大学時代 医学進学課程(1965〜67)


六華寮(正式には昭和27年に改称し六花寮)に入る
 昭和40年4月早々、大学生活を送るために晴れて新潟に出かけた。盛岡→仙台→福島→郡山→会津若松→新津→新潟。東北本線、磐越西線、信越本線のルートであ。当時は200-300円で乗れる準急列車というのがあり、仙台まで3時間、仙台で乗り換え郡山から磐越西線に入り、山間部を延々と約6時間揺られて新潟にヘトヘトになって着いた。列車はうるさくかつ油煙を出し、油のにおいが立ちこめるディーゼル車で、この長丁場6年間にわたって往復したがホントに嫌であった。途中、心を和ませてくれたのは山の緑と阿賀野川の緑の水流であった。

 入寮申し込みしていた六華寮はどんな所かと心配していたが、市内西大畑の一角にある、ボロボロの今にでも崩れそうな木造の建物。正面玄関の様子からも中の様子が推察されたが、実際に入ってみると予想以上にひどい建物であった。廊下の天井の梁は垂れ下がり、各部屋の間の壁には大きな穴が開けられ、隣室とは出入り自由、欠損した窓ガラスは代わりにベニヤ板が貼ってあるなど、聞きしに勝る代物であった。夜は20Wの裸電球が要所要所にあるだけ、農家で言えば馬小屋並か。ここに約200人ほどが暮らしていた。最初は驚きもしたが、貧乏くさい一方、何となくワイルドな感じがして全く新しい環境に興奮を覚えた。
 割り当てられた部屋は4人部屋で新入生は2人。着いていた荷物をほどき土間の一角に机をしつらえて一応自分のコーナーを確保した。
 結局、すっかりなじんでしまって、寮をでようとしたことはなく6年間寮生活を送ることになる。

 <参考>新潟大学には当時7つの寮があり、その内の「六花寮」と教育学部生用の「好風寮」は共に老朽化が激しく昭和42年に「新六花寮」として海岸近くの金衛町の丘陵に建てられ、定員400名の鉄筋4階建ての建物となる。これに「医学部寮」の3寮の寮生が入ることになった。「大学から自宅までの距離が2Km以上」「経済的負担が大きい」学生の為に良好な勉学環境を提供することを目的にしている。六花とは雪の結晶をシンボルとした大学の校章から由来していると言う。


六華寮の生活
 寮で生活を初めてから3日目ほどで続々と新入寮者が入ってきた。通常、人よりも荷物の方が先に着く。事務室前には荷物がうずたかく積まれる。午後4時頃に招集がかかり、寮に残っている学生は総出でそれらを割り当ての部屋に運んだ。結構整然と、協力して事が運ぶことには感心した。

 新入寮生が大体揃ったところで入寮式である。ある夜夕食を兼ねてほぼ全員が食堂に集まり寮長とかの役員の司会で自己紹介とかから式が始まった。医学部生は11人入寮したらしい。席にはささやかな祝いの料理が並べられ、新潟の地酒の小瓶が置かれ、湯飲みも置かれている。やがて先輩諸氏が真新しい一升瓶を持って新入寮生の席を回り、湯飲み茶碗になみなみとついで回った。乾杯の挨拶の後、生活を共にする仲間としてのかための盃だから2-3口で一気に飲み干すようにとのこと。大体、乾杯は全員でするものなのに一升瓶からの酒は新寮生にしか回っていない。些か不思議とは思ったが、貧乏寮生の集まりだから酒も買えなかったからだろうと推測した。私には茶碗一杯の酒は荷が重いが、まあこの程度なら大丈夫だろうと乾杯の合図と共に一気に口に含み飲みこんだ。
 何だ!?  しょっぱい! これは酒ではない.(なんと、塩水であった。)

 多くの人は直ぐに海の水だと気づいたようであるが、何せ、私は海で一度も泳いだこともなかったから、これが海水の味とは全く知らなかった。冗談も過ぎるが一気飲みさせられるよりは良いか、と割きった。その後はまず通常の宴会となり余興として何かを歌わされたような気がするが、全く覚えていない。


寮生活 食事
 翌日からは通常の寮生活を送ることなるが、私の従来の生活に比較して大きな変化の第一は寮の食事であった。 寮の食堂に於ける食事の時間は、朝食7:00-8:30、昼食12:00-13:00、夕食18:00-19:00。大学の教養部は寮から100mほどしか離れていなかったために昼食も寮に戻って摂った。食費は朝30円、昼50円、夕食50円、しめて130円/日。予約制で食事が確保出来る仕組みになっていた。授業とかの変更などがある場合、前日までならキャンセルも可能で実に合理的に運営されていた。私は比較的規則正しいワンパターン生活で、特に遊び回ることもなく、定期的なバイトもしなかったためにほぼ全食を寮で食べた。夜のクラブ活動にも食事後に出かけたため、実に安上がりであった。値段相応のものしか出ないから内容的には実に貧相な食事であったが、少しでも美味しい食事を用意しようとする賄いさん方の工夫を感じることが出来た。
 
 食器は黄色いアルミの小ボールに白米とみそ汁、小皿一枚におかず少々というものであった。朝は副食無し。白米の上に2枚のタクワンと、海苔の佃煮が10gほどとみそ汁のみ。それでも空腹には有り難い食事であった。暖かさがご馳走の一つなので、冷めないうちに食べられるよう朝食は7:00には摂った。この時間に決まって食べに来る寮生はそう居らず、たいがい独りであったために賄いさん方と自然と親しくなる。そのためにふりかけを付けてくれたり若干のサービスをしてもらったのは暖かい思い出である。

 アルミの小ボールに炊きたてのご飯とみそ汁は最初の内は通常は熱くて持てない。盆の上の食器にかがみ込むようにして食べたものである。少し冷めると食器をもって食べられるが、熱い食器を上手に持ち上げるにはちょっとしたコツが必要であった。昼、夜のおかずは20円分だからしれたものであった。とか言いながら、私は結局6年間在寮した
から、この食事を黙々と食べ続けた事になる。今から見れば実に感慨深い。

 寮の食事を通して私の食習慣、考え方は100%変化した。まず第一は粗食に耐えられることと好き嫌いを一切言わずに何でも食べられるようになったこと、第二に粗食と言えども三食食べられる幸せを実感したことと食品を粗末には絶対にしない、ことだろうか。

六華寮の生活。人付き合いは辛かったが,コツを学ぶ。
 寮での生活の中で食事の次に私に大きな影響を持ったのは人間関係の難しさであった。片田舎の出で,家族内に同年代はおらず,終始ネコと一緒に暮らしていたし,高校の頃一時的に下宿生活し,浪人時代には従兄弟と下宿生活を経験しているが,それらはせいぜい3-4人の中での生活であった。今回の寮は約200名の共同生活である。私自身が一番心配していたのは人とのつき合いに関して上手くやっていけるか否かが懸念,と言うよりそれ以上に恐怖でもあった。割り当てられた部屋は4人部屋で新入生は私一人,3年,4年生の3人暮らしとなった。幸いこの二人比較的円満な方々で,先輩風をひけらかすこともない方々で,その点では良い寮生活のスタートが出来たと思う。6年間の生活の中で具体的に何があったわけでもないがこのお二人には感謝している。しかし,半年後の部屋替えのあとの消息は全く知らない。名前すら忘れてしまった。
 
 寮には週間の行事予定があり,各棟毎の会合,更にいろいろ割り当てられた係り毎の集会とがあって,結構多忙であった。会合の度にいつも新しい同期生や先輩方と知り合いになる事は喜びの一つではあったが,一方では煩わしさを感じないわけではなかった。また寮内では飲酒してきた先輩諸氏による小さな暴力沙汰も見聞きする事もあり,どのような折り合いを付けて周囲の人たちとつきあっていくかがやはり自分にとって当初の命題であった。
 で,体得したのは節度ある距離を保ちつつ,特に先輩諸氏とは分け隔てのないつき合いをしていくことしかないと言う,当たり前の結論に落ち着いた。もともと高齢の家族の中で育ってきたこともあり,なかなかノーと言えない,長い物には巻かれてしまう方の性格になってが,寮生活を通じて更にその傾向が強くなっていった。

 今も対人関係には基本てきには恐怖を感じること,ノーと言えない優柔不断の性格は全然直っておらず,自分にとっても好まざる性格と思っているが,今更何ともしようがない。

入学式、オリエンテーション、医学部進学課程
 入学式は4月上旬に新潟市の体育館で行われた様な気がするが、殆ど記憶に残っていない。翌日のオリエンテーションは教育学部の教室で行われ、この時初めて同級生100名が集合したことになるが、私の知人は一人もいなかった。名簿を見ると盛岡一高から3名入学しているが、名前も聞いたこともなかった。現役で入学したのであろう。
 一通りの説明の後、進学課程2年間のカリキュラムの概要が渡された。2年間でとるべき単位は最小限72単位で他に時間の許す限り追加しても良いという。私は医学部進学課程の2年間では種々の分野の本を読みたかったし、出来れば医学部管弦楽団に入ってヴァイオリンとかチェロを弾きたいと思っていたので修得単位数は最小限にし、しかも最初の1年間で56単位収得出来るように計画を立てた。これによって、もし初年度で一部の学科の単位を取れなくとも2年目でとることも可能という、進学上の打算、安全弁的配慮でもあった。
 実際の授業はその為に月曜から土曜まで、8:30-17:00迄の時間帯の内80%ほどとなり、かなり多忙な学生生活となった。授業の中では理系の授業は難解で実につまらなかったが、人文系の「政治学」「経済学」「社会学」の3分野、とりわけ「社会学」には大きな興味を抱き、受講するたびに新たな視野が開け、2年目は既に単位をとっていたが、他の教授の講義にも時折出席して聴かせていただいたほどである。一方理系の授業、とりわけ「数学」はもともと私は不得意な分野であったが、歯が立たないと言うべき状態であった。何んで合格点を取れたのか解らないが、今でも「数学」のために医学部に進学出来ないで一人だけ留年している夢を見るほどである。

新潟大学医学部管弦楽団(新潟大学管弦楽団の前身)に入部する
 大学で是非やってみたかったことの一つにオーケストラがあった。楽器など全く弾けないのに身の程知らずの大望である。
 仙台での浪人期間中に従兄弟と仙台川内の東北大学管弦楽団の練習場に何度か訪れ、練習を何度か聴いていた。この時の練習曲はシベリウス交響曲第2番、ブラームスの第一番でその練習過程を通じて曲の構成も解り、私の好きな曲の筆頭になっている。この練習場を訪れるたび毎に,無事進学した際には自分も是非ともやってみたいと夢を膨らませた。

 入学式で貰ったパンフレットを片手にある晩,早速練習場所の講堂にでかけてみた。まだ練習開始前で30人ほど、各々適宜場所を陣取って練習している。出来上がったアンサンブルとは別に,私は合奏前のテューニングの時の音と,各自バラバラに練習している時の音がとても好きだ。
 新潟大学医学部管弦楽団は東北大学のオケに比較すると規模もかなり小さく、レベルも高くないように思えた。名称が医学部管弦楽団とはなっているが実際には農学部や教育学部などからも参加していた。パンフには初心者歓迎で指導もしてくれるという。20名ほどが入部希望で集まっている。半分以上が初心者またはそれに近い状況らしい。これなら私も何とかなるかもしれない、と考え入部を決めた。
本命はチェロだったが、ヴァイオリンを選択
 次はパートの選択である。管や打楽器には興味がわかず,弦楽器を希望した。そのうちでも本心は低音のチェロをやりたかったが、あのサイズは列車での帰省の際には運搬が困難であるし、楽器自体も私の立場では高額である。次善の選択としてヴァイオリンを選択した。この時のチェロに対する思いは心の中ではずっと途絶えることなくくすぶり続けていたが、35歳の時にチェロを購入し,その夢の一部はかなえられることになる。

 私にヴァイオリンの指導をしてくれることになったのは当時医学部2年生でコンサートマスターをしていた方である。この方はオケの中でも抜群の技術性と音楽性を兼ね備えた方で、古い鈴木ヴァイオリンを弾いていた。この楽器はとてもいい音で鳴っていたが、表番の1/4ほどは無惨に焼き焦げていた。この焼き焦げはタバコを吸いながら練習していて,気がついたら楽器のニスに火が着いていたと言う。顔の前で火が着いたのだからすぐに気がついたが相手が木製のデリケートな楽器だけに水をかけるわけに行かないし,と迷っているうちにかなり広くニスが燃えてしまったという。

 入部を決めて数日後に管弦楽部と提携している楽器屋でVnを注文した。展示品に気に入ったのがないために注文することにしたが、値段のこともあって鈴木特3号に決めた。量産型の楽器で、半分機械半分手作りと言われるもので、このシリーズの中では5段階のうちの中間に属するもので弓、ケース、肩当て等セットで4万円ほどの楽器であった。2週間ほどで楽器が届いたが、保証・証明書を見ると一週間ほど前に出来上がったばかりのホヤホヤの新品であった。
 この楽器の購入は当時の私にとっては清水の舞台から飛び降りるに相当するほどの大冒険であったし、この件に関して当時から今に至るまで私は嫂から責められ続けている。が、見方を変えると、だからこそ途中で何度も挫折しかかっても放棄せずに今まで継続出来てきたのかもしれない。
今はただただ嫂に頭を下げて感謝するのみ、である。

オケ、授業、寮生活、読書、
 寮生活にも慣れ、オケに入部し楽器も購入、授業の年間計画もたって私の生活は次第に落ち着きを取り戻し,極めて単調に経過し始めた。当初は自分にとって超高額な楽器を購入したこともあって、最初の数ヶ月は授業のない時間帯は殆ど池原記念館の中にあるオケの部室にこもり楽器の練習に没頭した。あまり真面目に練習に行くので変人扱いされたこともある。そのために2-3数ヶ月後には簡単な曲を弾けるようになり、指導してくれたコンマスも次の演奏会のでベートーヴェンのVn協奏曲を独奏するための準備で多忙になったこともあり、私への指導は終り、その後は全て独習となった。

 今しばらくは楽器中心の生活は続けていたが、学生の本分は疎かにすることはなく,講義には殆ど皆勤に近い状態で出席した。要するに真面目と言うこと以外に合理性からの出席である。講義にでている方が試験とか,レポートとか,何をするにも最短時間で準備出来,能率的だからである。そのため私の講義ノートは寮生の中では人気が高く,常に引っ張りだこであった。当時はコピー機はあったが開発途上であり,学生には高嶺の花で,友人達が写しやすいように配慮しつつノートをとっていた。

 コピーと言えば,上記の状態で湿式コピーで一枚コピーすると陰陽の紙が2枚出てくる
仕組みで,乾燥させる必要もあり,色もセピア調でコントラストも悪く,今のような簡便なものではなかったし,第一学生の手には負えないほど値段も高かった。こんな時代である,オケの新入生の大事な仕事として楽譜の写譜作業があった。ミニスコアや他の大学のオケから借用したパート譜をこつこつと写譜をしていくのだが,実際にあわせる段になると各人が別々の楽譜を用いることになるから音符が抜けていたり,重複していたり,綺麗にハモるはずの当たり前の和音が激しい不協和音になっているなどで,これの修正作業もまた大変であった。
 
 ノートにしろ,楽譜にしろ,今のコピー全盛時代にはとても考えることも出来ない様な,大変な手作業の時代であったと思う。大学一年の夏頃から今度は古本屋アサリを始め,本の世界にものめり込んでいく。
大学生活も落ち着き,友人にも恵まれ,それと共に、行動も徐々に広がっていったが,その中では、古本屋巡り、パチンコ、ボーリング・・・と挙げられよう。
 私はたいした頭も良くないのに,立場上国立大学の医学部への進学を目標に置いたため、これまではあまり本を読んだことはなかった。事実,そんな余裕はなかったからである。高校の3年間の記憶の中で一番鮮明なのはいつも側にいてくれたネコの姿であり,こつこつと勉強していた自分の姿である。盛岡一高時代の思い出も記憶もたいして残っていないのは残る様な幅の広い生活をしてこなかったことにある。自転車通学にも一日3時間ほどの時間がとられることもあって,日々の授業についていくだけで精一杯であった。

 夏休み頃から時間的に余裕が出来たので古本屋巡りを始めた。理由は古典的評価の定まった本を中心に読みたかったこと、新刊書の値段で古本ならば2-4冊読めたからである。まず、読む対象として当時岩波書店が「100冊の本」シリーズを出版しキャンペーンをはっていたことでこれをスタートとした。結果的には大学6年間生活で80冊ほど読んだところで卒業の時期となり全てを読み切ることなくまま頓挫し現在に至っている。それらの中で今も具体的に内容を思い出すのは,古典的文学書を除けば,福沢諭吉「福翁自伝」,ベンジャミン・フランクリン「フランクリン自伝」,カント「実践理性批判」・・・等でしかないが,多くの名作に触れ,新しい世界に歓喜した時期である。これらの3冊からは大きな影響を受け自分の生活そのものになっている部分もある。
 そのほか,作者として別に追求して読んだのは「井上靖」,「松本清張」,「石坂洋二郎」,「丹羽文夫」・・・とかで,文庫本として出版された作品はほぼ全て読み尽くした。英国のある一人の作家,名前は忘れたが,これも求めて10数冊は読んだが,私は翻訳物はどうしても好きになれない。それでもロシア文学はかなり広範に読んでいた。

 何年か前に岩波100冊の本は新バージョンが発表になったような気がする。私の収集した文庫本は時に友人に貸し出してそれっきりに,また引っ越しのたびにどこかに紛れ込んでしまい,今は手にすることは出来ないが,時期が来たらもう一度再度購入してでも読んでみたいと思っている。

ビギナーズラック(1) パチンコ
 私が幼少の時は盛岡のお菓子屋さんの店先には今とほぼ同じような機械があって玉ががうまく入ればキャラメルとか出てきた。小学校の頃何回かやったことがある。
 寮ではパチンコの話題が結構出る。新潟では「白鳥」「堀川」・・・等が老舗らしい。これらは大学からも遠くない。ある日予定の講義が休講になったので「白鳥」なるパチンコ屋に出向き50円分(25ヶ)で適当に始めたところ何と出る出る!!(当時の感覚で)、結局1時間ほどで1800円分になった。今から見ればたいしたことではないが、当時のパチンコは左手で玉をすくい、一つずつ器械に入れて弾くタイプ。初心者の私なんざ1ヶ入れてはポンと弾き、その結果を見てから次の玉を入れる様な撃ち方だから、確率から見ればすごい入り方であったと言いうる。

 あとは修行と経験である。玉も常に3-4ヶは舞っているように早撃ちが出来るようになっていったし、古本屋から参考書を買いもとめて研究、しかし結果的には何も得るものはなかった。当たり前だと思う。当時からパチンコ屋は大儲けしていたはずで、私が体得した知恵は、300円以上は持たないで行くこと、玉がたくさん出たところで一部の玉を残して景品に換える、または換金してしまう、現金化した時はすぐに遣ってしまうこと、であった。だから私はパチンコで駄目な日はそれなりにあって空しさを何度も交わったが、大損したという記憶は全くない。むしろトータルではかなりプラスになっているはずである。
今のゲームセンターの仕組みやルール等は全く解らないが、当時の新潟のパチンコは打ち止め無し、現金化でも80%、景品化は100%の交換率であった。2000円以下の場合にはインスタントラーメン(チャルメラ、当時30円)、タバコ(ハイライト、当時70円)に交換し寮に持ち帰り、放送をかければ10円引きで事務室前で飛ぶように売れた。

 教科書は当時日本のは良いものがない上に高価で、私はもっぱらアジア版と言われる英語の教科書を購入した。「セシル内科学書」、「アンダーソン病理学書」、「クリストファー外科学」、「グリーン産婦人科学」その他・・は全部パチンコの帰りに西村書店から購入したものである。当時の西村書店は医学書の古本も扱っており10%ほど値引きしてくれてた。

 私のパチンコ歴の圧巻は専門3年頃、当時4万円ほどした14インチの真空管式白黒テレビを二日間の休日を全部かけて稼ぎだし、購入したことで、三日目にはUHFコンバーターを購入する資金を稼ぎに行ったが、さすがに矢折れて、疲れ果て、すごすごと戻った。UHFコンバーターは後日の実入りで目標通り購入した。終日パチンコで過ごすと視力低下、めまい感、難聴感があり、寮に帰って本を読んでいてもあの喧噪の音が幻聴のように聞こえてきたものだ。新潟のパチンコ屋でも盛岡一高の校歌がならされていた。全国に通用する名曲である。

 学生の頃は一日数100円の収入でもいい気分でルンルンと帰寮したものであったが、医師になって月給を戴くようになってからはあの器械の前で長時間過ごすファイトが無くなり、次第に列車の待合い時間とかちょっとした時間過ごしの時だけになったし、少額ではあったが確実に経営に貢献するようになった。

 ここ20年ばかりは2-3回ほどしかやっていない。台は完全に自動化され、ギャンブル性のみでさっぱり面白くもなくなった。若い甥達が5万円儲けた、3万円負けた・・等と言っているが時代の流れを感じる。私はもう恐らく二度とやることはないだろうが、パチンコは私の学生時代の重要な一コマを占めていたことは確かである。今でも母校の校歌はならされているのだろうか?
ボーリング
 大学に進学した昭和40年頃、日本中でボーリングがブームになり始め,テレビ中継等も盛んになっていた。私はそれまで全く近づくことはなかったが、大学一年の夏のある朝、同級生の一人誘われておそるおそるボーリング場に入ってみた。当時,空いている時間帯と混み合う時間帯では値段が異なり,1ゲーム200-300円前後、それでも待ち時間1-2時間は当たり前。学生には高嶺の花であった。ところが、西大畑の寮の近くのボーリング場では早朝割引という企画があって、朝6:00-7:30迄は1ゲーム50円、さすがにこの時間帯は待ち時間なしで行けばすぐに楽しめた。私と友人は当然この時間帯を選んで週1-2回、一回あたり2-4ゲーム、半年間ほど続けた。

 ナンと、パチンコでも最初の日から運良く入ったのと同様 、初めて投げたボールがストライクになったと言う幸運を味わった。 なんだこんなものか!、と思いつつ、全く自己流で練習を続けた。半年で平均150-170程度となったがそれ以上は伸び悩んでいた。半年ほどで朝のこの企画はなくなり、朝の10時開場で値段も通常になったのを機会に定期的な練習は止めたような気がする。そのあと新潟ではどの程度ボーリングをやったのか、殆ど記憶はない。大会などへの出場経験はなかった。
 
 大学での練習の成果は卒業して岩手県立宮古病院に赴任したときに花が開いた。時たま病院職員とやっていたが、平均160点ほどでこれでも病院内では良い方であった。地元のある大会に薬剤師等と4人でチームをつくり出場、192点、234点という思ってもいなかったハイスコアが出てチームは準優勝、私はハイスコア賞を戴いた。これ以降は殆どやっていなかったが、3-4年前には久しぶりに仙台で知人とやる機会があり、198点が出て自分でも驚いた。以後は全くやる機会はない。

祖母キヌ、享年79歳死去
 私の祖母キヌは、私の父である長男の耕栄、兄の正明が医業を継がなかったことを常々気にしており、私がその道に進むことを常日頃から強く希望していた。「おまえが医者になるのを見るまでは死なれない・・」と時折話していた。そのため医学部に進学が決まったときには大喜びしてくれた。

 大学一年の夏休みはクラブの合宿の時期以外は自宅に戻り家の周りとかのメインテナンス、両親への手伝い、運転免許取得などで過ごしたが、祖母の様子には特に衰弱したような印象は受けなかった、8月下旬に新潟に戻ったが9月中旬頃、キヌが発熱等あり、盛岡の三女の家---夫が開業医---で療養しているとの連絡があり、更に10日ほど後には経過が思わしくなく、岩手医大内科に入院したこと、更に数日後には危篤状態に陥ったとの連絡が入り急ぎ帰郷した。高熱がありながら見舞客に細やかに心遣いするなど気丈な一面は最後まで持ち続けていたが、最後は昏睡状態に陥り9月27日早朝死去した。今から見ると尿路感染、菌交代現象のための真菌の感染症ではなかったかと推察する。

 造り酒屋「月の輪酒造」の娘として育ち、厳格であった祖父耕陽のもとに嫁ぎ、娘3人、息子6人の子供を育てあげた。私が幼少の頃は住み込みの看護婦さんとか、お手伝いさんとかで10数人が生活を共にしていたが、キヌは見事に全員を取り仕切っていた様に思う。祖父が死去した後、約10年我が家の環境は大きく変化したが、晩年まで財布のひもを握り、多くのことについて采配し続けた。しかし、長男の嫁である母ハナとの間では、厳しい嫁姑の関係を見せつけられたし、既に定年退職していた父耕栄すらもキヌの前では言いたいことを言えなかった様に記憶している。
 明治生まれの厳格・気丈な祖母キヌ、「おまえが医者になるのを見るまでは死なれない・・」と常々話していた通り、私が医学部に進学した年の初秋に死去した。多少なりとも安堵の気持を持って、少しは満足して逝ってくれただろうと思う。

祖母の死は丁度医進過程の前期試験の約一週前のことである。試験の前に集中的に頑張ろうと予定していただけに大幅に狂ってしまった。前日に新潟に戻り、全科目一夜漬け、半ば諦め気分で試験に臨んだ。やはり、十分には対応できなかったが、結果は何故か全科目通過していた。高校ならば半分以上の科目は赤点レベルであっただろうが、大学の採点とか判定はどうなっているんだ??と思う一方、幸運に喜んだものである。恐らく授業に出ているのが最も効率の高い方法だと考えて地道に出席していたのが結果的に良かったのだろうと思う。多分、10 x ルートX??ほどの下駄を履かせてくれたのではなかろうか。この式でやると36点を取れば60点になる。この換算式は何処で知ったか忘れたが、後に看護学校の試験の時に役に立った。
 同様に後期試験も無事通過して1年終了時には選択科目は全科目単位を取れた。結果的に再試験を受けずに通過出来たとはいえ、実質的には数学、物理などはよく解らず、ドイツ語、英語などと共に最後は破れかぶれ、何とかなるさ、と半ば開き直って受けた。当時のことは今でも時折夢を見る。それほど私にとっては負担だったと言うことだろう。

かくして私の医進過程の一年は終了したが、この間の私の記憶に最も鮮明に残っているのは入学後間もなくの5/30に行われた新潟大学医学部管弦楽団の第38回定期演奏会の模様である。難曲ベートーヴェンのVn協奏曲作品61を、私を指導してくれたコンサートマスターが独奏した。約2ヶ月間、この曲の練習を見学してこの曲の構築の見事さ、独奏パートの難解さを改めて知って、私の最も好きな協奏曲の一つとなった。

 演奏会は新潟地震の復興がまだ不十分で、従来管弦楽団が演奏会に用いていた新潟市の公会堂は使用不能であり、新潟日報社のホールで行われた。中規模のホールで椅子は数百席しか置けないような状態であったが、満席、立ち見もでた。開場は演奏前から熱気が感じられた。恐らく新潟市民も地震の後の音楽会を、例え大学オケの如くアマチュアであっても、求めていたのだろうと感じられた。
 演奏は細かなところでは軽いミスとかがあったり、独奏者のテンポがずんずんと速くなり、この日のコンサートマスターが時折ボディアクションで指示していたが、最後まで楽器を十分に鳴らし、大きな破綻なく見事に弾ききり、私は心から感服した。
 独奏した彼はこの曲のために昔習った師匠に定期的に習いに行ったと言う。協奏曲を全曲弾き通すことの大変さも理解できた。ただ、その夜の打ち上げコンパでOBの教授達を始め諸先輩方からかなり辛辣な批評があり、私はすっかり不快な気分でなった。この間、独奏した彼の様子を時折盗み見ていたが、彼は虚脱状態にあったのであろう、この間ずっとボーとしていたのがむしろ救いであった。

 今まで演奏会でこの曲を10数回は聴いている。レコード・CDなどで数百回・・いや、到底数え切れないが、聴く度にあの時の演奏会を、コンサートマスターを思い出す。彼は間もなく勉学にいそしむために・・・と言い残してオケを退団した。恐らく、一種の燃え尽き状態であっただろうし、打ち上げ会での諸先輩方の言葉も関連していたかもしれない。
 私も、ある時期にはVnを仕舞い込み、一切弾かなかった時期もあったが、楽器を再度手にし、後には私には分不相応な楽器に出会うなどのエピソードもあったが、今日の今日までまでそれなりに楽しむことが出来ているのは、指導してくれたコンマスのVnに対する真摯な姿勢、生き方であったような気がする。テクニックと等の指導は本当に短い間ではあったが、彼は今でも私を指導してくれているように思う。心から感謝している。
医進2年(1965〜71)(15)
時間的に余裕の出来た医進過程2年次 オケで初舞台を踏む
 1年次に医進課程で必要な単位の2/3ほどを取ったので4月からは授業に関しては実にゆったりとしたスケジュールとなった。更に2年次の講義の選択は4日間に集中する様に計画したので週の内、火曜日、木曜日は講義を入れない様に計画できた.その代わり他の曜日は土曜を除くと終日講義があった。
 時間的には余裕が生まれたのでひたすら楽器の練習と読書に集中した。

 昭和41年6月18日は医学部管弦楽団第39回定期演奏会で私の初舞台でもあった。開場は復旧した新潟市公会堂。曲目は 1)小林勝郎 弦楽のための2楽章 2)ベートヴェン交響曲第7番第二楽章 3)ロッシーニ「アルジェのイタリア女」序曲 4)モーツアルト ピアノ協奏曲第23番 5)ベートヴェン交響曲第1番 であった。1)2)は前年にお亡くなりになった部長の田中宏皮膚科教授追悼として演奏したものである。練習は前年の秋から始めていたが初心者の私が十分に弾けるはずはない。特にこの時の楽器配列は2)ベートヴェン交響曲第7番第二楽章のVn間の掛け合わせを引き立たせるために第一、第二Vnを対照に配列したので最も後席とはいえ客席に最も近いところであり強度に緊張し無我夢中であった。特にモーツアルト、ピアノ協奏曲第23番では難しい上に速く、出来る所だけ時々音を出したような気がする。だからこの曲を聴くたびに、---実は今もバレンボイムの名演奏を聴きながら書いているのだが---あの時のことが思い出されて、恥ずかしい思いに駆られる。それでも自分の出す音がうまくハモった時の感覚は何とも言われない心地の良いものであった。2)-  5)は私の思い出の曲となっている。

時間的に余裕の出来た医進過程2年次 本と格闘
 時間的に余裕が出来たが、日祭日、授業のない日も生活そのものは流されることなく規則正しく過ごした。朝は6:30頃に同室の寮生の睡眠を乱さぬように静かに起床、朝食を摂り、机に向かう様にした。
 寮生活は何かと喧噪で、寮内の行事も少なくはなく、寮生間の個人的つき合いも適宜・・と言うか私にとっては予想外に沢山あり、何時人が訪ねて来るか解らないような不安定な状況、やりたいことも出来ないこともままあった。

 寮生活は全体的に見れば夜型である。そのために早朝はことのほか静か。誰にも邪魔されることなく自分の時間を確保出来るとすれば早朝しかなかった。ウイークデイは起床している寮生が居たとしても多くは講義にでるためであり、休日は10:00-11:00頃までは静かな時間をほぼ一人で過ごすことが出来た。この時間を無為に過ごすことはない、と言うことで朝型生活をずっと守り続けたことが、いろいろと制約があって時には煩わしいと思うこともあった寮生活を6年間も続けられた最大のルーツであった。勿論、私にとっては経済的なメリットはそれ以上の価値があったから、如何に煩わしいからと言って寮を出ることなどは考えられなかったのも事実ではある。それと次年度には郊外に寮が新築され引っ越すことが決まっていたのも楽しみの一つであった。

 医進2年目の生活の中で集中したのは岩波文庫100冊の本読破への挑戦である。前年から始めていたがこの年は時間的にさらに集中出来た。新潟市内の数軒の古本屋に通い詰め目的の本を殆どを購入することが出来た。実際的には80冊くらいまで進んだところで時間切れとなって頓挫したが良くまあ読み切った物だと自分でも感心し、満足した。これだけ本を読んだことが自分にとって何であったのか、全く解らないが、目標を立てたことをほぼやりきったこと、そのことだけは自分にとっての自信の一つになっている。
 再び時間がとれる機会が訪れることがあれば、もう一度読んでみたい本は少なくない。これは私の夢の一つである。
新六花寮の規約づくりを担当
 昭和40年の秋、か41年の春であったか忘れたが、西大畑にあった、元旧制新潟高校の木造の寮、天井が垂れ下がり、幽霊屋敷の如くであった六花寮は新潟市関屋地区に新築された新寮に移転した。鉄筋コンクリート造り4階建て。定員400名超の大きな寮である。事務室、食道を挟んでA棟、B棟に大きく別れていたが造りは極めて単純、廊下を挟んで
2段ベットが並ぶ2人と4人部屋があり、畳敷きの談話室があるだけ。当然トイレは水洗。旧寮に比較すれば驚くほどの良い居住環境となった。

 私が寮生だった60年代後半は、全国的に学生運動で大きく揺れていた時期であり、新大でも69年にキャンパス統合移転問題で学園紛争が起きた。学長辞任や移転計画の白紙撤回、試験のボイコットや入学式中止、ストや校舎の封鎖で授業のない時期もあった。 学内や寮でも集会が開かれた。寮も学生運動とは無関係ではいられなかった。医学部ではインターン闘争、卒後研修問題でもめており、私のようにノンポリで距離を置いていた学生も多かったが、時代の空気は強く感じられていた。

新六花寮は多分3つほどの学生寮が合併した様に記憶する。そのために新寮規約を作る必要が生じ私がその委員長を押しつけられた。基本的には最も寮生数の多かった六花寮の規約を元に作成したが、各々がそれなりに伝統?のある寮であったのが新六花寮として統一されたことで、名前が残らない寮出身者は何かにつけて要求が厳しく、調整は難航したが3ヶ月ほどかけて何とか作成することが出来た。何かと強者の多かった寮生の中で私はひっそりと目立たぬ様に暮らしていたが、この規約作成の課程の調整役や最終的承認のための全寮制大会で交わされた激しい質疑の応酬等を通じて、多くの寮生に知られることとなり、その後の寮生活は大きなトラブルも生じずとても生活しやすくなったと言える。経済的な問題があくまでも主であることには変わりなかったが、6年間も寮生活を続けることが出来た一つの因子となった。

 写真は1968年2月頃の卒業生を中心とした記念写真。食堂の屋根とA棟の一部が見える。当時の寮生は殆どどてら姿であった。


学納金18000円で卒業、を目標にした。一方、不用意に浪費して赤貧の生活も
 入学時に半年分の授業料6000円を含めて18000円ほど納入したが、教務の掲示板には授業料減免のお知らせが張り出されていた。条件は、ある程度の学業成績と生活の困窮度となっていた。既に父親は定年退職して現金収入が少なくなっていた上、寮生活であったので後者の条件は何とかなる、前者さえクリアすれば良い考え、授業は真面目に出席して申請を出し続けることとした。
 結果的には、恐らく一回ほど申請が却下されたことがあったような気がするが、大体授業一年分で卒業出来た。当時の授業料は2-3年ごとに改訂されていったが、在校生は値上げされず入学時のままで、私の場合には年間12000円であった。一人の医師を育て上げるのに当時でも2000万円ほどの税金が遣われると言われていただけ、感謝感謝である。何らかの形で社会に還元しなければなるまいといつも思っている。

 我が家では古くから富士銀行を利用していた。私も子供の頃から祖母さんなどに連れられて出入りしてたし、年長になってからは私が代わって利用していたので親しみやすい銀行であったから大学の時も古町通の富士銀行の新潟支店を利用していた。古いたたずまいは盛岡支店とほぼ共通しておりこれもまた良かった。
 医進2年の秋頃のある月に生活費を降ろしてから、近くのパチンコ店「白鳥」に寄ったところ何故か大勝ちしてしまい、1万円ほどの卸したばかりのお金が当面は不要になった。古い本の間に挟んで置いたのだが、このことを何故かすっかり失念してた。数ヶ月後に寮の友人達数人と話し込んでいる時に何かの拍子に本の間にこのお金を発見、古本に挟まった誰かのへそくり??と、すっかり得した気分になり、その場の舞い上がった雰囲気でみんなで近くの寿司屋に繰り出し、一気に飲み食いで遣ってしまった。実際にはその時のお金が自分のものであったことに気づいたのは、たまたま通帳をチェックしていたときで自分のバカさかげんに呆れると共に、予定にない出費をつくってしまったため、それからの数ヶ月はかなりひどい生活が強いられた。
自伝 ★大学時代U★へつづく






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