No.1091
 

「秋田県医師会史(2)」の編纂を担当して

−記念誌の意義を問う−
常任理事 福 田 光 之

はじめに
 現在、秋田県医師会50周年記念誌の編纂作業が進められている。発行は設立52周年記念医学大会の当日の9月15日を予定している。編纂作業の進捗状況は委員会報告として逐次医報に報告してきたが、担当からみた記念誌の問題点、意義などについて私見を交えて述べる。


記念誌編纂の決定迄の過程
 1997(平成9)年秋、日医を始めとし、全国の殆どの都道府県、郡市医師会は設立50周年を迎えた。県医師会執行部では、この記念すべき年を迎えるにあたり記念事業について検討を進めてきた。
 平成9年度第1回理事会にて設立50周年記念医学式典を9月23日に開催し、記念事業としてホームページの公開と設立50周年記念誌の発行を行うこととした(秋田医報1038)。当時、医師会内情報処理部門と医報編集委員会の双方を私が担当していたことから記念事業は二つとも私が担当になった。
 記念事業の一つである「秋田県医師会ホームページ」は、秋田県災害・救急医療情報センターの準備作業の中で基礎的検討を並行して進めていたこともあり、予定通り記念式典の前々日に公開することが出来た。技術面は、最近迄ホームページ研究開発委員で、現在山梨医科大学教授 佐藤 弥氏にお願いし、われわれは内容を担当した。氏にはこの場を借りて感謝申し上げたい。ホームページの現況は医報に報告した(秋田医報1086)が、最近アクセス数が1万件を越えた。第116回代議員会ではホームページに関する質疑応答があったので参照いただきたい(秋田医報1090)。なお、この度行ったコンピューター、インターネットに関するアンケート調査の生データはホームページの会員限定ページで見ることが出来る。また、今回の記念誌編纂作業でも連絡、原稿送付などにインターネットが活躍している。
 記念誌編纂は、医報編集委員会を母体に下準備を進め、長沼委員、福島委員と私の3人で準備会を発足させ、医報編集委員会終了後に検討を進めてきた。
 平成9年9月23日、記念式典の中で記念事業として県医師会のホームページの公開と、県医師会設立50周年記念誌の編纂計画が準備中であることが公表された(秋田医報1048)。
 平成10年3月の第113回臨時代議員会で暫定予算として記念誌編纂委員会の活動が承認されたので、準備会を記念誌編纂小委員会とし、各郡市医師会から推薦された委員12名、それに設立30周年を記念して出版された「秋田県医師会史」の編纂に中心的にかかわったメンバーの一人である黒川一男会員を交え、16名で記念誌編纂委員会を組織した。
 平成10年6月の第114回臨時代議員会で事業計画として記念誌編纂が正式に承認され(秋田医報1066)、平成11年3月の第115回定例代 議員会にて出版費用予算として700万円が認められた(秋田医報1083)。


記念誌編纂委員会
 現在まで小委員会を7回、委員会を3回開催した(秋田医報1064、1069、1087、1089)。編纂委員会委員長に長沼委員、副委員長に福島委員が選出され、黒川委員は顧問として参加いただいている。


記念誌のコンセプト
 他の医師会や企業体の記念誌等の多くは歴史的記述の他、記念の随想集として祝賀記事で編集されている。それも一つの行き方であろうが、秋田県医師会の記念誌は祝賀的内容は排除し、1980(昭和55)年2月に発行された「秋田県医師会史」の続編とし、医師会活動を論じる際に参考になるような資料集を目指した。そのため誌名を「秋田県医師会史(2)」とし、装丁は「秋田県医師会史」に準じ、内容も基本的に踏襲し、基本的には医療界の変遷の記録、それに対する医師会の対応、各種委員会の記録、各種資料のまとめ、その他で構成される。
 記述の範囲は1978年1月から1998年3月31日迄とした。医師会活動の記録は会長別時代区分でなく一年毎にまとめた。医師会病院と成人病医療センター以外の病院史は削除し、代わりに県の医療の変遷を概論的に記述することにした。
 巻末の年表は世界・日本の出来事、秋田県の話題、日医・秋田県医師会の動きを比較対照できる様にしたが、無味乾燥にならぬよう各年毎に当時の話題や流行、世相なども取り上げた。


延べ70余名の会員による執筆
 各委員は各セクション毎の責任者として最終的作業を進めている。委員も執筆したが、項目毎により相応しい会員がおられる場合には積極的に執筆を依頼した。執筆依頼は、役員、役員経験者、各種委員会委員長、各郡市医師会長をはじめとして延べ70余名にも及んだが、その多くの方に了承していただけた。原稿の大部分は締め切り前後に届いたが、総じて現役員の原稿提出が遅く、何度も催促し先日やっと届いたものもある。執筆された諸会員には心から感謝申し上げる。
 各項目毎の整合性は考慮しているが、執筆が多数の会員にわたっているため困難が予測されるので、文末に執筆者氏名も記載することとした。記述の中で根幹をなす通史部分のうち、最初の6年間は16年間の長きにわたって執行部で活躍された赤羽仁三元常任理事が、残りを長沼・福島両委員が分担した。この部の整合性は特に重要なので小委員会で調整を試みているが、3人共個性豊かで、独特の文章表現法を持っており、作業は困難を極めている。


編集作業、予算の決定
 最近は記念誌編纂をそっくりと請け負う印刷会社が多くなってきた。印刷業は競争激化で利潤が少なく、ソフト部門からの収益を重視する様になったためである。この場合、依頼主は印刷会社のプロジェクトチームに立案過程で参加し、資料を提供し、時折内容チェックをすれば記念誌が出来上がってくる仕組みになっている。多忙な医師会にとっては魅力的システムで、見積もり時に4社のサンプルを見たが何れも見事な出来映えであった。  大部分の行程を受け持つ3社の見積額は800〜900万円前後、これに対し印刷、装丁と簡単な編集作業のみ請け負うS社の見積もりは500万円前後であった。常任理事会、理事会では最も見積額の安いS社が選ばれた。経費削減の必要がある今日、やむを得ない選択であったが、異論も出ずあっさりと決定された。20年前、当時若かりし現役員諸氏に配布された「秋田県医師会史」が役立つことなく、「つん読の憂き目」にあったのではないか? 今回の記念誌についても編纂の意義は認めても記念誌自体はそれほど期待されていない? 等々感じられた次第である。
 ともあれ、編集委員会への負担はどっと増えたが、今後の記念誌の意義を問い直す良い機会にもなる。


記念誌編纂の意義を問う
 担当として手作りの記念誌が発刊出来ることには感慨もあるが、一方では虚しさも感じる。各編集委員も恐らくは似たような気持ちではないだろうか。役立つ資料集にしたいと意気込み、如何に内容を充実させたとしても、所詮は過去の記録集に過ぎず、過去を懐かしむ価値しかないから、若い会員に配布された記念誌が「つん読の憂き目」になるのは当然である。
 それ以上に問題にされるべきは、節目毎に古い過去の会務のまとめ集を編纂しなければならない状況にしてきたこと自体である。
 私は、従来の発想に準じる記念誌の発行は今回のみにしては如何かと思う。
 県医師会の活動は多岐に渡り、作成・蓄積される情報量も極めて多くなった。社会、医療界の変化は速い。活動を総括することの意義はますます大きくなった。活動の記録集は会員にとって役立つものでなければならないが、そのためには頻回の発行が必要である。5年でも古すぎる。
 今回の記念誌のコンセプトを祝賀的内容を廃して資料集にするとしたが、それは次善の策としての提案であった。


執行部の交代毎に 「県医師会活動のまとめ集」を
 私は2年毎の執行部の交代時期に「県医師会活動のまとめ集」を作成する事を提起する。医師会病院等の特別の項目はそれに相応しい会員に委嘱すればいい。代議員会の会務報告書がこの目的に類したものであるが、全会員には配布されないし、記述内容から見て会員が医師会活動を知る資料には成り得ない。同じ執行部が会務を引き継ぐにしても2年に一回の活動の総括は次の2年間の活動の糧にもなる。執行部が替わる際には新執行部にとっても有効な資料となる。この方法だと新たに編集委員会を組織する必要がないし、分量も医報1〜2冊分程度であろうから医報の別冊にしても良い。
 活動記録の蓄積方法としては、あらゆる委員会・対外的委員会に出席した役員又は会員は必ず一定の書式で報告書を事務局に提出することを提案する。更に可能な限り医報を通じて会員に報告すれば良い。写真も立派な資料である。その積もりで蓄積しておく。
関連する書籍、文献は購入しライブラリーとして蓄積していくことも望まれる。もし、更に節目毎に記念誌も出版するのであれば、記念祝賀的内容を中心にすれば良い。
 今回の記念誌は1998年3月までカバーしている。4月から新体制がスタートしているので、新しい発想を導入するのであればちょうど良い時期である。会員諸氏のご意見もうかがいたいものである。




巻頭言

「秋田県医師会史(2)」の編纂を担当して(2)
−困難であった記念誌編纂−

                                常任理事 福田 光之


はじめに
 記念誌の編纂について担当の立場から感想、進捗状態の報告をしたのは11カ月前の昨 年8月1日号の巻頭言であった。その時点では、設立52周年記念医学大会当日の9月15 日に発行を予定し編集作業を進めていた。
 しかし、その後の過程は遅れ、われわれの作業が終了したのは4月中旬、配布は5月下 旬になった。
 出版の遅れに対し時折会員の声が間接的に聴こえて来るし、3月は執行部の任期終了時 期でもあり、 ここ数カ月はストレスの毎日であった。無事、出版と配布が出来た今、大 きな満足感と、予算を大幅に超過させたことへの自責の念との狭間で呻吟している。
 まだ、正誤表、補逸・訂正記事等の最終作業が残っているが、編集作業の最終報告をして、担当の責を終えることとしたい。
 
 
何故出版がこれほど遅れたのか
 発行された時点で省みれば、発行が遅れたのではなく、発行日の設定自体に誤りがあった。知りあいの出版関係者から作業手順を教えてもらい、所要時間を逆算して原稿締め切り日、発行日等を設定したが、所詮は机上の計画に過ぎなかった。関係者は一日でも早い 発行を目指し、粛々と作業を進めたが、結果的に大幅に遅れてしまった。
 書籍の編集において最大の難関は原稿の収集であるとされ、原稿が集まってさえしまえ ば7割方出来たも同然とされる。原稿の収集は比較的順調であったのに計画以上に時間を要したのは、1)出版社の入力作業に時間がかかり、原稿のやりとりに時間を要した、2) 執筆者が多数で校正にも時間を要した、3)より良いものをと、記事を追加し、レイアウト変更も何度か行ったので校正の回数が増えた、4)印刷・製本にも時間を要した、ことにつきる。
 出版社の入力作業については、インターネットや記憶媒体を介しての入力を念頭におい て計画したが、先方は業界独自のフォーマットによる文章しか受けることが出来ず、結局 は手入力となった。また、医報、その他、県医師会関連の期日厳守の業務との並行作業で あり、その影響も少なくなかった様である。そのため、社内の処理では間に合わず一部は 外注して処理したという。入稿後の原稿や校正原稿が戻ってくる時間は担当の立場では実 に長く感じられ、実際に無為に待たなければならなかったこともしばしばであった。一方、 出版社は我々から次々に出される注文に苦情も言わずに良く応じてくれたと思う。
 編纂作業の進捗状況は逐次医報に報告したが、出版を心待ちにされていた会員には出版の遅れを心からお詫び申し上げたい。
 
 
 
なぜ、ページ数がこれほど増えたのか
 書棚に秋田県医師会史(1)と(2)を並べるとそのボリュームの違いに今更ながら驚く。当初、秋田県医師会史(1)とほぼ同じ約500ページ規模を念頭に予算化した。その後、編集委員会の方針として活字を大きくすること、写真を多用すること、レイアウトにも余裕を持たせることとしたために、 作業開始当初から若干のページ数の増加は予想された。
 更に、よせられた原稿は可能な限りそのまま掲載し、日本海中部地震、自治医科大学問題など、風化させたくない重要事項の記事や資料を医報から転載した。その他、より良くするためのアイデアを取り入れたことが要因である。それでもせいぜい100ページ+アルファ程度の増加と予測し、一日でも早く発行することを念頭にひたすら仕事を進めた。ページ数の大幅な増加に気づいたときには愕然としたが既に調整不能な過程にあった。
 今、全行程を省みて、時間と内容のみに気を取られ、担当として視野が狭かった、と反省すべき点は多い。結果的に予算を大幅に超過させ、会員諸氏に多大なご迷惑をおかけしたことをお詫びしたい。
 
 
 
纂委員会委員、各執筆者、事務局員…関係者に感謝
 編纂委員会では全体的構想をつくる際には建設的意見を沢山だしていただいた。また、各委員には原稿や資料の収集・整理に尽力いただいた。当初、中間時点での編纂委員会の開催も予定していたが、 実際には2回しか開催できなかった。各部門毎の作業進行にば
らつきが著しく全体的に協議する機会がもてなかったのがその理由である。
 大多数の原稿は締め切り日前後には届けていただいたため、編集作業を順調に開始出来た。原稿は何れも力作ぞろいであった。執筆された会員、執行部の方々には改めて感謝申しあげる。
 執筆者の中には担当事務局員が困惑するほど大量の資料の準備を求められたと言うが、事務局も的確に対応したと聞いている。
 担当として個人的には、集まった原稿を構想に沿って並べ、最小限体裁を整えれば出版できる、と比較的気軽に考えていたことは事実である。しかし、長沼委員長、福島副委員長、赤羽会員、校正担当の信太氏の考え方や粘りは私とはかなり異なっていた。度重なる小委員会は時として長時間に及び、 どうどう巡りもし、先が思いやられることもあったが、秋には会議を持つ度に良いものが出来そうな実感が得られてきた。
 レイアウトの調整、細かな表現法、字句の統一等は信太氏が、庶務的内容、校正の一部は畠山万喜子主事が担当してくれたので、編纂小委員会としては、特に通史を中心とした内容の論議に集中できた。
 昨年8月、記念誌は所詮過去の記録でしかないので編集は空しい作業である、と覚めた意見を述べたが、発行された記念誌を眺めると、当初の計画よりも遥かに良いものが出来たと実感でき、担当としては満足している。関係された方々には心から感謝申し上げたい。


・記念誌編纂作業は自分にとって何であったか
 担当として関与した作業の他に、「秋田県の医療の変遷」、「感染症対策委員会の活動」、「定款改訂検討委員会」、「年表から見た秋田県医師会と日本社会」を執筆した。資料の収集から始めたが、 医師会内に資料の体系的蓄積はなく、この20年間の医報480冊、代議 員議案書40数冊、県発行の医療統計数十冊、TBSブリタニカ年鑑等から地道に拾うしかなかった。約1年かけて2〜3回調べなおしたが、費やした時間は膨大なものであった。
しかし、この作業を通じて日本の医療界の流れ、県医師会の活動の流れなどを大まかにではあるが把握することができたことは、記念誌を担当しなければあり得なかった貴重な機会であり、大きな収穫であった。
 しかし、もう二度と同じ思いはしたくないし、どなたにもして欲しくない。それにはどうすればいいのであろうか。
 
 
 
・次の記念誌編纂は
 今後、もし記念誌を出すとすると節目から言って25年後の75周年と言うことになろうが、その頃日本はどうなっているのであろうか?医師会は?書籍の形態は?情報の蓄積は?… 時代の流れは早く、 予測は殆ど困難である。自分も多分生きていないであろうか
ら、先のことなど生真面目に論じてもしょうがない。
 記念誌を担当した立場から最後に言いたいことは、ただ一つである。先の巻頭言で述べた如く、節目ごとの記念誌編纂の意義も否定は出来ないが、それ以上に必要なことは、2年毎の執行部の交代時期に「県医師会活動のまとめ集」を発行することだと思う。実際に
役に立つ貴重な資料になるであろう。再度提起し、任を終えることとする。


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