患者塾 連続講座 第四回

「自分の死をどう迎えたいか」


2005年12月5日 サンパル秋田
話題提供者:中通総合病院 院長 福田光之


<要旨>
 今日ここに集まっている皆さんは死に関心をお持ちでも、死から遠い方々です。健康な方は自分が将来どんな死に方をするか分からないから、死についていろいろ考えようとしますが、明日をも知れぬ状況にある患者さんたちは「自分の死をどう迎えたいか」ということを考えません。その日の状態に耐えるのが精一杯で、中には「早く死なせてほしい」と言う方もおられます。

 私はある年齢、自分では60歳の還暦の年と考えているのですが、を越えれば、今日一日を大事にして、いい日を送り、何時の日か分かりませんが「お迎え」が来たらあまりこだわらずに旅立ってしまおうと思ってます。
 長生きはそれ自体に意味があるのではなく、長く生きて何をするのかということの方が重要です。先人の言葉にありますが、「死は生に意味を与える」のです。人生に死があるから、終わりがあるからこそ生きることに価値があります。
 もし、神様から「あと50年間絶対に死なない命をあげる」と言われても私は断ります。絶対死なないと分かる事は辛いことです。50年の間に知人は皆いなくなり、独り寂しく生きることになる。しかも日々衰えて障害をかかえ、それでも生き続けなければならない。不安になります。私は寝たきりになったら食を断って餓死しようと思っているのに、その楽しみも奪われてしまいます。

 病気は体を弱らせますが、体も病気に負けじとがんばります。身体の中で生きる努力と死ぬ方向の二つの力が同時に作動している状態です。それが苦しみのもとになります。この苦しみは個人差が大きいのですが、一般的に言えば、生きる力が弱った場合はそれほど苦しまないで死戦期を乗り越えられます。しかし、入院して豊かな栄養をつけられて体力が維持されている状態では、生きる力が強いので、死戦期が辛い状態になり得ます。一番楽なのは老衰に近い場合です。生きる力も死ぬ力も乏しくてバランスよく、死ぬ方向に向かいます。
 死に逝く過程のなかで、死の数時間前に短時間ですが安息の時が来ます。それまで苦しんでいたのに急に楽になります。身体が生きる努力を止めた状態です。しかし、急病死や交通事故死などではそのような死の過程は短く一気に経過してしまいます。

 患者塾のアンケートの回答には、「死=怖い」、「死=苦しい」、という思いがうかがえました。私は死の向こうは全くの「無」だと考えていますし、「安息の世界」と考えています。「自分らしい死に方とはどんなことだと考えますか」の質問には「自然死が理想」という回答がありましたが、「自然死」としてどんなことを考えておられるのか分かりません。一切医療を受けないというお考えなのでしょうか。また「老衰死を希望」ともありますが、実のところ死因の1/3はガン死、1/3は心臓、脳などの動脈硬化症等で、残りの1/3ほどはその他と様々で、老衰の可能性は理想でとして求めてもなかなか到達でないでしょう。

 「自分らしい死に方をするためにどんなことをしていますか」という質問には「自分らしい死に方」ではなくて、むしろ「自分らしい生き方」をしよう、死を意識して「今生きていることを大切に」しようという考えが書かれていて面白いと思います。また「自分の口から食べることができなくなったらもう終わりが近いと思っていたが、現代医療はそれから何年も続けられるらしい」そこで自分はどうしたらいいのかと混乱している方もおられます。

 「寝たきりにはなりたくない」、「寝込む期間を無くしたい」、「自分のことが自分で出来るまで生きたい」という望みは脳血管系の病気では不可能です。ガンでは多くは寝たきりになることもなく、来るべき時が来た際にはそれなりの医療を選択すれば比較的安楽に逝くことができます。
 人間は動物としてみれば50?60歳以降はどんどん弱っていく身体なのに医療や福祉、文化の発展によって70?80歳まで生きることが出来ますが、長命と言うことは障害とともに生きるということでもあるのです。

 昔は医療がなかった分、死に対して親しみと同時に恐れを抱くことによって、宗教がかなりの意味を持っていたように思います。兼好法師も「人間は死ぬのだ。無常があるから人生に趣がある。ひたすら神仏を信じよ」と言っています。西行の「ねがはくは花のもとにて春死なむ
」の歌をみても実に味わい深い時代がありました。

 そのように死を心と情念で受け入れる時代から医療の時代へと移り、最近では自分の思い通りになることに高い価値を置き、自然であることに対する基本的な価値観を失いました。なぜ人間だけが寝たきりになっても生きなければならないのか?多くの方は人も自然の一員なのだということを忘れ、テレビ、雑誌、その他から与えられる底の浅い情報によって病気や死への恐怖感を募らせていますし、現代医学が生老病死を人為的に操作するようになったことを進歩だと誤解しています。
 スパゲティ症候群と呼ばれるように体に管を挿して生命を維持する事が医療の現場でおこなわれています。死に臨んだ老親に対して「もっとがんばって生きて欲しい」というのは健康な若い者の考え方の押し付けであって、老親に最後の鞭を打つに等しいことです。むしろそっとしてあげるほうがいい。

 健康なひとは死を悩み恐れるけれども死に近いひとは死を悩みません。むしろ早く往きたいところです。死が眠りであり、休息、安息であるからです。そのとき本人はスッとこの世から消えていくだけですから何も怖くないし、たいしたことでは無い。なぜ現代医療はこの死の過程を邪魔をするのでしょうか?

 現代人には死についての教養が必要です。このような会に出て死について学ぶのはいいと思います。ここで分かってほしいのは今この瞬間に生きていることの幸せに気づくことです。そして100人100様の死に方があっていい、選ぶのは自分だということです。苦しむのも良い。自分で死を受容し、きちんと自分で選択できる状況を作っておくことが大事です。このとき、意外に大事なのは日頃から家族に自分の死についての考えを語り、自分が消滅するときのプロセスを身近なひとにきちんと準備させておくことです。そして死にたいように死んでみせれば良い。

 早死も長命もたいした問題ではありません。稀に90?100歳まで生きる方がいますが、誰もが望んで出来ることではありません。皆さんの中でこれから節制しても100歳まで生きられるひとは多分いないでしょう。よしんば生きられたとしても幸せとは限りません。老齢の方に望むのは自然に自分の力で生きてほしいということです。決して若い医者の考え方などに自分の人生をそっくり委ねないでください。医療や福祉に過度の期待をしてはだめです。病院で寝たきり状態だったら生きられますが、元気に歩いて帰るようにするのは難しいです。「人生の定年は60歳」と考えて、たとえ病気や検査で少し異常があっても元気で楽しければいいと思って気ままに生きましょう。命に執着するほど辛くなるものです。

 できるだけガンで死にましょう。脳卒中になったらその瞬間に生活が変わるけれども、ガンは死ぬまでの数年間はほぼ今と同じ状態でいられて、しかも痴ほうや植物人間になるほどの暇はありません。ガンと共に生きるのも良いことです。いろんな事を考えさせてくれるでしょう。ガンは私のお勧めの病気です。

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