自伝 特別編 父を語る 


 昭和27年4月10日自宅消失した。この火災は家族に及ぼした影響は小さくなかった。
 この火災によって家族たちは以後の人生にそれぞれいろんな影響を受けた。とは言っても、私自身はこの火災を全て消失とか喪失という意味でマイナスに捉えているわけではない。ある意味では我が家の浄化、再起動だったと思う。

 父親という存在は子供にとって、最もとっつきにくい存在なのではないだろうか。他所のご家族のことはわからないが、少なくとも私にとってはそうであった。祖父母、母、兄に対しては人としての興味もあり関心を向けたことは多かった。父について言えば関心はないと言えば嘘になるが、直接心情を確かめたこともなかった。

 今にしてみれば父の人生について、人生観についてもっと聞いておけばよかった。私が物心つく頃、父は既に50代に達しようとしていた。私の目に映った父親像は「いい父親」で、ある程度分かっているが、幼少時のこと、青春時代のこと、青年期のことなど、私はほとんど知らない。
 惜しいことをしたと思う。

 昭和27年の火災が家族に与えた影響を振り返っているが、主に、この火災以降の父の生きた姿について簡単にまとめてみた。




父の人生(1) 昭和27年4月10日、貰い火で自宅・診療所が丸焼けとなった。
 この火災によって家族たちは以後の人生にそれぞれいろんな影響を受けた。とは言っても、私自身はこの火災を全て消失とか喪失という意味でマイナスに捉えているわけではない。ある意味では我が家の浄化、再起動だったと思う。

 再起動になったとは思うが、それは兄と私にとって、であって、祖父母、両親にとってはネガティブな要素がより大きかった。特に祖父、母の落胆は大きかった。

 父は火災当時、40代後半であった。
 正午頃の火災で当日は乙部村役場に勤務していた。祖父や従業員が躍起になって消火装置を動かそうとしていた時にフラフラと戻ってきた。実際には体調が悪かったらしくほとんど役に立たなかった、という。私はその後、麻薬が入った金庫を背負って裏のりんご畑に避難していたから父が火災に対してどう行動したのかはわからない。後日談では宿酔の影響で不調だったらしい。

 父は私にとってはとてもいい親であった。
 我が家ではどちらかというと厳格な祖父の元で影がうすい存在だった。全てにおいて祖父から抑制されていた様に思われ、私はずっと気の毒に思っていた。性格的にもややひ弱、世間に対しても斜に構えているようなところがあった一方、外面はよくそれなりに人望もあったらしい。役場の職員として働いていたが、後日母に聞いた話によると経済的にも我が家への寄与度は少なく、給与の大部分は自分で使っていた??と思われる。

 父は男3人女3人の同胞の長兄であった。東京に出て医学部に進んだとされるが遊びふけて卒業できなかったらしい。この周辺のこと、その後どんなコースを経たのかは私も詳細は知らない。郷里に帰り、広かった敷地を利用して養鶏業に手を染めたこともあるようだ。孵卵器が何台かあったことからブリーダーだったかもしれない。確かにヒヨコの雌雄鑑別師なる免許は持っていた。事業としてうまくいったか否か分からないが、その後、乙部村役場に勤務し、一時収入役にも就いたことがあるとされる。

 父は同胞たちからはずっと慕われていたが、二番目の弟が優秀で京都府立医科大学を卒業して医師になるなどもあって、ちょっと父にとって分が悪かった。祖父から見て情けない長男であったようだ。

 普段、家では酒を飲まなかったが、仕事を通じては頻回に飲んで帰宅した。近所の方々の話では、父は泥酔していても自宅の門から入る際は襟を正してシャキッとして入ったという。時には馬小屋の前で馬に向かって演説をたれ、そのまま寝込んだこともあったらしい。家のなかの立場を象徴するエピソードだったと思う。

 父は火災をどう捉えたのか?直接話を聞く機会は私にはなかったが、特別大きなショックを受けたようには見えなかった。


父の人生(2)
 火災の時にほとんど役立たなかったこと、家の再建とかに寄与度が少なかったことなどは、恐らくは自身の大きな心の傷になっていた、と思われる。自身だけでなく周辺もそのような目で見ていた。
 このような環境は外面のいい父にとってはかなり苦痛であったはずで、「いつかは自分の時代がくる。その時は一攫千金を得る夢がある・・・」といったことを私に話したことがある。そんなうまい話はないだろう、と聞き流していた。

 消失した家・診療所は再建された。
 昭和34年、祖父は死去、廃業した。父は一家の代表としての働きと責任感が出てきた。給与も家に入れ始めたが、我が家の経済は徐々に傾きかけていた。にもかかわらず、私が中学生の時に村長と大げんかし、定年を迎えず勝手に退職してきた。これから高校、大学に進む息子がいるというのにである。私は驚いたが、プライドだけは高かった父らしい行動であった。その後、父は働きに出るわけでなく庭木の世話しながら淡々と日々を過ごしていた。

 私は盛岡の私立の中高一貫校に進んでいたが、家の経済状況を理由に退学、郷里の中学に転校した。小学の頃は岩手医大に進学するよう仕向けられていたが、それは夢物語になった。いろいろあったが、幸い新潟大学に入学できた。学費がつづくか不安であったので、6年間の生活費・学費として50万円を貰い、以降一切援助を求めることはなかった。求めても対応できる状況ではなかった。6年間の学生寮生活は、特に食生活において苦しかった。このことが、後の私の人生を変えてた要因の一つとなる。

 昭和40年祖母は、私が医学部に進学できたことを喜ぶ一方、我が家の行く末を心配しながら死去した。
 次いで母が結核で数ヶ月間盛岡の病院に入院した。

 父にとっては私を含めて目の上のたんこぶが3つなくなった。この時期を狙って先物取引に手を出し、結果的に大きな痛手を負った。
 父はまだ未練があったようであるが、兄と私とで説得、先物取引をやめさせ、家屋敷を売却し、盛岡の郊外に小屋を購入、転居した。これで両親の数年分の生活維持の目処が立った。昭和46年私が卒業、県立病院に勤務したことで両親の生活は一応安定した。

 昭和53年、母は失意のうちに私の元で死去した。
 父はその後数年、盛岡の自宅で悠々自適の独居生活を送り、昭和58年秋田に引き取って2ヶ月で急死した。


父の人生(3) 
 私にとって父は良き親であった。
 勿論、いろいろ問題はあった。
 私への家庭内の教育は祖父母が厳しく担ってくれたので、自分の息子でありながら父は出る幕がなかった。そのために父から厳しい教育的なしつけは受けたことはなかった。しかし、祖父母の手前直接的表現が出来なかったのであろう、言葉の端はしに嫌味っぽい表現があり私を落ち込ませた。これは嫌な一面であったが、我が家の中で中年に達するまで祖父母に押さえつけられ、自分を発揮できなかったことを考えると理解できた姿であった。
 私も嫌味っぽいとよく言われる。気が小さくストレートに自分を表現できないこともあるが、父の影響も大きい、と思う。

 また、父には山師っけがあるらしいことは幼少の頃から会話を通じて感じていたし、余所の方から指摘されたこともある。祖父母間では株式の話、株券の話、証券の話などが日常的に交わされていた。幼少であった私には全く意味がわからなかったが、なんだか労力を使わないうまい話のように思えた。かなりの額を有していて、家の再建に大いに役だったらしい。これらの会話に父が関与することはなかった。なにしろ父にとって自由になる資金などなかったからである。

 祖父母死去、母の入院、私の進学と揃って一人になったところで、父はついにチャンスが訪れたと喜んだのであろう。我が家の蓄えをほぼすべてつぎ込んで利殖を図ったが、そう上手くいくはずもなく、すべて失った。
 早めに私どもが気づき止めさせたが、他に借金を作っていなかったことが最大の救いで、家屋敷の売却で一息つけた。広すぎる家屋敷から小屋に移ったことで老父母はメインテナンスの労から解放された。これは大きい、とてもいい意味での破産がもたらした副作用であった。

 私は、コツコツと働くことと浪費しないことは利殖と同じ、という考えに立つ。これは堅実な母の教えでもある。だから、私はこの筋の話には一切乗らない。嫌悪をも覚える。これは父が残してくれた教訓である。

 老父母の元には私は十分?な送金した。母が死去した後も希望で同額送り続けた。独居が困難になり秋田へ転居したが、引っ越し荷物の中に当時贅沢品とみなされていた30インチ超の大型TV、ヴィデオデッキ、電子レンジ・・・、2年間分ほどのロイヤルゼリーなどなど含まれていて驚いた。
 独居中に父は私どもの訪問を好まなかったが、その理由をその時点で理解した。
 楽しく一人暮らしを楽しんだのだろう。何も遠慮がちにコセコセすることはなかったのに。これも性格だね、と思う。私も受け継いでいる。

 中年期以降は糖尿病を患ったが、病識はほぼなかった。しかし、外面のいい父である、主治医に自慢したくて受診日の数日前から節制に努め血糖値を下げる努力した。尿糖に関しては検査時の尿に水を加えたこともあったらしい。受診後は川徳デパートで食品を買い込み、毎日たらふく食っていた。
 そんな父の様子を私は知っていたが、生涯を通じて我慢を続けてきた父である。私は見て見ぬふりをしていた。父は昭和58年秋田に引き取って2ヶ月で心筋梗塞を発症し厳しい状態に陥ったが、私は治療の中止を申し出、そのまま死去した。享年80歳であった。
 尊敬という言葉は似合わないが、人間味に溢れた大好きだった父への最後の親孝行であった。父は十分、生きた。後半はいい人生だったと思う。

 その他にもいろいろエピソードを残した父である。もう私以外には知る者はいない。
 昭和27年4月の自宅消失は、父の人生にもいろいろ影響を与えた。しみじみと思うが、自身が負うべき責任も大きかった。
 












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