徒然日記
2011年10月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

徒然日記バックナンバーへ戻る       徒然日記へ戻る   トップページへ戻る

先月の日記          来月の日記


10/31(月)曇り・晴れ 高等看護学院講義2回目
0:30起床、文献新聞他チェック。この時間からだと余裕あり。雨上がり、鯉に給餌し7:00自転車病院着、回診他、8:50-10:10高等看護学院講義2回目、看学生達にはよう寝られた。15:30-16:15自転車ポタ。。夕食。20:45就寝。

クロスバイク(7)2ヶ月間で1.283.9Km走行 ヘルスチャレンジ2011終了 
 法人共済会主催の「ヘルスチャレンジ2011」と称する2ヶ月間のキャンペーンが本日終了した。達成者には項目毎に図書券1.000円分、抽選で10名に10.000円のギフト券がつく。

 私は今回は14項目のうち「サイクリング200Km」、「週5日以上、腕立て伏せと腹筋運動、背筋運動を各20回以上行う」の2項目にエントリーしたが、サイクリングは自転車通勤だけで11Km/dayなので、月20日間で達成してしまうので自己目標を倍の「500Km」に設定した。

 嘱託になった時点から、勤務時間を7:00-15:30にした。オフの時間を有効に使うためである。自己目標を達成するためには2年前に1.4万円で購入したマウンテンバイクまがいの自転車では、達成自体は無理ではないだろうが楽しくはなかろう、と発想を変えて国産のスポーツバイクを購入した。

 この判断は正しかった。ロードタイプに近いクロスバイクという範疇の自転車であるが,そこにはいままで経験したことのない新しい世界があった。通勤を含め、毎日毎日走りを楽しみ、結果として本日までの2ヶ月間にサイクルコンピューターの積算計は1.284Kmを示した。雨とかで乗れなかった日を除くと56日走り、平均23/dayであった。
 実際の距離は数値だけでは実感できないので新幹線地図にプロットしてみた。秋田ー盛岡127.3Km、盛岡ー東京535.3Km、東京ー大阪515.4Kmだから,秋田ー大阪間の1.178.0Kmも超えてしまった.現在岡山付近にいることになる。

 よくまあバカみたいに走ったと思うが、要因は走る事自体が楽しいことが第一、加えて勤務明けに走れる時間があったこと、である。後者のことを考えると他の方々とは比較は出来ない。自己設定の「500Km」をクリアしたことが嬉しい。ただ、もう16:30過ぎには暗くなり始めるし、寒くなるのでこれからはそうは走れなくなるのが残念である。自分では、距離の他に「手形山またはそれ同等の坂道を週に5回以上は登る」も設定したが、これも100%以上でクリアした。

 もう一項目の「週5日以上、腕立て伏せと腹筋運動、背筋運動を各20回以上行う」もそれなりにクリアしたが、実施結果はモザイク状である。判断は事務局に任せることとした。多分認定されると思う。
 図書券2.000円、出来れば10.000円のギフト券もいただきたい。そのうち20%は岩手県への寄付金に上乗せするので・・。


10/30(日)晴れのち曇り 紹介状作成 家庭菜園冬準備 市斎場見学 映画ゴダール   
2:00起床。新聞チェック。資料、種々こなす。7:30自転車病院着。紹介状作成、10:00帰宅。11:30-12:50家庭菜園草取りなど冬準備開始。14:00秋田市斎場見学へ。16:40映画「ゴダールソシアリズム」観る。19:20帰宅、夕食、20:30就寝。??

なんか変だが、まあいいか(1) 「お疲れ様・・・」「御苦労さま」
 廊下で会った時とか、帰りしなに互いの労をねぎらう言葉を交わすのははとても良い習慣である。ホッと良い気分になり疲れもとれる。私は年齢的に現役職員より年長であるが、私の方からも「ご苦労様さま」と軽く声をかける。これは年齢とか立場とかによるのではない。職員間の、人としての触れあいである。

 ただ、私の職場でもそうであるが、最近「お疲れさま・・」が頻用されているのがちょっと気になる。早朝に届くファックスにすら用いられている。本来から言えば「お疲れさま・・」年長者とか上司に対して使う言葉ではない。だからといって、代わりに何か良い言葉があるかと言えば、今の時代なら「ご苦労さまでした」かな? ファックスとかメールに書く時は午前は「おはようございます」、午後になったら平仮名で「ごくろうさま・・」の方が良い、様な気がする。午前から「お疲れさま・・」はちょっといただけない。

 本来「お疲れさま」は「御苦労さま」と同様に,「労をねぎらう」という意味の言語で,上の者が下の者に使う表現とされてきた。ところが、この両者は時代と共に意味するところが軽くなり、日本の高度成長期には労務者同士で気楽に使われるようになったのだと言う。各個人の、家庭が経済的に少しずつ豊になりつつあって、互いに中流意識が生じてきたから言葉に対する許容性が高まったからなのかも知れない。

 言葉は人間の生活に密着しているから,共に生き物で時代と共に変化するのだから特別に細かく気にする必要は無い,との意見もあるし、私もそう思う。しかし、言葉を研究している学者はなかなか容認出来ないらしい。特に、外国人で日本語を研究している方々は日本語の乱れを日本人以上に憂いているようだ。

 更に最近は「お疲れさま」が全盛となっている。これに対し、目上の人に「お疲れさま」とは失礼だ、ととても敏感に感じる年長者もいる。一方、ビジネススクールでは「ご苦労さま」は目上の人にはダメだが、「お疲れさま」は挨拶言葉として問題ないと教えているとも言う。一方では「ご苦労さま」が立場に関係なく一般的という地方もあるらしい。以上、ちょっと調べただけであるが何が何だか分からない。まとめられない。要するに「お疲れさま」の使い方は立場と時代によって変わってきていて,一定の見解はない、というの結論に辿り着く。

 一般に,言葉は簡単な方向に変化していく,とされている。よりシンプルに,明解に、かつ言い易くなって行く。このことを考えると,「お疲れさま・・」は「どうも・・」とか、「では」と同様、とりあえず何かの挨拶言葉を言っておけばいい,と言うレベルになったと言うことだろう。

 私も実際にはそれで良いと思う。私も相手の方の状況を知っていて労いの言葉をかけているわけではない。単なる挨拶言葉として用いている。挨拶は交わすことが第一で、言葉は決定的過ちがなければ何でも良いのだ。正しい言葉の使い方,変遷の歴史などについては学者の方々にお任せするしかない。実社会の言葉の変化はとても速い。メディアを通じて直ぐに広がっていく。
 ただ、こういう使い方にとても敏感な上司がいる。そんなときには個別に注意すればいい。


10/ 29(土)快晴 飯川病院日直応援 仏像展示会 自転車点検
2:00起床、新聞・文献、徒然。8:30自転車病院着、紹介状、11:00帰宅、草取り器具購入。12:30-16:00家内不調で飯川病院日直一部代行。西武「大仏師松本明慶の世界展」を見る。見事さに驚く。自転車一ヶ月点検「走るだけでなくメインテナンスも・・」と助言受く。17:30帰宅、文献チェック、夕食、20:15就寝。

映画『里湖〜八郎潟物語〜」を観た
 去る10月21日18:00から秋田市文化会館小ホールにて映画『里湖〜八郎潟物語〜」が上演された。
 私は秋田県の歴史を殆ど知らないので良い機会と、興味しんしん観に行った。主催は映画『里湖〜八郎潟物語〜」上映する会とのこと。会場は100人ほどだったろうか。

 八郎潟は、日本で琵琶湖に次ぐ第2番目に大きい湖であった。水は清み、ワカサギなどの魚が『水一升に魚4合』と言われるほど豊かに獲れ、周辺の住民達は湖と一体となった生活をしていた。人々は伝説の八郎太郎を通して、八郎湖に対して親しみと感謝の念を育んできた,とされる。「里山」はよく使われるが,「里湖」」と呼ぶのに接したのは初めてである。それだけ親しまれていたと言うことであろう。

 そんな八郎潟に重大な転機が訪れたのは昭和32年,食糧増産の国策として農地を増やすだけでなく、日本の未来の農業モデルとなる農村建設を目的として大干拓工事が始まった。干拓は堤防を作りその中の水を抜いて新たに陸地を作ることで、埋め立てとは異なる。「潟」だから出来る工法である。工事は20年かけて行われ、湖底を大地として広大な農地が誕生した。干拓後、八郎湖は面積が1/5になり、海と湖の間に水門が作られ淡水湖になった。
 以降、モデル農業として作られたはずの大潟村は国の減反政策の影響を受け波乱を迎えたが、新たな農産物を生み出すなど見事に適応した様に私には思える。しかし、端から見た第三者の無責任な意見なのかもしれない。

 一方、八郎湖は自浄作用が低下して水草は激減、生態系が崩れ、アオコが発生するなど水質が悪化、平成18年には湖の水質ランキングでワースト3であった。外来魚の繁殖などもあり,現在の湖の状況は深刻そうに見える。
 この程度の基礎知識しかなかったので勉強のために映画を見に行った。

 監督は男鹿市船川港生まれの岩崎雅典氏、浅利香津代氏が男鹿弁でナレーションを担当していた。八郎湖の歴史、工事の様子、八郎湖を元のきれいな湖に戻そうとする活動、大久保小学校の取り組みなどが次々と紹介され、多くの関係者の方々の思いを知ることが出来た。

 ただ、大部分を学者、地元の漁業関係者等のインタビュー,小学校の活動状況を通じて生の声で伝える手法で進めていたので、私にはやや物足りなかった。この方法も数多くの中の一つであろうが、もう少し問題点を濃縮し、情報として国民に広く発信していく手法もありだな、と感じられた。
 映画終了後、西木正明氏、岩崎雅典氏,他2名の方をシンポジストとして<八郎湖シンポジウム>「八郎湖の未来を語る」が企画されていたが、私は時間が無く、聴講しなかった。今となれば、惜しい機会を逃した,と思う。


10/28(金)快晴 新患外来補助 
2:00 起床、新聞チェック他。7:05自転車病院着、回診他。8:45-11:00外来補助、病棟患者対応、病歴、その他書類。15:30-16:50ポタ雄物川新屋方面。医療関連文献など。夕食、20:00就寝。

クロスバイク(6)取り締まり強化(2)遅きに失したし,今回も姑息的対応だ
 いま歩道は人と自転車が乱雑に行き交い、歩行者は危険な状態に置かれている。

 警察庁は歩道での歩行者の安全を重くみて、幅3メートル未満の歩道は自転車の通行の許可を見直すことを決めた。さらに、歩道上の自転車を一方通行にすることも含んでいる。自転車の一方通行は事故を減らしたり,歩行者が迷惑することの軽減に一定の効果があろう。しかし、この発想は正しくない.自転車は何処を走ろうと始めから左側通行となっている。

 1970年と78年に道交法が改定され、車道での自転車の安全を守るために特例として自転車歩行者道が認められた。問題は例外のはずの自転車歩行者道がどんどん増やされ、今や歩道の半分近くにまで広がった。そして、歩行者・自転車間の事故の急増である。何でこの様なことになったのか?それは,いままで道路行政の中で姑息的な対応しかして来なかったことの結果である。

 自転車の安全を守るために歩道を走らせたことが過ちのスタートであり、自転車問題はこれで一件落着としたのかどうかは分からないが,走り方の指導や規制の徹底を図ってこなかったし、ズルズルと自転車歩行者道を増やしてった。結果的に,自転車は歩道走行すべしと言う風潮が出来上がってしまっている。自転車は車道走行が原則だよ,と言っても「ウソでしょう」と言う返事が多い。自転車は、車からは邪魔者扱いされ,歩行者からは迷惑者扱いで行き場を失っている。

 歩道を自転車が走ることによって歩行者が安心して歩けなくなったし、歩行者間との事故が増えた。私は秋田市内では歩道を歩くことは殆ど無いので実感していないが、かつて東京駒込の日本医師会館に頻回に出張していた頃、駒込駅から会館に至る迄の数100mの歩道は私にはとてもストレスであった。歩行者をよけて歩くだけでも嫌なのだが、前後から次々と自転車が走ってきて,私は完全に邪魔もの扱いであった。東京の方々は歩行者も自転車乗りもそんな環境を受け入れている様に思えてならない。

 自転車の安全を守るためには,車道にこそ手をつけるべきだった。そして、ドライバーの対自転車面での安全意識を作りあげるべきであった。
 いまの車道は一応白線が引いてあって自転車用にスペースが確保されている。ところが,確保されている路幅はせいぜい50-60cm、場所によっては10cmほどしかない。しかも左側には歩道との間に10cmほどの段差があるかブロック状の構造で歩道と分離されている。だから、心ないドライバーが自転車側に寄って来ると自転車は逃げ場を失い、多くの場合は転倒することになる。
 歩行者の安全確保についてはドライバーのマナーもかなり良くなってきていると思うが,対自転車では必ずしも良いとは言えない。
 


10/27(木)秋晴れ 大曲友の会「健康まつり」講演 
2:00起床。昨年は太平山に初雪、講演準備、新聞チェック。7:00自転車病院着。回診その他、8:55こまち、10:00-11:35講演。12:20こまち、13:30帰院,回診、書類。13:30-17:00雄物川脇の歩行者・自転車道路。文献整理、夕食、20:00就寝。

クロスバイク(5)自転車走向の取り締まりが強化される。良いことだが、一方的だ?
 10月26日の新聞は自転車関連記事が目立った。
 警察庁が10月25日、自転車の交通ルール遵守を全国の警察署に指示したから取り上げられたもの。
 従来、自転車についてもいろいろな規定はあったが、これまで積極的に取り締まってこなかった。心ない自転車乗り、歩行者を巻き込む事故も生じており、今回方針を転換した。私はとても良いことだと思っている。

 自転車取り締まり強化に関連する記事は、見出しだけ見ると自転車が全て悪者になっている。朝日新聞社説は「危ない自転車 歩道は歩行者に返そう」、秋田さきがけは一般記事で「歩道の自転車 走行ルール無視後絶たず」,河北新報も記事で「自転車 車道走行を徹底」として記述している。同様の見出しで内容がほぼ同じ記事は岩手日報、福島民報にもあった。自転車がワル扱いされている。
 一方、この日は自転車に関して別口の記事の掲載もあった。 朝日新聞「自転車用ナビ続々 街めぐり人気で需要高まる」、河北新報「自転車専門店化 東北で加速」である.  
 自転車愛好者の一人として喜ばしいことだと思った。

 自転車は軽車両であることから、私は車歩道が分離されている道路では可能な限り車道の左端、白線があればその外側を走る。しかし、車道走行が無理なほど狭い道路で交通量が多いときにはやむを得ず歩道を走る。その際、歩行者がいれば脅威を与えない程度に減速する。要するに、私はかなり模範的な自転車ユーザーの一人と思っている。
 ところが、車道を走る自転車は極めて少ないことである。自転車はかなり多いが、滅多にいない。殆ど私だけ。しかも、歩道を走る自転車は結構我が物顔であり、スピードも速い。車道を走っている私を歩道走向の自転車が抜いていくことも希ではない。そのような歩道を高スピードで走る自転車に肝を冷やした歩行者は少なくないだろう。

 道路交通法で自転車は車道の左側を車と同じ方向に走るべきである。 昭和45年(1970)の道路交通法改正で「第63条第4項」に「自転車は車道通行が原則であるが、指定歩道なら歩道通行してもよろしい」とある。例外的対応として自転車も歩道を走ることができることになったのであるが、問題はこの条項が拡大解釈され、「自転車は歩道走向すべし」と言う風潮を作り上げたことである。特に、車のドライバーが「何で車道を走るんだ」と邪魔者扱いされ,危険である。ここまで、ほぼ全国民が「自転車は歩道」と思い込んでしまった今となっては、自転車を車道に戻すことは強力な法的対応をしなければ出来ない。

 やっと今になって警察庁が取り締まりを強化することになったのであるが、多くの自転車が歩道走行しているのはそれなりの土壌があったためで、わが国の道路行政の問題の結果である。それなのに「自転車をワルとして取り締まる」のは片手落ちである。


10/26(水)曇り 外来  
1:30起床。いつもの如し。7:00自転車、鯉に餌後病院着。7:30患者家族面談、回診等病棟業務。8:45-13:45外来、総括他。15:30-16:30自転車ポタ。文献整理。夕食、20::30就寝。

国民皆保険制度(15)混合診療(6)の意義を明確にした原告に感謝
 平成16年当時、小泉首相は医療に競争原理を持ち込み,株式会社として医療機関を経営できるようにするために混合診療の全面解禁を求めてきた。この際には、日医が中心となって各医療関係団体に呼びかけ国民運動を展開し、その実現を阻止した。そして、混合診療ではない仕組みとして「保険外併用療養費制度」が18年に開始し,保険診療外であろうと一定の効果が認められるような診療行為は保険診療と併用できるようにした。

 控訴審で東京高裁は2009年9月29日に、前判決と逆に原告患者側の請求を退けた。理由として、保険医療機関及び保険医療養担当規則第18条で「保険医は特殊な療法又は新しい療法等については厚生労働大臣の定めるもののほか行つてはならない」とされており、保険医が保険外診療を行なうことは禁止されているが、高裁は「混合診療を原則として禁止したものと解するのが妥当」と判断を示した。
 これに対して原告側が控訴し最高裁で争われたが、昨日、最高裁の混合診療禁止を合法との判断を下した。

 混合診療は,確かに一部の患者に利する部分もあるが、ひとたび混合診療が認められれば、医療の安全性、公平性に対する基準が損なわれるばかりでなく、患者の経済力で受けられる医療に格差が生じ、その考えは持てるものの論理で助長されていく。結果として公的給付が縮小され、やがて相互扶助の理念に立つ国民皆保険制度としての意義は縮小し、制度自体が崩壊していくことになる。

 混合診療を禁止する根拠として国は保険医療療費担当規則を設けているが、「混合診療」という文言は使っておらず法的根拠として曖昧であった。それが、今回最高裁の判断が出たことで明快になったと言えよう。

 腎臓がんを患った原告の方は手術後に半年ほどで頭と頸の骨に転移が見つかったとのことであるが、今でも元気でおられる。ご自身は、これは混合診療を受けた効果であると思っているとのことである。そして、「基本的人権を侵害する行政から国民を守る姿勢を放棄した判決と言わざるを得ない」と述べ、敗訴はしたものの4/5人の裁判官が現行制度に疑問を投げかけ改善を促したことを評価した。

 この原告の方は病気になった上にこの様な長期の裁判に耐えて闘って来られた。結果として混合診療の位置づけが明快になった。原告に最も感謝しなければならないのは我々医療関係者である。


10/25(火)終日小雨 外来   
 2:00起床。文献等いつもの如し。講演準備。7:00雨で車病院着.回診。8:45-13:45外来、書類他。16:00帰宅、暗く風ありポタリングは諦め、文献整理、読書他。夕食、20:10就眠。 
国民皆保険制度(14)混合診療(5)は合法の最高裁判断が下された  
 混合診療と言う言葉は一般の方々にそう馴染みがあるとは考えられ無いが、本日の新聞紙上では「混合診療は適法」と見出しを付けて最高裁判決が出たことを各紙が論じた。

 混合診療は慣用されてはいるが、法律用語ではなく、従って定義ははっきりしているとは必ずしも言えない。要するに、混合診療とは健康保険で給付が認められている医療と給付対象外の医療とを同時に行う事を示し,日本の国民皆保険制度の中では原則的に認めていない。そして、混合診療を行った際には健康保険の給付対象になる診療費を含めて全額自己負担となる事になっている。
 例えば、乳がんの手術は保険適応であるが、乳房の形を整えるための手術は治療行為ではなく美容整形に相当するとして保険診療では行えない。これを同じ入院期間に行うと、乳がんについての治療費用を含め、全医療費が自己負担になる。

 従来から混合診療は患者に利することから認めて欲しいとの意見は聞かれていたが、原則論が貫かれてきた。これに異を唱えた患者から裁判が起こされ、一度は混合診療は禁止は違法、との判断が成され驚いたが、この度、「日本の健康保険制度の中で混合診療の原則禁止は違法ではない」との最高裁の司法判断が初めて下された。

 原告は腎臓がんに罹患した方で、2001年から保険診療の「インターフェロン療法」と、自由診療の「活性化自己リンパ球移入療法」を併用していたが、2005年病院から混合診療にあたるので続けられない、と告げられた。これに対し、「自由診療の併用で保険診療分まで認められなくなるのは不当であり、患者には混合診療を受ける権利がある」と訴えたもので、以後、本日まで「混合診療の原則禁止」に法的な根拠があるかどうか、憲法違反ではないか、が争点となっていた。

 2007年11月7日、東京地裁で出された判決では、「健康保険法は個別の診療行為ごとに給付対象かどうかを判断する仕組みであり、保険を適用するかどうかは個別の診療行為ごとに判断すべきで、併用しても本来保険が使える診療分まで自己負担にすると言うことに法的根拠はない」とし、更に「判決はあくまで法の解釈上の判断で、この判断が混合診療を容認をしたのではない」、とも述べていた。
 要するに、「一部別物を上乗せしたからと言って、全体を否定することに法的根拠はない」と言いながら、「上乗せして良いか否かは司法の判断では出来ない」と言っている。保険診療そのものの解釈も,混合診療についての部分も報道から得られた範囲の情報ではよく理解できない判決であった。

 この地裁の判決は、世界に類をみない、わが国独自の保険皆保険制度の根幹を揺るがしうる判決であった事から、国は控訴していた。


10/24(月)曇り 外来 インフルエンザ予防接種開始
1:30起床、家内夜半に福岡から帰宅。文献新聞他チェック。7:00自転車病院着、回診他、8:45-13:30外来、紹介状他。15:30-16:15自転車ポタ。小雨あり切り上げて20Km。大曲講演準備。夕食。20:45就寝。

クロスバイク(4)車でステレオOKだがヘッドフォンはダメ,自転車ならどうか?
 自動車にはカー・ステレオが大抵付いている。私自身はカーステレオはそれほど欲しくない。AM/FMラジオで十分である。それでも車を購入するとそれなりのグレードのカー・コンポが付いてくる。要らないから安くしてくれ、は通用しない。大体、車内外からの騒音の中で真面目に音楽聴く気になどならない。

 で、私はつい先日まで車でも,マウンテンバイクでも周辺の音があまりにも煩いので騒音を軽減する目的でノイズキャンセリングヘッドフォンを用いてきたが、これは違法行為なのだそうだ。音楽は聴いていないが、ラジオ深夜便の録音を聴いている。今迄,何度か見られたがお巡りさんに直接は注意されたことはない。それでもちょっと後ろめたい気がしていた。

 車を運転中にヘッドフォンをしているドライバーは私自身以外見たこともないし実態は知らないが、自転車でインナー型のイヤフォンで何かを聴いている中高校生はすこぶる多い。まさか、登下校時に英語の勉強しているとは思えない。音楽なのだろう。

 それと、無灯火自転車、ケイタイを操作しながら走っている高校生が実に多い。無灯火もケイータイもヘッドフォンで音楽とかを聴くことは交通違反とされている。

 ところで、何でカー・ステレオが許されてヘッドフォンはダメなのか,と思う。走行中にカーステレオを操作して事故を起こした例は少なくない。ヘッドフォンはどうなのだろうか。少なくとも私のファイル中にはそのような例はない。ハーレー、ホンダ等の1500ccクラスの大型バイクにもステレオが標準装備されている車種もあるから、バイクの場合も法的には問題なさそうである。

 そうなると、自転車でもステレオなら問題ないだろう、と思う。で、私は数週間前から自転車走行時に使えそうなステレオ装置をいろいろ試行錯誤している。現時点で用いている機種は目立たず、それでいてなかなか使い勝手も良い。

 交通弱者はあくまでも弱者である。違法性とかの弱点を抱えていては何かあった際に拙いことになるからである。


10/23(日)雨・曇り 映画「ペーパーバード」 
2:00起床、文献新聞等、7:00-8:00自転車ポタ。録音、文献等整理、14:30病院、16:00-18:30映画「ペーパーバード」、19:00帰宅、夕食、20:00就寝。

野田首相(4)福島民報社説中「1年で退陣論」も  メディアとして軽すぎないか
 野田首相が就任してから50日、この間の評価は私はそれほど悪いとは思っていない。ただまだ慎重すぎる対応のような気がする。彼は政権交代後3人目の首相である。自身も認めているようにここで失政があると民主党は政権の座から転がり落ちる可能性が高い。慎重にならざるを得ないのは良く理解出来る。
 鳩山氏は言うことが二転三転し、口から出任せ調であったし、菅氏は対小沢を鮮明にする方策を採ったことが党の融和を阻害したし、唐突・勇み足的発言の多かった。このトップの二人は首相に相応しい人材であったか疑問が残るが、三人目となると個人のレベルで論じられない。彼は二人の轍を絶対に繰り返してはならない立場にある。
 ただ、ここ急速な動きが見える。TPP問題であり、普天間問題、復興財源、消費税問題である。野田氏にしてはちょっと動きが速すぎるような気がしない訳ではないが、前二者についてはその背景にはオバマ大統領の圧力があるようである。後二者についても現実的には急がなければならない。

 私は、もう少し事態を見ていく必要があると思うのだが、一昨日の福島民報に厳しい社説が掲載された。以下が論旨である。

 野田首相が東日本大震災と東電原発事故対応にリーダーシップを発揮し切れていない。何に付けても鈍くて、このままでは「宰相の寿命1年」というささやきが聞こえてきそうだ。野田政権への評価は、内閣支持率にも反映されていて、発足時に比べて既に8ポイントもダウンした現実を見よ。さらに、「財務省の傀儡政権」「官僚依存内閣」などと揶揄され「政治主導」の声はどこかに隠れた。「ぶら下がり取材」を拒否し続け、説明責任を放棄した。大震災の復旧・復興、原発事故の収束などへのスピード感も出ていない。これでは「どじょう」ではなく、「モグラ」「ミミズ」ではないか。本国会では復興財源をどう確保するのかが争点となる。野田首相の先見力・統率力が真に問われる場だ。・・・(浜津 三千雄)

 上記の如く厳しい内容である。
 特に放射能被害で復興が急がれる福島県のメディアであることから政権を見る目も厳しいのは理解出来る。しかし、まだ発足して2ヶ月にもならない政権を「宰相の寿命1年もささやかれている」とするのはどうなのだろうかと思う。誰がささやいているのだろう? メディア、特に新聞の社説の持つ意味は大きい。社説中に「モグラ」「ミミズ」等と書くのもどうかと思う。多くの新聞は何人かの論説委員が推敲して社の意見として掲載されるが福島民報の社説は記名入りである。責任は個人か?社か? 前者なら、個人の裁量で書かれた文章が社説として掲載されるのは如何なものだろうか,と思う。

 いま、大震災被害地、特に福島第一原発の影響を直接的に,間接的に受けた地区は風評で苦労しているが,私は風評被害を作るのもメディア、それを書き立てるのもメディア、と思っているがメディアは世論形成に大きく関与していると言う社会的責任を忘れてはならない。


10/22(土)曇り 患者死去 飯川病院日直 秋大第三内科同窓会
 2:30起床、新聞など。4:30病棟より連絡、Taxi病院へ。患者死亡、見送り他、7:00Taxi帰宅、7:30-8:30自転車ポタ,途中降雨。風邪か?微睡で改善。11:30自転車病院、12:30-17:15飯川病院日直、18:20-20:30秋大第三内科同窓会、21:30自転車帰宅、22:00就眠。

バスバリトン池田直樹氏コンサート「音に祈る」 バスバリトンの魅力を堪能
 去る10月15日土曜日、15:00からアトリオンホールにてバスバリトンの池田直樹氏の「音に祈る」という副題のついたコンサートがあった。

 演奏曲はピアノ伴奏飯田俊明氏で、■荒城の月■まちぼうけ■オールド・ブラック・ジョー■ディープリバー■ロンドンデリーの歌■ウイーン我が夢の町■シューベルト・歌曲集「冬の旅」から菩提樹、あふるる涙■モーツアルト・オペラから2曲■ブラームス・歌曲集「四つの厳粛な歌」

 氏は1950年生まれ.東京芸術大,同大学院修了、中山悌一・小島琢磨・ハンス・ホッター氏に師事、1980年から1年間文化庁派遣の芸術家在外研修員としてミュンヘンで研修したという。オペラ歌手,演出家,役者として活躍。ボランティア活動にも取り組んでいる.1999年「NHKきょうの料理大賞」部門賞第1位受賞したと言うから料理の方でも一家言あるのかも知れない。
 音楽家で料理好きは結構多いのが面白い。私が知っていてさっと出てくるだけでも指揮者のシノポリ、チョン・ミュンフン、ヴァイオリニストのパールマンなどがいるが、今回このリストに池田氏が加わった。

 池田直樹氏のお名前は全く知らなかった。初めて接したのは、5月20日の18:30から秋田市の弥高会館、ゲストハウス「ヴァレリアーノ」で開催されたメゾソプラノ池田早苗氏、ピアノ竹内俊平氏による「緑のそよ風コンサート」を聴いた際である。このコンサートは「千楽会」というところの主催で柔らかな雰囲気で、質的にもなかなかの内容だった、と私は楽しんだが、帰りしなに会の代表の方から声をかけられ、この池田直樹氏のコンサートにも是非、と勧められたのが切っ掛けであった。池田早苗氏、直樹氏はご夫婦である。

 男性歌手では圧倒的にテノール域の方々が活躍されていて高名な方も多い。バリトン歌手はそれより少なく、バスバリトンは更に少ない。私はテノールの方のコンサートを聴いていて感心はするが何か苦しいものも感じてしまう。その点はより低域の方の場合はゆったり聴くことが出来るから好んでいるが意外と聴ける機会は多くない。
 池田氏の歌唱は実に素晴らしく心から楽しめた。

 ゲストとして5月に伴奏を務めたピアノの竹内氏が登場、ベートーヴェンのソナタ「悲愴」を演奏した。それまではあまり親しみを持っていなかったが、このコンサートの後は私のレコードプレーヤーにはケンプ版の同曲が鎮座し、いい音を聴かしてくれている。この版は1971年に購入したもので、当初何度か聴いたが、今回は約40年振りである。

 私はコンサートはネームバリューとは関係なく、時間があれば聴きたいと思っているが、その理由は聴く度ごとに必ず何かの新発見があるからである。


10/21(金)快晴 終日飯川病院代診 映画『黒湖」
 1:30起床、新聞、歴史関連書籍読む。7:00自転車病院着、重症患者対応、回診他。 8:15-17:00 飯川病院へ。病院に戻り重症者対応ほか。18:15-19:30映画「黒湖」文化小。20:00帰宅、夕食、21:30就寝。

映画「バビロンの陽光」 イラクの風土、人々の生活の画像は貴重

この映画は数少ないイラク映画。パンフレットによれば、イラクでは2003年以降わずかに3本しか映画が製作されていないとのことである。そのうちの一本というから貴重である。

 時代設定,地域は2003年のフセイン政権崩壊後3週間のイラク北部のクルド人居住区。あらすじは戦地に出向いたまま帰らない息子・イブラヒムを探しに,父の顔も見たことのない12歳の孫アーメッドを連れ、老いた祖母が旅に出た。 いろいろな困難があったが,二人は何とかイブラヒムが収監されているという刑務所に着いたが,そこには居らず集団墓地に行くよう勧められ,更にそちらに向かう。 結局、祖母は、イブラヒム旅の途中で死を迎え、アーメッドは一人取り残される。

 二人の旅は困難を極める。80歳近くの老婆と12歳の組み合わせだけでも予想できる。刑務所までの距離はおよそ900km、僅かな所持金しか持たない二人は荒涼な大地を歩き、ヒッチハイクをする。乗せてもらうための金銭交渉も殺伐たるもの。バスターミナルは、人でごった返していた。その中で自ら生きるために激しく怒鳴り合い自己主張する人々、ボロボロのバス。どれをとっても予想を超えた内容と影像であった。

 舞台となった2003年のイラク、バグダッドへ向かう道筋には、まだ盛んに黒煙が上がり道路が封鎖されたりしている。ナシリアの刑務所はほとんど破壊されていて、二人は集団墓地に向かう。フセイン時代に虐殺された人たちが埋められているとされる集団墓地は、次々に見つかり、夥しい数の遺骨が発掘されたという。

 この映画では、イラクの文化、文明、人々が映し出されている。この国の映像を観ることなんてないので、改めてイラクは不毛の地、砂漠国だと知らされた。戦闘で疲弊した土地、破壊された建造物、それらの影像が私にとってとても貴重であった。

 イラクには映画産業といえるものがない。イラクでイラク人が作った映画はこれが初めてらしい。機材も人材もない中で、出演者は普通の人をスカウトしたと言う。主役の少年,老婆役の演技も見事であった。こんな中でイラクから映画を通じて情報を発信することの意義は大きいのだろう。娯楽映画とはとても言えない。決して面白い映画ではなかったが十分見応えはあった。


10/20(木)快晴 外来 午後は飯川病院代診
2:00起床、家内福岡で不在。いつもと同じく新聞文献など。7:00自転車病院、回診。8:45-12:20外来、その間に入院患者家族面談。 12:30-17:00飯川病院代診。病院に戻り重症患者回診。18:20自転車帰宅、夕食、20:15就寝。

看護学院講義(4)教科書 編集コンセプトも難解 ベトナムからも来るというが
 この教科書の監修者による「はしがき」をいささか長いが引用してみる。
 非現実的に高邁な目標で、文章も著しく難解である。 また、「はしがき」は誰に読ませるための文章なのか分からない。自分達に対して書いたのではないのだろうか。文中に「学び取っていただきたい。」とあるから実際は学生向きだろうが。

----------------------------------------------
 『67年から翌年にかけて行われた看護学校教育課程の改正に伴って、新しく「成人看護学」という項目が設けられた。本強化のねらいとするところは、「看 護の基礎理論としての知議・技術・態度を理艀し、これを応用することによって病気をもつ人の世話あるいは健康の維持、増進を実践指導し、看護の対象である あらゆる人の、あらゆる状態に対応していくことが出来る」という、看護の基本的な理念を土台として、「成人」という枠組みの対象に対する看護を学ぶことに ある。
 したがって、看護を、従来のように診療における看護といった狭い立場からではなく、保健医療という幅広い視野のなかで保健医療という視点においてとら え、一方、疾患をもった患者に対しては、それぞれ患者が最も必要としている援助を行うという看護本来のあり方に立脚して学習しなけれぼならない。
 本書「成人看護学」は、以上のような考え方を基礎として編集されたものである。

 まず「成人看護学総論」においては、成人各期の特徴を字ぴ、対象である成人が、どのような状況のもとで正常から異状へと移行していくのか、またそれを予 防し健康を維持していくためには、いかなる方策が必要であるのかを学習し、成人の全体像と成人看護の特質をつかむことをねらいとしている。
 
 以下、「成人看護学」の各巻においては、成人というものの概念を把握したうえで、人間の各臓器に身体的あるいは精神的な障害がおこった堀合に、その患者 がいかなる状態におかれるかを理岬し、そのときの患者のニーズを満たすためにはどのようにすればよいかを、それぞれの系統にそって学習することをねらいと している。したがって、「成人看護学」の学習にあたっては、従来のように診療科別に疾病に関する知識を断片的に習得するのではなく、種々の障害をあわせも つ可能性のある1人ひとりの人間、すなわち看護の対象としての人聞のあらゆる変化に対応でぎる知識・技術・態度を学び取っていただきたい。 
 このような意味において、学習者は対象の健康生活上の目標達成のために、より有効な援助がで言るような知識・技術を養い、つねに研鑽を続けていかなけれぱならない。

 (中略ー以下は疾患各論についての記載)第2-4章では、疾患とその医学的対応という視点から、看護の進展に必要とされる医学的な基礎知識が選択的に示されている。既習知識の統合化と臨床医学の系統的な学習のために、最新の知見に基づいて解説されている。(後略)』

--------------------------------------------------------------

 野田政権は新たにベトナムからも看護師・介護士を受け入れることを決めた。10月31日に来日するズン首相と会談して決める。これで3ヶ国から受け入れ ることになる。今迄、インドネシアから316人、フィリッピンから139人来日して勉強したが看護師国家試験合格は数%で,不合格者の殆どは夢を果たせず 帰国している。中には本国で5年以上も看護経験を積んだ優秀な看護師もいたという。
 国でも、彼女らの滞在期間を延長したり,日本語教育の強化など、対策もしているようであるが,私はこの様なニュースに触れる度に看護師教育のカリキュラムの問題を考えてしまう。どう考えても非現実的内容だ、と思う。


10/19(水)晴れ 外来 家内JDDWに
1:30起床。新聞医学論文他チェック。7:00自転車病院、回診など。8:45-13:55外来、 15:45-17:00院長不在で飯川病院代診。18:00自転車帰宅、夕暮れの走行は危険。随筆集など読む、夕食、20:00就寝。

看護学院講義(3)難解な教科書 急性白血病分類を例として示す
 私に与えられた講義の分野は血液・免疫学の分野である。届けられた教科書は看護学部門も一緒で2冊になっている。この広く深い血液・免疫分野のうちの医 学・医療部分を90分の講義3回、たったの270分でやらなければならない。学生は4月に入学したホヤホヤの一年生。高校で生物の時間で若干は身体につい て学んだことがあると言うので、血液について簡単な質問をしてみたが,明快な返事は得られなかった。殆どサラの状態である。血液がサラサラなら良いのだ が,ちょっと厳しい。

 血液・免疫に関して教育の到達点は、病を持つ患者の状況の理解と患者の変化、特に状況が悪化に向かっている際は生命の危険が大きいだけに,その観察と理 解が出来れば十分だと私は思っている。そのために若干の知識があればいいのであるが、実際のカリキュラムは実に無情である。
 教科書には血液・免疫に関する解剖、生理,病理について、更に、診断・治療を含む内科的内容について医学生向きの教科書と同様の内容が、用語の解説など一切無い専門用語で説明されている。

 サンプルとして急性白血病の項にあった表を示した。2008年のWHO分類である。血液学の臨床専門医ならいざ知らず,医師にも殆ど知られていない表で ある。これは一例であって、この様な無味な表が随所に散りばめられている。私なら看護師バージョンを作るが,編集者はいかなるコンセプトで教科書を編纂し たのか疑問である。
 いま、血液学の最先端はここまで到達しているという深さを示し、学問へのロマンや興味を誘導しようとするのだろうか?そんな効果はゼロですよ。


10/18(火)晴れ曇 寒い 外来 自転車6週で1.000Km達成
 1:00 起床。新聞・文献・本読みなど。6:55自転車病院着。回診他。8:45-14:00外来。書類等。15:30-16:20自転車新屋方面ポタリング。文献読み、夕食。 21:10就寝。

クロスバイク(4)風を受け、朝日と夕陽に向かって走り、1.000Km?
 厳しかった残暑も台風12号と15号の通過後急速に勢いを失い、一時冷えすぎ,と感じた寒い数日を経て,再び通常の秋らしい過ごしやすい季節になった。ただ日照時間が短くなり朝夕はめっきり寒くなってきた。朝は5:30amを過ぎないと明るくならないし、17時半には暗くなる。
 テニス用のトランクス姿での自転車通勤は今年は10月7日で終了とし、10年以上前に購入していた上下のテニス用のウインドブレーカーを引っ張り出して着用している。色もシロなので自転車での安全のためにも良い。
 今朝はかなり冷え込み、更に耳当て、手袋と靴下を着用して走った。

 自転車であるが,クロスバイクを購入してから、風を受けながら、ほぼ連日朝日と夕陽に向かって走ったが、その結果1ヶ月半で積算走行距離が1.000Kmとなった。

 注文したクロスバイクが届く前に,下準備として簡単なサイクルコンピューターを購入し、現用の自転車で走行記録をつけ始めたのは8月30日であった。それが本日、積算走行距離が1.000Kmを超えた、ということ。
 9月1日から始まったヘルスチャレンジへはサイクリング200Km/2ヶ月でエントリーしたから5倍以上のペースである。クロスバイクにしてから自分の走行目標は500Km/月に置いたからこれもクリアしている。

 走った距離が積算されていくのはとても楽しいし、励みにもなる。それにしても1.000Kmとは随分走ったナ、と改めて思う。これを新幹線の走行距離に置き換えてみると、秋田からこまちで東京,更に東海道新幹線で大阪に向かっていると仮定すると丁度名古屋駅の手前を走っていることになる。

 私は中学・高校の時に厳寒期を除いて往復で30数Kmの自転車通をした。当時は道路も悪く,自転車も重かった。雨風の日は実に辛かった。お陰で体力がついたし、多少のことではへこたれない精神力も備わった。自転車は私にとって愛着のある、身近な存在であり,かなりの距離でも走れる,と言う自信も持っていた。しかし、車、バイクを中心に過ごした。ここ2-3年ほど自転車で通勤したが楽しみのために乗るという発想は殆どなかった。
 それが,8月下旬に突然、スポーツバイクに興味がわき、思い切ってクロスバイクを入手したが、自転車に対する考え方を一新してくれた。最初は慣れない姿勢、操作に不慣れでびびったが、慣れたら走りやすいし、走ること自体がとても楽しい。スポーツバイクは私に新しい世界を提供してくれた。

 今日は自転車の走行距離の積算開始後、1.000Km到達日で、とても良い気分である。


10/17(月)雨時々曇り 中通高等看護学院講義
 1:30 起床、新聞・文献など。7:00雨の隙間をぬって自転車病院。重症者回診他.8:50-10:20中通高等看護学院血液疾患の代講、担当医師病欠のため。 10:30-12:40入院患者家族と面談。書類処理。15:30-16:50強風下市内自転車ポタ。秋高脇登坂3回目。夕食、19:30就寝。

看護学院講義(2)難解な教科書を用いる看護師養成カリキュラムに難あり
 本日、久々看護学校の教壇に立った。講師の医師のお一人が産休に入ったからである。
 お断りしたかったのであるが、私は実はとても気が弱く,対人交渉は嫌で下手、だから、断り方がとても下手である。今まで業務上の依頼を「バシッ」と断ったという記憶はない。だから結果的に何でも引き受けてひどい状態に落ち込んだのだが、いつかは、と耐えて来た。退職した以上もう診療外の責務はないハズ。「一発断ってみたい・・」と衝動に駆られたが、「緊急事態なので、何とか・・」と学園長に頼まれ,またまた断り切れなかった。

 私共の法人明和会では高等看護学院を併設し看護師を養成している.私は1985年の赴任以来しばらく、恐らく10年近くそこで血液、内分泌内科等の分野を担当してきていた。

 他の分野、他の講師の方々のことは言及できないが,私の講義は学生達にとって苦行だったと思う。同様に講師である私にとって苦行であった。但し、他の講師のぼやきとか苦情は聞いたこともないから、私だけの感想かもしれない。教務のスタッフに問うても歯切れが悪かった。結果的に私が最も忌避したい業務となった。血液分野に詳しい後輩が赴任してきたので平身低頭お願いし,解放された。
 2003年頃に何かの都合で臨時に教壇に立った。その時も看護師の養成カリキュラムは根本的に間違っている、と感じた。

 ここ数年は学院の行事に来賓として出席し、時に挨拶の機会もあったが,講義は久々である。当時と異なる教科書が届けられたが、内容を見て再びガックリ来た。あまりにも難解であった。カリキュラムの変更は成されたと聞いていたが、10年前と変わっていないどころか、内容的には看護師には到底役に立たない様な無駄で難解な記述になっていた。

 10年前もちょっと記載したが、教科書の問題点、授業形態の問題点を挙げてみれば、
 ■看護学関連部分はさておき医学・医療分野の記述が医学生の使う教科書レベルに近い。あるいは同等。だから理解もされず、知識にもならず、将来的にも全く役にも立たない様な空虚な内容となっている。
 ■教科書を医師養成機関の教官に依頼して書かせている。だから、医学書の一部がそっくり転載されている.看護学の立場からみた発想で教科書を編集し直すべきである。近代的看護師養成の歴史もずいぶん長くなった。なのに、未だに使用している教科書だけはミニ医学部的であるのはどうしたことか。
 ■講義を裏付ける実習時間が全くなく、超高レベルの専門用語が並んだ教科書による座学だけ。これでは、片言の日本語を話せるレベルで来日したインドネシアの看学生が味わっている労苦を、日本人の学生が日本に居ながら味わっているのに等しい。看護学生の落ちこぼれも少なくない。本人の問題、気質とされているが、そうだろうか。かつて講師として落ちこぼれてしまった私の感想である。

 看護師教育は極めて非能率、不合理だと思う。医師と看護婦は自ずから立場が異なるのだから、教育そのものも別な発想で行うべきである。看護師の養成もずいぶん様変わりし、看護大学や大学院過程まである。そこではどんな教育が成されているのだろうか。


10/16 (日)降雨、時にやむ 映画「バビロンの陽光」
2:30 起床、新聞、医学文献、録音データチェックと整理、その他。8:00晴れ間をぬって朝散歩15Km。重症者回診他病院、13:15-15:00映画「バビロンの陽光」15:30帰宅、17:30病院、重症者対応。18:30帰宅、夕食、20:00就寝。

新潟で卒後40年の同級会開催 六華寮、野の花寮、念仏寺などに立ち寄った
 10年ほど前から新潟大学46年卒の同級会にはほぼ皆勤状態である。今まで新潟3回、長岡、東京、犬山、会津、富山と7回出席したことになる。東京を除くとこれらの地はこの会が縁で訪れたことになる。

 会は「体育の日」の前日でゴルフもセットされている。私はゴルフは出来ない。宴会に出てもすぐに酔って早々に中座する。だから、何のために出席しているか分からないのだが、それでも年に一回、何人かの同級生の顔を見て、何人かと簡単な挨拶・会話を交わすだけで十分楽しい。
 それに、犬山での会の後、家内も私も開腹手術を受けたりして、どちらかが2番目の物故者になり得るだけに、年に一回 「われらはまだ生きている」ことを示しに行く目的が加わった。それに、どうせ行くなら最短距離・最短時間移動の予定とせずに、開催場所周辺を楽しむ事とした。

 今年は卒後40周年という節目で新潟で開催された。36名出席であった。私も含めて定年退職者が何人かと、来春退職予定者も何人か居て、それなりの節目に達したことが実感出来た。みんな老けてきたが、元気で良い表情していた。尤も、元気がないなら出てこないだろう。

 今年は物故者が一人いて黙祷を捧げた。新潟がんセンター院長をつとめたT君で、これから、と言う時なのに惜しまれる死であった。

 今年の挨拶の中では東日本大震災に関する話題が並んだ。津波の被害を直接的に、間接的に受けた話、厳しい風評被害のこと、脱原発への強い思いなどが語られた。何れも身につまされる内容であった。
 今回も、私は数人と言葉を交わし、ビールを少々飲んだだけで一人ホテルに戻った。

 翌日はからりと晴れ、空は高く清み渡った。帰りのJRまで若干時間があったので、古町通りを半分ほど歩いた後、タクシーにて学生時代の懐かしいところを回ってみた。昭和46年以来初めてである。私が6年過ごした大学の「六華寮」は老朽化して何れ取り壊されるとのことで閉鎖され、無残な姿を呈していた。家内が過ごしたアパート「野の花寮」は既に建て替えられ名称も違っていた。解剖実習用の大型の蛙を捕まえるために夜中に懐中電灯片手に境内をウロウロした「念仏寺」にも寄ってみたが、境内は近代化され昔の池など面影もなかった。

 最後に「とんかつ太郎」で軽く昼食を摂り、帰途についた。


10/15(土)降雨、時にやむ バスバリトン・コンサート 
 1:30起床。書類・録音データ整理、新聞、医学論文チェック。12:00-13:00自転車散歩。15:00-16:30アトリオンホール、バス・バリトン池田直樹コンサート「音に祈る」。16:45-19:00病院、重症者、新入院患者対応。19:30小雨の中ぬれて帰宅、夕食、20:30就寝。??

映画「蜂蜜」 ゆたかな森の情景にひたった
 選ばず全部観る事にしていたのでたまたま観ることができた映画。
 内容的にはよく分からない作品であった。多分、制作者には伝えたい意図はあるのだろうが、私は読み取れなかった。

 トルコの森深い片田舎、蜂蜜関連の仕事の父親が何でか失踪する。10歳にも満たない息子の「ユスフ」が母を助けながら父の帰りを待つ。結果的に父は戻ってきたが、事故死する。私が理解したのはこの程度の筋だけ。情景の大部分は森の中の学校生活、母と子のとても質素な生活の様子があっただけ。私にはよく分からない内容であった。

 この映画の最大の魅力は、トルコの木々が豊かな奥深い森林の情景。太い幹、緑の葉、落ち葉、雨の後の泥まみれの小径、それらの描写が素晴らしかった。私は秋田に居ながら彼の地の森の中にいた気分になってしまった。

 それに、主人公「ユスフ」を演じた子役、学校のクラスでの勉強の状況を演じた子供達の表情も良かった。死の影がつきまとう父親役の男性の演技も卓越していた。それに、悲嘆に暮れ、表情も決して豊かでない,静かな母親役を演じた女性は、キリストを失った聖母マリアのイメージでとても美しかった。映画自体は自然界の音中心で音楽等は殆ど無かったが、この女性が描写される場面では、私の中ではペルゴレージ作曲「スターバトマーテル」の一節が何度も何度も繰り返して表れた。
 登場人物、情景が限定されていただけに、各出演者達の表情とか,集中してしっかり見ることが出来た,と言うことである。

 見終わって私が思い出すことが出来たのはこれくらいである。ゆたかな森の情景にひたった2時間であった。


10/14(金)曇り 入院患者家族面談
1:50起床、新聞その他文献チェック。7:00自転車病院着、患者家族面談2件。 回診・病棟業務、書類処理そのほか。帰りしなに患者対応に難渋。雨の心配しながら16:30-17:30自転車帰宅、読書、夕食、20:30就寝。

迷惑な新聞の見出し 「県央の」は必要だったのだろうか
 10月13日の秋田魁新聞社会面に「医師派遣で100万円受領か-秋大教授-県央の病院長から」と言う見出しで、2006年12月に60代の教授が県中央部の民間病院院長から、領収書に残らない形で現金を受け取っていたことが分かった・・・と言う記事が掲載された。
 15日には朝日新聞秋田版にもこれに関連した記事が掲載されたが、朝日の場合は「県内の民間病院から・・・」という内容で県の中央部とは記載がなかった。

 私は新聞を裁断しながら読むので翌早朝に読む。だから一日遅れでと言うことになる。13日の外来診療の時点で,ある患者が私に、「先生の病院でも大学に寄付する事などあるのですか?」と聞いてきた。私は「何で唐突にこんな事聞くのだ?」と思いつつも、「創立記念日とか,いろいろな行事の際などにはそのようなこともあります・・・」と答えたが、なんか不満げな表情で帰って行った。私の説明に納得しない様子であった。

 私は翌早朝にこの記事をみて,これを読んで質問した,とを理解した。患者は完全に私共の病院をの事だろうと思っていたフシがある。

 私共の病院は秋田県の中央部の、社会医療法人の民間病院である。メディア側は病院名を知った上での記事である事は明白であるが、果たして記事の見出しに「県央の」という言葉が必要だったのか,疑問に思う。とても思わせぶりな表現である。
 読者の大部分は、県内の医療事情等をそれほどご存じでない。せいぜい病院名を若干知っているに過ぎない。だから、「県央の民間病院」と言うことでかなりの方々が私共の病院か?と思った,と予想できる。

 今回のこの記事内容の真偽のほどはよく分からない。その後の記事では寄付として受け取ったともある。何れは明らかになるだろうが,どちらにせよ「県央の民間病院」と言う記載をする必要な無かったし,そのために迷惑した関係者もいたのだ,とは言っておきたい。


10/13(木)快晴 外来 新屋・向浜経由 
 1:30起床。文献・新聞他。6:50自転車病院、回診ほか、8:45-14:00外来。15:30-17:10新屋→向浜→帰宅、本日37Km。向浜には不明の施設いろいろあり。夕食、21:30就寝。

 マツダ ロータリーエンジン車生産中止 元ユーザーとして寂しい
 マツダは今月7日、ロータリーエンジン(RE)を搭載したスポーツ車「RX-8」の生産を来年6月で終了すると発表した。後継車の発売予定はなく、同社が1967年から販売していた RE 車が姿を消す。RE 搭載車は現在、世界で唯一、マツダだけが販売している。小型で静粛、高出力だが、燃費性能が劣る。ガソリン高騰、ユーザーの低燃費志向の高まり、各国の環境規制が厳しくなる中、近年は販売台致が落ち込み、販売継続は困難と判断した。 RE の研究開発は継続するとの事で、将来復活させる可能性は残している。マツタは1967年に初めてRE を搭載したコスモスポーツを発売。以後「サバンナ」や「RX-7」「ルーチェ」といったヒット作を世に送り出した。

 77年10月、マツダはルーチェの上級車種としてレガートを発表した。ヘッドライトが縦に並ん4灯で、私は13BのREの4ドアセダンを購入した。それまでマツタのファミリア、グランドファミリア、ルーチェと乗り継いだ。なぜマツダかというと、REの実用化に力を入れていた姿勢を評価したからで,満を期してRE車を購入した。
 REを実用化,商業化できたのは日本人の心意気だからだった,と思うが最近この様に評価したくなる事象は少ない。ハヤブサは素晴らしかった。夢のエンジンとされたREに関する独創的な研究には「心」があった様な気がして私はいつも注目していた。 
 
 マツダのルーチェ・レガート・ロータリーセダンはとても気に入った車であった。 REはともかく静かにスムーズに回った。私のはマニュアルの5速であったが、エンジンとFRの駆動軸は直結ではなくオイルが緩衝していたために振動は極めて少なかった。クラッチを踏まずに停止してもエンジンは回転していた。しかし、その機構も悪さし、燃費が悪く通常走行では4-5Km/Lと、極めて不経済であった。秋田県条例でスパイクタイヤが履けなくなった年、泣く泣く見切りを付け、スバルの4WD車に乗り換えた。

 RE車は姿を消すことになりとても寂しい。私は夢を実現するために技術の粋を結晶化させたマツダのRE車を用いていたことに,今更ながら懐かしさと喜びを味わっている。


10/12(水)曇り、雨、晴れ 外来 秋田大学周辺へ
2:00 起床。新聞・文献・本読み。7:00自転車病院着、回診、8:45-14:10外来。15:30突然の降雨、自転車積んで車帰宅。16:15-17:15晴れあり、手形山、秋田大学周辺走向。読書など。帰宅、夕食、20:30就寝。

東日本大震災(27)7ヶ月  死者15.822名 行方不明3.926人 
 東日本大震災から昨日で半年と1ヶ月経過した。未だに不明者は3.926人、死者は15.822人である。原発汚染関係では、避難民だけの問題ではないが、福島県の調査によると県外への避難者は5万6千人以上、県内各地への避難者を含めれば14万人超となっている。

 直接被害を受けた東北3県のみでない、福島は原発事故の直接的影響をもろに受けたが、影響は決して福島県のみにとどまらない。直接・間接的に多くの国民を巻き込んでいる。
 わが国のあり様、住民の生活、人生を大きく変えてしまった大震災、原発事故は半年以上も経過したこの頃、各地で復興の兆しが報道されてきているのが喜ばしいことである。

 一方、大震災、原発事故も内容的にはより深刻になってきていると言えよう。
 原発の冷温停止に向けての対応、状況は別にしても、最近の新聞報道から私がチェックした項目からざっと拾ったのだけでも以下の如くの問題点が挙げられる。問題が慢性化しているだけに当事者の方々にとっては深刻な問題となっている。

 ■石巻市では仮設住宅がほぼ行き渡り避難所が閉鎖
 ■仮設住宅では何処に誰が住んでいるのか、個人情報保護が障害になって把握出来ていないところがある。
 ■仮設住宅は生活に必要なインフラの整備が遅れ、かつ、コミュニティの場が無く、住民は孤独にさいなまれている。
 ■仮設住宅に対して国や県が寒冷対策を始。
 ■除線への設定レベルなどの国の方針が定まらずない除線が遅れている。
 ■除線は8都県に及ぶ。
 ■健康問題 甲状腺検査開始被曝線量見直し
 ■ たまる汚泥、汚染廃棄物の処理 
 ■海の汚染
 ■がれきの処理困難、
 ■風評被害は花火、橋桁まで及んだ。茨城、山形でも観光業など深刻。その中で福島産の米が安全であることが分かったのは朗報。
 ■高台移転問題 、スーパー堤防を含む防波堤のあり様 
 ■避難指示や行動に対して訴訟散発。 
 ■被災地の人口減少、医療の復旧の遅れ 
 ■東電賠償の安さと請求手続きの困難さ   
 ■政治と電力会社の癒着問題 、明らかになってきたやらせ問題  
 ■復興増税問題など
  ・・・・・・実際には枚挙にいとまはない。

 復興・復旧を落ち着いて論じられる時期に入ったのに、現政権は動きが鈍い様な気がしてならない。被災地はどういう姿で再生されるのか。政府のビジョンも一向に見えてこない。??


10/11(火)晴れ 外来 一つ森方面へ 
2:00起床、新聞・文献チェック、徒然など。7:20自転車病院、回診、8:45-14:00外来。15:30-17:00一つ森経由帰宅。読書、夕食、20:30就寝。??

国民皆保険制度(13) 日本の医療の満足度は15%!!  ロイターと共同通信のねじ曲げ報道を許すな
 2010年4月15日、共同通信はロイター通信による「医療制度 に関する満足度調査」の結果を報じたが、その際、「日本の医療の満足度は15%で22カ国で最低レベル」とし、関係者を驚かせた。

 日医の見解の如くにこの調査は医療への満足度を直接尋ねたのではなく、「家族が重篤な病気になった場合、良質で手ごろな医療を受けることは難しいか?」と言う設問である。
 この設問自体は明らかに誘導的設問で間違いである。この設問に対して「容易である」と答える事は困難だし、答えるのに抵抗があるのは当然だからである。

 更に、この設問に対し85%が「困難」と回答した、としても,共同通信社がこの数値を逆さにとって,残りの15%を「満足度」に置き換えて「日本の医療の満足度は15%・・」と報道したのは大きな誤りである。センセーショナルな見出しを付けることがメディアとしていかに大事かは理解している積もりであるが、ここまでねじ曲げることは世論形成に大きな役割を持っているメディアに許されるべきではない。メディアが持つ影響力を考えれば犯罪的,と言っても良い。

 この報道結果には関係者の一人として大いに驚いたが、恐らく、一般の方々は溜飲を下げたかもしれない。
 医療レベルを評価する因子はいろいろあるが,中でも「医療の質」「受診しやすさ」「医療費」の三つは大きい因子となる。
 「医療の質」に関しては,本来医療は「リスクを回避するためにリスクを与える」のだから、患者は大なり小なり痛い思いをする事は避けられない。「受診し易さ」は恐らくわが国ほど素晴らしい国はないだろう。しかし、患者はそれに気づかず,受診を重ね、待ち時間が長いといって文句たらたらである。「医療費」は出来るだけ安い方が良い、出来ればタダが良い、と思われている。だから医療費に不満を持たない国民はいない。医療従事者の報酬が低く抑えられているから、安い経費で良い医療が受けられ、この程度の負担で成り立っているのだ。

 医療に関連したアンケートは設問が大事である。結果の解釈も大事である。歪んだ設問と安易な回答からは何も出てこない処か本質を見誤らせる。

 日医を始めとする医療団体のみならず、各医療人も、日本の医療制度、とりわけ国民皆保険制度には内包する問題も少なくないが、総合的にみて素晴らしいことをもっと宣伝すべきだし、上記の様なねじ曲げ報道には毅然とした態度を取るべきである。?


10/10(月)体育の日 新潟快晴・秋田降雨 
2:50ホテル「イタリア軒」にて起床。持参の本読み、新聞など。微睡みなどゆったり過ごす。8:30朝食、10:00ホテル発、タクシーにて大学医学部、学校町の野の花寮、念仏寺,金衛町の六華寮など周り、12:30「いなほ」、16:20秋田着。重症者対応など。19:00帰宅。夕食、20:00就寝。

国民皆保険制度(12)各種の日本の医療の満足度調査結果
 2010年4月15日、共同通信はロイター通信による「医療制度 に関する満足度調査」の結果を報じたが、その際、「日本の医療の満足度は15%で22カ国で最低レベル」とした。この結果は、WHOを始めとするその他の調査で実証された過去の結果とは大きくかけ離れており、関係者を驚かせた。

 ロイターのデータによると、自国の医療制度に満足している人の割合が高いのはスウェーデン(75%)と カナダ(70%)、英国(55%)であった。満足度が低いのは、韓国、ロシアなどで、共に満足していると答えた割合は30%以下だった。米国は回答者の51%が手ごろな医療を受けられる、と回答した。

 上記のロイターの調査は「世界のGDPの75%を占める22ヶ国」の「18-64歳」の人を対象に2009年11月から3ヶ月間かけて行ったもの。「自分の家族が重篤な病気になった場合、良質で手ごろな医療を受けることは難しいか?」との間いに対し「困難」との回答の割合はスウェーデン(25%)、ベルギー(30%)。高かったのは日本(85%)、ハンガリー(83%)であった。

 従来の調査は今回のロイターの結果とは異なっている。
 以下がその代表的調査結果である。

 ■WHO(2000年):日本は健康寿命が第1位、健康達成度の総合評価も第1位と評価されている。
 ■第2回日本の医療に関する意識調査(2006年):日医総研の調査では「受けた医療」に対する満足度が83.6%、「日本の医療」に対する満足度は51.2%。
 ■日本の医療に関する世論調査(2009年):日本医療政策機構の調査では、「現在の医療制度にどの程度満足していますか」という設問 に対し、55%が満足と答えている。一方で、「将来の医療についての不安」 として、「必要な時に医療を受けられない」(74%)、「深刻な病気になったときに医療費 を払えない」(79%)という回答があった。
 ■OECD加盟国における地域医療の満足度および医療制度の信頼度調査(2009年):
米国のGallup社が公表した 「 OECD加盟国における地域医療の満足度および医療制度の信頼度調査」によれば、 日本は、「地域の医療における質と利便性に対する満足度」が64%、「医療制度に対する信頼度」は57%であった。
 ■厚労省受療行動調査(2009年):「病院に対する全体的な満足度」で「外来患者」58.3%、「入院患者」 66.3%が満足と回答。

 日本医師会はロイターの報告に対し2010年5月26日の記者会見で、「この調査は、医療に対する満足度を直接聞いたものではない」、「日本国民の医康に対する満足度は決して低くない」と強調した。


10/9(日)秋田・新潟快晴 新潟大学46卒同級会 
1:00 起床。小旅行準備。6:30自転車病院回診その他不在時準備。12:57発「いなほ」、で新潟に、16:15着。イタリア軒チェックイン。18:00新潟の老舗「いきなり亭」にて富山大学教授による講演「めまい」聴講後、新潟大学46卒同級会,36人出席。物故者1名発生。20:30酔って中座、一人ホテルに戻りそのまま就寝。

国民皆保険制度(11)協会けんぽ12年度試算 平均保険料初めて10%を超す
 わが国は国民皆保険制度を敷いている。全ての国民が何らかの健康保険に加入している,ことになっている。各人の健康保険の引き受け団体は3.500もに及ぶが、■職域保険と■地域保険に二大別される。

 更に、分類すると
 ■地域保険は、国民健康保険と後期高齢者医療制度の二つ。
 ■職域保険は、組合管掌健康保険(組合健保)、全国健康保険協会管掌健康保険(協会けんぽ)、共済組合、の三つである。

 このうち協会健保は、中小企業の従業員やその家族が加入する健康保険で,2008年までは社会保険庁が運営し政府管掌健康保険と呼ばれていた。加入者は3.500万人ほどで国保に次ぐ規模で,協会けんぽの保険料率は2011年度は9.5%で保険料は17万円ほどで、労使で折半される。これが、2012年度の試算では10.2%に達する見込みとなった。景気低迷による給与が落ち込んでおり、高齢者医療を賄うための拠出金が大幅に増えているためで、従業員一人あたり年間26.284円増える見込みとなっている。賃金が少なく経営困難な中小企業の健康保険なだけに労働者にも雇用側にも厳しい対応となっていく。

 この協会けんぽから高齢者医療向けの拠出金は3兆3千億円で、加入者への保険給付費用は4兆9千億円ほどで、政府の補助率16.4%に変更がなかったために、運営出来なくなるための保険料増額とのことであった。

 この様に国民皆保険の仕組みは複雑である。始めから成り立たない仕組みとしての後期高齢者医療制度に対して、職域保険から多額の拠出金が回され,更に、職域保険にも国から補助が行われている。労使ともに自ら用いる保険料の約二倍徴収されているほかに、納めた税金からも医療費として使われている。
 何しろ、後期高齢者医療制度は納める保険料は一人あたり年間6万円ほどであるのに対し、医療費は10倍以上の88万円もかかっている。この仕組みを方々でカバーし,何とかバランスを取っている。この状態は更に悪化していくことが予想される。

 だから負担の仕組みを考えると共に、増大していく医療費自体にも手をつけなければ国民皆保険は徐々に厳しくなっていく。


10/8(土)快晴 回診 ロコモティブ症候群講演会 映画「蜂蜜」
2:00起床。文献チェック他。6:30-7:30鯉への給餌兼ねて自転車散歩、11:00バザー出席の家内送り病院、重症者回診、不在時申し送りその他。13:00帰宅。14:00-14:50文化小ホール「ロコモティブ症候群」講演会。15:00-17:00映画「蜂蜜」、帰宅。本読み、夕食、20:00就寝。

映画「海洋天童」 美しく心暖まる作品だが,不安も
 映画「海洋天堂」は特に選択した作品ではない。上映されるのは全部見ようと思っている映画館でたまたま上映された品目で、全く知識も何も無い状態で観に行った。
 主演のジェット・リー(李連杰)と言う中国の俳優は私は全くの初耳。派手なアクション映画のスターなのだそうだが、本人がこの作品にいたく感動して自ら主演を申し出たそうである。

 この『海洋天堂』は、自閉症の息子とその父親との情愛を描いた作品で、音楽は日本の久石譲、演奏は日本のプロのオケが担当している。既にいくつかの国際映画祭でも上映されている。ぴあ映画生活満足度ランキングで1位、「第14回中国電影華表奨」で、「新人脚本賞」、「新人男優賞」、「合作賞」と三冠を獲得したそうである。

 成人した自閉症の一人息子を持つある父親が、医師から肝臓がんの末期であることを知らされる。余命幾ばくもない。父は最初に共に死のうとして海に飛び込むが,息子は水泳だけは上手くて死に切れなかった。
 今迄はそれほど懸命に生きる術を教えてこなかった様であるが、間もなく子を一人残して自分は世を去らねばならない。父は,隣人への挨拶、簡単な食事の作り方、衣服の着脱、公共交通機関の利用法などを熱心に教え込むが、遅遅としてなかなか上手く会得してくれない。そんな過程を描いているが親子は互いにしっかりと結ばれていて暖かいが、自閉症児の社会参加の困難さも世に提起していて、とても重い,重い内容の作品であった。

 父を演じたジェット・リー、自閉症児を演じた若い俳優の見事な演技、作品に描かれた周辺の人々の善意や暖かみが素晴らしかった。
 息子を十分に教育出来たわけではないが、もう死期が迫って来た。
 最後に父は「父さんはウミガメだぞ!」と手製のウミガメの甲羅をまとい、息子と共に水族館のプールを泳ぐ。この時、息子の心にウミガメになった父がインプリントされる。やがて父はこの世を去るが、息子は父の教えたことを実行しながら何とか生きていく。

 そしてラストシーン、息子は水族館を気持ち良さげに泳ぐウミガメに寄り添い泳いでいる。その表情は笑顔で、優しかった父にしっかりと寄り添っている、安堵と愛に満ちていた。

 絶望的な親子心中のシーンから始まった映画のラストシーンは予想を超えた展開を見せて、実に美しい仕上げになっていた。私は自閉症児の社会参加という意味で興味深く観た。私にとっても長く忘れられない作品になると思う。ただ,この様な障害を抱えた子供達は社会からどの様に護られながら生きていけるのか,と言う点では未解決の不安を抱えたままである。


10/7(金)患者家族面談 牛島健康講話 入院患者対応 山道に迷入し焦った
2:00起床、7:00自転車病院。回診、患者家族面談。10:15-12:00牛島にて健康講話。入院患者対応そのほか。15:30-17:30病院→梅林園→小山→新屋→自宅。42Km走破。梅林園→小山間の山道は起伏で大変,疲弊した。本読み。夕食。20:00就寝。

イソップ物語の「犬と肉」の犬は欲張りだったのか? 我が家のクロ猫を見て疑問に
 有名なイソップ寓話に「犬と肉」がある。

 ある犬が肉をくわえたまま橋を渡っていた。ふと下を見ると、見知らぬ犬が肉をくわえてこちらを見ている。犬はその肉が欲しくなり、脅すために吠えた。すると、くわえていた肉が川に落ちて流されてしまった。犬は、水面に写った自分自身の姿だった。「欲張ると、元も子も無くす」、という教訓とされている。

 今朝、我が家のクロ猫がスズメを口にくわえて戻ってきた。最近、ネズミや小型の鳥を上手に捕獲する様になったらしく頻繁に捕ってくる。この時、不用意に家の中に入れると大変である。家の中で弄んだ後食べるが、あまりいい物でない。獲物をくわえていることに気付けばそのまま外に放り出すのだが必ずしもうまく行かない。
 今朝はクロ猫が「帰ってきたぞ、家に入れろ」と盛んに求めていたが、戸を開ける前にスズメをくわえていることに気づいたので気付かぬふりして観察していた。私と眼があった瞬間に今まで以上に大きな声で「こら、そこに居るじゃないか。早く入れろ!!」と叫んだ。その時,一瞬スキがあったのだろう、スズメがばたばたと暴れ、彼女の口から外れ,飛び去った。クロ猫は直ぐさま追ったがもう後のまつりであった。クロはそのままどこかに行ってしまった。 逃げたスズメがその後うまく生き延びられるかは分からないが,結構機敏で元気そうで,ちょっとうれしくなった。

 これを見ていて、イソップ物語の「犬と肉」を何10年振りかで思いだした。

 我が家の猫も「ニャー」と大きく鳴いた途端に獲物を失った。犬の場合は欲のために,とされているが、両者は共通していると思った。猫は食習慣として捕獲した場所で食べず、飼い主に見せた後に安心して食べられる場所に移動して食べる。飼い主にしてみれば迷惑なのだが、これは欲でなく習性である。イソップ物語の犬は「欲張ったから吠えた」とされているが,そうだろうか?犬は見知らぬ犬がいれば威嚇するために吠えるのは当然である。その習性のために肉を失った、と私は考えたい。

 そう考えれば、我が家のクロ猫の今朝の行為はイソップ物語の「犬と肉」と等価であり純粋である。欲張りとレッテルを貼られたイソップ物語の犬が気の毒でならない。


10/6(木)雨 外来 AppleのS.Jobs死去
2:00起床、新聞、医学文献他読む。徒然。降雨で残念、6:55車病院着、回診他業務。8:45-13:55外来。新入院対応、患者関連書類処理に集中。15:30帰宅。自転車にて書店巡り、途中降雨。17:00帰宅、読書、夕食、20:45就眠。

AppleのS.Jobs氏が死去された(2) 会ったこともないが,身近な方だった
 マッキントッシュブランドのコンピューターのApple社の創始者の一人でつい8月まで最高責任者であった、S.Jobs氏が死去された。

 私は1993年にColour Classicを購入して以来、パソコンは全てマックをつかい続けてきた。机上仕事,趣味の世界すらも殆ど電子化したので大部分の時間をマックと共に過ごしてきた。使った機種も新規購入、いただいた機種、息子のリニューアル時の下取り等で20機種ほど用いたと思う。今、家内が使用しているのも入れて自宅で3台、職場で2台連日使用、不調時のバックアップ用に1台ひかえている。自室で本や新聞、文献を読んでいる時間を除くと大部分の時間、ディスプレイに向かって過ごす。私の生活そのものと言っても過言でない。
 しかも、マックと共に過ごす時間はストレスではなく喜びでもある。それは、私自身が20年間ほどかけて育て上げ,進化してきた、世界で唯一の動作環境だからである。だから、自分以外のマックには興味もない。

 ちなみに、職場では電子カルテシステムとしてWinのシステムを使っている。外来は共用せざるを得ないが、病棟の機器には触ることも殆ど無い。他の人とコンピューターを共用してものを考えることなど、私には考え難い。

 パソコンは家内と息子がマックであるが、iPod、iPad、iPhoneなどのApple製品に広げて見ると、家族全員がそのどれかを使用している。2才になる孫も iPadで絵本を見ている。私もiPhoneを用いているがこれに変えてから電話やメールも出来るようになったし、コンピューターの端末としても利用している。 iPodは最も12gの最も小さなShaffleを3ヶ利用している。ラジヲ深夜便を聞き直すのに重宝している。我が家はAppleを頻用しているが,これは我が家だけの状況ではないと思う。彼はIT分野で新たな文化を創造したのだ。

 Appleの問題点と素晴らしさはS.Jobs氏が突出していたことだろうと思う。SONYも注目すべき製品を沢山世に出したがブランドイメージであった。Apple製品の場合はイコールJobs氏であった。Apple製品のユーザーはJobs氏と共にいた、というのは決してオーバーではないと思う。勿論、Appleには有能な人材が揃っているだろうと思う。しかし、今期、iPhoneは大幅に改良されてiPhone5として発表されることが期待されていたが改良版のiPhone4Sに止まった。これがJobs氏の体調不良、最高責任者退任とどういう関係にあるのか,多少気になるところである。

  私自身がこれほど死を惜しんだ企業経営者はちょっと思い当たらない。 改めてS.Jobs氏に感謝の意を表すると共に、若すぎた死に、哀悼の意を表したい。


10/5(水)晴れ 外来 患者家族面談 
1:50起床。文献・新聞チェック、自転車6:55病院着.回診他病棟業務、8:45-13:40外来+患者家族面談。15:30-17:00金曜日講話する牛島西の某氏の住宅をさがすも見つからず、高清水公園経由で帰宅。本読みなど、夕食、20:15就寝。??

AppleのS.Jobs氏が死去された(1) ユーザーに喜びをもたらした偉大な方であった
 マッキントッシュコンピューターを出しているApple社の創始者の一人でつい8月まで最高責任者であったSteve.Jobs氏が死去された。55才、若すぎる死であった。

 彼はアイデアの人だったし、アイデアを実用化に結びつける、行動力、企画力、説得力、経営力を兼ね備えた希有の人だった,と思う。
 コンピューターの分野では、数10ヶもの難しいコマンドを打ち込むことなく、画面上に図柄化された小箱のアイコンをクリックするだけでコンピューターソフトを簡単に立ち上げ、使いこなせる様にしたGUI(Graphic User Interface)を実用化した。また、マウスを実用化した。

 これによってコンピューターは一部の精鋭の技術者しか使えなかったビジネスコンピューターを、誰でも、それほど苦労せずに使えるようにしコンピューターは一人一人が持てるパソコンとなり、一気に普及した。

 彼はその後も次々とアイデアを実用化した。彼のアイデアは単に機能面の改良、高度化ではなく、常に斬新かつ素晴らしいデザインの改良を伴っていたと言うことは特筆ものであった。彼はコンピューターの世界だけでなく、iPod、iPad、iPhoneなどを世に出した。彼はこれらの製品を世に出しただけでなく、ITを通じて全世界の文化に大きな影響を与え,その一部をすっかり変えてしまった。

 彼の考えのルーツは、ソフトや音楽ソース、映像、文学等のデータをインターネットを介して配信し、Mac、iPod、iPad、iPhoneなどのユーザーは24時間いつでも、何処でもそれらを手に入れ、機器に自分独自の環境を構築する喜びと、ユーザーに使う喜びを与えた事にあったと思う。この発想は実に素晴らしい,と思う。
 私は1993年以来、コンピューターは全てマックをつかい続けてきた。机上仕事,趣味の世界も殆ど電子化したので大部分の時間をマックと共に過ごしてきた。私の生活そのものと言っても良いほどである。

 改めてS.Jobs氏に感謝の意と哀悼の意を表したい。


10/4 (火) 曇り後晴れ 外来  
0:30起床,新聞、文献、徒然などゆったり過ごす。7:00自転車病院着.回診他。8:45-14:00外来。レセプト対応。15:30-17:15自転車散歩。歴史本など、夕食。20:45就寝。ここ二日ばかり寒かったが緩んできた。

嘱託医生活(17) 腰痛にて頓挫した家庭菜園のメインテナンス 
 何年か前から近所から借りた畑に家内が野菜を作っている。昨年までは私が直接手を出すことはなかったのであるが,適宜、親戚の農家の方の手を借りたりしていたようである。
 今年は始めから私の手伝いを当てにしている様子である。

 7月中旬から何度か畑に出て,トウモロコシ,キウリ、トマト、大豆、ネギ、ナスなどを植えた。キウリに関しては背が高くなるために添え木も作った。私にとっては高校生の頃以来の作業となったが,もともと田舎育ちでわが家にも結構広い畑があって適宜手伝っていたので農作業にはそれほど抵抗はない。かつての経験もそれなりに生きた。

 上記の苗や種は今は肥料や腐葉土等と共に植え付けるのでその後の給肥も殆ど不要である。ある程度まで育った段階で間引きなどしたが、あとはそれほど手をかけずとも育った。ところが、しばらく経つと主役以外の植物たち、一般的には雑草と呼ばれているが私はそう呼びたくない、が蔓延ってきた。それらの非主役達に競合しながらも、キウリやナス、トマトなどが健気にも次々と実をつけ収穫に追われた。

 自分が関与していなかった時には、畑が多い添川付近を自転車で通ってもあまり畑そのものには関心はなかったのだが,今年はつい畑や作物に目が惹かれるようになった。これらの畑では非主役の草たちは殆どみられ無い。よく手入れがされている。わが家の畑は主役・非主役が入り乱れているのと大違いである。
 で,8月のある日、天候の良い早朝に草むしりを行った。もともと腰痛を来しやすいので中腰の作業には弱い。そのために腰掛けも用意して臨んだのであるが、時間にして2時間ほどやったところで腰痛の気配を感じて中断した。作業したところはなかなかの出来、と悦に入ったが徐々に腰痛はひどくなり約一週間続いた。その後の作業は頓挫せざるを得なくなった。電動の小さな草刈り機を申請したのであるが却下された。

 結局、腰痛の再発を恐れ、草取りはその時だけとなったが、主役達は良く成長してくれて、つい先日まで収穫が続いた。トウモロコシだけは不満足な出来であった。

 そろそろシーズン終了である。枯れつつある枝葉を抜き,非主役達をむしって農家に畑をお返ししなければならないが、草ぼうぼうでちょっと手をつけ難い。何とかしなければならないが、私の腰も大事である。楽しみあれば苦あり、である。
 今、何としようかと思案している。


10/3(月)終日雨で寒い 入院患者対応+書類処理日
1:10起床、寒い朝。着込んだほか電気あんかで足温。文献、新聞他。6:45車病院、7:30回診ほか。入院カルテ記載、患者対応、書類処理。16:00帰宅。17:00-18:00午睡。夕食、20:00就寝。入院があったが比較的余裕。寝不足か,帰宅後ダウン。終日かなり寒い日であった。

東電の賠償申請に思う(2)私は書類や手続きが嫌でいろいろ放棄してきた 
 東電はその後の会見で、相談要員を増やすとも説明し、陳謝したと言うが基本的姿勢は変えるつもりはないらしい。

 被災者を困らせる項目は煩雑さだけでなく、かかった費用は領収書の原本添付とある。十分な準備期間も与えられずドタバタと避難させられた方々が、後々に必要になるとして領収書を保存していたとは限らない。もし無ければ請求は認められないらしい。また、今回の請求は8月末までの損害がを対象としているが、「同一期間での請求は1回限り」とあり、後に思い出したり、判明した損害や後で領収書が見つかっても生かせない。

 私は退職時に職場から家に大量の書籍や資料、書類を移したが、これで見つからなくなった書類も少なくない。産業医認定書を探し出すのに一月以上もかかり、担当者に迷惑をかけた。まだ見つからない書類もある。被災者は緊急避難したのだから請求に参考になる書類等も手元にないのかも知れない。

 賠償額は、政府の賠償紛争審査会が決めた基準は、最初の半年が1人あたり月額10万円、避難所で過ごした期間は12万円で、その後は半額としている。避難所を出ると生活費は自己負担となる。こんな低額な補償とは驚く。避難者の心労、精神的損害は評価無いらしい。

 またまた私の事であるが、私は本来の面倒くさがりに加えて、経済面でケチなくせにルーズなところがあり、数多くの機会を逃してきた。アキレス腱断裂に伴う手術、開腹手術の際の保険会社の請求は多忙なこともあってやっていなかった。また、私どもの法人では共済会が医療費の自己負担分などを補償してくれるらしいが、27年の勤務期間に一度も請求したことがない。

 全日空のマイレージ、と言うのだろうか、頻回の東京往復に加え、欧州旅行分があったために5万円ほど蓄積していたが、流した。満期を迎えた生命保険の請求をするよう何度か求められたが,無視したら最近連絡がなくなった。退職に当たって共済会本部に必要な手続き、年金の手続きも書類が手元にあるがまだやっていない。説明書を見るだけでやる気がなくなったからである。

 こんな私だから東電への賠償請求の概要を見ただけで驚いてしまう。同時に自身のルーズさに気づかされた。週末あたりから取りかかろうと思った。


10/2(日)曇りのち雨 気温が低くなった  映画「 海洋天堂」  
2;00起床.6:00自転車散歩手形広面15Km、13:00-15:00 映画「 海洋天堂」,16:00息子一家離秋、自転車散歩天徳寺坂登り他12Km、本読みなど、夕食、20:00就眠。

東電の賠償申請に思う(1)現実的でない煩雑さと低額らしい 事故責任を何と考えている 
 原発事故から半年が経った。やっと地元紙を見ると地域の方々による復興・復旧などのニュースが多くなってきた。被災者の方々がその地域で元気を取り戻し始めているようだ。これらに関しては中央紙、秋田魁あたりは情報が少ない。

 原発事故で避難を強いられた方々への東電への損害賠償の請求手続きがやっと始まった。既に1世帯あたり100万円の仮払いがされていたものの、その後なかなか進展していなかった。

 ところが、実際に始まってみるとこの請求手続きにはいくつも問題がある事が判明した。
 まず、請求手続きがあまりにも繁雑とのこと。東電が補償の対象の6万世帯に配布した書類は、案内冊子が約160ページ、請求書類が60ページもある,と言う。更に、書類には専門用語が多く、高齢者が多い被災者から理解も記載も困難との声が上がっている。また補償額も不十分との声もある。請求には避難時にかかった費用の領収書を添付する必要があるという。また、この後一切の以後を申し立てないとの誓約もさせられるのだとのこと。

 ここまでは新聞から採った情報であるが、ここまで見ただけで、私ならもう頭がフリーズしてしまう。

 私共医師は患者から各種の書類を記載して欲しいと求められる。医師としての業務の中で最もストレスのもとになる業務である。その中でも記載が困難なのは生命保険会社の疾病特約保険の書類や死亡時の保険金請求の書類である。私共が記載するページはそれほど多くなく,せいぜいA4版一枚、あるいはA3版見開きの一枚程度である。記載に関する注意事項等を記載した説明書も字は細かいがせいぜいA4版1-2枚程度である。それでも記載に手間取る事も、難渋することも少なくない。実際には手間取ると言うよりは手を付けるのが億劫でつい後回しにしてしまう。特に重症患者を複数抱えているときは大変である。

 枝野経産相はこれらの問題点のいくつかを取り上げ東電に改善を求めた。これに対し東電側はわかりやすい補足資料を作ること、被災者の権利を束縛する様な文言を削除する事などを表明し、社長は衆議院予算委員会の場で謝罪したが、当然だろうと思う。

 東電は半年かけて微に入り細に入り賠償について検討し、資料を作ったのだと思う。人類が経験したことのない未曾有の原発事故への対策を進めながらの作業で大変だったと思うが、避難民の苦しい立場を軽視しているのではないかと思う。


10/1 (土)曇り時折晴れ 散髪 飯川病院日直
1:30起床、新聞、本読み。6:00手形山経由自転車出勤。緊急のオーダーを出す。8:00大学経由帰宅、16Km。11:00降雨で車にて病院、散髪する。12:30-17:00飯川病院日直。特に呼ばれなかった。17:30車帰宅、夕食、孫の活力に負けてダウン、20:00就寝。

嘱託医生活(16)5ヶ月目 改めて目標と現状を整理してみた? 嘱託医生活が5ヶ月目に入った。
 感想を一言で言えば「待ちに待った自分のための環境。やっとペースが出来上がってきた」と言うところ。自分の時間が多くなったが、それ以上にやりたいことがあって時間が足りない。無為に時間を過ごさぬよう若干気を張って過している。

 この4ヶ月間に継続的にやり続けたい、と思い実行している項目と現況をつらつら挙げて見る。
■業務と業務外の時間のけじめを明快にする。勤務時間以外は出来るだけ職場にいない、行かない------9割方達成中。
■自転車走行、9-10月は月間500Km以上------9月中の積算メーターは580Km。
■自転車で9-10月は、手形山,又は天徳寺の坂、あるいはこれに類する坂を週5回以上登る-----10割達成中。
■法人共済会のヘルスチャレンジ項目にある簡単な筋トレを長く続ける-------時に腰痛で中断しているが、8割方達成。
■英語、医療・医学、歴史、特に近代日本史を学ぶ------ほぼ連日どれかをやっているが時間が不足し、成果はあまり上がっていない。
■国民皆保険制度について学ぶ-----遅れ加減。
■シアタープレイタウンで上映される映画を全部観る-----10割達成中。
■朝日、赤旗、 魁、 河北、岩手日報、福島民報と6紙に目を通し興味ある記事はファイリング-----10割達成中。
■所持しているLPレコード1.000枚ほど全てに針を通す---- 一日平均2枚で進行中。
■月収の2割以上を岩手県の復興基金に送る-----10割継続中。

 全て、自己満足の世界であるが私は満足している。


徒然日記バックナンバーへ戻る       徒然日記へ戻る   トップページへ戻る

   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


ご意見・ご感想などをお聞かせください

これからの医療の在り方:Send Mail