0歳〜小学校まで(1945〜52)



虚弱児
 昭和20年5月14日、母にとってはかなりの難産であったらしいが岩手県紫波郡乙部村乙部(昭和30年頃、町村合併にて都南村乙部に、再度合併し現在は盛岡市乙部)にて生まれる。体重は600匁(2100gほどか)で、今としては問題ないが、当時としては育たないことのほうが多いとされる程度の未熟児であった.祖父が金魚の水槽を利用して保温器様のものを作り、白熱電球で暖め、空襲の時は防空壕の中で湯たんぽで暖めたという。
 母乳の出も悪く、戦時中だったので代わりになるものとて手に入れがたく、米の粉を炊き、その上澄みを少ない母乳の代わりにしたという。

 9月、盛岡の叔母が里帰り出産とやらで男の子を産んだ.私よりは遅く生まれたのに間もなく私より大きく成長し、哺乳力も強く、鳴き声も大きく、二人並べて見ては、誰しもが弱々しい私はうまく育たないかもしれないと思っていたらしい.私は、もし、医師の家庭で生まれていなかったなら、おそらくは駄目だったろう、と中学生頃までいつも言われながら育った.


舞鶴の従兄弟が水死
 三歳の時、同じ年の従兄弟が舞鶴の浜で水遊び中に水死した。やはり、本当であったのか?? 勿論、私の記憶にはない事柄である.



鼻を切る
 私は小さい頃からお茶好きだったらしい。三-四歳の時のある日、歩きながらお茶を飲んでいて座布団につまずいて転倒、茶碗で鼻を切断、という大怪我をした。鼻尖部が皮膚一枚で顔とつながっていたとのこと.祖父が上手く縫い合わせたらしい.いまでも鼻には大きな傷跡がうっすらとであるが残っている.もし鼻がなかったら、または変形してついていたら如何に辛かったことだろう。
か細い命をつないでくれたこと、鼻の治療のことも含めて祖父にはとても感謝仕切れない. 


小学校時代(1952〜58)


入学
 4月1日、乙部小学校に入学した.入学式には母が出席してくれたが、とても寒く、小雪が舞っていたことを想い出す.小学校は自宅の隣である.檜葉の生け垣の隙間をくぐると直ぐに校庭に出た.同級生は28人、男女14人ずつ。当時としては最も生徒数の少ないクラスであった。



自宅が火災にあい消失
 小学校に入学して間もなくで、未だ毎日が緊張感で一杯であった4月10日の正午頃、風速10mほどの強風の中、近所
の農家のお爺さんが田植えの時に用いる籾殻焼きを強行した.火がついた籾殻が風に飛ばされて自分の家の藁葺き屋根に燃え移り、それがもとで我が家を含めて11軒が全焼した。 

 火事そのもの恐ろしさ、数週後の火元のお爺さんの風呂場での入水自殺、長い間関係者に残る心の傷(PTSD)、悲惨さを身をもって体験する。道路脇に並んで建っていた民家が集中して焼けたが、100m以上も離れてポツンと建っていた一軒家にも類焼が及んだのには今でも驚いている.それだけ強風であり、乾燥していたためであろう.

 丁度昼食時であり、後で食べようと大きな卵焼きを脇によせておいたが、食べないまま避難したことが心残りであった。祖父から麻薬の入った手提げ金庫を託され、背負って安全なところまで避難し、その金庫の上に座って家が焼け落ちる過程をずっと見ていた。自分で出来る範囲で責を果たしたと言う満足感があった。

 翌日からまだ熱い焼け跡を整理し始めた。数日たってもなかなか冷えないものだ。焼けただれた物品が次々と出てきたが、一月前に仕舞ったばかりの雛の陶器製の頭部を10数個回収したが、年季の入った見事な品であっただけに、変わり果てた姿に涙したことを思い出した。
 
 今でも私は「火事」と「卵焼き」「麻薬」には異常反応を示す。特に「火の始末」には異常に執拗で、時には家族や手伝いのおばさんと意見が合わないこともある。薪や炭と異なり一瞬に消火できる器具の時代でさえ、である。



新築
 
火災の後一ヶ月ほど親戚の歯科医師宅の2階で生活した。5月末には仮住まい用の住宅兼診療所が完成し引っ越した。この住宅で私は小学校3年生の頃から一人で暮らすことになる。母屋は9月、寒くなりかけていた時期に完成した。
 5月から9月までの数ヶ月、私の遊び場は家の新築現場であった。当時は柱とかは全部現場で切断し、削り、穴を開けるなど全行程をその場で行い仕上げていった工法なのでその過程をつぶさに見ることが出来たし,廃材をもらって自分も船とか刀とか、いろいろなものを作って遊んだ。若い大工が暇を見ては手伝ってくれたので結構良いものが出来た。私は今でも木工品が好きだし自作もかなりできる。この時の影響である。



虚弱で何度か死にかける。臨死体験?

 小学校入学後も相変わらずやせ形で、虚弱児であった。特に気道系が弱く、小児喘息でいつも咳をしていたし加えて胃腸系も弱かった。正月は子供にとっては楽しい時期であるが、殆ど健常な状態で迎えたという記憶はない。当時、抗生物質などは数種しかなかった時代で使用も超慎重であったが、最終的にはクロラムフェニコール(クロロマイセチン・三共)のお世話になった。何故かいつもこれを服用すると不思議なほど病気が軽快した.私にとっては貴重な、貴重な薬品であり、祖父がなかなか処方してくれなかったときには夜中に診療所に忍び込んで薬棚からくすねてこっそり飲んだりしたこともある。

 小学3年の頃、高熱が長期間持続し、脱水から全身状態も悪化したことがあり、そのときは祖父も遂に諦めたらしく、お手伝いさんの一人を津軽のどこかに派遣して「いたこ」を通じて祈祷した事がある。そのとき「いたこ」のお告げは「今月の30日には床離れが出来る」と言うことで、遣いのお手伝いさんは喜々として帰ってきたとのことである.「いたこ」がくれたという何かをしみ込ませた3cm四方ほどの紙を茶碗に浮かし、湯冷ましを注いで毎日飲まされた。不思議なことに、徐々に軽快し、お告げから数日ほど遅れたものの起きて暮らせるようになった.

 その時の病気の状態は覚えていないが、いわゆる臨死体験した方々が例外なく話す「自分自身が身体から離れて、黄色い花が一面に咲いているお花畑に迷い込んだ」という経験をした。このことはなぜか今でもほぼ覚えている



自分が外から抜け出した。不思議な体験は、単なる夢なのだろうか?
 気がついたら、自分自身が身体から離れて何故か高いところから自分を見つめていた。ぐったりと無表情で顔色の悪い、いかにも腺病質様な自分が布団を厚くかぶって寝ている。周囲には家族達が数人居たが、具体的に誰が居たのか、その人達の表情とかは全く覚えていない。ただ、静かな、凍り付いたような動きのない、灰色の情景であった。
 次の場面は、突然、小学校の校門の前にいた自分である。きちんと足がついていて歩いて行ったようだが、動きは軽く、すごく楽に動き回ることが出来た。自分が通学している小学校であるが、いつもと様相は全く異なり校庭は一面黄色のお花畑になっていた。全く隙間無く、びっしりと生えている不思議な光景でにすっかり変わっている。花は菊のように見えたが、コスモスみたいな花のようにも思えた。一つ一つの花のことは良く解らない。鮮やかな、明るくい黄色で場面全体がとても明るかった。

一体どうしたのだろうか?と思い、しばらく校門から中を覗いていたが、門をくぐって校庭に入ろうとしたがどうしても足が前に進まない。とても足が重くどうしても前に進むことが出来なかった。何度も何度も試みてもどうしても進まない。そうこうしているうちに遠くからかすかに母親が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。振り返っても母の姿はなくどこから呼ばれているのか解らない。随分遠いところからの声のように聞こえた。「まずい所を見つかってしまった?見つからないうちに帰らねば・・・」と、来た方向に向かって歩き始めたら全く問題なく歩けた。数歩歩いただけで突然場面は自分が寝ていた部屋にうつった。今度の場面は薄茶色に着色されていた。側にいる家族達は前の場面と異なり落ち着きの無い様相で動き回っているが、その顔はのっぺらぼうで誰なのか特定できない状況である。自分が居なくなったことでみんなが動き回っているように感じられ、すごく悪いことをしたような気がしてしばらく自分の傍らに立っていたが、いつしか体の中に戻ったようである・・・・・・終わり。

 これが、そのときの体験の概要であるが、実際何なのか解らない、時に臨死体験されたと言う方々の体験記などを見ることが出来るが、不思議なことにみんな似通っている。私は、一定の条件下で見る夢のようなものでないかと考えている。
 


小一の秋の密談.兄から長男としての権利と義務の委譲を受ける
 私には11歳ちがいの兄がいる.名前は正明、昭和9年生まれ.祖父は長男(私どもの父)が医師の学校に入りながら挫折したことから孫の正明が医師になり家業を継ぐことに大きな期待をいだいていた.正明もその意向を受けその気になって準備していたようであった.
 昭和27年4月に我が家が火災にあったが、この年、正明は岩手高校2年生在学中で翌年の東北大学医学部の受験に向けて盛岡の親戚宅に下宿しながら受験準備中であった.火災にあって殆ど丸焼け同然になった事で、既に70歳を迎えていた祖父は将来を嘆き、正明に対し自由な道に進んで良いとの許可を与えたらしい.

 消失した自宅も立派に完成し、全てがやっと一段落したある夜、久々に盛岡から帰宅した正明は私を一室に呼んだ。具体的な言葉一つ一つは忘れたが、「自分は祖父から許可が出たので医学部に行かず好きな工学部に進む.父からも了解を得ている.自分は長男としてのすべての権利をおまえに委譲する.今後はお前が長男の立場で親をみて、出来ることなら医師になって家業を継いで欲しい」、と言う意味のことを述べた.

 当時、長男は次男などとは比較にならないほどの破格な扱いを受けていたし、完成したばかりの家もくれるという、それに両親と共にここに何時までもいられる、・・これらの条件は年端の行かない僅か小学校一年の私にとってとって何ら問題のない魅力的な話であり、私は二つ返事で了承した.その日の情景はいまでもはっきり記憶にある。

 祖父母、両親も健在の状態では長男としての権利と義務を委譲受けたからと言って、具体的には何が変わるわけではないが、私が高校生、大学生になった頃から徐々にいろいろな負荷がかかってくることとなる.


 少しずつ負荷を感じ始めたのは高校生の頃からで、まず、私が中学3年の時に父親が何ら前触れもなく役場を辞めてきたことで大きなショックを受けた。定年まで数年を残していた。当時公務員の定年は55歳で、確か2-3年は残っていたと思う。村の収入役とか助役を務めた経歴がむしろ仇となって歴代の村長とはそりが合わなかったらしく勤務自体がかなりストレスになっていたらしいこと、更に合併で村が大きくなり人間関係も複雑になっていたらしいことなど、日常から雰囲気で感じていたのでやむを得ないかと納得は出来た。
 多少の退職金とか恩給の支給があったので生活上の勝算は父親なりにあったと思うが、実際にこれから高校進学、大学を経て医師になろうとしていた私にとっては極端に道が狭まってしまった?そのころは大学医学部の実情などは良く解らなかったが祖父の薦めもあって、また両親も年老いていくために近辺にいる方が望ましかろうと岩手医大への進学も視野に入れていたからである。それが、少なくとも国公立大学以外は考えられなくなった。
 結果的に、運良く新潟大学に入学できたが、そのころは両親の体調、特に母親の体調が優れず徐々に家の外回りの維持や買い物などが苦痛になり始めていた様子が見られた。その為に数日間であっても大学の休み期間には直ぐに帰省し家の手伝いをしていた.夏期冬期休暇にも殆ど自宅で過ごし、それなりの孝行息子を演じていたし、これも私の義務と思っていた.

 家族間に置いては私と兄の立場が変わったことは、古い考えの母を除けば比較的容易に受け止められたが、親戚の方々にはなかなか通用しなかった.長男の立場を放棄して家を出たにもかかわらず、彼は何時までも我が家の長男であり、私は影の薄い次男坊であり自尊心をいたく傷つけられた.当時の世代にとってはやはり「家」「長男」は特別の存在であったと言うことである.




祖父耕陽の想い出
 明治18年生まれの厳格・謹厳そのものの人であった。若いときの頃の話は殆ど記憶にはない。東北大医専出身とのこと。専門は産婦人科であったという。一時、花巻市で開業したらしいが、望まれて出身地近くの乙部地区に居を構え再度の開業をしたらしい。母ハナも花巻出身なので、この開業が因となって嫁いでくることになったのだろうか。

 いかに厳格・謹厳そのものであったかと言うことについては、父親である耕栄達の兄弟6人が集まればその度に、日常如何に恐ろしい思いをしていたのかと言うエピソードを毎回毎回懐かしんでるのをよく聞かされたものである。私にとって恐ろしい思い出はそれほど多くはないが、何かの折りに、光も暖房もない蔵に丸一日閉じこめられたこと、日本刀を抜いて追いかけられたときのことははっきりと覚えている。前者の場合、破れかぶれの気持ちで米びつの米を全部床に撒き散らすなどありったけの悪さをして反抗した。更に激しくとがめられるかと思ったが何故か不問であった。後者ではイナゴを採ってくる約束を忘れて遊びほけ、帰宅したところ罵声と共に日本刀を片手に祖父が飛び出してきたので頭の毛が弥立つほどの恐ろしさを味わった。一目散に逃げたが、その時はどのようにして許されたのか覚えていない。


 私にとっての祖父は生後間もなくから、幼少時の鼻の外傷の治療、小学の頃の病気などで大恩がある。医師である祖父の手にかからなければわたし自身が生き得なかったと思う。往診はより若い頃は大型バイクのインディアン、馬等でこなしていたが、晩年は近所のオート三輪を雇って幌付きの荷台に載って、冬場には馬そりに乗ってこなしていた。私は頻回に夜間の往診に連れて行かれたが、当時の患家の様子や亡くなる方の様子は深く脳裏に染みついていった。今の私の医療観のルーツになっている事を日々自覚している。
 
 経済的にも豊かであったために趣味も多かった。謡曲を好み朝5時頃から座敷に正座して連日30分ほど。時に呼ばれて強制的に聴かされたが、正座しての付き合いは実に辛いものであった。囲碁もいっぱしの腕前らしく週に何人かと対戦を楽しんでいた。音楽にも趣味が広く、ゼンマイ式の蓄音機、管球式の蓄音機、SPレコード等が沢山あった。これらは私の小学校時代の遊び道具であった。大型バイクのインディアンも趣味の一つだったらしい。これらは殆ど今の私の生活の一部になっている事柄そのものである。成長過程で受けた種々の影響は忘れられることなく成長してから自然と追い求めるものの様である。その意味では、単にDNAを受け継いだだけでなく、祖父は今わたしの中で脈々と生き続けている。

 わたしが小学5年の秋、鬱血性心不全で死去した。享年73歳であった。


在りし日の福田耕陽












ネコが引っ越してきた.
私が小学一年になったばかりの4月に火災に遭い、殆どを消失したが家の新築も終わり落ち着き始めた秋のある日、50
mほど離れた同級生の家に遊びに行ったら縁側に小さなネコが陽だまりを楽しんでいた.可愛い!!、抱き寄せても怖がらない.実に愛らしい子ネコであった.やっと足腰もしっかりしたばかりのように見えた.聞くところ2ヶ月ほど前に親戚で生まれたのを貰ってきたのだそうだ.

 あまりにも可愛く愛嬌もあり,私は一目で気に入ってしまった.両親とか祖父母に見せたくて家人に断って抱っこしたまま家につれて帰ったが,家族は何故かあまり喜ばなかったしほめなかった.家が新しいことも理由の一つかもしれない.縁側で日向ぼっこさせながらあやしたり,煮干しを砕いて与えたりしてから返しに行った.私は毎日放課後にはそのネコを目的に友人宅を訪れた.
 数日後,多分休日だったろうが,庭で冬用の薪を割っていたところ,側で「ニャー」と鳴き声とともにネコがこちらに近づいてきた.私を目当てに道路をわたり,小橋を渡り遊びに来たのだろう.この日を機会にネコは飼い主の家と我が家を毎日往復することになり最初は外とか縁側とかであったが,次第に私の側で過ごす時間が増え,台所や居間まで上がってくるようになり,当初喜ばなかった家族も次第に受け入れるようになった.
 
 飼い主の方でもあきれていたが聞いてみたら,飼うのを許してくれたので家族の許可を取ったがそのときの条件は,

○ 台所,居間より奥には入れない
○ 生まれるだろう子猫は自分で処分すること

の2点であった.それでも許され名実共に我が家のネコになった.
ネコといえども義理は欠かない様である.前の飼い主の家で新しくネコを飼うまでの間二年間ほどは毎日訪れていたという.



虫垂炎.腹痛を誰にも言わず冷やし続けた
 小学校4年の9月のある日、徐々に右下腹痛、吐き気が生じて発熱してきた。いつもと変わらない振りして風邪を引いたとごまかしてネコと離れで休んでいたが、いつもとは痛みの様子や他の症状が異なる。もしかしたら祖父さん達がしょっちゅう話していた盲腸炎かもしれない・・、だとすれば手術??怖い!!!何か方法はないか・・・。

 そうだ、冷やして散らす方法があるらしいことも話題になっていた。台所の冷蔵庫には氷があるからあれで冷やしてみよう、と家人に隠れて冷蔵庫(当時は冬季に保存していた氷を使ってい冷やしていた.今の冷蔵庫の冷凍庫の部分に30cm x 30cm x 40cmほどの氷の固まりを入れていた.氷は徐々に溶けるが数日は持った)から氷を砕いては氷嚢に入れて右下腹部に当てていた.十分に冷えると確かに痛みは和らぐ.実際には歩くにも大変だったが,家族と離れてネコと離れ暮らしだったから何とか家族の前を取り繕っていた.耐え難いほどの痛みは二日間ほどで嘘のように消失,発熱も改善,歩くにもそれほど痛みを感じなくなった.今思えば,この時に虫垂膿瘍が腹腔内に穿破したのだと思う.

 痛みが和らいだので一人でやった!!と思っていたがそれも丸一日ほど,徐々に右下腹部に固まりが出来はじめた.最初はピンポン玉程度,徐々に大きくなって2-3日後にはお椀を伏せたような半球形に成長し再び発熱と疼痛が出てきた.それでも疼痛は初期のに比べると楽であった.そうこうしているうちに「何だかおまえの様子がここ2-3日変だ」と言って昼頃祖父に呼ばれて裸にされた.直ぐに腫瘤が発見され,事の顛末を事細やかに聞かれ,触診を受けた.腫瘤をふれて祖父の表情は一瞬に曇り,直ぐに盛岡市に開業している末娘の夫に電話し,外科医院に入院の手続きをとった.近所からオート三輪を雇いその荷台に布団を敷いて入院のために盛岡に向かった.
 
 その日の夕方,開腹手術を受けた.あらかじめ連絡がいっていたので入院後の動きは迅速であった。たいして生えても居ないのに美人の看護婦さんが丁寧に剃毛してくれ、到着後2時間ほどで手術が始まった。間を取り持ってくれた内科医の叔父も来てくれている。ここの外科医とは懇意の仲なのだそうだ。
 私は祖父に見つかった後の展開から、事の重大さにおののき、もうどうにでもなれ・・との気持ちであった様に思う。腰椎麻酔を打たれ足先から自分の足でないような、何とも言われない感覚あり、何度か皮膚をつねられ痛くないか?と問われた。その他執刀医はいろいろ聞いてくるが受け答えをしているうちに下腹部に異様な痛みを感じた。恐怖感を和らげるために話しかけていたのだろうが実際には手術が始まっていたらしい。ほぼ同時に吸引ポンプの音がし始めた。大量の膿が排除されていたらしい。
 術中に交わされた二人の医師の会話には意味不明な部分が多かったがおぼろげに解ったことは、

*膿が大量、牛乳瓶の2/3程度。
*切開を広げても局所の状況はわからないほど癒着がひどい。
*虫垂等は見つからない、
*排膿以外の処置は不可能、
*傷は一部閉じないままにしてこのまま終了。
*経過によっては再手術・・・であった。

 とにかく手術は終わった。何だ、手術ってこんなものか、こんな程度だったら何も怖がって隠すことはなかった、無駄なことした・・と感じた。腰椎麻酔の効果が薄れてきたのだろう、下半身が異様にだるく不快であったが付き添いのために着いてきたお手伝いさんがマッサージをしてくれた。夜半に傷が痛み、何かの注射が2-3回あってとろとろとまどろみながら朝を迎え、周りが明るくなり始めたころから熟睡した。

 何だ、手術ってこんな程度だったのか・・の気持ちは翌日午後からの回診で完全に吹き飛んだ。
回診の時、医師は例の美人の看護婦さんを伴って回ってきたが、小さな救急箱程度の箱を持ってきただけだったので、たいした処置もないだろうと安心した。術後の下腹を初めて見たが、傷の上にガーゼが数cmほどと厚く盛り上げてあり、その上に茶色の油紙で覆っていた。テープとガーゼが次々と剥がされたが、傷に近づくにつれガーゼは膿と血液で黄褐色に、ベトベトに汚染されていた。傷があらわになったが、傷の長さは6-7cm、新旧の出血で一部赤く、一部黒く、さらに膿の黄色とで薄汚く汚れ、鉛筆程度の太さの黄色のゴムチューブが2本、2cmほど顔を出しており、側に黄色に染まったガーゼの角も見えていた。全体で4-5針の縫合かと思われたが、ガーゼが見えている傷の中央部は何故か縫われておらず傷が少し口を開けていた。

 看護婦によって傷の周囲がきれいに拭かれ、生々しい切開創を見ることが出来た。「フーン、なかなか綺麗なものじゃないか」と感心した。医師は箱から10cmほどの細いゴムチューブのついた注射器を取り出し傷口のゴムチューブに差し込み膿を吸い出した。全部で20mlほども吸引されたであろうか。ついでマーキュロと思われる真っ赤な液体をチューブから注いでは吸引する処置を数回繰り返した。
 次に医師は傷から頭を出しているガーゼをピンセットでつまみ少しずつ引っ張った。ここまでの処置は全く痛みを感じなかったので安心して次に何が起こるのかと興味を持ってみていた。が、ガーゼが引かれ始めると途端に激痛が身体を貫いた。

全部で傷から4枚のガーゼが引き出されたが、奥に詰められたガーゼほど引き出すときの疼痛もひどくなる。創部にべっとりとへばりついたのを無理無理剥がすのだから痛いのは当然である。疼痛もひどくなると局所ばかりでなく頭のてっぺんにまで貫く事を知った。
 このような処置が1週間ほど続き、そのたびごとに激痛に悩まされたが、創部のチューブからの膿の量も減りチューブは抜かれた。この時も激痛の恐怖におののいたが、抜去時に痛みは一切無く拍子抜けした。ゴムであり傷と癒着しないから今から見れば当然である。その後、詰められるガーゼも一枚一枚と減り、処置時の疼痛も少なくなってきた。肉芽組織が上がってきたからであろう。最後の一週間は消毒後傷をガーゼで覆うだけで、この間に創部ははカサブタが形成され、術後約一ヶ月の経過で退院できた。退院時、医師から再手術が必要であることを聞き、がっくりして帰路についた。
 術後の約一週間は傷の痛みもあり、医師から許可もなかったので完全に臥床して過ごしたが、許可があってベット上に起きあがったとき、激しいめまい感と不快感があった。これは起きあがるごとに軽くなっていった。自律神経系の調節機構はこの程度の臥床でも強く生じる事を知った。
 再手術の可能性は常に頭から離れなかったが、退院後の体調は良く、月に一度ほど盛岡の医院に通院し経過観察を受けたが、幸いその機会はなかった。しかし、その後10数年間は長時間の立位時などには右下腹の疼痛に悩まされ続けた。
 術後数年間は平穏無事であったが、中学2年頃後には創部に縫合糸が顔を出し膿瘍を形成した。この時には表皮近くの縫合糸であろうと気楽に考えていたが、実際は10cmほどの長さであり、これの抜去時には術後処置時の激痛に準じた痛みが一瞬再現された。
 医師として岩手県立宮古病院に赴任し数ヶ月後に数日間創部近傍に疼痛があり、大事に至るかとも思ったが、結果的には数日間で快方に向かい事なきを得た。今年夏(2002年)には左下腹部痛のために大腸内視鏡を受けたが、回盲部に変形はなく、粘膜面も綺麗であり安堵した。

 虫垂炎と腹腔内膿瘍に関するこの一連の経験は私の臆病さから端を発したものであり、ずいぶん回り道をして不要な経験をする羽目になった。術後の経過は総じて良好と言うべきであろうし、10数年にわたって後遺症?にも悩まされたが、医師として患者を診ていく上でむしろあって良かった経験と思っている。



小学校卒業
 虫垂炎・腹腔内膿瘍の手術後、徐々に丈夫になったらしく、その後の健康状態については殆ど記憶はない。この頃から伝書鳩を飼い、高校卒業までの8年間ほど鳩に異常に熱中した(ある鳩の思い出)。
 小学校の卒業の時期を迎えたが、中学は地元の乙部中学校ではなく兄と同じく盛岡市にある私立岩手中学校に進学する方向となり、受験勉強なるものを始めることになったが、このころは特に努力しなくても教科の理解に困ったことが無く、不合格になる可能性はないと考えて特別に勉強をしたという記憶はない。6年生の2月頃初めて入学試験なるものを受けたが、他の受験生は殆どが担任教師が付き添ってきており、みんな優秀そうに見え、私は異様なほどの劣等感、緊張感を感じた。今からみれば別に問題にすべきほどのものではなかったが、市内や県内各地から集まってきた同じ歳の子供達はより優秀そうで、洗練された印象をもった。今の子供達とは異なり、当時の田舎育ちは真に田舎育ちそのもので世間知らずだったと思う。本来なら小学生に受験なんてさせるべきではない、と今でも思う。

 3月末の卒業式では小人数の学校であったから全員が直接校長から卒業証書を受け取ったが、私は総代として最初に壇上でにあがる栄誉(?なんてものでは無いが)を受けた。最初だから以下同文・・でなく、証書の全文が校長によって読み上げられた。そのときの校長は一人一人の卒業証書に贈る言葉を用意してくれたが、私だけが出席者の前で読み上げられてしまった。それには「・・・・であるが、貴君は字をもっときれいに書くように努めなければならない」と一言付け
加えられ、多感な私は恥ずかしい思いをした。今でも字を書くごとにこの時の思い出が頭をよぎる。

 子供の時の思い出は本当に生涯にわたって忘れられる事が無いものだとつくづく思う。
振り返ってみれば小学卒業まで大勢の家族の中で、自然の中でのびのびと走り回り、動物たちと過ごし、たまには勉強し、本もたくさん読めたし・・・、とても良かった、と思うが、我が家の子供達を含め、最近の子供達の育つ過程は本当にそれに相応しいものなのか?と常々考えてしまう。
(第二部 完)

自伝 ★中学時代★へつづく



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