中学校時代(1958〜61)

最初の挫折はバス通学
 盛岡の岩手中学校は兄も6年間通学した私立の中高一貫校で男子校ある。盛岡市のやや北側にあり、我が家から約17Km。私は体力がないためにバス通学以外は考えず、定期券を3ヶ月分購入した。当時の定期券は長期間購入すると割引率がとても大きかったから当然でもあった。
 朝のバス時間は7:00と早い。6:00には起床する必要があった。ところが通学を始めて間もなく2、3の点でバス通学は自分にとってとても耐え難いものであることが解った。
 一つは超混雑、天候でも悪いときには定員の2-3倍は乗せようと言うもので、毎日がJ R山手線並みの混みようであった。
 もう一つが車内の学生と言えば殆どが女子高校生ばかり。女子学生の間に挟まって身体を密着させてのバス通学は大変なストレスとなった。何しろ当時の私は、今から見れば、井の中の蛙で自意識過剰、とてもは恥ずかしがり屋で同年代の女子には緊張してまともに話しかけられないほどの純情さを持っていた(!!)からである。今の自分からとても信じられないが、病的なほどであった。
 更に、もう一つ。バスで立った状態で揺られると必ず右側腹部痛が生じたことである。恐らく手術の際の癒着が原因であ?だろうと思う。当時は道路は舗装などされておらず砂利道でかなり揺れた。そのために走行中は常につま先立ちで揺れによるショックを和らげる必要があった。バス通学がストレスになったと言えどもそう簡単には方向転換は出来ない。3ヶ月間はひたすら忍耐の日々であった。



英語教師に平手打ちを食らう
 入学間もないころ、疲れ果てていたこともあろう、英語の時間にうっかり欠伸したところ若い教師と目がバッチリ合ってしまった。席は一番後列であったが教師は私に立つように命じ、つかつかと寄ってきて何も言わずに思い切り右頬を平手打ちした。彼の表情から何かはあるな、と予想してはいたが、とっさに避けようとした私の動きに教師の平手打ちの力も加わって反対側の頭部を激しく木製の扉に撃ちつけた。要するに2倍痛かった。 
 そのとき迄、私自身は親からですら直接殴られた経験はなく大きなショックを受けた。確かに授業中に欠伸をした私は悪かったと思うが、何故あれほど殴られなければならなかったのか、自分では未だに解らない。恐らく、他のことでたまたま英語教師の虫の居場所が悪かったのであろう。この時の出来事も一つの因子となり、2年後私はこの中学を中退することになる。その間の2年間はこの教師の授業があったが、教師と一度も目を合わせることなく徹底して無視し続けた。一方、この教師を見返すために成績を上げることが一番と考え、英語は特に力を入れて勉強したために常に成績は良かった。そのために教師の方からいろいろ話しかけられたが、常に最小限の返答のみで済まし続けた。教師にとってもかなりストレスであったらしい事は後に担任から聞かされ、私は溜飲を下げた。

 私の執念深さは既にこの時期には出来上がっていたらしい



第二の挫折「正明の弟」
この岩手中学は中高一貫の私立校である。11歳違いの兄も同校で学んだが、そのことが終始私を悩まし続けた。同校は県内各地からは地元の中学では飽き足らないと考える、それなりの学生が集まっていたが、盛岡市内からは逆の立場で高校入試を受けなくとも良い学校としてとらえられ、そういった目的の学生が進学して来ていた。従って学生の質、学力もピンからキリまでで、全体的に見ればグレードとしてはそれほど高いものではなく、私にとっては必ずしも満足すべきものでなかった。

 創立何年の歴史があったのなどは忘れたが、創立以来進学の面ではたいした成果をあげていないが、7-8年前、同校は記念すべき年を迎えた。東京大学、東北大学に各1名ずつ現役で送り出したのである。しかし、その後は続く学生は現れず、またばったりと途絶えていた。その記念すべき年の事は同校の到達目標として、ことあるごとくに書かれ、語られ、聞かされた。その時、東北大学に進んだのが兄の正明であった。

 私立学校は教師のタンオーバーもほとんど無い。従って兄正明を教えた教師達の大部分は残っており、兄を直接教えた教師達にとっては私は「福田光之」ではなく、あくまでも「福田正明の弟」であった。私が授業中に平手打ちをくらった英語教師はより若い世代である。入学して数日後、私一人だけが何故か教頭室に呼ばれた。そこで話されたのは、「正明の弟」として「学校では君に大きく期待している、・・・」と言うことであった。その時点では田舎から一人だけ同校に進学したので、友人もおらず不安もあった時期であり、むしろ目をかけてくれるだけ有り難いと感じたし、その期待に応えたいとの気持ちも沸いてきた。入学試験のことは知らされていなかったが、その後発表になる成績の範囲では石鳥谷出身のH君、市内出身のM君と時に順番が入れ替わることもあったが何とかトップを維持していた。そのためか一層期待されたらしく、それが雰囲気として伝わってくる。一方では、H君、M君の真の優秀さを垣間見て、間もなく両君には敵わなくなると言う予感がしていただけに、「正明の弟」として見られていることは私にとっては次第に大きな煩わしさ、プレッシャーに変わっていった。



自転車通学で体力・忍耐力が付く。岩手中学学校中退への方向が芽生える
 盛岡の岩手中学校へのバス通学は自分にとってとても耐え難いものであった。バスの定期券の切れるまでの3ヶ月間はひたすら忍耐し、夏頃から自転車通に切り替えた。周辺から盛岡の実業高校には男子学生達は結構盛岡まで自転車通学していたが、私は従来ひ弱だったのでそれほどの自信があるとは言えなかったので、当時珍しい内装3段ギア付きの自転車を買ってもらった。かなり高額であったがバスの定期券購入を考慮すれば何とかなると親を説得した。
 
 自転車で盛岡に向かうには朝7時に家を出る必要があり、片道16Kmほどで私の体力では8時半ちょっと前頃に到着した。当時は乙部と盛岡の間の北上川には橋がなく、未舗装の県道を向かう方法と、途中で村営の「渡し船」で北上川を渡り国道4号線の舗装航路を盛岡に向かうコースがあった。「渡し船」は両岸に貼り渡した太いワイヤに沿って100mほど真横に川を横切るタイプで、増水時には勿論運行中止になるが、渇水時には船が底をつくために岸までつけず30cmほどの一本橋を自転車を担いで20mほど渡る必要があり、当時の自転車は重く大変であった。時に踏み外して膝まで水につかることもあった。 往路は遠くから船の状況を確認してそれほど待ち時間無く乗れそうなときは国道沿いに、そうでないときには県道をひたすら走った。帰路は大抵は国道沿いに戻ったが、希には渡しの担当者が何故か不在だったり、船の補修等で渡れなくなっていることもあり、そのときは再度盛岡に戻るか、更に10数Km南下して紫波村にかかっている橋を経由して戻るかしかなく、一日50Kmも走ったことも稀ではない。

 自転車通は天候によって影響をバッチリ受けた。もっと辛いのは向かい風である。通常の倍の体力を必要とする事もあり、辛くて涙が出たこともあったし、一日中ボーっとして授業に身が入らないこともあった。追い風の時は、特に舗装されている国道沿いを帰るとき、何ら苦労なくすいすいと走れ超快適であった。雨は風さえなければそれほど大きな問題ではなかったが雨具を着用していても結果的には自分の汗でびしょ濡れになった。もう一つは寒さで、雪が降る12月から3月にかけてはやむなくバス通学した。

 ひ弱だった私はこの自転車通学で体力が付き、忍耐力が着いた。更に自転車通学を通じて親しくなった矢巾村出身のN君との会話を通じて次第に進路変更、すなわち別の高校に進学するために岩手中学を中退する方向に私の気持ちが変わっていった。

 今では立派な橋がかかっており、当時のことを知る人たちも少なくなっている。最近は年に一度だけ、墓参りの時この道を車で走るが、当時のことが想い出されて感無量になる。



中学2年の時父親退職。私立中学中退の具体的準備に入る
 中学2年の夏頃、村役場の職員であった父が村長と意見があわずに突然退職した。前の晩、酒の席で何かがあったらしい。過去には乙部村で収入役を勤め、その後合併で都南村となり、一時は都南村役場乙部支所のトップに居たこともあったらしいが、退職時には勤務交代で本所に配置換えになっていた。実際にはそのころには責任あるポストではなく、いろいろ不満が貯まっていたらしい事は酔って帰ってきた時の言動から推定できていた。元来、父はかなり自尊心の強い性格であったために傷つくことも多かったのではないかと思う。さらに、都南村役場本所は自宅から7-8Kmほどのる距離で、一時はバイクも使用していたが何故か再び自転車通勤していたために体力的にしんどかったのであろう。

 理由はさておき、私は将来的には医師になる進路を選んでいただけに父の退職は大きなショックであった。私は我が家の経済状態など殆ど知らなかったが、父は退職金や恩給、さらには先代の祖父耕陽が残した蓄え等で私を進学させても十分に生活できる目論見はそれなりにあったと思われるが、日本が徐々に経済的ゆとりを得ていく一方で、我が家は徐々に経済的基盤が弱まっていくことになった。父は、数年後相場取引に手を出し、結果的に全てを失うことになるが、81歳の死亡時まで悠々自適の生活を送った幸せな男である。

 私は父が退職したころ、岩手中学の生ぬるい学習環境に嫌気がさす一方、そのまま在籍していては医学部への進学は困難ではないかと感じ始めていたことや、前述の環境因子、友人の薦めもあって、心の中では中退し盛岡一高に進学する気持を固めていた。しかし、私を過剰に評価し、期待してくれている担任のS教諭にどう話を切り出すべきか理由が無く困っていた。私は早速父の退職を主たる理由に作り上げ、S教諭に話を切り出した。何度かのやり取りがあったが、経済的事情を前面に出されては為す術はなかったのだろう、秋口には中退が決定したが、この時、S教諭の目から大粒の涙がこぼれ落ち、私は後ろめたさからいたく傷ついた。中学を去ってから一度も会うことはなく、消息もないが、私にとって忘れ得ない教師の一人である。



地元の中学校に戻る
 中学2年をもってN君と私は岩手中学を中退し、私は乙部中学校に、彼は見前中学校に転校した。彼とは1年後に約束した通り盛岡一高で会った。乙部中学校は自宅から3Kmほど盛岡よりにあり乙部、手代森、大ヶ生の3つの小学校の卒業生が集まり1学年は2クラス構成で74名ほど、そのうち50名ほどが新たに友となった。
 僅か一年間だけだったので大きな思い出はないが、通学時間も少なくなり、校風ものびのびしていて変なしがらみもない環境でのんびりと生活できたのがとても嬉しかった。毎日一緒に寝ているネコが、たまたま私の左腕を枕にいびきをかいて熟睡していて起こすのがとても忍びなくて2時間ほど遅刻した事も何度かあった様な気もする。それでも別に担任の
S先生から叱られるようなこともなかった。

 想いでの一つは県中学校陸上競技大会の紫波郡予選に出場し3位になったことである。体育の授業を利用しで何種類かの種目に全員が分けられたが、私は走り高跳びで比較的良い記録がでたことから出場することとなった。たまたま背が高かったし、自転車通学で下肢の筋力がいい状態にあった事で少しみんなより勝った結果が出ただけだったと思う。大会までの3週間ほどは熱心に練習した。技術も格好も求めることなく、1cmでも高く跳べる事だけを求めた自己流でむしゃらな練習であった。紫波郡予選では30名ほどの出場者がいたが上位のグループに残り、もしかすれば1位も夢ではない状態で競技が進んでいった。しかし、練習中にバーに強打したことのある右足の脹ら脛の筋肉痛が生じ始め、途中から体育教師がテーピングをしてくれ若干楽になったが、記録は伸びずに結果的に3位に終わり県大会への出場は出来なかった。今から見ればちゃちな記録であったが、虚弱であった私が個人的にもらった唯一のタイトルである。
 もう一つは土曜日の放課後に教室で、高校進学予定者と勉強会をしたことで、最初は誰かに数学の問題の解き方を質問され、居残って一緒に四苦八苦したことがきっかけで始まったような気がする。徐々に参加者が増え、クラブ活動が一段落した夏休み以降はほぼ全員が集まった。とは言っても当時高校進学率は低く進学予定者は16人ほどで、その大部分は商業高校、工業高校への進学希望であった。夕方4時頃までみんなで過ごしたような記憶がある。高校入試の結果は15/16が公立高校に合格、不合格であった一人も無事職業訓練校に進学できた。乙部中学から盛岡一高には数年振りの進学であり、ほぼ全員の合格は過去にはなかった成果だったらしい。特に私が指導したという感じでないが、受験勉強のペースをうまく維持し、不安をあまり感じないでこの時期を明るく過ごすことに若干役だった程度のことと思っていたが、みんなからはとても感謝された。卒業式の朝、式が始まる直前、職員室に呼ばれて教師全員から拍手でむかえられ、学級担任と校長から暖かい言葉を戴き恐縮したが、自分のためにも乙部中学でのこの1年間はとても思い出深い時間だったような気がする。



クラシック音楽の魅力に目覚める
 我が家の祖父は自分でも謡曲を楽しむなどの他、大量のSPレコードを所持しているなど、音楽関係の分野もかなり好きだったらしい。蓄音機も数台あったが、祖父がそれらを楽しんでいたという記憶はない。しかし、これらの装置は子供の頃の私の格好なおもちゃになった。クラシックの小品を中心ではあったが子供用のレコードも20-30枚はあり童謡を中心によく聴いていた。
 自然と「G線上のアリア」「タイスの瞑想曲」等、SP向きの小品には親しんでいたが、別に曲を求めて聴いていたわけではない。たまたま耳に心地よかったからなのであろう。

 そんな私を音楽にのめり込ませる決定的機会は中学1年頃に訪れた。
 ある夕方、たまたまNHK-TVで初来日したオイゲン・ヨッフム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の初来日の演奏会が中継された。誰もいなかったのを良いことに
TVの前に寝ころんで音量を上げて開始を待った。最初の曲はベートーヴェンの「エグモント序曲」であり、題名すら聴いたこともなかったが、最初の強奏和音を聴いた途端に全身に鳥肌が立つような不思議な気分を味わった。当時は当然白黒であり、音質もそれほど良いものではなかったが、感じるものがあったのだろうと思う。その後、ベートーヴェンの何番かの交響曲が演奏された。食い入るように見た事は覚えているが、今は何の曲であったか思い出さない。しかし、私の脳裏には「エグモント序曲」の曲名と最初の和音がしっかりと刻まれた。

 このことを機会に突然クラシック音楽にとりつかれた。とは言えども、当時は既にSPからLPレコードに変わっていたので家の装置では何ともならない、主としてラジオ放送でしか楽しめなかった。文化放送、日本放送などの深夜番組のクラシックの時間、毎週日曜日11:00amからのNHK第1第2放送を利用しての「NHK立体音楽堂」等は私の愛聴番組になった。深夜放送は雑音が多くピアニッシモは殆ど聞こえない。「未完成交響曲」などは低弦の導入部などきこえず突然強奏部から聞こえるような状態であったが、当時は貪るように聴いていたものである。
 それから間もなく、盛岡でのNHK交響楽団演奏会を聴く機会が訪れた。これは私にとって次の大きな音楽体験となった。
(写真:オイゲン・ヨッフム 音楽の友社 クラシック不滅の巨匠たち P100より)

それから間もなく、盛岡でのNHK交響楽団演奏会を聴く機会が訪れた。これは私にとって次の大きな音楽体験となった。
 中学1年か2年かは忘れたが、盛岡市の市立体育館でNHK盛岡放送曲主催でNHK交響楽団演奏会が開かれた。板張りの体育館にパイプ椅子を並べての会場設定で、30分も早く着いたので開演までの間、ぽつんと席に座りプログラムを隅々まで読んだ。席は前1/3ほど、やや右よりの特等席であった。その頃の事は鮮明に覚えているから不思議だ。演奏は指揮が外山雄三氏、独奏者は深沢(旧姓、大野)亮子氏。N響コンサートマスターは若き海野義雄氏。演奏された曲はウエーバー「魔弾の射手序曲」、モーツアルト「ピアノ協奏曲20番K466」、ドボルザーク「交響曲 第9番(新世界より)」。アンコールは「フィガロの結婚序曲」、外山雄三作曲「管弦楽の為の木挽き歌」。

「魔弾・・」の不安をかき立てるような弦のトレモロによるうねり、「ピアノ協奏曲 K466」の独特な弦の刻み、2楽章の旋律、「新世界交響曲」のダイナミズム・・・。この間、私は全身に、頻繁に鳥肌が立つのを感じながら聴いていた。コンマスの海野氏の音は終始際立ってきこえた。これら全てが私にとって鮮烈な体験であり、その後、弦楽器、特にバイオリン、チェロに興味を持ち、大学ではオーケストラに属し、多くの演奏会に通い、今に至るまで楽しめる趣味の一つとなる。
 この体験の後、意を決してついにLP用のレコードプレーヤーを購入した。アンプ等までは購入できなかったので比較的大型のラジオに細工して音を出した。当時レコードはおいそれとは購入できないほど高価であり、ステレオで3200円、同じ演奏がモノラルでも発売になり、それでも2800円ほどした。何しろ2年ほど後の私の3食付きの下宿が5500円だったことから如何にも高価な買い物ではあった。

 最初に購入したレコードは、有り触れた選択だが、ベートーヴェンの交響曲第五番ハ短調 「運命」。ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮、ウイーンプロムジカ管弦楽団の演奏。本当にレコードがすり減るほど聴きこんだ。

自伝 ★高校時代★へつづく







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