浪人時代(1965)
仙台での浪人生活:いとことの共同生活
 4月中旬、仙台にて浪人生活を送ることになったが、実際には自分一人であったらどうしていたのか解らない。この仙台での浪人生活の決定の背景には、同じ歳のいとこの存在と開業医であるその父親のアドバイスもあた。このいとこは昭和20年に生まれた同い年3人のうちの一人で、もう一人は幼くして舞鶴の海岸で命を失ったことは先に記載した。

 このいとこと幼少の頃から仲良く、中学まではおのおの別であったが盛岡一高から3年間は同じクラスで過ごした。何につけても私よりは勝っており、クリネットの名手でもあり、成績も常にトップクラス。現役の受験では弘前大学医学部に合格していながら大学にオーケストラがない事を理由に進学せず共に浪人生活に入る事になった。私にとって彼をライバル視はしたことはなかったが、その存在は励みになっていたことは確かである。

 4月上旬、このいとこと同じ下宿に住むこととなり、共に仙台市に引っ越した。連坊小路という場所で、仙台一高の真ん前。季節柄、応援歌練習など聞きながら自転車で20分ほどの距離の文理予備校に通学した。予備校の初期の模試などの成績は彼ほどではなかったがまずまずで希望と共に準備に励むことが出来たが、約10日後に長く連れ添ったネコが失踪したというハガキが母から届いた。予想していなかったわけではないが、現実になって大きなショックを受けた。


猫の旅立ち
 この猫は13歳であった。最近の猫の寿命は概してもっと長いらしいが,ワクチン,バランス食などのない当時としては長命であったと思う。小学校一年生の夏から高校卒業までの13年間,いつも一緒に過ごしてきた。子育ての最中の母親としての働きは感動的であったし,私が虫垂膿瘍の穿破による腹膜炎で開腹した小学生期、・・.せめて15歳頃までは生きたい、と思ながら、猫に「おれが死んだら一緒にあの世に行って欲しい・・」といつも頼んでいたことなどが懐かしく思い出される.病弱な私の側にいつも寄り添い、母親のようなやさしい目で私を見守りつつ,みずからの身をもって私に生老病死についていろいろ教えてくれた,いわば親代わりの猫である。この猫の生きる姿勢からいろいろ学ばされ,私の人生観,医療観にもかなり影響している。

 晩年は私が机に向かっている間は,いつも勉強机の上に敷いた小さな座布団の上や私の膝の上で過ごしていたが,ここ一年ほどは体力が落ち,机にもまともに飛び上がれないようになっていた。得意な木工の腕を生かして猫のためにハシゴなどを作ってやったり,・・いろいろ思い出がある。この猫について語らせたら一週間は話し続けるだろう,と思うほどであるが聞く方がバカくさいだろうから一部しかしゃべっていない。炭火のこたつの脇で暖をとっていた猫が一酸化炭素中毒になり意識消失,呼吸も弱くなりかけていたとき,鼻から息を数回吹き込んだり,生まれた子供を処分した後乳腺が腫れ上がるが,代わりに吸ったり乳房をもんだり・・・いろいろある。
 私が下宿して居なくなるたびに元気が無くなると母親から聞いていたが,ついに死の旅立ちしたらしいとの連絡があり,くるべき時が来たのかと心の中で慟哭し,諦めた。 

 2週後の5月の連休は兄の結婚式があり帰省した。結婚式に出席するために客人も多数家にいて歓談していたが,居間の窓の下あたりからか細い猫の鳴き声がした。何と,居間の脇の木陰に痩せ衰えた猫が横になっていた。私は深く驚き,感動した。
 鳴き声もか細く,やせ衰え,毛並みももういつもの面影はない。目はくぼみ,生気はなく,光も乏しかった。近くに行くまでもなく,死出の旅路にある状態であることは私にもはっきりと解った。今までの2週間何処にいたのだろうか。自分の死の場所時又ところでじっとその時を待っていたのだろうが,私の声を聞きつけて,最後の力を振り絞って外に出てきたのだろうが,私の声を判断出来るとすれば恐らく居間の床下であったのかもしれない。

 そのころ私の家には長男の結婚式に出席するために大阪の叔父夫婦をはじめ10数人の親戚縁者が各地から集まってきており,おおぜいの声が入り乱れ相当にうるさかったはずであるが,その中に私の声が混じったのを聞き分けて出てきたのだろう。
 近寄ってみるとうすく開いた目にうれしげな様子は感じ取れたが,目を開けているのだけでも苦痛なのであろう,すぐに目を閉じた。ネコの外見上では嘔吐した様子もなく,排泄物で汚れても居ない。おそらくもう食べたり排泄したり出来る状況ではなかったのかもしれない。今までなら,毎日,会うたび毎に何度も何度も抱きしめてはスキンシップを交わしていたが,その時の姿では抱き上げるだけで死んでしまいそうな,そんな感じがした。
 私も側に横になりいつものように手を握り,時々名を呼びながら静かに話しかけ,しばし時を過ごした。様子には何となく安堵の雰囲気は感じられたが,あくまでも静かであり,私がぎゅっと手を握るとそっと爪を立てて応じるのが常であったが,もうそのような力も無かったのかもしれない。なされるままであった。

 そのうちにせめて水くらい私の指先から飲ましてやりたいと考え,握った手を離した。特に様子に変わり無くこのまま待っているだろうと台所に水を汲みにわたしはネコの脇をそっと離れた。
 コップに水を汲んで戻る途上,家族の誰かに話しかけられすぐには戻れなかった。約10分ほどであろうか,ネコが横たわっていた場所に声をかけつつ戻ったが,もうそこにはネコの姿はなかった。唖然として周りを見回したが何処にも居ない。懐中電灯を持ち出して床下を照らしてみたが,姿は見えない・・・・。
 このときを最期に私は彼女を二度と見ることはなかった。


猫は家につき、犬は人につく・・とされるが。
 昔から猫は家につき、犬は人につく・・とされるが、私は子供の頃ずっと疑問に思っておりこのネコに限ってそんなはずはないと、いろいろ試したことがある。しかし、得られた結論は、やはりそうとしか思えない事ばかりで、結局は猫は家につき、犬は人につくものだと長い間納得していた。
 例えばネコは適宜パトロールと称した行動に出る。結構これが広範囲で家から数100mも離れたところで姿を見ることもあった。だっこでもしてあげようかと、家でやるように声をかけて側に寄って行っても一目散に逃げるのが常であった。友人達に頼んで同じように声をかけてもらっても全く同じで、私が呼びかけたのと全く差がなかった。自分の生活の範囲では私をちゃんと認識するのに、と、私にとってはとても不思議でかつ悲しいことであった。
 また、自転車の蓋つきかごに乗せて家の周りを廻る事は良くやったが、ひとたび敷地から外に出るとそれまで大人しかったネコが突然かごの中で暴れ回り、もうどんなになだめても駄目で、家に戻るしかなかった。この様なことをいろいろやりつつ、最終的に先の結論に到達していた。

 それが、私の声を聞きつけて、死の床から、なけなしの体力を振り絞って私に会うために出てきて私を呼んでくれたこと・・・は驚異であり、私にとっては最高の喜びであった。と同時に、私が側を離れた時に再び静かに戻っていった潔さは、私を深く感動させた。この間彼女は何を感じ、何を考えていたのか。恐らく彼女は満足してこの世を去っていったのだろうと考えている。このことがあって以後の約30年、私は他の猫に全く関心を寄せることはなかった。

兄、正明の結婚
 このネコとの本当の、最後の、かつ劇的な別れは、私にとって喜びと悲しみとが一緒に来たようなものだが、丁度翌日が兄正明の結婚式であり、家中ドタバタと大変な状況であり、この別れに気づいた家人はいない。ネコと私だけの間で演じられたドラマである。私もネコが何処に消えたのか、気にしながらも、いつしか慌ただしさの中に組み込まれていった。

 翌日、盛岡市の古い料亭を借り切っての結婚式、家督を私に譲ったからと言っても我が家にとっては祖父・耕陽の葬儀以来の一大エベントである。親戚縁者入り乱れて盛会に執り行われた。兄正明は当時、東北大学工学部大学院を終了後、昭島市にある日立製作所の子会社(?)である昭和電子KKで働いており、将来的にも郷里に戻る予定などなかった状態であったが、その結婚式の内容は完全に跡取り息子、長男のそれであり、事実上の跡取りとしての立場を自覚していた私なんぞ、実に影の薄い存在であった。
 しかし、考えてみれば当然であろう。当時私は高校卒業したばかりでその上浪人中の身でもあったし、参列してくださった方々にとっては殆ど知られていない事でもあったからだ。言ってみれば、兄は実質的に長男という立場を次男に譲ったと言っても、実質的にはそのメリットを享受していたことになろう。この結婚式を機会に対外的には兄の立場はより堅固になったことは確かであり、私は次男坊の悲哀を更に長く味わうことになる。

 まあ、こんな事はどうでも良いことではあるが、この兄の結婚式がネコとの別れの翌日であったと言うことは私にとっては悲しみを癒すのにとても都合が良かったことは確かである。


比較的たのしく過ごした仙台での浪人生活1年
 兄の結婚式の後の仙台の7ヶ月は、いとことの共同生活の中で若干の諍いはあったもののまず平穏に、楽しく過ごし得た。仙台-盛岡間はそう遠くもなかったので週末には自宅に戻り適宜家の手伝いをしながらまず十分勉強に集中できた。そのため、秋口には複数の国立大学の医学部の合格圏内に到達し、若干余裕を持って過ごすことが出来た。10月頃の指導の教官との対話であるが,高校担任に言われたことを話しながら進路を相談したのであるが,彼は「半分冗談で言えば・・・」,と前置きしてではあるが「東大以外は何処でも可能性はあります」と言ってくれたが,その言葉は夢と希望を与えるものであり,担任のイヤミの言葉と共に追い込みの頃の励みになった。しかし,自分自身では別の大学も考えないわけではなかったが,背水の陣と思っていたし,前年度の失敗もあるので再度新潟大学を第一志望に,福島県立医大をを第二に,札幌医科大学を第三志望にした。

 先の見通しも着いたので仙台は12月初旬で引き払い,残りの期間は自宅で過ごし,受験の時期を待った。
 結果として,新潟大学,福島県立医科大学の双方から合格通知を受ける事が出来た。一緒にくらした従兄弟は東北大学医学部に合格した。 
  身分的に不安定,先のことがはっきりしないと言う点はあったが,だからこそ,浪人生活の一年は視野を広げるのにとても良かったように思う。
 
 新潟大学の合格の知らせは札幌で自宅に電話して確認した。そのために札幌医科大学は受験することなく帰路についたが,帰路途上少しでも急いで歩くと右の胸痛と呼吸困難が生じた。徐々に軽減していったためにそのまま列車で盛岡に向かったが,症状は数日間持続し,そろりそろりと行動して過ごした。今から見れば確証は無いが自然気胸だったのかもしれない。


新潟市内の様相一変。新潟地震の痕跡痛々しく
 受験の時新潟には2回目となったが,駅をおりて驚いた。駅舎も近隣のビルもそれぞれ傾き,中には1階部分が地面にめり込んで2階から出入りしているビルなど様々の様相を示していた。 
 1964年6月16日13時02分,当時、関東大震災以来の規模といわれ、新潟の人々と街に鮮明な記憶を焼き付け、深い爪痕を残した新潟地震が起きた。当時、仙台で浪人中の私は何故か下宿の部屋に一人でいた
 受験の時、新潟を訪れるのは2回目であったが,新潟駅に準急列車が近付くに連れ,立ち並ぶビルが傾いている。駅をおりて更に驚いた。昨年の様相と全く異なっている。駅舎も近隣のビルもそれぞれ傾き,中には1階部分が地面にめり込んで2階から出入りしているビルなど様々の様相を示していた。 

 1964年6月16日13時02分,当時、関東大震災以来の最大規模といわれ、新潟の人々と街に鮮明な記憶を焼き付け、深い爪痕を残した新潟地震が起きた。今から約40年も前のことである。

 当時、仙台で浪人中の私は何故かその日は予備校をさぼって下宿の部屋に一人でいた。私の部屋は二階であったが,突然ゴーという大音響と共に古い作りの下宿屋は,大きくゆれて,大きくきしんだ。階下では「ギャー」と叫ぶ下宿屋の高齢の姉妹の声に続きガラスや瀬戸物の割れる音が続いた。また,仙台一高生の甲高い驚愕の声をいまだにはっきりと憶えている。
 
 私はしばし机の脇の本棚を倒れないように押さえていたが,結局は支えきれず倒れ,室内に無惨に本が散乱した。もう押さえるものなど無い,こんな時はとにかく戸や窓を全開にして逃げ道を確保すべきと常々教わっていたので窓際に移動,窓を全開にした。外を見ると道路脇の電柱も大きく揺れている。隣の邸宅の池の水は大きく波打ち水が池の外に大量にあふれ出ている。こんな時の水の動きは壮観でさえあった。日頃から飛び降りるならここと目星を付けていたところには1階のガラス戸が倒れて飛び降りるはむり無理であった。そのうちに揺れが徐々に治まって来たので,階段をそろりそろりと1階に降りた。下宿屋の茶の間は家財道具が一部倒れ,食器類の一部が粉々になっていた。高齢の姉妹はいち早く避難したのであろう,家具の下敷きなどにはなっていなかったので私も急いで外にでて事なきを得た。
 最初は頻回であった余震も徐々に小さくなっていったが,停電した夜間にも頻回の揺れを感じながらとろとろと眠ったように記憶している。

 翌日からの新聞では新潟ではビルが倒壊し,所々隆起や陥没し、昭和石油のタンクから黒煙は立ち上あがっており,信濃川に架かる橋の一つは橋桁が落ちた写真等が連日掲載されていたが、仙台の生活も次第に通常に戻り,いつしか新潟の様子への関心も薄れていった。

 新潟の街に降りたって、仙台のあの日の様子が改めて鮮明に思い出されたが、新潟の方々の驚きはいかばかりかと思った



浪人中,東京オリンピックは無視、後に記録映画でじっくり味わう
 浪人時代の二つ目の大きな事件は何と言っても東京オリンピックである。何年も前からキャンペーンが行われ,「東京オリンピックまであと○○日」とマスコミは連日こぞって掲示した。遠くギリシャの一地方で太陽光を集めて着火した聖火は国産旅客機YS-11「オリンピア号」でアジア諸国で給油を受けながら運ばれ,国内では分火された聖火リレーが全国的に行われるなど,大会前の演出も素晴らしかったように思う。1964年10月10日,これ以上はないと思われる超快晴の天候のもと,急造された東京オリンピックスタジアムで華々しく開催され、その模様は連日テレビ、新聞等で報道された。勿論当時は白黒テレビであったが、大会は国民全体の異様な心理的高揚の中で運営され、その運営の見事さも評価され、戦後史の中での最大の国民的大フィーバーの2週間を迎えた。
 
 オリンピックは戦前一度我が国での開催が決定していたが,戦争で辞退した。また,不参加を強要された屈辱的な歴史をも持つ。わが国が、その雪辱と、戦後の復興・繁栄の誇り、高速道と、新幹線の建設までし遂げた経済成長と治安国家を世界に問う意義を兼ね合わせていた大事業で,当然アジアでは初の開催であった。これを契機に日本は、特にその経済成長の面で国際的に一目を置かれるようになる。

 私は受験勉強中でもっとも大事なこの時期、あえて完全に無視しせざるを得ず、自分の弱点の克服のために勉強に集中していた。しかし、異様な国民的高まりに驚きながら、この一大エベントに関し日毎に興味が高まっていった。傍らのラジオで実況中継を聴きながら,実物はどんなものだろうかと思いをはせた。それでも,東京オリンピック映画協会が設立され,記録映画を作成中であると知ったので、公開された際の楽しみと割り切った。この映画は翌年全国的に公開されたが、これも記録的大ヒットとなり連日超満員となる。当時、新潟大学一年であった私はフィーバーがおさまりつつあった秋口まで待ち、ある日やっと観る機会をえたが,この映画は記録か,芸術性かをめぐって政府まで巻き込んだ論争のもとになったが,私にとってはそんなことはどうでも良かった。この映画を通じて改めて人類の祭典に感動した。開会式の空に見事に描かれた5色の五輪,深夜まで勝負が決まらなかった棒高跳び,東洋の魔女,42.195Kmを淡々と走りきったアベベなど,今でもその画面が浮かんでくる。

 当時は映画は最大の娯楽であり,国民はこぞって映画館に足を運んだものであるが,私にとって劇場で映画を鑑賞するのは小学校5-6年ころの音楽映画「ファンタジア」以来10年振りであった。この映画は後にレーザーディスク版で発売となった。私は1985年頃購入,時折懐かしんだ。今でもオペラなどのディスクライブラリーの中で異質で重要な位置を占めている。


新潟大学入学準備。さて、学資をどうするか
 大学合格後はどのようにして暮らすかを先ず決めなくてはならない。当時我が家では地域では裕福な方と見なされていたし、自分もどう思っていたが、現金収入としては父の若干の恩給、その他から少しばかりの収入があっただけであり、現実には先代が残してくれた資産を切り崩しながら生活していた。当時日本は成長時代に突入しており、国民の収入は増え始め、安定してきた。しかし、我が家にとってなおしばらくは食べるには困るほどではないものの、物価は上がるし、先細りであることには変わりがない。

 いろいろ考慮した結果、下宿さがしに行くのも面倒、旅費や宿泊費も無駄だし、6年間のことを考えると学生寮にはいるのが良いだろうと判断した。申込書には生活レベルや収入のことを記入する事になるが、正規の現金収入は父の恩給だけだから記載も楽、内容的には低収入となる。間もなく入寮が許可された。

 学費は高校の頃、日本育英会の特別奨学金の申し込みをすべきであったが、何故かしておらず激しく悔やんだが、もう後の祭り。後は一般奨学生(3000円/月)の道が残されているだけでこれは後に手続きすることにした。兄とは以前から約束があったので若干の援助をしてくれるとのこと、嫂も同意してくれたとのことで一般奨学生と同額の援助を頂けることになった。しかし、兄夫婦にとってこの負担はかなりなものであったらしいが、そのことは後で知る事となる。
 我が家も長期的に考えれば何時学資が途絶えるか分からない状態なので、両親と話し合って6年間分として50万円を貰うこととした。寮は当時は寮費として1500-2000円程度、食費は3食で3900円(朝30円、昼夜は共に50円で1日130円)だという。自分の子供の頃からの積み立ても10万なにがしになっていたので何とか目処が立ちそうと計算した。

 生活用品としては大きいのは机、椅子、自転車、布団等であったが、新調せずに家で使っていたのをそのまま送った。当時は記者の切符を買うと手荷物が格安で送れるシステムがあった。全部列車で送ったような気がする。

自伝 ★大学時代★へつづく







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