徒然日記
2015年8月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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8/31(月)曇り 健康クリニックドック 飯川病院 
 1:00起床。腰臀部痛かなり楽になってきている。文献チェックその他。8:20家内の車で飯川病院。9:00-11:00健康クリニックドック診察と結果説明。文献検討、12:00飯川病院へ 14:00-18:45勤務。レセプトチェック一部。Blu-ray Disc視聴:「趣味の園芸;夏キウリ」、「戦後史証言プロジェクト:公害問題」、「BS1sp:ホンダF1復帰」、「サイエンスゼロ:ウエアラブル端末スポーツ革命」、「オイコノミア;水族館と経済学」、「知恵泉:交渉力ー小西行長」、「戦後70年日本の肖像;政治のあゆみ 吉田岸vs岸」、「戦後は輝いていた:花火」観る。19:30帰宅、夕食。就寝。歩行Σ7133Km。

東京裁判の見直しに賛成(2) 自民党内で否定的意見??
 2013年3月、国会で戦争の総括を求められた安倍首相は「東京裁判は勝者による不当な断罪であった」としなからも、「政府による総括はしない」としている。
 稲田氏は、裁判について「判決は受け入れる」が、「事後法による載きであり、法律的に問題」との立場で、裁判で出された証拠や立証方法などをめぐり、連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策も含めて再評価したい考え。

 私は、この考えで自民党としての再評価をして欲しいと思う。

 出すまでの間大騒ぎした安部首相の戦後70年談話は、当初の首相の意気込みが抑制された内容となった。賛否両論であるが、米政府は一定の評価をし、中韓両政府も抑制的な反応で安堵した経緯がある。この様な談話がいかに首相といえ個人的な歴史観でまとめられたら問題である。その点、私的諮問機関とはいえ有識者懇談会が一定の見解をまとめ談話に盛り込まれたことは意義があった。有識者懇談会の意見は戦争に関する一つの総括案である。

 新聞報道によると、稲田氏の東京裁判再評価の動きに対して与党内では「近隣諸国から歴史を修正する試みだと疑念を招く恐れが拭えない」との見方が根強い。

 代表的意見は以下のごとく。
# 自民党ペテラン議員は「東京裁判の否定だと受け取られれば、対米関係に打撃となる」と指摘。
# 若手議員は「談話で大きな反発が起きなかったのに、ここで対応を誤れば批判されることになる。そうした事態は避けるべきだ」と再考を促す。
# 河野元衆院議長も「自民党」が歴史修正主義の種を持っていると思われても仕方ない」と批判。
# 公明党議員は「歴史問題に中韓は敏感だ。来年の参院選をにらみ経済対策に専念する方がいい」と警告した。

 この意見はすべての意見を代表しているわけではないだろうが、この姿勢こそが問題なのだと思う。近隣外国の顔色ばかり伺っている。
 我が国では一般的に歴史的事象に対する総括、再評価の姿勢が乏しい。最近のことでは原発事故が挙げられる。特に時の政府の対応などはかなり問題があったと思うが、十分な総括はなされていない、

 私は困難ではあろうが、東京裁判にとらわれず、広い視野で歴史の流れを再検討し、多くが納得できる総括を行うべき時に来ている、と思う。稲田氏の今後の動きに期待している。


8/30(日)曇り 安静休養に徹する
1:00起床、昨日以来体の疼痛は軽減しつつある。本読み、データ整理他。午前は書斎の整理、不要物廃棄など。家の周り雑草ぼうぼうだがあえて無視、安静に徹する。16:00飯川病院へ回診と花壇の散水、18:00帰宅、19:00夕食。Blu-ray Disc視聴:「フランケンシュタインの誘惑〜毒ガス兵器開発」、歩行Σ7128Km。

「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(5)  2週間経過しやっと改善傾向に
 今月16日に志戸平温泉「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、背面を下にして落下、頭部と右側の腰背部・臀部を強打した。頭部からの出血激しかったが、さいわい四肢に異常なく、歩行出来たのでなんとか自力でホテルまで戻り、救急病院で頭部の検査と止血処置を受けた。頭蓋内に問題は無かったが、受傷後2時間してから腰背部・臀部に広範な腫脹と疼痛が発来した。その後、数日間にわたって腫脹疼痛は増悪した。

 受傷から本日で2週経過した。速いものである。
 第1週目は発熱、日々増悪する腫脹・疼痛、日々変わる症状に耐え、大曲出張を含め穴を開けずになんとかこなした。外傷だから時間と共に徐々に軽くなるだろうと甘く予想したが、実際には腫脹が改善し始めた第2週目の方が疼痛がひどくなり、痛みの性質も先鋭化した。ちょうど、厚い雲と霧に覆われて見えなかった島々が雲と霧が晴れるに従ってゴツゴツした岩肌の島が現れてくるような感覚である。

 自覚的には2週目の方が辛く、業務はなんとかこなしたが、午後は寝たり起きたりで過ごした。
 昨日・本日はさいわいフリーだったので自宅で安静を保持してた。

 増悪する疼痛はあったが、経過の推移から見て腹部臓器の破裂などは考えなかった。しかし、左背部肋骨骨折、右腰部椎骨骨折、右腸骨骨折などと、それに伴う出血もありうる、と考えながら過ごした。しかし、レントゲン検査や整形外科受診などしなかった。例え、骨折の診断がついても積極的治療はないだろう、と考えたからである。この辺は甘い判断と責められてもやむを得ない。病状を観察するために鎮痛剤などの薬物は一切用いなかった。

 37-38℃ほどの発熱と熱感は筋の挫滅などによる非感染性の炎症、出血とその吸収熱と考えた。現実に出血があったと確認したのは一週間後である。背部、臀部、大腿部屈側には広範囲に出血が染み出し、そこに新たに疼痛が広がって来た。かなりの出血だったと思われた。それも、徐々に吸収されて本日の段階ではその色調は薄くなりつつある。

 2週間経過した時点のまとめ。
(1)後頭部座裂創。傷は小さい。5日前に抜糸した。かさぶたをいじるとまだ出血する。
(2)後頚部痛。いわゆる鞭打ちのようなものか。結構辛いかったが改善傾向。
(3)背部臀部の擦過傷はかさぶたも取れ綺麗になった。
(4)右背部痛と呼吸困難感。受傷4日目から出てきた。肋骨骨折も否定できないとも思うが、多分違うだろう。
(5)腰臀部の疼痛、先鋭化した疼痛、帯状に触覚脱出を伴っていることから椎骨の一部、腸骨の骨折も否定できない。ただし、検査していないので確証はない。
(6)腫脹して大きく膨れた臀部、ヘソが右に2cmほどシフトするほどの腰部の腫れは実感として半分程度に縮小した。疼痛はまだ続いている。
(7)皮下に滲み出始めた血液から、腰部・臀部の腫脹のは局所の浮腫と出血だった。思いがけないほどの出血は、脳梗塞再発のために服用している抗凝固薬のプラザキサの薬効と考えられた。服用開始約2年であるが、初めて体感した出血の副作用である。やはり効いていたのだ、と今回初めて実感した。
(8)多分、本日以降は順調に改善していくと思われる。
(9)時間が経って冷静に今回の自傷事故を考えると「極めて危険」な状況と紙一重であった。もう少し頭を強く打っていたら、四肢に骨折とかが生じていたら、内臓破裂でも生じていたら・・・と考えると恐ろしくなる。無謀な単独行動を反省するとともに、今回も幸運に恵まれたことを感謝したい。



8/29(土)快晴 腰臀部痛のため安静休養に徹する 
 1:20起床、腰臀部痛不変?新聞・文献他、本読み。週末の休日を安静休息を取りながらゆっくり過ごす。微睡。午前は主に読書、微睡。午後は書斎を整理しつつ乱雑にしまい込まれた写真などを電子化開始。16:30溜め込んだBlu-ray Disc視聴:「N響1810回定期演奏会:マンフレッド序曲、メンコン、ブラNo2」など、微睡。19:00夕食、20:30就寝。歩数計7125Km。

東京裁判の見直しに賛成(1) 政治的判断と歴史認識とは同じでない
 稲田政調会長は6月中旬に、連合国が日本の戦争指導者を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)を検証する組織を党内に立ち上げたい、との意向を述べた。具体的には、安全保障関連法案を9月中旬に成立させた後に、東京裁判を検証する機関を発足させ、東京裁判で裁かれた満州事変以来の歴史について、占領期間も含めて政治家自身で総括、検証し、反省すべき点をしっかり明らかにして将来に生かしたい、とのことである。

 日中戦争、太平洋戦争を日本人が客観的に総括することは歓迎すべきことだ、と思う。
 例えば、原爆投下に至る過程にも、終戦前夜の土崎空襲にも、日本の戦争指導部の判断ミスが絡んでいると思うが、日本人自ら検証もせず東京裁判という身勝手な評価に任せたままにしていることである。東京裁判は、法廷の設置自体も判断基準も曖昧である。東条首相らA級戦犯らに罪を無理やり押し付けている不当な裁判である。

 戦争の総括をめぐっては、終戦直後の1945年末、当時の幣原首相が「戦争調査会」を内閣に設置。連合国の了承を得て活動していたが、作業が具体化するとソ達や英国が中止を求め、翌9月に廃止されている。だから、日本人の手になる公式の総括はない。あるのは歴史家の個人的な総括である。もう70年も経った。新しい情報も公開されている。もう歴史を見直す時期である。

 この東京裁判の正否をめぐって歴史学会だけでなく、言論界、時には政界で論争が繰り広げられ、今なお議論が続いている。しかし、この論争はどんなに繰り返しても限界がある。議論か収斂していかない。その理由の一つは日本人の手による総括がないこと、もう一つは日本政府がサンフランシスコ平和条約で東京裁判を受け入れていることである。

 私は歴史の評価と政治的判断を分けて考えればいいと思う。平和条約で東京裁判を受け入れた事の問題点を蒸し返すのではなく、より納得いく検証と評価である。その時代時代に行われた政治的判断の過程は多様であり、意義は重い。しかし、政治的判断があるからと言って、より客観的な歴史の評価を放っておくのには納得できない。

 あの戦争は日本人にとって何だったのだろうか。個々人が考える問題でもあるが、そのためにも頼りになる拠り所が欲しい。


8/28(金)晴天 大曲中通病院外来 飯川病院ボランティア 職員検診 
 1:20起床、腰臀部痛若干良いか?新聞・文献他、本読み。5:10ゴミ出し。7:40Taxi、8:10こまち、痛みのため駅・病院間徒歩は無理。9:00-13:10大曲中通病院外来。15:00駅から健康クリニックTaxi利用、職員検診受けた。飯川病院ボランティア。18:45Taxi帰宅、夕食、20:30就寝。Blu-ray Disc視聴:「BS1sp;極秘指令ウラン燃料回収」、「Cool Japn:数の不思議」。歩数計7122Km。

書評:アメリカの戦争責任 竹田恒泰著 PHP選書 2015年
 私はここ数年日本の歴史、特に明治以降の近代史、その中でも第二次世界大戦に結びつく時代の流れについて学び直している。それまでは私は勉強不足であったし、本当に無知であり、思えば恥ずかしい限りであった。
 今は自分でも歴史的事象について自分なりの考えも交えて論じることもできるようになった。歴史の勉強は楽しい。
 
 日本が何故アメリカに対して開戦せざるを得なかったのか、その開戦の最終判断は誰が下したのか、開戦に当たって我が国が犯した国際法的問題は何だったのか、などなど勉強している。とは言ってもまだまだ不足である。

 日本が疲弊しほとんど戦闘能力を欠いた状態で始まった非戦闘員を殺戮を目的とした本土空襲はなんたる理屈をつけても明らかな国際法違反である。いや、国際法を持ち出すまでもなく人道的視点から見ても最大の犯罪行為である。加えての2発の原子爆弾投下は戦略上なんら意味を持たなかった暴挙である。トルーマン政権下において一度も原爆投下の是非を検討した痕跡はない、という。トルーマンはひたすら投下に向けて突っ走った。

 その理由は以下が挙げられている。
# ソ連に対しての優位性の確保
# 原爆制作の費用の正当化 
# 前政権から引き継いだ「空気」
# 人道精神の欠如
# 日本人を獣と呼んだ人種差別意識
 
 これのどれを取っても原爆投下の理由にはなり得ない。トルーマンは己を正当化するために原爆神話を作り上げた。今でもアメリカでは原爆神話は広く信じられており、トルーマンは英雄視されている。
 歴史上大量殺戮を行った国の指導者は少なくない。その中でも、私はトルーマンを人類史上最大の悪人だと評価している。

 この付近のことを学ぶ過程で不思議なのは日本人自らがやるべき評価を欠いたまま戦勝国による東京裁判という身勝手極まりない評価に任せたままにしていることである。だいたい東京裁判自体に根拠がない。

 竹田恒泰著「アメリカの戦争責任」はこのような視点でまとめられた貴重な資料である。著者の竹田恒泰氏は1975(昭和50年)生まれ、皇學館大学日本社会学部非常勤講師。専門は憲法学・史学。旧皇族の竹田家に生まれた。そのせいか天皇に関する記述は丁重で丁寧である。

 本書は著者独自の視点もふんだんに盛り込んでいるからとても面白い。私もそういう風に評価できるレベルになった。私にとって新しい知見も少なくないが、断片的で体系化されていない私の知識を整理するのにとても役立った。


8/27(木)晴天、外来 飯川病院 
 1:00起床。腰痛・臀部痛はよりシャープに。昨日より痛い。時折激痛走る。何度も風呂で温める。文献読み、PDF化他いつもの如し。7:55家内の車で飯川病院着、8:45-13:00外来+人間ドック判定総括16名分。患者から診療時の私の発言について抗議あり。傾聴す。14:00-18:50飯川病院。19:10帰宅。夕食。20:10就寝。Blu-ray Disc視聴:「林修世界の名著;漱石こころ」、「英国一家:懐石料理」、「バクモン:パルスパワー」、「オイコノミア;やる気が出る経済」、「知恵泉;西郷流」など。歩数計7117Km。

医療の時代と死生観(6) 医療の歴史を振り返る(4) 戦後日本人は死を忘れていた
 8月は、お盆を中心に各家庭でご先祖様の霊を迎える行事を行い、墓石に手を合わせ、寺の本堂でご先祖を忍ぶ。ヒロシマ・ナガサキに原爆が落とされ、秋田の土崎の空爆もあり多くの方々が亡くなった。240万ともされる戦没者に思いを馳せ、靖国の意味についても考える時期である。

 こんな行事を通じて、おのずと「死」が身近に感じられる。

 日本は2005年から人口減少社会に入った。人口問題研究所の推計によると、高齢化は一層進み、05年に約108万人だった死亡者は2040年ごろには170万人にもなる。既に高齢者の死は日常茶飯事になってきている。秋田県の新聞の訃報欄は掲載しきれず、県南、県中、県北別に分けられて掲載される。

 戦時中は「いのち」は個人のものでなく、国民は天皇のものと考えられ、「いのち」が軽視された時代であった。戦後「いのち」の尊さを個々人が味わうことが出来るようになったが、逆に「いのち」、「死」を正面だって論じることは少なくなった。特に高度成長期を迎えることから、医療の世界ですら「生老病死」は忘れられ、患者の「死」は医療の敗北とさえ見なされた。現代人は「いのち」と「死」と「あの世」についての思考を放棄した。

 日本は高度成長期を迎え、すべてがスケールが大きくなり、スピードは速くなり、個人の生活も豊かになった。この時代に社会に出て、身を粉にして働いた、いわゆる団塊の世代の方々にとっては人生設計を全て右肩上がりに設定できた。
 すなわち、住宅を購入し、自動車で移動も便利になり、家事は電化し、暖冷房を含め生活環境も自由に調整出来る様になった。同時に、国民皆保健制度が施行され、医療医学が発展し、従来であれば救命出来ない様な重症な患者が助かる様になった。わが国の平均寿病も急速に伸びた。
 
 その結果、生きていることのリアリティーは喜びとともに十分に味わうことが出来たが、「死」の意味が見えなくなり、生活の中で「あの世」、「死」の実感が希溥になり、語らなくなった。「あの世」への思いと「死」とへの思いは表裏一体である。現代人は「死」について深く考えることをやめ、つとめて「死」を忘れて生きるようにしてきた。

 私など、医師になってからいままでずっと診療や講演を通じて人の「生老病死」を説いてきたが、さっぱり効き目が無く空しい努力であった。この主張が徐々に通じるようになったのは少子高齢化が現実のものとなり、医療費の窓口負担が増やされ、介護保険の負担が増額され、年金が減額され、かつ、生きる意欲が萎えた孤独な老人が増え始めてからである。

 「いのち」の問題を社会保障の経済的問題にリンクさせて論じることは我が国では忌避される。政治家がそんなことを言うと強いバッシングを受ける。が、高齢者医療の考え方は、「いのち」に対する考え方、死生観を変えていかなければ解決出来ないと思う。

 政府は社会保障費を、特に高齢者の医療費を出来るだけ縮小しようといろいろな策を提起して来る。しかし、制度や経済の締め付けだけからの発想は高齢者いじめにも繋がるし、「いのち」の価値にダブル、トリプルスタンダードを持ち込むことになり、社会のひずみを拡大することになる。

 各人が「いのち」を緩やかな曲線ととらえ、何れは消え去って行くのだととの発想に立てば全てが解決に向かう。
 必要な医療を受けながら、医療が発達しておらず、「死」がもっと身近にあった時代の感覚、すなわち「死生観」の確立に回帰することである。
 
 これは退歩ではなく、現代における生き方のための新たな進展なのだ、ととらえたい。


8/26(水)快晴・早朝は冷える 外来 飯川病院ボランティア
1:00起床。疼痛は腰痛・臀部痛にまとまりよりシャープになってきた。時に激痛走る。耐えるのみ、時折横になりながら、文献・新聞ほか処理、読書。7:55家内の車で飯川病院着。8:45-13:00外来。書類等処理をやっとこなす。14:30迎えあり帰宅、休息日とする。Blu-ray Disc視聴なし。午睡とる。19:00夕食、20:就寝。歩数計7114Km。

医療の時代と死生観(5) 医療の歴史を振り返る(3) 疫病は政治をも変えた
 古代の遺跡から発掘された骨には慢性的な疾患の痕跡等を見ることができる。

 縄文時代まで遡ってみれば、外傷の後、骨折の治癒像を示している。その当時の生活の厳しさを物語っている。これらの幾つかは当時の強靭な意志力、生活力や自然治癒の威力をまざまざと物語っている。そのほかにも関節炎、ポリオの後を持つ骨も見つかっている。これらの多くは疾患の罹患後も相当長く生存したと考えられ、当時も家族によるケアがなされてたことを示している。

 弥生時代になると、結核や梅毒を病んだ骨が現れる。江戸時代の遺跡から無数に発掘される。結核は20世紀に抗結核剤が見つかるまで人類を苦しめ続けた。梅毒はいまは抗生物質で治るようになった。かつては無数の命を奪った天然痘は現在地球上から撲滅された。ひとつの病が洽るようになっても、エイズ、エボラ出血熱、重症急性呼吸器症候群(SARS)、MERSのように別の病、多剤耐性感染症などが現れて、人類を悩ませ続けている。

 歴史の推移を疫病や疾病の立場から論じている文献は少ないが、実際には歴史の転換に病気が大きな意義を持ってきた。身分制度が明らかであった時代でも、流行病や疫病はどんな身分の人も分け隔てなく罹患した。西欧におけるペストの流行が契機となって民主化の機運が開かれた。

 古代では、神が疫病を支配すると信じ、疫病が広がるのは天皇の失政に対する神々の怒りの現れであると、天皇自ら天に向かって神の怒りをやわらげるために大々的な祈祷を行った。当時も原始的な医療・医術はあったと思われるが、近代以前は無力な医療より祈祷が信頼されていた。日本書紀、新日本書記には天皇の迷いや悩み、疫病を乗り切るための努力が頻回に記載されている。

 しかし、時代と共に疫病が海外から人と共に入ってくること、伝染病は人から人へと感染するらしく、病人を隔離することが効果あるらしいという考えが生まれた。拙い政治と疫病は関係ないことがわかった。

 そして近代になって、伝染病の予防法を教えた西洋医学が我が国に伝わり、それまで一斉を風靡していた漢方医療を凌駕し、我が国は西洋医療一辺倒ととなった。
 
 いかに科学が発達しても、人間は自然の中でその一員として生きていかねばならない。あれほど恐れられた天然痘が科学の力で撲滅されたが、自然は簡単に引き下がらない。人間と感染症との戦いは終わりなく続く。また、ここ半世紀余りは生活習慣病といった新しい概念の病気が蔓延している。

 近代医学は、病気の原因を科学的に明らかにしてきている。しかし、病に悩むわれわれの多くはいまでも、病からの回復を神に折り、健康を祈り、神社仏閣に詣でる。私どもは科学が発達した現代で先進的な医療を受けながらも、結局は、人は科学の領域を超えた広大無辺な自然のなかに生きていること、自然の威力には結局は逆えない、科学でも解決できない分野があるのだ、という限界を察しているからだ。

 現代の医療は、治療法も格段に進歩し、公衆衛生がすすみ、病を予防することが出来るようになった。それでどれだけ多くの人々が助かったか。歴史を見るとその重みがよくわかる。

 しかし、人の老病死に対する不安は時代と共に質的には大きく変わったが、消えることは全く無いようだ。
 私はこのことこそが重要だ、と思っている。いまは医療の時代である。だから、いま生きるものにとっては時代に沿った死生観の確率が求められる。それが不安に対峙する一方法である。


8/25(火)快晴  外来 飯川病院
 0:00起床,論文読み、データ処理・整理他、5:45家庭ゴミ出し。8:10家内の車で飯川病院着.8:45-13:15中通病院外来+書類など。14:00-18:50飯川病院勤務、19:15夕食、20;45就寝。Blu-ray Disc視聴:「久米書店;キラキラネーム研究」、「サイエンスZERO:遺伝子が明かすネコ」、「ありえん世界:ブータン」、「林修;世界遺産ミステリー、脳梗塞・通風」、など。歩数計7110Km。

医療の時代と死生観(4) 医療の歴史を振り返る(2) 子どもの成長と通過儀礼
 たとえ母子ともに無事に出産のハードルを乗り越えても、新生児は天然痘や消化不良でぱたばたと死んでいった。

 天然痘は中国・朝鮮半島からの渡来した人を介して伝播し、6世紀半ばに最初の流行が見られたと考えられている。735年から数年間西日本から畿内にかけて大流行し、高位貴族も相次いで死亡し、朝廷は大混乱に陥った。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行である。

 天然痘の死亡率は20-50%とされる。当時、麻疹と並び子どもや若者の命を奪う2大感染症であった。そのため、天然痘を無事に乗り越えたときに、はじめて誕生を祝い、名前をつけた地方もあった、とされる。また、麻疹を乗り越えて一人前、と評価する風習もあった。

 天然痘、麻疹を乗り切ったとしても一人前に成長するまでに、命を脅かす様々な感染症が多数あった。現代医療の発達した中で生きる我々とは次元の違う世界であった。だから、子どもの成長にあわせた祝い事、すなわち通過儀礼が重い意味をもったのである。

 それらを拾ってみると以下のようなものが挙げられる。

# 帯祝い。妊娠5か月目の戌の日に、腹帯を巻く。
# お七夜。誕生7日目の祝い。
# お宮参り。男児は生後31、32日目、女児は32、33日目とされる。
# お食い初め。生後100日目の子どもに、食べものを食べさせるまねごとをする。
# 初誕生祝い。満1歳の祝い。
# 初節供の祝い。女児は3月3日、男児は5月5日に祝う。
# 「七・五・ 三」の祝い。三歳は乳児から幼児への成長(髪置き)の祝い、五歳は男児から子どもへの成長 (袴着)の祝い。七歳は女児から子どもへの成長(帯解き)の祝い。
# 「十の峠」の祝い。
# 「十三詣り」の祝い。
# 「成人式」の祝い。

 私など子どもの安全がほとんど確立した時代の子育てで、これらの通過儀礼を意識したことはあまりない。「七・五・ 三」の祝いだけは親の責任の一つと、3人まとめて護国神社にて一回で済ました。恥ずかしながら、写真で証拠を残しておくというよこしまな目的もあった。

 しかし、医療が発達していなかった当時、いつ急にいのちが奪われるかわからない時代、親・親族たちは常に不安を抱えて子育てしていたと考えられる。これらの通過儀礼の一つ一つが神への感謝と、その後の子どもの健やかな成長の祈願という、大きな意味を持っていたことを、今回医療の歴史を見直して再認識した次第である。


8/24(月)晴れ、健康クリニック 飯川病院
 1:30起床。文献・新聞、医学論文チェック、その他。8:50家内の車で飯川病院着。9:00-11:00健康クリニックドック16名。11:30飯川病院、左背部痛左上腕痛他で休息。14:00-18:45勤務、19:10帰宅、夕食、20:45就寝。Blu-ray Disc視聴:「池上世界は今;中国経済、ギリシャ、北朝鮮他、米国の現況」、「玉音放送を作った男たち」、「NHKsp:日航機123便空白の16時間」など。歩数計7106Km。

医療の時代と死生観(3) 医療の歴史を振り返る(1) 出産を例に考える
 現代人にとって誰もが健康への関心か一段と高まっている。健やかに、長生きをすることを望み、そして、最後はポックリ死ぬことかできればと思っている。医学や医療は、誰にとっても多かれ少なかれ関心のある話題である。
 しかし、ことはそう都合よく進まない。これが現実である。
 
 最近のメディアには私の目から見てほとんど効果が期待できないような健康食品、健康法などが頻繁に取り上げられ、TVの健康番組はいずれも高視聴率を記録している。それだけ国民が求めているからとも言えるだろうが、メディアは売らんがために視聴率を上げんがために番組で取り上げる。まるで、これらのアドバイスに沿ってお金をかけていれば、なんら努力をせずともいつまでも若さを維持できて、長生きできるような錯覚に陥る。健康維持には王道はない。楽をして得られる健康法などない。無責任だ、と思う。

 医療・医学の歴史を振り返ると、医療の発展の素晴らしさにひたすら感嘆するだけである。しかし、表裏一体のほころびも見えてくる。また、自然界の生物達の生き様を見る時に、私ども人間も本来彼らと同様に素晴らしい自然治癒力をもっているはずだ、と教えてくれる。しかしながら、人間の場合はもはや科学的と言われる人工的な医療環境の中で自然治癒力は宛にされなくなった。実際には、超近代的医療の中においても医療の最後の拠り所は自然治癒力、生命力である。

 昔は人間は胎内にいるときから危険にさらされ、生まれたあとも、さまざまな危険が待ち受けていて、健やかに生きることは容易ではかった。
 生まれること自体、産むこと自体危険を伴っており、実に大変であった。

 歴史中の人物で、お産で命を落とした例の記録は枚挙に暇がない。宮廷貴族社会の生活史の記録でもある『栄花物語』は平安時代後期の古典で女性の手になる物語風史書で,全40巻、1092年までの2世紀にわたる時代についての記述があるとされている。
 この中に、村上天皇中宮安子から白川天皇女御道子まで47名の妊娠・出産が記述され、中宮安子を筆頭に後朱雀中宮まで11名が妊娠・出産に伴い死亡しているとの記載がある。死亡率は実に23.4%にもなる(佐藤千春 お産の民俗 日本図書刊行会 1996)。

 この当時の医療はどのようなものであったかは想像も出来ない。身分の高い高貴とされる方々の環境だから記述として残っており、状況を類推できるが、一般庶民の出産はもっともっと危険で、悲惨であったと思われる。

 この歴史から間接的に知ることが出来るのは人間の妊娠出産が基本的にいかに危険なものなのか,ということである。妊娠中の各種の合併症、出産困難、出血だけでなく,出産後の感染症に対しても当時はなすすべは無かったはずである。
 当時、若い人たちの死も珍しくはなかったと思われるが,妊娠出産に関連して死亡した産婦は成仏できずにこの世をさ迷うと言った民話や言い伝えは多数もある。特に出血死した産婦の死は悲惨だったと思われ、下半身血まみれの状態の亡霊として現れ、「私の赤子を抱いて欲しい・・」と赤子を差し出すと言う話は民話、怪談として各地に伝わっている。そして、成仏し得なかったそれら亡霊は次の妊産婦にとりつき妊娠出産の邪魔をするとされ、死亡した妊産婦については特別丁寧に弔ったとのことである。

 医療の歴史を振り返ってみれながら、私は今の世に生を受けていることに無上の喜びを感じる。私は当時なら絶対に生きながらえることはできなかった。


8/23(日)快晴 飯川病院日直
 1:30起床、新聞文献チェック。本読み、データ整理他。7:00ネコ関連清掃、8:00バスにて飯川病院、8:30-17:00日直。入院患者は比較的落ち着いている。時に横になりながら本読み。新聞資料化など。Blu-ray Disc視聴:「ピンポイント;サメ、高校野球歴史、名場面」、「団塊スタイル:老後と快適整理」、「歴史列伝:東郷平八郎」など。17:00散水後車帰宅、新聞資料化。この一週間畠・庭手入れ不可でった。19:00夕食。20:30就寝。歩行Σ7100Km。

「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(4)  1週間経過 日々うつる症状
 本日23日は受傷後1週経過した。速いものである。今週の業務は大曲出張を含め穴を開けずになんとかこなしたが、発熱、日々変わる症状を観察しつつ、疼痛に悩みつつ、自業自得でこの程度で済んだのは幸運と、じっと味わい、耐え、適宜休息をとりつつ過ごしてきた。

 この間の経過。

 # 8月16日(日)(受傷当日)、9:40頃、志戸平温泉郷「薄衣の滝」を見に行き2mほどの高さの斜面を滑落し、背面を下にして落下した。頭部からの出血激しかったが、なんとかホテルに戻り、次男の車で救急病院に受診した。頭の検査と処置が終わる頃から、徐々に右脇腹、右臀部に違和感を感じ、全体に腫脹し始めた。救急医は内臓破裂等の疑いがあり、検査を勧めてくれたが、やんわりとお断りし、夕方秋田に戻った。それでもこの頃は疼痛は少なく体動歩行に大きな支障はなかった。
 # 17日(月)(受傷1日目)頸部、腰背部、臀部の疼痛が強まり体動も辛くなった。右臀部は通常の1.5倍ほどのサイズに腫れ上がり、右背部から側腹部も同様に固く腫れた。ヘソが2cmほど右に変移した。救急病院からの紹介状あり脳外科を受診、頭部外傷の程度はそれほどでもなく、脳外科医からも腹部CTと整形受診を勧められた。実際に37-38℃ほどの発熱と熱感、腰背部疼痛他が増強したのはこの後である。
 # 18日(火)(受傷2日目)発熱と熱感、腰部から臀部にかけての腫脹感と腫脹やや増悪。右腰部に帯状の知覚鈍麻域が現れた。腰椎にも若干影響したのかも??歩行開始、体動時の腰痛・大腿痛など増強。
 # 19日(水)(受傷3日目)発熱と熱感、全身痛続く。
 # 20日(木)(受傷4日目)発熱と熱感、全身痛続く。左背部に狭い領域の疼痛、呼吸困難感あり。肋骨にも影響したか?
 # 21日(金)(受傷5日目)発熱と熱感、全身痛まだ続く。立位、座位での頚部痛、背部痛がやや増悪。ちょっと辛く頻回に横になる。
 # 22日(土)(受傷6日目)発熱と熱感、疼痛腫脹感ともにピークを過ぎ、改善傾向に向かう。左背部痛、右腰痛、右大腿痛が主となる。背部、大腿部屈側には広範囲に出血が染み出し、そこに新たに疼痛が広がっている。かなりの大出血だったと思われた。

 # 23日(日)(受傷7日目)体表の状況を写真に記録した。下図がイラストである。
(原図はサントリーのセサミンの新聞広告を利用させていただいた)

<img src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/d9/8144bbabc4fb77ed9f03a4e5c7df90f6.jpg" border="0">

(1)後頭部座裂創。骨が見えたというが傷は小さい。明後日抜糸予定。
(2)後頚部痛。いわゆる鞭打ちのようなものか。結構辛い。
(3)赤の線は擦過傷。当初は出血はほとんどなかった。
(4)右背部痛と呼吸困難感。受傷4日目から出てきた。結構辛い。
(5)黒の線と斜線は腰部・臀部の腫脹を示す。ふくらみの大部分は出血だったらしい。
(6)青は皮下に滲み出始めた血液。まだ広がっていて疼痛を伴う。


8/22(土)夜半早朝降雨 外旭川地区夏祭り 大曲花火
 0:30 起床、疼痛全体的には改善傾向であるが1日ごとに様相が変わる。本日は左背部痛、右大腿痛が主となっている。背部には出血が染み出してきている。かなりの大出血だった。文献・新聞チェック等、本読み等、週末の時間を楽しむ。午前はネコ関連掃除ほか、電子器具工作修理数件。蓄積データ整理に集中。午睡若干、Blu-ray Disc視聴:「題名のない音楽会2回分」、「N響定期公演」、「佐渡裕・パリ菅演奏会」など。夕方からは横になって本読みで過ごす。19:00夕食。TVで第89回全国花火競技会の一部見る。20:30就寝。歩数計7097Km。

医療の時代と死生観(2) 幼少時から死が身近にあった
 私は昭和20年、盛岡市の郊外の医師の家に生まれた。
 私は生まれ落ちた時から幸運に恵まれていた。出生時2000gほどで弱々しい、活力の乏しい虚弱児だったらしい。この程度の体重でも現在なら問題ないが、戦時下でもあり、当時としては育たないことのほうが多いとされていた。

 当時は食糧事情も悪く、母乳の出も悪く、私は、成長が遅く、病弱で頻回に感染症に罹患し何度もなんども死にそうになったという。私の写真は小学校入学以前のはほとんどないが、2歳ほどの、祖母に抱かれた貴重な一枚は痩せこけたサルに似ていた。もし、医師の家庭で生まれていなかったなら、おそらくは育たなかっただろう、と中学生頃まで家族達からいつも聞かされながら育った。それだけ大変だったことだろう。
 私にとっては死の意味などわからなかった時から、死は身近な、親しみのある言葉であった。

 祖父は往診時になぜか私を連れて行くことがあった。
 当時、社会が貧しく、高齢者が医師の往診を依頼するのは死を迎える時であった。患者宅では死を迎えつつある高齢者が座敷に寝かされ、周りを家族達が取り囲み、その時間を待っていた。私が見たのはそんなに多くはないが、死を迎えつつある高齢者が苦しむ情況を一度も見たことはなかった。静かな死で「自然死」とうべきものであった。この時の在宅死の印象は、今でも理想的な死の姿として私の脳裏から離れていない。

 祖父も昭和31年在宅で死去、祖母は昭和40年岩手医大にて死去した。祖母の場合はもう時代が変わっていた。知らせを受け見舞った時には医大の立派な病室で、手足が拘束されに何本かの点滴が繋がった状況で治療されていた。

 私は昭和46年に臨床医としてスタートを切った。2年間宮古病院内科で、その後13年間秋大内科で主に血液疾患患者の治療に当たった。近代的医療、薬物医療が発展しつつあり、患者が死を迎えることは医療の敗北と考えられる様になった時代である。私もこの期間は、多少の矛盾を感じつつも、患者が少しでも長く生きられるよう、積極的な、攻めの医療でで治療した。それが医師の務めであり、患者のためと考えていた。

 私がより思想と考えていた在宅死、自然死などは話題にもならなかった時代である。私の中では二つの基準があって、患者が自分なら、あるいは家族なら別な方法を取るだろうと思いつつ医療をしていた。
 昭和53年母が肝不全で、昭和58年父が急性心筋梗塞で死去した。そのどちらも私は大学の当直の日であったが、家内から連絡があった時に、もう治療をせずにそのまま看取る方法を選択した。どちらもいわゆる死に目には会えなかった。
 私は今から考えてもいい選択であった、と思っている。


8/21(金)晴・夕方から雨 大曲中通病院 飯川病院ボランティア 
 1:00起床、頚部痛、背部痛がやや増悪。ちょっと辛い。新聞・文献他いつものごとし。5:00可燃ゴミ提出、歩行では無理で車を使用した。7:30Taxi、8:10こまち。明日の花火の準備が方々に見えるが天候不順の予報。8:45-12:00大曲中通病院外来。駅病院間は歩行無理で往復ともTaxiで移動。私にとっては滅多にないことである。13:45-18:30飯川病院ボランティア。19:00Taxi帰宅、夕食、22:30就寝。Blu-ray Disc:「バクモン:日本地図」、「林修・世界の名著:トニオクレーゲル」。歩数計7091Km。

医療の時代と死生観(1) はじめに
 私は10月上旬、「秋田生と死を語る会」からのお誘いがあって講演をすることになった。講演は久々である。演題は自由に決めて良いというので「医療の時代と死生観」にした。
 この機会を利用して散発的に自分の考えを述べてきた、「医療と人の死」について考えをまとめたいと思ったからである。

 私は医師としてほぼ標準的なレベルで医療を行ってきた・・・、と思っている。優れた医師である、という自負はないが、少なくとも悪い医師であったとは思っていない。私を知る方々には、この程度に自分を評価することを許していただきたい、と思っている。

 私は医師としてずいぶん勉強してきた、と思う。今もそれは続けている。医師が自ら努力してほぼ標準的なレベルの臨床力を維持していくことは医師に課せられた義務であり、医師に対して患者が求める姿勢であり、医師に対する社会的要求でもある。

 ただ、医療行為、治療行為は危険を包含するものであることから、私は患者の理解が得られればときには検査もせず、治療もせずに自然経過に任せる、すなわち自然治癒力に期待することは多かった。自然治癒力への期待、これが私の医療の原点でもある。

 人は生まれた以上、生老病死のコースから逃れられない。今まで死ななかった人は一人もいない。死はあまねくすべての人々に降りかかる問題である。この人の「いのち」に関与する仕事を選び得たこと、本日に至るまで継続できたことは私にとって実に幸せなことであった、と思っている。

 いずれ死の転機を迎えるような疾患や病態に罹患した患者には、本人・家族が望むならより長く生きられるように治療してきた。これは医師の務めである。そのような場合であっても医療行為を突出させず、患者と疾患とが共存する病態で維持するのが往々にして最も患者のためになると考え、経験を積み重ねてきた。

 ただ、いわゆる延命的治療は1985年に中通病院に赴任してからは滅多に行わなかった。苦痛にさいなまれている患者自身が延命治療を希望することは滅多にないが、家族たちの強い希望があれば止むを得ず選択した。もちろんその際には病状についての情報を十分に説明し、「延命治療は、健康人である家族たちによる、病人に対する苦痛の強要であり、苦痛の持続時間の延長である」と説明してきた。要するに、「延命治療は延苦痛治療」に等しい、と主張した。
 それでも納得が得られない場合には、家族の意向に従わざるを得なかった。

 医師としての無力感を感じる時であった。


8/20(木)快晴 外来 飯川病院 
1:00起床。若干改善傾向なるも全身痛続く。新聞チェック、心理学関連本読む。8:00家内の車で飯川病院着、8:45-13:30中通外来。14:00-18:30飯川病院。18:10迎えあり、駅にて外食、19:10帰宅、19:50就寝。賄いバーさん休暇、北海道に。Blu-ray Disc:「英雄たちの選択:会津藩」、「ガイア夜明け:プロ経営者は会社を変える」、「コズミックフロント:コスモス」。歩行歩数計7089Km。

墓参り2015(2) 昨年、死亡時の対応を打ち合わせした兄は新盆 
 私は郷里の盛岡近郊に墓がある。実際には墓参するのはここ20年以上年に一回だけとなっていた。
 また,盛岡市内には実兄が住んでいた。数年前までは兄の家族とも墓前で合流したが、最近は兄の体調の関係で私が墓参の度に兄宅を訪問して親交を温めてきた。

 昨年も訪問した。私より11歳上の兄は慢性呼吸不全で在宅酸素療法を行っていた。兄の様子は今までと特に変わらず比較的良い状況であった。互いに病気をかかえているから、互いの死亡時には最小限連絡だけはし合う、と確認した。
 今年1月、その兄が死去した。だから、この時が兄との最後の対話となった。今思っても感慨深い対話であった。

 日頃から、私は「人と人とのつながりはちょっとしたことでフッと消えるものだ」と思っている。これまで多くの方々が「フッと」消えた。もちろん死亡もある。その他には時の流れ、高齢化もある。また、ちょっとした行き違い、考え方のボタンの掛け違いが因になっている場合もある。

 「フッと消える人とのつながり」、こんな終わり方も私は良いと思っている。
 私は自分の年齢以上の方がお亡くなりになっても特別の感慨を抱くことはない。有名人の場合にマスコミが取り上げ、ワンパターンな「惜しい方をなくした・・」などとのコメントが載るが、私は自分を標準にして物を考えていて、より高齢の方はいつ消えてもおかしくない年齢だから、消えて当たり前である。

 兄は、私から見てそれなりにいい最期を迎えたと思っている。しかし、盛岡で一人暮らしている兄嫁はまだショックを乗り越えられていないようで気がかりである。

 私は現在は自分の家族以外に交流している方々はほんの一握りだけ、いやそれよりも少ない。私はそれでいいと思っているが、家内は私の生き方に批判的であり、より多くの方々と関係を上手に維持しているようである。それはそれでいい。もし、家内が先に逝くようなことがあると私は完全に孤立するだろう。やはり、家族たちのためにも私が先に逝くべきだろう。私は恥ずかしがり屋である。死ぬときは、運に逆らわず、誰にも意識もされず、一人だけで静かにこの世から消え去りたい。だから、葬儀関連の行事は一切不要である。

 さらに、郷里の墓をどうするか。私の代まではなんとか維持してきた。次の世代にそれを担わせていいのであろうか。今真剣に考えている。去る前にやっておくべき悩み事は尽きない。

 16日朝、私の身にフッと消える機会があったが幸運にも消えないで済んだ。私はかなり幸運に恵まれているようだ。だから,自身を大事にしなければならない。改めて自認した。


8/18(火)風雨 外来 飯川病院
 1:00起床,腰部から臀部にかけての腫脹感と腫脹、皮膚感覚鈍麻、歩行開始時の大腿痛などあるも昨日より若干軽快か同レベル。文献・新聞ほか若干こなす。早朝涼風あり快適。5:30家庭ゴミ集積所に、車使用。8:00家内の車で中通病院へ。8:45-12:30外来。盆の翌週で混雑始まる。楽あれば苦あり。担当の看護師をつけてもらったので比較的楽。13:00飯川病院に,14:00-18:50勤務。新聞、医学雑誌読書。水撒きは辛い。19:15帰宅夕食、20:45就寝。Blu-ray Disc:「そこまで言って委員会」、「世界は今」。歩行Σ7085Km。

「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(3)  大事に至らなかった幸運に感謝
 頭の処置が終わってから、受傷後2時間ころから徐々に右脇腹、右臀部痛が現れ、触ってみると全体に腫脹し始めていた。私は打撲による筋肉・皮下組織などの腫脹、あるいはプラザキサ服用に関連しての筋肉内あるいは皮下出血と考えた。それでもこの頃は体動歩行に支障はなかった。

 12時過ぎに花巻を発ち、盛岡の実兄宅に短時間寄って仏前に手を合わせ、家族一行と盛岡駅で解散、帰秋した。この間、腰痛臀部痛増悪、歩行に支障生じる状態となる。
 翌朝、右臀部は通常の1.5倍ほどのサイズに腫れ上がった。右背部から側腹部も同様に固く腫れていた。後者に関する客観的指標としては、本来真ん中にあるべきヘソが2cmほど右に寄っていた。それだけ右腰背部のボリュームが増していたと言うこと。

 疼痛や出血の激しさから当初は頭部外傷と考えたが、着ていたTシャツ、短パンの破れ様、その後の経過を見ると実際には落下時の右側腰部・臀部の打撲がメインで、頭部の座裂創は転倒時の防御姿勢が足りなかったために防ぎきれなかった、と考えている。

 昨日から明日あたりにかけてが腰背部痛・臀部痛のピークだろうと思う。昨日のドック診察、本日の外来は椅子を有効に利用し、看護助手の補助を得てなんとか工夫しながら終わらせることができた。脳外科医からも整形受診を勧められた。

 バカな行動であったが、大事に至らず運が良かった。

 問題点と反省点
#1 前日、滝の手前200mで、暗闇と引き返した判断は良かった。

#2 翌日再挑戦の積りで、朝一人で途中まで車で出かけた。秋田商業の試合を見ていた家人には滝を見に行くと言ったきりで詳細を話さず出かけた。反省。

#3 滝を見た後、がけ下に降りるメリットは今考えてもほとんど無かったが、何故か足が出た。足をかけた石の読みが誤っていた。私が何か不味いことを仕出かす時は往々にして必然性は無いものばかりで、いつもながら自分のバカさ加減に驚く。反省。

#4 四肢に疼痛はなく通常に動かすことができた。誰もいないところの事故だけにこれで助かった、と安堵した。もし頭部をもっと激しく打っていたら、骨折でもあったらと思うと今更ながら恐ろしくなる。

#5 新聞紙、雑誌ほか数々の資料を詰めたディバッグを背負っていた。これが背部から落ちた時の体幹への衝撃を大幅に軽減してくれた。これがなければどうなっていたか。今回のことで一層ボロボロになったがこれからも手放さ無い積りである。


8/17(月)快晴 健康クリニックドック診察 脳外科受診 飯川病院
 1:00起床、全身痛あり。体動困難で小旅行の荷物整理など若干こなす程度。何度か休息取りながらこなす。8:40家内の車で健康クリニックへ、9:00-10:45ドック診察14人、椅子に座ったまま業務した。11:00脳外科受診、処置受ける。12:30飯川病院、14:00-18:45勤務。19:00帰宅、夕食。20:10就眠。Blu-ray Disc:「100分で名著;小泉八雲(4)日本の面影」、「チェリノブイリ原発事故」、「ヒストリア:日本を愛した外交官グルー駐日大使」、「知恵泉:山田方谷」。7082Km。

「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(2)  一瞬、死も覚悟した
 我が家のご先祖の墓参りを機会に、年1回恒例にしてきた家族10名ほどのミニツアーで一昨日から花巻温泉郷の志戸平温泉で過ごしていた。

 予定以上に早めに着いたので微睡を取った後、一人で散歩に出た。付近の神社を見たり、地蔵を見たりした後で近郊に「薄衣の滝」を言われる所があるをの知った。




(滑落前日に手を合わせた神社と地蔵 守っていただいた、と思っている)

 「薄衣の滝」は志戸平山の中腹にあり、高さ約40メートルの岩盤上から二層に屈折して落水する様子は、薄い白布を垂れかけたような美しい光景と紹介されていた。命名は大正四年に、北白川宮成久親王殿下が志戸平温泉に宿泊された際、風光明媚な景観をことのほかお喜びになり命名した、と言う。

 実際に「薄衣の滝」に向かったのは17:30頃からである。あと200mのところに至った所で暗くなり、大量のやぶ蚊が舞っていたために引き返した。
 
 ここまで来て見ないで諦めるのは何としても残念である。

 翌朝、9:00過ぎに、TVは秋田商業の試合をやっている最中、誘っても誰も来ないだろうと考え、一人で昨日の到達点まで車で行きその後歩いた。滝に着くまでは問題なく登ったが、濡れた石に不用意に足を取られ2mほど滑落、最終的には右背面を下にして無防備状態で落下、右側頭部と右側腹部、臀部を強打した。

 滑っている最中、これはかなりのダメージになる、まずい!!!と最悪の事態も覚悟した。
 着地後に周囲を見ると半身は10cmほどの水に浸かり、右上半身は頭部からの出血で真っ赤に染まっていた。頭部の傷はかなりのものと覚悟したが、意外にも四肢はそれほどの疼痛もなく無事動いた。これだと何とかなりそう。無事立ち上がることができ、とりあえず足場のいいところに移動、持っていたティッシュをまとめて頭部の圧迫止血を試みた。
 
 歩行も可能だったので登ってきた200mをフラフラと降り、途中で一度転び沢にはまったが何とか駐車場にたどり着いた。駐車場には中年の夫婦がいて驚かれたが、救急車の手配は断り、ハンカチ、手ぬぐいをいただき、圧迫しながらホテルの玄関まで戻り、次男を呼び出した。彼の判断では背部に擦過傷はあるも頭部以外には大きな傷はない状態で、出血も止まりかけていた、という。

 大事をとって救急病院を受診、頭部CT撮影では問題なく、頭部の傷は出血から予想されたほど大きくなかったが、救急担当医によると深く、骨が見えた状態であったという。縫合による止血を受けた。




8/16(日)岩手・秋田快晴  
 1:00ホテル志戸平にて起床。読書、1;30-5;00ロビー一角にて新聞チェック、データ整理など。朝方入浴1回。7:30朝食他。9:30近隣の薄衣の滝に一人で。滝付近の川べりで濡れた石で足を滑らし滑落、右側頭部と右側腹部、臀部を強打し受傷。頭部から激しい出血あるも四肢の動きは問題なかった。圧迫止血しながらホテルに戻る。次男の判断で花巻病院受診、頭部CT撮影、問題なし。途中から腰痛臀部痛増悪、若干歩行に支障。13:30実兄宅に挨拶、1月に死去、初盆。仏前に手を合わせた。14:00盛岡駅にて解散、私どもは秋田に。15:00自宅着。そのまま寝込む。19:00軽夕食、20:00就寝。歩数計Σ7081Km。

「薄衣の滝」付近の川べりで足を滑らし滑落、受傷(1) とりあえずの記述
 本日9;30頃、「薄衣の滝」を見学に行き、濡れた石に足を取られ2mほど滑落、右側頭部と右側腹部、臀部を強打した。花巻病院受診、頭部CT撮影、問題なし。腰痛臀部痛増悪し、立ち上がりや歩行に支障生じている。

 この程度で済んだのは幸いであったが、明日からの業務はかなり厳しい。代診はお願いできる状況にはないだろう。なんとか工夫しながら頑張るつもりである。




8/15(土)
終戦記念日 岩手終日小雨 江岸寺 花巻へ
 12:20ホテル紫苑で起床,1:00-5:30ロビーにて文献・新聞チェック、読書。7;45ビュッフェスタイル朝食。10;00チェックアウト、11:00江岸寺にて読経いただく。父耕栄33回忌。12:50ひっつみ亭昼食、花巻志戸平温泉へ、14;00ホテル志戸平着温泉着、読書ほか。微睡。17;00-18;30散策、薄衣の滝に向かうも200m前でやぶ蚊と暗闇のために頓挫。19:40ビュッフェスタイル夕食。20:30就眠。7070Km。

70回目の終戦記念日に思う 
 終戦から70年を迎えた。厳密には15日は終戦の日とは言えない。ポツダム宣言を受諾した日と表現すべきである。

 私は終戦直前の昭和20年5月に岩手の片田舎で生まれた。この昭和20年を自分の人生、終戦、新生日本の歩み開始の年として特別な感慨を持って受け止めている。

 今年は終戦70年目の節目にあたり、新聞、雑誌、TVでも「戦後70年」を意識した番組や特集が多く、目を休めるいとまがない。しかも、最近、日本も欧米も情報公開制度で今まで埋もれていた情報が公開され、それらがTVのドキュメンタリー番組として提供されている。もう目が離せない。

 終戦までは、国民は主権者である天皇に仕える「臣民」であって、その権利は法律で厳しく狭められていた。日清・日露戦争を経て、全体主義が進むなか、治安維持法や言論、出版、結社を取り締まる法が、次々と成立し、情報を統制し、反戦、反権力的な言論を弾圧した。体制にものをいう知識人や大学教授が職を追われた。国民の目と耳は覆われ、口はふさがれた。
踏み止められ
 わが国が勝ち目のなかった日米開戦を踏み止められなかった点については、2.26事件後政治と軍部とが機能的に乖離し、軍部が暴走、秘密を集中管理し、憲兵などで社会を抑えたこと、次いで政治をも牛耳るようになったことが致命的だった。

 その当時も国民への情報伝達はの源は新聞等のメディアが主であったが、このメディア自身が誤った考え方を持って国民を扇動した。そうなると国民は情報操作され、判断力を失なった。戦前の軍部の暴走などの過去を追求する新聞は多いが、国民世論を扇動したことを明確に反省し記述している新聞は少ない。

 終戦の年の秋、GHQは日本政府の敷いていた言論統制を解いた。
 主権在民の今、社会の生命線は、情報が開かれ、だれもが自分で考え、意見や批判をしあえることである。人々は街に出て、集会を開き、デモをし、異議を唱える。意見を投稿する。インターネットで幅広い意見交換がある。専門を超え、研究者たちが外に向けて発言をする。

 表現の自由を抑制するいかなる動きにも敏感でいたい。国民が声を上げることの結果は必ずしも保証されないが、記録として残る。それらが価値がある。表現の権利や自由を使わず、あきらめた先に待っているのは闇である。国民の声は微力であるが無力ではない。

 70年前、我が国は国の意思を決めるのは国民であり、その人権を尊重する平和国家として再出発した。これが多大な犠牲を背景に外から与えられた考え方であると言うのが残念であるが、当時の日本の現実であった。だからこそ歴史を大事にしていかなければならない。1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」、と記載されたが、我が国の歴史を語る上ではこの言葉は決して正しくない。末長く、戦後である。


8/14(金)秋田岩手曇り、夕方から降雨 小岩井農場を経て繋温泉へ
 12:20起床,発熱あり、本日は一日だけ墓参り年休とった。机に向かうも時折微睡とる。5:30資源ゴミ処理、墓参り出発準備.クルマに同乗できず墓参り兼ね盛岡に。私どもは11:08こまち18号盛岡に。14:00息子一家と合流、15:00小岩井農場にて一家合流。17:50繋温泉ホテル紫苑へ、読書ほか。19:30夕食。20:30就眠。7066Km。

宗教とは何か2015(15) 日本人の宗教観(4) 盆暮れの民族大移動を考える(2)
 お盆は日本人にとって「家族揃ってご先祖様を迎え、共に対話する」という長年にわたって培われた宗教的な意味合いを持っている。ただ、具体的に墓参りをする訳でもない人達も、この時期は何者かに誘われたように郷里に向かう。これは「日本人特有の、自然宗教観を背景とした祭祀帰省」という意味合いがある。私はそう思う。
 
 日本人の大部分は仏事を仏式で行っていながら何故か仏教徒とは答えない。言うこととやっていることの間には完全に乖離がある。それだけ仏教は心が広いというか適当なところがある。

 死者は生前に仏教に帰依していなくとも、死んだときは葬儀は仏式によって営まれ、僧侶から引導を受けて戒名を授けられ、いずれは釈迦の弟子となりホトケとなると信じられている。要するに人は死んでさえしまえば自然とホトケになれる。その際、必要なことは遺族が仏式で葬儀を営み、年会法要を通じて寺院に布施として「こころざし」を届ければいい。実に便利で、安易に安息が得られ信仰のシステムである。

 要するに、日本人は生きている間にも特別の宗教を選び取る必要がなかった。自分の家に伝わる宗派に依存してれば良いのであって、難解な教義を読む必要もない。

 日本人が仏教を葬式仏教の中に留めて良いという考えには誰しもが疑問を感じているだろう。が、だからと言って仏教に触れていなくとも実生活上ではなんら不便も不都合も感じることがない。創唱仏教の世話になるのは死んだときだけで良いのである。

 この中途半端な信心は、日本人の中には仏教以上の信心で自然宗教が存在しているからであって、自然宗教の中の先祖崇拝や霊魂観を満たす際の一つの具体的な方法として、見近な仏教を利用しているに過ぎない、と考えることができる。だから、普段から寺に詣でる日本人の多くが、問われれば自分は仏教を利用はしているが無宗教と答えて憚らない。自然宗教の信者といっても通用しない。

 盆の時期には具体的に墓参りをする訳でもない人達も、この時期は何者かに誘われたように郷里に向かう。それは、郷里の山々をはじめとする自然等を通じて培ってきた、ブッダ等より遥かに大きな畏怖心を感じる自然宗教という、大きな存在があるからである。

 暮れの民族大移動は盆のそれよりも宗教色は弱いと考えられるが、大同小異である。
 私は盆暮れの大移動は、日本人特有の宗教観、すなわち自然宗教観のなせる技だと思う。


8/13(木)晴れ 外来 飯川病院午後日直
 1:00起床,改善しつつあるがまだ不調。5:30収穫、撒水。7:10Fit飯川病院、8:45-11:30中通病院外来。盆で患者少なく余裕。新患紹介あり。ドック結果判定総括。12:00飯川病院。病院の花壇に撒水他。14:30Fit帰宅、発熱あり38℃。絨毯のシミ抜き。読書ほか。19:00夕食。20:30就眠。Blu-ray Disc:「食の信頼、回復への道」、「キトラ最古の天文図」、「高校野球100年秋田」、「団塊スタイル:夏の涼しい住まい方」。

宗教とは何か2015(14) 日本人の宗教観(3) 盆暮れの民族大移動を考える
 TVでは盆の民族大移動のニュースで賑わっている。そのメインは都市圏から郷里への移動であり、一部は休暇を利用しての海外旅行などである。ただ、わが国ではもう当たり前の行動様式であり、鉄道会社が発表する「乗車率150%」、「200%」等の数字、航空会社の搭乗率100%、道路公団の渋滞情報などの数字だけが、感動もなく、驚きもなく、ニュース性も伴わず、あたかも俳句の季語のように語られる。しかし、その移動現場で味わっている人々の悲喜交々の感情は報じられることはない。

 日本人は何故盆暮れ正月には憑かれたように田舎に帰るのだろう。そういえば、GW期間も移動が増えるが、盆暮れとGWではその意味づけがかなり異なる。私は、「盆暮れ正月」帰省は観光などではなく、その基本は「日本人特有の、自然宗教観を背景とした祭祀帰省」であり、具体的に墓参りをする訳でもない人にとっても、この時期は何者かに誘われたように郷里に向かうのだ、と思う。だから、この時期を外すことなどあり得ない。 これに対し、GWは遊びの雰囲気がメインである。郷里に向かう人たちは相対的に少ない。

 「盆暮れ正月」帰省は、年間でも数少ない郷里の自然、両親・親族、友人らとの対面の機会でもあり、半年に一度の稀な機会でもある。職種にとってはこの時期には休めないが、一般的には、この時期に休暇を取ることは80年代以降社会的にも認知されている。この時期にまとまって休暇を取れることが従業員に対する企業の売りになってさえいる。

 日本の普通の労働者は盆正月しか休めないことは盆暮れの大移動の大きな理由であるが、本当にそれだけなのであろうか。

 お盆の前後、高速道路も混雑し、飛行機も新幹線もホテルも旅館も、超混雑し、値段も高いのに、なんでこの時期に移動するんだろうか??損得勘定からだけで見ると、この時期に旅行するのはどう見ても不合理ではある。 なのに郷里に向かうのは何故か??
 
 お盆は日本人にとって「家族揃ってご先祖様を迎え、共に対話する」という長年にわたって培われた宗教的な意味合いを持っている。特に、親しい身内の新盆の場合にはその意味合いは一層強くなる。

 ただ、具体的に墓参りをする訳でもない人達も、この時期は何者かに誘われたように郷里に向かう。これは「日本人特有の、自然宗教観を背景とした祭祀帰省」という意味合いがあるからである。私はそう思っている。


8/12(水)快晴 外来 ドック結果判定総括 飯川病院ボランティア
 1:00起床,まだ体調不良。新聞・録音のデータ整理中心。一時間毎に微睡とる。7:10バス飯川病院着。8:45-12:10外来。ドック結果判定総括。12:30飯川病院へ。午後はほとんど寝たきり。19:00バス帰宅、夕食。20:30就眠。歩数計:7054Km。Blu-ray Disc:「ラジオが伝えた太平洋戦争」、「食の信頼、回復への道」、「キトラ最古の天文図」、「高校野球100年秋田」、「団塊スタイル:夏の涼しい住まい方」。

四季2015(5)本日、私にとっての夏の終わり 
 私にとっての四季は暦上のそれとは異なる。私は以下のように分類している。
 かんかん照りの夏が大好き、一方、降雪期には除雪のストレスに苛まれる私にとってこれが合理的な分類である。明日からの4ヶ月が秋である。この準備期間を用いて降雪期を乗り切るための心と体の準備を行う。我が家へのアプローチが細く長く、私の家が一番奥まっているために除雪に対する責任は大きいと自認している。言うのは楽だが、これが結構大変である。

# 春 除雪が不要になった日(今年は2月3日)から桜が散ったと判断した日(約2か月)
# 夏 桜が散った時期から墓参りの8月13日まで(約3か月)。本日が最後である。
# 秋 8月14日から降雪時期まで(約4か月)
# 冬 除雪が必要になった時(昨年は12月15日)から不要になるまで(約3か月)

 ついに、私の好きな夏が終了した。良い季節であった。
 今年は一つしくじったことがある。夏至の日を失念していたことであり、いつの間にか夜明けの時間が短くなっていた。季節を意識する私にとっては春夏秋冬は上記のごとくに勝手に決めているが、冬至、夏至は重要な節目で太陽に感謝する日であり、心の拠り所でもある。

 この夏、私の夏、今年も太陽を十分に浴びて過ごした。秋田は空梅雨で晴耕雨読のと格好つけてみれば晴耕>>>雨読であった。ただ今年から発想を若干変えた。ここ何年かはギラヂラの炎天下は異様な疲れを生み、露出部の皮膚にも汗疹とは異なる変化、色素沈着が現れるために、日差しは10時~17時までは避けることとした。強烈な紫外線は健康上はマイナスである。服薬とも関連しているかもしれない。だから、晴耕=雨読だったかな、と思う。雨読の際には国内外のドキュメンタリー番組、歴史番組の視聴も併用したから、結構濃厚に過ごし得た。

 畑仕事もそろそろ終わりを迎えつつある。主たる産物はトマト・胡瓜・なすであるが、いつもより収穫量は少なかった。





 アサガオとひまわりも綺麗に咲いた。


 ここ10年ほどの天候は変である。想定外の猛暑と思えば夏冷えがあり、晴天続きが続く中での突然のゲリラ降雨など。19:00NHKニュースは猛暑、熱暑、高齢者の熱射病による搬送から始まったのは数え切れないほどである。

 秋田はその中では過ごしやすかったと言えよう。
 無事過ごし得たのを感謝。


8/11(火)快晴 外来 飯川病院 
0:20起床,いつもの如く。起床後から全身倦怠感あり。時間を有効に役立てない。5:30可燃ゴミ処理、野菜収穫、7:40なんとか徒歩で飯川病院着。8:45-12:20外来。盆前で患者少なく余裕。14;00-18:45飯川病院。業務の合間は睡眠をとる。19:00帰宅、夕食。20:30就眠。Blu-ray Disc:「赤ちゃんは何を考えているか」、「ニュース英会話:世界遺産・都市危機」、「世界の名著:カフカの変身」、「ペットA~Z」、「ラジヲが伝えた太平洋戦争」。歩数計積算7038Km。

原爆投下70年(6) 原爆投下をもたらしたものは何か(2) 我が国の人命軽視 
# なぜ、軍部は広島・長崎へ落とされた原子爆弾にそれほどショックを受けなかったか。詳細な被害情報が届いていなかったこともあろうが、1944年以降、無差別絨毯爆弾が連日のごとく行われており、都市が消滅する報告に慣れきっていたからだろう。軍部にとっては2000機のB29が多数の爆弾を落とそうが、一発の爆弾で都市を消滅させたかにはそれほど関心を持たなかった。完全に判断能力が欠けていた。だから、トルーマンの思惑は外れ、広島・長崎の犠牲は日本の軍部に対してそれほど影響を及ぼさなかった。

# 軍部は終戦交渉を進めるにあたっては日本の国体を護ることが最重要課題であり、自国民の命などはどうでも良かったのだ。

# 日本本土への空襲が始まれば米軍のなすがままになることは予想されていた。それが具体化したのは1942年(昭和17年)4月のドーリットル空襲で東京、川崎、名古屋、四日市、神戸などへの空爆を行った。しかし、機材の飛行航続距離の問題から米軍としても持続的に行うことは出来なかった。そのためには飛行時間の長い、大量の爆弾を搭載できるB29の完成とマリアナ島の占拠が必要であった。

# 1944年(昭和19年)6月にB29爆撃機による初めての空襲が八幡製鉄所を目標にして行われた。

# マリアナの占拠に成功した米軍は、増強されたB29を背景に北海道を除く日本本土の大半を攻撃目標にした。マリアナからの初本土空襲は1944年11月24日で、この日以降、B29による大規模な日本本土爆撃へと進んだ。

# B29による初期の空襲は軍需工場を目標とし、通常爆弾主体の高度8000m〜10000mの高高度であったため命中率が低かった。都市部に対しては3月10日の東京大空襲をかわきりに夜間に高度2000m程度から無差別爆撃を開始した。都市部では高射砲による抵抗はほとんどなく、死者10万人の大きな人的被害をもたらした。このころ軍部は地方への疎開を禁止し、竹ヤリ訓練とバケツリレーによる消火訓練を指導していた。

# 以降、8月14日の土崎空襲まで枚挙にいとまがないほどの本土空爆が行われた。本土空爆による死者は集計者によってばらつきがあるが、約24万~100万人に渡り、30万人が負傷したと考えられている。

# これほどの被害を生じながら軍部は早期戦争終結について具体的な動きを取っていないのは驚きである。ソ連の思惑を全く理解していない軍部はソ連を介して停戦交渉を始めていたが、ソ連の参戦が判断の決めてとなり終戦を迎えつこととなる。

# 日本人の戦闘員の死者は約230万人、非戦闘員約80万人と言われる。これらの犠牲は何だったのか?日本の軍部は連日連夜失われている自国民のいのちに思いを馳せる事は無かったらしい。実に、やるせない気持ちになる。この点は、トルーマンも理解出来なかったようだ。トルーマンは保身のために「2つの原子爆弾が戦争終結を早め、日米双方数百万のいのちを救った」・・と宣伝し続けた。トルーマンはそう言い続けなければ自身が生きられなかったのだろう。

# 広島・長崎に原発を投下したのは米国側であるが、さらに深い要因は、日清日露戦争の時から日本の軍部に連綿と続いてきた「国民のいのちの軽視」だと思う。


8/10(月)快晴 健康クリニックドック 飯川病院 
 1:30起床,新聞・文献チェック他。5:30収穫散水、7:30徒歩飯川病院着。9:00-11:00健康クリニック。11:30飯川病院に。14:00-18:30勤務。歴史関連本読む。撒水、19:00帰宅、夕食、20:30就寝。Blu-ray Disc:「赤ちゃんは何を考えているか」、「ニュース英会話:世界遺産・都市危機」、「世界の名著:カフカの変身」、「ペットA~Z」、「ラジヲが伝えた太平洋戦争」。歩数計積算7038Km。

原爆投下70年(5) 原爆投下をもたらしたものは何か(1) 政治経済的面からみると 
 近年の世界的な流れとして核兵器の非人道性を訴える声が徐々に強くなってきている。70年も経過したが、進み具合は遅々としている。それでも喜ばしい動きと思う。それにしても世界の潮流を変えていくには時間がかかるものである。これに関して唯一の被爆国である我が国の果たすべき役割は大きい。

 軍の関係者、為政者たちは原爆投下を雲の上の高さから論じる。そこでは地上にいる人々、被曝して苦しむだろう人々に想いを馳せることはない。成功させるか否か、この成功が歴史上どんな意味があるか、ライバル国に及ぼす影響、だけである。
 原爆投下を地上の目、すなわち被爆者の目から論じると原爆の悲惨さのみ強調される。だから両者の立場は噛み合わない。もう70年も経った。世界の指導的立場にあるものは広島・長崎を訪れるべきである。

 原爆の非人道性を被害者の立場から主張するだけでは彼らには通用しない。
 原爆使用を判断できる立場にある世界の主だった指導者たちが、二人目のトルーマンにならないように、判断力を失わないように、全世界で監視し、期待していくしかない。いま原水爆は19.000発ほどあり、その数%が炸裂しただけで地球の環境は変わり人類の生存はできなくなる。だから、次の核戦争では人類は滅亡し、誰が二人目のトルーマンだったのかを判断する余地はもう人類には残っていないだろう。

 ルーズベルト政権を継いだトルーマンにとって、極秘裏に巨費を投じて開発した原爆を使用しないまま残しておくことなど議会対策のためにも、自分の地位を守るためにも考えられなかった。あの二発の原爆は作られた以上、使われなければならない運命にあった。
 長崎では天候の関係から投下出来るか否か判断が困難であったが、もし投下しななければ海上投棄をせざるを得ない状況だったらしい。その際にはトルーマンは失策を問われただろう。長崎の住民の運命は一瞬の雲の切れ目が変えてしまった。

 B29は両政権で2700機ほどの莫大な予算を取り製造された。B29は積載量が半端ではない。それに見合った爆弾も準備された。すでに日本は壊滅状態にあり、ほぼ無防備・無抵抗状態に近いのを知りながら、多くの都市を絨毯爆撃したのはそのためであった。東京空襲をはじめとして非戦闘員が殺された。空爆の効果などはどうでも良かったのだ。あのB29、大量の爆弾は作られた以上、使われなければならなかった。要するに日本国土に廃棄するためにばら撒かれたのである。

 日本の国民の命は、米国の政治、経済上の議会対策のために奪われた。私はそんな風に思っている。


8/9(日)長崎原爆投下70年 快晴 飯川病院日直 
 12:00起床、読書、新聞、データ整理など。5:00収穫、花壇に撒水、8:40バス飯川病院、日直。入院患者は平穏。17:30帰宅。次男一家も来訪、19:00外で焼肉、花火など。20:30就寝。Blu-ray Disc:「ナチス;恐怖のオカルティズム」、「水上の女神たち(後編)」、「北の海藻キング」、「お酒の経済学」、「知恵泉:上杉謙信」。「昭和は輝いていた;童謡」、「アナザーストーリーズ総集編:M・ジャクソン、ダイアナ妃、ビートルズ来日」、「ドキュメンタリー:古橋広之進」、「100分で名著:小泉八雲(3)」。歩数計積算7024Km。

原爆投下70年(4) 広島・長崎への原爆投下前後の情勢の変化
# 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線ではナチスがスターリンに敗北し、独ソ戦の形勢はソビエトに傾いた。ルーズベルトは、ヤルタ会談のおりスターリンと個別に交渉し、東ヨーロッパの戦後処理にソビエトが関与することを事実上認め、ソビエトが対日戦争を開始することも極秘に確認された。

# ルーズベルトは、極秘に原子爆弾の開発を進めた。しかし、ルーズベルトは原子爆弾完成前に病魔に倒れた。

# トルーマンは商務長官からウォレス元副大統領をしのいで大統領になった。その後、バーンズらの側近の強い意見に引きずられて日本に原爆を投下する決断をしている。目的は対日戦略では無く、対ソビエト戦略であった。ポツダム会談の席でスターリンは北海道の半分を統治下に置くことを提案、トルーマンはこれを拒否した。

# ニミッツ、アイゼンハワー、マッカーサー、キング、アーノルド、レイヒーの6人の主要な将軍が、「原爆投下は道徳的にも非難されるべきで、軍事的にも必要ない」と発言していたがトルーマンは発言を禁止した。

# 原爆の開発に関連していた科学者達はあまりにも大きな威力に尻込みし、原爆投下は非人道的と提言したが、バーンズはすべての申出を拒否した。

# 8月6日、トルーマンは広島への原爆投下成功は歴史上最大の快挙と評価した。しかし,期待に反して、日本は降伏しなかった。広島市民が受けた苦悩も降伏を早める効果はなかった。

# 8月9日、午前10時、緊急最高指導者会議で終戦に関する討論が開始されて約50分、長崎に2発目の原爆が落とされた。長崎市民が受けた苦悩も降伏を早める効果はなかった。
# 同時にソビエトが日本に宣戦布告し満州に侵攻、またたくまに満州を制圧した。ソビエトの宣戦布告と満州侵攻を受けて、翌10日にはポツダム宣言受諾を決定した。

# トルーマンは8月19日に日本軍の武装解除および北海道の占領にソ連軍が加わることを断固として拒否した。北海道の占領にスターリンが強く固執しなかった背景は米ソ間で見解の相違が認められる。米側は原爆の効果によるとし、ソビエト側は戦後の米ソ関係のバランス維持のため、との見解である。

# 本来トルーマンは決断力の乏しい優柔不断の性格だったとされるが、原爆完成後には一変した、という。トルーマンがスターリンに対して示した強い姿勢は、広島・長崎に投下した原爆の威力を背負ってのことと考えられる。

# 現在、核弾頭は19.000発ほどあり、90%は米ロにある。最近プーチン大統領の動きが不穏である。


8/8(土)快晴 飯川病院午前外来
1:00起床、本読み中心、画像データ整理。5:00収穫、散水他。8:40バス飯川病院着、外来診療業務に、大学医師の不在のため。12:00検食、14:00帰宅、F一家来秋、サンルームの整頓掃除。子ネコに訪問者アリ。Blu-ray Disc:「久米書店;親子関係の変化」、「NHKsp:腰痛」、「BS1sp:本田宗一郎F1レース」、「世界の衝撃映像」、「ヒストリーチャンネル・航空機事故を無くするために(前編・後編)」。歩数計積算7024Km。19:00夕食、20:00就寝。

原爆投下70年(3) 米国における原爆観 P・カズニック教授のインタビューから(2) 
 P・カズニック教授のインタビューから(1) からの続き。

# 核なき世界を訴えるオバマ自身は広島長崎への原爆投下問題に関心を寄せているはずだ。09年のプラハ演説では核兵器のない世界を訴えた。戦争で原爆を使用した唯一の国である米国には特別な責任がある。ただし、米国は抑止力は必要なので核廃絶は最後の国になる。

# 核軍縮を褐げるオバマ政権の実際の核政策を見ると核廃絶を訴えながら、巨費を投じて近代化を進めるなど正反対の行動をしている。偽善的である。

# 戦後、米政府は神話を正当化したが、米国人は一般的にあまりこの問題を考えていない。教育現場もメディアも、批判的に見ようとはせず深く考えていない。O・スト-ンが私と『語られない米国史』のプロジェクトを始めたのは、彼の娘の高校教科書の広島・長崎についての記述が原爆投下を正当化するものだったことがきっかけ。

# 人々、特に若い人々が関心を持ってくれれば、より効果的に挑戦することができる。ドキュメンタリーや本を携えて、米国内外の学校や高齢者施設を飛ぴ回っている。老若男女、あらゆる年齢層に話している。

# 第二次大戦当時の7人の米軍最高幹部のうちの6人までが原爆投下は不要か非道徳的だったと考えていた、とする内容は退役軍人らにとっては衝撃だった。ソ連の参戦や日本が疲弊し切った状態など、戦争の全体像を示すと、自分たちが信じてきたことと全く違うからである。

# ワシントンの海軍博物館の原爆の展示には「広島・長崎への原爆投下は日本軍にほとんど影響を与えなかった。ソ連の参戦は日本側の考えを変えた」との説明があり、それは正しいが、米国人の一般的認識にはなっていない。

# 米国の若者たちは原爆についてはほとんど知らない。彼らにとって原爆は、70年前の遠い祖父母の時代の出来事になった。

# 関心のある若者は核兵器に批判的で、もっと知りたいと思っている。イラク・アフガニスタンの戦争を経て、米国人の間に厭戦気分が強まっている。原爆展も心を開いて見てくれるものと期待している。

# 広島・長崎の重要な教訓は、原爆が人類を絶滅の淵に置いたこと。トルーマン、ブッシュ、オバマ、プーチン、どんな指導者に対しても生命存続の拒否権を与えるわけにはいかない。

(出典:朝日新聞インタビュー「米国で原爆神話に挑む」6月2日)


8/7(金)雨 大曲中通病院 飯川病院ボランティア 
 1:00起床,文献・新聞チェックその他。一般ゴミ提出、7:40Taxi駅。8:10こまち。徒歩、9:10大曲中通病院外来、混雑なし。病院駅間はTaxi。13:40飯川病院に、ボランティア。19:15Taxi帰宅、19:30夕食、20:45就寝。Blu-ray Disc:「時空を超えて;時間とは何か」、「サイエンスゼロ:ハイスピードカメラ」、「クールジャパン:旨味」
。歩数計積算7018Km。

原爆投下70年(2) 米国における原爆観 P・カズニック教授のインタビューから(1) 
 アメリカン大学、P・カズニック歴史学教授は、広島長崎に原爆投下の指示を出したトルーマン大統領は原爆の狙いはソ連牽制であり、米国で広く信じられている原爆神話、「広島・長崎への原爆投下は、日本の降伏をもたらし、本土侵攻で失われる数多くの米兵の命を救った。」という見方は正しくない、という主張を続けている。

 昨年のこの時期は、2012年のO・ストーン監督によるドキュメンタリー映像から勉強した。今回はP・カズニック教授のインタビュー記事から学んだ。

 教授は1995年6月、アメリカの国立スミソニアン航空宇宙博物館で、戦後50周年を記念して 、世界で初めて原子爆弾を投下したB29型戦闘機、エノラ・ゲイの展示を計画した。しかし、退役軍人の大反対で頓挫したという経験を持つ。
 また、2012年O・ストーン監督とドキュメンタリー映像と本「語られない米国史」で、原爆投下の経緯を明らかにし、投下までのプロセスに疑問を投げかけた。
 
 教授は5月、日本の某紙のインタビューを受けた。以下がその要旨であるが、米国でも原爆投下についていろいろ再評価されているようである。

# O・ストーン監督とのドキュメンタリー映像と書籍は85%の方々から好意的に受け止められた。しかし、これを嫌う保守派もいる。ヒラリー・クリントン元上院議員らも批判的。
# 20年前、スミソニアン博物館が企画した原爆展に猛反対した世代の多くは死去し、原爆投下決定をめぐる議論は沈静化した。
# 日本本土に侵攻すれぱ、徹底抗戦にあい、米兵らに多くの犠牲が出るだろうとの言説を、当時の米国人らは固く信じていた。私たちは『戦争に勝ったのは兵士の働きのおかげで、原爆神話は兵士らの功績を傷けるものだ、と考えた。
# 年配の世代は原爆投下を命じたトルーマン大統領を英雄視している。実はトルーマンは日本側が降伏したがっていることを知りながら、日本側が求めた降伏文書の文言変更をかたくなに拒み終戦を遅らせた。そうした事実を知らぬまま米国では『原爆神話』を信じている。

# トルーマンが広島・長崎に原爆を投下した真の狙いは対ソ遠であったのは間違いない。ソ連が参戦する前に米国の力で日本の降伏を侭したかった。原爆投下で、ソ連に対して重大なメッセージを送った。
# 日本の最高戦争指導会議は1945年5月、ソ連の仲介によって、よりよい降伏条件を得ようとしていた。広田外相は駐日ソ連大使に6月初めに会って、一刻も早い降伏の意思を伝えでいた。

# 米国が広島・長崎に原爆を投下した時、ソ連の指導者らは真の標的は日本ではなく、自分だちなのだと理解していたはずだ。米国の原爆開発を指揮したR・グロープス将軍も「敵はソ連で日本ではない」と明言している。

# トルーマンは8月15日までにスターリンが対日参戦する。そうなれば日本は敗北する、と述べてた。米国は日本側の通信を傍受しており、7月18日の日本側の公電で、天皇が和平を求めていることをトルーマンは知っていた。だから、戦争が終わる前に原爆を使いたかった。

# 米軍の本土侵攻はそれより2-3ヵ月後に予定されていた。それをしないために原爆を投下したというのは、整合性がない。当時の海軍指導者らは原爆投下に反対であった。


8/6(木)快晴暑い 外来 飯川病院ボランティア 竿燈祭り最終日
 1:00起床、新聞データ化と整理。5:00野菜収穫、散水他。5:20資源ごみ大量に集積所に。7:30徒歩病院着、8:45-13:00外来。14:00-18:50飯川病院勤務、19:15帰宅。19:30夕食、20:30就寝。歩数計積算7011Km。Blu-ray Disc:「ニュース系;世界のいま、ギリシャ、中国」、「第二次世界大戦総力戦:エレクトロニクスが制す・マリアナ・サイパン」

原爆投下70年(1) 広島「原爆の日 」
 広島に「原爆」が投下されてから70年目を迎えた。
 本日、広島ではしめやかに平和記念式典が行われた。

 この日もいろいろな感想を抱いた。

■毎年の平和式典はマンネリ。鎮魂の意義はあまり感じられない。鎮魂に関しては関係者主催の別の式典がいいのではないか。
■歴代首相の挨拶に進歩が無い。核に対する政府見解を知りたい。今年の首相の挨拶は非核三原則に触れていない。国の基本原則だから触れる必要はない、との見解であったが、分かりきったことでも並べておくべきでないか。これを外すのは時期的にまずい。

■「平和祈念」式典なら発展性がある。「平和記念」なら忘れられる。

■何でな「平和記念」公園なのか?なんでも綺麗に整え、問題を隠す日本。「非人道的無差別殺戮を糾弾する公園」とすべき。当時はGHQ管理下でこんな名称は不可能だったと思われるが、日本独立後なら変更可能だっただろう。

■原爆死没者慰霊碑にある「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」はどんな意味か。「過ち」とは何を示しているのか?作者あるいは指示者の意図はなんだろう。

■もはや原爆投下など不要であった。トルーマンには8月8日に対日宣戦布告をするはずの対ソ戦略しか念頭になく、そのため6日が選ばれ、天候の関係で広島が選ばれた。トルーマンには犠牲者について関心など一切無かったのだろう。こんなことで決められたなど、余りにも悲しい、大きな犠牲である。

■非戦闘員を含む大量殺戮は人道上許されない。国際法違反行為で疑問を挟む余地はない。原爆だけではない。東京など各都市の空爆、土崎空爆は非戦闘員の大量殺戮を目的としていた点で許せない。そういう見解を表明しているだろうか。

■米国人の85%は原爆投下を正当化している。原爆に関する歴史認識、犯罪行為の責任を明らかにすべきなのはこれだけの犠牲者を出したわが国の務めである。世界唯一の被爆国日本、という被害者意識を中心にした検証はもう良い。何か具体的作業は進めているのだろうか。

■原爆投下がもたらしたその後の政界情勢、どのように検証されているのか?


8/5(水)快晴暑い 外来 飯川病院ボランティア 明徳館 竿燈祭り三日目
11:00起床、子ネコ走り回ってうるさい。文献新聞整理。英語勉強他。5:00収穫、散水。7:30徒歩飯川病院着、8:45-13:00外来+健康クリニックドック判定総括。14:00飯川病院ボランティア,18:00明徳館返却と借用。19:15バス帰宅、夕食、20:30就寝。Blu-ray Disc:「今世界は7/12:中国経済など」、「日本人は何を目指してきたのか:未来への選択(2)マタハラ」。歩数計積算7001Km。

宗教とは何か2015(14) 日本人の宗教観(2) 宗教に対する恐れがあるのでは?   
 日本人の宗教心の背景には、自然宗教が占めているが、そのことはあまり意識されていない。あまりにも生活に密着しているから、自然宗教を宗教と捉えている人は少ない。それでも日本人の宗教文化の中における位置付けはとても大きい。

 自然宗教を持ちながら、日本人の多くは無宗教と答える。それは当然である。

 宗教とは何か?? 宗教は「超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する信条と行為」と法的に定義されている。自然宗教も立派に宗教に合致する。

 自然宗教、神道以外の創唱宗教、キリスト教、ユダヤ教、仏教が多いが、一般的に信者、経典、教祖などを備え、宗教団体を形成している。だからその存在は分かりやすい。
 宗教団体は宗教法人法で「宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を教化育成することを主な目的とする礼拝の儀式の施設を備える団体」となっていて、宗教団体は、法に従って宗教法人になることができる。私どもが身近に接するお寺などは宗教法人となっていて、税制上も優遇されている。

 日本人に宗教についてアンケートすると、ほとんどの人が日常的に宗教的行事に参加していながら、70%が無宗教である、と答えている。何故なのだろうか。
 日本国内で無宗教であると表現することはそれほど違和感を持たれない、という安心感があるし、当たり障りのない答えでもある。外国では到底理解されないが、国内ではそれ程気にもされない。だいたい、無宗教と答えても聞く側も信じていない。

 日本人は大きな自然宗教を無意識に信じて頼っており、ブッダをはじめとする創始者や弟子たち人間によって後付けされた創唱宗教を一段軽んじているからではないかと
私は思う。特に、仏教の場合は、修行、悟り、戒律、理解困難な経典・・・などを伴うことから、半ば近寄りがたくて恐れている?のかもしれない。だから創唱宗教に一定の距離を置いているのではないか。

 日本人は創唱宗教の信者になったら、オウム真理教のごとく、自由が奪われ、金銭も奪われかねないと恐れているフシがある。これも当然の感覚である。創唱宗教はすべてが非日常的である。多くの人たちは日常それなりのバランス感覚で生きており、さしたる問題もなければ「宗教など日常的には不要」、「宗教で日常をかき回されたくない」、「死んだときだけ・・・」という感覚であろう。

 私の場合も正しくそうである。
 私は郷里に菩提寺がある。
 曹洞宗の寺で、生まれてこのかたすべての仏事はこの寺で行ってきた。曹洞宗は道元に始まる、道元は「正法眼蔵」なる大作も残していることくらいは知っている。仏事の際には全く意味がわからない経を100回も聞き続けているが、つい最近までそれを不自然なこととは思わず、関心を持たなかった。別にそれで実害も何もなかったからである。
 曹洞宗の経典、道元について関心を抱いたのはつい最近のことである。


8/4(火)快晴暑い 外来+飯川病院 竿燈祭り二日目
1:00起床,新聞入力、文献整理。本読み。5:00カ年ゴミ提出。収穫散水、7:30徒歩飯川病院。8:45-13:00外来。14:00-18:45飯川病院。18:45家内体調不良でTaxi帰宅、夕食、20:00就寝。積算6990Km。Blu-ray Disc:「そこ迄言って委員会」、「ニュース系;世界のいま」。

宗教とは何か2015(13) 秋田市の二大夏祭りを機に神道を考える
 自然宗教は、山や川などの自然などを敬い、それらに神格を見いだす多神教で自然と神とは一体で、森羅万象に神が宿ると考える。巨木なども崇拝の対象となる。その神を讃えるために地域の共同体を中心に適宜祭りが行われる。一般的に規模は小さい。

 神道も山や川などの自然やまた神話に残る神などを敬い、それらに神格を見いだす多神教である。自然宗教と共通点は多いが、神格化され、イメージ上で擬人化された神が存在し、神と人間との間で関係を取り結ぶ作法がおこなわれ、これを祭祀といい、その祭祀場所が神社である。大きな神社では神主、巫女などが専門職として神事を司る。神道は地縁血縁などで結ばれた共同体を守ることを目的に信仰されてきたが、果たす領域はより広大化している。

 神道には確定した教祖、創始者がおらず、仏教の経典やキリスト教の聖書にあたる聖典がなく、「古事記」、「日本書紀」などの古典を規範とする。 
 神道は日本国内で約85,000の神社が登録され、約1億600万人の支持者がいると文化庁の『宗教年鑑』に記載があるが、各神社が自己申告した人数の合計で全く根拠はない。日本人の7割程度が無宗教を自称するという多くの調査結果とは大幅に矛盾する。

 自然宗教の場合も神道の場合も、一般人が参加できるのは祭りである。

 神道の祭りは、稲作を中心に暮らしを営んできた日本の姿を反映し、春には豊作を、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われる。
 祭りの日は、神社での神事に加えて神輿や山車が繰り出し、住民で賑わう。地域全体が熱気に包まれ、集団的に興奮のるつぼと化す。この日だけは氏子たちは神に仕える身、という立場で神と人が共に同じものを食する神人共食が基本の形である。神に奉納した神酒を参列者も授かる会が礼講であり、その後に行われる宴席のことを無礼講と称する。祭りの中では、ある程度の非日常的な行為は神の名の下に大目に見られることが多く、その開放感も熱気、興奮のルーツとなっている様だ。時に祭りは暴力的な様相を呈する。自分を捨て、神からの啓示をもらい、生きるエネルギーを得る。祭りはいのちの継承という意味ももち、時にはセクシャルな様相を持つ場合もある。
 
 秋田市で初夏及び盛夏に二つの祭りが行われる。

 秋田市の土崎で行われる土崎神明社祭の曳山行事は、18世紀頃から続いている行事。土崎神明社は1600年代から祀られ、土崎湊町の総鎮守として崇められてきた。毎年7月20日-21日の2日間にわたって行われる。この祭りは神道の行事の一つで、特定の神社の例祭である。私も数年間土崎港に住んだが、祭りが近くなると住民は気分が高揚し、落ち着きがなくなる。余所者にとってはいたたまれない気分になる。私は病院の日当直でやり過ごした。
 
 一方、秋田市で8月3日-6日に、すなわち昨日から4日間にわたって盛大に行われる「秋田竿燈まつり」は竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立てていることから、五穀豊穣、豊作を祈る祭りである。しかし、私が調べた範囲では特定の神社は関連していない様である。この辺のことはさらに調べなければならないが、だとすれば、自然宗教に起源を有する祭りが発展した姿に思われる。
 竿燈祭りの初期の頃はどうだったのか、知る由もないが、今は完全に観光イベントとなっていて、話題性としては何を祀るのかなどは消え失せ、どれだけ集客できたのかに集中しているのが残念でもある。

 私は神道の祭りについて、民俗学的立場で興味を持っている。柳田國男の民俗学の中に参考にできる記載が多い。


8/3(月)晴れ 健康クリニックドック 飯川病院 竿燈祭り初日
0:30 起床。文献処理他録音データ整理。7:20徒歩飯川病院着、9:00-11:00健康クリニックドック。11:30飯川病院へ、14:00-18:50勤務、19:20帰宅、夕食、20:30就寝。歩数計6980Km。Blu-ray Disc:「世界のドキュメント:あなたの脳は男性?女性?」、「コズミックフロント:月のミステリー」、「世界不思議発見:杉原千畝」。

宗教とは何か2015(12) 日本人の無宗教は真の無宗教ではない 
 日本人に宗教についてアンケートすると70%が自分は無宗教である、と答えている。しかし、同時に宗教心は大切だ、とも答えている。要するに自分は決まった宗教を持っていないが、宗教心は豊か・・ということが表現されている、と読める。
 人類にとって大切な、宗教心についての立場を問われているのに、これは実に曖昧な姿勢である。諸外国ではまず理解されないだろう。

 このようは答えは特に一神教であるキリスト教社会、イスラム教社会ではまず考えられない。これらの社会では無宗教であると答えることは、その社会からほぼネグレクトされるような厳しい状況を自ら表現することになる。人間らしからぬ姿勢だとまで言われかねない。無宗教であることなどこれらの社会では到底理解されない。

 日本は他の宗教国とは異なった宗教環境にある。日本に住む者にとって国内で無宗教であると表現することはそれほど違和感を持たれず、一種の了解事項であり、ほぼ当たり前の答えである。しかしながら、日本人の無宗教は真の無宗教ではない。

 宗教を大別すると、種々の分類法があるが、日本における宗教は大きく以下の分け方をするのが理解しやすい。

(1)自然宗教ーー宗教心の対象が山とか岩などの自然にあり、特定の教義、教祖ではないもの。

(2)神道ーー宗教心の対象が民間の習俗的な意識、言い伝え、神話から生まれてきたもの。(1)と(2)は区別困難な場合もある。

(3)創唱宗教ーー特別な創唱者によって提唱され、信仰されている宗教のこと。主に神や霊的な超越者などから何らかの啓示を受けたとされる創唱者よって唱えられる。仏教が代表的存在。天理教、真如苑など。オカルトと言われるオウム真理教なども含まれる。

 日本人の宗教心の背景は、絶対的に(1)の自然宗教が占めているが、そのことはあまり意識されていない。自然宗教を宗教と捉えている人は少ない。宗教と呼べるような教義も、名称もない、あるのは絶対的存在と思われる事象に対する各人が抱くイメージだけだからである。
 それでも日本人の宗教文化の中における位置付けはとても大きい。

 日本人は創唱宗教を恐れている??だから、あまり近づかない。
 結果として、70%ほどの人が、実際に先祖代々の仏教のある宗派に属しており、仏事を行う菩提寺などを持ちながら、個々人は無宗教と答える状況になっている。


8/2(日)快晴・猛暑  飯川病院日直 
1:00起床、書類、読書などいつもの如く。撒水、野菜収穫、8:27バス出勤、9:00-17:00飯川病院日直、患者は平穏であった。午前は新聞チェック、データ整理中心に。午後は外来患者レセプトチェック。本読みなど。17:30迎えあり帰宅、勝手入り口の網戸修理とネコ対策。19:00夕食、20:45就寝。Blu-ray Disc:「100分で名著:小泉八雲、日本の面影」、「ヒストリア:日本刀」、「英雄選択:前田利常」、「ガイアの夜明け:地域密着」ながら視聴、徒歩積算6970Km。

宗教とは何か2015(11) 千秋公園の満開のハスのを見て浄土を思う 
 徒歩通勤時に毎日通る千秋公園の「ハス」が満開となった。見事である。「ハス」は早朝が最も美しい。



8/1(土)快晴猛暑 ノースアジア大学講演会
11:30起床、新聞や文献読み。データ整理。5:00収穫、散水ほか。7:00-10:00風徐室扇風機修理ほか、11:00飯川病院、子ネコ再度里親に預ける。13:00-14:30ノースアジア大学講演会:石原結實氏「クスリのいらない健康法」、音響のせいもあったが、実につまらない内容であった。15:30駅よりバスで帰宅、庭の草刈り。微睡。19:00夕食、20:00就寝。徒歩積算6965Km。Blu-ray Disc試聴なし。

宗教とは何か2015(10) 鎮魂の夏
 6月、7月は 清々しい新緑の季節である。地上、山々の木々は一斉に緑と化す。草萌える季節である。私も庭や畑の作業を通じて土の包容力、太陽の恵み、植物の旺盛なエネルギーを感じ取っている。

 8月になった。8月になると私の気持ちは一変する。一言で言えば鎮魂の月ということである。

 間も無くお盆を迎える。
 盆といえば先祖のお弔いである。私にとって最も身近なのは両親、祖父母である。私は幼少の時に兄と話し合い家督を譲り受けた、両親が生存中は人並みに親戚間の付き合いを維持してきたが、私の裁量で全て賄うようになってからは全て先細りするような方向にした。こんなやり方を採ってきた私には、既にお亡くなりになっただろう郷里の方々のことが頭をよぎる。こんなことを折につけて思い出すのが8月である。
 ご先祖の方々について十分弔ってきたという感触もない。私にとって懺悔の気持ちを込めた鎮魂の月と言っていい。
 今年になってから実兄と義兄が死去した。
 加えて、職業上で関わった方々のことも頭をよぎる。

 私は今、宗教、人間の歴史、いのち等について学んでいる。これらの学びの対象は学術的な部分も大きいが、それ以上に記録されている資料から知ることができた人間模様に興味を感じる。

 間もなく終戦の日を迎える。
 現在は第二次世界大戦を中心に学び直しているがこの大戦は突如生じたのではなく、江戸末期のあたりから目まぐるしく変わっていった国際情勢の歴史の流れ上の大事件であった。今の視点から見れば防ぎ得たし、狂気の沙汰と言うべきことも多かった。実感終戦の判断も早められたと思う。軍人犠牲者だけをとっても230万人ともいわれるいのちが失われている。ましてや国民全体の犠牲者を考えれば心が痛む。
 この8月には宗教と戦争の関連等も考えたい。

 岩手の、東北の東日本大震災で失われたいのちについても心は馳せる。

 この8月は改めていのちのことを考える月にしたい。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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