餌後7:00自転車病院、途中高校生の自転車と接触、転倒す。その場では大した障害無し。回診、8:45-13:15外来。15:30東通りの治療院訪問、17:00帰宅。17:30不調の家内を自転車で病院に向かえ帰宅。この頃から徐々に左半身が痛くなってきた。読書、夕食、20:30就寝。増悪しつつある左胸痛でよく眠られず。

山中京大教授にノーベル賞(1)当然の結果 気がかりなのはスタチンの遠藤博士
 iPS細胞の先駆者、京都大学の山中教授が今年の医学・生理学賞を受賞した。
 
 過去の日本人の受賞者の発表時には業績についても、ご本人達についても殆ど知らない状況での発表で相当のサプライズがあったが、ハッキリ言って今回の受賞は当たり前すぎて何ら驚きも感動ももたらさなかった。
 山中教授の業績は素晴らしい。恐らく教授の仕事内容を知る方は誰もが、「受賞すべき賞を受賞した・・」と言う淡々とした感想であろう。少なくとも私はそうだった。ただ、ご本人は「予想外の受賞・・、みんなのお陰で・・」ととても謙虚な言葉を並べておられる。私は、ちょっと違和感をもつ。

 この素晴らしい受賞の知らせに接したときに、私はむしろ「スタチンの遠藤章博士は今年も何故漏れたのか??」という疑問と不満の方が大きかった。

 スタチンは心筋梗塞、脳卒中の予防のために「奇跡の薬品」の評価のもと世界中で約4.000万人に投与されており、人類が受けているその恩恵は計り知れないものがある。私も生活習慣病の患者を中心に数100人に用いている。

 遠藤氏の業績は米国を中心に大きく評価され,2006年に日本国際賞、2008年にラスカー賞、2011年文化功労者を受け、本年5月には米国発明家殿堂入りを果たしている。
 ラスカー賞はノーベル賞への登竜門の一つとされラスカー賞受賞者から多数のノーベル賞受賞者が生まれている。ラスカー賞を受けた時点から,私は次の日本人受賞者は遠藤氏と期待し、毎年ノーベル賞週間とされる10月中旬にはいつも発表を待ちかねてきた。

 遠藤氏は、結果的に今年も賞に漏れた。
 私の遠藤氏に関する新聞のスクラップを取り出してみると、ラスカー賞受賞の2008年は「ラスカーの後はノーベル賞・・・」と、2010年は「固唾を呑んだが残念、毎年わくわく」,2011年は「吉報持ち越しに。楽しみは続く・・」,今年は「残念だが、来年に期待・・」となかなか受賞に至らないいらつきが記事の見だしに用いられている。並べてみると私にはトーンに変化が生じているように感じられる。

 私は焦っている。遠藤氏は78歳と高齢である。ノーベル賞は生存中の研究者に贈られることになっているからである。昨年だったかは発表直前に死去された方にも授与されたが、これは例外的である。遠藤氏の健康状態については私には分からないが,一般論として状況は年々厳しくなっていく。
 日本人のノーベル賞受賞者は米国籍の南部陽一郎博士も含めると19人。受賞時の年齢を見ると若い方では湯川氏42歳、田中耕一氏は43歳で、受賞時平均年齢は63.7歳。3人は80歳を過ぎで,最高齢受賞は南部博士の87歳であった。従って,遠藤氏の年齢が受賞のために不利と言うことはないと思われるが、次回こそは・・と思う。遠藤氏が今後もご健勝であることを願いつつ待つしかない。

 遠藤氏は由利本荘市出身、本荘高校定時制課程から現在の秋田県立中央高校に転校し,東北大学農学部に進んでいる。遠藤氏の受賞を県内でも多くの方々が期待し、見守っている。


10/8(月)体育の日 終日雲一つ無い秋晴れ 男鹿観光 山中氏にノーベル賞 
2:50起床。いつもの如く。6:00ハト後病院、重症者回診対応、7:30帰宅、9:00キャスルホテル発、新潟大学同期会のオプション、総勢10名マイクロバスにて男鹿観光、16:00解散、16:40帰宅。 山中京大教授のノーベル賞受賞を知る。当然すぎて驚きもせず。午睡、夕食、21:00就寝。

新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(2) 思った以上の盛り上がり 
     

懇親会前になかいち広場で行われた竿灯となまはげ太鼓のワンシーン。
観客が大勢で盛り上がった。



 本日10月7日は秋田での新潟大学46卒同期会であった。

 12名は朝からノースハンプトンゴルフクラブでコンペをやったが、私はアルコールもダメだがゴルフもやったことがないために不参加、快晴を良いことにわが家の外仕事と翌日のミニツアーの準備を手伝った。

 17:00から「なかいち広場」にて竿灯となまはげ太鼓の実演を見学した。
 本日は隣の広場で別のエベントも行われており、そちらの観客も多数移動してきて、300名ほどがこの実演を一緒に楽しみ、会場の雰囲気はとても良く盛り上がった。祭りのデモ等はやはり観客の数と観客の高揚感が大事である。私共にとっても大勢の方々と一緒に演技を楽しめるなどとは思ってもいなかった。観客がわれわれ20数名だけであったら寂しい演技になったものと思われた。

 竿灯は二竿で20数名のスタッフ、なまはげ太鼓は3人によって見事な演技を繰り広げた。見物された大勢の方々、遠来の同期生はいたく感心した様子であった。私共の企画が秋田市民をも喜ばせたことにもなり嬉しい限りである。

 18:00からキャスルホテルにて北里大学循環器科教授の「心不全の予防」と題する講演を拝聴した。
 「心臓移植の現況」では心移植を受けた患者について米国での手術例、国内手術例は件数として同じ程度に近づいてきたが、国内例の予後が素晴らしく良好で多くが社会復帰出来ていることが示された。「薬物による心不全悪化の予防効果」についてはスタチンの意義が強調された。最後に「高齢者医療の在り方」にも教授はホンネで言及した。この最後の領域に関しては私と意見が一致した。
 とても分かりやすい講演で、循環器系に疎い私は久々に深い感銘を受けた。


10/7(日)晴れ 学術講演会&新潟大学46卒同期会 
1:00 起床。 新潟大学46卒同期会準備。6:30自転車病院,重症患者回診その他。10:00 帰宅。講演準備、畠の整理など。16:00キャスルホテルへ。17:00なかいち・県立美術館前広場にて竿灯、なまはげ太鼓のアトラクション、18:00北里大学循環器科教授講演「心不全の予防」拝聴後、新潟大学46卒同期会,28人出席。物故者なし。21:10ロータスにて二次会、22:00一人帰宅、そのまま就寝。


新潟大学46卒同期会 2012(秋田)(1) 秋田の魅力をどうアピールするか 
 私共、新潟大学医学部昭和46年卒業生は結構結束が強く、ほぼ毎年の如く同期会を開いている。期日も決まっていて10月の体育の日の連休である。私は初期の頃は出席しなかったが、2000年頃一度出席、2003年からは皆勤している。

 昨年の会で秋田での開催が決まった。同期生の中で秋田県出身者は12名いるが、現在秋田県内で医療を行っているのは5名で、うち4人が秋田高校出身者、それに岩手出身の私である。
 100名余の同期生の出身地を見ると秋田・岩手が北限で,青森と北海道出身者はいない。秋田・岩手以北で医療を行っているのは北大教授を務めたM氏一人だけである。

 2003年以前のことは分からないが、その後の開催地は、新潟が3回で、犬山、長岡、東京、富山、会津若松と続くが,秋田での同期会は多分北限の会になるだろう。

 同期生は全国に散らばっているが、北限の秋田で開催するにはいろいろハンディがある。まず、■近隣県に住んでいる同期生が少ない、■多くの方々にとって秋田は遠い、■たのみの交通の利便性も良いとは言えない、■遠方の同期生を秋田の魅力でうまく誘い出せるか・・・等である。

 5人による幹事会では私が代表幹事となった。どうあがいても無いものは無い、不便なものは不便、この際背伸びせずに美味い酒と料理でもてなし、メンバーの一人である北里大循環器科教授講演を聴き、会話を楽しもう。それにアトラクションとして竿灯演技、なまはげ太鼓、秋田民謡を織り交ぜよう、と言う結論になった。幹事の一人が翌日オプションでミニツアーを組みたいと言うことで一任した。

 同期生への連絡他は主に私が担った。文章も練った。ミニツアーは直前まで最終決定が無く私をヤキモキさせたが幹事は参加希望者と直接連絡取り合って進めているからと平然としていた。

 結果的にゴルフ12名、講演・懇親会28人の参加があった。と言えども後者のうち5人は幹事であるから、やはり秋田への誘いには乗り手が少なかった。ミニツアーは10名であった。

 同期会は恒例として会の前にゴルフ大会、次いで講演、懇親会と言うことになる。ゴルフのために10名余がホテルに前泊する事になっており、幹事のうち酒豪を自認する二人がもてなすことになった。私はアルコールがからきしダメなので、前夜祭的会合には遠慮した。前泊までの間に手続き上での問題の発生はなく安堵した。
 


10/6(土)曇り・晴れ 重症患者回診2回 Au iPhone予約 
 1:00起床。文献チェック他。昨日外科処置した患者不調で何度か連絡。コイ・ハト後7:00病院、重症患者対応。10:00帰宅。畠のトマト・キウリ終了として周辺草刈。午後,AuショップにてiPhone5予約、iPhone3Gは使い慣れているが、それでも店員の説明理解は困難であった。病棟より何度も連絡、患者不調で17:00車で病院、重症者回診、19:00帰宅。本読み、夕食、20:00就寝。

クロスバイク(25) 東京都はナンバープレート 私はヘルメット義務化を望む  
 東京都の自転車運行に関する有識者会議は9月10日、自転車にナンバープレートを取り付ける制度の導入を求める提言をまとめた。自転車の所有者を明確にすることで、運転マナー向上や放置自転車を減らすのが目的という。

 東京では、歩行者が大勢歩いている歩道を人を道路端によせながら我が物顔に走る自転車が多く、運転マナーの悪さは目に余る。日本医師会館に頻繁に行っていたとき,駒込駅から会館までの数100mの道路はいつも私にとってストレスであった。実際には車道は走り難い状況にあるなど、交通事情の劣悪さも背景にあり、歩道を走ることはやむを得ないところもある。だからこそ自転車乗りのマナーを何とかしなければならない。

 自転車にナンバープレートをつけることで利用者を特定出来るから間接的にマナーの向上も期待出来る。一考の価値がある。

 都によると2009年に駐輪違反とかで撤去された自転車は734.000台、その半数は持ち主が現れず処分されたが、都下の各行政区の自転車対策・処理費は何と171億円にも上っている。自転車にナンバープレートを付けることで持ち主を特定出来るから返却の手続きが簡単になり、処分の費用も請求出来る様になる。
 私は東京都だけでなく、全国的にナンバープレートをつけても良いと思う。車両という自覚を高めるし、盗難防止にも役立つだろう。

 私は自転車は交通事故に遭遇した際には大怪我を被るが,それを防ぐためにヘルメットの着用を義務づけるのが良いと思う。昨年の自転車による死亡事故の犠牲者633人の中でヘルメット着用者は恐らく殆どいなかっただろうが、ヘルメット着用で助かった命もあるのではないだろうか。この辺の所は警察庁の分析を待ちたい。

 自転車も立派な車両であるから、自分の安全を自らも守る事を通じて、歩行者の安全を守り、車両に対して軽車両としての立場の主張になるだろう。免許までとはいかないまでも、全利用者に着用を義務づければいい。
 私は昨年クロスバイクに乗るようになったときからヘルメットを着用している。効用は自分の安全面だけではない。自転車乗りとしての自覚の高揚にも役立っている。

 今年の自転車事故は6月までの半年間で約6万件で、若干改善の兆しはある。
 違反者の検挙件数は2006年に585件だったが、2009年1.616件、2010年2.584件、2011年3.956件と急増した。今年1−7月の検挙の内訳は信号無視が966件で、制動装置不良929件、遮断踏切立ち入り517件、運転中のイヤホン着用などの順守事項違反91件、酒酔い運転64件−−などとなっている(この項の数値は毎日新聞から引用)。
 秋田の路上ですれ違う高校生の自転車は、半数ほどイヤホン着用、又は携帯電話操作がみられ、車道の逆走も多い。高校での指導と警察の取り締まりが必要である。


10/5(金)大曲中通病院外来 
0:30起床、いつもの如く。コイ・ハト後、7:00自転車病院。回診。8:01こまち、8:45-15:00大曲中通病院外来,高齢の応援医には加重。16:30入院患者対応そのほか。17:00帰宅。本読み。夕食。20:00就寝。

クロスバイク(24) 2011年の自転車事故、何と14万4018件!!!
 最近、自転車がブームとなっているようで秋田でも特に若者達のスポーティな自転車利用者が増えている様だ。ただ、相変わらず歩行者のいる歩道をスピードを出して走る若者、車道を逆走してくる高校生等が目に付く。全体的にマナーが悪いが、自転車も車であるという自覚、道路交通法への無知もあるだろう。

 10月4日に警察庁の自転車関連の事故や違反についての発表があった。
 ■自転車が絡む2011年の事故は14万4018件で、交通事故全体の2割を占めた。殆どの事故で負傷者が発生している。死亡事故は633件で、特に埼玉、東京、愛知、大阪など都市部で目立っている。死亡事故原因の64.9%は周囲を確認しないまま交差点に進入するなど不注意で生じている。600人を超す死亡者が出る状況は異常である.何とか対策しなければならない。

 ■自転車の交通違反の摘発件数は、2011年は3.956件で過去最多となり、2006年からの5年間で6.8倍に増加した。摘発はピストバイク関連が32.2%だから、約1.300件と思った以上に多い。私は秋田でピストバイクに乗っている人を見たことはないが、都会を中心にかなり流行っている様だ。ピストバイク次ぐ摘発件数は、信号無視が28.1%、踏切立ち入りが12.6%の順であった。

 ■検察庁が起訴したケースはピストバイクと酒酔いの17件のみと極めて少ない(上記数値は共同通信)。

 同庁は「自転車には免許制度がなく、悪質運転者への安全教育の機会がない」と取り締まりの困難さを指摘し、有識者懇談会を立ち上げた。懇談会はブレーキのないビストバイク自転車での走行や信号無視などを講習義務の対象として検討、年内に報告書をまとめる、という。

 秋田では自転車が関与する事故は死亡事故が発生した時以外は報道されない。だから全体像が見えない。しかし、全国的まとめを見ると驚くほどの数値が上がってくる。この数値はやがて秋田にも及んでくると考えられるが、秋田の場合は日本一の高齢県である。だから、若者もさることながら、高齢者の自転車事故に予防対策が必要である。小中高は学校で、高齢者には地域コミュニティ、老人クラブでの啓蒙、更に敬老会での啓蒙などが必要である。

 自転車利用者への啓蒙と同時に、ドライバーに対する啓蒙も必要。その際、「飛び出すぞ 自転車は 急には止まれない」・・と言う精神で徹底する必要があるだろう。


10/4(木)晴れ 外来 
 2:00起床、新聞、医学文献他読む。徒然。コイ・ハト後6:55車病院着、回診他業務。8:45-13:55外来。新入院対応、手形・広面エリアクリニック外観見学しつつ16:30帰宅。新聞、読書データ整理。19:00夕食、20:00就眠。最近日暮れが早くなった。

秋田の良いとこ、足らぬとこ2012(7) 秋田市近郊に魅力あるスポットが欲しい 
 私は従来は観光に対して殆ど興味も関心もなかった。わざわざ観光目的にして出かけることも殆どなかった。学会関連では国内の各都市を訪れたが、ホテルと学会場の往復のみで、観光は殆どしたことがない。

 それが、最近、観光、特に秋田県内の観光について興味を持った。そうすると秋田の観光スポット、観光行政、地元の受け入れなどいろいろ見えてきた。
 それには伏線があって、この週末,10月7日に秋田キャスルホテルを会場に学術講演会&新潟大学の同期会を予定している。その代表幹事を私が担っている。それほど大勢ではないが同期生が秋田に集う。

 出席者は必ずしも秋田を目的にしてはいないだろう。何処でも良いだろう。何しろ目的はゴルフと講演会、酒と料理を前にしての久々の語らいである。しかし遠路はるばる秋田まで招待したからには酒以外の秋田の良さも味わって欲しいと、幹事の一人が頑張り、翌8日に希望者だけの6時間ほどのミニツアーを計画した。
 立案までは順調であったが、何処にするかなかなか決めるのが困難であった。奥羽山系の温泉郷、角館・田沢湖方面、白神山、鳥海山麓などが候補に挙がったが時間的にほぼ不可能、結果的に男鹿半島と名物石焼き料理の昼食会にすることで落ち着いた。

 秋田の観光地を探すとなるとなかなか大変である。特に秋田近辺でちょっとした時間を使って行ける場所となると殆ど見つからない。最終決定する前に担当の幹事から誘われて下見に出かけたが,正直言って私を満足させるコースとは言い難かったが、条件は限られており妥協せざるを得なかった。

 秋田の観光に関する新聞記事、雑誌等の論評などから得た情報では、県の観光関連部所も活動を始めているようであるが、県庁所在地から遠いと言うハンディがある。どうせ、ここまでハンディがあるのなら隣接県とタイアップしたキャンペーンなどどうだろうか。それには各ポイントの利点と特徴の宣伝、隣のスポットからの移動に関する明快な情報と路上の案内板等の整備が必要である。

 観光客が来ればあとは地域の受け入れ体制である。しかし、県内の観光地の「おもてなし」が高い評価を受けているからこの点は心配なかろう。

 とにかく、一人でも多く秋田に来て頂くことである。その意味で、私共の企画はささやかながら県の観光に寄与することになる。


10/3(水)晴れ 外来 患者家族面談 
1:50起床。文献・新聞チェック、ハトとコイ後自転車6:55病院着.回診他病棟業務、8:45-13:40外来。桜・手形方面エリアのクリニック外観見学。17:00帰宅。本読みなど、夕食、20:15就寝。

秋田の良いとこ、足らぬとこ2012(6) 県の観光は低い評価 
 リクルートが本年4月に国内を旅行した観光客に対して実施した調査で、約1万6000人の回答があり、本県の「もてなし」は全国で3位と上位にランク入りした。

 昨年度本県に宿泊した観光客のうちで「もてなし」の評価は沖縄、山形県に次いで高かった。もともと秋田は環境客に対して「素っ気ない」という評価であったと記憶しているからこの結果には驚いた。ただ、4位福島、5位岩手、7位宮城と東北各県が上位にランクされている。震災後の観光客の落ち込みで、迎える側の意識が大きく変わったのかもしれない。
 
 本県の項目別評価はランクの高い順から挙げると以下の如くである。
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■地域で「もてなし」の気持を感じた、は31%で3位。
■現地で良い観光情報を入手できた、は30%で4位。
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■魅力ある特産品や土産物が多かった,は15位
■美味しい食べ物が多かった,は18位
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■魅力ある宿泊施設が多かった,は25位
■大人が楽しめるスポットや施設が多かった,は28位
■子供が楽しめるスポットや施設が多かった,は34位
■若者が楽しめるスポットや施設が多かった,は41位
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 上記のデータは8月3日の地方紙、魁新聞から引用したが、新聞の見出しは高い評価を得た,と言う書き方であったが,私は逆に解釈したい。秋田の観光,観光地そのものが魅力が乏しい、と上記のデータは語っている。まとめると「楽しめるスポットや施設,宿泊施設は少なかったが、美味しいもの,パンフレットはまずまずで、もてなしは良かった」,と読みたい。

 私は先月16日に「大震災後の秋田県の宿泊客の落ち込みは風評被害などではなく、県の観光施策の問題が大きいと思う」、と記述した。お一人の方から、ただ一言「魅力なし」と書き込みがあった。秋田の観光地に対する厳しい評価なのだろう。

 一方、県はJR東日本が展開するディスティネーションキャンペーンという意味の分からない企画に相乗りして大々的に宣伝活動をすることが事業計画に入っている。10月から12月まで、そのプレ版とし首都圏で秋田を印象づけようと「写真による秋田ビジョン」の大看板、山手線に「ラッピング電車」、などなどいろいろ多項目、積極的な広報活動を行っているようである。費用は7.700万円と言う。

 秋田を印象づける宣伝も良いのだが,究極の目的は観光客の増加にある。何となく秋田に来る人などいないだろう。秋田県の魅力あるスポットを具体的に挙げて行わなければ意味がない。県はどのように観光スポットを取り上げて宣伝しているのだろうか。


10/2 (火) 晴れ 台風一過の爽やかさ 外来 
 0:30起床,