徒然日記
2011年4月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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4/30(土)快晴・雨 病棟拘束 患者家族面談 映画「ふたたび」上映会
3:00起床。昨夜は十分動いて疲れていたか。ドック総括x1他。自炊若干。6:50今期初バイク出勤、ますますボロになったが調子は悪くない。7:20回診、患者関連書類処理、患者関連書類処理。患者家族面談。重症患者対応。13:00−14:30映画「ふたたび」上映会View。眠らずに全部観た。17:00帰宅、業務若干、19:30夕食、20:30就眠。

映画「ふたたび swing me again」上映会 感動した
 本日13:00から秋田市のViewHotelで映画「ふたたび swing me again」の上映会があった。主催は秋田県国際交流を進める女性の会、後援は秋田県更生保護女性連盟、秋田ゾンタクラブである。

 家内はゾンタクラブ会員で10枚ほど前売り券を購入していたので無駄にしてはいかん、と一枚もらい受けた。
 どんな映画かも調べず、知らず、何か得ることはあるだろう、と時間ぎりぎりに会場に出かけた。驚いたことに300席ほどの会場は既に8割方、中高年の女性方で埋まっていた。すごい動員力である。何とか後方に席を見つけた。

 定刻に始まったが、まず音の大きさに閉口した。特に音楽のない前半は耐え難かった。
 映画は冒頭でハンセン病に関する簡単な説明で始まった。この映画は半世紀以上も隔離されたあるトランペッターの最後の旅を通じてハンセン病の人権問題を扱った作品。主人公の貴島健三郎なる人物はこの病気のために音楽、妻、息子、人間関係も含め全てを奪われ、孤島の療養所に隔離された。
 晩年、息子の家に引き取られた。重度の心疾患を持つ貴島は初めて会った孫と共に、人生最後の試みとしてかつて結成していたジャズバンドのメンバーを訪ね歩き、最後に渾身の演奏した後果てる、と言うストーリー。

 再開したかつてのバンドメンバーたちの想いと演奏にかける熱意は半世紀を経ても褪せることなく、最後の演奏シーンへ導入されて行く。この時から映画はジャズシーンがメインとなる。半世紀ぶりに果たし得た熱演の後、貴島は孫に楽器を託して会場を後にし、かつて二人だけで結婚式を挙げた教会にたどり着き、そこで果てる。
 そんな映画であった。 音の大きさは後半に生きた。

 キャストは渡辺貞夫だけは観ていて分かったが、他は終わりまで一切分からなかった。後で、財津一郎、犬塚弘、佐川満男、古手川祐子など、私も名前は知っているメンバーが出演していたことを知ったが、観ている間は全く気付かなかった。ジャズの演奏シーンは迫力十分、財津を始め、出演者の楽器の扱いも実に自然で、私は最後までジャズのプロが出演しているものと思っていた。心疾患の呼吸困難の様子を演じた財津の演技も見事であった。

 ハンセン氏病患者は1953年に制定された「らい予防法」で隔離された。1998年に「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」が起こされ、2001年に原告全面勝訴の判決が確定した。病そのものと患者の家族までも巻き込んだ差別が今もなお存在することを鋭く描いている。

 全く白紙の状態で出かけた上映会であったが、それだけ一瞬一瞬が味わい深く、最後の演奏シーンでは深く感動し、涙した。良い作品であった。今まで映画を毛嫌いしてきた訳ではないが今まで観た作品は極端に少ない。映画の持つアピール力はとても大きい。私にとってはこれからの領域である。


4/29(金) 昭和の日  曇り・晴れ 病棟拘束 花見若干 
1:50起床、ドック関連業務。新聞・文献自炊、患者関連書類。10:00過ぎから自宅の整理、バイク整備充電など。16:00-17:30一つ森公園、千秋公園に花見。まだ若干早く、寒かった。17:40- 19:10病院にて業務。20:00帰宅、夕食、21:00就眠。

自然と歴史、先人から学ぶ(1)
 自然と歴史、先人から学ぶことは極めて大事なのだと思う。これらは私の興味の対象でもある。
 このうち自然から学ぶというのは巨大で魅力的な対象であるが、何せ大震災が生じた後だからしばらくは寄せておく。

 近代科学は西洋哲学の合理性を導入して以降急速に発展した。その方法は物事を細分化し分類し、それらの一断面に注目し、仮説と論理を組み立て、それを実験的に証明し、説明する。ただ、この手法だと全体像の理解にはなかなか出来ない。
 近年は、ゆらぎや偶然による予想外の現象が多く存在する複雑系の科学が注目されている。その中でも、医学は複雑多様な人体を対象とする学問で複雑系の中でも代表的学問である。そのためにあらゆる科学の論理を活用し、かつ経験性を加味して理解に努める。しかし、それでも体系化の困難な領域である。
 まして医療となると、人間特有の内的・外的要囲を多く抱える領域だけに単なる生物科学としてだけでは理解困難であり、とても奥深い。

 過去を検証し、現在を熟知し、問題を明擁にする手法でなけれぱ、未来は見えてこない。温故知新である。未来を洞察するには歴史を含め、多くの情報が必要となる。歴史は人類社会の過去における変遷・興亡の記録である。歴史観は立場によって異なるから、さまざまな立場から歴史を学ぷ必要がある。複雑な事象の整理には哲学的思考が必要になる。哲学は異なる観点から真実を汲みとり、人間の根源を理解するのに役立つ。

 先人から学ぶ姿勢も大事であり興味も尽きない領域である。随筆や古典、評論をはじめ、古事記、万葉集、奥の細道など、親しみやすい古典の中にちりばめられている珠玉の言葉や記述はとても参考になり、よりよく生きるための知恵の宝庫である。これを読んでいると人間自体はほとんど変化も進歩もしていないことがよく分かる。ただ、取り巻く文化、環境が急速に変化しており一見進歩している様に見えるだけである。だから、歴史を学ぶ価値は大きいのだ。人間像のサンプルを学べる領域である。

 私は5月末日をもって退職する。医師としては翌日からほぼ現状と同じ状況で再スタートすることが決まった。徐々に業務が整理されていく予定である。それに伴い若干ながら時間に余裕が出来ていくはずなので、自然と歴史、先人から学ぶこ時間に充てようと思っている。


4/28(木)曇り・雨 外来 療養病棟診療部会 医療安全打ち合わせ
2:00起床、ドック総括、新聞チェック。自炊。事務数件処理。7:00車病院に。8:45-14:30外来。17:00-17:45療養病棟診療部会、20:00帰宅。夕食、20:45就寝。明日から一般的には大型連休。私はいつもの如くだろうが、子供達が集まってくる。楽しみである。

「となりの三尺」 「傘かしげ」
 昔からの言い伝えに良いものがたくさんある。いろいろ教訓になる。
 その中の一つに「隣の三尺」がある。これだけでは何のことか全く分からないが、「自分の家の前だけを箒で掃くのではなく、ホンの少し、三尺程度お隣さんの所も掃いてあげましょう」、と言う気持ちのことである。社会人、組織人としてあるべき心だと思う。
 日常生活においても仕事上でも近いところにいる人がお互いにそんな気持ちでいられたらいい。 確か、この言葉は医療のリスクマネージメントの分野でも用いられていたと思う。多職種が関与して成り立っている医療の世界、いまチーム医療を目指す現場にはどの職種員であっても必要な配慮である。医療人がこの様な気持ちにあると医療事故の発生件数は問違いなく減少するだろうし、よしんば生じたとしても被害の拡大を防ぐことが出来る。良く引用される例であるが、「ちょっと湯を沸かしているけど見てて・・」と同僚に頼んで席を外し、戻ってみたら激しく吹きこぼれ、テーブルが湯まみれになっていた、と言う。同僚は「見てたら沸騰しました・・」とケロッとして答えたという。
 似たような言葉に「傘かしげ」「こぶし腰浮かせ」という言葉もある。
 ただ、逆の言葉に「小さな親切、大きなお世話」もあるから一筋縄ではない。
 まあ言えることは、自分の領域だけを守っていれば良いと、みんなが自己中心的にしていると、次第に境界線付近の掃除、業務が疎かになる。隣近所付き合いの上では境界線を異常に意識してわだかまりの因にもなる。
 結局はケースバイケースと言うことになるが、どちらにせよあまり了見の狭いことを言わずにちょっとだけ配慮してあげればいい。


4/27(水)雨 外来 
1:30起床、新聞・文献読み他徒然。自炊。6:10雨で車出勤。7:00回診他。8:45-14:10外来。20:00帰宅、夕食、20:50就眠。

医療事故、医事紛争は何故減らないか?(14)その背景(3)露骨な責任回避の態度が不信の元
 ある病院に入院中の高齢患者が転倒して骨折し、私共の病院で手術を受け、リハビリテーションも済んで退院した。
 聞くところによると骨折に関する医療費の支払いをめぐって病院と患者家族の間でもめているとのことである。最終的にどちらが支払うか未だ決まっていないが、病院側はとりあえず立て替える形にした、という。

 このケースは私共の病院が関与する問題ではないが、高齢の入院患者の転倒は日常的に生じるので、この件について若干考えてみた。
 結論から言えば、この転倒事故において医療費をどちらが支払うかは、病院側に過失があったか否かによって決まることになる。病院側に過失があれば、その内容によっては全部または一部は病院が支払うこととなるだろう。

 病院側の責任の有無は、患者の転倒骨折が予見可能であったか否か、回避する努力がなされていたのか、がポイントとなる。病院の安全管理上の判断で転倒骨 折が予見される状態であり、なおかつ回避義携を怠った場合には、義務違反、つまり、過失があることになる。このような過失の有無については、損害賠償など で法的係争によって解決しなければならない状況にも至る。

 それ以前に、実際には事故後の最初の患者や家族への説明の場が問題になる。トラブル回避としてはこちらの方が重要である。
 私共の病院でも「皆さんのご意見をお聞かせ下さい」と目安箱を用意している。それに寄せられる内容は「医師への苦情」、「医療に対する不信」、「医師の 説明不足」が代表であるが、これからもわかるように、医師への要求度が高く、厳しい視線を向けている。そして、不信感を持ち、納得できない場合には病院へ の行動は徐々にエスカレートしていく。そのようなケースを調べてみると原因の多くは、患者側と医療者側のコミュニケーション上のすれ違いから始まってい る。
 最初はほんの小さな疑問でも時間と共にわだかまりが高じてきて、対話を重なるうちにかえって溝が深まり、もう何も信じられなくなる場合も少なくない。こうなると解決に向けた話し合いは出来ない。

 特に最初の説明の中で、病院に落ち度はないという防衛的な説明や態度を示されるとかえって何かあったのではないか、と言う不信感を持つ。文頭の患者の場合も、一方的に「病院にミスはない」という説明が家族の不信につながったようである。


4/26(火)晴れ 外来 常務会 新築関連意見交換会
2:00起床、新聞・文献読み、徒然。自炊。6:50自転車出勤。回診他。8:45-14:20外来。 14:45-16:10 常務会、17:30-18:50医局新築関連意見交換会。20:40自転車帰宅、21:30就眠。

女優田中好子さん死去(2)キャンディーズは「夢のカリフォルニア」が良い
? キャンディーズは、ザ・ピーナツ、ピンクレディと共にわが国の歌謡界にとって長く長く記憶に残るグループだと思う。
 昭和48年少女3人組のキャンディーズがデビュー、昭和53年に「普通の女の子に戻りたい」と名言を残して解散した。活動期が僅か5年間しかなかった? 改めて活躍期間の短さと、その間の人気の高さが分かるというものである。昭和48年は私は秋田に転居してきた年である。私も同時代を生きてきたので好むと好まざるとにかかわらず彼女らの歌が耳に入ってきたし、映像も何度も何度も見る機会があった。

 私はキャンディーズにそれほど興味を持っていたわけではない。似たような声域の場合、二人ならまだ良いのであるが、三人以上となると音楽的に自ずと限界があり、聴いていても苦しい。そうは言っても、あの3人が歌うステージの中継などは、なかなか良いものであった。気持ちが明るくなった。ただ、彼女らは一挙一動すべてが演出家、プロダクションの指示通りで、彼女らは単にロボットに過ぎなかったのだ、と思う。だから、ぎこちなさもあった。これも三人と言う組み合わせのなせるところであり、自由度はとても少なかったのであろう。売り出し直後ならまだしも、人気が出る毎に「私たちは誰??私たちは一体何なの??」と、迷い、壁に突き当たったのではないだろうか、と予想する。確か、解散時はプロダクションとかなり揉めていたような気がする。

 キャンディーズの曲の中で「春一番」等数曲は挙げることが出来るが、しっとりとした曲が少なく、私は彼女らの歌はあまり好みではない。ただ一曲だけ、パパス & ママスの代表曲「夢のカリフォルニア」はキャンディーズのカバーした録音を通じて知り、繰り返し繰り返し楽しんで来た。FM番組からカセットにに録音した音源だからそれほど音質は良くない。それでも私にとっては彼女らの曲中でベストワンであった。この曲を、30年近く経ってから秋大の心臓血管外科の忘年会のバンドに混じって私も何度か演奏した。曲そのものが名曲であるが、この曲に接する度に彼女らのハーモニーが私の頭の中をいつも占拠する。

 亡くなった田中さんは昭和55年に芸能界へ復帰し、間もなく女優業に専念した、と言う。その程度のことは知っていたし、映画で数々の賞を得たこと、おしん他、NHKの連続ドラマにも出演していた事も新聞等で知っていたが、実際には私は彼女の女優としての姿を一度も映像で見た事がない。この度、祭壇に飾られた近影を見た。とても美しく良い表情だと思った。

 田中さんは若くして白血病で亡くなった夏目雅子さんとは義妹とのこと。私は講演等で夏目さんの生き方についても話すことがあるが、今後は葬儀で自らの言葉で挨拶をした田中さんのことも引用させてもらいたいと思っている。
 随分長い間闘病されていたことも先日知った。ご冥福をお祈りしたい。


4/25(月)快晴 管理会議 外来 東日本大震災支援担当者会議 療養病棟判定会議(欠) 長副会議 通勤路桜開花
2:00起床、新聞・文献読み、自炊など。6:30自転車病院着、回診等病棟業務。7:45-8:30管理会議,8:45-14:40外来、混雑で疲弊。16:00-16:50東日本大震災支援担当者会議 、療養病棟判定会議は欠。17:00-18:15長副会議。重症患者対応。20:00帰宅、夕食、21:00就眠。

女優田中好子さん死去(1) 自らの声で挨拶ー天国で被災者の方の役に立ちたい
 本日17:00NHK第一のニュースで、4月21日に乳がんで亡くなった、元キャンディーズのメンバーで女優の田中好子さんの告別式の様子が報道された。

 私は先々からNHKが芸能人、スポーツ選手等の私的分野の話題ニュース等で大々的に取り挙げることを不快思っていたので、またか、と思いながら流していた。その中で彼女が自ら用意した録音音声で列席された方々に挨拶をした、という。
 私は中年以降の方々を対象とした講演の機会が随分あったがその中で、一人一人が自分に相応しい死生観を持つように、具体的には自分の葬儀も自分で用意し納得の上で死ぬ、葬儀の際には自分の声で参列者にお礼を述べるくらいでなければならないのだ、そのことを通じて残り少ない人生をより意義深く生きる事が出来る、とこの20年来、何10回も述べてきた。勿論、私自身もそのつもりでいる。

 しかし、生前葬と言った半ば遊び半分?の試みの例は幾つか知っているが、実際に録音まで準備したというケースは知らなかった。式の最中、本人の肉声が流れ、会場は氷を打ったように静かになった、と言う。NHKはご丁寧に、彼女の録音を流した。勿論、全部では無かろう、1?2分だったと思うが私も聴き入りレコーダーのボタンを押した。

 挨拶は「こんにちは、・・・」とか細い声で始まった。亡くなる20日ほど前の録音と言うが、私の印象ではとてもその時期と思えないしっかりした口調だった。「・・今日はは3月29日、東日本大震災から2週間が経ちました。被災された皆様のことを思うと、心が破裂するような・・・、ご冥福をお祈りするばかりです。私も一生懸命病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。その時は、必ず、天国で、被災された方のお役にたちたい・・。今日、お集りいただいている皆様に、お礼を伝えたくて、このテープを託します・・ さようなら。」

 NHKが彼女のことを詳しく取りあげ、ご丁寧にも彼女の録音まで流した。「ここまでやるか」、と言うのが聞いた後の感想であり、ニュースに取りあげたこと自体を私は是とするものではない。しかし、彼女は自分の死を通じて大きな事を成し遂げた、と思う。多分聴いた方々は何かを感じ取ったはずである。そのことについては大きく評価したい。特に、録音から分かるが、かなり息苦しい状況の中での録音だったのであろう。それにも関わらず、東日本大震災の被害者の方々への気持ちを語ったことに私は感じ入った。

 私はもう少しは生きられそうだ。この録音を聴いて、今後の被災地への支援について私がどう関わるべきか、またいろいろ考えさせられた。


4/24(日)曇り小雨 病棟拘束 第34回秋田青少年オケ定期演奏会 
2:00起床、新聞チェックほか。文献整理、自炊多数。14:20自転車アトリオン。14:30-16:30第34回秋田青少年オケ定期演奏会。中座、病院へ。回診他業務。19:00帰宅、夕食、20:40就眠。

秋田青少年オーケストラ第34回定期演奏会 素晴らしかった交響曲25番
 4月24日(日)に秋田青少年オーケストラ第34回定期演奏会があった。
 私は地元の団体の演奏は出来るだけ聴くようにしているが、親しみを感じていたアトリオン室内オーケストラ(ACO)が活動を停止したので寂しい限りである。

 この青少年オケの定期演奏会は8割り方は聴いている。 今後はこのオケの活動に注目し、「秋田青少年オーケストラを育てる会」を通じて微力ながら援助していきたい、と思っている。午後、やや強い風のもと自転車で出かけホール地下の駐輪場に自転車を預けた。客席は7割方と予想していた以上の入りであった。

 指揮は秋田市出身のプロ指揮者佐々木新平氏。東京シティフィルの研究員として常任指揮者を補佐している他、豊島区管弦楽団で常任を勤めているとのこと。秋田南高から東京学芸大学に進み、更に桐朋学園大学で学んだという。秋田出身の音楽家が次々と輩出している。喜ばしいことである。

 演奏曲はプログラムによると、 ■ヴィヴァルディ作曲:合奏協奏曲『調和の霊感』作品3-8■パッヘルベル作曲:カノン■メンデルスゾーン作曲:弦楽のための交響曲第10番■ヴィヴァルディ作曲:合奏協奏曲四季より『春』 ■モーツアルト作曲:交響曲第25番卜短調。

 2曲目、3曲目は意識を失ったので演奏されたか否か判断できない。休憩時間には東日本大震災への募金もあった。私は駐輪場の経費だけ残して持参金全てを箱に入れた。

 演奏メンバーとしてパンフレットを見ると,管や低音弦を中心に賛助出演の方が26名でオケのメンバーは22名であった。賛助出演の方がこれだけ多数参加していたこともあって技術的破綻はなく、弦のアンサンブルも良好、メリハリの利いたなかなか良い内容で私は十分に楽しめたし、感心もした。
 このオケがより高度の演奏を目指すことは良いこととは思うが、管楽器セクションは別として賛助出演の方を多数加えて演奏することが果たして良いことなのか検討を要すると思う。かつては、演奏は勿論それなりではあったが、子ども達の、青少年達のオケとしての姿を懐かしみつつ、楽器に親しむ子ども達が参加しやすい環境はそのままなのか、愛好者育成という意味ではこちらの方も大事な一面でないか、とちょっと心配した。

 私は病院で業務を残していたので最後の曲が終了した時点で余韻を味わうことなくそそくさと席を立った。


4/23(土)曇り小雨 病棟拘束 家内東京
2:00起床。ドック総括x1, 徒然等。7:15東京へ空路の家内をリムジンに送り出勤。回診その他病棟業務、患者関連書類の整理。ついに未総括カルテゼロにした。15:30帰宅、午睡若干、19:30夕食、20:30就眠。

「病跡学」(3)ハイドンの鼻ポリープ
 2008年に医学雑誌に目を通していて傑出した人物の個性と創造性を精神医学や心理学から研究する「病跡学」と言う分野を知った。主に「創造性」に光を当てるのだと言うが実に面白そうな分野である。

 べートーヴェンの難聴は有名であるが、ハイドン(1732-1809年)は変声期近くで「たまたま」下痢をしていたことで「たま」を摘出されずに済み、結果的に音楽界を大きく発展させた。彼はとても美しいボーイ・ソプラノでカストラート候補として狙われていたのだそうだ。

 私はハイドンの音楽も好きだ。彼は名声を得てからは鼻ポリープでかなり悩んでいたと言うことは最近知った。にもかかわらず晩年まで作風が変わっていないのに今更感心している。彼は後半生の20年以上を鼻ポリープによる諸症状とその手術に悩まされていた。ポリープが後鼻孔に落下して呼吸が障害され、外科医の手術を3回受けたという。
 今ならCTでMRI病像を把握し、局所または全身麻酔科で内視鏡的治療も可能であるが、その頃はまだ麻酔がなく手術はする方も受ける方もかなり大変だったのだろう。それだけ鼻閉、嗅覚異常、鼻出血などの自覚症状も強かったのではないだろうか。そのために彼の創作活動は完成が遅れるなど、度々影響を受けたとされる。

 こんな状況でも60歳過ぎまで旺盛に仕事を続けたハイドンの創作能力、気力維持は大変だったと思う。ハイドンの作品は交響曲、オペラ、宗教曲、器楽曲等、当時のほぼ全分野に及び、全部でどれだけの作品があるのか私は不勉強にして把握できていない。

 晩年、ハイドンは使用人に看護してもらいながら過ごしたとされるが、持病で大変だったと記録されている。その一つが鼻ポリープだったのだろう。彼は1809年死去したが、デスマスクには鼻ポリープの影響と思われる膨隆が頬部にあるらしい。

 私はハイドンの音楽も好んで聴く。交響曲、弦楽四重奏なども良いが、どの様なジャンルでもスッと耳に入ってくる。後半生20年間は病との闘いであったことを知った今は「天地創造」、「四季」、「スターバトマーテル」と言った宗教曲を主に聴いている。しかし、それらの作品にさえ、作曲者の身体的苦痛、心理的懊悩を聴き取ることは出来ない。


4/22(金)曇り雨 法人理事会 
2:20起床。5:15病院着。6:30回診、病棟業務。11:00入院患者対応、患者関連書類処理、総括4部。17:30-18:20法人理事会。20:00自転車帰宅、軽食、21:00就眠。

ものを捨てる勇気(5)不要のCD-ROMも廃棄  重ねたら1mほどもあった
 初めて購入したパソコンは1993年MacのColour Classicであった。外部記憶装置としてフロッピーディスクが装備されており、購入するソフトも基本的にはフロッピーであった。外付けのCD装置はまだまだ高額であったし、CDで供給されるソフトもそれほど多くなく特に不便した記憶はない。

 1996年にはPM7200を購入したがこれにはCD-ROM装置が内蔵されていたが、この頃からソフトはCD-ROMで提供されるようになったし、パソコン関連週刊誌にも付録として毎回附いてきた。自分でも一時ZipのデータをCD-Rに落としたことがあったが結局はセキュリティ対策がどうにもならないことから元に戻した。学会関連の資料も、紹介状もCDで届くようになり次々と不要なCDが増えてきた。

 2001年以降はMacはOS-Xの新時代となった。これ以降、基本ソフトも大きくなり、数枚のCDで供給され、いつぞやDVD-ROMで供給される様になって来ている。確かに、もう700MBのCD-Rは中途半端となった。

 それ以降も今日までデータCDはたまり、事務机の引き出し一つには収まらないほどとなった。今回、重ねてみたら1mほどになった。随分たまったものである。あと一月で引っ越しするので、これも先日全てを廃棄した。

 モノを捨てるときのコツは、まとめて一気に捨てること、捨てるか否かの判断は使わなかった期間のみとし、中を一切確かめずに即決することである。私が一旦中身を確かめたら、惜しくなってまたもとの棚に戻すだろう。

 CDについては登場初期の頃から思い入れがあって、データ面に傷を付けて再生不能にした後も全てとってあった。
 一つはCDの持つデータ面の美しさであった。レーベル面にも優れたデザインのが少なくない。もう一つはCDを数枚重ねるとちょうど良い車輪になる。これを使って室内用のキャリアや外仕事用のキャリアを作るつもりでいた。更に、孫のためにオモチャをいろいろ作りたいと考えていた。
 今回、病院にある分は全部捨てたが、自宅にも何10枚かの不要のCD、DVDがあるからまだ工作意欲までは捨ててはいない。


4/21(木)曇り・風 外来 
2:00起床。ドック等業務ほか、徒然。文献チェック他。6:40車病院着,回診、8:45-14:30外来。対外的行事無く、紹介状、総括に集中。19:50帰宅、夕食、21:00就眠。

東日本大震災(21)大震災から1カ月半(2)自分の無力さにも呆れるだけ
 当初、私はこの大震災の状況、それに引き続く福島第一原発の事故を理解したいと思っていて新聞やネットで情報を集めて来た。しかし、約一ヶ月半経った今、私は、そうやって大震災に関して情報を集めていることことそのものが、現場から遠い、安全な場所に身を置く第三者的発想であって何ら特別意味あることをしているわけではない、と自覚し焦りを感じるようになった。

 勿論、募金活動とかには積極的に、まず身の丈以上に応じてきたと思っているから、自らをそれほど責める必要がないのだが、何か気持ちが晴れない。
 マスコミやネットから集められた情報を並べて見ても多くが断片的であり、なかなか客観的な分析や推論をまとめ上げることが出来ない。従って、こんな事をしているだけでは何ら大震災の復興に参加していない事に等しい。何故、震災の地からはるか離れた場所にいる私が、わざわざ彼らの日常の不便さとかに想像の中で参加しなくてはならないのか、そんなことは初めから出来ないのだ、と割り切らざるを得ない。そう考えるようになって以来、私は、情報を集め共感することではなく、無機的で良いから継続的に被災地に向けて何らかのアクションをすることだ、と考えを変えた。
 
 私は間もなく雇用契約が満了し退職する。だから今迄不可能であったまとまった時間を作ろうとすれば不可能ではない。しかしながら、私が現場に直接出かけて手伝うことの意義は無いに等しく微々たるものであろう。むしろ、迷惑になる事を恐れるべきである。結局、私が今到達しつつある結論は、医師として働いてきた今迄の環境の延長線上で診療を続けながら、得られる報酬の一定の部分を継続的に被災地に届けることしかない、と言うことである。初めから私にはそんなに選択肢は広くはないのだ。こう考えたら多少身が軽くなった。6月以降の身の振りようは未定だから今これ以上考えてもしようがない。

 報道から現場の状況、あるいは被災者の気持ちを理解しようとしても出来るものでない。何しろ、現場と情報を得る人は環境が全く異なるからである。私共が受け取っている情報は、現場に近いあるいは関連する人間が必要としている情報であるが、果たして届いているのだろうか。
 テレビやインターネットで、繰り返し流される津波の映像、瓦礫の山、全てを根こそぎもぎとられた街中の映像が流れる度に、抑えきれない悲しみと怒りがこみ上げてくる。しかし、そこで私は冷静に思い止まるべきであろう。私は大型余震が続く三陸や、見えない放射線の恐怖に曝されている福島にいるのではない。自分のことを一瞬忘れて彼の地の出来事に思いを馳せているにすぎない。

 私は聞題の現場に居るわけではないし行けるわけでもない。まず、徹底してそう自覚することから始めたい。同情の声を上げる前に、いま自分が何ができるのか、自ら動くことで何がどうなるのか、と考えることにしよう。


4/20(水)曇り 外来 中央診拡大診療部会議
1:30起床。文献検索、徒然ほか。6:40病院着,回診、病棟業務、8:45-14:00外来。15:00患者・家族面談。17:00-18:00中央診拡大診療部会、新築関連。19:50車帰宅、夕食、20:45就眠。

ものを捨てる勇気(4)今回Iomega Zipディスク、ハードをすべて処分
 先週末、Zipディスクとハードを全て処分した。
 私は病院と自宅とで業務をやっていたのでデータの持ち運びが必要で、外付けリムーバブルディスクが必須であった。用いた外付け記憶装置は振り返ってみると時代と共に大きく変遷した。

 1990年頃、私はMSXコンピューターからデータ保存を始めた。当時は作成した音楽データをカセットテープに保存していた。データをチュルチュル・ピーピーと音声化してそれを録音したもので、不安定、不便で、データの消失事故は日常茶飯事で、操作数回毎にデータを失いガックリきたものである。だから、プリントアウトは必須であった。フロッピーディスクはまだ高価でハードは6−7万円もして手が出なかった。

 1993年購入のColour Classicにはフロッピーディスク装置が付いていた。僅か1.2MBであったが当時はこれでもかなりのデータを持ち運べたし、蓄積出来た。約10年使用したことになる。しばらくZipと併用していたが、2004年11月にフロッピーディスクに完全に見切りを付け、ディスク250枚を廃棄した。

 2000年頃からはIomega社のZip、2004年頃からはIomega社のJazをデータ保存に併用した。光ディスクとか数多い装置の中で何故Iomega社の製品にしたかというと、理由はセキュリティの面だけであった。当時私が知る範囲でMacで使用出来る外部記憶装置でデータを暗証番号で保護できるのはこの社の製品しかなかったからである。ディスク1枚が1500円程度とコスト的には辛かったが、データを持ち運ぶ私にとってセキュリティは必須で、選択肢は限られていた。

 Zipディスクは一枚100MBで、フロッピーディスク70枚分のデータを一枚にまとめることができた。新聞や雑誌、書類等をPDF化して保存し始めたために100MBのZipディスクは間もなく100枚を超え、処理に困り、1枚に1GB入る同社のJazも併用した。その後、改良でZipディスクの容量が250MB、750MBとなり、とても便利になった。2008年Iomega社はJazの生産を中止したが、結果的にZipが同社の兄貴分のJazを駆逐したことになる。私は2008年12月にJazのハード4台、ソフト20枚を処分した。

 随分コストをかけた。勿体なかったが十分利用した、と満足している。ITの世界は時代の流れに逆らうと不便になり、継続的発展性が途切れてしまうのでやむを得ない、と割り切った。


4/20(火)晴れ 外来 常務会 新築委員会打ち合わせ 医局歓送迎会
1:20起床、新聞・文献読み他徒然。6:40自転車病院。回診他。 8:45-15:00外来、予約外患者多く超混雑。15:00常務会に遅れて出席。15:30新築委員会打ち合わせ。18:30-20:00医局歓迎会、酔って中座、20:20帰宅、タクシーの中で居眠りし行き過ぎた。21:00就眠。

東日本大震災(20) 大震災から1カ月半(1)自民の対応に呆れるだけ 
 東日本大震災からもう1カ月半になる。まだ大きな余震も続いている。警察庁の19日のまとめによると、死者は12都道県で13.965人、行方不明者は6県で13.677人となっている。仮設住宅への入居も始まった。

 政府はこの様な方々の生活復旧に全力を挙げなければならないのだが、霞ヶ関ではくだらんことで相変わらずもめている。
 菅首相が提唱した復興実施本部構想に対しても、自民党は党利党略にこだわり菅首相の延命策と解釈し賛意を示していない。谷垣総裁は「実行力の乏しい首相と組んで震災対応の責任を押しつけられてはたまらない・・」等と宣っている。自信があるなら積極的に参加して菅首相より実行力があることを国民に示せば良いじゃないか。そうすれば次の選挙では返り咲くことが出来るだろうから、最高の機会と言うことになる。
 谷垣氏に対しての私の評価は菅首相より低い。弱犬の遠吠えでしかない。取り巻きも同様である。わが国のエネルギー政策は自民が推進し、現政権がその尻ぬぐいさせられている状況なのに、である。やれるならやって見せて欲しい。

 秋田県は直接的被害が少なかったが間接的影響はまだまだ続いている。東京に用事があるのだが新幹線はまだ不通である。空路は混雑していて思うような滞在時間がとれない。医療面では、例えば、内視鏡とかの機器の供給は部品が乏しく組み立てが滞っていて秋まで新品は手に入らない、等々である。

 私の日常生活に何ら不便は感じ無い。それでも水光熱消費は控え、物品は整理し続けている。支援金も随分出した。しかし、相変わらず何か気分が優れない。何となく居心地が良くない。

 その背景の一因は上記の如くの政争の報道、遅々として進まない避難者対策、右往左往する原発対応、何を拠り所にして良いのか分からない放射能汚染の報道である。


4/18(月)快晴 管理会議 安全管理者と打ち合わせ ドック診察 療養病棟判定会議は無し  長副会議 
1:30起床。ドック総括等いつもの如し。6:40自転車出勤.回診等病棟業務。7:45-8:20管理会議。10:00-11:00安全管理者と打ち合わせ。13:30ドック診察。療養病棟判定会議は対象者無し。17:00-18:30長副会議。20:00帰宅、夕食、20:40就眠。

ものを捨てる勇気(3)東日本大震災と雇用契約満了を機に発想を変えた
 私は、モノを捨てられない性格である。送られてくる文献、印刷物も後で役立つかもしれない、と考える。無用になったものでも先々役立つのではないかと思う。また、改造したり、工夫して残存機能を利用することが好きだし、修理して機能を復活させることが好きである。もう一つ、そのモノにまつわる自分の思い出も大事にしているからで、とても安易には捨てられない。

 だから、書籍や物品が身の周りに溢れてしまう。我が家はかつて9人も住んでいたが今は3人だけ。だから部屋が空いている。しかし、実際は空いていない。4部屋が物置同然で自由に動けないほどである。最近、たまに次男夫婦が孫連れて帰秋する。そのためにかつて次男が使っていた部屋を何とか空けたが、まだ整理不十分で、嫁さんは物置に寝せられているような感覚だろう。早くもっと何とかしなければ、と思い週末にはセッセと整理している。

 しかし、今回の東日本大震災の揺れ、自分の残り時間、かつ雇用契約満了による退職等を考えるとこのままでは物品や本で私が埋もれてしまう。それに、家族にとって私の所持品などゴミ同然であろう。そんな目を感じる。今回、発想を大転換してパソコン4台と周辺機器を処分した。
 iMac2台、PB2400、PM G3である。iMac2台は次男が置いていったもの。その他周辺機器としてZip media120枚、外付けZip機器6台、Canon Printer BJS700で、全て完動品であるが、時代柄もう使うことは無かろう、と無理に見切りを付けた。

 これで自宅も、院長室の棚も引き出しもかなり空間が増えた。PB2400、PM G3、Zip、Printer共に購入したときにはそれなりの価格であったが私としては十分に使い切った、と満足感がある。十分に考えて納得の上の廃棄であったが、一瞬だけ未練も感じた。今はとてもすっきりした気持ちである。所持品が少なくなっていくとむしろ快感を感じるようである。

 自宅の本棚は1/3ほどの書籍が自炊、即ち、電子化されて本箱に空間が出来た。そうは言ってもこれから院長室から運ばれる書籍はその量以上あるから、まだまだ処理しなければならない。
 今後しばらくの間、悩ましく楽しい時間が持てそうである。


4/17(日)快晴 病棟拘束 親戚の一周忌法要
1:30起床。新聞・文献チェック。徒然。自炊。7:00病院、回診、紹介状他事務処理若干。10:30黒ネクタイ他、資料持ち帰宅。11:00昨年死去された親戚、一周忌法要+会食、13:30中座帰宅、アルコール午睡、15:00文献自炊など、自宅図書整理。夕食、20:30就寝。一昨年バイク初乗り日。

15歳未満の子どもから初の臓器移植 5人に移植
 改正臓器移植法成立後に初めて脳死と判定された15歳未満の子どもから臓器の提供があり、提供を受けた5人は本日の段階では経過順調という。臓器提供者は事故で重いけがをした子どもだったとのこと。

 わが子の死を脳死段階で受け止め、臓器を提供されたご家族はすごい決断をしたと思う。肝は北大で20代男性に、両肺は東北大学で50代女性に、腎の片方は東京女子医大で60代男性に、もう片方の腎と膵は藤田保健衛生大学で30代女性に、心臓は阪大病院で10代男性に移植された。文章で発表された親御さんのコメントでは手術が成功したことを喜ぶ気持ちが伝わって来た。子どもの臓器提供の場合、虐待ではないことの確認も必要であるが今回の場合には恐らく問題にはならないだろう。

 従来の法律ではわが国では15歳未満の子どもからの臓器提供はできなかった。そのためやむなく欧米で心臓移植を受ける子どもがいて、社会問題化していた。私は各国で移植を待っている患者を見殺しにする悪しき行動だと思っていた。だから、昨年7月の法改正で本人が拒絶していない限り家族の同意のもとで、臓器の提供ができるようになったことを是としていた。

 厳密なことを言えば、本人が拒絶していないことをどの様にして確認出来たのか、家族の主体的な意思で臓器提供を判断したかが問題となるが、その辺のことは私如くの第三者には分からない事だ。
 法改正後の9カ月で、大人の臓器提供は数倍に増え、本日の段階で41例、そのうち38例が家族の承諾によるという。子どもの場合は脳死判定もより複雑で、臓器移植に対応できる医療機関も今のところ限られている。

 ところで、移植される臓器は提供者の身体から摘出された後に各地にチャーター機で運ばれたらしい。時間との闘いだから多分そうだろうと思う。現代の臓器移植は全国レベルでレシピエントが探され、直ちに送られる。こんな状況を見た時、私は医史学にある腑分けと言う言葉をつい連想してしまう。


4/16(土)雨 病棟拘束 
2:00起床。県へ提出するインフルエンザワクチン副作用調査票40例判定。総括、文献検討。7;00病院着、 7:30回診、退院総括ほか。書類・文献破棄。ワクチン副作用調査票判定追記。14:00散髪、17:15帰宅。19:30夕食、20:30就眠。昨年は降雪、一昨年は千秋公園で花見した日であり、年ごとの寒暖差が大きい。

医療事故、医事紛争は何故減らないか?(13)その背景(2)重大な医療事故頻発
 医師の信頼感が大きく失墜したのは1999年横浜市立大の患者取り違え事件、都立広尾病院の注射器取違え事件を嚆矢とする重大医療事故の頻発である。
 これらはマスコミによって連日大きく報道され、これ以降、医療事故関連の報道は一気に増え、医師や医療機関の権威が失墜するとともに、患者の権利意識の高まりも加わって、医療訴訟件数が急増した。

 医療に対する不信を高めた一因は過剰なマスコミ報道もあった。悪しき結果が生じると、すぐに医療機関の体質や医師の技量を間題視し、医療バッシング報道を重ね、世問の医療不信に拍車をかけた。その論旨のターゲットは医療機関であり、医師であり、決してその背景にある日本の医療制度、医療行政の問題点に言及することはなかった。医療裁判でも検察、裁判共に個人の責任を問うだけで、背景因子にまで深く立ち入ることはなかった。

 そんな中で2004年に帝王切開中に患者が死亡した福島県立大野病院事件が生じた。産科医が標準的な医療を行ったのに業務上過失致死罪、異状死届け出義務違反に問われ逮捕まで至った事件である。これに対し刑事事件の対象になり、医師が逮捕されるようでは医療は出来ないなどとし医師会等の医療団体が強く抗議した。 結果的に、産科医は無罪となった。無罪自体は当然であったが、小泉首相の医療費抑制政策以降に地域医療が崩壊しつつあった医療情勢、国を挙げての死因調査委員会問題の論議の高まりも加味された判決と思われた。裁判に社会の問題意識が反映されることの一例である。

 この裁判で地裁は、患者の死亡原因を癒着胎盤という疾病と認定し「診療中の患者が診療を受けている当該疾病によって死亡したのであるから異状死に当たらない」と判断した。これは臨床医側がずっと腫脹してきた内容であり、これをはっきりと判決の中で認めた画期的判断であった。横浜市立大、広尾病院の事件を機会に医療訴訟や医療機関から警察への届け出が急増していたが、この大野病院事件の判快を境に、マスコミの論調も変化したし、医療訴訟の件数、警察への異状死の届け出が減少に転じたように思われる。ただ、この件に関して本日の所データは持ち合わせていない。

 かねてから「医療は安全・安心なもの」という幻想が形作られていて、ミスや過誤を犯した医師や看護師は個人的問題点を挙げられ責められた。2000年11月「人は誰でも間違える To Err is Human」の日本語版の出版は医療安全の面で画期的な発想の転換を促した。これを機会に医療上のミスは個人の注意では防止不可能であるとの考え方が浸透し、医療安全対策は事故防止のシステム化に向けて大きく進展していった。


4/15(金)晴 入院患者対応 ふき検診センター代診 古いパソコン4台と周辺機器廃棄
2:00起床、新聞、文献、ドック総括検討など。徒然、6:00病院着。7:15回診、病棟業務。退院患者総括、生命保険関連書類処理数件。13:00-15:00ふき検診センター、所長が手術とのことで代診。20:00帰宅、夕食、21:55就眠。

雇用契約満了退職(1)5月末日に
 本年5月末日をもって私は長年お世話になった法人と病院を退職する。
 私は現在満65歳と11ヶ月である。私共の法人は定年制を敷いており、就業規則には医師は65歳に達した場合、その年度の末日をもって退職、とある。従って、私は規則上は去る3月末日に退職であり、当然そうなると思い準備していたが、法人の理事の任期が5月末日までなので5月末日となったものである。

 一般的に法規や組織の規則に一定の年齢到達を事由に退官・退職させる制度は定年あるいは停年制と言われているが、定年あるいは停年と言う言葉は何となく尻すぼみ的、うら悲しさが漂う。「この年齢になったあなたは、もう私共には必要ありません」と言うことであり雇用側に優位なイメージがあり、私はあまりこの言葉は好きではない。雇用契約は本来双方的な契約である。この制度は雇用される側の権利でもある。だから、私は勝手に雇用契約満了退職と言い換えている。内容的何ら変わりはないのであるが、この方が雇用主と従業員とが有期限の契約関係にあると言うことがはっきり分かって両者の緊張感を保つのにずっと良いし、被雇用者が雇用契約満了をもって退職できる権利を持つと言うことでもある。

 一般的に公務員や会社員は就職と共にこの雇用契約満了日が決まっている。この定めがない企業体も少なくない。その方が良いようにも取れるが、その場合には自分で引退を決めなければならないから、かえって厳しいだろう。
 自分としてはこの雇用契約満了にて退職することをひたすら楽しみにしてきたのでこの制度をとても有り難いと思う。この、誰でも一定の年齢に達した際には一律に雇用契約が終了、と言うのが潔くて良い。労働者が退職すると言うことは社会的にも、経済的な面から見てもとても重大なことである。だから、人生の中途でまだまだいろんな可能性があるうちに診療契約が満了することの意義は大きい。だから、一律、平等というのがとても重要である。しかし、入職時に30−40年間の雇用契約を結ぶのは雇用する側される側にとって異常と思う。最終的契約更新期限が60歳または65歳であるのは良いとしても、5年間毎に雇用契約を更新するのが双方にとって良いと思う。勿論、被雇用者は雇用契約を自ら解消することが出来るのだが、中途契約解消と満了解消は次のステップがありうる労働者にとって決して同じではない。

 私は多くの方々に支えられながら本日まできた。感謝しきれないほどである。しかし、いささか長くお世話になり過ぎた、とつねづね考えてきたので間もなくくる雇用契約満了日を楽しみにしている。


4/14 (木)晴 外来 患者家族面談
2:00起床、ドック、文献チェック、徒然他。6:45自転車病院着。一昨年は通勤路脇の桜がほころび始めた日だが今年はまだ。回診、病棟関連書類、8:45-13:30外来。15:00入院患者対応+家族面談。19:15帰宅、夕食、20:30就眠。

医療事故、医事紛争は何故減らないか?(12)  その背景(1)患者の権利意識の向上
 裁判の内容には、結構その時代の世問の問題意識が反映される。裁判自体の内容が時代と共に変化していくことは当然であるが、その時々の社会事情や世論も影響する。しかし、世論に敏感に反応するとすれば問題であろう。
 医師の権威も時代と共に変化してきた。その背景は種々であるが、患者の権利の向上が主と考えられる。
 患者の権利に関してオープンに検討されてきたのはそう古い話では無い。
 1972年にアメリカ病院協会が出した「患者の権利章典に関する宣言」を嚆矢とすると思うが、1981年には世界医師会総会が「患者の権利に関するリスボン宣言」を出した。日本医師会は何故かこの宣言に賛同していない。武見会長はこの年に引退を表明しているが、恐らく、当時はまだ医師会の力も強く、医師患者関係はパターナリズムが横行していた時期と考えられる。次いで、国連総会で1991年「精神病者の保護及び精神保健ケア改善のための原則」を決議 、WHOは1994年「ヨーロッパにおける患者の権利の促進に関する宣言」を採択した。「リスボン宣言」は1995年に改訂されたが、この時日本医師会は賛同している。この間に日本の医療事情が大きく様変わりして行ったためと思われる。
 日本の患者医師関係の変遷を知るのに良い例が、患者の丸椅子に関する議論、患者様という呼び方の普及である。
 かつて、診察室の患者の椅子が丸椅子で医者のは肘掛背もたれつきの椅子であることが不平等で差別だとか、患者を軽視している現れだとかの論争があった。診察室の椅子がそんなことの比較の道具に用いられるなど私は考えても居なかっただけに驚いた。
 最近は多くの病院で患者を患者様と呼んでいる。これには私は賛同できない。ルーツは厚労省の通達とされているが、通達はそのような内容ではない。厚労省の医療サービス向上委員会は2001年11月、『国立病院等における医療サービスの質の向上に関する指針』を出し、患者に対する言葉遣いや応対の仕方を改めるために当時の国立病院に「患者の呼称の際、原則として、姓(名)に『様』を付ける」ことを求めた事が始まりとされている。患者の個人名を呼ぶときに「○○様」と呼ぶことを求めたものであって『患者様』と呼ぶことを求めたのではない。患者を様付けで呼ぶ動きは既に医療の現場からも発生していた。鴨川市にある亀田総合病院では1995年に全国に先駆けて「患者様」という言葉を取り入れている。この通達の後、患者様と呼ぶ医療機関が一気に増えたことは確かである。私は患者本位の医療やサービス向上を求めた結果としての使用なら納得できないわけではないが、過度のへりくだりを感じるから、かえって患者を軽視しているように感じられる。
 どちらにせよ患者・医師関係は大きく様変わりしたことは明らかである。


4/13(水)晴れ  外来 県感染症評価会議 新築事務局会議
1:45起床。新聞・文献検討、徒然。6:50自転車病院着、事務処理、7:30回診等。8:45-13:30外来。14:00-15:00秋田県感染症評価会議、退任挨拶。15:30-17:00新築関連事務局会議。19:55自転車帰宅、夕食、22:45就寝。

書籍・本・文献の電子化(5)書店は至福の場 電子化作業も新発見の場
 大規模、小規模に限らず、書店を訪れて店内を歩ぎ回るのは楽しい。至福の時である。そうは言っても、私は書店に入る機会は意外と少なく出張の際の駅や空港の書店に限られていた。だから、時間に追われながらであまりゆっくり出来なかった。今後は秋田市内の書店を訪れる機会が増えそうである。

 ある決まったジャンルの本を購入したいときには、ネットで検索し注文するのが手っ取り早い。一定以上の額になると送料無料で、2-3日後には宅配便で手元に届く。この数日の遅れは時間が乏しい中では大したことはない。このシステムは確かに梗利である。これだけ効率的に、欲しい領域の新刊書を書店で見つけるのは至難の技と言って良い。

 ただ、私は新刊書はネットで検索はするが、通常は購入しない。私が勤務する病院の脇に高齢の夫婦がやっている小さな書店があるのでそこに注文する。届くまでに1-2週間かかることもあるが、これが普通なのだと割り切る。街中の商店は街の活性維持に重要であり、そのためにはその商店を利用する必要がある。だから、私は出来るだけ大型店からは物品を購入せず、市井の商店を利用している。10-20%、時には50%も高く付くこともあるが、サービスでカバーしてもらえると割り切る。注文した書籍は書店の親父さんが部屋まで届けてくれる。交わす世間話に味もある。 

 私の立場から見て、ネットで本を検索、注文するのに便利なのは古本の検索である。文献、随想などを読んでいると興味を覚える本が紹介されているが、この様な場合に通常の書店で手に入ることは殆ど無い。古本屋で探してもまず見あたらない。この時はネット検索である。大抵検索にヒットする。この機能は私にとってネットが独壇場で、見つかれば即注文である。
 
 書店巡りの楽しみは、自分がまったく知らなかった領域の本にたまたま出会い、それを手にすることで新たな興味の分野ができるからである。そのどれをとっても、それなりに面白く、未知の世界に驚きを持って接することが出来る。自分の無知を恥じつつ、異次元の世界に漂うのはとても面白い。
 最近はまた、昔感動して読んだ本、利用した本を電子化する際に再読するのも日課であるが、必ず再発見、感動がある。ただ、自分の蔵書だけでもそうなのであるが、読みたいとリストアップしている本の目録を見るだけでも残り時間があまりにも足りない、と焦る。大規模書店に入ると一層焦る。楽しみ半分、反省・焦りが半分と言うところかな。


4/12(火)晴れ 外来 常務会 医局カンファレンス
2:15起床,ドック判定総括x1、文献検索etc.6:35自転車病院、7:35回診他。8:45-14:10外来、14:45-16:00常務会。 17:30-18:20医局カンファで私が担当し、剖検させていただいた患者の症例検討。20:00帰宅、21:00就眠。

書籍・本・文献の電子化(4)何故か自炊と言うらしい 
 自宅の本棚の本はかなりの量になる。特に二階の廊下、各部屋の窓のない壁面には書棚が並んでいる。従って、捜し物をしているときなどに大地震が来て転倒 すれば家族が埋もれる危険もあるし、逃げ場を失う。また、本の重量を考えれば私共が通常過ごしている下の居間は決して安全でないだろう。だから本の軽量化 は理にかなう事である。

 一番良いのは、古い本などはどうせ見ないのだからと割り切って処分すればいいのであるが、私は背表紙を見ているだけでも幸せな気分になる性分だから捨て られず、また、出かける度毎に書店によって購入するものだから、増えすぎる本の処理に困っていた。ところが、本をスキャナーで取り込み電子化することで、 保持と軽量化を両立させることが出来る事を知り、最近は、時間があれば、と言っても週末しかできないのであるが、コツコツとこの作業を進めている。この作 業を何故か自炊というのだそうだ。

 取り込む前に本を裁断するので、時折取り出すような現役の本は基本的に取り込みの対象にしていない。二度と読む機会はないかもしれないが、さりとて捨て ることが出来ないものから始めている。対象になる本を探すために最近は院長室の書棚の奥から古い本を取り出し、何としようかと思案している。この過程で、 所持していることさえ忘れていた本や、懐かしい本、紛失したと思い込んでいた本も出てきて驚いたり喜んだりしている。

 私は蔵書は多い方だろうけれども時間が無くてそれほど読んだとは言えない。読んだはずでも殆ど忘れている。しかし、どなたかの言ったという「買った本が1ページでも役に立ったならそれで良しとすべし」は私も同感である。だから、乱読で次々と買い込む事になる。

 その立場で苦しいのは、最近、新刊本が高価になってきた事である。ハードカバーで2.000円超も珍しくないし、今回出た「宮沢賢治イーハトーヴ辞典」 は興味を引いたが14.000円もする。実際、若者達を中心に本離れが言われて久しいが、それだけ出版に経費がかかっていると言うことだろう。
 電子出版はその点、より安価になる。従って、出版のかなりの部分を電子出版が占める時代は間もなく来るだろうと思うが、子どもの頃から本に親しん出来た 立場から言えば、ジャンルにもよるが、出来れば紙の本でまず読みたい・・と思う。しかる後に自分で電子化、自炊するのが良いように思う。


4/11(月)雨後曇り 管理会議 外来 療養病棟判定会議 長副会議
1:20起床、文献、新聞チェック他。6:35Taxi病院着、回診、病棟業務、7:45-8:25管理会議、8:45-14:10外来、 16:00-16:35療養判定会議。17:00-18:20長副会議。19:50帰宅。夕食、21:00就眠。

東日本大震災(19) 今日で1カ月(2)数字化した統計の陰にある個々の人生を考えよう

 3.11東日本大震災から1カ月。まだ大きな余震も続いている。4.07夜に宮城県沖で発生した余震は秋田では震度5強では全県で停電が続き、一時断水も発生、交通機関が乱れた。死者はなかったが、6人がけがを負った。
 本日5:17pm福島県浜通りを震源とする地震があり、同県で震度5弱、秋田市では振幅の大きな揺れが1分ほどで、震度3を観測した。福島の方では高校生を含む死者も出たという。気象庁はワンパターン、差し障りのない予想を述べているが、実際のところいつまで続くのか、と不安と言うより不満に思う。

 大震災の死者は1万3千人超、行方不明者は1万4千人超・・と恐ろしく大きな数値が毎日更新されていく。これら数値の背景には、暖かい体温を持ち、かけがえのない個々人の人生、個性があったはず。これらの方々の多くは襲ってきた事態を理解する間もなく大波に呑まれ、がれきと共に流され、身体中を打撲し、数分のうちに意識を失ったものと考えられるが、その間に各人が味わったであろう恐怖と驚愕、苦痛を思えば、いたたまれなくなり、かつ、
言葉を失ってしまう。私が地震後に、えも言われない不快な気持ちになっている背景はここにもあるように思う。

 それが、集計されて数値化されてしまうと上記の如くに単なる無機的な数字に化して、比較の材料になってしまう。そこには個々の気持ちとか感情は一切無視される。これは現代の、何でも数値化してしまう行き方なのだが、その意義は分かるとしても、その数値の陰にある温かい人間の姿を忘れてはならない。

 平成14年からの臨床研修制度にはマッチングと言って研修志願者と病院側のお見合のような面接の場がある。そこで私は「何で当院を希望したのか?」と研修希望者に問うているが、ほぼ100%「こちらの病院は症例数が豊富でいろいろ経験出来・・・」と答える。まずワンパターンである。確かめていないが、講義やガイドブックにそのようにあるのではないかと思う。
 私はその都度、「多くの患者さんを診させていただくことで、いろいろ経験することが出来ますが、症例なんていませんよ・・」とコメントしてきた。私共が診るのは暖かな体温を持つ患者であり、症例と言うのは集計のための抜け殻、と私はとらえている。症例には、苦しみも、悩みも、体温も、感情もない。まだ実務経験のない学生が患者を症例と表現するような教育がもしされているとしたら問題である。


4/10(日)快晴 病棟拘束 我が家の防災の日 選挙投票日
1:30起床。本日は昭和27年我が家が火災で消失した記念日で、我が家の防災の日とした。新聞チェック、本読み他。7:15病院。朝靄と薄い雲で太陽が月の如くであった。7:10回診、看護師と面談、紹介状作成、11:00帰宅。文献、書籍整理廃棄他多数。選挙投票など。19:00夕食、20:30就寝。

東日本大震災(18) 大震災から1カ月 不快で居心地悪い日々が続いている
 東日本大震災から、もう1カ月になる。まだ大きな余震も続いている。
 死者・不明者は計3万人に達するとされ、15万人以上が避難生活を送っている。福島第1原発事故による環境汚染や農産物、魚介類への不安はさらに強まり、避難指示区域などでは行方不明者の捜索が大幅に遅れている。被害者に関しての警察庁の10日のまとめによると、死者は12都道県で13.013人、行方不明者は6県で14.608人で、死者・不明者の総数は27.621人となっている。仙台市、東松島市、南三陸町では集計ができていない。

 全国から支援の輪が広がっている。仮設住宅への入居もやっと始まった。地震・津波・原発事故がもたらした各方面への影響も大きく、日本国内のみならず、影響は世界にまで及んでいる。放射能による汚染問題、各国のエネルギー政策の見直しなどのほか、部品調達困難から自動車産業等も減産を余儀なくされている。

 直接被害に遭われた方々の苦悩は知るよしもない。仕事場も、財産も生活基盤を全て失った方々が大勢おられる。政府はこの様な方々への生活復旧に全力を挙げなければならないのだが、国の復興への対策はまだ見えない。自民党との復興に向けて大連立も模索されているが、ここに至っても党利党略にこだわり一致点は見いだせていない。復興が軌道に乗るまで、その目的だけでも連立が望ましいと思うのだが、何と情けない状況である。こんな事なら、1-2週間だけでも霞ヶ関機能を被災地や福島に移してみては、と思う。

 秋田県は被害が少なかったと言え、病院は停電、物流の影響を受けた。対応も結構大変であったが、幸いにもほぼ復旧した。病院からの現地への支援も行っている。
 私も水光熱関連で生活の様式を変え、家の棚とか不要不急な物の整理とかで地震に備えている。支援金もそれなりに出した。しかし、大震災後、何か気分が優れない。何となく居心地が良くない。出身県でこれだけの被害が生じていると言うのに実際に何も出来ない、隣接の秋田でこんな平穏にしていて良いのか? 自責の念に駆られている。
 間もなく私自身の身分が変わるが、今後、被災地とどうかかわって行くか、行けるのか、いろいろと考えている。

 本日7:00am頃、太陽は既に東の空にあったが朝靄と微妙な雲の影響で裸眼で真っ白く見え、周囲はいつになく暗かった。しばらく眺めていたが、最近の私の気持ちに近い感じの雰囲気であった。


4/9(土)雨 病棟拘束 患者死亡 N医師結婚披露宴
1:00起床。直後、病棟から電話、病院へ。患者死亡、見送り、4:00帰宅。新聞チェック、本読み他。7:15病院、本日のスピーチ準備他。 12:00-15:00N医師結婚披露宴。スピーチしたが、この様な機会も最後。15:30Taxi帰宅、酔いもあり2時間ほど午睡。19:30夕食、 21:00就眠。

相撲界に再び衝撃、八百長疑惑 (5) 世論に迎合、協会が力士23人を断罪

 日本相撲協会は、八百長関与で23人もの処分者を出した。ほとんどが引退し、八百長を認めなかった親方は解雇した。結果的に人的欠損が大きくなったため5月夏場所の開催も断念、力士の技量審査場所として入場無料で開催することを決めた。
 これで一端線引きをした如くに見えるが、しかし、八百長問題の解明がどのように、何処までなされたか、私には分からないし、印象から言えば処分はきつす ぎると思うし、後味がとても悪い。果たして判断する情報は十分だったのだろうか?携帯にメールが残っていたからと言って八百長をしたという確証はどうやっ て得たのか?本人が認めたのならばやむを得ない面はあるだろうが、それとて義理人情を絡めた誘導でなかったのか?
 私は日本相撲協会がマスコミの論評、世論に押されて無理矢理裁断したのではないか、と思う。23人は生け贄として挙げられ処分された。八百長問題はかな り前からある。処分を下した理事長他、自分たちが問われたら本当にシロなのか?今の執行部の面々はそれほど潔癖なのか?自らを問うてそう答えられるのか?

 土俵は、力士達の真剣勝負の場、神聖な場とされてきた。そこで八百長があったらしいことでスポーツとしての大相撲の根幹が問われたが、果たして大相撲が本当に真剣勝負のスポーツなのかと言うことについての評価はどうなったのだろうか。
 協会がスポーツだと明言し、八百長はあり得ないと明言しても、私は閉鎖社会、身内通しのなれ合いの世界という印象が拭えない。才能が花開き順調に昇進で きる力士は別格なのかもしれないが、上位の力士はサラリーマンと同じである。だから、似たような地位のもの同士、親しい力士間では互いの保身のために星の 譲り合いがあることは否定できないのでは?と思う。
 伝統を守り、かつ八百長を防止するには相撲協会の仕組み、力士の身分保障、経済保障を変えていかなければならないだろう。地位によるサラリー制度を改革 し、勝敗による評価を中心に改める、部屋制度や年寄株制度の改革、なれ合いの理事会選挙などをやめることだろう。そして真のスポーツとしての道を歩むなら 国技だ、神技だ・・などと言うことから決別し、法人格を返上し、国際相撲協会としてオープン化し、勝負の勝敗が全て、と言う機構にせざるを得ないのではな いか、と思う。
 今回の処分は、興味本位に騒ぎ立てるマスコミや軽々しい世論に迎合し、法人格の維持をのために行った、妙な解決法である。何が判断基準になったか分から ないし、かつ、重すぎる処分であった。23人が異議を唱えることもなく各界を去ること自体が異常である。今回の処分で何が改善するのだろうか。むしろ、事 実の隠蔽になるのでは?私は疑問に思う。
 23人のうち本当にシロだと思うなら、協会の判断の差し止めを求めて裁判に訴えても良いのではないだろうか。


4/8(金)快晴 昨夜の震度5強 対策本部発足 法人理事会(中止)
23:32強い地震があり起床。 震度5強で停電となる。急遽病院へ。種々対策後、2:00座位にて就眠、5:00起床。結局電気復旧せず。停電対策、10:00電気復旧、13;00全機 能正常復帰。新入院患者、重症患者対策、退院総括。20:30帰宅、夕食、21:00就寝。

東日本大震災(17) 3.11の余震か 秋田は震度5強で停電 
 4月8日23:32、強い地震があり起床。震度5強で停電となる。ラジオで状況確認、わが家の火の点検の後、車で病院に向かう。信号は機能しておらずノロノロ運転。こんな時間なのに意外と車が多いのに驚く。地震で職場に向かうのだろうか。

 こんな時間なのに、もう病院には既に多数の職員が詰めかけていた。災害対応マニュアルが徹底されている。各現場を担っている方々の責任感はすごいと思う。
 病院は微少な被害のみ。停電以外には大きなトラブルはない模様。ただ、これが病院機能維持にとっては重大な事態。私が担当している7F療養病棟は揺れが大きく書類棚とかが乱雑に移動し、書棚から本や書類が落下。全病院に人的被害はない。
 停電は火力発電所の自動停止とのことで4:00現在まだ停電している。宮城県仙台市付近と栗原市では震度6強、一時津波警報が出たが1:00に解除とな る。数人の外傷者の報告が伝えられているが、大きな人的被害はない様である。非常電源下では本も読めず。2:00時点で帰宅を諦め、部屋で座位にて3時間 ほど休息。

 7:00結局、電力の回復無し。停電下での診療対策体制を構築して外来業務開始することとなる。オーダリングシステム稼働していない状態の病院業務は厳しい。明らかに機能低下する。8:45何とか外来診療開始。
 10:00少し前電気の復旧あり。医療機関等を優先した東北電力の配慮で市街地はまだ停電という。新幹線、在来線共に終日運休、高速道路と空路は通常通りという。(11:00現在)
 魁新聞によると、秋大病院は午前中は休診、午後は電力が復旧次第対応。日赤病院は終日休診。市立秋田総合病院も一日休診。秋田組合総合病院は、午前8時から同11時半まで、外来、急患とも通常通り対応であった。通常通りの外来は当院だけであった。(14:00現在)

 13:00院内の機能はは殆ど解消、反省点と問題点を確認し、昨夜からの災害対策会議は終了とした。
 明日から新幹線、在来線共に余震前の状況に復帰するという。


4/7(木)快晴 外来 ドック結果説明 研修医導入研修 夜半に震度5強あり
1:30起床、ドック総括他。研修医導入研修講義準備。6:45自転車病院。7:20回診。8:45-14:00外来+ドック結果説明。 15:00-16:45研修医に導入研修として『病院の沿革、医師の心得』。21:00帰宅、夕食、21:40就眠。23:32震度5強あり、病院へ急 ぐ。

入社式、入学式などの点呼起立 発想を変えて後ろの席からにしてはどうか
 昨日4月7日は法人立中通高等看護学院の入学式で来賓として出席した。私が看護学校の行事に出席するのは今回が最後となる。快晴とは言え明和会体育館は肌寒かった。新入生達は真新しいスーツ姿であったが、やはり寒かったのではなかろうか。
 式自体はいつも思うのだが、過剰に格式張って整然し過ぎるが、まずまず良い式であった。在校生代表による「歓迎の言葉」、新入生代表による「誓いの言葉」はもう看護師としての心構えが育ちつつある内容を垣間見ることが出来、実に立派であった。教員が指導したのかな?
 ところで、入社式、入学式とも一人一人点呼を受け起立するのであるが、点呼は前の席順から順に立ち上がるものだから2列目以降になると前に隠れて殆ど顔 が見えない。これは臨席するものにとって名前と顔が一致せず、良いものでない。本人達にとっても決して愉快なことでないだかろう。
 だから、点呼起立は発想を変えて最後列の方からにすればいい。そうすることによって全ての方々の名前、顔、表情を確認することが出来る。通常、席順は「あいうえ」順とかになっているが、点呼を逆順にしても良いし、席を逆順に配列するのも良い。
 入社式や入学式は折角の記念するべき儀式である。少しでも良いものにしたい。大した変化でないのだから取り入れてはどうかと思う。
 同じ事は高校野球でも言える。
 甲子園野球の教育的意義を強調し、健闘を讃えるのだとすれば、試合後に敗者の方の校歌を斉唱すればいい。最後の決勝戦だけ双方の校歌を流す。そうするこ とで負けることの教育的意義、素晴らしさを再確認することになる。秋田県では甲子園代表が殆ど初戦敗退することを嘆き、高校野球強化プロジェクトを発足さ せたと言うが、何でそこまで勝負にこだわるのか、と思ってしまう。勝つことによって得られる事よりも、負けることによって沸いてくる再挑戦、再出発の力の 方にも優劣付けられない意義がある、と思う。
 23:32、震度5強あり、病院に。


4/6(水)快晴 外来 中通高等看護学院入学式 新築関連打ち合わせ会議 秋田市内科の会(欠)
1:30起床、ドック総括、新聞、文献チェック。6:45自転車病院着、今朝から本格的に鯉へ餌撒きを始めた。7:30回診他、8:40-13:00外来。13:30-14:15中通高等看護学院入学式。在校生代表、入学生代表の言葉、内容が立派。14:30-16:30新築関連打ち合わせ会議 に遅れて合流。20:10帰宅、夕食、21:00就眠。

醫不仁之術欲務為仁(大江雲澤)を知る(2) 医は仁術、は苦しい
 大江雲澤(1822-99年)は明治4年に設立された中津医学校の初代校長で、在任中に医則を認めた。 以下に示すが、第一則が「 醫不仁之術欲務為仁」である。
第一則:医は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す (醫不仁之術欲務為仁)。
第二則:実中に虚を察し、虚中に実を察す。医はなお兵の如し(実中察虚虚中察実醫猶兵也)。
第三則:病に対して利を図り、名を好み、怪しきをすることなかれ。己を資すに非ずして、天地の造化を助けに及ばず(對病勿図利好名為怪 非為己資実助造化之不及)。
第四則:寇には矛をとり武を奪うを知るも、これを撫安するを知らず。火には水をもってこれに向かうを知るも、火をもって火を制することを知らず。根本を治めて末節を処理し、病因を治めることを忘れず症状に対す。網でなく、魚を取れる人でないと道を共にするは難し(知冠操戈奮武不知撫安之 知火以水嚮之不知以火制火焔 本治標治因治現非忘 筌取魚之士難共言道矣)。

 何となく分かるような気がするが、第一則以外は難解な文章である。
 この中で「仁」は人間にとってもっとも普遍的で包括的、根源的な愛を意味するものとして儒教で大切にされてきた語である。そのためなのであろう、歴代天皇の号には、「垂仁」「仁徳」「仁賢」「淳仁」「光仁」「仁明」「仁孝」と多数あり、名前としては昭和天皇の「裕仁」、今上天皇の「明仁」など、10世紀以降の天皇の御名には大部分に漢字「仁」が用いられている。極めて単純な作りの漢字であるが、何となく近寄りがたいイメージが漂う。       
 貝原益軒は「医は仁術である」と断定している。一方 大江雲澤は「医は仁ならざるもの」と書き出しは異なるが、到達点は同じである。後者の仁術について「医療は無条件に善なのではなく、悪にもなる・・・」と言うより技術的な面からとらえる考え方もあるようだが、私には分からない。ただ。「医は以て人を活かす心なり。故に医は仁術という・・」と唐の時代の宰相陸宜公が述べたと言う記録もあるから、技術面と言うよりは倫理面での意味づけが大きいように思う。

 私は医は仁術であるという立場で断定的にとらえると些か苦しいと思う。到達目標として現実を見据えながら掲げておく標語としてとらえたい。その面で大江雲澤の「医は仁ならざるもの・・」を知って肩の荷が下りたような気がする。


4/5(火)雲一つ無い快晴 外来 ドック結果説明 常務会 新築関連事務局会議 医局会+被災地支援報告
1:30起床,ドック関連業務、文献チェックなど。6:45自転車病院着。回診+病棟業務。8:40-14:00外来+ドック結果説明、14:45-15:40常務会、15:45−17:00新築関連事務局会議、17:30-19:00医局会、被災地支援報告。20:00帰宅、20:45就寝。

醫不仁之術欲務為仁(大江雲澤)を知る(1) 医は仁術か、否か?
 4月は新卒・既卒を含め各職場でニューフェイスを迎える時期である。
 先日4月1日に法人の入社式があり、65名の若い方々を迎入れた。これには既卒者の方々は含まれないので実際にはもっと多い。本日の医局会では4名の臨床研修医を含め、9名の医師が紹介された。臨床研修医4名は若干少ないのが残念であるが、年によってバラツキがある。昨年は10名であった。

 新卒医師に対し入社翌日から導入研修が始まっている。病院で働くコメディカルの役割を理解するための見学研修、医療安全、接患者対応の講義や実習・・などなどで集中的に講義が並んだりしないように工夫しているが、受ける側は大変である。
 私は毎年、「当院の沿革と理念、医師の心得」という項目を受け持っている。

 医師の心得では「患者との良い関係をいかに構築するか」、を主眼に患者の気持ちや医の倫理などに言及する。
 このうち、医の倫理の項では、BC460年ギリシャ時代のヒポクラテス全集「 医師として守るべきは」から2004年日本医師会の提言まで、殆ど変わらぬ内容で繰り返し論じられている事を紹介しながら、医師の倫理観の育成がいかに困難なものであるかを話している。これの解説においてはゲーテ(1749-1832)「医者なんて信用できるものでないが、医者なしでやっていけないところに我々の苦悩があるのだ!!」、モリエールの戯曲の中の一文などの他、患者の権利を論じている「リスボン宣言」等を紹介している。
 その中で貝原益軒(1630-1714)養生訓の中の一節「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うをもって、我が身の利養を専に志すべからず」にも触れてきた。

 毎年この講義を受け持って来たが、その度毎に何か新しい内容を取り入れ、私自身がマンネリ化をしないよう心がけてきた。
 今回、その準備過程で大江雲澤(うんたく)なる人物を知り、表題のこの 「醫不仁之術欲務為仁」を知った。「医は必ずしも善・仁術なのではなく、悪にもなる。だからこそ医師は常に謙虚に患者のために尽くすべきである」、と言うことなのだろう。私にとっても貝原益軒の記述よりも賛同出来る考え方である。
 
 大江雲澤(1822-99年)は明治4年に設立された中津医学校の初代校長で、在任中に医則を認めたが、 その第一則が「医は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す (醫不仁之術欲務為仁)」である。


4/4(月)早朝濃霧、一時吹雪後快晴 管理会議 安全管理者との打ち合わせ 療養病棟判定会議 長副会議
1:30起床、ドック関連処理、文献・書類整理。7:00自転車病院着。7:45-8:30管理会議、9:00外来2名、10:00安全管理者患者対応、患者家族面談。書類処理。入院3名、対応。16:00-16:40療養判定会議。17:00-18:30長副会議。20:10帰宅、夕食、20:45就眠、病棟より電話4回。

東日本大震災(16) 元原子力安全委員長らの緊急提言 
 東日本大震災は発生後3週間経過した。激震、津波、東京電力福島第1原発事故と人類が遭遇したことのない三重の大震災となっている。
 原発の方は必死に二次被害、三次被害を防ごうと努力しているがなかなかうまく行っていないようだ。端から見ていてもどかしいが、見えない高放射能下での作業でありそう簡単に進むものではないことは理解出来る。現場で対策を担っている方々には安全を確保しながら頑張って頂きたい。

 ただ、対策の首座が何処にあるのか見えない。東電なのか、国なのか、得体の知れない原子力安全保安委員会なのか? 多分、最終決断は政府だろうが、政府に科学的、技術的なことが判断できるはずがない。ならば、わが国の原発の専門家の英知は十分に集められて決定されているのだろうか? 諸外国の英知は参考にしている? などと思ってしまう。この辺のことがよく見えないのだ。

 そんな中、わが国の原子力安全委員長などを務めてきた専門家が4月1日、「我が国がもつ専門的英知と経験を組織的、機動的に活用しつつ、総合的かつ戦略的に取り組むことが必須である」として、国を挙げた強力な体制を構築することを政府に求めた、緊急提言を発表した。その全文はそう長くはない。ネットで読むことが出来る。提言者は松浦祥次郎・元原子力安全委員長、田中俊一・元原子力委員会委員長代理(元日本原子力学会会長)、石野栞・東京大学名誉教授ら16人。

 この提言には、原発の現状として、燃料の多くが破損あるいは溶融し、圧力容器や格納容器内に拡散・分布した膨大な放射性物質が環境に放出され続けている状況だろうと分析し、このままでは、溶融した炉心が圧力容器や格納容器を破壊するであろうことや、圧力容器内で生成した水素の再爆発が懸念される深刻な事態、と分析している。これを回避するためには、原子炉および使用済み燃料プール内の燃料の冷却が唯一の方法だと強調している。
 そして、ここが重要だと思って読んだのだが、対策には、■原子力安全委員会、■原子力安全保安院、■関係省庁、■日本原子力研究開発機構、■放射線医学総合研究所、■産業界、■大学、などの英知を結集して対策すべきだ、と提言している。要するに、国内の英知が集められておらず、現役を退いた立場の目から見ても対策の方法に問題があると感じ、提言を出さざるを得なかった、と言うことであろう。

 折しも本日、低容量、と言っても国の基準の100倍ほどの放射能を含む何千トンもの廃液を海に流し始めたとのことである。緊急事態なのかもしれないが、あまり唐突でないか? 実施までの過程があまりにも短くないか?どのように最終的意志決定がなされたのか?と思ってしまった。それほど危険な状態が差し迫っているのだろうか? 発表では廃液の放射線濃度は高いものの、十分希釈されるから魚介類を摂取しても具体的危険は生じないと説明しているが、本当だろうか。論理的にはそうだと言うから一安心ではあるが、この様な事態に至った経験はまだ世界の何処にも無いのではないか?


4/3(日)快晴・寒波 病棟拘束 
1:30起床、ドック判定総括、徒然、新聞チェック。6:30病院、外科病棟入院の血液疾患患者対応、回診。11:30帰宅、ドックを処理し、書籍、書類、録音データなど処理、整理した。17:00-19:00再度病院、重症者回診、レセプトの一部処理。20:00夕食、20:30就眠。

葛藤による苦しみからの開放(3)分かりやすい秋田県医師会のパンフレット
 鬱的状態、鬱病は適正な治療をすれば治る病気である。にもかかわらず、実際には1/4程度の方々しか治療を受けていない。身体疾患ならば今ではちょっとしたことでも受診するのに、である。それには鬱病、鬱状態に対する誤解や無知もあるし、医療機関の敷居が高いと思いこんでいることにもあると考えられる。

 専門的治療法についての深い部分については私には分からない。ただ、襲ってくるストレスに対する葛藤の結果、自分が不利になりつつある状態なのだから方法論としては、ストレスを除くか、対抗力を増すかのどちらか、と言うことになる。しかし、身体疾患の治療ならそれでも良いと思われるが、死の直前の安息期のことを思うと、鬱の場合にはむしろ対抗力を押さえることで葛藤を小さくする方が良い、と考える。恐らく、鬱状態の治療の原則はそうなっているのではないかと思う。

 これらの対応には医師の治療が必要である。精神科医が治療の専門医であるが、かかりつけの医師も治療が出来る。治療の原則は、休息、薬物、カウンセリングと言うことになる。ただ、疾患としての性質上即効性のある治療は期待出来ず、時間をかけて休養し、治療をうけ、ゆっくりとリハビリテーションを受けるのが良い。

 ところが、鬱状態にある方はどうしても世間体を気にして受診にしていないケースが多い。この様な方々は病状が悪化すればするほど体面・世間体を繕おうとしてより一層あがくことになる。結果として葛藤がピークに達し、力尽き、自己復元できない状況にまで自らを追い込む事になる。だから、ご本人にとっては困難を伴うことであろうが、まず、発想の転換が必要である。そして受診することである。

 この度、秋田県医師会は情報誌「すこやかさん in Akita」で鬱を取り上げた。とても分かりやすい記述で一読の値がある。イラストも良い。見る者を癒してくれる。これは県医師会のホームページで読むことが出来る。お勧めである。


4/2(土)晴れ 病棟拘束 平成22年度第2回法人管理職会議
2:30起床、ドック判定関連。新聞・文献・徒然ほか。7:00自転車病院着、7:20回診。総括他文献整理。14:00-16:30平成22年度第2回法人管理職会議 。18:45自転車帰宅、小雪の降る中身体の芯まで冷えた。19:30夕食、20:00就眠。

葛藤による苦しみからの開放(2)種々の軋轢と葛藤が続くとうつ状態を来す
 患者が亡くなる直前、思いがけないほどの安息な時間が訪れることがある。表情は和らぎ、周りの方々と声を交わす事も希ではない。家族も安堵するが、この時間は長くはない。生きるためのあがき、葛藤を止めたために生じた一時的な安息の時間である。
 私はこの現象に接する度に鬱状態とその対応のことを考える。この死亡前の安息は身体的な現象であり、結果的に死に向かうことになるが、鬱状態、鬱病は臨死状態の身体的葛藤状態に近い精神的葛藤状態と考えることが出来る。だから、その対応には葛藤状態からの解放に鍵がある。

 人は襲ってくるストレスとそれに対抗することの関係の中で緊張感を維持しながら生きていると言って良い。ストレスを感じること無く生きている方がもし居るとすれば、私には想像さえ出来ない。一回も鬱状態を経験したことがないと言いきれる人がいたら、よほどの変人か感受性の欠如している方だろう。私など、毎日が葛藤の日々である。
 鬱に誘う原因となるストレスは日常的にいくらでもあるが、多くの場合、病気と言うほどにまでは至らない。襲ってくるストレス源に対しこれを排除し正常に戻そうとする復元力が精神においても働き、無意識のうちに不安を押さえ込み何とか落ち着く事になる。短いストレスの場合には対抗も一過性で結果的に改善する。

 問題は一定期間持続する慢性的ストレスである。質的に量的に対応不可能なストレスが続くと精神的復元力の範囲を超え、疲れ果て、復元のエネルギーが枯渇し、解消不可能になる。これが鬱的状況の機序と考えられる。「鬱状態など弛んでいる証拠だ、贅沢病だ」などと誤解し軽視する考えは対応法として極めて危険である。身体的ストレスに対して身体が対抗しているとき種々の症状が現れ、患者は苦しむことになるが、身体的な場合には誰しも異常を察知することが出来る。
 鬱状態の場合はなかなか外に出ない。しかし、厳しい状況である。その苦しみの大きさは「人間を害するほかのどんな病気より、鬱病から由来する苦しみのほうが大きい」と精神医学者のクラインは指摘している。この様な専門家の表現に接する度に、私は経験したことのない鬱状態の怖さをうかがい知る事が出来る。決して軽視してはならない。


4/1(金)晴れ 新年度初日 法人入社式 
2:30起床、ドック総括、文献。6:50自転車病院着、7:15回診他。重症患者対応+患者家族面談。書類処理。14:30法人入社式、退院患者総括。20:45帰宅、夕食。21:30就眠。

定年退職者の笑顔 vs フレッシュマン・レディ達の若い笑顔2011
 昨日は年度末、本日は年度の始まりで人事往来の時期である。
 私は昨日は定年退職の方々への法人の感謝状授与式と会食に出席した。その際、毎年思うことであるが、定年退職者と言ってもまだ 60歳、若々しくてお元気、とても社会的に「もう年だから引退・・」の時期にある方々に見えない。定年退職制度は昔からの制度で、時代と共に年齢は見直されてきたが何とまあ厳しい制度だろうか,と思う一方でご本人にとっても組織にとってもこれで良いのだと思う。定年を迎えられた方は体力気力、それに長い時間を携えての新しい門出である。ご苦労様とおめでとうの両方の面から祝福してもらえる最後の、貴重な機会である。

 今回の定年退職者は14名。30-40年も勤務された方々で、当法人を通じて自身の生活を支え、社会貢献をされてきた。定年を迎えた方々の表情は総じて素晴らしい。目標を成し遂げた、という満足感、それに退職後の新生活への希望が織りなす、余裕を持った笑顔である。
 法人で退職時期を迎えた14名中7名の方が継続雇用という形で仕事を続けられる,と言う。有り難いことである。医療はスタッフの技量によって支えられており、一人一人が代替し得ない能力を持っている。継続勤務の方々も、別な道を選ばれた方も、今日からは肩書きと過去のしがらみを捨てて新しい気持ちで働いて欲しい。
 一つ付け加えれば、今後は自分の判断で最低限年一回の健康診断あるいはドックを受けて欲しい。折角人生の再スタートを切るのだから残りの人生を大事にして欲しい。
 これは、定年を迎えられた方々を羨む私自身の願望・感想でもある。そういう私も間もなく定年を迎える。

 本日は多くの企業で入社式が行われる日である。当法人には65名のフレッシュマン・レディが入社した。何れも若葉に例えるのが相応しい、新鮮で明るい笑顔が印象的であった。明日からこの新人達の笑顔と会うのが楽しみである。

 ただ、今年は特別である。普段ならば3月末は送別会が目白押し、4月になれば学校・大学の入学式、そして入社式が行われ、夜の街は賑わうのであるが、今年は大震災の影響で軒並み中止や延期になっているらしく、秋田の川反も今ひとつの印象である。文科学省の調査によれば、東北・関東にある国公私立大学446校のうち、130校が入学式を中止にしたという。
 残念な話題で締めなければならないが、今年はやむを得ないだろう。これを逆手にとって、この未曾有な規模の東日本大震災が発生した年に自分が人生の節目を迎えたことをしっかりと胸に刻んで歩んでいって欲しいものである。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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