徒然日記
2010年8月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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8/31(火)一時激しい降雨、のち快晴 残暑 外来 法人常務会 医局会 
2:00起床,ドック判定総括x3。書類処理他、7:10車で病院着.回診、8:45-13:45外来。14:45-16:00常務会。17:30-18:45医局会カンファ、研修医学会報告シリーズ。20:45自転車帰宅、21;10就寝。

ブタインフ(46)医療機関在庫ワクチン、メーカーなどが買い戻す 朗報だがおかしい
 新型インフルエンザワクチンが医療機関で大量に、厚労省の調べでは約250万回分ほど、が余った。
 国策医療としての新型インフ対策に積極的に協力した全国の医療機関は、ワクチンの在庫を抱え、経済的負担を強いられていた。

 ワクチンの在庫をめぐっての動きを見ると、本年2月頃から全国から余剰のワクチンを国で引き取って欲しいとの要望があがっていたし、秋田県でも新興感染症部会を通じ、国に要望していた。
 7月末に開いた「新型インフルエンザ対策担当課長会議」で、同省は、返品を認めないとする方針を示しながら、罹患者の増加などさまざまな要因によって過剰在庫が生じていることを認め、対策を慎重に検討している、と答えていた。次いで、8月2日の衆院予算委員会で厚労大臣がメーカー等の負担で買い戻しすことで進めている、と表明していた。

 厚生労働省は先日、8月27日、都道府県に対し国産のワクチンの医療機関在庫の引き上げについて事務連絡を発した。引き上げ対象は以下の条件以外で、引き上げを希望する医療機関は「返品希望本数調査票」を9月10日までに県に提出する必要がある。■廃棄されたワクチン■開封した製品■流通履歴が確認できないもの■輸入ワクチン、は引き取り対象外としている。

 厚労省によると、昨年ワクチンが流通した際には、国が一括してメーカーからワクチンを買い上げ、国→販売会社→卸→医療機関のルートで流通させた。買い戻しは逆の手順で進めるが国は関係しないという。 卸売販売業者が9月中旬までのに医療機関から購入時の価格で引き取り、すべて廃棄される。 
 また今回の引き上げについて厚労省は「特殊な状況下での製造・流通業界の特段の理解と協力の下で実現するものであり、例外的に実施されるものだ」として関係者に理解を求めている。

 国の政策的医療に協力するのは医療機関の当然のつとめであるが、それに伴う経済的負担は出来るだけ軽減してもらわないと協力医療機関のモチベーションが低下する。 だから、私ども医療機関にとって今回のニュースは朗報であるが、私は何か割り切れない思いがする。

 方針の決定が遅すぎた。この間、医療機関は在庫として抱えた貴重な資源を有効に利用するために無償で未接種職員、出入りの業者のスタッフ等に接種し、期限切れ製品は廃棄してきた。これらは医療機関の負担となった。

 国が負担せずにメーカーや卸業者に負担させるという構造は我が国の医療政策の根本的矛盾を示しているのではないだろうか。何故、メーカーや卸業者国の方針を呑んだのか?もっとも大きな要因は業界の経済的余裕であろう。業界の特段の理解と協力の下で実現した例外的な実施であると言いながら、背景は厚労省との間のもたれ合いでないのか?我が国の国民医療費の中に占める薬剤関連費用の比率は諸外国に比して著しく高いが、これと関連はないのだろうか?

 新興感染症対策は国の危機管理、国策医療である。国が負うべき負担を民間の好意でまかなう?こんなことで良いのだろうか?
 私は割り切れない思いを断ち切ることは出来ない。


8/30(月)晴れ 管理会議 外来 療養病棟判定会議 長副会議 
1:45 起床。ドック判定総括、文献チェック、その他。6:40出勤.7:45-8:10管理会議.8:45-14;30外来,混雑、疲弊。書類処理他。 16:00療養病棟判定会議。17:00-18:30長副会議。20:00ポッポで外食、20:55帰宅、21:30就寝。

アトリオン室内オーケストラ第33回定期公演「パリの作曲家達」
 8月29日(日)14:00から「 パリの作曲家達〜魅惑の時代に生きた人々〜」と題してアトリオン室内オーケストラ(ACO)第33回定期公演が行われた。
 ACOは1994年にアトリオン音楽ホール、座席数700、の開館5周年を迎えたのを機に県民による室内オーケストラとして誕生した。年2回の定期公演等を開いている。 ACOは県内の多くの企業・団体・個人からの支援による「ACO協会」によって支えられている。私も賛助会員の一人である。

 今回の出演者は 指揮が渡辺修身氏(山形大学地域教育文化学部准教授)、ピアノが野原みどり氏(京都市立芸術大学准教授)と、フルートの菅原潤氏、チェロの高田剛志氏他のエキストラを含めたアトリオン室内オーケストラ約40名であった。

 プログラムは
■フォーレ作曲 組曲「マスクとベルガマスク」作品112より〜序曲、メヌエット、ガボット、パストラール〜
■ラヴェル作曲 組曲「クープランの墓」
■オネゲル作曲 交響詩「夏の牧歌」
■サン=サーンス作曲 ピアノ協奏曲 第2番 ト短調 作品22 
 指揮の渡辺氏は山形では有名な音楽家であるが、私は今回初めて耳にするお名前である。
 ピアノの野原氏は音楽雑誌等では時に名前を見る方であるが、私は今回初めて聴いた。パンフレットによると、東京芸大卒、NHK「若い芽のコンサート」に出演、パリに留学、第42回ブゾーニ国際コンクール3位、ブダペスト・リスト国際コンクール2位。第23回ロン・ティボー国際コンクールにて第1位などのキャリアが紹介されていた。今でも国際的に活躍されているという。「野原みどり」と言うお名前がお覚えやすいし、とても良い。
 私は1年ほど前に発表されたこの日のプログラムを見て二つの点で軽いショックを受けた。
 私自身フランス音楽はどちらかというと苦手な分野であり、この日の演奏曲目は過去にずいぶん聴き込んだが結局は親しめないままにしていた曲ばかり並んでいたからである。フランス音楽は印象としては絵画を予想させる緻密な構築している。本日の曲目を含めて演奏会で取り上げられるような代表的なフランス音楽作品は殆どレコードで所持していて100枚は以上はあるだろう。しかし、聴いて楽しめるほどまで親しめた曲はわずか数10曲に過ぎない。
 もう一つのショック、と言うか心配になったのはこの企画が秋田県民にどれだけアピール出来、どれだけ集客出来るのだろうか、と言うことであった。先月あたりには関係者の方からチケットの売れ行きが良くないとの情報もあった。

 会場の入りは2/3程度であった。満席になると苦しくていたたまれない雰囲気になる私にとっては快適であった。
 演奏はいずれもレコードやCDで一生懸命聴いていたときとは異なり、演奏者の動きを通して曲の構築がよく分かり、新発見がいろいろあって、4曲とも、またアンコールの2曲、ピアノソロとラベルの「亡き王女のためのパバーヌ」も十分に楽しめた。演奏の質も良かった。特にピアノ協奏曲ではこのような小さな編成でここまで出るのかと思うほどの音量が心地よくホール全体に響きわたった。
 私は演奏会というと大抵微睡むし、中座するのであるが今回は一睡もせず、最後まで真剣に聴き通してしまった。これらの曲に対する評価も変わった。


8/29(日)快晴・暑い 病棟拘束 ACO第33回定期公演 秋大茆原教授就任15周年祝賀会 
2:00起床、ドック判定総括x3、新聞チェック、講演準備など。6:00自転車病院、回診他。9:10帰宅。 14:00-16:00アトリオン室内オーケストラ第33回定期公演。17:00 秋大茆原教授就任15周年祝賀会、20:00帰宅、20:30就寝。

菅首相(14) 本日のNHK日曜討論:党内議論欠如の実態があらわに
 昨年の8月28日(日)、第45回衆議院選挙が行われ民主は300超の議席を獲得し政権交代が実現した。
 あれから今日で丸一年、その間に鳩山首相は失政で辞任、菅首相の下で参議院選挙で民主党は大敗を喫し、与野党の勢力範囲はねじれ化し、国会運営は困難な状態を来している。いま、9月中旬に行われる党代表選挙をめぐって小沢氏が立候補を表明、鳩山前首相がこれを支持するなど、政権交代後の政治、民主党内の運営は混迷を深めている。

 日曜朝9:00からNHKーTV、ラジオ第一放送で毎週放送される日曜討論は良い番組で、私は出来るだけ視聴している。その際、発言者の表情も重要なのでラジオよりはTVの方が良い。見ることが出来ないときは録画して後で見る。

 本日、朝9:00からのNHK日曜討論では最初の30分間ほど、民主党の小沢氏を支持する山岡副代表と菅氏側から寺田学首相補佐官が登場し互いの立場を主張した。後半は時間を延長して1時間ほどは日本の円高対応の現状と経済対策の問題点が語られた。
 山岡氏はベテラン中のベテランであり、寺田氏は秋田選挙区選出の衆議院議員で、 2003年初当選後連続3回当選の新進議員である。初当選時は国会議員の中で最年少であった。事業仕分けで業績を上げ、現在現執行部を支える14人の副幹事長の一人に起用されている。今回は首相補佐官という重責を担っている。やっと秋田選出議員が前面に出てきたか、と思って見ていた。
 9月の民主党代表選に向け、両人はソフトに舌戦を繰り広げた。さすがに山岡副代表は余裕綽々、笑顔十分、若手党員を優しく諭すような落ち着いた話しぶりであった。寺田氏はやや緊張気味で話し振りは紋切り調あった。番組の中で激しい対立的な論調にならなかったのはとても良かった。寺田氏は、首相側は代表選よりも景気対策に全力を挙げ、責務を果たすことを通じて支持拡大を図る、と言う考えを強調。山岡氏は円高、株安への対応はあまりにも遅く無気力、と首相を批判する意見を述べた。

 しかし、本日話された内容から伺い知ることが出来たことは、両陣営の考え方の違いと言うよりも党内で両陣営間に殆どコミュニケーションがないと言うことで、NHK日曜討論で話されるべき内容と言うよりは党内でまず両陣営が政策や考え方を摺り合わせて挙党態勢を作るべきだろう、と言うことであった。多くの視聴者も同様の疑問を感じたのではないだろうか。

 私は管・小沢氏間の確執と意地の張り合いがもたらした事態だと思うし、これに鳩山元首相が調整役を十分に果たさないまま小沢指示を表明するなど軽々しい言動が拍車をかけたからだ、と思う。鳩山氏の論旨は世話になった方だから支持する、と政策に関係ない論旨の発言を繰り返している。なんともはや、国民そっちのけのバカらしい抗争の構図である。
 まだ調整の余地はある。それに期待したい。


8/28(土)晴れ 病棟拘束 患者2名死亡
2:30 起床、患者不調で電話数回、寝不足感あり。ドック判定総括x 1他。文献チェック。6:00患者不調で病院着、回診その他重症者対応。退院総括他、13:20患者死去。患者家族面談。19:27患者死亡。20:50 帰宅、夕食、大曲花火中継若干楽しむ。21:30就寝。

新型マック購入(8)ついでにPowerBookG4のバッテリー問題も解決
 新型iMacの初期不良を修理したが、そのことをMacユーザーである友人と話していた際に、電池に関するサイトがあること、オークションで古いPowerBook(PB)用のバッテリーが頻回に出品されていた、と教えてもらった。その方法で新しいバッテリーを簡単に手に入れることが出来、ここ2年ほど悩んでいた懸案事項が解決した。この課程で、保障期間が過ぎたMacに関しては正規のルートでの対応では不十分で、そのほかの方法があることを知った。それだけトラブルが多いと言うことだろう。

 私はデスクトップのMacと共にPBを複数台併用してきた。入手経路はいろいろで、使わないからと戴いたものもあったが、68系では PB165,180,520、1400CS,2400が3台,5300を2台の6機種9台であるが、この中で現有機種は2400が1台のみ。互換性のない古いソフトで作ったデータを利用することもあるかと思い一応取ってある。これらの機種は電池による駆動が2-3時間程度と短く、かつ、電池は1-2年で機能を失った。この当時は電池をわざわざ交換しても駆動時間から見てメリットはそれほど無かったので交換はしなかった。
 OS-Xになってからは、PB(800MHz G3), PB(1200MHz G4), PB(1800MHz Intel)を用いており、これら3台は次男から安価に譲ってもらったもので、いずれも現役である。PBk(G4)は私が職場で、他の二機種は家内が自宅と病院で用いている。

 私が用いているPB(G4)は2002年製で、2年ほど前に電源を繋いだ途端に電池付近でバシッと言う音を立て、電池機能がゼロとなった。多分、ショートするかヒューズが飛んだのかもしれない。電源を繋ぐと用いることが出来たが、電源を外すとその度ごとに日付等の設定が元に戻り、時にはうまく起動しないこともあった。職場では何とか使ってきたが、講演の際には起動しないでは済まされないから家内のPBを借用するなど不便していた。
 Macのサービスセンターに相談したところ、「その製品は既にサポート期限過ぎてます」とつれない返事で終了、正規のディーラーもほぼ同じ答えで半ば諦めていた。

 電池交換のみで解決するか不安もあったが、新品の電池を6.000円で入手、おそるおそる交換したところすべて解決した。講演そのほかのためにいずれは買い換えが必要か、と思い始めていただけにとても助かった。

 1993年に初めてPBを購入して以来、初めて電池トラブルを解決出来たが、結構ネット上にMac関連の情報が飛び交っていることも知ったので、一石二鳥であった。新型iMacの初期不良がもたらしてくれた副産物である。


8/27(金)快晴 県地方独立行政法人評価委員会 法人理事会 重症患者対応
2:40起床、最近起床が若干きつくなった。ドック判定総括など。7:10自転車病院着、回診他、各種処理。新入院患者対応、13:30-16:45 県地方独立行政法人評価委員会。17:00秋大教授来訪歓談。重症患者対応、18:00法人理事会に遅れて参加。重症患者対応、21:50車帰宅、22:20就寝。

旭川の鯉に餌(8)カラスが増えた
 暑かった夏も暦の上では終わりかかっている。それでも秋田もまだ連日30℃程度の残暑の日々が続いているが、関東以南では35℃ほどが続き熱中症で搬送される高齢者も多く、死亡者も出ている。

 今年は雨が降らない日は殆ど自転車通勤にしている。通勤は朝早く、夕遅くだからまだ良いが、真夏は暑くて大変であった。やっと快適な、自転車に相応しい季節になってきた。そのこともあってか、2週間ほど前から家内も自転車通勤を始めた。家内が勤務する病院と私が勤務する病院と近いために一緒に付き合って走ることになるが、のろのろで私の運動にはならなくなった。まあ、止む無しである。
 天候と川の条件が悪くない日は、ほぼ毎日旭川にかかる久保田新橋から用意した餌を鯉に与えている。6月からは家内も通勤を始めたので餌まきにつきあってくれている。最近まで家内は車で通常の道路を、私は自転車で別ルートを走り、橋に向かうのだが必死に走ればほぼ同時に着く。結構良い運動になる。

 真夏の間、人は夏ばてでぐったりしているが、鯉どもは元気で食欲は旺盛である。集まってくる鯉の数も増えた。撒くまでは上流に頭を向けて整然と並んでいるのであるが、餌を撒くと激しく奪い合いする様になった。だから、最近では餌になる食材の確保が大変である。5月の連休後しばらくはまだそれほど食欲は旺盛でなく、医局で回収されていく検食のご飯をメインにして間に合っていたが、最近はそれでは足らず、我が家で出る食材のうち水分をあまり含まないものはそのまま、水分がやや多いのは天日や風除室で数日乾燥させてから小さくカットして乾燥ご飯に混ぜ込んで作る。水気の多いのはコンポスト行きである。
 毎朝6時頃にいそいそとエサ作りをする。夏期休暇で帰省していた子ども達がそれを見て「私たちには朝食すら作ってくれたこともないのに・・」とやっかんだが、それは誤解である。何の事情であったか忘れたが、一月ほど家内に代わって簡単な朝食を作ったことはあるが忘れたらしい。

 鯉の餌やりに関して最近変わったことと言えば、カラスが沢山集まってくる様になったことで、ちょっと困っている。私どもはカラスをそれほど嫌いではない。結構表情も豊かである。かつては時々1-2羽来る程度であったのだが、最近は7-8羽きて欄干にとまりこっちにも餌よこせ、とガーガーやられるとご近所迷惑だろうと気を遣ってしまう。側らのマンションから私どもを見ている高齢の方もおられたが、気にされているのだろうか、とこちらが気にしてしまう。カラスのの影響か、最近スズメが少なくなった様だ。
 で、前はカラスにも餌をすこしやっていたが最近はやらないようにしている。学習能力の高い鳥なので当てに出来ないと分かれば何れは来なくなるだろうと期待している。


8/26(木) 快晴 外来 某医師来訪歓談 療養病棟診療部会議
2:10起床。ドック判定総括x2。7:15自転車病院着、回診その他、8:45-14:00外来、17:00-17:45療養病棟診療部会議。19:00NHKニュースで小澤氏の立候補を聞く。21:00自転車帰宅.夕食。21:50就寝。

菅首相(13) 暴挙、鳩山小沢グループ
 昨夜19:00NHKラジオニュースで民主党の小沢一郎前幹事長が、党代表選に立候補する意向を表明したことを知った。 民主党の実態、と言うか、小沢・鳩山ラインとその取り巻きのバカさ加減がこれで証明された。

 今回の代表選の実態は、表向きはこのまま日本は駄目になると言いつつ、国民をバカにした権力闘争でしかない。具体的には「菅降ろし」である。「○○降ろし」は自民党政権の中では当たり前の如く行われてきた。古くは「三木降ろし」・・、最近では「安倍降ろし」「福田降ろし」「麻生降ろし」と続いた。呆れた体質と思っていた。民主党はそんな自民党を批判しながら政権交代をなしえたが、全く同じ轍を踏んでいる。

 派閥あるいはグループと称する人数から言えば菅首相が置かれた立場は厳しい。小沢氏立候補のニュースを聞いた瞬間、もう民主党は駄目になると思ったが、唯一残された道は党内、党員各有権者の良識だけであろう。その良識が勝って代表戦で菅首相続投となれば小沢・鳩山の居場所はなくなり、党は分裂する。どちらの結果になっても党運営は困難を極める。党内の有権者はグループの方針に反した独自の選択を果たして出来るであろうか。

 事実上、民主党は今挙党態勢が必要でこんなことをしている暇はないはずだ。
 小澤氏の立候補は党を二分しかねないし、政治とカネの問題で幹事長を辞したばかりの小沢氏の疑惑に関して何ら状況が変わっていないのにどうしてこんな行動が出来るのか、何でここまで民意とかけはなれたことができるのか。到底理解できない。政治のプロってこんなものなのか、と思う。
 小沢氏は代表戦に出る前にやらなければならないことがある。彼を選ぶと言うことは民主党自身の倫理観、責任感の放棄の証である。鳩山由紀夫前首相にもあきれる。過去の経緯を挙げて小沢支持を表明したが、そんな理由しか挙げられないのか。首相としてまともな仕事が出来なかった自身の責任をどう感じているのか。

 小沢氏が代表になって小沢首相が誕生しても、世論の支持のない政権運営は困難を極める。政治とカネの問題をあいまいにしたままでは、国会運営は今以上に厳しくなることが想定される。すると、日本は一体どうなるのか。

 1年前、新しい政治に期待して有権者は民主党に一票を投じた。党の顔であった小沢・鳩山両氏はその期待を踏みにじる、国民に背を向けるネガティブの顔にもなってしまった。
 小澤氏の出馬、鳩山氏の行動で国民の政治離れがいっそう加速する。取り返しがつかない事態を迎えることになろう。何としてこれを止めるのか。時間はそれほど無いが、有権者が黙りこくらないで、この実態を批判しつつ現内閣を支持していくと言う声を上げるのが唯一の方法だろう。


8/25(水)雨のち晴れ 外来  入院患者家族面談 院内感染症対策会議(欠) 
2:00起床。ドック判定総括x2、他。7:00車病院着。回診、入院患者家族面談。8:45-14:00外来+ドック診察、混雑。 16:00院内感染症対策会議、寝不足か体調不良で出席できず。20:30自転車帰宅。夕食、21:15就寝。

ふるさと(16)花巻温泉郷の志戸平温泉 大げさだが半世紀ぶり
 今年は墓参りを兼ねた家族小旅行で花巻温泉郷の一つ志戸平温泉を訪れた。
 岩手県は温泉地が多い。地図を広げると至る所に温泉の記号が付いている。50ヶ所近く探し出せる。その中でも遠野・花巻・北上地域に15以上もの多くの温泉がある。盛岡からそう遠くもないことから湯治場として、あるいは観光地として結構栄えてきた。昭和39年の花巻空港開港のときのキャンペーンでも、昭和57年の東北新幹線大宮ー盛岡感の開通の時も観光の目玉として花巻温泉は大々的に宣伝された。その頃のことは良く覚えており、懐かしく思い出す。

 私はたまたま温泉好きの祖父母のもとに生まれた。幼少の頃から、中学3年までの間、年に1-2回訪れていた。記憶では花巻温泉以外に行ったという記憶はない。初日は一家で、看護婦も含めて7-10人ほどで移動したのであるが、勤務とか医院の運営の都合があるから適宜さみだれ式に帰って行った。私は何時も祖母と中年のお手伝いと3人で最期まで、長さはいろいろであったがだいたい 1-2週間滞在していた。湯治は宿泊棟、自炊棟などがあって秋から冬にかけては農家の方々が湯治に来ていた。湯治の温泉は訪れるものではなく滞在するものであった。それだけ時間がゆったり流れていた、ということ。当時は花巻電鉄というチンチン電車様の電車が国鉄花巻駅から出ていたがいつしか廃線になっていた。
 だから、私にとって花巻温泉郷は懐かしい場所である。

 花巻温泉郷は岩手県花巻市の西部に位置する温泉の総称である。 そのうち豊沢川沿いの8湯は峡谷にあるため、「郷」ではなく「峡」を用い、花巻南温泉峡と呼ぶ場合も多い。 一軒宿、湯治場など多様な宿があった。12ヶ所ほどのうち私が行ったことがあるのは半数ほどで「花巻温泉」「台温泉」「志戸平温泉」「大沢温泉」「鉛温泉」で、数年前には45年??振りに「渡り温泉」を訪れた。

 その中でもっとも頻度が高かったのは志戸平温泉である。
 一番記憶にあるのは昭和36年3月の高校入試の合格発表を志戸平温泉の宿のラジオで聞いた日のことである。山間の宿のラジオで受信状況がとても悪く、ガーガー・ピーピーと言う雑音の中から私の名を聞き取って安堵したことをよく覚えている。ただ、この時が花巻温泉郷へ湯治に訪れた最後だったと思う。祖父が数年前に他界し、祖母が高齢化して弱ってきたからであった。

 志戸平温泉は豊沢川沿いにあり、薄暗い印象であったが、今は近代的な大型ホテルのほか、自炊も出来る古くからの旅館もある。 今回は家族8人と犬一匹でホテル志戸平に宿泊し、快適な一夜を過ごした。山の緑、切りだった山肌の堆積地層の眺めが懐かしかったし、川のせせらぎの音と鳥の声で目覚めたのは昔も今回も全く同じであった。残念だったのは私にとっては湯の温度がやや低めだったことであった。
 久々、昔の湯治のことを思い出した。


8/24(火)晴・雨 外来 法人常務会 医局カンファ 
1:30起床,ドック判定総括x1ほか。7:05自転車病院。回診他病棟業務。 8:45-13:20外来。14:45-16:00法人常務会。17:30-19:00医局カンファ:不整脈。降雨あり、20:10車帰宅、21:00就寝。

日中も暗い室内でスポットライトの下で過ごす(5)暗闇の有り難さ 
過剰な光は私にはストレスで、暗闇は目にも心に安息をもたらす。現代は豊かな照明のもとで過ごすのが当たり前とされ闇を排除したが、闇と共に失ったものが大きい。

 私は来客あるいは会議で用いるとき以外は院長室の天井の明かりは点けない。窓は閉め切りカーテンは閉じたままである。だから常時暗い。中央のテーブルには花を飾り蛍光灯スタンドの光をあてる。その光で浮き上がってくる花、植物はとても美しい。これも周囲に闇があるからである。光と闇の共存は名画では絶対的に重要である。私には過剰に明るい環境の方が目にも、心にもストレスである。勿論、手元には必要最小限のライトはスポットで点ける。家でも一人の時は厚手のカーテンを引き薄暗い中で過ごす。暗さには不思議な清涼感があるような気がする。だから好きだ。

 私どもの環境がこんなに明るくなったのは何時頃なのだろうか。
 世の中が何時でも明るいこと、寝るとき以外は明るいことが当たり前という現代社会の方が異常、と私は思う。暗闇にも価値がある。私は人間の心理、感情にも暗闇は大きな意義があるものと思っている。 

 私どもは日常光の当たるところだけを見て、注目して生活している。いや、光だけでない。光には光線以外の意味もある。私どもが情報として各種メディアから受け取るものも、犯罪や事件も誰かが光を当てて見えたところだけが選択されて伝えられる。
 光の当たらないところは注目されがたい。言葉で表現することは困難である。しかし、明るい光があたない、闇の存在、注目されがたい現実が多くある。ことすら忘れかけている。だから、光があてられた事象をどれほど多く知ったとしても、ホンの一部にすぎない。

 いま、世界はむずかしい時代を迎えている。
 環境汚染、難民問題などはやっと光が当てられてきた。リーマンショック、ギリシャショック、最近の超円高などには強い光が当てられているのだが、実際その影響を被っている、社会、大衆社会のことは誰も考えない。闇のままである。結果として経済不安、社会不安が高じてきている。それによって実生活に目に見えない新しいタイプの災厄が見舞いつつある。闇の中にこそ身近で現実的の問題点が潜んでいる。その歪みは最も弱いところから噴出し始めている。

 人々は光があたるところのみを求めすぎたのではないのかろうか。明るい光が作り出した事象のみを追い求めてきた。光は乱反射し結果として暗いところにも光があたり明るくなる。だからそれで良いのだと思ってきたのではないのだろうか。しかし、光は暗い闇を若干は明るくしているのかもしれないが、相対的には光の差はむしろ広がり、新たな闇を生んで来る。

 今、社会で起きているいろいろ異常なでき事は、単なる特別な事象なのだと言うの感覚では表現しえない、暗い闇の内容を含んでいるはずである。


8/23(月)晴れ 管理会議 医療安全関連打ち合わせ 療養病棟判定会議5名分 長副会議 
0:20 やや早いが起床、ドック判定総括x1、文献チェック。7:10自転車病院、ポイント回診。7:45-8:30管理会議。重症患者対応、患者家族面談。 10:00-10:45安全管理者との打ち合わせ。退院総括、紹介状他。16:00-16:50療養病棟判定会議。17:00-18:30長副会議。再度回診20:15帰宅、夕食。21:00就眠。

青いビールいただく ??・・なんだこれは、とちょっと違和感
 私は酒類についてはまず一切コメントできない。絶対的に嫌いというわけではないが、体が受け付けず少量しか飲めない。
 秋田に移ってきて大変だったことの一つは家内の家族とのお付き合いであった。これほど飲めないのは信じられん、と呆れられた。私の方でも呆れてしまった。

 その後、135mlの最小ビールで訓練し、若干は飲めるようにはなったが、この量を超すと拷問に近くなる。酔うと眠くなるし倦怠感のために何もする気がしなくなる。
 酒類には一切興味がなく知識もない。それでも日本酒、洋酒、ビールくらいの区別は付くが、それ以上踏み込むと全く分からない。日本酒は吟醸酒、純米酒などあることは知っているが一つ一つについては知らない。味の違いは一切分からない。いまは1級酒、2級酒という区別はないのだろうか。ワイン談義?私は3 種類だけ知っている。赤と白とロゼ一だけ。ビールは1番搾りがあると言うことは普通のは2番搾りなのか?と言う程度。銘柄なんて無きに等しい。懇親会等で時に酒談義、ワイン談義になるが一切関わりたくない話題である。

 それが、今回私でもコメントできる様なビールをいただいた。
 網走ビールKKと言うところの「流氷ドラフト」という地ビールである。夏期休暇を取って北海道に帰っていた賄いの石井さんが買ってきてくれた。コップに注ぐまでは全く予想だにできなかったが、何と青い色のビールであった。これがビール?と信じられず、あまり気が進まなかったがせっかく買ってきてくれたものだし、と飲んでみた。通常のビールよりはずっとマイルドな感じで味の上からも私のイメージからは若干遠かった。それにこの色、カクテルの一種などなら違和感がないのだろうがビールとしてはちょっと受け入れ難い感じがした。

 ビール好きの方にとってはなかなか良いらしく、この「流氷ドラフト」は地ビールとして全国的にもかなり流通しているという。私の印象なんて取るに足らないが、私はビールそのものの評価と言うより色にびっくりした、ということ。古い概念にとらわれ過ぎると発見も無くなるが、イメージからかけ離れると古い概念に拘る傾向にある私はなかなか入り込めない。接する機会がもっと増えれば考えも変わるかもしれない。その機会を待ちたい。
 スイカは黄色のもある。これも違和感が伴う。求めて食べても何か満足しない。 スイカはやはり赤が良い。 食品は味や形だけでない、色調もイメージも一緒に飲み食べているのだと思う。

北海道 網走のロマンあふれる地ビール 網走ビール http://www.takahasi.co.jp/beer/lineup/ryuhyo.html



8/22(日)時々雨・午後晴れ 病棟拘束 
0:00起床、ドック判定総括、その他作文多少。3:00-4:00微睡。講演準備他。11:30-15:00各種ケーブル類、旧いパソコン周辺器機整理、一部破棄。15:00自転車病院、回診他業務継続。18:00自転車帰宅、夕食、 20:30就眠。

ふるさと(15)遠野探訪(2)デンデラ野に行きたかったが果たせず
 遠野市東部の集落である土淵地域のうち、遠野側の最後の集落は柳田國男氏に遠野の民話を語った佐々木喜善氏の生家がある。その近くにあって四方を沢に囲まれた丘陵はデンデラ野と呼ばれている。不思議な名前であるが、その前は蓮台野と呼ばれていたのが訛ったとも言われている。

 このデンデラ野は、昔老人の捨て場だった。いわゆるうばすて山であった。
 遠野地方では昔は60歳を超えた老人は、すべてこの地へ追い遣るのが習わしであった。 老人の間引きである。それがしきたりであった。それだけ遠野地方は食糧事情が悪かったと言うことで、生きるのが如何に厳しかったのかを物語っている。

 うばすて山というと、信州の姨捨山伝説を題材にした楢山節考が有名であるが、信州に限らず、国中方々にある。貧しい山村では生産活動に従事できない老人を養う余裕などはなかったと言うことである。このような棄老伝説は各地にあり、平安期の説話物語にもでてくる、という。
 デンデラ野もそのひとつである。ただ、遠野では体力にかかわらず、60才になった老人をデンデラ野に捨てたのだが、老人たちはすぐさまここで死を迎えたのではなく、この地で老人達が身を寄せ合って共同生活を送り、体力があるものは日中は里に下りて農作業を手伝い、わずかな報酬を得てデンデラ野に帰り、日々を送りながら自然死を待ったのだという。だから、遠野の風習は他の土地の棄老とはちょっと異なっているように見える。
 村の掟によって分け隔て無く行われたであろう棄老で、共に暮らしてきた家族にはプレッシャーにもなっていたであろうが何ともしようがなかったと思われる。しかし、私は遠野の老人達の死生観が十分に出来上がっていたのではないのか、と感じている。

 デンデラ野は町の中心部からそれほど離れておらず、里が見渡せるところにある。帰ろうと思えば帰れる距離にある。老いた親たちは自らの立場を理解し、自発的にデンデラ野に移り住み、その地から孫や子の幸せを祈ったものと思われる。生き残るために嬰児を殺したり、老人を遺棄するのは日本に限らず行なわれた風習である。それは生産活動にかかわらず消費するだけの人間を不要とする、生きていくだけで精一杯の貧しい人間社会の暗黙の了解であり、掟であったのだ。

 現代に問題を置き換えてみる。
 幼い子供を遺棄した若い母、100寿者達の行方不明が200人以上も報じられ、驚くばかりである。これらでは、特殊なケース、特別な事例としてとらえられているが、高齢者を中心とした医療・福祉に携わっている私の感覚では、社会全体が経老、棄老の風潮にあるように思えてならない。高齢となり身体的に心身に障害を抱え始めた高齢者を家族が慈しんで自宅で世話をしようとする意識は乏しくなっている。
 家族はすぐに施設や病院に依存する。「母には200歳までも生きてて欲しいです。こんまま入院させておいてください」と言った家族がいたが、背景には経済的理由は殆どない。だから、かつての姥捨て、棄老の風習、遠野のデンデラ野の風習以上に現状版棄老の方が遙かに重篤である。

 食料が豊かになっただけでは解決し得ない、共通の問題点が包含されているのではないのか、と興味が尽きず一度は訪れたいと思っていたが、今回は遠野を訪れたもののデンデラ野までは足をのばせなかったのは実に残念であった。


8/21(土)快晴 病棟拘束 活きいき健康フェア医療相談
2:00起床、ドック判定総括x1。7:25自転車病院着。回診他。10:00-14:00秋田市民市場「活きいき健康フェア」で医療相談担当。紹介状他業務。17:00自転車帰宅。午睡、夕食、20:45 就寝.

菅首相(12) 離反的行動しつつ一致団結を口にする奢りと愚 鳩山小沢グループ
 民主党はどうなっているのだろうか、呆れてしまう。民主党代表選告示が9月1日に迫ってきているが現政権と距離を置く鳩山・小沢グループの動きは問題である。

 鳩山前首相グループが軽井沢の鳩山氏の別荘で開いた研修会と称する会合は衆参両院議員約160人が集まり、マスコミ報道によれば小沢氏に立候補を促す決起集会のようであった、とされている。
 鳩山・小沢グループが結束して行動すれば、菅代表を引きずり下ろすことは選挙という民主的手法によって、合法的に可能である。しかし、「出来ること」と「やって良い」こととは別である。
 代表が替われば首相も交代することになるが、この困難な問題を抱えている日本でそんなことをしている暇はない。

 この動きは、かつての自民党と同じ路線である。もともと自民党から飛び出したメンバーが中心だから、その資質は変わっていない、と言うことだろう。彼らの動きはいま以上に党の分裂に結びつくだろう。マイクを握った何人かの重鎮はこの危機的状況に一致団結して臨まねばならない、と言っている。この一致団結は党としてではなくグループとしての団結であったなら、昨年に国民が願った政権交代への期待が一気にしぼんでしまう。かつて鳩山首相の支持率が激しく低下した時も、今回の菅首相の支持率が低下したときもまだ民主党に期待する声は少なくなかった。が、この動きは民主党そのものへの期待を一気に失わせることになるだろう。

 それ以上に国民の政治に対する期待を一気に失うなろうし、国際的にも一気に信用を落とすだろう。菅首相は就任後3カ月である。参院選敗北の責任を問う声もあるし、党の総括でもそのように片付けられたが、主たる原因は鳩山首相時代の失政にある。菅首相はちょっと発言が消極的になり、動きが鈍くなっているようであるが、今退陣しなければならない理由はない。

 ねじれ国会にねじれ民主党では日本の意志決定は駄目になる。そうはいえど小沢氏では駄目だ。多くの国民も望んでいないのではないか。いま彼に必要なのは出馬でなく出頭の方だ。寄り合い所帯の民主党には確かに一致団結が必要である。それは内部抗争することでなく、現首相を党を挙げて支えていくことである。


8/20(金)晴 港北診療所代診  
2:10起床、ドック判定総括x1等.7:00自転車病院着、回診、8:30-13:00港北診療所所長の代診に急遽。帰院後患者家族面談など、患者関連書類処理等の業務。20:30自転車帰宅。夕食、21:20就眠。

ふるさと(14)遠野探訪(1)何の変哲もない身近な風景だが
 先日、遠野市を訪れた。 遠野市は岩手の内陸部にある市で、北上高地の中南部に位置し四方を山に囲まれている。 2010年6月1日 時点での総人口は29,500人と推計されている。柳田國男の遠野物語、河童や座敷童子が登場する「遠野民話」でよく知られている。

 私は小中校生の頃簡単な文章に書き換え挿し絵も多く入った「遠野物語」「遠野民話」は読んだ記憶があり興味を持っていた土地であったが、通過したことはあったが訪れるのは今回が初めてである。
 今年は「遠野物語」100年記念の年と言うこともあって観光キャンペーンが行われ、実際に訪れた際の第一印象は、「思った以上に観光に随分力を入れているようだ」「観光客が多く、田舎の町にしては随分と活気がある」と言うことであった。

 そうは言っても、遠野は他の地域の観光地と違い、観光客の目を引きつける様な派手な売り物は何もない、と言える。その意味では多くの訪問者はある種の失望を感じるのではないだろうか。ところが、遠野を旅するにあたって、「遠野物語」や「遠野民話」、「語り」などに親しんだ経験があるとか、近隣の出身であるとか、あるいは年齢的に貧しかった戦後の食糧事情や生活を体験している、とかがあって、想像力をフルに働かせる素地があれば遠野の旅の意義は大きく異なってくる、と思う。カッパは売りの一つであるが、「カッパなんて居るわけ無いじゃないか」、「カッパの木彫りの像や置物など、何でこんなにちゃちなのだ」などと考えては遠野は成り立たない。私はカッパと見まがうようなサルとか、心身に障害を持ったヒトとかが実際に居たのではないかと思っている。余所の土地には似たようなサル伝説を持つ所もある。

 遠野の旅は、だから、目で観るものではなく、時代考察を含めた想像力で味わうものだ、と言うことになる。そんなことを考えながら駆け足で回ったが、岩手の厳しい生活環境、悲惨な食糧事情、続く冷害などを幼少の時に見聞きしながら育ち、「遠野物語」「遠野民話」に親しんだ私にとっては懐かしさもあり意義深い時間であった。 そのような素地が私になかったら「カッパ淵」等は何の変哲もない身近にある風景でしかないだろう。「カッパ淵」の周辺で見た朽ち果てつつある木造の小屋等の風情は私の深く心にしみこんだ。

 遠野には予定時間より2時間ほど遅れて着いた。だから時間が無く、実際に行けたのは道の駅・遠野風の丘、伝承園、常堅寺、カッパ淵くらいであるが、産業の一つであるホップ畑も身近に見ることが出来た。それでも来て良かった、と満足した。またいつか来てみたいと思いつつ花巻志戸平温泉に向かった。


8/19(木)快晴 感染症対策 外来 新型インフルエンザ講演会
 2:10起床、3:00病棟より電話あり急遽出勤。5:30帰宅。7:00自転車出勤、8:00リハのスタッフ交え緊急感染症対策会議、8:45-14:15外来。19:15-20:40新型インフルエンザ衛星講演会、21:10帰宅、夕食、22:00就寝。

ブタインフ(45) WHO半年かけて検討、ついに終息宣言
 WHOのM・チャン事務局長は8月10日新型インフルエンザ流行が「最盛期後状態」に入ったと宣言した。昨年4月27日に「発生認定」を行い、6月の「大流行宣言」から1年2ヶ月で終息宣言を発したことになる。現時点で宣言した理由としては、冬場を迎えている南半球での流行が大規模でなく、世界的大流行は一段落したものと判断した。ただ。北半球ではこれからがインフルエンザの流行期に入るために第2波への備えが必要である事には変わりない。

 この間、214ヶ国あるいは地域で感染が流行し、18.500人以上が死亡した。日本の感染者数は2.070万人、入院数17.623人、死亡例は 203例と死亡率は諸外国に比較して明らかに低率であった。ただし、高齢者は罹患率は低かったものの死亡率は結構高いことから弱毒性という名称は今後は使うべきではなかろう。

 実際にWHOが終息宣言の準備を始めたのは2月で、2月23日に専門家による緊急委員会を開いて終熄宣言前の過渡期となる「ピーク超え期」公表する準備をしていた。実際には慎重な国々も少なくなかった、ということで、この件についてはどうなったのか、私は知らない。終息宣言までは準備し始めてから半年かかったことになる。
 ただ、終息宣言に関しても、特に発展途上国ではこれから罹患者が増えそうな段階にある国もあり、インドやニュージーランドのように本格的に予防接種を始めようとしている国もあって、この様な国からは終息宣言が市民意識を低下させる、として宣言に反対する国もあったという。WHOは加盟国のための国際機関であることから加盟国に不利な決断は出来難いと言う事情があるが、徐々に加盟国の発言力が大きくなっているので難しい采配が求められる様になってきている、らしい。国際問題とはかくも困難なものらしい。

 わが国の場合、6月に対策総括会議が持たれ報告書が発行された。その提言、および国の指針を受けながら県レベルで秋以降のインフルエンザ対策の指針を作成しつつある。
 私は3月で県医師会役員を辞したので本来ならその役目ではないのであるが、県医師会の推薦で県の健康づくり審議会感染症部会委員として残ることとなり、新興感染症部会の委員長を再び務めることになった。大きな責任が伴う役目であるが、今期は昨年のような大流行はしないと考えているので、SARS対策の準備、昨年のH1N1インフルエンザ対策の経験を生かして適正な采配をしていきたいと考えている。
 本日夜は衛星回線を使った新型インフルエンザの研修会があり、今までの総括と今後の感染予想とその対策についての勉強をしてきたばかりである。もう次に備えて準備は始まっている。


8/18(水)快晴 外来 臨床研修生マッチング 緊急感染症対策会
1:20 起床,ドック判定総括x2、7:10バイク出勤。回診、病棟業務他。 8:45-13:50外来+ドック診察。15:00-16:30 臨床研修生マッチング 6名と面談。17:30リハビリテーション病院のスタッフ交え緊急感染症対策。21:00自転車帰宅、夕食、21:45就寝。

ふるさと(13)岩手の探訪では心が洗われる  秋田の場合は知識になる
 岩手の片田舎に生まれ18歳まで岩手の片田舎で過ごした。その後、仙台で浪人生活1年、新潟には6年間住み、大学卒業後は2年間三陸の宮古市に住んだ。以降、今までずっと秋田である。いま65歳、そのうち1/3しか岩手に住んでいないことになる。まあ、地方育ちの多くの人は高校卒業後は就職や進学のために郷里を離れざるを得ないのだから特別なことではない。

 郷里の岩手について30-40歳代まで殆ど関心を持たず、何も知らないままで過ごしてきた。高校卒業までは時代柄もあっただろうが、出不精、引っ込み思案で出かけたこともなく、宮古市在住の2年間は三陸海岸の一部を訪れただけに過ぎない。

 秋田に来てからもう37年になった。秋田はとても良いところである。人の性格もゆったりしていると言われている。対人恐怖症である私にとってもそう住み難いわけではないからこれは本当だろう。食料も豊かである。美人が多いのか?といわれれば美形については私は評価できないが、「秋田美人とは単に美形か否かではなく心が美しい女性達のことをも指している」と思っている。
 秋田の良さを感じることは多いのであるが、その度に私は逆に郷里への愛着、関心が高まって来る。加齢がなせる技なのだろう。岩手の歴史や風土に関する書籍に手を伸ばすことも多くなった。

 年に一度の盆の墓参りは欠かしたことがないが、この時期に一家で足を伸ばして岩手県内のいろいろな所を訪れている。そうはいってもせいぜい土日の二日間程度だから訪れる場所は限られているし、かけ足である。それでもその度にそれなりに感慨に浸る。
 秋田についてはどうか?と言えば、岩手と同様に何も知識がない。同様に、それほど県内に出かけたこともない。ただ、秋田の場合、どこかに出かけたり何かに触れたりした場合には秋田についての知識が豊かになったような気がする。この違いは大きい。

 故郷というのは何だろうか、と思う。やはり特別な場所なのだろう。
 私のメインの病棟である7階に上がる度に南側の窓から鳥海山を眺める。実際に見える日は半分にも満たないが、見えるときは美しい見事な山だと思う。しかし、私は鳥海山を見ながら、心の中では岩手山に置き換えて見ているような気がする。雄物川を見ながら、北上川のせせらぎを想っているような気がしている。

 啄木の「ふるさとの山に向かひて言うことなし・・・」は名言・名歌である。


8/17(火)曇りのち雨 外来  
2:20起床,ドック他いつもの如く。7:10自転車病院着。回診。8:45-14:30外来、緊急入院。常務会・医局カンファ共になし。20:45自転車帰宅、夕食。21:30就眠。

新型マック購入(7) セキュリティ(2)セキュリティ機能付きUSBメモリー
 パソコンやUSBメモリー等の紛失・盗難とそれに伴う個人情報や機密情報の漏洩の恐れや可能性に関するニュースをよく目にする。ただ、情報が漏洩したなどの不都合が具体的に生じたと言うことは殆ど耳にしない。要するに盗難は内部データよりもハードが目的なのだと思う。データが目的の場合はかなり限られるから用いれば特定されうる。

 それでも自分に出来る範囲のセキュリティ対策は講じておくべきである。
 先日パソコン関連の雑誌に「Flash Padlock」と言うセキュリティ機能を持ったUSBメモリーが紹介されていていたく興味を持ち入手した。 16GBと大きな容量で9.000円近くと決して安くはないがそれだけの価値はあると思う。サイズも通常のUSBメモリーより大きい。背面には6ヶの番号入力用のキーとLEDによるインジケーターがあるが、これより小さいと操作しがたい。

 使用法として、USBポートに挿入する前にメモリー本体にあるキーで任意に設定した暗証番号を打ち込むことで、認証・開錠する。これは本体に備わった機能であり、パソコンのOSには依存しない。認証機能を解除しなければパソコンに装着しても外付け記憶装置として認識されないからデータにアクセスできない。だからセキュリティが保たれるというわけ。私も何度も設定を変えて試みたが認識されず、まず安心と思われた。

 Iomega Zipが使えなくなって以降、探し求めてきたセキュリティ機能付き外部記憶装置である、使い勝手はとても良くいたく気に入っている。私が最近まで用いてきた Zipのサイズははフロッピーディスクとほぼ同じで厚さが3枚分程度であった。私のは大部分が100MBの容量であったから、机の引き出し一つに収まらないほど、160枚分のデータをこの小さなメモリーに入れられる。時代の流れといえど驚異的である。
 
 エレクトロニクス関係は短期間に旧くなってしまう。Iomega JazzとZipはかなり重宝したので相当の量を買い集めたが、もうすべて不要になってしまった。私は旧いものを大切に扱うのが好きであるが、この分野、パソコンなどはその時々のものは気に入ったからと言って買い集めたりせず、目を新しいアイテムの出現に向けておく方が賢明だと思っている。


8/16(月)曇り後雨 管理会議 外来 療養病棟判定会議 長副会議 
1:30起床,ドック判定総括x2、文献チェック他。7:00病院着。回診、7:45-8:10管理会議.8:45-14:10外来、盆明けで若干混雑。16:00療養病棟判定会議。17:00-18:10長副会議。20:00帰宅、夕食、21:00就寝。

新型マック購入(6) セキュリティ(1)Iomega社のZipからUSBダイヤル錠に
 当院にオーダリングシステムが導入されてから自分のパソコンで患者関連の業務をこなす割合が激減した。殆ど無くなったと言っていいほどであるがゼロではない。時にはマル秘情報や文書も扱う。だから、セキュリティ確保についてはかなり気を遣って来た。

 現在稼働している私用のMac 6台にはすべてにソフト的にセキュリティをかけている。暗証番号を2種入れなければスリープ状態からも立ち上がらないようにし、かつFileVault機能を入れている。前者だけではパソコンからハードディスクを取り出し他のパソコンにつなげば見られし、外付けハードディスクは簡単に持ち去られる。セキュリティ機能つきのハードディスクの無いわけではなかったが全機種Macでは機能しないタイプだけで諦めていた。FileVault機能はFile自体を私のパスワードで保護するので外付けのメモリー、ディスクであろうと他のパソコンでは見ることは出来ない。それでも厳重に管理する必要がある。

 問題は自宅と職場間を移動する場合である。かつてはIomega社のJazzとZipを用いていた。これは私が知る範囲で強力にロックをかけられる唯一のリムーバブルディスクであり、セキュリティ保持という面ではとても重宝してい最近まで使っていた。しかし、MacのOSの進化にIomega社の対応がなく、最新OSではZipのロック機能が使えなくなった。そのため、先日大量のZip diskを処分した。

 代わりにUSBメモリーを用いていたが、盗難に遭わずとも紛失する可能性がある。だから、入浴時以外殆ど身体から離すことのないiPhoneと一緒にしていた。私のメモリーなどわざわざ狙う御仁はいないだろうが、他のものと一緒に持って行かれる可能性はある。
 
 先日パソコン雑誌を見ていてUSBメモリーに暗証番号のついたキャップを被せるUSBダイヤル錠と言う小道具を見つけた。私にとってはセキュリティはとても重要な問題なので早速購入してみた。1ヶ500円程度ととても安い。
 USBダイヤル錠は USBのフラッシュメモリ等のUSBオス側を差し込む錠つきキャップで、3桁のダイヤルを回せば即ロックされ、設定した番号に合わせない限り錠を取り外すことができない。イメージはちょうど自転車のダイヤル式のワイヤー錠の様なものである。
 確かに番号を合わせなければそう簡単には抜けない。装着しないよりは安心しであるが、この錠の部分は壊すことが出来ないのだろうか?組み立てている以上、分解できそうな気がして何か心配である。
 だからこの錠はあまりセキュリティを意識しないで良い様な一般的なデータが入ったUSBメモリーの持ち運びに用いている。


8/15(日)終戦記念日 盛岡・秋田降雨 墓参 南部鉄器岩鋳 兄宅訪問
3:00 四季亭で起床、入浴、新聞チェック、本読みなどのんびり。1泊あたり11回の記録を破らんとしたが5回で終了。外はかなりの降雨。7:30朝食、9:30 矢巾経由で江岸寺に墓参。到着直前まで激しい雨だったが奇跡的にやみ墓参できた。住職様の読経を戴き、本家に挨拶、11:30南部鉄器の鋳造の岩鋳へ。13:30兄宅訪問後に解散、横浜に戻る娘夫婦を駅に送り帰秋。18:00帰宅、20:00就寝。

今年の墓参り(2)二日目は前沢「牛の博物館」、三日目に墓参

ホルスタイン犬「あんず」 と牛のモニュメント
前沢牛、この後 美味しく頂きました

 13日から15日まで墓参り等のために岩手で過ごした。

天候不良のため午前は前沢の「牛の博物館」見学のみとした。
 旧・胆沢郡前沢町は、岩手県の南部に位置しする町で前沢牛の産地として知られている。2006年に、水沢市、江刺市、胆沢郡胆沢町、衣川村と合併して奥州市前区となった。子供の頃から呼び慣れた町名が消え、このような地方で「前沢区」というのは何となく違和感が伴う。
 「牛の博物館」は思いの外見応えがあった。かつて牛は馬と共に私どもの生活の一員であり、その目はこよなく優しかったことを思い出した。今は食品としてしか意識していないことを恥じつつつ、忘れていた昔の牛馬との思い出を反芻した。私どもは併設のレストランで「牛さんのお肉」をいただいた。とても美味しかった。
 その後、東北高速道を北上、紫波町長岡の江岸寺に向かうも、ワイパー最速にしても視界が遮られ、車が浮くのではないかと思うほどの激しい降雨で、墓参そのほかは諦め、一路宿泊先のつなぎ温泉「四季亭」に向かった。思いがけずゆっくり出来た。

 三日目の15日も朝から雨であったが、一家大移動の主目的である盆の墓参を外すわけにはいかない。途中で墓にお供えする線香、ろうそく、生花などを購入し、小高い所にある墓で手を合わせる予定であったがこの天候では無理と判断した。だが、寺に着く直前から何故か雨がやみ、結果的に手ぶらで墓地に向かうこととなった。墓石には兄の家族達によって供えられたのであろう、立派な花があった。本堂で住職様から読経いただいた。ここの鐘の余韻はいつ聴いても素晴らしい。ここでお経と鐘の音を聴くと私は何時も祖父母、両親の事を思い、とても敬虔な気持ちになる。

 昨年は当方5人、兄の一家12人がここに集合したが 今年は兄家族とは別行動となった。ここに眠る私の祖父母、両親を両家の次の世代のメンバーはそれほど定かに知っている訳ではないはずだが、この墓は双方の家族を結びつけている唯一の拠り所であった。しかし、年一回の墓参も今後は形を変えていくだろう。

仙北町にある南部鉄器の鋳造元の一つである岩鋳に立ち寄り、次いで兄宅訪問し、若干歓談した。11歳離れた二人だけの兄弟であるが、もう互いに歳である。この世での最後となり得る歓談もわずか10分ほどであった。
 兄宅の玄関先で解散と言うことになり、それぞれが帰途についた。

 今年の墓参は雨に悩まされたが無事終了した。新しいメンバーも加わった家族同士の親睦も十分に図れた。もう朝夕の空、大気には初秋の雰囲気が漂っている。夏好きの私にとって盆は一つの節目でもある。


8/14(土)年休 前沢・牛の博物館→つなぎ温泉 墓参りは激しい降雨で延期
3:00 ホテル志戸平で起床、ロビーの一郭を借用、ドック判定総括x1他。本読みなど。7:30朝食、9:00激しい降雨で猊鼻渓を諦め、前沢の牛の博物館見学とランチのみとした。13:00過ぎ墓参りに向かうも激しい降雨のために明日に変更、矢巾の叔父宅に寄り挨拶、16:30つなぎ温泉四季亭着。午睡、本読みなどゆったりと過ごす。夕食時の地酒若干で泥酔、20:40就寝。

今年の墓参り(1)初日は遠野、志戸平温泉に
 13日から3日間は墓参り等のために岩手で過している。
 盆の墓参はわが家にとって年1回家族が集合する重要な行事であり、私にとって故郷訪問である。また、互いの健康問題からいつまで会えるか分からない実兄に会う貴重な日でもある。更に、次男はいつもは業務のために参加できず病院に残り私を支えてくれていたが、今年は盛岡に引っ越したことで6年振りの参加となった。

 いつもはせいぜい2日間であるが、今年は金曜と土曜に1日半年休を取りちょっと長く時間を確保した。金曜は朝4時から7時まで病院で業務と留守をお願いする方々への伝言等を準備し帰宅、家の仏壇に手を合わせた後、予定より1時間遅れの9時に家内と長男長女4人で岩手に向かった。

 一昨年は雨天、昨年は快晴、今年は12日に秋田・岩手県を台風4号が通過したばかりである。からっとした晴天が期待されたが雲が多く晴れてはいるものの今ひとつの感じである。盛岡に着くまでそれほどの渋滞はなかったが、家内の記憶違い、勘違いもあって目当ての次男宅を探すのに手こずり約1時間市内をうろうろした。事前に地図等でチェックしておくべきだった。

 13時過ぎ、次男の嫁さんと9ヶ月の孫を加えて6人、2台で県南の遠野市に向かう。昼過ぎからは天候は快晴となり、旧道を通ってのドライブは車も少なく、木々の緑が豊かで実に気分良好であった。
 遠野には15時過ぎに到着、本来ならゆっくり出来る予定であったが2時間のロスが響いて、かけ足で伝承園等で文献等を購入、カッパ淵を見て一路宿泊予定のホテル志戸平に向かった。

 志戸平温泉郷は私が中学3年まで毎年のように春夏に祖父母の湯治で数日間過ごした懐かしい場所でもある。久々の訪問となったがすっかり近代化していて記憶に残っている情景と一致したのは側を流れる川のせせらぎと、崖に見える断層模様のみであった。ホテルに到着後に犬も泊まれる施設があることが分かり、犬の世話のために明日から参加予定だった次男と犬も急遽呼ぶこととし、嫁さんが盛岡に、私と長女は横浜から着く長女のご主人を迎えに新花巻駅に、家内と長男は孫の世話にと手分けしてあたった。
 全員そろったのは21時前後で、その頃から小雨がぱらつき始めた。私は不慣れな長距離運転の疲れもあったのであろう、いつもの如く少量のビールで泥酔、団らんそこそこに中座した。


8/13(金)秋田曇り・岩手快晴 夏期有給休暇日 墓参りに向かう   
1:30起床、ドック判定総括x2他。5:10病院着、5:50回診、事務処理他。7:30帰宅。9:00車で盛岡に。次男宅探し1時間盛岡市内うろうろ。13:30次男の嫁と孫加えて2台で遠野に。散策若干、18:30志戸平ホテル着。その後長女のご亭主、次男と犬が合流、総勢8名と一匹が集合した。家族軍団もずいぶん増えたものだ。夕食、少量のビールにて泥酔し中座、 21:30就寝。

今年の天候(3)台風4号、秋田県を横断、岩手に抜けた
 ここ数年、天候が変である。2年前も猛暑であったが今年もかなりの猛暑、熱中症による死者も高齢者を中心に例年の数倍である。一昨年は台風が殆ど日本に来なかったが、昨年は台風9号で関西や山陰地方で集中豪雨があったし、これとは別にも山陰・山陽や九州北部の大雨などが長々と続き、各地で集中豪雨により、河川の氾濫や土砂崩れ、土石流で多くの犠牲者を出した。

 今年は盆前だというのに台風4号が日本海北部を北上し、昨日夕方秋田県中央部に上陸、横断し岩手に抜けていった。本県に台風がまともに上陸するのは07年9月の台風9号以来4年振りとなるらしい。
 更に、この時期に、しかもこれ程若い番号がついた台風が上陸するのは珍しいのではないだろうか。私の記憶にはない。この時期の台風は大抵日本に近づくと偏西風の影響を受けて東側に進路をとるのが普通だからである。
 今年は原因が分からないが偏西風が蛇行して弱いとされ、台風4号はそのために北上したのではないだろうか。今年は偏西風コースの南側に高気圧が居座り、ロシアでは大干ばつを来たし小麦の生産が大幅に落ち込み輸出禁止令まで出ている。世界の食糧事情が一層悪くなることが懸念されている。

 台風4号は強風は伴っていない雨台風だった。明日から墓参のために岩手に向かう予定にしているから関心を持たざるを得ない。夕方からかなりの雨が降り始めたが屋内にいる限り何時もの降雨と大差ない。ニュースを見なければ台風の最中にあるようには感じられない。
 台風上陸に伴い、秋田新幹線「こまち」などの交通機関に乱れが生じ、潟上市天王の住宅1棟が床下浸水したなど被害が出たという。幸いけが人や行方不明者はなかったらしい。
 台風が通過したあとは秋晴れの良い天気が続くのが常である。本日の岩手県地方の天候はそう悪くはないが雲も多く、どちらかというとすっきりしない中途半端は晴れである。何と、明日からは大幅に崩れかなりの雨になるらしい。現に、夕方から小雨が降り始めた。
 明日の墓参の時間の天候はどうなるのだろうか。


8/12(木)雨風・雨 台風4号が秋田のど真ん中を通過 外来 
2:00起床、ドック関連総括、7:00徒歩出勤。7:30回診。8:45-15:00外来+ドック結果説明2名。盆で患者は少ないハズだったが対応に困難な患者がいて時間がかかった。入院患者対応。20:00ひさびさPrius帰宅。夕食、21:00就眠。

新型マック購入(5) 統合ソフトを換え、プリンターの複合機種も購入
 初期不良から戻ってきたiMacはその後一度だけ立ち上がらず、またかと焦ったが今回は自分でOSの入れ替えもスムーズに出来た。その後今に至るまで安定しているから、これで初期不良の問題は一段落したようである。

 最先端の機種の購入は私には初体験であったが、従来の感覚にないいろいろ不都合なことが生じた。Microsoft Office vXのうちWardが動かない、プリンター、スキャナーが動かない。この点は毎日用いるソフト、ハードだけに更に講演も迫ってきていたから何とかしなければならなかった。Office2008を導入してみた。iMacでは問題なかったがこれで作った書類は Office vXで開かない。これは当然のことらしい。だから他のMacでは使用できない。保存をダウンバージョン化してしてみてもうまくいかない。さらに、よその方々のパソコン、WindiwsのOfficeでも開かないようだ。だから、全く実用的でないために使用を諦めた。

 代わりにApple社が出している統合ソフトのiWorkを用いている。そう難しいわけではないが機能を十分に用いるためには参考書を見ながら勉強しなければならない。手慣れてくるとなかなか良いソフトである。プレゼンテーションソフトはOfficeとの互換性も十分というわけではないが、まず保たれているから実用的不便さはない。

 プリンター、スキャナーは古い機種なので新OSは対応していない。メーカーに問い合わせたら対応予定はないという。他のMacに転送してから印刷する方法もないわけではないが、現実には辛い。やむなくCanonの複合機、それも最廉価の機種を購入した。市内のパソコンショップには実物は置いていなかったし、講演が迫っていたからやむなく今回は通販で購入した。世の流通システムと値段の設定が何ととなっているか分からないが、何と、翌日には商品が届いた。しかも、この複合機の値段はオープン価格で、交換用のインクカートリッジのセット値段よりわずか2.000円ほど増し程度であった。最新機種でないからこんな事が起こるのかもしれないが、これでは企業側の収入予想が全く立たないのではないか?と心配してしまった。

 今回のプリンターの購入は、私は出来るだけ市井の商店から購入するという主義に反してやむなく通販で入手した。確かに、驚くほど早く、安く手に入ることは嬉しいが、大手の流通会社がこの様な値段で、あるいは流通の早さで商品を提供していればメーカーはもとより地元の商店、ショップは太刀打ちできないのではないか、と思う。日本の物作り産業、街の商店を守るのは第一に消費者だと思うのだが・・。


8/11(水)曇天→快晴 外来 県感染症評価会議
2:00起床。ドック判定。文献新聞整理。7:05久々徒歩病院着、回診。8:45-13:00外来、予約患者30名程度で久々余裕ある外来。14:00-15:00県感染症評価会議。20:00徒歩帰宅、夕食、21:00就寝。

夏を惜しんで朝夕と炎天下を歩く 
 昨日、本日も日差しが強く、暑い日であった。この二日間、夏を惜しみ出勤時と午後の講演と会議のあとに病院まで歩いてみた。
 昨日は秋田市山王にある県社会福祉会館で講演した。その帰路、15:00頃であったが主催の老人クラブ連合会の担当の方の「タクシーを呼びましょう」という申し出をお断りして歩くこととした。一つは往く夏をあじわうため炎天下を少しばかり歩きたいと思ったことと、その気になればメインストリートだからいつでもタクシーを拾える、と思ったからであった。しかし、その判断は甘かった。

 昨日も雲一つ無い空で日差しは強烈であった。最高気温は35℃だったという。竿灯通りを病院に向かって歩き始めた。 作業員が竿灯祭りの桟敷を手際よく片付けているのもを見ながら、最初こそ、実に快適、夏の炎天下を歩くのは気持ちいいものだ、子供の頃はいつもこんな炎天下でも野山を走っていたものだ・・・、と思いつつ歩き始めた。車はずいぶん多く走っているが歩道には殆ど歩行者、人影は殆どない。講演だから一応夏のスーツを着込み、靴を履いている。カバンには結構重いコンピューターが入っている。こんな状況は炎天下の歩行には明らかに不利である。旧産業会館近くまで15 分ほど歩いたが、全身汗びっしょり、バテたわけではなかったが辛くなった。歩けばあと20分くらいかかるだろう。

 タクシーに乗ろうと道路脇に立って空車を探したが、20台ほど通ったタクシーはすべて客を乗せていた。雨の降り始めの時などにはタクシーを拾うのに困難したことは時折りあったが、炎天下でも同じなのだと初めて気がついた。しばらく待って何とか乗れたが、車内は強烈に冷えており汗もサッと退けて助かった。かつて名古屋で炎天下を歩いていて熱射病になりかかったことがあるが、秋田でも軽く考えてはいけないようである。
 本日は県の委員会が県の環境衛生センターであった。病院まで往復30分ほど歩いた。空には雲もあって日差しは昨日よりも若干弱かったが、それでも強烈であった。ただ、半袖でスリッパ履きだったから、汗だくになったものの実に快適であった。これぞ大好きな夏、という気分で大いに満足した。

 今日はひさびさ自宅病院間を往復13Kmほどを歩いてみた。朝は5時前から明け、7時前後はもう暑くなり始めている。一方、夜8時はもう暗闇である。この時間帯は歩くのにちょうど良くとても快適である。


8/10(火)快晴 外来 秋田県老人クラブ連合会講演 法人常務会(欠) 
1:00起床,講演準備。ドック判定・総括x1など。寝不足感で虚脱・脱力感。7:00j自転車出勤、回診等。 8:45-13:10外来。13:30-15:00 秋田県老人クラブ連合会講演。常務会は欠席。21:00自転車帰宅、21:40就寝。

高齢者問題(3)身寄りのない方の救急搬送が増えている
 夫婦のみあるいは単身の高齢者世帯は3軒に1軒の1千万世帯で核家族化と人口の高齢化のスピードは予想以上の早さで進んでいるという。更に、結婚できない、あるいはしない若者たちが増えてきている。これでは少子高齢化は一層進んでしまう。

 高齢者の方々が迎えている厳しい例はいくつも見出すことができる。100寿者の行方不明問題だけでない。
 たとえば、火災の犠牲者は半数以上は60歳以上である。80歳以上となると20代の若者の40倍以上の死亡率となる。ボヤでも老人は逃げられず、老人所帯では失火の頻度もまた増加するからである。交通事故もそうだが、些細な事故でも高齢者だけの場合は死へとつながる。老人施設の夜の火災などは手がつけられない。多数の犠牲者が出る。転べば骨を折り、折れば再び起きられず、床ずれから死に至るケースも少なくない。
 いっそう悲惨な例は老老介護である。寝たきりの妻を老夫が介護してきたが、その夫がちょっと体調をくずしただけで、介護不能となり結局共倒れになる。このような場合、当事者達は助けを求める方法すらも知っていない。こういった事例は日常業務の中で私どもはしょっちゅう経験する。こんなことは慢性的なことだからニュースバリューは無いとのことでマスコミに取り上げられることも無い。
 また、高齢者は犯罪の標的となりやすい。強盗はいうに及ばず、詐欺師などにはねらいやすい相手に違いあるまい。オレオレ詐欺の被害者も高齢者が多い。詐欺被害者になりやすい心理的準備状態が高齢者にあるからと、一端思い込んだら一途である。

 働きざかりの若年世代の活力があればこそ、高齢者たちも元気でいられる。勿論、経済力の面でも重要なのだが、それだけではない。ちょっとした病気になっても、家族としての気遣いがあるのとないのとでは、高齢者の生活の質には天地の差が生じてくる。行方不明になっている高齢者の家族関係をみればよく分かる。

 今後の高齢者は、今よりもはるかに孤独になり易いことを深刻に受け止めるべきなのだ。今の日本では社会の制度や環境の整備には限界がある。経済的にはもはや著しい飛躍はありそうにない。多分ないだろう。今よりも厳しい現実がそう遠くない時期にやってくる。いや、もうその時代を迎えている。
 今はまだ一部だろうが、ひどく殺風景で、みじめな死を迎える高齢者の問題が報じられている。仕事がら私はそのような死に遭遇することが多い。身寄りのない方が救急搬送され当院で最期を迎える高齢者が増えている。その際、書類上その方たちの存在を保障する書面に私がサインしている。平均寿命近くまで生きてこられた一人の人間の最期に書類上だけでも参加してくれる知己が一人もおらないなどと言うことは何と言うことだろうか。全く見ず知らずの方が最期を当院で数10分あるいは数日過ごしたというのみの縁だけであるが、私は躊躇なくサインする。

 歌手の桑田氏の病気が華々しいニュースとなている。しかし、今の高齢者の実情、今後の高齢者が迎えるであろう姿がマスコミに報じられることは決してない。
 本日、私は秋田県老人クラブ連合会で講演をした。私の話が空振りにならないことを願っている。


8/9(月)一時激しい降雨・曇りのち晴れ 管理会議 安全管理者との打ち合わせ 医師面談 療養病棟判定会議 長副会議
2:00 起床。ドック総括x1。文献処理他。明日の講演準備。6:50自転車病院着、重症者回診、7:45管理会議。10:00安全管理者、総師長、事務長との打ち合わせ。紹介状他。13:30入院患者対応。16:00 療養病棟判定会議。17:00-18:30長副会議。20:45自転車帰宅、夕食。21:30就寝。

高齢者問題(2)我が国の高齢者の実態には天と地ほどの格差がある
 私は健康講話などの機会が結構多い。明日は秋田県老人クラブ連合会で話すことになっている。求められた演題は「これからを豊かに生きるには・・・」という、極めて困難な、実現不可能な内容である。私にはそんな人に話すようなアイデアを持っているわけではない。仕事柄、健康面から若干の役立つかもしれないことを話せるだけである。

 私は講演の中ではわが国の今後の高齢者の未来は決して明るくない、と説く。今のうちから用意すべきものとして、内臓面の健康より重力に抗するだけの筋力維持、高齢者向け社会資源の学習、孤独はがんより怖いこと、死生観の確立と 遺言作成、 尊厳ある死の選択、ということを述べ、 早死にを推奨するわけではないが人は長く生きれば良いというものではないこと、多少、未練を残し、人に惜しまれて死ぬくらいが、しかもがんで人生の最後を迎えるのが良い・・・と説く。
 しかし、あまりピンとこないようである。老い先が短いから自分のことと思えないからというわけでもなさそうだ。何かの組織に属し、講演会に集まってくるような高齢者は概して健康状態も良く、経済的にもより豊かにみえる。だから実感がないのだろう。問題は社会的に接点を持てない高齢者の実態である。これは厳しい。

 日本の経済状態から見て高齢者医療・福祉の面は厳しい状態にある。それは誰でも知っているし、厳しい方向に向かっていることを実感しているだろうと思う。それでも、そう極端に悪くなるのではなく、今より少し悪くなっていく程度だろうと人々は思っているようだ。 今のところ、日本の高齢者は他国の実情と比較してみれば、恵まれている方であると考えられる。だから、ちょっと甘いのでは?と思う。一昔流行った「パラサイトシングル」に引っかけて言えば「パラサイト高齢者?」との印象を持つ。ただ、これを詳細に論じるほど私は諸外国の高齢者事情をよく知らない。

 私は先々に対しては、自身の問題としてかなり悲観的である。高齢化率はまだまだ上昇していく。 新しいデータは仕入れていないが、一昨年10月1日の65歳以上の高齢者の人口は2.746万人で、21.5%で高齢化率は2005年にイタリアを抜いて世界のトップにある。
 高齢者の要介護者数は前期高齢者が3.3%、後期が21.4%と差が著しい。主な介護者60歳以上の老老介護は55.9%を占めている。そう言っている私もいつの間にか高齢者に達してしまった。


8/8(日)快晴・猛暑  病棟拘束 
2:00起床、ドック総括x2、文献整理、書類廃棄など。11:00-12:30病院。14:00午睡、県地方独立法人評価表判定に呻吟。寝ても起きても全身汗だくの一日。20:00夕食、コップ半分ほどのビールで泥酔、20:45就寝。

高齢者の孤独死、行方不明問題 決して人ごとでない
 先月末、東京都で111歳の最高齢男性と見なされていた方が、死後30年以上も経過したと思われるミイラ化遺体で見つかった。都内最高齢である113歳の女性も所在不明だった。共にこの間も年金が支給されていて家族が受け取っていたらしい。

 前者では親族が本人が死亡していたのを知っていたが放置していたと言うし、後者の場合は息子や娘は所在についても生存しているかも分からない、という。実に奇異な、何とも言い難い、不可解な事件が発覚した。これを機会に全国で、100歳以上の高齢者の状況調査が進み、所在不明の例は名古屋市や川崎市、長野市、岡山市など各地で発覚し、今のところ50数人のようであるが、家族が本人との面会を拒む例もあり、立ち入り調査権がないままでは、踏み込んで事情を聴くのは簡単ではないようだ。本県では今のところ100歳以上の高齢者で所在不明の例はないらしいが、全国的にはその数は日を追うごとに増えている。恐らくは都会を中心に100人を超すのではなかろうか。家庭のあり様、血縁者間の人間関係もついにここまで来たか、と思う。

 我が国では長寿、天寿などという言葉があって高齢の方々を大切にしてきた。各自治体で「敬老会」なるものを開きお祝いしてきた。しかし、時代はすっかり変わってしまった。 家庭の機能が崩壊し、周囲との関係も断ち切られた孤独な高齢者の存在がある。これを機会に高齢者が置かれている状況をしっかり把握する必要がある。これは災害時の高齢者支援のためにも必要である。 
 つい2週間ほど前の発表では平均寿命は男女とも更に延び、女性は86.44歳で世界一、男性は79.59歳で第5位である。100歳以上の高齢者は急速に増えている。全国では98年に1万人超、03年には2万人、09年は4万人超で、本県では336人である。65歳以上の高齢者の割合は日本で今や、 22.7%で、女性で1/4が,男性で1/5が高齢者と言うことになる(厚労省)。

 何でも大切にされたり、敬われたのは価値ある存在、希少な存在だからである。高齢者が敬われたのも同様であるが、これだけ高齢者が多くなると考え方が変わってしかるべきである。高齢者対策は何も100寿者だけの問題ではない。暫時対象年齢を下げて調査し、今後の福祉政策に反映させていくべきだ。それは、高齢にある方、高齢になりつつある方々にとっても重要な問題である。

 私がこの事件に関心を持ったのは私自身の行く末を見ているような気がするからである。今のところはまだ現役で働いていて社会との接点があるから現実味が乏しいが、もし生きながらえたとき私は性格的に社会から孤立する可能性が高い。介護保険被保険者になり、年金支給対象者になった今、自分自身の生き方を真面目に考えなければならない時期を迎えたと自覚している。


8/7(土)快晴 ドック結果説明3人 紹介状・退院総括など書類処理 
2:00 起床,ドック判定総括x1。文献チェックその他。6:50自転車病院着。回診、9:00-10:00ドック結果説明3人。わざわざ聞きに来院されたので力が入った。重症者対応その他デューティなし。15:30バイク帰宅。家内ゾンタ。20:00夕食、21:00就寝。

本日は立秋 早朝の空気、空の高さはもう秋 
 本日8月7日は立秋である。本日から立冬前日まで暦上では秋である。
 季節の挨拶は、本日からは残暑見舞いとなる。これに気づかず、私は今朝暑中見舞いの文面でハガキを数枚出してしまった。そうは言っても、実際には残暑が厳しく、これからが最も気温の高い時期となる。だから暑さ好きの私にとってはまだまだ良い季節と言うべきだが、早朝の風の冷たさから秋をしばらく前から実感していて、ちょっと寂しい気持ちになっている。

 それにしても今年の天候は変である。昨年、秋田は梅雨明け宣言は無かったような気がする。今年はここ一月ほどは九州地方を中心に連日異常な降雨、水害を報じていた。その後は一転して、水害の後遺症などはそっちのけに突然猛暑を報道している。水害の現場にあった方々は恐らく今でも大変な状況にあるだろうが、他の地域にとってはニュースバリューはないらしい。県内で3年ぶりの猛暑日を記録し、室内でも熱中症になる恐れがあるという 。マスコミは熱中症にご注意、と日に何度も呼びかけている。その警告は本日半ドンで午後早めに帰宅したので実感がわいた。クーラーなどない自宅はやはり暑い。

 秋田では土崎の港祭りで夏が明け、竿燈が盛夏、大曲の花火では秋風が吹き寒さ対策が必要になる。季節の移ろいも実に早い。私は今年、雪が消えるのを待って通勤は徒歩、自転車中心にした。運動不足を自認していることも理由であるが、講演や講話の際に内臓の健康保持以上に体幹四肢の機能の維持こそが重要であることを強調しているので、自ら運動を実践しないわけに行かないのも一つの理由である。
 今後、寒くなるまで秋の季節のうつろいを味わうことになる。ちょっと寂しいが、それも楽しみの一つである。


8/6(金)超快晴 竿灯最終日 院内検討委員会 ふれあい看護体験 高校生一日医師体験 患者家族面談 近隣病院医師来訪歓談 秋銀竿灯チーム来訪演技 県健康推進課スタッフ来訪 長女帰秋
2:00起床,ドック判定総括x1。文献チェックその他。6:50家内も自転車、病院着。 7:45院内検討委員会。回診、9:45ふれあい看護体験挨拶、10:30患者家族面談。11:30近隣病院泌尿器科医師来訪歓談。11:00病棟患者対応。14:00秋田銀行竿灯チーム来訪、駐車場で妙技披露。重症者回診後。20:50自転車帰宅。夕食、21:30就寝。夜半に長女帰省。終日多忙であった。

秋田銀行竿灯チーム駐車場で妙技披露 炎天下で約1時間、至福な時間を過ごす 

高く掲げられた竿灯 青と白と黄が見事であった


 ここ数日、全国的に猛暑が続いている 県内は昨日に続いて本日も太平洋高気圧に覆われ、県内全域で最高気温が30度を上回り「猛暑日」が2日連続となった。

 この暑さで体調不良を訴える人が相次ぎ、今日も外来や救急を受診している。地方紙魁新聞が県内の各消防本部へ聞き取りした結果、熱中症とみられる症状で同日救急搬送された人は秋田市、大館市、北秋田市など12市町で計32人に上った、と言う。実際、当院の救急外来には10人以上搬送されてきているから実際には更に多いと思われる。
 すべての恵みの源である太陽は意外と気の毒な存在である。冬期間には陽の日差しが強く求められ恋い焦がれるが、真夏の、特にこの時期の太陽はむしろ憎しみの対象で、人は暑さに耐えかね、恨めしそうに太陽を仰ぐ。

 私は真夏が好きでギラギラの直射日光を浴びるのが好きである。しかし、テニスをやめてからその機会は殆どない。連日、ほぼ終日院内、室内でディスプレイを見て過ごしているからである。朝夕、自転車で通勤し夏の雰囲気は味わっているが、ニュースになるような炎天の日差しをまだ一度も浴びていなかった。
 それが今日、実現した。本日は4日間の竿灯祭りの最終日である。秋田銀行の竿灯チームが病院を慰問し、患者のために中庭にあたる駐車場で妙技を披露した。私は謝意を表しなければならないし、日差しを浴びる良い機会でもあった。だから準備の段階から最後まで側に立って見物した。さすが秋田の代表的行事である。病室の窓窓、ベランダから患者や家族が大勢手拍子を打ったり拍手を送って歓迎した。私は竿灯は一度だけ現場で見た事があるが、これほど近くでの演技は初めてである。50Kgほどもある竿灯に何本もの柄を継ぎ足しながら徐々に高くかざし、手、腰、肩などで支えながらバランスをとる妙技は見事であった。

 チームが来院し準備から引き上げるまでの間、4-50分程度であっただろうか、強烈な日差しを浴びながら立っていたが、この間、私はとても良い気分を味わった。強烈な日差し、暑さである。適宜汗も吹き出てくる。 とても気分が良い。 この感じを私はとても好む。その後、夜半まで身体がほてり、実に爽快な感じが続いた。

 明日はもう暦上で立秋である。これから徐々に日差しは弱くなって行く。残念であり、寂しい。残暑が続くこれからの一時期、機会を作ってもっと太陽に親しみたいものである。


8/5(木)快晴 竿灯三日目 外来 療養病棟診療部会 Prius車検
 1:30起床、ドック判定総括。文献など。6:45自転車病院着、回診、8:40-13:00外来。17:00-17:55療養病棟診療部会。入院患者家族面談、新入院患者対応。20:50自転車帰宅、夕食。22:10就寝。

児童虐待 背景に若い夫婦の有り様、男女の有り様の問題がひそむ
  幼い子どもが親から暴力的ないじめを受ける、あるいは食事も与えられない、言葉による危害を加えられる、時には性的危害を加えられる、そんな児童虐待のニュースが日常的になってきている。
 厚生労働省の集計では、全国の児童相談所が対応する児童虐待相談は99年度に1万件を超え、07年度には4万件に達した。09年度は前年度を約1.500件上回る4万4210件である。同省が08年度、虐待死事例は64件上っている。
 折しも7月から施行された小児領域の臓器移植も可能になったが、その際、常に児童虐待の被害者が臓器提供者になり得る、とされていた事に対し私は些か違和感を持っていたが、これほどの状況だとそれも無理からぬことかもしれない、と考えざるを得ない。臓器移植に関しては児童虐待の有無に関する判断が病院側に求められているが、これには大きな困難と責任が伴う。その判断が出来ないと言うことで移植を消極的にとらえる医療機関も少なくないだろう。

 先月末に大阪市のマンションに幼児2人を遺棄して死亡させたとして、23歳の母親が逮捕された事件は衝撃的であった。母親の身勝手・無責任な行為で食べ物も飲み物もない閉鎖空間で長い時間かかって餓死したのであろう、幼い子供達のことを考えると言葉を失ってしまう。この母親は昨年離婚し、1人で2人を育てていたということだから大変な環境であったことは容易に想像がつくが、母親が私的に、あるいは公的にも救いの手を全く求めなかったらしく、このことにも釈然としないものがある。恐らくこの様に困った時に相談する公的な窓口があることすら知らなかったに違いない。他との接点を欠き助けを一切得られない環境下での子育ては私はほぼ不可能だと思う。
 この件では3?5月に住民が虐待ホットラインに3回通報していると言うが、結果的に状況などつかめていなかった。隣人とかからの貴重な情報が生かされなかったのは何故だったのだろうか。これまでも中途半端な調査で済まし、事が起きてから何れも反省が語られている。そのような件は多い。家庭内の問題、個人の問題に介入していくことだけに微妙な問題を孕む。しかし、関係者には一定の指針の下に一定の結果が出るまで介入するより強い姿勢が求められる。
 一方、家庭内暴力とか虐待が発生する背景には家庭内での夫婦関係のありよう、子育て、家庭内の教育を含め親子関係の絆の形成にも大いに問題があるように思える。事件を見直してみると総じて若い両親によっている場合が多いし、出産年齢もとても若い。また、離婚し別の男性と同居している場合などで男性から前夫の子供達が虐待を受けて死に至っているケースが頻発している。しかも、これらの例では近隣との接点は殆ど持たれておらず孤立している。
 どちらにせよ、対社会的にも対人間的にも経験の少ない若者達が育児に行き詰まった時、重大な結果をもたらす方向に短絡的に走る可能性を認識し、組織的な介入をしていくしか悲劇を避ける手はないと考える。


8/4(水)晴れ 竿灯二日日 外来 緊急感染症対策課意義 打ち合わせ数件
2:15起床,ドック判定総括x1。文献チェックその他。7:00j自転車病院、回診。8:45-13:30外来、疲弊。16:00-17:00緊急感染症対策会議。打ち合わせ等。20:45自転車帰宅。夕食、 21:10就寝。

医師の過労死(5) 大義名分を掲げた和解だが、なんかおかしい
 過労によるうつ病で99年に病院屋上から身を投じて自殺した小児科医N氏(当時44歳)の遺族が勤務先の病院に12.000万円損害賠償を求めていた訴訟は、7月8日最高裁で和解が成立した。以下が裁判所が挙げた和解条項であるが、やはり不可解な和解である。
 だいたい、何を言っているのか分かり難い文章である。

【最高裁の和解条項】

 申立人らは、亡N医師の遺志を受け継ぎ、小児科医の過重な勤務条件の改善を希求するとともに、労働基準法等の法規を遵守した職場の確立、医師の心身の健康が守られる保健体制の整備を希求して、本件訴訟を提起したのに対し、相手方は、相手方病院の勤務体制下においては、N医師の死亡について具体的原因を発見し、防止措置を執ることは容易ではなかったという立場で本件訴訟に対応してきたところ、裁判所は、我が国におけるより良い医療を実現するとの観点から、当事者双方に和解による解決を勧告した。

 当事者双方は、原判決が認定したN医師の勤務状況(相手方病院の措置、対応を含む)を改めて確認するとともに、医師不足や医師の過重負担を生じさせないことが国民の健康を守るために不可欠であることを相互に確認して、以下の内容で和解し、本件訴訟を終了させる。

1.相手方は、N医師の死亡が新宿労働基準監督署長により労災認定された事実を真摯に受け止め、同医師の死亡に深く哀悼の意を表する。

2.相手方は、申立人らに対し、本件和解金として、労災保険給付金とは別に、合計金700万円の支払義務があることを認め、これを本日、本和解の席上で支払い、申立人らはこれを受領した。

3.申立人らは、その余の請求を放棄する。

4.当事者双方は、今後、本件事案並びにこの和解の経過および結果を公表する場合には、原判決認定事実(原判決が引用する第1審の認定事実を含む)を前提としてこれを行い、相手方病院を含む我が国の医療現場におけるより良い医療を実現することを希求するという本和解の趣旨を十分に尊重し、相手方当事者を誹謗中傷しないことを相互に確約する。

5.当事者双方は、申立人らと相手方との間には、本和解条項に定めるほか、何らかの債権債務がないことを相互に確認する。

6.訴訟の総費用は、各自の負担とする。



 最高裁判所は「我が国におけるより良い医療を実現する」との観点から当事者双方に和解による解決を勧告し、双方が了承した。それは解決法の一つと思う。しかし、この訴訟は「日本の医療には確かに過重労働等の問題がある」が、「医師不足や医師の過重負担を生じさせないことが国民の健康を守るために不可欠である」から、早めに、しかもそれほど高額でない賠償で解決、というより終了させるべきである、と言っているに過ぎない。この和解とこの前文を「最高裁が日本の医療の問題点を認めて言及した」として評価する意見も少なくないが、私は納得できない。

 裁判に関連して原告の方々の長期間にわたる心労を思えばこの形で終結させることにやむを得ない点はあるが、出来ることであれば判決の中ではっきりと日本の医療の問題点に言及して欲しかったし、医師の労働環境は労働基準に照らして異常であると断じて欲しかった。更にN医師のいのちをもっと高く評価をして欲しかった。例えとして相応しくないがあえて挙げれば、人生の終末期にある患者に関連する医療訴訟でもこれより遙かに高額な賠償を命じられることもあるし、働き盛りの年代の患者の場合には最近は2億円にも及ぶ賠償が求められる。医師のいのちはたった700万円?なのか。

 この件に関して日本医師会、日本小児科学会等は何かコメント出したのだろうか。私が調べた範囲では無いようである。問題でないだろうか。


8/3(火)曇り 竿灯祭り初日 外来 法人常務会 新築委員会事務局会議  医局会
1:30起床,ドック判定総括x3。7:00自転車病院、回診・家族面談。8:45-14:00外来。14:45-15:30法人常務会。15:30新築委員会事務局会議。17:30-18:20医局会。20:55自転車帰宅、21:30就寝。

医師の行為規範(9)医師の過労死(4)和解、あまりにも軽い医師のいのち
 過労によるうつ病で99年に病院屋上から身を投じて自殺した小児科医N氏(当時 44歳)の遺族が勤務先の病院に12.000万円損害賠償を求めていた訴訟は、本年7月8日最高裁第二小法廷で和解が成立し、病院は遺族に700万円を支払った、と報じられた。和解という手段で解決を図ったのはとても良いことだと思うが、この評価、医師のいのちの評価はあまりにも低すぎないだろうか。

 N氏は87年4月から東京の立正校正会付属病院に勤務、99年1月から小児科部長代行に就任したが、過重な業務でうつ病を発症、8月に自殺した。 1999年の日常業務は勤務時間は8:00am-6:00pm、当直は月平均6回、多いときには8回こなしていたという。全国の小児科医の平均は3.5回というので明らかに異常状態である。
 にもかかわらず、労働基準局は月8回の当直があっても仮眠は出来ていたはずだ・・等として労災と認定しなかった。本来労働者の権利を擁護すべき立場にあるものとしてあまりの非常識な判断に驚くばかりである。しかし、その後、裁判で労災と認定されている。

 この医師の遺族は勤務先の立正校正会付属病院に対し12.000万円の損害賠償を求めていたが、07年3月第一審は遺族側の控訴を棄却した。判決では医師の加重状態と死亡との間の因果関係は認定したが、本人が病院に相談しなかったから、病院が健康状態に対する配慮などの注意義務を怠ったとは言えない、と裁判は結論づけた。遺族は上告、08年10月第二審の東京高裁判決は、「医師不足に直面し負担があったが、病院は精神障害を認識できなかった」として一審判決と同じであった。遺族の上告に対して今回最高裁は異例の和解勧告を出し、双方が納得して和解に至ったというもの。

 和解条項に「医師不足解消への取り組みが国民の健康を守るために不可欠」との一文が盛り込まれた、と言う。 和解条項の中に上記の如くの一文が盛り込まれた事は個別の事件の中では異例のことだと評価されている。 

 医師は社会的にあまりにも不当な扱いを受けている。日本医師会の09年の勤務医調査では調査対象の医師の6%が週に何度か自殺や死について考え、9%がメンタルヘルスの支援が必要と見られている。これ程医師は追い込まれた状況の中にいる。医療崩壊は政治や社会が作り上げた状況で、それを現場の医師が身を挺して守っている。医師としての権利意識に目覚めた時、あまりにも大きな壁に自らの限界を感じて病院から立ち去っていく。それが実態である。N氏は国の医療政策の犠牲者である。
 それに、病院は「本人から相談がなかった」と言うが、自殺に至ほどの精神状況にあることに一切気づいていなかったのであろうか?N氏ははいろいろなところで限界であることを口に出しているという。だとすれば、管理者の過失ではなかったのか。それに、病院のためにこれ程頑張った部長代理に対して病院の対応はあまりにも冷たくはないか?
 私には納得できない不可解な裁判であり、不可解な和解であり、不可解な病院の対応である。


8/2(月)曇り・雨 管理会議 外来 療養病棟判定会議 長副会議
2:00 起床、ドック総括、文献チェック。6:45自転車病院、7:45-8:30管理会議。8:45-13:30外来。16:00療養病棟判定会議。17:00- 18;00長副会議。20:45途中まで徒歩で帰宅、夕食、21:50就眠。

次男夫婦・孫が離秋(2)私にとって血縁者が職場にいるのは辛いこと 
 次男は医師である。この5年間同じ職場で働いてきた。私にとっては何かと便利な面もあったが、一方で同じ職場に血縁者がいることは結構気遣いのもとでもある。可能な限り公私混同はしないように努めたし、彼もクールに割り切っていた。回ってくる書類やスケジュール表に名前が載っているのを見るのもあんまり良いものでない。

 なのに、私が次男を北海道から呼び寄せたのであるが、彼の自由を奪うことにもなるし、私にとっても気遣いする事になるだろうから苦しい選択であった。もし、彼が卒後秋田に戻り研修するというコースを自ら選んでいたなら、私は他の研修病院を推薦したと思う。2年前彼は結婚したが嫁さんもスタッフの一員であったからこれも気遣いの因であった。それでも息子たちとの場合は世代が異なり、分野や立場が異なるから1-2週間全く会うことも声を交わすことも無いのがザラだったから、やや気楽であった。
 勿論メリットもあった。前年度まで県医師会の役員として出張の機会、県の各種の会議に出席する機会が多かった。病院を空ける際には入院患者の急変等に備えて総合内科の医師にバックアップをお願いして出かけるのであるが、その際の一員にも参加してもらった。その意味ではとても助かった。特に数日に渡って留守にするときは助かった。

 私的な面で考えると、彼と彼の家族の存在はとても良かった。やはり、親子は出来ることなら同じ生活圏の中にいるのが良い、・・と思う。9ヶ月ほどになった孫は会う度に成長が見て取れるから楽しい。ただ、活発すぎて大変である。子育てと犬に集中している親を見ているのも楽しい。私どもも若かったときもっと子育てに集中すべきだったと反省させられる。この点では秋田から去っていったのは寂しいが、次世代の彼ら自身の為である。私は特に口を挟まない。彼らは自由で良い。今後は自由に、どこにでも羽ばたいていって欲しい。本音は寂しいが。

 私は同僚医師を含めスタッフの私的な顔については全く知らない。興味もないし知りたいとも思わない。職員としての職場内での顔しか分からないが、何かの機会にスタッフ同士が夫婦であったり、親子、母娘であることを知って驚くこともある。その際、同じ職場で働くことをどう感じているのかな?と興味は感じるが、問うたことはない。私が敏感すぎるのかもしれない。

 かつて、宮古病院で一年間家内も私と同じ内科で働いた。その数年後、私が秋大の内科で学んでいたときに家内は秋大病理学の研究生として約2年間過ごした。この間もやはり気遣った。本年6月から家内は近隣の40床ほどの病院の院長となった。ショートリリーフであるがそれでも私にとっては良いものではない。賛成ではなかったが本人がやるというのでしょうがない。業務上で名前が出ることも無いわけではなく、その度毎にゾッとしている。
 「次男は去ったが次難が残った」状態であるが、これからも早く解放されたいものである。


8/1(日)曇り雨 病棟拘束 患者塾講演
1:30 起床。ドック判定総括、文献・新聞チェック他。本日の講演の準備。 10:00病院。回診他。 13:30-16:00Alve患者塾、講演ほか。17:00McGarageにトラブル相談。18:10帰宅。その後、持参の県地方独立法人2大学の評価関連業務など対応。19:30夕食、20:00就寝。

開腹手術3周年 経過は良好、開放感を味わっている
 私は3年前の8月1日膀胱頸部硬化症と膀胱憩室の手術を受けた。もう3年になる。
 私は幼少の頃から排尿障害を抱えていたように思う。はっきり何時からという記憶はないが小中学校の時も学校のトイレなどで私より遅くきた友人達が私より早く終わって行くのを気にし続けていた。先天的な異常だったのだろうか。

 それから50数年、徐々に悪化傾向にあることは自覚していたが、排尿時に膀胱が必死に収縮してくれているような感覚以外に身体的苦痛は特別なかった。3 年前、 残尿量も増えたのであろう、感染も合併するなど限界を迎えてしまいこれ以上は無理と覚悟を決めた。専門医に相談したところトントン拍子に手術が決まった。開腹と経尿道的切除になるとのことで同時にやって頂くことにした。
 術前、前日ほぼ徹夜した影響もあったのか、麻酔前投薬が効きすぎて早めに呼吸状態が悪化したらしいこと、気管挿管が困難だったことなどあとで聞いた。スタッフにはいろいろ迷惑をかけたらしいが、術後の経過は極めて良好で、排尿と言うことに関してはこの3年間、それまで味わったことがなかった爽快感を味わっている。

 約50年間の間に排尿抵抗に対して膀胱壁の筋肉が肥大肥厚して伸展障害が生じ頻尿を来していることは自覚していたが、日常の中で常に排尿の機会を意識して暮らしていた。自動車による移動、会議の際などには特に意識していた。排尿のための時間が自由に得られそうもないときには飲水制限して臨んでいた。大げさに言えば、それまでの私の人生は排尿を意識し続けていた、と総括できる。今から見ればバカくさい、涙ぐましい努力をしてきた。いわば全身膀胱人間であった。だから、ここまで頑張ってきた上での限界だから他の方法はない、と手術を受ける覚悟はすぐに決まった。

 結果は最高である。手術によって排尿抵抗は改善され膀胱憩室は切除された。膀胱は抵抗がなくなってさぞや喜んだことであろう。結果として膀胱壁の筋肉肥厚は改善し十分に伸展できるようになった。排尿回数は半分以下どころか3割近くにもなった。もう排尿のタイミングを意識することは日常生活の中で全く不要となっている。
 歳と共にいろいろな障害を意識し始めているが、こと排尿に関しては完全に若返りが出来た。感無量の日々、排尿はこんなに爽快なものだったのか、と感謝しつつ快適な排尿感覚を味わっている。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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