自伝「宮古病院時代」1971〜73

医師国家試験合格、晴れて岩手県立宮古病院に内科医として勤務
 4月幾日かに医師国家試験の発表があり、予定通り合格、保健所に医師免許の申請を済ませ晴れて岩手県立宮古病院の内科医師として採用された。
 同期生として東北大学卒業者が2名着任、その内の一人は私が育った村の郵便局長の孫だったか甥と言うことで、幼少の時から名前だけは時折聞かされていた人であり、すぐにうち解ける事が出来た。最初の1年間は私を含めての3人、2年目は女医1名を加えての4人で互いに助け合いながら業務をこなしていった。
 
 私の医師としてのスタートは宮古病院という医療機関、副院長を始めとする内科系、外科系の上司、東北大学、県立中央病院からの派遣医師・・の方々から受けた薫陶も随分役に立ったが、同期生間で体得したことを教えあったり、相談しあったり、補助が必要な検査や救急患者の診療では互いに助け合ったり・・がとても良かった、と言いうる。何事にも代え難い価値があったと思っている。
 学びあった同期のうちの二人は現在岩手県立中央病院で循環器科、外科医として大活躍中と聞く。二年目から加わった女医は家内である。

 岩手県は日本で一番面積の大きい県であり、経済的にも厳しい地域であった。人口密度は低く、散在する市、町村は国道4号線、東北本線の地域を除くと面積だけは大きいが人的には極端に小規模で、保健・医療・福祉面の維持は極めて困難であり、私的病院はあっても小規模でしかあり得ない。そのために岩手県は県庁内に医療局を置き、県立の医療機関を多数経営している。当時は全県内に県立病院が当時32箇所あったように思う。現在は統合されて一般病院が26箇所、精神病院が1箇所、診療所が6箇所と言う。
 県立宮古病院は沿岸地方では最大規模の総合病院で、昭和34年4月1日県立宮古共済病院と合併し岩手県立宮古病院と改称し、一般314床 結核105床 伝染20床の計439床の地域のセンター的立場の病院であった。国鉄宮古駅の直ぐ前にあった。
 
 設立母体が一つと言うこともあって、県立病院間の交流は豊で、県立病院の中でもセンター的立場の県立中央病院からは脳外科の専門医を始めとして定期的に各科の専門医が診療応援に来ていたし、中央病院を会場に各種のセミナーが開催され、月に1-2度は週末は出席して勉強した。
医師国家試験申請後は実力は無きに等しいものの、正式な内科医としてみなされ、それなりの仕事が与えられた。
 まず病棟の受け持ちは6人部屋が3室で18人が基本、結核病棟も同様に3室であった。今から見ても始めから随分と多かったものだと思う。しかし、当時の入院患者は勿論救急患者とか重症者もいたが、経過観察入院、長期入院患者も少なくなかったので医師として歩み始めた私でも何とかやって行けたのではないかと思う。
 各医師は病棟では「◎◎内科」とあたかも互いに独立したしたような印象で呼ばれた。私が担当する病棟は例えば「二病棟の福田内科に入院・・・」というふうな感じで呼ばれるたびに歯がゆい感じであった。
 医師として出勤して最初に書いた注射伝票は進行胃ガン患者の抗ガン剤のオーダーであったように記憶する。最初の1ヶ月ほどは入院患者と救急患者の初療のみで、一般病棟は当然連日回診したが、結核病棟は週一回程度の回診とした。若干慣れてきた頃から消化管透視、内視鏡検査、外来にも割り当てられ、徐々に担う範囲も増えていった。

 解らないことは先輩医師に聞きまくり、本を読み、文献を読み、同期の医師にも手伝ってもらい随分頑張った。
 朝の出勤はいつも寝不足で始業時間ギリギリの出勤であったが、夜は決まった帰宅時間はなく、午前帰りは当然連日、帰るのも面倒で医局のソファや外来の診察ベットの上で朝を迎えるのが半分くらいはあった。朝出勤時には全職員が出勤簿に印鑑を付く必要があり、その台帳のある場所の脇の机にはいつも院長が陣取って全職員と一言ずつ挨拶を交わしており、前夜の救急や病棟の様子もかなり把握しいて、ねぎらいの言葉やコメントもあった。矢張り院長クラスはたいしたモンだと感心したものである。



救急対応
 成り立て医師にとって救急患者への対応はとても勉強になる。宮古病院は地域の中核病院だからほぼ全ての救急車が搬入されると言っていい。最初の頃は先輩医師の補助を中心に参加していたが1ヶ月過ぎ事からは単独でも診るようになった。とは言っても救急室と医局とは通常のルートでは若干距離があったがつい目の先にある。救急車が来るたびに通用口から、そこが閉まっているときには窓から飛び出せばすぐ行けるから他の仕事に就いている時以外は全部診に行ったと言っていいほどである。又、各課の診察室の並びにもあったので外来診察中の各科の医師も顔を出す。とてもいい環境であった。

 交通事故、列車事故、業務中の怪我など外傷系もよく診た。希には外科系の医師がいないときもありその時にはかなりの外傷の応急処置をした。日本刀で腹部を横に切られ一部の腸が飛び出した患者などは今でも鮮明に思い出す。幸い出血は多くなく応急的に縫合、翌日のこの患者は手術を受けていた。私が縫合した顔面の傷などは翌日外科で再縫合したなどは枚挙にいとまがない。それでも良いのだ、初期対応の責は十分だったよ、と外科医が慰めてくれるのが救いであった。

 一人で対応出来ないときには同期の医師が手伝ってくれたほか、医局で教科書や文献を調べて届けてくれるなど互いに助け合う連携もあって助かった。
 救急車搬送または救急室を訪れるような内科的な疾患も大抵経験出来たと言えよう。今から見て冷や汗ものもないわけではなかったし、経験をうまく体系化出来たとまでは思っていないが2年間を通じて良い経験が出来たと思っている。

 今の中通病院の急患関連の診療体制を新卒医師にとってどうなのかと思ったとき、医局が遠くて救急車搬入の様子が分からないことが第一の欠点のように思えるし、その日の担当がスケジュール化されていることが寧ろマイナスになっているように思える。
 救急の経験は足で、耳で、手で一例でも多く見ること、診ることが大切でまず先輩の技術を盗み取り、理論武装はその後でゆっくりすれば良い、と思う。時代がらなのだろうか、古い医師の一人として、最近は考える前に安易に検査に頼りすぎの傾向も感じないわけでもない。



消化管検査:消化管暗室透視→遠隔操作透視装置に 胃カメラ→胃ファイバースコープに
 内科系医師にとって最も頻度の高い検査の一つが消化管の透視や内視鏡である。2年間を通じて随分多数の検査を行い、いろいろ経験出来た。昭和46-48年は消化管検査は丁度古い機器から新しい機器に移り変わる端境期にあった。数回先輩の側に立ち見せてもらった後に直ぐに独り立ちして担当した。
 まず透視。
 当時は透視室は完全な暗室。暗順応用の赤メガネをかけて目を慣らし、厚い鉛入れのX線防御服を着て、患者と共に透視室に入り薄暗いイメージ像を見ながら鉛入りの手袋を介しての圧迫とかによる操作で撮影した。レントゲンフィルムも一枚毎に医師が取り替える必要あった。上部消化管は良いとして大腸の透視時は用いる道具も多く、時には造影剤を漏らす患者さんもおり、暗闇での検査は大変であった。1年目後半には別室で遠隔操作出来る現在の透視機器の様な装置に変わり状況は一変し若手医師はほぼ全て新装置に移行した。古くからの医師達はそれなりの大事にしてきたノウハウがあるためかずっと暗室を使い続けていた。
 胃の内視鏡は三機種を経験した。
 始めは、所謂胃カメラと言うべきもので先端に光源とカメラが付いており操作医は薄暗い内視鏡室で胃の中からの光を腹壁を通じて読みとり、適正な方向を向いているか、胃壁との距離は適正かを解剖学的知識と直感を駆使して撮影するものであった。10数枚のフィルムのうちで役立つのが全くないなど、悲惨な結果も時にあった。勘に頼らない何か客観的な方法はないかと考え、透明なガストログラフィンという造影剤を少し服用させ、レントゲン透視台の上で胃とカメラの位置関係を確かめながら検査をしたこともある。これは良いアイデアであり写真の成功率は格段に向上した。内視鏡担当の看護婦等のスタッフ、レントゲンのスタッフ達の顰蹙をかったが、若い医師の申し出に良く協力してくれた。
 二種目は胃ファイバースコープでカメラは先端に付いているがファイバーを通じて胃の中を直接見ることが出来るタイプ。これは画期的であった。当時のは側視型であったために視野はそう広くなく広く見るためには胃の中で反転させる必要があったが誰もその技術が無く、先のごとくの工夫をし透視台で位置関係を確かめつつ練習させていただいた。食道や十二指腸は観察出来なかった。
 三機種目は生検用の胃ファイバースコープでカメラは手元に付いている現機種の原型のようなもので太く固いと言う欠陥があった。ファイバーを通じた画像の解像力も今一つであったが生検という技術の導入は消化器の臨床にとって大きな意義があった。術前にガンの病理診断が出来るということで外科医からも重宝がられた。

 上部消化管の検査は随分沢山やったと思う。週2回担当し5-10例ずつやっていたので多分1500例程度経験出来たと思う。
 直腸大腸の内視鏡は直腸鏡があったが主に外科で用いていたために私は経験がない。透視のみである。



血液疾患を受け持つ。血液内科学を学ぶ決断をする
 大学の時から血液学の臨床に興味を感じていたこともあって、宮古病院では時間外の静かな時間帯に血液検査室を利用させていただき、最初は末梢血から、次いで骨髄像を図鑑を片手に独学した。最初の2-3回、橋本副院長から骨髄像の読み合わせをしていただき良いスタートが切れた。時間を見つけては顕微鏡を覗いていた時期もある。
 たいした知識はなかったが、血液に興味を持っている医師として結構重宝され、血液関連の問題のある患者は殆ど私が受け持つこととなり、結構大変であった。2年間の宮古病院の勤務のうちで急性・慢性の白血病10名ほど、血小板減少症、白血球減少症等も多数受け持った。
 当時は抗白血病剤と言っても今では殆ど使用されていない?果も乏しい数種類のみ、輸血は全血輸血だけであり、急性の変化には新鮮血輸血で対応するしかなかった。急性白血病は診断しても薬物療法の効果はそれほど無く、せいぜい短期間の部分寛解程度であり、為す術もなく高熱と出血を繰り返しながら1-3ヶ月で死去した。特発性血小板減少症の23歳の女性も脳出血で死亡したが、未だに心残りである。

 2年目の春、不可解な病状を持つ25歳男性を受け持った。何とか「血球貪食性細網症」と言う疾患の疑いまでたどり着いたが文献上、治療法などどれにも書いていない。文献にある著者に直接聞くしかないと考え、思い切って電話をかけたのが当時新設されたばかりの秋田大学の第一内科の柴田昭助教授で種々の指導をいただいた。数回の電話での対応をうけたが、その中で機会があったら秋大に勉強に来なさい、と言うことにまで話が発展した。患者は約一ヶ月後に死亡した。剖検までさせていただいたが、臨床医としての力不足、治療学としての血液学の限界を大いに感じたものである。これを機会に約一年後、私は秋田大学第一内科血液グループに所属することになる。



脳血管撮影のことなど
 宮古病院には脳外科医は常駐していなかったが県立中央病院の脳外科部長が1-2週間毎に来院し外来・入院患者の診療にあたっていた。宮古病院は地域では最も大きく救急患者の大部分が搬送されてくる。当然脳卒中の患者も多い。当時脳卒中は脳出血、くも膜下出血が多くを占めていた。当時は当然CTやMRI などはなく、診断は腰椎穿刺と脳血管造影によっていた。従って脳梗塞等はとほどの大きなものでなければ画像的には特定出来なかった。
 その脳外科部長は来院の度に数例の脳血管撮影をして確定診断とかしていくのであるが、われわれ3人のなりたて医師に脳血管撮影の特訓をしてくれた。それによって急性期の脳卒中の診断が現場で出来るようになると言うメリットがあったからである。
 脳血管撮影は患者の所見から部位を推定し、頸動脈を穿刺して行う方法、時には腋下を穿刺して上腕動脈から逆行性に造影する場合もあった。後者の場合には椎骨動脈も造影されることもあると言うメリットがあるからである。連続撮影装置は無く、注入しながらの動脈相、7-8秒後の撮影で静脈相を撮影した。この間フィルムを入れ替える技師達にとっても大変な作業ではあった。くも膜下出血の際には動脈瘤を探すために角度を変えて数回の撮影を行った。
 血管撮影の後、電話で所見と患者の状況を連絡し、手術適応のありそうな患者は県立中央病院に搬送した。その時は救急車に同乗して行き、そのまま救急車でとんぼ返りするのであるが、一部未舗装の宮古街道を往復230Km、よく頑張ったものだと思う。何人かの患者は救急車の中で死亡し、途中で引き返したこともある。
 
 この血管撮影で基本が解ったこともあり、鼡径動脈からカテーテルを入れて大血管を造影することも出来るようになった。大動脈瘤、腎臓癌、その他の診断に有用であった。業務は多忙であったが、診療科毎の壁はなきが如くで、内科は一つで今で言う総合内科的で、それだけ実にいろいろな経験が出来て有意義に過ごしたと思う。



Fさん(今の家内のこと)とのおつき合い けじめを付けなかったのが悔やまれる
 卒業式には二人とも出席しなかったために医師国家試験の日が久々の再会の日であった。彼女は国家試験後は秋田市土崎港にある秋田組合総合病院の小児科に勤務予定になっているとのことで、落ち着いたら何れまた連絡し会うことを約して私は宮古に戻った。

 多分5月の連休あたりだったと思うが、盛岡で再会、まあこれが通常のプロセスなのだろうと思いFさんを私の家族、と言っても両親と兄夫婦であるが、に紹介した。母親は古くからの友人の娘との結婚を考えていたらしく、それなりのイメージ、夢を膨らませていたらしい。ある時、チラッとは仄めかしたものの、Fさんを気に入ってくれ、その後その話は二度と聞くことはなかった。実際どんな人だったんでしょうね。

 以降は月一ほど週末にお互いの時間と業務を調整しつつ盛岡や宮古で会うことになるが、なかなか調整が困難でわざわざ盛岡に出てきてもどちらかが旧に都合が付かなくなったりして空振りに終わることも希ではなかった。

 私からはっきり結婚しようと言った記憶はないが、秋田の方では翌3月頃に、式を挙げさせようと予定していたらしい。その事を伝え聞いたとき些か驚いたが、どうせその方向にあるのだし・・とそのまま任せっきりにした。秋口に両親を伴って秋田のFさん宅に型どおりの結納金等を持参し挨拶、歓待を受けた。
 で、機は熟して??大学卒業約一年後の昭和47年3月19日本荘市の蔵厳寺という寺で仏式で挙式した。

 この過程の中で今でも悔やんでいるのは、私からはっきりと結婚の意思表示をFさんにもそのご家族にもしなかったことである。二人とも疑問はないはず、との阿吽の了解があるものと勝手に解釈してそのままにしておいたが、これはヒトとして礼に反することであった、と今さらながら悔やんでいる



家内宅のオープンな雰囲気にカルチャーショックを受ける
 家庭を持つまでの間、私も何度か秋田市土崎港にあるの家内宅を訪れることになるが、見るもの聞くもの全て私の育った家庭とは異なっており、驚くことばかり。大きなショックを受けた。

 第一は、やはり酒による歓待、酒の量、出される食品が多彩、かつ大量であること、を挙げねばならない。何しろ私の人生の方向性を大きく変えたルーツをここに発見したからである。とにかく人が集まれば酒、酒、さけ、サケ、Sake・・・であること。
 私も当初は立場もあるし緊張もしていたから必死に
対応したつもりだが、家内宅の家族、親戚から見れば雀の涙にも達しない程度らしい、直ぐに酒が飲めないと看破・断罪され、直ぐにアウトサイダー的立場に追いやられた。そのために酒に関しては無理に呑むことを勧められることもなく、実に有り難かった。
 並べられる食品もたいしたもの。豊かであった。岩手の質素さ、貧乏くささとは比較にならない。これは家内宅の問題ではなく秋田の食文化、酒文化なのだと思う。私の食卓の言は「一汁一菜を有り難く押しいただく・・」であることは変わりはないが、事実は大きく異なってしまった。



宮古での生活(1) 陸中海岸国立公園
 宮古に赴任2年間の間、よく働きよく学んだが、時間を見つけてはいろいろな遊びもした。その中では、やはり地域的に見て最も特徴的な三陸海岸での水泳、観光、つり、キャンプ、ドライブなどは忘れられない思い出となっている。新潟大学在学中は金衛町浜を中心に海との触れあいも随分持ったが、日本海側と太平洋側・・と言っても私は殆ど三陸海岸のことしか知らないが、では海の様子が大きく異なっていた。やはり三陸の海は海岸の構造も、海の色も、波もスケールが一段と異なっていた。これは秋田に来てから触れることの出来た秋田県内、青森の海岸からは到底受けることの出来ない、格別の雄大さを感じたものである。

浄土ケ浜

 陸中海岸国立公園の中心にある浄土ケ浜は、宮古市の代表的な景勝地としてよく知られている場所である。「日本の渚百選」にも選ばれた浄土ヶ浜海岸は海水浴場として県内でも最も人気の高い海水 浴場の一つである。白い砂浜、澄んだ青い海のコントラストが美しい景勝を持つ浜辺で、連日のように泳いだ思い出は決して忘れることは出来ない。

 太平洋側は天候の移り変わりが明瞭である。雨も多いが晴れるときは雲一つ無い快晴、晴天が多い。宮古の夏は暑い.当時は宮古病院は相当に老朽化しており、冷房装置とかはなく真夏の日中はただひたすら汗を流しつつ業務に追われる日々であった。真夏の突然の激しい雨には救われるものを感じたものである。
 夕方5-6時はまだ明るく暑い。この時間になると若い医師は業務を途中にしてそれぞれ連れ合って浄土ヶ浜に向かう。道路事情にもよるが15-20分ほどで着く。日中は観光客で道路は渋滞し、海岸も足の踏み場もないほど・・と言えるような混雑であるがさすがにこの時間帯になると道路も海も空く。
 300余年前ここを発見した霊鏡和尚が「さながら極楽浄土の如し」と感嘆したといわれる様に、ダイナミックな断崖や奇岩が複雑に入り組んだ白い岩と透明度の高い青い海とのコントラストは絶景。海の水は日中の太陽のエネルギーを十分に吸収してほのかに温かく、海岸から対岸の岩までは近場では僅か数10mしかないから簡単にいくことが出来た。水深が深まるに連れさすがに海水は冷たくなる。この変化もまた気持ちのいいものであった。
 ここで小一時間、ほぼ連日来るのでそうゆっくりはしない。サッと病院に帰ってシャワーを浴び、夜半まで再度仕事をこなす。そう言う毎日であった。



宮古近隣地区の自然 潮吹き穴、重茂半島、北山崎、龍泉洞などの思い出
 長年月をかけて太平洋の荒波に侵食された自然の造形は何物にも代え難い魅力がある。わざわざ宮古に住んでいて、美しいリアス式海岸の景観を味あわずにいるのは罪つくりに等しい・・・なんて勝手に理屈を付けて、特に夏には時間を見つけてはチョコチョコと出かけていた。夏はさすがに観光客が多いから早朝、日の出と共に出かけるのがコツであった。何時かゆっくりと訪れてみたい名所であり思い出の場所である。

本州最東端/トドヶ崎 
 本州で最東端にあるのが、重茂半島トドヶ崎。ここには明治35年に建てられた灯台がある。この灯台は、終戦まぎわに被災し、昭和25年に復旧されたものなのだそうだ。木下恵介監督による映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、この灯台守の妻の手記をもとに作られたという。周辺には三陸でも有数の磯釣りスポットがある。
 ここは数回訪れ、病院職員数人でキャンプも2回ほど。電気浮きを用いた夜のスズキ釣り、朝のアイナメ釣りなど楽しんだ。スズキ釣りでは鯖の入れ食いにあって釣れすぎて困ったし、竿を持つ身が持って行かれるような激しく強い挽きで崖から落ちそうになり、思わず手を離したが、購入して間もない新品の竿と共に電気浮きが深く海の底に引きこまれていくのを呆然と眺めていた。

潮 吹 穴

 浄土ヶ浜の北、車で20-30分で国民休暇村の間の海岸に、波が打ち寄せると潮を吹き上げる岩のすき間があり、これが潮吹穴と言われるもので、天然記念物に指定されていたと思う。
 荒れた海が打ち寄せる海水の圧力で、上部の穴から海水を霧状に吹き上げるもので、時には、吹き上げる海水の高さは30mにもなる。何度か行ったが、晴天でドライブ日よりの時はなかなかいい吹き出しが無く、台風が通り過ぎたときとか、雨天の時などの方が見応えがあった。

北 山 崎

 久慈市に向かう途中にある北山崎は、海のアルプスと呼ばれる北部陸中海岸で最もダイナミックな景観で、雄壮そのもの。私は三陸海岸の中では鵜の巣断崖と共にここが大好きである。切り立った岩肌と、眼下には白く砕ける波が展望の展望はいつも感動をもたらしてくれた。また、ここでは数10年前に生じた三陸海岸の山火事の面影を見ることが出来、松の緑との対比が自然の草木の再繁茂の力強さを感じることが出来る。海岸まで753段の階段の遊歩道は体力を試すのに良かったが、運動不足の足では筋肉が痙攣したりして帰路の運転が危なっかしくなる。

龍 泉 洞
 
龍泉洞は岩泉町にあり 、高知県の龍河洞、山口県の秋芳洞とならび、日本三大鍾乳洞の一つに数えられ、国の天然記念物に指定されている。宮古盛岡間の国道から北上するルート、三陸海岸を北上してから内陸に向かうルートがある。洞内は2.5Km以上あり、その内700mが公開されているだけ。湧き出る清水は世界一の透明度をもち、地底湖が神秘的。深い地底湖を形成し、水深120mと日本一の水深を誇っているらしい。行く度に地球の歴史の長さと深さを味わうことが出来る。今湧いている水は何万年か前に降った雨であると説明受けたようなきがするが、にわかには信じがたい。

 私は観光旅行など好きでない。しかしこの三陸の壮大な景観、龍泉洞を見るたびに地球の歴史、自然の偉大さを感じとる。その前に今ある自分など実に小さな存在でしかないが、その偶然性を想ぅ。小さな人生だからこそ大切なにしなければならないと思う。



病院の釣り大会でビギナーズラック、優勝。カモメも釣れた

 赴任した年から先輩医師らにさそわれて何度かは磯釣りをやってはいたが、概してそれほどの釣果はなかった。三陸海岸の釣り場は良い所ほど厳しい場所にある。行きやすい平坦な海岸は時折来る予想外の大波にさらわれる可能性があり極めて危険。そのために切り立った崖をおりていく必要がある。良いポイントほど到達するには大変で、時には30分以上もかけて足場の良いところまで降りていく必要があった。釣り竿、クーラー、そのほかを担いでの崖の上り下りは決して楽ではなかった。
 2年目の初夏、病院の釣り大会に出場させてもらった。たまたま占拠した岩の付近は通常はそんなに釣れる場所ではなかったが、その日は何故かほぼ入れ食い状態。アイナメを中心に釣れること釣れること、とは言っても私よりもっと初心者のA副院長の世話をしながらの釣りだったから時間的には制限時間の2/3程度しか有効に使えなかった。それでも、5-6Kg釣り上げた。圧巻だったのは私が釣り上げたアイナメをカモメが横取りし、結果的にカモメが釣れたこと。カモメは飛んでいるときは優雅だが側で暴れると猛禽そのもの、表情は怖いし力は強い。やむなく手元からテグスを切って放してやった。口元から錘他の付属品、長いテグスを風になびかせながら飛んでいったが、その後どうなったのだろうか。病院に戻っての集計で、何と私がトップで並み居るベテランは悔しがるやら、驚くやら。大物こそ無かったが中型のを数で稼いだと言うこと。意気揚々と帰宅したが、釣った魚の処分に困り果て翌日看護婦さん方に分配した。
 そのほか、当日、鰯の大群が海岸にうち寄せられたのを目撃した。恐らくイカとかに追われて行き場が無くなり波によって打ち上げられたのだと思う。海岸線が一瞬盛り上がり、白くなったかと思うと無数の鰯が砂の上で飛び跳ね、どこからかカモメの大群も来てそれをついばむ。壮観な眺めであった。自然の食物連鎖??というか、自然の営みは大したモンだと感心した。



結婚式を挙げる

 宮古の一年は仕事に遊びにと無我夢中で過ごしたが、二代さんとのおつき合いの方も期が熟し、一年目の終わりに近い3月19日に本荘市の蔵堅寺と言う曹洞宗の寺で仏式にて結婚式を挙げた。
 実際には、結婚式そのほかのことに関しては、まあこれが私にとっては自然の流れだろう、と考えて観念もし、ほぼ全てをお任せしたので日取りや場所などの話は二代さん及びそのご家族のペースで進められた。私は2.3の希望を述べただけであったが、その概要が提示されたときに、内心、何で仏式なんだ??とも思ったが、蔵堅寺には家内の姉が嫁いでいたという事情もあって選ばれたものであった。当日のスケジュールの一切は住職夫妻の配慮で勧められた。ご住職様には大変にお世話になった。

 私自身は次男という立場もあり、兄は長男として先ず立派に結婚式を挙げたし、また、私事で多くの方々に迷惑はかけられないとの配慮で式やその後の披露宴など、小規模で行いたいとの希望を出した。このことをめぐっては自分の両親との調整はかなり困難したが、後日盛岡で私どもの方の主だった親戚を中心に2回目の披露宴をすることを条件に何とか折り合いを付ける事が出来た。この辺になると、常日頃おとなしかった老父母、特に母親の説得には随分手こずった事を思い出す。二代さん側にもその配慮をして頂き、全体に小規模の会にしていただいた。

 そのようなことで、私の方からの出席者は両親と兄夫婦、親戚代表として伯父夫婦、友人代表として当時秋田で研修中であった大学の同級生一人だけに絞った。宮古関連者は移動も大変であるし、業務も多忙だし・・・と言うことで誰も来ていただかなかった。この辺は私の非常識さの表現であったんだな、と今になって思う。

 結婚式の前日午後迄勤務し、夕方列車で秋田に向かい、その夜遅く秋田のホテルに宿泊、当日朝、盛岡から着いた両親達と合流し列車で本荘市に向かった。


   式は正午頃から始められた。
 寺の本堂で通常の葬儀と大差ないレイアウトの中で進められた。私は一応羽織袴を着込み、二代は和装で、正面の祭壇の前に住職が座り、その後に用意された椅子の座った。通常聴くのとは些か異なっているようであったが、何の意味か理解出来ない読経を聴き、住職の説法を聴いたあと、誓いの言葉なるものを手渡され読み上げた。その後若干の読経があり、式は終了したが、打合せも特になく全てがぶっつけ本番で随分緊張した。渡された誓いの言葉なるものはそれほど難しいものではなかったが、仏教用語が所々に配されており、意味が十分解らないまま、冷や汗を書きながら、何とか読み上げた。

 その後、本荘市の代表的な料亭である新山閣に移動、出席者全員で会食をした。
 更に、盛岡から参加の両親、兄夫婦、伯父夫婦、秋田の親族の何人かはそのまま新山閣に宿泊し、夜まで親好を暖め、翌朝それぞれ帰路に就いた。こんなところは小規模の会の良いところであった。
 私どもは秋田の二代の家で若干歓談後、午後の列車で盛岡に向かい、途中、盛岡近郊にある繋温泉郷で一泊した。翌火曜日から勤務に就いたように思う。特に新婚旅行など予定はしなかったが、途中での繋温泉郷での宿泊はそれに相当するのだろう。
 
   やがて時がたち、住職も死去、新山閣も火災で焼失した。私の両親、義父母共に死去し、子供達も独立した。年に一回、盆の頃、家族全員が墓参りに集まるのが我が家の習慣になっているが、その際、繋温泉郷に一泊することが多い。今年は長男・次男はそれぞれ事情があって集まれないと言うが、娘夫婦とわれわれ夫婦で同様の予定を組んでいる。また数日後に当時を懐かしむ日が訪れる。 



 秋田からの帰路、繋ぎに寄って一晩過ごし、翌日宮古に戻り、私は翌翌日から通常勤務が始まった。宮古病院の近くにある一軒建ての宿舎が割り当てられての実質的同居生活、振り返ってみれば新婚生活といわれる時期である。

 最初の数日は秋田や盛岡の互いの実家から送られた布団や着物などの荷物等の整理が大変であった。義母はそれなりに和服とかを仕立てて持たせてくれるなど、細やかな配慮をしてくれたようであるが、タンス等の家財道具は落ち着いてからその地で購入すると言うことでまだ一切揃っていなかった。台所用品は家内が学生時代に使っていたものをそのまま使用、今の生活から見れば、所謂、鍋一つ、釜一つの生活からのスタートに近かった様なものである。だから最初の一月ほどは生活用品の買い集めから始まった。
 それなりのステレオ装置はあったが、タンスなど所謂家財道具など一切無く、大概段ボール箱などで間に合わせで済んだの男一人の独身生活と異なり、家庭生活には実にいろいろなものが必要なものだと感心する一方、幼少の頃から若い女性が身近にいなかったと言うこともあり、化粧品の瓶一つ一つを始めとして、何から何まで私自身にとっては物珍しいものばかり、従来からとは全く異質の別世界での生活が始まった様なものである。
 その内、和洋タンス、食卓・・等が揃い一応形の上では通常の生活に落ち着くことが出来た。
 4月1日から家内も宮古病院の内科医として勤務が始まった。
 何でも好き勝手に出来た独身生活の時と異なり、人一人がいつも身近にいると言うことは相手に対していろいろ気配りも必要で、如何に大変なことかと解った時期でもある。

 医学部の専門課程4年間はずっと同じグループで過ごし、卒業後の約1年も含め顔見知りになってから数えれば約7年ほどのつきあいの後で結婚し、共に暮らすようになったのだが、最初の数ヶ月は私にとっては実に大変な時期であった。互いの性格、考え方、感じ方が驚くほど異なっており、そのすりあわせに実に難儀した。やはり「結婚は人生の墓場」と称したとある偉人の小話は本当だったのか・・・と思い悩むことになる。

 私自身はどちらかというと男性側優位の過程に育ち、やや男尊女卑的傾向があったが、家内はどちらかというと女性側優位の家庭に育っている。だから、家庭内における立場に関する考え方が全く逆である。私のイメージの中にある女性のコントロールの方法論などまず通用しない相手であることがわかった。しかも二人の間における立場の中では自分の立場を私の予想以上に高く設定しているようである。このことは大学専門課程一年の時の研修制度改善要求の運動でもなかなか私どもの方針に同調してくれず、説得に苦労した経験から若干は予想していたが、いたく私のプライドを傷つけた。

 金銭感覚も全く異なっていた。幼少の頃は家が開業医であったこともあって当時としてはかなり豊かな経済状態の中で育った。祖父が死亡し廃業、父親が定年を迎える前に退職してきたことなどもあって、中学生の頃からは過去の蓄積で細々と食いつないで行く余裕が全くない経済状態に変わった。しかも途中で運用の失敗から資産も底をつき、土地や建物を処分し、盛岡郊外に小さな家を購入してそこに両親が住まっている状態に迄落ち込んでいたが、倹約すれば何とか暮らせるような状態。一方、家内の家庭は、父親が堅実なサラリーマンであり、定期的な収入がある家庭で育っている。私は金銭感覚はどちらかと言えば丼勘定的要素と、思い切ってお金を使えない、と言う二面を持っていたが、家内の金銭感覚は実におおらかで、あまり先のことを考えないで遣うタイプで、この点でも意見は合うことはあまり無かった。

 もう一つ驚いたのは性格のおおらかさと、独自の時間感覚であった。

 私は超神経質な人間で、下らない事柄を不必要に気にかけ、何時までもウジウジ悩み、考える、決断力に欠け、何時も劣等感に苛まれている様なタイプである。我ながらホントに嫌になる。一方では、実際にはそんな性格だからこそ多くの壁を乗り切ってこれたとも言いうるから、評価している部分もある。

 家内は一見私とは対極にあるタイプである。本人に言わせればそうは言わないだろうが、私から見て性格は実におおらかである。概して行動は遅く、生活上では細かいことには拘泥しない、のんびりタイプである。一緒に暮らしてみると驚くほどの違いで、調整に困難を感じたこともあったが、普段から自分自身の性格を嫌だと思っていただけに良い教師に恵まれたようなもの。時々は何でこうなんだと頭に来たり、呆れたことも日常的であったがも、あまり細かいことには拘泥しない生き方から多くを学び取り、その雰囲気程度のレベルではあるが、自然に私にも身に付いていった。有り難いことである。

 ところが仕事とか学術的方面では二人の立場は全く逆である。例えて言えば、私は「木を見ず山を見る」タイプで、細かいことなんてあとで調べれば解る、と後回しにする。だから、学会準備など期限付きの仕事などは、推敲のレベルは別にすればそれなりに全体像は出来上がっており、焦ることは殆ど無かった。私は最期の追い込み、瞬発力を欠いているから期限が来ると簡単に妥協してしまう。
 家内は「木を見て山を見ない」タイプで何かに没頭すると周りのこと、期限のことなどそっちのけで次々と細かに調べ始め、どんどんと深みにはまっていく。期限が来ても出来ていたためしは殆ど無い。彼女の最終段階の頑張りはすごいものを備えている。ただ、一人では到底期限に間に合わないので大抵は私が手伝う羽目になるから大変である。これは最近まで改善されない。

 私との時間感覚はの差は、その溝を埋めることなんて出来ない、どうしようもないほどのレベルである。彼女に運転免許が無く、車も一台しかなかった時期には出来るだけ時間を割いて私が病院等に送迎したが、待たされること30分、1時間はざら、時には2時間以上にも及ぶことさえもあった。彼女が免許を取り車を用いるようになってから病院の駐車場で延々と待つことはなくなったが、今でも来るべき時間、約束の時間に現れる事の方が珍しい。これは現在まで30数年間、何ら変わっていない。兎に角、羨ましいほどの自由人である。



結婚後間もなく、秋田大学第一内科血液グループでの勉強の機会が訪れた

 昭和47年3月初旬、原因不明の高熱が持続する20数歳男性患者を受け持った。肝臓や脾臓が大きく腫大し、血液検査で白血球は健常人の数分の一程度の1000/mmm前後、血色素も1/3と減少、血小板は1万前後と著減、何とか「血球貪食性細網症」と言う疾患の疑いまでたどり着いたが文献上、治療法などどれにも書いていない。文献にある著者に直接聞くしかないと考え、思い切って電話をかけたのが当時新設されたばかりの秋田大学の第一内科の柴田昭助教授で種々の指導をいただいた。
 
 その相談・対話の過程でいろいろ私の身辺の話まで進展し、岩手県医療局の義務年限終了時に、秋田大学第一内科血液グループに所属して勉強することを強く勧められた。私も学生時代から血液疾患に興味を覚えていたし、宮古病院でも血液学を独習し、その方面の患者を受け持ち、診断後間もなく治療の間もなく死亡した若い患者達も少なくなく、知識や能力に限界を感じていたこともあって、実にトントン拍子に話が進展た。この電話によるやり取りの中で、医師としての私の生き方がほぼ決まってしまったと言っていい。

 私の立場からは、血液学に興味があると言えども出身校である新潟迄は行きたくなかったし、家内が秋田出身であること、将来の子育てなども考えると秋田大学での勉強は何かと都合が良かったと言いうる。その他にもいろいろ考え、家内とも相談し慎重に判断したが、秋田大学第一内科血液グループの柴田助教授の立場から見れば、発足間もなくでスタッフが喉から手が出るほど欲しかった時期で、私の素性なんて実はどうでも良かったのではないかと、今から見れば勘ぐってしまうが、マアそんなモンだったろうと思う。要するに、飛行機の格好に似ていればトンボでも良かったのかもしれない。
 誰かが言った「お前が医者ならトンボも飛行機・・・」という言葉は何故か私の胸に染みこんでいて忘れられないし、たまに私も言いたくなる言葉でもある。




妊娠の兆し全くなかったが・・・。ファミリア1300を駄目にした(1)

 8月末ころ、つわりとかの妊娠の兆し全くなかったが、家内の下腹部が膨らんできた。妊娠か腫瘍か??なんてバカな心配をしながら、用事があって盛岡に行く機会があったので盛岡日赤で診察を受けた。検査途上であったが、結果は妊娠、予定日は12月末から1月末頃という。拠り所となるデータが不足して正確な判断は出来ないとのこと。私はいつかは来るべき機会と思っていたが、それが現実となって心配半分、うれしさ半分の複雑な気持ちを味わった。

 具体的な状況は既に忘れてしまったが、当時の私は自分の命をそう大切に考えていたわけでもなく、虚弱であった私がここまで生きれば、一定の責任を果たしたようなもので、後は老父母さえ看取ればまあそれで良い、家内はその場合でもそれなりに何とかやっていけるだろう、と斜に構えたところがあったが、自分が生きていくことの大切さ、自分の命を大事にして責任をまとうすることの大切さ、について考え方が一変した瞬間でもあった。


ファミリア1300を駄目にした(2)

 診察その他まだ時間がかかるというので本屋にでも行って時間を過ごそうかと考え日赤から道路にでた。私が優先的にでることが出来る状況でゆっくりと道路に出たが、何故か左側から来たブルーのスカイラインが止まれずに私のファミリアの左側面に衝突した。衝突直前までの運転者の表情がよく見えたが、よそ見か何かして私の車に気付くのが遅れた様である。直前に強烈にブレーキをかけたようでブレーキ音と衝突音とはほぼ同時であった。もともとそうスピードが出ていたわけではないので衝突の瞬間にはかなり速度は減じていてそれほどの衝撃はなかったがバリバリと音だけは強烈であった。
 
双方の車はそのまま動いたので道路脇に寄せて状況を見たら、相手の車はバンパーに若干の凹みはあったものの殆ど無傷。一方前輪の後部から前扉にかけて結構凹みがひどい状態であった。前部と側面の構造の違いによる差がこんなに大きいものだと感心した。また、これだけ私のファミリア方がひどく凹んだことが互いの衝撃を軽くしたのだろう。この凹みを見た瞬間、私は、修理するよりも車を購入しようと決めてしまった。


ファミリア1300を駄目にした(3)

スカイラインはその年の新しい型のようである。私の方はひどいが相手方の方は必ずしも修理は要さない状況、だから警察を呼んだりしなくても良いだろう、と安堵した。運転者は20代の若者で、自分の方が無傷であることもあってだろう、気の毒なほど恐縮していたが、私も迷惑をかけたことを詫び、修理するのかを問うたところ、彼は、必ずしも必要なさそうなので後で考えたい、と言う。私は、これを機会に本日車を買うつもり、だから、当方のことは考えなくて良い旨を伝え、警察とかを呼ばずこのままにしましょう、それではお気を付けて、と言う意味のことを伝えた。そう言ったときの彼の驚きと喜びとが入り交じった表情は衝突直前のパニックブレーキをかけている時の表情と共に、未だに忘れずに記憶の隅に残っている。

 その日、宮古への帰路、盛岡のマツダのディーラーに寄り、グランドファミリア1500を購入した。納車は1週間後と言うことで、親になると言う、嬉しいような、何とも気恥ずかしいような複雑な気持ちと共に、大きくつぶれたファミリアでノロノロと宮古に戻った。車をつぶしても特に面倒なことにもならずに済んだし、新車も買ったし、と実に爽やかな一日であった.


同じ病院の勤務はかなり気疲れした

 4月上旬から家内も宮古病院の内科医師の一員となった。内科外来のスタッフを中心に「蛇の目寿司」で歓迎会を開いていただいた。家内は、一年間は秋田組合総合病院小児科に勤務していてそれなりの経験はしていたが、やはり成人の診療はかなり勝手が違って大変だったようである。私も内科医師としては1年先輩という立場で、重症者や救急患者に対してはいろいろ応援、同期の医師達にも随分助けられた。
 同じ病院に夫婦で勤務するのは公私の別をクリアにしていなければならず、これは当然の事であるが、何かと気疲れするものであった。単に公私の別と言うだけでなく、若手医師二人が家庭をもった事で収入が多かったことも、実際には周辺に対する気疲れ、ストレスの元の一つであった。
 当時、岩手県医療局の医師の給与は医師不足もあって結構高いものであり、宮古病院の場合には盛岡市から約100Km離れており、交通の便も不便と言うことで月額6万円ほどの研修費が付いていた。勉強のために盛岡や仙台に出るときの交通費としてとのことである。
 車を購入する際、本音ではグランドファミリアより上位車種のマツダルーチェREが欲しかったが、あえて隣の先輩医師の車種と同クラスのを選択した。隣の社宅の産婦人科科長は、長女の妊娠、出産では大変にお世話になったわけだが、何かの事情・・、よく解らなかったが酒??・・・で経済的には余裕が乏しかった様で、かつ酒癖もちょっとよろしくなくて、酒を呑むと人柄が変わり突然グチっぽくなる方で、私は給与面の話題では時々愚痴られていた。これ以上愚痴られてはカナワンと言う、配慮もあったし、経験豊かな先輩医師への配慮でもあった。
 この様な考え方は現在ではまず考慮されることはないのだろうが、我が家の墓をつくる際には、隣の本家の墓石のサイズを超えないよう配慮したことも一例であるが、古い価値観の家庭で育った私には幼少の頃から自然と備わっていた抑制心である。

 収入と言えば、家内の入籍が何かの事情、多分面倒くさかったからなのであろうが、勤務開始時期と合い前後し、結局、手続き上勤務してから受理されたが、共済会から結婚祝い金として二人分、20万円戴いたときは恐縮してしまった。私には作意など一切無く、タダひたすら感謝・恐縮し頭を下げるだけであった。全て古き、よき時代の思い出である。


豊かな海産物 体重増加、第一回福田式ダイエット(1)

 岩手県宮古市近辺は豊かな漁場であり、沿岸あるいは近海で採れる海産物は実に豊か。また、遠洋漁業の基地としても日本有数であり、その季節になると全国から漁船が集結してきていた。だから、宮古市は観光だけでなく漁業の街としても栄えており、比較的豊かな地域であったように思う。しかし、住民の多くはどちらかというと木訥で言葉少なく、貧しく、貧富の差は大きい様に感じられた。その中でも網元と言われるところの経済力、豊かさ、知名度は地域でも群を抜いており、私の理解の範囲を超えていた。網元の娘達を始めとして親族達が入院でもすれば院内でたちまち噂で持ちきりになるほどであった。 

 三陸や宮古のことを語るときに避けて通れないのが元内閣総理大臣、鈴木善幸氏の事である。氏は隣町の三陸山田町の漁家に生まれ、極貧の三陸漁村の情況や、昭和8年三陸大津波の経験などから、漁協運動等を指導、次いで青年政治家となった方で、漁港法の成立に大きく貢献したことで地元の評価は極めて高かった。しかし、中央では木訥な性格から目立たず、首相就任時には当時のマンスフィールド駐日大使に「政治家は権力を求めるが、希に、権力のほうが政治家を求めることがある。鈴木総理は正にその様な人」と後世に残る名論評を残した。

 宮古ではやはり新鮮な海産物を豊かに味わうことが出来た。住民の方々は実に親切で、朝、沢山採れたからと言っては患者さん方は新鮮な魚介類を外来や受付に持って来てくれた。せっかく戴いても独身の時には何ともしようがなくて、看護婦さん方に適当に分けていた。ところが、1mほどもあるカツオ1匹、近海マグロの半身など戴いたこともあって、この時にはどうしようもなく、給食の食材として使って貰ったこともある。
 アワビやウニも随分頂いた。アワビはバケツに一杯詰めてドンと置いていく。ウニは牛乳びんに詰めて数本持ってきてくれた。とても食べきれず、どうやって消費しようかと家内と悩んだものである。アワビは食べられる分は冷凍し、残りは茹でて干しアワビにした。今ではとても考えられない豊かな食卓であったが、この時期私は肥に肥え遂に73Kgに迄達した。

 第一回目のダイエットを決心したのはこの頃である。


第一回福田式ダイエット(2)                            
 ひ弱で虚弱、超やせ形であった私も年齢と共に徐々に体重が増加していた。大学入学時は50Kg、卒業時に55Kgであったのが、宮古病院勤務1年後には一日3-4食摂りながら頑張っていたこともあって約63Kgと、ややバランスがとれてきていた。それが2年目の夏頃には宮古の豊かで新鮮な食材と家内の大量につくる手料理の結果、74Kgにまで肥ってしまった。若干は意識していたが、それほど具体的に悩んでいたわけではない。 
 ある時、4階の入院患者が具合が悪いとの呼び出しを受け階段をいつもの如く一気に駆け上がったが、異様な体の重さ、動悸、息切れを自覚し、急速な肥満化のためと危機感を感じた。
 私は身長175cmなので、標準体中は69Kgである。だから最大体重の74Kgの時ですら比体重(Kg/m2)は24.16で標準体重を大きくは超過したわけではない。実はそれでも、私の考えで判断すれば超肥満体である。何故か。私の身体はやせ形の状態で出来上がったのであり,増えたのは骨や筋肉ではなく,体脂肪だけ。だから,超肥満体と言うことになる。恐らく60Kg程度、多く見積もっても65Kg以下が良い状態なのかなと思っている。

 だいたい,体重や健康法に関して常識的に言われていること,指導されていることは間違いが多いと思ってきた。標準体重とは何だろうか??公衆衛生学的に見れば,疫学的に見れば,確かに一定の値は出るだろうが,本当は個々人によって異なるのだろうと思う。
   
 翌日から減量を開始した。方法は減食である。
方法は単純で,一日一食にするだけであとは何もしない。それだけである。摂取量を減らせば物理的に必ず痩せてくるはず、と言うナンの理論もない単純なものであった。


第一回福田式ダイエット(3) 1週間目から10日目頃が辛い

 私は対外的には「中庸を持って是となす」と日常から言っているが、私自身はどちらかと言えば極端なのが好きであり、自分でもそう行動してきた。ただ、何事に付けても結果が良い方向に極端にでることは少なく、中庸にとどまる事の方が多い。これは私自身にとっては心傷の一つとなり、心は晴れない。その点、第一回目の福田式ダイエットは成功したことの一つであり、成就感十分、今でも自らを評価する際に大きな自信になっている。

 私が何かに手を付ける際には、まず周辺に決意を熱く語ることから始める。親しい同僚、外来・病棟の看護師たちに極端なダイエット計画について語ったが、当然大反対された。この大反対を実は欲しかったのだ。私はある程度の意志力は備えていると思ってはいるが、そう強靱なものとは自己評価していない。自分では不満で何でこんなにひ弱なのだ、と思ぅ事も多々ある。だから、何らかの支えが欲しい、それが多くの人達の反対意見であり、そんなことは無理だよ、と言う突っ放したような意見、それに、話したこと、宣言したことで生じるみんなの監視の目が必要だったのだ。

 朝食はコーヒーと緑黄野菜若干程度、昼はやはりコーヒー程度に。夜は普通に食べたが、高カロリーのものは控えるようにした。日常生活で制限するものは何も無く、むしろ運動量は増やす方向で、時間を見つけてはボーリングとかゴルフの練習場にも通った。
 ダイエットし始めた数日後から生じてきた現象は倦怠感、精神的な落ち込み傾向。昼食時など医局で昼食を摂っている同僚への羨望感、時には嫌悪感さえ感じるようになった。誰も居ないときには医局のテーブル上の菓子に手を付けそうになったり、冷蔵庫を探したり、罪悪感と共にコソコソと口に入れてみたり、最初の一週間目から10日間ほどはなかなか大変で何度か挫折しそうになった。

自伝 第一回福田式ダイエット(4)   1週間から10日目を過ぎると急に楽に   
ダイエット開始してから最初の一週間目から10日間ほどの大変さは空腹感もさることながら、全身倦怠感が日増しに増してくることと意欲低下が生じることであった。この様な過程を経ることは禅の本とか、宗教の断食の本とかから知っていたから、何とか耐えられた。この先に何らかの展望が期待されないとすれば極めて辛い状況と言える。ダイエットを試みる方は決して少なくはないが、その内の多くは挫折するが、大体この時期を超えられないのである。

 約一週間を経過すると激しい空腹感は不思議なほど失せ始め、意欲低下も消失し始める。この変化は急速であった。更に数日経過すると空腹感はほとんど辛くない状況になり、食品に対する興味も失せてくる。テーブルの上に美味しそうなお菓子などが乗っていても別に食べたいとも思わなくなる。精神的には高揚感、多幸感があり、何事にも積極的に取りかかれるようになった。体は体重の変化以上に急速に軽くなる感じがし、こういう激しいダイエットをやり続けていることに一種のエクスタシー的な満足感に酔ってしまう様な状況であった。体重計に乗ると面白いほど確実に減量してくる。大体半年で10Kgほど減量に成功したが、更に目標を59Kgに設定し、更に半年ほどかけて目標に達することが出来た。
 この間、体調は良好であったが、感じた異変は、皮膚の傷などがなかなか治らないことであった。ちょっとした擦過傷などがなかなか治らない、それどころか簡単に化膿する現象が見られ、止むを得ず数日間抗生物質を服用したこともある。多分、抵抗力、自然治癒力の低下が生じていたのであろう。重大な疾患に罹患しなくて良かったと思うし、短絡的発想ではあるが、一定レベル以上の食生活、栄養摂取が人の健康維持に重大な影響を持っていであろうことを体験出来たと思う。


長女誕生(1) 私の減量に反比例して家内は体重増加

 秋から冬にかけて、私は順調に体重を減らしつつあったが、それに反比例するがごとく徐々のに家内の腹部はせり出し始めたが、なんと、全身的にもせり出し始めた。つわりなどの症状は全く無く、お腹の子供が求めるから・・何とか言っては食べ、食欲はどんどん旺盛になっていった。もう詳細は忘れたが、小鍋にプリンを作ってよく食べていたのは想い出す。あれだけの巨大なプリンを頻回に食べていては肥るのは当然である。彼女のつくるプリンはなかなか良い出来で、ダイエット中の私にとっては少々の味見だけで済ますにはかなりの気力が必要であった。このプリン多食は体重のことより子育ての段階で子供の卵アレルギーに関連してしばらくの間彼女を悩ます事になる。だから、その後は全く作っていない。
 手元のアルバムに妊娠前と出産間際に浄土ヶ浜のベンチに座って二人並んで撮影したスナップ写真はこの辺のことを雄弁に物語っている。変化は顕著であり、何ら説明など要さない。

 妊娠中は特に体調が悪くなったと言うこともなく、2月末頃まで元気で通常に働いていた。さすがに3月に入ると本人は特に何と言ってもいなかったが、ハタから見ていても大変そうで、主治医から正確な予定日は解らないが、そろそろ産休をとるようにとの提言があり推定予定日の4週間ほど前から産休に入った。妊婦の生活は実に大変なモノであると言うことを頭では知っていたが、共に暮らすことで実体験し、私の女性観はすっかり変わってしまった。絶対的男性優位の家庭に育ち、男尊女卑的発想がかなりあった私の心は、家内の妊娠、出産、子育ての姿を見てすっかり影を潜めた。

 産休に入ってから家内は突然編み物などを始めた。生まれてくる子供のために毛糸のチョッキ様のセーターや靴下を編んだ。出来上がったのは細かいことを言えば目が揃っていないなどいろいろあったが小さく可愛い作品が出来た。それを鴨居に2-3枚吊し、食卓脇の棚に小さな、本当に小さな靴下などが並べられるのを見て、私の気持ちにやっと、間もなく子供を迎えるのだ、親になるのだ、と言う実感が湧いてきた。


長女誕生(2) 誕生後4日目頃まで娘に面会しなかったことを今でも責められる

 妊娠の過程は悪阻も一切無く極めて順調であった。月満ちて産休に入ったものの予定日を過ぎてもなかなか産気づかない。家内の場合、予定日の設定が困難とのことであったし初産であったから若干は遅れるとの予想はあったが2-3週間は遅れたように思う。4月10日の21:00過ぎから陣痛発現、病院に連絡を入れたところ当直婦長が丁度産婦人科外来の責任者であり、指示に従って入院した。私は特にやることもないので社宅で待つこととした。
 それほど心配もしておらず、熟睡していたが
朝6;00頃に病院から電話があり女児が生まれ、母子共に順調とのことであった。早速病院に出かけ分娩室で休んでいる家内と面会したが一大作業を無事なしえた安堵感が表情にあふれ、良い表情をしていた。出産はどちらかと言えば安産であったとのことで、それほど苦痛ではなかったと聞き、私は心から安堵した。

 生まれた娘は別室に居るとのことで、黒髪が豊かでとても元気とのこと。それを聞いただけで私には十分であった。看護婦の勧めを断り、私は日常業務に戻った。それから3日間ほど朝晩産婦人科病棟に家内を見舞ったがいつも子供は新生児室にいて、とても元気だという。
 初めて娘を面会したのは4日目ほどの昼である。初めて見る自分の娘は聞いて予想していた以上に髪が黒々として豊かで、皮膚に若干の黄疸色を認め、元気に手足を動かしていた。これが私に娘か、丈夫でいい子に育って欲しい、と心から思い、自然と手がでて、おそるおそる抱き上げた。実に軽かったし、ミルクの臭いがした。この、娘との初面会の儀式、この瞬間を無事迎えられたことで私はホッと安堵した。

 希望すれば何時でも面会は可能であったが、娘とはその日まで敢えて希望もせず、何時かは会えるさ、と面会しないでいた。父親として自分の子供に初めて会うのに若干の逡巡し、心が揺れ動いていたからである。その瞬間を迎えるのに若干の恐れがあったのかも知れない。
 親になるなんて初体験でもあり、気恥ずかしかったこともあるが、かねてから新生児というは私の感覚では全くの別の世界から来た異邦人であり、別種の生き物のような気がしていたからである。知人とかの出産に際して生後間もなくの赤ちゃんを見せられる事は何度かあったが、私は生後間もない子供を見て、正直なところ一度も可愛いと言う感覚を抱いたことはなかった。個性すら全く感じない。みんな同じに見える。にもかかわらず、嬉しそうな表情をしているその親のために、それなりのことを言わなければならない、と気持ちが焦ってしまう。で、心にもないことを言ってつじつまを合わせてきた。そんな経験を何度もしていたから、である。随分失礼なことを繰り返してきたものだと内心反省していたから、その瞬間を自分で、自分の子供との間で迎えるのを恐れていた、そんな気がしていたからなのだ。

 この娘との初面会が数日遅れたことを、娘と会うと時折話題になり、今でも責められる。心に傷を負ったのかな??「心からお前の誕生を祝福していたからこそ、会えなかったのだョ」、それが私の答えであり、真実なのだ。


産湯に用いたタライ 長女の名前 
 出産翌日、義母が秋田から大きな木のタライを背負って産後の手伝いのために来てくれた。そのたらいはもともとは赤く漆か何かで塗られていたようであるが、もうはげ落ちて無惨な色調であった。家内達の誕生を初めとして親族や近所で新しい命の誕生があるとあちこちに出張して用いられてきた品で、数十人の新生児がこれで産湯をつかったのだと言っていた。
 母子の退院後の受け入れの準備と私の朝夕の食事の世話をしてくれたが、社宅で義母と二人で過ごす時間というのは何かと気詰まりなものであった。そのために夕食を済ますと、失礼を与えない様配慮しつつ夜半まで病院で過ごしていたように思う。数日生後5日目ほどで母子共に問題ない状況で、祝福され退院した。流石に義母の育児の手技、産婦への世話は手慣れたもので私どもにとっては初体験の新生児の世話をてきぱきとやっていく。これを見ていると医者なんて理屈は捏ねることは出来ても、院外や生活の現場では大した能力を持っているものではないな、と感心した。

 長女はその祖母の世話のもと、黄疸期も順調に過ぎとても元気に育った。次は名前を考えなければならなかったが私はあまり真剣に考えた事はない。その方面の本なども全く興味なく読んだこともない。電話帳で適当な名前が無いかと1-2回探した程度であったが、届け出の期限が近くなったのに決まらないのを見かねて外来の看護婦達が5種類ほど用意してくれた中からゴロの良いのを選び、漢字を好みのに替えてその場で決め、そのまま市役所に届けを出した。実に適当な決め方をしたが、との本人共々、今でもなかなか良い名前だと思っている。

 ## なお、ここで用いられたタライは、その後我が家の3人の子供達、賄いの石井さんの二人の孫の産湯に使われたが、その後は時代柄か、もう出張の機会はなく、2-3年前惜しまれつつ私の手によって粉々に破壊され、55年ほど果たしてきたその使命を終えた。


新生児用の道具は殆ど購入しないで代用

 長女誕生の2ヶ月後には秋田に転居が決まっていたので道具類は増やしたくはない,
と言うことであまり育児道具は購入しないでいた。それでも、お祝いとしてオムツカバーとかの必須なものから、天井から吊すオルゴールメリー?などいろいろ戴いた。

 退院後はしばらくはベビーベット代わりにタンスの最下段の引き出しに寝床を作った。これがなかなか便利で、使わないときにはそのまま収納できたし、寝込んだときには2段上の引き出しをひきバスタオルなどで被う事で遮光も出来た。

 若干外に興味を持ち、親の存在を気にし始めた時期には、「柳こおり」をベビーベット代わり用いた。学生時代の衣類の整理、保存等に用いていた大事な小道具で、はじけている竹の端などを丸くカットし怪我しないようにし、内外側全体をシーツでくるみ、小さな座布団とかをつかってベットを作り上げた。揺すってあやすにも、持ち運ぶのも便利、車で移動する際もそのまま載せたり、なかなか良いアイデアであった。

 オルゴールメリーはいくら赤ん坊でも毎日見ていると飽きるだろうと考え、時々プラスチックの装飾品を外し、洗濯物をつるして回転させたりした。風のない日など洗濯物が回るから良く乾燥した。流石に電池では直ぐにヘタルから、 ACアダプターを自作して長時間使えるように改造するなど、いろいろ新しい家族を迎えるのに生活に変化があって、今思い出しても面白い体験であった。子育ては楽しいものである。

 最近の若い両親の子育てを写真などで見てると、用いている育児用品の殆どが既製品の育児用具をふんだんに使っているように思える。もうオムツなど干している写真にお目にかかることもなくなった。そうなってからもうしばらくになるが、確かに、私の時代とは経済状態も違うし、便利なものも市販されている。私は出来る限り既成の市販品は用いずに手作りを楽しむ方だが、子育ての分野でもいろいろ特技を生かすことが出来たと満足している。ただし、家内や、賄いの石井さんの評価はとても低く、彼女らは新しいのを買いたくてウズウズしていたようである。


宮古での体験(1) 第一次オイルショック

 2年間の宮古市での生活の中で、私にとっての大きな生活上の変化は、医師として徐々に臨床力が着いて仕事上で落ち着きや余裕が若干出てきたこと、結婚し、長女が生まれるなどをあげることが出来るが、もう一つの大きな生活上での変化として、第一次オイルショックの体験がある。
 
1973年10月、第4次中東戦争をきっかけに石油危機が世界を襲ぅ事になった。中東の産油国が団結して欧米諸国に牛耳られていた石油生産の主導権を掌握し、石油の輸出を制限し始めた。その結果、原油価格が2ヶ月間で約4倍に値上がりし、わが国の経済も大きな影響を受けた。
 そのころ、マスコミは盛んに首都圏や大都会でのトイレットペーパー買いだめ騒動、家庭用品不足等を報じていたが、田舎町ではしばらくは影響が及ばないのか?と感じていたが、決定的に変化が解ったのは12月初旬、街中が何となく騒然とした様な感じがしたが、この頃から宮古市でも生活用品の買いだめ騒動が始まった様である
 それまで自由に、安く手に入っていた灯油が馴染みのスタンドに注文しても全く在庫が無いとのことで手に入らなくなった時であった。次の入荷すら予定が立たないと言う。ついに宮古まで来たかという感じ。当時、社宅の風呂釜、暖房は灯油式であったために灯油は生活上の必需品であり、更に田舎に行けば何とかなるわいと、土曜の午後、車にポリタンクを数ヶつみ国道をガソリンスタンドに寄りながら北上したが、多くのスタンドでは売り切れとのこと。5つのポリタンクを満杯に出来るまでに60Kmも北上した。このとき得た灯油はそれまでの発想と一変して大事に大事に、部屋の中でも厚着をし、風呂の推移も釜が耐えるギリギリまで下げるなど節約しチョロチョロと用いた。

 この頃から我が国は所謂「狂乱物価」と「マイナス成長」を経験する。ガソリンは1リットルあたり40円前後から100円前後に、灯油は18リットルあたり250-300円前後から600円ほどに高騰したほか、生活用品の全てが高騰したと言って良い。スタンドの休日休業、新聞の減頁、市中の深夜の広告灯の消灯、深夜のTV番組の自粛などが起きた。

 この経験は大局的に見れば我が国にとっては悪くないことであったと思う。私のものの考え方にも大きな影響を与えた。が、その後の国の政策、国民生活に大きな教訓を残したと言えないのが、私から見ても残念である。日本を締め上げるには戦闘用武器は一切不要、エネルギーと食料が最大の武器となる。

宮古での体験(2) 岩手雫石上空での全日空機と自衛隊機衝突

 1971年7月30日14:02雫石上空8500mで札幌発東京行きの全日空B727と自衛隊訓練機が衝突し、左水平尾翼が破断し操縦機能を失った全日空機は高速の状態で姿勢を崩し、空中分解し乗客乗員162名全員が死亡した。わが国航空史上初の高々度に於ける空中衝突大惨事で、当時としては犠牲者数で世界最大の航空機事故であった。訓練生はきりもみ状態になった機から奇跡的に脱出、落下傘降下し九死に一生を得た。
 この事故を私は宮古病院の医局で遅い昼食を摂っていたときに知り、心底驚いた。雫石は盛岡の西側に隣接した農林業中心ののどかな地域で、小岩井農場が因で牧歌的雰囲気で全国的に知られていたところ。私にとっても子供の時は温泉地として、高校ではクラスの遠足?の場として何度か訪れたことのある処である。
 
 世界一の犠牲者数、かつ8000mもの上空で投げ出された乗客の遺体は相当痛んでおり、その修復に県立病院を始めとして近隣の医療機関に応援要請があるとのこと。場合によっては宮古病院にも要請があるかも知れないとのことであった。その際には外科系ではないし、縫合とかの技術もあるわけではないが私は是非とも行きたい・・と思い意志を伝えていたが、実際には当院までは要請は来なかったらしい。

 私にとってこの事故は、郷里近郊で生じたと言うこともあるが、子供の頃から飛行機には随分関心を持っていろいろ本とかを読んで興味と知識があった、ためである。その当時自衛隊機の主力はロッキードF104Jであったが、訓練機等は超旧式のF86F、一方ボーイング727は後部に3機のエンジンを備えた斬新、かつ美しいスタイルで華々しくデビューした新型機で、歌謡曲にさえ歌われていた。

 この事故ではマスコミ・世論は自衛隊機に避難を集中させた。データが収集されなかった時期から誤った論評がほぼ断定的に論じられ、飛び交った。今から見てマスコミが責められるべきものであったが、真相が判明してからも謝罪の記事など見たこともない。事故後12年経過し、誰しも関心を寄せることが無くなった1983年、刑事裁判は訓練生は無罪、教官は禁固3年、執行猶予3年で結審した。事故の大きさ、犠牲者数の割りに刑が軽かった理由は、判明した資料が示しているが、全日空機側が自衛隊機に後ろから追突したものであること、全日空機の操縦席ではその機会は十分あったはずなのに全く自衛隊機を視認していなかったこと、訓練生にとっては後から迫ってきた全日空機に気づいたとして、既にいかなる回避操作をしても衝突は免れなかった、と言うことであった。

 この事故について私はずっと関心を持ち続け新聞等で追っかけていたが、私が抱いた結論は、事故そのものよりもマスコミの在り方、その恐ろしさについての深い印象であった。これは今でも何ら変わっていない。

1973年春、宮古を去る

 長女は特に病気もすることなくすくすくと育った。
 5月末には私は2年間の奨学金義務年限を終え、家内は1年間の宮古病院での勤務を終え、私はかねてから予定されていたごとく、秋田大学第一内科に入局、家内は秋田組合総合病院に復職するために秋田に転居することになった。5月連休後から少しずつ引っ越しの準備を始めた。宮古病院着任時は学生寮からの引っ越しで、道具、小道具類は後輩に置いてきたので布団と本箱、本、簡素なオーディオセットだけと言っていいほど軽装であったが、この2年間の生活の変化、特に2年目からの生活の変化、子供を連れての引っ越し作業は宮古に着任したときとは雲泥の差であった。特に、オーディオ機器は機会ある毎にグレードアップ、レコードも買い漁っていたのでこの分野の荷物は格段に増えた。

 5月下旬、院長室で2年間の就業の慰労と謝辞の言葉を受けたが、私にとっては身に余る言葉であったような気がするが、記録を残して置かなかったことが今となってみれば悔やまれた。宮古を去る日は実によい天気であった。最期に残った身近な荷物、レコードなどを車の後部座席、トランクにびっしり詰め込み、病院の中庭から大勢の職員に見送られて出発した。病院の窓窓からも大勢の患者達が手を振って見送ってくれた。良い区切りが出来たと思っている。

 が、盛岡に近くに区界峠という車にとってはちょっと厳しい峠があるが、当時は舗装もされて居らず道路の整備状態も悪く、下手をすると車の底を擦る可能性があるなど結構大変なところであったが、運悪く右の後輪がパンクした。積載量も超えていたのかも知れない。車のトランクから荷物を全部出さなければ工具やスペアタイヤを出せない。道路脇に荷物を並べてタイヤ交換作業したが、広げてみて随分積み込んだものだと改めて感心した。晴天であるだけに通過する車が舞い上げる砂埃がひどく、かつドライバーの好奇のまなざしが目に沁みて痛かった。
 荷物を再度きちんと詰め込むのも大変であった。盛岡の自宅までの20数Km、再度パンクしないように祈るような気持でそろそろと、大事に大事に走ったが、今となれば古き良き思い出の一つである。


自伝 秋田大学時代1(1973-1985)へつづく







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