| 母を語る |
母死去 昭和53年6月7日
2004年は母親の27回忌にあたっていた。
母は私が秋田に転居してちょうど5年目、第1回の「新潟シンポジウム」の準備をコツコツと進めていた頃、昭和53年6月7日秋田組合総合病院で家内の世話になりつつ、寂しくこの世を去った。享年64歳。
家内の手によって病理解剖が行われ私も途中から見学したが、直接の原因は肝不全、その主たる原因は肝臓を中心にした全身性多発性嚢胞性疾患に何かのストレスが加わったものと思われるが、最終的には生きる意欲を喪失し自ら死期を早めたと言いうる状態であった。
母ハナは大正2年岩手県花巻市近郊の生まれ、と聞いているが詳細は知らない。祖父が最初に医院を開業したのは花巻市であったと言うから、その頃の何らかの縁で父と一緒になったのかも知れない。
母の両親一家はまもなく花巻を後にし、静岡県三島市に転居したので私自身は比較的近くで育ちながら母の郷里としての花巻を意識したことはない。花巻は我が家にとって年に数回訪れる温泉地、保養地としては慣れ親しんでいたところでしかなかった。母方の祖母、叔母、従兄弟達一家は私が物心ついた頃には全て三島であり、今では音信は途絶えたが三島を2-3回訪れたことがある。
母の一生を子供の目から見れば、畑違いの家に嫁いでしまったための忍従、忍耐だったように思う。二人の子供の成長のみを楽しみに生きてきて、最後は子ども達にも去られ、裏切られた、という失意の中、軽く転倒しただけで手首を骨折した、と知らされた瞬間に生きる意欲を喪失した、そんな一生だったと思う。
私が幼少の頃の母の印象
私が物心ついたときには我が家は住み込みの看護婦見習い、お手伝いさんなど常時10名以上と結構大人数であった。母は当時は医院の看護婦として医院を切り盛りし、早朝から夕方まで、あるいは急患にと和服の上に白い予防衣をまとって常時忙しく立ち働いていた。
必ずしも明るい性格ではなかったと思う。自分の部屋で暗く沈み、涙を流し、時には声を出して泣いていた姿をいろいろ想い出すことが出来る。しかし、居室から出ていくとき、あるいは誰かと一緒の場合には別人のような明るさで出ていき、働いていた。常に良き嫁の姿を演じていた女、と言うような、そんな記憶である。
あまり明るくない母の性格やその行動様式はしっかり私に受け継がれている。性格は遺伝だろうが、二面性と言っても良いような私の処世術はずっと母の姿を見続けているうちに自然と身に付いていったものだと思う。私は一人でいる時と、誰かといるときとでは自分でも別人かと思うほど違う。だから誰かと一緒だととても疲弊する。嫌な性格だが、やむを得ない。
母は家事もそれなりに多忙であっただろうから子育てに割ける時間は乏しかったのであろう、添い寝の記憶は幾分はあるが、幼少の頃に母にじゃれついて甘ったれたと言うような記憶は私には殆どない。祖父母は厳格なヒトで近寄りがたかったのか、常に一定の距離があった様に思える。そう言えば幼少の頃の父親の記憶もうすい。
私の世話は住み込みの母と同年代のお手伝いさん「藤原ハツ」さんであった。彼女との間の記憶の方がはるかに大きく残っている。
母の家の中に於ける立場は、その働きの割には小さなものであった。当時の嫁の立場はそんなものであったかも知れないが、祖父母の立場とは段違い、しかも数段違いで、どちらかというとお手伝いさん並、看護婦見習いより少し良かった程度の扱いだったような気がする。
その原因は、長男で跡継ぎである私の父の立場の小ささとも連動して居たのかも知れない。
その中で、彼女の生き甲斐は何だったのか、と今になって思う時、私が母に対して取ってきた行動・態度・姿勢も彼女を大きく傷つけていたのではなかったか、と今更ながら思えてならない。母が生きていたときには気付かなかったことだが、今の私の心に大きく残る反省点である。
生き甲斐を裏切った息子二人
祖父母の礼儀作法に対する姿勢は厳格であった。母はいつもその非難のターゲットとなり、責められていた。それは虐めに近いものであったし、嫁姑間の距離、格差は甚だしく大きく、些細な事象にいろいろ尾びれがついて徐々に大きくなっていく。私はそれを幼少の時から見ていて母の方に問題があるものだ、と思っていた時期もある。
幼少の私には理由はよく解らなかったが、母と祖父母、父を長男とする6人の子供達を中心とした我が家の家庭環境、人間環境は母が育った家庭とはかなり大きくかけ離れていたのではないかと言うことである。結局、母は自らの生活環境とは別世界の、異なる文化、意識を持つ家庭に嫁に入ってしまった気の毒な女、と言うべきだろうと思う。確かに、一挙一動を見ても祖父母や伯父叔母達と違うものがあったし、毅然とした態度をとれない女だったと思う。母もそれなりに頑張っていて、同化しようとする努力は私の目から見てホントに涙ぐましいものがあったが、最後まで身に付かなかった、と思う。
厳格な祖父母から見たら、確かに、母の持つ雰囲気は許し難い部分もあったかも知れない。
何故、母が我が家の嫁として嫁いで来たのか、残念ながらこの辺の話を私は誰からも聞いていない。だから、祖父が今の花巻市で開業していたときに何らかの縁があって父と一緒になったものらしい、と予想することしか出来ない。具体的な話は全く知らない。話題にもなったこともない。これは息子の立場から見て、今から見ればとても残念なことである。
生物行動学的に見れば、何でいま私が両親の遺伝子を受け継いで生きているのか語ることは比較的簡単であろう。しかし、父母が個々のヒトとしていかなる背景で一緒になり私が生まれたのか、興味が沸くところでもある。更に、蛇足的であるが、兄を出産した後の11年間も身籠もることのなかったのに、何故、私が昭和20年に生まれて来たのか、その時両親は何を考え何を感じたのか、興味があるが、いまは知ることも出来ず、ただ空想するだけしか出来ない。
私が、半ばくだらない作業だと思いつつ自らの生活を回想し、過ぎ去った日々、今日ある自分の糧となった日々を記録しているのは、私の命を受け継いでいく子供達へのプレゼントでもある。ついでに、徒然日記も、同じくプレゼントなのだ。お前達の父親が日常何を考えて、どの様に過ごしていたのか、いつか知りたいと思う日もあるかも知れないから記録しているのだ、と言う発想が主たる理由なのだ。勿論、従たる目的もある。
その母の生き甲斐は何だったのか、二人の息子の成長と、孫達に囲まれて静かに暮らす自分の姿、それを夢に想し、楽しみにし、艱難に耐えていたものだと思うが、現実にその生き甲斐を彼女から奪ったのは二人の息子でもあった。勿論、私にも兄にもそんな気は微塵もなかった。しかし、母は発想の転換が出来ない女であった。そう感じ、そう確信し、失意の中で生きるしかなかったのだ。
その生き甲斐と失意とは何だったのか
私の目から見て母の半生は忍耐、忍従、小姑達への奉仕であった。生き甲斐は二人の息子を中心としたものであったことは容易に推測出来る。
私の知らないこともいろいろあったであろうが、私の知る限りにおいて母の第一のショックは昭和27年の火災であった。建坪400坪ほどの大邸宅?と言っていいほどの医院と住宅は強風に煽られて完全に消失し、我が家は多くもののを失ったが、だれ一人として怪我もなかった。
その時の状況を想い出すに、母の落胆振りは家族の誰よりも大きく、当時小学一年であった私の目には異様なほどであった。当時はそんなに深くも考えていなかったが、婚家のハード面の大きさ、長男の嫁としての日常のメインテナンスから生まれるてくる愛着心、それに将来の自分の生活を重ね合わせ、人生の一つのよりどころとして大きな位置を持っていたのだろうと思う。
母の第二の落胆は長兄が医学部進学をやめて工学部に進んだことであった。この火災は医師である祖父にも大きな影響を及ぼした。家が消失した年は兄が高校3年であり受験準備中であったが、祖父は火災の後、それまでの方針を変更して医師を目指していた兄に自由な選択を与えた。この背景については後に触れることもあろう。兄は祖父の心変わりによって、かねてから密かに持っていた希望、エレクトロニクス世界を求めて東北大学工学部に進学した。このこともまた母にとっては大きなショックであった。夢は長兄が医師となって家業を継ぐことであったのだ。
母の第三の落胆は私が中学から高校にかけてのころ定年を数年残して父が突然退職したことだろう。これ以降我が家は父の僅かばかりの恩給の他現金収入はなくなり、先代が残してくれた蓄えを切り崩す生活となった。祖父が亡くなり自分たちの代になるやいなや迎えたこの変化はやはり大きなショックだったようだ。
そんな中、母の生き甲斐と期待は自然と私に転嫁してくる。それをひしひしと感じることが出来た。母が心にいだいている息子像と現実の私自身との間には大きな乖離があり、そのことは私の負荷になっていたが、母の日常の苦労を思うにつけ、私が選択出来たのは良い息子であることを演じ続けることであった。だから、私の成長と医学部入学は母にとって大きな喜びであったに違いないことは容易に想像出来る。
彼女にとって私が理解している第四の転機、落胆は私が大学に入学してまもなくの頃、母は軽度の肺結核と診断され半年ほど盛岡市立病院に入院したことである。
私の目から見て子宮筋腫の手術入院が半月ほどあった他はせいぜい風邪程度で、大きく寝込んだことなど思い当たらない。結構華奢な身体であったが丈夫そうにみえたが、これを機会にやはり自分の健康面での自信を失った様である。実際、この頃から体調の不調を訴えることは徐々に増えていったが、病気の主座は別なところにあり徐々に進行していたためである。
第五の転機、落胆は肺結核が略治して喜びと共に退院した母を待っていた、我が家がほぼ破産状態に陥ったと言う現実の宣告であった。母の入院期間に、独りとなり自由を得た父が、先物取引に手を伸ばし、大きな欠損金を作ってしまったためである。この時の母の失意は並ではなく、一時的に精神的に不調となり、新潟の寮まで何度も何度も電話がかかってきたものである。盛岡周辺の親戚の方々にも電話でクドクドと・・・いろいろ迷惑をかけたらしい。
彼女の言い分は、父を責めるのではなく、自分の病気で家を留守にしたことが結果的にこの様な事態を招いたという自分を責めるものであり、これが彼女のものの考え方の基本であった。要するに何が起こっても自らを責め、自らの首を絞めていくタイプで、これでは考えれば考えるほど生きていくのが苦しくなっていく。
母の失意と裏腹に私が得た大きな開放感
ほぼ全ての蓄えを自分の留守中に失った、と言う母の悲しみはやがて時間と共に一時的に癒えたが、まもなく再び現実のものになる。私から見ての六番目の大きな転機、失意である。足元を見られて二束三文であったが家屋敷に買い手がつき、両親は替わりに盛岡の北はずれに中古の小住宅を購入、転居した。これで経済的には再び若干の余裕は生まれたらしい。
約1000坪の敷地に200坪を超える規模の住宅はそれぞれ80坪、20坪に縮小した。この変化は母の立場にしてみれば筆舌に尽くせない悲しみがあったものと思われる。一方、父は意外とケロッとしていたのが対照的であった。性格の違いはあったが、現実問題としてもう既に老夫婦二人には広すぎて維持管理は困難になりつつあった。春から秋にかけて庭の草むしりだけでも大変、冬場になれば雪かきだけでも相当な距離となる。そんなことを繰り返しながら残り少ない人生を終えるだろうことが目に見えていた。だから、私にとってこの大好きな、愛着のある家と老いた両親の存在は、自分の先々の道の選択上で大きな負荷にもなっていた。大学卒業後には私は直ちに盛岡近辺の病院への勤務し、さらには郷里での開業すら考えていたほどである。
転居が決まったときには私も帰省し荷物の整理に加わったが、家財道具の多くを庭の一角で焼却した。随分多くのものを処分した。この時、立ち上がる炎、煙は小学1年生の時に味わった我が家の火災、すべて消失した、あの時の印象の再現であった。長い間我が家で用いられ、いろいろ想い出の詰まった家具、道具類は面白いように燃え尽き、炎と煙、灰になり、私の目の前で消えていった。何故か私はこのモノが消失する瞬間を見届けるのが好きである。
役に立ちそうな物品は母が一生懸命隣近所に配った様である。果たして喜ばれたか否か解らない。
家で大切にしていた黒に金の縁取りがされた輪島塗の膳セット30人分ほど、これは今考えても見事な作品だったと思うが、盛岡の料亭に引き取られた。江戸中期の作とされる日本刀も売り飛ばした。残った鞘に竹光を自作し、いま私が所持している。
小住宅にうつって老両親は身体的には随分安定した安息な生活を送れたと思う。その面ではとても良かった。
しかし、この転機の最大のメリットは実は私自身にあったのだ。家からの、地域からの、両親の健康を、生活を心配する立場からの大きな開放感である。私はこの転居を機に、これで大きな自由を得た。今ある自分のかなりの部分はこの開放感と共に新しく芽生え、形作られたものだ、と言いうる。母の悲しみの因が実は私にとっては喜びの因であったというジレンマは母の生涯を思うとき私を悩ませる。
母の最大の失意は心の支えの長男、次男を失ったこと
ほぼ全ての蓄財、家屋敷をを失った、と言う母の悲しみはやがてそれなりの生活が出来ることを実感すると共に、時間の経過と共に癒されていくものであったが、生涯にわたって癒されなかった失意、心の傷は、最大の心の支えであった長男、次男を失ったことである。
別に長男の正明、次男の私が死んだわけではない。両者ともまだ生きている。兄はいささか病身であるがいまでも結構元気で特に問題はないし、私はいまここで睡魔と対話しつつ徒然日記を書いている。
彼女は最愛の、心のよりどころである長男・次男を病気や事故で失うことをとても恐れていた。その気持ちは私も良く理解できた。
幼少の時の病弱であった私への看病の表情、川や山に遊びに行き帰りが遅くなったときなど狂ったように探していたこと、私が重病で黄色いお花畑に一歩足を踏み入れようとしたとき呼び止めたのは母の声であったことなど、思い出す。彼女にとって息子は自分の身と同じであったのだ。
まず母は兄を失った。
兄は彼の生活環境の変化と将来への準備の都合上、福田姓から嫂の姓であるT
姓を名乗り東京から盛岡に転居することになる。端的に言えば嫂の家への養子縁組である。私はそのころ大学3-4年目くらいであったがその相談を受けたときに、いとも簡単に了解をした。
姓が変わるといえ兄が自分の納得のいく生き方が出来るのであれば何も問題なし。姓の変更で親子関係や兄弟関係の何者も変わるはずも無し、と単純に割り切れたが、母にとっては長男が養子縁組みにて姓が変わることは、死に別れにも等しい、あるいはそれ以上の打撃であったようだ。やはり、その前後も心を病み鬱状態に陥り、時にはヒステリックな反応さえ示した。もう既成事実としてどうしようもない状況になった後でも、何時までも私に対して「何故、私が兄の養子縁組に賛成したのか・・」と愚痴ったものである。私はこの責めによく耐え、彼女を支えた。半ば狂っていた母には説得・説明は通用しなかった。だだひたすら聞くだけ。ここで出方を誤ると母を失う可能性が頭を過ぎっていたからである。
しかし、母はこの困難すらも徐々に乗り切っていった。私はこのまま病気になるのではないかと訝るほどであったが、何とか乗り切った。すごいと思った。どうやって乗り切ったのか?それを、私は後に彼女の表情から知ることとなる。
兄を襲ったある事故を巡っての母の対応、母の表情から、私は母は兄を死別したのと半ば同じ、と無理矢理自分を納得させていた、と感じ取った。彼女の挫折からの立ち直りが可能であった背景は自ら親密な親子の存在を否定したことにあったのだ、と納得した。
兄は改姓の手続きと共に東京から盛岡に転居した。それからどれだけの期日が経ったのであろうか、詳細は忘れたが、新しい環境にも慣れ、それなりに活動的に過ごしていたらしい。ある日の夕方、多分 土曜日あるいは祝祭日の前日だったように記憶するが、業務上で、コンテナ車を操作中に、と聞いているが自損事故を生じ、救急病院に搬送された。
22:00頃秋田に電話連絡があった。電話の主は嫂の姉だったと思うが、なかなか話がうまく通じない。解ったことは、夕方に何らかの事故に遭い、兄が救急病院に搬送されたが、時間と共に悪化し、血圧は低下し命が危ないので直ぐに来て欲しいが、もしかすれば到着までに間に合わないかも知れない、ということであった。
母は当時、時折我が家を訪れ、孫と共に過ごすのを楽しみにしていた。ちょうどこの時も母は数日の予定で秋田で過ごしていた。私は母にはショックを与えないように、兄が体調が悪いらしいと連絡があった、と軽く説明し、助手席に同乗させて直ぐに盛岡に向かった。この間、約2時間、じっくり時間をかけて知り得た範囲の状況と予想される最悪の事態について説明したが、予想に反して、100%予想に反して、母の反応は極めてクールであった。殆ど表情一つ変えないで私の説明を聞き素直に状況を受け入れた。もしかすれば助からないかもしれないと告げても同様であり、私の知る今までの母からは予想できない反応であった。
このときの母が何を考えながら私の話を聞き、どう感じたか、直接問いただすことなどはしなかったが、私は上記のごとくに確信した。
到着時、兄は死を目前にした状態で横たわっていた。腹部が膨隆している。意識も朦朧としており輸血、点滴は入っていたが血圧は60mmHgほどと厳しい状況。
短時間の見舞い後、母をタクシーで自宅に帰したが、この指示にも母は不思議なほど素直に従った。
私は若い、当てにならなさそうな当直医に面会し、死を覚悟で開腹止血手術をして欲しい旨申し出た。そのときの当直医の迷惑そうな表情は忘れられない。彼は状況を理解できていないと判断、責任者と交渉するよう迫った。結果的に部長クラスの外科医、医大からの応援にと共に未明に手術を開始、原因は肝破裂。未検査血を含め8000mlの輸血によって一命を取り留めた。
翌朝、父と共に病床を見舞った母の表情はとてもさわやかであった。気の小さな父はむしろおろおろしていた。こんな時の男親はさっぱり役にも立たない存在なのだな、良い対照だよと思ったことが思い出される。
母は改姓と言うことで自分のもとを去った長男を、死別と半ば同じ、と無理矢理自分を納得させていた。多分、間違いではないと思う。改姓したからと言って何ら変わりが無いという説得は全く無駄であった。母は気の毒なことに、何かを思いこむとその考えに深くとらわれ、改めることが出来ない女であった。
兄の問題の次ぎに母にとって問題になったのは私の秋田への転居である。医師として何れは宮古病院を去り、いずれかの大学で勉強・修練する必要があることは伝えてあったが、結果的に秋田大学を選択したことは母にとって大きなショックであった。家内が秋田出身であることから、兄同様に息子を秋田にとられてしまう、との感覚で理解してしまった。私自身はそんな発想は全くなく、学びと育児を両立させられるという願ってもない恵まれた道とし秋田を選択したのであるが、母は説明の度に表層的には解った様な表情をしてはいたが、最後まで決してその様には理解していなかった。
如何に母がそう感じようとも、思い込もうと、嘆こうとも、私の選択は変えることなど出来なかったが、如何にして母の気持ち、嘆きに報いるか、はいつも私の心の隅にあり忘れることは殆どなかったと思う。そのため、方法としては私どもも頻繁に盛岡に訪問し、頻繁に秋田に来て貰い、共に生活する時間を増やし現実を体感して貰うことであった。
孫である長女と共に過ごすのを無常の喜びにしているように見えたし、長男誕生の折りには「良いものを付けて生まれてきたね」とことのほか喜んでくれた。やがて、時間と共に母は私が秋田に居を構えていることに対する不満は消えつつあったように思えるが、その際、私も彼女にとって半ば死別に等しかったそんざいだったのか?あるいは現実を容認したのか、それについては私は今もって判断できていない。
母の最後の失意は右手首の骨折で生きる意欲を失う
ある日は母は全身倦怠感、食欲不振等の体調不良を訴えたために秋田に呼び寄せた。父は秋田駅迄母を送ってきながら駅構内から出ることなく次の列車でそのまま盛岡に帰っていった。
母は全身的にも疲弊した感じ、いかにも怠そうなイメージで、球結膜は深く黄染し、全身的にも黄疸が認められた。かねてから肝嚢胞症を中心とする全身臓器の嚢胞性疾患であることは把握していたが、来秋時には殆ど肝不全を思わせる様な厳しい病状であった。
翌日秋田組合総合病院に入院、主治医の家内の下で療養となった。一進一退であったが自覚症状も改善しそれなりに良好な状況で維持されていた。
ある朝、トイレでめまいがしたのか詳細はわからないが倒れたらしい。それほどひどく倒れたとは思われず、右手で身をかばったと思われる倒れ方だったのだそうだ。それほどの外傷もなかったが右手首付近に疼痛を訴え、整形外科で骨折と診断され、ギプス固定された。
母の様子が変化したのは手首に骨折があったと伝えたときから始まった。それまでの通常のごとくに見られた闘病意欲を完全に喪失、あるいは放棄してしまったらしく、表情も乏しくなり、殆ど発語もなく、笑顔を見せることもなくなった。また、食事摂取を全くしなくなった。こちらの言うことには正確に答えていたが、食事摂取、点滴維持、中心静脈栄養の説明に関しても頑として同意することはなかった。
私はその時点で母は軽い外傷で骨折を来したことを契機に、生きる意欲を失ってしまったと理解した。
母は衰弱死した
その後の母は治療行為を一切受け付けなくなった。説得はしても同意は得られない。それでも組合総合病院のスタッフ達はいろいろ治療を試みてくれた。介護のレベルは受け入れてくれたが治療行為は困難であった。
主治医である家内もいろいろ機会を作っては全身状態の維持のための方策を考えたが、服薬も拒否、摂食も拒否、点滴も拒否であった。ある夜私が持参した寿司の一部を美味しげに口にしたことがあったが、栄養補給にはほど遠い量で、それ以降は一切口を開かなかった。私が入れた中心静脈栄養用のカテーテルも1-2時間で抜かれてしまった。
私は迷いに迷ったが、母の好きなようにさせる方針をとった。治療行為などは全て本人の受け入れる範囲のみとした。実際には殆ど何も出来なかった。やがて肝不全の進行と共に黄疸は一層強くなり、意識状態も全身状態も悪化した。排泄のためのトイレ移動はもとより、ベットサイドに置いたポータブルへの移動すらハタから見ていて辛そうであったが本人は何としてでも移動しようと強い意志を見せた。見かねて尿道カテーテルを留置したが、これも短時間で自己抜去した。やがて意識状態の悪化と共に母の精神活動は乏しくなり、治療行為も可能な状態となったが、私はあえて方針を変えさせず、最小限の補液のみとした。数日後母は静かに息を引き取った。
死後、家内の執刀で病理解剖を行った。実質臓器のほぼ全てに多数の嚢胞が見られ、特に肝臓は大部分が嚢胞で置き換わっていた。
母は私の中で生きている
私は母の死去当初、これで本当に母は楽になったのだ、と大きな開放感、満足感、安堵の気持ちを味わった。病理解剖の結果からもその死の意味も実感できた。葬儀は岩手の菩提寺で営まれた。その時は多少の涙を流したが、実際にはたいした悲しみではなかった。
実際に大きな悲しみに襲われたのは母の死後数ヶ月も経って、身辺の整理もかなり進んだころからであった。彼女の人生は一体何だったのか?私や長男は彼女の人生にとって一体何だったのか?私が最終的にとった治療方針は果たして正しかったのか?他の選択肢はなかったのか?・・等々、しばらくの間、私はこれらの問題で苛まれることになるが、過ぎゆく時が徐々に私を癒してくれた。
彼女が生活上で時折示した理解し難い態度、物事の判断、死を目前としての姿勢、これらに私は少しばかりでない異常性を感じてならない。
彼女の同胞の一人はかなり優秀な男性で将来を嘱望されていたと言うが、若くして自ら命を絶ったと聞いているが、そんなことも彼女の資質を考える上で多少の参考になるのではないかと思う。その異常性の一部は私にも立派に備わっていると感じることもある。私はそれを自覚できているだけ良いのだと思うし、一部ながら、母と共有できている異常性?にいたく満足している。
彼女が64歳で、比較的若くして死を迎えたことにも大きな意味はあるのだ。今は心からそう感じている。
亡き母は今でも私の心の中で比較的大きな存在感と共に生き続けており、母の生き様は、今ある私にも、今後の私も、私が死を迎える際にも、陰となり表となり、おそらく私に影響し続けるだろう。母を思うとき今でも自省することは少なくない。そんな私であるが、いや、そんな私だからこそ、母はいつも私にとって大きな存在であり続けるのだと思う。