医師の心得

(1991年度新人オリエンテーシヨン)

                      中通病院医報32(2):12〜26.1991

 
はじめに
 
 1990年の新人医師向けの医局オリエンテーションから“医師の心得。という難解な部分を割り当てられ、困惑している。私が自分の言葉で“医師の心得“について話すことは、全くおこがましいことである。医師になって20年ほどになるが、私の臨床力は自らのイメージではせいぜい50%程度でしかなく、目標は遥かに遠い。にもかかわらず、判断力の減退すら自覚し始めている此頃である。
 
 そのためオリエンテーションでは、先人の言葉を借用することとし、自分が日常の生活の中で参考にしている記述のなかから若干の文章を選び資料とした。
 
 まず、私の医療に関する感想を述べる。
 (1)最近の医学、医療の趨勢について
 最近の医学、生物学の分野の発展は目覚ましいと誰しもが言う。事実、医療の分野でも次々と新しい機器、検査法、治療薬が導入されてきている。自分にとって身近な血液学の分野に限っても、ついていくだけでも大変である。
 しかし、これらの先進的な項目の中には医療費高騰には確実に関与しているが、患者のためにどれだけ有効なのか、私には疑問に思えるのも少なくない。
 日常臨床の中で最も役立つのは先進的なデータでなく、古くから行われて来た普遍的な項目である。又、それ以上に重要なのは患者の状態をつぶさに観察しようとする視点、思考力である。
 
 自然科学は細分化していく方向にある。医学、医療も同様で、医師は専門指向が強くなった。臨床医学の分野でも、この流れの中で、特に疾病の診断、病態の理解の上では数々の恩恵を蒙ってきた。
細分化の趨勢は科学の発展に伴う必然的現象で、避けられない。しかし、医師が十分な基礎的臨床力を身に付けることなしに専門分野に進むことには問題が多い専門医指向をあおり立てる厚生省、各種学会の在り方、卒業したての医師を積極的に集める医育機関の姿勢は、良き医師を育てるという面でのフィロソフィーと共に問われなおすべきではなかろうか。
 若い医師はこの専門分化の波に急き立てられているようで、気の毒に思えてならない
 一方、従来さほど深くは考えるまでもなかった事象にも無関心でいることは許されなくなってきた。例えば、植物状態人問、臓器移植、体外受精、出生前診断、脳死問題などである。これらは一般病院のレベルでも身近になりつつある。最近、岡山の民医連に加盟するある病院で行なわれた脳死患者からの腎移植がマスコミで問題になった事は記憶に新しい。我々もいつ重大な裁断を求められるかわからない状況になってきた。不断の努力、研鑽が求められる。
 医療は患者の治療のためにある 。分析への指向性も重要ではあるが、何事も行き過ぎは弊害を伴う。専門分化の流れと共に患者不在の疾病中心の考え方になっているような気がする。
 今、臨床医に求められるのは、むしろ統合する能力、思考力である。いかなる時代のもとでも、医療は疾病の治療のためにあるのではなく、 患者の治療のためにある。疾病はより普遍的に分析、分類は可能であるが、治療の対象は個々の人問である。従って、特に難治性や不治の疾患をもつ患者の治療の場合、全人間的視点からの判断が必要となる。
 
 健康状態の回復が特定の臓器への対応によって得られることも確かにあるだろうが、成人、特に高齢者においては各臓器に機能障害を残しつつも、臓器間の微妙なバランスによって健康状態が保たれていることの方が多い。また、心因要素も決して無視できない。
 治療学の視点からは過度の分析は不要であり、治療に結びつかない分析の方向性は意義を問われる
 
 
 (2)変わりつつある医師一患者の関係。
 われわれは患者を疾患名で画一的に扱っていないだろうか。
 
患者の権利宣言などに見られるように、医療を受ける側の意識は変化してきた。疾病の診断、治療に関してはともかく、患者として画一的な扱いを受けることに強く抵抗をしめす様になった。また、人問の一人としての尊厳と個性の尊重を求め、治療上でも医療の判断のみに頼ることなく積極的に自己決定するようになってきた。従来からの
「知らしむるべからず、依らしむるべし」と言ったわが国の医師が持ってきた高適な態度、すなわち、患者のためと言いながら、実は自己の保身のためであった、は、もはや通用しなくなってきている。この様な変化は、当然といえる。
 
人々は医師に変革を期待している。
 
 
 (3)チーム医療の時代へ

 医療の分野で扱う範囲は、単に生老病死のみに留まらず徐々に広く、深くなり、それぞれの分野に専門家が登場してきた。医療の現場では実に22種もの職種が関連しているとも言われる。パラメディカルと呼ばれてきたこれらの職種の人々は最近では役割の重要性からコメディカルと呼ばれるようになってきた。医師はこれらの職種の人達とタィアップすることなしに包括的な医療を展開することは最早不可能である。
  医師は好むと好まざるにかかわらず、集団の中でリーダーシッブを発揮することを求められるだろう。
 
かつては、医師は良き臨床医であること以前に、医師免許を持った人として重宝されてきたと言える。即ち、トンボと飛行機を同一視して来た様なものである。
  しかし、今後は協調性、指導性などの資質を備えた医師でなければ評価されず、高機能の医療機関では働くことが出来なくなるであろう。


  医療人は皆、良き医師と共に働くことを熱望している。医者として、いわゆる「古き、良き時代」は、既に過去のものにならんとしている。

 中通病院医報32(2):12〜26.1991


配布資料編

                     
 
 “医の心”を論じる場合、先人医師の言葉も重要であるが、医療に直接関係しない立場の方々が患者の立場から発した言葉はとても参考になる。掲載に当たって表現を一部変えたものもある。
 
A医師と患者一先人の言葉から
1ギリシャ時代の医の倫理
ヒポクラテス全集より
「誓い」一 医師として守るべきは
1.ヒポクラテスの言葉
 人生は短く、術の遭は長い。機会は逸しやすく、試みは失敗することが多く、判断は難しい。
医師は自らがその本分をつくすだけでなく、患者にも看護婦にもそのなすべきことをするようにさせ、さらに環境も整えてあげなければならない。
 医術は一般に病人から病苦を取り除き、病気の激しい勢いを和らげるものである。病気に負けてまった患者に対する場合には、医術の力ではどしようもないことを知り、やたらに手を出さなようにする方がよい。
 

2.中国、唐の時代 孫子貌「備急干金要方」
  治療に当たっては必ず精神を安らかに統一し、欲求心を捨て、普く庶民の苦痛を救うことを願うべし。
病苦にて救いを求められたなら、その貴賎貧富、幼若、美醜、敵味方、同族異族、愚智なるを問うてはならない。
 普く至親の感情をもって自己の身命を惜しむことなく、病者の苦悩を己の苦として深く同情し、一方に救済に当たれ。為にする心や人に身せる心があってはならない。
 
3.貝原益軒 養生訓--医は仁術
  医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うをもって、我が身の利養を専に志すべからず。天地の生み育て給える人を助け、万民の生死を司る術なれば、医を民の指令と言い、きわめて大事な職分なり。医術の良拙は人の生死にかかれり。人を助くる術をもって人を損なうべからず。学問にさとき才性ある人をもって医とすべし。
 
4.モリエールの戯曲--「いやいやながら医者にされ」から 
 医者の格好をむりやりに強制された樵は、嫌々ながら医者の振る舞いをすることになったが、出鱈目を言っても謝礼が貰えることなどに味をしめ、次第に自分から積極的に医者らしく振舞うようになる。そのうち樵は「もし医者が腹を立てたりしようものなら、お前達には想像もつかないほど怖いものなんだぞ・・・・」と周囲の者に脅しの言葉を吐く様になったと言う。
 
5.ゲーテ
 
医者なんて信用できるものでないが、医者なしでやっていけないところに我々の苦悩があるのだ!!

 
B:日野原、安部正和対話集
                バイエルブックレットシリーズから
メディシンはアートである。
 アートとは病人のネーチャーを考えて症例毎にどのような処置を どのような理由で行うのかという原理原則を持つことである。(オスラー内科学書 第2版の扉より)
  医学とは単なる知識でも技術でもない。病者の 身になって、病者の心と身体の中に入ってどう対処するかを考えるものである。医師の技量や腕前だけでなく、それらを発揮するための心を含むものがアートである。(日野原)
 
医の心とは
(1)病に苦しみ悩む人の、その病に共感する心
(2)病に苦しみ悩む人に、意識的ではなく自然に慰めの手が出る心
(3)自分がこの世にあるのは自己の幸せのためではなく病める人の幸せのためである、と考える心。
(4)病人に真実を伝え納得してもらい、自由意志のもとに同意して頂くよう努力する心。(阿部)
 
 患者の悩み、痛みに共感するには医師に豊かな感受性がないとありえない。科学としての知的な能力は必要だが、感性無しには良き臨床医になれない。(日野原)
 
 
 医師は自己万能的な考えに陥りやすい。周囲の意見を積極的に聴こうと言う気持ちが失われ易く、患者を独占しやすい。一方、宗教は“人問は自然の中の小さな存在であって、絶対的ではなく相対的な存在である“と考えさせてくれる。医師の素養として欠くべからざるものである。(日野原)
 
 (この項に関して福田加筆)
 医師が周囲の意見を聴かなくなる別の理由として、
●自分にとって十分解っていないことでも、患者や家族に対しては言葉で言いくるめるとか、あるいはつじつまを合わせることも不可能ではない。そのため
知らず知らずのうちに初心、謙虚さを忘れる
●医師の仕事は公開された形で検討されるとか批判をうけることが殆どない。医師の世界では、いい意味での批評や論評までも遠慮するのが美徳である、と考える傾向がある。
●例え正しくない治療であっても、決定的に重大な誤りでなければ、患者は自然に治ってしまうことが多い。この時、誤りに気付かなければ自分の自信に繋がってしまう。不確実な経験は医師の場合無に等しいどころかむしろ害になる。
 
理想的な医師像   (Morgan and Engel)
(1)まず、何よりも人間性に富む。
(2)絶えざる観察者である。
(3)系統的追い求めをする。
(4)基礎的原理を知り、理解している。
(5)自分の行動すべてを理由付ける。
(6)自身の知識、一般的知識に限界があることを知っている。
(7)患者から来る情報を尊重する。
(8)絶えざる学徒であり続ける。
 

 C:21世紀の医療と期待される医師像(安部正和 )
a)21世紀の医学と医療の予測される姿
(1) 高齢人口の割合が20%を越す。習慣病、悪性腫瘍が増加。価値観の変容に伴う情緒、認識障害が増加するだろう。
(2) 医療の機械化、医薬品の開発が進む。
(3) コンピューターの増大と共に情報処理の技術が格段と進み、医学、医療の情報屋が飛躍的に増加する。
(4) 生命現象の操作技術が著しく進展し、脳死、臓器移植、体外受精、生み分け、多胎妊娠時の滅数手術、遺伝子治療など伝統的生命感を揺るがすような倫理に係わる課題が増加する。
(5) 医師の専門細分化が進む。一方プライマリーケア、健康医学の重要性が増す。
(6) 医師数が増大する。医療費が増大し、医療費抑制策が実施され、医療の効率性が求められる。
(7) 医療に関与する専門職種が多種多様となり共同作業により医療がなされる様になる。 G医学医療面での国際化
 b)21世紀に期待される医師像
(1) 病気中心から患者中心に、さらに保健中心に視点を向ける医師。
(2) 進歩発展する医学知識を良く理解し、優れた技術を身に付け、患者の持つ問題点を正しく把握して、患者の立場にたって問題を解決していく能力を持つ医師。
(3) 自己評価の出来る医師、しかも他人からの批判に対して謙虚に耳を傾けるだけの度量と柔らかい精神を持つ医師。
(4) 医学は生涯教育であることを弁え、自らそれを実践する積極的態度を持つ医師。良い生活習慣を確立させる動機づけを熱意をもってアドバイス出来る医師。
(5) 人と一緒に働ける医師、コメデノカルの人達から慕われ、しかも良きチームリーダーたりうる資質を有する医師。
(6) 考える能力を豊かに着ち、よい意味での研究心を有する医師.
 
 

 D:不治の病の患者に対する医師の心得
                                                 柏木哲夫氏、朝日新聞一生と死を支える、より引用
 (1)多くの人は人生の最後の時には静かな死を望む。問題にすべきは死自体でなく、死への過程である。肉体の機能停止という点では死に個性はない。個性的なのはそこに至る過程である。
(2)医師や看護婦は死や死への過程について特別の教育や訓練を受けたわけではない。将来は死に行く人々を援助する臨床心理士などの専門職の登場が望まれる。しかしながら、医師はいつの世でも深く係わる立場にあるので不断の研鐘が望まれる。
(3)不治の病の患者に対する治療はキュアでなくケアを主眼とすべきであろう。この場合のケアとは患者を一方的に世話することではなく患者の人生のもっと厳粛な総決算の場に参加しでいるという認識が重要。自分もやがて同じ立場にたつ人間であるという視点から死を語りあえる様な状況が理想であろう。
(4)キュアを目標とした治療は時には患者の苦痛を増すことになるので、適応を厳密に検討すべきである。何もしないで手をこまねいているわけには行かないので、という発想は、臨床医としての理念を問われる。
(5)人は生きて来た様にしか死ねないとよく言われる。質の高い生は良き死を迎えることに繋がる。たとえ期問が短くとも良き生を保証するような方向で医療を実践することが重要。人生の最後を迎えるにあたって甚だしい苦痛を味合わせることはその人の歩んできた良き人生を否定することになりかねない。
(6)症状の訴えにはその患者のそれまでの人生がすべて反映されて表現される。従って、疾患のみを治療の対象にしてはならず、身体的、精神的、社会的立場を尊重したケアをしなければならない。言葉を十分聴いてあげることにより症状が軽減することも多い。薬よりも対話の時問を処方すべきであり、痛みの部分に手を当ててあげることが肝要である。(これが真の手当てである)
(7)患者が将来に対する不安や死に対する恐れを訴えてたときには決して力づけてはならない。対話の機会を失することになる。受容し、支持し、指導する姿勢が必要。
(8)治癒させられる病態と異なり、いかなる臓器に原因があったとしても結果的には人問としての死を迎える。まもなく死を迎える状況では身体の部分部分の状態把握するための検査や分析などは、最早役に立たない。
(9)医学的に不治と判断された場合、残された日々の暮らし方は基本的には患者や家族が決めることであり、われわれとしては各患者がその人らしい人生をまとうするように援助することに尽きる。この場合の“その人らしい、とはその人自身の人生観、死生観、論理に沿うことであり、医学的判断が先行してはならない。
(10)壮年時代に人は自己の死について考えることは殆ど無く、この年代のケアは難しい。患者と家族に対し、医師は時問を賭て死への準備教育をする必要がある。
(11)医師は人の死に遭遇することは日常茶飯事であるが、医師にとって患者の死は所詮は他人の死に過ぎない。ただ繰り返していると人問的な感受性を失い機械的に処理するようになる。自分の身内であればどう判断するのかと言う視点が欲しい。
(12)患者の苦痛は可能な限り回避するように治療計画牟立てる。従って医師は除痛に対する勉強をすべきである。疼痛を我慢させることのメリットは全くない。鎮痛剤を懇願するような状態では個人としての尊厳は苦しく低下する。
(13)精神的苦痛に対しては医療技術は不要であり、精神的支えは人と人との交りを通じてしか達成されない。
(1991 5.16記)




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