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死生観

        
 仏教用語で人生には免れることのできない四つの苦しみがあるとされる。すなわち生老病死である。生まれること,年をとること,病気をすること,死ぬこと、これを合わせて四苦という。
 誰でも人は生きて死ぬ。
 赤ちゃん、幼児の屈託のない笑顔や行動はこれからの四苦を意識しない純粋な喜びの発露である。一方、人は誰でも齢を重ねるたびに四苦と対峙していく。これから逃れることはできない。

 誰でも、生きていること、死を迎えることについて独自の感覚、考え方を持っているだろうが、多くの方は形としては残していない。その点、死の直前まで考え生き抜き、文章に現してきた作家達の価値観に触れることはとても貴重な体験となる。
 私も死についていろいろ考えてきた。




死生観2003(1) :徒然草時代の死生観に思う. 定年退職後の再就職も良いんだけれど
死生観2003(2) :死生観は年齢によってどう変わっていくのか(1)
死生観2003(3) :死生観は年齢によってどう変わっていくのか(2)

死生観2006 :「特定健診・特定保健指導」(3)健康観・死生観

死生観2014(1):「医療否定」の考え方(5) 「否定本」はなぜ売れる?(2)死生観も関連
死生観2014(2):医療介護費用削減2014(8)日本人の死生観 輪廻転生
死生観2014(3):私は死をどう考えて来たか(1)
死生観2014(4):私は死をどう考えて来たか(2)幼少の頃
死生観2014(5):私は死をどう考えて来たか(3)祈祷の手にゆだねられたことも
死生観2014(6):私は死をどう考えて来たか(4)高齢者の自然死を見て

死生観2015(1):私はどんな状態で死にたいか  
死生観2015(2):独居老人は死に方を心配しすぎる 
死生観2015(3):楢山節考 深沢七郎著 新潮文庫1964年 高齢者の死生観はどう確立されたのか
死生観2015(4):吉村昭著「怒星」中央公論新社1999年(1)多彩な氏の作品群に驚く
死生観2015(5):吉村昭著「怒星」中央公論新社1999年(2)多彩な氏の作品群に驚く
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死生観2003

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死生観2003(1) :徒然草時代の死生観に思う. 定年退職後の再就職も良いんだけれど
 ふと思い出して、本棚に埋れていた徒然草を引っ張り出してみたら、やはり、当時の死生観がはっきりと出ていた。「・・・・住み果てぬ世に、みにくきを待ち得て何かはあらん。命長けば恥多し。長くとも、四十に足ぬほどにて死なんこと、めやすにするべけり」。?

 今から800年も前の死生観である。現代は「超高齢化社会」。今や「寝たきり老人」は100万人、「呆け老人」100万人、さらに「独居老人」も100万人。その年金や医療費の問題が喧しいが,どうなることか。答えは自明の理であろう。若い人たちの「核家族化」の傾向も大きくなっていくなか,高齢者達の「施設はいやだ。病院も嫌だ」の声も大きい。人間としての「ノーマライゼーション」には「在宅ケア」がいいという運動は大切だが、厚労省の介護保険の範囲では「独居老人」,「老人所帯」の在宅ケアは到底不可能であり,かけ声だけでしかない。??

 高齢化社会においては何事にも地域住民の社会的協力は絶対に欠かせないが,これがなかなか見えてこない。
 功をなし遂げて退職され,それなりの経済的保証を得た方々,特に退職した公務員の方々には,後進に道を譲っていただき,自身には是非とも地域のボランティア活動に参加していただきたいと思う。しかし,この様な環境にある方々ほど比較的簡単に第二,第三の職場が見つかるらしい。

 むしろ,生活のために働かなければならない厳しい状況の中で退職された方々にとっては就職難が待っており,職も得られないまま生活もみるみる困窮していっている。?? ヒトとはそんなに働きたいものなのだろうか?いや,働くことはボランティア活動でも出来ることだからそれ自体が目的ではないだろう。だとすればやはりお金かな???? 今後,新しい人生観が新しい社会とともに形成されていくであろう。

 最早『徒然草』の時代とは100%考え方が異なっている。しかし、「生ある者は必ず減する」原則に例外は絶対にない。いつの時代になっても人間にとって兼好法師の言うが如く「祇園精舎の鐘の声は、諸行無常に響く」のではあるまいか。それが時代と共に遅くなってきているだけである。高齢化社会はいいけれど、それだからこそいい年をして、いつまでも現役で働いていてないで,若い人たちにチャンスを譲ってはいかがか,と思う。

                               (2003/7/21)



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死生観2003(2) :死生観は年齢によってどう変わっていくのか(1)
 私は毎年春、彼岸の日には秋田市土崎港にある休宝寺という寺、ここに家内の妹が嫁いでいる、で講話をしている。
 最近若干若い方も若干増えてきたような気がするが,50人ほど,多くは檀家のご高齢の方々で,毎年同じような話を熱心に聴いてくれる。ここではあまり堅苦しい話はしない。医師の目から見た人生模様・・と言う感じで話す。

?? 昨日は義母の一周忌の法要があったが、病棟の患者さんへの対応が長引き,病院からそのまま車で出かけ、多少のアルコールも入ったために帰りは代行車を依頼した。その待ち時間をしばらく寺の茶の間で過ごさせていただいた。その時、住職から,私が「死戦期にみせる苦しみは周囲のものにとっては辛いが、本人は殆ど感じていないのだ・・」、と話した時に聴いていたある檀家のご高齢の方が,「あのとき講話を聴いて、本当に肩の荷が下りました。死ぬことは恐くなくなりました・・・」と後日しみじみと語ったという。

 何らかの意味で私の話で安息を得る方もいるというのは嬉しいことである。??
 どんな方も死は恐い,と言う。しかし、聞いてみれば本音は死ぬことが恐いのではなく死戦期の苦しみを恐れているのだ。現代医学はそれを更に,死を更に恐ろしいものに変えてしまった。??

 私は幼児期から虚弱で死というものは必ずしも遠い存在ではなかったし、家が医院であり医師である祖父に往診に連れられて患者宅で死を迎える患者や家族の様子などを垣間見てきた。当時の家庭における死は今から見れば良いものだったと私は思う。
?? 誰もばたばたとは苦しまない。静かな死であった。当然だ。当時は病気になったときに口から水分や食事を摂れなくなったら、あとは痩けていくしかなかったのだ。やがては脱水、電解質異常を来すことになるが、その結果,意識も徐々に落ちていく。あくまでも静かな死であった。患者は普段寝る為には使われることはなかったであろう座敷の中央に寝かされ、本当に身近な数人が取り囲む。居間や隣の部屋には家族や親戚、隣近所の人たちが静かにその時を待っている。そんな感じだった。誰しもその時を待ちながら,自分の死の時のことをしんみりと考えていたのだ。??

 今は,慢性的経過での死亡であっても高カロリー輸液で2000Calほどの栄養,アミノ酸・・・。みずみずしく死を迎える。健康な人の価値判断で駄馬に鞭を入れるような行為が当たり前。出来るだけ手を加え無い,自然に近い状態で限界を迎えたとき,それは人生の終末を意味するのだ。?
 私はそう言う「みまもりの医療」の視点をだいじにしている。
       (2003/9/16)




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?死生観2003(3) :死生観は年齢によってどう変わっていくのか(2)
 血液関連の悪性疾患、時に致死的となる疾患は他の疾患に比較して若年層にも多い。だから内科医として12-3歳頃の患者を始めとし、未成年、青年と随分若い患者も看取ってきた。
 患者の死を迎える度にいつもこの患者にとっての人生は?死とは?と、ある種の感慨にしばし浸るのが常である。
?? 医学生の時に、若年の患者ほど迫り来る不本意な死を受け入れること出来ずに懊悩するものと思っていたが、実際には未成年が死を迎えるとき生に執着する姿を見せることは少なかった。親兄弟との別れの範囲での悲しみが主である。

 一般的に子供達にとって若ければ若いほど死は全く他人事で、自分のこととは思えないようである。それは当然かもしれない。身近な人の死を何回か経験し、人はいつか死ぬものであると徐々に理解して来るのであるが、それでもなお、自分が何時かは死ぬべき存在であるとは考えられない。ましてや最近は子供の間に生老病死を間近に見ることが少なくなっているから尚更であろう。??

 自ら社会人となり、家庭を持ち、人生に責任を持つようになって、死の現実性、重大性を認識させられる。この頃の死は失うべきことが大きく、深刻なのであるが実際には未だ自分の死はあり得ないほど遠い存在であり、例え人間ドック等で生活習慣病等の異常を指摘されてもそう深刻には考えない時期である。この時期の方が思いがけず死の淵に立ったとき、その精神的な苦痛はとてつもなく大きい。ヒトは如何に個が大事、権利が大事と論じてみても、実際には個なんかでなく社会的動物なのだと思う時期である。

?? 老化するに及んで本当に自分の死を考えるようになるが、徐々に生きることへの執着心が芽生えてくるようであり、自ら死にたいとは思わなくなる。更に老いて、心身の衰退に直面して来ると死を身近に考える。そして何とかこれを避けたいと願望するようになり、この頃から健康法とか、医療について真面目に考える時期である。

 ますます老いて心身共に意の如くならなくなって、迫りつつ死を不動の運命と思うようになる。しかし、どこかまだ他人事の意識を拭い去ってもいない時期で、笑いながら何時死んでも良い等と軽く口にする。?? いよいよ老いて一挙一助思うに任せなくなって、不本意ながら諦めざるを得なくなって、初めてどうにでもなれの心境となる様である。世の中に自ら適応出来なくなり、心身の老境を自覚し、死後のことをを真剣に考えることになる。更に、毎日の生活そのものに身体的苦痛、心理的苦痛を直感するばかりとなり、何事にも明日を考える予猶などなくなる。しかも、最後まで心身の苦痛さえとれればと夢想するが、やがてこれも避けられないと納得するようになると、ただ死にたいと願うことになるようだ。同時にこの頃から痴呆症状が現れるために種々修飾されていく。

?? 自分にとって身近な現象の内、全く例外が無く、最も納得し易いことはヒトは何れ必ず死ぬと言うことである。この世の社会一般の考え方として、健康で長生きすることが良いことであり、医師は延命に務めるべきと見る考え方がある。もう少し自由の世界があって良いのではないかと思う。もう幾ぱくも無い命と知りながら、社会通念で、健康な家族達、時には他人の価値観で無理に生かされている人実に気の毒な人達がいる。こういう時に、法律がどうのこうのというのはどんなものだろうか。
                                (2003/9/17)




死生観2006
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?死生観2006 :「特定健診・特定保健指導」(3)健康観・死生観
 生活習慣病予防のための生活指導は実際には効果は乏しい。職業柄、生活指導は随分熱心に行っているが、大きな成果は期待していない。実際のところほぼ匙を投げている。指導で一番効果的な台詞は「ならば、好きなようにしなさい」である。半ば強迫である。??

 最近は業務に準備の隙間を作れないために全てお断りしているが、かつては県内方々の地域住民や企業の依頼で健康に関する講演や講話をしてきた。医師は診察に訪れた患者だけを対象に診断治療をしていてはだめで、疾病予防のための知識啓発は重要だとの視点に立っているからである。??

 その際に、私は「健康維持のために、あれも駄目、これも駄目・・」と言う論旨では行わなかった。「一人一人が、自分の行動に責任を持つ事。誘惑の多い現代を健康的に生きるには自制が必要。それが出来ないのであれば、自分は生活習慣病で死ぬのだ、と言う気概を持って自制などせずに堂々と好きなように生き、死ねば良い」と述べてきた。だから、私の演題は「不健康に生きるには」である。

?? 日本は、恐らく世界的に見て健康維持の面で最も恵まれた国だと思うが、国民の健康不安も世界一だと思う。中年以降の殆どの方は「健康追求病」にかかり、「健康不安神経症」的である。飽食、運動不足で身体は悲鳴を上げているのは確かだが、生活を変えることそっちのけで医療機関を受診し、検査を求め、数値に一喜一憂し、投薬を求める。

?? こんな方々は受診前にしなければならないことが多々あるが、一方では医療機関もこのような患者をも診療対象にしなければやっていけないという苦しい事情もあって互いの思惑は一致し、双方で手を取り合って医療経済をダメにしている。私はこのような患者への対応で連日疲弊している。これも地域への貢献の一つさ、と割り切り、空しく笑うしかない。

?? 総じて言えば、都市部の高齢者は生き生き、コロコロで遊び歩くのも積極的である。「まだ死にたくない」、というが、意外と心血管系の疾患でコロッと死ぬ。一方、田舎の爺ちゃん婆ちゃん方は質素で謙虚、「もう何時死んでも良いです・・」と淡々と言いつつ畑作業を楽しみながら、徐々に枯れて行く。それでてなかなか死なない。?? 私に言わせれば、どちらも完成品、良い人生なのだ。「特定健診・特定保健指導」の成果や如何に。

                              (2006/9/26)




死生観2014
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死生観2014(1):「医療否定」の考え方(5) 「否定本」はなぜ売れる?(2)死生観も関連
 日販によると近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」が昨秋売り上げの総合2位に入った。このような「医療否定本」が何で売れるのか、を考えてみた。一つの理由は医療不信、医師不信にある。
 
 もう一つは「高齢者の医療観、死生観」の変化にあると思う。

 この5年から10年の間に日本人は80歳から90歳間で生きるのが標準になってきている。「人生60年」の頃には一線を退いてから10年前後で死を迎えるのであって「まだ死にたくない」が希望であった。いまはTVとかに登場するかくしゃくたる高齢者をちらちら見ながら、「ボケるのだろうか?いつ死ねるのか?そのときには楽に送ってもらえるのだろうか?」が最大の心配事、関心事になっている。
 子供たちも大変である。川柳に「親孝行したくないけど親がいる」、「親孝行し続けるには長過ぎる」などがある。

 私は極論を言えば、慢性疾病や自然経過で生命力が下り坂にある高齢者にはもはや医療は必要ないと思っているし、亡くなった場合にも葬儀などは必要ないと思っている。

 高齢者の死はもはや時代の変遷とともに「社会的な死」から「個人的な死」に変った。例えば「90歳」の高齢者の死は葬儀をしても参列者がいない。お知らせをいただいても弔う気持ちよりも、迷惑だと思う。

 葬儀のルーツは何かというと、日本の農村社会の再編成に関連がある。16世紀頃農業は有力農民を中心に横並びの協同が必要な社会関係に変っていったが、この構造が長い間日本の社会の基本形となった。村落共同体にとって構成メンバーの死は決定的に重大な出来事であった。死者の働きをたたえ、遺体を丁重に処理し、葬列を組んでみんなで墓地に行き、墓を掘って埋葬する。その後には法事が続く。これらの一連の行為は、新たな人間関係の再構築の確認作業であった。共同体の構成単位は「家」であって、葬儀や法事はとても重要な位置づけであった。もう今は時代が違う。高齢者の死は純然たる「家庭内の問題」である。社会的には人間関係の再構築など何もない。

 社会的には死についての考え方が大きく変わった。高齢者の死生観も変わってしまった。にもかかわらず医療の中身はどうだろうか。かなり変りつつあるが、それは医療経済の立場からの高齢者軽視の結果である。私は年齢に関わらずそのヒトなりの「個人」の生き方、死に方があってしかるべきでないかと思うし、医療はそれをサポートするものだと思っている。

 今の医療は個々の患者は尊重されていると言えるのだろうか?
 患者たちは医療制度、自己負担額、病院のシステム、主治医に対してすら内心不満を持っている。本心では「医者になんか掛かりたくない」のだが、さりとて医者通いをやめる勇気もない。こんな時にふと目に止まるのが「医療否定本」である。これを読んで「そうだそうだ」と溜飲を下げる。そして「明日はA病院か」、「来週はB病院か」と、カレンダーにつけた赤丸を確認する。もとよりこんな本を読んだからと言って通院をやめる気はない。それが当たり前の患者の姿である。
 
 だから一部の信奉者の除き、「医療否定本」には実害がない。

                               (2014/2/6)


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死生観2014(2):医療介護費用削減2014(8)日本人の死生観 輪廻転生
 8月は、お盆があり各家庭で死者を迎える行事を行い、墓石に手を合わせ、荘厳な雰囲気の寺の本堂でご先祖を偲ぶ。ヒロシマ・ナガサキに原爆が落とされ、秋田の土崎に空爆もあった。終戦も迎えた。多くの方々が亡くなった。240万ともされる戦没者に思いを馳せ、靖国の意味についても考える。

 こんなことを通じて、おのずと「死」と言うテーマが身近に感じられる月である。

 日本は2005年から人口減少社会に入った。人口問題研究所の推計によると、高齢化は一層進み、05年に約108万人だった死亡者は40年ごろには170万人になる。

 戦後のわが国の社会、特に高度成長期を中心に「死」というテーマを忌避する傾向が強くなった。

 当時日本は右肩上がりの高度成長の時代を迎え、すべてがスケールが大きくなり、スピードは速くなり、個人の生活も豊かになった。この時代に社会に出て、身を粉にして働いた、いわゆる団塊の世代の方々にとっては人生の設計は直線的に右肩上がりであった。

 この年代の方々は、自然を改造し、自動車を手に入れて移動も便利になり、家事は電化し、暖冷房を含め生活環境も自由に調整出来る様になった。同時に、国民皆保健制度が作られて安価に医師にかかれる様になり、医療医学が発展し、従来であれば救命出来ない様な重症な患者が助かる様になった。わが国の平均寿病も急速に伸びた。
 
 その結果、生きていることのリアリティーは喜びとともに十分に味わうことが出来たが、「死」ということの意味がよく見えなくなり、生活上の「死」の実感が希溥になった。このことはある意味で、戦後から現在までの日本人全体の生命観や死生観について影響を与えてきた事態である。

 私など、診療や講演を通じて「人は何れ弱って死ぬ。あなたも、高齢のご家族も死にます。今迄死ななかったヒトは一人もいません」と説いてきたが、さっぱり効き目が無かった。

 高齢者の医療費は若年者に比較して著しく高額である。高齢者は疾病罹患頻度は高い。当然である、われわれは生まれ落ちたときからひたすら「死」に向かって生きているからで、高齢になった状態では疾病罹患頻度は著しく高く、その中には若返りしなければ改善が望めない様な、要するに検査・治療を重ねても意味を持たない様な疾患や状態が多数含まれる。

 いのちの問題を医療介護費用削減の項目に含めるのも何であるが、高齢者医療の考え方を、いのちに対する考え方、死生観を変えていかなければ解決出来ないと思う。

 政府は医療費を、特に高齢者の医療費を出来るだけ縮小しようといろいろな策を提起して来る。しかし、制度や経済の締め付けだけからの発想は高齢者いじめにも繋がるし、社会のひずみを拡大することになる。

 いのちを緩やかな曲線ととらえ、何れは元に戻って行くと言った発想でとらえなければならない。医療費の面からとらえるのではなく、「死」がもっと身近にあった時代の感覚に回帰することでもある。これは退歩ではなく、新たな進展なのだ、ととらえたい。
(2014/8/28)


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死生観2014(3):私は死をどう考えて来たか(1)
 8月は、おのずと「死」と言うテーマが身近に感じられる月である。

 私は幼少の頃虚弱でうまく育たないだろうと言われながら育ったので、死についてずっと感心をもっていたし,自身の死についても常に想定して来た。結果として途中でこける事も無くいい年まで生きたが、この時期は特別な感慨を持って自分の死についても考える。

 私は郷里の盛岡近郊に墓がある。割には私は両親、祖父母の霊に関して丁重に扱っているわけではない。私は、死ねば無、と考えている。そんなことで、実際には郷里を訪れ墓参するのはここ20年ほどは年に一回だけとなっていた。

 また,盛岡市内には実兄が住んでいる。数年前までは墓前で兄の家族とも合流したが、ここ数年は兄の体調の関係で墓前で会う事は無くなった。だから、私の方が墓参の度に兄宅を訪問して半時間ほどであるが親交を温めている。

 今年も、秋田に戻る途中で兄宅を訪問した。11歳上の兄は在宅酸素療法を行っている。兄の様子は比較的良い状況で、当面、何か大事が無ければそう危険な状況にあるとは思えなかった。

 一方、私は発作生心房細動を抱え、脳塞栓も経験した。幸い目立つ後遺症も無く改善したが、MRI像を見ると左側頭葉に大きな脳梗塞像が残存しており、微小な梗塞巣が無数にある。脳全体も萎縮している。この自分の脳の画像を見ると、これが自分の脳か、と呆れるほどである。多彩な症状を持つ患者の脳の方が立派である。いつ同じ様な発作を来すか分からない。

 「お互い,病気をかかえているから、間もなく死ぬかも・・」と言いながら、「来年の再会」を期して兄宅を辞した。現実に生きて会えるか否かは分からない。ホンネである。

 幼少の時から私は死をどうとらえて来たのか,医師になって患者のいのちと死にどう対峙して来たのか、齢を重ねて自身や家内の体調も変調を来しているなど、死が一層身近な問題になりつつある今、私はどう考えているのか,そんなことを見直すのも面白い様な気がする。また,見直す過程で、私に看取られた多くの患者,今、外来で診ている患者の事についても考える事になるだろうから意味ある事と思う。

 ちょっと敬虔な気持ちに私を誘ってくれる8月も間もなく終わる。
(2014/8/30)

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死生観2014(4):私は死をどう考えて来たか(2)幼少の頃
■虚弱児
 私は1945年年生まれである。人は生まれて来る時代、場所,親などを選べないが,私はたまたま医師の家庭で生まれた。戦時下であること、母が11年間も間をあけてからの妊娠であったこと、などで約2000gだった。相当な難産だったらしいし、母乳も十分出なかったらしい。当時はミルクとて無く、重湯、山羊の乳、牛乳で育った。そのためかいつも不消化便を出していたという。生まれた当初は体温の維持のためガラスの水槽に電球を入れて即席の保育器をつくりその中で育ったという。

 もし医師の家庭で出生していなければ確実に死んでいただろう、と子どもの頃いつも聞かされて育った。物心つく頃までにも何度か死線をさまよったと言う。この様なことを聞かされる度に生きているか死ぬかは紙一重の差の様なもの、と感じていた。だから具合悪くて寝込んだ時などには「これで死んでしまうのか?」と思っていた。別に「死ぬのが怖い」とかの感覚は無かった。

 私は生きる事にそれほど執着が強くなく諦めが早いが,これはこの時期に培われたのかも知れない。この考えは医師になってからも変わる事は無かった。

■小学校低学年で臨死体験? 
 私は背は順調に伸びたがやせこけて,見るからに腺病質で虚弱な子供であった。幼少の頃は気道系、胃腸系が極度に弱く、小学校の頃は冬季間、特に正月を元気な状態で迎えたことは殆どなかった。お手伝いさんに背追われて登校した記憶も残っている。当時,小学校は職員室に顔を出せば欠席扱いにならなかった。

 当時,抗生物質のはしりであるクロラムフェニコールが実用になった。医師である祖父は適宜用いてくれその度ごとに病状が好転し、このチョコレート色の錠剤は自分にとっては救世主のように感じられたものである。

 小学3年の頃のことと思われるが、急性気管支炎、急性胃腸炎で危機的状態までいったことがある。恐らく脱水などであったと思うが意識も朦朧とし、祖父も今度こそダメかもしれないと言われたらしい。譫言でクロマイ、クロマイと欲しがったそうである。

 このとき家族が見守っている中、自分の「たましい」が身体から抜けて、独り小学校に遊びに行った夢をみた。暗い静かな道路を歩いていくと学校についた。校門から校庭を覗くと校庭はお花畑に変わっていた。一面、黄色の花で覆われ実に美しい光景であった。何度か逡巡した後、思い切ってお花畑に入っていこうとしたが、なかなか足が運ばない。そのうちに、遠くの方で母親から名前を呼ばれたので,校庭に入るのを諦めて家に引き返した。自分が寝ている周りに家族が心配そうに私を見つめている中、私は気づかれないようにそっと自分の身体に戻った。苦しくも痛くもなかった。この時から、「昇天する」と言う事はこんなに気持ちのいいものなのか?と思うようになった。

 成人になってからであるが、この時の体験に関連した文献や書籍を読んだ。いわゆる臨死体験と言われる現象に似ている。体験談などを読むと黄色のお花畑がほぼ共通している様である。立花隆氏の「臨死体験」は参考になった。このような臨死体験現象は一定の条件下で生じる脳の生理現象と考えられている。
(2014/8/31)


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死生観2014(5):私は死をどう考えて来たか(3)祈祷の手にゆだねられたことも
■医師の祖父も諦めた? いや、自然に任せたのだ
 小学3年の頃のことだったと思われるが、急性気管支炎、急性胃腸炎で危機的状態までいったことがある。大量皮下輸液もやっていたから恐らく強度の脱水などもあったと思う。意識も朦朧とし、譫言でクロマイ、クロマイと欲しがったそうである。祖父も今度こそダメかもしれないと思ったらしい。いわゆる臨死体験と言われる現象を経験したときである。

 祖父は本当に駄目か、と思ったらしい。その時、祖父は使用人の一人を遣わして恐山のイタコに願をかけさせたという。イタコは「約10日で回復し床離れが出来る。その後は徐々に丈夫になるだろう。それ迄の毎日、祈祷した紙切れを切って湯のみに浮かべて飲ませる様に」、と告げた。私はその予言通りに回復し、丈夫になった。 
 
 「臨死体験」も「イタコ」も余りにも出来すぎた話であるが、祖父は自分の経験から困難な状況であると悟り、それ以降は「自然の摂理に任せる」と選択したのだろうと思う。当時はそれほど治療学があったわけではない。苦渋の判断だったと思う。私はそう思ってきた。

 この様な経験を背景に、死ぬのは「昇天する」のであって、苦痛などを伴わず意外と気持ちのいいものなのでないか?と思うようになった。私は医師になってからも回復が困難と思われた状況の患者には「みまもりの医療」の視点を大事にしてきた。

■医師である祖父にもらった「いのち」、と容貌
 生まれた直後の危機の何とか乗り越えられたのは祖父の力が大きかった。その時点で私は「無」になっていた可能性がある。

 もう一つは3歳の頃、私はお茶を飲みながら部屋を歩いていた時に座布団につまずき、鼻に怪我を負った。鼻尖から大きく裂け目が入って遊離し、左の鼻翼で皮膚一枚でかろうじてついていたと言う。産婦人科医・外科医であった祖父は小さな子どもの鼻を形良く修復し、細かく縫合した。小さな鼻で治療は困難だったと思われる。その後も成長と共に鼻の形が崩れることも無かった。

 今でもかすかに傷跡として残っているが、もし、この傷が順調でなかったら私の人生はどうなっていたことか。勿論、形成外科的に対応出来たではあろうが、その必要も無かった。

 医師の治療対象は決して「いのち」だけではない。祖父はこのことも教えてくれた。
(2014/9/3)

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死生観2014(6):私は死をどう考えて来たか(4)高齢者の自然死を見て
 私の家は盛岡市郊外の片田舎の開業医であった。昭和27年診療所及び住宅が貰い火で全焼した。医師である祖父はガックリと力を落とした。私には11歳年上の兄がいて、兄は医学部進学受験を目前にしていたが、祖父は兄の進路を自由に選択させた。兄は嬉々(?)として工学系の道に進んだ。

 祖父は、まだ小学校低学年の私に徐々に有言無言に医師になるようプレッシャーをかけた。兄を医師にしなかったことを後悔していたのであろう。

 昭和30年代の頃の記憶である。当時小学生であった私を祖父は時々往診に連れて行ってくれた。祖父はかつては馬にまたがり往診していたが、高齢になってからは近所のオート三輪のホロ付き荷台に、冬期間は迎えにきた馬橇に乗って往診した。そんな時、時に私を往診に連れて行ってくれた。

 当時、貧しい農家の高齢者が自宅で死を迎えた。そのうちのホンの数人ではあるが、その様子などを垣間見てきた。死期を迎えた患者は、座敷の中央に寝かされ、身近な数人が取り囲んでいた。居間や隣の部屋には家族や親戚、隣近所の人たちが静かにその時を待っている。そんな感じだった。誰しもその時を待ちながら,旅立とうとする患者や自分の死の時のことをしんみりと考えていたのだ。

 当時の家庭における死はすべて自然死であった。途中の経過は知る由もないが、意識も無い状態でむかえる静かな死であった。当時は口から水分や食事を摂れなくなったら、あとは痩けていくしかなかった。やがては脱水、電解質異常を来すことになるが、その結果,意識も徐々に落ちていく。あくまでも静かな死であった。

 その祖父は私が小学5年の時に自宅で死亡した。いい死であった。これ以降、祖母の死まで直接ヒトの死に接することは無かった。

 高齢者の自然死を通じて、死は決して恐れるものではない・・私は何も分からなかったが、印象としてはそんな感じだった。
 祖母は、私が「医学部に進学するのを見届ける迄は死ねない・・」、と口癖のごとくに言っていたが、私が新潟大学に進学した年に本当に死んでしまった。岩手医大に入院、点滴の日々で、高熱で苦しんだ、と言う。家族は短時間しか面会出来ず、私は言葉を交わすことも無かった。

 祖父と祖母の死に時代の差を感じた。近代的医療を学んだ今も自然死の良さが頭から離れない。
(2014/9/4)




死生観2015
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死生観2015(1):私はどんな状態で死にたいか 
 私はとても恥ずかしがり屋である。衆目の視線には辛い。
 私はとても恥ずかしがり屋である。衆目の視線には辛い。
 現役の時には大勢の方々を前に挨拶とか講演をこなしてきた。インフルエンザの時期にTV出演も少なくなかった。これらは私にとっては針の筵のような辛い仕事であった。リタイヤ後これらからの解放は大きな喜びの一つであった。

 私はかつて勤務していた病院の外来診療のみ続けているが他の活動は一切行っていない。髪も髭もボウボウで見てくれも変わったし、ほとんど忘れられた存在になった。半ば死んでいるようなものだ。これぞ私の理想とするところであり、時とともに確実にそれに近ずいている。

 次にちょっとだけ注目されるのは死ぬ時だろうかな、と思う。とはいっても関心を持つのは家族ぐらいなものである。こんな性格だから、私は死ぬ時もひっそりと一人で死にたい、と思っている。 

 約3週間前に実兄が死去したが、奥さんが外出中の時間帯に死亡であったという。まさか死亡するなんて・・と嘆いていたが、私は報告を受けた時に、これぞ理想的な死に方だ・・と羨ましく思った。

 よくわからない習慣だが、わが国では「死に目に会う」ことの意義がことさら強調されてきた。今でもそうである。日常、施設に預けっぱなしでロクに世話しない子供達ほど「親の死に目に会う」ことにこだわる。中には東京にいる子供達が来るまで人工呼吸器とかつけて延命させといてくれと家族から懇願されることがある。私はそれは「最大の親不孝となる」と説得しお断りする。親孝行は親が元気なうちに、互いに感じ会えなければ意味がない。臨死状態で改めて会っても何にもならない。この辺のことは映画やドラマで美化され過ぎている。

 私は医師の立場で大勢の方々の死を看取ってきたが、「死に目に会う」ことの意義をほとん感じない。死の瞬間など意味はそれほどない。

 私の場合、まだ70歳と常識的に見ればやや若いから、新たに起こった急病や急な変化の時はなんらかの処置がされるだろうが、それでももう元に戻らないだろうと判断された際、あるいは慢性病で緩徐に朽ち果てていくような場面では、すべての医療的処置を中止して一人にしておいて死ぬのを待って欲しいと思う。食事も水分も、酸素も不要。それでも死ぬまでに時間がかかるようなら自宅に運んで欲しい。死を待つ家族には、番をする一人を残して日常と同じ生活をしていて欲しいと思う。

 そんな死に方を夢想して一人でにやけている今日この頃である。
(2015/1/30)

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死生観2015(2):独居老人は死に方を心配しすぎる
 日本人は80歳から90歳まで生きるのが標準になってきている。それに伴って「高齢者の医療観、死生観」に変化が生じている。

 「人生60年」の頃には「まだ死にたくない」と生きることが目的であり、希望であった。
 いまでも本音は「死にたくないには変わりない」のだが、「ボケるのだろうか?」、「いつ死ねるのか?」、「もうここまできたらいつ死んでもいいが、そのときには楽におくり出してるもらえるのだろうか?」、「・・・」が最大の心配事、関心事になっている。
 
 私は極論を言えば、慢性疾病や自然経過で生命力が下り坂にある高齢者にはもはや医療は必要ないと思っている。要するに不要に医療が介入する死よりは自然死が良いと思っている。実際、医療を介入させてもそれほどの効果がないし、時には患者に苦痛の時間を延ばすだけでしかない。

 だから、私が担当している外来では医療や治療に関することよりも「死」に関する話題で話すことが多い。尤も、外来に通って来られる方々だから死が差し迫った状態にあるわけではない。私自身が「自分の死」に関心があるだけでなく、いつお迎えが来てもおかしくない年齢の患者の方々に少しでもいい最期を迎えさせたくて、医師の立場から意見を述べている。もう20年も前から続けていることであるが、当初は「死」に関する話題に抵抗があったが、徐々に受け入れられるようになってきた。

 高齢者の死はもはや時代とともに「社会的な死」から「家族内の死」、さらに「個人的な死」に変った。

 ところで、阪神大震災、東日本大震災の仮設住宅等を中心に孤独死が社会問題化している。これは災害復興の有り様にいろいろな示唆を与える事象である。これについては考えるべき部所で考えてもらいたい。

 ところが、一般社会においても孤独死が問題化している。2013年のデータでは東京都で3806人が誰にも看取られず死亡している。日本では2013年の時点での65歳以上の単身世帯が26%、夫婦二人だけの世帯は31%である。後者の方々もいずれは片方が欠けて単身世帯となる。秋田の現状はどうか??いま手元にデータはないが似たようなものだろう。

 孤独死を社会問題として捉え対策を考える必要はあるだろう。これについても考えるべき部所があるはずだから対策は考えてもらいたい。
 
 私はそれ以前に独居生活には孤独死をとげるかもしれない、との覚悟がいると思う。

(2015/2/5)




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死生観2015(3):楢山節考 深沢七郎著 新潮文庫1964年 高齢者の死生観はどう確立されたのか
 私の身近に捨老の習慣に関する書籍は3冊ある。私は今回、食料もなく貧しかった時代、高齢者の死生観はどう確立されたのか知りたくで以下を読み直した。
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 (1)食料が少なく生きることが困難であった時代、各地に捨老の習慣があった。それを紹介したのが柳田國男の遠野物語である。老人の共同生活の場所である「デンデラ野」に入った老人たちは身を寄せ合って生き続け、体力があるものは日中は里に下りて農作業を手伝い、わずかな報酬を得て日暮れとともにデンデラ野に帰る。そんな日々を送りながら自然死を待ったのだという。
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 (2)捨老の習慣を題材にした新しい書籍として、平谷美樹著「でんでら国」が本年小学館から発行された。ここには老人達が最後を迎える理想郷として「でんでら国」が描かれているが、老人達は時に積極的に団結して生きるために活動する姿も描かれている小説である。
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 (3)信州の捨老の習慣を題材にした深沢七郎(1914-87年)著「楢山節考」は名著の一つとしての知られている。
 本書は「山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりである。この信州の山々の間にある、向う村のはずれにおりんの家はあった」で始まる、老人を山に捨てる「うぱ捨て伝説」をもとにした小説だ。
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 おりんは69歳。この村では、70歳になると「楢山まいり」に行くことになっている。貧しい村なので、老人は口減らしのために楢山に捨てられる。おりんはもう覚悟はできているし、そのための準備も進めてきた。山に行く前にふるまう料理や濁酒も、山で座るためのむしろも用意した。息子の辰平の妻は栗拾いの時に崖から転落して死亡、その後妻をどうするのか心配だったが、隣村で辰平と同じ年の未亡人が出た、ということでそれもなんとかなりそうだ。この山村の中の結婚のしきたりも不思議である。

 辰平に後妻を迎え安心したが、もう一つ気がかりなのは、自分の歯が丈夫なこと。食料の乏しいこの村で、年寄りの歯が揃っているのは食い意地をはっていることになり、恥ずかしいことだ、とされている。おりんは火打ち石で自分の歯をガッガッとたたく。
 我慢してたたき続ければ、そのうちに歯が欠けると思ったからだがなかなか抜けない。おりんは祭りの夜、意を決して石臼の角に歯をぶっつけた。大量の出血とともに2本の前歯が落ちた。おりんは喜び勇んで村人たちに見せて回った。口から血を流し凄惨な形相で村人たちを驚かせた。
 もう一つのクライマックスは、おりんが捨てられる場面。息子の辰平は、張り裂けるような気持ちでおりんを背板に乗せ、楢山に向かう。山には白骨化した死体、腐乱死体も所々にある。死体をつついているカラスが動く度に屍体も動き辰平の歩みは時折とまった。

 やがて、おりんが背板から降りるときがくる。おりんは息子の手をにぎり、それから、その背中をどーんと押した。山では喋ってはならない。老いた親を捨てて帰るときには、ふり返ってはならない。辰平は降りる途中死体に足を取られて転倒、死体の顔に手をついた。その死体。そのの首には細い紐が巻き付けられてあった。「俺には、出来ない!!!・・・」

 空から白いものが降ってきた。辰平はそれを見て村の掟を破り一度捨てた母のところに戻り、こう言ったのだ。「おっかあ、雪が降ってきたよう」。しかし、おりんは言葉も発せず、帰れ帰れと手を振るだけであった。

 人間の残酷さと親子の情愛とが交錯する。そんな人間の姿を、見つめたこの作品の迫力は読み始めたらやめられない。

 日沼倫太郎氏の巻末の解説によると、作者の深沢は42歳のときに「楢山節考」で第1回中央公論新入賞を受賞した。この作品は三島由紀夫ら同時代の作家たちに大きなショックを与えたらしい。特に、作家で評論家の正宗白鳥は「人生永遠の書の一つとして心読した」と絶賛した、とい記述している。

(2015/3/10)

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死生観2015(4) 吉村昭著 「怒星」 中央公論新社 1999年(1) 多彩な氏の作品群に驚く
 作家吉村昭氏の作品は『三陸海岸大津波』を含め10数冊は読んでいる。
 圧巻は昨年10月に読んだ「戦艦武蔵」。武蔵に感心するとともに作家吉村昭氏の情報収集、構成力に深く興味を抱いた。戦艦武蔵は大和と同型の二号艦であるが、大和の陰に隠れて知名度は今ひとつである。私はあえて武蔵に注目した氏の慧眼に恐れ入った。氏は建造される過程から撃沈されるまでの過程を精緻に描いた。武蔵は戦闘にほとんど参加することなく昭和19年10月沈没する。戦死者は全乗組員2399名中1023名、生存者は1376名。その乗組員の表情や苦悩についての記述は詳細であった。
 今年3月、フィリピン沖で戦艦武蔵が発見されたというニュースを知って私は再度ざっとみ見返した。
 氏の文学は歴史、戦記、実録、時代短編など多種多彩である。作品のリストを見ると優に100冊に及ぶ。どんな毎日を送っていたのか??驚くばかりである。
 その中に長編小説、短編小説集もあった。吉村氏の随筆や短編現代小説も愛好されている。このジャンルは今まで読んだことはなかった。?

 本書「怒星」は晩年の短編集で(1)「飲み友達』、(2)『喫煙コーナー』、(3)『花火』、(4)『受話器』、(5)『牛乳瓶』、(6)『寒牡丹』、(7)『光る干潟』、(8)『碇星』からなる。
 共通して、人生の黄昏、定年退職者が感じる老年の孤独がテーマとなっている。

(1)飲み友達』は会社の上司が定年退職に際して後輩に飲み友達として女性を紹介してから去っていく話。描かれた女性の表情がいい。

(2)『喫煙コーナー』は定年後することもなくショッピングセンターに集まる高齢者数人と、そのうちの一人の変わり者の弟の死をめぐって互いに孤独死に近い状況で死を迎えるだろう、と認めあう。弟の、誰もあてにしないという生活行動に私は共感した。興味深い作品であった。

(3)『花火』は自分の肺結核の手術を担当医出会ったある大学教授の病気見舞いと死去に際しての話が中心。この編では1945年9月に東大分院で肺結核への胸郭成形手術を受け、左胸部の肋骨5本を切除した作者自身の体験が語られる。

(4)『受話器』は友人にいつ電話をかけても本人が出る。友人は離婚していたとわかったが、しばらくしてその友人は再婚した。それでも電話には本人が出る。その友人は間も無く死亡した。その時、再婚後も間も無く離婚していたことを知る。離婚を告げられなかった友人の心理が興味深い。

(5)『牛乳瓶』は満州事変の直後田舎の牛乳屋店主に召集令状が来た。店主は若い妻と生まれたばかりの幼児を残して出征する。やがて戦死の報が届く。当時の出征の様子、残された家族の生活、戦死の報が届いた後の家族の生活が描かれる。
(2015/6/25)

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死生観2015(5)  吉村昭著「怒星」中央公論新社1999年(2) 作者の死生観を知る作品

(6)『寒牡丹』は定年退職を迎えた主人公の妻がその日の夜、「自分も家庭生活からの定年退職させていただきます」と宣言し、退職金の半分を持って翌日家を出た。主人公にはどんな理由があるのか理解できなかったが、受け入れるしかなかった。一人娘の結婚式には約束通り出席した。わずか3ケ月しか経っていないが元妻の額と目尻にシワが刻まれ、艶のない年相応の老けた女に見えた。老夫婦の感情のすれ違い、これは決して他人事ではない。人間関係が希薄になると見てくれの印象も変わるものである。

(7)『光る干潟』の主人公はホテルのヴァイキング料理に強い抵抗感を持っている。彼は自分で好みの食品を選んでとってくるという行為に、戦争後の食糧難の忌まわしい記憶があるからだという。
 私もヴァイキング形式のレストランは好まない。好みで食事内容を選んで来るよりは、一定の決まった定食形式?にセットされた食事を好む。最近のホテルの朝食はほとんどがヴァイキング形式になっていて残念である。私の場合には幼少時、謹厳な祖父から出された食事は好き嫌いにかかわらず全部食べるように躾けられたためだと思う。今でも食事に自分が食べたいものを希望することはなく、用意されたものを粛々と食べる。
 この作品は主人公の家族旅行の様子がメインである。
 ここにも作者の体験した結核の手術治療の場面が出てくる。あのとき死んでいれば今の家族は存在することがなかったのだ、と感慨に耽る。私も、何度か死線を越えたが、幸い生き長らえることができた。生きて何をしたのかと自問すると、結局は、孫を含めた家族をもうけたことだけだな、と感慨に浸る。私がいなくとも家内は別な人生を過ごしえただろうが、子供達や孫たちは存在しなかった。これが私の生きた証である。私がはっきりと言えることはこれだけである。結局、我が家に寄生し、次々と子を孕むネコと大差ない。

(8)「碇星」。碇星は星座のカシオペアを構成する5つの星のこと。会社で葬儀関係の仕事を行っている主人公は定年退職して自適の生活をしている職場の先輩に呼ばれた。先輩は夜に天体を眺めていると死に対する恐怖が薄れてくる、と言う。主たる依頼内容は、「小窓のない棺」を用意してほしい、という内容であった。自分の死に顔を人目にさらすことは耐え難い、との発想であった。
 私もこの発想に同感である。いや一歩進んで病床で死の迎える際には誰にも周辺にいて欲しくないとまで考えている。いよいよ近くなれば駆けつけた家内や子供たちも家に戻って連絡があるまで待機してほしいし、医師も看護師も側には不要である。心電図のアラームだけでいい。
 吉村昭著「怒星」は8編の短編小説で構成されている。主人公はいずれも定年退職を迎え、寂しさ、孤立感、老化と死を迎える準備が主題となっている。
 氏は最後を迎えようとする病床で、点滴の管を引きちぎって死を迎えた、という。これにも共感できる。
 氏の小説は今回初めて読んだが、私にとってもいいテーマであった。

(2015/6/26)







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