徒然日記
2011年8月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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8/31(水)晴れのち雨 外来  
2:00起床,文献・新聞ほか。7:00自転車病院。回診他病棟業務。 8:45-14:20外来。書類処理。15:30-17:00遠回り帰宅、本日は20Km走行。途中で降雨。歴史関連本検討、夕食、20:45就寝。

野田首相(1)内憂外患山積み
 民主党の野田代表が第95代首相に選ばれ、新体制づくりに着手した。

 8月30日は2年前の総選挙で政権交代が決まった日でもあった。歴史的な政権交代から2年、鳩山、菅首相下での政権運営は国民が政権交代に託した願いはすっかり裏切られたと言って良い。それだけでなく政治に対する不信感が自民党の時代よりも一層ひどくなってしまった。
 それには小沢、鳩山、菅の各氏の責任が大きい。民主党を創り上げた立役者と言い得るこの3人が党だけでなく日本をダメにした。

 その点、今回の代表選挙は表舞台に立ってきたと迄は言い難い脇役が立候補したことに意味が大きかった。実務担当者の世代交代が成された。その中から野田氏が選ばれた。これが妥当な選択であったか否かは私には分からない。野田新首相が国民の信頼を取り戻せるのか、あるいは、民主党政権の最期の内閣になるのか否かも含む、重要な節目の首相である。

 野田新政権は、破綻に向かいつつあるわが国の経済を立て直すことが重点課題になるだろうが、内には挙党態勢の確立、外にはねじれ国会の克服という大きな課題を抱えており、菅首相と同様に苦労する可能性がある。タダ、管氏と異なり発言は慎重そうで,ちょっとは安心である。

 野田氏は菅内閣の財務相として、「社会保障と税の一体改革」の中で増税路線を否定しなかったし、代表選のなかでも消費税10%への方向性は否定していない。確かに民主党は総選挙の際、「4年間は消費税を増税しない」と公約をしている。野田首相はこの点の折り合いを如何につけるか注目したい。私は、わが国が非増税路線のもとで本当にやっていけるのだろうか、と私は疑問に思っているし、決断が遅くなるとますます状況が悪くなる,と心配している。

 私はじっくりと政権運営を見極めたい。首班指名の後、各政党のコメントが伝えられたが、結果を見もしないうちから新首相に対して対決姿勢を露わにしたり、こき下ろしをする党首や代表がいるのは残念なことである。遠吠えに過ぎないし為政者として見苦しい。


8/30(火)快晴 残暑 外来 新首相に野田氏
2:00起床,ドック判定総括x3。書類処理他、7:00自転車病院着.回診、8:45-13:45外来。15:45-17:00遠回りして帰宅、本読みなど。20;40就寝。

菅首相(32) 民主党次期代表選 どんでん返しに新たな時代か?と期待感
 8月29日、外来が一段落したところでラジオのスイッチを入れたところ、丁度民主党の代表選挙の一回目の投票が終わり、上位二者、海江田氏、野田氏の再演説が終了したところであった。決選投票になるとすれば第一位は海江田氏は動かないだろうが、場合によっては前原氏か、と思っていたが野田氏で良かったと感じた。

 次いで2回目の投票に移ったが、開票前に前原・鹿野・馬淵氏陣営は決選投票では海江田氏以外に入れることに申し合わせたとのニュースが入った。この時点で開票を見なくとも野田氏に決まったようなもので、開票結果はその通りとなった。
 このニュースを聴いたときにまた派閥選挙の繰り返しか?とも思ったが、これは反小沢としての結束なのだと見れば大きな動き・・と言うことになる。

 小沢氏は昨年の今頃の代表選に立候補して菅氏に敗れたが、明らかに求心力は低下している。小沢氏に5候補の内、海江田氏をのぞく4人が反旗を翻したことになる。これは大きい。
 ただ、この結果は野田氏が決定的に優れている、と評価されたものではない。海江田氏意外なら誰でも良かったのだが、野田氏が第二位だったと言うこと。前原氏は戦略的に誤ったが、彼は今回の代表選に出る資格はなかった、と私は思っているから妥当なところだろう。

 今回の代表選は海江田氏が小沢氏の支持を断れば良かったのだ。
 小沢、海江田両氏の関係はよく分からないが、小沢氏は海江田氏をそれほど高く評価していなかったはずである。今回の代表選は小沢氏陣営から独自の候補が出なかったから、それなりに意味があると思っていたが、海江田氏が小沢氏の支持を得たことでおかしくなった。

 私は当初、小沢氏の支持を得た海江田氏の独走になる可能性を考え、これは数あわせになり拙いことになると思っていたが、海江田氏が小沢氏を意識した様な発言に変化していったことで誰しもが不安を感じたのだと思う。海江田氏に不安を感じたのでなく、小沢氏復活を危惧したのだ。
 今回の代表選は結果的にはとても良かった、と思う。

 野田氏については今後の仕事ぶりで判断するしかない。新代表となり、恐らく新首相になるだろう野田氏に期待している。このままでは日本はダメになる。次は、野田氏が挙党態勢をどう構築していくか、である。


8/29(月)晴れ 外来 サイクルコンピューター装着 
1:45 起床。文献・新聞、医学論文チェック、その他。6:50自転車出勤.回診等、8:45-14;30外来,混雑、疲弊。書類処理他。横山金足線医学部脇経由で16:25帰宅。自転車での走行をデータ化するためにサイクルコンピューター装着した。歴史勉強、20:30就寝。

第3回「がん検診をすすめる会」講演会(2)5年前の、あのNHKの番組を思い出した
 昨日8月27日は第3回「がん検診をすすめる会」講演会、「がん愛のフォーラム in 秋田 」が開催された。
 日本医療政策機構理事、がん政策情報センター長の埴岡健一氏は「日本と秋田のがん対策-これまでとこれから」と題して講演された。細かいところまでデータを提示しての分析と評論は内容的に実に厳しいものであった。

 私は氏の講演を聴きながら、5年前の2006年1月7日〜8日の二日間、NHK-TVで放映された「わが国のがん治療の地域格差を解消する」という特集番組から受けた衝撃を思い出した。
 あの番組では「秋田県はがん医療において日本の中で最も立ち遅れている県である」、「だから、秋田県民は気の毒である」と断定された。私ども医療の現場にいるものにとってこの番組は論点がかなりずれており,用いられた資料は公正さを欠き、表現は悪意があるがの如くに誇張され、反論できる点は大いにあった。しかし、誰でも関心を持ちやすい身近な話題で、目を引きやすい題名を用意し,ドキュメンタリーに仕立てたメディアの力は大きかった。この放送のあと、何人かの県民から意見が寄せられたが、県、県医師会、医療機関へ向けられた目は厳しかった。
 ただ、この番組の後、国のがん対策も進み,秋田県でも力を入れたこともあって,県内のがん診療のレベルは大きく前進した。

 この会での埴岡氏の講演は内容的には厳しかった。聴いていて県内の医療関係者の一人としてとても辛かった。しかし、参考にすべき点は多く、行政関係者、医療関係者の方々には是非共聴いて欲しい内容であった。

 最後に緩和治療について触れたが、氏は秋田の現状を静岡がんセンターと対比しながら論評した。県内のどの病院もはっきり言って足元にも及ばない状況にある事が示された。実に厳しい差であった。勿論、氏は秋田の現況を非難したわけではなく、県の施策は高く評価された。最後には県や医療関係者が将来に向けて取り組むべき目標も示された。

 次いで私が講演したが、私は本論に入る前に、「厳しい状況を提示していただき感謝します。ただ、秋田の医療関係者は今の状況で良いとは決して思っていないし、マンパワー不足、資金不足の中で一歩一歩先を見据えながら、連日業務に勤しんでいます。その辺こともご理解いただきたい・・・」と述べた。


8/28(日)快晴・暑い  
2:00起床、新聞/文献チェック。本読み。7:00-8:00自転車旭川の鯉に餌やりで往復。病院は問題なさそう。16:00-17:30自転車小泉潟往復、結構遠い。20:30夕食後就寝。

第3回「がん検診をすすめる会」講演会(1)関係者の努力に敬意を表したい
 昨日8月27日は第3回「がん検診をすすめる会」講演会、「がん愛のフォーラム in 秋田 - がんになってもあきらめず、夢を持ち続けよう」が開催され、私も講師の一人として参加した。
 この会について私は詳細を知らないが、代表の佐藤文夫氏の熱意のもとに運営されていると言うことで、会員は10名程度という。それに比して開催される講演会には各地から広く演者を招聘している。特に補助金など得ている様子もなさそうで、その経済的背景などどうなっているのだろうか、と思うし、些か心配にもなった。
 私は主催して戴いた関係者の方々の努力に敬意を表し、戴いた講演料をそのまま会の運営のために寄付させていただいた。
 また、当日の出席者は40人くらいであっただろうか。勿体ないことである。

 講演会の次第は、

  1. 「開会の挨拶」 代表 佐藤文夫氏
  2. 「日本と秋田のがん対策-これまでとこれから」 日本医療政策機構理事、市民医療協議会 がん政策情報センター長 埴岡健一氏
  3. 「秋田県民だからこそ、がん検診」小生
  4. 「病理診断秘話」藤田保健衛生大学医学部病理学教授 堤 寛氏
  5. 「秋田県の健康保険に関する諸問題」全国健康保険協会秋田支部 畠山憲一氏、二田幸子氏
  6. 「地域医療でのがん患者支援」NPO法人ピアサポートわかば会代表 寺田佐代子氏
  7. 「閉会の挨拶」 秋田県がん患者連絡協議会会長 工藤恵子氏

私の講演がどのように受け取られたかは分からないが、各演題は十分に聞き応えがあった。
 埴岡健一氏の講演は、豊富なデータを提示しながら、わが国の中における秋田のがん医療の実態と問題点、各がん診療連携拠点病院の実態、行政のがん対策の取り組みなどについて、多方面から検討を加えて講演された。実際、私が理解出来ていない様な細かいところまで丹念に調べ、検討を加えて来られたものだと感心した。氏の厳しい評価と指摘は豊富なデータに基づいているだけに、あくまでも正しく、到底反論しえないしっかりした内容であった。その点ではとても素晴らしい内容の講演であった。


8/27(土)晴れ がん検診をすすめる会で講演
1:30 起床、文献・新聞チェックと講演準備。途中1時間ほど微睡む。10:00自転車病院、回診その他無し。講演準備進める。12:20レッドバロンへ。ボロハーレーが10万円になった。復興資金として岩手へ送る。13:00-17:00がん検診をすすめる会。18:00帰宅、19:00大曲花火中継若干一部観つつ夕食。21:30就寝。

オールド・ボロ・ボロ・ハーレー(20)10万円の値がついたので岩手復興に寄付した 
 約20年用いてきたバイク、世界に一台の オールド・ボロ・ボロ・ハーレー FLSTF、が8月21日に私のもとからディーラーに引き取られていった。ディーラーの判断で、整備して販売することになったそうで、私から10万円で引き取るとのこと。本日講演で文化会館に行く途中にディーラーに立ち寄りすべての手続きを終了し、現金を受け取った。

 私は安全さえ確認されれば愛好の方にタダで差し上げても良いと思ったが、ディーラーの方の規定でタダでは引き取れないという。私は東日本大震災に対するボランティア活動として6月以降、収入の20%を岩手県総務課に震災復興に寄付している。実際には収入見込みに勘違いがあって、捕らぬ狸の皮算用的に計算して振り込み始めたので、30数%の額の振り込みとなっているが、まあしばらくは良いかと思っている。今回、定期の寄付金にハーレーの引き取り料金を上乗せした。私のハーレーも転身を機に岩手のために役立った、と言うこと。

 本日、すべての手続きを終えた。これからは私の移動は自転車がメインとなる。そうは言えど、アメリカンタイプのバイクがエンジンをゆっくり回してゆったりと走っているとつい目がいってしまう。まだちょっと未練が残っているようだ。まあ、時間が解決してくれるだろう。

 ハーレーは約20年、私にいろいろな刺激や満足感を与えてくれた。  私が今まで繁用したバイクは125ccのホンダ・ベンリー、90ccのカブ、250ccのヤマハ・ビラーゴであったが、ハーレーは別世界のバイクであった。何しろ300Kg超の自重があり、排気量1.340ccでV字型2気筒だから、一方のシリンダーだけで軽自動車1台分に相当する大きさである。シートに座ってエンジンをかけるとピストンで尻を叩かれれる様な気がした。それに、V字型2気筒だからよく振動した。これがハーレーの持ち味の発生源と言うことになる。

   バイクにはいろいろなタイプがあるが、私はアメリカンと言われるタイプのにしか興味はない。この中で長い歴史と日本車の攻勢をかいくぐり、しぶとく残って来たハーレーは、構造仕組みも単純で、Vツインエンジンによる何とも言えない独特の乗り心地があって、実に刺激的で私は満足してきた。それを、まだ十分・・とは言えなかったが、無事故・無違反・無故障で先日まで堪能できたことで良しとし、区切りを付けることとした。


8/26(金)快晴 書類処理に集中 N響チケット買えず
1:40起床、新聞・文献他。7:05自転車病院着、回診他、各種書類処理。15:30横山金足線→大学病院脇→太平線→添川→斎場脇→自宅。20Kmほどか。楽しみにしていたN響チケット買えず。近所のラーメン屋で外食。21:00就寝。

菅首相(31) ついに退陣 小沢・鳩山・菅が民主党をダメにした? 菅首相が退陣した。
 本日、民主党両院議員総会で退陣を正式表明した。在任期間は1年3カ月。自民党政権時代から続く首相の1年交代が今回も繰り返された。

 今回の退陣は、自らが選挙前に突然表明した消費税導入発言がもたらした昨年7月の参院選で惨敗したことがもたらしたと言えよう。消費税率の引き上げに突然言及。それも自民党案に相乗りする形だったから驚かれた。見識を疑われた。
 ねじれ国会のもとと言う事情はあったが、未曽有の東日本大震災、最近の円高に対しても政府が十分に機能しきれず、国民の失望と国際的信用低下を招いた。

 確かに原発事故への初動は悪かったが、すべて後になってから言えること。他の人なら上手く出来たのであろうか? 疑問である。想定外と言う言葉、設定は危機管理としてなっていないとも非難されているが、それも起こった結果として言えること。政治家に原発の事故処理の判断を求めたって無理だと思う。プロ集団、放射線関聯の研究者たちですら対策の方法論はまちまちだったではないか。ただ、政治家として復興対策の柱となる復興基本法が成立するまで、震災発生から3ヶ月も要したのは不味かった。しかも、首相は最後は自分の降板を条件にせざるを得なかった。これは一つの政治的テクニックだったのだと思う。

 菅首相は夕方の記者会見では「厳しい環境ではあったが、やるべきことをやった」と晴れ晴れした表情で政権運営を振り返った。この自賛を、私たちは素直に受け入れることができないが、彼の性格、政治家としてのキャリアがなせる技なのだろう。

 私は彼の1年3ヶ月の首相としての働き、ねばりに対しては歴代の一年任期首相の中では一定程度評価する。もちろん相対的な比較である。少なくとも鳩山前首相よりは絶対的に良かった。消費税導入発言も、浜岡原発停止宣言も、脱原発発言も評価したい。ただ、内憂外患が多すぎた。第一にマニフェストは実行不能のいい加減なものだった。民主党内の小沢・鳩山ラインとの抗争があった。ねじれ国会の中で何をするにも妥協が必要で挫折の連続であったが、首相は心身共に良く耐え、それなりに頑張ったと思う。

 民主党は寄せ集めの党である。その成立から政権担当政党までの動きの中で中心を成してきたのが小沢・鳩山・菅の三人であった。しかし、事実上、この3人が民主党をダメにした、と言いうる。特に前二者は殆ど国民そっちのけの、党利党略の行動だけであった。政治のプロってこんなものなのか、と思う。

 これから民主党の代表選挙が行われる。それにも小沢・鳩山氏は裏で大きく関与してきている。
 党の代表選には3人とは存在感の異なる5人が立候補しようとしているが、小沢・鳩山氏の行動いかんでは国民の政治離れがいっそう加速させることになる。もし、早期の解散、総選挙があれば民主党は政権を失いかねない。

 小沢氏は反前原氏の姿勢を示し、海江田氏を支持することを表明した。恐らく、これで決まりだろう。小沢陣営は自前の候補を出せなかったのだから自主投票にすべき、と思うのだが、あり得ないだろうね。


8/25(木)曇り・小雨 外来 
1:45起床。7:00自転車病院着、回診その他、8:45-14:00外来、16:00運動のため秋田大学を経由し自転車帰宅.講演準備。夕食。20:50就寝。

菅首相(30) 退陣間近 前原氏に全員野球なんて言って欲しくない
 しぶとく居座ってきた菅首相は退陣の条件にあげた法案の成立がめどがつき、間もなく退陣する。
 ここ2週ほど民主党内では次期代表を巡って動きが慌ただしかった。昨夜19:00NHK-TVニュースで民主党代表戦に前原前外相も出馬することを知った。今回は出馬しないものと思っていたが、予想が外れた。折しも、昨年に小沢一郎前幹事長が党代表選に立候補する意向を表明した日でもある。

 前原氏は今回出馬予定の4氏に比較して知名度は抜群と言える。大震災の後、また異常な円高があって出馬予定の各氏はメディアに頻繁に登場し始めたものの、あくまでも党内の逸材の一人という範囲でしかなかった。少なくとも私にとってはそうである。だから、正直言って代表戦は誰がなっても同じ、と言う感覚で見ていた。

 前原氏は国民の間でも十分な知名度で、アンケートや世論調査の中では次期代表に相応しい人材との期待も一身に集めている。他の候補に比較してダントツである。その前原氏が出ないのは自らに感じるものがあるためだろう、と思っていたのであるが、逡巡の末に出ることになった、という。代表の座に何れは着くだろうが、首相を狙えるのは今回だけで自分にとってもラストチャンスと読んだのでないだろうか。

 私自身が氏に抱いているイメージは、良い意味でないさわやかさ、潔さである。話す内容は歯切れが良い。別な見方ではとてもシンプルで無責任、である。代表をメール問題で降り、八ッ場ダムでは「マニフェストにあるから中止・・」と物議を醸しただけで終わったし、外相辞任も一見潔かった。
 しかし、辞任の因になった懸案事項をそのまま抱えたまま次のポストに立候補することは矛盾でないか?
 それと、氏が出ないことで出馬を進めてきた近い関係にある野田氏の立場は途端に厳しくなる。

 前原氏は会見の中で「全員野球でやりたい・・」と頻回に野球、野球と述べていたが、この大事なときにスポーツ界のことを引用するのは軽すぎるし無責任でもある。野球関係者にも失礼である。はっきり自分の立場で「挙党態勢」と言えばいい。前原氏は反小沢を表明してきたが小沢氏を説得して「挙党態勢」を確立すればいい。代表選においては最大勢力の小沢に近づかなければ勝算はないだろうからあえてソフトな表現として用いたのかもしれないが、私は良い印象は持てない。


8/24(水)終日雨 外来  
2:00起床。文献他。7:00車病院着。回診、入院患者家族面談。8:45-14:00外来。16:00車帰宅。講演準備、雑誌航空ジャーナルを読む。夕食、20:45就寝。

秋田県のがん対策(2)至れり尽くせり 過剰だよ
   秋田県はがん死亡率低下に結びつけようと検診率の向上を目指している。それは正しい。  県のがん対策チームによると、09年度に市町村が行ったがん検診の受診率は、大腸23.3%、子宮22.4%、肺21.9%、乳房21.7%、胃14.7%と低い。県は2010年度にスタートした「ふるさと秋田元気創造プラン」の中で2013年度末までに5つのがん検診受診率を50%以上とする目標を上げた(数値は魁新聞による)。

 県ががん対策を県民運動として展開するのは初めてで、2011年度のがん対策は以下のごとくである。

(1)県民参加型がん対策推進として、「県がん検診受診率向上対策協議会」を立ち上げ、8人の検診推進員を雇い入れ、検診センターに配置して検診受診勧奨などを行う。
(2)胃がん検診無料クーポン券を40、50歳の県民に配布する。
(3)未受診者に電話で働きかけを行うコール・リコール(電話かけ作戦)運動を 阿仁・森吉・相川地区から北秋田市、男鹿市、仙北市にも拡大して実施。
(4)検診実態調査を医師会等と共同で行う。これらに6.000万円ほどの予算を割いた。 

 人が老化して死ぬということは自然の摂理である。現在は少子高齢化社会である。がんの発生率は加齢と共に増えてくる。だから,単純に言えば少子高齢国の日本にとって「がんは国民病」と言えるし、全国中で高齢化率の高い秋田県に取っては「がんは県民病」と言える。

 がんの死亡率が低くなれば他県と一位の座は入れ替わるかもしれないが、そのことにどんな意味があるのだろうか。がんの死亡率の低下によって県民の健康、幸せに結びつけば意味があろう。しかし、人は必ず死ぬから他の死因に置き換わるだけである。秋田県のがん死亡率が一位であると言うことは,他の原因で死ぬ人が少ないと言う、良い良い別面の現れである。メディアで用いられる「がん死亡率ワースト1」は大衆の目を引くためのキャッチフレーズに過ぎない。行政にとっても「がん死亡率ワースト1脱却」は手っ取り早くてかつ県民に浸透しやすい「隠れ蓑的施策」に思えてならない。

 私は県のがん対策そのものを意味がないと言うつもりはない。十二分に評価する。より若い世代の人が,予防あるいは治療出来たであろうがんによって命を失うことを防ぎ,かつ、がんの医療レベルの向上に結びつく事をも含むからである。全国一の死亡率を下げることに意義があるのではない。  人類にとって共通である高齢化によるがんの発生は予防できない。特に高齢の、次いで青壮年の県民ががんに罹患する可能性は高い。その視点に立って、秋田県に特有のがんに関連する事情があれば、改善して発生を少なくすればいいし、発生を防ぎきれないがんは検診にて早期発見の機会を増やせばいい。  検診の持つ意味の重要さはいくら強調してもしきれない。

 しかし、県の施策はあまりにも県民に親切、至れり尽くせり、と思う。十分に情報を与えて、かつ、検診を受けやすい環境を整備して、県民の自覚を促す、それで良いのではないか。自分の健康と命を守ることは自分の責任だと思うが、クーポン券も税金だよ。税金を個人の健康のために支出して良いのかな?  あんまり世話しすぎるとお上の指示をじっと待つ県民の育成になりかねない。


8/23(火)雨 外来  
2:00起床,文献・新聞ほか。7:05車病院。回診他病棟業務。 8:45-14:20外来。書店に立ち寄り数冊仕入れる。16:15帰宅。歴史関連本検討、講演準備、夕食、20:45就寝

秋田県のがん対策(1)がん死亡率14年連続第一位で良いじゃないか  
 今週8月27日土曜日、秋田市文化会館小ホールで「がん検診」について講演する。秋田に「がん検診をすすめる会」と言うのがあって、今回が第3回目のフォーラムとのこと。秋田県は14年連続がん死亡率日本一と言うこともあって県をあげてがん対策に力を入れている。さらに私的団体や個人の方も活動している。今回の講演はその一つである。

 国は日本人の死因の1位であるがん対策を総合的に進めるため平成19年(2007)4月「がん対策基本法」を施行した。がんに関する総合的な研究を推進し、予防・診断・治療技術の向上を図る。国民が居住する地域にかかわらず等しく適切な治療を受けられるようにする。患者の意向に沿った医療を選択出来る体制を整える、などを理念としている。  法に則って国は「がん対策推進基本計画」を作り、都道府県は「都道府県がん対策推進計画」を作成することになっている。私も県の計画の作成過程で委員の一人として参加した。

 がんの医療レベル、医療体制が向上することはとても良い事である。何で、日本人の死因の1位ががんではダメなのか? 2番目になれば何が良いのだろうか。

 さらに秋田県では議員の提案で「がん対策推進条例」を制定した。その目的に「がん死亡率全国ワースト」の汚名返上を謳っている。同じように、私は何で秋田県のがん死亡率が1位ではダメなのか? 2番目になれば秋田県民にとって何が良いことなのだろうか、と思う。

 確かに秋田県は、がんによる死者数 / 全死亡者数、ではじき出されるがん死亡率は本当に1位である。しかし、この比率が持つ意味はとても広く、その数値が高いことをことさら取り上げて騒ぐべきではない。それ以上に、私はこのがん死亡率が秋田県が第1位である事は県民として喜んで良い事だとまで思っている。

 人は生まれてきた以上、必ず死ななければならない。これは自然の摂理であって何ともしようがない。寿命が尽きる理由は何でなのか、何の疾患で死ぬかなどは全然問題ではない。例え、がんで死ななくても、別の原因で必ず死ぬ。それに、死因としてのがんは決して悪い病気ではない。私などむしろ他の疾患よりも死ぬのに相応しい疾患の一つだと思っている。

 私は成壮年期者が、予防できるがん、検診を受ければより早期に発見し適切な治療をすればすれば治癒するようながんで命を落とすことだけが問題なのであって、高齢者ががんで死亡することは悪いことではないと思う。脳卒中、肺炎、心臓病で死ねばがんで死ぬより何か良いことがあるのだろうか。


8/22(月)雨 患者関連書類処理 患者家族面談
1:20 起床、文献チェック他いつもの如く。6:50車病院、回診。14:30患者家族面談。 16:00帰宅、講演準備、歴史本等。夕食。21:00就眠。

映画「マーラー 君に捧げるアダージョ」
8/21(日)は、県児童会館で映画「うまれる」が上映されると言うことで観ようと予定していた。数ヶ月前の新聞の紹介記事の中で、家族や少子化との関連の話題も取り扱っている作品とのことで興味を感じていた。

 ところが、その前々日に、たまたまこれも新聞であるが、映画「マーラー・君に捧げるアダージョ」が市内の映画館で3日間だけ限定上映される、とある。
 マーラーは私にとってとても関心のある作曲家の一人であり、さんざん迷ったが今回はマーラーにした。

 私はマーラーの作品は努力して随分聴いているが、まだホンの一部しか身近な存在になっていない。今ひとつ共感できないのだ。
 交響曲を好みの順序で並べれば、第2番>4番>>1番>・・>5番>・・>9番>8番>6番・・・で、第2番、第4番は別格であるが、多くがまだしっくり来ない。1番は聴きやすいが好きな曲ではない。マーラーに関する書籍や文献も随分読んだ。その度毎に改めて聴いてみたいと意欲はわくが、それでも距離感は縮まなかった。何故なのか?私自身に対する疑問であり、悩みであった。6月以降、帰宅後に夕食前まで書籍に向かうが、この間も積極的にマーラーを鳴らして来た。

 この映画の存在は何かの紹介記事で知っていたが、それが突然目の前に現れた。
 なかなか良い映画だと思う。

 この映画はマーラーと妻アルマの物語であるとともに、精神分析学者フロイトとマーラーの物語でもある。大作曲家でウィーン宮廷歌劇場音楽監督のマーラーは、妻アルマと建築家の不倫を知り苦悩していた、と言う設定であるが、創作だと言う。どの部分が創作か私には分からない。マーラーがフロイトの診療を受けたことは記録に残っている。

 アルマも作曲家を志していたが、マーラーに禁止され、子供二人を生むが、マーラーが溺愛した長女が4歳でジフテリアで亡くなったことを機に心身不調となり、サナトリウムで不倫に陥る。

 フロイトは尋ねて来たマーラーに「あなたが犯した罪は何ですか?」と頻回に聞く。この問いに、マーラーが気付くまでの葛藤が描かれる。女性の性的いらだちを表現してはばからないアルマ。19歳年下の美しい妻を崇拝しながら、「音楽・作曲・指揮」と結婚したようなマーラーは、妻の悩みを理解できない。そんな中、交響曲の第5番4楽章のアダージョを妻アルマに捧げている。アルマにとっては残酷な場面が続いて行く。破局は・・・・無い。

 映画の中で流れた、交響曲4番、5番、10番はサロネン指揮スウェーデン放送響とのこと。音響は劇場側の問題であろう、決して良くなかったがジックリと心に染み入った。

 映画を通じてマーラーの一面を知った様な気がした。帰宅後、集中的に交響曲5番を聴き続けている。徐々に距離感が縮まってきたように感じる。映画の持てる能力は大きいと思う。


8/21(日)曇り時々雨・晴れ 映画「マーラー・君に捧げるアダージョ」 オールド・ボロボロ・ハーレーと別れ 
0:00起床、ドック判定総括、その他作文多少。3:00-4:00微睡。講演準備他。11:30-15:00各種ケーブル類、旧いパソコン周辺器機整理、一部破棄。15:00自転車病院、回診他業務継続。18:00自転車帰宅、夕食、 20:30就眠。

オールド・ボロ・ボロ・ハーレー(19)ついに別れの時が来た 
 本日午後、約20年用いてきたバイク、ハーレーダビッドソンFLSTF、が私のもとからディーラーに引き取られていった。

 なるがままに錆びさせ、結果的に無残な姿になった。これぞ世界に一台のハーレーと悦に入っていたが、そう自己満足はしてても何にもならない。約20年間、主に通勤に用いてきたが10年ほど前からは自転車通勤の比重が徐々に高まり、バイクの出番が少なくなっていた。ここ2-3年は年に100-200Kmしか乗っていない。

 多分、私の元に置いてももう走る機会はそれほど無いだろう。本来の走るという機能を発揮できる機会があるのならその方が良い。私のもとでバイクとしての寿命を迎えられれば、私にとってもベストであるが、バイクよりもライダーの方の寿命の方が早かった、ということ。それを今回自覚した。
 欲しい方にタダで差し上げようとも思ったが、バイクは危険な乗り物なので、機能的に問題なしと保証できない状態ではあげられない。で、ディーラーを介して使ってくれる方を探すことにした。果たして、そのような奇特な方が現れて寿命が延びるのか、廃車になるのかは分からない。

 今回の別れはハーレー側に理由は全くない。
 ブレーキ調整が一度必要になったきり一切故障しなかった。当時、ハーレーはオイル漏れを始め電気系統が脆弱で維持するのに随分お金もかかる、と言われていたが、私の場合そのようなことは一切無く、車検と数年ごとのバッテリーの交換だけであった。また、立ちゴケは1度あるが、事故歴、走行中の転倒歴もない。外見ははボロだが、見方によっては無傷である。大事にしてきたから20年経ったとは言え、大型バイクとしての機能に問題はない。

 今回、私の方の事情で手放すことにした。
 走り出すと何と言うこともないのだが、重量が300キロ以上もある車体をとり回すのが困難になってきた。下手すると倒す危険もある。これが今回決断した最大の理由である。


8/20(土)快晴 飯川病院日直 遠方より友来る
2:00起床。いつもの如く文献、新聞検討。講演準備。11:25自転車病院着。回診他。12:30-17:00飯川病院日直。再度回診、他。19:00-21:00友人と会食、車帰宅。就寝.

嘱託医生活(13)アルコールの苦しさから開放された
 私は中途半端な下戸である。全く飲めない、と言うわけではないが、飲めない。

 酒席で座しているうちは何とか耐えられるが、立ち上がった瞬間から血圧低下、動悸、呼吸困難、脳貧血 、視力低下などが始まる。はっきり言って私にとってはアルコールは「百薬の長」どころか「毒物」である。こんな毒物を人は何で好むのだ。未だに疑問である。

 大学時代は寮生活だったから飲み会、付き合い酒があって、下級の時には強制的に飲ませられ、辛い思いをした。酒に慣れることしかなかろうとこの頃から夜寝る前に安い日本酒とかサントリーレッドを一口+α飲んで練習し、少しは飲めるようになり何とか乗り切った。それでも少し酔うと直ちに睡魔が襲ってきた。

 親戚や職場、医師会では飲めないことは直ぐに浸透し一切期待されなかった。この頃は135mlの最小の缶ビールで晩酌し練習した。晩酌も辛い習慣である。医師会の庶務係の時には情報交換会の幹事も兼ねたから途中で帰るわけに行かず大変だったが、酒は人間関係の潤滑油であることは確かだし、普段聞けない情報も得られたから、アルコールを伴う懇親会・情報交換会の意義は捨てたものではない。それに、私は乱れないうちの宴会の雰囲気は決して嫌いなわけではない。

 ここ10年ほどは兎に角アルコールが出る会合が多かった。立場上から、出るべき会には可能な限り出席したが、ほぼすべての会で中座した。この頃はもう中座するものだと思われていたからとても気が楽であった。

 私は「嫌音権」を主張している。その一つが日常用いている「ノイズキャンセリングヘッドフォン」である。「嫌酒権」の主張は「酒の座からの中座」なのであるが、共に効果はゼロである。

 嘱託生活に入ってから2ヶ月半になろうとしているが、最初の週に私のために集まった会が2回あり立場上少し飲んだ。それを最後に以降は外部の会合は一切ない。盆に家族が揃った夕食の席で乾杯し、中座した。本日、遠方より友人が来て会食したが彼も飲めず、ノンアルコールビールで十分話が弾んだ。私にはこれで十分である。

 嘱託生活になって変わった事の一つが、アルコールの苦しさからの開放である。


8/19(金)曇りー晴れ 書類処理 歯治療  
2:10起床、文献・新聞チェック等.6:45車病院着、回診、外来数名分対応、患者関連書類処理等の業務。16:00-17:00歯の治療、帰宅後倦怠感、風邪なのか?午睡す。20:00夕食、20:45就眠。

ふるさと(17)今年は原敬記念館 「故郷を去りて50余年、われ66歳の老人となれり」
 東北6県のうち何故か岩手県のみ首相を輩出している。原敬,斉藤実、米内光政、鈴木善幸と4人もいる。このうち米内光政に関しては「先人記念館」で資料に触れた。今回は原敬記念館を訪れた。館は先人記念館の近くでもある。しかも、2泊目の四季亭へ戻るの途中にある。

 私は小、または中学生の頃一度訪れたことがあるがほとんど覚えていない。何のために行ったかも分からない。当時から歴史などに興味があったとは思えない。岩手が生んだ偉人の一人として,歴史上の一人として今後詳しく触れてみたいと思っている。

 記念館は比較的新しい資料館の他、脇に生家そのもの、池や庭が残されている。
 パンフレットによると、原敬は安政3年(1856年)現在の盛岡市本宮で生まれた。「郵便報知新聞社」「大東日報」「外務省」「大阪毎日新聞社」に入社、伊藤内閣の逓信大臣として初入閣。1902年(明治35年)衆議院議員に初当選し、西園寺内閣で内務大臣として入閣。1914年(大正3年)に第3代立憲政友会総裁。4年後に原内閣成立、初の本格的政党内閣とされる。

 原敬は民主政治の確立に活躍した。外交面では対英米協調主義、内政面では、教育制度改善、交通機関整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実を推進した。教育政策では高等教育の拡張に力を入れた。軍事費にも多額の予算を配分したが、多額の公債発行を前提とする案には野党憲政会、貴族院から反対の声が強く上がった。民衆の原に対する期待は大きかったが、就任後の評価は良いと言えなかった。原は暗殺を意識していたと言うが、警備が薄くなった一瞬を狙われ1921年(大正10年)11月4日東京駅にて刺殺された。

 原敬は、1875年から暗殺直前の1921年10月25日までの日記をつけていた。原は暗殺を予期し予め遺書を認めていたが、その中で「日記を当分世間に出すべからず」と厳命した。現役の政治家等に及ぼす影響を考えてのことという。当時の歴史の貴重な記録となっている。1951年に乾元社から出版されているが、毛筆で達筆で、私など一行も読めない。

 記念館は遺品とかよりは日記を中心とした書類、文書類の展示が多かった。資料館の脇の住宅は全体の1/5程度しか残されていない。秋田市の文化財になっている。ひとつひとつの部屋は小さく作りも質素である。庭の石碑には「故郷を去りて50余年、われ66歳の老人となれり」と言ったような意味の句が刻まれている。原の足元にも及ばないが、いま私も同じ心境である。


8/18(木)降雨 びしょ濡れ出勤 外来 
1:10起床、新聞、文献、歴史本。7:00自転車出勤、途中で降雨、びしょ濡れで到着。回診他。8:45-14:15外来。総括他。16:00小雨の中自転車帰宅、 文献、歴史本、講演準備など。夕食、20:30就寝。

自転車(21)ビショ濡れ 自分より持参のエレクトロニクス類が心配 
今朝、天候は若干怪しかったが、甘く考えて自転車で出勤した。

 旭川沿い、秋田北高校脇の橋は約半行程である。ここでいつものごとく頃に餌をやっていたら突然大粒の雨が降ってきた。油断して雨具を持ってきていない。木内デパート前のアーケードは雨をよけるのに都合が良いのでまずそこを目指して急いだ。半ビショ状態で着いたがが、ちょっと雨脚が弱くなった。もうかなり濡れているし、この程度なら何とかなると急ぎ病院に向かう。間もなく、また雨脚が強まった。病院までのわずか5分ほどの間に全身びしょ濡れとなり、衣服から水滴がしたたり落ちた。
 病院の自室にはバスタオル、下着を含めて衣服一式置いてあるので着替えて一段落した。
 中高校の時は厳寒・降雪期以外は毎日3時間ほど自転車通学していたし、ここ20年はバイクも用いていたから雨には慣れている。通常は雨具も携帯している。最近は天気予報をよく見て雨に遭遇しないように工夫していた。だからここまでビショ濡れになるのは久々の経験である。帰路は何とか濡れないで走れた。

 私は雨に濡れることにあまり抵抗はない。夏なら気持ちが良いくらいである。が、気になるのは自身よりも小型のエレクトロニクス製品と書籍・文献である。頭にはノイズキャンセリングヘッドフォンとiPod Schaffle、胸ポケットにはiPhoneと業務用のPHS、背負っているディバッグには小型ハードディスク、FM/AMラジオ、録音機、iPod Schaffle 2ヶ、USBメモリーと書籍や文献が若干である。これらは何とかして守らなければならないのでビニールの小袋にも入れている。

 革のディバッグは十分にオイルを塗り撥水クリームを塗っておけば小雨程度なら大丈夫なので愛用しているが、ファスナー部分からはどうしても水が入る。 
 通常のツーピースの雨具は自分は良いが荷物は守れない。だから自転車用には上からスポッとかぶるマント様の雨具を用意している。これなら背負ったバッグも大丈夫である。緊急時には大容量のゴミ袋に頭と腕を通す穴を開けてかぶるのが良いと思っているがまだ実行してたことはない。

 防寒・雨具対策をもっと用意して今年は自転車を今まで以上に用いたいと思っている。ちなみに、本日プリウスに給油したが前回は1月であった。私にとって自転車の比重はいっそう高くなっている。


8/17(水)降雨 外来 
1:20 起床,7:00自転車出勤。回診、病棟業務他。 8:45-13:50外来。15:30自転車で向かうも途中で降、戻りFitで帰宅。歴史本、講演準備中心に。夕食、20:45就寝。

日本の医療の現状と課題(7)皆保険制度(6)火災ですべて消失 祖父が方針変更 
 医師である祖父は比較的豪快な人間だったように思って来たが、思いの外繊細だったのかもしれない。
 保険診療の普及が拡大し、何年か後に皆保険になりそうだとの方向性に対してかなり懐疑的になり、医師としての行く末に不安を持っていたようであった。
 加えて、昭和27年4月に我が家にとって大事件が生じた。近隣農家の農作業で焼かれた籾殻焼きの火が折からの強風にあおられて家屋の藁葺き屋根に引火、火災は瞬く間に村内に広がり、我が家も診療所を含めて全焼した。乙部大火と称された火災であった。

 ほぼすべてを消失し、落胆した祖父は「医師の将来に展望がない。医院が焼失した今となってはお前は医師になる必要はない。好きな道に進め」と言ったか否かまでは分からないが、兄はこの言葉を聞いて方向転換し東北大学の工学部に進学した。

 医院は急いで立てた仮診療所で間もなく再開、9月には住居も完成した。
 このとき私は小学1年生であったが、冬のある日、兄から「家の跡取りとしての立場をすべて私に移譲したいがどうか」、と問われた。何が何だかよく分からなかったが同意した。このこともあって、後に私が医師の道を目指すことになった。

 このように医療の歴史を保険診療の立場を中心に紐解いていくと、私自身のことまで含めていろいろなこが見えてくる。

 産めよ増やせよという国策に賛同して両親が頑張ったのかは分からないが、おかげで私はこの世に生を受けることとなった。11年振りの妊娠、当時としては高齢出産、厳しい戦時下で低体重児として生まれた私は、たまたま医師の家に生まれたと言う幸運のもとで何とか生をつなぐ事が出来た。

 祖父は医師であったが東北医専卒であった。
 軍事態勢の下、軍医、医師が多数必要になったために国は医学専門学校を昭和10年代に7校から45校まで増やした。昭和20年の時点でわが国の医師は77.000人ほどであったが、そのうちの48.000人が医専卒であった(有岡二郎著「戦後医療の50年」による)。このような戦時下の特別な医療態勢の下でなければ祖父がどのような人生をたどったか分からないが、今ある私はこの様な時代の流れの中で、たまたま存在し得ているのだ、と言うことがよく分かる。

 私は大学の頃からこれまでのあいだ、ずっと歴史に疎いことを自ら恥じてきたがつい先日まで勉強の機会がなかなか得られなかった。本年6月に職を辞した。長い間求め続けてきた環境の一部をやっと手に入れた。私はその日から歴史の勉強に取り組み始めている。保険診療の勉強もその一環である。


8/16(火)晴れ 外来  
1:20起床,いつもの如く新聞文献チェック。7:00自転車病院着。回診。8:45-14:30外来、緊急入院1名。20:45自転車帰宅、夕食。21:30就眠。

日本の医療の現状と課題(6)皆保険制度(5)皆保険準備過程で祖父は展望を失う
 終戦後、GHQ統治の下でわが国の保険制度はいろいろ変遷した。特に、敗戦直後のインフレ時には健康保険事業は運営が困難になった。戦後の医師たちも基本は自由診療にあったが、厳しい不況は自由診療を受ける余裕のあった富裕層も直撃し、徐々に保険診療を受けるようになっていった。

 医師の側も自由診療の割合が次第に減じて収入も不安定になってきた。保険診療は普及のために単価を引き上げたこともあって、昭和23-4年頃からは確実に診療費が振り込まれる保険診療の利点を認識し始めた。また、国民の間に保険診療が広がり始めた。この頃は健康保険財政の赤字が膨らんだ。厚労省は健康保険法改正案を何度も国会に出して財政対策を講じるとともに乱診乱療の抑制も行った。

 この辺の歴史を振り返ると60年近く経過した今と全く同じであり、私は驚きを禁じ得ない。  しかし、昭和25年6月から始まった朝鮮戦争を機会にわが国の経済状態は一気に改善していった。赤字にあえぐ保険診療の財政問題も労働者の急増でこれで大きく改善していった。

 しかし、一方では開業医は保険診療に対して大いに不満を募らせて行くことになる。その理由として以下のことがあげられている。
 ■診療収入に保険診療の割合が高まった事で、国の方針がすぐに収入に直結するようになったこと。要するに、物価が上がっても保険点数は据え置かれたままにされた。
 ■支払基金からの診療費の振り込みが滞りがちであった。また、膨張する医療費を抑制するためにレセプト審査が厳しくなった。
 ■自由診療時代と違って診療報酬が振り込まれるので税対策が厳しくなった。
 ■ 自由な診療が出来る自費診療が縮小し、自由度の狭い保険診療に組み込まれつつある流れに対する不安・不満があった。
(参考文献:有岡二郎著「戦後医療の50年」)

我が家は盛岡市郊外の開業医であった。祖父が医師で、単に金銭的に豊かであっただけでなく地域の中でも尊敬を集めていた。11歳違いの兄は昭和28年が大学進学の年で医師になるために準備中であった。その頃、祖父は開業医の行く末に大きな不安と不満を持っていたらしく、大人たちの日常会話の中で頻回に語っていた。その辺のことは何となく記憶の隅に残っている。

 祖父の気持ちの詳細は分かるわけではないが、名誉も財にも恵まれているのに私はどうしてなのかと自身が医師になるまで全く理解できなかった。当然である。

 医師会活動を通じて戦後の医療の歴史を紐解く機会などもあって朧気ながら少しずつ分かってきた。


8/15(月)快晴 患者家族面談 外来  
2:30起床,新聞・文献チェック他。7:00自転車病院着。回診、8:45-14:10外来、盆明けで若干混雑。16:00自転車帰宅。17:00家内他帰宅。夕食、救急外来より1名入院の連絡。20:30就寝。

日本の医療の現状と課題(5)皆保険制度(4)そもそも日本の保険診療は何時からか
?世界に冠たる医療保険制度と評価される、と私は思わないが、わが国の国民皆保険制度はある意味では素晴らしい制度である。これは、しかしながら、忽然と現れたのではない。だから、国民皆保険制度を知るにあたっては、保険医療の歴史を知る必要がある。

?わが国の、原始的とも言える保険医療制度は1927年(昭和2年)から始まっている。後藤新平が労務者の疾病保険の必要性を説いてから30年かかって実施されている。一方、国民皆保険制度は1961年(昭和36年)である。この間34年かかったことになる。保険制度を作り上げ、改良していくのに半世紀以上もかかったことになる。

?昭和2年の発足当時は鉱山や紡績の労務者が過酷な労働によって健康を害するものが多発し社会問題になりつつあった。若い労働者が多数疾病に罹患する事実は、当時強力に推し進められた富国強兵の方針にも反することであったし、このような健康面からの社会不安を放置することで社会主義思想がはびこる危険性もあった。
?このような事情があったから急遽国が保険制度を作ったのだとされている。ただ、医療提供側に対する準備は遅れ、医師にとっては自由診療が主流であって、保険診療は慈善事業的な、一部だけの扱いであった。

?その後、第二次世界大戦の敗戦があり、GHQ統治の下でわが国の保険制度はいろいろ変遷した。特に、敗戦直後のインフレ時には健康保険事業は著しく機能不全に陥った。戦後の医師たちも自由診療が中心であり、診療報酬が安く、手続きが煩雑、その上診療費の支払いが遅れがちな保険診療は喜ばれなかったという事情もある。

?私は昭和20年の生まれで、家は開業医であった。記憶は定かとは言えないが、小学生の頃は秋の収穫期になると農家の人たちが医療費の支払いに一斉に来ていた様に思う。縁側で大きなザルに現金を集めていたし、その傍らには米や野菜が高く積まれていた。支払いに来てくれた方には酒を振る舞っていた。今思うとどんぶり勘定のような気がしてならない。


8/14(日)盛岡晴天 墓参 南部鉄器岩鋳 原敬記念館 一人こまちで帰秋 
3:00 四季亭起床、入浴、のんびり読書など。8:00朝食、11:30「江岸寺」で兄家族と合流、住職の読経を戴く。境内で解散、私は本家に挨拶、13:30南部鉄器の岩鋳へ。原敬記念館見学、叔父宅に立ちより、17:00四季亭。18:30夕食、酔って中座、21:30一人こまちで帰秋、23:30就寝。

今年の墓参り(2)二日目墓参 一族集合1時間 南部鉄器岩鋳へ
 13日夕方から墓参り等のために岩手、繋ぎ温泉にいる。

 昨夜私は少量の酒で泥酔、一人早々に引き上げた。早朝に入浴、文藝春秋今月号、藤原正彦著「日本人の誇り」を読む。朝食後能代商業の試合でも、と思ったがすでに終了、勝っていた。すごく早い試合運びだった。秋田勢として16年振りのベスト16という。

 10;30紫波町長岡の江岸寺に向かう。  兄の一家11人がすでに到着しており一年ぶりの再会を喜んだ。住職の読経を戴く。本堂の鐘の余韻はいつ聴いても素晴らしい。読経後のお話では、時々メディアで写真等で取り上げられる「大槌町の江岸寺」は親戚筋にあたる寺だと言う。住職通し親しく往来があったと言うが、今回の津波で寺は流され、住職はまだ行方が分からない、とのことであった。

 兄の家族一同と私の家族を会わせると総勢19名。この数だけを見ていると、何で我が国の人口問題が、少子化が・・と思う。私の両親をスタートとして考えれば二人からずいぶん増えたものだ、と感じる。しかし、大人の半数は増えたのでなく余所様からの移動である。19名中児童は6人のみである。まだまだ増える可能性はあるが、やはり大人の数にすれば少ない、と言うことになる。つらつらこんな事を考えながら談笑し、境内でそのまま解散した。たった二人の兄弟である。かつては会食したときもあったが、最近は年に一回、わずか一時間ほどの再会である。それでも私ども家族が墓を巡って些かなりとも同じような意義を共有できていることは重要である。これからは少しずつ変わっていくだろうが大事にしていきたいものである。

 今年も仙北町の南部鉄器の鋳造元である岩鋳に立ち寄り風鈴、鍋など数点仕入れた。私はブックエンドを購入した。ヤカンの作成行程表を見て、実際にその作業も見たが実に複雑な工程を経ることを知った。作業場は手元で火炎を使うので外気よりはるかに暑く、従業員も汗だくであった。  その後、原敬記念館に向かった。


8/13(土)快晴 つなぎ温泉へ 
2:00起床、本読みなど。急遽家内日直となり出発予定変更す。13:00我が家の年一回のミニ旅行に。15:30つなぎ温泉四季亭着。16:30盛岡駅に長女のご亭主迎えに。孫1.5人含め、我が家一同揃う。入浴、本読みなどで過ごす。夕食時2ヶ月振りの酒で泥酔、中座、20:40就寝。

墓参り2011(1)繋温泉「四季亭」に集合
 13日から土日を利用して墓参り等で岩手で過している。 盆の墓参はわが家にとって年1回親族が集合する重要な行事であり、私にとって年一回の故郷訪問でもある。両親・祖父母の供養のほか、健康問題を抱える実兄に会う一期一会的な貴重な機会になっている。本家への年一回の挨拶もある。 盛岡の病院で研修中の息子と私は業務の関連で1泊2日であるが、他のメンバーは2泊3日の時間がとれた。退職しても私はいつもとほぼ同じとなった。誤算は、本日家内が急遽自分が勤務する病院の午前日直となり出発が2-3時間遅れたことである。13時に家内を拾い岩手に向かった。昨年は遠野を訪問したが、今年は単純に繋温泉に前泊となった。

 繋温泉は盛岡市近郊にあり御所湖の畔に位置する。
 「繋温泉」の名称は11世紀に源義家が石に愛馬を繋いで入浴したことに由来する、とのこと。直ぐ側にある御所ダムは人工湖で,私が大学生の頃、水没する遺跡や520世帯に関する話題が盛んであったことを思い出す。1981年(昭和56年)に完成した。多目的ダムで盛岡市への上水道供給や県営御所発電所出力13,000kWの発電で役立っている。便利な場所ではあるが、我が家で湯治と言えば昨年訪問した花巻温泉郷の志戸平温泉が中心で、繋温泉を利用するようになったのは私が秋田に移ってからである。秋田と盛岡の間にあるので中継点として何かと便利だからだし、環境も良い。

 夕食前に若干時間があったので一人で繋温泉郷,御所湖畔を散歩した。静かなたたずまいである。無いわけではないが,多くの温泉郷にあるようなネオンで目立つような遊興施設は殆どない。散歩した時間帯の関係なのか、活気が感じられなかった。湖畔には数人が夕涼みしているだけで、湖畔の遊園地には誰もいなかった。街中にも子どもの声は殆ど聞かれず,住宅街もとても静かであった。小中学校は一緒らしいが,夏休みと言うこともあって綺麗に整頓され、一見廃校の如くであった。温泉宿泊施設から転換したと思われる老人福祉施設もあった。

 全体的に活気が乏しい。今までの雰囲気とはちょっと違う様な気がした。四季亭のフロントで聞いたところ,近年最も盛況になるのは敬老の日の前後だという。更に今年は大震災の影響が大きいとのこと。盛岡近郊で、こんなに便利な所にあり,自然も豊である。手作り村、小岩井農場、ゴルフ場も近い。もっと利用してもらえるようなキャンペーンや企画が望まれる,と言うことだろうか。

 9月は大震災で延期になった知事選、県議選、市長選があるらしい。選挙ポスターが神社の一角に貼られていた。これで良いんだろうか,と思った。


8/12(金)快晴 有給休暇5時間 自宅掃除 墓参り準備   
1:30起床、本日一日休暇をとる予定であったが患者不調、他の業務も若干あり通常に出勤、6:50自転車病院着、回診、患者の化学療法+眼科受診等セット、事務処理若干他。11:00帰路自転車店に立ち寄る。12:30帰宅。歴史の勉強、自室の整理、掃除など。夕食、20:30就寝。

今年の天候はおかしい 立秋も過ぎ、寂しくなる 
ここ数年、天候が変である。
 3年前も昨年もかなりの猛暑であった。そのときに比べれば今年は過ごし易いが、各地では35℃以上に達し、高齢者を中心とした熱中症の発生がメディアを賑わせている。今年の取り上げ方は節電との関連でややオーバーに扱われている感がある。

 昨年の今日、台風4号が秋田県のど真ん中を横断、岩手に抜けた日であった。今年は秋田はまだ直撃を受けていないが南方ではもう10号まで発生した。今年は発生が多いようだ。4号、6号は大型で、しかも、迷走型と言うべき変な軌跡をとり、小笠原や奄美地方を直撃した。

 今年の天候は何時になく寒暖差が大きいような気がしてならない。
 かつてなら、盆の墓参りの頃から秋を感じ取るのであるが、今年は7月の後半ころから、日中の気温が各地で最高気温を記録しているうちから、秋田の早朝に思いがけないほどの冷えを感じ、いやな気持ちを抱いていた。自然現象に対して不快感を抱いてもしょうがないが、私は気温が右肩上がりに上昇していく日々のうちは心安らかでハイであるが、気温として秋の息吹を感じると不快な気持ち、ローになる。秋の雲、積乱雲を見てもそうは感じない。むしろ好んでその勇壮で美しい姿を楽しんでいるのであるが、ひんやりとした気温を自分で感じ取るとダメである。

 この8月8日、暦の上でもついに立秋を迎えてしまった。この日から立冬の前日までが秋と言うことになる。ついに私があまり好まない秋になってしまった。立秋を迎えたからと言っても、日中の暑さもこれから本番に入っていくことになる。時候の挨拶はこの日から残暑見舞いの言葉となる。しかし、早朝は日ごとに冷えていく。私も徐々に冷えていく。


8/11(水)快晴 外来 
2:00起床。ドック判定。文献新聞整理。7:05久々徒歩病院着、回診。8:45-14:00外来。16:30徒歩帰宅、歴史読書、夕食、20:40就寝。

日本の医療の現状と課題(4)皆保険制度(3)堅持できる?無理だろう 
我が国の医療制度、特に国民皆保険制度についてはとても評価が高い。WHO、カナダ、OECDの評価では最良との判断がなされている。しかし、この評価は大事な点を抜かしての評価である。   

私も、ある一面から見れば、即ち、医療を受ける側から見れば最高の制度だと思っている。しかし、わが国の国民皆保険制度は再評価が必要だと思っている。私は諸外国の医療制度、保険制度についてそれほど詳しくない。だから、比較は感覚的なものである。  

我が国の保険制度の評価を上げているのは「高効率の医療」である。そう言えば聞こえが良いが、要するに安上がりの医療だと言うこと。何で安上がりに出来ているのかと言えば、医療従事者、医療機関への報酬給付を最低限に抑えているからである。だから、私はこの点も含めての再評価がなければ国際的評価など喜べない。  国民皆保険制度を堅持せよ、は医師会が金科玉条のごとく唱えている一つのスローガンである。一方では診療報酬を上げるよう要求もしている。国民皆保険制度は経済的側面から眼界に来ている、と言わざるを得ない。至極当然な要求ではあるが、皆保険制度検事と診療報酬の増加は相反する要求である。  

その理由をざっと挙げると、皆保険制度が敷かれたのは1961年(昭和36年)であった。その当時から現在まで度重なる修正がなされてきたが、抜本的改革は先送りにされてきた。従って、国民皆保険制度の理念はほぼ発足当時のままである。発足から半世紀、当時と同じ発想では成り立たなくなっていることは明らかである。  

この間の変化をつれづれにあげてみると、
■疾病構造が変わり、多くの患者は生涯治療を受ける
■人口構成が変わり、高齢者、虚弱高齢者が増えた
■少子高齢化で経済の担い手が減少
■医療が進歩し医療が複雑かつ高額化
■患者側の受療意識が変わりより良い医療を求める
■日本の経済情勢が変わった
■医師の意識も変わった
・・・である。  より複雑高度化する医療のなかで皆保険が成立する条件は、ざっと挙げると、

■人口構成がピラミッド型
■日本の経済が右肩上がり
■受療者が相対的に少ない・・である。  

だから、単純に考えてもう成り立たない。抜本的改革が必要である。ある意味で,中曽根、小泉の政策は間違っていない。


8/9(火)快晴 外来  
2:00起床,講演準備。寝不足感で虚脱・脱力感あり。7:00自転車出勤、回診等。 8:45-13:30外来。16:00自転車帰宅、歴史関連資料検討、夕食 21:20就寝。

能代商業高校 甲子園で快挙  県の強化方針は疑問 
第93回全国高校野球選手権大会が開幕し49代表校による熱戦が繰り広げられている。今大会は「がんばろう!日本」がスローガン。開会式の入場行進のコンセプトは「絆」で、東日本大震災の犠牲者を悼んで黙とうが捧げられた。

 大会4日目に能代商は鹿児島の神村学園を破り、秋田勢として13年ぶりに夏の大会の初戦を突破した。秋田県では知事の肝いりで県費を用いて高校野球強化が図られている。その設立の際の一つの目標は「5年間で4強」達成を挙げたが、まずは1勝であった。
 私は勝利のための強化目的で教育委員会内にプロジェクト委員会を作って県費、マンパワーを投入することについては賛成出来ない。負け続けて何が問題なのだろうか。負けることから得られる教訓は大きい。プロジェクト発足は今年度からだろうか、よく分からない。短期間で目標の第一である連敗阻止、まず1勝、は達成されたことになるが、私はプロジェクトの効果とは思っていない。敗退から得た教訓と実践がもたらした快挙と思っている。これが、教育の一環としての高校野球の真髄である。

 それにしても能代商業高校は大きなことを成した。いろいろ努力と偶然が重なっての勝利である。昨年は県勢連敗のプレッシャーの中で出場、鹿児島実業に0-15で敗退し、連敗の記録を伸ばした。今年はその敗退の悔しさを糧として2年連続で県大会の頂点に立った。これだけでも十分素晴らしかった。更に甲子園、今年も偶然にも鹿児島代表と初戦で対戦し、能代商業が逆転勝ちした。選手達の地道な練習の積み重ねを讃えたい。

 私は連敗記録などはどうでも良いと思っているが,現実に連敗記録を伸ばしたのも能代商業、記録を阻止したのも能代商業だったと言うこと。これもまた勝負としては素晴らしい結果である。

 私は高校野球の熱気は大好きである。
 しかし、あまりにも肥大化した高校野球,勝利偏重のあり方を是としない。確かに,過ぎ去った青春時代を懐かしむ意味でも、望郷や高校同窓会、県人会等での連帯感などの面で果たしている役割は大きい。しかし、教育の一環としての存在を逸脱してはならない。「野球留学、特待制度」、大人の打算や商業的思惑まで複雑に絡んでいる。県の事業として知事が乗り出し職員も投入、今年度995万円も投入したことは異常だ,と思っている。「5年間で4強」の目標にも呆れている。他の都道府県にもあるのだろうか。

 教育の一環としてとらえれば、組み合わせ抽選会などはネットのレベルで十分、校歌斉唱は敗れた選手達の健闘を讃えて負けた方の校歌を流す、試合のTV中継は対戦中の県域だけで放送,他の試合はダイジェスト版の放送で十分・・、と思っている。 


8/8(月)晴れ・暑い 患者家族面談 書類処理
2:00 起床。ドック総括x1。文献処理他。6:50自転車病院着、回診、重症者対応など。総括、紹介状他処理。16:00運動兼ね遠回りしてバテた。歴史関連文献読む。夕食、20:45就寝。

陸前高田の松が京都の「京都五山送り火」で断られた!!!
 東日本大震災の大津波で陸前高田市の景勝地、高田松原の松は大部分がなぎ倒された。この松は薪として売られたが、これを鎮魂の意味も含めて京都の伝統行事「五山送り火」の大文字で燃やす計画が立てられた。しかし、地元で放射能汚染を心配する声が上がり中止にした、という。
 私は最初にこのニュースを知った時は「京都五山送り火保存会」の判断が理解できなかった。

 保存会と京都市は薪の検査を行い、放射性セシウムは検出されなかったにもかかわらず、非科学的な発想で断を下したことは問題であるが、前例にならないことを望む。メディアは是非この件を「風評問題の実例」として大きく報道し,解説し、より正しい判断が出来る素地を作って欲しい。

 原発事故の後、海外メディアの報道には私どもの感覚から到底理解出来ないのもあった。外国人のかなりの方々が日本を脱出した。我が家と若干の付き合いのある留学生も一時帰国した。工業製品の輸入に警句を発した国もあった。過剰反応に思えたが、これが文化の違い、考え方の違いなのだとして理解し納得してきた。しかしながら、5ヶ月近くも経ってから、しかも、国内での今回の対応である。

 私も東北人の一人として驚きを通り過ぎ,呆れた。私は何でもかんでも、例えば、「なでしこジャパン」の優勝の扱いも、「高校野球の東北勢の扱い」にも「がんばれ東北」の標語が使われ、お涙ちょうだい式の、軽率、ねじ曲げ報道、インタビューが見られ、私は快く思っていないが、これも現実である。当事者と非当事者の立場の違い、と言うしかない。現実に、この様な判断をする素地があると言うことが明らかになったわけだからこの機会を有効に利用すべきである。

 風評の背景、誤解の背景には情報不足がある。情報がなければ自己増殖し、人を恐怖におとしめる。
 大正12年の関東大震災時に、災害の混乱を利用して朝鮮人が蜂起する,それを扇動している思想家、輩が裏にいると言った奇怪なうわさが人々の恐怖をあおり、軍部警察が取り締まりを強化し、犠牲者、死者も出た。

 時代は違っても人の心理にそれほどの差はないものだ。「京都五山送り火保存会」の下した判断はちょっとしたことに思えるが、とても大きな意味を持っている。
 福島の原発事故の影響はまだまだ続く。逃げようもない。いたずらに過去を責め、恐れるのではなく、現実を認め、その中でより相応しい判断を求めていくしかない。そう言う国に日本はなってしまったのだ。


8/7(日)快晴・猛暑  花の日 ハス園見学 
2:00起床、文献整理、書類廃棄などいつもの如く。10:00本荘市西目にハス園見学に。大鉢のハスを戴く。わが家でも栽培する。12:30ジャージ牛乳で知られている土田牧場に立ち寄る。どういう関係か、超大型犬のセントバーナード数頭と小型のうさぎが飼育されて触れるようになっていた。14:30帰宅、暑くて午睡、寝ても起きても全身汗だくの一日。20:00夕食、20:45就寝。

8月7日は花の日 「花蓮を見る会」に行ってきた
 ひょんな事から知り合った本荘市西目に窯を構える陶芸家、倉田鉄也氏は多種類のハスを育てているとのこと。この度、鑑賞会に招待いただいた。折しもちょうど8月7日は「花の記念日」でもある。ハスの花を観るのは午前中が良いというので家内を急かして10:00過ぎに出発した。西目から更に数Km山の方に向かい、由利高原を通過、道に迷いながらも何とか氏の仕事場に到着した。結構遠い。
 
 この地で陶芸工房を営む倉田氏は、10年ほど前から窯場の周りの池や鉢でハスの栽培を始め、3年前から夏場に「花蓮を見る会」を開催しているとのことで、この会へのご招待であった。倉田氏はこの会を通じて地域文化向上への継続的な取り組みの実践、その優れた実績が認められ、先に山下太郎懸賞育英会から地域文化奨励賞を受けている。

 確かに、驚くほどのハスの花である。水田様に作った10数箇所の泥池の他に、直径1mほどの大型の鉢で栽培された多数のハスが咲いている。その他にも休耕田も利用しているとのことで毎年栽培面積は拡張しているらしい。米国のハス、英国のハス・・と国際色豊かであるが、ハスのことを知らない私にとっては殆ど区別がつかない。それに名前が難しすぎて覚えられない。名前として知っていたのは今から2.000年も前の種子が発芽したという「大賀ハス」くらいであった。
 現在は休耕田と350鉢に35種類を栽培しているというが、花はそれほど密に咲いているわけではない。早朝に咲き、昼にはしぼむとのことで一つの花は4日間の命だという。

 私は小さい頃からハスの花が植わっている池とか沼地でよく遊んだもので、ハスは身近な存在であった。ただ、その頃は花よりもハスの実をとって食べるのが目的であった。淡泊で青い栗の実のような味がして好きだった。沼の中央の、あるいは岸から遠いところのハスの実は子どもの立場ではどんな工夫をしてもとれず、悔しい思いをしたものである。その後ハスと言えば突然千秋公演のお堀のハスに飛ぶが、今日までそうじっくり観たわけではなかった。

 今日はじっくりと花を観させていただいた。実に綺麗なものである。ハスの花と葉は仏教との関連があることから,観ていて厳かな気持ちになるのが他の花との違いである。
 一鉢戴いてきた。いま我が家の庭で早朝綺麗に咲いている。家内は庭の隅にハス池を作りたいと言っている。また私の仕事が増えそうである。


8/6(土)快晴 夜半・早朝に患者死亡2名 患者家族面談 医師来訪歓談 散髪
0:00病棟よりコール、車病院へ。患者死亡、1:30帰宅就寝。3:30起床、文献チェックを進めていたが、4:40病棟より再コール、別の患者の件。Taxi出勤、対応、死去、7:30見送り。回診、9:00家族面談、10:00某医師来訪歓談。11:30散髪。13:00徒歩帰宅。午睡。15:00以降読書他、20:00夕食、21:00就寝。

嘱託医生活(12)自宅の書斎用のパソコンを小型のに乗り換えた 
5月末まではそれほど時間に余裕がなかったから居間を仕事場にしていたのであるが、嘱託生活に入ってからは、夕方から夜にかけて、あるいは早朝にはメインのオーディオセットがある部屋でレコードを聴きつつ過ごすパソコンに向かう時間が多くなった。

 その結果、自宅のセカンドマシンとして使用してきたPowerPC G4(450)の機能が物足りなくなってきた。2000年頃の製品だからやむを得ない。

 私は通常は新品のコンピューターは購入しない。私の能力では新型の能力は手に余るからである。いつもは次男が使っているのを引き取り、次男に新品を買わせている。
 例外は一回あった。昨年6月に家内にPowerBookを一つ病院用に提供したのでマシンが一つ足りなくなり、新品の21.5インチのiMac を購入した。 新品を購入したのは1994年以来、15年振りで私にとっては希なことあった。この時は次男はMacMiniを購入したばかりで買い換えるメリットがなくて親子間で商談が成り立たなかった。今回はさらにスペックが向上した新型MacMiniも発売された事から何とかうまく行った。問題はこのMacMiniにいくら請求されるか、だけである。

 2週間ほど前からMacMiniが自宅のセカンドマシンとなった。
 驚くほど小型である。前のG4が15Kg、MacMiniはわずかに1.3Kgで1/10以下である。デザインも作りも良い。OSは10.6でCPUはdualで2.0GHzと私にとって手に余るハイスペックである。これに19と15インチのTFTをつなぎ、Dualモードで使っているが、実に快適である。作業画面が広くなると効率がグッと高まる。

 パソコンを更新するといろいろ問題点も生じる。
■キャノンのプリンターPM270が動かない。ドライバーがOS10.6に対応していない。これは欲しい方にあげるか廃棄する。
■OS10.6のMailの設定が出来ず、MacMiniではメールのやり取りができない。メインマシンでやるから実害はないが、設定は諦めた。
■私のOfficevXがOS10.6では動かない。Office2011を購入すればいいがそれもシャクである。MacMiniはApple社のiWork専用とした。
■古いPowerPC G4(450)をどうしようか。完動品だから誰かに差し上げたい。しかし、古い機種だから希望される方はいないだろう。そのときはバラして部品取りにする。

 などなど、毎夕、早朝、新型Macへ乗り換えながら満足感と自分の時代遅れを再認識している。それにしても10年ほどの開きはあると言え、10倍ほどの機能アップを果たしながら体積も重さも1/10で済むとは・・この進歩は驚きである。



8/5(金)超快晴 竿灯三日目 書類処理 歯の治療
1:30起床,文献・新聞チェックその他。6:50車病院着。7:45回診、10:00外来患者2名対応。10:30患者家族面談。11:00病棟患者対応。16:00-17:30歯の治療、車帰宅。芭蕉の続き。夕食、20:45就寝。

中国高速列車事故(3)原発・核・軍拡は大丈夫なのか?
 中国浙江省で7月23日夜に起きた高速鉄道列車追突事故は、まだ原因が分からないが、あまりにも普及を急いだためのシステム欠陥と人災が招いた事故と思われる。

 いま中国では豊かなマンパワー、経済力をバックに文化レベル、国力を急速に高めている最中にある。
 高速鉄道をとってみても、まず第一に運行実績が殆どないのに列車の速度も考えがたいほどのスピードに設定している。諸外国からの技術を導入し300Km以上での運行が目標となっている。CRH380として独自に開発された時速380Kmのシステムもある。第二に設置計画、路線の拡充計画も異常なほど早い。4年あまりで1万Kmほどまで拡充された。日本の新幹線網の4倍の規模となっている。カナダ、日本、独、仏の技術を導入し車両等は国産であるが、列車の規格も統一されていないと言う。これを自国で開発した制御システムで運行している。高速鉄道の分野でも世界一のレベルを獲得した、と宣伝していた。

 他の国の事とは言え、一言で言えば中国の発展はあまりにも拙速で、政治的にも・文化的にもアンバランスな様に感じられる。国内の経済格差、人権問題等の問題、国際感覚も疑問だ。今回の鉄道事故への対応、尖閣事件の時の対応、東シナ海問題も理解困難である。

 このような背景の中で、前年比12.7%もの予算を計上しての軍拡政策も国際的驚異になっている。航空母艦も建造中である。原爆保有国でもあるがそのコントロールは十分なのだろうか。
 原発の建設構想もすごい。中国のエネルギー関連の研究所等の構想では、2030年までに200基、2050年までに400基まで増やすとしている。それだけ需要が増えるとの目算である。政府の案では現状での計画は70基までとのことであるが、どちらにせよ年間5-6基と異常なハイペースでの建設計画である。

 これを高速鉄道の拡張計画にダブらせてみれば大丈夫かと思う。中国も地震国であるからいろいろと心配になる。
 わが国には中国本土から黄砂も飛んでくる。飛んでくるのが砂だけなら良いのであるが。


8/4(木)快晴 竿灯二日目 外来 No8医療機能評価受審委員会
1:30起床、新聞・文献など。6:45自転車病院着、回診、8:40-14:00外来。16:00-17:10 No8医療機能評価受審委員会。17:50自転車帰宅、松尾芭蕉関連文献検討、夕食。20:30就寝。

中国高速列車事故(2)人ごとと思えない怖さを私は感じている
 中国浙江省で7月23日夜に起きた高速鉄道列車追突事故は、欠陥システム+人災なのでは、と思われる。

 マスコミは日本の新幹線はどうなのだろうかとこぞって取りあげている。数紙とそんなに多くを見たわけでは無いが、それらを見ると日本の新幹線は大丈夫、安全であるとの論調である。多分そうだろうと思う。少なくとも中国のは初歩的事故で日本の新幹線では100%回避できる、と言う。それ以上の数多くの状況を設定し、すべてがコンピューターを通じて系統的に制御出来るようになっているらしい。
 私はそれでも、電気が止まったらどうなるのか?と思う。その時には急制動がかかるとのこと。大したものである。ただ、待てよ、その制動には電力は不要なのか?と疑問がわく。

 2004年3月病棟スタッフの結婚式で横浜に行った帰り、新横浜駅ホームで「こだま」待っている間に上下線各1本の「のぞみ」が中央のレーンをすさまじい轟音と共に通過した。ホントに一瞬の出来事であった。恐らく250Km?ほどは出ていると思われた。ホームにいても何ら危険はないのだが、システムに何かが生じたらこの高速で動いている巨大な物体を果たしてうまくコントロール出来るのだろうか。 私は激しい恐怖感を覚えた。
 私は超高層ビル、大型建造物、飛行機、新幹線、高速道路、高機能の自動車・・・・などなど、現代社会で当たり前のごとくに運用されている大型、高機能のシステムは潜在的に恐い。自分は何も知らず、何ともしようがない状況ですべてが任せ切りになるからである。
 巨大なシステムは恐い。ただ漫然と怖い。新幹線の事故の場合には大変なことになると思う。想像すら出来ない。新幹線にもシートベルトが必要でないかと思っている。東京、大阪等の大都市そのものにも言いようのない恐怖感を覚える。

 今回の3.11大地震では東北管内で27本の新幹線が走行中であったが、初期微動P波を検知して一斉に非常ブレーキが掛かり、主動S波が来たのはその10秒ほど後、最大の揺れは制動1分後で列車はかなり減速した状態だったという。結果的に脱線もなくけが人も出なかった。試運転の一本だけ仙台駅構内で脱線しただけという。これもたいした技術である。現に、2008年の岩手・宮城内陸地震でも被害は出なかった。しかし、直下型だとこのシステムの効果はうまく作動しない。
 また、2004年の中越地震では脱線した新幹線が1.6Km進んだ。この教訓を生かして、もし脱線しても車体が線路から大きく離れて横転しないように車体や線路に様々な対策がなされてた。秋田新幹線にも装着されたが、これもすごい。しかし、阪神淡路大震災のごとく橋脚自体に損傷が生じればどうなる?

 いろいろな安全対策を知ると感心する。確かに中国のとはレベルが違うと思う。しかし、その上を行く自然災害がきたらどうなる?と疑問がわく。たぶんいろいろ対策しているとは思うが、これ以上のことは何も知らない。

 最後はそんなことが起こらないように祈りながら乗ることなのかな、と思う。


8/3(水)晴れ・暑い 竿灯初日 外来 
2:15起床,ドック判定総括x1。文献チェックその他。7:00自転車病院、回診。8:45-14:30外来、疲弊した。16:00自転車帰宅。炎天下は厳しい、汗だく。松尾芭蕉関連書籍、夕食、 21:00就寝。

中国高速列車事故(1)欠陥システム+人災なのでは??
 中国浙江省で7月23日夜に起きた高速鉄道列車追突事故は、死者がわずか40人という程度であったことに驚いたが、いくら何でもこの数にはウソはないだろう。ただその後の国や当局の対応は、一般人の理解の範囲を超えたもので驚きを禁じ得ない。

 事故後半日で救助活動を打ち切ったが、その後に2歳の女児が救助されている。また、事故翌日には原因も何も分かっていないのに犠牲者へ約600万円の補償金が提示され、更に、数日後には倍額が提示された。追突した先頭車両をショベルカーで破壊し穴に埋めた、事故後1日半で運行が再開されたが、これらに対しても強い批判が出ている。車両は世論を受けてか、26日になって掘り出され、保管場所に移されたとされるが、関係者は一時的に保管したのだと、誰が聞いても信じられない説明をしている。

 遺族や国民から事故隠しや安全性の欠如を問う厳しい声があがっている。
 中国当局は事故後メディアに「否定的内容の報道、独自に収集した記事の掲載を控えるよう」指示を出したが、一部メディアはその指示に抵抗する姿勢を見せている・・等々、中国も徐々に様変わりしている様に思える。尖閣の時もそうであったが、事故や事件が起こる度に政府等の対応は理解し難いものがある。この様な拙い対応が積み重なっていくと現政府や政治体制に批判が集まっていくことになる。

 温家宝首相は病を押して28日現地入りし、「事故調査・処理の全過程を公開・透明にし、社会と大衆の監督をうける」と言明、「安全最優先」の原則を明らかにした。また、腐敗構造があれば許さない、とも述べている。後続列車の運転士は死亡したが、運行記録装置は回収されているし、あれだけのシステムだから運行に関する全指示やコンピューターの記録、運転情報はすべて記録があるハズである。

 あまりにも拙速な高速鉄道の導入、開業で「高速鉄道は大丈夫か」そんな不安が国民の間で当初から高まっていた。そのような中での今回の大事故であった。追突車両は本来は先行すべき車両だったとも言われている。何がどうなっているのか全く分からない。欠陥システム+人災なのでは??と思われるが、9月には調査結果が国から示されるという。どんな内容になるのだろうか。
 その中から、中国の今後の姿が読み取れるのではないか、と期待している。


8/2(火)曇り 早朝病院 外来 
4:00起床,文献チェック。5:00病棟より連絡ありTaxi病院へ、患者死亡。回診、文献チェック。患者関連書類ほか。
8:45-14:00外来。16:30久々徒歩にて帰宅、読書他、夕食、20:30就寝。

嘱託医生活(11)休日は家庭菜園も手伝う 腰痛にて頓挫 
嘱託医生活2ヶ月経過した。初めて週休二日制の経験をしている。契約上は土日祝祭日は出勤の要はない。しかし、入院患者を受け持っている以上はそううまくは割り切れない。治療上の対応は何とか出来るが、重症患者の不安,家族の不安をとるには対面での対応が必要である。だから,休日にも一度は患者のもとを訪れる。かつては土日祝祭日もかなりの時間を院内で過ごした

むらなのか分かり難い状態になっている。  ある程度まで育つと、あとはそれほど手をかけずとも作物は育つ。草むらの中でキウリやナス、トマトなどが次々と実をつけ収穫に追われている。虫に食われたり、カラスにつつかれた痕があるトマトやナス、大小だけでなくいろんな形の不揃いなキウリが採れる。キウリは成熟したのを見逃したり、収穫をサボっていると直ぐに大きくなる。  

家庭菜園は成長を確かめつつ世話をする楽しみもあるのだが、取れ過ぎてどう料理しようかと嬉しい悩みが伴ってくる。毎日の如くサラダ等の料理等で消費しているのだが台所の脇のカウンターには採り立てのが次々と並ぶ。  

私は田舎育ちで大学に進むまでは日常的に農作業を手伝っていた。だから全く不案内というわけではないが、最近の野菜作りは随分様変わりして驚いている。ホームセンターで苗、肥料を買い、腐葉土、液肥、プラスチックの支柱なども購入、NHK版のマニュアル本を片手にままごと調の作業となり、私の古い知識は通用せず、戸惑ってしまう。作業も随分清潔である。  

まだちょっとしか参加していないが、農作物を育てることは楽しい作業ではある。草ぼうぼうではちょっと拙いが私の腰も大事である。簡易な電動草刈り機は畑にはどうなのだろうか、と悩んでいる。  キウリはいろいろ変形したり奇形が出来やすい。数日前に二本が接合した珍しい形のが採れた。


8/1(月)晴れ 外来 深夜病院で過ごす
2:00 起床、文献チェック。6:45自転車病院、8:45-14:50外来。16:00帰宅。文献読みほか。病棟から頻回に電話。夕食、20:50就眠。病棟から連絡あり22:30Taxi病院へ、重症患者対応。2:15帰宅、就寝。

嘱託医生活(10)徐々にペースが決まってきた 時間がないのが悩み
嘱託医生活2ヶ月経過した。この間、病院の方針に沿って私の業務量は軽減されつつある。そろそろ下限に達しつつある。
 この貴重な状況はいつまで続くか分からないので、一瞬たりとも無にしたくない。それで、嘱託医の身分に徹底している。

 労務契約上、週5日間、1日8時間の勤務で、時間帯は希望を出し7:00-15:30とした。時間を有効に用いるためである。業務内容は診療のみとなっている。例外は一つ、病院機能評価再受審に関して協力が求められたが、この2ヶ月間何ら連絡無く、実際にどうなっているかわからない。今更、私など足手まといになるだけだろうから本心は外れたい。だから本日まで100%診療だけである。

 業務上、人間ドックの担当から外れた。時間的にこれは大きい。療養病棟の受け持ち患者もピーク時の1/4ほどに減少した。外来の担当、一般病棟の受け持ちはほぼ従来通りであるが、業務量は大幅に軽減された。 しかし、院内にいる時間の仕事の密度はかつてよりもはるかに濃厚になった。従来の半分ほどの時間しかない中で処理しなければならないから当然でもある。ボーッとしている時間はない。規則では60分の休憩時間が認められているが休憩時間など一切とれない。私は昼食を摂らないから実害はない。それでも時間内に終わり切れない。金曜日は外来が無いのでその週の懸案を集中して処理し、なんとかやりきれている。

 起床は1:00-2:00とむしろ早まった。ジックリ新聞、文献などを読みPDFとして整理する。
 出勤は自転車、歩行、車といろいろであるが、7:00少し前に着くよう家をでる。徒歩の場合は5:50に出る。7:00書類対応、7:30回診、8:45外来、14:30書類処理で、病院を15:30に出る。入院患者が具合悪い時以外は割り切って帰る。
 16:30頃から19:30までの3時間を学習の時間に充てる。今は日本史を集中的に学んでいる。これがウイークデイの大体のスケジュールである。

 私の一日の睡眠や活動の時間配分は大きく変わった。業務が少なくなり自分のために使える時間が増えた。かつての生活と比較すれば別世界にいる。こんな生活もあったのか、と思う。それでも、時間がもっと欲しい。私は貪欲である。
 これが2ヶ月の嘱託医生活の感想である。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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