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脳梗塞体験記

       


 私は2012年11月4日(日)、突然脳梗塞を発症した。意識障害も伴い、意識が戻るに連れ右半身が完全麻痺となっており、言葉が一切出なかった。救急室では血栓溶解療法は行わず、ICUにてヘパリンによる治療を受けた。
 約一週間後にはほとんど後遺症なく改善し、翌月曜日から通常業務に復帰した。
 またしても幸運に恵まれた。

 以下に脳梗塞の体験、その間に思考したこと、療養生活の一部をまとめた。



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目次
脳梗塞体験記(1)不整脈を軽視した当然の帰結であった
2012年11月10日 07時20分29秒?|?近況・報告

脳梗塞体験記(2)当初は何が生じたのか理解出来なかった
2012年11月11日 07時10分15秒?|?近況・報告

脳梗塞体験記(3)言語障害のみ遷延  
2012年11月12日 08時28分42秒?|?近況・報告

脳梗塞体験記(4)言葉も順調に改善したが・・
2012年11月15日 06時41分37秒?|?近況・報告

脳梗塞体験記(5)再発防止に心がけるのみ
2012年11月16日 07時05分28秒?|?近況・報告
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脳梗塞体験記(1)不整脈を軽視した当然の帰結であった
2012年11月10日 07時20分29秒?|?近況・報告
 約一ヶ月前、10月15日に腸閉塞に対して腹腔鏡による手術を受けた。経過は順調で10月30日から職場復帰した。ところが復帰5日目の朝に今度は脳梗塞に罹患した。

 最近、疾病体験記ばかり書いているような気がしてならない。
 私は脳梗塞の再発に関してはまだまだ危険域にあると思われる。再発作が来ないことを願いつつ、参考までにその経験を記しておく。

 まず、今回の脳脳梗塞発症は自分で不整脈、発作性の心房細動を軽視したことによる当然の帰結であった。医師である立場上、全て自己責任の範囲であった。

 ここ数年来、不眠とか疲労の際に脈が不整になることは自覚していた。2007年の泌尿器科的手術の際には24時間心電図を記録してみたが、上室性期外収縮が3発記録されていただけで、自覚症状との乖離に驚くと共に安堵していた。

 実際にはその後も不整脈は時間的にも、自覚症状からも増悪しつつあることは自覚していたが、体調は悪くなく、年2回の健康診断ではせいぜい上室性期外収縮、心室性期外収縮が記録されていたのみであった。自覚症状から見て、多分、時々は心房細動も生じていたのではないかと思われる。

 本年2月の検診で初めて発作性心房細動が記録された。心房細動となると軽視できない。5月から循環器科の指導の下に抗不整脈剤を開始した。服薬前の24時間心電図では夜間帯を中心に心房細動が記録されており、服薬一月後ほどの24時間心電図では明らかに効果が表れており、私も安心して服薬を定期的に続けていた。その際、抗凝固療法に関しては自転車による外傷の可能性も考えて、希望しなかった。これも自己責任である。

 その後も、実際に時折心房細動になっていたらしいことは感じていたが、服薬の効果はあきらかだったので、具体的に検査は受けていない。だから、服薬開始以降、どれだけ心房細動が生じていたのか把握していなかった。これも自己責任である。

 腸閉塞の入院期間は自覚症状もなく、時間的にも余裕があり、循環器科的に再精査を受ける良い機会であったのに、持ち前のものぐさもあって貴重な機会を失ってしまった。
 この時の判断はおおいに悔やまれるところであった。

 11月4日前触れもなく、脳卒中と思われる症状が表れた。当初は何が生じたのか、分からなかった。

脳梗塞体験記(2)当初は何が生じたのか理解出来なかった
2012年11月11日 07時10分15秒?|?近況・報告
 11月4日午前9:00ころ、洗濯の途中で洗濯機に水を満たし、洗剤を入れようとしていた矢先に、前触れもなく、激しい目まい感、平衡感覚の喪失、脱力感が生じた。当初は何が生じたのか分からず、地震か、とさえ思ったのであるが、世の中が揺れているわけではなく、無音状態に近かった。
 そのうちに、自分の体調に変調を来したためと理解出来た。この時点では目まい感は持続していたが、何とか居間まで歩いて行けたようであったが、意識がもうろうとしていたのであろう詳しいことは記憶にない。

 気がつくと居間の床に座っており、驚いた家内が血圧を測っていた。この時点で右片麻痺が生じ始めたことを自覚し、家内は脳卒中と判断したようである。この時点ではまだ力が入ったのであろう、居間のベットに自分で横になったことを覚えている。家内が救急車を要請したらしい。この間の記憶はない。  

 救急隊が到着した時点で再度気がついた。若干の質問に答えたように思うがことばにならなかったらしい。救急隊の簡易担架で救急車内に収容された。
 途上で秋田脳研に運ぶようなことも話題になっていた様であるが、中通総合病院に搬送されることになった。その後の救急車内の様子については記憶がない。

 救急室到着時は疼痛に対しては若干の反応があったらしいが、右片麻痺を伴っていたと言う。
 血管確保され検査用採血が行われたころから意識状態がかなり改善したようである。神経内科医師、循環器科医医師、放射線科医師等の姿を確認することが出来た。何と幸運なことか、と驚いた。

 次いで、恐る恐る右上下肢を動かして見たところ動かすことが出来た。麻痺の改善傾向は著しく、CTの検査用ベットへの移動はかなり自由に出来た。意識状態も改善した。
 ただ、発語に関しては、 簡単な会話は理解出来たが、 返答は困難で、伝えたい内容はあるのだが、ことばが見つからず、何としても話すことは出来なかった。自分が思っていることを表現出来ない感覚は実に不思議であった。

 緊急CTにて脳出血は否定され、不整脈を背景にした脳塞栓の判断であったが、神経内科医の判断では来院時のNIHSS臨床指標は9点であり、tPA療法(組織プラスミノゲンアクチベータ)療法が準備されたが、来院後の意識状態、麻痺の改善傾向が著しいために行わず、ヘパリンとエダラボン療法が行われることとなった。

 経過観察のために一晩ICUに入室することとなった。発語以外は殆ど問題なく、家内も体調が不調であったために早めに帰宅させた。

 午後に、山形出張から息子が急遽駆けつけてくれた。しかし、この時点では殆ど会話らしい会話にならなかった。彼は家族たちには、「医師として患者の前に出るのはもう無理だろう・・」と話したそうである。
 実際に、その時点では、私もそう思っていた。



脳梗塞体験記(3)言語障害のみ遷延  
2012年11月12日 08時28分42秒?|?近況・報告
 ICU入室後は点滴交換等の2-3言のみで、会話する機会はあまりなかった。
 意識障害は全く無さそうであった。夕方の神経内科の主治医の回診時に、「これを機会にリタイヤせざるを得ないと考えています・・・」と言うことを、数分かかって何とか表現出来たが、これぐらい会話しかできなかった。この時点では社会復帰は無理だろう、と考えていた。 これに対して主治医は、「この経過なら、必ず改善します・・・」と力づけてくれたが、大きな救い、希望となった。

 ICUは暇である。ラジヲを借用して聴いていたが、しゃべれないにも関わらず放送番組を聞きとる分には全く支障がなくかったのも不思議であった。
 
 ICU二日目の朝はMRI検査から始まった。この時にはストレッチャーによる移動であった。付き添ってきたスタッフに対して昨日よりは少しは会話できた。自分でも驚くほどの変化であった。まだ思ったことは表現できるとはいい難かったが、この調子で改善するならば・・と昨日と異なって、かなり希望を持つ事が出来た。

 ICUから一般病棟への転出は午後となった。何と主治医は車いすでの移動を指示してきた。自分でもベット上で体位変換にも不自由なく、食事時には座位保持も可能であったし、四肢に時々力を入れて運動のようなことをしながら、麻痺が完全に消失していたと思っていただけ嬉しい指示であった。車いすへの移乗も点滴ルートなどが絡むために多少の援助は必要であったが、ほぼ一人で可能であった。

 病棟の看護スタッフから簡単な病歴とかを聴取されたが、目的とする単語は出がたいものの、回りくどい表現をつかえば意思の疎通が可能となった。
 看護師が席を外したあと、私は勝手に病室のトイレに立った。

 実は、誰にも話していなかったのであるが、ICUで過ごした一日余の時間帯で尤もつらかったのは夜半からの便意であった。10月中旬に私は腸閉塞の腹腔鏡による手術を受け、その後腸機能の維持のために大建中湯なる漢方薬を服用していた。ICUにはトイレがない。果たして病棟のトイレまで耐えられるかが私にとっては当面の大きな問題であった。あと何時間で転出できるのか?言語障害もさることながら、感覚的には私は「全身直腸人間」といった状況に陥いった。なんで、ICUにはトイレがないのか、マア当然だろうけど、呪ってしまった。それが、何とか間に合いそうだと分かったときの安堵感は何とも言えないものがあった。
 で、勝手にトイレに歩行した。私は直腸人間から解放された。後は、言語障害のみである。
 看護師はその後、室内歩行可などの指示をくれた。

 夕方、主治医の回診があり、けさのMRIの所見の説明があった。
 私は詳細な読影など出来ないが、L-MCA領域の、比較的広範な急性期の梗塞巣が認められた。数多くの可能性がある中、言語障害は残ってはいるものの四肢の麻痺も残っておらず、不幸中の幸いであった。実に幸運であったと思う。


脳梗塞体験記(4)言葉も順調に改善したが・・
2012年11月15日 06時41分37秒?|?近況・報告
 言語障害はなかなか厳しいものである。言いたいことは明らかに準備できているのだが、表現の仕方が分からない状態である。例えて言えば、単語が分からず何としても英語で表現出来ない状態に近いかった。簡単な言葉は何とかなったが肝心なところでは伝わらない。

 本人にとってもショックであったが、特に、家族にとってはショックは大きいようであった。

 ICU入室後に面会に来た家内に、午後に急遽孫が来るらしいからパソコン周辺の電源を抜いてくれるようにと頼んだが、これだけ言うのに、「あのその・・」とか、「ネコ」と言ってみたり、別の思いもしない単語が出てくるなど、なかなか目的の名詞がでず、数分かかった。家内はベット上で介護を要する状態になるのではないか、と思ったそうである。

 また、午後に息子が来たが、この時にも十分対話がなりたたなかった。息子の判断では「もう医師としては役立たないだろう・・」との評価であったらしい。

 この時、私が表現に苦慮しているのを見るのが辛かったらしく、目を合わせずに、あっちを見たり、周りを見まわしながら、私の言葉がでるのを待っていた。日常の姿からは予想できず、目のやり場に困ったのであろう。
 横浜在住の長女は6日の夕方到着したが、このころには自分では多少の不便はあったものの、殆ど会話に支障がなくなっていた。長女は言語障害には恐らく気づかなかったはずである。

 11月6日からダビガドランが開始となり、ヘパリンは中止となった。後は一日2回のエダラボンだけであと3日間ほど続けるらしい。24時間維持されていた点滴からも解放されたので夜半から数時間医局で過ごすこととした。

 11月7日早朝からパソコンに生活記録を入力し始めたのであるが、キーボードのブラインドタッチが上手く出来ないことに気づいた。ミスタッチも多くなったほか、変換キーを勝手に押したり、エンターキーを不用意に押したりなどしてミスが多く入力に難渋した。言語障害があって適正な言葉を選べなかったときに、関係ない言葉が浮かんできたりした感覚に近い状況であった。この現象はまだ改善していない。

 11月7日以降は会話はほとんど困難せずに可能となった。8日でエダラボンも中止となり、9日に凝固能検査し退院した。


脳梗塞体験記(5)再発防止に心がけるのみ
2012年11月16日 07時05分28秒?|?近況・報告
? 退院後は3日間の自宅療養を戴き、13日の外来から復帰した。4日の発作だから9日目の復帰と言うことになる。こんなに短期間に復帰できるなど、当初は医師としての復帰も危ぶんだだけに、全く考え難いことであった。

 この3日間は中通総合病院の外来業務から復帰したが、殆ど障害は感じなかった。ただ、輸血関連の書類の準備に関してはいつもよりは時間がかかったかなとおもった。立ち番の看護師も特に異常を感じなかったという。本日、金曜日は60Kmほど離れた大曲中通病院の外来であった。患者が多くて閉口したが、カルテが紙ベースなので特に処理上は問題はなかった。

 今回の脳梗塞は主治医によると、病態的には一過性脳血発作(TIA)と言って良い状況だったという。TIAの場合は定義上は神経症状が24時間以内に改善するとされている。右の半身不全麻痺は数時間で消失したと思われるが、言語障害だけは36時間ほどかかって改善した。キーボードの入力困難は未だに続いているから、この経過を見れば、神経症状が24時間以上続き、3週間以内に消えるとされる可逆性虚血性神脱落症状(RIND)という状況に近い様な気がする。

 病態の分類はそれほど大きな意味を持たないだろうが、TIAもRINDも将来的に脳梗塞を生じる危険性が高いということなので、予防対策が重要とされている。この3週間ほどのあいだに重大な病を経験したが、2度あることは3度あるともされる。次の機会にはどうなるか分からないと、心して置かなければならない。

 それにしても今回の脳卒中は本当に運が良かった。初発症状としては結構厳しかったと思う。塞栓による症状発現は状況よって半身不随や四肢麻痺とか、あるいはそれ以上の重大は合併症が生じつうる可能性もあっただけに、自身の運の良さに驚くばかりである。

 キーボード入力がどうなるか興味が持たれるところであるが、心配して下さった多くの方々に、ぼほ改善して仕事に復帰できたことを報告し、感謝して脳梗塞体験記を終了したい。

 


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