徒然日記

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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先月の日記          来月の日記

7/31(木)晴  関連施設・施設間連絡協議会 
2:00起床, ドック判定x1、紹介状・返事x1等.5:20病院着。回診他.9:00-13:30外来.13:30ドック結果説明x1。病棟業務他明日の講演準備若干。18:00-19:45本年度の施設間連絡協議会。訪問看護ステーション中心に話題が展開。机上はカルテ・書類の山.21:00帰宅、21:30就眠.

体を動かさずに生きるヒト、ペット・・動物から静物へ
 動物は運動するように作られている、と言うより餌を確保する一方で、自分が餌にならないようにするためには常に一定以上の運動能力の維持が必要である。 だから動物というのだろうが最近は生活が豊かになって運動量が激減、ヒトは動物から静物に代わりつつあると言っていいのではないか。
 米国のあるデータによると1850年の、全労働エネルギーの13%は人力であったが、100年後の1950年にはほとんど動物と機械のエネルギーに取って代わり、人力は僅かに1%に過ぎなくなったとしている。 消費エネルギーは著しく減少しているのに食事の内容は徐々に濃厚になっていく。そのため慢性運動不足病が起こっている。
 今、米国では健康ブームであり、金持ちがフィットネスにかける費用が膨大になっている。 貧乏人はその費用が捻出出来ないためにぶくぶく肥っているとのこと。 米国の青少年の喫煙率は意外と高いがその大部分が痩せる目的だという。
 バカな話である。文化が爛熟すると無駄に食い、余剰のエネルギーを放出するために無駄に経費と筋力を浪費している。こんなバカな話はない。一方で飢え死にが問題になっているというのに、だ。フィットネスクラブなどを全部禁止し、発電センターでも作りそこでボランティアとして人力発電機でも回していただけばいい。これなら痩せられるし、社会貢献が出来る。
 また、現代病の30-40%が運動不足に関連しているので、これを解消すれば国療費の20-30%は節約できると言う試算もある。国の財政改善にも貢献出来ると言う一石二鳥どころか一石四鳥五鳥にもなりうる可能性がある。

 我が国においても、運動不足が原因で心臓血管病、腰痛、情緒不安定、肥満などが増えている。整形外科外来の30%は腰痛患者で、腰痛の1/3は特に原因はなく、腰の筋肉の脆弱さから起ったもの、つまり、筋肉が弱体化して脊椎と筋に負荷をかけて腰痛が発生しているものと解釈される。したがって腰痛症の予防や治療は、腰筋力強化のため日常少しずつでも運動をすることである。
 現代人は汗をかく楽しみを忘れている。 
 外来患者の内で、自分で幾ばくかの畠を耕しているという田舎のばあさん方は、総じて健康そうに見えるのは適当な運動が出来ているからなのだろう死、育てる楽しみを実感出来るからだろう。腰痛症も意外と少ない。

 明日は秋田県教育委員会主催の定年退職教職者を対象とした「退職後の健康管理」について90分ほどの講演をする予定である。


7/30(水)雨   県医務薬事課来訪  SARS院内感染対策講習会
5:00JR「日本海」にて起床、担当者も起こしに来てくれた。5:35秋田駅着、病院に.机上は書類山積み.処理他、6:30回診。9:00-13:50外来.17:00県医務薬事課来訪、血液製剤関連で。18:00-20:20 SARS院内感染対策講習会千秋会館.250人ほどか。「感染症の逆襲」と題する物語的内容で15分ほど講演した。病院で書類若干処理の後21:30帰宅、22:00就眠。

人間のエゴが感染症を変えた。SARS関連ビジネス、ここでも人間のエゴが渦巻く
 
本日夜、千秋会館にてSARS院内感染対策講習会が開かれ250人ほど出席して盛会であった。私は「SARSの疫学」部分の担当であったが予定していた内容が呼吸器科長の講演に網羅されていたので方向転換し「感染症の逆襲」と題する物語的内容で15分ほど講演。人間の飽くなき欲望とエゴが地球の環境を変え、生物間の調和を変え、かつ病気の変遷にさえ大きく関与している内容を中心に話した。参加者の表情から興味深げに聴いて戴いていることが実感出来たが、何分にも割り当てされた時間が少ない。この様な内容の話なら何時間でもやりたいものだ。

 SARS対策のうち病原体を特定する作業は研究成果を共有する事で、約一ヶ月半と驚くほど早く「SARSコロナウイルス」が特定された。これは近代医学の成果である。
 ところが、治療薬やワクチンの研究に関しては事情が一変する。国、製薬会社などが情報を隠蔽しているし、日本ではウイルス株を各国から譲って貰えないために研究が滞っている。その理由は何かというと治療薬やワクチンは膨大な利益を生む可能性のある分野だからである。いち早く動き始めたのは米国であり有力製薬会社に治療薬の開発協力を依頼した。ファイザー製薬は350種類もの抗ウイルス剤を提示し、その内の10数種類が有効と発表している。この点日本は苦戦している。SARSの国内発症が無く、研究対象になるウイルス株が僅かに2株しかないからである。治療薬もワクチンの研究にしても多くのウイルス株が必要で、各国に依頼しているが思うような返事が貰えていない。それでもエイズ治療薬の「ネルフィナビル」がウイルスの抑制をすることを日本の研究で解ってきた。新開発の治療薬やワクチンはまだ研究としては試験管内のレベルであり、今冬には間に合いそうではないが、既存薬の流用ならそれが可能となるので注目されている。

 世界を震撼させた人類が迎える33番目の新感染症SARS、これに全世界的レベルで英知を結集し対応しなければ、かつてのペスト渦、インフルエンザ渦になり得る重大な疾患である。この人類の危機に対しては世界が手を携えて、損得を超えた対応策が進められていると考えるのは甘い。
 この分野でも経済優先の論理が渦巻く。細菌やウイルスと長い長い歴史を経て共存してきたそれなりの良い関係は人間の飽くなきエゴによって崩され、次々と逆襲にあってきているが、それでも反省することなく同じことを繰り返していく、これが人間というものなのであろう。


7/29(火)曇り 新潟は曇りのち雨  新潟大学医学部関連病院院長会議
2:00起床,ドック判定総括x1、総括・紹介状作成.自由人家内5:00帰宅,朝食の用意始めた。出勤が遅れるので痛し痒しであるが,久々に朝食,5:50病院着、資料作成x1他。回診、定期処方25枚。出張申し送り記載など。9:00-12:00外来.12:50特急「いなほ」にて新潟へ。結構混雑.16:20若干遅刻し、ホテル「イタリア軒」新潟大学医学部関連病院院長会議+懇親会に院長の代理出席.19:00懇親会。同級の3教授他数人と歓談.1時間ほどで中座,JRにて新津駅に、ビジネスホテル新津に。21:30就眠.1:00起床,1:28特急寝台「日本海」に乗車,本など若干,3:30就眠。


日本海側の出張は実に不便  新潟大学医学部関連病院院長会議
 
新潟大学医学部関連病院院長会議に出席した。会議に間に合うには9:00am頃出発しなければならない。外来が出来ないし,時間も無駄,遅刻覚悟で昼過ぎのJRで出発。全体は空いているのに何故か横の座席に乗客あり。横の座席が空いている席を転々としたが新発田以降は混雑して元の席に戻った。JRも飛行機でも指定番号にかかわらず私は臨機応変に席を移動する。横の座席が空いてるのとそうでないのではストレスが全然違うためである。列車の場合は停車の度に若干緊張するが,しょうがないと割り切る。

 新潟大学医学部関連病院院長会議総会では大学と病院間での医師の応援時の報酬問題が取りあげられた。時間因子 + 距離因子 + 特殊技能因子(麻酔科,外科など)を勘案して決めることになるようであるが,総じて高い。何処の病院長も心安らかならざると思われたが,意見交換では殆ど意見なし。特に県立病院では規定以上の額になるために皆困っているようである。

 新潟大学医学部教授との懇談会では主に臨床研修の必修化が取り上げられ,県内は大学中心の研修システムとなるが,その説明の中では大学のエゴが見え隠れする。新潟大学の人数は94名/年という。一方,聞く側の各病院にとってはマンパワーの確保の件からは不安な要素が大きい。この臨床研修必修化問題はイニシアティブを何処でも大学が握っているところから,本当に研修医の為になる制度なのか疑問である。更に地域医療への悪影響は確実に生じるみたいだ。

 懇親会は同級の外科,眼科,産婦人科3教授のほか他,オーケストラ,六花寮,欧州旅行・・等での知己数人と歓談した。いまは安穏と経営されている病院はない様である。医師のマンパワーの供給源が大学に頼っている以上,問題の解決はここ数年は更に厳しくなるだろうし,政府の医療費の締め付けの影響も諸に受けている。

 裏日本の出張等で一番困るのは移動手段である。
 JRは新潟15:30以降秋田までの便はなく。新潟→大宮→盛岡→秋田と新幹線の乗り継ぎ,新潟空港→羽田→秋田の方法もないわけではないが,本日の会議は終了時間の点から利用不可。結局,新津発1:27の特急「日本海」しかない。5:25秋田駅に着きそのまま出勤とした。秋田から出席の他の病院長は新潟泊で明朝のJRと言うが,出来るだけ外来に穴を空けたくないので私は特急「日本海」を選んだ。新津にホテルをとり,通常の生活パターンに近い行程となったので身体的には全く日常と変わりない。


7/28(月)晴れ 管理会議  長副会議
2:00起床,ドック判定総括x1他.メール不調送信出来ない。これで3回目ほど。これが昼頃になると自動復帰しているから不思議。プロバイダの不調だろう。5:20病院着。ドック配付資料作成x1他。回診。8:00管理会議.9:00-14:30 途中でドック説明x2を挟み外来。メール自動復帰しており複数重複送信してしまった。明後日の講演準備資料作成終了、8/1の講演準備開始。16:00-17:50長副会議。19:00来客、20:30帰宅21:00就眠。

「福沢屋諭吉」について、超バランス的人間の一面
 多くの偉人はバランスを欠いた人間が多い。 文明開化期の啓蒙思想家としての福沢諭吉の知名度は極めて高いが、実業家「福沢屋諭吉」は意外と知られていない。ところが調べてみるとなかなかの才能を発揮したようである。(この辺の参照出来る本としては長尾正憲著「福沢屋諭吉の研究」がある。)
 
福沢は「西洋事情 」「世界国尽」などで西洋文明紹介の旗手と目され、その活躍がめざましすぎて命まで狙われたこともあるとされているが、明治5年(1872)に出版した「学問のすすめ 」が空前の大ベストセラーとなり、大きな影響を時代と社会に刻みつけた。啓蒙思想家としての福沢は旧来の日本文明の本質を「権力の偏重」として批判し、西洋文明の本質を、「有形において物理学、無形においては独立心」と定義したという。後者は平等の自覚に立つ個人主義と言う解釈で、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というテーゼのルーツである。

 慶応4年4月(9月に明治と改元)、私塾を慶応義塾と改名、このとき初めて授業料の制度を作った。財政的に義塾の維持困難をきわめたが、種々の工夫で持ち直し、明治23年には義塾内に大学部を設置した。福沢にとって慶応義塾の経営は、一学校の経営という以上に「私立」の経営は「官尊民卑」の打破を実践する深い意味と怨念をもっていたと言われる。(共感出来るナァ。今だって医療界は官尊民卑なんですよ。)

 明治2年、彼は「福沢屋諭吉」の名で出版業を始めた。本屋を本業とした印刷・製本工場は隆盛を極め、福沢は自家工場を持つ出版業者として大成功をおさめた。明治5年慶應義塾出版局として、7年には慶應義塾出版社に改組し、自らは経営から手を引きそれに資本投下して利益を上げる資本家として手腕を発揮したとされる。
 教育者・著述家・出版人・言論人・経済人という実に多面的な才能を発揮した福沢は教育立国論を唱えた、基本的には教育者であったのだろうが、日本を富強にするには優秀な人材が必要であるとして塾の出身者を経済界に進むよう薦めたとされる。これは出版業「福沢屋諭吉」の実業人としての本音であったと考えることが出来る。


7/27(日)超快晴 病棟拘束 FF tennis 
2:30リハビリ当直室にて起床、ドック判定総括x1、紹介状、新聞チェック他事務処理。8:30病院に。ドック資料作成。9:30帰宅、10:00-13:00雲一つ無い炎天下でのFF tennis、2-6、6-2、7-5。15:00-18:30病院。病棟拘束業務他。Vn他,20:00就眠。宮城県での群発地震。降雨が続いているのにこんなに快晴でのどかな一日。何か申し訳ない気がしてならない。

自伝 大学時代(1965〜71)(3)
寮生活 食事
 翌日からは通常の寮生活を送ることなるが、私の従来の生活に比較して大きな変化の第一は寮の食事であった。 寮の食堂に於ける食事の時間は、朝食7:00-8:30、昼食12:00-13:00、夕食18:00-19:00。大学の教養部は寮から100mほどしか離れていなかったために昼食も寮に戻って摂った。食費は朝30円、昼50円、夕食50円、しめて130円/日。予約制で食事が確保出来る仕組みになっていた。授業とかの変更などがある場合、前日までならキャンセルも可能で実に合理的に運営されていた。私は比較的規則正しいワンパターン生活で、特に遊び回ることもなく、定期的なバイトもしなかったためにほぼ全食を寮で食べた。夜のクラブ活動にも食事後に出かけたため、実に安上がりであった。値段相応のものしか出ないから内容的には実に貧相な食事であったが、少しでも美味しい食事を用意しようとする賄いさん方の工夫を感じることが出来た。
 
 食器は黄色いアルミの小ボールに白米とみそ汁、小皿一枚におかず少々というものであった。朝は副食無し。白米の上に2枚のタクワンと、海苔の佃煮が10gほどとみそ汁のみ。それでも空腹には有り難い食事であった。暖かさがご馳走の一つなので、冷めないうちに食べられるよう朝食は7:00には摂った。この時間に決まって食べに来る寮生はそう居らず、たいがい独りであったために賄いさん方と自然と親しくなる。そのためにふりかけを付けてくれたり若干のサービスをしてもらったのは暖かい思い出である。

 アルミの小ボールに炊きたてのご飯とみそ汁は最初の内は通常は熱くて持てない。盆の上の食器にかがみ込むようにして食べたものである。少し冷めると食器をもって食べられるが、熱い食器を上手に持ち上げるにはちょっとしたコツが必要であった。昼、夜のおかずは20円分だからしれたものであった。とか言いながら、私は結局6年間在寮した
から、この食事を黙々と食べ続けた事になる。今から見れば実に感慨深い。

 寮の食事を通して私の食習慣、考え方は100%変化した。まず第一は粗食に耐えられることと好き嫌いを一切言わずに何でも食べられるようになったこと、第二に粗食と言えども三食食べられる幸せを実感したことと食品を粗末には絶対にしない、ことだろうか。


7/26(土)晴れ→曇り 宮城北部で群発地震  リハビリ当直
2:00起床、2時間ほど前に宮城中心に地震。震度6+とのこと。ドック判定総括x2他、5:40病院着.ドック配付資料作成x2他、回診.7;30回診中に地震。8:10ドック診察x5。10:30-12:40 外来。以後、業務
処理、講演準備.17:00リハビリ当直へ.18;00夕食、一週間分新聞チェック。20;00就眠.

宮城県北部で群発地震、怪我人多数 秋田でも怪我人あり
 本日早朝、宮城北部で震度6程度の地震が生じた。私は熟睡中であったために気が付かず、深夜のラジオで聞いた。午前7;30ころ、ちょうど7階病棟の回診中であったが、地震が生じた。立っていてもふらふらする程度、体感上かなり大きく感じた。歩行や車椅子で移動できる高齢者の方々は朝食の準備でデイルームに集まり初めていた。総じて不安の表情。障害のためにベット上での生活を余儀なくされている方々は一層不安が強いらしい。不安で声を挙げる方々もいた。揺れは数分程度でおさまり、患者の枕元のTVでは直ちに震度3と発表された。宮城県ではやはり震度6前後、ある病院ではライフラインに被害があり患者を別の病棟に移動させたと言う。当院ではとくに被害等はなかったが、スタッフの少ないこの時間帯に何かの災害が生じた際の対策を考えておかなければならないと実感した。

 午前外来に出るまではずっとNHKラジオを聞きながら業務をこなしていたが、宮城では数百人の怪我人が出ているとのこと、余震もかなりあるようだ。部屋につるした時計も時々揺れている。その度に宮城北部ではかなりの震度らしい。東北、秋田新幹線も運転を見合わせているとのこと。NHK秋田のニュースでは秋田では被害の報告はないと報じていた。

 10;30外来に出たが最初の患者さんは44歳の男性、外傷の患者さんで車椅子である。額に傷があり、顔全体が無惨に晴れ上がっている。夜半の地震に驚き2階の階段を踏み外し、頭から落下したとのこと、意識もなかったために救急車で来院、CT等では異常なく、脳しんとうとの診断で、骨折とかは無かった様であるが強い腰痛のために動作もままならない状態である。その他にもいろいろ身体的不調あり、内科にも受診した。幸い、診察上は問題はなかった。
 この患者の場合、明らかに自分の不注意からの受傷であるが、地震に関連している。地震の被害届を見るとこのような患者も含まれるから届ければ秋田でも被害者が出たことになる。報告の義務もないし、まあ良いかと院内処理で済ました。

 夕方から夜にかけてもNHKラジオはずっと地震のことばかりである。宮城北部ではかなりの地震が続いており、更に不幸なことにかなりの大雨が降って地盤も弱くなっているとのこと、地域によっては避難勧告も出ているらしい。


7/25(金)晴 医師会打ち合わせ、法人理事会 
2:00起床。ドック処理x1。講演準備など。5:30病院着、回診、事務処理他。10:30-12:50外来。ドック説明x2。回診後16:00医師会打ち合わせ.17:30-18:45法人理事会.20:00帰宅.21:00就眠.

本をいただく いい刺激になる
 私は本をいただくことがよくある。多くは自分の著作を送って下さるのであるが,時には一般に流通している図書の場合もある。前者は職業柄,退官された教授とか教室の業績集,あるいは教授の随筆その他の著作をまとめたもの,あるいは各地で長く臨床医として地域医療に貢献なさった方々の著作である。業績集はまず開くことはないが,随想集とかは普段触れることの無かった先立ちの方々の考えかたなど知ることが出来,結構興味深い物がある。

 そう言えば,私の恩師である秋大の元教授が最近書を出版されたらしく,その書評が県医師会報に掲載されていた。その後,聞くところによると元教室員の殆どが寄贈を受けたという事で,私だけが外れたらしい。思えば教室を離れて以来今日まで必ずしも礼を尽くしてきたとは言えないだけに,ついに私は元教授の弟子のリストからも外されたらしい。そう言えば,当院の元院長が関東地方のどこかの老健施設の施設長になられた時も多くの方々にはハガキにて連絡があったらしいが,私はそのリストからも外れた。先立ちの諸氏から見れば私なんざ随分失礼な人間に感じられるのであろう。わたし自身は自分が適当と思う距離を置きつつそれなりの礼は尽くしていると思ってはいるのだが。盛岡の親戚間の評判も良くないらしい噂が入ってくるので私自身の問題なのだろう。

 で,本をいただいたときには送った方の気持ちに応えたいと思い,1-2週後には簡単なコメントをつけてお礼状を出すのだが,実際にはほんの少ししか読んでいない状態なのでなかなか筆が進まない。でも,これは礼儀と考え頑張ってきた。いただいた本は,通常は出張時の飛行機やJRの中で読む。だから,時には数ヶ月もたってから手にする場合もある。私に欠けている分野の記述などから予想外の刺激を受けて真に嬉しく感じることが多い。本当はこの時点でもう一度読後感等を送ってさしあげればいいのであろうが,そこまではやっていない。

 私自身には本を送るということはほとんど無く、お贈りするときは図書券やCD券等にしている。その理由は自分の価値観を押しつけたくないからである。でも,何か著書でも出せば考えがコロッと変わるかもしれない。まあ,そんな事態にはなるまいが・・・。



7/24(木)曇  5F病棟診療部会、7A病棟診療部会  県医師会広報委員会 
2:00起床。ドック判定・総括x1、紹介状返事等.病院実習のために一時帰省の次男山梨に出発、5:40病院着、回診ほか、8:00ドック診察x2。9:00-13:30午前外来.13:30-14:305F病棟診療部会、14:30-15:307A病棟入院患者家族と面会2件。紹介状作成。 17:00-18:107A病棟診療部会。18:30-19:30県医師会広報委員会。20:00各種書類その他.20:50帰宅、21:30就眠.座閑無し、超多忙な一日。

痛風の話題で盛り上がった秋大泌尿器科同窓会  尿酸は悪玉か?
 数日前に秋大泌尿器科の同窓会「虚(ウロ)の会」が開かれ、私は院長の代理として出席した。懇親会では私としては分不相応にメインテーブルに座すことになり、名誉教授、次期教授、県内の数医療機関の院長数名と同席で恐縮した。一通りの話題が展開した後は思いがけず痛風の話となり、盛り上がった、そのルーツは名誉教授が数日前から激しい痛風発作に襲われ、治療によってやっと会に出席出来る程度になった、と言うことから端を発した。その教授の弁「薬の効果をこんなに実感したことはなかった!!」、としみじみ語ったのに感じ入った。やはり医師は自ら病気を経験することは悪くない事のようである。私の隣席のある院長は、私よりずっとお若いが、同様に発作を経験し、常に尿酸低下剤を服薬しているとのこと。その他にも尿酸値の高い方が何人か話題に参加した。

 かつて私が医師になった30年ほど前の頃、高尿酸血症や痛風は日本には少ない、と言われていた。最近は両者ともほぼ当たり前に見られるほど増加している。尿酸は痛風発作などという末梢的なことだけでなく、プリン・ピリミジン代謝の異常いうことで代謝の重要ステップに関係することからも注目を浴びている。種の起源にもかかわっているらしいこと、果ては、がん、エイズにまで繋りを持っているとの研究成果も確立しているらしい。

 さて痛風の基底をなす尿酸は代謝産物で、悪い老廃物のごとくに考えられているが、人にとって害ぱかりなしているとは思えない。益は何かという事はあまり興味を持たれていないようであるが、その一つが性格との関係で、活動的、攻撃的的性格とかなり関係がある事が解ってきている。それが痛風人が社会的優位な地位を占め、かつては帝王病といわれる所以である。更に、最近では、尿酸が活性酸素の抑制につながることが判明している。種によって平均的尿酸値は決っていて、傾向的に小動物の尿値は低く人間は高い.そしてそ寿命が尿酸の高いほど長いといわれているのは活性酸素の抑制に関連しているからともされている。そのことは、活性酸素を発生させるスポーツはやり方を間違うとむしろ寿命を短くすることも周知である。

 尿酸に対して上記の如く話題を前向きに展開しても、一方では尿酸値の低い女性の方が寿命が長いのはどうしてか??と言うことになる。人間の生命は長いから、単一因子では割り切れないのさ、とも言わざるを得ず、必ずしもすっきり割り切れない。


7/23(水)快晴→雨    医師会理事会+委員会 長副会議 
2:00起床、ドック判定・総括x1、紹介状返事等.5:40病院着、回診ほか、9:00-14:30外来+ドック結果説明x2。16:30-18:10県医師会理事会.18:15-19:20委員会.19:30-20:20長副会議に合流、残務。21:15途中までバイクで、雨で戻りレガシーにて帰宅22:00就眠。会議にて多忙な一日であった。

福沢諭吉の医療面での功績に触れ,改めて感心した
 ひょんな事から福沢諭吉について読む機会があった。彼は昭和59年から一万円札の肖像に登場し,親しみやすい存在になったが,意外と彼は何をなした人か知られていない。

 諭吉は、天保5年(1835)に大坂で生まれ、14歳で儒学者白石照山の塾に入り、19歳の時蘭学を志ざして長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で猛勉強に励んだ。1858には江戸で蘭学塾を開いたが,これが慶應義塾大学の始まりとなる。1860「咸臨丸」にて渡米。以後、ヨーロッパ諸国も歴訪し、議会や郵便制度、銀行、病院、学校などを旺盛な好奇心で見聞した。その後「西洋事情」「文明論之概略」「学問のすゝめ」などを続々と著し、世界と隔絶されて後れをとっていた日本人を啓蒙していった。「福翁自伝」は「フランクリン自伝」と共にかつての私の愛読書の一つであった。

 医から見た福涙諭吉について若干の資料を調べると,彼は、医学、医療福祉、食養学などに関して啓蒙的な活躍をしたことが知らされ,眼を見はものがある。明治の頃の食に関する問題のうちで最も注目すべきものの一つに「脚気論争」がある。当時の脚気の重要性については私どもは殆ど知る機会はないが,日露戦争の死亡者の統計を見ると即死48.428人、傷病者32.000人(うち27.800人が脚気)と記載され「傷病者652.700人のうち脚気はなんと218.000人だった」と言う。

 これは福沢諭吉,北里柴三郎や海軍の高木兼寛に対し、緒方正規、青山胤通、森鴎外らの官学一派が陸軍を背景に頑強に脚気菌説を主張し,食料として白米に固執したためであった。鈴木梅太郎、大森憲太らのオリザニンの人体テストで結論が出たが、医学会における学閥や盲信、面子ぐらい恐ろしいものはないことを教える故事である。現代の医師も常に学閥や、基礎と臨床の壁などを超えて「真実は何か」と物を考えるべきであることを痛感する。

 福沢諭吉の医療面での功績に触れながら、明治時代の先人たちの苦労や西洋医術と漢方医学の確執や,英、仏、独医学のどれを日本の医療・医学の模範とすべきかなどの論争の記録を思い出した。経済面を含め米国一辺倒になった現在の医療界のことを改めて静かに考えたいと感じた。


7/22(火)晴れ 管理会議 総回診、医師会打ち合わせ 医局カンファ
2:30起床,23:00-2:00頃まで来客と家内との話し声うるさくて殆ど熟睡出来ず。さりとて注意も出来ず、眠い。HDD判定・総括x1他.5:20病院、回診+定期処方書き。今日から新処方箋で試行。9:00-13:30午前外来、休日後で混雑.総回診(欠)、巻頭言完成送付。16:00-16:40医師会打ち合わせ。17:30医局カンファ.残務処理.院内SARS勉強会スライド作成着手20:30帰宅。21:30就眠。眠い一日であった。

しばわんこの和のこころ 2 四季の喜び
川浦 良枝本体価格:
\1,350出版:白泉社
 
この本は柴犬の「しばわんこ」が日本の文化やマナーについて教えてくれる本で,先に紹介した「しばわんこの和のこころ」の続編。

 続編のここでは生活上での四季のうつろいに関連して「着物」「桃の節句」「歌舞伎」「和菓子」「雷鳴」「御神輿」「手紙」が取り上げられ、何れもきれいなイラストで日本の伝統、生活歴が解説される。しっかりと文献的考察のなされた長くもなく,短すぎることもない説明文は何れの項目についてもいろいろな知識を与えてくれる。今まで,何となく解ったつもりでいたことが、実は何も解っていなかったことが知らされ、ついつい引き込まれてしまう。

 中でも「歌舞伎、観ちゃった」は私にとっては大きなインパクトがあった。大学生の時に新潟で1度だけ実際に観たことがあるが、難解で何が何だか解らない、私から観て遠いところにある芸術の様に思えてそれ以降は関心すら持たなかったが、勉強不足であったことがよく解った。これだけの基礎知識を持って出かけていれば、また違った印象を持ち、その後一度も観なかった・・と言うことにならなかったような気がする。ちょっとした入門書になる。

「雷鳴のなるときは」は,私の大好きな「雷鳴と電光」とその周辺の雰囲気が取り上げられている。何かが起こりそうな不安な雰囲気、網戸から流れてくる「雨のにおい」が良い。懐かしい蚊帳も登場する。今の方々には蚊帳をつったという経験はないだろうね。日常からすっかり消えてしまって、記憶からも、もうかなり忘れ去られている日本の生活には、それなりの潤いがあったなあ,と改めて感じ取れる。

「手紙を書こう」の中の一節,「季節を運び,思いを運び,手元に残る,文字のぬくもり」。
うーん,良いねぇ。私ははがきは比較的気楽に万年筆で書くが,自筆の手紙は10年は出していない,全部ワープロ文。でも表書きは下手でも毛筆で書く事にしている。そこまではプリントしたくない最後の砦にしている。

 私はここ数日、ねる前のほんの数分間だけこの絵本を開く。心が温かくなって、良い眠りに誘われる。不眠症気味の方には特におすすめの本です。

http://www.hakusensha.co.jp/book_review/sibawanko2/com.html


7/21(月) 海の記念日 晴れ    病棟拘束  土崎港曳き山祭り
2:00起床。ドック判定・総括x1。書類2,3処理。主として医報巻頭言に時間費やす。Vn演奏録再のためにMDレコーダー他購入。私にとっても30年間にわたるカセット時代は終焉を迎えつつある。14:30病院。残務多数処理。入院患者不調。回診など。20:00帰宅、21:30就眠。

徒然草時代の死生観に思う. 定年退職後の再就職も良いんだけれど
 ふと思い出して、本棚に埋れていた徒然草を引っ張り出してみたら、やはり、当時の死生観がはっきりと出ていた。「・・・・住み果てぬ世に、みにくきを待ち得て何かはあらん。命長けば恥多し。長くとも、四十に足ぬほどにて死なんこと、めやすにするべけり」

 今から800年も前の死生観である。現代は「超高齢化社会」。今や「寝たきり老人」は100万人、「呆け老人」100万人、さらに「独居老人」も100万人。その年金や医療費の問題が喧しいが,どうなることか。答えは自明の理であろう。若い人たちの「核家族化」の傾向も大きくなっていくなか,高齢者達の「施設はいやだ。病院も嫌だ」の声も大きい。人間としての「ノーマライゼーション」には「在宅ケア」がいいという運動は大切だが、厚労省の介護保険の範囲では「独居老人」,「老人所帯」の在宅ケアは到底不可能であり,かけ声だけでしかない。

 高齢化社会においては何事にも地域住民の社会的協力は絶対に欠かせないが,これがなかなか見えてこない。 功をなし遂げて退職され,それなりの経済的保証を得た方々,特に退職した公務員の方々には,後進に道を譲っていただき,自身には是非とも地域のボランティア活動に参加していただきたいと思う。しかし,この様な環境にある方々ほど比較的簡単に第二,第三の職場が見つかるらしい。 むしろ,生活のために働かなければならない厳しい状況の中で退職された方々にとっては就職難が待っており,職も得られないまま生活もみるみる困窮していっている。

 ヒトとはそんなに働きたいものなのだろうか?いや,働くことはボランティア活動でも出来ることだからそれ自体が目的ではないだろう。だとすればやはりお金かな??

 今後,新しい人生観が新しい社会とともに形成されていくであろう。 最早『徒然草』の時代とは100%考え方が異なっている。しかし、「生ある者は必ず減する」原則に例外は絶対にない。いつの時代になっても人間にとって兼好法師の言うが如く「祇園精舎の鐘の声は、諸行無常に響く」のではあるまいか。それが時代と共に遅くなってきているだけである。高齢化社会はいいけれど、それだからこそいい年をして、いつまでも現役で働いていてないで,若い人たちにチャンスを譲ってはいかがか,と思う。


7/20(日)雨→曇り、午後快晴 FF tennis(中止) 土崎港曳き山祭り(前夜祭)
2:30リハビリ病院当直室で起床、ドック判定・総括x1、2週間分新聞チェック等.8:60病院着、回診、種々処理10:30帰宅、梅林園FF tennisは雨で中止。熱帯魚水槽掃除、Vn等楽しむ。書籍大量に整理。16:00-18:30来客。19:00家内は土崎の親戚に。20:00就眠。

自伝 大学時代(1965〜71)(2)
六華寮の生活
 寮で生活を初めてから3日目ほどで続々と新入寮者が入ってきた。通常、人よりも荷物の方が先に着く。事務室前には荷物がうずたかく積まれる。午後4時頃に招集がかかり、寮に残っている学生は総出でそれらを割り当ての部屋に運んだ。結構整然と、協力して事が運ぶことには感心した。

 新入寮生が大体揃ったところで入寮式である。ある夜夕食を兼ねてほぼ全員が食堂に集まり寮長とかの役員の司会で自己紹介とかから式が始まった。医学部生は11人入寮したらしい。席にはささやかな祝いの料理が並べられ、新潟の地酒の小瓶が置かれ、湯飲みも置かれている。やがて先輩諸氏が真新しい一升瓶を持って新入寮生の席を回り、湯飲み茶碗になみなみとついで回った。乾杯の挨拶の後、生活を共にする仲間としてのかための盃だから2-3口で一気に飲み干すようにとのこと。大体、乾杯は全員でするものなのに一升瓶からの酒は新寮生にしか回っていない。些か不思議とは思ったが、貧乏寮生の集まりだから酒も買えなかったからだろうと推測した。私には茶碗一杯の酒は荷が重いが、まあこの程度なら大丈夫だろうと乾杯の合図と共に一気に口に含み飲みこんだ。
 何だ!?  しょっぱい! これは酒ではない.(なんと、塩水であった。)

 多くの人は直ぐに海の水だと気づいたようであるが、何せ、私は海で一度も泳いだこともなかったから、これが海水の味とは全く知らなかった。冗談も過ぎるが一気飲みさせられるよりは良いか、と割きった。その後はまず通常の宴会となり余興として何かを歌わされたような気がするが、全く覚えていない。


7/19(土) 秋田大学泌尿器科虚(ウロ)の会総会・懇親会 リハビリ当直
2:00起床、ドック判定総括x1。退院時総括、医報投稿用文章、その他.5:30病院着、回診。紹介状など、10:30-12;30外来。13;30入院患者家族と面会病状説明。残務処理、紹介状総括他17;00-18;00リハビリ当直、18;30-20;30秋田大学泌尿器科虚(ウロ)の会総会・懇親会に院長代理で出席。20;30から再度リハビリ当直。21:30就眠.

子供のころの時間はゆっくり推移したのに、最近何故か早い。
 「光陰矢のごとし」、と言われる。学生のころは意味が実感できなかったが、確かに一日は短い、一週間が短い、一月が短い、一年が短い。殆ど何か意義あることをしたという実感が無いのに朝、月曜、新年迎える。時は徐々に速度を上げている。これは成人の誰しもが言うことであるから仕事とか、と関係のない万人に共通の生理的感覚の変化であろうと思う。
 
 ハエをたたき落とそうとしてもうまく逃げられる。私どもの感覚では信じられないほどの身の速さである。多分、ハエにとって人間のうち下ろすハエ叩きの動きなどは恐らくスローモーションに見えるのだろう。逃げる時間は十分あるのだ。一般的に小動物ほど敏捷であり、かつ彼らの命は短くはかないが、彼らの時間感覚から言うと時間がゆっくり流れていることになり、彼ら自身はそう短いとは思っていないのだろう。

 年に一回、織姫と彦星が天の川で会う。実にロマンチックで切ない感じがするが、彦星の星としての一生を人生100年に例えて計算すると彼らは0.3秒に一回会っていることになり、もう耐え難いほどの逢瀬であり、出来ればしばらく会いたくないと思っているだろう。
ヒトが勝手にロマンを作り上げ、勝手に感じているだけなのだ。(ちなみに織姫星のこと座のベガと彦星のわし座のアルタイルは約14光年の距離があり、一年に一度会うのは物理的に不可能なのだが・・・・・)
 
 人生80年、長いか短いか解らないが年齢と共に時間感覚は変わっていく。そのルーツは生理的感覚、反応性が鈍くなっていく、一種の老化現象ではないかと思う。孫を育てている爺さん婆さん達にとって育ち盛りの孫の世話は大変である。子供は一時もじっとしていない。その様子を見て、対比して見ていると時間感覚の差を何となく理解できるような気がしてならない。
 
 高齢者にとってはすべての感覚が緩やかであるから、相対的に時間の方が早く過ぎていく事になる。私どもは知らず知らず、ゆっくりと感覚が鈍くなっていっているだ。自分自身の変化を自覚する前に時間の方が早くなっているように感じとっているのだろう。


7/18(金)秋田快晴 東京曇り→雨    日医総研セミナー「個人情報保護法」
2:00W、ドック判定総括x2。紹介状2部.5:10病院着、ドック資料作成x1。6:00回診その他出張準備。9:00病院発,秋田中央インター→秋田道経由空港へ。10:00JAS Airbus300-600型,
80%程度。浜松町でANA check in,書店にて数冊購入。13:10-16;30日医総研セミナー「個人情報保護法」。17:55ANA.19:45帰宅,Vn など。21:00就眠.

上空で虹を見た。 往復とも出発時間ギリギリ,最期に搭乗。反省した。
 往路,秋田空港内のキャッシュコーナーで振り込みなどをやった後で搭乗しようとしたが,機のドア直前まで進んだところで車の鍵を忘れたことに気づいた。係員の案内でキャッシュコーナーに戻り,再搭乗した。最期の搭乗者となってしまったが,若干時間に余裕があったために出発時間を遅らせるなどの迷惑はかけないで済んだが,反省その1。

 復路は日医総研セミナー「個人情報保護法」のディスカッションが面白く,空港までの時間を見計らってぎりぎりまで聴講し,急ぎ帰路に就いたが,途中,山手線神田駅近くで線路上にヒトが入り込んだと言う予想外のことが起こり,10分ほど東京駅で臨時停車,結果的に空港搭乗口には17:45頃到着,何度か私の名前が呼ばれていた。ボーディングブリッジからの搭乗ではなく,バスで機に向かうのだが,私ともう一人のためにバスが一台待機してくれていた?結局もう一人は来なかったために私一人を乗せて機に向かった。飛行機には前のバスが満員状態で着いたばかりだったらしく,余裕を持って最後尾に並べたから,出発時間を遅らせないで済んだ。いつもギリギリで搭乗するがもう少し考えなければと,ここでも反省その2。

 復路,関東地方は厚い雲に覆われ,上昇し終わった約8000m上空でもうっすらと雲がかかっていたがその割には揺れは少なかった。久しぶりに窓際に座ったので時折本から目を離し次々と変わっていく雲の様子を楽しんだ。茨城上空あたりで雲の上に虹が見えた。とは言っても地上で見るのと異なり半円形ではなく,上半分は無く二本の柱だけの虹であった。こんな上空でも虹が出来ることを初めて知った。山形上空では鳥海山の頂上付近が雲の上に顔を出しており,峰と峰との間にまだ厚く雪を残した景観は実に美しかった。

 秋田空港は今でもジャンボクラスまで運行は可能であるが,県の事業として250m滑走路を延長すると言う。着陸時滑走路の端が近くに見えるが,特に冬場ではもっと余裕が必要であろう。離着陸時には何が起こるか解らないから,より安全な運行のために私は賛成である。


7/17(木)快晴   医局会、  第2回医療評価機構検討委員会
1:00起床、ドック判定総括x1、退院時総括+紹介状作成+医師会関連作文等。5:30病院着。回診他。9:00-13:00外来。13:30ドック結果説明x1。医局会,喫煙問題は討論にならず。医師の時間外手当の件で意見続出。16:00-17:00第2回医療評価機構検討委員会,委員会内の病院評価からは先が思いやられる難題だ。以降は淡々と業務処理。20:00帰宅21:00就眠.

近頃「藪医者」がいなくなった
 医者不信、医療不信が強まる中で、私たちは医師は相変らず「お医者さん」と呼ばれています。「お」をつけて、さらに「さん」をつけ、この上もない敬称の筈で、有り難いことです。しかし、私は「お医者さん」という言葉には敬称という意味をあまり感じません。親しみを感じていただいていると思っていますが、最近の医師はそう呼ばれてもあまり嬉しがらない傾向があります。患者さんとの間に距離を置く傾向があるからだと思っています。

 「患者様」と呼ぶことが一般化しつつありますが、それに合わせてか「お医者様」と言う呼称も復活してきています。しかし、こう呼ばれても全然嬉しくありません。どこからみても文句の付けようがないほどの敬称で呼ばれて、何となく釈然としないのは本心からの敬意をこめて呼ぱれているのではないことを、私自身が身にしみて知っているからです。
 尊敬に値しないとわかっていながらあえて最高級の敬称を使うとそれは蔑視の意味になります。官僚を「お役人さま」と呼ぶのと同じです。表面で繕いながら、腹のそこでは別の感情を持っているのです。だから、私は医療人が患者を「患者様」と呼ぶのを聞く度に、釈然としない気持を持つのはそのためです。本当に心から「患者様?呼べるのでしょうか。表面を繕って辻褄を合わせて何になるのでしょうか。発想が「お客様は神様です」と言ったある芸能人と同じであればむしろ納得が出来ますが、まさか・・・そこまでは。

 近代以前まで、洋の東西を問わず、医者の社会的地位は低く置かれていました。診断や治療が未発達で対症療法がすべてであった時代では、医療が評価されなかったためで当然であったしょう。何故か、中性のイギリスで内科医はドクターと呼ばれたのに、傷を治す外科医はミスタ-としか呼ばれませんでした。しかし皮肉なことに近代のイギリスでは、特に著名な外科医にはミスターという敬語を使うので、そのことを知らずドクターと呼ぶと嫌な顔をされます。これは知って置いた方がいいですよ。
 
 敬称は時代と共に変るものです。日本では「役者、芸者、医者」と半分バカにされた様な「者」トリオの一角を何故医師が占めるに至ったのか、その過程を私は知りませんが、「口先半分で商売」といったら叱われるでしようか。これは我が家の子供達が私を評価して使った言葉ですが、私は的を得ていると喜んで聞いていました。

 第一線の医者は昔から良く「藪医者」の絡印を押されたものですが、最近は「薮医者」と言う言葉を聞くことは無くなりました。それだけ患者と医師の間には距離が開いてきたのでしょう。「藪医者」いう呼ばれ方は決して侮蔑的言葉でなく、患者と医者とが織りなした悲喜こもごも、すなわち対等な関係から生まれ出た、いろんな意味を含む親しみの言葉だと思っています。


7/16(水)曇り・快晴 県医師会打ち合わせ+県医師会常任理事会  
1:30起床。ドック判定総括x1. すこやかさんin Akita原稿完成送付、SARS情報収集。5:40病院着.回診その他。9:00-13:00外来+ドック説明1名。病院・医師会関連書類処理多数。16:30-17:20県医師会打ち合わせ,17:30-19:10県医師会常任理事会,病院にて残務20:30帰宅21:00就眠。

医師の雑用(2) 生命保険会社の入院証明書など
 医師の過重労働は医療事故にもつながりかねない深刻な問題である。
 最近、書類作りにとられる時間が増えた。5月から療養病棟の担当になってからは特に多い。福祉分野の書類も増えたからである。医師が書類作成に追われ,診療時間が乏しくなるなどは実にばからしいことである。医療費,資源の無駄使いだ。

   私も2:00amに起床し,先ず人間ドックの総括から始め、ついで紹介状作成や主治医意見書、訪問看護指示書、生命保険の入院証明書などを締め切りが迫っている順に処理していく。うっかりするとそれだけで5:00am頃になり、私の出勤時間になってしまう。折角早く起床してもこんなことで時間がとられるなど憤懣やるかたない。米国では秘書が作り,医師はサインするだけ。実にうらやましい。

 各種の書類が増えた背景には保険診療上で医師が作成した書類に点数がついたことにもよる。医師の技術料の一つなのだと言うが,こんなもので医師の技術が算定されるなんて実にバカくさい。もう一つ,生命保険契約内容の多様化が進み、患者が医療給付金を請求するケースが増えてきたことによる。一人で7-8枚もの証明書を持参してきた猛者がいた。昨年度の入院証明給付件数は約621万件と、1992年度のほぼ1.5倍となっているとのデータもある。
 入院証明書に記載する内容は、どこの会社も似たり寄ったりなのに、書式が異なるため同じ内容の書類を何枚も書かなければならないこともある。一枚に10-20分、書類作りに2-3時間ほど費やす日もまれではない。何とかこの非効率さを改められないか、と思う。入院証明書のほかにも、老健施設や特養などへの入所申し込みの診断書の様式もそれぞれ異なっており,問題である。

 せめて入院証明書は、統一書式に出来ないか??
 調べてみると、会社ごとの様式に従わなければならない規定は無い。基本的にはコピーしたものに医師の記名・押印があれば問題ないはずで,病名や入院日数、治療内容など基本的な情報があれば、他社の証明書のコピーでも断ることはできないはずである。ただ、がん特約や、後遺症に関する特約などの場合、通常の証明書では不足で、独自の様式が必要なのもあるという。

 今後は合理化のための工夫,主張をしてみたい。


7/15(火)晴れ 総回診・病棟定期処方日 医師会打ち合わせ(欠)医療訴訟ガイダンス(欠)医局カンファ
2:00起床。昨夜入院の高齢の重症者は夜半に死亡,すべて当直医が代行してくれた。感謝。ドック判定総括x1.書類処理、5:20病院着.6:30回診他処方、書類書き、9:00-13:00外来.13:30ドック説明。入院患者不調14:00-17:00予定の地方裁判所の医療訴訟ガイダンス、医師会打ち合わせは共に電話連絡して欠に。書類書きに追われる。医局カンファ(術後の肺機能)は眠った。20:30帰宅。21;00就眠。書類に追われた日。

医師の雑用(1)耐え難い病棟の定期処方日。楽する名案を考えた
 5月から私は療養病棟の責任者になっている。 当院では48床の療養病床を3人の副院長が主治医になって運用することになっている。 私以外の副院長は法人内でも会長とか常務理事とかを兼任する重鎮であり,一般病床でも結構多忙なようであることから,平の副院長である私が半数以上受け持つように配慮している。
 火曜日は病棟の定期処方箋を書く日だが,これが枚数が多いだけに「超ものぐさ人間」の私にとっては結構ストレスである。
 当院の定期処方を出す手順を書くと,まず,
@処方したい薬品名を入院カルテの処方欄に記載する。
A次に定期処方箋に薬品名を転記する。
B定期処方箋の処方枠内にその週の定期処方薬の番号を記載する。
C処方した番号を入院カルテの温度板に転記する。
 この4つの手順を踏むためにはカルテをひっくり返し,必要な薬品名を探し出し,更にカルテをめくって温度板を探して転載する・・・。これが30人分にもなると実に大変で1時間以上はかかる。

 療養病床で現在受け持っている患者さんの多くは,つい先日までは一般病床で他の主治医が受け持っていた患者である。旧主治医と私とは専門領域も異なり,医療のコンセプト,薬物療法に関するフィロソフィも考え方も違うから, 旧主治医の治療方針に対応していくのは大変な作業である。

 で,私は処方箋に対して大幅に楽になる方法を考えた。ABだけで済むから,恐らく手順が1/4〜1/5にはなろうと思われる名案である。
 要するに,転記を一切しない方法である。その方法とは,入院カルテの処方欄をそのまま臨時処方箋,定期処方箋として用いる方法で,今,薬剤部長と詳細を詰めつつある。どんな良い方法でも医局の医師達の考え方を変えていくのは至難の業だから,正式に提起してはいつから出来るか解らない。私はこの方法を少なくとも来週あたりから療養病床で試行と言う形で実践してみたい。

 私はものぐさである。かなりの面倒くさがりである。しかし,怠け者ではない。意味を感じられないこと,意義を感じないことはやりたくないだけで出来るだけ無駄な作業を回避するように考え,楽になる様に工夫しこまめに実行する。これがまた大変である。そう言う私を見て「まめなヒト」だと評価してくれる方が多いが,それは当たらない。私は自分のことを「積極的,能動的ものぐさ」だと評している。ものぐさをするには常に努力が必要なのだ。通常の「ものぐさ人」は私から見れば「消極的なものぐさ」で何もしないヒトなのだ。


7/14(月)晴れ 大腸内視鏡記念日  管理会議   長副会議
2:00起床、ドック判定総括x1. 書類処理数編。朝バイク爽快5:20病院着.6:00回診他、8:00管理会議.9:00-13;00外来。13:30ドック説明x1.画像大量処理、廃棄。すこやかさんin Akita原稿着手。16:30-18:00長副会議。20:00救急より90才女性敗血症ショックの入院依頼あり。適応無視して療養病床に入院主治医になる。21:00帰宅22:00就眠。

失われた年中の行事を懐かしむ  実は人生の教科書だったのだ
 岩手の山村で暮らしていた幼少の頃、暦に関連して年中行事がたくさんあったものである。正月、節分、節句、彼岸・・・数多くて挙げ切れないほどである。生活自体もそれに密着していたものだ。例えば、年末年始になると井戸や台所、軒下などに松を飾り、ご飯を供えていた。家を守る神様への感謝の御供えをするのだよ、と母や祖母、近所の長老達も教えてくれた。お盆の行事は私にとっては特に大変であった。夜にお寺の墓の前で火を焚き、とんぼ返りして玄関先で迎え火を焚く、これはお盆の時に私が子供の頃から担ってきた重要な仕事であったが、薄暗闇の中,田舎の寺の裏山にあるお墓の小道を独りで登っていくのは恐怖そのものでもあった。時に足下から鳥が飛び立ち,墓の側の松の木の上では時にカラスが鳴く。その度に鳥肌が立ち、時に髪の毛が側立ったものだ。
 これらの行事、それらを通して人間は自分たちだけの力で生きているのではなく、火や水や土の神様の加護、ご先祖様の加護のもとに生かしてもらっているのだ、感謝の心と行動が大切なんだよ、ということが私の子供心にすり込まれ、一抹の疑問を持ちながらも、半ば信じていたといえる。

 医学部に進学して間もなく祖母が死去し、その後、田舎を引き払って盛岡の一角に小屋を得て両親が移り住んだが、それと共に年中行事への対応は少なくなっていった。やはり代々長くすんだ土地の中でこそ、周辺の山河なども含めた自然への感謝の気持ちと共に、コミュニティを通じた行動を経てそのような敬虔な気持は宿るような気がする。

 両親も死去し、私は年末年始を始めとする各種の行事は多忙を理由に,また育った土地と違うから,と言う理由も挙げてほとんど廃止してしまった。 季節季節の節目に行われる各種の行事は、人間の命なんていつどうなるか分かったものではないから、常に生かされているのだという意識を忘れてはいけないよ、と生活を通じて教えてくれようとしていたのだろう。こんな大事な教育を軽視してきたことの問題点を,今になって改めて自覚するようになってきた。特に,子供たちを育てる過程で,幼い時期に伝えられなかった責任を痛感している。

 最近、死を迎える患者の家族に患者の状態と今後を話すとき、ヒトはいつか死ななければならない存在なのだ、今その時を迎えているのだ、と、そこから説明しないと理解が得られない。家族が若くなればなるほど、こんな当たり前のことを、いい大人を前にして説明するのはうら悲しく後味の良くない仕事でもある。 日本人はいつから自分の家族だけは死なないという幻想を抱くようになってしまったのだろうか。 少なくとも私に多くを語ってくれた当時高齢であった世代の人たちは、いかに努力しても死ぬ者は死ぬのだと潔く割り切れるだけの強い心を持っていた。 そういう死生観はすっかり失われてしまった。「しばわんこ」「長崎の12歳事件」なんかつながりを感じてしまう。


7/13(日)曇のち晴れ 病棟拘束  FF Tennis
2:30起床、こまち車内でかなり寝たと言えやはり寝不足。ドック判定総括x1,医報巻頭言準備に入る.10:00-13:00 FF Tennis。15-13で何とか勝ったがスコアは珍記録、内容的には低レベルで問題、反省点多し。このセットだけで時間切れ。14:00病院、回診、紹介状など.17:00帰宅、Vn他。紹介状など作成他。21:00就眠。

自伝 大学時代(1965〜71)(1)
六華寮(正式には昭和27年に改称し六花寮)に入る
 昭和40年4月早々、大学生活を送るために晴れて新潟に出かけた。盛岡→仙台→福島→郡山→会津若松→新津→新潟。東北本線、磐越西線、信越本線のルートであ。当時は200-300円で乗れる準急列車というのがあり、仙台まで3時間、仙台で乗り換え郡山から磐越西線に入り、山間部を延々と約6時間揺られて新潟にヘトヘトになって着いた。列車はうるさくかつ油煙を出し、油のにおいが立ちこめるディーゼル車で、この長丁場6年間にわたって往復したがホントに嫌であった。途中、心を和ませてくれたのは山の緑と阿賀野川の緑の水流であった。

 入寮申し込みしていた六華寮はどんな所かと心配していたが、市内西大畑の一角にある、ボロボロの今にでも崩れそうな木造の建物。正面玄関の様子からも中の様子が推察されたが、実際に入ってみると予想以上にひどい建物であった。廊下の天井の梁は垂れ下がり、各部屋の間の壁には大きな穴が開けられ、隣室とは出入り自由、欠損した窓ガラスは代わりにベニヤ板が貼ってあるなど、聞きしに勝る代物であった。夜は20Wの裸電球が要所要所にあるだけ、農家で言えば馬小屋並か。ここに約200人ほどが暮らしていた。最初は驚きもしたが、貧乏くさい一方、何となくワイルドな感じがして全く新しい環境に興奮を覚えた。
 割り当てられた部屋は4人部屋で新入生は2人。着いていた荷物をほどき土間の一角に机をしつらえて一応自分のコーナーを確保した。
 結局、すっかりなじんでしまって、寮をでようとしたことはなく6年間寮生活を送ることになる。

 <参考>新潟大学には当時7つの寮があり、その内の「六花寮」と教育学部生用の「好風寮」は共に老朽化が激しく昭和42年に「新六花寮」として海岸近くの金衛町の丘陵に建てられ、定員400名の鉄筋4階建ての建物となる。これに「医学部寮」の3寮の寮生が入ることになった。「大学から自宅までの距離が2Km以上」「経済的負担が大きい」学生の為に良好な勉学環境を提供することを目的にしている。六花とは雪の結晶をシンボルとした大学の校章から由来していると言う。


7/12(土)秋田曇・福島晴れ 北海道東北広報担当理事連絡協議会
2:00起床、寝不足感。ドック判定総括x1,その他。5:10病院着、事務的処理、6:30病棟回診その他。10:58こまち仙台乗り換えMAXにて福島に。ホテル Viewにて15:00-17:20北海道東北広報担当理事連絡協議会.主に日医の広報活動について意見交換。会食+懇親会。18:10中座して帰秋の途へ。MAXにて仙台に。こまち乗り換え秋田22:00着。病院へ、事務的処理後23:00帰宅。23:30就眠.

頻発する少年犯罪に驚き、鴻池大臣の発言に驚く
 数日前、朝5時のラジオのNHKニュースを聴いていて驚いた。第一は長崎の殺人事件で12歳の少年の補導、第二には埼玉かどこかの少年による執拗な暴力による殺人、第三がロシアの自爆テロ事件。こんな事は滅多にない。完全に何かが狂ってしまっている。

 今回の長崎の幼児殺人事件は12歳であったと言うことで、徐々に凶悪犯罪が低年齢化している。まず思い出すのは1997年の神戸市での14歳の少年による酒鬼薔薇事件。神戸と長崎の両事件に共通しているのは「頭のよい少年」で、14歳の少年の場合は事件後に警察を翻弄するなどの行動が見られ、犯人像として30歳代程度の知能犯が想定されていた。長崎の少年も勉強を一生懸命するわけでもなくともかなり上位の成績であったという。 幼児を裸にして突き落としており、いたずらが目的とみられている。日本ではあまり注目されていないが、国際的に見れば10歳を過きれば性犯罪を起こす可能性は小さくないとされ、そのような例は挙げるには事欠かないらしい。
 神戸の酒鬼薔薇少年が猫を殺したり、長崎の少年が周囲の幼児を裸にするといった衝動は、孤独の中での性的行動の屈折した姿だろうと思う。かつては、コミュニティの中で年齢が近い子供達同志の交流の中で自分の異常性に気付いたり、自分だけが特別ではなく同じような悩みを皆が持っていると解って安心したりする場が地域にあって重要な役割を担っていた。私もいろいろなことを教わった様に記憶する。
 こうした犯罪の防止には、家庭や学校以外で、子どものより所となるようなコミュニティが必要なのだろうと思う。
 
 鴻池大臣が「犯人の親を打ち首にすればいい。勧善懲悪があまりにも欠落した戦後教育を受けた人たちが親や校長、政治家になっている」旨の発言したと言うが、まさしく自分のことを言っているのではないか。こんな大臣は辞めるべきである。政治家こそがこの様な事件を個人の問題に帰せることなく、教育・社会の問題点ととらえるようでなければ資質を問われるべきなのだ。


7/11(金)曇り→雨 医師会打ち合わせ(欠)臨時病棟診療部会議 法人理事会 長副打ち合わせ
1:30起床したが眠い、人間ドック判定総括x1、医師会関連書類用意.5:20病院着、事務処理後6:30回診他.10:30-12:30外来。13:30ドック説明x1。16:30-17:15臨時病棟診療部会議.結果的に医師会打ち合わせは時間取れずキャンセル. 17:30-19:20法人理事会。19:30-20:00長副打ち合わせ.20;45帰宅21:30就眠.

マツダ「ファミリア」が消える 
 私が最初に購入した車はマツダファミリア1000であった。昭和46年のことである。マツダファミリアは東京オリンピックの前年の昭和38年に発売され、最近まで累計で1000万台を超える同社の看板車種であった。当時、私は宮古市で内科医として働き始めていたが、盛岡の両親の所への定期的訪問のためなどに月に何度か往復していたが、汽車はとても不便であったために購入した。
 昭和42年にフルモデルチェンジし,アルミ合金エンジンを搭載した2代目で新車価格は39.8〜50.5万円。これの4年ものの中古車を盛岡でディーラーをしていた知人を介して16万円で購入した。たまたま彼がマツダ関係の会社であったために、以後しばらくはマツダ車に乗ることになる。
 コラムシフトで車体は白。これで月に2-3回盛岡−宮古間を往復した。当時ガソリンは39-50円/リットルであった。これを47年秋口まで使用した。

 パワーが小さく,小故障が多い車であった。 盛岡宮古間の区界峠の長く続く上り坂で,軽自動車(当時は360cc)に追い越されそうになりフルスロットルで頑張ったが越されてしまい愕然としたこともある。 時にコラムシフトが動かなくなることがあり宮古の修理業者の世話に何度かなった。 大きな故障は三陸海岸に釣りに行ったときに小道で小石を前輪ではねたがその石が車輪の操舵関係の部品を折ってしまい前輪が「ハ」の形に開いてしまいニッチモサッチもいかなくなったことで、この時は漁船に載せて貰い宮古港に戻り,2-3日後にレッカー車で取りに行った。

 この車の最期は、盛岡日赤病院前で家内が長女を妊娠したと分かった日に,病院前で左脇から一時停止しないで進行してきたスカイラインにぶつけられ中破して迎えた。 幸い私一人だったので怪我はしなかった。 修理不能というわけではなかったが大きくへこんだ傷を見てそのまま廃車に決めた。 ぶつかる瞬間までの相手の運転手の顔もさることながら,この上もないほど恐縮して謝る同じ年代と思われる彼に,「このまま新車を買って帰りますから良いです・・,では,気を付けて・・・」と告げたときの,唖然としてまん丸く見開いた目の表情が忘れられない。スカイラインは殆ど無傷,車の側面の弱さがよく解った。

 最終版となった現在のファミリアは8代目で,誕生以来40年間親しまれてきた。1982年のピーク時には年間販売台数が年間20万台を超えたが、昨年には約1.6万台まで落ち込んでいたと言う。私にとっては寂しい限りである。 

(参考)
ファミリアの歴史
http://www.mazda.co.jp/history/familia/


7/10(木)仙台・秋田共に降雨  SARS東北ブロック緊急会議 
1:30起床。HDD判定総括x1。SARSデータ集め他.5:00出張のためやや早め病院着.回診、病棟の書類等処理。10:10担当患者不調に、代理医師に依頼10:58こまちにて仙台に。途中よく寝た。13:30-17:10SARS東北ブロック緊急会議。17:38こまち。途中よく寝た。20;10病院に戻り残務、午前の急変患者さん死去したと言う。21:30帰宅。22:00就眠。

知識を知恵に転換出来ないような正論はもう沢山だ 東北ブロック緊急会議の感想
 厚生労働省東北厚生局主催で本日仙台で上記の会が行われた。出席者名簿をみると出席要請の対象は県や保健所、医師会が中心らしく,私は秋田県医師会の感染症等危機管理対策担当として出席した。
 講演は4題。(1)SARSに関する現在までの知見ついて (2)SARSに関する疫学調査について(3)SARSに関する院内感染防止対策について(4)SARSに関する取組について

 講演の内容は日常的に情報を集めている立場からは特別目新しいことはなかった。と,言うことは,要するにSARSは終息を迎えて一段落はしたものの医学的な知見はそれほど進んでいないこと。特に治療法では評価に耐えうる効果的治療法はなく,生きるか死ぬかは本人の体力と時間の因子だけであることには変わりがない。要するに治療上でやったことは隔離政策と呼吸管理だけ。現代医療が生きていない世界。

 患者の扱いや院内感染防止についても語られた。演者の話は理論的に、内容的には正しいであろうが、マンパワーに余裕が無く,日常業務で手一杯で,かつ感染症に対する特別の装備もない一般医療機関にとって施行は困難な内容が次々と語られた。厚労省から指名を受けて講演する演者に最も欠けているのは,諸外国での貴重な経験を我が国でどのように生かせばいいのか,その視点での考察が乏しいことである。

 席上、私は都合3回にわたって病院内での初期診療、総合病院内での入院治療の困難さについて質問し,一般病院外での体制構築の必要性について質問し要望した。演者からは一定の賛同を得たが、厚労省関係者は特にコメントしなかった。病院関係者が少ないためと思われたが、この点についての援護的発言はなく,有意義な討論にはならなかった。厚労省も,出席者も本当にSARSに危機感を持っているのか,疑問である。単なるアリバイづくりでないのか???

 正論なら知識があれば誰でも,・・多分,私だって話す事が出来る。問題はそれをどのように知恵に置換していくかである。先進的立場の研究員にはその発想での,豊かな講演を求めたい。


7/9(水)曇→雨 医療行政懇談会 NHK放映  
2:00起床。人間ドック1判定総括x2、 SARSデータ集め他.5:20病院着.回診、病棟の書類等処理。9:00-13:30外来、後半混雑。13:30人間ドック説明x1。15:30-19:30医療行政懇談会.話題は「感染症等危機管理」「健康秋田21
?性教育」「禁煙」「グループホーム」。有益な討論が交わされたが時間が不足。終了後さきがけ新聞、読売新聞の取材あり、対応。新副知事を交えての懇親会、盛り上がった。私は若干のビールとオレンジジュース。19:30病院に戻り残務、若干酔って能率あがらず。21:50帰宅。22:30就眠。

患者さん用の丸椅子。あれは椅子でない,診察台の一つ
 最近、患者の立場と医者の立場を論じる時、「さん」付けか「様」付けかがしばしば話題になる、と言うか、もう決着が付いたらしく「患者様」と呼んでいる医療機関の方が多いようである。約1ヶ月前にSARS講演会が秋田であったが、演者の東北大学教授も講演の中で盛んに「患者様」と言っていた。そんなもんかね。良い講演だったがその点だけは私を苛立たせた。私は「患者様」と呼ぶつもりは全くない。

 かつては、診察室で患者が座る椅子も引き合いに出されたこともある。

 医者の椅子は背もたれと肘掛がついた立派な椅子だが、患者の椅子は、ただ座るだけの丸椅子の場合が多い。これでは如何に患者と医師は対等だ,と論じても、立場の弱い患者の象徴だ。契約に基づいた医療を行うのであれぱ、まず患者の椅子を少なくとも医者と同じ程度にすべきだ、などなど。診祭室の椅子が医者の権威主義のシンボルのようにも言われている。

 私も、医師と患者は対等だと思うが、だからといって同じような椅子を用いるべきだとは思わない。医者が座っているは確かに椅子だが、患者の座っているのは椅子でなく椅子の形の診察台なのだ。
 内科では一般的なの診察手順では、背もたれや肘掛は邪魔になってしまう。また車イスなどからの移動も、丸椅子のほうが容易、安全なのだ。
  私は通常の診察用の椅子はこれで良いと思っている。だから,人間ドック受診者の診察時には丸椅子を用意し、診察を伴わない結果説明時には私と同じ椅子を用意するのはそのためである。

 たしかに椅子は、社会的には地位や立場を表す意味にも使われ、人の人生の悲喜こもごもに大きく関わってきた。バカらしい考え方だと思うが,ある面では物理的な概能を超えた存在ですらある。病気して身も心も落ち込んでいる時に、病院でみすぼらしい椅子に座らされると、さらに落ち込む,と言う意見があるが,それは椅子に座る道具以上の意味を持たせようとするからだ。
 一日12-15時間近く椅子に座って仕事をする私は肘掛け,背もたれが無いとやっていけない。肘掛け,背もたれは肘をかけ,背をもたれさせるためのパーツであり,それ以上でも以下でもないのだ。


7/8(火)曇り 総回診 NHK収録  医師会打ち合わせ 医局カンファレンス
1:30起床,人間ドック判定総括x1、 SARSデータ集め他、紹介状返事x1.医報校正、5:20病院着。回診他。9:00-13:15外来、混雑しさすがに嫌になる。13:30人間ドック説明x1.NHK収録準備をあたふたと進める。15:00-15:45NHK収録.16:20-17:00医師会打ち合わせ.17:30医局カンファ。20:30帰宅。21:00就寝.

しばわんこの和のこころ
川浦 良枝  本体価格: \1,400  出版:白泉社  サイズ:B5変形 / 62p  ISBN:4-592-76096-4

 最近動物を介して表見するいろいろな漫画、読み物などが増えている。古くは「わが輩はネコである」などにルーツがあるのだろうか。「動物のお医者さん」にもそんな雰囲気があるし「ブッダとしったかブッダ」もしかり。人間をして語らせるよりも、動物各々のキャラクターを生かして表現すると何となく説得力がある様に思える。

 この本は柴犬の「しばわんこ」が日本の文化やマナーについて教えてくれる本でイラストの描写、可愛さもさることながら、しっかりと文献的に考察された文章が良い。絵本としても、実用書としても役に立ちそうな本である。三毛ネコの扱われ方がちょっと寂しい。

 この本は、実生活に根差した日本の作法や伝統を見やすく解説してある。日本の伝統や風習・・・、子供の時にはしっかりとその風習に沿って生活してきたが、自分の代になってからは日常からすっかり消えてしまって、記憶からも、もうかなり忘れ去られている。日本の作法には、細やかな気配りと意味が込められていると思うもののわざわざそんな本を購入して読む時間もない。その点、この本であれば気楽に読めるし、見れる。

 もしこの本の登場人物が、作法のよく解った高齢者たちだったら、あるいは作法のインストラクターだったら、写真集だったら、ほとんど手に取られることもなかったろうと思う。
 私はここ1週間ばかり、ねる前の本の数分間だけ手に取ってみているが、心が温かくなって、一日のストレスが消えて、良い眠りに誘われる。

続編も発売中


7/7(月)曇  管理会議  長副会議 
2:30起床、人間ドック判定総括x1、紹介状、SARSデータ集め他、5:15病院着.事務処理、回診他。8:00管理会議。禁煙問題時間切れで懸案として残。会議時間が不足。9:00-14:00再来+人間ドック説明x1。紹介状返事2通、医報原稿校正など。16:00-18:00長副会議。残務多数あり、療養病床定期処方20数人分提出。20:30帰宅21:30就眠。

女医さん方からクレームあり。「すみませんでした、今後注意します」
 出勤すると最初にすることは部屋のコンセントにプラグを差し込むことである.待機電力等が無駄であるし,危険なので帰宅時には全部抜いている。プリンター、マックが結構でかい音で起動し、自動的にFM音楽が流れる様につながっている。

 本日午後、ベテランのある女医さん(彼女は私にとっては常日頃から恐い存在なのだが)から、「早朝の音楽で当直の女医さん達がとても迷惑しているので止めて欲しい」、と言われてしまった。女医さん方はとても言えなかったらしく,ベテランのある女医さんに伝言を頼んだとのこと。そう言われてみれば、理屈抜きに,100%その通りである。実に耐え難たかったであろう、と深く反省した。

 私は嫌音権を主張するほど音には敏感であり、同室者がいるときはその人のたてる音だけでもかなり不快な思いをするから、自らも音をたてないようにひっそりと過ごす。勿論ラジオや音楽等は一切かけないし、かけていても、戻ってくれば直ちに消してしまう。私がその立場なら怒鳴りこんだであろう。
 
 そう言う私が音で迷惑かけていたのだからあきれた話である。

 一年前から一人になったので部屋では常にFM放送をかけている。私にとって重要な情報源でもあるし、コンピューターや室外の喧噪の中和のためでもある。更に,最近は業務が山積みために出勤時間も速まり,不協和音の多いバルトークの室内楽などを中心にかけていたので,隣室で休んでいる方にとってはホントに耐え難かったことはよく解る。ならばもっと早く言ってくれれば良かったのに・・。
 
 従来,引き籠もるのが好きで,ヒトと交わらず,ひっそりと,マイペースで過ごす方を好み,かつ,嫌音権を主張するほど音に神経質な私(ホントかいな・・と言う声もあろうが)が早朝から音楽をかけていたのは,実は,隣室に誰もいないと思っていたからである。居るとわかれば,まずかけることはない。

  更に昨年,医局秘書室に「隣室がうるさいときは壁をたたいてください」とはり紙して欲しいと頼んでいたので大丈夫だと思っていたこともある。それなりに気配りしてきたつもりであったが,迷惑になっていたとは,残念である。今は素直に謝ることしか無い。「すみませんでした・・・」で済むでしょうか??

 ・・で,別な方法を考えることにしたが,早朝,医局に誰も居ないときはホントはBGMが欲しい・・・が本音であるが,いるか否か判断できないだけに,我慢せざるを得ないだろう。我慢することにします。それでもうるさければ壁をたたいていただこう。でないと,私の存在自体を否定されるかもしれないから。


7/6(日)快晴 FF tennis 来客 
2:00起床、人間ドック判定総括x1. 総括等など数件。昨日のアルコールで眠りが浅かったのか仕事中睡魔あり低能率。10:00-13:30FF tennis、5-7,  6-4、5-7と敗退.低次元の勝負だが反省。超快晴で暑いが絶好の日和であった。14:00-15:30病院に事務処理。16:00-18:00来客あり、Vnなど..20:30就眠。

自伝 高校・浪人時代(1961〜64)(20)
新潟大学入学準備。さて、学資をどうするか
 大学合格後はどのようにして暮らすかを先ず決めなくてはならない。当時我が家では地域では裕福な方と見なされていたし、自分もどう思っていたが、現金収入としては父の若干の恩給、その他から少しばかりの収入があっただけであり、現実には先代が残してくれた資産を切り崩しながら生活していた。当時日本は成長時代に突入しており、国民の収入は増え始め、安定してきた。しかし、我が家にとってなおしばらくは食べるには困るほどではないものの、物価は上がるし、先細りであることには変わりがない。

 いろいろ考慮した結果、下宿さがしに行くのも面倒、旅費や宿泊費も無駄だし、6年間のことを考えると学生寮にはいるのが良いだろうと判断した。申込書には生活レベルや収入のことを記入する事になるが、正規の現金収入は父の恩給だけだから記載も楽、内容的には低収入となる。間もなく入寮が許可された。

 学費は高校の頃、日本育英会の特別奨学金の申し込みをすべきであったが、何故かしておらず激しく悔やんだが、もう後の祭り。後は一般奨学生(3000円/月)の道が残されているだけでこれは後に手続きすることにした。兄とは以前から約束があったので若干の援助をしてくれるとのこと、嫂も同意してくれたとのことで一般奨学生と同額の援助を頂けることになった。しかし、兄夫婦にとってこの負担はかなりなものであったらしいが、そのことは後で知る事となる。
 我が家も長期的に考えれば何時学資が途絶えるか分からない状態なので、両親と話し合って6年間分として50万円を貰うこととした。寮は当時は寮費として1500-2000円程度、食費は3食で3900円(朝30円、昼夜は共に50円で1日130円)だという。自分の子供の頃からの積み立ても10万なにがしになっていたので何とか目処が立ちそうと計算した。

 生活用品としては大きいのは机、椅子、自転車、布団等であったが、新調せずに家で使っていたのをそのまま送った。当時は記者の切符を買うと手荷物が格安で送れるシステムがあった。全部列車で送ったような気がする。


7/5(土)雨→晴れ  結婚式出席
2:00起床、人間ドック判定総括x1、祝辞準備、SARSデータ集め他、5:15病院着.事務処理、回診他。8:10人間ドック診察x5、10:30-13:00新患補助+再来。14:00帰宅。15:00弥高会館、15:30-18:40病棟の看護師川向恵子さんの結婚式、新婦側から祝辞述べる。長すぎたか。19:00帰宅、酔い今頃回って20:00就眠.

15年振り。看護師さんの結婚式に初めて出席 
 本日は当院看護師さんの結婚式があり、出席した。私は結婚式出席が苦手で親戚は別として業務関連の結婚式は殆ど欠席してきた。宮古病院、大学病院の15年間は出席歴なし。中通病院の18年間では同僚医師3人だけ。今まで医師、看護師、医療関係者の方々から100通以上のご招待をいただいたが、何れも丁寧にお断りして来た。
 特別大きな理由はないが、やはり多数の人が集まるところ、格式張った雰囲気が苦手だ、と言うことが主たる理由だったと思う。何人かお断りした後ではルールとして自分に定着し、周囲もそれを認めてくれるようになっていた。最近は招待状を手渡される際に「先生は出ないと聞いておりますが、一応・・」とコメント付きで渡される。
 本日は私が部長をしている病棟の看護師さんで、師長を伴ってのお誘いで挨拶もと言うこと。移動早々の師長の意向も大事にせんといかんし、病棟の責任者にもなってしまったし・・・・と私のルールは脆くも崩れ去った。今日もお断りした方々が多数出席していたが、「主義を変えたのですか??礼服なんて持ってたのですか?、靴もあるんですね・・」と声をかけられ恐縮した。

 親戚縁者の結婚式は出身地の岩手関連では2回のみで、そのため親戚間ではすこぶる評判が悪いらしい。家内の関連では生活圏内であり、いろいろお世話になっているためにさすがに断る理由がなくて数回、そのうち二回は媒酌人までやってしまった。

 とにかく結婚式は出席すれば、その度に良いモンだとは思う。病棟には予備軍が沢山いるようである。これからはお断りする理由がなくなったので出席の機会が増えることだろう。今日の祝辞はやや長すぎと反省した。


7/4(金)雨  医師会打ち合わせ  県医師会モニター会議
2:30起床、やや寝不足気味、人間ドック判定総括x1、紹介状、SARSデータ集め他、5:15タクシーにて病院着.事務処理、回診他。10:30-13:30新患補助+再来。新患に白血病一人。紹介状返事2通、主治医意見書。医報原稿校正など。15:00-17:20県医師会モニター会議。主たる話題は「混合診療」。医局で出前夕食。残務多数あり、21:00帰宅21:30就寝.

バイク通勤  空を,風を読む楽しみもある 
 昨日は東京往復,難解な会議・・帰秋後患者さんの急変,死亡などあり,夜遅く帰ったが,やはり疲れと眠気と気怠さがあった。こんな時の帰宅は車よりもバイクの方がいい。爽やかな風でリフレッシュされるからである。確かに,天空には星も見え,爽快であったが,途中の風に雨の予感を感じてしまった。まずい,明朝の出勤時大丈夫かな?? 果たせるかな,夜半の起床時頃から雨が降り出した。それも結構な雨足である。結局,5時頃まで晴れずタクシー出勤となった。

 ハーレーを購入してから10年は越えた。一時期大曲の外来応援にはこれで出かけていたが,そのころは起床時から出発時まで時折空を見ては情報を集め,ラジオの天気予報を参考にして列車にするかバイクにするかを選択していた。私の選択肢にはマイカーは入っていない。くるまの運転自体が嫌だから一定以上の距離ではまず使用しない。
 このころは面白いように空を読めた。雲の読み方の本,天気予報の参考書も購入して勉強し,一層自然が近くなった。空を読み,風を読み,雲を読み,バイクで行くと決断するのだが,逆に大きく読みがはずれ,途中から大雨になったことも当然あった。雨具は当然常備しているものの,やはり途中で降られるのは正直言って辛い。それでも自分の判断に身をゆだねるのは楽しかった。それ以上に自然のうつろいの妙が実感できて良いものであった。

 最近は空や風から予想を立て,更に「Yahoo天気予報」を利用して決めていたが,昨夜は多忙のあまり事前の確認をすっかり忘れていた。更に,窓を開けて空を読まずに出てきたのが拙かった。途中で雨の予感を感じてもどうしようもない。ひとしきり反省した。


7/4(木)秋田快晴→東京曇り、 日医医療関係者対策委員会(東京) 
2:30起床,人間ドック判定総括x1、SARSデータ集め他、5:15バイク病院着、重症者2名。9:00病院発,中央インター→秋田道→空港へ約30分。10:00JAS エアバスA320,小刻みの揺れあり。12:40駒込日本医師会館着. 13:00-16:00日医医療関係者対策委員会,本年も報告書作文の担当になった。浜松町で本数冊買い込む。18:15ANA,見事なほど揺れなし。上空では静止状態に近かった。男鹿沖のイカつり船の照明が美しい。20:00病院着,回診,21:33主治医帰秋を待っていたが如く患者さん死亡。23:00バイク帰宅、23;30就眠.

福田式減量法
 私の隠れた特技の一つに体重コントロールがある。今まで4回ほど減量を試み、74Kg→59 Kg、68 Kg→62 Kg、68 Kg→59 Kg何れも成果を挙げている。方法は単純で,一日一食にするだけであとは何もしない。それだけである。が、やはり減量した状態での維持は困難で徐々に増えてくる。しかし、私はまた増えてくることを決して嫌ってはおらず自然に任せている。何故なら、必要ならまた減量をやればいいから。忌み嫌っているのは下腹部の出っ張りだけである。

 私は身長175cmなので、標準体中は69Kgである。だから最大体重の74Kgの時ですら比体重(Kg/m2)は24.16で標準体重を大きくは超過したことはない。今は66.8Kgであり、比体重は21.81、全くの標準体重である。実はそれでも、私は私の考えで判断すれば超肥満体である。何故か、私は幼少時から超やせ形で成長し,身長の伸びが停止した高校生の頃は50-51Kg程度、大学卒業時に55Kg程度で、この頃は何とかして太りたいと考えていた。要するに私の身体はやせ形の状態で出来上がったのであり,増える部分は骨や筋肉ではなく,体脂肪だけであろう。だから,恐らく55-60Kg程度が良い状態なのかなと思っている。従って,

 だいたい,体重や健康法に関して常識的に言われていること,指導されていることは間違いが多い。標準体重とは何だろうか??公衆衛生学的に見れば,疫学的に見れば,確かに一定の値は出るだろうが,個々人によっても異なるのだろうと思う。医師も栄養士も,みんな三食をきちんと食べなさいと口をそろえて言う。それが健康的だと。誰が決めたんでしょうか,そんなことは。


7/2(水)晴れ  秋田県障害者歯科医療体制準備委員会  石井さん函館に 
2:00起床,人間ドック判定総括x1、秋田医報校正他、5:15病院着、最近は回診開始時間を早めなければやっていけない状況。9:00-13:30午前外来.13:30ドック説明x1。15:00-17:00秋田県障害者歯科医療体制準備委員会。病棟業務+患者家族との面会2件。賄いの石井さん、長女の婿殿の父死去と言うことで急遽函館に、数日は夕食なし、外食で行くか。19:30千秋会館レストランで夕食、喧噪であった。21:00帰宅、ネコが一人で留守番していた。21;30就眠.

少人数学級は小学校だけでない。大学にも導入を。
 最近の情報伝達・交換の驚異的進歩は、時間感覚をも濃縮しているが如くに錯覚される。この現況下で戸惑う年寄りは多く,世代を背負う若者達の気質の変わりようもまた早い。若者達は自己中心的で周囲への気配りは乏しく、要求は厳しく、自己能力に早々と諦観する等の傾向があるようだ。しかし、それなりに個性的で自由奔放に生き様を見出し、羨ましい気がしないでもない。中にはコンピューターを無二の友とし、感情も脳もデジタル化され、正論のみを堂々と吐き,他人の言葉に耳を貸さない,社会、人間関係に順応し難しい人たちも,医師として将来が懸念される人達もいる。それでも人は加齢につれて人格、良識、能力など自然と成育するものらしく。万事が捨てたものではないから面白い。

 他方、若者達の使用する言葉も短絡的,独特、難解,一方で軽薄なのにも驚く。言葉はその時代を反映しているとはいっても日常慣用語はともかく、どうなっているんだと大いに危倶きれる処である。
 一年ほど前,講演でJRにて移動中,折からの台風のもと八郎潟に向かったが,途中2時間ほど田圃の真ん中で走行不能になって車中に閉じこめられたことがある。目の前の席には大学の運動部員らしき数人がいて大声で話していたが,この間,「死にそうなほど」「死んたけ・・」「むかつく」「吐き気がする」・・・の単語が数10乃至100回は用いられていた。実に気楽な言葉に成り下がったものである。催吐剤でも大量に与えて実際の気持ちを味合わせてみたいものである。多分二度と言わなくなると思う。

 現在の気質の変化には,直ちに結果が導かれ,見せられる映像・情報化も大いに関係している。何か命題を与えるとサッと上手に情報を集めてくるが,自分で考えていない。学生達に考えさる余裕を与えないマスプロ教育・・にも大いに問題があるのでは無かろうか?

 私は小人数の寺子屋方式の教育に注目している。医学部以外では今も学生が各研究室に分散され、セミナー教育、卒論作成など、この寺小屋教育の変型とみられる方法が連綿と継承されている。医学部は一部臨床実習にこの型を見うるのみである。平成16年度からは法人化もなされる。この際、画一的医学教育から脱却し、各大学の個性的教育に委ねられるというが、現代の学生には,教職員の自己再研鑽の面も含めて,この寺子屋式教育方法を再考する好機と期待される。
 小学校の少人数教育の必要性は言われて久しいが,大学教育にも必要になってきているようだ。


7/1(火)曇り 総回診(欠) 医師会打ち合わせ 医局会
2:00起床,人間ドック判定総括x1、紹介状2部、5:15病院着、9:00-13:30午前外来.13:30ドック説明x1。14:30-16:30病棟業務。16:00医師会打ち合わせ。17:30-18:30医局会。20:00帰宅、Vn若干、21;00就眠.

センス・オブ・ワンダー(1996/07) 新潮社
レイチェル・L. カーソン (著), Rachel L. Carson (原著), 上遠 恵子 (翻訳)

価格:¥1,400
新潮社「センス・オブ・ワンダー」は、かつては自然写真家森本二太郎氏による日本の自然の写真が用いられていたが、氏が現地で撮影した写真で置き換えた新版が発行され、私はこれをとある女医さんから戴き,感心して読んだ。

 著者のレイチェル・カーソンは、1907年5月ペンシルバニア州生まれ。幼いころから自然と本が好きで作家になることを夢見ていたという。大学で生物学を学び、海洋生物研究所で海に出会う。エッセイ「海の中」,「潮風の下で(Under the Sea Wind)」,「われらをめぐる海((The Sea Around Us))は、世界中に知られるベストセラー。次いで、広く使用されていたDDTをはじめとする殺虫剤、除草剤、その他の化学物質が環境や生物に世代を超えて与える影響を告発した「沈黙の春 (Silent Spring) 」を執筆し,その最中に癌で死期が近いことことを知るが、強靱な精神力で4年かけて完成。死に際しても、自然の営みとして静かに受容、1964年4月14日、メリーランド州の自宅で56歳で死去した。

 彼女が亡くなった後に発刊された「The Sense of Wonder」は米国のメイン州の海岸、森の美しい写真と共に小さな子供に自然の素晴らしさを自然の中で感じさせることの大切さが簡潔な文章で書かれている。
 これを読んで教えられたことは、子供に備わった神秘や不思議さに目を見張る感性は,感動を分かち合ってくれる大人が最小限一人側にいる必要があると言うこと。 美しいとか素晴らしい、楽しいと言った感覚は,幼いときに語り聞かせ、体験させないと発達しない,ということであった。
 私たち日本人は四季折々の自然の美しさを愛して来たという。しかし今本当にそういえるのだろうか。些か怪しくなってしまっている。

 人間は他の哺乳動物に比べて,はるかに未熟な状態で生まれてくることを私はいつも疑問に思っていた。しかしそれは,人間としての可能性を伸ばす素養を身につける受容体を白紙のままにしてこの世に生を与えてくれたのだ,と考えるようになった。だから,成長する間の環境がその個人に重大な影響を及ぼすことになる。特に10歳位までに周囲から,特に家庭環境から,両親から受ける影響は特に大きく,それによって如何様な人間にも変わりうるということだ。だから,複雑な人間社会を形成することになり,一方では種々の文化を作りうるのだと思う。大部分が備わって生まれてくる動物たちには大きなキャパシティは備わっておらず発展する可能性は自然淘汰ぐらいしか無く子供を産み育てると言うことは,とても意義あることでもあり,恐ろしい事でももあるのだ。

 ここでもう一度掲載しておきたい詩がある。昨年の6月23日に紹介したドロシー・ロー・ホルトの「子ども」である。何故か,私の心に深く入り込んで忘れることの出来ない詩である。「センス・オブ・ワンダー」の家庭版,人間版といえるものだと思う。あえて再掲したい。 

批判ばかりされた 子どもは       非難することを おぼえる
殴られて大きくなった 子どもは     力にたよることを おぼえる
笑いものにされた 子どもは       ものを言わずにいることを おぼえる
皮肉にさらされた 子どもは       鈍い心の もちぬしとなる
しかし、激励をうけた 子どもは     自信を おぼえる
寛容に出会った 子どもは        忍耐をおぼえる
賞賛を受けた 子どもは         評価すること をおぼえる
フェアプレーを経験した 子どもは    公正を おぼえる
友情を知る 子どもは          親切をおぼえる
安心を経験した 子どもは        信頼を おぼえる
可愛がられ 抱きしめられた 子どもは  世の中の愛情を 感じとることを おぼえる


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。

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