徒然日記
2013年4月分

 日記と言うより、自分の行動記録からの抜粋と日々の雑感です。

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4/30 (火)降雨後晴れ 外来 飯川病院 
1:00起床。新聞・文献・録音データ処理,いつものごとく。7:00-8:00徒歩病院、重症患者回診と患者見舞い。8:45-12:50外来。14:00-17:00飯川病院、17:15病院に見まい、書店経由徒歩。保戸野すわ町からバス。新聞チェックPDF化、19:30夕食、20:30就眠。歩行計203.5Km。

気象情報(3)傘をもって出かけましょう・・、レジャーに最適の日和です・・大きなお世話だよ
 各放送局で天気予報に気象キャスターなるものが登場してから何年になるのだろうか。年号が平成に変わった頃からと言われている。

 平成3年気象業務法の改正によって、気象庁以外の者に予報業務の許可が与えられた。気象予報士は国家資格で国家試験に合格し、気象庁長官による登録を受けた者が担当できる様になった。だから、それ以降は各放送局ではお天気キャスターによる説明が行われている。

 予報士が登場してから気象データの提示でそれまでの天気予報よりは優れた点があるかどうかはわからないが、説明は確かに詳しくなったような気がする。ただ、説明する気象情報は気象庁が発表する内容であって、予報士がどれだけ独自のコメントを出せるものなのか、よくわからない。天気情報は戦時下では戦略に関連する機密事項で国民には知らせなかったが、現在も「風が吹けば桶屋が儲かる」がごとく、社会生活に重大な影響を及ぼしかねないから、説明には一定の資格が必要であろうが、個々の士に裁量権などどれだけ与えられているのだろうか?不思議な存在である。

 TVの場合、若い女性の気象予報士が登場してくれるとうれしい。私は2年前から19:00のNHKのニュースをほぼ欠かさず見ているが、この間4-5人のお天気キャスターが登場している。この時間帯の予報はいずれも女性キャスターが担当し、比較的美人であるのがうれしい。それと、日替わりの服装である。感心してしまうが、この服装は個人持ちのものなのだろうか?あるいは、NHKもちなのか?この時間以外の気象情報も見ることがあるが、男性予報士だと、さらに中年の方だと、いささかがっかりする。話す情報については大差ないのだが、画像としては楽しくない。

 いまゴールデンウイークのさなかで国民大移動の時期でもある。お天気キャスターが天候が悪い場合には「傘をもって出かけましょう・・」、いい天気の場合は「レジャーに最適の日和です。気をつけてお出かけください・・」などと説明しているが、サービスであろうが私から見て大きなお世話である。人が集まる場所が嫌いな人も、レジャーなどに行けない方々も大勢見ている。安易に水を向けないでほしい。
 どうせなら、「じっくり本を読んだり思索に適した日です・・」、とか、「外仕事、農作業などに適した日です・・」などとも言えばいい。

 車で通勤していたときには天候など気にもとめていなかったのであるが、バイク、自転車の場合は途中で降られた場合には逃れようが無いから、どうしても天候に関する情報が必要になる。途中で降られびしょ濡れになったこともまれでない。いまは徒歩通勤なので、雨天のときは無理しなければ良いし、途中で降られたらカッパを着たり傘をさせばいいし、バス路線に沿って歩いて適宜バスに乗ればいいし、最後の手段はタクシーを利用すればいいから、天候に関してはあまり気にしなくていい。気楽になった。
 だからこそ、お天気キャスターは若い女性がいい。美人ならさらに良い。ファッションも楽しめる。


4/29(月)みどりの日休日 曇り 飯川病院日直 
2:00起床。新聞・文献・録音データ処理,いつものごとく。7:50徒歩病院、見舞いと重症患者回診、治療変更等処理。8:20飯川病院で日直業務。17:15重症患者回診、帰路保戸野諏訪町よりバス帰宅。19:30出前夕食、20:20就眠。伊能計198.0Km。

食事は健康維持の要(8) 抗凝固薬プラザキサ(3) 納豆制限不要はありがたい
 プラザキサは食事制限が不要である。患者にとって納豆を食べられるメリットはとても大きい。私の場合は特に大きい。

 私は薬物服用がなかったときは一日一食で夕食のみで、朝食は滅多にとらなかった。しかし、一日2回服薬をするようになってからはコンスタントに朝食もとるようになった。プラザキサ服用にて悪心、腹部不快感、ゲップ等の症状があり、空腹時服用はできないからである。

 私の朝食は自分で用意して食べる。といっても私は調理は滅多にしない。ご飯を解凍し、夕食の残りがあればそれを利用する。何もない時は納豆の出番である。週のうち半分ほどは納豆である。そのために我が家の冷蔵庫には各種の納豆が数日分はある。さらに冷凍ご飯も無いときには・・・納豆のみを2−3パック食べることもある。納豆は調理の手間も要らないし、栄養バランスもいい。ものぐさの私にとって最高の食品である。もし私がプラザキサでなくワーファリン療法を受けたなら私の食生活は一変していたと考えられる。プラザキサ様々である。

 食事と薬の効果については、
■食事によって薬の吸収が妨げられる、
■ 食事によって薬の吸収が高められる 、
■薬と食品の相互作用のために薬効が変化する場合・・などいろいろ言われている。

 しかし、健康維持の基本はあくまでも食事であり、食事は生きる喜び、気力の源である。例えば貧血治療薬の鉄剤とお茶やコーヒーなどの関係が有名であるが、患者の生活習慣を変える必要は無い。多少薬効が変わってもいい。生活の質重視である。しかし、ワーファリン治療中の患者に対しては納豆だけは強く制限している。

 医師によっては、あるいは薬剤師によっては服薬指導がきつい場合もある。プロだから許容範囲が狭いということだろうが、薬以前に患者の生活重視であるべきだ。私は大雑把に言えば、主治医の指示が無いかぎりさほど神経を使うことは ない、と思う。そんなことより楽しい食事を心がけることの方が大切である。


4/28 (日)快晴 観桜徒歩  
1:00起床。新聞・文献・録音データ処理,いつものごとく。7:00-8:30徒歩病院、重症患者回診と患者見舞い。9:30-10:30千秋公園横断して徒歩帰宅。男手が揃ったとことで3階の物置の整理、廃棄物を大量に用意、すっきりした。孫娘のパパも来秋。16:00病院に見まい、帰路は徒歩。本日は2万歩を超えた。19:00夕食、20:00就眠。伊能計192.5Km。


食事は健康維持の要(7) 抗凝固薬プラザキサ(2) 安全な薬剤とは言えないが・・
 2011年3月に発売となったプラザキサは、医師・患者双方の負担を軽減できる薬剤として、高い期待を集めた。ところが、日本で発売して5ヶ月の間にプラザキサと因果関係が否定できない死亡例が5例発生した。

 肺がん治療薬のイレッサの場合、2002年発売で2006年まで急性肺障害で643人が死亡したが、この問題とオーバーラップするものがある。イレッサ問題は訴訟になったが最近裁判で原告の訴えが退けられた。

 プラザキサ関連死と考えられる5例は何れも70−100歳の男女で胃腸出血や出血性ショックで死亡している。発作性心房細動による脳梗塞は脳梗塞全体の30%近くも占めるために抗凝固療法は一般臨床医にとっても大切な治療法となっている。しかし、ワーファリン治療は煩雑で二の足を踏む臨床医は少なくなかった。

 プラザキサはその優位性が発売前から注目されていたために、安易な処方が一気に増えたためと思われる。イレッサも他の新薬も同様であるが、研究段階では専門医が慎重に使用するために安全性はより高いが、一般臨床医は経験もないのに専門医の論文、製薬会社の宣伝マンの話を鵜呑みにする傾向がある。イレッサもプラザキサもマスコミでも「副作用のない安全な新薬登場・・・」、と取り上げられたが、これも薬禍の一因になっている。

  プラザキサは脳出血、消化管出血、皮下・鼻出血等の服作用の他には胃腸系の副作用頻度が高い。消化不良(4.7%)、胃食道炎(3.1%)、 消化管潰瘍(1.3%)、悪心、腹部不快感、上腹部痛、心窩部不快感、嘔吐などの報告がある。 一般的に効果が劇的である薬品ほど副作用も多い。「夢のような治療薬などない」と考えるべきで、マスコミ等で安易に取り上げて欲しくない。

 私が服用しているプラザキサは上記のごとく、時に致死的となりうる重大な副作用もあり決して安全な薬物とは言えないが、食事に制限が不要、頻回の検査が不要だと言うことは患者にとっては大きなメリットである。
 私にとって納豆を食べられるメリットはとても大きい。


4/27 (土)終日降雨 
1:30起床。新聞・文献・録音データ処理。自炊若干。7:30車病院、重症患者回診、ICUに見舞う。12:00重症患者2回目回診とICUから一般病棟に転入の患者を見舞う。13:00ベビーシートをみにトイザラスへ。大型玩具店なるものに初めて入ったが、品揃えの多彩さに驚く。強烈な睡魔で15:00-18:00午睡。19:30夕食、読書、文献読み。22:30就眠。桜満開に。本日歩行できず。伊能歩数計184.1Km。

食事は健康維持の要(6) 納豆を食べられる幸せ・抗凝固薬プラザキサ(1)
 私は食べることに対して関心はうすい。とはいえ食べなくてはならない。食品の入手が困難を伴わなければ、それほど質は問わない。食事に労力も時間をかけたくない。こんな私のために美味しい食事を用意してくれる方には感謝している。

 昨年11月私は脳梗塞に罹患した。発作性心房細動がありながら脳梗塞予防のための治療を受けていなかったからである。自転車で2回転倒し身体を路面に強打したが、このとき抗凝固療法を受けていたら、と思うとぞっとする。
 しかし、脳梗塞を起こしてしまった。幸い後遺症もなく改善したがもう抗凝固療法は欠かせない。神経内科の主治医は抗凝固薬のプラザキサを処方した。今のところは再発作の兆しはないが、何時どのようになるかはわからない。

 発作性心房細動の脳梗塞予防にワーファリンによる抗凝固療法が有効であることが一般臨床医に知られるようになったのは2000年以降である。
 ワーファリンは過剰投与で脳出血等の危険があり、投与不足では脳梗塞の発症予防効果は無くなる。ワーファリン服用中は納豆、クロレラをはじめビタミンKを多く含む食品は摂取してはならない。また、多くの医薬品との併用によって、その作用が不安定になる。だから、定期的な血液検査で適正投与量の調節が必要である。とにかくワーファリンは医師・患者にとって煩雑な薬物である。だから、ワーファリン投与を躊躇する医師もいる。私自身は患者には積極的に投与するが、自身には気後れした。当時、自転車にこだわっていたが、ちょっとまずかった。

 2011年3月に発売となったプラザキサは、ワーファリンと同様の薬効があり、副作用としての脳出血も少ない、とされている。また、腎機能が一定以上あれば投与可能であり、量調整のための頻回の検査や食事制限が必要がない・・とされている。高齢者には慎重を期す必要であるが、医師・患者双方の負担を軽減できる薬剤として、高い期待を集めている。

 食事に制限が不要だと言うことは患者にとっては大きなメリットである。
 はただ、好いことばかりではない。日本で発売して5ヶ月の間にプラザキサと因果関係が否定できない死亡例が5例発生した。あまりにも前評判が良かったために広く臨床医に一気に普及したためである。


4/26 (金) 曇り・雨 
 1:20起床、新聞・文献自炊。7:00途中で降雨、久保田新橋からTaxi病院。本日は私用にて大曲中通病院外来は休みをいただいた。医局にてほぼ一日待機、おかげで紹介状、退院総括、カルテ処理多数。15:00-16:00患者家族面談、17:00-17:30私用家族面談・経過説明を受ける。18:30半コース徒歩にて帰宅。新聞チェック。19:00夕食、20:00就眠。 伊能計180.1Km。

徒歩通勤(7) 偉人伊能忠敬(3) 家族で入門す
 私はこの4月7日に伊能忠敬に弟子入りした。師の指導を受けながら、師が歩いたルートを歩き始めた。徒歩通勤してから284.1Km、弟子入りしてから180Kmほど歩行した。データが蓄積されていくのがうれしい。今後は弟子入り後の集計を示す。

 弟子入りしてから変わったことと言えば
■現在、千葉県木更津付近を歩いていることになるが、千葉県やこの地域の産業や文化について関心を持った。全国ニュースでも千葉県関連に目がいく。
■歩行距離が蓄積され、地図上に表現されるために、ちょっとした距離も積極的に歩いて出かけるようになった。
■時間に余裕があるときにはあえて遠回りして歩く。
■昨年までは秋田市内をかなり細かに自転車で通ってみたが、じっくり見るためには自転車は速すぎる。歩行の速度がちょうどいいようだ。
■下肢に力がついた。しかし、やせる効果は乏しいようである。


 従来は徒歩での通勤は楽しさ半分、苦痛半分であったが、今は後者はほとんどなくなった。速歩するから下腿に時に筋肉痛が生じるくらい。通勤は往復で10Km、100分程度であるが、この時間は思考等に当てたりするから無駄にはならない。ラジオ深夜便心の時代の演目を2本聴くことができるのも良い。

 私が伊能忠敬バージョンの歩行計を用いてから積極的に歩いているのを見た家族も影響を受け、3人の子供たちも入門することになった。息子の嫁さんには私から誕生日プレゼントとして歩行計をあげた。だから5人が同じ歩数計を用いている。いまのところダントツに私が先行しているが、各々生活圏の中でかなり歩いているらしく何れ横並びになるだろう。

 現在のところ一日1万歩以上、距離10Kmを目標にしている。2万歩で師から何らかのお言葉があるようなので、それを楽しみにチャレンジしてみたい。


4/25(木)晴れ 外来 飯川病院 桜三分咲き
1:00起床、書類PDF化、文献読みなど数件。17インチのマックは重く車で病院に。回診ほか、8:45-13:40外来。16:00-17:00飯川病院。17:00中通病院へ。家族面談、病状説明。18:45帰宅。息子一家4人+一匹来秋。19:00夕食、20:15就寝。通勤路の桜三分見事。 歩行計276.1Km。

3人めの孫誕生(4) 孫はかすがい 松坂のご両親をお迎えした 
 私は食べることに対して関心はうすい。あまり食事に時間をかけたくない。同様に人付き合いについても殆ど関心がない。私がこれほど人に会うこと、会話を交わすことが嫌いな人間であることは退職後に初めて知った。180度の転換であるが、いまの自分に満足している。

 いまも外来診療を続けているが、もう会話が面倒になったので止めたいと考えている。病院スタッフとの会話は単語レベルになった。まともな会話は家族間に限られている。

 今回、我が家で3人目の孫、孫娘が生まれた。まだ一緒に暮らしている。孫娘のパパは週末に来秋し、抱っこし、ミルクを与え、穴があくほど見つめ、父娘の絆を深めている。私の場合と大違いである。

 そういえば、孫娘のパパのご両親にとっては初孫である。おそらく松阪の地から一日も早く初孫を見たいと思っておられるのではないかと考え、私の発案で秋田に招待することとした。人を自宅にお呼びするなどは私にとってはまれな提起である。孫娘が横浜に戻る時期がやや遅れそうなこと、この機を逃すと不肖の長女がお世話になっていることへの感謝の気持ちを伝える機会が2度とないだろうと考えたためでもある。

 いまの若い世代の結婚は当人同士の結びつきで親同士のお付き合いはない。他の方々のケースについては知る由もないが、少なくとも我が家の長女、息子に関してはそうである。両者とも先方のご両親とは結婚式の前に一度と、結婚式の当日にお会いしただけである。社会的習慣にそって盆暮れのお付き合いは家内が考えてくれている。

 松阪からご両親が4月19日に来秋された。タクシーをおりられた後、庭の木々を眺めるなど悠然と構えておられたが、一目孫娘を見てからは、可愛くてもう一刻も側を離れられない、と言う様子であった。夕食会までの数時間の、ご両親が孫に接する姿を見て私の方が本当に驚いた。立場が逆なら、私は5分も持たなかっただろう。

 夕方から市内の割烹で懇親の会を持った。料理も器も素晴らしかったが次の料理が出てくるまでの間隔が長く、間を持たせるのに大変であった。私はアルコールを飲まないから食事に時間をかけたくない方である。レストランや料亭のコース料理も一気に全部出してくれればいいと思っている。実際はそうはできないだろうからオーダーの際に時間設定も受けてほしいと思う。

 ご両親は翌日は角館に出かけた、翌々日は直に松坂に戻る予定と聞いていたが、発つ前にまた孫娘に会いに来られたそうである。あの雰囲気では当然のことだろう。

 とまれ、子はかすがいと言われるが、今回は孫がかすがいとなって貴重な機会がもたらされた。これほど可愛がってもらえる孫娘を生んだ長女は幸せものである。


4/24(水)曇りのち雨 外来 飯川病院代診
 1:30起床、新聞・文献読み、徒然。自炊本読み。7:55徒歩病院着、回診他。8:45-13:10外来。14:00-17:00飯川病院代診。激しい降雨あり車で帰宅、資料整理など。19:00夕食、本日より家内不在。食卓が寂しい。20:30就眠。歩行計269.9Km。

秋田の良いとこ、足らぬとこ2013(4) 秋田市長選で寺田氏の動向
 秋田県知事選で、佐竹氏は無投票当選であった。人口減、高齢化と言う大きな問題を抱える秋田県で無投票で知事が選ばれたことには問題がある。

 一方、秋田市長選でも現職の穂積氏も無投票当選かとも思われたが、結果的に3人の候補で争われ、4月7日投票の結果は穂積氏66,854票、寺田学氏54,491票 、佐々木良一氏6,702票となり現職の穂積氏が当選した。
 私は無投票にならなかったことはよかったと思っている。寺田氏は朝日新聞のインタビューで立候補の理由として「今の市政を変えなければならないのに誰の手を挙げる人がいないから・・」と述べているが、この姿勢は評価できる。

 寺田氏は民主党を離党して無所属で立候補した。この点は疑問である。

 寺田氏は若手議員でありながら民主党では首相補佐官として活躍された。昨年12月の総選挙で4期連続当選を狙ったが落選した。それが、僅か4ヶ月前のことである。今回の秋田市長選挙では民主党県連からは出馬要請があったとされるが断り、民主党を離党しての出馬した。出馬するのに何故民主党からではなかったのか?疑問である。

 寺田氏は過去の選挙を通じて民主党の政治について熱く語っていた。党が離散消滅したのならまだしも、本人が落選したと言えども野党第一党としての立場でを占めている。彼の政治信条は何なのか?離党の理由は何なのだろうか。市長選に出馬のため?
 もし市長選に出るための離党なら有権者に対する背信行為であり、有権者を馬鹿にしている。

 離党の理由は私が得ることのできる情報の範囲では明らかにされていない。有権者に対して明快に説明すべきである。

 今回の市長選は争点が少なかった。新市庁舎建設、ゴミ処理、除雪問題である。前二者は計画が進行中である。今冬の除雪は確かに市民の不満を買った。降雪量は例年より多かったが、寒冷で積もった雪が解け難かったために市民が何時もよりは難渋したが、私は除雪の拙さよりも穂積市長の除雪に対する発言、姿勢が不満であった。

 穂積氏は前回より大幅に得票数を減らしたが、その原因は除排雪にあると思っている。
 一方、投票率は最も低かったが、その因は寺田氏にあると思う。政治家として政治理念は何だったのか、主張を貫く一貫性が見えない・・など、こんな候補に市民が呆れ、結果として投票率に影響した、と思う。

 その割には寺田氏の得票数は多かった。私の目からは寺田氏を支持したのではなく、穂積氏に対する不満、批判票が流れたと見るべき、と思う。

 私はかつて県医師会役員のときに、寺田氏も出席した会合に出席したことがあるが、若さなのか、民主党の押せ押せムードが背景にあったのか、彼の不遜な態度は忘れ難い。


4/23(火)晴れ 外来 飯川病院申し送り
1:00起床、新聞・文献読み、徒然・・といつもと同じ。7:50徒歩病因着。回診他。8:45-13:20外来。15:20明日から飯川病院院長休暇予定で午後外来等代理の予定で、軽く患者病態の申し送りを受ける。17:00千秋公園横断して徒歩帰宅、新聞、本読みなど。19:00夕食、20:30就眠。歩行計261..8Km。

今井元副院長が亡くなられた 消化器専門医としてまとうされた方
 私が嘱託として勤務する病院で長く副院長をされた、今井先生が亡くなられた。享年87歳であった。

 今井先生のご略歴等の詳細は手元に無い。
 メモから起こすと、1953年東北大を卒業され、59年に中通病院へ赴任、胃腸科の科長として活躍され、66年副院長に就任されている。1989年3月に定年退職、以降は嘱託医として消化器科で働かれた。ここ2年ほどは主に法人の検診部門で働かれていた。また、私も診療応援をしている飯川病院では先代の院長のもとでの診療応援の実績も長い。入院される直前まで休日日直を担っていただき、現院長が不在の際には診療の応援もしていただいた。

 私が中通総合病院に赴任したのは1985年であるが、当時は瀬戸院長のもとで副院長を務められていた。 私など足下にも及ばない大先輩で、病院の基礎作りから発展に大きく寄与された大先生である。 臨床面では消化器系の専門医として、上部下部消化管のレントゲン検査、内視鏡検査を広く担っており、外来では患者からの信頼はとても厚かった。私も外来患者、入院患者の診療で、また、院長時代には診療応援の件などでいろいろお手伝いただいた。

 私が赴任した直後に、私が関連する領域の疾患に罹患され、私も主治医として治療に参加したことから先生とは親しく言葉を交わすことが出来た。幸い、今に至るまで再発は無く完治状態であった。

 私も朝方人間で出勤は早い方であったが、今井先生の出勤も早かった。毎朝、6:00頃には駐車場でゴルフクラブを振られ、まだ人影の少ない院内をレントゲン写真を小脇に抱え、足早に歩くいておられた。日本内科学会総会は私はほぼ欠かすことが無い学会であるが、今井先生も同様らしく会場では頻回にお会いした。いつも前の席に陣取りまじめに聴講されていた。ここ2年ばかりは、私が養老院と呼ぶ嘱託医用の医局で同室となったが、最近に至るまで時折医局で専門書をひも解いておられた。ご自身は消化管診療の専門医として誇りをお持ちで、決してほかの領域に踏み込もうとしない、信念の人でもあった。

 お亡くなりになる一月ほど前の朝、入院病室を見舞った。この日は不調だったらしく、私を分かっていただけなかった。新年早々見舞ったときには言葉を交わすことが出来たが、このときが私との間の最後の会話となった。

 ご葬儀は4月26日に営まれる。
 長い間大変ご苦労様でした。心からご冥福をお祈りいたします。


4/22(月)快晴 外来 
1:00起床、新聞・文献読み、自炊など。7:55徒歩病院着、8:45-13:40外来と関連書類処理。16:00徒歩帰宅、千秋公園はつぼみがやや膨らんだ程度だが出店ほぼ出そろったように見える。観桜客まばらで手持ち無沙汰。19:00夕食、21:00就眠。歩行計250.7Km。

3人めの孫誕生(3) 高年初産(2) 娩出後に大量出血
 横浜在住の長女夫婦に3月29日に女の子が生まれた。
 娘は間もなく30代から外れる。35歳以上は高齢出産としてそれより若年の妊娠出産とは別にとり扱われる。合併症も多くリスクが大きいからであるが、さらに初産の場合はいろいろと問題が生じる確率が高い。

 強く望んでいながら妊娠できなかった時期も、父親としていろいろ心配であった。妊娠がわかってホッとしたが、高年初産であることを考えると、心配の種は尽きなかった。私の喜びは、新しいいのちが生まれることよりも、娘が度重なる挫折からやっと解放されたことへの安堵であった。

 高齢妊娠は流産する確率も高い。満員電車で通勤しながら仕事も続け無事産休を迎えた時はこれで一段落と思った。マンションで多忙の夫のもとで出産・子育て準備は無理とのことで里帰り出産することとなった。
 里帰りして間もなく体重過剰、全身、特に下腿の浮腫、血圧不安定とかがあって大事を取って10日間ほど入院となった。内科医の私の目から見て入院するほどまでとは思えなかったが主治医はそれだけ慎重に扱ってくれたのだろう。また、出産間近になってからも入院となり、最終的に3月29日に帝王切開となり、むしろ安心した。

 出産の日、私はその日は大曲中通病院の外来応援で、17:00頃に病院に着いたが、新生児は2900gで、五体満足と聞いた。しかし、その後の産婦の処置があったらしく手術室からなかなか戻ってこなくて心配した。夕方、戻ってきた産婦を見舞って私どもは帰宅した。

 翌早朝、娘から強度の口渇があって飲料水が欲しいと電話があったが、話す様子がちょっと変なので水を買って病室に駆けつけた。夜間に一時意識がもうろうとしたほどの大量出血があって、治療・処置をうけたと言うが、その後は落ち着いたとのことであった。カルテの記録では全コースを通じて1500ml以上の出血があったと思われ、夜間の出血は子宮収縮が乏しかったためと思われた。この間、産婦人科医の好判断だったと思うが、輸血なしで治療された。

 私どもには連絡がなくこの間のことは知らなかったが、夜間一人で不安に耐えていたことを思うとやはり不憫でならなかった。
 私は高年初産については娘のことしか知らないが、やはり、リスクは高い。

 母体にこんなに心労をかけたのに、孫娘はミルクを飲んですやすやと寝ている。


4/21(日)雨・曇り  FMアンテナ改良
 1:00起床、新聞チェックほか。本読み、文献整理、自炊多数。午前中かねてより問題を感じていたFMアンテナを改良した。受信状態は改善された。簡易アンテナが最もよかった。午後はDVDにて「テルマエロマエ」観る。雨で歩行できず。19:00夕食、20:40就眠。

FMアンテナ種々検討 簡易型がベストであった!! 
 私の一日は早朝1:00ころから始まる。出勤する7:00迄の間が私の大事な時間帯である。
 傍らのラジオでNHK-FMのラジオ深夜便をずっとならしている。このラジオはオリンパス製のVJ-10で内蔵ハードディスクに長時間モードで2500時間録音できる優れものである。良い内容のものは録っておきたいが、ながら聴きだと録り逃すこともあるので、1:00-5:00間は自動で録音できるようセッティングしてある。

 何時からかはわからないが、徐々にNHK-FMのチュルチュルというマルチパスノイズが大きくなってきた。確かに録音データを聞き直してみると年ごとに大きくなってる。単に聴くだけなら問題ないのであるが、録音データにノイズが残ると不快である。

 FM受信と言えばアンテナの質が問題になる。私のFMエアチェック歴は45年以上と長い。数年前迄はマスプロ製の三素子の専用アンテナを、5年ほど前からはDXアンテナ製のUS1000と言うブースター付きの室内アンテナを用い、太い同軸ケーブルでつないだ。いずれも満足できるレベルではなかったが、マア良いか、のレベルで納得していた。

 それが、最近のノイズの増加で耐え難いものになった。多分パソコンをはじめとして私のコーナーには電子機器が増えてきていて、これらがノイズ源になっている思われた。パソコンの電源を切るとそれだけでかなり改善したが、パソコンなしでは仕事にならない。他の方法を考える必要があった。

 ブースターをもう一つ追加してダブルにしたが不満足、ラジオをパソコンから離しても不満足、・・・といろいろ条件を変えて検討した。最終的にはラジオを私のコーナーの対極側の壁に設置し、同軸ケーブルからT型の簡易アンテナに替えた状況での受信が最も良かった。

 私は電波に関して細かな知識はない。いままでは推奨される方法に則って専用アンテナを用いてきたが、専用より簡易型でいい結果を得たのは驚きである。頼りにしていた同軸ケーブルがノイズの原因の一つになっていたことになる。
 いままでの私のノイズ軽減の工夫は何だったのか??と思ってしまった。


4/20(土)晴れ 港北診療所午前外来
1:00起床。週末恒例のハードディスク同期とデータ整理等。8:30Taxi港北診療所に。9:00-12:00外来、13:00徒歩にて帰宅。三重か
らの来客を迎える。18:30-21:00玉井にて夕食会。21:30帰宅、22:00就眠。歩行計239.7Km、千葉市通過、茨城まで491.4Km。

3人めの孫誕生(2) 孫のために居室の環境整備 横浜在住の長女夫婦に3月29日に女の子が生まれた。
 いま我が家では長女と孫の「○○(ゆきな)」と共に暮らしている。長女のご亭主は週末だけの「通い父」である。ちなみに「○○(ゆきな)」の命名のルーツは長女の名前が有紀であることと、「今年はゆきが多いなー・・」ということで「ゆきな」とつけたらしい。実際は別の理由と思っているが、聞かないこととした。

 一世代若い住人が同居すると生活の発想の違いが明らかになってくる。今回、いろいろ要求が出た。娘からいわれると父親は弱い。

 ■居間の絨毯総張替え:長女と赤ちゃんはしばらく居間で過ごすという。家内は汚れた絨毯をそのままにして新生児を迎えられない・・と主張し急遽居間の絨毯の総張り替えをおこなった。重い家具、食器棚、ピアノ、書籍ラックなど大変であったが、引っ越しのプロも入って3日で終了した。床面はとてもきれいになった。おそらく清潔面でも改善しただろう。結果を見ると張り替えてよかったと思っている。孫さまさまかな。 

 ■空気清浄機購入:居間の空時が汚れている、においも気になる・・とのことでちょっと大型の空気清浄機を導入した。喘息傾向のある家族の言葉を借りれば、「とても効果的で快適空間になった」、とのことである。TVのコマーシャルのような調子の良さであるが、私はいっさい感じない。加湿、除湿、脱臭機能もついているが、効果が実感できない。ただ、驚くことに、数m離れた所で「おなら」をすると空気清浄機が5分ほどフル回転する。無音の「おなら」も同じである。微かなにおいを感知しているとしか思えない。空気清浄機をめぐって家族間で「だれだ・?」と疑心暗鬼になっている。時折、黒ネコが犯人にされている。

 ■石油ストーブ廃棄:客間のFF石油ストーブは35年用いたレアものである。火力に強弱のスイッチはあるが温度調節機能がないから時に熱すぎることと、長年使用しているので劣化して火災や不完全燃焼が心配だ、通いのご亭主をどうしてくれる?・・と娘がいう。指摘の通りである。これを廃棄して別室のストーブを据え付けた。まず、寒冷期の問題は一段落した。

 ■エアコン購入:わが家はエアコンはあったが通常使わない部屋に設置してあるから私どもはほとんど使っていない。客間として用いている2階の和室は夏場はかなり暑い。時折訪れる息子夫婦、2人の孫たちは汗だくになって降りてくる。暑くて眠れないと、いうことで娘からエアコン設置の要求がきた。夏場の問題も一段落した。

 私ども夫婦はアレもない、コレもない的生活であったがそう不便は感じていなかった。今回、孫誕生の余波でわが家の生活環境は改善した。若い世代の発想は経費もかかるナア・・が実感である。


4/19(金)降雨、午後から日差し、寒い 大曲中通病院外来 
0:20起床。読書中心。7:40Taxi駅、こまち、14:50大曲外来。病院→駅、秋田駅→自宅徒歩にて17:00帰宅。19:00夕食、20:30就眠。 歩行計233.2Km。

3人めの孫誕生(1) 高年初産 
 横浜在住の長女夫婦に3月29日に女の子が生まれた。結婚後10数年、なかなか妊娠せず、私はほぼだめだろうと思っていたが、昨年妊娠したとの朗報が届いた。本人たちの喜びがいかに大きかったか、と思う。

 私どもにとって3人目にあたる。
 初孫は秋田赤十字病院で生まれた。医療関係者と言えど他の病院の敷居は高い。一度も見舞いしないわけにはいかない、初孫でもあって退院日に見に行った。孫に会った途端に私は爺さんとったことで、老けた様な気がしたものである。2番目は盛岡で生まれた。
 今回は私が嘱託で勤務する病院で生まれたからほほ自由に病室に行けたが、若い女性が入院している病室を訪問するには気が引けた。出産後は個室に移ったので比較的気軽に訪室できたが、新生児はいつもおらず5日目くらいにやっと見た。五体満足でよくまあ無事に生まれてきてくれたものだという感じの方が大きいかった。私は新生児を見て可愛いと思ったことは今まで一度もない。

 1.5年振りの孫の誕生である。前の二人は同居していないから泣声も聞くこともめったになく、私にはなかなか実感がわかなかったが、見る度ごとに大きくなって驚いたものであった。

 今回は里帰り出産だからしばらく一緒に過ごすことになる。母体側に多少の後遺症があったので8日目頃に退院して来たが、不慣れな私は、小さくて、柔らかすぎて、こわさが先に立ってなかなか抱き上げられない。誕生後2週間たって初めて抱き上げた。思いのほか軽く、グニュグニュと軟らかく、早々に母親に戻した。

 新しいいのちの誕生は実に良いものである。
 長女は30代後半と高齢で定義上高年初産ということになり、心配の種は尽きなかった。無事臨月を迎えたものの、出産のため里帰りして間もなく10日間ほど入院となり、また、出産間近になってからも入院の上で待機となり、最終的に帝王切開でとなった。今回の出産以外のことは知らないが、高年初産は母体にとっても大変だろうが、周囲のものにとっても実に大変である。

 母体にも周囲にもこんなに心労をかけたのを知ってか知らずか、赤ん坊はすやすやと寝ている。3週間経ったらやっとこさ可愛くなってきた。


4/18(木)曇り時折降雨 外来 
1:00起床。新聞・文献チェック他。若干ぬれたが7:55徒歩病院着,回診、8:45-13:30外来。16:20雨あり、一部バスを利用して帰宅、新聞チェック。微酔30分、19:00夕食、20:00就眠。 歩行計225.5Km。

太宰 治を読み返す(3) モーツアルト、シューベルトに匹敵する天才か
 太宰治は1938年(昭和13年)、文学についても造形が深く、才媛と言われていた石原美知子と結婚した。
 スキャンダルまみれの太宰とこの才媛が結婚できたことは、たとえ井伏鱒二の推薦があったといえ奇跡的と言われている。石原は1978年(昭和53年)に「回想の太宰治」を出版しているが、太宰の才能に引かれました、と記述しているそうである。やはり、女は不可解である。

 ともあれ、この頃から太宰文学の黄金期が始まっている。この頃の作品として、愛と美について、女生徒(1939年)、走れメロス、女の決闘(1940年)、東京八景、駆け込み訴へ(1941年)、正義と微笑(1942年)、富嶽百景(1943年)、右大臣実朝(1943年)などの短編など旺盛な創作活動を行っている。おそらく、心理的にも安定したことが創作活動に影響していた、と思われる。

 特徴的なのはこの時期の作品の多くは妻美知子に口述筆記をさせていることである。この時期に太宰の文学は飛躍的に発展した。太宰文学の特徴である一人称の語りなどは口述筆記にふさわしいからなのだろう。

 文学は文字が発明されてから、というものであるが、実際はその前から語りとして、唄として耳から入ってくるものであったと思われる。文字を用いる用になってから記録性を増し作品として残るようになったわけだが、本来は語りであり、詩であり、音楽であった。

 太宰は幼少の頃から強度の不眠症であり、私から見て不安神経症的気質であったと思われるが、母の妹「キエ」が不在がちの母に代わって毎晩毎晩添い寝をして物語を語ってやったことが、後の太宰の力になったのだろう、とされている。

 石原は「回想の太宰治」で、口述された内容のいくつかはその時点でほぼ完成の域に達していました、と記述している。
 文学作品を口述筆記で作り上げるとはたいした才能である。自筆することも出来たのに何故口述したのか、その理由は理解できないが、 一人称の語り口で進めるのに都合がよかったから、とか、新妻に自身の才能を示したかったからではないかともいわれているがどうだろうか。

 ほとんど推敲なしでこれほどの作品をかける太宰は大変な才能の持ち主だった、と思う。
 モーツアルト、シューベルトの楽譜を見ると手直しの跡が殆ど見られない作品がかなりにのぼると言われる。私の感覚から見れば、彼らにとっての作曲は作るのではなく、心に湧いてきた音楽を紙の上に書き写す行為だったのでは?と思っているが、太宰もこれに近かったのではないだろうか?


4/17(水)曇り降雨 外来
 0:30起床。文献検索、徒然ほか。7:55徒歩病院着,回診、病棟業務、8:45-13:00外来。15:30千秋北の丸付近経由徒歩帰宅。新聞チェック、本読み、資源ゴミ用意、19:00夕食、20:45就眠。歩行通勤計217.2Km。


太宰 治を読み返す(2) 理解不能な人物像---なぜ女性にもてたのか
 太宰は理解不能な人物である。太宰に関しては文学的立場から、人物像に関しても論評・資料は大量にある。単行本になっているだけでも50冊以上に上る。到底読み切れない。

 私は、太宰は桁外れの文学的天才の一人と思っている。各単行本の巻末には太宰に関する貴重な評論が載っている。それらからと、作品を読んだ印象をまとめてみると太宰は多くの歴史上の天才がそうであるように、社会的には人格障害を背景にした社会的は順応破綻者なのではないかと思う。

 具体的には、ナルシストで気が弱く、親に対する裏切りを繰り返しているような自責、天性の嘘つき、馬鹿正直、演技者、人を喜ばせるのが好きな道化人、切れやすく粘着気質の様に思われる。

 太宰は未成年の頃から女性問題のトラブルをいろいろ起こしている。
 ■1929年(昭和4年)芸子・小山初代とカルモチン自殺を図る。
 ■ 1930年(昭和5年) 人妻・田部シメ子と出会い、鎌倉の海にて入水自殺を図る。太宰は生き残る。
 ■ 1937年(昭和12年)内縁の妻・小山初代とカルモチン自殺未遂。
 ■ 1938年(昭和13年)才媛・石原美知子と結婚、太宰文学の黄金期を迎える。
 ■ 1947年(昭和22年)愛人・太田静子との間に女児(太田治子)誕生。
 ■ 1948年(昭和23年) 愛人・山崎富栄と玉川上水で心中、39歳。
 
 太宰は3回自殺未遂をし、4回目で成就している。この自殺は女性を伴った心中である。太宰は師と仰ぐ作家の一人の芥川龍之介に深く心酔しており、その自殺で大きな衝撃を受けたとされている。おそらくそれもあって自殺願望が強かったと思われる。ただ、一人で死ぬ勇気がなかった、ということか。

 多分、太宰は生涯を通して女性にモテたのであろう。ナルシスト、気が弱く、切れやすく粘着気質などの性格は、母性本能を揺さぶったのではないだろうか。

 上記に挙げた数人の女性のうち、妻となった石原美知子は別として、愛人たちが太宰の作品を深く読んでいたか知る由もないが、太宰は女の心理をよく理解していたし、読者に直接話しかけるような、手紙のような文体は、読む人に、特に女性に「私の太宰」と思わせる魅力?となっているのではないだろうか。

 太宰の作品は息が長い。その背景は女性たちに支持されて来たからとも言われる。現在の若い女性たちが太宰を広く・深く読んでいると思えないが、一昔前は女性のファンが多かったらしい。今でも太宰の墓には中高年の女性の参拝者が絶えないという。

 神経質そうで風采の上がらない太宰が、女性の心をしっかりと掴んでいたわけだが、私はまだ女性の心がわからない。


4/16(火)晴れ・曇り・降雨 外来 飯川病院午後外来
0:20起床、新聞・文献・本読み他、蓄積データ整理、徒然。7:00−8:55徒歩病院。回診他。8:45-13:45外来、14:00飯川病院外来、18:30降雨あり家内の車で帰宅、文献処理。夕食、20:30就眠。 歩行通勤計214.2Km。

太宰 治を読み返す(1) 再読の楽しみ
 私は自分では読書家だと思っている。少なくとも活字を追うことに大きな喜びを感じる方である。中学迄もずいぶん読んだが、その後は殆ども読む機会はなかった。受験で本を読む余裕などなかったのが理由である。

 大学では講義と読書と楽器練習、それパチンコに集中した。自分で何を読めばいいのか分からず、「岩波100冊の本(1961年)」として推薦されている本を全部読むことにした。殆ど古本で入手した。資金はパチンコであった。古町には古本屋が二軒あり、とても重宝した。そのうちの一軒は西村書店で医学書専門の書店として発展し、秋田にも支店がある。西村書店とは48年の付き合いとなる。

 「フランクリン自伝」に「惰眠は人生の浪費そのものである」、とする記述があり、当時何故かいたく感じ入り、それ以降は早起きに努め、今に至るまで寝不足人生を送っている。

 私の本読みはゆったりでなく、半ば義務感を持って読み進めたが、結果として乱読、斜め読み、とばし読みとなった。医進過程2年間でほぼ読み終えた。岩波100冊の本はその後「新選100冊の本(1974年)」「読書の達人が選ぶ岩波文庫の100冊(1992年)」として発展した。

 私は読みたい本は購入する。「将来の再読の楽しみ」のため、しかも、最初に読んだ本で読みたいからである。その後も読む時間もないのに次々と買い込んだから、本が増えて処理に困っている。数年前から電子化してどんどん廃棄している。

 本年4月から時間が欲しくて勤務条件を変更した。まだ読書三昧と言える状況ではないが、待ちに待った再読の機会が得られた。

 まず、太宰から再読することとした。私の時間が何時終わるかわからないので、今回は晩年の作品から遡って読むこととした。今「人間失格」を読み直している。当初は「変人・奇人」の作品と思っていたが、読み返すとなかなかである。私の感受性が変わったためである。

 長い時間を置いて読み返してみる。最初の印象と違った作品に思え、見直してしまう。再読の楽しみはここにある。


4/15 (月)快晴 健康クリニックドック担当
1:30起床。7:55病院着.回診等病棟業務。9:00-11:00健康クリニック初業務。14:00まで外来カルテ総括、退院時総括。千秋公園散策、書店に立ち寄り16:30帰宅。新聞・本読み。19:30夕食、20:40就眠。歩行通勤計207.7Km。

秋田の良いとこ、足らぬとこ2013(3) 知事の無投票当選は嘆かわしい
 秋田県知事選で、佐竹氏の無投票当選が決まった。
 無投票でトップが選ばれることには問題がある。政治には理想的結果などない。必ずどこかで歪みを生じているものだと思う。無投票当選なんてあんまりにもきれいごとすぎる。
 私は、政治とは「安定した水面を保っている湖を無理矢理傾けて流れを作り、それで各方面で活性化を促す」ものだと思っている。安定した水面を維持するだけならばリスクはないかもしれないが進歩は望めない。やがて水は濁り、魚はすめなくなる。だから政治的活動は得する側と損する側が必ず出てくる。選挙の際の支持母体というのは、要するに得をする側の集まりである。

 今、秋田県が抱えている問題は多岐に及ぶ。早く対策を打たなければ機を失する。
 人口減と少子高齢化がその最たるものである。そのためには経済の活性化が必要で、地元の企業も頑張っているが動きは遅々としていて、大きな変化を望むのは無理だと思われる。だから外からのエネルギー、すなわち企業の誘致が必須である。しかし、秋田県の2012年度の企業誘致件数は6件と東北6県中最悪である。

 佐竹知事は頑張っていると思う。私は県医師会役員の時に県の医療行政の一部に関わっていて佐竹知事と言葉を交わす機会を何度も得た。私は佐竹氏の人物と政治的努力を高く評価する。だから、氏が再選されたことは喜びたい。ただ、それと対立候補が出なかったこととは別問題である。

 無投票の直接の理由は、自民、公明、社民が支持する佐竹知事に対し、民主党が対立候補を擁立出来なかったことであり、共産党もなぜか出馬を見送った。

 対立候補が出なければ有権者は選択の機会、自分の意見を表現する自由を奪われることになる。民主的議会政治の機能は選挙で維持される。もちろん、選挙用の急造的公約をあげて無理矢理出馬するようなことがあってはそれもよくない。
 ただ、佐竹知事の県政は非の打ち所が無いのだろうか?知事の政策に反論できる、対案をだせる政党は無いのだろうか?無いとすれば秋田を救う手がないということある。もし、そうなら目も当てられない。

 佐竹氏は無所属出馬である。自民、公明、社民も安易に支持するのは止めてほしい。党として秋田をどうするか、独自に考えてほしい。


4/14(日)曇り 飯川病院日直
1:00起床。本読み、微睡、音楽、落語など楽しむ。飯川病院徒歩往復、8:30-17:00日直。18:30帰宅、19:00夕食、20:30就寝。 歩行通勤計195.2Km。

秋田の良いとこ、足らぬとこ2013(2) 秋田県の企業誘致
 本年3月頃から国や地域の人口の推定値が出て話題になっている。
 秋田県の人口は現在105万人台になっているが、40年後には70万人程度まで減少すると推定されている。これは最も多かった頃の半分近くである。
 もし、人口減対策が実を結ばずにここ迄減少すれば、県の経済力は低迷し、広大な面積もあって医療・福祉をはじめとする公共サービスも手が回らなくなる。人材も得られがたくなる。機能を維持するためには、各地区にコンパクトな集落の形成が必要になる。

 秋田県が抱える問題は多岐にわたるが、とりわけ、人口減少、高齢化、少子化対策が最重要課題となる。その対策のためには秋田の企業の底力を上げることと企業誘致が重要である。何となれば、秋田県の人口減少の背景には、「秋田で暮らしたくとも秋田では生きていけない」という厳しい現実があるからである。

 1912年度の秋田県の企業誘致は6件(前年比2件減)で、1967年の調査開始以来最低となった。厳しい結果になっている。
 東北経産局のまとめによると、東北6県の企業の誘致件数は前年を31件上回る122件で、県別では岩手21件、宮城32件、福島40件で東日本大震災の被災3県で全体の8刻辺くを占めた。青森は12件、山形県は9件であった。

 中でも、岩手県は企業誘致が好調でバブル期以降最高となっている。復興支援を背景にした企業の進出のためと考えられている。今回の誘致の結果、新規雇用は約1330人に上った、という。

 秋田県産業渠積課は「景気低迷に加え、円高の影響で設備投資意欲が回復しなかったため」と述べている。ちなみに、アベノミクスの影響がではじめた先日は「円安が進み、輸出関連を中心に企業の投資意欲が回厦してくるのではないか」、としている。

 私は詳細はわからないが、円高等の経済状況は東北最下位に甘んじたことへの説明にならない。円高に関して言えば、東北は何処でも条件は一緒である。秋田県には企業進出を促すような積極的方針が見えないような気がする。

 本県への工業立地件数が過去最低に落ち込んだことを受け、佐竹知事は会見で「今後も企業誘致を一件でも増やすよう努めていきたい」と述べ、自動車部品メーカーや再生可能エネルギー関連企業などの誘致に向け、引き続き力を注く考えを示した(秋田魁新聞、岩手日報の記事を参考にした)。

 ぜひ進めてほしいものであるが、今回の知事選が無投票当選になったなど、県民にも県内の政治家たちにも緊張感が欠けていると思う。


4/13(土)晴れ曇り 書斎改変
1:30起床。本読み、微睡、音楽、落語など楽しむ。10:30学会場。午前中は私が書斎と称する10畳間の改変。午後は斎場から平和公園、熊野神社等へ散歩。19:30夕食、20:30就眠。歩行通勤計184.7Km。

徒歩通勤(6) 偉人伊能忠敬(2) 
 

私はこの4月7日に伊能忠敬に5000円で弟子入りした。
 その日から師の指導を受けながら、師が歩いたルートを私も実際に歩き始めた。弟子入りの費用は商品名「平成の伊能忠敬」という歩数計の購入費用である。
 この歩数計は伊能忠敬の弟子になって日本地図の完成を目指すというゲーム器で、30gと軽く、本体は一見ちゃちであるが、3D加速度センサーを採用しているなど精度は高い。だからちょっと高かった。



 伊能忠敬が歩いたと思われる海岸線にそって日本を一周するもゲーム機で、日本の海岸線の総距離は19044.18Kmとセットされているから、一周するのに1日1万歩で7-8年かかる。


歩いた結果に応じ忠敬が評価してくれるのも面白い。

歩数計機能としては一日ごとの距離・歩数等の表示と、累計表示および現在歩行中の都道府県の簡易地図が表示される。

 私は「継続は力なり」という言葉が好きである。自分自身を評価してみても目標を掲げた計画を中断したり頓挫したりすることは比較的少ない方だと思う。今期からこれに歩行通勤の項目が加わった。

 自転車を楽しんでいた一年間はサイクルコンピューターやGPS付きの自転車用ナビゲーターを利用してテータを集めていた。走行した地点は秋田市の地図上に記録した。さらに、グーグルマップ上でも記録した。走行距離は新幹線網上にプロットして視覚化した。新幹線は全線を走破、次いで青森を起点として在来線上で大阪に向かっていたが、富山付近で病気のために中断することとなった。この「平成の伊能忠敬」は私が作業してきたデータを自動的に記録してくれるから有り難い。


この「平成の伊能忠敬」は私が作業してきたデータを自動的に記録してくれるから有り難い。

 私は歴史、政治経済もさることながら地理もまともに勉強してこなかった。今はA4版の日本地図を座右において歩行している付近を中心に勉強し直している。既に東京を抜け現在千葉県の船橋、習志野付近を歩いていることになる。千葉県の地図をじっと眺めていても楽しい。千葉県の海岸線は550Kmと長い。だから2ヶ月もかかる。

 歩数計「平成の伊能忠敬」はいい買い物をしたと思う。何時迄、何処迄続けられるかわからないが、おかげで私の楽しみがまた一つ増えた。


4/12(金)快晴曇り 大曲中通病院外来 北朝鮮ミサイル発射する
 1:30起床、新聞、文献などいつものごとく。徒然、7:30タクシーにて駅に、もたついていつもの新幹線に乗り損ね、8:56発にて大曲に、9:40-4:45外来。病院・駅間、秋田駅・自宅間徒歩帰宅、19:00夕食、20:30就眠。歩行Σ176Km。

目に見えるもの、見えないもの :暗黒物質から連想した良い話
 最近のニュースで、宇宙に存在するということが想定されていながら見ることができなかった暗黒物質が話題になっている。暗黒物質とは宇宙において質量の大半を占めながらまだ実際に観測されていない物質の総称である。

 その暗黒物質の特徴は
■目に見えないし、触ることも出来ない。
■重さを持ち、その重力や引力で星や銀河を引っ張っている。
■宇宙は大量の暗黒物質と少量の可視物体からできている。

 ニュートン力学は宇宙の可視物質を対象として成り立っているが、これだけでは論理が矛盾するらしく、宇宙には可視物体の数倍の非可視物体、すなわち暗黒物質と、そのさらに数倍の未知のエネルギー物体の存在を想定しなければ成り立たない、という。暗黒物質は直接観測できなくともその存在は確実視されていたが、最近これを観測できるようになったという。

 私にはまだ理解できないが、直接私の生活に関係しているわけではない。そうはいっても興味はある。この分野での今後の発展が望まれる。

 ところで、私どもの周りにも見えるもの、見えないものがある。

 伊豆・松崎教会牧師の星野正興氏は2009年11月のラジオ深夜便でカナダにおける一つの教育体験を語っている。カナダで宣教を行っていた時にカナダの小学6年の子供たちに授業する機会が与えられた。そのとき星野氏は「見えるもの、見えないもの」というテーマで授業を行った。「見えないものをあげてください・・」という質問をした際、子供たちは我先にと積極的に発言し「愛」、「正義」、「平和」、「友情」などを挙げた。帰国後、子供たちへ同じ質問をしてみたらなかなか発言しなかったが、出てきた答えは「酸素」、「核」、「放射能」、「電子」等と答えたという。

 日本の小学生の答えは物質についての知的な答えであり、カナダのそれは人間社会に直結する概念的答えであったが、カナダではこのような答えができるような教育を、家庭でも学校でもしていることに驚きを感じたという。 その上で星野氏は、学力として比較すればカナダの子供たちの評価は低くなるかもしれないが、このような教育を受けた子供たちは将来豊かな人生を送れるだろう、と思ったという。私もそう思う。

 ところで、学力日本一の秋田の子供たちならどう答えるのであろうか。


4/11(木)曇り・雨 外来 山崎陽子朗読の世界 
1:00起床、文献チェック、徒然他いつものごとし。6:45−7:50徒歩病院、途中千秋公園の鳩に餌。8:45-13:30外来、入院患者3名対応。15:15徒歩で帰宅するも途中で降雨。バスに乗る。ずぶぬれ帰宅、書斎にこもり本読み、18:00-20:00山崎洋子朗読の世界、弥高会館。20:30帰宅。21:00長女有紀とその娘孫娘の誕生日祝いをかねた夕食、22:00就寝。歩行Σ167Km。

徒歩通勤(5) 偉人伊能忠敬(1)に弟子入りした 
 私は最近徒歩通勤を始めた。私はスポーツなど何をやっても並以下だが、もともと体を動かすのは好きである。新たなジャンルとして自転車を始め、クロスバイクで約1年間で5200Kmほど走ったが、抗凝固剤の服用をし始めたので事故などの際に出血死する可能性もあり、大事を取って自転車も止め、今期からは徒歩通勤としている。

 高齢者が歩く、と言えば偉大な先人は伊能忠敬である。50歳から天文学を学び、日本全国の地図を作るために地球1周分歩いた歴史上の偉人である。


 忠敬は江戸後期1745年生まれ、実直な働きで功をなし、地位や富を得たが、50歳で家業を全て長男に譲り、天文学を本格的に勉強するために江戸へ出た。当時の天文学の第一人者、32歳の高橋至時に弟子入りし、昼夜を問わず猛勉強した。

 この頃、天文を学ぶ人々の関心ごとは、地球の大きさはどれくらいなのか、ということであった。忠敬は「北極星を2地点で観測し、仰角差と2地点の距離が分かれば地球の外周が割り出せる」と提案した。1800年(55歳)、忠敬は地図作製を名目に許可を得て蝦夷に向けて出発した。区間距離は数人の歩数の平均値から計算した。

 忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終えて江戸に戻り、実測値をもとに計算したが、彼が割出した地球の外周は約4万Kmで、現在判明している外周と比較し1/1000の誤差しかなかった、と言う。

 半年後、偉大な業績をなした忠敬に西日本の地図作成の幕命が下る。1805年(60歳)に江戸を出発したが、体力が衰えた忠敬には過酷で、予定の倍以上の時間を要した。1815年(70歳)、忠敬はすべての測量を終えたて江戸の戻った。彼が15年かけて歩いた距離は、地球の一周4万Kmであった。

 直ちに各地の地図を誤差を修正して繋ぎ合わせる作業に入ったが、忠孝は1818年(73歳)で病没した。地図は弟子達によって完成した。
 1821年、江戸城大広間で披露された地図は3万6000分の1の縮図の図面214枚という、途方もない規模だった。

 忠敬の死後40年ほどして、英国の海軍が彼の業績を知ることになった。測量担当官は当時西洋で用いられた機器など一切用いずにこれほどの精密な地図を作り上げた忠敬の足跡を高く評価した(この項はブリタニカ百科事典、Wikipediaによった)。



 江戸末期の50歳と言えば社会的には隠居して当たり前の年齢である。体力的にも弱り始める時期である。この年になって改めて天文学を学び始めた忠敬の、真実を知りたいと言う意欲、自らの理論を自分の足で確かめた気力、幕命とはいえ日本全国の地図のための測量を成し遂げた能力、緻密な計画性と一日も欠かさなかった実践記録、ただただ感服し、私など膝元にひれ伏すばかりである。

 私は間もなく68歳になる。遅きに失したが思い立った日が最も若い。4月7日に私は彼に弟子入りした。そのための費用は5000円であった。彼の指導を受けながら、彼の歩いたルートを私も実際に歩いて見ることとした。


4/10(水)降雨 わが家の防災の日 外来 
 1:15起床,文献検索と本読みetc.早朝に29日に生まれた3番目の孫を初めて抱き上げた。雨にて家内と車出勤8:05病院着、8:45-13:10外来、入院あり対応。15:30徒歩帰宅、本読み、19:00夕食、20:30就眠。昭和27年郷里で大火、自宅焼失。 徒歩Σ159Km。

徒歩通勤(4)私の通勤は、車、バイク、自転車、歩行と変化 次は?
 私は最近徒歩通勤を始めた。ついにここまで来たか、の感がある。
 私の通勤手段をざっと振り返ってみる。勿論、雨天と冬期降雪期間は車に頼らざるを得ないが、車、バイク、自転車、歩行と変化してきた。次は何となるか、自分でも気がかりである。

 ■1971年( 昭和46年)まれにJR、バス利用したことあるが、殆ど車のみ。
 ■1989年(平成1年)小型バイクYAMAHA Virago 250cc。 
 ■1991年(平成3年) 大型バイク HD FLSTOF 1340cc。 
 ■2009年(平成21年 )徒歩通勤試みたが、不用意に歩き足低の皮膚を痛め歩行難になり、マウンテンバイクに。
 ■2011年9月(平成23年)クロスバイクに乗り換え。大型バイクを売却。
 ■2013年3月(平成25年)以降は徒歩、適宜バスも利用

 250ccのバイクを購入したのは子供たちも成長し、家族での移動が殆どなくなったことがきっかけであった。一人で車に乗るのは非効率的である。本当のところは750cc以上の大型バイクが欲したったが、バイクは岩手の田舎道では高校まで乗っていたが、都市部は走ったことがなかったので慣らしのつもりで小型のにした。

 約1年後大型バイクに乗り換えた。Harleyの通称ファットボウイ。ほかの大型バイクも考えたがいずれはこれに行き着くだろうという予感のもとに最初からこれにした。幼少期に我が家に進駐軍払い下げの軍用大型バイクがあり、それにまたがって遊んだ時の思い出の影響である。入手した時はとても懐かしく感じた。20年ほど乗ったが重量が300Kgもあり次第に取り回しが辛くなり、乗る機会が徐々に減少した。

 歩行通勤を試みたが足低を痛めて頓挫、これを機会に自転車にした。まずマウンテンバイク、次いでクロスバイクに。嬉々として乗っていたが、2012年秋に脳梗塞を患い抗凝血薬を開始したために外傷時の出血死の可能性もあり、自転車通勤をあきらめた。約一年で総走行距離は5200Kmであった。

 で、雪解けを待って3月中旬から徒歩通勤を始めた。本日のところ歩いた距離は159Kmとなっている。片道1時間と時間ががかかることが難点であるが、蓄積した録音データを聞き直す時間にあてている。

 私の移動手段は上記の様に徐々に低速になってきた。それに伴い楽しみも増えた。ただ、一つ心配は、次あたりもっと遅く、車いすになるのでは??ということである。


4/9(火)曇り風 外来
 1:00起床、文献、新聞チェック他。8:00徒歩病院着、回診、病棟業務、8:45-13:10外来、外来総括、15:30徒歩帰宅。書斎にこもる。マーラーなど、新聞・本読み、19:30夕食、20:30就眠。 徒歩Σ150Km。

医師と患者関係(14)介護する息子たちの苦悩
 介護の現場は荒れている。
 いかに大変かは被介護者に対する虐待とか、殺傷事件から窺い知ることができる。先にも記述したが、2011年度の家族や親族による高齢者への虐待件数は1万6599件。「身体的虐侍」64.5%、「心理的虐待」37.4%、「経済的虐待」が25.0%、「介護放棄」24.8%であった。警察庁の統計では「介護・看病疲れ」が動機になった殺人事件は2011年は54件と増えている。
 被害者の76.5%が女性で、多くは認知症を有している。虐待は息子が40.7%、夫が17.5%、娘が16.5%などとなっている(厚労省)。

 老老介護も大変であるが、問題なのは息子や娘による介護、とりわけ独身の息子による介護で夫婦間の老老介護とは別の問題点を有する。最近の家族構成の変化として年老いた母親とあるいは父親と独身男性の二人暮らしの家庭が増えている。

 私の知る範囲では、父親との暮らしの場合は家庭内の仕事を分担する傾向があるように思えるが、母親との二人暮らしの際には日常の生活はほとんど母親が担い、自らは仕事や遊びにかなり自由である。母親はいつまでも自分に頼った生活を送り結婚しようともしない息子を心配しているが、その背景には自分が倒れたらどうなるのかという思惑が見え隠れする。しかし、息子はそんなことは気にかけていない。

 本来であれば、いずれ介護が必要な状況になりうることを考え介護や家事へのスキルをつける準備が必要であるが殆ど準備をしない。そしてその日は時には急に訪れる。

 独身息子による介護は夫婦間の老老介護とは別の意味の問題点を孕んでいる。
■介護への責任感はあるものの、負担感は大きい。
■多くは働き盛りであり、仕事との両立が困難、狭間に立つストレスは大。
■往々にして就労継続困難な状況に陥り、収入が途絶え貧困化する。
■社会資源の活用法も知らない。一人で抱え込み、孤立化する。 
■介護は微妙なバランスの上で成り立っていて、貧困化、孤立化、被介護人が協力しない認知症の場合などは時折破綻し介護者が暴力を振るうこともある。

 これらのことなどで「息子」による虐待の可能性は夫のそれに対して2倍以上になっている。

 2000年当時は嫁による介護が問題化し、「介護の社会化」をうたい介護保険が始まったが、主な介護の7割が今でも家族が担っていることは国の調査でも明らかになっている。しかも、当時に比べ在宅介護の実態は家族構成の変遷とともに変化している。これらの実態を把握していながら国、厚労省の対応は問題である。

 医療福祉関係者はもっと声を上げる必要がある。


4/8(月)暴風雨 外来 飯川病院代診
1:00起床、文献、新聞チェック他。8:30車病院着、回診、病棟業務、8:45-13:10外来、14:00-17:00飯川病院午後代診、18:10徒歩帰宅。新聞・本読み、19:30夕食、20:30就眠。 徒歩Σ138Km。

医師と患者関係(13)老老介護(4)介護する男性の苦悩
 私が担当する外来にも男性介護、老老介護を担っている方が受診する。
 在宅介護、老老介護それぞれに諸事情があり、一人一人事情が異なるから一概にいえないが、男性が配偶者の介護を担っている方々にはざっと以下の特徴があるような気がする。

■自責の念を背景に、過剰な責任感があり、介護にきわめて熱心である。
■介護自体に大変さを感じているが、同時にそれ以上の喜びがある、という。
■熱心のあまり一人で抱え込み、 排他的になり、やがて孤立化する。 
■孤立化のあまり、自分が死んだ後どうなるのか、常に不安を抱えている。

 夫が妻の介護をする場合は、多くは年長者が年少者を看るという形になる。それが多くの場合、突然にそのような事態に落ちいってしまう。男性は介護される立場になることは漫然と予想しているようであるが、自分が介護する立場になるかもしれないことはあまり念頭に置いていない。

 この辺が男の身勝手である。若いときならまだしも、これだけ夫婦が高齢化してしまうとどっちが先に被介護人になるか、偶然のレベルであって可能性は半々である。

 夫には立場が逆転したことに自責の念があるようだ。若いときにさんざん迷惑かけたと思っているらしく、妻の介護にきわめて献身的である。時には自虐的か、と思うほど自分を顧みず集中する方もいる。私に対しても「自分にも責任が・・」と何度も何度も繰り返す。このように思い込まなければケアできないのではないか、自らに暗示をかけている状況もあると私は思っている。一方では、妻の介護については、負担もあるが、喜びややりがいが大きい、とも述べていく。

 高齢の男性は、特に料理作りを中心に、生活に対するスキルが不足している。対外的交渉ごともだめである。男性介護者を対象としたあるアンケートに「介護する立場になって、何よりも辛かったのは買い物でした。スーパーのレジの列に日用品をかごに入れて並ぶ自分の姿を衆目にさらすのは堪え難かった」、とあった。これは、男性の一つの特徴のような気がする。

 見栄っ張りということだろう。男性は外面、対面を大事に生きている。高齢になっても自分のアイデンティティがしっかり残っている。本当はそれをかなぐり捨てなければならないのだが、この点はだめなようだ。実際には退職あるいは引退してかなり年を取っていて、もう誰も注目などしていないんだが。

 早朝、私も徒歩通勤しているが、ウオーキングをしている仲の良さそうなご夫婦とすれ違う。楽しげであるが、私は「お互いに、いつ介護者、被介護者になるかもしれない。準備はしていますか?・・」などと問いかけたくなる。


4/7(土)晴れ・低気圧発達・風強い 家族集まる 飯川病院当直
 1:00起床。新聞チェック、本読み、録音データ整理他。録音データ整理。家内は外来勤務。12:00長女退院、ご亭主来秋。息子一家来訪。空気清浄機設置、ファンヒーター移動設置。居間にベビーベット設置。賄いの石井さんを含め、今夜は総勢11名が集まる。足の踏み場もない。私は幸いにも当直があたっている。16:00徒歩飯川病院当直へ、18:00検食、19:30就眠。 徒歩Σ133Km。

MD-90型機引退 狭くて好きになれなかったが、懐かしい機種
 昨年のこの時期、特急寝台「日本海」が引退した。今期はかつて乗り馴れたボーイング MD-90が引退した。時の流れを感じる。

 私は秋田空港がまだ海沿いにあった時から、当時はYS-11であったが、時折空路を利用していた。1996年に県医師会の理事になった時から頻回に利用するようになった。主として日本医師会への出張で、2010年医師会役員を辞するまで羽田間を200回近く利用した。、それ以降はバッタリと利用する機会が減った。

 日本医師会の会議は一部は前泊が必要なこともあったが、大部分は13:00または14:00に始まり16:00前後に終わった。全国からメンバーが集まっているためである。私はいつも18:00発のJAS便で、合併後はJAL便で帰秋した。この時の機種は殆どMD-80シリーズまたは今回引退したMD-90で、殆どが満席であった。

 MD-80シリーズはマクドネルダグラス社の主力製品で2000機も生産された。後継機としてエンジン等を改良してMD-90となったが、社がボーイングに吸収合併されたために114機の生産で終わっている。ボーイングの呼称は717だった。リヤエンジン式の機体はエンジンが主翼にないために主翼機能がとてもよく、機としての機能はとても優れていたという。

 日本ではMD-90はJASが7機導入した。当時黒沢監督のデザインによるレインボー塗装で話題になった。JALではそれらを含め16機で運行していた。整備コストを低減する方針のために全機が米国のデルタ航空に売却された。

 MD-90は細身の構造の中型機で席数は166、座席配列は2列3列で座席間隔も狭く、18:00発の秋田便は殆ど満席で、私にはとても苦痛であった。あの狭い空間に160人も乗れば圧迫感も相当なもので、さらに通路側席が確保できないときは足ものばせず、隣席の方と肩や腕がすり合うために、特に苦痛であった。

 この秋田便はいつも満席でドル箱路線のはずなのになんでもっと大きな機種で運行しないのか、私は常に不満を感じながら利用していた。

 中部空港では緊急着陸のMD-83が割り込み着陸して上空で40分待機したり、秋田で霧のため何度も着陸を試みたこともある。羽田では搭乗してからにわかに天候が悪化し、1時間以上も機内で待たされたり・・・、それだけにいろんな思いがあった機である。引退を知った時はとても懐かしく、寂しく感じた。


4/6(金)晴れ 大曲中通病院外来
 1:00起床。新聞、文献関連、7:40Taxiで駅、8;05こまち、徒歩、9:00-14:50大曲中通病院外来。徒歩駅,、こまち、天徳寺までTaxi。徒歩。18:00帰宅、19:00夕食、20:30就寝。徒歩Σ127Km。

北朝鮮核実験(3) 彼らは崩壊への道を選択したのか?
 北朝鮮は国際的立場からは問題にならない低レベルの小国である。我が国の県一つの経済力もない。彼らが独立して生きて行くには周辺国との有効な関係なしにはあり得ない。  
 「民族の生命」を維持する為に、北朝鮮は食料、エネルギーなどが必要である。しかし、北朝鮮は核・ミサイル開発を「民族の生命」と呼んでいる。 これらは第一には米国の譲歩を引き出すためであろうが、これだけの脅しをかけている以上、米国は北朝鮮の現体制が維持される限り対応するとは思えない。米国は批判されることは慣れているが恫喝までは経験がない。日米開戦の時も恫喝されているとの意識はなかった。今は屈辱的状態にある。

 2月には3度目の核実験を、その後、朝鮮戦争休戦協定の白紙化、韓国との南北不可侵合意の全面破棄表明。3月末には「戦時状況に入った」と宣言した。米韓両軍の合同訓練にも強く反応した。 そして、 今度はミサイル発射準備である。今回のミサイルは射程は中距離でグアムにまで達する規模である。4月に入って韓国と共同で運用してきた工業施設への韓国人の訪問も禁止した。
 朴大統領が「挑発が起きれば、一切の政治的考慮をせずに緒戦で強力対抗する」と発言した。朝鮮半島は緊張が高まっている。

 恫喝・威嚇の対象は韓国だけではない。ミサイル攻撃の矛先として米本土や太平洋地域、韓国の米韓基地、さらに米軍基地がある日本の沖縄、三沢、横須賀の地名も挙げた。米国はイージス艦を韓国沖に派遣した。日本国内に迎撃ミサイルの配備を進めている。

 これらの攻撃兵器は実際には使用は出来るはずがない。もし、これが用いられたとき、あるいはそれなりの緊迫のある状況を作った場合には、国の体制が崩壊する時であろう。

 国民には気の毒であるが、兵糧攻めしかない。中国は今回、国連安保理決議を履行している。北朝鮮の置かれている立場は一層厳しくなった。北朝鮮の包囲網は狭まっている。怖いのは、自らの立場を理解できない北朝鮮の中枢、軍部のヒステリックな反応である。


4/5(木)晴れ 外来 居間絨毯交換終了
1:00起床、主に医学関連文献読み、新聞チェック。5:50缶ビン、書籍・新聞類を市のゴミ収集に出す。ビンは私の分だけで市の収集ケースがほぼ満杯になり恐縮。7:50家内の車で病院。外来総括。8:45-13:30外来。16:10徒歩帰宅、家財道具を戻した居間の機能再構築、殆ど元の生活が可能になった。19:00夕食、20:00就眠。

国民栄誉賞は乱発し過ぎ 何で松井氏に?? 
 国民栄誉賞とは、日本の内閣総理大臣表彰の一つで、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった方に対して、その栄誉を讃えることを目的とする」として1977年8月に福田総理の時代に創設された。記録を見るとこれまで20人+1団体に授与されている。

 日本人は・・といってもほかの国々のことは殆ど知らないが、表彰する、されることが好きな国民なんだと思う。秋の叙勲を見ればあきれるばかりの数である。さらに、県レベル、市レベル、各業界や職能団体による表彰がある。各団体ならいいと思うが、私は行政関係の表彰はマンパワー、税金を使うものであり、不要と思っている。それに、誰が、強く推薦したかで決まるから、もともと不公平である。それに、一般的に受賞者は高齢者すぎる。

 安倍首相は長島・松井氏に国民栄誉賞を与えることを発表した。私は長島氏はともかくとして松井氏が受賞することに疑問を持った。4月2日安倍首相は記者会見で「タイミング考えて野村克也氏、野茂英雄氏らも検討・・」と述べたというが、ばからしい。 時の内閣の人気取りに利用している。だいたい、判断基準は何なのか?総理の個人的好み感覚で決められては困る。

 国民栄誉賞という名を冠することも不適である。今迄の受賞者を見ても、特にスポーツ分野では7個人1団体が表彰されている。各業界ごとには素晴らしい記録や実績をあげているが、私の目から見て「国民」の名を冠するほどの業績を上げた方はせいぜい一人くらいかな。だから、総理大臣スポーツ部門賞とでもすればいい。確かに各受賞者は時の話題を大きくさらった方々であるが、世の騒ぎ方はマスコミが作り上げたものであり、判断力を失っている国民はそれに踊らされているにすぎない。

 で、私はたかが野球のことではないか、と思いつつも、もし球界から選ぶなら野茂氏の方がふさわしかった、と思っている。
 
 私は国民栄誉賞や叙勲制度をこのまま続けるなら、自薦方式にすればいいと考える。各賞毎に一定の判定基準をあらかじめ明らかにして、候補者として資料を添えて名乗り出る。他薦でもいいがあくまでも主役は本人、リストを公表した上で、第三者が判定する。そんな方式にしてはどうだろうか。この方式だと自らの意思で獲得するのであって、他人の評価に甘んじて受けるのでないから、私は納得できる。


4/4(水)晴れ・曇り 外来 居間絨毯交換作業日 
1:30起床、絨毯工事の居間からの家財置き場となって狭くなった書斎で作業。新聞、文献チェック不能で、音楽を聴きながら本読み中心に過ごす。7:00徒歩病院、8:00外来カルテ総括ほか。8:45-13:00外来,13:40-15:00徒歩、調子に乗って15kmはきつい。居間の絨毯敷き完了していた。微睡後16:00-20:00絨毯敷き工事のためにバラしてあったパソコン、オーディオ、録画関連コーナーの再構築。電源関係整理。まだ十分でない。20:15外食。21:30就寝。徒歩Σ113Km。

絨毯交換(2) 狭いながらも楽しい我が家ということか
 昨日から我が家の居間の絨毯の交換作業が始まっている。
 私は、物品がすべて撤去された18畳の居間を見た瞬間、ずいぶん狭い部屋だ、こんな所に住んでいたのか、と愕然とした。異様な圧迫感を伴う、無機的な感覚である。

 この居間にはピアノ、ストーヴ、食器棚、食卓、椅子、書類だな、CDラック、本棚、タンス等の家財道具がある。私のクロスバイクもアダプターがつけられて鎮座している。これらの家財や道具類でおそらく床面積の40%ほど占拠されているだろう。なにしろ、居室、食事、書斎、仕事、趣味、就眠までを全部兼ねている部屋だから、生活道具が沢山、乱雑?に置かれている。しかし、生活している中で時に狭さを感じない訳ではないが、家財がない状態から受けたほどの狭さは感じていない。実際、この居間の向かい側に12畳ほどの、私の書斎と称している部屋があって自由に使えるのに、日常的には家財にあふれる居間で過ごしている。狭さを問題にするなら書斎を用いればいい話であるのに日常的にはそうはしない。

 家財道具がない空間はあるときに比較して物理的には絶対的に広いはずである。なのに随分狭く感じる。この違いは一体なんなのか?と思う。そういえば、家が完成したときも随分小さいな!!と思ったものであったが、家財とともに引っ越してからはそんな感覚は消失した。

 生活感に伴う奥行きというか、そんな感覚が伴っているからではないのか?空間を占拠している家財などは生活の道具であって無機的な占拠物ではない。生活に密着した物品である。住むもの、利用するものはそれらを利用しながら心理的には広い空間に誘われる。明快に表現できないが、そんなことだろうか。だから居住するものはそんなに狭いとは思わない。むしろ快適でさえある。同じ空間に他人が入ったときには、乱雑で狭い空間と感じるのではないか。
 「狭いながらも楽しい我が家」という表現があるが、そこに実際に住むものにとっては特別な充足感、満足感がある、ということなのだろう。 


4/3(水)晴れ・曇り 外来 居間絨毯交換作業日
 1:30起床、絨毯工事の居間からの家財置き場となって狭くなった書斎で作業。新聞、文献チェック不能で、音楽を聴きながら本読み中心に過ごす。7:00徒歩病院、8:00外来カルテ総括ほか。8:45-13:00外来,13:40-15:00徒歩、調子に乗って15kmはきつい。居間の絨毯敷き完了していた。微睡後16:00-20:00絨毯敷き工事のためにバラしてあったパソコン、オーディオ、録画関連コーナーの再構築。電源関係整理。20:15外食。21:30就寝。徒歩Σ98Km。

絨毯交換(1) 家財道具なしの部屋はとても狭く感じる
 昨日から我が家では居間の絨毯の交換作業が始まっている。
 築37年ほどの住宅である。前にも替えたことがあったが、2回目の絨毯交換と壁紙、たたみの部屋をフローリング化など改装してから15年以上も経ち、絨毯は汚れが目立ち、局所的にすり減ってしまっている。私はそんなことは気にしないし、だめな部分にスポット的に小さな絨毯を敷けばいいと思っていた。

 家内は2階を含む家中の絨毯の交換を考えていたらしい。2階は3部屋と廊下が対象になるが、物置・書庫化していて魔窟である。その荷物、家財のことを考えるだけで気が遠くなる。私は反対したが、家内のごり押しに負けて居間の18畳だけの張り替えに同意した。

 それでも私の心は晴れなかった。私の仕事コーナーは、張り巡らせているオーディオ・ビジュアル関連のライン、パソコン関連の配線、電源が複雑に入り組んでおり、自分でもどうなっているかわからない状況になっていたからである。ある電気店の店主がTVとヴィデオの設置に来た際にこのコーナーには手をつけたくないといって設置せずに置いていったほどである。

 今回の絨毯交換は知り合いの住宅設計事務所にお願いした。2回ほど下検分があったがその結果、ピアノの移動、ストーブ移動、引っ越し業、内装関連の4業者が入ることになった。引っ越し関連ではエレクトロニクス専門担当者迄入ることになった。

 僅か16畳の部屋だけである。私はあまりの大げさな計画に驚いたが、ここ迄進んだ以上断れず受け入れることとした。

 昨日午後から作業が始まったが、さすが専門業者で、作業員が10数人ほど来て、約2時間で居間は床と壁と天井だけになってしまった。

 私は物品がすべて撤去された居間を見た瞬間、ずいぶん狭い部屋だ、こんな所に住んでたのか、と愕然とした。
 これと同じ感覚は37年前の新築のときに抱いた感覚と同じである。基礎工事、土台工事の後進捗状況を確認に来たが、そのときは私が建てようとしているのはミニチュアの家か?と思ったものである。我が家は50坪弱であるが、総2階の箱形なので特に小さく感じたのだろう。


4/2(火)晴れ曇り 外来 居間絨毯張り替え作業初日
1:30起床,文献チェックなど。7:00−8:00徒歩病院へ。旭川の鯉たちの姿が見えない。 回診+病棟業務。8:40-13:00外来、本日から外来カルテが電子化した。結構煩雑で入力は困難。14:03バス+徒歩で帰宅。明日の絨毯交換の前作業として居間の家財道具が搬出されガラガラとなった。不思議なことにかえって狭さを感じる。新聞・本読み。夕食は蝶理不可で外食になる。20:45就寝。 徒歩Σ83Km。

医師と患者関係(12)老老介護(3)ひたすら介護する男性の苦悩
 在宅介護の実態をみると、約450万人の方が在宅で寝たきりあるいは準寝たきりの家族を介護している。ここ最近10年間ほどの変化を見ると男性介護者の割合が増加しており、全体の30%、100万人を優に超える介護者数になっている。

 かつての在宅介護の主たる担い手だった嫁は50%から16%ほどに減少している。介護は夫婦間の介護、実の子が担う様になってきている。その中で65歳以上の夫婦による老老介護が2/3を占める。背景は、少子高齢化、核家族化、少人数家族化で、古くからの家庭機能が崩壊したこと、女性の社会参加で介護人がいなくなったためである。
 これには、このような社会の変化が予測されて否から手を打ってこなかった我が国の医療福祉行政の不備がある。 

 私が担当する外来でも男性介護、老老介護を担う方が受診する。自分の診察そっちのけでいかに介護が大変であるかを述べていく。私の外来はこのような方々の苦情聴取係、ストレス解消の場になっている。私も対応ができそうなところがあればケースワーカーを通じてアドバイスすることもある。

 在宅介護、中でも男性介護の問題点は以下のごとくにまとめられる。 
(1)突然に降り掛かってきた想定外の事態。  
(2)生活技術・知識が貧弱、銀行・役所などの利用法がわからず戸惑う。 
(3)過剰な責任感があり、抱え込む結果、排他的になり、やがて孤立化する。 
(4)仕事との両立困難。3人に一人は働き盛りが介護を担う。結果的に離職し貧困の引き金となる。
 この中で最も特徴的なのは、(3)の様に思われる。

 このような介護を担っている男性の方の気持ちは、自らをとがめる毎日だ、という。いま在宅で老老介護を担っている方々は現役世代のときは家庭を顧みることなく、モーレツに働き今の日本の繁栄をもたらした方々である。定年を迎えこれから静かな余生を迎えようとした矢先、妻が脳卒中や認知症のために心身ともに不自由な体になってしまった、という方が多い。
 妻の病気の背景に、長い間の自分の配慮不足があり、さらに、酒やその他で随分迷惑かけた・・・、不自由になった配偶者の姿を見て、自分の過去に自責の念を感じない方はいないのではないだろうか。これが介護にのめりこませることになる因ではないかと思う。


4/1(月)快晴 終業契約更新日 健康クリニック 飯川病院午後外来
 1:30起床、新聞・文献・徒然ほか。7:30緊急に呼ばれた家内を送り飯川病院着、7:45病院着、回診。本日の健康クリニックは年度開始日で休診という。総括他紹介状、文献整理。15:00飯川病院へ、院長の代理外来。17:00書店等たちより徒歩帰宅。19:30夕食、20:30就眠。徒歩Σ72Km。  

新年度スタート 私の就労契約改訂 
 4月は病院も若手新入職員を迎える。会議室付近、医局付近はフレッシュな声が飛び交っている。人的に変化があることは良いことだ。私はこの時期がとても好きである。

 本日から私の就業契約も改訂になった。
 昨日まではウイークデイは午前午後就業となっていたが、入院患者が1-3名、と少なくなったことから、月曜から木曜日は午前のみの勤務となった。金曜日のみ大曲中通病院勤務で終日である。月曜は隔週の外来で外来がない週は健康クリニックの業務、4週に一度は港北診療所の土曜の外来も担当することになった。

 私の希望としては、もっと広く社会や経済等、文学・芸術等の勉強したいのでさらに水曜日を休日にしたかったのであるが、外来で担当している患者数が多いためにかなわなかった。入院患者は午前の勤務時間の中で診療する。月曜隔週の書類処理の時間がなくなるなど、午前中のデューティはむしろ濃厚となった。実働時間も少なくなったので報酬も7割以下となった。従って、震災直後から収入の20%を岩手県に復興義援金として送っていたが、送ること自体が困難になりつつある。が、まだ続けていくつもりである。
 私の業務にむしろ余裕が少なくなったこと、希望の休日が確保できなかったこと、逆に出勤日が増えた・・・など、私の意向とは異なった結果となった。が、法人内の医師体制のこともあって納得せざるを得なかった。

 春である。スタッフたちの子供の進学や卒業、結婚など明るいニュースが飛び込んでくる。我が家でも長女夫婦に待望の赤ちゃんが生まれた。これを機会に居間の絨毯をリニューアルすることにした。私は、突然、太宰治の作品を読みたくなって本日から取り組み始めた・・・などなど、いい話題が並ぶ。いい季節である。


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   年を通じてワンパターンで淡々とした毎日です。AM2:00-5:00にメールチェック・返事送付、人間ドック(HDD)判定・報告書作成、新聞切り抜き、病院・医師会業務など。
  月〜土曜は6:00頃出勤、HDD報告書印刷、外来書類処理など。病棟回診、HDD受診者とミーティングと診察。8:45-14:00外来とHDD受診者に結果説明。昼食は摂りません。午後は病院業務・医師会業務、各種委員会等に出席など。20:00頃帰宅。
  日曜・祭日もほぼ同様ですが、病院には午後出かけます。時間的に余裕無いのが悩みです。


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